山  城  醍  醐  寺

山城下醍醐寺・上醍醐寺・准胝堂前相輪橖

醍醐寺概要

○2007/02/18「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
貞観16年(874)理源大師聖宝によって、醍醐山上に准胝堂・如意輪堂が建立、延喜7年(907)醍醐天皇勅願所となり、薬師堂・五大堂が創建、その後御影堂が建立される。
延長4年(926)山下に釈迦堂が建立され、その後山下伽藍が整備される。
承平元年(931)五重塔・一重塔の建立が企画され、天暦5年(951)五重塔完成、翌年落慶する。
永久3年(1115)三宝院創建、続いて理性院、金剛王院、無量寿院、報恩院などが建立される。
 ※紀伊根来寺学頭頼瑜は弘長元年(1261)醍醐寺三宝院憲深から学識を評価され、「十八道」「金剛界」「胎蔵界」「薄草子」という
 密教諸尊尊像の供養法伝授を受け、醍醐寺において修行することと聖教の被閲することを許される。
 憲深は醍醐寺正嫡(報恩院流)であり、この意味で、根来寺の主流中性院流は報恩院流をひくものである。
平安後期には山上に27ヶ院、山下に65ヶ院を数えるという。
その後幾多の堂宇の興亡があったが、五重塔のみが創建当時の姿を伝える。
明治維新で子院の大部を廃絶するも、今なお山上山下に多数の伽藍を擁する。

山城醍醐寺

下醍醐寺五重塔
天歴6年(931)落慶供養。平安期の五重塔で今日に伝えられる貴重な遺構である。
初重一辺21尺8寸9分(6.63m)、全高125尺9寸5分(38m)、相輪長42尺2寸5分(12.8m)。
○2007/02/18「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
塔の修理記録:年代不詳であるが賢円の母による修理、
康治2年(1142)屋根瓦修理、
保元元年(1156)小修理、
安元2年(1176)修理、
天福年中修理、
正嘉元年(1257)大規模修理、
永仁元年(1293)修理(内容不明)、ぞの後修理記録なし、
大永7年(1527)心柱取替工事、
慶長2・3年秀吉寄進による修理、
明和2年(1765)から8年かけて解体修理。
明治31年小修理、昭和29〜35年解体修理。
 醍醐寺五重塔立面図      醍醐寺五重塔断面図
2006/06/10追加:「東大寺七重塔考」 より
 山城醍醐寺塔断面図
2007/08/08追加:「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 醍醐寺五重塔明治       醍醐寺五重塔内部       醍醐寺五重塔立断面図
○昭和47年撮影画像:
 昭和47年五重塔1     昭和47年五重塔2     昭和47年五重塔3
○2001/03/18撮影:
 醍醐寺五重塔1     醍醐寺五重塔2     醍醐寺五重塔3     醍醐寺五重塔4     醍醐寺五重塔5
 醍醐寺五重塔6     醍醐寺五重塔7     醍醐寺五重塔8     醍醐寺五重塔9
○2014/03/18撮影:

山城醍醐寺五重塔11
山城醍醐寺五重塔12:左図拡大図
山城醍醐寺五重塔13
山城醍醐寺五重塔14
山城醍醐寺五重塔15
山城醍醐寺五重塔16
山城醍醐寺五重塔17
山城醍醐寺五重塔18
山城醍醐寺五重塔19
山城醍醐寺五重塔20
山城醍醐寺五重塔21
山城醍醐寺五重塔22
山城醍醐寺五重塔23
山城醍醐寺五重塔24
山城醍醐寺五重塔25
山城醍醐寺五重塔26
山城醍醐寺五重塔27
山城醍醐寺五重塔28
山城醍醐寺五重塔29
山城醍醐寺五重塔30
山城醍醐寺五重塔31
山城醍醐寺五重塔32
山城醍醐寺五重塔33
山城醍醐寺五重塔34
山城醍醐寺五重塔相輪1
山城醍醐寺五重塔相輪2
○2014/12/18撮影:降雪中の写真もあり。

