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マーラン船



「沖縄マーラン船の船型に関する調査研究」
八木 光(東海大学海洋学部船舶海洋工学科)河邉 寛(サムソン重工業株式会社)
1.緒 言

 沖縄における伝統的な船舶であるマーラン船は沖縄各地では山原船とも呼ばれており、近世まで琉球域内や日本との海上輸送に利用され重要な役割を果たした。昭和初期までその運用が行われてきたが、現在では実際に運行される船として残されたものはない。マーラン船の建造技術は中国より伝承されたものと考えられており(喜舎場、1974)、その技術的な変遷については工学的な検討は極めて少ない。現在、うるま市海の文化資料館では、市の無形文化財である船大工越来治喜氏により製作された大型マーラン船が展示され、広く一般市民への地域文化の学習や広報に役立っている。
 一方、このような伝統的な技術は人から人への技術として伝承されており、現代の工学的な調査を行うことが非常に少ないのが現状である。すなわち、船の工学的検討にさいしては船型や艤装品等の数値的な把握が必要であるため伝承技術の数値化が不可欠となる。このような背景のもと、マーラン船の船型的特徴を明らかにし、さらには技術的関連の深い中国建造の進貢船との比較を多面的に行うことにより、その特徴を一層明確に示すことは歴史的にも非常に重要なことであると考え、今回の調査検討を進めた。
 著者らは琉球進貢船の船型に関する工学的調査の一環として、進貢船の船型線図調査と性能評価を行ってきた(尾崎、八木、2007)、(河邉、尾崎、2007)、(河邉、尾崎2007)。その間の沖縄における進貢船調査を通じ、沖縄県うるま市の海の文化資料館に平安座船大工、越来喜治氏による伝統技術で復元された船首上部だけがやや広がった「ブーンハヤ」型のマーラン船が在存することを知り、船型の発展を現代的な造船技術の目でとらえ、できるだけ定量的な技術評価を行うことを試みた。今回、マーラン船の伝統的技術を受け継いでいる越来治喜氏とうるま市海の文化資料館のご理解と全面的なご協力を得て船体形状の詳細計測を実施した。
 ここでは、計測の概要とその解析結果を示すとともに、実運航を想定した海上での特性を示すための抵抗性能や運動性能を検討し、マーラン船の持つ特性を明らかにすることをこころみた。さらに、性能に大きな影響を持つマーラン船の水面下の船型について進貢船との差異を明確にした。
 このように、非常に希少な伝統的造船技術を、現代の技術を用いて計測し、その性能を評価することは将来への文化伝承にとっても非常に有意義であると考えられる。

2.マーラン船について

2.1 名 称
 マーラン船は、沖縄各地では山原船とも呼ばれており、近世琉球時代を代表する伝統的な船舶である。琉球域内や日本との海上輸送に利用され重要な役割を果たし、昭和初期までその運用が行われてきた。1950年代に姿を消し、現在では実際に運行される船として残されたものではない(池野茂、2003)。マーラン船の建造技術は中国より伝承されたものと考えられており、「このシナ式ジャンク型の馬艦船が琉球に伝来したのはそれほど古い時代のことではなかった。近世の18世紀の前期に中国から伝授せられたものであったが、……」とされ、数多くの研究が行われている(喜舎場、1974、喜捨場、1993)。しかしながら、その技術的特性については工学的な検討は極めて少ない。

