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【2005.12.30】 仲里 効<「沖縄処分」に反対する「独立琉球」という想像力>(『世界』岩波2006・1)を読む。
 「独立琉球」という彼独特の掬い揚げかたの秀逸さにまず惹かれた、というところか。かつての「グラフト国家」から、今回の<台湾・沖縄・済州>という「飛び石」。そしてコージ・タイラを援用して「沖縄は独立過程に入った」と末尾に記す。とすれば、日米帝国主義による共同謀議たる「『米軍再編』への抵抗の想像力」から更に、「私たちに想像力のタタカイへと促す」だけにとどまることは出来ないのではないだろうか。もちろん安易に「実践過程に入った」などと語るつもりはないが。
 「<帝国>」からは、その内容ではなく方法を学ぶべきである、というのは我が畏友からの助言だが、だとすると、<構成権力>あるいは仲里さんが触れた<主権>を巡って、真に問われるのは<マルチチュード>ではなく、くどいようだが<プロレタリアート(無産者階級)>であろう。

「沖縄処分」に反対する「独立琉球」という想像力
仲里 効
ソウル大学でのプロジェクト

 私は今、この原稿を韓国のソウルで書いている。正確にいえばソウル大学で11月17日から20日までの4日間行われている「継続する東アジアの戦争と戦後−沖縄戦、済州道4・3事件、朝鮮戦争」のプロジェクトの一報告者として、また他の報告の聞き手として居合わせたことで、そこでの沖縄と韓国・済州島との応答の熱気に触発されながら、言葉に向っている、ということになる。
 こう書き出さざるを得なかったのは、このプロジェクトが10月29日に日米政府間で合意された「在日米軍再編」が東アジアに及ぼすであろう軍事・政治的な影響と逆向きにではあれ交差していると思えるからである。いや、それどころか米軍の戦略的な布置に一体化する形で自衛隊の拡大・強化を目指した「再編」なるものがアジア太平洋の緊張と敵対を仮想し、それをテコにして東アジアの政治・軍事地図を根本から変えるほどの規模と内容に注目するとき、あるいは「日米同盟・未来のための変革と再編」という名の「再編」が描く「未来」がいかなる倒錯的なものなのかを考え合わせるとき、その倒錯へのある意味では国家を介在させない「抵抗の想像力」を模索し、創り上げるささやかだが貴重な試みのひとつでもあると思えたからである。たとえそれがいくつもの迂回の道をたどらなければならないにしてもである。
 ソウル大学の鄭根埴は「問題設定」のなかで、このプロジェクトは東アジアの総合的な討論というよりは、「新たな問題の枠組みを形成していくためのひとつの出発点あるいは飛び石としての意味合いが大きい」といっていた。たしかにこれは「出発点」にすぎない。だが「飛び石」という言葉が付与されるとき、学術上のはじまりの表徴という意味を超えて、近・現代の東アジアの人々が植民地主義と冷戦体制によって引き裂かれた歴史的経験がにわかに浮上している。そしてそれは「東アジアでの帝国/植民地体制から冷戦/分断体制への移行に横たわっている戦争の経験を、周辺あるいはマイノリティの立場からあらためて省察しなおすとき、より明白な意味を表すだろう」としたことでいっそう核心を顕すことになる。戦争の記憶と経験を、周縁の立場から省察する、そのことによって召還される存在のカタチ、それはまぎれもない「飛び石」としかいいようがないのである。「飛び石」とはいわば、「帝国/植民地体制」と「冷戦/分断体制」によって引き裂かれた歴史的身体の空間化された名なのだ、といえよう。
 こうした「飛び石」状の歴史的身体はしかし、他なるものの発見と相互交渉がないかぎり、それ自体の存在においては孤立の別名に甘んじるしかないだろう。それゆえに出会いと交渉、接触と分有がいっそう切実になってくる。「長期間にわたって持続した冷戦体制では、各国家と地域が孤立、細分化(断片化)されながら、自己中心的な視角にとどまっていた。1990年代後半からこのような細分化(断片化)した様相はある程度解消しはじめたが、だからといって過去の遺産が克服されたわけではない。そのひとつの例として、米軍基地問題を媒介として沖縄と韓国では1997年から下からの連帯が形成されはじめたが、沖縄・台湾・済州道を媒介として東アジア全体を今一度考えなおす」というとき、接触と分有の思想は歴史からの要請として了解されるはずである。だが私はここに書き入れられているひとつの文字にとても敏感になっている自分に気づかされた。
 ひとつの文字とは何か。それは済州<道>のことである。普段は済州<島>と呼称されるそこが<道>と表記される背後に、韓国内部で起こった最近の変化を思わずにはいられなかった。そのとき<道>は行政的単位を越えて二重の意味を帯びてくる。<島>が<道>となること、そこには国家のカタチをリライトせざるを得ないほどの政治的要請があったのだろうか。ソウルにいる間、その問いの納得いく解答を得る機会を失してしまったが、たえずそのことは私の頭を去来していた。
 というのは、済州島が「自治政府」になることを韓国政府が認めたという報道を、つい3週間ほど前、沖縄の地元2紙(沖縄タイムスと琉球新報)で小さくないスペースを割いて紹介していた記事を強い関心をもって読んでいたからである。そのこともあって、出席したプロジェクトの「問題設定」の冒頭で、冷戦体制のもとでの分断と細片化された東アジア全体を見直すコンテクストのなかで「沖縄・台湾・済州道」という連なりとして定位されていることに、少なからぬ驚きを覚えずにはいられなかった。植民地主義と冷戦によって分断され、細片化された「飛び石」のひとつの<島>で起こった変化に、私はその連なりのあとひとつの「飛び石」でもある沖縄について、とりわけ沖縄の未来を窒息させかねない「米軍再編」への抵抗の想像力について考えないわけにはいかなかった。
 東アジアにおける冷戦のもとでの熱戦の起点となった1945年の沖縄戦、1947年の台湾2・28事件、1948年の済州島4・3事件、1950年の朝鮮戦争。沖縄・台湾・済州島(道)・韓国、これら東アジアの群島と半島は、長い間冷戦の負の遺産を生かされてきた。日本の戦後体制・憲法の外部で戦争と占領の継続としてのアメリカの軍事的植民地状態に放置され、72年の「日本復帰」後も変わらぬ現実におかれてきた沖縄。国連的秩序のもとで「国家なき国家」の状況を強いられてきた台湾、そして韓国の周縁として疎外の変数を刻んだ済州島。東アジアの周縁の「飛び石」たちはまた、幾つもの帝国が折り重なった<境界>でもあった。
 沖縄とは温度差が20度以上もある晩秋のソウルの市街に入った夕刻、立ち並ぶビルディングの方形をかすめて赤く満ちた生まれたての満月が架かっていた。肌を刺す夜の乾いた冷気に身をおくと、火照っていく小さな律動が私の内部にも満ちていくのを感じた。そして「飛び石」という言葉がイメージさせる孤立の位相が、東アジアの群島と半島に散種された分有と連帯の可能性として開かれていく予兆を、在米沖縄人大学教授コージ・タイラの名とともに思い起こしていた。

