肥 後 本 妙 寺 / 清 正 公 信 仰/ 肥 後 日 蓮 宗 諸 寺

肥後本妙寺/清正公信仰/肥後日蓮宗諸寺

肥後熊本本妙寺(加藤清正廟所)

本妙寺寺歴:
 天正11年(1583)加藤清正、大坂に在りし時一寺を建立し、法性山瑞竜院と号す。その意は父清忠の菩提のためと云う。
  ※天正13年とも云う。
天正16年(1588)清正肥後を領し、天正19年(1591)瑞竜院を熊本城内に遷し、本妙寺と改称する。
文禄元年(1592)開山発星院日真(京都妙伝寺12世東光院日真)の瑞夢により、発星山(法性山と同音)と山号を改むる。
慶長16年(1611)清正熊本城にて薨去、遺言により、慶長19年(1614)この地(城西中尾山中腹)に廟所を造営す。
同年城内の本妙寺が焼失、現在の地に本妙寺を三遷す。
元和2年廟所下の現在地に遷仏落慶。
加藤家改易ののち新領主細川氏も崇敬し、寺領400石を給す。
本妙寺は京都本圀寺末。清正は本圀寺の大檀越であった。
2013/04/08追加;
○「『熊本年中行事圖絵』に見る熊本城下町の年中行事7 本妙寺の祭礼」村田真理(熊本城 復刊85(10) 所収)
では以下のように云う。
天正13年加藤清正、大坂に父の菩提のため寺院を建立する。開山は日真上人。
清正肥後入府の時、日真は随従し、熊本城内法華坂の三宝院を瑞龍院として住持する。
慶長5年(1600)大坂本妙寺を熊本城内に移すが、その時瑞雲院と合わせ、日真上人により熊本に本妙寺が造営される。
慶長15年清正逝去、慶長19年城内の本妙寺は火災焼失、元和2年(1616)現在地(廟所)に移転再建する。
肥後本妙寺境内絵図:「熊本年中行事圖絵」本妙寺境内部分図、本絵図の年紀は不明。
 肥後本妙寺境内絵図1     肥後本妙寺境内絵図2:文字補足、黒門は退転し、現在この位置には仁王門が建つ。

明治の神仏分離の処置により、浄池廟と本妙寺は分離され、明治4年社殿が熊本城内に移され、錦山神社と称する国家神道神社に改竄される。浄池廟の拝殿も撤去される。明治42年錦山神社は加藤神社と改称する。
その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になる。

◆法性院(発星院・東光院)日真上人:
天正13年加藤清正が大阪に本妙寺を創建、その開山に招請する。文禄・慶長の役には、従軍・渡海し戦勝祈祷や外交の衝に当たる。熊本築城に際し、大阪の本妙寺を城内に移す。
その後、大村本経寺・熊本高麗門妙永寺(下掲載)・同本覚寺(下掲載)・川尻法宣寺 (下掲載)などの開山をなす。
なお、第3世は本行院日遥。<本行院日遥は下に掲載>

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◆本行院日遥
 ※俗説では日耀と日延は朝鮮国王の皇子でありしかも兄弟とするが、朝鮮国王の皇子の捕縛という事象と日遥・日延とを混同したものであるとするのが定説である。
 日延:博多香正寺中にあり。
○「ウィキペディア」 では次のように記す。(大意)
 本行院日遥。俗名余大男。字は好仁、僧名は学淵。天正8年(1580)-万治2年(1659)。
李氏朝鮮出身、肥後熊本本妙寺第3世、長久山護国寺開山。
文禄元年(1592)文禄の役勃発し、日耀は加藤清正麾下の武士に捕らえられる。
清正に尋問されるが、日遥の筆致に才気を見出した清正は側に置き、日本に連れ帰ることとする。
日耀の育成は従軍した法性院日真(京都妙傳寺12世)に一任される。
日耀は六条本圀寺に預けられ、六条求法講院にて教育される。
慶長元年(1596)加藤清正帰国。日遥は身延山で修行、飯高檀林に留学し、天台教学等を修める。上野安中法昌山本龍院蓮久寺(六条門流)に第3世住職として晋山。
慶長14年(1609)29歳で肥後熊本本妙寺第3世に晋山。
慶長18年(1613)加藤清正三回忌の追善供養のため、法華経八巻69,384字を一夜のうちに書写・奉納する。これが頓写会の起源である。
慶長19年(1614)熊本城内にあった本妙寺が火災で焼失。
元和2年(1616)清正の廟所中尾山に本妙寺を再建。
寛永9年(1632)加藤家改易。細川忠利が熊本藩主となる。
寛永11年(1634)法燈を第四世日選に譲り、妙光山蓮政寺(熊本市安政町)にて隠居。
慶安4年(1651)肥前国島原藩主高力忠房の招聘により、長久山護国寺を開山する。
万治2年(1659)2月26日、79歳で遷化。諸説あり。
 ※晩年、日遙は長久山護国寺を開山した後、万治2年(1659)2月26日に病で遷化したとされる。しかし、本妙寺・護国寺ともに葬儀を営んだ記録は存在しない。それ故、様々な憶測が存在するようである。

 なお、『清正公記』に「本妙寺上人は、清正、百濟國守の子、九歳に成しを日本につれこし、出家させ、日遙上人と改め、住持職となされける」とあるが、これらの年齢の誤りは同じく日本に連行された朝鮮王子臨海君の子・可観院日延(小湊誕生寺第十八世)との混同によるものである。
 ※つまり、上の一文には、日遥は百濟國守の子であり、日延と兄弟であるという説を否定する意図が込められているのと推測される。

