陸  奥  慧  日  寺  跡  /  観  音  寺  地  区

陸奥慧日寺跡/観音寺地区遺構

概要:本寺地区に三重塔(絵図)跡及び本寺地区西北約17町に位置する観音堂地区山中に推定三重塔跡(遺構)がある。

陸奥慧日寺跡(史蹟):福島県磐梯町

徳一上人開基とされる。
平安末には会津全域を支配下に置くような寺勢があったと推定される。
金堂には丈六薬師如来像、日光月光、十二神将、四天王が安置される。
僧兵数千、寺領18万石、子院3800といわれ、さらに恵日寺を中央薬師寺として会津四方へ薬師寺を建立する。
応永の大火で焼失。天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻の際、灰燼に帰す。
明治2年神仏分離で、一時は廃寺となり、残存していた堂宇子院のほとんどが破壊されると云う。
近年の発掘調査で、本寺地区で推定金堂・講堂跡を検出、その東で塔の礎石も発見される。
また塔礎石の北には徳一の墓塔と云う石造五重塔がある。(昭和50年代に覆屋を建立)
 「慧日寺山内古図」(「絹本着色慧日寺絵図」・推定南北朝期):根本堂,中堂,三重塔,阿弥陀堂,観音堂,十王堂など20余の堂塔が描かれる。

  ○2014/04/10撮影:絹本着色慧日寺絵図
  絹本着色慧日寺絵図:上図と同一図:左図拡大図

  (絹本着色慧日寺絵図2:部分図 )

 軸装の裏には永正8年(1511)、享保7年(1722)、文政9年(1826)、
嘉永3年(1850)の修理銘が残る。
 享保の修理では軸に表装される。

 この絵図の描かれた年代は修理銘などから判断して、南北朝期から室町初頭と考えられる。
 画面には堂塔社殿が46棟、礎石建物跡26か所、鳥居15基、石塔5基、橋4基、山、川、沼が描かれる。
 中心伽藍は南から仁王堂、中門、舞台、金堂、根本堂などが南北に描かれ、これは発掘調査の成果と近似する。

