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【2013.12.31】刮目して読む、佐藤学「新たに引かれる分断線」(琉球新報2013.12.30「時評2013」)
 一日遅れの「新報」を読む。「知事承認不支持61%/公約違反72%」との大見出しが沖縄の怒りを反映(OTVと共同での世論調査)。「140万県民を代表して……」とか「私は安倍総理の応援団……」とかもはや論評に値しない妄言を繰り返す県知事仲井真に対して、「社説」は年末回顧として「県民は屈しない/尊厳と覚悟問われた一年」と書き、「埋め立て承認」のコラムのタイトルは「『裏切り』の衝撃」である。もちろん自民支持層の58・4%が「県外移設転換」に「納得」し、名護市長選立候補の買弁派末松文信は「知事を支持する人が34%もいることは大きい。移設反対がオール沖縄ではないということの証明だ」とうそぶく。
 来年1月(もう20日を切った)の名護市長選は、稲嶺進現市長の圧勝を勝ち取り、2014年を日本政府と買弁派へ痛打を浴びせることで、自立解放への確かな歩みを進めよう。ステージが更新されたのだ。

 さて、佐藤学の「時評2013」だが、変化球・変則投法の「優」とは違い、胸のすく、直球勝負を見せてくれた。風游では可能な限りウチナーンチュの論考を紹介しようと心掛けているが、<知事は、なぜ、あそこまで卑屈に、日本政府に対して媚びへつらったのか。日本政府が抱く「国に異議を唱える沖縄」への強い嫌悪感を、知事が共有し、県民に対して、国に歯向かうことはできないと教え込む意図があっただろう。いわば、戦前の内務官僚としての知事の役割を果たし、国家にとって従順な沖縄を率先垂範して示したのだ。>と言い切る佐藤学に敬意を表し、紹介したいと思った次第。



新たに引かれる分断線

佐藤 学


基地と金 選択強いる「オール沖縄」もう一度

 仲井真弘知事の名護市辺野古埋め立て承認決定に至る過程と、27日の記者会見を見て、明瞭になったことは、これが知事が2期目当選以来目指していた決着点であったことである。建白書の高まりの中ですら、一度も「辺野古反対」と口を滑らさなかったことが周到に敷かれた伏線である。知事にとり、振興予算の増額を勝ち取ることが全てだったのだ。
 この結末は、沖縄にとり将来を規定する重い桎梏となる。沖縄県知事自らが、沖縄の経済振興は基地との取引で金を取ってくることでしか成り立たないと宣言したに等しいのであり、復帰後初めて県が自らで作った長期計画である「沖縄21世紀ビジョン」が高らかに謳っている、沖縄独自の強みである自然と文化を活かした経済振興という展望を、策定した知事自身が否定して見せたのは、天下の奇観と言うより他ない。

内務官僚としての知事
 知事は、なぜ、あそこまで卑屈に、日本政府に対して媚びへっらったのか。日本政府が抱く「国に異議を唱える沖縄」への強い嫌悪感を、知事が共有し、県民に対して、国に歯向かうことはできないと教え込む意図があったのだろう。いわば、戦前の内務官僚としての知事の役割を果たし、国家にとって従順な沖縄を率先垂範して示したのだ。
 これは、知事の県民への挑戦である。そして、今後、名護市長選挙、次期県知事選挙で、辺野古新基地建設と引き換えの金という政策を掲げる自らの後継候補に勝たせることで、知事の勝利は完成する。それは、知事が、県民多数は基地と金の交換を受け入れると見込んでいるからであり、経済に不安を持つ県民を全て取り込むべく分断線を引いているからである。日本政府が沖縄に対して強要してきた不誠実な二者択一を、知事が代弁者としてそのまま県民に強いているのである。
 今回のあからさまな基地と振興予算の「リンク」受け入れは、これまでの保守政治家の苦渋を嘲笑するものである。県知事が金と引き替えでの大規模な新基地の受け入れを諸手を挙げて歓迎する図は、沖縄保守の立場の全否定である。ここまで虚仮にされた保守政治家たちは怒らねばおかしい。
 多くの県民は、今回の決定に釈然としない思いを抱いているであろう。しかし、この不毛の二者択一を受け入れれば、知事決定を支持することになる。沖縄経済の現場で、何とか経済的自立を目指して日々苦闘している人々にとり、それは、自分たちの未来を閉ざすことに他ならない。

 新たな分断線を引き直さねばならない。沖縄の経済自立の将来を閉ざされたくない人々、日本社会からの「沖縄は金をゆすり・たかることだけ考えている。」という蔑視に尊敬を傷つけられている人々、日米安保が必要だから辺野古新基地建設も本当は嫌だけど仕方無いと思っている人々、それらの人々が、再び「オール沖縄」で結集できる試みを考えねばならない。知事が決めた窮屈で屈辱的な未来しか沖縄には無いと諦めてよいわけがない。

「戦後秩序」の一掃へ
 米国との関係を大事に考えている人々に訴えたい。知事が応援するという安倍晋三首相の外交・安保政策は、近い将来、米国からの離反を目指すものである。安倍首相は辺野古を貢ぐことで、米国を対中軍事対決に引き込もうと考えている。さらに、韓国との領土・歴史問題の対立状態でも、米国を日本の側に立たせようとしている。しかし、それがあり得ないことは、26日の安倍首相の靖国神社参拝に対し、米国が厳しい反応を示したことから明らかである。
 安倍首相が最終的に目指すものは、米国の影響下で作られた「戦後秩序」の一掃であり、それは、日本国憲法の三大原則を否定する自民党改憲草案に示されている。「戦後秩序」の最大のものは米国追随の安保・外交であり、そこだけ受け入れ続けるという選択は安倍首相には無いだろう。
 今回の靖国参拝は、事前の米政府からの警告にもかかわらず強行したと報道されている。しかし、米国の反応が意外だったと受け止められたという見方は誤りではないか。安倍首相は、米国からの究極的離反の道を踏み出したはずだ。米国にとり「戦後秩序」は自らがよって立つ正義であり、それは絶対に譲らない。
 もし米国が対中軍事対決に関わらないことがはっきりすれば、安倍首相は孤立路線に転ずるだろう。今回の靖国参拝は、その構えの第一歩と考えた方がよい。短期的には米国は日本の金で新基地を造らせる利益を享受できると見ているだろうが、次の段階で、望まぬ対中戦争に引き込まれる可能性に直面する。安倍首相の路線は、究極的に日米関係を損なうことになる。

必要ない辺野古新基地
 そうは言っても、中国の軍事的脅威が顕在化している中、海兵隊が沖縄にいれば、オスプレイが尖閣に飛び中国による占領から奪還してくれるはずだから、辺野古新基地もオスプレイも必要だ―と考えている県民が多数いるであろう。本欄で繰り返し論じてきたことだが、海兵隊はそのような作戦行動を取れない。
 21日に南スーダンで、反政府反乱地域からの米国人救出に飛んだ「米軍機」3機が軽火器による攻撃を受けて兵士4人が負傷し、「米軍機」は撤退した、という報道があった。この「米軍機」は空軍仕様のオスプレイである。単なる輸送機であるオスブレイは、軽火器しか持たない反政府ゲリラにすら追い払われるのである。中国人民解放軍と、どう戦うというのか。そのための抑止力は嘉手納の空軍である。辺野古新基地は、尖閣の状況に軍事的に関係ない。日米安保を維持する立場からも、辺野古新基地は必要ないのだ。
 自分たちの尊敬を大事に考える県民に訴えたい。それぞれの生活の場で、自信を持って辺野古反対を貫いていこうではないか。それが沖縄も日本も救うことになるのだ。今、諦めれば沖縄に未来は無い。 (沖縄国際大学教授)

(琉球新報2013.12.30・時評2013・12月)


 夏以降、気力体力の減退は如何ともし難く、サイト更新もままならないまま、ぐだぐだと過ごしてしまった。



【2013.11.06】「『島ぐるみ闘争』はどう準備されたか――沖縄が目指す〈あま世〉への道」を読む
 まず、はしがき・目次・あとがきを読んだだけであることをお断りしたい。
 本書は2008年に出版された「戦後初期沖縄解放運動資料集」(不二出版)が売り切れ、再版要望に応える形で、2013年10月に刊行されたDVD版の別冊として発行された。(本書について、風游子は大原から借り出して必要な箇所はコピーを取りながら読んだにすぎない)
 惹句は<1950年代にわき起こった「島ぐるみ闘争」は、どのようにして生み出されたのか、そして今日の超党派による基地反対運動は、その歴史経験をどのように受け継いでいるのか。/人民党と非合法共産党の中心的メンバーだった故・国場幸太郎氏の足跡を中心に、運動を担った人々の姿を振り返り、その歴史的な意義を考える。>とある。編者は月並みな表現を使えば、「気鋭の若手研究者の二人」の森宣雄と鳥山淳である。

 編者として主導した森宣雄は「地(つち)のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放」(現代企画室2010年7月)を、もう一人の編者たる鳥山淳は、本年(2013年)3月に『沖縄/基地社会の起源と相克:1945-1956』(勁草書房)を上梓している。

 未読にもかかわらず一刻も早く(苦笑)紹介したいと思ったのは、本書全体の半分近くをしめる国場幸太郎自伝(第Ⅱ部 沖縄の人びとの歩み―戦世から占領下のくらしと抵抗)に惹かれことにも依る。
 森は「島ぐるみ」と「オール沖縄」を重ねてどのように論じようとしているのであろうか。彼の前著が解き明かそうとしたように、「オール沖縄」はいざ知らず、神話化された「「島ぐるみ闘争」は断じて通説が語るように「米軍政の重圧に抗して自然発生的に生まれた」ことだけにスポットを当てるのは間違いであり、そこに国場幸太郎という希有な非合法共産党(沖縄の党)の存在についての究明は不可欠であろう。
 先日、急逝した川音勉は、中村丈夫さんの「革命論の最後の言葉は組織論である」という警句を夙に参照していたが、それはとりもなおさず、「組織とはつまるところ人」であることをいみじくも照射しているように思える。そして、叛乱論の長崎浩さんと官邸-国会前を埋め尽くした反原発の民衆を思い浮かべながら、沖縄の民衆の闘いの未来を考えさせられている。とまれ、読み始めようう。例によって目次を。


「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか――沖縄が目指す〈あま世〉への道<目次>

第Ⅰ部 「オール沖縄」平和・自治運動の起源(森 宣雄)
  第一章 沖縄平和・自治要求運動のかつて・いま・これから
  第二章 「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか―島人・農民・母たちと革命家
第Ⅱ部 沖縄の人びとの歩み―戦世から占領下のくらしと抵抗(国場幸太郎・著、森宣雄・編)
  [補論]占領下沖縄における「団結」の創造――変転する状況の中の国場幸太郎(鳥山 淳)
第Ⅲ部 人との出会い 伝え継ぐこと
  生きる―夫・林義巳のこと(林 京子)
  オンリー・イエスタデイ―1950年代沖縄と国場幸太郎(長元朝浩)
  東京沖縄学生と国場幸太郎さん(由井晶子)
  いわゆる「国場事件」をめぐって(新川 明)
  国場幸太郎さんのこと――「封印」が解かれるまで(新崎盛暉)
  明晰な人――国場幸太郎の帝国主義論(冨山一郎)
  民衆の飢えと哀しみのなかを歩んだ人――国場幸太郎さんと松田清さん(森 宣雄)
  金澤幸雄さんと金澤資料について(加藤哲郎)



【2013.10.20】新城郁夫「新川明氏への疑問」(『けーし風』80号・2013・10)を読む
 『けーし風』第80号(2013年10月発行)で、新城郁夫が連載コラム「備忘録」④に「新川明氏への疑問」と題して、琉球民族独立総合研究学会と新川明に対して、(琉球民族の)排外主義的傾斜に対して、警鐘を乱打している。新城は“「祖国琉球国の主権を取り戻す」という言葉には、16‐19世紀東アジアの歴史的政治構造における「独立琉球国の国家主権」という設定自体に無理があると思える。”と控えめな疑問を呈し、“反植民地、反帝国主義の戦いが、「第一義的にはそれぞれのナショナリズムに根座している」と断言するのは困難であり、危険であると私は考える。”と指摘する。さらに踏み込めば、新城が“ナショナリズムが「起爆剤」となったことは事実である。”ということさえ、再審が迫られている。つまり、新川がはしなくも吐露したように“反植民地、反帝国主義の闘いの動力は、まずナショナリズムを起爆剤として始動する”というように、ここでは道具的にナショナリズムが使われる。一体、誰が「起爆剤として始動させるのか」。
 やはり、ここでは中村丈夫や山崎カヲルの言説を参照しないわけにはいかないだろう。