○「日遙上人 (余 大男) 여 대남」 では次のようにいう。(大意)
 日遙上人は文禄慶長の役の時、加藤清正によって朝鮮から日本へ連れて来られ、その後日蓮宗の僧侶となった人物である。
島原藩主の高力忠信によって島原に護国寺が創建された時、日遙上人は熊本から招かれて開山上人となっている。
本名は余大男(ヨ・デナム)というが、大男は幼名であり、成長してからは学淵及び好仁に改めるとともに、後には本行院と号した。
 韓国のウィキ百科に余大男が紹介されているので、次のとおり全文を翻訳する。
  (省略)
 日遥上人の年表
  (省略)
 参考文献
  『四溟堂松雲大師』   松雲大師顕彰会編   平成24年(2012年)10月12日発行 海鳥社
  『日本のなかの朝鮮紀行』  金聲翰著 昭和61年(1986年)5月15日発行 三省堂
  『加藤清正 −朝鮮侵略の実像−』  北島万次著  平成19年(2007年)4月1日発行 吉川弘文館
  『加藤清正』  佐竹申伍著 平成3年(1991年)2月10日発行 青樹社 
  『NHK文化セミナー 漢詩を読む 杜牧』 石川忠久著 平成3年(1991年)4月1日発行
  『日鮮史話・第1編』  松田甲著 大正15年  朝鮮総督府  国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
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本妙寺現況:
 本妙寺概況図:本妙寺の堂宇、寺中の配置図である。
2013/03/10撮影:
仁王門:現在の仁王門は大正8年小倉の実業家・篤信者小林徳一郎(小林組)の寄進と云う。RC造。平成22年改修工事竣工。
 肥後本妙寺仁王門1     肥後本妙寺仁王門2     肥後本妙寺仁王門3
本堂:西南の役で焼失、明治27年再建。
 肥後本妙寺本堂1     肥後本妙寺本堂2     肥後本妙寺本堂3
本妙寺本院(本坊)
 肥後本妙寺本院1     肥後本妙寺本院2     肥後本妙寺本院3     肥後本妙寺本院4
浄池廟:清正廟所、明治4年神仏分離の処置で社殿は分離され熊本城内に遷される。
廟の跡地には墓碑が建てられる。※廟の再建後、この墓碑は廟の背後に移される。
西南の役後焼失した本堂などとともに、再興が企図され、明治27年(明治30年説もある)浄池廟が再建される。
 浄池廟参道1     浄池廟参道2     (浄池廟)中門     浄池廟拝殿
 浄池廟本殿1     浄池廟本殿2     浄池廟本殿3      浄池廟本殿4
 本妙寺鐘楼
六喜廟:加藤忠廣一族廟所、昭和12年忠廣一族の五分霊を配所各所から向え、祀ったものと云う。
 本妙寺六喜廟1     本妙寺六喜廟2
 釈迦堂(法皇閣)1     釈迦堂(法皇閣)2
◇本妙寺寺中:現在12ヶ院の塔頭が現存する。
塔頭は仁王門から本堂までの一直線の参道両側に並ぶ。
 本妙寺参道1:仁王門より本堂方面を望む      本妙寺参道2:本堂方面より仁王門を望む
 本妙寺参道3:本地院(右)と延寿院(左)
・常住院:元和2年開創、開山発星院日真
 塔頭常住院山門     塔頭常住院本堂1     塔頭常住院本堂2
 常住院偽ニ層塔
  塔頭常住院ニ層塔:RC造、納骨堂であろうか、一応はニ層塔の形をするも、塔として推奨できるものではない。
・智運院:大津山と号す、延宝年中開創、開山慧雲院日意
 塔頭智運院山門     塔頭智運院本堂
・静明院:本是山と号す、天正年間開創、開山妙音院日領
 塔頭静明院山門     塔頭静明院本堂     塔頭静明院納骨堂     静明院三十番神堂:開運除災三十番神を祀る。
・龍淵院:元和元年開創、開山龍淵院日通
 塔頭龍淵院
・仙乗院:天正3年開創、開山日輝
 塔頭仙乗院     塔頭仙乗院本堂
・東光院:吉祥山と号す。
南関城代加藤美作守正次東光院日延を招じて、玉名郡南関町に開創される。元和2年(1616)本妙寺山内観照院跡に移転、元陽院日俊を開基とす。
 塔頭東光院門構     塔頭東光院本堂
 塔頭東光院三重小塔:
   RC造であろう。高さは5〜6尺ほどと推定(実測せず)、建立年代、由来など不明。
    東光院三重小塔1    東光院三重小塔2    東光院三重小塔3    東光院三重小塔4    東光院三重小塔5
・妙心院:元和2年開創、開山日陽
 塔頭妙心院門構     塔頭妙心院本堂     塔頭妙心院庫裏
・延寿院:元和年中開創、開山日純
 塔頭延寿院山門     塔頭延寿院本堂     塔頭延寿院庫裏:本堂前に「牛頭天王」の石碑が建つも、由緒は不詳。
・本地院:万治元年開創、開山日慶
 塔頭本地院山門     塔頭本地院本堂     塔頭本地院堂宇
・雲晴院:寛文3年開創、開山雲晴院日逍
 塔頭雲晴院山門     塔頭雲晴院本堂1     塔頭雲晴院本堂2
・正善院 寛永二年開創、開山日助
 本堂裏手にある。未見。
・尭心院 元和三年開創、開山観行坊
 釈迦堂裏手にある。未見。

・日蓮宗本行寺
 日蓮宗本行寺?:上に掲載の本妙寺概況図に本行寺と記載された付近の写真である。しかし、この寺院の詳細は全く不明。
この寺院は本妙寺の寺中と思われる位置にあるが、寺中にはその名がない。写真のように寺院らしい構ではないが、この住所には日蓮宗本行寺が存在するようである。 あるいは雰囲気は廃坊の跡にも見えるが、どうなのであろうか。
2013/03/25追加:
◇本行寺に問合せかつK.G氏情報より以下が判明:
登記上の住所は現在も、熊本の中心的な繁華街である熊本市中央区中央街2−20である。
20年前までは上記住所に堂舎があったが、現在は本妙寺境内に「仮移転」をしている。
それは、20年前の台風で堂舎が損壊し、諸般の事情で、早急な街中(中央街)での再建が困難であったからである。
 ※20年前の台風とは平成3年(1991)の第19号台風であると推定される。
当面、仮復興のため、本妙寺保育園(40年前に開園すると云う)の東隣の土地(移転前ここは藪であったが、移転に際し切り開いたと云う。)に本妙寺の好意により、仮移転をする。いずれは街中(中央街)に帰還する意思である。
なお、本行寺は度重なる被災で古記録を欠き、下記以外の詳しい寺歴は不明と云う。
山号は壽命山。江戸期は肥後本妙寺末。元和年中の開創で、開山上人は本蔵院日利上人と伝える。

参考:肥後熊本城
本妙寺檀越加藤清正が築城、壮大な縄張りの熊本城が遺存する。その雄大さには圧倒される。
熊本城略歴:
天正16年(1588)佐々成政は切腹、加藤清正が肥後北半国19万5000石で隈本城に入府する。
慶長5年(1600)頃天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石を領有する。
慶長11年(1606)城郭の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改称する。
寛永9年(1632)加藤忠広改易、豊前小倉城主細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入る。
以降、細川氏が幕末まで城主であった。そして明治維新後も主要建物は保持されると云う。
明治10年西南役にて籠城戦を戦うも、原因不明の火災で大小天守などの大部を焼失する。
2013/09/21撮影:
 宇土櫓・大小天守
 宇土櫓1     宇土櫓2     宇土櫓3     宇土櫓4     宇土櫓石落し1     宇土櫓石落し2
 大天守1     大天守2     大小天守1     大小天守2     小天守東構     大天守から西側眺望
 薬研濠?     五階櫓跡付近    西櫓門・飯田丸五階櫓     本丸御殿石垣     備前濠・飯田丸五階櫓
 長   塀1     長   塀2

参考:肥後護国山妙解寺跡(史跡)
寛永19年(1642)細川熊本藩第4代光尚が父・忠利の菩提のため、東海寺沢庵和尚を開基として建立する。寺号は忠利の法号・妙解院殿に因む。
以降、細川家菩提寺として歴代藩主などの墓が営まれる。
明治維新の頃、復古神道が跋扈し細川氏は神道に転向、妙解寺を廃寺とし北岡別邸となすと云う。
 ※明治維新当時の細川氏がどうような思想であったのかは情報がなく不明。
2013/09/21撮影:
 細川3・4代廟所唐門1     細川3・4代廟所唐門2     細川3・4代廟所唐門3
 細川3・4代廟所:向かって左から光尚、忠利 、忠利室の廟
 3代忠利廟1     3代忠利廟2     3代忠利廟3     4代光尚廟
 5・6・7・8代廟所唐門跡           9・12代廟所唐門跡