コージ・タイラの「雑音」

 コージ・タイラは、これまで沖縄が東アジアに向かって開かれていく道を、沖縄の日本からの分離と「独立」にその可能性を描きこんできた。1997年に沖縄の若者を意識して行われたレクチャー「琉球独立の新視点」(『EDGE』第5号所収)は、これまで展開してきた自らの言語的実践を反復しつつも、歴史的変化の予兆を孕んだ東アジア情勢への独自な視点を介在させた再提示でもあった。そのメッセージは、95年の米兵による少女レイプ事件をきっかけにして立ち上げられた沖縄の動きのなかに受け継がれ、貯蔵されてきた経験と応答しつつ、それを政治的想像力において掬い取り、沖縄の持つ可能性のギリギリの所まで引き延ばし、組み替えていく試みでもあった。95年以降の沖縄へのポレミークな介入としても読めるが、それ以上に私たちに想像力のタタカイへと促す、そのような性格を持っていた。
 このレクチャーの冒頭、コージ・タイラは自らの提言を「雑音」に擬していた。「私も沖縄の地位や進路について、大衆運動を支援したころがあります。これをきっかけに、その後5、6年または10年毎に、沖縄の地位が何らかの変化が生じる度に、何かと雑音をたててまいりました。今日もその伝で雑音をたてて見ることにしました」といっていたが、ここから伝わってくるのは、沖縄の変わり目に大衆運動を支援してきたにもかかわらず、その度にその支援が反古にされてきた苦い述懐として聴くこともできる。今度も「ほんとうは沖縄の人たちには届かないのかもしれない」というある種の自嘲のようなものと、それでもなお沖縄に、とりわけ沖縄の若い世代に対して発せざるを得ない老学者のなかに流れ込んでいる、この島の<未来への郷愁>として呼びかけていくような両義的な声の響きとしてである。しかもその声は冷静な世界認識に裏打ちされているため、独特な諧調と陰影を織り込んでもいた。コージ・タイラがいう「雑音」とは、そのような複数の声として理解されなければならない。決して謙遜や衒いとしていわれたのではない。沖縄の未来へのやみがたい、だが反語的にしか託しようがない郷愁と見まがう希望のようなもの。あるいはそこに冷たい熱気を読みとるべきなのだろうか。
 コージ・タイラは、東アジアの政治的現況がアメリカのヘゲモニーによって占有され、東アジア諸国はそれぞれアメリカと二国間で結んだ条約や協定で拘束されている事実を挙げていた。「日本とアメリカ、中国とアメリカ、韓国とアメリカ、台湾とアメリカ、という具合に、アジア諸国はみなアメリカ合衆国の遠距離操作網の中に入っているわけです。ということは、アジア諸国はまだアメリカ合衆国の世界政策から解放されていない」として、そうした二国間関係でワシントンに集中されている、アメリカとアジアの支配・従属関係を打開するひとつとしてEATO(East Asian Treaty Organization)のようなものを構想する。そのためにはアジア諸国が関係を濃密にし、アジアの平和と安定を連帯責任で実現することの必要性を説く。沖縄の米軍基地の要・不要を決定するのは、他でもない、東アジアが独自性を発揮した関係を作り出せるかどうかにかかっているというのである。
 それだけなら取り立てていうべきほどのことでもない。が、目を凝らしたいところは「主権」という概念の罠に陥る危険を注意深く避けている次のような言葉である。「『主権』にこだわり過ぎる国民国家の時代には、国家間の疑心暗鬼が国際関係の日常茶飯事になっています。東アジア諸国間の相互不信を利用して、アメリカの軍事基地が沖縄に在るわけであります。とすれば、沖縄にできる国際貢献というものは、国家間の疑惑や紛争の平和裡の解消へ向けて、『お手伝い』をすることではなかろうかと考えられます」と。
 ここで2つのことに注目したい。ひとつは、「国家」と対になった「主権」概念の排外性を見誤らないこと、あとのひとつは「お手伝い」という控えめな言い方に、国家間の疑惑や紛争のもととなっている「主権」の排外性を越えたところに「独立琉球」を視野に入れていることである。国家を介在させないさまざまなレベルでのアジア諸域との関係と交流を仲介するアリーナの実績をつむこと、とりわけ国連的秩序のもとで「国家」として認められていない台湾と中国との和解にむけたプロセスに「独立琉球」を書き込んでいるところにコージ・タイラの政治的想像力の際だった特徴がある。
 だから「独立琉球」は、自らの軍隊はもちろんのことアメリカや日本の軍隊の進駐を許さない<完全非武装・非武装無力>でなければならない。ここに最初に引用した鄭根埴の「沖縄・台湾・済州道を媒介として東アジア全体を今一度考えなおす」問題意識との深い共鳴をみてもいい。主権に閉ざされた国家としてではなく、半島と群島の「飛び石」として徹底して<あいだ>を生きる、国家なき国家、主体なき主体においてこそ獲得される。<明かしえぬ共同体>のリアルなのだ。
 東アジアの和解の空間を創出する「独立琉球」を荒唐無稽な政治的空想とみるものは、そのことによって想像力の貧困さを撃たれるだろう。「米軍再編」がコージ・タイラが8年前に危惧した「日米安保体制下で、日本がアメリカのアジア政策に完全服従ないし同調して、中国を仮想敵視した戦略で、東アジアの協調・連帯に背く立場を取っている」としたことに強く傾いていくことをみるならば、「独立琉球」の構想力の射程と生々しさに改めて気づかされるはずだ。

