Toppage Critic 談話室(BBS) 図書室 リンク Emigrant




赤田のみるくウンケー
『赤田みるく−復興の記録』2000年3月31日
発行・編集 赤田のみるくウンケー実行委員会

一 歴史的経緯

 赤田町は首里城の東側、崎山町と鳥堀町に挟まれたところに位置している。
 人口は、1061人で世帯数は344世帯である。
 首里は人口が約5万8千人(平成11年4月末現在)で19町からなり、その中で、赤田町は人口で15番目に位置する小さな町である。戦前まで、赤田、崎山、鳥堀の三町は合わせて「さんか」と呼ばれていた地域で、水が豊富なところから、酒屋が数10軒もあって泡盛の製造が盛んで煙突の多いところであった。今でも、三町には合わせて四軒の酒造所があり、あちこちに残る古い石垣のスージグワ−(細い路地)とともに昔の面影をとどめている。
 現在は、近隣の職場への住宅地として発展している。城南小学校や首里中学校がすぐ近くに位置し通学に便利な地域である。周辺には、首里城や上の毛公園、弁が獄、崎山御獄などがあり、散策に都合の良いところでもある。また、高速道路那覇インターもすぐ近くにあり中北部への交通も大変便利である。
 このような赤田町で、昭和の初期に途絶えた由緒ある「赤田のみるくウンケー」が、関係者の尽力で、平成6年に復興されたのである。

 みるくの復興に関し、その経緯等について最初に紹介しておきたい。
 赤田のみるくの由来については、1976年11月の那覇市の資料編集室の関係者ヒヤリングによって、次ぎの四つの説が明らかになっている。
(一)今から三百年前、首里殿内からたいこく(大国?)に派遣された求道長老(グドォーチョウロウ)は大国で皇帝に会い、琉球の教育、信仰の問題について進言した。そこで皇帝は、「釈迦」、「孔子」、「弥勒」の中から選択するように話された。そこで、求道長老は、平和を祈願とする「弥勒」の掛け軸を持ち帰る。
(二)西来院の北谷長老(勝連長老)から大石川(ウフイシチャー)の先祖がみるくの掛け軸を頂いた。
(三)寺屋敷にある寺の愚(グ)トゥ長老から、大石川の先祖がみるくの掛け軸を頂いた。
(四)首里勤めの隠淳長老から、みるくの掛け軸を大石川の先祖が頂いた。

 その他に、関係する書物や資料等にもその由来が記述されている。
○「那覇市史・資料編第二巻の中の七」
・首里の芸能を大きく分けると綱引き、弥勒、獅子舞の三つである。
 弥勒と獅子舞は首里三殿内(ミトゥンチ)から出てきた芸能である。首里三殿内とは、赤田の首里殿内(スンドゥンチ)、真壁殿内(マカンドゥンチ)、儀保殿内(ジーブドゥンチ)のことである。三殿内(ミトゥンチ)は祝女(ヌール)の元締めで、沖縄中の主な祭は「三殿内」の大あむしられの司祭で行なう重要な役割を持っており、この「三殿内」から弥勒と獅子を首里の主な村々で人に賜った。首里殿内から赤田の石川某に弥勒を、儀保殿内から汀良の比嘉某に獅子、真壁殿内から真和志の石川某に獅子を賜ったといわれ、毎年8月15日に、赤田では弥勒を、汀良と真和志では獅子舞を演じて豊年を祈願し、悪疫を払った。
・弥勒の由来
 赤田のみるくの由来について、那覇市史では次ぎのように記述されている。
 「求道長老がみるくをたい国から持ち帰り、首里殿内では、これを毎年7月に御祭りを行うことになった。ある年、首里に天然痘(チュラガサー)や麻疹(イリガサー)が流行し、多くの患者が出た。ところが、赤田の村では1人の患者も出なかったということで村ではこれはみるく様のお陰であると信じていた。
 その後赤田の村全体がみるくの信仰を申し出て、首里殿内と赤田の村が共催で祭りを行うことになった。
 首里殿内が、三殿内と併合され、天界寺に移った後は、求道長老に管理させたとのことである。求道長老は赤田村の大石川(ウフイシチャー)の元祖であったために、石川門中はみるくを信仰するようになり、毎年の祭りも石川家が主催するようになった。」とのことである。
 求道長老の屋敷は、赤田町1の11である。(玉那覇有章談)

