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THE SEVENTH EMIGRANT

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【2010.12.07】基地(依存)経済からの脱却/普久原均「『基地撤去亡“県”論』という神話」/前泊博盛「『基地依存』の実態と脱却の可能性」を読む

 まだ「敗北」の総括をなしえるわけではないが、自立−自立経済を論ずるためには、「基地(依存)経済からの脱却」ということが大前提として語られなければならない。しかし、稲嶺県政から仲井真県政と続く「保守(買弁)政権」によって明らかにされたことは、日本政府のいわゆる「アメとムチ」政策に焦点を当てなければならないということであった。つまり、基地経済が狭い意味のそれではなく、環太平洋・東アジアにおける日米両帝国主義による「沖縄の軍事属領的支配」(かつて「侵略反革命前線基地」という表現を使ってきたが)としての基地への依存を強制させられてきたこと(当然にも反自立=併合・買弁勢力の育成と手を携えてであるが)、とりわけ日本政府の「振興策」に象徴される政府資金の投入(あたかも、かつての「高等弁務官資金撒布」のごとき「植民地経営」の常套手段)によって、「基地機能維持・再編強化」のために沖縄の民衆は差別と分断を強いられ、蹂躙させられ続けてきたことと一対になっている「依存経済」そのものの脱却が真剣に問われ始めた。これは、「自立経済」という、なにかしら予定調和的な、あるいは「あるべき理想」としての経済ではなく、文字通り、帝国主義との闘いの中でつかみ取られようとしている。

 よく言われることであるがも狭義の基地経済とは、基本的に「基地関係受取」(基地関連収入・軍関係受取−注)をさす。沖縄タイムス2010年8月21日付けの「沖縄経済 構造変化と課題」で金城毅(南西地域産業活性化センター)が報告しているように、1972年(併合時)の県民総所得4851億円のうち、基地関係受取が830億円(17.1%)で、公共投資は376億円(7.8%)、観光収入が365億円(7.5%)であった。2007年度には県民総所得が3兆9370億円となり、最多は観光収入4289億円(10.9%)、公共投資3077億円(7.8%)に対して、基地関係受取は2088億円(5.3%)になった。17.1%と比較すれば、激減したと言えるであろうが、2000億円・5%は、決して小さな数字ではない。そして、前述した通り、基地故の交付金(基地所在市町村には、年間約280億円の防衛施設生活環境資金=民生安定施設補助、特定防衛施設交付金、国有提供施設交付金、基地施設所在市町村調整交付金等が交付される)に加えて、SACO合意・辺野古新基地建設案以降、基地受け入れの対価として基地所在市町村活性化事業=いわゆる島田懇談会事業1000億円、北部振興事業1000億円がまさに「アメ」(これはアメではなく「毒まんじゅう」だった)として投入された。こうして卑劣とも言える日本政府(当時は自公政権だったが、現在の民主党政権でも事態は全く変わっていない!)は、徹頭徹尾、「自立」を妨げてきたのである。

 「自立経済」構想は、基地依存関係としての「軍用地料」に象徴される「基地関係受取」と、「振興策」を含む政府交付金・補助金などの基地依存財政からの脱却はもとより、基地撤去=跡地利用も射程とした「経済・産業政策」をトータルに見据えるものとして、今後、立案されなければならない。

 今年(2010年)10月、県議会事務局が「米軍基地に関する各種経済波及効果」を試算。地元二紙は「全基地返還で年9155億 経済効果2.2倍に」(琉球新報2010年9月11日)、「県内米軍基地全返還の経済効果9155億円 県議会事務局が初試算 雇用は9万人余に」(沖縄タイムス2010年9月11日)と報道。沖縄県議会事務局が試算した「米軍基地に関する各種経済波及効果」
http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=194&id=22642&page=1

【2010.10.19】で紹介した『沖縄「自立」への道を求めて』(高文研090725)の中の前泊博盛「『基地依存』の実態と脱却の可能性」をアップ。あわせて、普久原均「『基地撤去亡“県”論』という神話」(『世界』2008年10月号)も。

普久原均“「基地撤去亡『県』論」という神話”(『世界』臨時増刊200801)
前泊博盛“「基地依存」の実態と脱却の可能性”(『沖縄「自立」への道を求めて』高文研090725)

 前泊は、「日米安保を将来にわたって安定的に維持・運営していくためには米軍基地の拠点としての沖縄の経済発展をいかに抑制し、米軍基地なしでは地域経済が成り立たないような体制をいかに保持するかが日米両政府にとって重要な課題となる」と書いた上で、「実際、基地所在市町村や沖縄県を中心に、財政に占める基地依存度は高まりつつある。背景には、新たな米軍基地建設の受け入れを前提とする『米軍再編交付金』、あるいは10年間で総額2000億円の基地所在市町村に対する『島田懇談会事業』『北部振興策』などが投入され、反基地運動の抑制や反基地勢力の台頭を抑える効果を発揮している。」と述べる。
 しかし、「産業振興に必要な土地の大半を奪われている基地所在市町村は、基地のない市町村に比べ失業率が高いなどの特徴があ」り、「明暗分ける脱基地と基地依存」の項で、「(成功した)北谷と(失敗した)名護」をレポート。そして<「悪貨(米軍基地)」に駆逐される「良貨(民間経済)」>と指摘し、「脱基地経済は、かつて懸念された『イモ・裸足の時代』への逆行ではなく、返還効果による地域振興と民間活力の発揮を促すチャンスとして大きく可能性を内包している。」と、結論づける。
 ここでも既得権益が買弁勢力だけでなく、オコボレにあずかる層の存在も含め困難は予想に難くない。ただ、名護市に於いては1月市長選、9月市議選と、反基地派が圧勝。執筆段階(2009年07月)で、現在の反転攻勢を脱基地経済の側から予言したものといえるし、伊波勝利を見据えたかのような次の一文も眼を引く。
「脱基地と脱基地経済の構築に必要なのは、脱基地に向けた県民の本気度と活用の知恵、脱基地に踏み出す勇気、そして脱基地への挑戦を推進できるリーダーの存在であろう。」

 普久原は、脱基地で成功した北谷町の「ゼロ・サム・ゲーム」という批判に応えて、「北谷の跡地は、新規需要を掘り起こした『プラス・サム』だったといえる。」と書く。但し、北谷の例だけで、手放しで喜ぶわけにはいかない。「跡地利用が本格化し、地主が収益を得られるまで10数年かかる例がほとんど」で、現在の軍用地返還特措法(沖縄県における駐留軍用地の返還に伴う特別措置に間する法律)は返還後、原状回復に要した期間プラス三年間の賃借料相当額の補償しか規定しておらず、「補償期間が三年では焼け石に水」だと書く。そして、基地従業員の雇用確保や有害廃棄物の問題等に加えて、「もう一つの課題は、跡地利用に必要な財政負担が大きいことだ。県の調査によると、那覇新都心では小禄金城地区も県で10年〜15年を要した。」
 しかし、彼も「返還から跡地の利用が本格化するまでは間があり、確かに返還直後は損失が発生するだろう。……長い目でみると基地返還は損失どころか大きな効果が期待できる。人権の面だけでなく、経済の面からみても基地撤去は必要な政策と言える。」と結論づけている。

(注)基地収入は、「軍用地料」「米軍雇用者=基地従業員所得」「米軍等への財・サービスの提供」「その他=米軍の直接発注分」などで構成されている。(前泊前掲)




【2010.11.29】 「伊波洋一は勝った!しかし、選挙には負けた!」
 仲井真弘多335,708/伊波洋一297,082(投票率60.88%。前回64.54%、過去2番目)。
 選挙である以上、一票差であろうと負けは負け。仲井真(買弁型)知事が「権力」を掌握したことは事実である。しかし、沖縄の闘う民衆は「チルダイ」しない!
 「争点隠し・仲井真隠し」と「寝たふり選挙・しらけ選挙」、やはり主役は「民主党」だったか。「菅内閣打倒!」




【2010.11.10】和仁屋浩次「道州制実現下における沖縄単独州の財政構造に関する実証分析」、伊藤敏安「地方財政から見た道州制の課題に関する検討」を読む

 二つの文献を紹介したい。一つは、総合研究開発機構NIRAモノグラフシリーズ28(200903)に、元沖縄県職員で現総合研究開発機構リサーチフェローの和仁屋浩次が「道州制実現下における沖縄単独州の財政構造に関する実証分析−沖縄単独州の財政課題とその対応策−」と題して「沖縄県が単独州を選択した場合の歳入歳出構造のシミュレーションを行い、道州制実現下における沖縄州と州内基礎自治体の財政構造を明らかにした。」もので、もう一つは、伊藤敏安(広島大教員)の「地方財政から見た道州制の課題に関する検討」(『地域経済研究21』201003)である。

 「独立」とは、当たり前のことだが、日本の財政からの切断であり、一切を自前で行うことが要請される。しかし、すでに明らかなように、沖縄経済は、日米両帝国主義による「軍事属領的支配」の中に叩き込まれ、「まともな」経済発展が出来ようもなかった。米軍政下はもとより、1972年日本への施政権返還(=再併合)以降も、ただ「軍事(基地)機能維持」を最優先にして唯一の目的として行財政が運営され、「依存経済」が骨がらみとさせられた。これは「格差是正」や「差別克服」という問題ではない。米軍政が、そして日本政府が沖縄をして「依存」せざるを得ないようにしてきた故である。買弁勢力を主要な支持母体とする稲嶺元知事ですら「魚はいらない、釣り針がほしい」と慨嘆せざるを得なかった状況である。【沖縄(自立)経済については、別項参照】
 それゆえ、1972年以降、10年単位の沖縄振興開発計画(1992年にはさすがに「開発」の二文字は削除されたが)で、「償いの心」から始まり、「格差是正」を声高に叫びながら、「高率補助」に象徴される総額9兆円もの財政援助がなされ、それに加えて1996年のSACO合意以降は、「アメとムチ」と言われる「振興策」予算(北部振興策が10年1000億円、島田懇談会事業が同じく10年1000億円)が洪水のように流し込まれた。もちろんそれらは「ブーメラン経済」と言われているように、沖縄に支出された多額の公共事業投資は「本土」大手ゼネコンがその大半を収奪し、沖縄現地では下請・孫請がその「おこぼれ」に与るという構造でしかない。そして「恩恵」とされている「高率補助」が、沖縄の「財政規律」の溶解をもたらし、国(−日本政府)依存を強め、自立へ向かう沖縄経済を蝕んできた。「基地(依存)経済」から、「公共事業(依存)経済」へスライドしたといわれる所以である。ここでは「償いの心」や「格差是正」は建前でしかなく、「軍事属領」としての沖縄の安定支配のための「買収資金」でしかないのである。
 それ故、沖縄における自立経済の確立は、単に「依存経済の打破」と言うだけでは事の半分しか意味せず、リーディング産業たる観光業を含む第三次産業を除いて、土建業しか主たる産業が育たなかったことをも打ち破ることが問われている。

 いささか古い資料だが『中央大学経済研究所年報第36号』(2005)で、鳥居伸好が「沖縄の産業構造上の特質」という項で、1998年度の県内総生産に占める第2次産業の割合18.1%(全国最下位・全国平均33.0%)、そのうち製造業の割合は5.9%(全国最下位・全国平均23.6%)にすぎないが、建設業の割合は11.8%(全国11位・全国平均9.3%)にも上っていることをあげている。さらに、その製造業の内訳として、基礎素材産業が皆無なのはともかく、生活関連産業が事業所数で57.6%(全国34.3%)、従業員数で62.3%(全国26.8%)を占めていると報告している。
 同報告書の中で、岡田清が「若年層の失業問題」の項で指摘していることは、示唆に富む。つまり彼は「資本主義は失業問題を解決できない」[相対的過剰人口問題?]とでも言いたげな文章に続けて、「産業基盤の整備と沖縄経済の自立化とは関係なく、(インフラ整備の公共事業は)事実上の雇用対策になっている。」「『自立経済』の確立と失業問題の解消とは、無関係である。」と述べた上で、「そもそも、地方が『依存経済』となるのは、市場経済の帰結である貧困かつますます縮小する『自立経済』を肯定できないからであって、『自立経済』を確立できないからではないのではないか。」と言うのである。結果解釈にすぎないとは言え、日本という中の一地方である限り「貧困問題の解決」は中央(日本政府)依存するしかない。とすれば、逆に自立経済確立のためには、中央からの「分離・独立」しかないではないか。幸い、沖縄は他県と異なり、出生率・若年率は高い。ちなみに就業者数の増加(1997年56.6万人から2001年57.7万人・1.9%増)より、労働力人口の増加(1997年60.2万人→2001年63万人・4.7%増)が上回っており、岡田は「(これでは)失業問題の解消への道のりは遠いと言わねばならない。」と書くが、産業振興の主体的条件は人的には整っているとすら言えよう。(もちろん、ここでおまえはブルジョアジーに期待するのか!という批判が飛んで来そうであるが。)

 さて、和仁屋&伊藤論文に戻ろう。
 和仁屋論文(注1)では、現在のすべての行政事務(財政)について、<国><沖縄州><(基礎)自治体>に再整理し、権限と財政を国から沖縄州に、州から自治体へ委譲するシミュレーションを試みている。「外交・防衛・安全」はともかく、「国土・土地利用」はそのすべてを州および自治体に委譲し、「交通・社会資本」も「航空保安、海上保安」以外はこれまた、州および自治体に委譲。「経済・労働」分野でも、「通貨管理、金融政策、度量衡、食料・資源・エネルギー政策」などを除いて委譲するなど、それなりの工夫を凝らしている。しかし、当然、これらは財源問題とリンクしているので、「環境・福祉・保健」分野での「社会保障、公的年金、生活保護」などや「教育・科学・文化」の「義務教育」は国の役割としている。(これらは、別の機会に検討したいが、いわゆる「ナショナル・ミニマム」=財政問題と絡んでいる。)
 「国の2008年度一般会計予算の83兆613億円から、国庫補助金や地方交付税などの地方への財政移転分と公債費の総額を一般会計予算から除いた結果、27兆4,311億円となった。(国の直接実施分には独立行政法人や民間企業等への補助金等も含まれる。)」
 国から地方への事務・権限移譲(目的別分類)について、@国直接実施分27兆4,311億円、A国家機関費15%、B防衛関係費17%、B社会保障関係費38%、C国土保全及び開発費4%、D産業経済費10%、E教育文化費11%となり、地方への事務・権限移譲分は6兆759億円となる。「その結果、道州制実現下における歳出総額は、国が41 兆5,182 億円、地方が130 兆5,861 億円となり、国と地方の歳出比率は27:73 となる。」
 その中で、和仁屋は、<沖縄州>に対して事務・権限移譲額1,002億円(国家機関費95億円、国土保全及び開発費222億円、産業経済費180億円、教育文化費323億円、社会保障関係費144億円、その他37億円)、<州内自治体>へは83億円(国家機関費6億円、国土保全及び開発費57億円、産業経済費0.9億円、教育文化費9億円、社会保障関係費9億円、その他0.005億円)と積算する。そして、補完性の原理のもと基礎自治体が優先され、<沖縄州>から<州内自治体>へ、事務・権限がさらに移譲される。沖縄州から州内基礎自治体への事務・権限移譲は次の通り。移譲総額1,886億円。内訳は総務費5億円、民生費684億円、衛生費51億円、農林水産業費3億円、商工費0.05億円、土木費339億円、教育費800億円、母子寡婦福祉費(特別会計)2億円。
 こうして、最終的には<沖縄州>の歳出総額:5244億円(国からの移譲額1,002億円/基礎自治体への移譲額1,886億円/2008年度当初予算6,127億円)、<州内自治体>歳出総額:7,222億円(国からの移譲額83億円/沖縄州からの移譲額1,886億円/2008年度当初予算5,252億円)という歳出額となる。

 次に「歳入構造の分析」であるが、和仁屋は「道州制実現下においても国が引き続きナショナル・ミニマムを果たさなければならない公共サービスが存在することに変わりはない。そのため国庫負担金のように国がナショナル・ミニマムを達成させることができる機能を新制度に組み入れなければならない。したがって、本稿では地方交付税や国庫支出金が果たしてきた機能を補完する制度を設けシミュレーションを行う。具体的には財政調整機能を補完するための地方共同財源(仮称)、国が最低限度の生活を保障するための機能を有するナショナル・ミニマム交付金(仮称)を設ける。(地方共同財源は道州制実現下の新たな財政調整制度を行うための財源である。配分にあたっては国からの垂直的調整ではなく地方間で行う水平的調整を想定している。ナショナル・ミニマム交付金は国が憲法で唱われている最低限度の生活を保障するためのものである。財源は国税とする。ナショナル・ミニマムは「年金」、「医療費」、「生活保護費」、「義務教育費」とする。)」とした上で、「国税、道州税、市町村税の新たな税体系について考察する。/……国税のうち、偏在性が小さく安定性を備えた税目を中心に税源移譲を行うこととする。/……@国庫支出金および地方交付税は廃止とする、A財政調整機能を補完するため地方共同財源(仮称)を設ける、B国が最低限度の生活を保障するための機能を有するナショナル・ミニマム交付金(仮称)を設ける、C国税のうち偏在性が小さく安定性を備えた税目を地方の税源として移譲する。」
 和仁屋シミュレーションでは、現行の都道府県税および市町村税はそのままで、国税のうち、所得税を<国税>80%<市町村税>20%、法人税を<国税>50%<地方共同財源>50%、相続税・酒税を<地方共同財源>100%、消費税を<道州税>80%<市町村税>20%、たばこ税を<道州税>100%、揮発油税・関税・印紙収入を<国税>100%に設定。
 「現行では国税と地方税の構成比は58:42 であるが、本稿で設定した税体系にすると、その構成比は国税25%(28兆5,360億円)、道州税29%(28兆1,251億円)、市町村税28%(27兆200億円)、地方共同財源18%(16兆9,424億円)であり、国税と地方税の比率は25:75 となる。」ちなみに租税総額は95兆6,102億円。

 しかし「沖縄州と州内基礎自治体の場合は、こうした(財政の健全化に寄与する)結果は得られなかった。その理由としては、第一に、国から地方への税源移譲に際して、全国一律の基準で行われると、もともと税源が小さい沖縄県は相対的に配分額が少なくなること、第二に、道州制導入は全ての区域において規模の経済性による歳出削減効果が働くが、一州一県である沖縄州ではその効果は限定的であることが考えられる。」
 「沖縄州については、国庫支出金と地方交付税などの廃止に伴い3,488 億円が減少する一方で、新たに国から836 億円の税源移譲[自動車重量税129億円、たばこ関係税104億円、消費税601億円]を受ける。また特別支援学校費などのナショナル・ミニマム交付金62 億円が国から交付される。その結果、沖縄州の税収入等の歳入額は3,243億円となる。(歳入総額は使用料及び手数料、繰入金、諸収入、地方債など税以外の歳入項目は2008年度当初予算額のまま一定として算出した。)この歳入額は前節で試算した歳出総額である5,244億円に対して不足している。したがって、沖縄州はこの歳出に対する不足額である2,001億円を地方共同財源からの財政調整に依存することになる。歳入総額に占める財政調整の割合は現行が31.8%であるのに対しシミュレーション後は38.2%となり、財政調整への依存度が高まる。/一方、州内基礎自治体は国庫出金と地方交付税などの廃止により2,806 億円が減少する一方で、新たに国から313億円の税源移譲[消費税150億円、所得税163億円]を受ける。ナショナル・ミニマム交付金は義務教育費を中心に交付され、その総額は沖縄州よりも多い701億円となった。その結果、州内基礎自治体の税収入等の歳入額は3,454 億円となった。沖縄州と同様、前節で試算した歳出総額である7,222 億円に対して不足している。不足額は沖縄州よりも多く、州内基礎自治体が必要となる財政調整は3,768 億円となった。歳入総額に占める財政調整の割合は現行が22.9%であるのに対しシミュレーション後は52.2%となり大幅に増加した。」(注2)

 「沖縄県が他の道州区域と比較して財政調整に依存する割合が高くなる理由として、第一に……沖縄県は歴史的事情等を起因として、高率補助制度や沖縄固有の補助金の措置が講じられるなど国から特別な支援を受けている現状がある。したがって、国庫支出金の廃止は国からの財政依存が高い沖縄県と県内基礎自治体の財政に極めて深刻な影響をもたらすことになる。
 第二に、沖縄県の地理的要因があげられる。沖縄県は島嶼県であると同時に多くの離島を有している。したがって小規模校への教職員配置などが必要になることから職員数が多く、行政コストに占める人件費の割合が高い(2004 年度の行政コストの内訳をみると、人件費の割合が高く、コスト全体の41.3%を占めている)。……都道府県の合併による規模の経済性の効果が働かない。この点においても沖縄県の地理的事情に起因したものといえる。
 第三に地域経済が脆弱であることである。沖縄県の一人当たり県民所得は全国最下位であり、また完全失業率は全国一高い(2006 年度の一人当たり県民所得は208万9千円であり、一人当たりの国民所得を100とした場合の沖縄県の一人当たりの県民所得は71.5である。2008年11月の完全失業率は7.7%である)。当然ながら、法人事業税や住民税などの地方税の収入は地域経済事情に直結しており、そのため、沖縄県の地方税収の割合は全国と比較しても低い(2007年度当初予算をみると、歳入に占める県税の割合は九州平均が27.0%であるのに対し、沖縄県は17.6%である)。……本稿で試算した地方共同財源は16兆9,424億円であるが、これが地域間の財政力格差是正を行うための財源として不十分である場合は、他の道州区域よりも財政調整が必要となる沖縄州と州内基礎自治体の財政は危機的状況に陥ってしまうであろう。」
 「道州制実現下では、これまで以上に厳しい財政運営を強いられることが予想される。……もともと税源の小さい沖縄県にとっては、税源移譲を重視した制度設計よりも、財政力格差是正機能(財政調整制度)を重視した設計がより有益である可能性があり、その意味でも、財政調整制度は沖縄県にとって益々重要性を持つことになるであろう。今後、道州制移行によって税財政制度が再設計される際、沖縄県にとって有益な財政調整制度の構築を促すためには、領海・排他的経済水域面積の寄与といった沖縄県が日本に果たしている貢献部分を論理的に提示し、沖縄県の地域特性が財政調整の算定基準に制度として組み入れられるように戦略的に取り組む必要がある。
 しかしながら一方で、財政調整制度に依存するばかりでは財政の自立は果たせない。長期的な観点からは、地域活性化等により自主財源の涵養を図るとともに、自治会やNPO といった行政に代わる“新たな担い手”の育成を行うなど、歳入歳出の両面から構造転換を図り財政基盤の強化に取り組むことが重要である。」

 次に、伊藤論文であるが、地方交付税に対して<帰着地ベース><発生地ベース>という概念を用いて、国税の地方委譲をシミュレートした点に興味を惹かれた。
 まず「都道府県・市町村の重複部分を除いた歳入の純計は2007年度に91.2兆円である。このうち使途が特定されない一般財源は56.5兆円である。一般財源のうち地方税は40.2兆円(都道府県20.8兆円、市町村19.5兆円)、地方交付税は15.2兆円(都道府県8.2兆円、市町村7.0兆円)であり、地方税と地方交付税が地方の一般財源のほとんどを占める。本稿でいう地方4税(地方税・地方譲与税・地方特例交付金・地方交付税)は一般財源とほぼ重なる。」とした上で、(以下、断りのない限り2006年度統計資料)、現行実際に交付されている地方交付税[総額15.2兆円]を<帰着地ベース・地方交付税>とし、「所得税、法人税、消費税、たばこ税および酒税という国税5税について地方交付税の原資となる部分[総額51.2兆円]を発生地である都道府県別に集計」したものを<発生地ベース・地方交付税>とする。
 こうして<帰着地ベース・地方交付税>について、全国平均12.0万円を100とすると、沖縄は23.4万円(196.6)となる。但し北海道は26.7万円(223.0)、四国も25.1万円(209.4)で、沖縄より大きい[ここは、高率補助など沖縄特別補助金の存在が大きく影響しているので、これ自体「見かけ」とも言えるが]。次に<発生地ベース・地方交付税>は、全国平均11.8万円(100)に対して、沖縄4.5万円(38.0)であるが、これも北海道5.3万円(44.5)、四国6.1万円(51.3)と比較して、少なすぎるということは言えない。
 <帰着地ベース・地方交付税>に地方税・地方譲与税・地方特例交付金を加えた額(いわゆる地方財政での一般財源)を<帰着地ベース・地方4税>[総額56.5兆円]とした場合をみると、全国平均44.5万円(100)に対して、沖縄41.8万円(93.9)であり、北海道52.2万円(117.4)、四国50.4(113.4)と比較して20ポイントも差がつく。さらにこれを同様に<発生地ベース・地方4税>(<発生地ベース・地方交付税>に地方税・地方譲与税・地方特例交付金を加えた額)[総額56.3兆円]でみると、沖縄22.9万円(51.6)となり、現行一般財政に対する原資は半分しかない。もちろん北海道30.8万円(69.4)、四国31.4万円(70.9)というように、帰着地/発生地での比較では北海道・四国ともに7割前後である。