備忘録④

新川明氏への疑問

新城 郁夫


 新川明氏の思想的な営みから私が受けた影響と恩恵の大きさは、はかりしえない、沖縄を考え生きようとするとき、常に立ち返り学びなおすのは、今もなお新川氏の仕事である。
 そうであるだけに、このところの新川氏の言動に疑問を感じることに、戸惑っていた。その戸惑いは、たとえば、「『尖閣』は沖縄に帰属する」新川氏の論説(『情況』2013年1・2月合併号)における、問題設定への違和となって私自身に折り返される。棚上げ論に戻るという正当な理路を踏まえながら、尖閣の帰属性を琉球・沖縄の名において主張するとき、氏の認識は、国家の論理に絡め取られてはいないか。そうした認識のあり方と、アナーキズムに拠りつつ鋭利な反国家論を展開してきた新川氏自身の思想的営為が、いかなる整合性を持つのか、私には理解しがたいのである。
 そうした疑問を感じていたところ、今度は、新川明、大田昌秀、稲嶺惠一、新崎盛暉の四氏による新刊『沖縄の自立と日本』(岩波書店)に接した。そして、新川氏への違和は深まるばかりであった。たとえば、次のような氏の言葉には躓いてしまう。「周知のように琉球は、1879年に断行された武力による日本併合(「琉球処分」)以前は独立した王国であったわけだから、言葉の正しい意味で「祖国」が日本国であるはずがないことは、琉日関係史における初歩的な歴史的事実として明白である。さらに「復帰」の語義は、「もとの場所・地位・状態などに戻ること」(『広辞苑』)」であるから、琉球・沖縄にとって「もとの場所・地位・状態などに戻る」ことは、「祖国琉球国」の主権を取り戻すことを意味するわけで、日本国に帰属することでないことも自明である」(同書、46‐47頁)。「復帰」批判の譬えという文脈はあるにせよ、「祖国琉球国への復帰」という言葉には奇妙なファンタジーしか感じられないし、「祖国琉球国の主権を取り戻す」という言葉には、16‐19世紀東アジアの歴史的政治構造における「独立琉球国の国家主権」という設定自体に無理があると思える。まして、「問題は、日本がアメリカに追陏してやっぱりモノ扱いをする、というところにある。だからといってアメリカがそう思うのは当然だとは言いませんが、一応彼らは血を流して取ったところだから、一定程度分かるわけですよ」(同書、166頁)という発言に至っては、アメリカ軍事覇権への批判的知性の欠落を見ないわけにはいかない。
 むろん、復帰運動の陥穽や日本政府の沖繩差別に対する氏の批判に、私も強く共感する。そして拙著等で公言してきた通り、私は、沖縄は日本国家からの離脱という選択を実践していくべきだと考えている。しかし、私が考える離脱は国家システムからの離脱であって、独立論とは異なる。逆に私は、生存権の更新とその実践の場たる沖縄の変革のためには、琉球民族主体の国家独立という選択は、真っ先に排除されるべきと考える。私が考えたいと願っているのは、国家の揚棄を目指すという理念を共有する新川氏と私の違いがどこで生じるかを明らかにすること、その違いを見据えて沖縄の独立ならぬ自律を探っていくことである。
 そこで、今回は、この書の中の新川氏の言葉にいくつか疑問を提示しようと筆を執り始めたところに、新川氏から、氏の論説が収録された『うるまネシア16号』が届いた。
 『「琉球独立」論をめぐる雑感』と題された新川氏の論説は、沖縄タイムスに紹介された、琉球ナショナリズムと琉球民族独立総合研究学会(以下、琉球独立学会と略記)に対する私の批判に対する反論から始められている。そこでは新川氏の独立に関する思考が、明晰に開示されている。これに接して、私の新川氏への漠とした疑問に、ようやく明確な輪郭が見え始めてきた。民族主義(ナショナリズム)評価の違いが、私の新川氏への違和の核心にあると今思う。こうして真正面からの論を示していただいた新川氏に深謝し、私も率直に反論を提示したいと思う。紙幅の制約上、今回は、覚書にとどめ、近々に論をまとめて発表したい。
 新川氏は『沖縄タイムス』7月11日に掲載された、「東南アジア雑誌会議」(沖縄大学で6月29、30日開催)での私の発表を紹介する記事のなかの、「過去投影的な沖縄ナショナリズムを動力とする独立構想の危険性が、琉球民族独立総合研究学会にも待ち受けていないか」という言を踏まえ、「独立論が内在させるナショナリズムの限界を否定しない」としたうえで、次のように論じる。「しかし、いわゆる『独立』運動は、植民地支配下にある人間集団(闘争)が、自らの人間的な解放を求める反植民地運動(闘争)、反帝国主義運動(闘争)として取り組まれてきたものであることは、近現代の世界史が示すところであり、その運動(闘争)が第一義的にはそれぞれのナショナリズムに根差していることも歴史的事実である。つまり、反植民地、反帝国主義の闘いの動力は、まずナショナリズムを起爆剤として始動する、ということである。問題とすべきは、その結果、獲得された『独立』をもって完結させるのではなく、その新たな地平に立って、地球規模における国家の揚棄を目指してどのような社会形態を『指標』として構想するか、ということではないか」(同誌91頁)。
 つい納得しそうになるが、やはり私は、新川氏の論旨に同意できない。たしかに、アジア・アフリカをはじめとする世界各地の反帝国主義闘争あるいは反植民地闘争において、ナショナリズムが「起爆剤」となったことは事実である。しかし、反植民地、反帝国主義の戦いが、「第一義的にはそれぞれのナショナリズムに根座している」と断言するのは困難であり、危険であると私は考える。ナショナリズムは、他のナショナリズムへの対抗的依存において自らを構成する点で、「それぞれ」の地域に「根差した」民族的主体性では説明のつかない他律性を有している。同時に多くの場合、ナショナリズムは地域からの乖離のなかで生成し、地域を分断する。そして、ナショナリズムによってこそ、民族と領土が多く事後的に創られる(この点は、E・ホブスボウム『ナショナリズムの歴史と現在』浜林正夫ほか訳、大月書店と、G・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』鈴木秀明訳、青土社を参照)。そこで生み出された民族は、あたかも大昔から自然に存在していたかのように幻想されるが、その幻想を実体化するのがナショナリズムの魔術である。しかも、ナショナリズムは自らが外部からの力によって形づくられたことを隠して自らを自然化し純粋化するとき、排外主義的傾向を帯びる。この展開を背景に、新川氏が論考のなかで挙げているフィリピンのみならず幾多の民族独立過程で、反帝国主義的な装いのもと帝国主義的覇権が反復され、反植民地主義闘争のなかで新植民地体制の再編強化が組織化されてきた。しかも、そうした反動は、ナショナリズムを「起爆剤」とする独立運動のなかでの被植民者協力による資本形成、そして性と階級に関わる差別構造化、あるいは移住者への排外主義において、多く顕著となる。遠い時代の遠い地域の話ではない。この沖縄で今の今起きていることである。
 こうした問題について、新川氏が、独立を語るように積極的に語ることはほとんど無いが、今回は若干の留保をつけている。それが、地球規模の国家の揚棄という目的の設定である。新川氏は、琉球民族による「独立」を、地球規模での国家の揚棄に向けた「ステップ」と位置づけている。しかし、地球規模の国家の揚棄という目的に向けて、琉球民族独立がなぜ今必要かについて、新川氏は根拠を何も述べていない。しかも、この理路でいくと、琉球民族独立は、地球的な国家揚棄の過程で解消されるべき「ステップ」となるが、その思考と琉球独立学会の趣旨とは整合性を持たないのではないか。私は、民族主義的独立がステップに留まることも、「ナショナリズムはインターナショナリズムと不可分」(B・アンダーソン)ということも、無いと考える。歴史的政治的に見て、ナショナリズムは、その起爆性において当の民族にさえ制御不可能な暴力となるからである。
 例えば論のなかで新川氏は、柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)を参照しつつ、そこで提示されている「民衆のネットワーク」を「限界」を持つと指摘し、その証拠として、安倍政権の暴走を挙げている。しかしこれは、民衆のネットワークを阻止する要因が民族主義であることを示す例である。安倍極右政権は、この十数年のナショナリズムの暴発を背景としており、そこで謳われているのが日本の真の独立である。ここに、出自や性や階級を横断するネットワークを切断する、ナショナリズムの暴走を見る必要があると思える。
 そしてこの切断は、排外主義となって現れる。民族的アイデンティティは、民族から逸脱するグループの創出とその排除において自己免疫的に構成される。この点、琉球独立学会が、その設立趣意書に「本学会の会員は琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族に限定する」と明記していることは、排外主義の公言として注目に値する。不可解なのは、学会運営者たちと新川氏が、この規定を排外主義ではないと強弁していることである。
 新川氏は次のように書く。「学会員を『琉球にルーツを持つ琉球民族』に限定したことは、『琉球の地位や将来を決めることができるのは琉球民族のみであり、琉球民族があえて自ら難儀をし、それを乗り越えていくことが、自らを解放するプロセスに不可欠である』という理由からである、という(設立委員・友知政樹)。/非琉球人(主として日本人)の学会活動への参加など相互の関係については、学会とは別に交流や議論の場を設けて討議する方法を考えればよい、という(設立委員・照屋みどり)。いずれも納得できる説明である」(同誌、96頁)。私には、新川氏が引用する二人の開き直りのような言葉のどこにも、学会が排外主義ではない説明を見いだせないし、新川氏が何に「納得」しているのか見当もつかない。ここで引用されている設立委員二人の言辞は、普遍性に開かれてあるべき「学会」を民族で資格限定する点で、厳然たる排外主義である。それを否認するなら、在日の人々へのヘイト・スピーチを繰り返しながら、「これは差別ではなく区別だ」と嘯く右翼と認識上なんの違いがあるのだろうか。私には、精神の自立を訴え、時に独立論に添いつつも国を再生産する愚に警鐘を鳴らしてきた新川氏の深い思索と琉球独立学会が、志向を異にしているとしか思えない。
 最後に。私は、琉球独立学会と新川氏の言説は区別されるべきと思っている。しかし、両者の認識に共通の問題点があるのも確かである。①帝国主義暴力を問う際に、対日本(人)への糾弾は焦点化されるがアメリカを問う作業が絶望的に乏しい。②ポストコロニアル状況下における資本と国家と軍事覇権の重層的関係が全く問われていない。③階級が問題化されていない。④ジェンダー/セクシュアリティとりわけ異性愛主義体制が全く問題化されていない。⑤民族自決権をめぐる歴史的政治的文脈の批判的検証がなされていない。⑥主権概念が混乱を極めている。⑦琉球民族がなんであるかの規定が全く無い。ざっと挙げてもこれだけの問題があるが、これらを閑却したままで新川氏の論が停滞することはないと信じている。そして、開かれた議論の場が作り出されるためにも、私も今回の論点を深め、できるだけ早く論を提示したいと思う。
(沖縄/日本文学、琉大教員)
(けーし風80・2013・10)




【2013.10.11】 川田洋「国境・国家・大東亜革命●Kさんへの手紙・続」を読む
 かつて『情況』2008年7月号に、「国境・国家・改憲国民投票──Kさんへの手紙」を執筆した川田洋が同人誌(苦笑)『共産主義運動年誌』第14号(2013年10月1日発行)に、改めて、標記「Kさんへの手紙・続」をしたためた。
 商業誌ではなく、かかる媒体に「Kさんへの手紙」の続きを掲載した川田洋の感懐とは?もちろんKさんとは、本年8月3日、享年60歳で急逝した川音勉である。