○「三司官・伊江朝睦日記(1816年7月17日)」那覇市史の資料編第一巻二
 …今晩赤田村似念仏列にて、…本寺の門にて見物いたし、…鑓、長刀、弥靭、二才躍共いたし候付、…

○「沖縄の季節と行事(比嘉朝進著)」
 弥靭は梵語マイトレヤの写音である。釈迦の高弟であったが、若死にした。そのため、理想化された形で伝説化されるに至った。それは、未来はミロクの出現と、民衆の救済が約束されたユートピアとして知られている。インドで成立した弥勒信仰は、中央アジアー中国ー朝鮮ー日本(六世紀)へと伝播した。奈良時代には、弥勒仏を本尊とする寺が幾つか奈良に建てられた。平安末期にはミロク浄土観が説かれるようになった。鎌倉時代に禅宗では、中国の布袋僧をミロクの化身とする信仰が起こった。室町時代の京衆のあいだでは、金運を求める現世利益に対応する民間信仰として、七福神が生まれた。その中に布袋和尚も含まれている。ミルク面に具現された布袋和尚は、唐代の禅僧で、名は契此(かいし)という。太り腹で布袋を持ち、杖をついて、大勢の子供を率いていたといわれる。唐末の混乱期に、ミロク下生を布袋僧にみたてたのであろうといわれる。
 八重山への伝来は、18世紀末、大浜用倫が首里公用の帰途、台風に遭って安南へ到着。そこの豊年祭のミロク面を見て懇請し、持ち帰った(八重山民謡誌)という。彼が作詞したといわれる「弥勒節」は首里赤田の歌をある程度とり入れたことはいなめない。

○「沖縄大百科辞典(沖縄タイムス社)」
 ミルクウンケー(弥勒御迎え)とは?
 首里赤田町の旧暦7月16日の祭り。弥勒菩薩の化生と言われる中国唐代の禅僧布袋和尚が、七福神の一つとして京都・京の祭礼の行列(風流)に登場したのは、室町時代と言われる。琉球では、布袋をかたどった弥勒踊のことが「おもろそうし」の巻7-31にみえる。首里では300年ほど前、石川門中の祖求道長老により、赤田首里殿内に弥勒面がまつられ、7月14日にお開き、16日に門中を中心に道ジュネーがあった。

○資料名「大石川家 弥勒由来記・1977年4月7日 石川文一 記」
 グドウ長老が仏道修業するため、大国(支那大陸)へ渡った時、ある仏寺の禅師(あるいは皇帝とも言われている)から、琉球の人達は信仰心が厚いとのことだから、この釈迦と孔子と弥勒の絵像の内、好きなのを持ち帰りなさいと言われたので、グドウ長老は弥勒の絵像を頂いて帰り、最初のうちは、赤田首里殿内へ奉安して信心に励んだ。その後、大石川家の先祖に賜ったが、その時期は尚貞王時代の康煕年間(1662年〜1722年)と思われる。

○資料名「おもろそうし巻七ー三十一天啓3年(1623年)」
 一みろく 見ちへ 和る(みるくを拝むと心が和む)
  此の 生まれど 弥勒(世の中を平和にするために出現したのが弥勒様だ)
  此御神酒 ぬき上げわちへ(此の神酒を差し上げますので)
  世は ちよわれ(みるく世をもたらして下され)
  又 今日の良かる日に(今日の吉日に)
  今日のきやかる日に (今日の良き日に)
  又 上の世の閂や (上の鳥居(守礼門)に)
  下の世の閂や(下の鳥居(中山門)に)
       * 口語訳 宜保榮治郎

 その中で、通説とされている(一)の説を「赤田のみるくウンケー実行委員会」では用いている。その理由は、各種の資料によると、どうも赤田に住む人から資料の作成者が聞き取り調査を個人的に行ってきたようである。そのため、各資料の中で少しづつ内要に異なるところがある。その中で最も信頼性が高いと思われるものは、赤田町民への聞き取り調査によって、那覇市の史料編集室がまとめた資料と考えている。
 すなわち歴史史料に詳しい関係者が、幼少の頃に体験した人達から行ったものであるので状況把握が、より詳細になされているからである。
 なお、たい国の「たい」については、実行委員会としては、唐歌が歌われていたことなどから、当時の中国のことではないかと考えているが、この件は、唐歌の歌詞がどの国の言語から来ているのか等今後の研究が待たれるところである。[後略]  

二 赤田のみるくの特徴(抄)

