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島嶼沖縄の内発的発展−経済・社会・文化(藤原書店2010.03.30)
  ●目次●
  はじめに 西川 潤
  第T部 島嶼ネットワークの中の沖縄
    1 沖縄から見た島嶼ネットワーク構築−沖縄・台湾・九州経済圏の構想− 嘉数 啓
    2 辺境島嶼・琉球の経済学−開発現場の声から考える− 松島泰勝
    3 〈島嶼・平和学〉から見た沖縄−開発回路の「再審」を通して− 佐藤幸男
  第U部 沖縄とアジア
    4 周辺における内発的発展−沖縄と東南アジア(タイ)− 鈴木規之
    5 泡盛とタイ米の経済史 宮田敏之
    6 現代中国の琉球・沖縄感 三田剛史
  第V部 内発的発展の可能性
    7 沖縄の豊かさをどう計るか? 西川 潤
    8 沖縄・その平和と発展のためのデザイン−沖縄産品と内発的発展に関する一考察− 照屋みどり
    9 返還軍用地の内発的利用−持続可能な発展に向けての展望− 真喜屋美樹
  第W部 文化的特性とアイデンティティ
    10 「うない(姉妹)」神という物語−沖縄とジェンダー/エスニシティ−勝方=稲福恵子
    11 エキゾチシズムとしてのパイナップル−沖縄からの台湾表象、あるいはコロニアルな性的イメージをめぐって− 本浜秀彦
    12 奄美・沖永良部島民のエスニシティとアイデンティティ−「われわれ」と「かれら」の境界−高橋孝代
  第X部 沖縄の将来像
    13 沖縄自立構想の歴史的展開 仲地 博
    14 国際人権法からみた沖縄の「自己決定権」−「沖縄のこころ」とアイデンティティ、そして先住民族の権利− 上村英明
    15 沖縄の将来像 西川 潤・松島泰勝
  あとがき 本浜秀彦・松島泰勝



2 辺境島嶼・琉球の経済学
     ――開発現場の声から考える<抄>


松島泰勝
……略……

[4 辺境の島から内発的発展の島へ]

 日本の政府、企業、機関、移住者によって琉球は利用価値があるとされ、開発、投資の対象となり、米軍基地が押し付けられてきた。振興開発資金への依存、外部企業の支配がさらに強固になり、それらなしには琉球人が生きていけないような従属構造が形成されつつある。振興開発によるインフラ整備の主な目的は島外からの資本投下を促すことにある。
 島外企業は琉球に投資を行うが、利益を島外に還流させ、島内において資本蓄積が進まない。観光客や移住者は琉球によって「癒し」という自らの欲求を満たそうとしている。資金、技能を有する企業や移住者が中心になって島の開発が進められ、島民は「生まれ島」において脇役の地位に甘んじざるをえない場合が少なくない。
 「進んだ日本」と「遅れた琉球」が並存しているのではなく、日本経済の一部として琉球が取り込まれ、政治経済的な搾取や支配が強化されている。観光客数の増加、投資企業の増加等の経済成長は見られるが、中心地域への従属度が増すという「低開発の発展」の状況に陥っているのが琉球である。
 コールセンターや観光業に象徴されるように、島外企業が本来負担すべきコストが沖縄県庁、琉球人に転嫁されている。高失業率、全国最下位の所得によって人件費を削減し、沖縄県庁からは各種の経済支援が与えられ、琉球の低賃金・不安定雇用体制はいつまでも続いている。琉球の労働者は搾取されているのであり、沖縄県庁はその搾取構造を強固にするような各種の支援策を実施しているのである。
 IT産業は米軍基地とも無関係ではなく、基地関連の振興開発によってIT関連施設が建設され、人材育成事業が実施されている。琉球に基地を永久に存続させるために、日本政府はIT産業振興事業を利用してきたともいえる。「復帰」後40年近くたっても危険な米軍基地が押し付けられたままであり、不安定・低賃金・重労働の観光業、コールセンターも琉球に集中している。琉球を舞台にして島外企業は経済搾取を行い、観光客や移住者は「癒し」という欲望を解消し、政府は「日本の安全保障」という国益を得ていく。日本が琉球から利益を得るという構造は、軍事、政治経済・社会全般にわたって、そして近現代という時代を通じて貫徹している。
 辺境状況から脱却するにはどうすればよいのだろうか。まず、開発の計画や実施を日本政府や島外のシンクタンクに丸投げせず、大企業の誘致による経済成長を目指さず、開発資金を日本政府に期待しないという、琉球人自身の自治的自覚が求められる。1人1人の島人が「本当の豊かさとはなにか」と常に問いながら、社会経済活動に主体的に参加することで、琉球の辺境性を打破していく。本章で詳述した琉球の従属構造が形成された最大の原因は、自らの頭で考え、実践するという自治、内発的発展を放棄したことにある。他者に責任を転嫁し続けるだけでは問題は永遠に解決されないだろう。
 「復帰」後の開発の嵐に抗するように、琉球の島々では「ゆいまーる(地域の相互扶助関係)」、人・自然・文化が一体化した生活や営み、共同売店の運営、公民館を中心とした住民自治、島の憲章制定、土地の総有制等の自治、内発的発展の試みが行なわれてきた。これらの活動はそれぞれの島の文化、歴史、環境を踏まえながら琉球人自身で考え、実践してきた内発的発展の歩みである。
 他方、近代経済学の立場から、このような事例は「小さな島々での小さな取り組み」であり、琉球全体の経済政策とは無関係であるという反論を私はこれまで何度か受けてきた。しかし、琉球は39の有人島や小さな村であるシマから構成されているのであり、各島やシマにおいて自治や内発的発展が育ち、それが土台となることによって、琉球全体の自治や内発的発展が現実のものとなり、日本への依存や従属、琉球の辺境性から脱却することが可能になるのであり、逆ではない。
 沖縄県庁は経済自立という目標を掲げて、世界中の先進地域をモデルにしながら、IT産業の振興をはかってきた。だがこのような表面的に華々しい経済政策と、琉球人の過酷な労働実態とは大きく乖離しており、それを象徴するのがコールセンターの現場である。
 琉球において開発、近代化の推進者として旗を振っている人々は琉球人エリート層である。不安定でストレスも多いが、少しでも高い賃金を求めてコールセンター等で働く、契約、派遣、パート、アルバイト労働者と、エリート層との間に考え方、生活スタイルにおいて大きな距離が存在している。国家・地方公務員、教員、銀行員、日本企業の支店・営業店や県内大企業の正社員、軍雇用者等、安定した収入を得られる人々と、そうでない人々との経済格差が琉球内において明確になりつつある。
 沖縄県庁は県民所得の増大、失業率の改善、誘致企業数の増加等の数値目標を掲げて経済政策を進めている。だが人間としての琉球人のことを忘れて、数値目標だけが1人歩きしているのではないか。琉球人の精神や肉体に大きなダメージを与える労働内容を強いる島外企業の誘致であっても、数値目標が達成されればそれでいいのだろうか。人間として、琉球人として働くことに喜びを見出せるような職場や企業を1つでも生み出す手助けをすることが行政の責任であると考える。
 振興開発により社会インフラを整備することで外部から企業を誘致し、その結果、地域企業が淘汰されるという、手法において安易な、琉球人にとって過酷な政策を再検討すべきである。島外企業の要望に応えるための政策ではなく、地域企業の発展を最優先し、琉球人が労働を通して自己実現し、心身への障害を受けないで働ける職場をつくっていく、内発的発展が今こそ必要とされている。
 琉球の代表的な産業である観光業においても低賃金、重労働、不安定雇用の労働者が多く、離職率も高い。経済数値だけに基づいて琉球の現状を分析し、将来像を描くのではなく、実際の経済活動に従事する労働者の悲しみや苦悩の声を同じ当事者として受け止めて、琉球の未来を構想しなければならない。
 琉球の内発的発展は、1人1人の琉球人自身の問題であり、自らの頭で考え、悩み、抵抗し、行動することによってしか実現しない。その内発的発展によって琉球は自らの事大主義を乗り越えることができよう。



8 沖縄・その平和と発展のためのデザイン
     ――沖縄産品と内発的発展に関する一考察


照屋みどり
[はじめに]
 
1 「県産品愛用運動」(1)
 財政依存や基地依存など、現在の沖縄経済が依存型であることは否めない。しかし、沖縄の経済界、各企業には、沖縄の経済自立への悲願がある。そして市民の側にも自立への強い願望がある。
 例えば、米軍占領下の1950年代、貿易の自由化により日本から製品が大量に輸入されるようになると、琉球政府は産業振興計画を策定し、その取組みの一つとして、1954年、経済団体と共催し「島産品愛用運動」をスタートさせた。その運動の趣旨は、「一、産業生産の担い手である生産者の生産意欲の高揚を図る。二、島民の島産品に対する意識の啓発を促し、もって琉球島内産業振興に資する」というものだった(工連五十年史編集委員会[以下、工連]2003:45)。「島産品愛用運動」は、その後「日本復帰」に伴い「県産品愛用運動」と名称を変え今日まで続けられている。約400の企業が所属する沖縄工業連合会(工連)等を中心に、1977年からは毎年秋に「沖縄の産業まつり」が、1984年からは毎年7月が県産品奨励月間と設定され、各種事業およびキャンペーンが実施されている。
 また、1977年には、「沖縄県婦人連合会」と「かしこい消費者の会」が「県産品の愛用は、まず味噌・醤油から」と題する消費者向けチラシを作成、配布した。文面は次の通りだった。
 「県産品は、郷土でつくられた手づくりの商品です。私たち消費者がすすんで使用することによって需要が伸び、よい商品が開発され、ひいては県経済を豊かにし、私たちの生活がうるおうことになります。とくに不況のなかで失業者の多い沖縄では、地場における企業の育成は重大な意義を持っています(以下、略)」(工連2003:97)。
 上述の「沖縄の産業まつり」にも例年多くの市民が参加する。入場者数は21万9,000人(2008年10月24日―26日開催)と、市民の沖縄産品への関心は非常に高い。

2 内発的発展の定義
 内発的発展の定義は、西川(2001:14)によると、「第一に単に外生的な発展の波に追随するのではなく、自分固有の文化を重視した発展を実現していく自立的な考え方であり、第二に人間を含む発展の主要な資源を地域内に求め、同時に地域環境の保全をはかっていく持続可能な発展であり、第三に地域レベルで住民が基本的必要を充足していくと共に、発展過程に参加して自己実現をはかっていくような路線である」である
 先に述べたように沖縄には「県産品愛用運動」など、行政・経済界・各企業・市民の側それぞれに、内発的発展の土壌があると考えられる。本章では、「伝統工芸品」と「かりゆしウェア」という沖縄産品の業界の現状を内発的発展の視点から考察してみたい。
 
[1 外国産商品に脅かされる伝統工芸業界]

1 沖縄の伝統工芸品の歴史と現状

 沖縄の伝統工芸品は、独自の歴史と文化を背景に発展し、日本への併合や沖縄戦での多大な打撃を経た後も、職人たちの尽力によって甦り、さらなる発展の可能性を有している。しかし、以前から沖縄以外でつくられた沖縄産風の商品が市場に出まわり、本物の沖縄産伝統工芸品が少なからず影響を受けてきた。さらに、近年では外国産商品の技法が高度化したり、沖縄の企業が外国に生産の拠点を持つようになるなど、その影響が強まっている。本節では、外国産商品によって特に脅かされている陶器、琉球ガラズ、琉球漆器について簡単にその歴史と現状を述べる。

(1)陶器
 琉球の陶器は、大交易時代(14世紀後半―16世紀)に中国や東南アジア諸国との交易を通して質的向上が図られ、17世紀には朝鮮陶工の指導を得たり、沖縄人自身が中国に渡り技術を磨くなどして発展した。沖縄戦でも壷屋(当時の主たる窯場であった)は、奇跡的に他地域より被害が少なくてすみ、戦後、早い時期から生活必需品がつくられるようになった。また、魔よけとされる「シーサー」を専門につくる工房も多い。
 沖縄には陶器に適した土が豊富にあり、原料である陶土もほとんどが沖縄内で供給されている。資源の面でも内発的発展的側面を持つ。2007年の従業者数は372人、生産額は9億9300万円だった(沖縄県観光商工部商工振興課 2009:47−48)。

