山  城  神  雄  寺  跡

山城神雄寺跡

山城神雄寺推定塔跡

今般<平成22年度(2010)第5次発掘調査>発掘された遺構について、木津川市教委では塔(三重塔)跡と推定されるとの見解を示す。

◆2011年2月現地説明会

2011/02/19現地説明会にて撮影:「X」氏ご提供
 山城神雄寺塔跡1:左図拡大図
東から撮影、中央礎石が心礎、向かって右の2個の礎石が北側礎石、
向かって左側に礎石抜取穴が2個ある。
 山城神雄寺塔跡2:塔跡1と同一写真

 神雄寺跡出土瓦製九輪破片

 神雄寺塔跡出土焼壁土

◆馬場南遺跡(神雄寺跡)第5次発掘調査現地説明会資料(2011/02/19現地説明会) より
 神雄寺跡堂塔配置図     神雄寺跡イメージ図
塔跡は本堂跡(「SB3001」)西に約40m離れた小高い丘の中腹から出土する。
即ち、今般の発掘により「神雄寺」は西の丘に塔婆、東に四天王を廻らせる仏堂とその礼堂とを配置し、推定塔婆と仏堂を結ぶ線の前面には儀礼の空間であろうと思われる広場と池が造られた寺院であったと思われるに至る。
 神雄寺塔跡実測図
塔一辺は6尺(1.8m)、中央の心礎及び北側2個の礎石が残り、南側には2個の礎石抜き取り痕がある。
また瓦の出土は少ないことから瓦葺の建物ではない。
 出土瓦製九輪破片図
 神雄寺跡出土巻斗図
◆「天平びとの華と祈り」京都府埋文調査研究センター、柳原出版、2010 より
瓦製九輪破片と巻斗の掲載がある。
 用途不明土製品:(瓦製九輪断片):陶質でドーナツ状に復原されるものとの解説がある。
 建築部材:右に巻斗の掲載がある。:通常の大きさの2/3程度の大きさ・・・・との解説がある。
◆2009/01/17現地説明会遺物展示写真 より
 建築部材巻斗

◆今般の出土遺構を塔跡とする第1の根拠は、方形に配置された4個の礎石の中央にさらに1個の礎石があるという遺構であり、この中央の礎石は塔の心礎と考える外はないと云うものであろう。
第2の根拠は塔跡下の「SX2020」から、瓦製九輪破片が出土し、この出土地の上方には相輪を備えた建物があったと想定されるということであろう。
その他に塔であるとする補強材料として、同じく「SX2020」で斗栱の部材である「巻斗」や塔跡から多量の焼壁土の出土がある。
巻斗は通常の大きさの2/3程度の大きさで、小規模・小型の建物があったことを示唆するものであろう。
焼壁土は建物内部に集中すると云う出土状況から「心柱の周囲に(例えば大和法隆寺五重塔のような)塔本塑像のような造形物」があった可能性が考えられる ということであろう。

しかし、一辺が約1.8mの極めて小規模であり、また塔の遺構として礎石5個のみと云う例は第2次近江国分寺(近江瀬田廃寺・桑畑廃寺)及び陸奥小金塔の他は例がない。
この点では塔と断言するには若干躊躇せざるをえないであろう。
 ※近江瀬田廃寺の塔一辺は6.3mを測り、通常の塔の一辺の数値を示す。
礎石は心礎と4隅の柱礎石4個しか発掘されず、塔の構造は通常の塔の構造ではなく、四隅の側柱礎上に方形に梁を渡し、その上に側柱12本を建てた構造であったと推測される。
 ※陸奥恵隆寺小金塔は近年(平成12年落慶)の塔であるが、礎石は四隅の4石のみと云う。しかもその4個の礎石は昭和57年に出土と云う。法量は不明であるが小型塔 であることは確かである。なお、昭和57年の恵隆寺小金塔の礎石出土は学術調査が行われたとは思われず、この意味では本塔を類例とするには躊躇せざるをえない側面がある。
 ※類例ではないが大和龍門寺塔跡は心礎・側柱礎12個・基壇を完全に残すが、この遺構は四天柱礎を欠く遺構である。
心礎は79×73cmで、中央に径24×9cmの円孔を穿つ。心礎の他、枘孔を持つ四隅の脇柱礎を含む脇柱礎が完存する。小規模塔のため、四天柱礎は当初から無く、また中間の脇柱礎は極端に四隅に偏っている。塔一辺は3.3mである。
 ※なお、相輪が瓦製である例は管見にして皆無である。
ただし、石製の相輪の例は大和山村廃寺出雲来美廃寺、紀伊三栖廃寺に知られるので、瓦製の相輪の例があっても不思議ではなく、むしろ今まで知られなかったのが不思議な現象であるのも知れない。
また石製露盤(→石製露盤一覧表)もかなり残るので、その内の幾つかは相輪全体が石製であったと推測することも可能であろう。あるいはその内の幾つかは瓦製の九輪を具備したのではないかと思うのもあながち見当はずれではないかも知れない。