{赤田のみるくと他の地域のみるくとの相違点}
・みるくの面‥頭からかぶる形のものは、赤田と辻、西原町棚原のみるくだけと思われる。
 他の地域は、面形式で顔面のみで、後頭部はないものが多い。
・みるくが手に持つ杖は、赤田は振ると鳴る錫杖であるが、他は木彫り等で作られている。
・赤田のみるくはスネーイの時に、路次樂を率いるが、他で三味線や太鼓等のみの使用が多い。
・みるくの履く靴は唐靴であるが、他は下駄や足袋を使用している。
・赤田のみるくスネーイでは、ミルクングヮが全員ンカジバタを持っている。

{唐靴の特徴}
・靴の先端部分の沿った部分に鋼鉄を入れて堅くし、フラットにならないように施工されている。
・型紙を最初に作成してから、木型を作成しており、きちんとした基本施工を踏襲している。
・つま先とかかとの部分には芯を入れて、頑丈な仕上がりになっている。
・皮は、強くて軽い最高級のものを使用し、内側も皮張りとなっている。また、底の部分は歩きやすさに重点をおき、角度や厚みには特に配慮されている。
・長期間(数10年単位)の使用に耐えるように、完全な手作りであり、底が擦れても張り替えで対応出来るようにしてある。

【赤田町の路次樂】
{路次樂とは?}

 哨吶という管楽器を主奏楽器とし、太鼓や銅鑼を打ちながら練り歩く音楽を、現在の沖縄では路次樂と称している。
 路次樂は、伝承によれば、1522年に明に渡って大陸の華やかさを目のあたりにした上里盛里(沢岻盛里)が、琉球国王を鳳凰轎に乗せて路次楽を吹き鳴らされたら、どんなにか威厳が増すだろうと考えて取り入れたものとされる。
 琉球の中国音楽の受容について、ロビン・トンプソン氏も基本的にこの伝承に従い、「以来、路次楽は、琉球処分に至るまで、王や高官たちの行列の際に伴奏される基本的な音曲として用いられた。」と論じている。
 しかし、「李朝実録」によれば、中国の詔勅迎えなどの儀礼で哨吶が演奏されているという1456年当時、琉球国王の行幸では、侍衛の軍士が歌を歌ってつき従っていると記されている。
 この段階では、哨吶の音楽は、国王の行幸に、まったく取り入れられていなかったとはいえないまでも、王の行幸の音楽として定着するには至っていなかったと考えられる。
 したがって、行列の音楽としての哨吶の音楽は、国王の行幸の音楽として受容されたものではなく、はじめは、詔勅迎えなどの外交儀礼において受容されたものであると考えられる。琉球の中国音楽は外交の場に供される音楽としての性格を、最初から強く持っていたのである。
 近世の琉球の史料に「中国の歌や踊りは琉球において必要なばかりでなく、他国との交際にかかわる格別なる芸術である。」として、中国音楽の重要性を外交という文脈において強調していることが、そのことを端的に示している。
 だが、一方で中国音楽は、次第に琉球国内部の儀礼においても取り入れられ、その重要性は次第に増していった。まず、路次楽が琉球国王の行幸と結びついた。この記録としての初見は、1477年から1479年にかけて、琉球に漂流した金非衣らの見聞の中に見ることができる。(御座楽復元研究会調査研究報告書「御座楽」平成9年3月県観光文化局発刊による。)


{赤田の路次樂で使用している楽器}
・哨吶(つおな)・・方言 ガク、ピーラルラー/和語 チャルメラ
 赤田の哨吶は、阿波連本勇氏の指導による。使用しているリードは、台湾や中国製を使用しており、これまで、宮平良次さんを通じて手に入れたり、事務局長が台湾で購入してきたものである。
 今後の課題として、リードについては、県内にあるススキや葦の茎、わらの芯などを使用して赤田町独自で作成することも検討する必要がある。
 購入先・・大 中国上海市/中 台湾台北市/中(銀色)比嘉範明さんの寄贈

・銅鑼(ドラ)
 現在使用しているものは、平成九年十二月に台湾台北にある「長安楽器有限公司」で購入。
 現在のものよりひとまわり大きい銅鑼は、これまで使用されていたが音の響きが小さいことと重量があることから現在のものに変更したものである。

