宥 清 寺

本門仏立宗開祖:長松清風(日扇)

文化14年(1817)京都に生まれる。(生誕地には誕生寺がある。)
弘化2年(1845)本能寺長遠院院主日雄上人と邂逅、本門法華宗に入信。
さらに本能寺日肇上人、大亀谷檀林能化・淡路隆泉寺心光院日耀上人を師とする。
日雄上人を通じ、出家得度し、尼崎本輿寺勧学院の檀林に入檀の運びになるが、中年での入壇という理由で檀林の学生大衆が拒絶し、入檀は実現せず。
帰京し関東の細草檀林の入檀を図るも、これも断念し、双林寺西行庵に入る。
 ※日扇は寺檀制度に安住した寺院及び僧侶の形骸化に失望し、学僧として立とうとするが、既存の教団はこれを受け入れず、それならば、在家のまま折伏弘教の道を歩むことを選択する。

嘉永3年(1850)清風の布教方針や教義は既存宗門の反感を買い、双林寺西行庵を追放され、その後も数度の所払いを受ける。
本能寺日耀上人、妙蓮寺の47世貫首となる。
また、本門法華宗内では「三途成不論争」とも「皆久論争」(皆成派/三途成仏論・久遠派/三途不成論間の論争)とも呼ばれる教義上の論争が活発化する 時節でもあった。
この論争は、当時宗内で勢力を蓄えつつあった講(在家信者の修行集団)を巻き込み、いっそう激化する。
当時、在家運動の一大指導者として宗内で重きをなしていた松平頼該 は当時の宗門の無気力を嘆き、高松八品講を組織し、その講は岡山、徳島、淡路島などに勢力を伸ばしていた。
頼該は久遠派の熱心な支持者であったのである。
 ※松平頼該(よりかね):文化6年(1809)〜明治元年、当時の高松藩主の異母兄、高松藩8代藩主松平頼儀長男。
 ※松平頼該は本能寺日肇に師事する。

皆成派の「十界皆成論」とは、
「悪業の報いで地獄界・餓鬼界・畜生界(三悪道又は三途)に堕して苦しんでいる者であっても、子孫や縁者の題目回向で、題目の功徳が三途に通じ、たちまち堕獄の境遇から逃れて成仏する」というものであった。
久遠派の「十界久遠論」とは、
「三途の畜類(犬猫畜生)はそのまま成仏するのではなく、縁者の手向ける題目の法力によって人界に回生し、題目口唱の信心の功徳で成仏するのである。無信無行の畜生が、そのまま成仏するなら、何を滅罪生善の修行などするものがあろうか」というものであった。

嘉永3年守進(日政)なる者が、頼該に論破されるということがあり、その結果、守進は堺顕本寺日然上人<寛政4年(1792)〜文久2年(1862)、皆成派の浪花八品講頭目>や尼崎檀林日紹上人<文化2年(1805)〜明治元年>に応援を求め る。
結果、頼該と日然上人の論争となり、本能寺日肇上人・妙蓮寺日耀上人は、頼該に加担する。
かくして本門法華宗は、日然・日紹対日肇・日耀の論争となり2分する。
 ※※この抗争の結果は以下のように進展する。
 安政2年(1855)本能寺貫主に晋山した日紹は、久遠派前貫主日肇を除歴、その弟子日具を淡路洲本の本妙寺から追放する。
   ※本能寺日肇は松平頼該の師である。
 当時京都東山本住寺住職/妙蓮寺前貫主日耀は諌止を行うが、両者は決別する
 翌年、日紹は日耀を本住寺から追放、さらに清風の入信の契機であった日雄も本能寺を追う。
安政3年(1856)清風は、在家の頼該が十界久遠の論に立って論争するのを見て、頼該に加担する。
頼該は清風を高松に招聘し、清風は高松で折伏教化をなす。
この折、清風と頼該(高松講中)は高松と京都で新しく講を開くことで合意する。
安政4年(1857)清風は華洛本門佛立講を開講する。
文久元年(1861)高松八品講は清風の布教法などについて批判を強め、清風と頼該は義絶する。
文久2年大津に法華堂(長松山仏立寺)を建立。