(2)琉球ガラス
 沖縄でガラス製造が開始されたのは約100年前だといわれている。当時は「ランプのほや」や「蝿取り器」などの生活必需品がつくられていた。沖縄戦によってガラス工場も破壊されてしまうが、戦後、関係者の強い要望で再開される。戦後は、駐留する米軍人向けの「水差し」「コップ類」「パンチボール・セット」などの需要が大きく、この時期に琉球ガラスとしての産業の基盤が出来あがった。
 現在では、珪砂等の原料から製造する工房も多いが、伝統的である、廃瓶やガラス片を原料とした製造を守る工房もあり、「地域環境の保全をはかっていく持続可能な発展」という内発的発展の要素を持つ。2007年の従業者数は241人(2)、生産額は8億9600万円(前掲)。

(3)琉球漆器
 琉球漆器は、中国からいろいろな技術を導入し、14世紀頃からつくられたといわれている。16世紀の終わり頃には琉球王府が貝摺奉行所を設け漆器づくりを守り育てた。元々は、デイゴやガジュマルなど地元の木材を使用していたが、調達が困難になったため、40年程前からさとうきびのしぼりかすからつくられるバガスを木地とする製品もつくられるようになっている。「発展の主要な資源を地域内に求め、同時に地域環境の保全をはかっていく持続可能な発展」の要素を持つ。2007年の従業者数は82人、生産額は2億7700万円だった(前掲)。

2 外国・他県産の沖縄風工芸品

(1)愛知県業者によるシーサーの卸
 2005年、筆者が勤務している会社の工芸品専門店に愛知県の業者がシーサーの営業に訪れたことがある。同店の店長が沖縄産のものしか扱っていない旨を説明すると、それ以上の売り込みはなかったという。しかし沖縄産にこだわっていない店舗では、「他県でつくられたシーサー、あるいは他県の業者によって企画され、外国で製造されているシーサーが扱われている」との批判もある。

(2)R組合
 R組合は、1985年に開業した沖縄のガラス工芸の協業組合である。1995年、ベトナムに100%出資の子会社を立ち上げ、2004年11月現在で、280人の従業員を抱え、ベトナムの平均給与6千円に対して、同組合では、平均1万円を支払っているとのことである。年間生産個数300万個の大半が日本に輸入されている(『沖縄タイムズ』2004年11月13日)。

(3)O社
 O社は、沖縄の大手企業の子会社で、2006年3月、琉球ガラス等の製造のためにベトナム工場を完成させた。同社はベトナム進出の理由として、ガラスの原料となる珪石が豊富にあることや人件費の安さ、工場を置く工業・工芸区への投資優遇措置の適用などを挙げている。製品は、沖縄に設立した子会社が輸入し県内外に販売するとしている(『琉球新報』2006年2月8日)。

(4) 琉球漆器業界
 移輸入された半製品を沖縄で再加工した漆器や、生地加工から加飾まで全工程を海外で行ったとみられる漆器が、それらの説明が無く、あるいは説明が不十分な状態で販売されているようだとの懸念が関係者の間で広がっている。沖縄産ではないとみられる漆器のなかには、木地(器)が割れてしまうなどの品質上の問題も起きており、琉球漆器への信頼を損ねかねない事態にもなっている。



3 外国産沖縄風商品の問題点

(1) 消費者からの信頼失墜
 現在最も問題になっているのが、外国で製造した商品を、原産国を表示せずに販売しているケース、もしくは表示・説明が不十分なケースである。
 沖縄の伝統工芸品の大きな特徴は、その背景に沖縄という土地の文化・歴史を有しているということにあるだろう。沖縄の伝統工芸品を購入している消費者のほとんどは、それらが沖縄でつくられていて、沖縄の文化を内包していることに魅力を感じて購入しているのではないだろうか。実際、ブログなどでも、沖縄産だと信じて購入したにもかかわらず、その後その商品が外国産だとわかり落胆したとの声が多くみられる。
 沖縄でつくられていないものを、原産品をきちんと表示せずあたかも沖縄でつくったかのようにみせることは、原産国虚偽表示・原産地誤認惹起行為であり、消費者を騙す行為だといっても過言ではない。また、そのような行為によって沖縄の伝統工芸品全体が信頼を失いかねない。

(2) 価格競争・他地域への技術移転による沖縄伝統工芸業界停滞の恐れ
 海外で製造する理由に、製造原価が押さえられていることが挙げられているが、それはまた、価格競争を沖縄の伝統工芸業界に持ち込むということでもある。例えば、先にふれたように、外国での平均1万円という給与は、沖縄の10分の1以下である。このような状況では、沖縄の工房が従業員に適正な給与を支払ったり、発展のための投資を行ったりすることは困難である。業界の停滞が懸念される。
 また、沖縄の伝統工芸品づくりが他地域に技術移転されている点も、沖縄で地道に生産している職人にとって脅威である。R組合によると、「ベトナムで生産しているのはガラス商品、小皿や灰皿など、比較的簡単な日用雑貨品が中心ですが、現在ベトナム工場で働く職人の技術力は沖縄の職人たちでさえ脅威に感じるほど上達しています。技術的に少し難しい新商品の開発依頼をするとすぐに技を吸収するので、沖縄の職人も中途半端な技術力しかないと、逆にベトナム人から笑われてしまうような状況です」(中小企業基盤整備機構ホームページ www.smrj.go.jp/keiei/kokurepo/case/backnumber/007123.htmlより、2005年7月掲載記事)。

4 沖縄伝統工芸業界の新たな取組み
 原産国非表示表品に悩まされ、大手企業が新たに外国に拠点を設立することなどに危機感を持った関係者によって、2006年8月、「沖縄産工芸品販売推進協議会」が設立された。会員は、多くの組合員が加盟している壷屋陶器事業協同組合や、琉球びんがた事業協同組合、県の第三セクターである(株)沖縄県物産公社などを含め55団体で構成されている。
 協議会の目的は、「沖縄工芸業界の様々な工房や個人・企業・団体を組織化し、消費者に誤解を与えるような海外製沖縄風工芸品や、模倣製品に対する予防対策と沖縄産工芸品販売に関するキャンペーン活動」である。当面は、消費者に誤認を与えている外国産沖縄風工芸品に対する民事警告や、同問題の認識を広めるキャンペーンなどを事業活動とする。
 同協議会の動きを背景に、沖縄で地道に琉球ガラスをつくり続けている工房と流通業者が、2008年1月、ベトナムで製造されたガラス製品を販売する際に「琉球ガラス」の表示を使用するのは不正競争防止法に違反するとしてR組合関連企業を提訴した。
 また、2008年3月には、沖縄で琉球ガラスを生産している工房と、沖縄産の琉球ガラスのみを扱う流通業者によって「琉球ガラス生産・販売協同組合」が設立された。安価な外国産のガラス製品が出回り、消費者の琉球ガラスへの信頼を損ねかねない状況を改善することを目的とし、効率性の良い窯の研究をすすめたり、協同販売等積極的な活動を行っている。
 琉球漆器業界でも、沖縄産にこだわった工房が、輸入品をごまかして販売しているとみられる工房に注意を促したり、行政に不正な販売の阻止にむけた協力を求めるなどの動きがある。

[2 かりゆしウェア]

1 かりゆしウェアの歴史

 今日、沖縄のビジネスの場や、冠婚葬祭などフォーマルな場で多く着用されているかりゆしウェア(「かりゆし」とは、沖縄語で「めでたいこと」や「縁起の良いこと」を意味する)の誕生のきっかけは、1968年といわれている。元沖縄県ホテル旅館生活衛生同業組合(以下、ホテル組合)の理事長・宮理定三氏が、ハワイの観光視察に行った際、沖縄の観光を活性化させるためには「南国のムード作り」が重要だと考え、1970年、デザインを公募して「おきなわシャツ」という名称でスタートさせた。しかし、その後の普及運動は、価格の高さや、粗悪な輸入アロハシャツが出まわる等、平坦なものではなかった。名称も、「トロピカルウェア」「かりゆしウェア」「オキナワシャツ」など各メーカーによって様々だった。
 1990年、「めんそーれ沖縄県民運動推進協議会(3)」がウェアの普及を目的として名称を募集し、「万人の幸福を願う県民の心を表現するもの、沖縄の気候や風土・文化をイメージする、めでたい・縁起がよい」との理由で、「かりゆしウェア」の名称が採用される。その時の定義は、「沖縄の伝統工芸絵柄をモチーフにしていること、通気性があること、開襟シャツであること」であった。
 しかし、同定義が狭義なものであったため、普及には至らず、かりゆしウェアの生みの親であるホテル組合でさえ、沖縄観光宣伝のためには人目につくことが重要ということで、伝統柄ではなくハイビスカス柄のオリジナルウェアを「アロハシャツ」として普及着用運動を行わざるを得ないなど、沖縄産ウェアは様々な呼ばれ方をされた状況だった。
 だが、その後もホテル組合を中心とする関係者の努力によって沖縄産ウェアは広がり、1999年には沖縄県議会や那覇市議会でかりゆしウェアが着用されるようになる。2000年の九州・沖縄サミットを機に、自治体、企業、各種団体でも定着するようになった。
 そのため、混在する名称の統一・定義に向け「ウェアネーミング検討委員会」(委員長・副知事)が設置され、2000年、「かりゆしウェア」が改めて沖縄産ウェアの名称とされた。一方、定義は緩められたこと等によりかりゆしウェアが急速に普及されるようになったといわれる。2001年には、工連によって商標登録(登録商標「かりゆし」、登録第4478571号)された(以上は、ホテル組合2004、工連2003、沖縄県観光商工部ホームページwww.pref.okinawa.jp/syoukou/、『沖縄タイムズ』2000年6月23日より)。
 2005年には、日本政府のクールビズ政策の提唱の一環でかりゆしウェアが広く紹介され、県外でもその認知度・需要が高まった。

2 かりゆしウェア認定組合とかりゆしウェアタグ発行資格要件

 先述したように、「かりゆし」は、工連によって商標登録されているが、実際には、1999年に設立された沖縄県衣類縫製品工業組合(以下、縫製組合)が使用許諾されている。具体的には、同組合が認定した沖縄県内の工場で製造されたかりゆしウェアに対してのみ、かりゆしウェアタグ(下げ札)を発行しており、現在かりゆしウェアの認定は、縫製組合が行っているといえる。
 先に述べたように、かりゆしウェアの定義は、2000年から、「県産品であること、沖縄らしさを表現したものであること」となっているが、縫製組合のタグ発行資格要件は、より厳密で、同定義に加えて、「沖縄県内に事務所を置く事業者が企画・製造したもの」としている。つまり、「県産品」について、「沖縄で企画したもの」で、かつ、「沖縄で縫製したもの」と位置付けているのだ。この点は、かりゆしウェアのブランド化の面、そして内発的発展の面で重要だと考えられる。かりゆしウェアの生み・育ての親は、ホテル組合を中心とする観光業界であるが、観光業界の普及運動は、同業界の枠を越え、地場産業の発展につながり始めている(4)。

3 かりゆしウェア着用の広がり

 かりゆしウェアの製造は、1999年に製造枚数5万8000枚、製造企業数8社であったのに対して、2007年には37万4000枚、19社に増加している(5)。
 2002年には、ホテル組合によって告別式用かりゆしウェアが発売され、かりゆしウェアメーカー各社も冠婚葬祭用のウェアを製造するようになり一気に普及した。現在では告別式や結婚式の披露宴でもかりゆしウェアの着用が広がっている。その理由としては、沖縄の気候・風土に適したウェアであるということだけでなく、かりゆしウェア購入・着用は沖縄人の「県産品愛用」の精神・自立への願いが込められていると考えられる。また、かりゆしウェアの着用は、着用者が自覚的であれ、無自覚であれ、沖縄人アイデンティティの確認、強化につながっていると筆者は考える。内発的発展の定義の「地域レベルで住民が基本的必要を充足していくと共に、発展過程に参加して自己実現をはかっていくような路線」に当てはまるといえるだろう。