・鼓・・方言名 クー、ウスデーク(路次樂用、ミルクングヮ用)
 古老等の聞取り調査によると、昭和初期に行われていたみるくスネーイでは、クーは使用されていなかったが復興にあたって、町民や阿波連本勇氏からのアドバイスにより路次樂に厚みや重みを持たすためクーを加えることにしたものである。
 クーは長期間の練習を必要としないため、素人でも一ヶ月あれば演奏できることからなるべく多くの町民等に参加してもらうためにも、必要な樂器となっている。
 購入先・・路次樂用「またよし(三味線店)」/ミルクングヮ用「金城小道具衣裳専門店」

・新心(スイシン)・・方言名 チャンチャン
 チャンチャンは、第一回から第五回のスネーイまでは中型のものを使用していたが、中国や台湾の路地樂等で小型が多く使用されていることがわかり、新たに台湾で買い求め音を確認してのち現在の小型を使用するようになった。
 購入先・・中型「またよし(三味線店)」/小型「台湾台北(長安楽器有限公司)」

三 地域活性化とみるく(略)
四 赤田のみるくの展望
(略)
五 復興に寄す
(略)

六 資料編(抄)

(2)他地域のみるく

神奈川県人会のみるく(1994.6・17沖縄タイムス)
 神奈川県鶴見区の沖鶴会館(県人会館)で、赤田首理殿内の曲にのせてみるく行列があった。首里赤田のみるくを神奈川でもと、「ふるさとの家」の仲吉史子さんが導入した。1990年に始まり毎年行われている。

ブラジルのみるく(新聞記事等)
 ブラジル沖縄県人会館内にみるくの面と胴が保管されており、移住記念事業の一環で日本人通りで盛大に道ズネーが行われている。

大里旧暦の古堅のミーミンメー(道ズネー)
 毎年旧暦4月1日に区民総出で開かれる行事で村の無形文化財に指定されている。
 約180年前に始まったと言われている。かって、赤田のみるくウンケーを古堅の方が見て、それを行うようになったものとも言われている。
 当日は、午後から公民館横の拝所で祈願を行う。みるく、ウスメー(翁)、ハーメー(婆)の面や衣装は公民館に保管してあり、それを取り出して拝所に供えてから扮装の準備をする。公民館の庭には旗頭も立てる。その後、クニムトゥ(根家・照屋氏宅)にみるくの面や老人の被り物を運び4時頃から扮装の準備をする。みるく、ウスメー、ハーメーに扮するのは班長さん達である。背の高い人がみるくに選ばれる。5時頃公民館に立ててあった旗頭を青年たちがクニムトゥに運ぶ。地謡が一番座に座り「かぎやで風」 を揺う。両手にジンナーク(銭棒)を持ち、色鮮やかなチャンチャンコを着た子供達が三味線にあわせ「ミーミンメー」を踊る。その後青年が棒術を演ずる。
 これでクンムトゥでの芸能を終わり、旗頭を先頭に公民館横の拝所に行きミーミンメーのみを踊る。次ぎに公民館の庭で「ミーミンメー」と「スーリー東」を踊り、再び旗頭を先頭に、みるく、ウスメー、ハーメーや村人たちが続き、アシビナーで各種の芸能が披露される。6時半頃に終わり夕食後に公民間の舞台でムラ遊びが行われ遅くまで芸能が披露される。(資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

宜野湾市野嵩のマールアシビ(道ズネー)
 六年に一度の七年マールである。子(ね)の年と午(うま)の年に行われるが、1948年以降中断し、復興したのは、1984年で36年振りであった。本来旧暦の8月15日に行うことになっていた。
 「野嵩のマールアシビの由来」
 昔フーチ(流行病)が、蔓廷し村人がどうしたものかと考えている時、村のヤクミ(役目)が村遊びをしたら、フーチは村に入って来ないだろうと話し、村遊びを行ったところ、フーチはナカ道から入ってくることがなくなったためマールアシビをすることになったという。
 ノロ殿内に着くと、役員や古老たちが「これから道ズネーをし、マールアシビを行います」と祈願。旗頭を先頭にみるく、長者の大主をはじめ全員が衣装をまとい、太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らしながら、ナカ道からアシビナーまで道ズネー。途中アジマー(辻)では景気付けのカチャーシーが繰り広げられた。
 村の北はずれにあるアシビナーにバンク(舞台)を作って、組踊りや雑踊りの演舞が行われた。(資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