日米両政府による「沖縄処分」

 「日米同盟・未来のための変革と再編」という名の「米軍再編」は、沖縄の民意を完璧に無視したものである。そもそも「沖縄の負担軽減と抑止力の維持」というときの、「抑止力」と「負担軽減」は等価に扱える性格のものではなく、軍事戦略からするそれである以上、「抑止力」に重心がおかれることはいうまでもない。いや、ここでいわれる「抑止力」という軍事的表象さえ、誰によってどのようになされようとしているかを考えるならば、擬制にしかすぎない。沖縄の現実に即してみれば、米軍と自衛隊が一体化した軍事機能の効率的な再配置という以上に、沖縄社会の北と南の分断であり、北部地域の<軍事的なゲットー化>を招くものである。ここに見えてくる日米の軍事的ヘゲモニーの移動と再配置は、沖縄の未来を大きく歪めることは明らかである。
 これはもはや「再編」ではなく、日米の共同謀議よる「沖縄処分」にほかならない。そしてその背後にあるのは、再編協議の米側責任者であるローレンス国防副次官が「(普天間飛行場移設案について)日本政府が実現できると自信があるというので提案を受け入れた。われわれはそれを信じる。必要なのはナショナル・ウイル(国家意志)だ」(沖縄タイムス11月10日)と発言した、「ナショナル・ウイル(国家意志)」の存在である。この「ナショナル・ウイル」こそ「主権」の名による「国防」や「外交」として発動される暴力の避難所にして砦なのだ。「米軍再編」に沖縄の人々が「処分」をみたのは、「名護市民投票」や「県民投票」などによって示された沖縄の民意を無視したからではない。「ナショナル・ウイル」の発動を敏感に感じ取ったからである。
 戦争と占領の経験を通した沖縄と韓国・済州島(道)の言語と映像の対話において、私はしばしば沖縄の南北を引き裂き、北部を軍事的ゲットー化するイメージを振り払うことは出来なかった。そしてこれから沖縄が向きあわざるを得ない「ナショナル・ウイル」について考えるとき、そこでいわれた<方法としての沖縄>と<方法としての済州島>の交差するところに、コージ・タイラが東アジアの時空に書き込んだ「独立琉球」を差し向けてみたい強い思いに駆られた。分断と細片化を余儀なくされ、いくつもの帝国が重なって「飛び石」として存在させられた群島と半島の経験を開き、繋いでいくことを痛感させられた。
 コージ・タイラの「遠い声」を間近に聴き取った鵜飼哲が、「それは任意の一地域の独立ではなく、既成の独立概念の単なる適用でもありえない。独立そのものを発明すること、あるいは発明し直すことが求められる。そのような出来事を、コージ・タイラが、『沖縄独立』ではなく、あえて『琉球独立』と呼んだこと、そのことの意味を、さらに考え続けていきたいと思う」とした場所で、私もまた考えていきたい誘惑をおさえることはできない。「独立そのものを発明すること、あるいは発明し直すこと」――まさにそこにおいてこそ、大きな曲がり角を曲がろうとする沖縄の抵抗の想像力が試されているはずだ。
 8年前のコージ・タイラが波立てた「雑音」を、沖縄から遠く離れた晩秋のソウルでより身近に感じつつ、自らの生の自然時間と「独立琉球」の道程の歴史時間を測り、たとえ期待とは逆行していたとしてもその時は自分は生きているはずはないのだから「白骨に痛痒を感じることはまずありません」という幾分アイロニーを込めた言葉で歴史を逆なでするように沖縄の<今>に投げかけた黙示のような審級の前で立ち止まってみる。
 「従来の独立論争は、独立すべきかどうかという当為論争であったのですが、この2、3年の間に当為は当然化して、実践の論議に発展してきたように思われます。大袈裟な言い方をすれば、沖縄は独立過程に入ったとすることもできましょう。」
 この「雑音」を聴き取るためには、ある特別な耳が必要だろうか? いや、こういうべきなのかもしれない。この審級においてこそ「沖縄処分」として発動される「ナショナル・ウイル」とよく相対化できるはずだ。今、沖縄では戦後抵抗の記憶を呼び起こし、それを発見し直していくさまざまな試みが世代や階層を横断し胎動しつつあるが、問題は国家の避難所にして砦でもある「ナショナル・ウイル」の発動を律し、それを越える文体を創出できるかどうかにかかっている。そうでない限り、沖縄のトラッジ・コメディは繰り返されるであろう。
(『世界』岩波2006・1)


【2005.11.09】 安里英子「批判としての対話」を読む。

【2005.10.28】 「思想で世の中が変わったことはありませんよ。」と軽くいなして見せて、4〜5頁後では「もし、フェミニズムのせいで家族の変化が起きたのだとしたら、わたしにとってこんなにうれしいことはない。思想にそれだけ力があったという証拠だから。」と宣う。ファンをまだまだやめられませんね。
 フロントが満を持して復刊した『現代の理論』秋・05号(発売:明石書店05.10)の巻頭インタビュー「フェミニズムをリアルに生きる」での発言である。もっとも、この雑誌は「沖縄自立・独立派の源流」と題した後田多敦さんの論文を読むつもりで購入したのだが……、これへのコメントは又、別の機会に。