【2013.09.21】 「反復帰論」の行方?
 いささか刺激的ではあるが、沖縄タイムス2013年7月1日の「刊行30年沖縄大百科事典を語る」(立役者たる新川明、川満信一、上間常道の鼎談)を読んでいたら、記者の「独立論どう考える」という質問に突き当たった。こうした特集の話題にも採り上げられる。そう、やはり「反復帰」から「自立・独立」の流れはもはや押しとどめられなくなったとも言える。


独立論どう考える

 ―若い研究者を中心に、琉球の独立を考える学会が発足した。

 新川 画期的だと思う。これまで、沖縄の独立論的なものは政治党派の動きとしてはあったが、私が「琉球民族独立総合研究学会」に注目するのは、中心メンバーが若く、海外も経験した研究者だということ。研究母体としての持続性もある。彼らの考えは、終戦直後や復帰前の独立論のように、ヤマトに対する被差別の感情から出てくるのではない。彼らには復帰世代に見られる日本に対する祖国意識がなく、「復帰思想」に毒されていない。可能性が大きい。

 川満 近代国民国家を成立させる基本は、民族主義、ナショナリズム。これは一番火をつけやすい。このナショナルなものに接近するには、よほど思想的な用心が必要だと思う。琉球独立の場合でも、琉球という国家を目標として研究するならやめときなさいというのが僕の考え。もし今の近代国民国家とは別固に、人類の理想とする琉球社会が構想できるのなら、研究に値するのではないか。
 原点回帰的な発想と境界を無化していくという二つの考えが縄のように絡み合いながら一つの潮流となって国家的なフレームを解体し、リフォームしていく力となる。そう期待したときに、研究会に肯定的な評価ができる。

 上間 「独立」はどうしても国民国家(の枠での議論)になってしまうので、僕は「独立」といえない。やはり内的に自分らが成熟する「自立」だと思う。


 私事で恐縮だが(もっとも、このサイト自体が「私事」なのだが-苦笑)、70年前後、反復帰論に触れたときの衝撃から、半世紀近く経つ。
 もちろん、当時はほとんど気にも懸けず、「即時無条件全面返還」から「奪還」論の跳梁跋扈の中で、彼の「批判力」にただただひれ伏すだけであった。沖青委(海邦)の旗を目にした時の「感激」も同根であったろう。しかし、レトリック過剰や民主主義信仰とが、原初的駆動力を捨て去り、横溢する何かしらの怨念(解釈可能ではあるが、理解不能なルサンチマンと言い換えても良いかも知れない)と同調しては、単なる「嫌日」潮流化に堕してしまうと危惧される動きもある。
 そして、ここに三人の論者のコメントを採り上げたのは、政治思想潮流としての「自立・独立」勢力の発展にとって、新川明の「転進」を危ぶんだからに他ならない。彼は、「『非国民』の思想と論理」(『沖縄の思想』第6巻1970)の中で次のように語っていたのだ。


 「わたしのいう、日本相対化のための沖縄の異質性=異族性の主張が、それらの人びとにみられた退行的な独立論発想の琉球ナショナリズムと無縁であることはいうまでもない。
 ……日本との決定的な異質性=『異族』性を無限に沖縄から突きだしてゆくとき、〈国家〉という実体的な抑圧装置であると同時に、人間の存在全体を規定する正体不明の魔性の怪物は、相対化された具体として、はじめてわたしたちの意識の中で映像を結びはじめるのである。……〈国家〉がわたしたちにとって、否定すべき具体として知覚されるのは、まさにその時であり、わたしたちの存在(沖縄の存在)は、そこで〈国家としての日本〉にとって、深くその体内に射込まれた毒失となり、きわめて悪性な腫瘍となるだろう。あたかも壊疽のように、〈国家としての日本〉を内側から腐食し、これを爆破する可能性を持つ地域となるだろう。」



【2013.09.06】〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ~5・18沖縄シンポジウム全記録
 [解説(文責・沖縄講座/深沢一夫)]ここに掲載するのは、五月18日に那覇市内の沖縄県自治会館ホールで開催された沖縄シンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ~復帰40+1年 サンフランシスコ講和条約60+1年」の全記録である。録音を原稿に起こし、当日発言し切れなかった部分も含めて、各発言者に加筆・校正をお願いした。14時から17時半まで、10分程度の休憩を挟んで3時間半。会場を埋めた約120人の参加者は、シンポの議論に熱心に耳を傾けた。[中略]
 この5・18沖縄シンポジウムは、4・28東京シンポジウム「サンフランシスコ講和条約締結60+1年――オスプレイ普天間配備、「尖閣問題」を問い直す」の企画と連携しており、東京と沖縄でそれぞれ実行委員会を立ち上げ、相互討論もしながら準備された。冒頭に掲げた5・18沖縄シンポジウムの呼びかけ文に、シンポを企画するに至った問題意識が、余すところ無く表現されている。
 今回のシンポの前史としては、2008年5月に沖縄県立美術館 ホールで開催されたシンポジウム「来るべき〈自己決定権〉のために~沖縄・憲法・アジア」がある(『情況』2008年五月号掲載)。復帰運動の高揚期に反復帰論を唱えた新川明さん、川満信一さん等をパネラーに、反復帰論の思想的資源をどう受け止めるのかが議論された。川満信一さんは『情況』同年7月号では「東アジア越境憲法」を提起した(註3)。あれから5年、「自己決定権」の言葉は、沖縄の地元紙の社説や論壇、投稿欄などどこでも目にするようになり、辺野古や高江、普天間の闘いの現場でも語られるようになった。そのことは沖縄の軍事植民地状況の深まりを示している。と同時に「東アジアの戦後史を凝縮している」(註4)沖縄における闘いが、戦後半世紀以上も続く軍事植民地状況を突き破る新たな地平を切り開きつつあることをも示している。そのことを象徴するのが、昨年9月末の普天間基地全ゲート実力封鎖行動である。もちろんその背景には、辺野古・高江の長期に亘る座込み実力抵抗闘争がある。
 米中二大国の「複合覇権」(註5)が鬩ぎ合い、「尖閣問題」を口実に「領土ナショナリズム」が掻き立てられ〈国境〉が蠕動する中で、東アジアの冷戦秩序を揺るがす闘いを押し広げ、国民国家の領土主権を前提とした国境管理――ウェストファリア・システムを、生活者住民の自己決定権を基礎として組み換え〈平和と連帯の東アジア〉を構想する。そのための政治思想的課題を探ることが、改めて求められている。
 
(註3)川満信一は「済州島の海風」(『情況』2008年7月号初出。情況新書『沖縄発』所収)の中で次のように語っている。
 「ここに提起する『東アジア幻想共同体』構想は、沖縄が弱者の論理によって、弱者だからこそ可能性が開けるという逆転の発想である。(中略)端的に言えば、大国間の軍事的力関係を逆用することだ。沖縄を軍事上のエアポケットにし、バランス地帯とすることである。(中略)軍事的エアポケットに最適なところは、東アジアでは陸のシルクロードに対応した、『黒潮ロード』に位置する済州島から奄美を含む琉球諸島、台湾などである。(中略)そのためには、いまの日本における憲法改正の動きにのって、『越境憲法案』を構想するのがベターだ。「越境憲法」は「黒潮ロード」の非武装地帯憲法である。」(『沖縄発』213‐214頁)
(註4)中国社会科学院研究員の孫歌は、「沖縄に内在する東アジア現代史」(『アジアのなかで沖縄現代史を問い直す』沖縄大学地域研究所ブックレット所収 2010年11月発行)の中で、次のように指摘している。
 「沖縄は、半世紀あまりの東アジアの戦後史を凝縮しており、この期間の歴史のあらゆる苛酷さ、そしてジレンマを取り集めたものである。つまり、沖縄人の反抗は沖縄の運命を決定してきただけでなく、東アジアの運命にも影響を与えてきたものである。」(56頁)
(註5)「複合覇権」の概念は、4・28東京シンポのパネラーの一人、武藤一羊が「『アメリカの太平洋時代』とは何か」(『季刊ピープルズ・プラン』58号2012年7月6日号)で提唱している。
 「ではいま展開している米中の覇権レベルの抗争はどのような性格のものか。私は、両者の対立と結託、競合と協力が撚り合わされた『複合覇権』とでもいうべき独特の体制が出現しつつあると考えている。」(5頁)



【2013.08.21】「沖縄への主権返還に関する要請決議」を読む
 「けーし風」第79号(2013.7)で島袋純は、1962年2月1日の琉球政府立法院決議「施政権返還に関する要請決議」(いわゆる「2・1決議」)の趣旨を継承する「県議会決議」の新案(沖縄への主権返還に関する要請決議)を提案している。両者の異同については後段に触れるとして、彼がかかる「新決議案」を構想したのは、紛れもなく、<沖縄の「権利の章典」>を打ちださんがためである。それは、安倍・日本政府が強行した「4.28主権回復祝典」に対する、沖縄からの発信として書かれた“沖縄発「権利の章典」を/「償いの心」破棄した政府”(識者評論4・28沖縄からの問い■6・新報20130423)によっても明らかである。

 島袋純は、そこで「日本政府が同じ民族として悲劇を共有することを拒否しつつ、それでも日本政府の配下に従属させておきたいというのならば、それは沖縄に対する植民地化の意思表示になる。つまり、沖縄の人々は日本の主権のもとに、日本本土の人々とまったく同じ取り扱いを受け、権利を等しく保障されるべき同じ民族ではなく、制限や抑圧があったとしても仕方がないという意味である」と断じる。もっとも、安倍及び安倍政権が「民族」なるものを理解しているとは到底思えないし、彼・彼らが支配していると観念される領土や国民は、彼らの恣意のままに利用しえると思っているというのが事の真実のようだ。それは「憲法改正」にせよ、「福島」にせよ、全く同じ文脈で透けて見える。
 そして、それが「我が国」の「政治」なのだ。

 さて、島袋は、それ故、問題は安倍及び日本政府の思惑ではなく、沖縄の人々の意志・志向だと強調する。
 「沖縄の自民党が……植民地主義政党に生まれ変わる」、さらにその他の政党も「ここまで沖縄差別が露呈しても、それでもなお沖縄からの要求や世論が、日本の『民族』や『主権』の中に、沖縄を差別せず入れてくれという願いであれば……植民地的な政策は止むことがない」ことを止められない、という批判がそれである。
 そして島袋は「第三の道」を指示する。それが沖縄への主権の奪還である。

 かつて「無意識の植民地主義」ということが声高に叫ばれたが、安倍をして「無意識の」(もっとも、ほとんど無知に等しいが)と罵ることは可能だが、沖縄は「軍事属領=(国内)植民地」であり、百歩譲っても、島袋の指摘するように「植民地的な政策は止むことがない」状況は一顧だにされていないと言わざるを得まい。
 佐藤優も屋良朝助も「独立は簡単だ」と説き、今また、琉球民族独立総合研究学会を立ち上げた友知政樹は「琉球の独立を前提とし……琉球の独立が可能か否かを逡巡することはもはや行わない」と宣言した。もちろんこれに対して、「過去投影的な沖縄ナショナリズムを動力とする構想の危険性」も指摘されてはいる(新城郁夫「タイムス」2013年7月11日の記事)。

 こうした時、島袋純が提起する「沖縄の人々の総意として権利の章典を打ち出すことができれば、自らの未来を作っていく基盤になる」という方途が実践的現実的色彩を帯びるためには何が必要なのだろうか。
 大杉莫は「沖縄の自立解放について――復帰・併合・買弁勢力に抗して」(『共産主義運動年誌』第三号2002年)で「運動は、展望とともに実際的な『獲得目標』が鮮明に打ち出されなければならないだけでなく、それへの手段・方法あるいは(運動・組織)形態が確立されなければ、運動そのものが成立しない。……主体の『強固な意志』は、『可能な目標』と『可能な方法』を要求するのである」と述べていた。この観点は、「〈研究ノート〉沖縄の自立解放について・その二」(同第五号2004年)で、島袋純の「沖縄の自治確立、1、短期・2、中期・3、長期展望について」に触れ、「『意志』を顕在化させる『政策(目標と方法)』」という一項を立て、さらに敷延された。

