下 野 茂 木 高 藤 権 現 三 重 塔 残 欠

下野茂木高藤権現三重塔残欠/行田山東城寺三重塔残欠

下野茂木高藤権現/三重塔残欠


下野茂木高藤権現三重塔初重が現存する。室町期の建立と推定されるも、現在は残存する初重も腐朽寸前の状態である。
三重塔の建築時期は永禄年間(1558-70)と推定される。
 ※その根拠は現地説明板(下に掲載)にある通りで、残存する木鼻も室町期の特徴を示す。


2013/02/09「X」氏撮影高藤権現三重塔初重残欠

「X」氏情報:下野高藤権現(今は荒橿神社と称する)にて、中世の三重塔残欠(初重)を”発見”する。
一辺は約3.8m(中央間は約1.6m、両脇間は約1.1m)、逆連弁高欄付きの椽を廻らす。
組物は三手先、木鼻付き。中備は現存してはいないが、中央間に蟇股の痕跡が認められる。
 ※平面方3間であり、内部に四天柱を建てる。平面構造は完全に層塔/多宝塔のものである。
 ※組物は三手先でしかも尾垂木を組入れこれは完全に層塔の組物である。
 軒には二手丸桁には格天井を張り、そこから三手先丸桁には軒支輪で繋ぐ手法は正統的な軒の始末である。
 ※心礎が確認できないので、心柱は初重には下りてきていないと思われる。
 また四天柱の一面を来迎壁にし、おそらく須弥壇を置き仏像を安置したものと推測される。
 これらは中世近世の塔婆の典型的な特徴を示すものである。
基本的に和様を用いるが、腰部は長押ではなく貫(腰貫)を用いる。写真でみる限り長押を用いた形跡は見られないため、当初から腰には貫(腰貫)を用いたものであろう。
軒は現在一軒で平行繁垂木となるも、一軒であるのは近世の改造と推定される。
内部には四天柱と来迎壁を残す。
「X」氏撮影画像
 高藤権現三重塔初重01    高藤権現三重塔初重02     高藤権現三重塔初重03    高藤権現三重塔初重04
 高藤権現三重塔初重05


2013/05/08撮影高藤権現三重塔初重残欠

三重塔初重残欠

塔は東面を正面とする。権現の主軸(鳥居・拝殿・本殿)が南北にあり、参道が南北に通じる。三重塔は拝殿に至るその参道の中間付近の西に位置する。

高藤権現三重塔初重1
高藤権現三重塔初重2
高藤権現三重塔初重3
高藤権現三重塔初重4:左図拡大図
高藤権現三重塔初重5
高藤権現三重塔初重6

初重一辺は「X」氏の計測の通り、両脇間110cm(3尺6寸3分)、中央間160cm(5尺2寸8分)であり、一辺は380cm(12尺5寸4分)である。
廻椽の出幅は126cm(4尺2寸か)、高さは90cm(3尺)である。


三重塔初重残欠正面(東面)及び東北角

三重塔初重東面11:左図拡大図
三重塔初重東面12
三重塔初重東面13
三重塔初重東面14
三重塔初重東面15
三重塔初重東面16
三重塔初重東面17
三重塔初重東面18
三重塔初重東面19
三重塔初重東面20
三重塔初重東面21
三重塔初重東面22
三重塔初重東面23
三重塔初重東面24
三重塔初重東面25
三重塔初重落下支輪
三重塔初重東北角1
三重塔初重東北角2

三重塔初重残欠北面及び北西角

三重塔初重北面11
三重塔初重北面12
三重塔初重北面13:左図拡大図
三重塔初重北面14
三重塔初重北面15
三重塔初重北面16
三重塔初重北面17
三重塔初重北面18
三重塔初重北面19

三重塔初重北西角1
三重塔初重北西角2

三重塔初重残欠に四面及び西南角

三重塔初重西面11
三重塔初重西面12
三重塔初重西面13
三重塔初重西面14
三重塔初重西面15:左図拡大図
三重塔初重西面16
三重塔初重西面17
三重塔初重西面18
三重塔初重西面19
三重塔初重西面20