4 かりゆしウェア製造発展への取組み

 縫製組合等は、かりゆしウェア発展への取組みとして沖縄産素材の活用を模索している。月桃の茎の部分を利用した月桃素材や珊瑚を利用した珊瑚素材、また、沖縄産の貝を使ったボタンなどの利用を組合員に呼びかけている。コストが高いなどの理由で普及には至っていないが、沖縄産素材を活用することによって、沖縄の独自性をより強く打ち出すことが出来ると同時に、沖縄の農業・漁業と共に発展することが期待できる。
 また、沖縄に染色工場がないため、これまでかりゆしウェアの生地の印刷は県外で行われていたが、2008年には沖縄のかりゆしウェア製造会社が布用印刷機を導入し、沖縄での一貫生産体制を始めた。同社は将来的には他製造業者からの印刷工程の外注にも対応予定という(『琉球新報』2008年6月12日)。沖縄における付加価値を高める取組みとして期待される。

5 日本大手アパレル企業提携のかりゆきウェアの製造・販売の問題点

 かりゆしウェアの認知度が高まってきたことによって、日本の大手アパレル企業が沖縄の縫製工場と組んでかりゆしウェアを製造する動きがあった。この問題は縫製組合で大きな議論になった。多くの組合員は、大手アパレル企業と組むことによって販路が広がるとそのメリットを主張したが、一部から「それでは、せっかく築き上げてきたかりゆしウェア=沖縄産というブランドが崩される恐れがある」との反論が出た。結局は、沖縄側に主導権があれば県外のアパレル企業と組んでもいいのではないかということになってしまった。
 実際、2006年に製造元が沖縄の縫製業者で、販売者が県外大手企業の、有名人気キャラクターを絵柄にかりゆしウェアが販売されたが、デザイン的には「沖縄らしさ」は感じられず、購入者は、「沖縄らしさ」というよりも人気キャラクターに魅力を感じて購入するであろうと思われるものになっていた。企画の段階で沖縄の製造元が主導権を握れていたかは疑問である。
 沖縄では、かりゆしウェアは、利潤追求の面だけではなく、「県産品愛用」という沖縄の人々の応援があって成長してきた。それが、それらの側面をもたない県外の大手企業が、「かりゆしウェア」というブランドを利用して逆に沖縄に進出してしまった場合、利潤追求となり、縫製も安い海外で、ということになりかねない。かりゆしウェアの大きな特徴である「県産品」という定義、あるいは「企画、縫製は沖縄」という縫製組合の規定も崩れかねない。

6 今後の課題

(1) 重なる縫製時期
 現在のところ、かりゆしウェアの中心は夏用である。そのため、各社とも効率的な資金繰りのため、3月頃の販売開始に向けて、前年の夏にデザインを決定し(沖縄に生地工場・染色工場がないため)、県外の生地工場・染色工場に服地の製作を依頼する。服地ができあがり縫製が始まるのが11月頃であり、縫製以来が殺到する。そのために、既存の縫製工場では縫製が追いつかない状況である。一方、夏場は縫製工場の稼働率が低いという問題がある。業界として、秋冬物のウェアの開発をすすめるなどしてかりゆしウェアの幅を広げたり、行政の協力を得ながら、縫製工場の操業を年間を通して平均化する等、解決のための積極的な取組みが求められるだろう。

(2) 組織
 現在、縫製組合が認定した沖縄県内の工場で縫製されたかりゆしウェアにタグ(下げ札)が発行されているが、この制度の下では、伝統的染織のウェアであっても、縫製組合が認定した工場で縫製されていなければタグが発行されないなどの問題もある。例えば、沖縄の紅型工房が既成のシャツを仕入れてそれに紅型を施してもタグをつけることはできない。逆に、沖縄で縫製されたシャツであれば、沖縄以外で染めを施してもタグをつけることができる状況である。沖縄には、紅型や織物等、豊かな染織技術が存在する。それらを活用したかりゆしウェアの発展のためには、幅広い関係者のつくる組織による、縫製にとどまらない広い視点での認定基準が必要になってくるのではないだろうか。
 2005年11月、2006年8月には、県が呼びかけてかりゆしウェア関係者の意見交換会が開かれ、幅広い関係者による「かりゆしウェア連絡協議会(仮称)」設立についても議論が行われた。製造業者・企画業者・デザイン組合・販売業者・消費者・ホテル組合等が参加した幅広い視野を持つ組織の設立によって、かりゆしウェア産業のさらなる成長が見込めるだろう。上述の日本大手アパレル企業との提携の是非等についても、広い視点からの再論議が望まれる。

[おわりに]

 長い歴史を持つ伝統工芸品業界と、新たな産業であるかりゆしウェア業界。両業界とも営利業界ではあるが、それだけには留まらず沖縄の独自の文化を背景に発展してきた。そのために沖縄の人々の理解・協力を得られているともいえる。両業界が発展していくためには、品質向上などの努力はもちろんだが、沖縄の人々の声に耳を傾けたり、沖縄の自立を目指すという姿勢を積極的に打ち出すなど、これからも沖縄の人々の理解を得るための努力が求められるだろう。
 沖縄には、独自の風土や文化をもとにした内発的発展の芽がたくさんある。沖縄の人々が自らの歴史・文化・風土に誇りを持ち続け、これらの芽を大切に育てていくことが依存経済克服の一つの手段となろう。


(1)米軍統治下の沖縄での「日本復帰運動」が平和・人権を求めたものであったにもかかわらず、実際には米軍基地の過重負担が継続される等、1972年の「復帰」は沖縄の人々の求めていた形と大きく異なった。その後今日までその状況は変わっていない。そのため沖縄には、「沖縄『県』」という枠組に対抗しようという思想・動きが底流に流れている。本章で、筆者は、公的に「沖縄県産」などと表現されている場合には、その通り記述し、そうでない場合は、「沖縄産」という表現を使うこととする。
(2)外国にガラス製造拠点を持つ会社の役員が、筆者が勤務している会社との話し合いのなかで、沖縄人の自分たちが外国でガラス製品を製造することを正当化しようと、「沖縄で琉球ガラスを製造しているのは、ムルヤマトゥーアラニ(皆、ヤマト人[日本人]ではないか)」と述べた。本章では触れられなかったが、同氏がそう述べたくなる程、沖縄の工芸界で日本人の比率が非常に高まっているように見受けられる。この状況は、後継者育成の面や、固有文化の継承の面からも検証される必要があると考える。
(3)1989年結成。会長は県知事。
(4)ホテル組合は、かりゆしウェアの普及のため、かりゆしウェアの販売に尽力すると同時に、普及促進費として、1989−2003年の累計で、3,300万円を負担している(ホテル組合2004:91)。
(5)かりゆしウェアタグ(下げ札)の発行数及び縫製組合による認定工場数。

参考文献
 沖縄県観光商工部商工振興課(2009)『工芸産業振興施策の概要』
 沖縄県ホテル旅館生活衛生同業組合組合創設30周年記念誌編集委員会(2004)『30年のあゆみ』沖縄県ホテル旅館生活衛生同業組合
 工連五十年史編纂委員会(2003)『工連五十年史』社団法人沖縄県工業連合会
 西川潤編(2001)『アジアの内発的発展』藤原書店



9 返還軍用地の内発的利用
     ――持続可能な発展に向けての展望


真喜屋美樹
[はじめに]

 本章では、沖縄本島中南部で返還が計画されている大規模な軍事基地を、返還後、県土の持続可能な発展にどのように繋げるのかについて考察する。取り上げる事例は、本島中部の読谷村で行われた平和と文化に立脚した跡地利用である。中でも、広大な面積を持つ読谷補助飛行場跡で始まった第一次産業中心の跡地利用を中心とする。読谷補助飛行場跡地は、新都心型開発が行われた那覇市の新都心地区(おもろまち)に匹敵する規模を持っている。読谷村の取り組みは、返還軍用地の内発的利用を実践する試みとして、従来型の基地跡地利用開発に一石を投じる可能性が高く、その帰趨が注目されている。
 2008年現在の在沖米軍施設の総面積は23,293ヘクタールである。このうちの95.4%(22,237ヘクタール)は沖縄本島に位置している。中でも、米軍の中枢機能が集中し、嘉手納基地や普天飛行場など大規模な基地が所在する本島中部地区は、総面積の23・7%(6657ヘクタール)を基地に占有されており、地区別の基地占拠率が最も高い。従って、基地周辺の市町村は、基地を取り囲むように市街地を形成しなければならなかった。
 戦後、米軍占領にともなう占領接収と基地建設のための強制接収によって集落の土地を収奪された人々は、基地を取り囲むフェンスにへばりつくように住居を構えた。また、軍雇用員の仕事を求める人たちが基地周辺に集中した。このため基地周辺の都市部となった本島中南部地区は短期間に人口が急増した。市街地は、自然発生的都市化の進行により、いびつな都市構造となった。特に那覇都市圏の過密ぶりは深刻であった。1975年の那覇市より人口密度の高い都市は、東京都区部を筆頭に、大阪市、尼崎市、豊中市などいずれも大都市圏内の都市ばかりで、那覇市は人口30万でありながら東京や大阪に典型的にみられる大都市問題の様相を帯びていた(住田・梶浦・塩崎1979)。このような軍事基地密集地域が同時に人口密集地域であるという沖縄の現状は、復帰後も基本的に改善されておらず、軍事基地は都市問題解決の最大の阻害要因の一つであった。(今村1988)。
 同様に、日本本土が重厚長大産業に牽引された高度経済成長を経験していた頃、沖縄は基地によって産業用地や農業用地を奪われていた。基地の存在が沖縄の経済発展の桎梏となったことは言うまでもない。国の計画である沖縄振興開発計画や第三次全国総合開発計画でも、軍用地が沖縄の地域振興推進の大きな障害となっていることを認め、早期の整理縮小がうたわれている(沖縄県1977)。
 1995年、基地問題の解決を求める県民世論の高まりにより、日米両政府は高官レベルで協議する機関としてSACOを設置し、基地の整理・総合・縮小を協議した。1996年12月のSACO最終報告での合意が実現すれば、沖縄県に於ける米軍施設・区域の約21%が縮小することになり、復帰以降2008年までに返還された米軍基地面積(5580ヘクタール)に比肩する。
 さらに、2006年5月、米軍再編に伴う施設・区域の統合計画として、嘉手納基地より南にある米軍基地の大部分の返還計画が発表された。これらの返還計画には、本土復帰以来最大級の返還となる普天間飛行場(481ヘクタール)が含まれている。返還計画が全て実現すると、県内でも人口と産業が集中する本島中南部に所在し、発展の阻害要因であった広大な基地の跡地は、地域振興のための貴重な社会資本となる。
 まとまった基地の返還は、復帰時点でも一度計画されている。日米安全保障協議委員会は、第14回−16回(1973−76)の合意として、復帰後に5700ヘクタールの軍用地返還リストを作成した。早期返還は県民の要求であり、復帰後の軍用地返還が急速に進展するものと期待された。そして、軍事基地の跡地利用問題は戦後処理の問題としてのみならず、沖縄の地域振興にとってかけがえのない資源となり得る基地跡地がどう利用されるか、について人々の関心が高まった。
 軍用地の利用・転用問題に関する先行研究は、跡地利用開発における開発の柱として、「自治(住民参加)」「環境」「平和」「福祉」「共生」をあげている(宮本1970、鎌田1974、今村・仲地1981、仲地1993)。即ち、開発は平和目的であり、住民福祉に沿うものでなければならない。そして跡地利用政策の立案、開発主体は自治体であり住民であり、開発の方法は自治であるという原則である。その上で、島嶼県という閉ざされた空間では環境保全は不可欠であるとして、自然と人間の共生する自然環境、社会環境の実現を提示している。
 工業化を推進する近代化論に基づいて先進国主導で行われてきた開発は、地球規模の環境破壊、南北問題、相互扶助的な共同体の破壊、自治の喪失など多くの社会問題を生み出した。このような市場主義に基づく経済成長と最大限の利潤を追求する開発モデルに対して、人間を中心におくオルタナティブな開発理論として台頭してきた内発的発展論は、「自治(住民参加)」「環境」「平和」「福祉」「共生」を重視する。
 内発的発展とは、地球上のすべての人々および集団が、衣・食・住・教育・保健の基本的必要を充足していくことを前提とする。その上で、それぞれの個人の人間としての可能性を十分に発現できる条件を創り出していく。それは、多様性に富む社会変化の過程である。そこへ至る経路と、目標を実現する社会の姿と、人々の暮らしの流儀とは、それぞれの地域の人々および集団が、自律的に創出していく(鶴見1989、1996)。
 こうして生み出された内発的発展論は、そのパラダイムとして、@利潤獲得や個人的効用の極大化よりも、むしろ、人権や人間の基本的必要の充足に比重がおかれていること、A一元的・普遍的発展に伴う、他律的・支配的関係ではなく、自立性や分かち合いの関係に基づいた共生社会を実現すること、B中央集権主義とは異なる、参加、共同主義、自主管理に基づいた組織を構築すること、C自力更生、自立発展が重要な政策用具として用いられること、D開発と保全のバランスを保った発展がなされることを重視している(西川1989、2000)。
 また、内発的発展論の思想は、環境保全を大きな枠組みとして、平和、環境と資源の保全、絶対的貧困の防止と経済的公平、基本的人権の確立、民主主義と思想の自由を柱とする持続可能な発展の概念と通い合う。
 復帰以後、沖縄では、沖縄開発庁(現内閣府沖縄担当部局)が作成する沖縄振興開発計画に従って、中央主導によるキャッチアップ型の振興開発である外来型開発が行われてきた。その成果については、社会資本整備の量的側面で一定の充実や公共事業による経済発展はあったが、短期間に集中的に行われた開発事業によって、赤土汚染に代表されるように深刻な環境破壊も引き起こされてきた。他方で、県内に公共事業依存型経済が形成され、自治能力を失っていったこともまた振興開発の弊害として、広く認識されている。
 従って、基地跡地でも同様の開発がまかり通れば、自治によって開発政策を決定し、環境と資源の保全をはかる持続可能な発展は困難になるであろう。しかし、沖縄の持続可能な地域づくりに向けて、県内の内発的発展の積み重ねが従来の外来型開発中心であった沖縄政策を変えうる可能性は十分ある(宮本2000)。
 そこで本章では、基地跡地利用開発については、これを内発的発展の立場から考察することが必要であること、それが沖縄県の持続可能な地域づくりに結び付くことを論証することにしたい。今日、普天間飛行場など復帰後最大規模の基地返還が迫っており、これを県民の福利の立場から考えないかぎり、乱開発と環境破壊を繰り返すことになりかねない。この点を念頭において、読谷村を事例検証する。