 ただ、伊藤も言うように「発生地ベースの地方交付税原資は、所得税、法人税、消費税の国税分、たばこ税および酒税それぞ一定の割合である。これをそのまま発生地に財源として委譲することは、実は公平とはいえない。現行制度のもとでは企業の法人税や社員の源泉所得税は、本社の所在地で計上されているからであ」り、「山下(茂「地方の視座から」『計画行政』第21巻第3号1998)は、1995年度決算にもとに、都道府県民税と市町村民税のシェアにもとづいて所得税を、事業税のシェアにもとづいて法人税を、そして小売業年間販売額のシェアにもとづいて消費税を、それぞれ再配分して“実力”の税収を計算し、これを(地方から東京への)『仕送り』に見合った地方への『分財』の論拠としている。
 本稿でも山下の方法に依拠し、2007年度決算について、都道府県民税と市町村民税(個人)のシェアで所得税を、都道府県事業税と市町村民税(法人)のシェアで法人税をそれぞれ再配分し、そして小売業年間販売額のシェアで消費税の国税分を配分しなおした。」それが「“実力”人口あたりでみた地方財源」である。
 沖縄をみてみると<発生地ベース・地方交付税>4.5万円(全国平均11.8万円・指標38.5)に対して、「実力」6.5万円(指標55.1)と高くはなるが、<発生地ベース・地方4税>の22.9万円に対しても「実力」24.9万円と、こちらも高くなっている。
 さらに伊藤は「4.負担・受益関係と財政調整」として、「負担額=地方税+国税収納済額/受益額=地方税+地方譲与税+地方特別交付金等+地方交付税+国庫支出金」という数式をあげる(受益額は帰着地ベースの地方4税+国庫支出金である。)
 受益額[総額66.7兆円]は、全国平均52.5万円(100)に対して沖縄60.6万円(115.4)。ちなみに北海道63.8万円(121.7)、四国59.8万円(114.0)となり有意差はない。他方、負担額[総額92.7兆円]は、全国平均のマイナス分=外交・防衛など「国直営の行政サービス便益」=を補正し、全国平均を0円とした時、沖縄45.5万円であり、北海道39.6万円、四国32.4万円となっている。すでに琉球新報(2010年05月15日付「復帰38年 指標で見た沖縄 経済自立に課題」)が述べているように、「沖縄だけが貰いすぎ」ということは全くない。
 そのほか伊藤は「5.いくつかの示唆」として、「地域間の収支状況」をあげている。
 例えば@「投資・貯蓄差額」では、全国平均を0円とした時、東京が123.5万円に対して、北海道42.9万円、沖縄63.3万円となり、東北では13.1万円、四国に至っては−19.2万円となる。沖縄が今までの指標に比して、如何に投資過多かがわかる。A「移出・移入差額」では、全国平均0円とした場合、東京−36.7万円、北海道−61.7万円、沖縄−65.1万円であり、東北は東京以下の−26.9万円で、四国は−47.0万円となっている。ここでも沖縄の移入過多がわかる。

 沖縄の国家財政への過度の依存については夙に指摘されてきたが、二人の論者の研究を前にすれば、「財政の分権化」は更に「依存」を強める構造になりそうである。「依存経済」が、端的に土建業中心の劣悪で歪な製造業をそのまま放置し続け、加えて高率補助・振興策補助が財政規律の崩壊、財政破綻を招いている。今はなき「琉球独立党」が「尖閣諸島は沖縄のものである。独立すれば海底資源で豊かになれる」と豪語し世の顰蹙を買った。日本国憲法下の「自治の希求」は、沖縄自治研や道州制懇話会が強調する「ナショナル・ミニマム」(財政調整=目的的財政援助)問題も、はたして手放しで許容し得るのだろうか。もう一つ、自主課税権(米軍人と米軍基地に課税する)の確立は、当然として、基地特例交付金などとの相殺関係にあり、これ自体、軍用地料と同様の問題を孕んでいる。(基地撤去は不労所得たる地代を失う!)
 だがしかし沖縄民衆の自己決定権の確立という課題への挑戦は何よりも大切かつ優先されねばならない課題に属する。
 財政は収支が合わなければならない。借金はほどほどにということは当たり前のことであり、豊かさは収入だけではないと言い切る必要がある、産業振興(雇用確保も)を自前で作り出すことでの税収増加こそ基本でなければならない。

(注1) 和仁屋は、国は『2008年度一般会計予算参照書添付』を、州(現行・県)・自治体は『同・当初予算説明書』、『同・当初予算・歳出目的別』を用い、また沖縄州および州内基礎自治体への配分基準の算定にあたっては、『2006年度都道府県決算状況調』、『同・市町村別決算状況調』のデータを抽出・利用し、国家機関費は総務費・警察費・消防費、国土保全及び開発費は土木費・災害復旧費、産業経済費は労働費・農林水産業費・商工費、教育文化費は教育費、社会保険関係費は民生費・衛生費と対応させ、内閣府一括計上予算に関する事務・権限は直接配分を行い、配分基準として適切な目的別歳出がなければ人口比率を用いるとし、国から地方への財政移転分については、『2008年度補助金総覧』を利用した、と述べる。
(注2)シミュレーション後の財政構造(沖縄州/州内基礎自治体)。
<沖縄州歳入>3,243億円/地方税933億円、使用料及び手数料156億円、国庫委託金19億円、諸収入218億円、地方債463億円、その他310億円、ナショナルミニマム交付金62億円、税源移譲836億円/財政調整費2,001億円<沖縄州歳出>5,244億円
<自治体歳入>3,454億円/地方税1,318億円、使用料及び手数料106億円、国庫委託金5億円、諸収入102億円、地方債707億円、その他441億円、ナショナルミニマム交付金701億円、税源移譲313億円/財政調整費3,768億円<自治体歳出>7,222億円





【2010.10.28】 「沖縄の<現在>を思想史からとらえかえす」シンポムに参加。
 10月24日、神奈川大学で開かれた「沖縄の<現在>を思想史からとらえかえす――歴史、現在、そして新たなる世界史へ――」と題したシンポジウムに参加。第35回社会思想史学会の「セッションK」
 今年7月、現代企画室から『地(つち)のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放』を上梓した森宣雄さんを世話人とし、沖縄タイムスの長元朝浩さんが基調報告を勤めるとあって、連日の伊波支援集会の疲れを振り払いながらの出席となった。討論者の中に、冨山一郎さんらの名前が並んでいたことも興味をそそられた。

 長元さんは、森さんの著作の中から「沖縄戦後史の核心は社会運動である」という一句を下敷きに、戦後沖縄の社会運動の三つの軸を立て、沖縄戦後史を捉えなおした。その三つの軸とは@『「日本人」になるということ』をめぐってA「教育」「環境」「自治」「労働」などの個別が台をめぐってB米軍政・日米安保・米軍基地をめぐっての社会運動であり、それを更に三つの転機(朝鮮戦争がもたらした転機/ベトナム戦争がもたらした転機/ソ連崩壊・冷戦終焉がもたらした転機)に沿って展開された。そして、三番目の契機としての「冷戦終焉」が、米軍基地の存在理由の疑義を露呈させ、更に1995年以降の沖縄からの異議申し立てを生み出していった。それらの問いかけは幾多の紆余曲折はあれ、保守・革新を問わず、今までの思考様式そのものの変化を生起させた。そして政権交代を経て今まで、日米安保とは何か、国家のあり方とは何かが問われた一年ではなかったのか。それらの歴史的経過を押さえつつ、長元さんは次に「パンドラの箱が開いた」と投げかけ、「今、問われるべきことは何か/虚妄の『海兵隊=抑止力』論/大手中央メディア『同盟危機論』の問題性/安保条約から逸脱する9.11後の米軍再編」を語り、まだまだ解決の方途は長い時間がかかかるであろうし、「希望はどこにあるか」という問いかけをせざるを得ない、と締める。
 長元さんは決して悲観することなく、否、「すべての歴史は階級闘争の歴史である」などとはおくびにも出しませんでしたし、「希望は闘い続けることにある」とは直裁に表現しませんでしたが、沖縄の民衆が「自己決定権」を握りしめ始めたことを、「どのような『始まり』が来るのかは分かりませんが、ただ『終わりの始まり』が来たことは確かです。」と語る。
 あっ、それと『地(つち)のなかの革命』も含めシンポの中でもの重要な参考文献として挙げられた「何故 沖縄人か」(離島社1971.02.22)の筆者、宮城島明(松島朝義)さんも参加されていました。





【2010.10.20】 <「琉球自治共和国連邦独立宣言」20100623>をアップ。
 遅ればせながら「琉球自治共和国連邦独立宣言」をアップ。あわせて、よびかけ人の一人である松島泰勝さんが主宰する「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」のサイトを紹介します。






【2010.10.19】 『沖縄「自立」への道を求めて』(高文研090725)を読む

 選挙戦酣!仲井真知事のレトリック頼みも、もうお終いだろう。安保堅持と県外移設をセットに、オノレの買弁性をどこまで糊塗できるか!
 沖縄の自己決定権の確立に応える、ヤマトの沖縄連帯が、質・量ともに問われている。
 「沖縄」に関して精力的に発信し続けている高文研が昨夏、上梓した『沖縄「自立」への道を求めて◆基地・経済・自治の視点から』は、Emigrant【2010.09.19】で取り上げた『島嶼沖縄の内発的発展』とは別の角度で、やはり沖縄の自己決定権をめぐる論考が集められている。
  独特の「独立論」を提唱する平恒次さんは第T部の冒頭で「ユートピア的に朗らかな宿命感によれば、沖縄の独立は当然かつ必要といえましょうか。日本国は道州制への移行の時代に入りました。沖縄に関しては、せいぜい、単独道州止まりで一件落着となるかも知れません。しかし、沖縄が独立国になるというのであったとすれば、政策策定及び国際関係の諸分野で主権の威力を発揮できたことでしょう。独立国なら何かできるか、について知識と信念をもつことができれば、単独道州という新しい地位を人権としての自己決定権が許容する最善のものに造り上げることも出来るのではないか、と愚考する次第であります。」(沖縄「独立」への道) と語る。

 もう一つ、なかなか問題点が可視化されていないが、我部政明さんが「沖縄を米アジア戦略の中心と見る『神話』」の中で「那覇空港拡張計画に潜む問題性」を提起している。
……
 現在進められている滑走路増設のための検討では、現行の滑走路を共用している自衛隊の運用や施設配置は明かにされていない。いわゆる「軍民共用」の那覇空港に新たに滑走路ができるとき、自衛隊と民間に施設の調整は不可欠である。新たな滑走路は民間専用となれば、自衛隊が現在の滑走路を専用とすることになるだろう。その例として、滑走路二本をもち、それぞれを自衛隊と民間が使う千歳空港を挙げることができよう。/そしてさらに、自衛隊専用の区域が米軍との共同使用となることは、容易に予想できる。沖縄での基地負担を軽減化する理由から、本土にある自衛隊基地の米軍との共同利用が進んできたからだ。日本本土で米軍が削減されるときに、これまで米軍専用であった基地を自衛隊との共同使用へ変更して、その後に米軍が必要とするときに利用する権利を確保する方法がとられてきた経緯がある。現在の自衛隊の米軍との共同使用基地のほとんどがそうである。三沢、横須賀、厚木、岩国、佐世保などの米軍基地だけではなく、矢臼別、東富士、日出生台などの自衛隊の射撃訓練場も米軍へ供されている。……

 風游子としては、自立解放への方途として、独立から連邦制、そして高度の自治を獲得した自治州(特別県制・道州制を含む)を現実的政策として打ち出すためのスペードワークに似た作業に取りかかろうとしているが(誤解を恐れず言えば、沖縄の解放は日本の、ひいては東アジア・環太平洋を見据えた解放の課題でもある)、例えば「琉球政府」の経験や、日本から切断された沖縄−琉球弧像への想像力・構想力も試されている。本書での元沖縄総合事務局調整官の宮田裕論文「沖縄経済の特異性はどうしてつくられたか」や、1972年までを対象とした池宮城秀正の『琉球列島における公共部門の経済活動』(Emigrant【2010.08.17】)と重ね合わせて、琉球政府(財政・経済)史をまず学習してみたい。
 
 例によって本書の目次を。なお、<前泊博盛「基地依存」の実態と脱却の可能性>については、「基地経済」についての論究として、後ほどアップする予定です。しばし、待たれよ(笑)

沖縄「自立」への道を求めて◆基地・経済・自治の視点から(高文研090725)
●目次●
「属国」からの脱却をめざして……宮里政玄
◇第T部 沖縄「独立論」と沖縄経済
 ◇沖縄「独立」への道……平 恒次
 ◇「独立」とは遠い沖縄経済の現実……来間泰男
 ◇問われている「自立」を担う気概……大城 肇
 ◇独立琉球共和国・日本琉球連邦・沖縄州……仲地 博
◇第U部 沖縄の基地を問い直す
 ◇沖縄を米アジア戦略の中心と見る「神話」……我部政明
 ◇オバマ政権のアメリカ−−経済と対外政策の変化……佐藤 学
 ◇「基地のない沖縄」の国際環境……星野英一
◇第V部 沖縄振興開発の効果を疑う
 ◇沖縄経済の特異性はどうしてつくられたか……宮田 裕
 ◇「基地依存」の実態と脱却の可能性……前泊博盛
 ◇沖縄振興体制で奪われた沖縄の主体性……島袋 純
◇第W部 持続可能な発展の可能性をさぐる
 ◇辺野古新基地は沖縄自然破壊のとどめを刺す……桜井国俊
 ◇問われる沖縄の「自治の力」……佐藤 学
 ◇脱依存型の企業マインド−−ものづくり取材の現場から…松元 剛
 ◇世界につながる沖縄の自治……島袋 純
 ◇基地のない沖縄をめざして……新崎盛暉


【2010.10.12】 9月30日にお亡くなりになった屋嘉比収さんへの追悼文が新崎盛暉さん(「琉球新報」10月2日)、崎山多美さん(「沖縄タイムス」10月3日)によって書かれていました。





【2010.10.01】  屋嘉比収さんがお亡くなりになりました。
  風游サイトを始めてから間もない頃、那覇で酒席を共にしていただきましたが、その時が初対面で「私のホームページに、屋嘉比さんの論考を勝手にアップしております。」と、お詫びとも何ともつかない言い訳じみたご挨拶をしたところ、「いえいえ、注目してくださっているだけで有りがたいことだと思っています。」と暖かい言葉を掛けていただきました。
 その後、2008年の「5.18シンポジウム:来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」では、体調が芳しくない中、「基調報告」を引き受けるなど、沖縄の知識人としてなすべきことを肩肘張らず、丁寧に行うなど、もっともっとお話をお聞きしたかった、否、それ以上に、「沖縄の自己決定権の確立」に向けて、沖縄にとって大切な人を失った、という思いです。合掌。

風游サイトにアップした屋嘉比収さんの論考

「沖縄人になる」について(『けーし風』第22号1999.3)
近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷(藤原書店2003)
琉球救国運動と公同会事件にふれて(沖縄自治研2004.8.7)
「追悼・岡本恵徳/態度としての思想」(『けーし風52』2006.9)
強い愛郷の念を想像/権力臆せず真実語る必要(伊佐眞一『伊波普猷批判序説』を読む)(沖縄タイムス2007.9.18)
「反復帰論」を、いかに接木するか−反復帰論、共和社会憲法案、平和憲法(5.18シンポジウム基調報告/『情況』2008年10月号所収)



[訃報・沖縄タイムス2010年10月1日]
屋嘉比収さん死去/沖縄学研究 社会に発言 53歳

 沖縄大学法経学部准教授で、日本近現代思想史、沖縄学研究者の屋嘉比収(やかび・おさむ)氏が30日午後4時50分、大腸がんによる転移性腹膜炎のため、嘉手納町内の自宅で死去した。53歳。糸満市出身。自宅は嘉手納町嘉手納304の8。告別式は10月3日午後1時から、嘉手納町葬祭場で。喪主は妻英子(えいこ)さん。
 屋嘉比氏は1998年に九州大学比較文化研究科博士課程を単位取得退学し、2004年から現職。専門の近現代思想史研究のほか、同時代の沖縄を取り巻く社会状況についても積極的な批評、論評を発表した。
 とりわけ06年以降大きな論議となった、沖縄戦のいわゆる「集団自決(強制集団死)」問題については、沖縄の民衆意識を重視する立場から積極的に発言した。著書に『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』『〈近代沖縄〉の知識人』など。


[訃報・琉球新報2010年10月1日]
基地問題で発言/沖大准教授屋嘉比収氏死去、53歳

 専門の日本近現代思想史と沖縄学に基づき、平和や基地問題で積極的に発言してきた沖縄大学法経学部准教授の屋嘉比収(やかび・おさむ)氏が9月30日午後4時50分、がん性腹膜炎のため嘉手納町嘉手納304の8の自宅で死去した。53歳。糸満市出身。告別式は3日午後1時から、嘉手納町久得245の嘉手納葬斎場で。喪主は妻英子(えいこ)さん。
 屋嘉比氏は琉球大、沖縄国際大などの非常勤講師を経て2004年、沖大准教授に就任。季刊『けーし風』編集委員。著書に「〈近代沖縄〉の知識人 島袋全発の軌跡」「沖縄戦、米軍占領史を学びなおす−記憶をいかに継承するか」、編著に「友軍とガマ 沖縄戦の記憶」「沖縄に向き合う−まなざしと方法」などがある。





【2010.9.26】 沖縄は格差社会?−そして強搾取?
 400年/130年を超え、沖縄は新たな一歩を踏み出し始めた。11月県知事選は何としても勝利したい。

 先日紹介した『島嶼沖縄の内発的発展』の中に、嘉数啓、松島泰勝両氏が気になる論点を提出している。それは「ジニ係数」を参照しつつ、沖縄の中での格差(の拡大)を指摘していることである。
 嘉数啓によれば、ジニ係数が過去30年で0.3678から0.4026へ拡大、都道府県別では最高とのこと。

 沖縄タイムスは9月3日付けの「広がる所得格差」と題して「貧困対策は待ったなし」の記事を掲載。そこでは「富める人とそうでない人の所得格差が確実に広がっているようだ。厚生労働省は、世帯単位で所得格差の大きさを示す2008年の『ジニ係数』が過去最大になった、と発表した。……ジニ係数は、調査世帯の所得の平均値を使って求められる。全員の富がまったく同じ完全平等を『0』、すべての富が1人に集中する完全不平等を『1』とし、1に近づくほど不平等が大きくなる。……統計上の数字だけで、社会実態を把握するのは難しいが一つの目安にはなる。/ジニ係数の上昇は多くの国民の生活実感とぴたり重なる。生活苦で自殺に追い込まれていく人は後を絶たず、貧困にあえぐ国民は増え続けているからだ。」と書かれてあった。
 加えて「今回の厚労省の発表では、各県別の統計はないが、全国に比べ沖縄の所得水準の低さはこれまで指摘されてきた。総務省が発表した04年度の全国消費実態調査ではジニ係数が国内最悪だった。/沖縄戦やその後の27年間に及ぶ米軍統治を経てきた沖縄は、戦後目覚ましい経済復興を遂げた本土とはスタートラインが異なる。/復帰後、沖縄振興予算がつぎ込まれたとはいえ基地問題を含め、課題は積み残されたままだ。政府は県民の所得向上と、貧困層の引き上げに取り組む必要がある。政府は貧困の実態を早急に把握し、対策を急ぐ必要がある。」と結ぶ。

 郵政研究所が総務省「全国消費実態調査」2004年を元に作成した報告書によれば、2004年度のジニ係数・全国平均0.308<上位は1位長野0.275・2位山梨及び滋賀0.280、下位は45位大阪0.323・46位沖縄0.344・47位徳島0.345>である。[他の資料では沖縄県0.352 で最高となっている。]同報告によれば、沖縄は、消費支出(23.5万円・全国平均の73.3%)でも貯蓄残高(507.8万円・同32.6%)でも最下位である。
 各種資料は、沖縄の全国最低の所得・全国最高の失業率を明らかにしている。だが、日本の他地域と較べて、過疎が進まず出生率が高く若年人口の割合も高く、離島県としてのハンディも持つ沖縄が、ある意味で、最低の所得・最高の失業であることは奇異ではない。しかし、である。日本に較べても格差社会であるとは!

 05.3〜08.2に日経新聞那覇支局長を勤めた大久保潤は『幻想の島 沖縄』(日経出版社2009.07.23)で、次のように書く。
 「子どもが多いこともありますが県民1人当たり所得は全国一低い数字ですが、納税者のうち年収1000万円以上が1割を超える地方都市は全国で沖縄県だけです」、納税者のうち年収1000万円以上の割合・1位東京16.6%、2位神奈川13.1%、3位愛知11.9%。沖縄は9位10.2%を占める。さらに2006年3月、県に提出された外部監査報告書2005年度版「04年度の県内給与所得者の平均年収約340万円に対し、県職員の平均年収は722万円と二倍以上の格差が生じている。」を明らかにしつつ、稲嶺県政参与で元社大党書記長・比嘉良彦の証言を付け加える。比嘉曰く「……復帰で一番恵まれたのが公務員だったのです。公務員は県内の勝ち組になり、同時に革新勢力の担い手でもありました。」(「復帰運動−革新勢力−格差社会−階層分析」はまた別の機会に)

 もう一つの資料「自立に向けた金融経済教育2007.5.25」で筆者の曽我野秀彦(日本銀行那覇支店)は、「沖縄は格差が大きい社会?−沖縄のジニ係数(0.344)は、他県に抜きん出て高い」とし、「考え得る背景」として、@軍用地地主の存在(これは前記の大久保も指摘)A戦後および復帰時の経済変革の波に乗れたかどうか:現経営者層の方々Bビジネスマインド・起業家精神などをあげている。

 しかし、大久保は「日本一経営者が強い社会」との小見出しで「失業率が全国一高く、県民所得は全国一低い。ずっと続いているこの不名誉な指標の理由を一言で言えば、企業がもうけ過ぎているのです。」と暴露する。(「さすが日経」と半畳を入れないで!)
 2007年の売上高に占める人件費率は9.58%で全国平均13.51%の7割にすぎないだが、逆に経営の儲けとなる経常利益率は5.56%で全国平均2.72%の2倍以上である。ちなみに観光関連は3.4倍、コールセンターなどの情報通信は2.9倍。

 この資本の儲けすぎ?による低賃金構造は、失業率=相対的過剰人口問題と絡んで、今後、さらに分析を進めなければならないが、大久保は、一方で「働く意欲が減っている」「労働市場のミスマッチ」(構造的失業率問題)などに触れつつ、「闘う労組がない」と小見出しをつける。(ここでも半畳を入れないで!)「……沖縄で労働組合と言えば、自治労や沖教組といった公務員の労組です。……/民間企業で組織的な労組を持つのは、電力、銀行、マスコミといった公務員に並ぶ「勝ち組」業界ですから、そもそも経営者と本気で闘う必要がありません。」
 前述の日銀・曽我野は「全国最低レベルの『最低賃金(時給610円)』で雇用される若者が多数存在/正社員になって、社会保険を支払うよりも、今の手取りを優先/正社員になると、自由がなくなるので嫌」などと解説。




【2010.09.19】 西川潤・松島泰勝・本浜秀彦『島嶼沖縄の内発的発展』を読む
 大仰に言えば、これほどまでに「世界史的注目」を浴びた市会議員選挙はなかったろう。「どこにも基地は作らせない」と力強く語る稲嶺市長与党が圧勝した。醜い策動を繰り広げた菅民主党政権に、沖縄の民衆は更に痛打を浴びせた。民主党代表選で、唯一(?)菅支持を表明した民主党の「期待の星・上里直司」、どうしますか。
 11月知事選を控え、問われているのは我々ヤマトの沖縄連帯の闘いであろう。伊波洋一県知事選勝利後、日本政府−−いや、ここでは日米両帝国主義者どもと言った方がいいだろう−−のいかなる悪辣な攻撃も許さない我々の闘いが問われている。