三重塔初重西南角1
三重塔初重西南角2
三重塔初重西南角3

三重塔初重残欠南面及び南東角

三重塔初重南面11
三重塔初重南面12
三重塔初重南面13
三重塔初重南面14
三重塔初重南面15:左図拡大図
三重塔初重南面16
三重塔初重南面17
三重塔初重南面18
三重塔初重南面19
三重塔初重南東角1
三重塔初重南東角2
三重塔初重南東角3

三重塔初重南面中央間上部

三重塔初重残欠内部ほか

三重塔初重内部1
三重塔初重内部2
三重塔初重内部3
三重塔初重内部4
三重塔初重内部5;左図拡大図
三重塔初重内部6
三重塔初重床下1
三重塔初重床下2:何れも東から撮影

三重塔初重長押1:東北角
三重塔初重長押2:東北角
三重塔初重長押3:東南角
三重塔初重貫

高藤権現境内東側すぐに屋号を「タカフジ」(高藤か)と称する民家がある。この民家の主は凡そ80歳であり、近年まで「荒橿神社」の惣代であったと云う。現在あるパイプ・トタンの仮覆は(おそらく平成の初期 の頃の造作ではないかと思われる)この民家の主が(惣代の立場として)建てたと云う。
 この民家の主の言は必ずしもはっきりしない面があるが、この主より、「記憶によれば、戦後には初重の状態であった、子どもの頃は椽に上がるなどして遊び場でもあった、初重になったのはあるいは初重屋根が壊れたのかはっきりしないが、その原因は杉の大木が倒れ塔を直撃したからである、・・ 」などの話を聞くことができた。
 境内あるいは社領の杉の良木は国内材が高値で取引されていた時代は良かったが今は安値でどうしようもないというニュアンスの話もあり、これからの類推であるが、屋号「タカフジ」家は高藤権現に仕える「給仕」のような家柄であり、山林の管理・木材の伐採/取引・社殿堂宇の修理などに関係した家柄であったかも知れない。
阿弥陀堂(三重塔)本尊については神社のどこかに(蔵などに)保存されているのではないかというが、これは曖昧な話ではある。
 なお、三重塔には全く関係がないが、(江戸期)には茂木城から能持院へ通う茂木藩武士が高藤権現の社頭を通り過ぎたと云う。
塩田山能持院
 貞応元年(1222)茂木城主八田知基により建立され、その後茂木知持が中興開山す。
慶長15年(1610)茂木氏は秋田転封、細川興元(細川忠興実弟)が1万余石で封じられる。そのとき以来、能持院は細川氏の菩提寺となり、墓所が営まれる。室町中期の惣門が現存する。
2014/04/20追加:
迂闊であったが、能持院については、三匝堂があったという。
 天明5年(1785)に建立され、明治4年台風倒壊、あるいは大正年中老朽化・腐朽とも云う。(写真と概観図が残存とも云う。)
  → 三匝堂(栄螺堂)の該当項を参照

◆荒橿神社社務所
 三重塔の北側に社務所がある。現在残る阿弥陀堂(三重塔)が本地堂であったと推定され、高藤権現も社僧(別當)の管理であったのは確実であるが、もし社僧の住坊などがあったとすれば、現在社務所となっている付近が坊舎跡である蓋然性は高いと思われる。
 荒橿神社社務所1     荒橿神社社務所2:写真右端に写るのが三重塔残欠仮覆である。
 荒橿神社拝殿        荒橿神社本殿