◆2011/02/22撮影画像:
 山城神雄寺跡遠望:南方から撮影、写真中央の丘(天神山)中腹に塔跡がある。
出土した遺構は心礎及び北東・北西脇柱礎石2個と南東・南西脇柱礎石抜取穴2個さらには塔土壇である。
 神雄寺塔遺構1:北から撮影
 神雄寺塔遺構2:西から撮影
 神雄寺塔遺構3:東から撮影

塔心礎の大きさはおよそ83×64cm、
北東礎石は67×53cm、北西礎石は83×44cmを測る。

神雄寺塔心礎1
神雄寺塔心礎2:左図拡大図
神雄寺塔心礎3
神雄寺塔北西礎石1
神雄寺塔北西礎石2
神雄寺塔北東礎石1
神雄寺塔北東礎石2
 

なお、3個の礎石には柱座(現説では出枘と説明)の形跡が認められると云う。
自然石との思い込みで見ると柱座の形跡は良く分からないが、思い込みを捨てれば、微かにその形跡は認められるようである。
上掲神雄寺塔心礎1写真では写真の上の方に偏在して、径約2尺ほどの柱座があるように見える。
上掲神雄寺塔北西礎石2写真では礎石の中央・横いっぱいに径約1尺5寸ほどの柱座があるように見える。
上掲神雄寺塔北東礎石1写真でも礎石の中央・ほぼ全面に径約1尺5寸ほどの柱座があるように見える。
塔は焼け落ちたものと推定され、礎石は火による損傷を受け柱座はかなり不明確になったのであろうか。
 しかし現状では柱座(出枘)があると言い切って良いのどうかは分からない。

 塔南側礎石抜取穴1:東から撮影、中央上下に2個写る。     塔南側礎石抜取穴2:西から撮影、中央上下に2個写る。
 塔南東礎石抜取穴     塔南西礎石抜取穴
 神雄寺塔南側基壇:はっきりした基壇ではないが、粘土質の土砂で土壇を築くものと思われる。

◆2014/04/13撮影塔跡現況
塔跡発掘調査から3年が経過、塔跡は埋め戻され、地上では塔跡の痕跡が消えつつある。
(この塔跡は今後どのように保存するのであろうか)
塔跡の現状写真は次のとおりである。
 神雄寺遠望:写真中央、鉄塔に向かって右が塔跡、本堂跡はそのさらに右、手前池は文廻池 。
 神雄寺塔跡3     神雄寺塔跡4     神雄寺塔跡5

第1〜4次発掘(平成20〜21年)の成果

今までの発掘調査で判明したことは以下の通りである。
即ち平成20年(2008)に「神雄寺」と墨書のある土器類と礼堂と思われる遺構が発掘される。
ここに文献に見えない「神雄寺」と号する寺院があったことが想定されこととなる。
平成21年には四天王を配した仏堂の遺構が発掘され、寺院の具体像が明らかにされた。
第1〜4次発掘までの成果は上掲の「神雄寺跡堂塔配置図」(第5次発掘調査現地説明会資料)中の塔跡を除く部分である。
配置図中の「SB301]が本堂跡、「SB01」が礼堂跡と想定される。