 さて、「経済・社会・文化」と副題の付いた、沖縄の自立に向けた論考が並ぶ。そこでは島嶼性を踏まえた内発的発展(戦略――これはこの間つとに松島さんが提唱しているものだが)が様々な角度から語られている。
「はじめに」に、編者の1人である西川潤は「歴史的経緯からして、日本は沖縄人の総意を問うことなく、1879年の琉球『処分』、1972年の日米両国政府の取引による『復帰』、と二度、沖縄を一方的に日本の1県として編入した。国際人権規約以来、国際常識となっている沖縄住民の『自己決定権』は尊重されず、軍事基地の負担が膨大な補助金と引き換えに一方的に沖縄人に押し付けられたのである。」と問題提起し、続けて「ここでなぜ、沖縄側がこうした状況を甘受したかについては、第13章が分析しているので、ここで引用しておくと、第一には、島嶼経済の基盤が弱く、財政的な中央政府依存が状態となったこと、第二には、沖縄側の本土政府の画一主義を変えることはできないという事大意識、第三には自治・独立運動で理念が先行し、一般の人びとの生活実感をうごかすに至らなかったこと、がある。私が第四点を付け加えると、補助金や軍用地料の流入によって利益を得る土建業界や地主層が、沖縄政治を動かしてきたこと、も重要な要因であろう。」と書く。そして「……既に、沖縄内部から道州制や全県自由貿易地域など、本土がかぶせてきた沖縄県というせまい枠をはねかえすような動きが出現してきている今日、『沖縄のこころ』に基く沖縄人の自己決定権が国際スタンダードを実現することこそ、日本社会の国際化の大道であり、またそれが、国際社会からも求められているのである。」と結論づける。

 何度も繰り返しているが、膨大な「基地」を維持し、整理・再編・統合し、その安定的無制限使用のために、1972年施政権の日本への返還−沖縄併合は、「基地撤去・平和憲法の下への祖国復帰」などではなく、紛れもなく「日本再併合による日米共同侵略反革命前線基地化」であったことを改めて総括することが問われている。
 もちろん民族自決権なるものはレーニン的にもウイルソン的にも理解・解釈可能である。しかし、民族自決権の無条件擁護は帝国主義本国プロレタリアートたる我々の第一級の任務であることは、これから、いっそう試されるであろう。現在、ヤマトの多くの反基地運動団体が、沖縄連帯を自らの課題とし始めている。さらに、「沖縄の自己決定権」を断固として支持・防衛し、<沖縄連帯>を高く掲げた民衆運動が新たに胎動を開始した。

 例によって本書の目次を。そのうち、これまた例によって(笑)、独断と偏見でいくつかの論考をアップしました。



島嶼沖縄の内発的発展−経済・社会・文化(藤原書店2010.03.30)
●目次●
はじめに 西川 潤
第T部 島嶼ネットワークの中の沖縄
  1 沖縄から見た島嶼ネットワーク構築−沖縄・台湾・九州経済圏の構想− 嘉数 啓
  2 辺境島嶼・琉球の経済学−開発現場の声から考える− 松島泰勝
  3 〈島嶼・平和学〉から見た沖縄−開発回路の「再審」を通して− 佐藤幸男
第U部 沖縄とアジア
  4 周辺における内発的発展−沖縄と東南アジア(タイ)− 鈴木規之
  5 泡盛とタイ米の経済史 宮田敏之
  6 現代中国の琉球・沖縄感 三田剛史
第V部 内発的発展の可能性
  7 沖縄の豊かさをどう計るか? 西川 潤
  8 沖縄・その平和と発展のためのデザイン−沖縄産品と内発的発展に関する一考察− 照屋みどり
  9 返還軍用地の内発的利用−持続可能な発展に向けての展望− 真喜屋美樹
第W部 文化的特性とアイデンティティ
  10 「うない(姉妹)」神という物語−沖縄とジェンダー/エスニシティ−勝方=稲福恵子
  11 エキゾチシズムとしてのパイナップル−沖縄からの台湾表象、あるいはコロニアルな性的イメージをめぐって− 本浜秀彦
  12 奄美・沖永良部島民のエスニシティとアイデンティティ−「われわれ」と「かれら」の境界−高橋孝代
第X部 沖縄の将来像
  13 沖縄自立構想の歴史的展開 仲地 博
  14 国際人権法からみた沖縄の「自己決定権」−「沖縄のこころ」とアイデンティティ、そして先住民族の権利− 上村英明
  15 沖縄の将来像 西川 潤・松島泰勝
あとがき 本浜秀彦・松島泰勝





【2010.09.06】 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を読む
 もちろん、「自己決定権」が「(民族)自決権」の単なる言い替えではない、ということを踏まえた上で、「2010年6月23日慰霊の日に」西表の石垣金星さんと共に「琉球独立宣言」を発した松島泰勝さん(ゆいまーる琉球の自治)が、「市民外交センター・沖縄独立研究会」として、1996年7月国連・第14回国連先住民族作業部会に参加して以降、営々と積み重ねられてきた、琉球弧の新しい世代の闘いが、一つの確固たる礎を築いた。琉球弧の先住民族会(AIPR)の闘いがそうである。

先住民族の権利に関する国際連合宣言<国連総会第61会期2007年9月13日採択>
当真嗣清「先住民族の権利に関する国連宣言」採択とウチナーンチュ



【2010.08.16】 嘉数啓「沖縄経済自立への道」(1983.6)を読む
 11月知事選は、何としても伊波洋一さんに勝利して貰いたい。しかしこの勝利は、単に「沖縄県」の問題としてではなく、大田県政から更に第一歩を踏み出す、日本(政府)とのきわめて厳しい対応が要請されている。「自立沖縄」の、前途多難だが、しかし未来に向けた船出であることは間違いないと思われる。

 「復帰」=再併合10年を経て、様々な自立構想が生み出された。『新沖縄文学』(81年6月)では二つの憲法試(私)案(川満信一案仲宗根勇案)が掲載され、自治労沖縄県本部が同年6月にいわゆる「特別県制構想」を発表し、さらに当時は日の目を見なかったとは言え、「沖縄自治憲章」(玉野井試案)が作成された。そして1983年6月には『新沖縄文学』が「特集○自立経済を考える」を編集。
 その特集のメイン論文とも言える嘉数啓(当時、琉大助教授)の「沖縄経済自立への道」を掲載された。
 同号に「嘉数論文をどう読むか」というサブタイトルで、原田誠司(「沖縄自立経済のために」79「沖縄経済の独自構造」80「沖縄経済自立の構想」81)さんが「振出しに戻った経済自立論」を展開している。

 原田さんは「論文は、経済自立の概念から自立的発展のヴィジョンにまで全面展開されており、きわめて魅力的である。だが、読み終えて、どうも議論は振出しに戻ったなという感じがしてならない。それは、氏の論調が沖縄独立論的経済自立論への批判に貫かれているからだけではない。むしろ自立経済論議の歴史がある意味で無視されていると思われるからだ。」と書き出す。
「一、あらためて“沖縄自立”とは何かを問う」で、「嘉数氏の経済自立概念のなかには、@の“誰が”主体なのか、およびBの政治的条件、という二つの重要な要件[Aは「自己発展の体系と方法」]が欠けている。経済的な従属・収奪の関係を克服するためには、必ず人間の意識的闘いと条件が存在するのであって、経済自立にとってそれが各民族集団と対外関係の具体的あり方としてどのように構想できるかが最大の問題であろう。したがって経済自立とは主体的に把握されなくてはならない。……だが経済的自立の内容や質と政治的自立のあり方は密接に関連しているのであって、『自らの力と知恵によって生計をたてる』という言い方で、経済自立を政治的自立と分離させることはできない。」と批判。

「二、沖縄経済周辺化の構造」において、「沖縄は復帰によって確かに本土地域と形式的には対等な地位を与えられた。が実態は軍事基地への特化を強いられ経済の非自律的、非工業的周辺経済化を深化させられている。民族的疎外は続き沖縄の差別・収奪・抑圧状態は変っていない。経済自立とは、こうした国内植民地状態を打ち破るものでなくてはならない。」と指摘し、「三、経済振興から経済自立へ−ローカル産業複合論の意味−」で、「嘉数氏の『ローカル産業複合型』発展ヴィジョンにふれ、多少とも地域経済の調査にたずさわっている者の眼からみると、経済振興策としての整合性、構想力には大いに賛意を表したい。1次産業−1・5次産業(地場)の連関波及効果を対外市場への移輸出にまで拡大した構想は魅力的である。」とした上で、「だが、沖縄の経済自立という眼からみると幾つかの問題点がある。」と、次のように述べる。
「第一は、担い手は誰か?という点である。ふつう、自治体の振興計画の場合、それなりに対象は決っている。誰にあるいはどこに財政資金を使うかに最終的に帰着するからである。また、かつて牧野浩隆氏が『主役なき経済開発』のなかで、沖縄の商業、産業資本家のエートスを問題にし経済自立の主体の不在を鋭く指摘したことがある。この状況はすでに克服されたか、あるいは克服される可能性が出てきているのであろうか。/私には、こうした状況はいぜん続いており、『ローカル産業複合型』発展を担いうるとしたら、沖縄の各地で勃興している『シマおこし』運動以外にないのではないかと思われる。ただし、彼らが同意するかどうかはまた別問題であるが。
 第二に、こうしたヴィジョンが経済自立の軌道を切りひらいて行くためには、どうしても政治的自立の展望が明らかにされなくてはならないと思われること。『シマおこし』運動のなかにすでに芽ばえているように、政府の財政資金の使い方、基準一つをとっても本土のそれであり、沖縄の基準に合わされてはおらず、こうした制度、政策との闘いなしには、『シマおこし』がその担い手(農・住民)の意志を実現する方向には進まないという現実がある。/こうした実態は経済の全分野にわたって存在しており、沖縄の人々の自己決定なしには本土政府への従属が進むだけであり、さらにその結果も沖縄の人々の意に反したものとなる。……結局、問題はヴィジョンを実効力あらしめる闘いにある。沖縄経済の周辺化との闘いを通して沖縄側が一歩一歩、自立と自治の体系を創り出して行くことこそポイントであり、そのことは当然にも現行の日本的制度・体系を打ち破ることにつながる。政治的自立と経済的自立はこうして一つのダイナミズムを形成する。琉球独立論が現状を固定し経済自立のリアリティを喪失させるという見方は、むしろまったく逆であろう。独立論的発想なしには経済自立の道は切りひらけないのである。」と、締めくくる。

 原田さんにしてみれば「振り出しに戻った」という感懐を抱くのは当然であろうが、風游でもアップした諸論考も併せて考えてみれば、「これで問題は出揃った」と言うことであり、逆に30年間も足踏み状態が続いてしまったと言うことでもあろう。観光産業重視やエコ−ローカル産業複合型発展(松島さんならさしずめ「内発的発展」か)、そして自由貿易(一国二制度)など。
 原田さんは、主体なき経済はあり得ない。そしてそれ以上に、政治的展望にこそ裏打ちされなければならない、と歯ぎしりする思いだったのかもしれない。

嘉数 啓「沖縄経済自立への道」(新沖縄文学56<特集●自立経済を考える・沖縄タイムス1983.6>)




【2010.08.17】 池宮城秀正『琉球列島における公共部門の経済活動』を読む
 すでに、復帰=併合後一世代が経過しており、「格差是正」の呼び声も、軍事属領=国内植民地状況の顕在化は、新たに「沖縄差別」という声に取って代わられつつある。そして、「沖縄のことは沖縄が決める」という至極まっとうな結論が輿論となりつつある。1/47でも、130万対1億2000万ではない、「最低」でも日本−沖縄の関係を「対等平等」(これが民主主義で、かつ「非対称な関係」です。)に持って行くための方策として、「自己決定権」(「独立」も含む−風游流に言えば「自立解放」!)が真剣に語られ始めたと言うことである。
 さて、そうした時、「統治」の問題は避けられず、かつて吉元副知事が「我々は立派に政府を運営してきた。」と言い切った[軍政下であれ国防・外交などを除く国政相当の行政サービスを担当]が、政府運営=自己統治能力は、いわばアイデンティティと相乗し「簡単な事柄」に属する。経済・財政も「イモハダシ」論議を持ち出すまでもなく、「逆格差論」が、今改めて照射されようとしている。もちろん、政治も経済も軽々に扱ってはならないのは当然のことである。

 戦後沖縄は、占領下での政治と経済を強いられ、その後も軍事基地維持のための軍事属領的支配の下に苦吟してきた。民主主義的諸権利の剥奪は言うに及ばず、自立的経済確立の方途が意図的に歪められてきた。朝鮮戦争−1950年代を前後する、基地建設と沖縄経済復興と、そして日本経済の復興(1950.3日本企業に渡航許可を与え、基地建設工事に従事させる!)を同時に達成する形で作られた基地依存型輸入経済(1955年、貿易収支=輸出1318万ドル・輸入6359万ドル。しかし国際収支は727万ドルの黒字)がそうである。こうして1953年に沖縄経済は戦前の水準(1934〜36)に達した。
 琉球政府の租税政策は当然にも、軍政府の制動下にあったが、基地機能維持を至上命令とする軍政府は宣撫工作(この最たるものが「弁務官資金」)を進めつつも、1962年から正式に日本援助受入を開始した。1965年8月佐藤訪沖後の1966年度には日本政府によって義務教育職員給与の半額が負担され、その他教科書無償配布をはじめ援助が急増する。またしても、「教育」だ!(これ以前にも、すでに1952年から教員等の日本研修や奨学資金給与などの形で日本政府の援助は始まっていた。1961〜1971年の11年間でみると、総額1124億円の日本援助のうち文教関係31.0%が占めている。社会福祉21.0%、産業振興国土開発15.4%。第一次琉球処分時、日本政府はまず「師範学校」設立から手掛けた。そして、米軍政府は「琉球大学」を創設した。同化と異化の植民地支配であると言えよう。)
 琉球政府の財政は、1961年と1971年の財政収入を比較すれば、租税および印紙収入税などの占める割合が73.4%→49.5%に激減することに対して、日本援助は0%→31.3%、反対に米国援助は11.2%→5.8%と推移した。政策の基本は「基地で稼ぐよう仕向けられた」(基地依存!)沖縄が、1961年当時、自己財源=税収などで73.4%もの高率を示したと言うことは、如何にインフラを初めとした公共投資・事業が乏しかったのかを示して余りあろう。翌年から始まる日本援助の本格化は、沖縄財政を潤し、教職員をはじめとする公務員層(復帰運動の中核である)は「日本復帰」による「豊かさ」を渇望したのではないか。いわゆる「イモハダシ」論は、「イモハダシになっても復帰したい」というより、米軍政支配を維持するためのデマである、と「見抜いていた」。

 嘉数啓は沖縄タイムスの書評(2009.06.13)で「すでに通説となっているが、本土より高め(1ドル=120円)の為替レートの設定が、輸出を抑制し、輸入依存、基地依存の経済構造を政策的に誘導したとする見方は、説得力に乏しく、一歩踏み込んだ実証分析が要求される。」と書く。しかし、嘉数の言う「物価安定と税収増にかなった政策」の主語が「琉球政府」であることは、こうした政策が米軍政府によりなされている以上、逆に説得力に乏しく感じられた。さらに「輸入物資に対する課税は、……幼稚産業の保護育成に有効であったことも間違いない。」としているが、これは結果解釈に過ぎずないのではないか。「本土」より半額で輸入(前述した通り、沖縄を通して、外貨=ドルが日本へ還流していった))出来るとすれば、日用品まで含めての製造業が成り立たず、さらに1960年代後半からの日本政府援助の急増は、(基地であれ、公共事業であれ、輸入であれ)、現在に至る依存経済につながっており、自立を目指す島嶼経済の独自の発展はそもそも阻害されていた、と見るべきではないか。
 ※併合10年を経た1983年の嘉数啓の力作「沖縄経済自立への道」(新沖縄文学56所収)も近々アップする予定です。乞うご期待(笑)

「琉球列島における公共部門の経済活動・結び」より

池宮城秀正

……
 さて、米国統治27年間について、米国、日本及び琉球住民の相互作用を財政の観点から考察することによって、琉球列島に対する米国政府及び日本政府の政策、そして琉球住民の選好が一層明らかになる。
 第1に、琉球列島に対する米国の政策である。琉球政府財政に対する米国政府の政策はFEC指令や大統領行政命令に謳われていた。すなわち、財政の自立、効率的財政運営、公債発行による資金調達(Debt Finance)の禁止等である。米国政府の現地出先機関であるUSCARは、予算過程における事前事後調整によって琉球政府の財政活動に介入した。USCARは種々の指示を出したが、琉球政府の財政運営能力に対する懸念には極めて強いものがあった。加えて、公債が累積した場合、最終的に米国政府の負担となることを懸念したのである。また、社会保障等の支出は住民の負担能力の範囲内で計画すべきであることを、USCARは度々強調した。このように琉球政府の財政運営に対して厳しく介入したが、地方財政については比較的に自治を許した。
 なお、琉球政府税に対するUSCARの租税政策は、外国人には布令税法を適用したこと、所得税等の直接税を中心に据えること、減税を回避すべきこと、及び日本の租税制度を徒に導入しないこと等であった。一方、琉球政府税制審議会は日本復帰を睨み、USCARの政策とは逆の答申を繰り返し、日本税制の導入を基本方針とした。施政権の返還問題が俎上に上った1960代半ば以降、USCARはこうした動きを渋々是認した。
 ところで、米国援助について、USCARは琉球住民の努力を補填するものであり、当てにしてはならない旨の注意を喚起した。1950年代の米国政府の援助は軍事基地立地による琉球政府の超過的財政支出を補償するものであるとし、1960年代以降はプライス法に基づいて経常的に実施されたが、琉球列島の社会経済の発展を促進する目的で行われるとの理由付けであった。自明であるが、米国政府援助は軍事基地立地の反対給付であった。
 USCARが米国援助と称するものには、本国政府による援助、及び米国民政府一般資金による援助があった。前者は米国の納税者の負担による純然たる援助であったが、後者はGARIOA援助等の過年度における援助から派生した資金であり、元々琉球住民に属するものであった。こうした援助方法は琉球住民を欺くものであったと言わざるを得ない。米国民政府一般資金による電気、水道等の社会資本の維持・管理は多大な統治効果をもたらした。その資金の一部を高等弁務官資金と称して、高等弁務官個人の裁量で市町村に交付する方法は、軍政を象徴するものであり、住民を愚弄するものであった。
 第2に、琉球列島に対する日本政府の予算政策である。USCARは琉球列島統治に対する日本の影響力をできるだけ小さくすることを基本政策とした。とくに1950年代までは、琉球政府に対する直接援助の受入れを拒否し、南方同胞援護会を通ずる援助や日本政府が直接執行する技術援助を受入れるのみであった。琉球列島に対する日本の影響力が増大して、日本復帰運動を刺激し、統治に支障をきたすことを懸念してのことであった。1950年代半ばになると、軍用地問題が生じ、これを契機にUSCARは琉球住民を力で抑えることが不可能であると判断し、経済水準の向上を図ることより軍事基地の黙認を取り付ける政策に転換した。しかし米国議会の反対にあい十分な資金を確保することができず、その代替手段の一つとして日本政府援助の受入れを認めざるを得なくなった。
 斯くして、琉球政府一般会計に対して日本政府援助がトランスファーされることとなった。日本政府は経済援助により徐々に影響力を高め、あわよくば施政権の回復に資することができればとの目算であった。援助予算の計上理由も、将来の復帰を見越してのことであり、日本政府は琉球政府援助に対して当初から極めて積極的であった。無論、日本に潜在主権があり、住民は日本国籍を有していること、及び琉球列島における米軍基地の維持が日本の安全保障にとって不可欠であるとの認識からであった。1960年代以降の日本政府援助は金額、増加率及びその内容とも充実したものであり、1960年代末には琉球政府に対する援助問題は国内問題の様相を体した。
 第3に、琉球住民側の財政主体、すなわち、琉球政府財政、市町村財政及び教育区財政についてである。
 まず、琉球政府財政である。軍事基地の安全保持を目的とした米国の統治政策の範囲内において、琉球政府は予算政策を遂行したが、USCARとの粘り強い折衝を重ねることにより徐々に裁量権を広げていった。琉球政府の財政制度は日本の財政関連法に準じて立法されたが、その予算過程は日本と大きく異なっていた。行政府は予算参考案を作成して立法院に送付するのみで、予算内容の決定は立法院の専権事項であった。行政府において統合調整された予算参考案はUSCARとの事前調整において点検され、立法院において審議・議決された後、さらに行政主席の署名前にUSCARとの事後調整が義務づけられていたのである。
 1950年代から1960年代初頭にかけて、米国政府の援助額は極めて低水準であり、加えて日本政府援助は実施されておらず、財政規模も小さく貧困であった。1960年代半ばまで、租税の歳入比率が7割以上を占め、そして自己財源比率は8割を超えていた。歳出は政府機関費や教育費といった経常的経費が高い割合を占め、弾力性の低い構造であった。1960年代半ばから日米両政府援助が急激に増加するに及び、財政規模は拡大し、経済開発関係費や社会保障関係費に財源が振り分けられるようになった。
 琉球政府の租税制度は1949年のシャウプ勧告に基づく日本の税制に準じて構築された。上述の通り、琉球政府の租税政策はUSCARの方針に反するものであった。1960年代に入り、布令税制の撤廃を求めつつ、所得税を減税する等、日本の税制に準じた税制改正を実施したのである。米国の軍人軍属を中心とした外国人に対する優遇税制は廃止されること無く、施政権の返還まで存続した。琉球政府の税収構造は基地依存型輸入経済を反映して、輸入税的な間接税の比率の高い構造を呈した。
 1960年代半ばから、日米両政府援助の増大及び高度経済成長による税収の増加に伴い歳入構造は従前に比べて大幅に改善したが、日本の類似県の財政状況と比べた場合、琉球政府財政は国政相当事務をも担当しており、その財政構造は余りにも歪であった。財政の機能から見ると、琉球政府財政は資源配分機能を中心に、貧弱な所得再分配機能、それにビルトイン・スタビライザーによる経済安定化機能を遂行したと言える。なお、米国統治下における不可抗力な点は否めないが、公共支出政策及び租税政策として、長期的な観点からの有効な産業構造政策(資源配分機能)が実施されるべきであった。
 つぎに市町村財政についてであるが、USCARは琉球政府に財政的権能を集中させ、市町村財政を小規模に抑え、琉球政府を通して市町村をコントロールするに止めた。市町村財政に対するUSCARの直接介入はほとんど無く、僅かに高等弁務官資金を介するのみであった。琉球列島における市町村財政の仕組みは、日本の地方財政制度を参考にして構築された。市町村財政法や市町村税法、市町村交付税法等は日本の地方財政法や地方税法、地方交付税法等に準じて立法された。市町村財政はマクロ的に見ると、琉球政府財政に比べてかなり小規模であり、税源も9割近くが琉球政府に分配されていた。
 なお琉球政府と市町村の政府間財政関係は日本における国と地方との関係に類似した仕組みであった。すなわち琉球政府から市町村に対して一般財源の市町村交付税、特定財源の政府支出金がトランスファーされ、両者が市町村歳入の大宗を占めた。そして起債に際しては琉球政府の許可が必要とされた。ただ、行財政運営については日本に比べて非能率であったことは否めない。
 当該行政管轄区域における民間部門の経済活動水準を反映した市町村間の財政力格差は極めて大きなものであった。巨大産業とも言える米軍基地が立地した那覇市や沖縄島中部地域の都市化した地域における市町村は、相対的に財政力が強く、一方、沖縄島北部や離島の市町村の財政構造は一層他力本願であった。米軍基地の有無が経済水準を左右し、それが市町村の財政構造を規定していたのである。このように市町村の財政構造は脆弱で、給付した公共サービスも貧困そのものであった。琉球政府と市町村の財政関係は窮乏に喘ぐ経済主体が、さらに貧しい経済主体を援助している構図であった。
 さて、教育は琉球住民が最も重視し、傾斜的に財源を分配した分野である。米国は、占領当初から、日本の影響力を排除する方針で琉球列島統治を進めた。長期的、安定的に軍事基地を保持するため教育を重視したが、当初の教育方針は、とりわけ琉球の独自性と米国礼賛を強調する内容であった。USCARは琉球の子弟が日本の大学へ留学することを好まず、現地で指導者を要請するため、琉球大学を創設すると共に、米本国への留学を推奨した。
 USCARは布令第66号「琉球教育法」を交付し、対日平和条約発効以後の琉球列島における教育の枠組みを規定した。同法には、国民国家としての教育理念は謳われていなかった。琉球政府文教局は「日本国民としての教育」を教育基本法に明記すべく、教育関連法規の民立法を目指したが、USCARは頑なに拒否した。1957年9月における琉球政府立法院の3度目の議決によって、軍用地問題が喧しい祈り、漸く1958年1月にUSCARの承認するところとなった。この文言の教育基本法への挿入は日本政府から高く評価された。
 琉球列島における教育は、中央が琉球政府文教局と、地方が教育区によって実施された。文教局の予算過程は他の部局とは異なり、一定の独立性を持っていた。文教局は所管別で琉球政府存続20周年を通して最大の予算額を確保したが、教育に関するハード、ソフトの環境は日本の類似県に比べてかなり劣るものであった。
 教育区は米国のSchool Districtの仕組みを参考にして導入されたものであり、市町村と同一の行政区域に設置され、市町村とは別の法人格を有し、義務教育を実施した。教育区は独立した財政権を持ち、教育税[1953教育税、67廃止・市町村税に統合]を賦課したが、教育税は教育区歳入の1割を占めるに過ぎなかった。財政規模は市町村財政を上回っていた。教育税は市町村税の付加税であったこと、徴収義務が市町村長にあったこと、独立した根拠法が無かったこと、税額の決定方法、地域間格差の存在、等々の問題点があり1966年に廃止された。米国の理想を持ち込んだ教育行財政制度であり、ユニークな経験であったが、当時の琉球にはそれを実行する土壌は無かったのである。
……
(池宮城秀正『琉球列島における公共部門の経済活動』同文館出版2009.03.18)