【2005.10.26】 琉球独立党
 10.25で言及した「琉球独立党」が「活動を再開」したようです。


【2005.10.25】 森口豁『だれも沖縄を知らない』(筑摩書房05.7)の解説(宮台真司)を読む。
 森口さんの著作を読むのは始めて。沖縄との関わりも含め、彼自身のこだわりにに対して誠実に立ち向かう姿勢には好感が持てた。ここでは「解説」の宮台真司にコメント。
 「解題 沖縄を知ることは自分たちのパトリを知るこ」と聞いて、「ああ、また鏡論か」とおもったが、さすが宮台、まず「沖縄は左翼の牙城であるべきではない」と論を起こし、「沖縄をいわゆる左翼にとっての象徴的な場所から、私の考える右翼にとっての象徴的場所へと奪還すること。」と続ける。「うーん、奪還ねぇ」という半畳はさておき、ふと、「宮城賢秀」を思い浮かべた。(もし、70年代初頭、琉球独立党の「押しかけ書記長」だった彼のことを知りたいなら、少し大きな本屋へ行けば彼の文庫本が並んでいるはずだ。すべてヤマトの「時代劇小説」。ただし、その「あとがき」の身辺雑記が興味深い。)
 彼は「左右の差異は……思想的差異−−主知主義(左)/主意主義(右)−−に関係する。」とし、「不合理を意思しないなら〈世界〉(あらゆる全体)は合理的に記述できるが、意思するなら記述できない。前者がアリストテレス的な主知主義、後者がプラトン的主意主義だ。」と説く。
 「……ヤマトは凄い。反ヤマトでは屠られる。だが単純ヤマト追従でも沖縄が入れ替え可能な場所になる。ゆえにパトリ護持的な近代へ−。今日の欧州主義にも通底するこうした図式は、近代弱者連合を構想する亜細亜主義を嚆矢とする。」
 うーん、流行(ハヤリ)でいえば「マルチチュード」ってか。私の友人が呟いた。「なぜ、『階級(闘争)』が出てこない!」


【2005.10.12】 リム・チュァン・ティォン『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』を読む。
 勝利したブッシュには「ハリケーン」が見舞った。これこそ、天災ではなく、グローバリズムと新自由主義のツケが、下層に、もっとも苛酷に転嫁された厄災と呼ばずなんと言うべきか。そして我が勝利した小泉の行く手には何が待ち受けているのか。
 今次総選挙の結果について、「革新=同化主義/保守=民族主義」とした上で、「沖縄独立の気運の高まり」を示唆する論者もネットなどて見られたが、これは根本的錯誤かそうでなければ自らの願望に合わせて世界を見てしまっていることのようだ。「琉球弧の自立・独立論争誌」と銘打った『うるまネシア』第二号01で岸本真津が「保守とか革新とか、あまり実態を伴っていない基準で、政治を色分けるのはもうやめにしないか。……沖縄の位置やこれからの方向は『自立・独立』と『隷属・依存』を両極とする座標軸の上で動いていく。……『自立・独立』派は、『自立・独立』の一点を通して自らの座標軸の中で手を結ぶことだ。」と喝破してからもう四年も経つ。「革新」なるものが「同化主義者」でしかないと同じくらい「保守」は「買弁主義者」であろう。もちろん、稲嶺−岸本−そして下地を付け加えてもいいだろう−、彼らは沖縄に何をもたらそうとしているのか。

 さて、林泉忠の『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス――沖縄・台湾・香港』(明石書店2005.2)であるが、きちんと書評を……、と思っているうちにずるずると日が経ってしまった。
 本書は本年初頭に上梓され話題を呼んだ著作であり、極めて刺激的(大陸で生まれ、台湾で育ち、日本で高等教育を受け、現在沖縄にいる、という著者の来歴がなせる業か。)である。取り急ぎ、備忘録めいたものでしかないが、書き留めておく。
 林は、<人間のあいだに存在するもっとも強固な絆は、血縁で結ばれた人間関係であるため、「共通のエスニック起源」や「歴史的経験」を強調することで、一種の擬似的「同胞愛」を想像しうる空間を与えることができるからである>。そして<生まれつきで不変なものではなく操作ないし創造可能なものである。>するエスニック・アイデンティティにおける「集合的記憶」を提起した「記憶論」を採り上げる。
 他方<「復帰運動」における土地闘争、人権闘争、自治権闘争、そして日本国憲法回復闘争といった闘争の内容から、「日本に復帰したら、これらの問題はすべて解決できる」という信念をもった人もたしかに多かった。>と言及し、<アイデンティティは利益のために凝集されたと主張する道具主義のアプローチの妥当性も「復帰」と「反復帰」現象から検証できると言えるのである。>と付け加えてはいる。しかしこの場合も「民族」や「エスニシティ」にとっての「利益」を問い直すことこそが肝要ではないのだろうか。そうであるが故に、「アイデンティティの流動性」は指摘しえても<「祖国復帰」主張者のもうひとつの論理は、日本人を自民族とすると同時に、アメリカ人を異民族と視するということである。一方、「反復帰論」や独立論者にとって、日本人もアメリカ人も自分たちとは同じ民族ではないと主張している。それぞれの主張の妥当性はともかく、「民族」の「異」か「同」かということを区別するエスニック境界はアイデンティティの形成に大きな役割を果たしていることは、沖縄のケースからも理解できる。><エスニック境界の「流動性」は、「辺境」地域のアイデンティティ形成において顕著に見られる特徴である。>としか、本書の結論を書き記すことが出来なかったことは「社会学的分析」の「限界」か。

 林の分析は反復帰論にとどまった(とどめた?)新川明たちの言説が<沖縄の独立論は、1960年代末に「復帰反省論」が登場するまでの近現代の長い歴史の大河にすでに存在し、60年代末に広義の「反復帰運動」のひとつの流れとして再噴出>のための触媒となったことであり、<沖縄返還前の「復帰反省論」と独立論との関係は、思想的ビジョンを示す側面と政治的目標の具現化を訴える側面との柔軟な補完関係にあると言うべきであろう。>と突き出すことによって、その「媒介」をテコに「政治」への手がかりを与えたと言える。それにしても、新川らの「反復帰論」をその歴史的文脈から「復帰反省論」と名付けたのには苦笑を禁じ得なかった。
 アンダーソンの「想像の共同体」を俟つまでもなく「集合的記憶論」は良くできたツールだろうし、これに「道具主義」を加味すれば、結構、世界を割って見せることは出来るだろう。しかし、「民族」にしろ「エスニシティ」にしろ、そのアイデンティティをめぐる諸問題については、『沖縄自立への挑戦』(社会思想社82)において「古来、存続しているものが時に応じて姿を現すのではなく、その都度の社会的あるいは権力的な関係の変動の中で、民族問題も民族も再構成される」のであり、「世界的にはプロレタリア的な位置に置かれ、反資本主義的な抵抗や自立を志向する非階級的ないし超階級的な社会集団」であり「古い共同体が新しい利害や意識の連帯を通じて抵抗共同体に転生し、再建されることです。」とした上で、「島嶼の自治ないし自決を、その物質的根底にまでわたって保障しようとすれば、そのための障害を排除する上部構造的条件の確立が、先決とならざるをえない。経済的従属下の『低開発の発展』を打破する、政治的自決をめざす抵抗運動が、内発的な経済発展を主導する。」と提起した中村丈夫さんの射程の長さを今改めて思い起こす。