2007/09/17追加:
●徳一上人(法相宗)に関して良質な伝記は少ないが、以下が知られる。。
「元亨釈書」(元亨2年1322):「釈徳一、相宗を修円に学ぶ、・・伝教大師を難破す、・・常州筑波山寺を闢き、・・・恵日寺に終る・・・」
「南都高僧伝」(仲廉):「徳一菩薩、恵美大臣(恵美押勝・藤原仲麻呂)の息なりと云々、・・・天長元年(824)恵日寺より常陸国に下着す、年76、徳一、寺を常陸国に御建立、山寺を中禅寺と名づくと云々」
また「私聚百因果集」(正嘉2年1257)でも事蹟が語られる。
しかし以上の僧伝での語るところは決して多くはない。
一級史料である同時代史料では以下が知られる。
空海が弘仁6年(815)に陸州徳一菩薩に宛てた書簡が、空海の書簡を集めた「高野雑筆集」にある。
最澄、徳一の「中辺義鏡」に反論した「守護国堺抄」、同じく徳一の「仏世論」への反論書「照権実鏡」がある。
これ等の同時代史料により、徳一は陸州(陸奥)の会津に実在したと知れる。
●「磐梯山慧日寺探訪」昭和26年、「古美術 2−1」、「佛教考古学論攷 1 寺院編」石田茂作所収より:
三重塔址:現磐梯神社社殿の東20間の所にあり、9個の礎石を残す。塔の規模は、方33尺の基壇上に、中間8尺5寸、脇間6尺(一辺20尺5寸)の平面を持つ。心礎は無く、心礎の位置に碑石があり、 それは「慶長16年」の年紀があることから、慶長以前に塔は廃滅したものと推測される。
磐梯山との関係は慧日寺跡境内の磐梯神社が本宮で、山上の神社は奥宮である(磐梯神社が本宮云々は復古神道の付会であろう)・・・云々で、慧日寺は、修験の本拠であったと思われる。
 ※現仁王門東に不動院龍宝寺不動堂(江戸後期)が残る。この不動堂は磐梯修験(大伴家が大寺修験を担ってきたので大伴修験とも称する。)の拠点の一つと云われる。
2004/11/27追加:2013/09/10補正
●「慧日寺を掘る」磐梯山慧日寺資料館、平成5年/1993 より
大同元年(806)徳一会津石梯山に清水寺を建立。弘仁5年(814)慧日寺建立。
承和年中(834〜 )寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、坊舎3800と云う。
応安4年(1371)慧日寺塔供養。
応永25年(1418)大火に遭い、灰燼に帰す。
慶長16年慧日寺座主玄昌、塔跡に供養碑を建立。
江戸期には寺領50石、堂宇の再興などが行われる。
明治2年神仏分離により廃寺、薬師堂が磐梯神社と捏造され、住職葉室長住復飾、磐梯神社宮司となる。
明治3年慧日寺門末観音院、大寺(本寺の南方の地名)能満寺より旧慧日寺に入り、観音院を称す。
明治5年薬師堂・鐘楼焼失、薬師仏頭能満寺へ遷座。
明治12年能満寺焼失、薬師仏頭も焼失、明治32年薬師堂再興。
明治37年観音院、慧日寺と改称、大正2年寺号再興式、磐梯山の山号に復す。
昭和60年神社拝殿南から仁王門礎石基壇などを検出。昭和61年拝殿下から推定金堂(薬師堂)礎石などを検出。
昭和62、63年、平成元、2、3、4年には建物跡など多くの建物跡などの遺構を検出。戒壇地区では推定華輪寺跡などを検出。
平成20年磐梯神社(薬師堂跡)に金堂を復元・公開。
2013/09/10追加:
●「陸奥国の山岳寺院・史跡慧日寺跡の発掘調査」白岩賢一郎(「佛教藝術」Vol.315、2011 所収)
「絹本着色慧日寺絵図」もは40こ越す堂塔・社祠などが描かれる。礎石を配した廃堂跡も多く描かれる。
 本絵図には、裏書として、「永正8年(1511)於高野山令修覆之」、享保7年(1722)、文政9年(1826)、嘉永3年(1850)の4度の修復銘がある。(「慧日寺を掘る」)
 慧日寺絵図トレース
  2014/04/25追加;
   ◇慧日寺絵図トレース2・・・・上図に建物・礎石などに文字入れしたものである。
明治2年の慧日寺廃寺の後、薬師堂が磐梯神社として捏造され、慧日寺跡は神社境内として継承される。
 明治5年薬師堂(磐梯神社本殿)は鐘楼ともに火災焼失、仁王門が移築され神体を祀る。
 明治32年現在の薬師堂(3×3間・寄棟造)が再建される。
 大正12年慧日寺薬師堂跡に本殿が建てられる。
 平成12年史跡慧日寺整備計画により、磐梯神社の新築移転が着工する。
昭和60年より本格的発掘調査が始まり、本年も継続中である。
本寺地区の発掘調査結果
・金堂跡:金堂跡は焼失と再建を繰り返し、近世では薬師堂として再建される。明治2年慧日寺廃寺となり、捏造された磐梯神社本殿として転用、明治5年鐘楼とともに焼失、大正12年薬師堂跡に本殿再建。
下層から桁行7間(53尺15.9m)梁間4間(30尺9.0m)つまり五間四面堂の遺構が発掘される。
・講堂跡・三間堂跡:金堂後方から桁行(56尺16.8m)梁間4間(34尺10.2m)の遺構が確認される。なおこの基壇上には三間堂の遺構も検出され、これは根本堂の可能性が高いものと判断される。
・食堂跡:講堂跡北側にある。社殿跡:さらに北側に春日造と推定される遺構を発掘、鎮守磐梯明神跡であろうか。
・仏堂跡・多層塔跡:講堂・食堂跡東に位置する。ここには2重の建物跡が存在する。
先行建物は桁行5間(41尺12.3m)梁間4間(32尺9.6m)の三間四面堂跡で、この建物の性格は不明である。
上記仏堂南西隅には廃絶後に僅かに礎石をずらした建物が重複してある。これは一辺22尺6.6mの塔跡である。
「会津旧事雑考」には「応安4年(1371)・・慧日寺塔供養」とあるから、中世の多層塔跡であろう。
さらに塔跡中央に慶長16年(1611)銘の阿弥陀三尊板碑が建つ。塔跡の礎石の一部を動かして板碑を建てる「押さえ」にしていることから、板碑建立時には、既に塔は廃絶していたのであろう。
・板敷広場:金堂・中門間に30m×25mの範囲で、人頭大から1m内外の自然石が敷き詰められている。
・中門跡:金堂・石敷南にある。3間×2間の建物跡である。等間であること及び絵図では単層で描かれるので、重層門や楼門ではなく八却門と推定される。
 中心伽藍南部平面図
2013/09/10追加:
●「史跡慧日寺跡 6」磐梯町教育委員会、1991
 仏堂跡・多層塔跡平面図:SB10は5×4間の仏堂、SB11は多層塔跡      仏堂跡・多層塔跡全景:北東より撮影
 慧日寺多層塔跡1:南より撮影      慧日寺多層塔跡2:西より撮影
2013/09/10追加:
●「史跡慧日寺跡 7」磐梯町教育委員会、1992
 慧日寺多層塔跡平面図:中央にある阿弥陀三尊板碑を取除いて発掘するも、心礎は存在しないことが判明する。
2013/09/10追加:
●現存堂宇
現慧日寺山門・本堂(何れも江戸中期)、龍宝寺不動堂(上述)、仁王門(江戸中期、昭和26年に現在地へ移建)、薬師堂(明治32年再建)、厩嶽山馬頭観音覆堂などがある。近年、金堂・中門が史跡整備事業として復元される。