【2010.08.05】 「沖縄の自己決定権の確立に向けて」を読む

 沖縄タイムスは7月14日から3日間、「『沖縄』と『日本』との関係については多くの議論があり、政権交代後は『差別』『抑圧』といった言葉も飛び交うようになった。そうした関係を超え、沖縄の民意を実現させるために今何が必要なのか。3人に論じてもらう。」とのリードを付して、<沖縄の自己決定権確立に向けて>と題したコラムを掲載した。今年の「5.15」をめぐっての3人の論者による連載「5.15 沖縄にとって日本とは」から、一歩踏み出す論考が並ぶ。とりわけ、トップバッターの島袋純は「独立国家の権利有する」というタイトルの下、「元来沖縄の人々には、独立して主権国家を構成し、外交も防衛も独自通貨発行もすべて自分たちで決定し実施する権利があるということである。……この半世紀は、抑圧された地域の人々が「人民」たることを宣言し承認させ、次々と主権を回復する時代となっている。……沖縄の人々が[主権の大半を回復し、現在では外交・国防を含む完全な主権回復、すなわち主権国家としての独立を目指す政党が政府を担っている]スコットランドと同じく、このような権利を持つ「人民」に相当するということになんの不思議もない。政治家や学識者のみならず報道も、この点をこれまで曖昧にしてきた。この論点を省いた自己決定権の議論は、むしろ権利を霧敗霧消、あるいは否定する役割さえ果たすことに注意しなければならない。」と書く。
 更に松島泰勝は「独立という選択」というタイトルの下、「なぜ琉球(奄美・沖縄・宮古・八重山の各諸島)は独立しなければならないのか。」と書き起こす。そして「日本国と琉球とはこれまで、支配と抵抗、差別と怒りという不幸な関係にあった。両者は対等な関係になることで、かえって隣国として友好関係を築くことができるのではないか。分離独立して世界から孤立するのではなく、琉球人の自立と自存、自らの意思で生きる権利を実現し、世界の国や地域とより深い関係を結ぶために、琉球独立という具体的な選択肢が見えてくる。」と締めくくる。

<沖縄の自己決定権確立に向けて>
 ■上■島袋 純「議論の原点と焦点 『人民』に該当する県民/独立国家の権利有する」(沖縄タイムス20100714)
 ■中■松島泰勝「独立という選択 国家の差別からの脱却/9条引き取り平和な島へ」 (沖縄タイムス20100715)
 ■下■川満信一「歴史の反省から 国家への思想乏しく/戦争体験生かし得たか」 (沖縄タイムス20100716)





【2010.07.21】 徳田匡「『反復帰・反国家』の思想を読みなおす」を読む

 <無限遡行可能な「沖縄人」という想像力の産物が「共死」へと接ぎ木される可能性を孕んでいるということなのである。>

 この一文を見た時、いささか心がざわめいてしまった。やはり「民族主義」は肯定され得ないと、改めて想い始めた時でもあったから、なおのことである。
 徳田匡が、つかみだそうとしているものは何か、未だ見えてはいない。しかし、例えば、かつて風游子が「沖縄イニシアティブの裏返し」と名付けた野村浩也(或いは「的なるもの」)に対して、<……「復帰」や「統合」の物語に対して、一見すると「拒否」を訴える言説のなかにも、「日本人」と「沖縄人」の対立を先鋭化させつつ、日米同盟という沖縄の支配体制を不問にするものも台頭してきている。野村浩也は「無意識の植民地主義――日本人の米軍基地と沖縄人」のなかで次のように述べている。……日米安保、あるいは、軍事基地という国家による暴力の独占形態の最たるものの「平等」な負担が、人びとから「屈辱」を取り除くとする転倒した理論において、「日本人」「沖縄人」という名称を使った議論は、先の明仁の「復帰を願ったことが沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、 日本人全体が心を尽くすこと」という発言と奇妙に響きあってるといえるのではないだろうか。そこでは、植民地主義批判が、「日本人」と「沖縄人」という二項対立を動員しながら、「平等」という字句でもって、国家を再統合するという転倒が起きているといえるだろう。>と指摘していることは、【Emigrant20100705】で引用した与儀秀武の問いと共に、今後、沖縄の自立解放の闘いが導く方向を指し示している、と思いたい。
 「想像の共同体」ではなく、ユーゴの悲劇でもあった「捏造された怨念《ルサンチマン》」を、これ以上「民族主義」で粉飾することを昇華させる方途に身もだえする。

徳田匡「『反復帰・反国家』の思想を読みなおす」(『沖縄の問いを立てる―6 反復帰と反国家――「お国は?」』2008.11社会評論社所収)




【2010.07.05】 與儀秀武「『逆格差論』を考える」を読む
 未来社のPR誌「未来」は、522(2010年3月号)から仲里効の<沖縄と文学批評>の連載を開始した。慌てて「未来」を定期購読したのだが、その中に、與儀秀武<「逆格差論」を考える>(523「沖縄からの報告2」2010.4)が掲載されていた。
 与儀は「そのオルタナティブな社会構想を単に楽天的に評価することではない。むしろ必要なのは、『逆格差論』が資本と国家の強制力に左右されない、新たな社会像を目指しながらも、逆に、国家と資本に結果として敗北したことを教訓的に再吟味することである。」とした上で、「普天間移設によって、あらたな国家の強制力が沖縄社会を脅かそうとする現状を前にして、おそらく問いはふたたび逆向きに問い直されなければならない。すなわち、資本と国家を相対化するような、新たな『逆格差論』を、新たな社会構想のあり方を、沖縄の現状や歴史的経験を普遍化しながら、いかに立ち上げることができるのかが、いま切実に問われていることである。」と締めくくる。

 さらに最新号526(2010.7)で、与儀は「日本と沖縄との齟齬」(「沖縄からの報告4」)と題して、カマドゥー小の会への応答かのように“たとえばここで、沖縄の過重な基地負担を全国に均等に分散すべきだとする、いわゆる「応分の負担」が、仮に完全に実現したケースを考えてみたい。”と書く。  “普天間の県外移設案が浮上する過程で沖縄側では「これ以上の基地負担は受け入れられないが、同時に自分たちが経験している基地被害を他の人々に押しつけるのも胸が痛む」という意見がしばしば地元紙上などで紹介された。沖縄の基地負担が他に分散されたとしても、単純にそれを喜ぶことができない、この複雑な心情が意味するものは、はたして何なのだろうか。”と自問し、“他地域の基地被害に対する共感という率直な心情も、戦後沖縄の歴史性から生まれた貴重な経験則だと考えられる。”と応える。そしてそれに続けて“もし、このような心情を無視して日本全体で応分の負担が達成された場合、その時に沖縄は日本という近代国民国家の一部として、調和的にその内部に位置づけられていることになるだろうか。”と重ねて問い、決して日本の一部には組み込まれない沖縄を眼差す。そうなのだ、<基地はヤマトへ>という言説は「応分負担論」という、沖縄を日本の一部に縛り付ける言説に与していることから何故、目を逸らすのだろうか。
 与儀は一つの傍証として「2010年5月11日付緊急世論調査」(沖縄タイムス)の数字を挙げる。そこでは、普天間基地の “移設先を「グアムなど海外」とした割合が76.8%と、前回(2010年4月)を5.5ポイント上回った。「沖縄県以外の国内」としたのは前回調査(18.5%)を6.3ポイント下回る12.2%となった。” もはや沖縄では県内移設は、ありえない不可能事になっている<仲井真の迷走?>が、「県外(「本土」)移設」も1/3も減少している。

「逆格差論」を考える


與儀秀武




 日本という近代国民国家のなかにあって、沖縄社会が疎外され、被抑圧的な立場に置かれていることがしばしば指摘される。その現状に対して批判的に対峙しようとするとき、その立場は大きく三つに分かれると考えられる。一つ目は、沖縄を主権国家の内部に調和的に位置づけ直すことで、発言権を獲得しようとする立場(沖縄イニシアティブ論など)。二つ目は、既存の近代国民国家の枠組みを前提としながら、沖縄が主権国家となるか、あるいは主権国家に準ずる自決権をもとうとする立場(道州制の論議を踏まえてなされる自治論、自立論など)。そして最後に三つ目は、近代国民国家の抑圧的な権力構造を踏まえ、沖縄社会を主権国家とは異なる別の理念に開こうとする立場(反復帰論、琉球共和社会論など)。以下の議論は、沖縄の今日的な実情を踏まえながら、三つ目に挙げた、主権国家でないものになろうとする沖縄の立ち位置から、どのような社会認識が垣間見えるか、という問題意識を念頭に置いて書かれている。


 昨年夏の政権交代以降、沖縄では、市街地の中心に位置し「世界一危険な基地」とも呼ばれる米軍普天間飛行場の移設問題が、名護市辺野古沖のキャンプ・シュワブ沿岸部へのV字型滑走路の建設(現行案)ではなく、県外、国外へ移転され、過重な基地負担の軽減が実現されるのではないかという気運が高まっている。県民世論調査では、「県内移設について、県民の68%が反対」(沖縄タイムス、2009年5月14日)との結果をはじめとして、従来から新基地建設に反対してきた各政党はもとより、自民党県連や沖縄経済同友会といった、従来は辺野古への基地建設を容認する立場だった組織にも県内移設反対の動きが広がり、ほぼ全県的な動向となっている。
 このような県内世論の変化をもっとも象徴的に示しているのが、今年一月に行なわれた名護市長選挙の結果である。同選挙では、普天間の辺野古移設に反対する新人の稲嶺進氏が、移設を条件付きで容認してきた現職の島袋吉和氏を破って初当選した。当選直後、報道各社の取材に答えた稲嶺氏は、あらためて「辺野古の海に基地はつくらせない」と移設反対の立場を示し、地元の民意が新基地移設反対であることを明確にしている。
 しかし、このような動きとは対照的に政府与党、民主党の姿勢は頑なである。鳩山内閣は現行案も新たな移設候補地の選択肢から除外しないまま、移設先の決定は五月に先送り。このようななかで、平野官房長官は、名護市長選で移設反対の稲嶺氏が当選した結果について「(民意を)斟酌する必要はない」と発言するほか、「法律的に合意がいらないケースもある」と強権的に移設を進める可能性にも言及した。これと前後して、政府が普天間の移設候補地として、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ陸上部をはじめとする沖縄県内の複数の場所を検討していることも報道で取りざたされている。このようななかで、沖縄ではしだいに「県外、国外移設」の主張がトーンダウンしていく鳩山政権への批判と、それを是認し、県内移設反対という沖縄県民の世論よりも、しばしば日米合意(現行案=県内移設)を優先させようとする国内メディアや国内世論に対するいらだちが高まっているように見える。
 このように普天間問題の経緯を見ていると、結局、政権交代後も日本という近代国民国家の枠組みの中にあって、沖縄社会が疎外され、被抑圧的な立場に置かれている状況は依然として変わらず、過重な基地負担は、今後も国家から暴力的に押しつけられ続けられるのではないかという懸念が膨らむ。日本という国家と沖縄社会のこのような軋轢が端的に露わになっている現状を前にすると、沖縄が日本という国家の一部に位置づけられていることはそもそもどういうことか、国家の強権や介入によらない社会の自立はどのように可能なのか、という基本的で根本的な疑問が脳裏をよぎる。
 その時に、あらためて思い返されるのは、ほかでもない。目下、普天間飛行場の移設先として取りざたされている当該地の名護市が1973年に策定し、先進的であるとして内外から注目を集めた「逆格差論」と呼ばれる地域計画の内容である。


 1972年の復帰を境にして、沖縄には日本からの大規模資本による経済開発が進んだ。75年の国際海洋博覧会の開催とも相まって、企業による土地の買い占めやリゾート開発、公共事業による資本投入は、圧倒的な勢いで復帰以降の沖縄社会を呑み込んでいった。これに対し、名護市は1973年、「名護市総合計画・基本構想」を発表し、「現金収入が少なくても、自然や文化に囲まれた暮らしこそ本当の豊かさ」という立場から、開発主義や所得格差に翻弄されない自立した地域社会の構想を模索する、いわゆる「逆格差論」を掲げ、地域おこしの新たな境地を模索した。「基本計画」では、既存の商品経済至上主義、開発主義と決別するように、以下のような姿勢が強調されている。
 「現代は地域計画が本質的に問われている時代である。我々が自然の節理を無視し、自らの生産主義に全てを従属させるようになった幾年月の結論は、今自然界からの熾烈な報復となって現われ、人間は生存の基盤そのものさえ失おうとしている。従って、名護市の総合計画を策定するに当っては、本計画が一つの地域計画として全体世界にかかわりをもち、地球上の一画を担当していることの重要な意味を認識すると共に、本市の市民一人一人に、人間として最も恵まれた生活環境を提供してゆくことに、基本的な目標をおくべきであると考える」(はじめに)
 「あなた方は貧しいのです、という所得格差論の本質とは、実は農村から都市への安価な工業労働力転出論であり、中央から地方への産業公害輸出論であり、地方自然資源破壊論であったと見ることができよう」(2、逆格差論の立場)
「たしかに復帰後、県民の日常生活の中で所得の差は大きな問題となり話題となっている。しかし、県民のこの生活実感を通した所得格差への問題意識は、所得格差論的発想ではなく、何ら本質的な施策や見通しを具体化させずに、復帰を急いだことに対する批判と考えなければならないものであろう。こうした県民の批判と生活要求の本質を認識しない沖縄開発論は、北部開発の起動力と称する『海洋博』においてすらすでに明らかな農漁業破壊の実態を見るまでもなく、自立経済の確立どころか、ついに沖縄を本土の従属地≠ニしてしか見ない本土流の所得格差論をのり超えることはできないのである」(2、逆格差論の立場)
 「逆格差論」の理念は、当時、日本全体を覆った経済至上主義の流れと真っ向から対立するものとして、県内外で反響を呼んだ。発表から37年を経た2010年の今日、あらためてその内容を目にしても、その理念はより切実な意味を帯びて私たちの社会の在り方に反省を促す視点を提示していると思える。
 筆者が、とりわけここで自身の関心と引きつけながら注目したいと思うのは、「基本計画」の文中でそのような表現が用いられてはいないものの、「逆格差論」の立論が、国家(=沖縄社会の日本への復帰)に批判的な眼差しを投げかけながら、それに依存しないような、名護の地域共同体の中にある一種の「コミューン」的な可能性を背景に成り立っている、という点である。数値化された経済指数や尺度では計れない文化、自然、生活の豊かさ。その豊かさを資本制の商品交換に拠らない相互扶助的な社会性に見る視点。そのような社会像を、過剰な拡大再生産と優勝劣敗を強いない、地産地消の経済基盤や互酬的な交換関係として再評価する姿勢。これらの特徴は、常に利子や利潤を生みだすことを強いる資本制の交換原理や、暴力を背景とした国家の強制力に翻弄されることなく、地域社会の自立した社会像を模索しようとする明確な意図に裏づけられ、立ち上げられたものであるように思う。
 あらためて考えてみると、このような社会構想は、これまでも歴史的にさまざまな形をとりながら考えられてきたものである。たとえば、マルクスが『フランスの内乱』で「パリ・コミューン」に見たように、中央集権的な権力(国家)に依らずに、諸個人の自由な連合が平等な諸関係を築く社会像。また、プルードンらのアナーキストが、貨幣の商品に対してもっている優位性(王権)を廃し、政治権力と同様に、資本の強制力を失効させ相互扶助的な「アソシエーション」を組織することによって目指した社会変革。これらの社会像を念頭に置いたとき、資本と国家の強制力とは一線を画し、新たな共同体の可能性に着目した「逆格差論」の発想が、互いに通底する問題意識をもっていることが浮かび上がってくる。


 「逆格差論」は、自由で平等な新たな社会の実現を目指した「コミューン」的な社会構想の系譜に位置づけられるものであり、オルタナティブな地域社会の在り方を志向する可能性を含むものだった。しかし、いまここで筆者が意図することは、そのオルタナティブな社会構想を単に楽天的に評価することではない。むしろ必要なのは、「逆格差論」が資本と国家の強制力に左右されない、新たな社会像を目指しながらも、逆に、国家と資本に結果として敗北したことを教訓的に再吟味することである。
 しばしば指摘されることだが、「逆格差論」以降の名護市の歩みは、自らがかつて否定した開発主義や国家への依存志向へと大きく方向転換していった。雇用の減少により若年者が外部に流出し過疎化が加速した同市は、バブル時の1988年に策定された新しい総合計画で、開発志向に大きく軌道修正した。またそれから10年後の1999年、当時の名護市の岸本建男市長は、日本政府が求める名護市辺野古沖への新基地建設を受け入れ、その見返りに莫大な政府資金で地域振興を図る道を選択した(岸本氏はかつて「逆格差論」の策定に関わった人物のひとりである)。結局、「逆格差論」以降の名護市の歩みを振り返るとき、その道行きは「逆格差論」の理念とは逆向きに、単なる「格差論」に翻弄され、国家と資本への依存を強めていくプロセスだった。
 ここから私たちは何を学ぶべきなのか。「逆格差論」から逆説的に浮かび上がるのは、国家と資本の強固さである。振り返ってみると、「逆格差論」にせよ、社会主義者の「パリ・コミューン」にせよ、アナーキストの「アソシエーション」にせよ、新たなコミューンを志向する社会構想の実践は、これまで短期的に、ローカルにしか展開されなかった。逆に、これまで長期的にグローバルに実現されてきたのは、国家と資本の運動であり、それは今日の私たちを取り巻く環境をも強固に規定している。この意味で、以下の指摘は示唆的である。「『資本論』のなかには、これまで充分に注目されてこなかった点があります。つまり、彼(マルクス−筆者注)が資本主義のメカニズムにたまらなく魅了されたのは、まさに資本主義が狂っていると同時に、〈それがゆえに〉非常にうまく機能しているという点です」(G・ドゥルーズ「資本主義と欲望について」『無人島』河出書房新社)。
 近代国民国家の抑圧的な権力構造を回避しながら、沖縄社会を主権国家とは異なる別の理念に開こうとする立場を具体化し、持続可能なものとするためには、「逆格差論」の可能性と限界を同時に見据えることが必要である。しばしば指摘されるように、絶対主義国家以降、国家と資本とは互いに密接に結びついて存在している。したがって、その強制力を除去しようとする場合、国家だけを標的にすることはできないし、資本だけを標的にすることもできない。国家の強制力を相対化し新たな社会関係を構築するためには、権力に対する批判と同様に、資本の運動を代補するような、具体的、物理的な生産−消費関係を創出することが不可欠である(国家権力を廃棄するため、マルクスやプルードンが「経済」に注目し、「資本」や「貨幣」についての内在的な分析を行なった理由は、まさにこの点にこそあった)。
 普天間移設によって、あらたな国家の強制力が沖縄社会を脅かそうとする現状を前にして、おそらく問いはふたたび逆向きに問い直されなければならない。すなわち、資本と国家を相対化するような、新たな「逆格差論」を、新たな社会構想のあり方を、沖縄の現状や歴史的経験を普遍化しながら、いかに立ち上げることができるのかが、いま切実に問われていることである。
「沖縄からの報告2」『未来』523(2010.4)




【2010.06.30】 琉球新報<復帰38年 指標で見た沖縄 経済自立に課題>を読む
 今年5月15日付けの「琉球新報」が標記の記事を掲載。その中から、自立経済に向けた「自立財政」についての興味深い数値が書かれてあった。これは、仲地博さんの「沖縄振興開発特別措置法における高率補助の諸問題」という論文(「琉球大学学術リポジトリ」1999年9月)で、地方財政に疎い風游子としては、蒙を啓かされた沖縄(地方)財政における「高率補助」問題も含め、今後の自立経済(−財政自立)を考えるに当たって、大いに参考となった。
 2011年には期限切れを迎える沖縄振興計画の延長要求に対する判断が問われている。仲地さんはこの論考で極めて慎重な言い回しながら、「高率補助」(ひいては「振興計画」そのもの)の功罪と、今流行りの言葉で言えば「事業仕分け」の必要性を訴え、さらに地方分権−自立経済の観点から、現在問題となっている「一括交付金」の先取りに似て、高率補助に代わる財政支援方式としての「交付税への算入措置」を提起している。

振興計画と高率補助
 仲地論文において、1996年段階で沖縄への国の行政投資実績は6000億円(総額49兆円の1.2%)、人口比で全国17位でしかなく、「他府県に比べ必ずしも多くない」。つまり、「琉球新報」が力説する如く、 “本土復帰後の38年間で、沖縄には総額9兆円に上る予算が沖縄振興開発事業費として投入された。”しかし“実際には国からの国庫支出金と地方交付税を合計した県民1人当たりの受益額は、2006年度で25万4843円と全国8位となる。……「最も多い県」のイメージは正しくないことが分かる。”
 「ブーメラン経済」と言われているように、「国庫」から多額の公共事業投資が沖縄に支出されても、「本土」大手ゼネコンがその大半を収奪し、沖縄現地では下請・孫請がその「おこぼれ」に与るという構造でしかないのに加えて、投資実績そのものはこの程度である。そして他方、“完全失業率や県民所得は依然として全国最悪の水準で推移している。”(前掲新報記事)と強調する。この行政投資実績において「恩恵」とされている「高率補助」が、沖縄自治研の島袋純さんはじめ多くの論者が指摘しているように、沖縄の「財政規律」の溶解をもたらし、国(−日本政府)依存を強めてきた。自立へ向かう沖縄経済を蝕んできた「基地(依存)経済」から、「公共事業(依存)経済」へスライドしたといわれる所以である。もちろん、これも単なる「公共(依存)」というより、日米軍事再編を含む新基地建設に対しての「アメ」としてばらまかれていることも特筆されねばならない。[高率補助の一例:国道改修・95%補助(本土2/3)、河川改修・90%(同1/2)、港湾改修・95%(同5.5/10)。島懇事業などは実質100%補助!]
 しかし、それに加えて、高率補助によって事業を賄えば、当然にも自治体が出費する事業費は低くなり、地方交付税交付金算定における「基準財政需要額による事業費補正」によって交付税が影響を受ける(=減額される)。つまり、「補助率が高くなれば地方交付税そのものが少なくなる」。こうして補助金と交付税を合算した、いわゆる日本政府からの「受益額」は決して多くなく、それどころか逆に沖縄自身を呪縛してさえいる。今年名護市長選勝利は、この呪縛の綻びの一端を示したと言えよう。

自治労沖縄県本部・名護市職労の「基地と振興策」(2006年)で、1997年以降「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(いわゆる島田懇談会事業)」で85億4350万円、SACO関連事業で1998年77億4344円、さらに北部振興策事業で2000年159億7930円が注ぎ込まれたが“市の財政指標は悪化の一途をたどる。経常収支比率が95%という硬直した財政構造である。/国への依存度はいっそう深まり、自立への展望は見えにくくなった。/「箱物ばかりが増えた」政府に頼り切った地域振興はいずれ行き詰まる。”と報告されている。東京・中日新聞20100504は“……名護市中心部の商店街ではシャッターの閉まった店が目立つ。……市はその金(2000〜09年度に受け取った北部振興策、米軍再編交付金などで計約四百億円)で多くの箱ものを造った。その一つが約二十三億円で完成した市産業支援センター。ところが市民の評判は芳しくなく、実際に市内では施設オープン以降も負債一億円を超える倒産が相次ぎ、失業者も多い。”と報道している。