山城醍醐寺五重塔41
山城醍醐寺五重塔42
山城醍醐寺五重塔43
山城醍醐寺五重塔44
山城醍醐寺五重塔45
山城醍醐寺五重塔46
山城醍醐寺五重塔47
山城醍醐寺五重塔48
山城醍醐寺五重塔49
山城醍醐寺五重塔50
山城醍醐寺五重塔51
山城醍醐寺五重塔52
山城醍醐寺五重塔53:左図拡大図
山城醍醐寺五重塔54
山城醍醐寺五重塔55
山城醍醐寺五重塔56
山城醍醐寺五重塔57
山城醍醐寺五重塔58
山城醍醐寺五重塔59
山城醍醐寺五重塔60
山城醍醐寺五重塔61
山城醍醐寺五重塔62
山城醍醐寺五重塔63
醍醐寺五重塔相輪3
醍醐寺五重塔相輪4
醍醐寺五重塔相輪5
醍醐寺五重塔相輪6
○2016/03/21撮影:

山城醍醐寺五重塔111
山城醍醐寺五重塔112
山城醍醐寺五重塔113
山城醍醐寺五重塔114
山城醍醐寺五重塔115
山城醍醐寺五重塔116
山城醍醐寺五重塔117
山城醍醐寺五重塔118:左図拡大図
山城醍醐寺五重塔119
山城醍醐寺五重塔120
山城醍醐寺五重塔121
山城醍醐寺五重塔122
山城醍醐寺五重塔123
山城醍醐寺五重塔124
山城醍醐寺五重塔125
山城醍醐寺五重塔126
山城醍醐寺五重塔127
山城醍醐寺五重塔128
山城醍醐寺五重塔129
山城醍醐寺五重塔130
山城醍醐寺五重塔131
山城醍醐寺五重塔132
山城醍醐寺五重塔133
山城醍醐寺五重塔134
山城醍醐寺五重塔135
山城醍醐寺五重塔136
山城醍醐寺五重塔137
山城醍醐寺五重塔138
山城醍醐寺五重塔139
山城醍醐寺五重塔140
醍醐寺五重塔相輪7
醍醐寺五重塔相輪8
醍醐寺五重塔相輪9
醍醐寺五重塔相輪10
醍醐寺五重塔相輪11

2015/02/16追加;
「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 醍醐寺五重塔初重内部:心柱・四天柱西面。但し四天柱及び須弥壇は建立当初のものではなく後補である。
 五重塔初重心柱覆板北面壁画:覆板上下は復元華紋
 五重塔初重側柱と天井
 五重塔初重四天柱内部天井
 醍醐寺五重塔初重内部2:左から両界曼荼羅諸尊絵、側柱、四天柱、心柱覆板南面絵
 五重塔初重壁画配置図
内部は両界曼荼羅諸尊を描き、建立当初は南北で両界曼荼羅を構成していた。「醍醐雑事記」(鎌倉)では仏像彫刻を安置していたというも、今は失なわれる。
2015/02/27追加:
「日本の美術143 密教建築」伊藤延男編、至文堂、昭和53年 より
 醍醐寺五重塔初重内部3

下醍醐寺五重塔心礎
○2006/11/23追加:「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年 より
 醍醐寺五重塔心礎実測図       醍醐寺五重塔心柱心礎
「醍醐寺の現状では、心柱は床下の見えない部分が八角で、見えない部分は八角を円柱に加工する手間を省いたものと考えられる。」とあり、以上から、恐らく心礎は円穴を彫り、実測図の八角形は心柱の形状であろうと思われる。
○2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 醍醐寺五重塔心礎

醍醐寺の古代の塔婆
平安期には醍醐寺に次の塔婆があったことが知られる。
大智院多宝塔、越智堂三重塔、発心院塔、大蔵卿堂三重塔(栢杜遺跡)、北尾塔(多宝塔)、大谷塔(多宝塔)
 ※栢杜遺跡を除いて、何れも明らかならず。 →参考:京洛平安期の塔婆/醍醐寺