 前置きが(不当に・苦笑)長くなったが、「沖縄への主権返還に関する要請決議」と「2・1決議」を対照してみよう。

 「2・1決議」の「この間沖縄住民は日本復帰を訴え続け~」を、島袋純案では「この間沖縄の人々は、米軍基地の整理縮小と住民の権利の回復を訴え続け~」と書き改めて、「このようなアメリカ合衆国による沖縄統治」(2・1決議)に対して「このような日米両政府による沖縄統治」(島袋案)とし、「領土の不拡大及び民族自決の方向に反し、……日本の主権平等を無視し、統治の実態もまた国連憲章の統治に関する原則に反するものである」(2・1決議)とあるのを、「国際的に承認された人権や人民の自己決定権の方向に反し、国連憲章及び世界人権宣言、自由権規約、社会権規約の条件に該当せず、国連加盟国たる日本が主権国家として守るべき沖縄人々の基本的権利を著しく侵害している」とする。


【島袋純案2013】
沖縄への主権返還に関する要請決議

 対日平和条約第三条によって沖縄を日本から分離し米軍支配に委ねることは、正義と平和の精神にもとり、将来に禍根を残し、国連憲章の規定に反する不当なものであった。
 しかるにアメリカ合衆国は軍事占領に引き続き、日本政府との間の沖縄返還協定及びそれに関連する密約によって、在沖米軍による沖縄の全土基地化及び自由使用を継続し、施政権返還後も沖縄の人々の基本的権利を侵害し続けている。
 この間沖縄の人々は、米軍基地の整理縮小と住民の権利の回復を訴え続け、沖縄県議会はその趣旨の決議をもって繰返し要請し続けてきた。しかし、日米両政府は依然として在沖米軍基地の現状保持の政策を捨てず、安倍晋三首相は、就任後の会見で普天間基地の県内移設を明言し、オバマ大統領及び合衆国政府は、本年予算教書の中で、沖縄の軍事基地維持を前提とする予算案を作成し、従前の態度を改めていない。
 このような日米両政府による沖縄統治は、国際的に承認された人権や人民の自己決定権の方向に反し、国連憲章及び世界人権宣言、自由権規約、社会権規約の条件に該当せず、国連加盟国たる日本が主権国家として守るべき沖縄人々の基本的権利を著しく侵害している。日本の主権を制約し沖縄の人々の権利を侵害する米軍の特権と日本政府によるその保障が、沖縄統治の実態であり、国連憲章の統治に関する原則に反するものである。
 われわれは、いかなる理由があるにせよ力によって、一方的に権利を制約する植民地的境遇を強要する国の支配下に置かれることが、近代世界において許されるべきものでないことを強調する。
 1960年12月第15回国連総会において「あらゆる形の植民地主義を速やかに、かつ、無条件に終止させることの必要を厳かに宣言する」旨の「植民地諸国、諸人民に対する独立許容に関する宣言」採択された今日、日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟諸国が注意喚起されることを要望し、沖縄の土地、空、海をはじめすべてに対する沖縄の人々の主権が速やかに完全に回復されるよう尽力されんことを強く要請する。

【1962年2月1日 施政権返還決議、国連および国連加盟各国にあてた琉球政府立法院決議】
施政権返還に関する要請決議

 対日平和条約第三条によって沖縄を日本から分離することは、正義と平和の精神にもとり、将来に禍根を残し、日本の独立を浸し、国連憲章の規定に反する不当なものである。
 しかるにアメリカ合衆国は、軍事占領に引き続き前記の条約によって沖縄を日本の統治から分離し、施政権を行使すること16年に及んでいる。
 この間沖縄住民は日本復帰を訴え続け、琉球政府立法院はその趣旨の決議をもって繰返し要請し続けてきたが、米国は依然として無期限保持の政策を捨てず、ケネディ大統領は去る1月18日に合衆国議会に送った予算教書の中で「米国と自由世界の安全を守るため極東での脅威と緊張が沖縄の軍事基地維持を必要とする限り米国は沖縄の管理責任を引き続き負う」と述べて、従前の態度を改めていない。
 このようなアメリカ合衆国による沖縄統治は、領土の不拡大及び民族自決の方向に反し、国連憲章の信託統治の条件に該当せず、国連加盟国たる日本の主権平等を無視し、統治の実態もまた国連憲章の統治に関する原則に反するものである。
 われわれは、いかなる理由があるにせよ力によって民族が分離され他国の支配下に置かれることが、近代世界において許さるべきものでないことを強調する。
 1960年12月第15回国連総会において「あらゆる形の植民地主義を速かに、かつ、無条件に終止させることの必要を厳かに宣言する」旨の「植民地諸国、諸人民に対する独立許容に関する宣言」が採択された今日、日本領土内で住民の意志に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟国諸国が任意を喚起されることを要望し、沖縄に対する日本の主権が速かに完全に回復されるよう尽力されんことを強く要請する。
 右決議する。
1962年2月1日
琉球政府立法院


【2013.8.10】 山城選挙とは何だったのか。
 やはりスルーするわけにはいかない(苦笑)。とりあえず備忘録程度に記す。
 社民が2議席を確保するためには最低でも79万票を上乗せする必要がある。これはほとんど不可能な数字である。
 しかし、「山城当選」のためには(つまり社民党が一議席しか獲得し得なかったのであるから、又市票を一票でも上回るためには)、単純に43,515票を上積みすれば、比例社民党獲得1議席は山城博治のものとなっていた。これは決して不可能な数字ではなかった(沖縄で111,313票を集票)。3年前の参院選・選挙区選挙で山城は21万票余を獲得している(少なくとも「山城博治」と21万人余の人々に書かせている)のだ。

 社民党全国比例票が半数以下に落ち込んだにもかかわらず、沖縄では15.1%(約1.9万票)減に留まっている(ちなみに2012総選挙における社民党の沖縄での獲得票を見てみれば、選挙制度が違うとは言え、前年2012年12月の衆院選時より今回の参院選では約2.8万票増加しているのである)。しかし、社民党名票(「山城博治」と書かずに!)が前回の2万票余から3万8千票近くに!(又市票が117票から752票へと7倍近く増大)。さらに、前回山内徳信票の68パーセント(沖縄地区)しか山城博治票とはならなかった(全国では77%)。
 前年の衆院選での照屋寛徳(社民党・沖縄2区当選)票(73,498)と対比すれば、これまた照屋票の30%しか沖縄2区では山城博治票とはならなかった。
 大票田・那覇市での市議選・社民候補との連動は辛うじて果たせた(市議総得票9,955票・山城票9,789票)が、那覇市地区での集票を見れば、社民総得票(社民党名投票8,425票を含む18,776票)の52%しか山城は集票できなかった。3年前の選挙区選挙での那覇市地区での山城博治票は46,598票もあったのだ。
 ①沖縄での党名=社民党票の80%が候補者=山城票となっていれば約3万票の上積みが可能だった。
 ②さらに山内票の90%を候補者=山城票へ連動させることが出来れば約1.8万票が上積みできた(照屋票で見ればあと3%程度の上積みである)。

 首都圏での山城票(11,423票)は、6年前の山内票の2倍を集票し得たが、それでも又市も10,247票を集票していた。

 圧倒的知名度不足をどのように解消しえたか?山城の基礎票は?本部選対、社民党沖縄?自治労県本および平和運動センター傘下の諸団体は?糸数選対との連携は?日共(5万余の沖縄集票)?



【2013.8.3】 川音勉さんが亡くなりました。
 4.28東京シンポから5.18那覇シンポは、東アジアを見据えた<日本-沖縄>の次なる一歩を踏み出した。まさかここまで愚かで恥ずかしい政権であろうとは思いも寄らなかったが、沖縄の自立解放闘争に連帯し、日帝打倒・国家解体に向けた痛打のための橋頭堡を固める必要が、急である。
 この東京-那覇シンポに先立つ2008年5月18日、「来るべき自己決定権のために」のマーカラワージーガ?那覇シンポで、「このシンポが後に、歴史の転換点を刻印するものになれば……」と開会の辞を述べた川音勉が8月3日、急逝した。彼は沖縄側のスタッフと共に今年のシンポに対しても病魔と闘いつつ、心血を注いでいた。そして、最後まで那覇行を希望していた。享年60歳。合掌。

沖縄自立経済・再考(月刊『情況』2007年3-4月号所収)
沖縄の〈自己決定権〉に向き合う、日本の主権性創発のために(月刊『情況』2008年5月号所収)


【2013.7.7】 『沖縄自治州』を読む。
 参院選総括はスルー(泣)。ということで『沖縄自治州』です。
 2013年6月に発刊。2011年4月に“栄えある立法院の歴史を共有する県議会議員が立つ!/異民族支配の下で、自治の拡大を闘い獲ってきた立法院の歴史と誇りを共有する沖縄県議会の議員経験者”が結集し、“「特例型・沖縄単独州」実現に向け、覚悟と決断のとき!”と宣言した(本書資料16)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」による編集である。会長の外間盛善は沖縄政界の「保守勢力」を代表してきた人士であり、「結成までの歩み」を寄せた平良長政は沖縄社会大衆党の重鎮(元県議)でもあった。なお、本書では、自公に推され社大党を除名なっても沖縄県議会議長になりたかった喜納昌春が祝辞を述べている。
 「3.論文」として、(1)「沖縄道州制懇話会」がめざすもの……仲地博/(2)沖縄の自治決定権の確立のために権利の章典を-スコットランドをモデルとして-……島袋純/(3)特例型沖縄単独州の経済論……宮城弘岩/(4)「済州特別自治道」の現在・展望及び考察……呉錫畢/(5)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成までの私的歩み……平良長政、が掲載され、「4.インタビュー」として、太田守明(元りゅうせき社長で沖縄経済同友会副代表幹事)、吉元政矩(大田県政時の副知事)が登場。そして「5.Q&A」として、この間の沖縄自治研の成果を盛り込む形で、濱里正史・藤中寛之が執筆。
 しかし、それ以上に、本書を意味ある(意義ある)ものとしているのは、その資料編である。沖縄政治史上画期的とされる「1962・2・1立法院決議」から、2013年515日の「琉球民族独立総合研究学会」設立趣意書まで網羅されている。風游子も、本サイトを立ち上げてから、こうした資料を追っかけ、渉猟し、アップしてきたが、ここまでまとまって一覧されると感動さえ覚える。
 とりあえず「6.資料編」のタイトルだけでも以下列記する。

(1)施政権返還に関する要請決議(1962年2月 立法院)<施政権返還に関する琉球立法院決議および日本政府見解>
(2)沖縄の日本復帰に関する要請決議(1964年4月 立法院)
(3)平 恒次 「琉球人」は訴える 中央公論1970年11月号
(4)久場政彦 なぜ「沖縄方式」か 中央公論1971年9月号
(5)復帰措置に関する建議書(一部) 1971年11月<全文>
(6)比嘉幹郎 沖縄自治州構想論 中央公論1971年12月号<抄>
(7)野口雄一郎 復帰一年 沖縄自治州のすすめ 中央公論1973年6月号<抄>
(8)沖縄の自治に関する1つの視点 1981年<抄>
(9)玉野井芳郎 生存と平和を根幹とする「沖縄自治憲章」(案) 1985年<全文>
(10)琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱 1998年2月<全文>
(11)沖縄自治研究会「憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法」(試案) 2005年11月<構想案>
(12)沖縄県道州制等研究会中間報告 2005年11月
(13)沖縄経済同友会の道州制シンポジウム宣言文2005年12月
(14)国連先住民族権利宣言 2007年9月<全文>
(15)沖縄の「特例型」道州制に関する提言 2009年9月<全文>
(16)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成宣言文 2011年4月
(17)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成総会紹介記事 2011年4月
(18)道州制基本法案(自民党) 2012年9月
(19)「琉球民族独立総合研究学会」設立趣意書 2013年5月<全文>

 さて、次は言論界(例えば5.18シンポに象徴される反復帰思想資源を今に引き継き、道州制-自治基本法を提唱した沖縄自治研に代表される流れと、新たに胎動し始めた独立学会など)と、運動圏との連携・連結へどのように突き進むのかであり、もう一つは、こうした動きを政治(言うところの制度圏)に押し広げることであろう。もっとも制度圏などと言っても、友知政樹ならば「日本の国政での山城惨敗などは関係ない」と突き放すだろうが……それにしても「朝日」の記事は酷かった。