自立財政
 振興計画−高率補助/国庫補助−交付税交付金などを、「自立経済」の観点から見ると、財政的には、「歳出と歳入」の問題が浮上する。これは日本経済−財政が「国債依存」なども含め破綻的危機を迎えていることに対する「財政政策」が問われている。(消費税増税!などと口走るしかない輩は論外である。「最低でも」「思いやり予算」の事業仕分けと累進課税の従前化が前提であろう。)
 練習問題として考えたいのが、沖縄総体の税収と支出であり、県民の納税額と日本国からの財政支出[交付金(地方交付税等)と国庫支出金]との関係である。
 前掲新報記事によれば、“全国最低の県民所得や高失業率の問題を抱える沖縄だが、県民1人当たりの税納付額は全国最下位ではない。”2007年度の国税と地方税の合計納付額は1人当たり36万8828円で全国41位だが、国税納付額は1人当たり18万8757円で全国32位である。一方、住民税(都道府県分地方税は8万3604円で、市町村分地方税も9万6467円)は全国最下位であり、これは全国最低の県民所得によるものである。一人あたりの国税納付19万円弱と国家給付25万円強をシビアに対置する必要がある。ここで、2003年度の県民総所得3兆7792億円の4.7%にまで圧縮された「軍関係受取」1783億円が一人あたり13万円になっていることも付け加えておこう。

経済政策
 財政政策−税制は既存の法制度を前提にしての検証から、独立にせよ自治・自立にせよ、自立した財政政策の構築が問われている。そして、同時に(否、まさに現在から)自立経済としての経済政策そのものが構想されねばならないだろう。

振興計画−総合事務局の廃止


[琉球新報2010年05月15日]
復帰38年 指標で見た沖縄 経済自立に課題

基地面積の比較
 復帰から満38年を迎えたが、米軍基地の集中や国の財政支援に関する指標を県民1人当たりで算出し直してみると、基地の過重な負担があらためて浮き彫りとなる。半面、全国知事会などで持たれている「基地集中の見返りに沖縄には最も多くの国費が投入されている」といったイメージが必ずしも正しくないことも浮かび上がる。一方、完全失業率や県民所得は依然として全国最悪の水準で推移している。

<補助金・交付税額>受益額最多は「誤解」

 本土復帰後の38年間で、沖縄には総額9兆円に上る予算が沖縄振興開発事業費として投入された。沖縄は「国からの財政措置が最も高い県」と見られがちだが、実際には国からの国庫支出金と地方交付税を合計した県民1人当たりの受益額は、2006年度で25万4843円と全国8位となる。九州では宮崎の26万2650円(全国4位)、鹿児島(同6位)より低い。「最も多い県」のイメージは正しくないことが分かる。
 「最も多い県」と誤解される一番の理由は、公共事業で全国一高い補助率が適用される高率補助制度にある。確かに、補助金など国庫支出金の県民1人当たりの額は、06年度で11万0694円と全国2位と高い。1位は島根で11万6620円となる。
 一方で、地方交付税の県民1人当たりの額は、14万4149円と全国16位となる。九州8県の中では、宮崎の16万4071円(全国7位)、鹿児島(同9位)などに次いで6番目だ。
 沖縄は国庫支出金が手厚い分、自治体運営に必要な基準財政需要額が小さくなるため、地方交付税の総額も縮小する構造がある。
 仲井真弘多知事は「沖縄が他府県と比べて突出して補助金とか交付金をもらっているわけではない」と指摘する。
 米軍基地負担に伴う特別交付金や、沖縄振興特別措置法に基づく恩恵を受けてもなお、国からの財政措置は「普通の県並み」だと強調している。

<失業率・県民所得>全国最悪水準続く

 2009年度の県内完全失業率は7.5%で、前年度の7.4%からほぼ横ばいだった。総務省によると全国の09年度平均の失業率は5.2%。08年秋のリーマン・ショック後の景気後退で全国の失業率は前年度から1.1ポイント悪化したが、沖縄は依然全国最悪の水準とみられている。
 仲井真弘多知事は失業率を10年に全国平均並みの4%台にするとの公約を最重要課題の一つに掲げているが、失業率は7%台で高止まり状態が続き、公約の達成は困難な状況だ。
 観光や情報通信など県経済をけん引する産業で雇用が伸びている半面、従来雇用の受け皿だった建設業界が疲弊。雇用の拡大が労働人口の伸びに追い付かないという側面もあるが、雇用吸収力のある新分野のてこ入れなどが課題だ。
 県民所得も全国最下位で依然推移している。最新の統計である07年度の1人当たり所得は204万9千円で、11年度目標の270万円超に程遠い。県によると全国平均を100とした時の指数は69.9となり、00年度よりも2ポイント格差が拡大している。

<税の納入額>1人当たり国税納付 九州3位 県地方税は全国最下位

 全国最低の県民所得や高失業率の問題を抱える沖縄だが、県民1人当たりの税納付額は全国最下位ではない。2007年度の国税と地方税の合計納付額は1人当たり36万8828円で全国41位となる。全国最下位の長崎に3万円以上の差をつけている。
 合計納付額は九州8県の中で長崎に次いで低いが、1人当たりの国税納付額は18万8757円で全国32位と順位が上がる。
 九州では福岡の28万0307円(全国14位)、大分の26万1717円(同19位)に次いで3番目に多く納税している。長崎は13万6953円で全国最下位となる。
 一方で、沖縄は1人当たりの都道府県分地方税は8万3604円で全国最下位となる。46位の長崎とは約6千円の差。市町村分地方税も9万6467円で全国最下位。46位の秋田と1万円以上の差がある。全国最低の県民所得による影響を地方でもろに受けた格好となっている。

<基地負担度>1人当たり面積、全国の280倍 嘉手納町民は1480倍

 国土面積の0.6%にすぎない沖縄に、在日米軍専用施設の約74%が集中していることは、沖縄の過重な基地負担を表す最も一般的な指標だ。これを人口当たりの米軍専用施設面積という基準に照らすと、沖縄は本土の約280倍の基地を負担している。
 県内の米軍専用施設面積は今年1月1日現在で約2万2900ヘクタール。県民1人当たり、約166平方メートルの基地を背負っている計算だ。沖縄を含む全国の専用施設面積は約3万1千ヘクタール。沖縄を除く46都道府県の国民1人当たり負担度を算出すると0.6平方メートルになる。
 極東最大の米空軍嘉手納基地などがある嘉手納町は面積の82.5%に当たる1240ヘクタールを米軍施設が占めており、住民1人当たり面積で見ると約887平方メートルで、1480倍になる。
 沖縄では、米軍が常時使用できる専用施設が県内全体の米軍基地面積の98%を占めるが、他の都道府県では専用施設が占める割合は10%。大半の施設は自衛隊基地などを米軍が一時的に使用する形になっているのも大きな違いだ。
 各都道府県の面積に占める米軍専用施設の割合を見ると、沖縄は10.1%に達するが、本土では0.02%。沖縄の負担度は単純計算で本土の500倍になる。



【2010.06.24】「名護・徳之島から5・28日米共同声明を問う」シンポジウム開催
 
[琉球新報2010年6月21日]
普天間飛行場移設問題 日米声明は民意無視 普天間問題 緊急シンポ

 パネル討論などを通し、沖縄県と徳之島が連携して米軍普天間飛行場の沖縄県内移設に反対していくことを確認した緊急シンポジウム=20日午後5時すぎ、名護市民会館
 【名護】緊急シンポジウム「名護・徳之島から5・28日米共同声明を問う」(沖縄の『基地と行政』を考える大学人の会主催)が20日午後、名護市民会館中ホールであり、名護市辺野古崎移設を明記した日米共同声明の問題点や今後の論点について意見を交換した。稲嶺進名護市長と、普天間の訓練移転候補地とされた徳之島の大久保明伊仙町長は、声明が沖縄県や徳之島の民意を反映していないと指摘。双方が連携し辺野古移設を含めた県内移設に反対していく考えを強調した。
 稲嶺氏は普天間移設に関する菅政権の方針について、「沖縄の負担軽減を添えているが、(日米共同声明の)踏襲とは辺野古ということだ」と強調し、名護市民、県民の意向を無視した声明を批判。「県外、国外(への移設)を勝ち取るには自覚的、持続的に最善の選択肢を追求し続けることにかかっている」と訴えた。
 大久保氏は「徳之島、名護市、沖縄県民が一体となって普天間基地はいらない、辺野古になぜ基地を造る必要があるのか、と政府に訴えていきたい」と、名護市や沖縄県との連携を強調した。
 宮城篤実嘉手納町長は、日米地位協定や思いやり予算を批判し、「(事態打開の手段は)世論の結集だ。立場、考え、歴史の違いを超え、心を一つに沖縄に基地はいらないというメッセージを全国に発したい」と述べた。
 民主党の鹿児島県連代表で、超党派の国会議員でつくる沖縄等米軍基地問題議員懇談会会長の川内博史衆院議員は議員懇で、参院選挙後に再度、米領グアムと北マリアナ連邦を訪れ、普天間移設受け入れを表明する新たな親書を預かる方針を明らかにした。


「日米共同声明を問う」シンポに寄せて

地域自治を取り戻す

稲 嶺   進
(名護市長)

 2010年5月28日、私たち名護市民、沖縄県民は屈辱の日を迎えた。
 昨年の衆議院選挙で「最低でも県外」という鳩山政権が誕生し、長年、日米両政府に基地問題で翻弄させ続けられた沖縄県民に希望と勇気を与えた。しかし、その思いは、はかなく打ち砕かれ、沖縄はまたしても切り捨てられたという思いを強くしている。
 5・28日米共同声明は、連立を組む3党の合意も得ず、閣議決定も得ずに発表されるという異常事態の中で強行され、そのうえ、全く地元への説明もなく、市民・県民の民意を無視、ないがしろにし、地元の頭越しにこのようなことが行われていく。全く許されるものではない。民主政治、地方主権を標榜する政権が自らそのことを否定したことにほかならない。
 国土のわずか0.6%の沖縄に在日米軍専用施設の74%の負担を65年間も強いたうえ、さらに新たな基地を押し付けようとする「辺野古合意」は「沖縄差別」そのものである。米軍基地が、我が国の安全保障のうえで、あるいはアジアおよび世界平和の維持のために不可欠というのであれば、基地の負担は日本国民が等しく引き受けるべきものである。
 1996年、普天間基地返還とSACO合意以来、辺野古のおじぃー、おばぁーたちが、自らの体にムチを打ち、2000日以上も座り込みを続け、「絶体に基地受け入れは、許さない」と、強固な決意で、大きな声を上げて頑張ってきた。その切実なる思いを察し、これ以上、つらい思いはさせたくない、早く解放させてあげたい。このことが私たちの思いである。
 私は、先の名護市長選挙において、「辺野古の海はもとより、陸上にも新たな基地は造らせない」という公約で選挙に臨み、当選することができた。前自公政権下でアメとムチの政策で、強行に進めてきたシュワブ沿岸策、すなわちV字案を断念に追い込み、今日のような流れをつくるターニングポイントになったと確信している。
 さらに、今年2月、沖縄県議会において、超党派を超え全会一致で、県外移設を求める意見書の採択につながったものと思っており、これらのことは、97年の名護市民投票の結果とねじれ現象のあった市長選挙の結果を、やっとの思いで一つにまとめた名護市民の勇気ある選択、行動が、4・25県民大会、5・16人間の輪で普天間基地を包囲する県民大行動の原動力となり、その先導役を担って頂いた名護市民を私は、誇りに思う。同様に名護市民に自信と勇気を与えていただいた県内外の大きな支援に、感謝と敬意を表したい。
 米軍普天間基地移設問題に翻弄され続ける限り、名護市民が真に幸せに生き、暮らすことのできる本来あるべきまちづくりビジョンは、決して描くことはできないものと考える。我々は、子や孫たちに、二度と苦難の歴史を歩ませるようなことがあってはならない。私たち名護市民は真の地域自治、国民主権、民主主義を取り戻すため、この「辺野古合意」を断じて認めることはできない。
 本シンポジウムでは大久保明伊仙町長や国会議員、さらに研究者の皆さんからの報告がある。それぞれが示唆に富むものになるだろう。辺野古への新基地建設反対の思いをさらに強固する理論構築の場になるよう望んでいる。
[沖縄タイムス2010年6月17日]




【2010.06.21】 山城博治参院選立候補!
 二転三転した今期参院選。しかし最終局面になって、現在の沖縄にもっともふさわしい人物が登場した。平和運動センターの山城博治さんです。これ以上の候補者は見あたらない、といっても過言ではないでしょう。「感動でした。涙と笑顔とパワーをもらった、山城博治さんの参院選出馬表明。沖縄の重大局面に、大物政治家が立ち上がりました。私からお願いします。あなたの怒りを、沖縄の誇りを、どうか山城博治さんに託してください。」というsatokukku on twitter から無断引用(笑)。11月県知事選へと続く、沖縄民主党の解体再編まで見据えての「政治決戦」とも言える闘いの幕開けです。

「沖縄の魂、自決の心は決して途切れることはない!」
沖縄平和運動センター事務局長、山城博治 インタビュー(月刊『情況』2010年4月号所収)


[沖縄タイムス2010年6月21日]
山城氏、出馬を表明 沖縄選挙区
社民・社大推薦 普天間 県外訴え


 7月11日投開票の参院選沖縄選挙区(改選1)で、沖縄平和運動センター事務局長の山城博治氏(57)=社民、社大推薦=は20日、那覇市内のホテルで記者会見し、無所属での立候補を正式表明した。
 山城氏は、政府に米軍普天間飛行場の県外・国外移設を求める立場を強調し、
 名護市辺野古周辺への移設で合意した日米共同声明の撤回を求める考えを表明。「菅直人首相も辺野古に基地を造ろうとしている。沖縄切り捨ての政府の姿勢が許せない。138万県民の怒りを示そう」と訴えた。
 消費税の引き上げについて山城氏は「断固反対する。まずは、大企業や金持ち優遇の不公平な税制度を見直すべきだ」と主張。加えて「不要不急な公共工事を中止して米軍への思いやり予算を廃止すべきだ」と強調した。
 労働者派遣法改正や最低保障年金制度導入、後期高齢者医療制度廃止、日米地位協定改定なども訴えた。
 出馬表明には、選対本部長に就任する照屋寛徳衆院議員や後援会共同代表の山内徳信、糸数慶子の両参院議員、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代氏のほか、仲村信正連合沖縄会長、比嘉勝太自治労県本委員長らが出席した。
 山城氏は1952年9月生まれ。うるま市出身。法政大学社会学部卒。82年県庁入庁。県職労副委員長などを経て、2004年4月から自治労県本副委員長、沖縄平和運動センター事務局長。08年に県庁退職。






【2010.06.20】 仲地博「国際都市形成構想と道州制」を読む
  「研究ノート」と付された本論文は、2005年3月に発行された『琉大法学第73号』に掲載されたもので、、「国際都市形成構想」をめぐる状況を丹念に検証しつつ、後に仲地「道州制論」とつながる「制度」と「政策」をトータルに捉えようとする労作である。
 「住みたい人が住める沖縄」「多様な社会が出来れば、人間のあり方も楽になるに違いない。」「国家の役割を限りなく小さくして行く。」と『情況5月号』での「沖縄州政府は『国』を問い直す」と題したインタビューでの仲地さんの発言と重ね合わせ、「道州制懇話会・最終提言」とともに読み込む必要があると思われた。もちろん、鳩山−菅と続く民主党政権が「過重な基地負担の軽減」なる言辞で、「5.28日米合意堅持」−沖縄の基地再編強化−新基地建設から自衛隊(日本国軍だ!)の増強まで射程している現在、そうした国策に沿う以外に如何なる「自治の拡充」も許容しないであろう事は火を見るよりも明らかだ。しかし、否、だからこそ、こうした営為が極めて貴重かつ重要だと思われる。


★研究ノート〔琉大法学第73号2005年3月発行・所収〕 国際都市形成構想と道州制 仲地  博




【2010.06.16】 閑話休題・沖縄の自立解放に連帯する20100615
 やはり、1月25日の名護市長選が画期であった。もちろんこれは主体に引きつけた物言いであって、前年7月の政権交代−鳩山発言が、「県外」「国外」そして「安保見直し」までの論議に火をつけた。また、新たな「買弁勢力たる下地一派」を浮かび上がらせ、仲井真県知事の迷走、2月24日での県議会での全会一致での「県内移設阻止、県外・国外移設へ」決議、さらに4月25日県民大会9万人余の結集など、紛れもなく「鳩山効果」であったろう。自公勢力が「辺野古反対」を口走り、徳之島での小池百合子の絶叫という茶番というおぞましい姿も見せつけた。
 鳩山のかくも「軽い」発言は、人物(人格)評価を退けて考えれば、麻生前総理と何ら変わりがない「政治の劣化」を白日に晒した。さて、菅新総理は?どうやらこの人物は全共闘運動の時、バリケードの向こう側に居たそうな。「新左翼活動家」だったそうな仙谷官房長官(例によって「文春」は「赤い小沢一郎」と命名したそうな)は、「5.28日米合意」にどう対処するのか。民主党政権の安定的持続のためには「瑣事」として押し通すつもりか。とすれば、「政治の劣化」を明るみに出した「政府危機」を紛れもない「政治危機」へと押し込むための闘いが問われているのだろう。

 今次の「島ぐるみ」が階級横断的な「世界的にはプロレタリア的な地位におかれ、反資本主義的な抵抗や自立を志向する、非階級的ないし趙階級的な社会集団」(中村丈夫)としての沖縄−琉球弧の浮上を促し、グァム・テニアンなどの西太平洋人民との連帯の必要性を惹起させた。そして何よりも前述した名護市長選勝利が我々に示したものは、かの「逆格差論」の「復権」であり、基地経済から公共事業・振興策経済の全き否定面の露呈ではなかったか。すなわちあらゆる依存経済からの自立の希求を垣間見せることになった。
 鳩山効果によって、連日の如く「普天間問題」がマスメディアを賑わせることによって、これらが「日本(の)問題」であるという意識は乏しくとも、沖縄差別−過重な基地負担の現実は広く共有されるに至った。もちろん、沖縄での新基地建設はもはや不可能事であり、5.28日米合意なるものの「撤回」を含め、日米同盟まで串刺しにする地歩に辿り着いたことは確かであろう。

 「民族は実在しない。あるいは単に資本家階級としてのみ実在する」というかの有名な『剰余価値学説史』を引用した山崎カヲルさんの国内植民地論を紹介した川音勉(「沖縄自立経済・再考」−初出『情況』07.3-4月号)は“「民族」をヘゲモニーとして捉えること、根本的な視点において階級闘争の観点を手放さないことが決定的である。”と言い切り、“問題は日沖関係を歴史的な支配従属の蓄積においてつかみ、さらに東アジア軍事外交関係の環としてつかむことである。差別支配であり、軍事支配であることの認識の根本的な意義がここにある。”と続ける。これは同川音論文でも紹介されている中村丈夫さんの「要は、世界的な反動とたたかうために、旧い共同体が新しい利害や意識の連帯をつうじて抵抗共同体に転生し、再建されることです。それにもとづく民族概念の拡張はまた、生産手段の非私有化とか経済の計画化とかといった手段の目的化の逆立ちではなく、労働の主体的な自己決定にもとづく新しい人間共同体、真の人間的自由を中心とする社会主義概念の変革と結びつく、と考えているわけです。」を受けた“近代世界における民族の実在性と虚構性とを踏まえ、さらに次の歴史的ステージにあって、人民的共同性のあり方を考える基礎となる指摘である。”へとつながる。

 さて、「自己決定権の確立」は、自治・自立・自決という政治的タームを引き寄せつつも、社会経済的自立(否、社会的自立は、精神的文化的自立ととも、成熟しきっていると思われるので、ここでの力点は当然にも「経済」に置かれよう)に向けて、改めて、豊かな構想力が問われている。琉球政府の経済的基礎固めと、日本と対峙する「財政的布置」は奈辺にある。





【2010.06.09】 森 宣雄「奄美と沖縄が出会うとき」を読む
 沖縄タイムス2010年5月27-8日の二日にわたって、標記の論考が掲載された。最低の「移設先」=徳之島をめぐって、沖縄では改めて「琉球弧」イメージが喚起された。それを意識したものと言えよう。「下」を採録。奄美の「祖国復帰運動の強固さ」について、若干たじろいでしまっていた風游子だが、「近くて遠い」という距離感を計りかねてもいた。

奄美と沖縄が出会うとき ▼下(抄)

森 宣雄 (聖トマス大学准教授)

学び・理解し合う時機
連帯し新政治の幕開けを


……
 奄美は1946年になって後から米軍政下琉球に統合された。その理由は、奄美がかつての琉球王国の版図であり、第2次大戦中の奄美守備軍が沖縄の第32軍の指揮下に編制されていたという、地理と歴史上の行きがかり程度で、軍事戦略的な意義や地上戦の経緯など、米軍政下に置かれる必然性はなかった。だが敗戦まで本土経済と一体化していた奄美にとって、日本との分離は生計手段を断たれたに等しい衝撃だった。
 米軍政下の奄美は、沖縄の振興に依存し寄生するその周縁部とされ、沖縄の基地建設に必要な労働力を劣悪な条件下で提供しながら、出稼ぎ労働、人身売買的な水商売、密貿易などで日常化した食糧危機をしのぐ、戦前以上に厳しい窮乏状態に置かれた。
 それゆえに奄美の日本復帰運動は、飢餓からの解放と人間の尊厳を賭けた、ストレートな生存のための運動として全奄美を覆った。そして子どもたちも参加した全郡ハンガーストライキや、住民の99%が署名した陳情書作成など、激しい復帰要求を積み重ねて、復帰は勝ち取られた。奄美は、大国や中央の都合で自分たちが切り捨てられる事態に真っ向から抵抗する歴史も切り開いてきたのである。
 鳩山首相の徳之島移設案は、歴史を動かすこうした民衆運動の力ではなく、むしろ復帰運動によって撤退させられた、米軍の奄美占領の論理を踏襲し復活させようとしたところに大きな特徴がある。これに対して徳之島の住民もまた、復帰運動を髣髴とさせる全住民規模の移設反対運動で抵抗している。今後も振興策と引き換えにした基地機能の移転要請は続けられるだろうが、奄美の軍事基地化や、島内を賛否で二分する骨肉の争いがくり広げられる悲劇は、どうしたら食い止められるだろう。
 人口規模の小さい奄美は、復帰運動の時も、内部の団結と外部へのアピール、特に世界の世論への訴えを基本戦略としてきた。現在の移設反対運動でも「沖縄の痛みは、分け合うものではなく、なくすもの」「友愛は軍縮」「核なき世界」との連帯といった主張がなされ、基地反対の世論を、迷惑施設に対する「地域エゴ」のように閉じていくのではなく、より広い視座で支持と共感を得られる道を模索している。
 これは戦略である。だが、ただの言葉あそびではない。奄美は住民の運動によって自力で軍事占領から脱した復帰運動の歴史経験を持っている。それは占領の再来を拒否する自らのよりどころとなるだけでなく、自律的な軍縮過程の一里塚として、日本の社会的な歴史記憶に刻み付けていくことのできる広がりを持ちうるものである。
 かつて、奄美の復帰が決まった時、依然占領下に留め置かれる沖縄では、それを正直に喜べない風潮が広がっていた。その当時はやむをえない面があった。だが今はちがう。奄美の復帰運動とは何であったか、敬意をこめて学びあい、互いを覆う抑圧と分断の構造をより深く理解しあうことのできる時機が訪れてきたのかもしれない、
 4日の首相の訪沖「謝罪行脚」から、3日後の総理官邸における徳之島3町長の完全拒否。そこには、首相個人の言葉の軽さばかりではなく、かつては絶大な権能を誇った国家の存在が軽くなっていく歴史の大きな潮流が映し出されていたように思う。グローバル化と情報化社会の発展の中で、トップダウンの強権発動や密約外交、脅しと懐柔で発言を硬軟使い分けるような情報操作は、いずれも無効化させられていく流れにある。
 その中で国防・安全保障といった従来「お上任せ」とされてきた問題を、どう社会が論議し、機能不全を抱えた政府をマネージしていくか。そのような新たな時代の政治の幕開けは、奄美と沖縄が出会いなおす舞台の幕開けともすることができる。(沖縄タイムス2010・05・28)




【2010.06.07】 6.3「沖縄・意見広告運動報告集会」と「カマドゥー小たちの集いの声」
 沖縄講座のMLで流された報告の再録です。(報告者Fさん、ありがとう、勝手にアップです。)