下醍醐寺金堂

○昭和47年撮影画像:
 下醍醐金堂(国宝) :延喜4年(904)醍醐天皇の創建。
現金堂は慶長3年豊臣秀吉が再興を命じ、紀伊湯浅の満願寺本堂を移築したもので、醍醐寺本来の伝来ではないが、平安期後期の雄大な堂である。梁行7間梁間5間の大堂である。 本尊薬師如来・日光・月光・四天王(いずれも鎌倉)は重文。
2001/03/18撮影:
 醍醐寺金堂1     醍醐寺金堂2
○2014/03/18撮影:

山城醍醐寺金堂11;左図拡大図
山城醍醐寺金堂12
山城醍醐寺金堂13
山城醍醐寺金堂14
山城醍醐寺金堂15
山城醍醐寺金堂16
山城醍醐寺金堂17
山城醍醐寺金堂18
山城醍醐寺金堂19
山城醍醐寺金堂20
山城醍醐寺金堂21
山城醍醐寺金堂22
以下金堂内部
 山城醍醐寺金堂23
 山城醍醐寺金堂24
 山城醍醐寺金堂25
 山城醍醐寺金堂26
 山城醍醐寺金堂27
 山城醍醐寺金堂28

○2014/12/18撮影/降雪
 山城醍醐寺金堂31     山城醍醐寺金堂32     山城醍醐寺金堂33     山城醍醐寺金堂34
 山城醍醐寺金堂35     山城醍醐寺金堂36
 以下金堂内部:
  山城醍醐寺金堂37     山城醍醐寺金堂38     山城醍醐寺金堂39     山城醍醐寺金堂40
  山城醍醐寺金堂41     山城醍醐寺金堂42
○2016/03/21撮影:
 山城醍醐寺金堂51     山城醍醐寺金堂52     山城醍醐寺金堂53     山城醍醐寺金堂54     山城醍醐寺金堂55
 山城醍醐寺金堂56     山城醍醐寺金堂57     山城醍醐寺金堂58     山城醍醐寺金堂59

上醍醐寺現況

昭和47年撮影画像:
 上醍醐薬師堂(上醍醐・藤原、国宝)・上醍醐 寺伽藍(左は如意輪堂、桃山・重文、右は開山堂、桃山・重文)