平成20〜21年の発掘調査結果:調査期間平成20年4月19日〜平成21年1月末日(予定)
出土遺構:奈良中期・後期の掘立柱建物跡3棟のほか、柵・井戸跡・川跡・溝などが発掘される。掘立柱建物跡「SB01」は、調査地北部の高台(平坦面1)にある。東西3間(8.1m)、南北2間(4.2m)で南と東に庇を設ける。
この建物の南西には大きな広場がある。
掘立柱建物跡「SBO2」は調査地東部のやや高い面(平坦面2)にある。東西2間(4.2m)、南北3間(7.2m)で、奈良後期には、これに変わって東西5間(13.5m)、南北1間(3.9m)の掘立柱建物跡SB03が建てられる。柵SA01も同じ平坦面2にあり、長さ11.2mを確認する。
出土遺物:土師器・須恵器が大量に出土。なかでも、平坦面1から川の北斜面に捨てられた約8,000点の土師器皿が出土。多くの土師器皿には油煤が付着しており、灯明皿として使用されたことが分かる。
墨書土器は80点以上出土。「黄葉」「神」「寺」「神雄寺」「神尾」「山寺」「大殿」「造瓦」「ロ利諸ロ」などの文字が判読できる。
出土瓦の大半が平城宮式の瓦で、奈良時代中期から後期のものである。
 奈良中期の建物と溝
 奈良後期の建物と溝:何れも「SB01」(礼堂)北側の一段高い段に本堂、本堂西の丘の中腹に塔跡が発掘される。
 墨書出土土器類     土器類出土状況
 SB01(礼堂)遺構1     SB01(礼堂)遺構2

調査期間平成20年9月22日〜平成21年1月23日(予定)
上記の掘立柱建物跡(SB01)の北側丘陵裾で、礎石立建物跡(仏堂)を検出。
かつてここは天神山11号墳とされていた箇所で、尾根裾を削って造成した狭い平坦面に、直径7m程度の墳丘状の隆起があった。結果的には、この隆起が仏堂内の須弥壇の高まりと判明する。
 検出した仏堂跡は、5個の礎石を残し、側柱と心柱のみで建つ特異な構造の東西棟入母屋造り建物と考えられ、正面と背後にはさらに裳階が付き、軒を長く伸ばす。
柱間は、桁行が16.5尺(約4.9m)で背面5間(3.0尺・3.5尺・3.5尺・3.5尺・3.0尺),正面4間(3.0尺・5.25尺・5.25尺・ 3.0尺)で、梁間15.0尺(約4.5m)4間(3.0尺・4.5尺・4.5尺・3.0尺)と復原できる。正面と背面で柱間が異なるのは、背面の中央8間分( 10.5尺)を二等分して、正面に2箇所の扉を設けた結果と考えられる。
仏堂内部の須弥壇は、平面13.5尺(約4.0m)×12.0尺(約3.6m)の規模であり、高さは約30cm程と想定される。
なお、心礎の抜き取り穴と考えられる中央付近は盛り上がり、当初から心柱の周りが築山状の高まりであったことが分かる。
出土遺物としては、須弥壇周辺から多量の塑像片や仏片,焼壁土,金属製品が出土。塑像片はその特徴から等身大の四天王像と考えらる。
出土位置の偏りから須弥壇上での位置関係(持国天・増長天・広目天・多聞天)を特定することができる。
仏片は、その形態を特定できるものが1点しかないが、伊賀夏見廃寺出土の方形三尊仏と同じ原型によるものであることがわかる。
焼壁土は、建物四面のうち東・西・南の中央2間に扉が付き、それ以外は壁と考えられるため、大量に出土する。
瓦は平城宮式軒丸瓦を含む屋瓦類が少量出土する。
 以上調査成果のまとめとしては以下が挙げられる。
「神雄寺」本堂は、中国風の特異な構造であり、堂内を等身大の四天王像や壁面の仏により荘厳するなど、組合せ式の三彩須弥山を祀るに相応しい構造の仏堂であったと推定される。
 神雄寺本堂跡実測図     神雄寺本堂跡全図     神雄寺本堂跡1     神雄寺本堂跡2
 神雄寺本堂跡3      神雄寺本堂跡4     神雄寺本堂跡5     神雄寺本堂跡6     神雄寺本堂跡7
 須弥山等造形物1     須弥山等造形物2     須弥山等造形物3     須弥山等造形物4     須弥山陶器配置復原案
 本堂広目天像塑像片     本堂持国天像塑像片     本堂増長天像塑像片     本堂多聞天像塑像片

なお、この遺構のある地は岡田国神社の持山と云う。
 (それ故、現下では、遺構が開発によって、消滅するということは無いだろうと推測される。)
ちなみに、岡田国神社とは復古神道による明治維新後の付会で、近世末まで天神社と称する。
 (明治11年天神社が延喜式内社「岡田国神社」と改名する。式内岡田国神社は論社でもある。)
改名により、なぜ当廃寺の背後の丘を「天神山」と云うのか分からなくなっている。


2011/03/08作成:2014/05/16更新:ホームページ日本の塔婆