[1 読谷村の基地と村づくり]

1 基地との闘い

 読谷村は、沖縄本島中部の西海岸に位置し、県都那覇市の北方28qのところにある。村の東と南は、東アジア最大の米軍基地である嘉手納町と接する。また、北は県内随一のリゾート地である恩納村と隣接する。村面積は3517ヘクタールで、戦前は純農村であった。沖縄戦当時は、米軍の最初の沖縄本島上陸地点となり、村全域が占領されていた。
 戦後間もない1946年当時の読谷村は、村面積の95%を米軍基地に占有されており、1972年の本土復帰時点でも73%を占められていた。現在も、嘉手納弾薬庫施設とトリイ通信施設の二施設が所在し、村面積の約36%(1262ヘクタール)を軍事基地が占めている。
 米軍基地では、パラシュート降下訓練、夜間訓練、通告なしや協定違反の訓練がひっきりなしに行われた。軍事演習の大規模化による基地被害は日常茶飯事で、米軍に起因する事件事故は後を絶たなかった。米軍基地を包囲するフェンス一枚を隔てたところに住宅が存在するという、基地の危険と隣り合わせの生活を強いられてきた読谷村は、基地と闘ってきた村でもある。
 村と村民は総出で、演習場の即時撤去要請行動、抗議行動、村民総決起大会等を開き、基地撤去を訴え続けてきた。現在村役場が建つ読谷補助飛行場一帯では、かつてパラシュート降下訓練が行われていたが、米軍の訓練開始の連絡が伝わると、役場に設置されたサイレンが村中に鳴り響き、それを合図に、村長、役場職員はもとより村内の老若男女が駆けつけ、パラシュート降下目標地点で座り込みを敢行して軍事訓練を妨害するという、文字通り体を張った実力闘争で訓練阻止を行ってきた。訓練に反対する座り込み抗議行動には、昼夜を問わず常時100−200人、多い時は400人の村民が集まり、村民ぐるみで米軍と対峙した。
 また、訓練中止を求めて、議会や村職労、区長会、婦人会、老人会、所有権回復地主会等の村内15団体で構成する実行委員会を結成し、演習現場にテント小屋を設営して徹夜の監視体制を続けた。こうした粘り強い演習阻止行動、基地返還運動の末、パラシュート降下訓練は、1999年に伊江島補助飛行場への移設が合意された。読谷村では、このような具体的な行動を一つ一つ積み重ねて、軍事演習の中止や基地返還の実現へと繋げていったのである。
 戦後、村の大部分を軍事基地に占有されていた読谷村では、多くの村民は戦禍を生き延びたにも関わらず帰る場所を失った。基地建設のために旧来の居住地域は大幅に変更され、主な集落は強制移動を余儀なくされたため、旧集落に復帰できない人々が多数存在していたのである。帰るべき村のない人々は厄介視されたり、差別の対象とされた。かれらの戦後復興は、故郷回帰を夢見る全村民のシオニズム運動ともいえるものであった(高橋2001)。従って、村の再生のためには、接収された土地を取り戻し、生活の場、生産の場を確保することが最重要課題であったのである。

2 理念と自治による村づくり

(1)村づくりの理念
 戦後、苦難の歴史を歩んできた読谷村は、「平和の郷 自治の郷」を築く村づくりのための明確な基本理念を持っている。1974年に登場した山内村政は、村の将来目標と実現のための施策の基本方針を明らかにする「読谷村総合計画基本構想」(1977年)を策定し、その中で村づくりの理念を明らかにした。基本構想には、「村民主体の原則・地域ぐるみの原則・風土調和の原則」という三原則が示されている。この三原則は、「村は村民一人一人が作っていくものである」という、村づくりの基本姿勢を表している。そして、風土調和の原則を掲げることで、常に村の自然・歴史・文化を再確認し、そこに立ち返りながら、村づくりに取り組む姿勢を培うことを目的としている。
 また、復帰後の村づくりの目標を「人間性豊かな環境・文化村」づくりと定め、「21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくり」を合い言葉に、村民の自主的・主体的・創造的な村づくりを指向している。
 これらの理念や目標は、行政と村民に共有され、現在も村民主体の村づくりの根幹となっている。読谷村の村づくりは、理念や目標を提示して、行政と村民がそれを共有することに立脚しているのである。理念を掲げて村の将来像を明らかにし、行政と村民が協働で、理念を具体化するプロセスや計画づくりに取り組んでいくという手法である。理念に沿って長期的な視角から村の将来像を描くことは、計画や実行の過程で社会・経済的な影響を受けるなどして、村づくりの目指す方向を見失うことを防いでいる。読谷村の村づくりは、外的要因に左右されない、緩やかであっても着実に自立へ向かうものであるということができるであろう。
 このような村づくりの理念や目標を支える要となっているのが、「平和と文化」である。読谷村は、平和行政の目標として「平和に勝る福祉なし」を掲げている。村民を基地の桎梏から解放し、平和な生活を担保することが、行政の果たすべき第一義的な目的なのである。そして、基地が存在する軍事空間に対して、文化が創造され育まれるには、平和空間が不可欠である。戦争と基地建設で破壊された村にとって、文化の創造は、平和な村づくりの重要な要素となる。
 さらに、文化の継承には、それを支え培う主体がなければならない。地域の歴史や文化の継承者である村民は、村の祭りや行事を通してその担い手であることを認識し、村づくりへの主体性を高めていく。豊かな文化の形成は、村民主体の村づくりを展開しうるという考え方に基づいているのである。
 実際、読谷村で毎年11月に開かれる「読谷まつり」は、村民の村づくりへの主体性と自治意識を、文化によって深める場と位置づけられる。「読谷まつり」には、村中の老若男女が結集して、エイサーや三線、琉球舞踊、組踊りなどの伝統芸能を披露し、その様子は圧巻である。また、伝統文化の継承だけではなく、村出身の歌手(Kiroro)によるコンサートや高校のダンス部によるモダンダンスなども展開され、新しい文化の創造を発表する場ともなっている。まさに、村民総参加の「読谷まつり」は、地域の伝統文化の継承と創造発展が集約された「場」となっている。
 村民は、祖先の残した歴史や文化を継承する祭りの場で一体化し、伝承された力を未来へ向けて活かそうという自治意識を深める。文化の掘り起こしが、村づくりのエネルギーの源となっているのである。

(2)「字別構想」にみる村と住民の協働による自治
 読谷村内には、23の字(行政区)がある。23字は集落を基礎に発展し、それぞれが自治機能を有したコミュニティである。このような、村民と行政を結ぶ地域組織が存在することは、読谷村の地域社会の特性である。
 山内村政は、住民自治の充実のための方策の一つとして、23字毎に、「字別構想」の策定を試みた。これは、次世代への橋渡しとしての地域構想を策定するものであった。
 字別構想は、それぞれの地域の発展構想がどのようなものであるのかについて、「地区づくりの目標」、「地区づくりの施策」としてまとめている。山内は、字別構想を実行に移し、残された課題に得組む中で、「読谷むらづくり方式」が創造されるという確信を持っていた。
 構想づくりには、村民と行政が協力して計画づくりを行う手法がとられた。「むらづくり合同推進プロジェクト」を設置し、各字に属する役場職員が地域での調整役となった。村長も頻繋に各集落を訪ね、膝を交えて住民懇談会を開いた。こうした議論の積み重ねによって、それぞれの地区の風土や伝統・文化を踏まえて自分たちの住む地区の未来像を具体的に描くことを実現した。
 構想には、各字のスローガンや推進事業などに地域ごとの個性が表れている。字別構想を策定する作業は、村民と行政の協働村づくりの端緒となったのである。1995年に「第一次字別構想」が策定され、2003年に「第二次字別構想」が策定された。現在、「第二次字別構想」の達成度を検証しているところである。
 このような経験の積み重ねは、「自分たちの村づくりは自分たちで」という姿勢を確立し、自治の芽を育んだ。読谷村には、集落単位で構築された住民主体の「地域民主主義」がしっかりと根付いており、跡地利用開発推進にも活かされている。
 明確な理念や自治に基づいた村づくり事業の大半は、復帰後の返還地の跡地利用として進められてきた。返還軍用地の跡地利用は、読谷村の村づくりの骨格をなしているといっても過言ではない。

[2 読谷村の跡地利用開発]