2014/03/18撮影:
・醍醐水:当山の名称の起こりとなった閼伽井である。清瀧権現の傍らにある。
 上醍醐醍醐水1     上醍醐醍醐水2
・清瀧権現拝殿:国宝、永享6年(1434)再興、東西9間南北4間2尺8寸、入母屋造3間7間の建築、屋根檜皮葺、円柱を用いる。創建は寛治2年(1088)。
 上醍醐清瀧権現拝殿1     上醍醐清瀧権現拝殿2     上醍醐清瀧権現拝殿3     上醍醐清瀧権現拝殿4
 上醍醐清瀧権現拝殿5     上醍醐清瀧権現拝殿6     上醍醐清瀧権現拝殿7     上醍醐清瀧権現拝殿8
 上醍醐清瀧権現拝殿9
・清瀧権現本殿:寛治2年(1088)創建、昭和14年類焼、昭和32年再興。再興堂は下醍醐清瀧権現本殿をモデルとしたのか元の様式で再興したのかは不明。
 上醍醐清瀧権現本殿1     上醍醐清瀧権現本殿2     上醍醐清瀧権現本殿3
・上醍醐准胝堂:醍醐水の上段に南面して建つ。貞観18年聖宝の創建になる。昭和14年類焼、昭和43年再興、再び平成20年焼失、再建準備中なるも未だに再興ならず。
 上醍醐准胝堂跡1     上醍醐准胝堂跡2
  →准胝堂前相輪橖については、本ページの最後の項を参照。
  准胝堂跡には「相輪橖」を偲ばせるような遺構・遺物は全くなく、「相輪橖」の糾明には至らず。
・薬師堂:国宝、准胝堂の東南1町にあり。延喜7年(907)醍醐天皇創建、その後退転し、保安5年(1124)再興落慶。醍醐寺では保安2年再興という。5間4間入母屋造、屋根檜皮葺。
 上醍醐薬師堂1     上醍醐薬師堂2     上醍醐薬師堂3     上醍醐薬師堂4     上醍醐薬師堂5
 上醍醐薬師堂6     上醍醐薬師堂7     上醍醐薬師堂8
・経蔵跡:旧国宝、昭和14年類焼、未だ再興に至らず。建久6年俊乗坊重源の建立、東西3間4尺南北3間3尺、寄棟造、唐様建築という。宋版の一切経は山下霊宝館に保存される。薬師堂前面下段に位置する。
 上醍醐経蔵跡1     上醍醐経蔵跡2     上醍醐経蔵跡3
・鐘楼:
 上醍醐鐘楼:薬師堂から五大堂に至る途中にある。
・五大堂:延喜7年(907)創建、経蔵東方3町にあり。前の堂は慶長13年(1608)豊臣秀頼の再興堂で旧国宝であったが、昭和7年炎上。現在の堂は慶長再興堂を復原し昭和15年再建される。8間×6間、入母屋造、屋根檜皮葺。
 上醍醐五大堂1     上醍醐五大堂2     五大堂五大明王
  ○「史迹と美術 18巻」より:
  昭和7年、上醍醐五大堂焼失。 昭和14年、上醍醐准胝堂、清瀧宮本殿、客殿、書院類焼。昭和15年、上醍醐五大堂再建。
   上醍醐昭和7年焼失五大堂    同    内部一隅    同    須弥檀金具
・如意輪堂:重文、貞観18年(876)聖宝の創建、慶長11年(1606)豊臣秀頼の再興。5間×3間。入母屋造、屋根杮葺。
 上醍醐如意輪堂1     上醍醐如意輪堂2     上醍醐如意輪堂3     上醍醐如意輪堂4     上醍醐如意輪堂5
 上醍醐如意輪堂6     上醍醐如意輪堂7     上醍醐如意輪堂8
・開山堂:重文、祖師堂。延喜11年(911)創建、現在の堂は慶長13年(1608)豊臣秀頼の再建。8間×5間、入母屋造、妻入り、妻に向拝を設ける。屋根前部は檜皮葺・後部は杮葺。
 上醍醐開山堂1      上醍醐開山堂2      上醍醐開山堂3      上醍醐開山堂4      上醍醐開山堂5
 上醍醐開山堂6      上醍醐開山堂7
・白山権現:寛平9年(897)聖宝が勧請、慶長年中豊臣秀頼により再建。
 上醍醐白山権現1     上醍醐白山権現2
・地蔵堂:不詳
 上醍醐地蔵堂
・上醍醐寺務所
 上醍醐寺務所1      上醍醐寺務所2
・上醍醐円光院跡:現在は上醍醐陵(白河天皇皇女2名とその生母藤原氏を埋葬)として整備される。小円墳というもはたして実態は何なのであろうか。明治維新前までは円光院があった。修陵にあたり円光院は撤去という。
 上醍醐円光院跡
・上醍醐子院・円光院ほか延命院、念覚院、持明院、光台院、遍照院、北尾塔などが知られるも、その位置は詳らかにせず。
現在笠取に下る路(岩間山への巡礼道)の左右には多くの坊舎跡があると推定するも、明瞭なものは多くはない。数十年前には庭園跡と推定される坊舎跡があったと記憶しているが、今般は発見できず。

 上醍醐推定坊舎跡1     上醍醐推定坊舎跡2     上醍醐推定坊舎跡3     上醍醐推定坊舎跡4
・円光院を少し下ったところに一山僧侶の墓所と推定される一画がある。おそらく100基を超える石塔類があるものと推定される。
 上醍醐推定一山墓地1     上醍醐推定一山墓地2     上醍醐推定一山墓地3     上醍醐推定一山墓地4
 上醍醐推定一山墓地5     上醍醐推定一山墓地6     上醍醐推定一山墓地7     上醍醐推定一山墓地8
上の写真以外の判明する墓碑を記せば、前太僧正全雲、僧都堯海、太僧都法印純海、實乗坊弘寿(享保13年)、春長房宣雅(享保15年)、教息坊正珍(延宝7年)、文政4年、完隆房堅聖(享保6年)、 文化年中の紀年などがある。