2.2 船 型
 一般に、馬艦船の船型としては船首托浪板が大きな水線幅を有する船首形状をしているものといわれており、具体的には沖縄県立博物館の各種屏風図や中国福建省泉州海外交通史博物館で公開中の馬艦船にもみられる。また、マーラン船と山原船の名称については両船とも「造船上の構造形態においては本質的に支那式ジャンク型の同種のものであった」(喜舎場、1974)ということであるが、ここでは厳密な意味での馬艦船と山原船の区別を行うことなく、沖縄の代表的な船として船大工の聞き取り調査や資料(与那城町海の文化資料館、2004)を参照し、「マーラン船」と称することとした。
 マーラン船の船体横断面形状については、船底が丸みをおびた「カンバンブニ」、直線的な「カウチー」さらに両者の中間である「ブンハヤ」に分類され、明治の那覇港図には船首の平らかなカンバンブニしか描かれておらず、それ以後明治時代に船型の大きな変化がと生じたものと考えられている(坂井英伸、2003)、この変化の理由については歴史的な検討を待つ必要があるが、この変化は現代の流体工学的な観点からすると非常に合理的なものであり、沖縄における造船技術の発展ととらえることもできる。
 マーラン船の性能については、琉球史料によれば馬艦船は航海が安全で船足が速いと評価されており(喜捨場、1974)現代技術の観点から評価することは意義のあることであろう。しかし、マーラン船の船型については、建造地域や、船大工によりそれぞれ工夫がされたとされ、各種の形状がありうるものといえる。また、図面等の概要が発表されているものの(沖縄県文化財調査報告書第101集、1991)、船型の数値的検討の面からは必ずしも十分とはいえない。従って、船型形状を厳密に再現できるまで詳細な数量化は、船型を復元するための目的にとどまらず、マーラン船の特性を定量的に詳価するために必要な要素と考えられる。
 なお、参考までに琉球へ伝来した造船技術のもととなる進貢船についてその船体形状の特徴を述べると、竜骨を有し、船首部に托浪板、横隔壁を有することがあげられる。水面下の船体形状は尖頭型ではなく幅広い水線形状を有しており、側面の水線画形状は緩やかな曲線で構成されている。また、舵の保持は舵下端部をロープで船首前方に引き船首部に設けた固定材に固縛する形式である。一方、日本からの交易ではいわゆる和船が利用されたことも19世紀の琉球交易港図屏風(浦添市立美術館蔵)などでも明らかである。和船の一例として菱垣廻船をみると、船体形状の特徴は竜骨や横隔壁がなく、船首部に水押を設け、水面形状を尖頭型とし、舵は船尾部にて固定されている。

2.3 中国技術との関連
 中国造船技術の琉球への伝搬は、中国との進貢、冊封関係により始まったと考えられる。すなわち、1372年に明の太祖が楊載を派遣し進貢を招諭したのを受け、中山の察度王が進貢を行ったことにはじまるとされる(安里、1967)。当初、進貢船は中国より下賜されたものであり、1557年ごろには琉球建造の「唐船」が建造されていたとも推定されている(池野、1976)。これらの技術的な交流を通じて琉球と中国の明、清時代に使用された進貢船の建造を通じて技術が伝えられ、発展・伝承が行われたと考えられる。

3.調査対象船[略]
4.船体計上の特徴[略]
5.マーラン船の波浪中船体運動特性[略]
6.マーラン船の帆性能[略]

7.結 言


 琉球進貢船の船型研究の一環として、沖縄において現在まで技術の伝承が行われ展示用模型船が制作されている2隻のマーラン船について、レーザートータルステーションを用い、評細な形状を明らかにしたその解析の結果、現代の造船学の立場から見てもマーラン船Aは大量の貨物輸送に適した船型を有していること、またマーラン船Bは高速型船型を有していることを具体的な形状比較などを通じて数値的に裏付けた。また、A船型を中心に水槽による調査を行い、波形観察によりマーラン船の船型が造波抵抗の面からも優れていることや、その抵抗性を明らかにした。また、マーラン船用の帆についても風洞試験を行うことによりその揚抗力特性を代表的な例で明らかにした。
 運動性能の評価の一例として、計測された船型をもとに理論計算手法を用い船体運動の予測を行い、進貢船との差異などを示した。実運航の状態での直接的、断定的な比較は困難であるが、マーラン船Aは運動振幅が進貢船に比し若干大きいように推定されたが、これは船首部の形状差による影響と考えられ、逆にマーラン船の抵抗性能が進貢船に比べ造波抵抗の面で優れているということの証でもあるといえる。
 これらの結果は、船体や帆の単独の特性として明らかになったものの、実運航の性能については操船者の運航技術、船体と波の干渉、2枚の帆の展張方法など総合的な組み合わせの結果としてさらに検討の余地が大きいことはいうまでもない。
 これらの船の実航海実績は不明であるが、今後はより一層多面的に各種性能を検討し、伝統的な船が持つ諸性能を現代的な工学的手法を用いて明らかにすることは、造船技術ひいては技術文化の保存伝承面からも有意義なものと考えられる。今後も引き続き調査を行う予定である。