1 平和と文化に基づいた跡地利用

 読谷村の跡地利用の特徴は、そのほとんどが村の基盤形成となっていることである。また、跡地利用計画を作成する際、対象地域の元々の土地利用形態がどうであったかを基本として計画を立案していることにも特徴がある(10)。
 基盤形成となる事業の概要は、次のようになっている。公共公益施設整備事業では、診療所、学校、公園、役場庁舎、文化センター、野球場や多目的広場、福祉施設などが整備されている。農業農村整備事業では、土地改良総合整備事業と並行して、村内の土壌の保水力が乏しいために低生産となっていた農業対策のために、灌漑排水事業で長浜ダムを整備して農業用水を確保し、280ヘクタールの畑地灌漑を行って農業の振興を推進している。集落復帰・新興住宅整備事業では、軍用地の強制接収によって行政区の移動を余儀なくされていた集落を元集落へ復帰させる、返還跡地の集落復元による住宅地の基盤整備を行っている。自然・文化を活かした開発整備事業では、残波ゴルフ場開発、ヤチムン(焼き物)の里つくり、リゾート開発、座喜味城跡環境整備事業・公園整備事業等が行われている(表1 読谷村:施設別返還跡地利用状況(出所)読谷村企画財政課資料2005年3月現在【略】)。
 読谷村は、跡地利用開発においても、「村民主体・地域ぐるみ・風土調和」という三原則のもと、「平和、文化、創造」というキーワードを掲げる基本姿勢を貫いている。そのため、読谷村の跡地利用開発が、平和と文化によって進められてきたことは広く知られている(11)。同時に、「風土調和」の理念から、農業に重点をおいた跡地利用が展開されていることも、読谷村の跡地利用開発における特筆すべき点である(12)。
 ここではまず、読谷村における返還地の内発的利用の取り組みとして、平和と文化による跡地利用開発の代表的な例を概観することとしよう。
 1997年、米国管理下にあった読谷補助飛行機に、役場庁舎や文化センター等を建設したことは、平和と文化による跡地利用の代表的な例である。読谷村は、日米地位協定をうまく利用し、米軍と土地を共同使用するという形式で建設を実現した(13)。1−1項で述べたように、村民ぐるみで基地返還に取り組み、その結果、基地内に村の自治の殿堂であり平和の象徴としての村役場を建てた。そして、その二年後に、同じ基地内に文化の創造、交流の場となる文化センターを建設した。
 残波ゴルフクラブは、地主も経営に参加した地元主体のゴルフ場である。このゴルフ場は、環境を重視して、農薬代わりに微生物菌を使用した無農薬ゴルフ場として運営されている。その環境保全技術を生かした関連会社「有限会社バイオヨミタン」を設立して事業拡大を図り、地域内の産業連関が広がっている。
 ヤチムンの里は、返還前は県内各地に残された不発弾を集めて爆破処理する不発弾処理場であった。村は、かつてこの場所の近傍が、地元の焼物の伝統を持つ土地であったことから、跡地を地場産業作りの拠点となる陶芸村とする構想を立てた。そこに、登り窯による作陶の場を求めていた県内の陶芸家たちが集まり、基地跡地は松林に囲まれた陶芸村となった。「ヤチムンの里」には、沖縄最大の共同の登り窯が建築され、現在、20余の窯元工房が軒を連ねている。毎年恒例の陶器市は、県内で最大規模のものとなっており、愛好家のみならず一般の人々も訪れて大盛況である。ヤチムンの里は、県内の焼物文化を担っているといっても過言ではない。さらに、近年では、琉球紅型や琉球ガラスの工房も他地域から移転してきており、伝統工芸の名工が集う県内随一の文化地域として成長している。ヤチムンの里は、軍事基地から歴史と文化を伝承する平和空間として蘇生したのである。ヤチムンの里を中心に、1991年には村全体で24あった窯元工房は、2007年現在47窯元工房に増え、村全体で伝統工芸の振興を図る特色ある地域づくりになった。
 リゾート開発にも、読谷独自の方法がとられている。読谷村では、リゾート開発も開発企業任せではなく、村づくりの一環として村と企業が協働体制をとる仕組みをとっている。そのために、村民の生活・地域文化の発展と共存共栄する適正な開発の誘導と共に、地域産品の活用、開発と合わせて、商工業の拠点づくりとなるような観光の振興を図っている。従って、沖縄各地で見られるような外部資本によるリゾート地の買い占めによる独占的な開発はこの村には見られない。村は、リゾート企業の開発計画が村の方針と合うように企業側との調整を行っている。村内のホテル用地は貸地で、地元地権者の所有権また地権者への地代が保たれている。また、県内の他地域のリゾートホテルでは、ビーチ沿いの土地を囲い込んで、外部からのアクセスを事実上排除し、プライベートビーチ化しているが、この村ではそれを許していない。ホテルが造成したビーチは村に寄贈される形をとり、村営ビーチとして村民と観光客が共同で利用できるようにしている。そして、ホテルから出される排水は、浄化して周辺農地の灌漑用水として再利用されているが、この排水浄化処理の経費はホテル側が負担している。企業が村の環境保全対策に賛同する形をとっているのである。さらに、ホテル従業員の雇用については、地元出身者を優先し、ホテルで使用される生鮮食材も地元産の農産物を優先利用する契約を結んでいる。そのほか、地元の障害者を優先雇用する企業への仕事(クリーニング)の発注契約もある。村は、安易に外部資本に依拠するのではなく、開発企業とパートナーシップを組みながら、環境面にも配慮しつつ、観光業と他産業との地域内産業連関の構築も進めている。
 座喜味城跡の整備では、城跡の公園化事業と合わせて、村の単独事業で県内では初めての歴史民俗資料館を敷地内に建設した。その後、収蔵資料が膨大となったため、新たに美術館機能を併設した新館をオープンさせた。歴史民俗資料館・美術館は、村の歴史や文化を学習する場として定着している。また、座喜味城跡では、世界遺産に登録されている美しい曲線と重厚さを誇る城壁で囲まれた空間を利用して、野外でのオペラや演劇、伝統芸能である組踊りなども行われている。城跡公園は、歴史を学び、古来の文化を継承しつつ新しい文化を創造する場となっているのである。
 これらの跡地利用開発は、「平和・文化」の理念に基づいて行われていたものといえる。そして、開発の主体は、常に村であり村民である。読谷村は、自らの足下を見つめて、それぞれの土地の歴史・風土に合った開発を、地域ならではの有形無形の資源を活用しながら行っている。その中で、地域内産業連関を形成し、次世代のために環境保全の努力も怠らないという、読谷村独自の手法による跡地利用開発に取り組み、既に実績をあげているのである。

2 読谷補助飛行場跡で行われている「農業型開発」

(1)読谷補助飛行場跡地の概要
 次に返還地の内発的利用のもう一つの取り組みとして、読谷補助飛行場跡地で始まったばかりの農業型開発による跡地利用について見ることにする。
 読谷補助飛行場跡地は、読谷村のほぼ中央の高台にあり、東シナ海が一望できる場所である。面積は190.7ヘクタール(14)で、字座喜味、字喜名、字伊良皆、字大木、字楚辺、字波平の六集落にまたがる、村内で最も広大な平野である。返還前は、長さ2000メートルの滑走路と1500メートルの誘導路があった。
 読谷補助飛行場は、1943年から44年にかけて、旧日本陸軍が強制的に土地を接収し沖縄北飛行場として構築し、その後米軍によって拡張された。戦後、米軍は飛行場を国有地と誤認して、地主の所有権確認作業を頑として受け付けず、米軍管理財産として管理した。戦前の強制接収時、及び戦後の所有権認定作業での不当な扱いの結果、旧軍飛行場地主(旧地主)の所有権は認められず、国有地として扱われてきたという経緯がある。
 読谷補助飛行場は、SACO最終報告で返還が決定した。返還は、村内の他の基地内にある村有地と国有地との等価交換によって実現されることになった。2006年7月に138ヘクタールが部分返還され、同年12月に、一部先行返還後に残っていた約53ヘクタールが返還されて、全面返還となった。そして、2007年1月、飛行場全体が跡地利用実施用地として活用されることになったのである。

(2)跡地利用計画と開発主体
 読谷村は、読谷補助飛行場の跡地利用のために、村内の他の基地跡地利用開発計画を担当する企画課とは別に、独立した読谷飛行場転用推進課を設けてこの案件に取り組んできた。これは、この広大な跡地の開発が読谷村の将来へ与える影響が大きいことを示唆する。同時に、前述したような背景から、跡地利用計画は、戦後処理問題の解決として、旧地主の土地所有権回復に資するものでなければならなかった。
 1987年に旧地主も参加して策定された「読谷飛行場転用基本計画」では、飛行場跡を村の生産拠点、生活拠点と位置づけ、「公共の福祉の増進に向けた公共・公用地」と「地域振興に向けた振興開発用地(農地)」を基本方針とした。そして、前節で紹介したように、役場庁舎、文化センター、野球場などがある村民センター地区と、展望公園、先進集団農業地区を配置する構想がたてられた。
 跡地全体の七割を占める先進集団農業地区は、農業推進地として圃場整備し、亜熱帯農業を活かした農業型開発されることになった(15)。そして、村が農地保有合理化法人となり、旧地主で構成する農業生産法人に農地を貸し付けた。読谷村は、跡地を農業振興地域として、農地保有合理化法人たる村が農地を保有し、農地保有合理化事業の推進により農業生産法人を育成するという、村の農業振興に寄与する仕組みを作ったのである。
 また、「読谷飛行場転用基本計画」の一環として、全面返還に先立ち、跡地の一部に先進農業支援センターが整備された(16)。この施設は、飛行場の返還を念頭に、先進集団農業地区のための農業生産法人の育成を目的としたものであった。先進農業支援センターは、亜熱帯農業の開発拠点として、バイオセンターや栽培技術習得、営農者の育成を行う施設となっている。
 読谷補助飛行機跡地利用推進のアクターは、行政、旧地主である。読谷補助飛行場返還後、跡地を農業推進地として利用するという構想は、旧地主の子弟たちが始めた村民の地域研究会の中から生まれたものであった(17)。復帰後始まった草の根の研究会では、「地域の利益のために運動する」という理念のもと、基地関係収入や外部資本に頼らない自立した地域づくりを模索してきたのである。
 山内徳信村長というキーパーソンが存在したことも、読谷補助飛行場跡地の農業型開発を促進した大きな要因であった。山内は、就任当初から第1次産業、特に農業に振興開発の重点をおき、農業用水と農地確保を重視していた。返還される基地跡地においても、大半は農業生産の基盤整備を行うために、土地改良事業を導入することを想定していた(18)。復帰後返還された基地を農地として再生させるために、当時沖縄県内で3つの市町村にしかなかった土地改良課を設置して、土地改良事業に全力投球している(19)。山内は、村の基幹産業は農業であるという明確な認識を持ち、村民と行政の協働の農業型開発を推進した。

(3)農業生産法人の仕組み
 ここで、読谷補助飛行場跡地での農業型開発を担う農業生産法人について検討しよう。
 農業生産法人の仕組みは、農地保有合理化法人が取得した農地を、旧地主関係者等が組織する農業生産法人に5年程度貸付、10年後を目処として将来は農業生産法人に売り渡すというものである。その結果最終的に、土地の所有権は、法人の株主である旧地主へ返されることになる。
 農業生産法人は、農業者等からなる常時農業に従事している者と、産直契約をする個人としての非農業者とで構成されている。いずれにせよ、旧地主関係者が、構成員であることにかわりはない。農業生産法人の法人形態は、関連事業への発展を進めやすくするために株式会社とし、譲渡制限を設けて構成員が株を保有する。
 2006年現在、660人余の旧地主を字ごとに5つに分けて、農業生産法人を立ち上げている。所有権回復の受け皿となる法人は、1人当たり5―15万円の出資金で創設された有限会社である。各法人は有限会社であるため、それぞれ株主を最大50人程度と想定している。法人に出資している旧地主は約140人、全体の2割程度である。法人経営は会社としてのリスクと出資金を伴う等の理由から、参加者はまだ多くない。しかし、法人によっては既に50人の出資者を確保しているところもある。
 土地の所有権を回復し返却してもらうには、現段階では法人の株主となる他ないが、戦後60年余が経過し、農業以外の職業で生計を立てている人が多い。旧地主で組織する読谷飛行場用地所有権回復地主会(地主会)では、こうした人たちも株主として、また法人の構成員として経営に参加してもらうために、次のことを計画している。
 まず、先進農業支援センターで、栽培技術習得、農業生産法人への技術支援、生産者の集団化訓練と新規参入者を含めた営農者を育成して、雇用促進を行うことである。農業生産法人の構成員となる地主会関係者は、ここで優先的に技術を習得するための研修を受けることができる。
 次に、農業に直接従事しなくても、農産物の集荷および市場対応調査・研究・指導、農産物や加工品の販売、直販施設やレストラン経営、体験型の観光農業等、様々な形で法人経営に関わる可能性を持たせることである。
 従って地主会は、経営が軌道に乗れば、現在は不参加の旧地主たちも、土地所有権回復のために参加するに違いないと考えている。多くの旧地主が参加することで、収益の拡大・分配、雇用増大が進み、産業を育成できれば、農地保有合理化法人からの早期の土地の取得が可能となる。地主会は、将来、5つの法人を最終的にひとつへ統合することを計画しており、現在の農地生産法人を株式会社とし、旧地主全員が株主となることを期待している。
 いずれにせよ基地跡地を農業振興地域として、村の農業の発展を促す計画は、村にとっては、住民参加型の第1次産業による持続可能な発展につながり、旧地主にとっては、この仕組みを通して、最終的には土地を自らの手にすることができ、双方に利点がある。
 2007年4月、農業生産法人への農地貸付の準備期間として、5農業生産法人に対し管理委託が行われ、農作物等の栽培が開始している。
 農業生産法人のひとつ「農園そべ」の代表である旧地主の比嘉明氏は、高校で数学の講師をしていたが、退職後、他に先駆けて跡地の一角で手探りで農業を始めた。跡地での農作物の栽培や販売、販路の拡大に積極的に取り組んできた一人である。手作りの畑で、無農薬でのホースラディッシュ(西洋山葵)や葉野菜などを栽培している。2007年には、コープなどへの葉野菜を出荷できるほどの安定的な生産量を確保できるようになった。地道な取り組みであるが、比嘉氏は、何もしないよりも、早期の所有権回復のために土地を活かすべきであると考えている(20)。