下醍醐寺現況

無印は2014/03/18撮影:◇印は2014/12/18撮影/降雪 :□印は2016/03/21撮影
・総門:
 下醍醐総門1     下醍醐総門2     ◇下醍醐総門3     □下醍醐総門4
・仁王門:西大門。紀伊湯浅勝楽寺から金堂とともに引いたものと伝える。
※湯浅には満願寺と勝楽寺の2寺院が近接して現存する。移建元は満願寺とする場合と勝楽寺と記載する場合の両方がある。2寺の関係がWeb上ではよく分からない。いずれからの移建とするのが正しいのか判断できない。
 下醍醐仁王門1     下醍醐仁王門2     下醍醐仁王門3     下醍醐仁王門4     下醍醐仁王門5     下醍醐仁王門6
 ◇下醍醐仁王門7    ◇下醍醐仁王門8    ◇下醍醐仁王門9    ◇下醍醐仁王門10
 □下醍醐仁王門11    □下醍醐仁王門12    □下醍醐仁王門13
・三宝院:永久3年(1115)創建、豊臣秀吉・秀頼の造営による多くの殿舎を擁する。
唐門:勅使門:国宝、聚楽第から秀吉が移建と伝える。五七の桐と菊を浮彫にする。
・金堂前鐘楼:
 ◇金堂前鐘楼
 ●2001/03/18撮影:醍醐寺三宝院唐門
 下醍醐三宝院総門     下醍醐三宝院総門内
 下醍醐三宝院唐門1     下醍醐三宝院唐門2     下醍醐三宝院唐門3     下醍醐三宝院唐門4     下醍醐三宝院唐門5
 ◇三宝院唐門7        ◇三宝院唐門8        ◇三宝院唐門9        ◇三宝院唐門10
 □三宝院唐門11       □三宝院唐門12       □三宝院唐門13
・秀吉建立六坊跡:三宝院総門の南数丁、左右がその跡である。
現在の恩賜館は金蓮院跡である。金蓮院跡の東は現在の霊宝館であり、霊宝館は岳西院のあった地である。霊宝館の南が報恩院である。
 恩賜館(金蓮院跡)1     恩賜館(金蓮院跡)2        霊宝館(岳西院跡)
・報恩院:寛喜2年(1230)上醍醐に創建され、明治27年釈迦院本堂を現在地に移し、報恩院が下山する。ここは六坊の蜜厳院の旧地である。
 下醍醐報恩院1     下醍醐報恩院2      下醍醐報恩院3     下醍醐六坊跡
 ◇下醍醐報恩院4     ◇下醍醐報恩院5
・南西門
 下醍醐南西門:仮称、六坊門
・北門:
 下醍醐北門:向かって右の練塀の中が理性院
・理性院:三宝院北にある。醍醐三流の一つ理性院流の根本道場である。寛治年中(1087-)の創建、本尊は大元帥明王で、本像は小栗栖法輪寺から受け継ぐという。
 下醍醐理性院1     下醍醐理性院2     下醍醐理性院3
 □下醍醐理性院寺門    □下醍醐理性院本堂    □下醍醐理性院庫裡    □下醍醐理性院堂名不詳
・長尾天神;下醍醐金堂裏の丘上にある。慶長5年(1600)金堂再興にあたり、菅原道真を勧請する。豊臣秀吉は醍醐寺金堂の再興のため紀伊満願寺本堂の移築を命ずるも、種々の祟りに遭遇する。この祟りは道真の怨念と判明し、祟りを鎮めるため菅公を勧請するという。
本殿は三間社流造、屋根杮葺、文政4年(1821)の再建というも、桃山期の雰囲気を残す。
 下醍醐長尾天神1     下醍醐長尾天神2     下醍醐長尾天神3
・光台院;三宝院南にある。寛喜3年(1231)上醍醐の創建、明治28年下山し、元成身院の建物を充てる。地蔵院流の本寺である。
 下醍醐光台院1     下醍醐光台院2     ◇下醍醐光台院3     ◇下醍醐光台院4
・無量寿院跡:光台院南が跡地である。松橋流の本寺であった。広壮な堂宇があったが、明治39年火災により烏有に帰す。
 下醍醐南門内:向かって右中央のフェンス内が無量寿院跡と推定される。
 下醍醐無量寿院跡1:上の写真の推定無量寿院跡の切り取りである。
 下醍醐無量寿院跡2
・南門;
 下醍醐南門     ◇下醍醐南門2
・菩提寺:南門よりさらに南にある。三宝院歴代門主の墓所である。(未見)