謝 辞[略]

参考文献
 安里 延:沖縄海洋発展史、琉球文教図書、昭和42年8月、pp.61
 池野 茂:近世琉球の遭難漂流記録をめぐる諸問題、桃山学院大学社会学論集、第10巻、第1号、1976年12月。
 池野 茂:「琉球山原船水運を担った船舶を中心に」、『日本水上交通詩論集』第5巻九州水上交通史、pp.314、2003年6月。
 沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年、中巻、p234。
 沖縄県文化財調査報告書第101集、西表島船浦スラ所跡一巻
 湾施設工事等に伴う発掘調査―、沖縄県教育委員会、1991年3月、pp.63-66。
 尾崎伯哉、八木 光、沖縄進貢船の船型と抵抗性能、日本船舶海洋工学会講演会論文集第3号、2006年11月、pp.121―124。
 河邉 寛、沖縄進貢船の波浪中の運動と荷重について、日本船舶海洋工学会講演会論文集第3号、2006年11月、pp.125―128
 河邉 寛、尾崎伯哉:琉球進貢船の琉球-中国間の航行状況の推定、日本船舶海洋工学会講演会論文集第4号、2007年5月、pp.125-128。
 喜舎場一驕F「マーラン船」考、海事史研究第23号、1974年10月、pp.31-57.
 喜舎場一驕F「マーラン船」新考、『日本水上交通詩論集』第5巻九州水上交通史、pp.357、2003年6月。
 小嶋良一:進貢船模型の船体形状計測方法について、日本船舶海洋工学会講演会論文集第3号、2006年11月、pp.117-120。
 坂井英伸:「マーラン船の多様化とその背景」、民具マンスリー第35巻第5号、2002年8月。
 Marchaj,C,J.,Aero-Hydrodynamics of Sailing Granada
 Publishing, in Adlard Coles Limited,1979,pp.444.
 与那城町海の文化資料館、沖縄・与那城町の山原船〜それを船大工はマーラン船と呼んだ〜。2004年7月。
(東海大学紀要海洋学部「海―自然と文化」第7巻第1号2009)



[2003.12.21] まーらん船 「手作りサバニの作成」が頓挫した今(「そんなことは始めから分かっていた」とは、知人・友人・家人の声)、「夢」を追うなら、マーラン船!とつぶやいていたら、沖縄タイムス<2002年4月1−2日>> に板井英伸さん(沖縄民俗学会会員)という方が「明治期に起きた馬艦船の変化」を寄稿していた。県立博物館で、大型ジャンクである進貢船の隣に、「子どもジャンク」のような「馬艦船(マーラン船・山原船)」が並んでいた。
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「明治期に起きた馬艦船の変化」板井英伸 より

 大正から昭和期にかけて撮影された写真に登場する馬艦船(山原船)には、船首の平らなもの、船首が全体に細く尖っているもの、船首上部だけがやや広がって下部は細く尖っているものと、大きく三種類ある。

 整理すると船底が丸みを帯びたカンバンブニ、直線的なカウチー、両者の中間であるブンハヤの三種類に分類でき、それぞれ先に挙げた三種類に対応していたようである。
 しかし、一般には馬艦船というただ一種類の船があるように思われており、しかも単純に中国南部沿海地方の木造船であるジャンクの一種だと考えられているようである。