高藤権現三重塔概要

現地の説明板(平成2年茂木町教育委員会)には以下のように説く。(要旨)
荒橿神社三重塔(現阿弥陀堂):
この三重塔(現阿弥詑堂)の創建については、桔梗城が完成した元弘3年(1333)戦勝祈願のために「三階堂阿弥陀堂」を建立したという説があるが、それを確認できる資料的な裏付けは全くない 。
昭和63年阿弥陀堂詳細調査を行う。その結果、最も重要な上層の組上げ工法から、細部の様式に至るまで、下野西明寺三重塔(天文12年/1543)との共通点が多く、時期的な近さが感じられる。
さらに、本塔は全体として簡略化された部分が目立つことなどから、西明寺三重塔より若干時期が新しい可能性が強い。それを裏付けるものとして、阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀像の体内に残された墨書に永禄7年(1564)銘があること等から、この阿弥陀堂の創建は永禄年間(1558-70)と推定しても良いであろう。
 高藤権現三重塔復原図 2013/05/08撮影:高藤権現三重塔復原図2:左図と同一であるが容量大。
 ※2013/05/08実見すると、初重上部の木材などは比較的新しい印象で、近世のもののような雰囲気である。
 しかしその様式は北関東の椎尾薬王院や板橋不動願成寺また岩舟地蔵高勝寺の近世の装飾塔とは明らかにその系統は違い、
 中世の富谷観音小山寺や益子西明寺及び近世の立野西福寺や吉見安楽寺塔婆に近い系統であることは確かであろう。
 むしろこの塔は中世というより、近世のものであるのかも知れない。
○「荒橿神社」(高藤権現)の由緒
高藤権現は現在は荒橿神社と称する。
栃木県神社庁のサイトや現地の「由緒書」では以下のように云う。
「平城天皇の御宇大同元年九月九日茂木桔梗城主の鬼門除社として城の丑寅の方字高藤山上に創祀された地方著名の古社である。延喜五年醍醐天皇の勅撰により延喜式に其の名を載せられ式内社として下野十二社の一つに数えられ茂木領主細川家の崇敬殊の外篤く享保六年茂木領主細川長門守工費を寄進本殿を造営された。明治4年には茂木藩社となり、昭和十一年より県社に昇格郷土の守護神として崇敬の的である。」
 ご覧のように意味不明であり、かつ国家神道丸出しの噴飯ものの由緒である。
茂木桔梗城の築城は元亨3年(1333)云われ、何れにせよ中世のことであり、その鬼門除として古代である大同元年に創建されしかも延喜式内社であるとはどういうことなのであろうか。
真相は高藤権現は茂木桔梗城の築城の頃(中世)に創建され、「高藤権禅」と称したということであろう。そしてその証として、少々時代は下るが、今に永禄年中の建立と推定される三重塔初重が残存するのである。
要するに延喜式内「荒樫神社」とは何の関係も無いのである。廃絶した延喜式内社を中世・近世の現存する著名な社に付会して式内社と強弁改竄するのは、近世後期や明治初頭の国学者や復古神道家の常套手段であるのは、今更説明を要しない。
 「明治4年に藩社、昭和11年には県社に昇格」とは「郷土の守護神として崇敬の的」となったのではなく、国家神道の序列に組入れられ、国策である天皇教宣布と大東亜戦争に加担したということなのである。
 ※延喜式内「荒樫神社」は所謂「論社」である。
国家神道では茂木荒橿神社に付会するが、真岡大前神社相殿に合祀と云う異論もある。また、真岡にも荒橿神社が存在する。(真岡のこの神社はよく分からない。)
 ※三重塔(阿弥陀堂)の存在から、本地堂(神宮寺/社僧/別当など)の存在が推測されるも、Web情報は皆無である。今後究明の必要がある。