【2013.07.10】平和市民連絡会の「安倍政権への抗議声明」を読む
 遅ればせながら平和市民連絡会の「『慰霊の日』・沖縄全戦没者追悼式」を政治利用する安倍政権への抗議声明をアップします。参院選も早、終盤!山城博治を「国会の演壇」に押し出しうるか。正念場である。


「『慰霊の日』・沖縄全戦没者追悼式」を政治利用する安倍政権への抗議声明

 沖縄の6月は鎮魂の月です。島のいたるところで、慰霊の香華が風に運ばれてきます。68年前、「あらゆる地獄を一つに集めたような戦場だ」とアメリカ従軍記者が書き残した沖縄戦、鉄の暴風が吹き荒れました。戦場が最愛の家族を死に追いやった、人間が人間でなくなった地獄。軍隊は住民を守らない。その惨劇・悲劇を二度と繰り返すまいと、6月23日を「慰霊の日」とし、毎年「沖縄戦没者追悼式」が開催されます。
 犠牲者を悼み平和を誓うその追悼式典に、今年、沖縄の民意・「建白書」を踏みにじってオスプレイを強行配備し辺野古新基地建設を押し付けるルース駐日アメリカ大使と日本政府安倍首相、岸田外相、小野寺防衛相らが出席すると報道されています。
 これほど大挙して沖縄に押し寄せてくる異様な陣容は、これまでかつてなかったことです。慰霊の日には似つかわしくない軍服の「国防軍」の敬礼を受ける「安保担当閣僚」らが遺族の前に立つことは、「日本軍」によってもたらされた沖縄戦の遺族の苦難の歴史を切り捨てるばかりでなく、犠牲者をも冒涜するものです。沖縄の心=遺族の鎮魂の祈りと平和への希求とは、決して相容れるものではありません。
 天皇メッセージを踏襲した「4・28」によって、沖縄は米軍政下に投げ込まれましたが、苦難の始まりを刻印するその屈辱の日を、安倍首相は率先して「主権回復の日」とはしゃぎまわり、「天皇万歳」の音頭を一緒にとったといいます。
 菅官房長官は「沖縄の方々に寄り添いながら基地負担の軽減等に取り組んで行くことが安倍政権の基本姿勢だ」と啖呵を切っていますが、これは沖縄に基地の負担と犠牲を今後とも押しつけていくとの表明であります。そして、今回の安倍政権主要閣僚の参列は日本政府の常套手段化している日本国民と沖縄県民を分断するための国民向けのパフォーマンスの一つであり、傲慢そのものです。
 参議院選挙の直後にも牙をむいて襲いかかるオスプレイの追加配備と、辺野古埋立のための政治的下心をもって、安倍政権主要閣僚が束になって慰霊の日追悼式典に参列することは、私たち沖縄県民として断じて許すことはできません。
 犠牲者を冒涜し、慰霊の日追悼式典を政治的に利用する安倍政権、糾弾!
2013年6月20日

 那覇市古島1-14-6教育福祉会館内
 沖縄平和市民連絡会【代表世話人:新崎盛暉 高里鈴代 真喜志好一 松田寛 内海・宮城恵美子】



【2013.07.01】「沖縄マーラン船の船型に関する調査研究」
 久しぶりです。まーらん船ネタは。偶然見つけた東海大学紀要海洋学部「海―自然と文化」第7巻第1号(2009)に掲載された八木光・河邉寛「沖縄マーラン船の船型に関する調査研究」を紹介します。
 惜しまれて急逝した真久田正の「夢」を思いだしました。<
「県民の船」琉球帆船(進貢船)を造り、ニライの海へ乗りだそうと夢見て企画しているのは、海技士で作家の真久田正さんらヨット乗りや帆かきサバニにかかわる海人グループ。



【2013.06.15】「亀裂の回廊 主権・国家を問う」を読む
 沖縄タイムスが、2013年4月26日から5月20日にわたり、「重要な岐路にある。県民大会も建白書も無視され、政府の「主権回復の日」式典は意図的な切り捨ての意思表示とさえ受け取れる。なぜこのような断絶は生まれ、どの道に向かうべきなのか。国家・主権・憲法などの視座から問う。」とのリードを付し、全10回の「亀裂の回廊 主権・国家を問う」を連載。
 これからの沖縄の言論シーンをリードするであろう親川さんの余りにもナイーブでステロタイプな言説が気にはなった。
 第一回が川満信一、以下、我部政明、高作正博、金平茂紀、高良鉄美、親川志奈子、乗松聡子、新藤健一、鹿野政直、進藤榮一。
 全文は「地元紙で識るオキナワ」 で読める。


                   ◇                ◇                ◇

亀裂の回廊[1]主権・国家を問う
権力の意図看破せよ
感情語からの脱却必要



川満 信一(かわみつ・しんいち 1932年宮古島(旧平良)市生まれ。詩人、個人誌『カオスの貌』主宰。著書に『沖縄発』など。)


 「祖国復帰運動」がピークに達した1968年、復帰を理想化するのは「幻想」にすぎない、と横槍を入れ、敵に味方する反動分子だと叩かれた。また71年には、「国政参加拒否闘争」を呼び掛けたが、例の通りはみ出しの少数派として無視された。外国の施政権下にあるところから、国会議員を参加させるというのは、どうみても理屈に合わない。理屈に合わないことをあえて押し通すのは、裏にからくりが秘められているからだ。それを見破らなければ、沖縄の前途を誤る。というのが「国政参加拒否闘争」の趣意であった。
 1972年5月15日にめでたく「祖国復帰」したが、それは本土の米軍基地を沖縄に集中させ、本土の「民族独立」を固めるという策路でしかなかった。80年代には膨れ上がった自衛隊の扱いや、軍需品を輸出したい企業の要望を受けて、憲法改正が政治の課題としてリアルになった。憲法9条を捨てるようだったら、沖縄は9条だけ貰って日本と縁を切るしかないと、「憲法草案」などという作文を試みた。しかし、これも「居酒屋談議」とあしらわれた。いつになっても「はみだし少数派」である。4・28をめぐる考え方でもおそらく少数派となるだろう。

「復帰」の検証を

 さて、本紙の「複眼」欄で、記者が「少数者の声こそが権力を正す」と書いている。これは、日本国民全体の中の沖縄県民を少数者と位置づけた見解である。ただし、少数者の声が権力を正すというのは、願望にすぎないのでは?
 というのは少数者の内部では、植民地的分断政策によって、さらに多数派と少数派が生じ、少数派の声は抹殺される。それが擬制民主主義のからくりである。沖縄の戦後史だけを例にとっても、その潮流は一貫している。そうなると問題は、多数派の潮流がどこへ向かおうとしているのか、その行き着く先がどういう結果になるのか、それを検証し、警鐘を鳴らすのが少数者に残された戦術ということになろう。
 沖縄が少数者と位置づけられるなら、安倍政権が今更のようにちり箱をあさって、60年余年前の古証文を記念しようとするのはどういう意図に基づくものかを、もっと冷静に見透かさなければ、またも背負い投げを食らうことになりはしないか。権力の策謀は、民衆を左に注意させておいて、右の獲物を追う。その手先の役割を担ってきたのが、もっともらしい看板をかかげた種々の組織である。組織のイニシアチブ争いをも分析して、その向こうへ視野を解放するクールさが必要だ。
 復帰運動が「民族独立」とか「統一と団結」といった組織語や、「同胞を抱き取る」「母のもとへ」といった感情語で民衆を誘導し、国家権力の思うつぼへはめ込んだ歴史過程をもっと検証しなければならない。その中から、当面の4・28問題や、憲法改正、軍国化、日米基地の問題に対処する姿勢も定まってくるだろう。日本国の戦後史と、沖縄の戦後史は埋めることの困難な断層を広げている。国益という論理から除外されてきたのが沖縄だ。

国益と沖縄政策

 1952年4月28日、それが「屈辱の日」として位置づけられたのは、どういう思想・状況の経緯に基づいているのか。振り返ってみると、まず50年代には、日本の軍国主義から解放された、という認識から「琉球独立」「国連信託統治」「日本帰属」などが並列的に政治的選択の課題として議論された(群島議会)。そして、反戦・反基地・反米という現実的、実感的闘争が、社会大衆党や人民党(日本共産党)の提唱で、祖国復帰運動という憧憬的、理念的闘争へ舳先を変え、それが全国的な「沖縄闘争」へと広がった。
 4・28が「沖縄返還国民総決起大会」の日として定着したのは62年である。「四原則貫徹」の島ぐるみ闘争が、復帰運動へ集約された過程と重なっている。60年安保との関連で考えると、10年先の見通しのもとで、すでに沖縄施政権返還の合意を取り付けていたとも勘ぐられる。そういう国家の路線に乗って、政党や組織の沖縄返還闘争のヘゲモニーが争われたのではないか。つまり、天皇メッセージをはじめその都度の日本政府と政党・労組組織などの沖縄対策は、国益優先の路線で軌道を一つにしている。戦前から底流する日本民族主義は、戦後も健在である。
 さて、明治の琉球の処分や、日清条約の分島問題、今日の日米軍事基地問題まで視野に入れたとき、「リュチューンチュヤ マックトゥ ヤマトゥ民族ドゥヤガヤー」(琉球人は本当に大和民族だろうか)という根本的な疑問が起きてくる。国益優先の民族主義では、どうも沖縄は日本民族ではないのではないか。

したたかな戦略

 日・米の講和条約締結を「主権回復の日」として記念するという政府の方針に、口を挟もうとは思わない。大いにどうぞ。沖縄は日本民族外、主権の外という考え方が「潜在主権」であれば、それはそれで良し。それに対して国家や民族から切り離されたから「屈辱の日」だと怒りの挙を振り回すのは、どうもいかがわしい。祖国とか母国とか民族統一を叫んで、75%の米軍基地を背負わされた苦い過去の経緯を忘れたオプティミズムではないのか。復帰運動が見事な誤算だったにもかかわらず、いまだに「復帰」を勝ち取ったとか「真の復帰」という誤魔化しを引きずっている思想と同じ根っこではないのか。
 日米政府の手玉に乗せられたという深刻な反省があるなら、日本国から切り離されたという歴史事実を、逆手に取るしたたかな戦略も成り立つはずだ。例によって、「屈辱」という感情語でしか対応できないというのは寂しい限りである。街頭に飛び出して身体で意志表現する市民運動は、声を届かせることの難しい草の根のやむを得ない手段だと思う。だが、その声の望んでいる方向を、組織のリーダーたちはしっかりつかんで指示しているのか。アジアにおける状況のきな臭い緊張と思い合わせるとき、「真の復帰」などという自己誤魔化しの路線ではもはや収まらないだろう。
 日清条約の分島で、中国に所属していたかもしれない先島の御嶽の神々は、国家の身勝手な都合に振り回されるなと囁いている。こういうものの見方は、年とともに退化した私の思想的劣化かもしれない。
(タイムス2013.04.26)


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亀列の回廊【6】主権・国家を問う
脱植民地考える契機
4・28歴史認識に危機感



親川志奈子(おやかわ・しなこ 1981年沖縄市生まれ。琉球大学大学院博士後期課程。危機言語の継承教育専攻。オキスタ107共同代表。)

 日本政府が「4・28」を記念する式典を開催するというニュースを聞いた時、とっさに「貧しくて、貧しくて、貧しくて、口減らしのために子どもを売った家族がいたとして、彼らは後になってその日を祝うだろうか?」と考えた。自らの幸せのために誰かを犠牲にした過去を悔いるでもなく、謝るでもなく、償うでもなく、無視するでもなく「祝う」というアイデアに至った日本人の感覚がどうしても分からなかった。