石垣市大浜のムラプール(道ズネー)(1993年8月17日琉球新報)
 歌われる歌詞「…ミルク世のしるし、10日越しぬ夜雨…」

○竹富町小浜島の結願祭(キチィガン)・(道ズネー)
 結願祭は、八重山では一般にキチィガン、キチゴンなどと称され、一年の願いの成就を神に感謝し、この一年かけられた諸願を解くための祭祀である。
 小浜島の結願祭は、初願い(ハチュンガイ)種取り(タニトゥリィ)、などとともに、豊穣祈願(ユーニンガイ)とも称される。いつ頃のものかは不明である。祭りの期間中のメーラク(弥勒)の役割は、メーラクを先頭に二間半四方の舞台で演じられる演者一同を率いて幕開けを行う。祭りの時以外のメーラクは、ミルクヤー(弥勒屋)の床の間で東の方向を枕にして安置される。(資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

○竹富町波照間島のムシャーマ(平成7年8月12日琉球新報)
 旧暦7月14日(旧盆期間中)に開催される行事である。ミルクを先頭にした行列が行われる。
 ムシャーマは別名「7月のユーニゲー(世願い)」とも言う。

○竹富町黒島の豊年祭
 黒島の豊年祭「プーリー」は、すべての農作物の収穫を済ませた旧暦の6日に行われる。みるくの出番は、爬龍船漕ぎ(パーレィクィ)が済んで、奉納舞踊の際に「弥勒の行列」が奉納される。(資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

○竹富町鳩間島のカムラーマ(平成6年10月16日琉球新報)
 島で最高の神格を持つ友利御嶽で神司たちが祈願後に、舞台を浜辺のサンシキ(さじき)につくり、奉納舞踊が始まると真っ先にみるく神が登場する。子孫繁栄の神と言われるカムラーマが子供達を引き連れて現れる。子供達は円陣をつくり踊る。

○竹富町西表島祖納の節祭(シツ)・(道ズネー)
 毎年旧暦10月前後の己(つちのと)亥(い)の日から3日間にわたり行われる行事。
 ショウニチ(正日、祭りの2日目)早朝に若水を汲み、身支度を整えて集会所に行く。村人が揃うと2基の旗頭に男頭が男衆ととも、前泊の浜に向かう。やや遅れて出発する女頭には、ミリィク神(弥勒)とその供、正装をした女衆がついて行く。道々、鳴り物を打ち「ミリィク節」を歌う。 (資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

○竹富町竹富島の種子取祭
 種子取祭とは、作物の種子をまく播種儀礼のことである。新しい命をつくることから精進的な要素が強い。旧暦のツチノト、ネの日を中心に行われる。
 みるくは、奉納芸能の時に、「ミルク神の練り」として登場する。(資料出所・「おきなわの祭り」沖縄タイムス刊)

西原長棚原区の村あしび(十二年マールー)(平成5年11月25日タイムスほーむぷらざ)
 みるくが誕生したと言われる酉(とり)に五穀豊穣と平安を願って区民総出で取り組む祭りで、みるくは舞台の上で福を招き踊るという「弥勒舞い」が幕開けとなる。
 最近では、1993年(平成5年)10月2日に行われた。

金武町金武区の十五夜遊び(平成6年1月23日琉球新報)
 1990年金武区の獅子舞保存会によって約35年ぶりに再興された。
 昭和25年〜30年頃にかけて、十五夜遊び(旧暦8月15日)の中でみるくが演じられていたのを見たと言われており、それ以前については記録がないという。
 復興に当たっては、当時(昭和25年〜30年頃)のことを覚えている人を捜し出し、その人の僅かな記憶をもとに復興したという。その後毎年行われている。

具志頭村玻名城の十五夜行事(平成9年9月22日沖縄タイムス)
 みるくと獅子が道ズネーを行った。

座間味座間味の海神祭(1993年10月9日琉球新報)
 1993年に開かれた海神祭は、23年ぶりにみるくを含めた道ズネーが行われた。

(8)用語説明

○ウンケー 弥勒御堂に奉納してある「みるく」を年に一度、御堂から迎え、スネ−イやバンクでウトウィムチを行う一連の行事のこと。

○スネーイ みるく等が道中を練り歩くこと。

○ウトィムチ みるくのスネーイが終わって後、みるくに感謝の気持ちを表すため、バンクで歌や舞踊、空手等の演舞を披露すること。

○バンク 様々な行事などで使用する舞台のこと。

○ミルクングァ みるくスネーイの時に、ンカジ旗をもって行列に参加する子供達のこと。

○ンカジ旗 ミルクングァがスネーイの時に持つ旗のことである。その形は、三角で旗の周囲がギザギザになっており、まるでンーカジ(ムカデ)に似ていることから、そのように呼ばれている。