2013/10/12追加:
以下に諸資料に記載された高藤権現の記述を列挙する。
諸資料を要約すれば、以下のように云える。
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 1)高藤権現の創建は大同元年と言い伝える。あるいは全く分からないとも言い伝える。古資料は悉く焼失とも云う。
 2)祭神は適当なもので、何が祭神なのか全く分からない。
 3)創建は中世に茂木氏の守護神として祀られ、近世には細川氏の庇護を受け、維持され、高藤権現と称される。
 4)縁起式内社「荒樫神社」とされたのは江戸末期のことで、この地方の、例えば茂木牛頭天王の神主のような、国学者・復古神道家の仕業であろう。明治維新後には、国家神道の序列に組み込まれ、嬉しそうに国家神道(天皇教)お先棒を担いだということであろう。
 5)三重塔には九十九伝説(鶏が鳴き、事が未完に終る説話)が伝えられ、万治元年(1658)に大風で2、3重を失うと云う。
 6)高藤に続く地に樫平があり、ここに「高明院」と云う恐らく高藤権現別當寺と思われる寺名が伝わるという。
また三重塔(阿茂田堂)には「行田山東城寺」寺号が伝わるようである。(ただし、何れも如何なる資料に基づくのかは不明である。)
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◆「下野国誌」嘉永3年(1850)(校訂増補「下野國誌」河野守弘/著、佐藤行哉/校訂、下野新聞社、平成元年(1989))
 鎮座祭神とも詳らかならず。いつのころよりか大前神社の相殿に祀りて、大名持、事代主なりと云う。
また同郡茂木郷小井戸村なる高藤権現といへるを、近来、荒樫の神社なりと称して、茂木郷の牛頭天王(今、八雲神社)の神主小松某兼帯し、祭神は国之常立、国狭槌、豊斟渟の三柱と云へど、さらに確証なし。
 ※明治維新後の復古神道や国家神道による付会がない分、明確な見解である。恐らくは牛頭天王の神主小松某が国学者・復古神道家であるかもしくは小松某の背後に同類がいて、高藤権現を荒樫の社と付会したのであろう。それ故、荒樫の社と称したのは近来なのである。
 さて阿良加志神社、阿良加志比古神社は能登国にもあり。そもそも神名帳に国之常立を祀れる社はあることなし。凡てこの神を祭り給ふことは、古書に見えたることなしと、本居宣長いわれたり。
 また同郡八木岡村にも、今荒樫明神と唱うる小祠あり。されど是は康永2年(1342)八木岡伊織、宇都宮をうつすと旧記にあれば論なし。
◆「下野神社沿革誌 6 芳賀郡部」風山廣雄、明治36年(1903)
 茂木町大字小井戸字高藤鎮座
延喜式内 荒橿神社
 祭神:國常立 阿夜河志古泥 建物:本社、拝殿、雨覆、幣殿、石華表・・・(※阿弥陀堂の記載なし)
 社有財産田6畝21歩 社司欠、社掌小幡昌訓、岩崎吉三郎
 ・・創建年月・・詳らかならず・・・建久年中八田定義子孫代々崇敬せしか・・・慶長年中細川興元代て領主となるも世々崇敬せり・・・
 享保6年本社再建・・・・
◆「栃木縣史 第3巻 神社編」田代善吉、下野史談会、 昭和9年(1934)<昭和47年の臨川書店・復刻版あり>
郷社荒橿神社
 祭神:國常立 豊雲野 阿良加志古根 本社は大同元年の創立であると伝える。往古は高藤権現し称し、又日本三所権現とも称したと云ふ。
 享保6年社殿改築、その後代々の領主または細川家にて修理するのが例となる。
◆「式内社調査報告 第十三巻 東山道2」式内社研究会、皇学館大学出版部、昭和56年(1981)
 荒樫神社 祭神:國常立、國狭槌、豊斟渟(「神社覈録」「下野國誌」も同説をとる、「下野神社沿革誌」・「明治神社誌料」「栃木縣史第3巻」は國常立、豊雲野、阿夜訶志根とある)
 沿革:古代については不明、建久年中(1190-99)八田知基が・・桔梗山に築城し茂木氏を興すと、その鬼門に当たることから厚い信仰を寄せられる・・・江戸期には細川氏に替り、明治維新を向える。その間、茂木城主の祈願所として、手厚い保護を受ける・・・ 
 「旧高旧領取調帳」では除地は小井戸村1石2升3合藤縄村(石高の記載なし)であった。
 社殿・施設:本殿・幣殿・拝殿・・・(※阿弥陀堂の記載なし)
 論社考証:「下野國誌」は「いつの頃よりか大前神社の相殿に祀りて、・・・」と云う。また小宅文藻の「文章雑記」も「芳賀郡下大田和村樫ノ本と云坪名存せり。田中に小社あり。土人大前神社の旧跡と云、この地荒樫神社の旧地なるべし。世乱れし時焼失抔して氏子等再建不届、与儀無く近き大前の神社へ相殿に祭り・・・」と云っている。
「下野國誌」は「高藤権現といへるを、近来荒樫の神社なりと称し」たものであろと云う。
これに対し、茂木町の荒樫神社説を採るものは「神社覈録」、「神名帳考證」などがある。
いかしながら、両説とも決め手となるような根拠はない。
なお、真岡市にも荒橿神社があるが、これは康永2年(1343)八木岡伊織が宇都宮二荒山神社を勧請したもので、式内社説は全く伝えない。
◆「文化財レポート(1) 栃木県の神社(1)―延喜式内社・国史現在社―」(「太平臺史窓 2」史窓会、昭和58年(1983)所収)