 林は戦後に於ける「沖縄独立気運の高まり」の三要因(1・独立国への郷愁。2・日本への憎悪。3・沖縄文化の独自性)を挙げた。しかし「注」の中でしかなかったが、「半国家」でしかなかった琉球国に対する「独立国への郷愁」とは「集団的記憶の創出」に他ならないと指摘している。これは、一時期もてはやされた「万国津梁」や「大交易時代」などの言説への再検証を要請しているようだ。
 しかし、この気運は「国際的環境の変化」によって一蹴され、「祖国復帰運動」にいとも簡単に取って代わられた。一部支配層はいざ知らず(彼らは米軍統治下で「甘い汁」を吸うことが可能な勢力だった。)、多くの沖縄の民衆は、沖縄の軍事支配の安定化のために「反日・非日」を前面化した米帝戦略の底の浅さに気がついたのであろう。<独立風潮の形成と消滅の背景>の末尾に次のように書き記す。
 <第一に、沖縄を巡る国際政治の変化……アメリカへの不信感が高まり、アメリカのもとで平和な独立国を創るとの可能性は幻想と意識されるようになり、平和的「祖国」日本への傾斜が強まったのである。>
 <第二に、明白な民族アイデンティティの形成の失敗である。……「頑固な独立理論家」すら、日本人と沖縄人は「親子関係」であるとの考えを否定しながらも、「共同の祖先をもつ兄弟の間柄とも言うべき関係」だと述べている。「沖縄民族」の意識が人々に根づかせられていなかったことは、戦後初期における独立論の敗北の致命的原因であろう。>
 <第三に、大衆運動の欠如がある。……当時の沖縄では、生活問題や「民政府の独裁」などの方が具体的な政治問題として断然重要であった。こうして政党を始めとするエリートたちが率いる初期の独立的思潮は、「独立運動」ではなく独立論にとどまったのである。>
 しかし、そうではなく、「独立運動」を組織しえなかったことが、最大の欠陥であり、それは、今もっての課題なのではあるまいか。

林泉忠リム・チュァン・ティォン『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』 (明石書店2005.2)


【2005.09.01】 「神軒」。
 「神アサギ」の謎が分かりました。『訳注 琉球国旧記』(榕樹書林−いいネーミングですね−が、2005年7月25日に発行した原田禹雄の訳注によるもの。「平成14年12月」の日付が付された「はじめに」の末尾の文章が泣かせます。「近頃の出版事情から、本書がいつ刊行されるのか、私にはわからない。」)
 さて、その「附巻之二」の冒頭に「神軒」とあり、その注に「由来記の神アシアゲをこの巻にまとめてある。一般にアシャギとは、離れ座敷のことで、前之屋メーヌヤーともよばれる。これに対し、村々で、神を招いて祭りをする場所を神アシャギとよんでいる。附巻之一の殿トゥンと必ずしも画然とした区別があるわけではない。神アシャギの多くは、国頭から奄美にかけて称せられている。」とあります。恩納間切以北には多数の神軒が載せられていますが、南部では、1間切に1つの神軒という状態です。ちなみに、知念村では「知念間切安座真村にある」とだけ記されています。
 B5・500頁余(定価22,575円!)の本です。拾い読みするだけでも充分堪能出来そうです。


【2005.08.28】 ヌーバレー。
 8.18那覇に戻る。【2004.10.3】に「ウークイの翌々日までをメインにスケジュールを組むことをオススメします。」と書き込んだとおり(笑)、今年は19日がウークイです。去年以上にエイサー三昧の日々でした。18日は特別出演の神谷千尋お目当ての喜屋武エイサー、19日は古宇利大橋から喜如嘉へ、戻って恩納村エイサー・道ジュネーで途中下車しながら仲泊で一方でエイサー、他方で夕陽を眺めながらの早めの夕食。そして平敷屋から北谷へ。北谷では与那覇徹の栄口と、玉城小百合の謝苅のオーラセーが深夜まで続いたそうですが、玉城小百合ちゃん(今年から地謡=ジカタにコンバート(笑)されたそうです。)としばしの再会を楽しんで今夜は終了。ウークイ翌日の20日は屋慶名・嘉手納エイサーまでの時間を、公文書館での「アイスバーグ作戦・特別企画展」を見学し、知念村へ。ここでの「ヌーバーレー」見学。

 この「ヌーバレー」は「豊年祭」と同様の村祭りですが、ヌー(【2004.11.16】「ヌーファ」の由来……でも書いたように、外海とイノー=礁湖をつなぐ出入り口のこと)は、世果報ユガフをもたらすと同時に、共同体にとって不吉なものなどを追い払う、この外界との裂け目でもあるようです。知念村知名が有名ですが、隣の集落・安座真(昔は「村」だったのでしょう。)と二つのヌーバレーをはしごしました。「酒壺と算盤」を天秤担ぎにした「チョンダラー」のような青年が音頭取りのようでした。
 さて、その安座真のヌーバレーですが、集合場所はなんと「神アサギ」という表札が麗々しく掲げられているではありませんか。「アサギ」とは?また一つ夏休みの宿題が出来ました。まぁ、雰囲気としては御嶽に付属する神様の宿泊・休息の場でしょうか。
 ※沖縄情報の総合ポータルサイト「琉球インターネット王国(RIK)」の中に「知念村知名」の「ヌーバレー」を見つけました。

 なお、「RIK」の中に、3年に一度だけ旧盆に開催されるという東風平町「冨盛の綱引き」(旧歴7月15日・ウークイ綱)が紹介されていました。那覇大綱挽が有名ですが、シーサー探検の時に見学した与那原の大綱曵や、去年参加させて頂いた城間松明大綱引など、南部を中心にした伝統行事のようです。RIKによれば「実は、この東風平の冨盛の綱引きこそが、沖縄の綱引きの原点といわれている」そうです。シーサーハーの原点も「富盛のシーサー」でしたね、アキヨシさん。でも、今年を見逃したので、もう三年間待たねばなりません、残念。