 小ホール(座席数550)をほぼ埋め尽くす参加。
 普天間基地撤去、海兵隊撤退を求める意見広告は4000人以上の賛同署名を得て、5月15日の琉球新報、沖縄タイムス、16日の朝日新聞に掲載されました。沖縄から安次富さんと高里さん、徳之島から2人が登壇して怒りのこもった発言、稲嶺名護市長からのメッセージも紹介されました。/なお、平和フォーラムからは、5月26日から28日の3日間で連立与党議員182人が「普天間を県外・国外へ」の署名に賛同したことが報告されました。この人数は、立場上署名できなかった閣僚や副大臣、政務官などを除くと与党議員の過半数を超えていたようです。/東京では国会周辺の行動だけでなく、各地で様々な緊急集会が取り組まれています。沖縄講座としても横浜で何かできないか、考えながら帰路につきました。
 先ほど菅直人が記者会見で「普天間問題は日米合意を踏まえながら、沖縄の負担軽減を重視して取り組む」「いま、『琉球処分』という本を読んでます。沖縄の歴史をあらためて学び、考えたい」などと発言していました。/鳩山が普天間問題で辞任したようなものですから、当然、5.28新日米合意の見直しに踏み込むべきでしょう。これと関連して、米国内でも普天まで鳩山を追い詰めたのは「オバマの失策」という批判も出始めているようです。
 ちょっと長いですが、中野集会の主な発言要旨です。

上原成信さん(開会挨拶)鳩山さんは少しはましかなと思ったが、県民の意思を米国に伝えるのではなく、米国の意思を県民に押しつけた。辞めて当然。1%の沖縄の声だけでは政府を動かすことが出来ない。ヤマトの中から声を上げることが必要。
 日本政府は頼りにならない。沖縄からオバマに直接訴える行動をやりたい。

山内徳信議員 日米共同声明には悔しくて涙が出た。この悔しさを希望に変えねばと誓いながら28日の夜を過ごした。先日も委員会審議で岡田外相、北澤防衛相に「沖縄は小さな針かも知れないが、針を飲み込めばのどに刺さり、肺に刺さる。」「絶対に許さないから覚えておきなさい」と一喝した。議員になってから、安倍、福田、麻生、鳩山と見てきたが、人の苦しみも悲しみも理解しない人間は総理になる資格がない。
 先日宜野湾市民との懇談で、「沖縄から米軍を追い出すのに日本政府は頼りにならない。市民が立ち上がるしかない。米国が恐れるのは市民だ」と話した。新政権がどうなるかわからないが、権力をあてにしてはいけない。平和を守る闘いができるのは民衆しかない。

安次富浩さん 無責任な政権だった。米国に顔を向け、辺野古に尻を向けた。岡田、北澤、平野、前原、鳩山は沖縄差別確信犯5人男。絶対に許さない。新政権も鳩山の敷いたレールに乗るだけだろう。鳩山が会見で「10日前から辞職を考えていた」と言ったが、沖縄県民を愚弄している。こんなひ弱な政治家を総理にさせてしまって悔しい。名護市議会は反対派12,賛成派12,中間3で拮抗している。9月12日の名護市議選でまず勝利する必要がある。11月県知事選も、海にも陸にも造らせないという知事を誕生させねばならない。民主党政権が沖縄に立ち向かってくるならば、私たちは体を張って闘う。日米共同声明は紙切れに過ぎない。
 上原さんの言うように、沖縄がホワイトハウスに、国連に乗り込むことも必要になる。それでもヤマトのみなさんが何もしないというなら、沖縄は日本の一員としてとどまる必要はない。沖縄は白鳥のように日本国家から飛び立ち、沖縄から日本をたたき出す。これは、反対協代表としての意見ではなく、私見です。いずれにせよ沖縄の自立を考えていかざるを得ない。

高里鈴代さん 日米共同声明に欠けているのは、地元の合意。新政権も、この穴の空いた「日米合意」をこのまま踏襲するならば、問題。沖縄のため、というのではなく、日本国民としてこの「合意」でよいのか、日米の軍事同盟を維持し、米軍基地を日本に置き続けることでよいのか、問われている。声明の中には「2006年5月の合意を実行する」とある。昨年の政権交代にも変わらず、自公政権時の日米合意を実行する。沖縄では「ゆくし」とは大嘘のこと。抑止はゆくしです。声明には「緑の同盟」を唄っている。戦争は最大の環境破壊なのに、戦争のための基地をエコの発想で造るなんていうのは、とんでもない。
 日本のみなさんが、日米共同声明にNO!の声を出し、共に行動することを願っています。沖縄は失望はしていますが、絶望している余裕はありません。

田川忠良さん(徳之島天城町選挙管理委員)「徳之島の自然と平和を考える会」「米軍基地移設に反対する天城町同友会」を作り、島ぐるみで反対闘争を進めてきた。6月1日の国会の委員会審議で「訓練だけでなく、基地機能の移転もあり得る」という平野答弁があった。小さな島のほとんどが基地に飲み込まれ、島民が島を出ざるを得なくなる。
 沖縄にも日本全国にも、米軍基地はいらない。日本復帰前の米軍統治下を体験している年寄りは、当時も記憶が蘇ると怒っている。長い闘いになるかもしれないが、反対運動を続けたい。

久田高志さん(天城町農業委員)共同声明の中に、「いかなる場合でも」日米合意を履行すると書いてある。これは、反対運動への脅し文句。日本政府が、警官を投入して、棒でたたいてくるのではないか。何か悪いことをしましたか。ネットでも徳之島への脅し文句のような書き込みがたくさん流されている。
 徳之島は沖縄よりも小さな声。みなさんの支援がなければ、日本国家が棒を持ってたたきにくる。しかし、もう島根性で闘うしかない。怪文書としかいいようのない日米共同声明を白紙に戻すために、力を貸してください。

武 洋一さん(関西生コン副委員長、徳之島出身)私も徳之島なので、きょうは知人の3人を徳之島からお招きした。4月の15000人を集めた徳之島住民集会には大阪から労働組合として駆けつけ、地元の方に大変お世話になった。
 問題は日米安保。関西生コン労組は6月23日に安保破棄を掲げてストライキを打つ。


 この間、「日本人は、押しつけてきた基地を引き取りなさい」ということで、「日本人」へ「基地誘致運動」を勧めている「カマドゥー小たちの集い」の「声」をアップしました。上記の報告や「琉球弧の自己決定権の樹立へ」有志連合のビラや、「沖縄州政府樹立」といった動きと重ね合わせて読むと、昨年の5/18「マーカラワジーガー/来るべき自己決定権のために」から、更に踏み出しつつあることを予感させる。問われているのは、自己決定権を獲得すべく闘い始めた沖縄に対して、立ち遅れてしまった日本プロレタリアート人民であることは確かだ。

声・こえ・KOE No.16 2010 5.16

カマドゥー小たちの集い
 わたしたちは普天間基地周辺に住む女性たちを中心にしたグループです。
 「カマドゥー小」は‥むかし、沖縄では多くの女性たちにつけられた名前です。カマドゥーとは「愛しい」「かわいい」という意味です。多くの女性たちの声を集めたいと思い、こう名付けました。

日本本土のみなさんへ
 「基地を県外へ」というのは、エゴですか?「基地を県外へ」というのは、わがままですか?日本本土のあなたのエゴやわがままで、65年間も基地を押しつけられているのです。あなたの地元で、沖縄に押しつけてきた基地を引き取る運動をしてください。今さら安保議論や抑止力論議をするまで待てなどと言わないでください。まずは基地を引き取ることです。グアムやテニアンへの移設も論外です。安保は日本とアメリカとの条約です。「国外」ではなく、あなたの責任を担いなさい。
基地は県外へ=押しつけてきた基地を引き取りなさい


基地は県外へ=とぉ・なまやさ!押しつけられた基地を日本本土へ返そう

5.16普天間基地包囲行動参加のみなさん

 このビラは沖縄の特に若い人たちに読んでほしくて作りました。「沖縄に置かれている」基地を「沖縄のもの」と思い、自分で抱えこんでしまう姿を見聞きするからです。基地は沖縄のものではありません。沖縄の空、海、大地は沖縄のものですが、そこに置かれている基地はちがいます。暴力で沖縄人の土地を奪い、安保条約の名の下に基地を置き続けている、この2点が立脚点です。

わたし達は次のように考えます。

@「自分が嫌なものを人に押しつけることはできない」に対して

 その通りです。でもそれをしているのが日本本土の人達です。まず、第一に人口が日本全体の1%にすぎない沖縄が、99%の日本本土に押しつけることができるでしょうか?できません。逆は可能です。99%が自分の嫌なものを1%に押しつけている。それが過去から現在までの日本と沖縄の形です。わたし達はそのことに気づき、「基地は県外へ」と主張しているのです。そうしなければ、沖縄の次の世代に、沖縄人が基地を押しつけることになります。

A「移設ではなく撒去を」に対して

 「基地は県外へ」は、「基地撒去」をめざして闘ってきた歴史の上に、悩みながらもやっとつかんだ言葉です。そのことを、ぜひ知ってほしいのです。沖縄人は「イクサやならんどー」という言葉を大切にして、米軍統治下の27年間、復帰後の38年間も「基地撒去」を言い続けてきました。憲法に望みを託した日本復帰では、基地が撒去されるどころか本土からも移設され自衛隊までやってきました。憲法を求めたのに安保を押しつけられたのです。それでも現在まで決議、集会、デモ、討論会、座り込み、ビラ、要請等ありとあらゆる行動を、老若男女、赤ちゃんからお年寄りまで参加して行ってきました。このことは何度言っても言い過ぎではありません。しかし残念ながら、「基地撒去」では基地は動きませんでした。
 「基地は県外へ」が具体的になって初めて、日本本土の人達は、沖縄の声を黙殺することができなくなったのです。それでも今だに「米国vs鳩山総理vs沖縄県民」という勝手な構図を作り、自分達は陰に隠れて無関係を装っています。隠れることによって「基地はそのまま沖縄に置いていた方がいい、少しは徳之島に負担させて」と発信しているのです。それなのに、日本本土の人に「基地は県外へ」と要求するのを遠慮しないといけないのでしょうか。基地を動かすためには、99%が1%に押しつけているその事実を踏まえ、基地は県外へ=押しつけてきた基地を引き取りなさい、なのです。


B「安保や抑止力、海兵隊論議を」に対して

 もちろん論議は必要です。しかし、安保に賛成でも反対でも、どちらでもない、わからない、であっても安保条約の体制下にあるのだから負担を等分するのは当たり前のことです。まずは基地を一日でも早く日本本土に引き取ってもらうのが先です。それから論議を始めてもらいましょう。それが道理というものです。



【2010.05.30】 「5・15沖縄にとって日本とは」(沖縄タイムス2010.5.12〜5.14)を読む
  5月28日に発表された「日米共同声明」なるものに対して、アイランダーさん(いつもお世話になっている)が満腔の怒りを込めて「これはまさに”琉球処分”である。我々は、屈辱の日を迎えた。……/仲間たちよ!チュルダイしている暇はない!/24時間の闘争形態に入っていることを自覚・確認しよう!」と書き込んでいました。
 もはや後戻りできない!沖縄の闘いは限界水域を超え始めた。「沖縄にとって日本とは?」やはり、この論考はアップしなければ(笑)、と思いました。仲地さん、仲里さんはもとより、復帰運動のリーダーの40年近く経ての「感懐」も、です。仲宗根さんはいつ頃から、公の場で「ヤマト」という表記を使うようになったのだろう。本土・内地・他府県・ヤマト、そして日本。

<5・15沖縄にとって日本とは>▼上・仲地 博▼中・仲宗根 悟▼下・仲里 効




【2010.05.25】 「琉球弧の自己決定権の樹立へ」を読む
 文字通りの島ぐるみ闘争として闘われた「4.25県民大会」。そこで、配布された鮮烈とも言える<ビラ>の採録です。
 「琉球共和社会連邦へ」と問いかけに、この間のややもすると不毛になりがちな論争に、鋭いEDGEが建てられた、とも言えるでしょう。それにしても、<艦砲ヌ喰ェーヌクサー><復帰ヌ喰ェーヌクサー>と続けて、「還我琉球」へ至る、この<「琉球弧の自己決定権の樹立へ」有志連合>に目を瞠らされる。
 さて、政治は何処に?それ以上に、日本プロレタリアート人民は何処にいるのだ!と自省しなければならない。


琉球弧の自己決定権の樹立へ




【2010.05.25】 反天連声明を転載しました。


【転載・反天皇制運動連絡会声明】

対米交渉を!さもなくば「普天間基地」は皇居へ!

 沖縄「普天間基地」問題をめぐる、鳩山政権の「迷走」の最悪のゴールが見えてきた。辺野古への新基地建設と、一部訓練の徳之島への移転構想を中心とする「修正辺野古案」である。また沖縄に基地を強制するプランへのまいもどりだ。
 私たちは、この問題を基地「移設」の問題ととらえることに反対してきた。「普天間基地」は沖縄戦下、米軍が「日本本土」攻撃のために占領してつくりだした基地である。その後も米軍基地として使い続けていること自体が不当であり、「移設」ではなく沖縄住民への即時無条件返還こそがあたりまえだからである。
 鳩山政権の「迷走」のプロセスは、この問題の根にある事柄を見えるものにしてきた。沖縄の米軍基地NO!の島ぐるみの声、そして徳之島住民のNO!の声が、マスメディアにもあふれている。それらは、大量の基地を押しつけられて構造的に差別され続けてきた沖縄の人びとへの「同情」を組織化しているようだ。だがマスコミの論調は、日米安保条約という軍事同盟を絶対(タブー)とし続けるものである。だから、沖縄の人びとへの「同情」という気運をも、鳩山政権の不決断と公約違反に対する批判一般にのみ解消させてしまう。安保を問わないその姿勢が、結果的に「県内移設」やむなしのムードを助長してきたのだ。そこに「修正辺野古案」というゴールが見えてきたのである。

 私たちは、この案の全面撤回をまず要求する。そして、沖縄の基地押しつけを歴史的に正当化してきた根本問題である日米安保条約(地位協定)そのものを見直すべく、アメリカの支配者と鳩山政権が外交交渉を開始すべきであると考える。
 この間、沖縄に集中する日本の米軍基地を、核武装した米軍が日本の予算に支えられて好き勝手に使えるようにするための「密約」づけの安保条約の実態が、さらに明らかになりつつある。歴代の自民党政権がアメリカと約束してきたことと、日本の住民に説明していることが、まったく反対であったのだ。大嘘をならべ、ごまかしてしか運用できない日米安保体制そのものを、いま問題にしなくていつ問題にするのか。
 米軍犯罪への裁判権を事実上放棄してしまっていることに象徴される、治外法権の「植民地支配」ともいうべき米軍の支配。それを可能にしてしまっている「密約」づけの安保体制。こうした体制をつくりだすために、昭和天皇ヒロヒトの政治的な動きがあったことは、もはや少なからぬ専門の歴史家によって明らかにされてきている事実である。
 アメリカに沖縄を売り渡すことを提案した「ヒロヒトメッセージ」は有名であるが、さらにヒロヒトが天皇制の保身のために「主権」売り渡し「外交」を積極的に展開し続けたことも、今や明白となっている。ヒロヒトメッセージの内容は、1952年に、安保条約とセットで発効したサンフランシスコ講和条約において、アメリカによって生かされた。それだけではない。佐藤栄作政権下の、米軍の核再持ち込みを認め、沖縄の核貯蔵庫の再使用を認めた「核密約」についてもヒロヒトが噛んでいた事実が、アメリカで公開された資料などで、今見えだしてきているのだ。沖縄の構造的な差別づくりの元凶は、ヒロヒト天皇個人というよりは象徴天皇制というシステムであることを私たちは忘れるわけにはいかない。

 沖縄の人びとの、せめて基地の「県外移設」を!との声は切実であり、日米安保体制が必要であるというなら、「本土(ヤマト)」で米軍基地を引き受けるべきだという声を発する権利を、沖縄の人びとは持っていると私たちは考える。私たちは日米安保条約そのものを問い直すべきだという立場であるが、だからこうした声を無視していいとは思わない。
 しかし、まずこのことだけは強調しておかなければなるまい。仮に、どうしても「普天間基地」を「移設」することでしか解決を見いだせないというのならば、この構造的沖縄差別の日米安保体制づくりの、日本側の主役であった天皇ヒロヒトの一族こそが、それを引き受けるべき歴史的責任があるという事実である。

 アメリカと交渉し、即時無条件に「普天間基地」を閉鎖し、新基地づくりの一切を認めず、海兵隊も撤退させる。この当たり前の外交交渉ができずに「移設」を考えるのなら、かつて沖縄とともに切り捨てた徳之島(奄美)などではなく、皇居にこそ移設すべきではないか。天皇一族が「普天間」をまるごと引き受けるのなら、私たちは積極的に反対する意思はない。

 鳩山政権は、日米安保条約見直しへむけて対米交渉せよ。
 さもなくば「普天間基地」は皇居へ!
2010年5月24日          
反天皇制運動連絡会   



【2010.05.20】 仲里効「琉球弧の自己決定権の樹立へ既視と未視の間の琉球政府」を聞く
 5.15を問う沖縄行動実行委員会主催の「韓国併合100年・安保改定50年・『復帰』38年を問う沖縄集会」が5月14日、浦添市社会福祉センターホールで開かれました。そこで基調報告を行った仲里効さんのレジュメの採録です。
 「制度空間と意識空間の差異と乖離」を問い糾し、「二重権力状態」の創出を想起しつつ、「自立の思想資源から<構成的権力>としての琉球・沖縄政府へ」へと締めくくった報告は、「聞く者をして震撼させた」とさえ形容できます。
 
 さて、5.16の豪雨の中の「普天間包囲=人間の鎖」への1万7千人もの参加は、平和行進などのヤマトからの参加はあれ、包囲から封鎖・閉鎖へ、人々の力によって可能である、という確かな手がかりを指し示したと言えるでしょう。「移設先探しという、日米両政府による軍事同盟堅持(深化?)の罠にはまってはならない」ということも、前日のチャモロの人々の訴えを聞くまでもなく明らかです。あの石原と並んで醜悪な橋下による「関西誘致」も、もちろん彼が大阪市を解体・制圧し、関西州(その首都に「大阪都!」)なる「絵」を書き、首都圏と並ぶ「軍事都市」を形作ろうとしていることに、警鐘乱打している人々もいます。歴代の為政者−支配階級から語られる「沖縄の負担軽減」なる甘言が、今、化粧直しをして浮上しています。こうした事態を許容すれば、「帝国主義」(野村浩也編『植民者へ――ポストコロニアリズムという挑発』松籟社2007/野村浩也「日本人という植民者」)も「植民地主義」(同前)も、永遠に終止符を打つことが出来ない、といわざるを得ないのではないでしょうか。
 支配・抑圧・差別からの解放は被支配者・被抑圧者・被差別者の決起抜きにはあり得ないし、その限りでは彼ら/彼女らの決起を促す一つの方策として、自分たち以外をすべて「支配者・抑圧者・差別者」と断罪し、糾弾する、ということは長い人民の解放闘争の歴史が教えています。部落民−一般民、障害者−健常者などの問題構制もそうです。しかし、「レイシズム」まがいのレトリックを駆使しての「民族主義の鼓吹」にはうなだれるしかありませんでした。
 高良勉さんの「大同小異」ではありませんが、味方の中に敵を作る愚だけは避けたいものです。出来得れば、敵の中に味方を作り、「好意的中立」を如何に増やすか、でしょう。


琉球弧の自己決定権の樹立へ  既視と未視の間の琉球政府

5・14レジュメ 仲 里  効

1)沖縄の民衆意識の現在…<自己決定権>
 @5・14同じ日の同じ言葉
  沖縄タイムス「5・15沖縄にとって日本とは」インタビユー(下)仲里効
 A<併合は復帰のプロセス/自己決定権問われる時期>
  琉球新報「復帰38年基地を問う日本を問う」(下)屋嘉比収<沖縄の自己決定権>
 Bごくささいな例から…「し」を「レ」としたことにみる復帰38年目の風景
  沖縄語がくぐろうとしている危機/バトリック・ハインリッヒが言う<限界言語>(消えゆく)としての沖縄語
  「……それは単に政治状況的な意味としてではなく、大げさな言い方をすれば、沖縄にマンブリーレ、沖縄をマンガタミーしていた沖縄出の)者として全存在をかけた実存的なかかわりであった」

2)一冊の遺書から…伊礼孝遺稿集「ちゃあすがくぬ沖縄」(2010/2)
 「琉球・沖縄という島唄群とそこに生きてきた人間の生き様を、この百年の近代化過程に措定し、それがいかに苛酷であったかを縦糸とし、横糸に慶良問諸島など沖縄戦における住民の虐殺、歴史的な差別と抑圧に触れ、全体として血と涙で緋色に染まった織物にして、日米の資本主義に対置することを思いついた(略)ちゃあすがくぬ沖縄、いちゃがなていいちゅら、くぬ沖縄と思いつつ執る筆は重い」(序文)
 …偽装国家日本を生蕃として生く−−わが「復帰」論の始末/「生蕃」と「熟蕃」(「生蕃として征伐された異民族」「熟蕃化を促した『日琉同祖』論」「民族統一論から植民地支配論へ」「国家制度の下では熟蕃、精神的には生蕃」など/ケラマの血はまだ乾かない−−自己教科書で語り継こう)

3)制度空間と意識空間の差異と乖離/内的境界意識
 @制度空間としては日本の一県…47分の1
 A意識空間としては準独立、半独立…47対1(林泉琉球大学准教授の「辺境東アジアのアイデンティティポリティックスとその調査」

4)再び自己決定権をめぐって…二重権力状態/自立の思想資源/琉球政府
 @琉球弧の歴史意識の潜勢カ…薩摩侵略400年、琉球処分130年の節目で、琉球弧を横断して改めて併合の意味を問い返したこと/普天間基地移設をめぐって徳之島三町長の見解(とりわけ大久保明伊仙町長の言葉)
 A琉球政府という経験…アメリカの占領システムのなかで「無権利」(布令、布告政治)状態から自己決定権を勝ち取る過程と意思形態=琉球政府、立法院…アメリカ民政府(占領権力)と日本政府に対しての二重権力状態の創出…軍事植民地沖縄のなかの、準あるいは半人民権力
 B自立の思想資源から<構成的権力>としての琉球・沖縄政府へ


<帝国主義の継続という問題の発見は、帝国主義を実践しつづけているのはいったいだれなのかという疑問を喚起する。しかも、帝国主義の実践主体を特定することは、帝国主義そのものの継続を困難化させる要因のひとつとなるのだ。したがって、帝国主義の実践主体ほど帝国主義の発見を嫌悪しがちであり、みずからをその実践主体として自主的に認めることも、ほとんどない。たとえば、帝国主義といえば、すぐさまアメリカ合州国等を連想して責任転嫁する日本人は多い。/また、日本人と名指しされることを毛嫌いする日本人も少ない数ではない。このような振る舞いによって、日本人は、ほとんど無意識的に、彼/彼女ら自身の帝国主義を隠蔽しようとしており、帝国主義の実践主体と特定されることを回避しようとしているといえよう。/帝国主義を隠蔽するのは、それが帝国主義の継続に貢献するからである。そして、多くの日本人がしばしば隠蔽、もしくは否定しようとするのは、彼/彼女ら白身の以下の現実である。すなわち、帝国主義を実践することによって沖縄人に「にが世」を強制し、七五%もの在日米軍基地を押しつけてきた張本人こそ、ひとりひとりの日本人にほかならない。いいかえれば、日本人は、「自分の運命を自分で決定することのできない境遇」を沖縄人に強いることによって、今なお植民地化しつづけているのである。日本人がこのことを否定するのは、現実を直視すればするほど不可能となるはずだ。/エドワード・サイードによれば、植民地化とは帝国主義の帰結であり、個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という。したがって、日本人が沖縄人に対して実践している帝国主義は、植民地主義と呼ぶのが適切である。伊波のことばを借りていえば、沖縄人が「自分の運命を自分で決定することのできない境遇におかれてゐる」のは、日本人の帝国主義の帰結として、植民地主義が実践されているからである。その点、伊波のこのことばは、植民地主義の定義の一部をなしているのだ。(p29〜30)>