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清 正 公 信 仰

○「清正公信仰の研究−近世・近代の「人を神に祀る習俗」−」福西大輔、熊本大学博士論文、平成21年 より
  注)本論文は「加藤清正公信仰―人を神に祀る習俗」岩田書店、2012 として出版されている。
◆清正公信仰とは
 清正公信仰とは「人を神に祀る習俗」であり、これは祖霊信仰(生前の個性を失って神になったものを祀る)と対照的な生前の個性を持ちながら神となす信仰である。
 「人を神に祀る習俗」の例示:
  菅公(菅原道真)・天満大自在天神、徳川家康・東照大権現、佐倉惣五郎、豊臣秀吉(→山城豊国大明神) 等
加藤清正の人気は熊本だけではなく、名古屋の津島や中村(津島妙延寺中村妙行寺)、横浜伊勢崎町(清正公堂)などがあり、全国に広まる。
◆加藤清正の生涯と清正公信仰
 清正公信仰の始まりが清正公の供養だとすると、本格的に供養を行ったのは本妙寺日遥(本行院)と云われる。
   注)本行院日遥は上述熊本本妙寺中にあり。
日遥は12歳の時、清正に捕らわれ日本に連れてこられ、日本で出家し修行し、後に熊本本妙寺3世となった人物である。
朝鮮関連でいえば、もう一人、日延上人(可観院)がいる。
朝鮮の王子(臨海君)の子で、同じく日本で出家・修行し小湊18世となり、白金覺林寺を開き、江戸での清正公信仰の中心となる。
   注)可観院日延は白金覺林寺中にあり。
◆清正公信仰をめぐる先行研究
 「人を神に祀る習俗」は大きくは2ツの系統に分かれる。
一つは祟り神系であり、もう一つは顕彰系であるが、清正公信仰は基本的に後者である。
そして傾向として、中世には祟り神系が広く流布したが、近世には顕彰系にシフトしていった傾向が見られる。
◆清正公信仰の概観
 福西氏によって、清正公を祀る寺社が一覧表に纏められる。<配列は寺院・神社別→都道府県別>
  ※清正公を祀る寺社を完全に網羅している訳ではないが、傾向を窺うことは可能であろう。
神社は149社(一部海外を含む)、寺院は235ヶ寺が掲載(確認)されている。
 神社の名称としては加藤神社、錦山神社、清正公社、清正神社・・・などとする例が多い。
  ※ほぼ「武士神格化一覧」(「武士神格化の研究」高野信治、吉川弘文館、2017 所収と推定)から抽出。
 但し、全てが網羅されている訳ではない。
  ※錦山神社は現在熊本城内にある加藤神社の前身で、明治4年の創建から明治42年の改号まで存在し、
 その間に分霊されたものである。
 寺院の部は、大部を「日蓮宗寺院大鑑」(池上本門寺、昭和56年)を参照し、纏めたものである。
勿論、清正公を祀る寺院は原則日蓮宗であり、日蓮宗各門流に分布する。
即ち、六条本圀寺末寺院が最も多く、次いで四条妙顯寺末、池上本門寺末、小湊誕生寺末、中山法華経寺末と続く。
   注)批判;福西氏は、池上・小湊は不受不施派弾圧を受けており清正公信仰の広がりと関連が考えられるとし、
   特に日延(清正が朝鮮から連行した)は江戸覚林寺や博多香正寺の清正公信仰の中心寺院を開き、
   その影響は多かったと思われるという。
   しかし、日延の一例で不受不施派との関連が大であったというのは少々違和感があり、
   清正公信仰と不受不施派とは何の関係もないというのが事実であろう。
   日延の場合は日延が清正と強い関係性があったということから清正公を奉祀したということであり、
   日延が「書物を拒否した不受僧」であるから清正公を奉祀したことにはならないであろう。
◆各地の清正公を支える寺社と祭礼
1)陸奥鶴岡丸岡天澤寺
 例外的に日蓮宗ではなく、曹洞宗である。
清正公が眠る菩提寺として知られる。清正閣(清正墓碑)がある。
加藤正広は改易後、生母正應院と一万石の扶持とともにこの丸岡に地に20有余年この地に謫居する。
母子は熊本から幕府に秘匿して清正の遺骨をこの地に運び、保持したという。
2)江戸白金覚林寺
 日延の開山である。 →江戸白金覺林寺
3)池上本門寺
清正関連の事蹟は以下が知られる。
 此經難持坂:清正の寄進整備という。
 旧大堂:慶長11年(1606)清正の寄進にて建立、宝永7年(1710)焼失。
 清正公堂:安政4年(1857)建立、今次大戦で焼失、昭和32年に仮堂が建立されその後再興されるが、平成13年霊宝館建立で取壊される。現在新清正公堂(三重塔)が建立中である。
 清正供養塔:慶安2年(1649)清正息女・徳川頼宣正室瑤林院が建立、宝篋印塔で総高4m。
 正應院層塔:十一重塔、寛永3年(1626)逆修塔として寛永3年(1626)に建立、正応院は清正後室・正広生母。
  → 池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔
 清正公銅像:戦時中、金属供出で撤去。
   →池上本門寺
4)江戸世田谷幸龍寺
 妙祐山と号す。身延山末あるいは六条本圀寺末。
天正7年(1579)浜松城主徳川家康が正心院日幸尼の願いにより建立、開山は玄龍院日椿、徳川家の祈願所とする。
正心院日幸尼は岡部貞綱の娘、秀忠の乳母、後には大母局または岡部局として大奥で権勢を振う、また池上本門寺五重塔を寄進する。
徳川秀忠は継嗣出生安産祈願を命じ、無事に三大将軍家光の生誕を見る。
その後、家康とともに駿府、江戸湯島、浅草と移転する。昭和2年に関東大震災の復興で現在の世田谷区北烏山に移る。
清正公堂を有し、この堂は天保年中の建築で、関東大震災の損壊を遁れ、浅草から移築されたものである。
「東京名所圖繪」では天正19年日春、湯島に建設し、寛永年中現地(浅草)に移せりという。朱印150石を領し、徳川家歴代の帰依深し。境内に肥後熊本より奉祀せる清正公又柏原という結縁の神ありて花柳界の信仰するところたりと云う。
5)尾張中村妙行寺 →中村妙行寺
 清正生誕地と云う。
慶長16年清正逝去の折、日遥は清正公2躯を彫刻し、一躯を本妙寺に安置し、もう一躯を妙行寺に寄贈し、清正公堂に安置する。
6)尾張津島清正公社 →尾張津島清正公社
 明治18年清正を顕彰する為、清正の伯父(五郎助)の屋敷跡と云われる場所に建立される。
清正は5歳の時に伯父の屋敷にきて、数年間育てられる。五郎助の妻よねといい、よねの妹が秀吉の正妻のねねであったという。
7)尾張津島妙延寺 →津島妙延寺
 清正5歳の時、母の伊都が弟の五郎助の家を頼り、津島に引っ越すという。伊都はこの津島で数年間過ごすが、清正を本寺の寺子屋に通わせ、時の住職に読み書きそろばんを学ぶという。
8)六条本圀寺 →六条本圀寺
 文禄元年(1592)清正は朝鮮出兵の際、16世日モ謔闔題7字の旗を受け、自身の生き墓「真生墓」を建立したという。
また、清正が帰還した折、朝鮮から連行した後の日遥・日延を本圀寺に預け修行させたとも云う。
9)豊後鶴崎法心寺
 雲鶴山と号す、通称二十三夜の寺という。鶴崎の地は江戸期肥後の飛地であり、参勤交代の時などは熊本から鶴崎に出、ここから海路大阪・江戸に向かうという。
慶長6年(1601)清正によって建立される、開山は本圀寺の常林院日榮。
仁王門・拝殿・本堂・祖師堂・清正公本殿がある。
二十三夜祭は、清正が慶長16年逝去した後営まれた追善供養の法要が起源という。