 ※祭神、由緒、論社研究、社殿寶物の項目があるが、全て「式内社調査報告 第十三巻 東山道2」の引き写しであるため、割愛する。
◆「日本歴史地名大系 栃木県の地名」平凡社、昭和63年(1988)
 由緒は「栃木縣史 第3巻 神社編」に依拠する。(※よって割愛する。)
もと三重塔があったが、万治元年(1658)平屋に改築し阿弥陀堂となった。
 ※三重塔の初見の資料である。ただしこの記事が何に拠るのかは不明。
 ※昭和63年に阿弥陀堂詳細調査、平成2年(1990)現地説明板の設置。
◆「茂木町史 第1巻自然民俗・文化編」茂木町史編さん委員会、平成7年(1995)
 祭神:國常立(くにとこたち)、國狭槌(くにのさつち)、豊斟渟(とよくむぬ)
桓武天皇の御宇大同元年(806)9月9比茂木桔梗城の鬼門除社として・・・高藤山に創祀された古社。延喜5年後醍醐天皇(ママ)の勅撰により下野国延喜式内社になる。
明治4年茂木藩社、昭和13年県社に昇格、社殿その他を修築造営・・・。
 ※例えば、「下野国誌」の自由闊達さと比れば、国家神道の衙捏造した由緒そのものを述べる。戦後50年を経過した時点でも、なおこのような「町史」が存在することに驚く。
◆「茂木町史 第5巻 通史編1」茂木町史編さん委員会、平成13年(2001)
 ・・社伝によれば、大同年中に小井戸の高藤に創建され、芳賀郡内では大前神社と並んで2社しかない延喜式内社の社格を持つ神社である。
磐城の飯野八幡文書では「建武4年/1337飯野盛光被官の難波本舜坊が「茂木郡高藤宮」に陣を張り、合戦に及ぶ」と云う。「茂木郡高藤宮」とはこの高藤権現のことと推定される。つまり、中世の文書には荒橿神社の名は見られず、「下野國誌」では延喜式内の荒樫神社とみるのは最近の話で、「その証なし」としている。
 ※この「茂木町史 第5巻」は「巻1」と同じく、国家神道の捏造を社歴とするが、本来の社歴の紹介があるだけより「まし」とすべきか。
社伝では、本社は茂木城の鬼門の方向にあり、鬼門除としての役割を期待されるとする。
高藤に隣接する地を樫平といい、樫平には古く「高明院」という寺があったとする伝承がある。高明院は高藤権現の別當と推定される。
 ※ここにはじめて、高明院と云う別當と目される寺院名が明らかになる。
◆「もてぎ桔梗城ものがたり 伝説と縁起」城山を考える会、平成11年(1999)
・「東城寺と九十九伝説」
茂木の城山とは地続きの館の山には・・・荒橿神社がある。・・・参道を行くと西側に行田山東城寺がある。すでに朽ち果てて、今は単層の塔であるが、その構造は・・・三重塔のようなものだったらしい。
この塔は弘法大師が一夜造りの願をかけて造ったのに、天邪鬼が邪魔して、夜明け前に鶏の声をまねて鳴いたので、後一釘打てば出来上がるのに、手を抜いてしまったので、万治元年の大風で吹き飛んだそうだ。」(高橋勝利氏収録の伝説、但し誰から収録したかは不明)
鶏が鳴いたためにことを成し遂げることができなかったという話は「お島田」や「青梅の十二所権現縁起」などに見ることができ、九十九伝説と分類される。
 ※高藤権現の三重塔などの堂塔は「行田山東城寺」の寺号をもつことが知れる。
 ※真偽のほどは不明であるが、塔は万治元年(1658)大風で上層が崩壊したと伝えられることが分かる。
・「荒橿神社の縁起」(由来記訳文、明治35年刻「栃木県神社神社史による)
祭神は國常立、豊雲、阿良加志古根の3神である。大同元年の創建。
口伝によると延喜式神名帳に載っている能登国能登郡阿良加志比古神社及び同国羽咋郡久麻加夫登にある阿良加志比古神社の祭神は当社と同一にして、日本三所神と称えられた。・・・・・
◆「延喜式内社 下野の十二古社めぐり 歴史の道を訪ねて」下野式内社顕彰会、下野新聞社、平成17年(2005)
【鎮座】:延喜式神名帳には「荒樫神社」と記されるが、現在では「荒橿神社」と標記している。
中世には高藤権現と称する。
【創祀】:古い記録は残存しない。社殿では大同元年(806)小井戸の高藤に創建されると云う。建久年中(1190-)が築城され、鬼門除の社として崇敬されると云う。
一説には荒樫神社は芳賀郡下大田和にあって、戦国期に東郷の大前神社に合祀と云う。大前神社の拝殿前銅燈籠には「大前大権現 荒樫大明神」と陰刻され、燈籠は天明3年(1783)に奉納されているので、この頃までには東郷の地に合祀されていたのは間違いない。
【祭神】:國常立、國狭槌、豊斟渟の三柱
【神殿など】:本殿(2間半×2間半、6坪)、幣殿(1間半×2間半、3.7坪)、拝殿(4間×2間半、10坪)ともに銅板葺であるが、古くは草葺の堂宇であった。他の手水舎、神饌所、社務所、神庫がある。木造両部鳥居1基、石造神明鳥居1基、拝殿前に石燈籠1対、狛犬1対がある。
【阿弥陀堂】:この堂に安置されていた阿弥陀如来像の胎内墨書に「永禄7年(1546)作」とある。
 ※上掲載の現地説明板以上のことの言及はない。
【由緒沿革】:※「下野國誌」(上述)の紹介(近年、荒樫ノ社と称し・・・)がある。「栃木県史」(上述)では「飯野八幡文書」の「高藤宮」の紹介がある。つまり、本社は中世には高藤権現と呼ばれ、「荒樫神社」となったのは江戸末期のことと結論付けられる。