【2010.05.13】 沖縄タイムス「4・25県民大会に向けて」を読む
 沖縄タイムスが4月19日から5回にわたっても「4・25県民大会に向けて」を連載。Emigrant【04.21】に第一回の島袋純さんの「@見せかけの主権国家/矛盾の黙認と放置に異議/米国の権利憲法上回る」を紹介したが、以下、A新城郁夫「基地の呪縛を打ち破る/新たな政治主体化の動き/国家を監視し糾す責務」、B真喜志好一「海兵隊の駐留不必要/「移設」ではなく「閉鎖」を/人権と環境取り戻せ」、C栄野川安邦「占領引きずる安保の実態/沖縄を犠牲に本土は繁栄/国外移設へ今こそ連帯」、と続き締めのDは、新崎盛暉「全国的な政治論争へ/普天間返還が平和の一歩/本質抜きの議論に終止符」。
 新崎さんは「もともと普天間基地は、戦争中に、地域住民の意思どころか、存在それ自体を無視して、戦勝者の権利として一方的に建設された軍事施設である。この基地の返還は、平和と友好への具体的第一歩を意味する。そのことを抜きにして、永続的で対等平等な友好関係などありえないというべきである。」(沖縄タイムス2010.04.23)

 その中で、新城郁夫さんが「安保の下の危機」という小見出しを付け、末尾を以下のように書いているのが印象に残った。

 アメリカの属国にすぎぬ日本の「安全保障」のツケを、沖縄が背負い込む必然はどこにもない。そもそも、日米安保条約は沖縄を蹂躙し踏みつけることで成立している条約でありほかならぬ日米安保によって沖縄の安全は危機に陥っているのである。この日米安保条約という冷戦時代の遺物は、私たちアジアに生きる者の共生と連帯に楔を打ち込むアメリカ権益のための軍事戦略なのであって、これがために東アジアの軍事的緊張が意図的に高められている。となれば、沖縄に生きる私たちは、沖縄からこそ、在日米軍撤去と日米安保条約破棄を、ためらいなく主張していっていいはずである。
 今回の県民大会は、そうした沖縄に生きる私たちの、政治的主体化の契機となりうる。基地県内移設反対という私たちの要求は、基地県外移設という米軍再編を後押ししかねない議論の枠組みをはるかに越えて、基地という呪縛そして軍隊という暴力から解かれてゆく私たち自身の政治的主体化の地平を切り開いていくことになる。その思いを抱きながら、4月25日、私は、県民大会に参加する。(沖縄タイムス100420)




【2010.05.04】 4・17高良勉講演会「沖縄の歴史と闘いから学ぶ」に参加。
 9万余の参加を得た4.25県民大会から早10日、事態は混迷を深めるばかり。鳩山政権の迷走だけではない、主体の側の混迷ぶりもあぶり出している。(※)一週間後の県民大会への諸準備に奔走している高良勉さんが、その多忙の中を17日東京そして18日静岡と、ヤマトへの訴えを聞く機会があった。
 講演会は冒頭、三線片手に「安波節」を披露。ただし会場管理者からの制動で一曲のみ。以下、当日配布されたレジュメ。「1、はじめに」で、〔よびかけビラ〕に引用された島尾敏雄の「ヤポネシアと琉球弧」にふれ、「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが本土の方に送られてくるのです。そしてそのために日本全体がざわめきます。」という〔ビラ〕を紹介した後、島尾敏雄は次のように続けていると、指摘。
 「それなのに、そのざわめきがおさまってしまうと、また琉球弧は本土から切り離された状態になってしまうという、何かそんな気がして仕方がありません。」と。

  4・17東京&18静岡・講演会 「沖縄の歴史と闘いから学ぶ」
高良 勉(詩人・批評家)
20100417・18

於・東京&静岡
T.講演

1、はじめに……島尾敏雄の予言『ヤポネシアと琉球弧』〔呼びかけビラ〕
1、はじめに……島尾敏雄の予言『ヤポネシアと琉球弧』〔呼びかけビラ〕
1−1 1949(昭和24)年 6月17日「琉球列島に関する長期政策」/琉球諸島住民は「A people without Nationality(国籍不明人)」
1−2 1968(昭和43)年…静岡大学入学。外国留学生。パスポート。
2、去年(2009年)とは
2−1 薩摩侵略(1609年)400年 「琉球新報」、「沖縄タイムス」/尚寧王の拉致と静岡(駿付城)
2−2 琉球処分(1879年)130年…アイヌモシリ(北海道)併合140年
3、今年(2010年)とは
3−1 日米安保改定(1960年)50周年…1960年のオキナワは
3−2 1970年安保改定…沖縄の「国政参加選挙」は70年11月15日
3−3 朝鮮併合(1910年)100年
4、沖縄「島ぐるみ闘争」の歴史
4−1 1956年 土地を守る島ぐるみ闘争 「沖縄土地を守る協議会」結成
4−2 1960年代 日本復帰運動
4−3 1971年 2度のゼネスト決行(5月と11月)
4−4 1995年 少女暴行事件?弾県民大会・約9万人
4−5 2007年 教科書歪曲(沖縄戦)?弾県民大会・約11万人
5、琉球弧「住民運動」の歴史
5−1 1970年代 金武湾反CTS住民運動/「海と大地と共同の力」、「ウチナーユー(沖縄世)を創ろう」
5−2 1983年〜 八重山・白保空港反対闘争
5−3 1997年〜 辺野古・新基地建設阻止闘争
6、反復帰論から琉球民族の「自決権確立」→琉球独立運動へ
6−1 1972年前後 反復帰論(新川明、川満信一、岡本恵徳)
6−2 1997年 沖縄「独立」の可能性を探る大激論会(5月)
6−3 1999年 「琉球弧の先住民族の会」(AIPR)の結成
6−4 2000年 琉球弧の自立・独立論争誌『うるまネシア』創刊…現在10号
6−5 2005年 琉球大学法文学部林泉忠教授チームの調査…沖縄独立=25%
7、琉球弧の闘いからの教訓
7−1 生活・生産・文化の三位一体の闘いを進める…反戦地主・一坪反戦地主の闘い/「軍用地を生活と生産の場へ」
7−2 「島ぐるみ闘争」の体験の蓄積を重視する…家族、地域ぐるみ
7−3 独自の闘いの歴史を大切にして「全野党共闘」の政治風土を大切にする/党派・派閥闘争よりは「小異を残して大同へ」を大切にする
8、今年「4・25県民大会」から「5・16普天間基地包囲行動」へ
8−1「4・25県民大会」…10万人以上
8−2「5・16普天間基地包囲行動」…2万人以上


U 詩の朗読

「老樹騒乱」(資料)

※ 4.21での「安保粉砕」と「自決権支持」について、疑義が出されました。「理想論」或いは「説得力を欠いている」という、いわば「空論である」という批判です。結論めいた話は軽々には導けませんが、「安保粉砕」も「自決権支持」も決して空論だとは思いません。私は政権−体制−支配階級の側が「安保堅持−日米同盟の深化」を前提に一切の問題を処理しようとしていることに、決して与してはならない、という立場です。もちろん日本−沖縄という支配構造(植民地主義的な、或いは軍事属領的な)の打破は日本プロレタリアートの責務です。しかし、これをも「空論である」と退けてしまったら、後は凡庸な民主主義しか残りません。
 鳩山政権が少しは自分の頭でものを考えたとしたら、海兵隊という殴り込み部隊(先制攻撃部隊)は「安全保障」とは無縁の存在であることぐらいすぐに分かります。日本の安全保障は、つまり日米同盟は「アメリカのいいなり」以外の何者でないことを認めたくなかったら……です。しかしそれも含め、今、生殺与奪の権は残念ながら政権の手に委ねられています。
 田仲康博さんが新刊を上梓しました。『風景の裂け目 沖縄、占領の今』(せりか書房2010年04月発行)です。そこで次の一文を見つけました。

 「単純明快に基地の閉鎖・返還を求め、その代替地などには言及しないことだ。一方で基地を押しつけておきながら、その代替地を探す、しかも県内で探すなどと言う愚を冒す必要はない。」





[2010.4.21] 「沖縄タイムス」2010.4.19を読む
 3日遅れ(笑)の沖縄タイムスを読んでいます。4月19日トップは<1万5000人「移設反対」/徳之島住民半数結集>でした。島民2万5400人の半数以上が反対に立ち上がっただけではありません。鳩山政権はとんでもない勘違いをしているようです。徳之島は「県外」だと思っているのでしょう。多くの沖縄の人々はこんな決定を決して喜んではいないのです。奄美は「兄弟の島」(「タイムス」の見出し)なのです。
 さて同日付文化欄に「4.25県民大会に向けて」というシリーズの第一回に沖縄自治研の島袋純さんが「見せかけの主権国家/矛盾の黙認と放置に異議/米国の権利 憲法上回る」と題して、ヤマトのマスメディアを始め、凡百の識者と称する人々の「蒙」(否、知りながらもそう振る舞うことの悪質さ)を鋭く突く。ただ、それは「嫌日言説」とは異なり、<政治>と誠実に向き合っているようだ。もっとも、「甘い!」という批判は承知の上です。
 さて、島袋さんは「米国の権利=日米安保体制が憲法より上位の存在であり続けてきた欺瞞」を暴く。そして「(安保)条約で書けないことを(日米)地位協定に書き、さらに地位協定にさえも書けないような国民を欺くことがらについては、密約によって、なにが何でも米軍基地の確保とその自由な使用を日本政府は保障してきた」と。しかし、彼はその末尾に「矛盾の凝縮された沖縄であるが、私たちには『希望』がある。日本を救う希望である。その希望を全国民に訴えることが今大会の意義と思う。」
 私たち日本のプロレタリアート人民は、沖縄の声に応え、「安保粉砕」の旗を再度高々と掲げる必要がある。そして「沖縄人民の自決権断固支持!」が改めて掲げられなければならないスローガンである。取り急ぎ、島袋さんの小論を接しての感想です。




[2010.04.13] 国場幸太郎「沖縄非合法共産党の活動」を読む
 国場幸太郎さんは2008年8月23日に宮崎県にて死去。沖縄タイムス2008年10月30日付の<ひと>欄に、「国場幸太郎氏を悼む/米軍圧政 不屈の闘士/解放へ理論と実践けん引」と題して、新川明が追悼文を掲載している。貴重な沖縄戦後階級闘争の生き証人とでも言うべき人を亡くしました。もっと早くアップするつもりでしたが……。下記の資料集が出版され、埋もれていた事績がよみがえった感があります。
 かなり偶然のことでしたが、もう10年近く前の2001年11月17日に、これまで戦後史の中で埋もれていた非合法沖縄共産党をめぐってのシンポジウムが、アソシエ21・日本共産党研究会が中心になって、開催されました。
 「占領下、沖縄・奄美の非合法抵抗運動について」公開シンポジウム。加藤哲朗「沖縄・奄美非合法共産党文書について」、金沢幸雄「日共51年綱領と沖縄党文書」、国場幸太郎「沖縄非合法共産党の活動」、森宣雄「奄美と沖縄の抵抗をつなぐもの」、鳥山淳「50年代沖縄・島ぐるみ闘争の背景から」、大峰林一「非合法共産党の隠蔽を追って」、松田清「奄美共産党と沖縄」など。

『戦後初期沖縄解放運動資料集全3巻』(不二出版2004.11発行)の巻別目次は次の通り。
第1巻 米軍政下沖縄の人民党と社会運動(1947〜57年)【編/解説 鳥山淳・国場幸太郎】
第1部 解説(鳥山淳)/第2部 沖縄人民党ほか戦後初期沖縄政治史資料/第3部 『人民文化』『世論週報』/第4部 米軍による沖縄社会運動間史資料(英文)/第5部 沖縄人民党・非合法共産党弾圧関連記事
第2巻 沖縄の非合法共産党資料(1953〜57年)【編/解説 加藤哲郎・国場幸太郎】
 第1部 解説1 新たに発見された沖縄非合法共産党資料(加藤哲郎)/解説2 沖縄の非合法共産党 資料研究案内(国場幸太郎)/第2部 沖縄非合法共産党関係資料(金澤幸雄氏所蔵)/第3部 非合法共産党機関紙『民衆の自由と独立のために』(渡慶次正一氏所蔵)
第3巻 沖縄非合法共産党と奄美・日本(1944〜63年)【編/解説 森宣雄・国場幸太郎】
 第1部 解説(森宣雄)/第2部 沖縄・奄美統一戦線/第3部 沖縄非合法共産党と日本共産党/第4部 日本共産党の沖縄対策


国場幸太郎「沖縄非合法共産党文書」研究案内ノート
国場幸太郎 沖縄・奄美非合法共産党文書 解説メモ


国場幸太郎



[2010.02.14] 取りいそぎリンクです。普天間基地移設についての日米両政府、及び日本国民に向けた声明(2010年1月18日記者会見発表)



沖縄の「特例型」道州制に関する提言090924
 「沖縄が発信する新しい道州制のかたちと沖縄州のすがた」という副題を持つ「沖縄の『特例型』道州制に関する提言」が、2009年9月24日に、「この提言が、沖縄の世論を喚起し、21世紀の沖縄の未来を切り拓くにふさわしい沖縄の在り様について、沖縄の人々の合意形成の一助となれば、委員一同これに勝る喜びはない。」と、沖縄道州制懇話会によって提起された。
 この懇話会は、仲地博(沖大教員)を座長に、島袋純(琉大)、吉元政矩(元沖縄県副知事)をはじめ那覇商工会議所や県経営者協会、沖縄経済同友会、複数の沖縄県議会議員や首長、そして連合沖縄から委員を募るとともに「オブザーバー」として県も企画部長クラスを参加させていた。「沖縄道州制懇話会は、2007年8月にオール沖縄的な道州制の検討機関として発足した。」という「前書き」は決して誇張ではない。もちろん、マスメディアなどから伝えられているとおり、仲地さんの八面六臂の活躍抜きには「最終提言」までこぎ着けなかったのではないかと推測される。こうした動きを含め、道州制論議に対して、冷笑的な傾向が自立独立派のごく一部に見られるが、民衆の力(何よりもウチナーンチュの)に可能性を見いだす仲地さん達の努力は高く評価されるべきであろう。
 「はじめに」では、上からの国家改造(はてさて小沢流国家改造が今後どのように進展するのかについて余談を許さないが)でしかない「道州制(攻撃?)」に対して「こうした状況の中、手をこまねいていては、自らの意思ではなく他からの力によって沖縄の形がつくられてしまう。すなわち新たな琉球処分となる可能性を否定できない。」との危機感をも表明しているが、「地域の構成員はもとより地域社会とアジア諸国との信頼と信用のネットワークを築くことを前提として外海離島に位置する沖縄が単独で州となり、変革に果敢にチャレンジすることを通じて地域を活性化し、結果として沖縄州の経済・財政基盤を確立すると共に、道州制導入によるこの『新しい国のかたち』もつくることができるとの認識で一致した。」
 【もとより、国家改造とは「日本国家解体」を射程するものであって「出来合いの国家」は使えないのは自立独立−革命派にとって自明のことであるが。】

《目 次》
T はじめに
U 道州制の意義
  (1)道州制についての全国的な推進論
  (2)沖縄道州制懇話会が考える道州制の意義
V 沖縄単独州をめざす理由
  (1)沖縄に関する基本認識
  (2)沖縄単独州の理念・目的
W 道州及び沖縄州の事務(権限)
X 道州政府及び沖縄州政府の設立の方法
Y 道州及び沖縄州と市町村のあり方
Z 道州及び沖縄州の税財政制度
[ 道州および沖縄州の機構
\ おわりに
 さて、本文に直接当たっていただきたいが、「X 道州政府及び沖縄州政府の設立の方法」について若干のコメントを。
 まずはじめに《地域住民の合意形成》を打ち出し、「@道州政府の設立にあたっては、主権者たる地域住民の授権による地方政府設立を大前提とすべきであり、国及び都道府県は、そのために必要な情報を提供し徹底した議論の場を設置する義務がある。」そして、そのための「条例制定」を掲げる。これらは一方で《住民投票》(「国は、住民投票の結果が法的拘束力を有するよう法整備を行う必要がある。」)を、他方で《国と地方の協議の場の法制化》および《道州制基本法》設定が不可欠という。
 次いで、「E沖縄県民の合意や法的整備などの諸条件が整うならば、全国に先駆けた先行モデルとして沖縄州政府を設立する。」とした上で、法律・条例の裏付けを持った《沖縄州設立のための組織》《沖縄州と国の協議機関》を構想し、最終的には「H国の法整備のいかんにかかわらず、沖縄において道州制にどう対応するかの住民意向を確認する手段として、住民による直接投票を実施するものとする。」


 琉球新報は2009年9月30日、<「特例型単独州」を最終提言 沖縄道州制懇話会仲地博座長に聞く>とインタビュー記事を掲載。次いで 沖縄タイムスは2009年10月14日と15日の両日にわたって、沖縄自治研の島袋純さん(彼は懇話会メンバー)と濱里正史さんに「道州制と沖縄」と題して、「懇話会提言とは何か」についてのコメントを掲載。


「特例型単独州」を最終提言 沖縄道州制懇話会仲地博座長に聞く

 沖縄を特例型単独州とする最終提言について「沖縄の将来像を語る素材にしてほしい」と話す沖縄道州制懇話会の仲地博座長=沖縄大学
 沖縄道州制懇話会は24日、仲井真弘多知事らに沖縄を「特例型単独州」とする最終提言を手渡した。一国多制度を前提に地域主権の確立を掲げている。同懇話会の仲地博座長(沖縄大学教授)に議論の経緯や提言内容について話を聞いた。最終提言は沖縄経済同友会のホームページに掲載されている。

 ―道州制の議論を始めた経緯は。
 「安倍内閣の下で道州制ビジョン懇談会が設置され、江口克彦座長が『沖縄と九州は一緒だ』と発言した。しかし県内議論は低調で、このままでは三度、琉球処分されてしまうとの危機意識があった。ビジョン懇メンバーの太田守明氏が、オール沖縄の世論を喚起しようと委員を集め、沖縄道州制懇話会が設置された。民間主導は全国でも例がなく、非常に意義があった」
 ―経済界や労働団体など委員構成はさまざまだった。
 「道州制をかなり勉強した人もいれば、言葉を知っている程度の人もおり、全員一致の見解にたどり着けるか不安だった。しかし、日本の国の形を考えようとするこの時期に、沖縄で自ら将来像を書いてみようと議論があったことだけでも十分に意義があると思い、座長を引き受けた」
 ―なぜ単独州なのか。「特例型」とは何か。
 「自治体は共同体意識が必要だ。沖縄は『わたしたちの九州』という意識を共有できるのか。例えば道路や新幹線建設などの広域行政の議論は、沖縄にとってほとんど意味がない。観光開発でも競合関係にある。むしろ一緒になることで産業振興や、基地問題の解決にはデメリットの方が多い。海洋の中の小さな州である沖縄特例州は、標準型の州では、国家事務とされる国境管理を行う。交易を盛んにし、外国からの誘客もできる。自立のばねになる」
 ―もめたテーマは何か。
 「10人以上の大臣が分担する事務が1人の州知事に降りてくるので、強い知事が誕生する。それに対抗するため強い議会をつくらないといけない。議会が予算編成権、立法権を独占し、地方の提案権を認めないことは相当議論した。単独州の合意に達するまでと市町村の在り方の議論にも時間がかかった。市町村合併は避けられないという意見もあったが、その規模や機能は市町村の自主性を尊重するという結論に至った」
 ―最終提言がどう活用されることを期待するか。
 「国の制度が大きく変わると、自分たちの生活にどう影響するかとマイナス思考になりがちだ。何が理想なのかをしっかり見据え、自分の足で立つ時には気概と覚悟を持たなければいけない。そのためには準備が必要になる。沖縄の将来像をどうするかという議論の素材にしてほしい」
(琉球新報2009.09.30/聞き手 与那嶺路代)

【「地方」ではない「首長」である、何でこんな間違いをしたのか、記者のレベルが疑われる、と島袋純さんいたくご立腹。


道州制と沖縄 − 懇話会提言とは何か

(上)
島袋 純



主権在民で政府設立
存立に財源保障の充実を


 沖縄道州制懇話会が2年間の議論の末、9月24日に最終の提言書を出した。懇話会は、経済同友会をはじめ経済3団体と労組の連合沖縄、市長会および町村会、県議会の与野党などに参加を呼び掛け、しかも、団体や組織の代表やそれに次ぐ役職の方々の参加を募り、その立場からの発言を最大限に尊重しつつ沖縄の自治のあるべき姿について合意を形成していくことを目指した自発的な会議体である。

「総意」こそ目的

 かりに懇話会で一致した意見や提案が出されるならば、それは単なる一党派や一利害団体の意見ではなく、党派性や利害関係を超越した沖縄社会全体の意見、すなわち沖縄の社会的な「総意」に限りなく近いものとなる。つまり、沖縄の「総意」と呼ぶにふさわしい新たな自治像の提案こそが懇話会の目的である。提言書の提案は、問題認識を共有し協力な一致意見となった部分もあるが、激論の末の妥協の産物という部分がないわけではない。しかしだからこそ意義深いと言える。
 第一に、「道州制」そのものについて懇話会でどのように議論されたか。中央や国で共通する現在の有力な提案の骨格は、・公共事業の規模の経済性を活かすため複数の府県と国の出先機関を統廃合して一体化すること、・国による財政調整を可能な限り縮小し、自前の財源でサービス共有ができるようにすること、・・と・が効率的にできる範囲で区割りし道州制を全国一律でいっぺんに政府主導で「導入」すること、である。

導入でなく設立

 このような議論を道州制の本質と捉え、沖縄道州制懇話会は、それを受け入れた中で、・沖縄について単独で国の出先と統合する「特例」とし、また・財政調整の縮小を受け入れつつ少しだけ余分に沖縄への財政移転を配慮してもらう「特例」とすることや、・「全国一律いっぺんに」を前提としつつも沖縄だけ「特例」として少し先か後に移行、というレベルの議論しかしていない、とみなす批判的意見があるが、それは抜本的に間違っている。
 まず、懇話会ではそもそも道州制の「導入」と表現する考え方がおかしいとし、それは道州制を規模の経済性や効率性を前提にする行財政制度の改革としてしか見ない証左であるとみて、そのような考え方を全面的に否定した。
 ではどういう見方かというと、道州制の「導入」ではなく、あるとすれば「道州政府の設立」であり、それはその権利を有する住民の総意に基づかなければならず、その総意が確定したところだけが道州制府を構築できるという主権在民の発想である。となれば必然的に中央主導一律一斉の道州制移行は不可能であり、各地域の実情により道州政府設立の時期も異なり内容も異なることになる。

全国論議の規範

 つぎに、道州制の「区割り」と表現されてきたところであるが、どの大きさやまとまりで道州政府を構築できるかについてである。中央発の案では、先述したように、公共事業の規模の経済性や受益と負担を一致させうる規模という視点が重要であったがゆえに上から目線の大きさでの「区割り」という表現になっていた。しかし、懇話会はその見方を否定し、現在一つの地域社会として一体感をもつ範囲でその社会を守りうる権能をもつ自治政府を構築するという、社会的な要素を最大に重視した。
 となれば、第三に、規模に関係がなく、社会的一体性のある範囲で一つの道州政府を構築するということであり、たとえ規模が小さくても地方政府の存立を可能とするように財政調整と財源保障を行うことである。財政調整・財源保障の縮小ではなく、逆に充実させることを提案するものとなる。
 つまり、中央主導で進む道州制「導入」や「区割り」の考え方を導き出す論拠を拒絶し、かりに道州制への移行が有意義であるとするならば、沖縄で考えているような住民主導・地域社会重視の民主的な道州政の府設立の仕方を、全国的な道州政府設立の一般的な原理原則とするように議論転換を懇話会は提言している。提言は今後絶大な衝撃と影響力をもつはずである。
(沖縄タイムス09・10・14)

(下)
濱里 正史



単独州の方向は必然
発展の可能性に現実味

 1963年の最高裁判決は言う。「地元公共団体といい得るためには、単に法律で地方公共団体として取り扱っているということだけでは足りず、事実上住民が経済的・文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在する必要がある」と。

独自の歴史文化

 こうした自治に関する本質論に立脚すれば、沖縄にふさわしい地方政府として道州政府を設立するためには、その基盤として共同体意識や社会的連携感が必要となる。そして、それを醸成するのは、共通の歴史認識や地理的特性、地域課題であるが、周知の通り、沖縄は独自の歴史的・地理的・文化的特性を有し、また、沖縄の最重要課題である米軍基地問題を他地域と共有することは困難である。
 したがって、自治の本質論に立脚する限り、沖縄は必然的に単独州にならざるを得ず、そのことは沖縄に住むわれわれが皮膚感覚で理解していることであろう。
 共同体意識や社会的連帯というと、何やらつかみどころのない抽象的なものと思われがちであるが、最近の研究では、これが良好な地域は、単に安心・安全で住みやすいだけでなく経済的にも発展しやすいとされている。
 したがって、沖縄において道州政府を考えるとき、共同体意識や社会的連帯を基本におくことは、沖縄の社会経済と住民生活にプラスに働くと予想される。
 また、米軍基地問題や歴史教科書問題の解決などにおいては、歴史認識と問題意識の共有が不可欠であるが、九州や他地域とこれを共有し、ともに問題解決にあたることは難しいであろう。