10)肥後熊本本妙寺 →本ページの最初に掲載
 本妙寺は、天正13年(1585)清正の父清忠の菩提の為、日真の開山で大阪に開創される。
清正は熊本城主になり、慶長5年(1600)本妙寺は大阪から熊本城下の瑞龍院に移される。
慶長16年清正は逝去し、遺言により、中尾山上の浄地廟に清正公像が奉安される。
慶長19年(1614)本妙寺が焼失し、本妙寺を浄地廟下の現在地に移される。
明治初4年神仏分離の処置で、本妙寺と浄地廟は分離され、社殿のみ熊本城内に移され、錦山神社(現在の加藤神社)となる。
その後、西南の役で両者とも焼失するが、再建され現在に至る。
11)熊本加藤神社
 加藤神社は熊本城の一郭にあり、祭神は清正である。
神社は慶応4年熊本藩主細川韻邦の弟・永岡護美の建議から始まる。
明治元年朝廷から神祭仰出され、本妙寺から清正公廟を分けられ、清正公霊廟が神道にと祀られることとなる。
 ※本妙寺の僧さえ、霊廟に入れない事態となる。
明治4年神仏分離がなされ、本妙寺の衣冠束帯姿の清正像が神体とされ、熊本城内に社殿を建立し、錦山神社として創建される。
霊廟・拝殿・諸堂の取り壊しが命ぜられ、霊廟などが解体される。
 ※本妙寺の要望で清正公霊廟は本妙寺に返還される。
明治6年熊本城に熊本鎮台が置かれ、城内が悉く鎮台用地とされ、陸軍と神社との軋轢が生ずる。
明治7年軋轢解消の為、神社は熊本市京町へ遷座する。(昭和37年現在の本丸に移る。)
明治10年西南の役で、錦山神社は悉く焼失。(本妙寺本堂も焼失する。)
明治19年錦山神社の社殿再建される。
明治42年加藤神社に改号する。
 注)完全に国家神道によって建立され、明治維新後建立された唾棄すべき神社の一つでしかない。
12)肥後八代貝洲加藤神社
 ○Wikipedia より   注)Wikipedia記事が最も公正で妥当と思われるので、左記より転載する。(大意)
 八代市鏡町貝洲に鎮座する。御祭神は加藤清正。
八代市鏡町は、総面積の約80%が干拓により開かれた土地である。干拓工事は、元禄期(1688-1704)頃よりはじまるが、鹿子木量平が中心となって行われた工事が特に大規模である。
鹿子木量平は、土木工事・新田開発の先駆者として加藤清正の神霊に祈る。そして息子の謙之助らと共に、文化3年(1805)より文化5年(1822)にかけて、100町、400町、700町という3度の大干拓工事を、困難の末に成功させる。
文化5年量平は加藤清正霊の加護に報いるため、清正公を祀る本妙寺浄池廟より分霊を勧請し、神殿を創建する。はじめは神道と仏教の両部の宮寺であったが、明治3年神仏分離の国策により神祭に改め、村社に列する。
なお、鹿子木量平は八代市鏡町の文政神社に祀られる。
◆豊国社(豊国大明神)の広がりと、清正公信仰への影響  (→山城豊国大明神
 清正公信仰の成立期には、八幡信仰・豊国社のような権現信仰の広がりが、影響を与えたのでないか・・・
 (省略)
 注)なお、次の記事には注目する。
 安芸宮島の豊国社には、明治13年、加藤清正が合祀される。それまで清正は宝山神社と称されていた厳島神社多宝塔に祀られていた。
 厳島豊国社(大經堂・千畳敷)・厳島神社多宝塔<安芸厳島中>
◆加藤家の没落と清正公信仰の変容
 清正の神格化には豊国信仰が大きな影響を与えるが、豊臣家滅亡を機に、豊国大明神の神号の剥奪と豊国社の破却が命じられる。
おそらく熊本の豊国社も棄却されたものと推定される。
 一方、1600年代になると、日蓮宗寺院は様々な民間信仰の取込を盛んに行ったといわれる。
慶長5年能勢妙見の日蓮宗改宗(妙見信仰の日蓮宗化)が行われ、1920年代には五番善神信仰(薬王菩薩、勇施菩薩、多聞天、持国天、鬼子母神、十羅刹女)が日蓮宗に広まり、さらに七面天女、妙見菩薩、大黒天が身延山に祀られる。
 この流れでの中で、清正公信仰も日蓮宗の一部として位置付けられていったのではないかと考えられる。さらに轉換点になったのは寛永9年(1632)の加藤政広の改易であった。
しかしながら、まだこの時点では、清正公信仰の担い手は清正の子孫・家臣・領民などであり、清正の顕彰であった。
例えば、水野家から清正の正室・清浄院の縁の地にも清正公信仰が残る。(備後福山鞆法宣寺には熊本由来の清正像が伝わる。)
例えば、六条本圀寺には清浄院が隠棲し、家臣らが門前に集まったと推測されるのである。
 そして、こうした信仰が大きく変容するのが、清正200回忌の1810年ころだったと思われる。
◆200回忌と清正公信仰の広がり
 清正信仰は、没後200年近く経った頃から、流行神的な側面を持ち始めたと思われる。
この頃から清正は浄瑠璃・歌舞伎の題材に取り上げられるようになる。また享保16年(1731)徳川吉宗が本妙寺の「清正記」を閲覧したことが知られる。(幕府の加藤家に対する態度が変化した表れ)
 文化7年(1810)の清正200回忌のあたりから、清正信仰が各地で盛んになる。「清正本」などの出版、白金覺林寺での「清正供養開帳」、文政2年(1819)の肥後貝洲加藤神社の建立、尾張中村妙行寺などでも清正が祀られる。
 安政5年(1859)清正250回忌では熊本本妙寺で長期間盛大に追善法要が営まれる。
そしてこの背景には、天候不順や世相不安があり、人心の不安があったものと思われる。
◆天明の打ちこわしと清正公の流行神化
 江戸後期、江戸や畿内など都市部では、清正信仰を始め多くの流行神がもてはやされる。
浅間山の噴火に続く全国的な天明年間の大飢饉、熊本では白川氾濫、島原大変肥後迷惑の雲仙普賢岳噴火・・で清正信仰の爆発が起こる前兆であったことは十分考えられることである。
 佐倉惣五郎信仰と清正信仰の類似性にも言及する。
◆清正房伝説と遊行宗教者・巡礼者
 200回忌の頃から、関東・中部・関西等を中心に民衆に清正信仰が広がっていくが、その前提として、それ以前から清正信仰を流布する人々が存在していたのではないかと思われる。そういった人たちはどういった人たちだったのか。
 各地の清正公の由来を見ると、旅人・遊女・宗教者などの遊行の徒が関わっていたことが分かる。
そして、清正信仰は日蓮宗(六条門流が中心であるが、それ以外の門流にも)を通じて全国に広まっていった。勿論、寺院とか門流の経営基盤を確立したいという側面はあったであろう。
しかし、何より根本は日蓮宗全体に大きな動揺があったことが背景ではないだろうか。
それは、不受不施派の弾圧が強くなり、日蓮宗全体が不安定になっていたことがあるのではないか。
不受不施派は禁制となるも、上総・下総・安房・江戸・備前・備中などの不受不施派の勢力の強い国々では、法中−施主−内信の組織は地下に潜ってその組織を維持した。
 注)例えば「備前法華の系譜」を参照
こうした地下組織を通じて清正公信仰が広がっていった可能性が高い。
不受不施派の中心寺院である池上(本門寺)小湊(誕生寺)は清正公を祀っていた。
   注)批判:池上や小湊が不受不施派であったのは近世初頭であり、早くから身延山に接収され、
     地下に潜った不受不施派が    清正公信仰に関与したとは言えないであろう。
清正により連行されてきた日延は寛永7年(1631)「身池対論」の後、小湊を追放される。