・下醍醐清瀧権現:永長2年(1097)あるいは承徳3年(1099)上醍醐清瀧権現を山下に勧請する。
本殿は重文、永正14年(1517)の再建という。三間社流造、屋根檜皮葺。
 下醍醐清瀧権現本殿1     下醍醐清瀧権現本殿2     下醍醐清瀧権現本殿3     下醍醐清瀧権現本殿4
 下醍醐清瀧権現本殿5     下醍醐清瀧権現本殿6     下醍醐清瀧権現本殿7     下醍醐清瀧権現本殿8
 下醍醐清瀧権現拝殿
 ◇下醍醐清滝権現本殿9     ◇下醍醐清滝権現本殿10     ◇下醍醐清滝権現本殿11
 □下醍醐清瀧権現本殿12    □下醍醐清瀧権現本殿13     □下醍醐清瀧権現本殿14
・不動堂
 下醍醐不動堂1     下醍醐不動堂2     ◇下醍醐不動堂3     ◇下醍醐不動堂4     □下醍醐不動堂5
・大師堂;祖師堂、御影堂、空海及び聖宝を祀る。慶長13年(1608)義演僧正によって建立される。
弘法大師空海と開山理源大師聖宝を祀る。木造理源大師坐像は重文。
 下醍醐大師堂
 ◇下醍醐大師堂2     ◇下醍醐大師堂3     ◇下醍醐大師堂大師像:向かって左が理源大師、右が弘法大師像
・真如三昧耶堂;平成9年建立。以前はこの場所に大師堂があったと思われる。
 下醍醐真如三昧耶堂     ◇下醍醐真如三昧耶堂2
・太伝法院
大講堂、弁天堂、鐘楼、地蔵堂(不詳)、日月門、阿闍梨寮、伝法学院、大林泉を総称して大伝法院と称する。
これらすべては、昭和5年山口玄洞氏の寄進で成る。
なお、大講堂は西国33所11番札所上醍醐准胝観音遥拝所でもある。
 大伝法院伝法学院     大伝法院阿闍梨寮     大伝法院鐘楼     ◇大伝法院鐘楼
 大伝法院日月門1      大伝法院日月門2     ◇大伝法院日月門3     ◇大伝法院日月門4
 大伝法院大講堂1      大伝法院大講堂2     ◇大伝法院大講堂3
 大伝法院文天堂1      大伝法院文天堂2
・女人堂(成身院):江戸初期の建築という。
 下醍醐女人堂
・金剛王院:
醍醐五門跡(三宝院、理性院、報恩院、無量寿院、金剛王院)の一つであるが、衰微していたのを、明治28年一言寺を廃し、金剛王院を移すという。本堂、内侍堂、弁天堂、妙見宮、地蔵堂などを有する。
現地の案内板では明治7年一言寺と金剛王院が合併とある。一言寺は少納言藤原信西の娘阿波内侍が山城清水寺観音の霊告により創建と伝える。醍醐寺中心伽藍より南約10町のところにある。
本堂は文化7年(1810)の再建。
 下醍醐一言寺山門      下醍醐一言寺境内     下醍醐一言寺本堂     下醍醐一言寺鐘楼
なお金剛王院の旧地がどこであったのかは不詳。
 ※明治3年の本末帳では既に廃寺の扱いである。
 ※現在の恩賜館の位置のあったとも思われる記述もあるが、不明。
・栢杜遺跡(大蔵卿堂)
一言寺(醍醐寺金剛王院)のさらに南に栢杜遺跡(醍醐寺大蔵卿堂・三重塔・ 栢杜堂)がある。醍醐寺中心伽藍から遥かに離れた南方のこの付近まで醍醐寺境内であったということであろう。
 