【2005.08.25】 八重山行。
 8.16直行便にて、石垣入り。そのまま、八重山観光フェリーで西表島・上原港へ。いわゆる「西部地区」は今回が初めて。あのユニマット=ニラカナイなるものの見学も、一つの目的。竹富町観光協会と町役場が発行している「ぱいぬ島ストーリー」と名付けられた「竹富町観光情報誌」には、「西表サンクチュアリー リゾートニラカナイ」として紹介されているのだが、私が愛読していた「タウン誌やいま」の発行元・南山舎から出版されている「やえやまガイドブック」には、ものの見事に痕跡すらない。そもそも地図に「ニラカナイ」が載っていないのだ! もちろん、トゥドゥマリの浜(月ヶ浜)の隣には「西表手仕事センター」と「西表島エコツーリズムセンター」についての紹介はきちんと掲載されている。さすが南山舎!(前述の「タウン誌やいま」では、あの金城朝夫さんや大田静男さんが常連の執筆メンバーです。)
 その手仕事センターでは、じっくり「機織り」を見学させて頂きました。窓から覗いていたら、「どうぞお入り下さい」と親切に声をかけていただきました。クーラーなど無い仕事場ですが、風通しがよく、暑いことは暑いのですが、通り抜ける風が天然の冷却装置のように汗を拭い去ってゆくようです。風のやさしさと潔さを改めて感じました。隣のエコツーリズムセンターではささやかだがカンパを。
 そして、浦内川河口散策から干立を経て祖納へ。ここが西表島の中心だったらしいが、それは「西表島郵便局」がここに在ることにもうかがい知れる。さらに白浜へ。道路はここでお仕舞い。船浮まで海上10分の距離だが、船便の時間が合わず、今回は断念。しかし、ハーリーの為ではなく、多分現役と思われるサバニを何艘も見物。さて、船浮から網取までは次の楽しみにしよう、鳩間島も(笑)。

 談話室でも書き込んだが、石垣の民謡酒場「芭蕉布」で鳩間可奈子の八重山民謡を堪能。石垣島にある5軒の民謡酒場を週に一回、順繰りに訪れるというオジィと意気投合。1杯1000円の泡盛を何杯飲んだ事やら。チャージ料金無し・水割りでもロックでも同料金!ちなみに安里勇さんの「安里屋」はで、1杯1000円は同じだがナントチャージ料込み3000円で飲み放題!ということは、4杯目からはタダです(笑)
 さて、アンガマの話はまたいずれ。ひとつだけエピソードを。かっては「ウシュマイ」を演じたであろうと思われる青年会OBが終盤に〆のヤジを飛ばした。「ウシュマイ!おしまい!」


【2005.08.15】 仲里効・野村浩也『無意識の植民地主義−日本人の米軍基地と沖縄人』の書評・「言説史に太い句読点」


【2005.07.10】 いささか旧聞に属するが、書き記しておきたいと思ったエピソードです。「さとこ当選」の報を待ちながら……。
 6月18日「さとこ・那覇市議選勝利総決起集会」に参加する前の空き時間を利用して南風原文化センターに行く。以前から行きたいと思っていたのだが、なかなか行く機会がなかった。
 特別展示だったが、小泉や石原、そしてあの藤岡たちの国家主義・愛国主義の戦争賛美の言辞が、新たな戦争犯罪人たちを名指すかのように、広島・長崎・沖縄戦の展示の中に掲げられている。臆面もない彼らの醜さが浮かび上がる。
 『けーし風』47(05.6)に対馬丸生存者の平良啓子さんとその娘さんである次子さんの対談が掲載されてあった司会は屋嘉比収さん。次子さんは、この南風原文化センターの職員だそうだ。そこで印象深かったのは「体験者から非体験者への対話」から、「今、非体験者から非体験者への対話が必要である。」という問いだった。体験者と共同作業を行ってきた非体験者たちが、また新たなる非体験者へ語り継いでゆくという仕事である。
 私は、南風原文化セーターでの光景を思い出す。一時間ほどの見学の間に、親に連れられた小学生たちの家族に出会った。そしてそのうち一組は乳飲み子を抱えた若い父親を含む。そして4〜5人の子供たちは母親とともに熱心にビデオに見入っていた。
 もうすぐ6月23日。つかの間の雨上がりの土曜の午後の出来事であった。



【2005.05.15】  去年に続く普天間包囲−人間の鎖の大成功である。確実に伊波市長は橋頭堡を築きつつある。「県内移設阻止」がもはや誰の目にも共通のスローガンとなり、辺野古の必死の闘いと普天間返還が分かちがたく結びあっている事が鮮明に打ち出された。「辺野古移設」の息の根を止め、来年も第三波を準備し、普天間基地解体への前進を!


【2005.05.12】 野村浩也『無意識の植民地主義−日本人の米軍基地と沖縄人』(御茶の水書房2005.4.28)を落手


【2005.05.1】 与那国暹『戦後沖縄の社会変動と近代化』(沖縄タイムス2001.9.14) を読む。
 もう、「民族主義」という言葉180度異なる方向で使われ始めている。そして、もう、こうした「総括」そのものが過去のもとなりつつあるが、しかし、反動としての行き過ぎもまた、散見される。「民族自決権」問題はすぐれて国際主義的課題なのではあるが。

  復帰論を支えた思想としては、古くから日琉同祖論にみられるような民族主義的感情が底流としてあり、過去の「琉球処分論」「差別偏見論」「琉球独立論」を越えて、日・琉の文化的同一性が大多数の世論によって支持されていたからにほかならない。米統治下にありながら各政党も大衆運動も「日本国民としての教育」を強力に推進してきたことが、何よりの証拠といえよう。異民族支配の法的根拠となっている対日講和条約第三条に終止符をうつための現実的な選択肢も、事実上「復帰」以外にあり得なかった。各政党が推進してきた復帰運動は、けっきょく人権・民主主義・反戦平和を具現した日本国憲法のもとに帰る運動にほかならず、六〇年代後半になると、憲法の基本原理が強調されるようになるのはこのためである。(P201)
……
 これ(1965年8月、佐藤首相、沖縄訪問への抗議闘争)を契機に素朴な民族主義的復帰運動は問い直され、六〇年代後半になると従来、反戦反安保闘争のために主として新左翼グループが用いていた「沖縄闘争」という呼称を、復帰協も使用するようになるのである。(P259)