日延は誕生寺を出た後、江戸白金覺林寺を開き、九州に下向し、寛永9年(1632)博多法性寺に身を寄せ、福岡藩主黒田忠之の帰依を得て薬院(現・警固)に9000坪の寺地を賜り、香正寺を開く。
萬治3年(1660)日延は「故国朝鮮の見える地に居住せん」と藩主に願い出、伊勢の濱(現・唐人町)に3000坪の3000坪の寺地を賜り、妙安寺を開く。
寛文5年(1660)示寂す。
 日延の開山した江戸覚林寺や博多香正寺は清正公信仰の一つの中心となり、ここから信仰が広まっていったことが考えられる。
清正公信仰が広がった背景には日延のような不受不施派の僧侶の活躍があったと思われる。
つまり、圭村文雄の云うように、不受不施派の弾圧により、無籍僧の増加・民俗宗教化(隠れ題目)が進み、彼らが清正公信仰に大きな関与をしたのではないか。
  注)批判:日延は確かに「書物をいたさなかった」不受不施僧であり、故に小湊を追われる。
   そして、白金覚林寺を開く。
     だが、このことは不受不施僧であるが故に日延が清正公を祀ったということではなく、清正に連行されるも、
   清正の誠実な温情で、僧侶の道を示され、僧侶として大成した日延が清正を顕彰する意味で、
   覺林寺に清正公を祀ったということであろう。
   繰り返すが、日延は不受不施僧である故に覚林寺に清正公を祀ったのではない。
    不受不施の地盤である備前・備中南部の状況はどうなのであろうか。
   本論文で纏められている「資料2(表):清正公を祀る主要寺院一覧」にあるように、ここには顕著な清正公信仰の痕跡は認められない。
   備前・備中南部の地域を廻って見ればよい。
     →山陽諸国の日蓮宗諸寺  →備前の日蓮宗諸寺  →備中の餅日蓮宗諸寺
   不受不施の組織は地下に潜り、必ずしも、顕著な遺物が残されている訳ではないかも知れないが、
   残されている先師の遺物は日蓮・(日朗)・日像・大覚大僧正であり、特に大覚大僧正が圧倒し、
   次いで日像・日蓮(宗祖であるから当然か)が続く。
    雑多の信仰である、清正公信仰はまず見当たらず、地神・三十番神・牛頭天王などは別にして
   妙見菩薩・地域性なのであろうが最上位経王菩薩(高松稲荷)などの信仰も取り入れた形跡は見られない。
   明らかに不受不施である「祖師堂・日蓮堂」にあっては、祭祀される先師は、大覚・日像・日蓮であり、
   加えて日奥・日樹など多くの不受不施派の先師が祀られる。
   清正公が祀られている痕跡は見当たらない。
   さらに、地下に潜伏した不受不施派には妙見とか清正公とか様々な雑諸尊を採り入れる教義はなく、
   ひたすら日蓮のあるいは先師の原則を遵守する教団であったと思われ、
   清正公の信仰を採り入れる余地は無かったと思われるし、その兆候も見られない。
   (もう一つの地盤である上総・下総・江戸などの現状は現地を殆ど見ていなく判断できないが、
   少なくとも、地下に潜った不受不施僧や内信者が清正公を祀ったという見聞に接したことはない。)
    であるから、本論文の著者・福西のいうような「不受不施派の弾圧により、無籍僧の増加・民俗宗教化(隠れ題目)が進み、
   彼らが清正公信仰に大きな関与をしたのではないか。」という推論は成り立たないと思われる。
    いわば、清正が恩人とも云うべき清正有縁の日延が、偶々不受不施僧であったいうことだけで、
   不受不施僧・内信は清正公信仰に関与したと普遍化は出来ないと思われる。
    注)不受不施派の概要については「備前法華の系譜」の参照を乞う。
そして、こういった遊行宗教者たちにとって都合が良かったのは、清正公は前世、清正房と云われるたびの宗教者であったという伝承を持っていたことであり、それが相当に流布していたことである。
   注)批判、以上は事実としても、不受不施派の僧侶とは関係ない伝承である。
◆清正公信仰とハンセン病
 清正にはハンセン病に関わる逸話が多くあり、また法華経中に癩病の言及があり、癩病患者が日蓮宗寺院の廻りに集まったことが知られている。熊本本妙寺の周囲にハンセン病患者の集落が出来ていたことも事実である。
しかしながら、一方では、彼らは被差別者・非迫害者でり、彼らは故郷を追い出され、生涯巡礼・遊行の旅に出るしかなかった。
そういった、彼らによって清正公信仰が拡げられることもあったと思われる。
この場合、清正公の御利益は「病除け・病平癒」といったものであった。
 なを、八代宗覚寺(加藤忠正廟所)の事例の紹介あり。
   →本ページの下に「八代宗覚寺(加藤忠正廟所)」として掲載。
◆清正公信仰と河原者
 <省略>
◆清正公信仰と神仏分離令
 日露戦争以降、多くの軍神(近代以降の戦で死んで神となったもの)が生まれ、こうした軍神の影響を受けながら、清正公信仰は近代以降大きく変貌し、全国各地に広まっていった。
  →本項上術の熊本加藤神社を参照
明治10年西南の役で焼失した本妙寺本堂の再建にあたり、旧来の細川家だけでなく、陸軍の将校などに寄付を募る。
今まで、清正信仰と無関係だった北海道に清正公信仰が広まる。
熊本から屯田兵が琴似に入植→清正公像ろ祀る→日蓮宗日登寺へ発展、江別に入植→江別神社創建、夕張に入植→清正公熊本神社創建
 また、明治初期には全国で豊国社が復興される。豊国大明神と並んで清正公が祭神とされるケースもあった。
近江長濱豊国神社である。<反徳川の風潮か>
そして、明治維新後、熊本の清正公信仰は軍人たちとの繋がりを深めていく。
◆清正公信仰と戦争
 近代になり、本妙寺・加藤神社など清正縁の寺社は西南戦争・日清・日露・第一次・第二次大戦を通じて軍部(陸軍)との関係を深め、清正公の御利益として「武運長久」が喧伝されることとなる。これは全国的に見られる兆候となる。
 乃木希典の事例の紹介あり
  (以下、清正の英雄化・偶像化などの記載があるが、省略)
 明治31年ハワイにヒロ大神宮が創建(祭神はアマテラス・八幡神・キヨマサ)される。
◆清正公信仰から見る「中央」と「地方」
 近代の清正公信仰は熊本という「地方」で生まれた信仰が、西南戦争から今次大戦の戦争の時代を経て、帝都である東京という「中央」に影響を受け変容しながら各地に広がっていったものであった。
 清正公信仰は近世初頭に八幡や豊国大明神や東照大権現といった権現信仰やそれに関係したKン皇の影響を受け成立する。その当初、その信者や祭祀者は清正の子孫・家臣・領民であり、その形態は清正を顕彰するものであった。その地域も熊本や清正に所縁の地
の限定されたものであった。
 ところが、江戸中期には、庶民が現世利益を求めるようになり、清正公信仰も現世救済の神・流行神として変化した。その背景には天変地異・飢饉などによって庶民が痛みつけられるような社会情勢があったものと思われる。清正公信仰は広く庶民に受け入れられ、地域も関西・中部・関東に広がっていった。
 明治維新後は国家神道の影響を受け、幾多の戦争の渦中で軍部と結びつき、軍神としての性格が強調される。
  注)正に国家神道の補完的な役割に堕落し、清正公も不本意であったものと思われる。
◆清正公信仰の歴史的変遷
  (纏めであり、省略する)
◆「人を神に祀る習俗」と流行神
  (省略)
◆結
  (省略)