慧日寺跡現況:2014/04/10撮影

◇磐梯山金剛院恵日寺御公儀指上候絵図之下書

 元禄2年慧日寺絵図:左図拡大図

 本絵図は元禄2年(1689)恵日寺55世尊悦が作成したもので、会津藩への提出用境内絵図の下書きである。
 恵日寺は万治元年(1658)焼失した記録が残り、したがって絵図は焼失後の恵日寺の様子であり、基本的には明治維新まで、本図のような状態を維持したものと推定される。
 中心伽藍堂は薬師堂一宇で僅かに鐘楼のみ付属し、仁王門はまだ再建はされていない。
 恵日寺(本坊)は現慧日寺と同じ位置にあるが、山門は東向きに建つ。 東から流れる小川は本坊東辺と南辺を流れるが、現慧日寺を囲む流路は今も絵図のままである。その南には観音院がある。
 因みに尊悦は恵日寺の復興に注力するが、元禄13年(1700)遷化し、56世実賀が後を継ぐ。その実賀は後に中興の祖と称される。

鐘楼の東小川の向うには乗丹坊石塔が今も現存する。
石塔は高さ約2.7mの宝篋印塔で乗丹坊の墓と伝える。但し石塔は室町期のもので供養塔であろう。乗丹坊は平安末期の慧日寺衆徒の頭目であったようで、源平合戦で出陣し信濃で討死するという。(平家物語)
 慧日寺乗丹坊石塔
なお、乗丹坊石塔の東隣には現在龍宝寺不動堂があるが絵図には描かれない。

薬師御堂の北西に磐梯明神がある。この磐梯明神が明治維新の神仏分離の処置で慧日寺を磐梯神社と捏造した根拠であろうか。

◇塔跡/仏堂跡
塔跡と仏堂の二重の遺構が重複して残存する。

先行するのが仏堂(三間四面堂/5間×4間)であり、その跡にわずかに方位をずらし、礎石を転用する形で塔跡がある。
塔一辺は22尺(6.6m)でかなり大型であり、慧日寺絵図では三重塔が描かれるが、五重塔であったかも知れない。
心礎位置には慶長16年(1611)銘の阿弥陀三尊碑が建つ。史料や碑から、おそらくは中世に存在した塔の跡であろう。

 仏堂/塔跡平面概要図

 慧日寺塔跡1:左図拡大図
 慧日寺塔跡2
 慧日寺塔跡3
 慧日寺塔跡4
 慧日寺塔跡5
 慧日寺塔跡6
 塔跡阿弥陀三尊碑:阿弥陀三尊の種子と慶長16年(1611)の年紀を刻む。
 
 慧日寺仏堂跡1     慧日寺仏堂跡2     慧日寺仏堂跡3     慧日寺仏堂跡4     慧日寺仏堂跡5
塔は心礎を持たないこと、また「会津旧事雑考」に「応安4年(1371)辛亥4月4日慧日寺塔供養」とあるので、中世の多重塔と推定される。
なお、塔跡の中央にある阿弥陀三尊碑は塔跡の礎石を一部を移動して押えにしていることからも、この碑が建てられたときには既に塔は廃絶していたのであろうと推定される、