島嶼のメリット

 地理的特性についてみれば、亜熱帯性は、経済振興や防災対策、自然保護といった分野における沖縄独自の施策ひいては単独州の必要性につながる。島嶼性は、通常は道州制のプラス面とされるスケールメリットを働きにくくし、共通施策も見いだしにくくするため、他地域と道州を構成する理由は弱まる。
 さらに、海域面積が広大な沖縄は、海洋国家日本の国土形成に貢献しており、平和的な国土維持およびナショナルミニマムの観点から国境離島・国土形成離島への定住策を主張できる立場にあるが、そのためには、他地域の中に埋没するより、日本で唯一領域全体が外洋離島である点を強調できる単独州が望ましい。
 オバマ政権と鳩山政権が誕生した今年は、沖縄の歴史的転換点となる可能性が高い。まず、民主党が描くナショナルミニマムに基づく福祉国家への再編や食糧・エネルギー・安全保障および環境などを重視した内需型経済への質的転換は、健全な財政移転を伴い沖縄のみならず地方の経済・財政を下支えする。
 これに加えて、日米中が連携して平和と繁栄をアジアにもたらすならば、数億人の富裕層を抱える巨大マーケットが出現する。沖縄が歴史的にも地理的にも日本とアジアに開かれていることの意味は大きい。日本で最も潜在的発展ポテンシャルが高いといわれてきた沖縄がそれを現実のものにする環境が整いつつあるのである。

改革への裁量権

 必要なのは、これまでのような中央集権的なやり方を変えることである。ただし、中央政府が単に九州政府や東京政府に代わるだけのような道州制に沖縄を組み込んでも意味がない。改革の時代に必要とされるのは即断・即決とフットワークの軽さ、改革の裁量権であり、規模の小ささが逆にメリットとなる。沖縄を単独で先行的なモデル州にしようというゆえんである。
 国や地域にはある時期大きく飛躍する歴史的な旬がある。日本全体では、それが高度経済成長期であったが、戦後27年間の米軍統治を経て日本に復帰した沖縄の旬は、平和国家・福祉国家・環境国家をめざす新生日本と21世紀アジアとともにある。その沖縄の旬を実り多く意義深いものとするためには、沖縄自らが将来構想を描き、そのための方策を考え実行する権利・権限、すなわち沖縄が沖縄のことを決めることができる自己決定権を持つことが重要である。そのための器として、沖縄単独州が必要となるのである。
(沖縄タイムス09・10・15)


【2010.02.11】 琉球・沖縄歴史再考
 沖縄タイムスが2009年1月から一年間の連載(毎週)で「琉球・沖縄歴史再考」をほぼ一ページ全部を使い掲載。長元朝浩論説委員長を司会に四人の歴史家による「琉球・沖縄史を考える」という座談会(1月5日から6回に渡って連載)をプローログとした、400年/130年を見据えたもの。副題を「御取合(ウトゥイエー)400年」とし、東アジアにあって日中の狭間で、如何に琉球・沖縄が生き抜いてきたかを跡づける意欲的な試みである。取りいそぎ、第一部・近世編をアップ。


【2010.01.26】  すでに十数年前(1997年12月21日)の「名護市民投票」以来、「沖縄の民意」は明確だったのだ。前年(1996年9月)の「県民投票」においても「基地の整理縮小」がはっきりと示されていた。島懇事業・振興策による「札束でほっぺたを叩く」手法が、どのような意味でも「幸福」をもたらさないことは、明らかであった。辺野古・高江の新基地建設阻止はもちろん、普天間基地の即時閉鎖から、嘉手納を含むすべての軍事基地撤去へと、突き進む橋頭堡を打ち固める時期が来た。それこそ、400年/130年を総括し、沖縄の自己決定権を確立し、自立解放へと前進する沖縄民衆と連帯する日本プロレタリア階級人民の共同の闘いでもある。
 昨年来サイト閉鎖によって、滞っていたが、「島津侵略400年/琉球処分130年」を問う2009年の営みを少しづつではあるがアップして行きたい。[とは言え、あっちゃこっちゃ不具合ばかりで「修正・訂正」に追われています(泣)]

 2009年1月30日に開催された「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」結成集会において「<無国籍>地帯、奄美諸島」と題した前利潔の「奄美からの報告」。次いで、2009年5月16日に行われた『琉球処分130年・アイヌモシリ併合140年・「日本復帰」37年を問う沖縄集会』の基調報告<仲里効「群島状〈間・主体〉の新たなる時空へ」>と、それが掲載された月刊『情況』09・08−9合併号に、併載された<與儀秀武「薩摩侵攻400年と琉球処分130年」>。



【2010.01.11】 取り急ぎ、『世界』2009年6月号に掲載された仲里効の「天皇論」をアップ。5月16日付「琉球新報」の「佐藤 優のウチナー評論〈70〉」は、次のように書く。

…… 最新の[世界]6月号は「岐路に立つ象徴天皇制」を特集している。そこに仲里効氏が「天皇制の境界(エッジ)としての沖縄」と題する寄稿をしているが、その内容から強い知的刺激を受けた。テキストから仲里氏の知的、人間的誠実さが伝わってくる。
 あらかじめ述べておくが、筆者は保守的思想を持つ右翼の論客という自己意識を持っている。「お前は天皇主義者か?」と聞かれても、否定しない。「僕は尊皇思想は持っているけれど、それは政治的主義主張ではない。僕の心の中から沸いてくる正直な気持ちだ」と答える。仲里氏は、当然、尊皇思想などというものに肯定的価値は付与しないと思う。しかし、そのようなことは筆者にとって本質的問題でない。仲里氏の沖縄の土地と同胞に対する愛情が本物だから、この論考が筆者の琴線に触れたのだ。……



天皇制の境界としての沖縄

    −国民統合に抗う「まつろわぬ民」の島



仲里 効




沖縄――「国民統合」の欠けた環

 1987年秋、全国持ち回りで開催される一巡目の最後の国体となった沖縄国体への出席を、病のため断念したとき昭和天皇が死の床でひとつの歌を詠んだ。
  思わざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを
 昭和天皇は敗戦後まもなく「人間宣言」を行い軍服から背広に着替え、「国民」と苦楽を共にする「象徴天皇」を強く印象づけるための「全国行幸」や国体への出席によって日本のすべての県に足を踏み入れている。ただひとつ沖縄だけが残された。この天皇未踏の地に国体開催を機に訪れ〈つとめ〉を果たしたいという思いは、「戦後政治の総決算」を唱える日本政府と本土との一体化を寿ぐ天皇の臨席によって「戦後を終わらす」沖縄県の政治意図と重なるものがあった。「きらめく太陽 ひろがる友情」をスローガンにした海邦国体はスポーツの祭典ということにとどまらず、復帰15年目の沖縄にとっては、天皇と日本国と沖縄県の政治的意図がぴったりと一致した沖縄統合の一大セレモニーにもなるはずであった。だがその願いが叶えられることはなかった。昭和天皇の全国一円の「行幸」はついに未完に終わった。
 そしてひとつの歌だけが残された。円は完結せず、沖縄の戦後も終わることはなかった(終わるはずもなかったが)。天皇の名代として皇太子明仁が出席したが、皇太子明仁にとって父なる昭和の天皇が死の床で詠んだ歌に込められた〈つとめ〉はその後の沖縄行幸の原点にもなった。未完に終わった昭和天皇の〈つとめ〉を果たし、戦後を終わらせ、国民統合の円を完結させること、ここに平成の天皇の沖縄プログラムが書き込まれなければならなかった。
 ところで、では、昭和天皇が沖縄を訪ねて果たしたいと思っていた〈つとめ〉とはどのようなことを指していたのだろうか。間違いなくそれは「国内唯一の地上戦場」となった沖縄戦の死者たちを慰霊し哀悼の誠を捧げるということだった。だが、昭和天皇の歌の背後に、打ち消そうにも打ち消せない二つの責任があることをけっして見のがすことはできないだろう。二つの責任とは何か。ひとつは、1945年2月、もはや敗戦は必至で速やかに戦争終結すべきであるという近衛文麿による「和平上奏」を「もう一度戦果をあげてからでないと中々むずかしい」と退け、国体護持の有利な条件を作ろうと引き伸ばし、その遅延が「捨て石」としての沖縄の戦場に累々たる死者を重ねたことや広島、長崎への原爆投下を招いたことである。
 いまひとつは1947年の「天皇メッセージ」である。「天皇メッセージ」とは、皇室の外交顧問寺崎英成によって総司令部外交顧問ウイリアム・シーボルトを通して国務省に伝達されたもので「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望」していることとその占領は「アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる」として、さらに「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の――25年から50年ないしそれ以上の――貸与をすると言う擬制の上になされるべきである」というものである。この「天皇メッセージ」は、沖縄を対日政策の交渉のカードにすることによって戦争責任の回避と国体護持を図ろうとするもので、沖縄にとって天皇と天皇制がなんであったのかを浮かび上がらせてもいる。
 進藤榮一は『分割された領土』(岩波現代文庫)のなかで、「領土問題」と「天皇メッセージ」をアメリカの占領・対日講和政策をめぐる、対ソ戦略、アメリカ国防省と国務省、国務省内部の極東局と政策企画部、そして日本内部の宮廷・旧支配層と民主勢力などの絡み合う学力のなかで読み解いていた。「天皇メッセージ」が沖縄の長期占領への決断と全面講和から片面講和への転換であったこと、沖縄の占領継続の具体的方策が租借方式であったこと、そのことが日米安保の接点になっていたことを指摘していた。いわば天皇のメッセージは全面講和を退け、対ソ封じ込め政策をねらう片面講和から日本の武装化へと変容する冷戦の文脈と符合していたということである。「日米安保体制の原像が沖縄を結節点にして日本側から要請」された、といわれるゆえんでもある。
 ここから敗戦後精力的に行われた「全国行幸」が、天皇の戦争責任と国体護持に危機感を抱いた宮廷や旧支配層の占領プログラムへの関与と巻き返しであったことがはっきりしてくる。天皇の戦争責任は回避され「象徴天皇」という形で生き延びていった。その代償に沖縄は分割され、極東の軍事的キーストーンとしてアメリカの占領下に置かれた。言葉を換えて言えば、日本国憲法第一条の「天皇条項」と第九条の「平和条項」は、沖縄の分割と恒久基地化と抱き合わせの関係にあったということである。
 和平上奏を退けた「遅すぎた聖断」にしても「天皇メッセージ」にしても、そこに共通して貫かれているのは、天皇の戦争責任や戦後責任の免責と国体護持のための冷徹な保身の論理である。その貫徹が沖縄を本土防衛の「捨て石」にし、「分割」した。
 沖縄は明治の琉球処分によって日本の版図に組み込まれるまでは天皇制とは無縁の歴史をたどってきたが、併合後、徹底した皇民化と同化政策によって言語と主体を変更させられ、その行き着いたはてが沖縄戦に凝縮された。そして戦後はアメリカの長期の占領下におかれ、そこからの脱出の幻想を「日本」に求めた復帰運動に戦前の皇民化・同化主義の心情が流れ込んでいたとはいえ、天皇制の外を生きてきた。
 したがって72年の日本復帰後の天皇とその国家の沖縄政策の課題は、併合と分離と再併合の歴史に翻弄され、意識の深層に帰属感の揺れを住まわせ、単一的な論理では統べることはできない「まつろわぬ民」としての沖縄民衆の反自衛隊感情やアンチ天皇制感覚を鎮め、いかにナショナルビルディングに引き入れることができるのか、ということにあった。「復帰記念三大事業」と称された植樹祭、若夏国体、沖縄国際海洋博覧会は、すべて天皇や皇太子などの皇族が出席しての国家プロジェクトだったことからもわかるように、「国民統合」の欠けた環として沖縄の取り組みが企図された。昭和天皇の沖縄訪問の最初にしておそらく最後のチャンスとして計画されたのが、復帰15年目の1987年の沖縄国体であった。「天皇をお招きし沖縄の戦後を終わらせたい」という当時の県知事の意欲はまた天皇と日本国家の欲動でもあった。

平成の行幸 受け継がれた〈つとめ〉

 沖縄国体で初めての天皇来沖が大きな波紋を呼び、沖縄の内部で改めて天皇制を問う取り組みがなされたが、そのひとつとなった天皇制を問う連続講座で、色川大吉は天皇制が戦後市民社会型の「象徴天皇制」に変わってゆく変身過程を、昭和天皇と皇太子の行動を比較しながら興味深い指摘をしていた(「天皇制イデオロギーと民衆のメンタリティー」『沖縄・天皇制への逆光』所収)。それによると天皇の行動ラインと皇太子の行動ラインが見事なまでに双曲線を描いているという。つまり天皇が表に出てくるときは皇太子が沈潜し、逆に皇太子が表に出てくるときは天皇が沈潜するというのだ。天皇が転身を画するのは三つの時期があった。最初は「人間宣言」から1947年をピークとして51年までの地方巡幸で国民の中に入り込むことによって国体を守り、軍服の天皇から背広の天皇へのイメージチェンジを遂げようとした時期である。その後マスコミの世界から姿を消すが、高度経済成長期にはいった1964年の東京オリンピックに再び表舞台に登場し、しばらく閉じこもった後、75年をピークにした宮廷外交の花形としてヨーロッパやアメリカを訪問する。一方、天皇の沈潜期の59年には皇太子の成婚とミッチーブームが起こり、マイホーム型の皇室イメージを定着させ、天皇が訪欧訪米から帰った後の沈潜期に浩宮が登場する。浩宮が結婚し皇太子になると皇室ブームが起こる、という具合に天皇と皇太子や皇太孫のラインが役割を分担するように市民社会型の「象徴天皇」に変身していった、と説いていた。
 そうだとして、では昭和天皇の死による代替わりののち、「象徴天皇制」はどのように変身のプログラムを書き込んでいったのか。ここにあの昭和天皇が歌に残した沖縄をたずねて果たさんとした〈つとめ〉が重要な意味をもってくる。昭和天皇と皇太子がインプットとアウトプットを相互に補完する形で描いた双曲線を、天皇となった明仁は、皇室のタブーをこじ開けもする「開明的」なイメージで果たそうとした。
 現天皇は皇太子時代の五回を含め沖縄を八回訪問している。天皇の名代として沖縄国際海洋博覧会出席のため初めて訪沖し、ひめゆりの搭に参拝に訪れたところ、壕に立てこもった二人の青年によって火炎瓶を投げつけられる事件は、拭い去りがたい記憶としてその後の「行幸」を衝迫していたことは想像に難くない。沖縄滞在中「払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」というメッセージを発表しているが、「この地に心を寄せ続けていく」という沖縄に対する特別な思いは、父なる王の〈昭和〉に対する応答であったことは想像に難くない。
 即位10周年の会見では、〈忘れてはならない日〉として「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)」の4つを挙げ、戦後50年目の95年には「慰霊の旅」と称して広島、長崎、沖縄、そして大空襲の被災地としての東京を訪問しているが、その「慰霊の行幸」の原点となったのが沖縄であった。そのことは、琉歌を詠み、沖縄の歴史や芸能などに関心を寄せ、皇太子の浩宮にもひめゆり学徒の手記を読むように勧めたりもしていたということからもある程度想像できるだろう。また古希を迎えた03年12月23日の会見では、即位後47都道府県を一巡し、二順目のトップに沖縄訪問が計画されていたことから、沖縄に寄せられる気持を尋ねられ、この訪問が国立組踊劇場の開場記念公演を見るためであること、宮古島と八重山諸島を訪問することなどが明らかにされ、そして島津氏の血を受けていることまで言及していた。この血統発言は、島津による琉球侵略を念頭においたものであろうが、それであればこそ沖縄への理解を深め沖縄の人々への理解を深めなければならない、と言い足していた。また組踊劇場が自分の発案でできたことを示唆してもいた。これは「この地に心を寄せ続けていく」ことの天皇なりの実践例ということであり、「理解」と「和解」のイニシエーションが含意されていたはずである。

「慰霊」から「統合」へ 天皇の琉歌が無化するもの

 だがしかし、この「理解」と「和解」のソフトイメージは、たとえば「沖縄の人々は、日本復帰ということを非常に願って様々な運動をしてきました。このような沖縄の人々を迎えるにあたって、日本人全体で沖縄の歴史や文化を学び、沖縄の人々への理解を深めなければならない」とか「日本人全体で、沖縄県民が復帰を願ったことが、沖縄の人々にとって、良かったと思えるような県になっていくことを切に願っています」と、ことさらに「日本復帰」に言い及ぶとき、統合の政治的意図と抱き合わせであることがわかる。ここに沖縄という場を舞台にした、天皇自身によるもうひと組の双曲線が描かれていることに気づかされるはずだ。
 このときの沖縄訪問で注目したいのは、宮古と八重山まで足を踏み入れたことである。先島訪問は小中学校や公務員への歓迎の動員指示が問題になりはしたが、なぜかそれほど関心は向けられなかった。だがこのことのもつ意味は思った以上に大きかったといわねばならない。これまでの「慰霊」にアクセントをおいた行幸から、沖縄統合の空間イメージの細密化になっているように思えるからだ。
 この宮古・八重山訪問を注意深く見れば、日本防衛の北から南へのシフトチェンジと島嶼防衛重視という防衛構想との遠近関係になっているはずだ。ソフトイメージにくるまれた沖縄への理解と沖縄との和解の言動、そして「日本人全体」という包み込みに昭和天皇が死の床で詠んだ未完の〈つとめ〉の地金が見えてきたとしても不思議ではない。
 沖縄という地は「国民統合の象徴」としての天皇とその「象徴天皇」による「国民統合」が円環することを不断に問い続ける場でもある。「象徴天皇」への変身のために昭和天皇と相補うように戦後社会にプログラミングした双曲線を、昭和天皇亡きあとの再起動に、やはり父なる王がついに果たしえなかった〈つとめ〉は「沖縄行幸」の深層に呼びかけていたはずである。
 この〈つとめ〉において天皇明仁は二つの顔をもって沖縄の人々の前に登場する。ひとつは忘れてはならない四つの日のひとつとして「慰霊の日」を挙げたように、「言葉に尽くせない」思いを寄せる〈慰霊の使徒〉として、いまひとつは琉歌を詠み沖縄の歴史や芸能に通じた〈文化の理解者〉としてである。この二つの顔の「開明性」が父なる王の「昭和」がもった戦争と殺戮の暗いイメージを融解し、昭和と平成の断絶を印象づけたこともたしかであろう。岡本恵徳は、皇太子時代も含めたびたび天皇によって詠まれた「琉歌」のもつ無視できない効果について鋭敏に感じ取っていた。
 岡本は、88年7月第19回献血運動推進全国大会に出席のため沖縄を訪問し、大会の席上でのあいさつのなかに「ぬちどぅたから(命こそ宝)」という言葉が琉歌の一節として引用されていたことが、「きわめて印象的」であったと述べていた。
 この言葉は、沖縄戦史研究者が「玉砕」に対して瓦のようにとるにたらぬものとされようとも生命は全うされなければならないという「瓦全」とともに、沖縄戦をめぐる沖縄の民衆思想を示すものとして意義づけようとした言葉で、この主張がどのように発展していくか注目してきたが、「今回のあいさつは、このようなせっかくの努力を無駄にしかねない力を持つものであった」として、さらに「言葉の概念を一般化するという操作によって思想的な内容を無化しうるという、自明のことではあるけれども見のがしやすい問題をあらためてつきつけられたような思いであった」と語っていた。
 ここで岡本は、サンパチロクなどと称され8、8、8、6の語句を連ね、沖縄の民衆の心性や身体リズムとかかわっている「琉歌」を、ほかならぬ天皇によって詠まれることによって沖縄という場の力や沖縄の人たちの戦争体験から生まれた思想が無効にされ、無化されることのほんとうの「こわさ」に視線を届かせていた。「国民統合」の象徴の沖縄における一典型をそこに見たということであり、まつろわぬ民のまつろわぬ言語を採録することによって接合はより巧妙になされるということである。
 これまで皇太子時代を含め現天皇は多くの「琉歌」を残している。例えばひめゆりの塔火炎瓶事件のあと「花よおしやげゆん 人知らぬ魂/戦ないらぬ世 肝に願いて」(花を捧げよう 人知れず亡くなった人々の魂のために/戦争のない世を 心に願って)と詠み、海洋博で詠んだ琉歌が歌碑にもなっている即位10周年記念式典では「だんじよかれよしの 歌声の響/見送る笑顔 目にど残る」(今日のよき日の歌声の響き/見送る笑顔が目に残る)という自作の歌を演奏させたという。これらの明仁天皇の「琉歌」は昭和の天皇が死の床で詠んだ「思わざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」という歌への、〈つとめ〉を代行したところから発せられた「返し歌」だとみることもできる。
 だが、はたして現天皇による〈つとめ〉の代行によって、「捨て石」となった死者たちへの戦争責任と「天皇メッセージ」の戦後責任は解消されただろうか。象徴天皇による「まつろわぬ民」の国民統合は成し遂げえたのだろうか。

沖縄戦をくぐった感情の原基

 こう問うとき、沖縄への理解と沖縄との和解のイニシエーションの背面から、ゆるぎない輪郭をとって沖縄戦の修羅をくぐってきた感情の原基が揺れ上がってくる。目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」はあの「ぬちどぅたから」とあいさつした現天皇が皇太子時代に「献血運動推進全国大会」で来沖した時代を背景にした物語である。
 主人公で小学4年の一義少年は、両親と祖母と妹の五人家族で、祖母のウタは戦争中洞窟で病身の夫と四人の子どもを失い、戦後は行商しながら生き残った少年の父親を育てあげたが、いまでは痴呆症を患い、市場を徘徊しては漏らした汚物で商売の邪魔をしてうとまれる。
 皇太子来沖が迫るにつれ、私服の警察が少年や父親につきまとい、祖母を外に出さないよう圧力を強めてくる。圧力に屈した父親は祖母を閉じ込める。開会式のその日、少年は祖母の部屋の掛けがねをはずし、一家を苦しめている張本人に抗議するため会場近くに赴く。黒塗りの車の列に少年が近づこうとした、その瞬間、祖母のウタが高級車の前に飛び出す。罵声とともに取り押さえられるが、黒塗りの高級車のガラスに汚物にまみれた手形がついていた――。
 この物語は沖縄戦と分割された戦後を生きた沖縄の庶民の、祖母から孫に配信された感情の根を造型したものであるといえるが、その根は天皇家の血統によって引き継がれた〈つとめ〉によって償われるものではない。沖縄戦から導き出した非戦の思想を無効にする皇太子のあいさつのなかの「ぬちどぅたから」への抗いであり、なによりもまた「捨て石」となった、沖縄戦の死者たちの休まることのない遺念と「天皇メッセージ」への礫にもなっているはずだ。
 さらに言えば、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という天皇条項第一条は、沖縄がほかならぬ「天皇メッセージ」そのものが起点になった「分割」によって「総意」の外部にいたことを明るみにだす。「象徴天皇」の起源の共同性の外こそ沖縄の思想が立ち上り、立ち返る場でもある。
 平成の王は、「戦後を終わらす」ことを自らの使命とした。そしてその〈つとめ〉の原点となったのは沖縄であり、さらにその原点の原点となったのが、75年のひめゆりの搭で暗いガマの底から投げつけられた火炎であった。沖縄を原点にして、広島、長崎、東京のあとサイパンを巡る「慰霊の行幸」は、「戦後を終わらす」ことと「国民統合としての象徴」の句読点を打とうとしたと言えよう。
 問題は、「象徴天皇」の非政治に書き込まれた政治と「象徴」という〈無〉に装填された力と意味の所在をこそ、見究めることができるのかということである。日本の戦後史に、平成の天皇が父なる昭和の天皇と共同して創作した変身の双曲線は、いま、平成の天皇によって未知の線を描くかに見える。この未知はしかし、なぜか既知のようにも思える。「戦後が終われば戦前が始まる」という竹内好の言葉がにわかに瞬くのを視るのは妄想だろうか。
(世界2009.6)


【2010.01.05】 まずは「アクセスカウンター」を取り付けました(笑)

【2010.01.01】 とうとう新年を迎えてしまいました。生来の怠け者故、半年以上も放置していましたが、何人かの方からの暖かい励まし(笑)でやっと、少しだけアップしました。リンクの付け替えなど山積みです。サイト閉鎖の間もデータは少しづつ蓄えていましたので、それも順次アップしなければなりません。風游サイトをよろしくお願いいたします。

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