清正公を祀る主要寺院一覧/神社一覧
資料1(表):
  清正公を祀る主要神社一覧
資料2(表):
  清正公を祀る主要寺院一覧

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肥後日蓮宗諸寺

玉名常楽山妙性寺
日親上人由緒寺院につき、肥前小城光勝寺・肥前日蓮宗諸寺中に掲載。

-------------高麗門日蓮宗八ヶ寺:熊本市横手-------------

高麗門妙永寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
壽福山と号す。
慶長5年(1600)清正生母伊都逝去。
慶長7年加藤清正、母堂(伊都、聖林院殿天室日光大尊尼)の菩提のため建立する。開山は発星院日真。
2013/03/10撮影:
 妙永寺山門     妙永寺山門脇石碑     妙永寺本堂1     妙永寺本堂2
 聖林院廟所1     聖林院廟所2     聖林院廟所3: 聖林院墓碑はこの背後にある。
2013/09/21撮影:
 妙永寺本堂3     聖林院墓(五輪塔)1     聖林院墓(五輪塔)2     聖林院墓(五輪塔)3
なお、妙永寺寺中三ヶ寺として、以下の本覺寺・覺圓寺・實成寺が建立される。

高麗門本覚寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
東光山と号す。開山発星院日真。
川尻殿(本學院、加藤忠正生母)菩提寺。六角堂観音で知られる。
○『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007 の
 「第六章本覺院(菊池氏)と忠正」では本寺の成立を以下のように云う。
「六角堂観世音・清正公奥方本覺院殿略像記」には本寺の由来を次のように説く。
即ち、開山日真上人は老順の故により本妙寺を退き隠遁の庵と観音像安置の場所と奥方(川尻殿・本覺院)の開基檀越となることを求める。清正は大いに同情し、母堂(伊都)の廟所(妙永寺)に隣接した高地の一画を神仏安置の好地として提供する。ここに隠居場所として一宇を建立し寺号を本覺と称し、傍らに観音を安ずる六角の堂を設営する。
 「肥後國誌」では「妙永寺:慶長12年日眞本妙寺を日じょう(糸偏に尭の字)上人に譲てこの寺に隠居しその後寺中において本覺寺等を建立し寛永3年4月22日示寂」と云うが、これ は「六角堂・・略像記」に照応する。
「六角堂・・・略像記」では上記に続けて以下のように云う。
奥方本覺院殿他界により、開基檀越の故を以って山内の高地に埋葬し、法号を本覺院殿月心妙光日圓大姉と称する。本覺院は寛永3年4月9日寂する。本覺院五輪塔の傍らにある五輪塔は本覺院侍女(浄得院)の墓所である。
 なお、本覺寺は大正11年火災焼失、昭和47年にも再び本堂・庫裏を火災焼失。
さて、本覺院廟所のすぐ北手に大乗院石祠がある。
この内側には本妙寺7世日が延宝2年(1674)に記した由来が刻まれるという。
ここでは、本覺寺は日真上人の遁世読経の跡で、前國司加藤氏妾法名日圓昭儀葬送地である。然るに、加藤氏が流落して以来、無縁地となり寺院は荒廃して年月が過ぎる。正保の頃立石正貞が父正賀菩提の為、本覺寺を再興する。

参考:
○サイト:「六角堂観音 東光山 本覚寺」>境 内に「大乗院石祠」刻銘全文(「立石家碑文原本」)の掲載がある。
以下はその転載である。
立石家碑文原本
肥後州飽田郡隈本府東光山本覚寺者去
元和初本妙寺開基日眞聖人遁世讀経之跡又是前國司加藤氏妾法名日圓昭儀葬送地也 
雖然 加藤氏流落已來 成無縁地寺院漸逮于荒廢年尚矣于茲玄正保比立石助兵衛尉正賀蒙於當國司之父君源光尚公命而趣同國八代久在者彼城下終及病死法號称大乗院高嶺白雲居士繋是孝子正貞於葬送地建此石廟誌碑銘専祭先考矣彼居士外篤軍士祠内帰佛乗徳特仰法華眞実之宗風耀賢聖信敬慧日可謂末世英雄也 于繋去寛文末正貞応于當大守命而重赴隈本城下之日為謝先考芳恩祈将来冥福再興寺跡以日雲居士為當寺中興開基壇?以故?彼地石廟重刻彫碑銘永安置牌板快設倶膳處 爰以 本覚寺歴代住持改號大乗院矣晨?勤励昼夜廻向敢不可 慢因為後記寫
延寶二年龍輯甲寅正月十三日
發星山本妙寺 七世 玄収院日