慶応元(1865)大津の諸宗64ヶ寺より「切支丹の邪法を行い、在家の身で法を説く」として提訴、吟味される。
慶応4年大津法難。(再度大津の諸宗に告訴され、数名の弟子や幹部とともに投獄)しかし京都府知事により数日で赦免。
明治2年清風は京都府により拠点としていた本能寺竜雲院より退去を命ぜられる。その折、妙蓮寺日成上人に願い出て、宥清寺を借り受け、宥清寺に入寺する。かくして、宥清寺は本門法華宗内の佛立講最初の寺院となる。
明治16年清風は本山妙蓮寺批判などを強め、対立緩和の為、主要幹部50余名が、清風に対して宥清寺からの退去を要求、清風は宥清寺を出て、綾小路の私宅(現・長松寺)に退く。
明治23年枚方にて遷化。74歳。
清風の没後、講と本山妙蓮寺は融和の路線を歩み、故人である清風も異例の死後厚遇をうけるが、このことは逆に本門法華宗の中で仏立講が勢力を得ることなり、戦後の本門仏立宗の独立の伏線と なったとも考えられる。

2018/01/16追加:
高松八品講については
○「幕末日蓮系新興教団の動向」-高松八品講の成立と展開-、冠賢一、1970 がある。
「幕末日蓮系新興教団の動向」では複数の論点があるが、一つの論点として以下のように述べる。
 高松八品講は嘉永元年(1848)松平頼該が高松に開講した京都本能寺・尼崎本興寺を本山と仰ぐその在家講である。
天保9年(1838)松平頼該、高松寺町本覺寺日について法華経信仰に入る。頼該30歳の時であり、この後、頼該は高松八品講を組織し、全国に波及をしてゆく。
高松八品講の教勢は、目覚ましいものがあり、嘉永元年から慶応4年までの21年間に講員4459名、諸国に組織された講数は93を数えるという。要は全国規模の教団に成長したのである。そして勢いが増すにつれ、高松八品講の本質は既成教団の改革運動であったため、数々の既成教団から弾圧を受けることとなる、就中、本山たる本能寺・本興寺からは非情な弾圧を受けることとなる。即ち高松八品講はその本質から、思想・行動が反寺院反僧侶反本山となり、本山の否定・教団の否定に走らざるを得なかったからである。しかし、頼該は弾圧を、日蓮や日隆の如く、正法の弘教に対する受難と受け止め、決して妥協することはなかったのである。
明治元年、頼該は逝去し、日扇の本門佛立講とは違って、急速にその勢力は衰退し、現在では教団としては存在しない。

宥清寺略歴

本門仏立宗大本山。本尊:十界大曼荼羅。
延慶元年(1308)中老僧日弁上人が上洛、公卿青柳定家の末孫の元禅僧(本門寺二世日寿)を折伏、定家旧宅を寺とし青柳山本門寺としたことに始まるという。
その後、青柳山本門寺は、応仁の乱で丹波亀山に移転するも、慶長4年(1599)帰洛する。
元禄7年(1694)叡山横川の末寺宥清寺(元の宥清寺は取り壊され、現在は聖地・日扇墓地として整地される)を入手して、鷲山寺末「青柳山宥清寺」と称する。のち鷲山寺は八品派に変わり、妙蓮寺と末寺を交換して妙蓮寺末となる。
万延元年(1860)日耀上人が宥清寺に隠居、文久三年日耀遷化し、その後、廃寺同様となる。
明治2年日扇上人が入山して、仏立講根本道場とする。
昭和8年(1933)現在地に根本道場を移転し堂宇を新築。
昭和21年本門仏立宗を創て、大本山となる。

○日蓮上人坐像
宥清寺本堂安置日蓮上人坐像(平成元年重文指定)は、中老日法上人が刻み、日弁上人が上総鷲山寺から青柳山本門寺に遷座したものと云う。 鎌倉後期のもので、日蓮宗寺院に現存する最古の日蓮上人像という。像高47.6cm。

現伽藍:画像は2001年5月25日撮影。
西陣北野の南方にあり。
木造本  堂(昭和8年落慶、大堂である。本堂正面)・講堂(RC造)・庫裡等がある。
2014/05/28撮影:
 宥清寺山門
 宥清寺本堂3     宥清寺本堂4     宥清寺納骨堂     宥清寺講堂     宥清寺庫裡
 宥清寺聖地1     宥清寺聖地2:日扇墓所である。     仏立教育専門学校

●由緒寺院:
誕生寺(京都/生誕地)、長松寺(京都四条)、佛立寺(大津・最初道場)、義天寺(守口/入滅地)がある。

●本門佛立宗寺院(判明分のみ掲載)
○加賀寺町昌柳寺 →金澤寺町の諸寺
○丹後西舞鶴鶴集寺
○丹波綾部清現寺
○丹波福知山無貪寺
○摂津本法寺(多宝塔あり) → 明治以降の多宝塔732
○讃岐高松妙泉寺 →「塔婆に関する参考」>「塔婆参考」中


2006年以前作成:2018/01/16更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系