(4)地産地消の取り組み
 読谷村は2006年9月現在、読谷補助飛行場跡地を先進農業集団地区として整備をはじめており、将来は観光産業とも連携した高付加価値型農業の推進を構想している。
 先進農業集団地区で栽培される作物は、地元の特産品主体とすることを構想している。読谷村は、戦前から紅芋の産地としても名高く、現在も紅芋の一大生産拠点である。特に、読谷補助飛行場の土壌は、紅芋栽培に最適であるという(21)。読谷補助飛行場返還前の黙認耕作地(22)で栽培されていた紅芋は、高品質であると評判が高い。
 読谷村はこれまでも、村の特産である紅芋を加工して付加価値をつけることで、読谷ブランドとしての紅芋の普及、販売促進を図り、成功を収めてきた。広大な跡地でも、特産の紅芋栽培を集団的に実施する大規模農業を行い、高収益農業とする試みを実践しようとしている。実際、紅芋は製菓材料として急速に需要が高まり、生産が追いつかないほどである。
 1986年から、村おこし事業のひとつとして、村や商工会と紅芋の商品化に取り組み、実績を急伸している村内の製菓会社「ポルシェ」は、年間300トンの読谷産の紅芋を使用している(23)。この会社は、紅芋商品を主力商品として扱っている。売上高をみると、2000年度は9.2億円であったが、2007年の実績は30億円へと大きく伸びている。地元や近隣から雇用している従業員数も、2005年には240人であったが、2008年では370人へと増えている。こうした数字に裏付けられる紅芋商品の人気を追い風に、読谷村の2006年度の甘藷収穫量は1700トンと、17年で2倍半に増加した。紅芋の村への経済効果は明らかであり、同時に、読谷村では紅芋を中心とした地域内産業連関も確立している(24)。
 村は、先進産業集団地区でも大規模な紅芋栽培を行い、加工品だけでなく高付加価値のある生果でも、更なる生産拡大を図ることを検討している。品質のよい生果のブランド化に向けて、村役場、JA、県、商工会議所等が参加する産地協議会を設け、地域ブランド確立のための具体的な取り組みも既に始めている。
 現在この協議会で議論されている仕組みは、栽培された紅芋の出荷基準を設けて等級毎に仕分けし、質のよい生果は県外へ出荷し、それ以外は地元で消費、加工するものである。地産地消を推進して、さらなる農業振興、消費増大を図ることが目的である。
 それだけでなく、継続的な地産地消を推進に向けて、2004年から紅芋を使った給食を開始した。生産・加工団体や調理場からの情報を一元化し、発注から納品までをサポートする「地元食材コーディネーター」を配置して、安定供給体制を作っている。2008年現在、村内の5ヶ所の小学校と2か所の中学校で月2回の紅芋の献立が給食に登場する。村農業推進課の城間康彦氏は、「地産地消を推進するには、生産者だけでなく、地元の農作物に対する村民の意識改革も必要」と考えている(25)。小中学校での地産地消の試みは、まさに未来の消費者、生産者を育成することに繋がっている。
 地産地消の取り組みはさらに広がっている。2009年4月、跡地内に、JAおきなわが農作物の生産や集荷・選果施設、農産物直売所、読谷支店などを集約した農業拠点施設を建設する計画が明らかになった(26)。
 直売所の「ファーマーズマーケット」を施設の中心とし、周辺農家への営農指導や経営支援の強化とともに、集荷・選果作業の高度化と効率化を図ることが主な目的である。JAは、規格外農作物の加工や学校給食への供給といった需要・用述の拡大、またそれに伴う農家所得の向上のきっかけとなると考えている。この計画が実現すれば、生産者と消費者の結びつきを深めることになり、跡地は地産地消のモデル地域となろう。
 こうした状況を踏まえて、読谷村は現在、紅芋の作り手の裾野を村全体に広げ、同時に地元の雇用増大のために、旧地主だけでなく、地域の婦人会や生活改善グループを生産者として取り込むことも模索している。
 このように、読谷補助飛行場跡で始まった跡地利用は、農業を中心とする農業型開発である。読谷村は、大規模な基地跡地を一大農業拠点とする農業型開発で、地元にある素材を生かした地産地消を行い、旧地主のための戦後処理問題を解決すると同時に、環境を保全しつつ自立的で持続可能な発展を目指している。
 紅芋による経済波及効果や、第1次産業から第2次、第3次産業への地域内産業連関が形成されていることからもわかるように、第1次産業による村の自立的な発展に向けての歩みは、着実に進んでいる。地域に深く根ざし、自治に基づく読谷村の独自の跡地利用開発の取り組みは、注目に値するといえよう。
 読谷村は跡地利用開発において独自の取り組みを推進してきたが、沖縄県の跡地利用開発はこれまでどのように行われてきたのか、最後に、その特徴と問題点を概観し、読谷村開発の意義を検証することにしたい。

[3 中南部都市圏の大規模跡地での跡地利用概要]

1 米軍基地の概況(基地面積の推移と所有形態)

 2008年現在、県下41市町村のうち21市町村に34の米軍施設が存在しており、県土の10.2%(23,293ヘクタール)を占めている。復帰時は87施設、28,660ヘクタールであったことと比べると、施設数では減少が見られるが、大勢では変動がないことがわかる。
 これらの土地の2008年時点での所有形態別状況をみると、民有地が32.8%(7,645ヘクタール)、市町村有地が29.2%(6,811ヘクタール)、県有地が3.5%(812ヘクタール)、国有地が34.4%(8,023ヘクタール)となっている。これを更に地区別でみると、本島中部地区では、民有地が77.3%(5,147ヘクタール)、市町村有地と県有地を合わせた公有地が16.3%(1,084ヘクタール)となっており、米軍基地面積の約94%を民・公有地が占めている。本土の米軍基地面積の87.3%が国有地であることに比して、沖縄県の米軍基地の大きな特徴である(27)。
 
2 跡地利用開発の阻害要因

 跡地利用の推進には、様々な阻害要因が相互に複雑に重なっているため、有効に活用されるまでにはかなりの時間がかかっている。過去の跡地における土地区画整理事業の事例をみると、返還から事業完了まで平均14年3ヶ月という長期間を要している(28)。
 跡地利用が遅れる要因については主に次の点が指摘されている。@行政側からの跡地利用施策の立ち遅れ、A国有地が少ない、B軍用地料が高すぎる、C地主の合意形成の困難さ(零細で多数の地主がいる)、D国の一方的都合で返還されること、E細切れ返還であること、F地籍問題(29)、などである(今村1998、仲地1990)。
 土地区画整理事業を例とした跡地利用の主な遅延要因をみると、@返還区域及び返還時期の明示の遅れ、A各種調査遅れによる跡地利用計画策定の遅れ、B跡地利用計画、事業計画等に関する地権者等関係者の合意形成の遅れ、C公共公益施設の整備のための用地取得の遅れ、D再開発事業中の埋蔵文化財発掘調査、不発弾処理等による工事の遅れ、が挙げられている(30)。
 また、都市部で行われる跡地での再開発事業の推進には、ある程度のまとまった土地が必要になるが、その場合も、細切れ返還等のために総合的な計画が図れず、遊休期間が長期化するケースは少なくない。さらに、公共公益施設の用地取得に要する市町村の財政負担が甚大であるために事業が速やかに進められない等、課題が多い。こうした阻害要因のために、基地が返還されても、跡地利用は必ずしも順調に進んでいないのが現状である。

3 中南部都市圏の跡地で行われた大規模開発

 これまでの県内全体の跡地利用状況をみると、1961年から2007年までに返還された軍用地全体の約36%が、公共事業によって整備されている(図1 沖縄県:返還跡地の整備利用状況(出所)『沖縄の米軍基地』沖縄県基地対策課2008年【略】)。利用形態は、土地区画整理事業や土地改良事業等の公共事業による整備、再開発が中心である(31)。大規模な跡地では、空港、ダム、道路建設などの公共事業を、主として沖縄振興開発特別措置法による国の補助事業で行っている(仲地1990)。
 近年、開発が進んでいる中南部都市圏の大規模跡地では、土地区画整理事業や公共施設整備事業を行う割合が特に高く、跡地の都市的土地利用をめざして再開発する例が62%と圧倒的に多くなっている(32)。中南部に所在する大規模な基地跡地の再開発と都市化(商業開発化)は密接に関わっているのである。現在、県内の2大商業地となっている、「新都心型開発」が行われた那覇市の新都心地区(おもろまち)と「商業型開発」が行われた北谷町の美浜地区は、その代表的な例と言えよう(真喜屋2010)。
 しかし、その2事例のような跡地利用開発は、県内に同じような商業地を形成し、島嶼県経済という限られた市場でパイを奪い合う構図をつくっている。こうした開発手法が他の跡地でもとられれば、基地跡地でも立地案件がよい一部地域に人口の集中や商業集積が進み、既成市街地の人口減、経済の空洞化が引き起こされることが予想される。現実に、新都心地区の開発が進んだことで、那覇市の既成商業地である国際通り地区は、急激に衰退した。また北谷町の美浜地区も、新都心地区で商業集積が進んだ頃と時期を同じくして、商品販売額が減少しはじめており、その影響が現れている。両地域の跡地利用開発は、今後返還が想定されている大規模な基地跡地利用開発のモデルケースとなると目されていたが、今後の持続可能性には疑問符をつけざるを得ない(真喜屋2010)。
 一方で、同じ中南部都市圏に広大な基地跡地をもちながら、読谷村は、地域の風土化を生かし、住民参加の跡地利用開発を推進していた。読谷補助飛行場の跡地利用は、那覇市や北谷町の跡地で行われたような、外部資本や商業施設を域外から誘致し、それに地域発展の命運をかけるというものとは異なる。環境を保全する農業と地産地消を主軸とする内発的な利用であった。この点は、今後の跡地利用開発のあり方における新たな方向を示唆している。

[おわりに]