(読み下し文)
肥後州飽田郡隈本府にある東光山本覚寺は、元和の初めに本妙寺の開基である日眞聖人が遁世読経した跡であり、前の国主である加藤氏の側室で法名が日圓の葬送地である。加藤氏が流落して以来、無縁地となり寺院は荒廃して年月が過ぎた。
正保の頃に立石助兵衛正賀は今の国主の父である細川光尚の命を蒙り、八代城下に趣き久しく居住して終に病死した。正賀の法号は大乗院高嶺日雲居士である。子である正貞は発送地にこの石廟を建て碑銘を誌るし専ら亡き父を祭った。「正賀はことさら軍士に篤く法華宗を敬い末世の英雄というべき人物である。」寛文の末に正貞は太守の命により、重ねて赴き、隈本城下の日為(法華宗の僧か)が亡き父の芳恩に感謝して将来の冥福を祈って寺跡(本覚寺)を再興することとなった。日雲居士(正賀)が本覚寺中興の開基となった。本覚寺の地に石廟を建て重ねて碑銘を彫刻して長く牌板を安置して快く膳を設倶した。本覚寺歴代住持を大乗院と改号することになった。昼夜廻向に励み、決して怠ることがないようにしなければならない。後の為に記写する。
延宝二年龍輯(※歳次)甲寅正月十三日
発星山本妙寺 七世 玄収院日

○サイト:「六角堂観音 東光山 本覚寺」>本覺院殿 に本覺院の解説がある。
蛇足ならが、このページで平成17年裏手にあった本覺院廟所が山門付近に移され、覆屋が新築されたことが分かる。

2013/09/21撮影:
平成17年本覚院第三百八十遠忌を厳修するに当たり、当寺の裏手に在った本覚院廟を山門を入り右手の不動尊堂横に遷すと云う。向かって右が本覚院廟で左が不動堂である。
 本覚寺廟所1     本覚寺廟所2
『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之、福田正秀、2012 より
2基の五輪塔があるが、向かって右の五輪塔が本覚院墓である。空輪から地輪にかけて「妙法蓮華経」と一文字ずつ彫る。
地輪に「本覺院妙光清信□女霊/月心日圓/寛永三丙寅暦四月九日/元和二丙辰十月十三日 本覺院殿」と刻むと云う。
 ※元和2年(1616)は逆修(生前)建立日で、寛永3年(1625)逝去日であろう。
なお、左の墓は「浄得院殿妙意大姉 元和二天十月」と刻まれ、本覺院の逆修日と同じであり、二基は同時に建てられたものであろう。浄得院とは近親者であろう。寺伝では本覺院侍女とする。
 本覚寺本覚院墓
 本覚寺山門     本覚寺六角堂拝殿     本覚寺六角堂1     本覚寺六角堂2     本覚寺六角堂3

高麗門覚円寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
萬福山と号す。
寛永3年(1626)加藤忠広、川尻殿(本覚院、法名は本覚院殿月心妙光日圓大姉)菩提のため建立す、開山仙林院日善。
2013/09/21撮影:
 覺圓寺1       覺圓寺2

高麗門実成寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
長久山と号す。実成院廟所。
慶長元年(168596)創立、開山南正院日助、開基古橋徳寿左衛門(加藤清正叔父、実成院壽徳日慶居士)
2013/03/10撮影:
 實成寺門構     實成寺本堂・庫裏     古橋實成院殿廟所

高麗門正立寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
久成山と号す。寛文2年(1662)創建、開山常照院日禅。
池上本門寺末、池上の九州弘教の拠点として存立される。子安鬼子母神として知られる。
2024/05/25追加:
ブログ:津々堂のたわごと日録>正立寺と清高院殿のページ より記事を丸ごと転載する。
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 横手の筒口にある正立寺は池上本門寺の末寺である。
肥後国誌には次のようにある。
法華武州池上本門寺末寺 寛文二年常照院日輪上人開基之寺地三反三畝 元禄十四年ヨリ免許之寺中三十番神七面堂大黒天堂アリ

 藩法研究会発行の「藩法集7 熊本藩」(昭和41年3月第一刷)に面白い記事を見つけた。
高麗門外筒口正立寺屋敷三反壹畝拾五歩、御年貢上納仕候を、江戸池上本門寺末寺ニテ彼方上人より、清高院様え依願上納御免被成候事

 三反壹畝拾五歩に対する年貢が如何ほどのものであるのか承知しないが、正立寺としては出来るものならこれを逃れたいと思ったのであろう、本山の池上本門寺に頼み込んでいる。上の記事は何時頃のものか日時が良くわからないが、前後の記事から元禄八年以降、宝永四年の間の事である。
清高院とは細川綱利の生母で、宝永七年に九十二歳で亡くなり池上本門寺に埋葬された。
正立寺は清高院と池上本門寺の関係を承知のうえで、相談を持ちかけたことは想像できる。
まさに作戦は的中し、正高院様のお声懸りとでもいうことで一件落着したのであろう。御威光恐るべしである。

清高院は光尚公の側室で綱利と、弟で新田藩主で細川利重の生母である。綱利はその母亡きあと素晴らしい墓所を本門寺内に建立している。
歴代藩主の何方のお墓よりも際立っているように思える。贅沢を極めた母への綱利公の最後の贈り物となった。
このお墓は解体発掘されて調査が行われ、2002年坂詰秀一編 の『近世大名家墓所の調査 - 圓光院殿日仙榮壽大姉墓所、清高院殿妙秀日圓大姉墓所、高正院殿妙泉日流大姉墓所』なる調査報告書が作られた。高正院とは細川宜紀公の生母(利重公側室)である。
-----------------end
  ◎池上本門寺清高院殿の墓所については→池上本門寺墓所中に記載する。
2013/03/10撮影:
 正立寺山門(楼門)     正立寺本堂     正立寺庫裏

高麗門長国寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
安住山と号す。慶長11年(1606)創立、開山南正院日助。細川家の祈祷寺と云う。
2013/03/10撮影:
 長国寺山門(楼門)     長国寺本堂

高麗門瑞光寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
正東山と号す。万治2年(1659)創建、開山感應院日如。
2013/09/21撮影:
 瑞光寺1       瑞光寺2

高麗門妙立寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
光徳山と号す。天正2年(1574)豊前小倉にて創立、寛文3年(1663)当地に移転、開山顕応院日祐。
2013/03/10撮影:
 妙立寺山門     妙立寺本堂     妙立寺庫裏
----------以上:高麗門日蓮宗八ヶ寺---------------