【2005.04.17】
 あるMLで教えられた記事です。
(読売新聞) - 4月12日18時4分更新
安易な移住続々、行き詰まり…人口急増の石垣島困惑

 沖縄県石垣島。台湾の目と鼻の先にあるこの亜熱帯の島では、ここ数年、本土からの移住者が急増している。
 青い空と海、温暖な気候にあこがれて、首都圏などから島にやってくる人々がほとんどだが、突然、大挙して移住者が押しかけてきたことで、困惑も広がっている。単なる“楽園願望”だけで島に飛び込んでくる若者たちもいるからだ。石垣市では、移住の影響について、本格的な情報収集に乗り出した。

 石垣市によると、住民票の異動だけを見ても、一昨年から島の転入人口は約3000人も増加している。これに、住民票を異動しないで生活をしている人も含めると、その数は5000人に達するという。「具体的な分析をしていないので、はっきりしたことは言えないが、おそらく、ほとんどが本土からの移住者だろう」と、同市企画調整室の長嶺康茂副主幹は推測する。
 沖縄県全体では、同じ2年間で約5万1500人が本土から移り住んでいるが、転勤などで沖縄本島にやってきた人も多く含まれているとみられる。
 石垣市の現在の人口は約4万5000人。これまではおおむね微増で推移してきたが、一昨年を境に急増を始めた。

 異常とも言えるこのブームの背景には、いくつかの理由が指摘されている。そのひとつは、航空・旅行会社のPRや、雑誌の特集などで楽園イメージが広まったこと。また、周辺の八重山の島を舞台にしたテレビドラマも、人気を後押しした。都市化が進んだ沖縄本島より、手つかずの自然が多いうえ、沖縄らしさを色濃く残していることも魅力らしい。
 移住してくる人たちの年齢層は幅広い。夫の定年を機にやってくる夫婦や、働き盛りの30〜40代の男性のほか、本土での就職をあきらめて、島に希望を求めてきた若者もいる。
 製薬会社を退職し、昨年2月に一戸建てを購入し、大阪から移住してきた小川利一さん(57)は、「真冬でも半袖でいられるし、都会のようなストレスはまったくない。人生とは何てすばらしいんだろう、とここにきて実感しています」と話す。
 一方で、「先の見えない不況に絶望した人々がやってくるケースも多い」。そう話すのは、市内にある不動産会社の男性社員だ。この社員は、移住者向けに賃貸住宅を仲介してきたが、「都会でバリバリ競争して、血道をあげるだけが人生ではない、と悟った人たちが目立つ」と指摘する。

 だが、国内でも有効求人倍率が最低水準にとどまっている沖縄県の中でも、観光や農業が基幹産業である石垣市の雇用情勢は、非常に厳しく、下見もせずに安易に移住しても、就職難に見舞われるケースは少なくない。「島に渡ってくる若者の中には、仕事先もなく、苦労している人たちも多い」のだという。
 思ったような仕事に就けず、「理想と違った」と不満を口にするものの、本土に戻る気力もなくし、島で放浪生活を送る若い男性もいるという。

 石垣市では最近、移住が島に対してどのような影響を与えるか、調査に本腰を入れ始めた。もともと暮らしていた住民との摩擦も考えられる一方、都会のIT業界、サービス業界などに従事していた移住者たちが持っているノウハウが、「島おこし」に活用できる可能性もあるからだ。
 「喜んでいいのか、それとも問題として考えなければならないのか。正直言って、どう評価していいか、はかりかねている」
 長嶺副主幹は、戸惑いながら、打ち明けた。

【2005.03.29】
 沖縄ネタ以外では「上野千鶴子」をたびたび登場させているが、『当事者主権』(岩波新書03)といい、今回の『老いる準備』(学陽書房05)といい、その感度の良さには敬服するばかり。(これへの言及は又の機会に)と、前振り。
 久方ぶりに映画鑑賞。「ローレライ」。うーん、これはこの間注目している福井晴敏の『終戦のローレライ』を原作とするもので、沖縄ネタではありません。(彼は半村良の『戦国自衛隊』のオマージュとしてのリメイク=映画化も手がけているのです。まぁ、これも風游子の楽屋落ちですから、乞うご容赦。)
 福井晴敏については大沢在昌が『川の深さは』を巡る秀逸な(それ自体一編のハードボイルド小品になっている)書評もなかなかしびれますが、『川の深さは』に次いで書かれた『トゥエルブY.O.』(大沢の書評はこの巻末にあります。)は、「GUSOH」なる「史上最悪の毒ガス兵器」と、対立する「東馬(当間?)と安里」というタイトルに因む二人の登場人物に加えて、「ウルマは伝説だ。誰にもできないことをやってのけたあいつに、おれたちが付けた名前なんだ。」という最強の兵器として自衛隊謀略機関によって育てられたヤマトンチュの少女の活躍(?)。うーん。これまた、こんなに沖縄を消費してしまったら、一体、どうなることやら。以下『トゥエルブY.O.』からの抜き書き。

 午後9時32分。沖縄から望む夜の太平洋は、どこか紺色に見えた。

 奇妙に大きく映える月が、水平線上に無数の光の粒を散らしている。暗視装置には強すぎる光だった。手前にはそれよりもずっと暗い辺野古の町の灯があり、国道を挟んで隣接する米軍基地から養分を吸い取り、辛うじて瞬いているネオンの寂れた光彩が、沖縄の現状を端的に伝えているようだった。 

 琉球王国の栄華を伝える首里城や、「ありったけの地獄をかき集めた」沖縄戦の傷痕を留める戦跡公園。無数のガマ--鍾乳洞を内包する、隆起珊瑚礁から形成された島の神秘的な景観と、どこまでも透明な海。青と赤の原色に彩られた、観光地としての沖縄の顔が集中する南部に較べ、島の大部分を占める中部から北部にかけての一帯を覆う色は、湿り気を帯びた緑と乾いた茶の中間色だ。延々と連なる砂糖キビ畑と、射爆演習に焦がされ、抉られた大地の色。この辺野古にも濃く現れているそれらの色は、薩摩侵攻から始まった侵略と貧困の歴史を、地続きに引き受けているこの島の素の色なのかもしれなかった。
 本土防衛の不沈空母として位置づけられながら、実際に米軍の上陸が始まれば、大本営の戦略的判断によって当然のごとく見殺しにされた島。15万人に及ぶ住民を悶死させた罪は、国政レベルではついに一度も総括されることなく、反共の防波堤として仮初の主権を与えられたこの国が、契約の証として勝者に差し出した島。トゥエルブは、それを指しておまえと同じだと言っていた。平和国家の帳尻を合わせるために作られた装置として、一般社会とは切り離され、時々の都合によって発動される「超法規的措置」に従い、後ろ暗い仕事をこなしてきたおまえは、この珊瑚の島−ウルマそのものだ、と。よくわからない話しだったが、トゥエルブがそう言うのならそうなのだろう。いずれ任務とは関係のないことだと思い、理沙は暗視装置の目を目標に向け直した。