◇慧日寺復原伽藍:
明治維新以来、慧日寺金堂跡付近に居座っていた国家神道・磐梯神社は平成12年(2000)結果として東方に放逐され、平成20年金堂が復原される。
金堂平面は発掘調査により、五間四面堂(7間×4間)、桁行53尺(15.9m)梁間30尺(9m)の規模であると判明し、磐梯神社放逐の後に古代の規模で復原される。復原金堂の柱は檜材を使用、屋根は寄棟造/栩葺、床は床板張、組物は平三斗の想定で複眼される。
金堂跡の前方石敷き広場をはさんで同一の中軸線上に桁行3間×梁間2間中門跡を検出する。柱間寸法はいずれも6.5尺(1.95m)。
八脚門と判断される。金堂に続き、翌21年中門が復原される。
 慧日寺復原伽藍1     慧日寺復原伽藍2     慧日寺復原伽藍3     慧日寺復原伽藍4
 慧日寺復原中門1     慧日寺復原中門2     慧日寺復原中門3     慧日寺復原中門4
 慧日寺復原金堂1     慧日寺復原金堂2     慧日寺復原金堂3     慧日寺復原金堂4     慧日寺復原金堂5
 慧日寺講堂跡1       慧日寺講堂跡2       慧日寺食堂跡       慧日寺井戸跡
◇慧日寺仁王門など
仁王門は江戸後期の建立と推定される。明治5年薬師堂(磐梯神社本殿と改竄)が焼失し、仮本殿として仁王門が移築される。但し仁王門の当初の建立場所は不明という。元禄2年(1689)慧日寺絵図(下掲載)には仁王門は描かれていない。
昭和26年仁王門現在地へ移築復原。
昭和46年仁王門修理工事竣工、平成11年仁王門及び薬師堂の屋根趣里工事竣工
明治42年当時の仁王門(古写真)は磐梯神社本殿(実は慧日寺薬師堂)が焼失したため、仮本殿として使用されていた当時の様子である。国家神道の本質を写した1枚である。なお神社本殿は大正12年に造営される。
現薬師堂は地元民によって明治22年再興される。
薬師仏を安置する中世の金堂は寛永3年(1626)火災焼失、寛永15年金堂位置に薬師堂が再建される。明治の神仏分離の処置で薬師堂は磐梯神社本殿と改竄される。明治5年薬師堂焼失。明治22年場所を移し再建される。
 慧日寺仁王門1     慧日寺仁王門2     明治42年仁王門     仁王門仁王像1     仁王門仁王像2
 慧日寺薬師堂1     慧日寺薬師堂2
 国家神道磐梯神社
◇現慧日寺
磐梯山と号する。真言宗豊山派。
明治37年寺中観音院、慧日寺と改称、大正2年寺号再興式を挙行する。
元禄2年(1689)慧日寺絵図(下掲載)に恵日寺があり当時の本坊であろう。現慧日寺はそのまま旧に復したように見える。なお恵日寺南に観音院が見えるが、これが寺中の観音院であり、この観音院が恵日寺に入り、恵日寺を観音院と称し、明治37年に恵日寺に復したということなのであろうか。
 現慧日寺現況     現慧日寺山門     現慧日寺本堂1     現慧日寺本堂2     現慧日寺本堂3
◇徳一廟
徳一の墓と伝える五重石塔(平安期)が現存する。高さ2.95m。屋根と上重軸部が一石で造られる。
昭和54から57年に修理され、覆屋はその時建立される。
 徳一廟所覆屋     徳一廟所五重塔1     徳一廟所五重塔2
◇不動院龍宝寺不動堂
不動堂は江戸末期の建物という。
大寺(慧日寺)修験は磐梯山・厩嶽山・吾妻山修験を掛け持ちし、大友家が指導者であったという。(大友修験)
近世修験の貴重な遺構というべきか。
 不動院龍宝寺1     不動院龍宝寺2     不動院龍宝寺3     不動院龍宝寺4     不動院龍宝寺5     不動院龍宝寺6
◇厩嶽山馬頭観音
厩嶽山山頂付近に祀られていたが、平成元年(1989)山上より厨子を遷し、現在地に安置する。
 厩嶽山馬頭観音1     厩嶽山馬頭観音2     厩嶽山馬頭観音3
  (上に掲載の「絹本着色慧日寺絵図」や「慧日寺絵図トレース2」では最上部中央「小城峰」の東の嶺下に「馬頭観音」として描かれる。)