 永らく基地と対峙してきた読谷村役場入り口の両側にある石柱には、「自治の郷 平和の郷」という村づくりの理念が刻まれている。村は、廃墟から村を再生させるために、「村民主体・地域ぐるみ・風土調和」の三原則を基本とし、「人間性豊かな環境・文化村づくり」という目標のもと、「21世紀の歴史の批判に耐え得る村づくり」を合い言葉に、村民と行政が協働で村づくりを実践してきた。また、読谷村は、基地によって奪われた土地を取り戻し、平和的な跡地利用を進めることを「平和行政」と位置づけ、行政だけではなく村民も共に「平和行政」を担ってきた。
 村民は、地域の歴史や文化を受け継ぎ発展させる当事者となることで、村づくりの担い手として主体性を発揮している。そして、文化的な生活を取り戻すための基地返還運動や字別構想の策定も、村民一人一人が村を支える主体であることを再認識することに繋がっていた。
 そして、読谷村では、自治、環境、平和、福祉、共生を重視する内発的発展が行われていた。山内村長の強いリーダーシップがあったことや、平和、文化、風土、自治に基づく明確な開発理念があったことが、読谷村での内発的跡地利用を推進したといえる。
 読谷補助飛行場跡地では、基地跡地を一大農業拠点として活用する第1次産業中心の「農業型開発」が行われていた。広大な跡地に、外部から大型施設や資本を誘致する産業開発に地域発展の命運をかけるという、外部資本頼みの地域づくりではない。農業型開発によって、地元の特産品である農産物を中心とした先進農業の実現、地域内産業連関の形成、地産地消の拡大で、読谷村独自の持続可能な発展を目指し、一歩一歩実現していた。
 読谷村の内発的な跡地利用は、短期の利益回収を求めるのではなく、長期的視野に立つ村発展の総合計画の一環として、自立した村づくりを着実に進めていた。
 2010年3月に返還が予定されている、読谷村や北谷町に近い北中城村にある米軍泡瀬ゴルフ場は、都市部に隣接しながら豊かな自然に囲まれ、東海岸一帯を見渡せる恵まれた眺望環境にある。2009年12月、跡地に複合型ショッピングセンターを建設することで、地権者団体と企業側が事業の基本協定を結んだ。計画によると、ショッピングセンターは延べ床面積およそ10万平方メートルで、完成すれば県内で最大規模となる。那覇市や北谷町、読谷村と同じ中南部都市圏にある北中城村の基地跡地で、再び大規模な商業型開発が行われようとしている。
 今後返還が予定されている大規模な基地跡地においては、地権者同士、近隣市町村同士で当面の果実を奪い合う開発を進めるのでは、県全体の持続可能な発展に結びつかない恐れがある。地域が相互に役割分担し、全体で総合的に発展するためのマクロプランが求められる。その際、読谷村が行ってきた返還地を内発的利用する経験は、持続可能な沖縄の将来像を構想する跡地利用開発の一つのモデルケースとなろう。


(1)面積214ヘクタール。返還前は、米軍牧港住宅地区として使用されていた。部分返還を経て1987年に全面返還され、再開発された。空港外大型免税店DFSや大型商業施設が軒を連ね、県内随一の商業空間を形成している。
(2)以上は沖縄県知事公室基地対策課『沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)』2009年。沖縄県内の地区別面積における基地占拠率は、沖縄本島の北部地区で19.8%、南部地区で0.6%
(3)Special Action Committee on Facilities and Area in Okinawa:沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会。
(4)実際に1972年から1976年までに返還された軍用地の面積は、復帰時の全軍用地の5.7%に過ぎなかった(沖縄県1977)。
(5)沖縄県知事公室基地対策課『沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)』2009年
(6)2006年7月、読谷村役場でのヒアリング調査による。
(7)読谷村『平和の炎』vol.10、1998年
(8)佐々木雅幸「都市と農村の持続的内発的発展」『沖縄21世紀への挑戦』宮本憲一・佐々木雅幸編、岩波書店、2000年、157頁。
(9)読谷村「読谷村字別構想」1995年。
(10)小橋川清弘「軍用地の跡地利用と平和村づくり―沖縄県読谷村の事例」『自治研報告書集 第31回地方自治研究全国集会』全日本自治団体労働組合編、2006年に詳しい。
(11)高橋明善『沖縄の基地移設と地域振興』日本経済評論社、2001年に詳しい。
(12)読谷補助飛行場跡地を除く跡地での農業型開発は、ボーローポイント射撃場跡を農業開発用地として整備した例が代表的である。詳細は、佐々木2000、高山2002に詳しい。
(14)日米地位協定第2条4(a)「合衆国軍隊が施設及び区域を一時的に使用していないときは、日本国政府は、臨時にそのような施設及び区域をみずから使用し、又は日本国民に使用させることができる。ただし、この使用が、合衆国軍隊による当該施設及び区域の正規の使用目的にとって有害でないことが合同委員会を通じて両政府間に合意された場合に限る。」という規定を逆手にとり、遊休化していた補助飛行場に役場庁舎(1997年)、文化センター(1999年)の他、野球場や運動場などを建設した。
(14)沖縄県基地対策課『沖縄の米軍基地』2008年。
(15)旧地主会は、基本計画策定当初から、本村発展のための村公共用地として補助飛行場跡地の3割を提供すると村と約束してきた。これは、減歩として供するものと考えられた。
(16)1997年に、沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(通称 島墾事業)で整備された。亜熱帯性気候を活かし本土端境期出荷が可能となる花卉等のハウス栽培が主で、選花場の共同利用、栽培技術研修も行う。
(17)2008年1月、旧地主会、玉城栄裕氏へのヒアリング調査による。
(18)山内徳信『憲法を実践する村』明石書店、2001年、140頁。
(19)今村元義・仲地博「基地と自治体」『法と民主主義』No.162、日本民主法律協会、1981年、43頁。
(20)2007年12月、旧地主(農園そべ代表)、比嘉明氏へのヒアリング調査。
(21)山之内卓也・大西絹・田代正一「黙認耕作と戦後処理問題―沖縄県読谷村の事例を中心として」『鹿児島大学農学部学術報告』第54号、鹿児島大学農学部、2004、45頁。
(22)黙認耕作地とは、米軍施設の敷地内にある農耕地である。基地内への出入りが比較的自由な場所で、土地の耕作が黙認されている。土地をとられた住民が農業を始めたのが始まりとなっている。
(23)2005年現在。
(24)佐々木雅幸「都市と農村の持続的内発的発展」『沖縄21世紀への挑戦』宮本憲一・佐々木雅幸編、岩波書店、2000年に詳しい。
(25)2008年2月、読谷村役場農業推進課、城間康彦氏へのヒアリング調査による。
(26)「琉球新報」2009年4月12日付。
(27)沖縄県基地対策課『沖縄の米軍基地』2008年。
(28)前掲書、158頁。
(29)地籍問題については、2007年には98.75%が確定している。
(30)前掲書、158頁。
(31)前掲書、158頁。
(32)中南部圏の米軍基地跡地3929ヘクタールのうち「都市的土地利用」は62%、「農業的土地利用」は15%、「自衛隊利用」は9%、「自然的土地利用」は6%である。2005年3月31日現在。野村総合研究所、都市科学政策研究所『駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等検討調査報告書』2007年参照。

参考文献
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今村元義(1988)「沖縄県における軍用地の利転用問題についての一考察」『群馬大学教育学部紀要 人文・社会編』第37巻、群馬大学教育学部
今村元義・仲地博(1981)「基地と自治体」『法と民主主義』No.162、日本民主法律家協会
沖縄県(1977)『軍用地転用の現状と課題』沖縄県企画調整部
鎌田隆(1974)「復帰後の米軍基地と住民の生活」『開発と自治』日本評論社
住田昌二・梶浦恒男・塩崎賢明(1979)「過密問題と都市政策」『開発と自治の展望・沖縄』宮本憲一編、筑摩書房
高橋明善(2001)『沖縄の基地移設と地域振興』日本経済評論社
高山佳子(2002)「農地の変化と軍用地の影響―沖縄県読谷村の事例」『開発と環境の文化学―沖縄地域社会変動の諸契機』松井健編、榕樹書林
鶴見和子(1989)「内発的発展論の系譜」『内発的発展論』鶴見和子・川田侃編、東京大学出版会
鶴見和子(1996)『内発的発展論の展開』筑摩書房
仲地博(1990)「軍事基地跡地利用の歴史・現状・課題」『大田昌秀教授退官記念論文集 沖縄を考える』大田昌秀先生退官記念事業会
仲地博(1993)「軍事基地の跡利用の現状と課題」『脱冷戦後の軍事基地の態様に関する研究―沖縄米軍基地の動向、返還、跡利用をめぐって』琉球大学法文学部
西川潤(1989)「内発的発展論の起源と今日的意義」『内発的発展論』鶴見和子・川田侃編、東京大学出版会
西川潤(2000)『人間のための経済学―開発と貧困を考える』岩波書店
真喜屋美樹(2010)「米軍基地の跡地利用開発の検証」『沖縄論―平和・環境・自治への島へ』宮本憲一・川瀬光義編、岩波書店
三村浩史(1979)「軍用地返還と跡地利用計画」『開発と自治の展望・沖縄』宮本憲一編、筑摩書房
宮本憲一(1970)「沖縄経済開発の原則」『世界』7月号、岩波書店
宮本憲一(2000)「沖縄の維持可能な発展のために」『沖縄21世紀への挑戦』宮本憲一・佐々木雅幸編、岩波書店



12 沖永良部島民のエスニシティとアイデンティティ
     ――「われわれ」と「かれら」の境界<抄>


高橋孝代
……略……

[4 国家と周縁]

 20世紀は、国民国家の成立とともに、世界中に国家の協会が張り巡らされ、それによって中心と周辺が、そしてマジョリティとマイノリティが創出された。日本という国家の領土設定に際して、周辺地域であった琉球やアイヌは近代国家という枠に取り込まれ劣者の立場におかれ、周縁に追いやられた。西洋の国民国家をモデルとした日本の近代国家建設は、1国家、1民族、1言語を理念とするものであり、その理念から外れた集合体を差異化し他者とするイデオロギーが浸透していく。そして同時に、その他者排除の風潮は、排除される側にとって心地よいはずがなく、「他者」とみなされた奄美・沖縄の人々は精神的苦痛を免れるためにも本土化・同化を余儀なくされた。国民国家創出のための他者排除のイデオロギーは、国内の同質性をもたらした役割も担ったのである。

 旧琉球王国であった沖縄県と薩摩藩直轄領地であった奄美諸島の人々にとって、近世と異なり近代は外の世界へ門戸を広げられ、本土と島を往来し始めるのであったが、本土におけるコミュニティでは周囲から「他者性」をもって接せられ、偏見に直面した時代でもあった。同郷会の発足もこのような排他性から身を守るという側面が大きな原動力となった。島内では、本土での体験から、島民が自発的に標準語教育の必要性を説き徹底していった。このようにして、近代国家の枠内での奄美・沖縄出身者の立場とそれに伴う経験は、本土志向の傾向を促進した。さらに、皇民化教育や戦争という特殊な状態での連帯感は、沖永良部島民に日本国民、日本人という意識を強烈に刻み込んだ。このような意識は、戦後の沖永良部島における日本復帰運動で鮮明に映し出されたのであった。
 米軍による施政権下で、当時の奄美の人たちは、本土に在住する家族や親戚と会えないなど精神的不満や経済的困窮を解決するには日本に復帰することが最良の策と考えた。本土に住む奄美出身者と現地に住む人々のネットワークが活性化し、1つの目標を持って同一の方向に機能した。日本復帰運動は、沖永良部島の歴史において、もっとも大きな運動の1つであった。そして、沖永良部を含む「鹿児島県大島郡・奄美諸島」という集合体が、「日本復帰」という同一の目標に向けて初めて「奄美」を連帯させた社会運動でもあった。運動の中では「日本人」、「日本国民」、「大和民族」、「鹿児島県大島郡島民」としての沖永良部島民のアイデンティティが強調され顕在化した。
 当時、本土では、ほとんど死語となりかけていた「大和民族」という言葉が、奄美では「悠久の昔から日本人」であることを証明する手段として、復帰運動で新たな意味を持って復活した。「われわれ」が意識されるのは、他の集合との関係において、何らかの意味をもち意識させられるある種の「危機的状況」に置かれたときである。「民族」としての「われわれ」のつながりが感情的に強調されるとき、その「旗印」として「民族」は顕在化し人間を集合的に狂わせる。島民は、日本に復帰するため、日本本土との同質性を強調し、「帯の前結び」など沖縄的文化要素を排斥し、沖縄を差異化する動きまで展開された。
 アピールされた「大和民族」の名乗りは沖永良部島民にとって、アメリカ軍支配に対する「日本国民」、「日本人」としてのアイデンティティの主張であり、この傾向は一種のナショナリズムへの回帰であった。終戦までアメリカは敵国であり「鬼畜米英」などと強烈な他者として認識させられ、皇民化教育により本土の日本人同様に、日の丸に対して強い感情を抱いていた沖永良部島民にとっても、当時の「祖国」は日本であった。沖永良部島民の鹿児島県の一員としてのアイデンティティは、すでに確固としたものになっていたが、復帰するためのスローガンの一つであった「鹿児島県大島郡への復帰」という実質復帰論の旗印は、さらに鹿児島県民意識を強化したことは想像に難くない。