○シルチョウ 朝衣(朝廷用の衣装)の一種で、真白い麻の礼服をいう。白朝(シルチョウ)に対して、黒朝(クルチョウ)がある。赤田の路地楽で着用しているのは、朝衣の一種で薄茶色であるが、みるくウンケー実行委員会ではシルチョウと呼んでいる。

○三殿内(ミトゥンチ) 琉球王国最高の女神官聞得大君(チフジンウドゥン)の下には、三女神官がおかれ、それぞれ儀保のジーブ殿内・山川の真壁(マカン)殿内・首里殿内の三つの殿内にあって、地方の殿内も支配していた。首里殿内は赤田にあったので赤田首里殿内といわれた。三殿内が廃止され、天界寺(タマウドゥンの隣にあった)に併合されたのは、一八八四年(明治十七年)で、廃藩置県から五年後のことである。

○おもろそうし 「オモロ」というのは、沖縄、奄美諸島に伝わる古い歌謡のことで、12世紀頃から17世紀初頭にわたって作られた。「おもろそうし」は、沖縄最古の歌謡集で、沖縄、奄美諸島に伝わる口承歌謡(オモロ)を琉球王府が採録し、編集したものである。全22巻1554首の「オモロ」が収められている。第一巻の成立は、1531年で、沖縄文化の興隆期にあたり、全巻の成立は1623年である。

○北方(にしかた) 首里城から見て、北の方角にある当の蔵、儀保、赤平等をいう。

○はちまき 男が礼装する時に用いた冠。位階によってその色が異なり、紫は「按司(アジ)」、薄黄色は「親方(ウェーカタ)」、濃黄色は「親雲上(ぺーチン)」、朱は「大屋子(ウフヤク)」、「里之子(サトゥヌシ)」、「筑登之(チクドゥン)」、青は「諸間切掟(シュマジリウチ)」緑は、これら以下である。

○赤田町名の由来 赤田は、一面、赤土の田が広がっていたことから、そうよばれた。水が清く特にメーンター(メーチンジャーガー付近)の湧水は豊富で、赤田御門に向かって流れ、赤田御門南側に接した田は、牛耕をすると城内の龍樋の水が赤く濁るので、芭蕉畑に変えられたという。

七 写真にみる歩み(略)
八 新聞記事等にみる歩み(略)

【参考】「波照間島あれこれ」の中の「ミルク面とミロク信仰」


ミルク『オキナワなんでも辞典』(新潮文庫2003)より

 未来神的要素を持った神で沖縄全域に存在し、とくに八重山の布袋の面をかぶったものが有名。石垣島の登野城にある面がほかの島々に渡ったものと見られる。ミルクの語源は弥勒と言われ、よくこの文字が当てられるが、ルーツは弥勒菩薩でも、それが八重山の島々でユニークな変容をとげ、五穀豊穣と幸福をもたらす神として崇められるようになった。弥勒とするより、ミルクとしか言いようのない神、と考えたほうがいいだろう。
 ミルクの面の形や表情は島によってちがう。一般的にはミルクは微笑んでいるイメージがあるが、場所によってはまったく笑っていないものもあるという。行列を作って練り歩くものもあれば、神聖視され人を近づけないものもある。島ごとに性格が少しずつちがうのも、いかにも島の神さまらしい。

 わたしが見たのは波照間島のムシャーマに登場したミルクである。ムシャーマは盆に行われる島最大の行事で、ミルクを中心に行列が練り歩く。島の人によればミルクは子だくさんのお母さんで、うしろにつづく子供たちはミルクンタマー、つまりミルクの子供なのだそうだ。クバの皮で作った長髪のかつらをかぶり、顔をひげで覆った珍妙な格好をしたブーブザと呼ばれる者が、行列の横からひょうきんな仕種で付いてくるが、これはミルクの夫だといわれる。夫は遊び人で家によりつかなかったが、子供や孫は立派に繁栄したという、ミルクに頭が上がらないブーブザは、おどけた動作で照れくさそうに付いてくるだけだ。
 ミルクは右手にうちわを持ち、左手で杖をついて進む。足を半歩前に出しては、子供たちは来たかな、というふうにゆっくりと上半身をまわして後ろを振りかえる。その優雅な身振りはほんとに豊かな世を連れてくるようだった。(大竹昭子)

THE SEVENTH EMIGRANT に戻る

風游ページにもどる