川尻法宣寺:常妙山と号す。
開山は本妙寺日真上人。
慶長4年(1599)清正は水野忠重娘(かな、清浄院)を正室に迎える。
 清浄院(水野氏)は徳川家康の従妹<水野忠重は家康生母伝通院(於大)の弟>であり、水野勝成が実兄である。
 清浄院の娘は八十姫(瑤林院)であり、元和3年(1617)徳川頼宣(紀伊)の正室となる。
 晩年は六条本圀寺に隠棲し、明暦2年(1656)75歳で逝去する。(法名:清浄院殿妙忠日寿大姉)
本寺には清浄院供養塔があり、本堂には清正及び清浄院の木像を安置する。
 清浄院墓所は六条本圀寺にある。現在は山科本圀寺に移転してある。 →京都六条本圀寺京都六条本圀寺2
2013/09/29追加修正:
『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007 では法宣寺創建の事情を以下のように述べる。
 「加藤清正傳」には次の記載がある。
  「法宣寺過去帳」:清浄院殿妙忠日壽大姉 明暦二申九月十七日 清正公奥方、東照宮御養女、水野和泉守殿御息女也・・・
   本山記録に有り當山開闢也
   (本門を入り右方向に五輪の塔ある是なり。維新前には清正公の祠堂相並び木像を安置せりと云う、
   今は即ち本堂内に移せり)
     ※俗称は古来「清正寺」と呼ばれていたと云う。
  また「肥後国誌」では「法宣寺常妙山 ・・法華宗本妙寺末也、・・・慶長18年建立之開山ハ本寺ノ開山発星院日真上人ナリ
   ・・・・本妙寺末頭三ケ寺アリ。八代本成寺、高瀬妙法寺、當寺供に三ヶ寺也」
 つまり、妙宣寺は、本妙寺の記録によれば、清浄院の開基により、本妙寺開山日真によって開山されたということである。
 慶長18年当時(忠廣代)清浄院には1万石の給付があり、清浄院建立の寺が一つあっても不思議ではない。
 その後、清浄院は明暦2年(1656)薨去するが、遺骸は京都六条本圀寺に葬られる。この訃報は熊本本妙寺を経由して、
 法宣寺にもたらされ、報恩供養のため、法宣寺に清浄院供養塔が建てられたものと推定される。
2013/09/21撮影:
 川尻法宣寺山門      川尻法宣寺本堂1      川尻法宣寺本堂2
 法宣寺清浄院供養塔1    法宣寺清浄院供養塔2    法宣寺清浄院供養塔3    法宣寺清浄院供養塔4
  供養塔は3段の台石が積まれ、その上に蓮華座が置かれ、その上に五輪塔(地・水・火・風・空)が建つ。
  但し五輪の地と水の間には「なぜか層塔の屋蓋があり、・・本来は五輪墓で、地震等により崩壊していたものを
  積み直したものであろう。」(『加藤清正「妻子」の研究』)と云う。
 清浄院供養塔正面     清浄院供養塔側面
  側面には以下の文言が刻まれる。
    (撮影写真の写りが悪い部分があり、しかも最下部が切れていて、判読不明な部分がある。)
   境内ニ清浄院妙忠日壽大姉ノ供養塔・・・  明暦二申九月(十七日)
   清正公正室徳川家康公ノ養女水野和泉守ノ息女アリ・・・・・
   ヨリ俸米トシテ年々四斗五升六合宛々寺納有之此・當山・・・・
   建時昭和三十九年七月川尻保育園建・・・・在北ニ移ス 當山二十五世日(雲)
     ※()内は推定、法宣寺25世は境内にある墓碑によれば慈妙院日雲上人である。
 法宣寺清正公厨子     法宣寺清正公木像
 法宣寺清浄院厨子1    法宣寺清浄院厨子2    法宣寺清浄院木像1    法宣寺清浄院木像2

川尻本立寺:
由緒では以下のように述べる。
弘安7年(1284)一遍上人法弟念行の開山と云う。天正年中(1588-)小西行長本堂を焼き、寺領を没収する。
延宝3年(1675)あるいは寛文2年(1662)あるいは寛文12年藩主細川氏の命により、本妙寺6世日潤再建する。
以降日蓮宗本妙寺末となる。
天保3年(1832)水害にて流失、天保9年再建する。
弘化3年(1846)番神堂(三十番神、薬師如来、子安鬼子母神を祀る)建立、大正6年番神堂老朽化し再建する。
2013/09/21撮影:
 川尻本立寺山門      川尻本立寺本堂     川尻本立寺番神堂
 本立寺番神堂内部     本立寺三十番神1     本立寺三十番神2     本立寺三十番神3
 本立寺三十番神4      本立寺三十番神5     本立寺三十番神6     本立寺三十番神7

宇土法華寺

残念ながら、寺歴は詳らかならず。
2013/03/09撮影:宇土法華寺山門     宇土法華寺本堂

八代宗覚寺(加藤忠正廟所)

加藤忠正(加藤清正二男/側室川尻殿<本學院>の子/法名:理性院殿宗覚日等居士)墓所。
慶長12年(1607忠正病没、慶長13年清正は夢告により、この地に泉福山本成寺を建立し、墓所とする。
 ※「宗覺寺建立由来」:読み下しが『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012
 の「第二部 第五章 加藤清孝資料」にある。
 ※『続・加藤清正「妻子」の研究』より:
  忠正夭折の後、「忠正が夢枕で自分の居る場所を示した所が八代の妙見宮のある宮地であった。妙見宮は・・・妙見菩薩を
  本尊とし・・・、諸資料から清正が妙見菩薩を深く信仰していたことは確かで、夢見の宮地を忠正の墳墓の地とし埋葬した。」
寛永11年(1634)加藤家改易の後、細川忠興は本成寺を八代城下に移し、跡地には草庵が建立され、墓守が置かれると云う。
延宝8年(1680)八代城主松井直之の斡旋で、藩主細川綱利はこの地(八代宮地)に新に宗覚寺を創建し、本妙寺日竜を向える、
天和3年(1683)本堂が建立される。
明治10年西南の役で本堂・庫裏は焼失、山門は焼け残り、その山門には薩摩兵士のつけた刀痕(住職談)が残る。
明治18年頃現本堂再建。肥後本妙寺末。
近年鐘楼を新築。以下総覚寺住職談。
 鐘楼の様式は京都妙蓮寺鐘楼をモデルとする。但し、軒下組物、椽下組物は妙蓮寺のそれより簡略化されたものである。
 総檜造。鐘楼袴に扉(入口)があるが、この扉は扉に設置したタッチ式センサーによって電動で開閉する仕掛である。
 ※なぜ、法流としては異質の妙蓮寺の鐘楼をモデルにしたのかは聞き及ばず。
2013/03/09撮影:八代宗覚寺
 八代宗覚寺本堂      八代宗覚寺庫裏:昭和60年新築      八代宗覚寺堂宇:堂名不詳
 八代宗覚寺鐘楼1     八代宗覚寺鐘楼2     八代宗覚寺鐘楼3     八代宗覚寺鐘楼4
 八代宗覚寺鐘楼5     八代宗覚寺鐘楼6
宗覚寺境内東方の丘の中腹に忠正墓所がある。
墓碑は高さ凡そ5尺程の五輪塔である。台石には「加藤主計頭宝塔」と刻すると云う。
 八代宗覚寺忠正墓所     八代宗覚寺忠正墓碑1     八代宗覚寺忠正墓碑2
○なお、加藤忠正の詳細な論考は以下の著作にある。
 『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007
  の就中 「第六章 本學院(菊池氏)と忠正」
 『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012
  の就中 「第一部 第五章 側室川尻殿(本學院)と忠正(清孝) 及び  「第二部 第五章 加藤清孝資料」
   →拙ページ「受贈図書」中に図書の紹介を記載。  


2013/03/18作成:2023/05/08更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系