○2010/11/22追加;
上醍醐寺准胝堂前相輪橖
 上醍醐寺准胝観音堂「Y」氏ご提供:絵葉書
准胝堂前に相輪橖がある。
但しこの相輪橖は現存せず、おそらく昭和14年准胝堂焼失を契機に失われたものであろうか。
さて、この絵葉書の発行年は大正7年から昭和7年の間と推定される。(「Y」氏推定)
この発行年及び以下の准胝堂の興亡から判断すると、写真の准胝堂は昭和14年に焼失した堂である。
 ※即ち、この写真は昭和14年焼失准胝堂の貴重な写真ということになる。
但し、昭和14年焼失堂は江戸初期の建築(「醍醐山小史」)なのか江戸後期以降の建築(「都名所圖會」)なのか(現時点では)不明であるが、「都名所圖會」の記事及び挿絵を信用すれば、「都名所圖會」刊行以降(時期不明)の再建堂ということになるであろう。 (後述)
そして、昭和14年焼失堂の前面西には上記写真から「相輪橖」があったことが分かるが、相輪橖が昭和43年再興時にあったことや焼失堂址地にあったことは現時点では確認が取れない。
つまりは昭和14年の焼失時に相輪橖は退転したか、もしくはその後取壊された可能性が高いと想像される。
◇「都名所圖會」江戸後期 では:
上醍醐の挿絵を見ると、准胝堂はなく、堂址平坦地には観音堂址とある。
その平坦地には相輪橖と思われるようなものの描画はない。
一方、薬師堂の項には「本尊薬師佛・・・、(薬師仏のほかに)堂内に准胝観音を安置す。観音堂回禄の後にここに遷す。」とある。
 ※以上によれば、江戸後期には准胝堂は何らかの理由で退転し、本尊は薬師堂に移座していたと分かる。
 都名所圖會上醍醐・挿絵     都名所圖會上醍醐・記事・・・何れも2010/11/24追加
◇「新撰京都名所圖會 巻5」昭和38年 より
准胝観音堂は昭和14年、鎌倉建築の経蔵とともに山火事で焼失と記され、挿絵には平坦地のみが描かれ、観音堂址とのみ記す。(相輪橖のようなものの描写はない。)
◇「西国巡礼」佐和隆研、昭和45年 より
下記の写真の掲載がある。発行年から債券直後の准胝堂写真と思われる。
 昭和43年再興准胝堂1:相輪橖らしきものの形跡はなし
◇「醍醐山小史」醍醐寺、昭和59年 では:
准胝堂:「徳川初期に再建せられた南北9間、東西6間、単層、入母屋造の荘厳な御堂も昭和14年国有林野より発火した山火事に類焼の厄を蒙った・・・」「昭和43年5月18日に落慶、本尊は御遷座・・・」とある。
 ※ここでは江戸初期の堂が昭和14年焼失、昭和43年再建落慶と云う。
江戸初期の堂が昭和14年再興とされ、上の「都名所圖會」の江戸後期には回禄していたとの記事とは矛盾するが、どちらが本当か(現時点では)良く分からない。
◇平成20年8月24日未明雷火により全焼。
 ※上記の経緯のとおり、焼失した建物は昭和43年再興堂である。
 昭和43年再興准胝堂2:2006/02/04撮影、ライセンス・フリー画像、相輪橖らしきものの形跡はなし。
 昭和43年再興准胝堂焼失:2008/08/24付「産経ニュース」の画像と推定される。


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