「ワッター」とは

 先日、国連の人種差別撤廃委員会に日本政府が提出した文書を読んでいると次のようなフレーズを見つけて驚いた。「沖縄県に居住する人あるいは沖縄県の出身者は日本民族であり、社会通念上、日本民族と異なる生物学的または文化的諸特徴を共有している人々であるとは考えられていない」。日本政府はウチナーンチュを「日本民族」とカテゴライズすることで普天間基地の県内移設を正当化できると考えているようだ。しかし、はたしてワッターは日本民族なのだろうか。
 琉球が沖縄県になった時、ウチナーンチュは日本国籍を有する「日本人」となったが、沖縄戦を記憶する「6・23」、米国の施政権下に置かれた「4・28」を経て日本に復帰した「5・15」を経験した者であれば誰もが知っている通り、制度的にはパスポートがいらなくなっても、ウチナーンチュはヤマトンチュになれなかった。いや、「唐ぬ世から大和の世、大和ぬ世からアメリカ世、アメリカ世からまた大和ぬ世、ひるまさ変わいるくぬ沖縄」という歌(佐渡山豊「ドゥチュイムニイ」)が示す通り、泊める国が変わろうとも「くぬ沖縄」のワッターがワッターであることに変わりはないのだ。

空洞化した言葉

 日本人が沖縄を語る時、右側の人たちは「領土」を意識し、真ん中を称する人たちは「癒やしの島」の刻印を押し、左側の人たちは「同じ日本人」とくくるだろう。それはつまり植民地主義の表出だと言って良いのではないか。
 そこに沖縄の意思はなく、あるのはイデオロギーを超え日本人が享受できる利益なのだから、冒頭の親子のモデルに話を戻すと、「日本の主権」にとっての4・28とは、財産(領土)目当てによその子ども(琉球)を養子に迎えたものの、事業に失敗したので質草として他者(米国)に差し出し、また買い取ってその子どもに借金の肩代わり(安全保障条約体制)をさせようというプロットになるのではないか。
 植民地支配といった場合、抑圧―被抑圧の圧倒的な力の差が前提として存在するのは言うまでもない。日本の主権回復をして「屈辱の日」と呼ぶに至ったウチナーンチュの心情とはどのようなものだったのか。ある日、祖父に「復帰後生まれの私にとっては日本目線の沖縄史をワッターが生きる事こそが『屈辱』だと感じる」と話すと、彼は頷きながら「『屈辱の日』という言葉は復帰運動の中で使われるようになったはずだ」と語った。
 復帰を目指す中で4・28を振り返り「屈辱の日」と表現する事は、日本が沖縄を切り離した事実を厳しく批判する行為である。そこから「平和憲法を適用し基本的人権を取り戻す」「基地を撤去し平和な沖縄を作る」という自己決定権を行使するための言葉が発せられた。彼らが描いた復帰とは日本を祖国とあがめ天皇制や安保を全肯定する類いのものではなかったはずだ。
 その言葉がいつしか空洞化させられ、ウチナーンチュの意思とは関係なく、日本人と米国人にとってウィンウィンな形でそれも密的な形で「復帰」が実現したのではないか。

権利自覚する日

 沖縄戦の強制集団死をめぐる教科書問題や、昨年の「復帰」40周年、今回の4・28政府式典に表れているように、歴史的事象に対する日本と沖縄での認識が異なる場合、抑圧者の歴史を被抑圧者が背負わされるという現像が起こってしまっている。これから先、薩摩侵攻や琉球処分、同化政策、皇民化教育、万言札、沖縄戦や銃剣とブルドーザーによる土地接収、標準語励行、米軍機墜落事故、米兵による暴行事件やオスプレイ配備でさえも、日本人の歴史認識をワッターが教えられ、押し付けられる日が来るかもしれないと考えるのは杞憂であろうか。
 歴史を振り返ると「日本の主権」に寄り添うことがワッターの持ちうる最大の処世術だと考えた政治決定や言論がこれまで数多く存在した。しかしこれからも未来永劫そうあり続けるべきなのか。沖縄は現在初めて県内移設にNOを突きつけ「県外移設」という言葉で植民地主義に対峙している、しかし同時に「国外移設」という言葉が重く身体にめり込んでいる。国外への移設先が沖縄同様、植民地主義にあらがうハワイやグアムである以上、ウチナーンチュが国外移設を口に出す事は「私たちは立派な日本人です、どうか朝鮮人やアイヌ人と一緒に扱わないでください」と言ってしまった人類館のメンタリティのリフレインでしかないだろう。ワッターの自己決定権とは何なのか。
 「天皇陛下万歳」がこだました政府式典の映像を見ながら、4・28とは日本の主権回復を問うのではなく、ワッターにとって脱植民地化とは何か、主権とは何かについて考える日となったのではないかと感じた。自らの歴史を学び、自らの言語を話し、自らの土地で生きるという日本人が何の疑問も抱かず謳歌している権利が、私たちにもあると自覚する日なのではないかと感じた。
(タイムス 2013.05.06)


【2013.06.12】「識者評論 4・28沖縄からの問い」
 <4・28>を巡って、改めて沖縄と日本が問い直された。「祖国復帰運動」なるものをもはや誰も「賛美」し得ないばかりか、「祖国日本」が、おぞましいものとして、多くの沖縄の民衆の眼前に立ちはだかった。もちろん、とは言え、あの「復帰運動」の総括が十全になされているとは言い難く、仲里効が指摘する“アメリカ統治からの脱却を、日本を「祖国」と見なしそこに同一化することで果たそうとした復帰運動の幻想のカラクリである。思えば復帰運動は「血の同一性」や「平和憲法」や「反戦」や「真の」と冠を取り換えながら延命してきたが、その起点となったのがサンフランシスコ講和条約が発効した日を「屈辱の日」としたことにある。とはいえ、「屈辱」によって立ち上げられた「民族意識」は、戦前の同化主義と密通していたことを忘れてはならないだろう。”(新報2013.04.17)は、今も、形を変えて引きずっている。それ故「独立学会」に集う若い世代は「なぜ、かくも復帰運動は全島を席巻し、1972年の5月15日を迎えたのか」「なぜ、日本は<祖国>だったのか」にまで踏み込んで琉球独立の展望を考究して貰いたいとも思う。さらに、そして1879年まで遡るのであれば、1840年のアヘン戦争から日清日露を経て1919年の五・四運動/三・一運動、そして現在までを射程に入れた東アジア大の日-沖関係を解き明かしていただきたい。
 仲里効が「ヤレーヌーヤガー」とつぶやいたことを受けてか、島袋純は、沖縄自民党が「植民地主義政党に生まれ変わることにな」ろうが、「その他の政党」もまた「国民統合の論理に支えられており、その継続を政府に求めている」以上、「いずれにせよ植民地的な政策は止むことがない」と解き明かしつつ「しかし、第三の道がある」と言い切る。

 琉球新報が2013年4月6日から連載を開始した「識者評論 4・28沖縄からの問い」をアップ。
 連載に当たっての新報のリード「安倍政権は、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」として政府主権の式典を開催する。一方で、日本の独立から切り離され米軍統治が始まった沖縄にとってこの日は「屈辱の日」と呼ばれ、今に続く軍事支配の源流として捉えてきた。政権を奪還した政府自民党が、発効から61年を経た現在になって「主権回復」を揚げる思いは何なのか。沖縄から見える4・28の意味を、各識者の視点で読み解いてもらう。」



1■新崎盛暉  構造的差別の源流/占領下の政治的枠組み利用(新報2013.04.16)
2■仲里 効  続く非対称的な「戦後」/<5・15>を同時に問う(新報2013.04.17)
3■宮城晴美  放置された沖縄の貧困/つけを回された子どもたち(新報2013.04.18)
4■前泊博盛  「主権」はどこにあるのか/不平等条約と一式の欺瞞(新報2013.04.19)
5■鳥山 淳  非軍事論理温存の日米結託/核心を突く沖縄の告発(新報2013.04.22)
6■島袋 純  沖縄発「権利の章典」を/「償いの心」破棄した政府(新報2013.04.23)

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識者評論 4・28沖縄からの問い■1
構造的差別の源流
占領下の政治的枠組み利用


新崎盛暉
(あらさき・もりてる1936年東京生まれ。東大卒。沖縄現代史、社会学。60年代に中野好夫主宰の「沖縄資料センター」で活動。74年に沖縄大学に赴任し、沖縄の政治史・思想研究とともに一坪反戦地主会など住民運動にも参加した。著書に「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」など。沖縄大学名誉教授)


 安倍晋三首相によれば、1952年4月28日は、日本が、約7年に及ぶ連合国の占領下からの脱して、めでたく主権を回復し、国際社会に復帰した日だそうである。だがこの日は、連合国(その実態はアメリカ)が占領下で作り出した戦後日本国家の政治的枠組みを、その後の日本の基本的在り方として国内的にも国際的にも広く認知させた日に過ぎない、ということを確認しておく必要がある。
 日本を占領したGHQ(マッカーサー司令部)の初期対日占領政策は、①象徴天皇制②日本の非武装国家化③米軍事拠点としての沖縄の排地的支配-の三本柱からなる。
 天皇の戦争責任を問い天皇制を廃止したり、昭和天皇に迫位を迫ったりすれば、日本国民の激しい抵抗に直面する。むしろ逆に日本人の天皇への忠該心、というよりも信仰心を利用して日本統治を進めるほうが効果的である。というのがマッカーサーの判断であった。こうして、天皇から国家統治の政治的権限を剥奪した上で、天皇を「国民統合の象徴」とする象徹天皇制として、天皇制が維持されることになった。
 日本の軍事的脅滅を排除するための非武装国家化については説明を要しないだろうが、それは、軍事的真空地帯となった日本に周辺から軍事的政治的影響が及ぶことを阻止し、日本を監視する米軍事拠点としての沖縄の排地的支配とセットになっていた。
 しかし、中国大陸における国共内戦の進展によって、アジア太平洋地域に覇権を維持するパートナーとしての親米的中国を失うことになったアメリカは、「②日本の非武装国家化」という方針を変更し、アメリカと覇権を争った敗戦国日本を目下の同盟国として育成することにした。朝鮮戦争を機に占領下おいて警察予備隊の名で地上軍が創設され、戦後日本の再軍備は始まった。

日本再軍備と反米闘争

 この占領下に策定された戦後日本の政治的枠組みを条約化したのが、対日平和条約と日米安保条約である。この2条約は、1951年9月8日、サンフランシスコで調印され、翌52年4月28日発効した。
 ヤマトでは、独立によって撤退するはずの占領軍のほとんどが、日米安保条約に基づいて駐留する米軍に看板を変えてそのまま居座った。沖縄では、長期的支配に備えて、米軍政府がいち早く米民政府と看板を塗り替えていた。
 対日平和条約発効時点で、ヤマトには沖縄の約8倍の米軍基地があった。したがって50年代には、米軍犯罪や基地拡張に伴う反米、反基地闘争が日本各地で頻発していた。沖縄では、「銃剣とブルドーザー」による土地取り上げに対する抵抗が「島ぐるみ闘争」に発展していた。両者の反米ナショナリズム、反基地闘争は共鳴とし合う関係にあった。この時期、日米関係は決して安定したものではなかった。
 安倍政権は「4・28は、沖縄が自らの意思に反して、米軍政下に置かれ続けることになった『屈辱の日』だ」という反発に対して、「主権国家にならなければ返還交渉もできない」などと的外れな弁解をしている。その交渉を最初に担ったのが、安倍晋三の祖父・岸信介である。
 1957年6月に渡米した岸首相の対米交渉における主要課題は、沖縄の返還時期の明示と、日本の自主性を強調する安保条約改定への瀬踏みであった。日本側がアメリカ側に提出した共同声明案の沖縄に関する部分は、「沖縄施政権の日本返還期日を10年後とし、住民の権利を尊重する」となっていたという(57年6月21日、東京新聞)。しかしこれは、「脅威の状態が極東に存在する限り、米国はその現在の地位を維持する」と一蹴された。安保改定も明記されなかった。
 岸政権は、日米関係を安定化させるためには、占領下に策定された戦後日本の政治的枠組みを利用せざるを得ないことを悟らされたのである。この枠組みこそ、私たちが「構造的沖縄差別」と呼ぶ仕組みに他ならない。