観音寺地区

三重塔跡が存在する。
観音寺地区は本寺地区の西北約17町の山中にある。
そして観音寺地区は猫魔火山(磐梯山の西方火山)の山麓であり、その南方は扇状地と思われる妙法原で開拓地のような様相を呈する。大雑把にいえば、本寺地区からは妙法原を斜めに横切って観音寺地区に至ることになる。
 会津磐梯山1:妙法原より撮影     会津磐梯山2:会津若松市内より撮影     会津磐梯山3:法用寺下より撮影
 会津磐梯山4:根岸付近より撮影
2004/11/27追加:2013/09/11追加・画像入替
●「慧日寺を掘る」磐梯山慧日寺資料館、平成5年/1993 より
観音寺地区では本堂・塔・門・蔵などと推定される礎石が残る。
観音寺地区
 観音寺地区堂塔配置図                           観音堂・三重塔礎石略図:堂は5間×6間の規模である。
 慧日寺観音寺三重塔跡:基壇一辺6.9m(23尺)を測る。       慧日寺観音寺三重塔心礎:心礎は径約80cmを測る。

2013/09/10追加:
●「陸奥国の山岳寺院・史跡慧日寺跡の発掘調査」白岩賢一郎(「佛教藝術」Vol.315、2011 所収)
観音堂地区の山中尾根には5棟分の礎石建物跡が露呈する。
 観音寺地区建物配置図:南から3×2間、方3間(心礎あり)、5×6間、3×3間の規模が確認される。各々八脚門、一辺13尺ほどの小三重塔、5×6間の堂は本堂で桁行が長く、正堂に礼堂を付設した初期の密教寺院本堂の例かもしれない。

●観音寺地区現況:2014/04/10撮影:

観音寺遺構跡:西側谷筋から観音寺遺構跡を見上げた写真である。向かって右中央の尾根上に遺構(平坦地)が連続する。
 観音寺遺構跡見上

 ○観音寺地区堂塔配置図2:以下の写真の遺構名はこの図を参照 。

◇観音寺三重塔跡
礎石はかなり良好に残存する。しかし倒木・落ち葉などに埋もれている礎石も多く、上に掲載の観音堂・三重塔礎石略図の略図のようには明確に全部の礎石をみることはできない。

 三重塔跡平坦地法面1:南から撮影
 三重塔跡平坦地法面2:西南から撮影
 三重塔跡礎石1:写真中央やや上の礎石が心礎
 三重塔跡礎石2:写真中央付近の礎石が心礎
 三重塔跡礎石3:同上
 三重塔跡礎石4:同上
三重塔心礎:自然石を半裁しただけのもの。大きさはおよそ90×73cmを測る。
 三重塔跡心礎1:左図拡大図
 三重塔跡心礎2
 三重塔跡心礎3
 三重塔跡心礎4
 三重塔跡心礎5

◇北造成地:明らかに人為的な平坦地を残し、南には法面を残す。露出している礎石は目検した限りでは見当たらない。
 北平坦地1     北平坦地2
◇北堂跡:平坦地を残し、礎石列と散在する礎石をみることができる。
 北堂跡礎石1     北堂跡礎石2     北堂跡礎石3     北堂跡礎石4
◇西小堂跡:平坦地を残し、礎石が1個認識できるが、その他の礎石は良く分からない。
 西小堂跡1     西小堂跡2
◇中堂跡;5×6間堂で中心堂であろう。広い平坦地を残し、特に西側の礎石列を明瞭に見ることができる。その他多くの礎石が散在する。
 中堂跡平坦地1     中堂跡平坦地2
 中堂跡礎石1     中堂跡礎石2     中堂跡礎石3     中堂跡礎石4     中堂跡礎石5
 中堂跡礎石6     中堂跡礎石7     中堂跡礎石8     中堂跡礎石9
◇南堂跡
 南堂跡平坦地遠望     南堂跡平坦地法面
 南堂跡平坦地1     南堂跡平坦地2     南堂跡平坦地3     南堂跡平坦地4     南堂跡平坦地礎石


●「慧日寺を掘る」磐梯山慧日寺資料館、平成5年/1993 より
◇戒壇地区で5×5間の礎石建物(絵図に見られる「華輪寺」か)跡を発掘、絵図には3基の石塔が描かれるが、その遺構とも思われる基礎も残る。

◇儀式山地区で9棟の礎石建物跡を確認、しかしその性格は良く分からない。


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