 国道329号線を縁取る道路灯の向こうに、無数のガラスの目を穿った建物の連なりがある。無個性なコンクリートの箱が並び建つ光景は団地のそれを連想させるが、大きくゆとりを持たされた配置は、日本とは感覚を異にするものだ。その先には消防署から銀行、劇場、放送局まで備えた街の灯りがあり、本島中東部から三角の頭を突き出している辺野古崎の上に、キャンプ・シュワブと呼ばれる在沖海兵隊の総合演習基地を形作っている。岬の両側は戦車揚陸艦の揚陸用ランプと上陸演習地の斜面に囲まれ、国道に沿ってうねる数キロのフェンスの川に遮断されている一帯は、2000人の海兵隊員が家族とともに暮らす一大居留地であり、国道の手前、この久志岳を含む内陸側に広大な用地を確保している射爆場ともども、日本の中の「外国」を現出しているのだった。

(……)

 間を走る辺野古美謝川に阻まれ、隣接するキャンプ・シュワブとは別々のコミュニティを形成している基地。司令部ビルを中心とした人員駐屯地区と、39個の半地下覆土式弾薬庫が点在する高台は、辺野古弾薬基地と呼ばれる在沖海兵隊唯一最大の火薬庫だった。
 大浦湾に面する起伏の多い敷地は、海側を断崖に囲まれており、厳重に警備された内陸側ゲート以外には、いっさいアクセスする術がない。弾薬庫区域は基地の中でさらに二重のフェンスに囲われ、警備と夜間作業のためにひときわ明るい照明が完備されてもいる。以前からNBC(核・生物・科学)兵器貯蔵の疑惑が絶えなかった天然の要塞を見つめて、横に立ったトゥエルブが「よくもそろえたものだ」と苦笑していた。


【2005.01.30】 沖縄講座のMさんから「これ、風游用」と沖縄タイムス元旦号をいただいた。1面いっぱいに「進貢船21世紀の海に/大交易時代再び」という大見出しに、次のような記事が添えられていた。

 船体はサバ二型かマーラン船。国際近海200d.帆はジャンク型のガフリグで、甲板は三層全通。船室はコンパートメント。
 内装には伝統工芸の漆、螺鈿、堆錦、象眼、彫金を施し、陶磁器、染織、琉球ガラスなどをふんだんに使い芸術的に。
 食事は琉球料理に泡盛。夜には唄三線の弾き語り。
 奄美―沖縄―宮古―石垣―台湾―中国。ときには韓国、フィリピン、インドネシアまで。海のシルクロードを伝って、アイランド・ホッピング(島巡り)にエコツ−リズム。
 ダイブ&クルーズやシー&エアーも組み合わせ、修学旅行や体験学習で自然を愛する人材育成にも役立てたい.
 「県民の船」を造ろう。みんなで海を渡ろう。未来の「大交流時代」を目指そう。

海洋民族の誇り現代技術で復活/海人グループ、構想呼び掛け

 「県民の船」琉球帆船(進貢船)を造り、ニライの海へ乗りだそうと夢見て企画しているのは、海技士で作家の真久田正さんらヨット乗りや帆かきサバニにかかわる海人グループ。
 2000年沖縄サミットを記念して彼らがはじめた「サバニ帆漕レース」は、六年目を迎える。レースは海洋フォトジャーナリストの添畑薫さんが提唱し、那覇市と座間味村の共催で始まった。
 参加者は小中学生から75歳の高齢者まで。女性グループに、外国人とさまざまな老若男女が、青い海原にロマンの帆を掛けた。
 アメリカズ・カップで有名な故ピーター・ブレーク卿、ハワイ出身の海洋冒険家ナイノア・トンプソンさんらも参加し、世界的な話題にもなった。
 メンバーには、1998年から隔年で開催している「沖縄―台湾国際ヨットレース」の参加者もいる。
 経験と実績を備えた海洋民族の末えいたちが、新しい「大交流時代」をめざして、壮大な夢を描きだした。
* *
 彼らはサバニレース実行委員会(会長・翁長雄志那覇市長、副会長・仲村三雄座間味村長)のメンバーを中心に、企画を練り、2009年の第10回サバニ帆漕レースを目標に、全国の沖縄ファン、海好き人間に幅広く呼び掛けようと意気込んでいる。(沖縄タイムス2005.1.1)


【2005.01.02】 さて新年。幾つかのたまったデジタル化文献資料の整理です。
 友人が古本屋で今はなき『現代の眼』の1971年8月号を入手。その中から風游子の好みに合わせて(いつもそうですが(笑))、新川明(「〈狂気〉もて撃たしめよ―謝花昇の虚像と実像―」)と、森崎和江(「<沖縄>の怨嗟と<私>−沖縄・朝鮮・筑豊」)の二本をアップ。ついでに、同時代の『情況』71年1月号の松島朝義「復帰運動の終焉」もアップ。
 文献を渉猟しながら夙に思うことは、あの時代の営為の多くが継承されていないことを痛感する。数少ない例外が仲里効か。新川・川満・沖青同に傾倒すること急で、平恒次や比嘉幹郎などメジャーの論考に全く注意を払わなかった。一〇年後の「特別県政論」「沖縄自治基本条例」然りである。(この時は「憲法試案」にばかり気を取られてしまった。)

 別件と言うわけではないが、山本英治『沖縄と日本国家 国家を照射する〈地域〉』(東京大学出版会2004年7月20日)を紹介します。総体的に問題を適出・整理しており、沖縄について学ぼうとする学生をはじめとする初学者にとって「教科書」的な位置を占めうる著作ともいいうる。


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シーサー三線(サンシン)

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