 まず、幕末と明治の那覇港図を見ると、幕末のものには船首の平らなカンバンブニしか描かれておらず、明治になって初めて船首の細い船が登場する。

 吉田真栄氏(編注・国立民族学博物館所蔵の馬艦船模型の作者)による船体図にはブンハヤが「改良型」であるとの書き込みがあり、北見俊夫氏(同・人類学)もまた、聞き取りをもとに明治末期になってからブンハヤが登場したことを紹介している。

 近世以前の沖縄ではカンバンブニが主流であり、近代になってから何らかの事情によってカウチーが急増し、その後、明治末期になってからブンハヤが完成したのである。上田不二夫氏(沖縄大学教授)によれば、杉材を使うサバニの船型が考案されたのは1880(明治12)年前後の糸満だそうであり、沖縄の人々に強い印象を与えた馬艦船とサバニというふたつの船が、ほぼ同時期に完成された比較的新しい船であることは興味深い。

 カウチー、ブンハヤ型馬艦船の船体構造を見ると、どちらも二本マストで竹桟入りの台形の帆を持ち、ジャンクの特徴を備えているのだが、ジャンクにあるはずの隔壁(船内を小部屋に仕切る壁)や甲板が無い。これらは船体の強度を確保して浸水を防ぐものであり、これ無しでは船としての役目を果たせないほど大切なものである。これらが無い以上、カウチーやブンハヤを単純にジャンクの一種とは言えないだろう。
 また、船首が平らであることもジャンクの特徴だが、カウチーもブンハヤも船首下部は細く尖り、特にブンハヤの船首下部は三角形に張り出している。これは、一般に「千石船」と呼ばれる弁才船型の和船に共通する特徴であり、この船に隔壁も甲板も無いことを考えると、カウチーやブンハヤに和船の構造が取り入れられていることが推測できる。

 何らかの事情によって隔壁や甲板を失い、相対的に低下した船体強度と航海性能を補うために、隔壁や甲板を持たないにもかかわらず一定の強度と性能を保持していた和船の構造が導入され、ブンハヤが完成したのだろう。
 カウチーやブンハヤが生まれた明治期、沖縄は廃藩置県をピークに社会的に大きな変化の中にあり、人や物の移動が激しくなって交通・輸送手段に対する需要も増えたはずである。また、以前は山林保護のため手に入りにくかった木材が外部から持ち込まれ、制限されていた造船や水運が自由化されると、比較的小規模の水運業者が乱立し、競争が激化したことが推測できる。
 隔壁や甲板を無くせばそれだけ木材を節約でき、造船にかかる時間も短縮して早く安く造ることができる。半面、外洋での航海性能は低下することになるが、近距離の沿岸航路では船腹が増して荷役も楽になり、かえって歓迎されたはずである。明治後の馬艦船は、大変な時代の中、それまで持っていた何かを失いながらも、和魂洋才ならぬ琉魂中才、琉魂和才とでも言うべき構造、性能を備え、沖縄の海に最適の船型として完成されたのである。

※詳しくは神奈川大学・常民文化研究所発行の『民具マンスリー第35巻◆第5号(02年8月)』掲載の「馬艦船の多様化とその背景」をどうぞ。
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 近世から近代で活躍した日本の伝馬船が「てぃんま」として、物資運搬、人員輸送に使われた。この伝馬船を大型化したものが、宮古船、山原船、マーラン船であると言われているという説もある。
 豊見山和行『琉球・沖縄史の世界』の中に「18世紀をはさむ前後の時期に首里王府は、……中国のジャンク船をモデルとした民間船(馬艦船マーランセン)を普及させる。」(P62)とある。
 いずれにせよ、「ルソン・安南・カンボジア〜目指すは遠いイスパニア〜」という様な船ではなさそうな。もっとも、小説家的創造力をたくましくすれば、カウチーやブンハヤに取って代わられる前の「カンバンブニ」は、隔壁・甲板を備え、南シナ海を漕ぎ渡ることは可能なマーラン船だったかも知れない。風游子としては「帆掛けサバニ」で外洋に出ようと妄想していたのだから。


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