高藤権現三重塔補足

2013/04/11追加:
ブログ:益子・茂木の旅行記(ブログ)>568 朽ち果てる三重塔「荒橿(あらかし)神社 三重塔」
修復を呼びかける記事がある。「
だれか直す方々は居ませんか?宮大工見習いの高校生・専門学校の方々修理してはいかがでしょう?」と。全く同感である。

○塔残欠であったが近年修復された塔
 近江金剛輪寺三重塔(中世・国重文)は3重目を失い、腐朽寸前であったが、昭和53年に失われていた3重目も復原して復元工事完了。修理総工費1億6780万円。国の重文ということもあったにせよ三重塔は古の姿と想定される姿に修復される。
○塔残欠であったが近年取壊された塔
 出雲千手院多宝塔残欠(明治の建立・未完・腐朽寸前)は2006年取壊され、今は現地は更地となる。(一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。)明治以降の建築とはいえ、残念な結果と なる。
 近江新善光寺三重塔(明治の建立・腐朽寸前)は無住となり、ついに昭和58年破毀される。現地は保育園となり塔阯を忍ぶものは何もない。
○塔残欠であるが保存の図られている古塔
 大和安楽寺三重塔初重(鎌倉以前)、旧富貴寺羅漢堂(法隆寺) (平安期か?)、
 大和不退寺多宝塔(鎌倉期)、旧長弓寺三重塔初層(鎌倉期か)、
 尾張祐福寺多宝塔(室町中期以前)、河内観心寺三重塔初重(文明年間)、
 尾張明眼院多宝塔(慶安2年(1649))、陸奥聖寿寺五重塔初重(文化年中)、
 丹後縁城寺多宝塔初重(天保年中)、大和円成寺多宝塔(建築年代不詳)


2013/05/09作成:2014/04/20更新:ホームページ日本の塔婆