軍事的拠点に差し出す

 この枠組みに即して日米共同声明に挿入されたのが、「一切の米陸上戦闘部隊の速やかな撤退」を含む在日米地上軍の大幅削減であった。日本を撤退した米海兵隊などの陸上戦闘部隊がどこに行ったか。あらためて説明するまでもない。安保条約が改定された1960年、ヤマトの米軍基地は、1952年時点の4分の1に減少し、沖縄の米軍基地は2倍に増えた。こうして50年代に比べれば60年代の日米関係は相対的には安定し、日本は経済的高度成長期に入った。
 しかし、アメリカの南ベトナム内戦への介入は、ベトナム反戦とリンクする沖縄闘争の高揚を生み、アメリカの排地的沖縄支配を困難にした。その結果、1972年沖縄返還によってアメリカの沖縄支配は終止符を打った。だが、沖縄はなお、アメリカの軍事的拠点であり続けている。日本が、沖縄に在日米軍基地を集約化し、沖縄を軍事的拠点として維持し続ける役割を積極的に担い続けているからである。
 「主権回復の日」は、復活した安倍政権が、そうした基本姿勢の維持・強化を再確認するために設定した日であることに注目しなければならないだろう。
(新報2013.04.16)

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識者評論 4・28沖縄からの問い■2
続く非対称的な「戦後」
<5・15>を同時に問う


仲里 効
(なかざと・いさお1947年、南大東村生まれ。95年に思想誌「EDGE」創刊に加わり、編集長。著書に「フォトネシア」「悲しき亜言語帯」などがあるほか、2010年から「沖縄写真家シリーズ『琉球烈像』」(未来社)の監修を務めた。映像批評家、元「EDGE」編集長)


 4月28日を「主権回復の日」にするという。だが、なぜ、いま、なのだろうか。おそらくそれは、第1次安倍政権のとき「美しい日本」や「戦後レジームからの脱却」を唱え、ウイングを右に施回させようとしたが、途中で政権を放り出したことの深層にあるトラウマと欲望にかかわっているのだろう。
 そしてそのトラウマと欲望は、けっしてアメリカへの従属を問うことはなかった、祖父の岸信介がいっていた「真の独立」や中曽根康弘の「戦後政治の総決算」の路線を踏んでいることは間違いない。61年前のあの日を呼び戻す欲望は、未発の「戦後レジームからの脱却」という文脈においてはじめて隠された矢印がはっきりしてくるはずだ。矢印は、憲法「改正」や自衛隊の「国防軍」化へとまっすぐ延びている。

二つの起源

 サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日、いま、この日に特別なアクセントを打ち直す政治的イニシエーションは、二つの起源をあらためて思い起こさせることになった。ひとつは、日本の戦後のはじまりに構造化された暴力の問題である。暴力といったのは、天皇制と国体護持のために沖縄を「捨て石」にし、アメリカのむき出しの占領状態に隔離したことを指している。そのことによって日本の戦後は、カッコつきではあるが「民主」と「経済成長」路線に突き進むことができた。
 非対称的な二つの「戦後」がある。この非対称性は、沖縄に対する日本の主権を残存させることでアメリカの占領を容認した擬制によって抱き合わされてもいる。「残存主権」とも「潜在主権」ともいわれた主権論の変態は、冷戦が発明した法的怪物ともいわれ、アメリカの沖縄分割と排他的支配をオーソライズすると同時に、日本にとっては沖縄を排除しながら繋ぎとめておく、今に至る二重の擬制のうえに成り立っていた。「法的怪物」というよりはむしろヌエ的な装置である、というべきなのかもしれない。
 いまひとつは、アメリカ統治からの脱却を、日本を「祖国」と見なしそこに同一化することで果たそうとした復帰運動の幻想のカラクリである。思えば復帰運動は「血の同一性」や「平和憲法」や「反戦」や「真の」と冠を取り換えながら延命してきたが、その起点となったのがサンフランシスコ講和条約が発効した日を「屈辱の日」としたことにある。とはいえ、「屈辱」によって立ち上げられた「民族意識」は、戦前の同化主義と密通していたことを忘れてはならないだろう。
 山之口貘は沖縄の帰属が決められようとしたまさにそのとき、「沖縄よどこへ行く」という詩を書いた。
 大国に翻弄された沖縄の歴史を振り返りながらも、「日本語の/日本に帰って来ることなのだ」と結んでいた。貘の詩は独特な陰翳を帯びてはいたが、当時の一般的な願望を歌いあげたもので、「日琉流同祖論」の閉域にとどまっていた。

ヤレーヌーヤガー

 私たちは皮肉にも、4月28日を「主権回復の日」とする政府方針によって戦後の二つの起源と出会い直していることになるわけであるが、そこから「屈辱」の記憶をよみがえらせ、「ワジワジーした」という義憤の声も聞かれる。だが、それは貘の「沖縄よどこへ行く」の同化主義的回帰を越え出るものではない。「主権回復の日」を<4・28>ではなく「復帰の日」の<5・15>にすべきだという主張が出てくるところに、「屈辱」が内在化したナショナルな心情から自由ではないことを見て取ることができる。<4・28>を問うことは<5・15>を問うことでなければならない。
 昨年亡くなった写真家の東松照明は、沖縄の「復帰」がもつ陥穽を読み破っていた。「アメリカニゼーションは日本の内部に広く深く浸透している。その日本に復帰したのだ。沖縄は、アメリカから脱しようとして、もう一つのアメリカに組み込まれたことになる」と。この逆説的な意味の重さから目をそらすべきではない。
 戦争責任やアジアに対する植民地責任を封印したばかりか、沖縄を排除しながら繋ぎとめる「天皇メッセージ」を結節点にした61年前のサンフランシスコの憂鬱。「主権回復の日」の<回復>に刻印された沖縄と日本の非対称性に、異なる視座から光をあててみるときである。ワジワジーするのもよい。だがヤレーヌーヤガー その切っ先を思想化しよう、根を持とう。
 サンフランシスコ講和条約から60と1年、「復帰」という名の併合から40と1年。私たちの<いま>は、沖縄戦の死者たちのまなざしと拮抗することができるだろうか。<4・28>と<5・15>の共犯は同時に撃たれなければならない、と思う。
 高良倉吉副知事よ、もう一つのアメリカの首都トキオへゆくな、<ふるさと>を創れ。江戸へ上がるな、南へ走ろう。
(新報2013.04.17)

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識者評論 4・28沖縄からの問い■6
沖縄発「権利の章典」を
「償いの心」破棄した政府


島袋 純
(しまぶくろ・じゅん 1961年那覇市生まれ。早稲田大学大学院修了(政治学博士)。専門は行政学・地方自治論。スコットランドなどとの国際比較研究を基に、自治基本条例や道州制のテーマを研究。主著に「リージョナリズムの国際比較」。琉球大学教授)


 「対日平和条約第三条によって沖縄を日本から分離することは、正義と平和の精神にもとり、将来に禍根を残し、日本の独立を侵し、国連憲章の規定に反する不当なものである。(中略)沖縄に対する日本の主権が速やかに完全に回復されるよう尽力されんことを強く要請する。」
 沖縄自民党の翁長助静議員は、1962年2月1日琉球立法院の施政権返還要求決議案の起章委員会の代表として、次の決議案を議場で読み上げ全会一致の賛成決議を要求した。米軍支配のもと琉球立法院は、頻繁に施政権返還決議を行ったが、最も衝撃を与えたのがこの2・1決議である。さらに、自治弾圧で有名な高等弁務官の施政下、4・28を批判し、1964年4月27日にも全会一致で決議された。
 「日本国との平和条約が1952年4月28日に発効してから12年が経過した。(中略)ところが祖国復帰という沖縄住民を含めた日本国民の総意が無視されて、沖縄は平和条約三条によって祖国日本から分断され米国の統治が続けられている。このことは近代民主主義の基本原理に反するものであるが更に(中略)主権尊重、民族自決の国連憲章の精神にもとるものであるといわなければならない。(中略)よって、本院は、祖国日本が沖縄に対する主権回復を最高の国策として強力に推進してもらうよう強く要請する。」
 決議文を読み上げ趣旨説明を行った自民党中村晄兆議員は、趣旨説明の中で「イデオロギーを超越する一つの民族的な悲願であるということを条約を締結した各国々にも素直に認識していただきたい」と主張した。4・28からの主権回復こそが沖縄を含む日本民族全体が共有する「民族の悲願」であるという意味だ。

「民族」の一体性否定

 これに対して日本政府や自民党は、第一に沖縄は、紛れもなく本土と等しく扱われるべき日本人であり、日本民族の一員として日本の主権下にあるべきであり、第二に、にもかかわらずこの4・28の日本本土の主権回復が図られたが、それは沖縄の分離という犠牲の上に実現したものであり、厳しい国際情勢があったとしても日本政府や与党にも責任の一端があるということを自覚していた。
 第三にその責任にもとづく「償いの心」が前面に出されていた。初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏は、1971年、沖縄関係法案の趣旨説明を、「日本国民と政府は、多年にわたる忍耐と苦難の歴史の中で生き抜いてこられた沖縄県民の心情に深く思いをいたし、『償いの心』を持って復帰関連法律を策定する」と述べていた。
 この論理は、沖縄を日本に再統合していく、国民統合の論理にさえなっていた。しかし、今回の4・28を「主権回復の日」と銘打って記念式典を開催することは、これまでのこのような国民統合の論理のすべてを否定することになる。
 第一に、等しく扱われる同じ「民族」という認識の拒否である。4・28は日本が主権回復した記念すべき日であって、沖縄などの分離は、日本民族全体からすれば 瑣末な問題に過ぎず「民族の悲劇」などに該当しないということで、「民族」としての一体性の否定である。
 第二に、「責任」の否定である。沖縄などを犠牲に自分たちだけ主権回復して悪いことをしたという思いがないからこそ、4・28を「主権回復」の日として記念することができる。日本政府が責任を負うのは4・28に主権回復した日本本土であって沖縄などはそこに含まれないことになる。
 第三に、「償いの心」の破棄である。分離に対する責任がないならば、そこから導き出される沖縄に対する「償いの心」も必要がない。
 つまり、沖縄との間で共有されてきた国民統合の論理を公式に破棄し、転換するという意味を持つ。4・28に「主権回復」という看板を掲げれば、いくら「沖縄の苦難や負担に心を寄せる」とか言葉を繕ったとしても、すべてそれを吹き飛ばす。日本政府が「主権」「民族」について沖縄を「日本」の下か外かに放り投げるということになる。

第三の道

 日本政府が同じ民族として悲劇を共有することを拒否しつつ、それでも日本政府の配下に従属させておきたいというのならば、それは沖縄に対する植民地化の意思表示になる。つまり、沖縄の人々は日本の主権のもとに、日本本土の人々とまったく同じ取り扱いを受け、権利を等しく保障されるべき同じ民族ではなく、制限や抑圧があったとしても仕方がないという意味である。
 政府の公式式典として皇室や都道府県の代表を動員することによって、国全体の意思として天皇や全都道府県にそれに従うよう、また沖縄に対しても従うように求めている。沖縄の代表またはその代理が出席することはその受け入れを意味する。
 沖縄の自民党が、抗議の議決や活動を何もしないということは、歴史を切り開いてきた先達の思想や取り組みを否定し、日本政府のメッセージに同調、容認することを意味する。沖縄を日本の植民地としてとらえる植民地主義政党に生まれ変わることになる。
 一方、沖縄のその他の政党による抗議は、これまでの国民統合の論理に支えられており、その継続を政府に求めている。しかし、今の政府および与党は明らかにこの国民統合の論理を公式に否定する意味をもち、沖縄からの抗議は、日本という国においてはもはや永遠に認められない可能性すらある。ここまで沖縄差別が露呈しても、それでもなお沖縄からの要求や世論が、日本の「民族」や「主権」の中に、沖縄を差別せず入れてくれという願いであれば、統合を破綻させているのに、沖縄に他に道はなく未だ統合を求めていると安心するであろう。いずれにせよ植民地的な政策は止むことがない。
 しかし、第三の道がある。日本政府が公式的に日本の「主権」や「民族」から沖縄を外に放り出したことに対して、それを沖縄自らが受け取り、自らの基本的権利を守っていくため、自分たちのものとして再構築していくことである。その出発点として沖縄の人々がそういう権利を有しているということを「権利の章典」として確立することである。
 スコットランドやカタロニアにおいて主権国家に近い強力な自治権を確立できた背景には、「主権」を自らのものとする「人々の集まり」として、権利の章典を行うことができたからである。4・28を機に沖縄の人々の総意として権利の章典を打ち出すことができれば、自らの未来を作っていく基盤になる。日本政府に対する釘となる。この意味の重要性が広く共有されなければならない。
(新報20130423)