 1952年4月1日からは、米軍下とはいえ琉球王国時代以来再び沖縄と奄美が、「琉球政府」という一つの政治体制にまとめられた時代であった。しかし、その時期は、皮肉にも実質復帰論が主流となり、復帰のため沖縄との違いを主張した時期と重なった。沖永良部島が日本に復帰した後も、沖縄は20年近く「外国」であった。また、沖縄では在沖奄美出身者が「外国人」であったため差別待遇が続いた。それらの社会背景から沖縄と奄美・沖永良部の精神的隔たりは広がり、互いに近くて遠い島となった。復帰運動が、「脱琉入日」を決定的にする分岐点となったのである。
 沖永良部島が日本に復帰してから半世紀になる今では、沖縄と沖永良部の人の本土に対する意識にも差が表れている。多くの一般市民が巻き込まれた沖縄戦や、日本の米軍基地の7割が集中するという現実に沖縄の人々は、本土に対し疑問を持つ人も少なくない。それは、ヤマトに対して「ウチナンチュ」という意識を強く抱く傾向にも表れている。一方、沖永良部島民で、日本国民、日本人、「大和民族」、鹿児島県民であることに抵抗を感じる人は少ない。沖永良部島は終戦後直ちに米軍施設に入ったため、本土のような民主化の波をまともには受けず、戦前の皇国思想を引きずったまま日の丸の旗を振り日本復帰を果たし現在に至る。今でも和泊町の「あすの和泊を創る運動」趣旨に「祝日には国旗を掲揚しましょう」という目標がカレンダーにも記載され町民に呼びかけられている。また、筆者もその体験者であるが、小学校などの教育機関では、違和感なく国旗を掲揚し、国家を斉唱してきた。
 中央から離れた離島では、周縁であるだけにある種の疎外感を感じ、ややもすると国家の一員であることを忘れてしまいそうになる。だからこそ強調されるのかもしれないが、沖永良部島の方が東京にいる時以上に日の丸を目にする機会が多い。

 日本復帰後は、奄美振興開発特別措置法で「本土並み」を目標に経済発展に努力してきたが、それは同時に本土を「優」とし、島を「劣」とする意識も育て、本土志向を強化した。本土との同化は進み、精神的にはほとんど本土と一体化しているため、奄美がマイノリティとしての可能性を示されると、(筆者がアメリカで感じたように)衝撃を受けるのである。例えば、2005年5月、香川県にある四国学院大学が行っている特別推薦入学選考制度の被差別少数者枠のなかに、「在日韓国・朝鮮人」「アイヌ」「沖縄人および奄美諸島出身者」と奄美出自の人が含まれていることがわかり話題となった。それは、奄美の地方紙『南海日日新聞』にも取り上げられた。強い「日本人」意識を持っているのに、本土側から「そうではない」ということを突きつけられた戸惑いであろう。
 一方沖縄は、約27年間も米軍施政権下にあり、日本復帰後も日米安全保障条約による米軍基地の存続で「基地の島」となり、基地をめぐって現在でも中央政府と折衝を繰り返さなければならない。米軍基地とそれに伴う問題は切実で、1995年9月におこった米軍兵の小学校6年生の少女への暴行事件もその一つであった。この事件で、沖縄の不満と怒りは頂点に達し、その年には第2回世界ウチナンチュ大会も開催された。沖縄は本土の犠牲となっているとの意識も高まり、本土に対する自己主張としてナショナリスティックな対ヤマトの「ウチナンチュ」意識が生まれてきたといえる。他方、沖永良部島には「エラブンチュ」という言葉はあるが、それは対ヤマトの意識でもナショナリスティックな意味も含まれない、単に「エラブのひと」という意味合いでしかない。

 過去を振り返ると、琉球王国時代という奄美と沖縄が統一の方向に向かっていた時代から、17世紀初頭の薩摩藩の琉球侵攻による奄美の割譲、19世紀末の近代国家の形成に伴いできた沖縄県と鹿児島県という行政上の壁、そして20世紀半ばの米軍下の日本復帰運動での差異の強調という歴史的事象は、沖縄と沖永良部を精神的に引き離す分岐点であった。異なる歴史の歩みは、わずか60キロほどしか離れておらず、広義の意味で文化を共有している沖永良部と沖縄に住む人々のアイデンティティに、大きな違いをもたらしている。しかし、これまでの過剰な本土志向への反動、あるいは完全に消失することのなかった沖縄への親近感による王国時代への「伝統回帰」なのか、沖永良部島では近年沖縄との関わりを求める動きも出てきている。例えば沖永良部島出身の大山一人(1969−)は、2000年7月に開催された国連の先住民作業部会で「奄美人は琉球民族で先住民である」という主張を沖縄の同世代者と共に主張している。
 これまで述べてきたように、アイデンティティは固定されたものではなく可変的である。生活習慣自体が変化しなくても、それを取り巻く政治的な変化は人々のアイデンティティに強く影響する。特に、境界域においては、そのアイデンティティの「振幅度」がそれ以外の地域と比べて大きいと考えられる。今後も沖永良部島民のアイデンティティは変化するであろう。

[結びに]

 ヤマトとウチナーのエスニシティの境界には複数の基準がある。本土側からは沖縄県の人々も鹿児島県奄美諸島の人々も同様に、「南国」というイメージを持つ「沖縄」というカテゴリーでくくられている。しかし、沖永良部島を含め奄美の人々にとっては、沖縄と奄美は異なり、沖縄という言葉で一まとめにされることに違和感がある。沖縄の人々にとっても、沖永良部島を含めた奄美の人々は、県を共有しない鹿児島県の人々で、「真正」なヤマトンチュでもなければウチナンチュでもない。だが、奄美の人も沖縄の人と同様に、本土の人をヤマトンチュと呼び、自らと区別している点は共通している。奄美と沖縄は文化面のみならず意識の面でも多様性があり、一枚岩ではない。
 沖永良部島民は、国家の枠内で、ドミナント対マイノリティという構図に単純には納まらない。沖縄と日本本土の間に位置する境界地域における、歴史的政治的文化的影響から、沖永良部島民の人々は、このような相反する2つのベクトルに向かうアイデンティティを、状況によって心理的に往来する「ボーダー・アイデンティティ」をも保持しているといえるのである。
 だからといって、本章で明らかにしたようなボーダー・アイデンティティを「引き裂かれたアイデンティティ=悲劇」とみなすことはできない。沖永良部島の人々の一見曖昧で矛盾したアイデンティティは、様々な帰属変更を迫られてきた人々が歴史に柔軟に対応してきた適応戦略の結果であり、その副産物として存在する複数のアイデンティティは島民にとってなんら矛盾なく共存しているのである。「大和民族」も「琉球民族」もその状況によって選択された人々のアイデンティティの主張であり、そこに住む人々の真実なのである。

 国家という枠組みの中で周縁に位置付けられる琉球弧の人々は、国家とのさまざまな齟齟から今も行き場のないアイデンティティを模索しなければならない。奄美は本土との同質性を追い求めることによって奄美としてのアイデンティティよりも「日本人」としてのアイデンティティを優先してきたにもかかわらず、完全な同一性をマジョリティ側から否定される。だが、近年の奄美固有の黒糖焼酎や民謡の知名度が高まり、「沖縄でも鹿児島でもない奄美」という枠に独自性を求める動きも出ている。一方、沖永良部島民は、文化的には奄美大島より沖縄により近く、奄美大島を中心とする「奄美」という枠内でも完全な同一性を求めることはできずにいる。他方、沖縄は基地問題を突きつけられ、、対本土の「われわれ意識」をいやおうにも考えさせられるため、「沖縄ナショナリズム」も生まれ、完全な同化の道には進まない。「日本本土とは同根ながらも独自性を持つ沖縄」という日琉同祖論の枠内で、独自の文化要素を効果的にアピールし、日本国内でも特異な社会的位置を確保し、「沖縄音楽」や「沖縄料理」など肯定的なイメージを持つ「沖縄ブランド」を確立した。この琉球弧のケースのように、否定的に表象されてきた差異性を、肯定的に捉え発言力を高めようとする動きは、学術用語で「同一性の政治学(アイデンティティ・ポリティクス)」と呼ばれている。筆者のようなネイティブ研究者による『境界性の人類学』の試みも、周縁からの「叫び」にも似た一種のアイデンティティ・ポリティクスなのかもしれない。だがしかし、そのように捉える際の前提に存在するのは、マジョリティによるマイノリティの「周縁化」なのである。
 アイデンティティは、外部社会との政治・社会的関係という大きな枠組みの中で、個人が織りなす他者との相互行為のうちに形成されていく。個人が属する集合体と、その他の集合体の政治的、文化的関係が、歴史という時間的なプロセスの中で、同化と排除、帰属性と異質性、「われわれ」と「彼ら」との境界線を創り出し、その対抗勢力が絶えず抗争する緊張関係の中でアイデンティティは創り出されているのである。


(1) 本章では、エスニック・アイデンティティを「自己の属する民族集団に対する帰属意識」と定義しておく。
(2) エドワード・サイードは自著『オリエンタリズム』で東洋に関して西洋の人々が書いた小説や研究書などさまざまなテキストのなかに、西洋と東洋を対置させ、前者に優越、後者に劣等の価値判断をアプリオリに押しつけ、最終的に「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式=スタイル」を見出すことができ、その「スタイル」を彼は「オリエンタリズム」と呼んだ。
(3) 対象者は、沖永良部島に住民票を持つ「エラブンチュ(沖永良部の人)」とした。サンプリングの方法は無作為抽出法ではなくクオータ(quota)法で行った。クオータ法とは、ある特定の母集団における関心のある下位集団を定め、母集団の構成比率にあわせてサンプルを抽出するが、その抽出は有意抽出で選ぶ方法である。例えば、男女を比較する場合にサンプル数を男女同数になるようにサンプルを抽出するという方法である。本研究では、性別、町別、年齢別を主な基本属性とし、母集団の構成比率に合わせサンプルの抽出を試みた。サンプル数は600で母集団の約4%である。母集団は約1万4500人と考えられ、その根拠は以下の通りである。調査を開始した2001年8月1日現在の島の全人口は1万5123人である。この総人口のうち、結果的に調査の対象外となったのは、鹿児島県沖永良部合同庁舎、および沖永良部事務所の職員、鹿児島県の教職員、鹿児島県警沖永良部警察署の警察官、航空自衛隊第55警戒群の自衛官など転勤で一時的に沖永良部島に住んでいる人々であった。これらの人々の数は、600人前後である(筆者調べ)。よって母集団は約1万4500人と推測される。
(4) 質問紙調査結果は『境界性の人類学』の巻末付録に掲載している。
(5) Lyman and Douglass 1092:350
 
参考文献
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エドワード・W・サイード(1992)「知の政治学」『みすず』34(8)、みすず書房、2−16項
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川田順造(1999)「『民族』概念についてのメモ」『民族学研究』63(4)、日本民族学会、451−461項
先田光演(1990)『沖永良部島の歴史』自家版
高橋孝代(2004)『沖永良部島民のアイデンティティと境界性』博士学位請求論文、早稲田大学
高橋孝代(2006)『境界性の人類学―重層する沖永良部島民のアイデンティティ』弘文堂
津波高志(1996)「対ヤマトの文化人類学」『民族学研究』61(2)、日本民族学会、449−462項
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Lebra,William P (1966) Okinawan Religion,University of Hawaii Press
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