【2013.06.07】 「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」

 もはや旧聞に属する。
 東京で開かれた「4.28シンポ」と連動して、5月18日午後2時から、那覇・自治会館ホールで開催されたシンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」について、タイムス5月15日付け沖縄タイムスに掲載された丸川哲史さんの論考をアップ。ちなみに、パネラーとして丸川さん以外に、李鐘元さん(早稲田大学教員)、大田静男さん(八重山郷土史家)、仲里効さん(映像批評家)で、コーディネーターとして長元朝浩(タイムス論説委員長)、司会は平良識子さん(那覇市議)が勤めた。

 昨年の9.9県民大会から10.1オスプレイの普天間強行配備をめぐる攻防、さらに年が明けての総理直訴行動へと2013年は激動の沖縄を予感させたが、それは沖縄代表団建白書に対する安倍政府の二つの回答(「4.28国家主権を回復した日」祝典開催と、辺野古新基地建設のための埋立申請)によって、日本-沖縄関係が歴史的にも現在的にも植民地(軍事属領)支配にあることが誰の目にも明らかになったことで加速されたとも言えよう。
 この那覇シンポに先だつ5月15日には、「琉球民族独立総合研究学会」が設立された。それに対して友知政樹さんが「自己決定権への道/琉球独立学会設立に寄せて」という一文を新報5月13日寄せた。併せてアップした。余りにも無知にして無恥の安倍政権であるが、これがわが国の国家指導者である。しかし、沖縄への苛政に抗する沖縄の自立解放への道が今、徐々に切り拓かれつつある。


沖縄タイムス:5.18シンポ報告
〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐシンポ
 復帰幻想問い直す必要も

 18日に那覇市の自治会館で開かれたシンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」では、早稲田大学の李鍾元教授、明治大学の丸川哲史教授、八重山郷土史家の大田静男さん、映像批評家の仲里効さんが、東アジア全体を見渡す中で、沖縄がどうあるべきかについて意見を述べた。
 李さんは、米国のアジア政策において、日本が本格的な軍事化に抵抗しながら経済成長を達成していく一方、韓国や台湾では軍事国家になっていったと説明。「日本の強烈な反基地運動の成果として地上軍は撤退されたが、そのかわり韓国と沖縄の米軍は強化された」とした。
 ナショナリズムの衝突を解決するためには「地域そのものを対立の地域から協調の地域に変えていかなくてはならない」と主張。「アジアで米国を中心とした軍事力に依存するような状況が創られたのに対し、欧州では米国の力を利用しながらもその枠の中に安住したのではなく、自らの利益のために、地域的な利害を確保する努力を成し遂げた」とした。
 中国に対しても「単に脅威に備えるだけでなく脅威そのものをシステムの中に取り込むという発想に変化していくのが流れた」とし、近年日本で台頭する「国防」という考えを批判した。
 丸川教授は、中国社会科学院の研究員らが発表した沖縄の領有権を問う論文の背景を説明。「国際条件体制が東アジアに入ってくる」前の朝貢体制は、沖縄でいうと日清両属が存在する空間だったが、それを暴力的に壊され、日本の完全な帰属にされてしまったという不満が中国にはある」と説明。「論文は国際条約の基準で読むと領土権を主張しているようだが、朝貢体制の認識と、現在の国際条約体制という二つの価値基準があり、あいまいに存在している。折り重なって表現されていることを考えなくてはならない」とした。
 大田さんは、八重山地域で進む保守化について現状を報告。1968年の主席公選などで、日米両政府が西銘順治氏を当選させるために画策した結果、八重山の教職員会が分裂し、保守派の流れが八重山地域教科書問題や与那国への自衛隊配備に影響しているとした。「歴史をわい曲しようとする人たちが力をつけてきて、先島は大変な状態になっている」と批判した。
 仲里さんは、68年の主席公選で革新共闘会議でという形で表出した「六八体制」が1995年以降、緩やかに崩壊し、新しい目と声と思想的実践が起こりつつあると分析。特にサンフランシスコ講和条約発効の日を「主権回復」として祝う4・28政府式典に対する動きの中で、沖縄の新しい実践のあり方がより具体的に見えてきた。とした。
 「沖縄の歴史と民衆意識を考えるときには、(国家の併合、分離と再併合を繰り返す中で揺らいできた)『内的境界(国境)』を考えなくてはならない」と主張。「内的境界」の発動のあり方が沖縄の思想や実践のあり方を決定すると考える、とし、それが今回の4・28で露出したとした。
 日本と沖縄の非対称な戦後が明らかになった一方で、根強い復帰幻想も残っていると指摘。吉本隆明氏が沖縄の「復帰」を国家が地域を併合していくあり方の問題として提示した「グラフト(接ぎ木)国家」という概念を挙げ、「『真の復帰』『真の主権』というロジックは、まさにグラフト国家の統合の論理に回収されていくと思う。いかにして内側から越えるかを考えたい」とした。(城間有)
(タイムス2013年5月24日)



〈沖縄〉を創る18日シンポ
東アジアに二つの危機/チャンスに変える契機探る


丸川 哲史


 5月18日に開催される「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」シンポジウムが想定している時間意識とは、まずサンフランシスコ講和条約発効からの60(+1)年、そして沖縄の本土「復帰」からの40(+1)年である。加えて、やはり大きな東アジアの時間枠がある。
 それは約120年前、朝鮮半島で燃え上がった甲午農民戦争、そして日清戦争の1894~95年を起点とする時間であり、その時間の「反復性」である。この戦争の後、朝鮮の王朝は、馬山と平壌の「開港」を半ば強制される事態となったが、まさに今日、北の共和国(北朝鮮)への日米(韓)による圧迫は、過去の反復のようにも見えてくる。だが、もちろん昔と今は違う。問題はさらに複雑である。北の共和国は、欧米近代が発明した「核」を自らのものとし対抗している。
 そしてもう一つは、日本と中国との間の約120年の歴史的反復である。昨年の「国有化」後、にわかに険悪な状態に陥った尖閣/釣魚島をめぐる領土紛争に関しても、日清戦争期間になされた「内閣閣議決定」(1895年1月)という出来事を想定せずにはいられない。いずれにせよ、私たちが所属する2010年代は、東アジア全体をのみこむ危機のサイクルの色彩を帯びてきているのである。
 現在の危機はさらに、もう一つの危機を浮かび上がらせようとしている。それは政治的代表制の危機である。いわゆる「一票の格差」を持ち出す必要もなく、沖縄の人々の「声」が全く国政に反映されていない深刻な事態がある。
 代表制が危機にある時、街頭が騒がしくなるのは教科書風の歴史理解だが、昨年から東京では3・11の福島事件を主因とした街頭デモが盛り上がっている。このデモがどの程度、沖縄も含めた東アジア全体の危機と連動していたかは意見の分かれるところであるが、やはりある程度つながったものであったと私は思う。
 プラカードの中には、「オスプレイ配備反対」の文字も散見された。そしてこの意思表示は、尖閣/釣魚島をめぐる日中(米)政府への抵抗につながるものだ。また、昨年から今年にかけて、中国大陸、台湾などで起きたデモも以上の流れとつながっている。
 たとえば、東京での3・11福島事件の2周年のデモが1万数千人の規模であった一方、連動して台湾で行われたデモは、原子力発電所建設継続の可否に絡む「国民投票」の可能性にも後押しされ、なんと20万人にもなった。
 そして中国大陸である。昨年夏の一連の反日デモを思い起こしたい。デモ参加者の脳裏にあったのは、やはり先述の約120年前の屈辱の歴史の記憶であったわけだが、デモがあれだけの規模になったのは、明らかに現在の中国政府の態度を弱腰とみた結果で、民衆と政府の食い違い(代表制の危機)の表れだ。
 しかし9月18日の満州事変の日、政府は公船を尖閣/釣魚島に派遣し、街頭デモに暗黙の支持を与えた。民衆側もこの政府のシグナルを受け、デモを沈静化させるに至った。すなわち、ここにおいて一瞬、民衆側と政府の間に意志の一致が起きていた、と言えるかもしれない。民衆がデモによって政府に行動を促した例は、1919年の5・4運動にさかのぼることができるもので、この時の要因も実に日本による対華21ヶ条要求に対する中国政府の弱腰の態度であった。
 繰り返しになるが、2010年代は東アジア全体の危機の時代である。それぞれの地域の危機は実際に連動してありつつも、危機の発現の仕方とその乗り越えられ方は、各国家(地域)の代表制の特質と人民の政治感覚に根差したものとならざるを得ないものである。日本(ヤマト)において、また沖縄においても、この目下の危機をチャンスに変える契機をいかに引き寄せられ得るのか、考えたい。
(まるかわ・てつし1963年和歌山市生まれ。2001年一橋大学大学院言語社会研究科修了。明治大学教授。専攻は東アジア文化論)
(沖縄タイムス20130515)


自己決定権への道
琉球独立学会設立に寄せて


友知 政樹


「解放」へ方策探る
世界の島嶼国と連携も

 2013年5月15日、新たなる決意のもと「琉球民族独立総合研究学会」が設立される。学会名に「琉球民族」を入れたのは、本学会が琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族の琉球民族による琉球民族のための学会であることを明示するためである。「独立」ならびに「総合研究」を入れたのは、本学会が琉球の独立を前提とし、学際的な観点から琉球独立に関する総合研究を行うことを明示するためである。琉球の独立が可能か否かを逡巡することはもはや行わない。
 本学会の会員が琉球民族に限定されていることから、本学会が排外主義的であるとの誤った指摘を受けることがまれにある。しかし、我々は国際人権規約(1966年採択、79年日本批准)共通第一条に規定された「人民の自己決定権」に基づき、琉球独立という本来の政治的地位を実現することを目指し、市民的及び政治的権利に関する国際規約の第18条「思想、良心及び宗教の自由」、第19条「表現の自由」、さらに第7条「少数民族の権利」に拠って、琉球独立に関する研究を琉球民族として推し進めていく。琉球の地位や将来を決めることができるのは琉球民族のみである。琉球民族があえて自ら難儀をし、それを乗り越えてゆくことが、自らを解放するプロセスに不可欠であるとも考えている。
 琉球の独立を実現するためには何が必要なのか。これは深く、そして広い問いである。この問いに答えるべく、世界の植民地における独立の過程、独立前後の経済政策および政治・行政・国際関係の在り方、琉球民族に関する概念規定とアイデンティティ、琉球諸語の復興と言語権の回復、アート、教育、ジェンダー、福祉、環境、マイノリティ差別、格差問題、在琉植民者の問題等、琉球独立に関する多角的かつ総合的な研究、討論、そして、人材の育成が不可欠となってくる。
 本学会では同様に独立を目指す、グアム、台湾、ハワイ、ニューカレドニア、仏領ポリネシア等のアジア太平洋諸島、スコットランド、カタルーニャ、フランドル、バスク、コルシカ等の欧州地域等や、独立国となった太平洋島嶼国等の人々とも研究交流を促し、琉球独立のための世界的なネットワークを構築する。学会の研究成果を踏まえて、国連の各種委員会、国際会議に参加し、琉球独立のための世界的な運動等も展開する。独立は孤立ではない。
 琉球独立は実現性のない単なる理想論であると切り捨てる者がいる。そうではない。世界各地の琉球民族を含む総勢200万に及ぶ琉球民族の知恵と勇気を結集し、問題意識を共有し、その問題を解決してゆく研究と実践を行うことにより、理想が現実に変わる。
 独立後の経済が不安材料で、見通しが立たないと言う者がいる。そうではない。琉球の歴史、文化、自然、そして人はそんなに軟なものではない。様々な数値的シミュレーションを検討するなかで、解決策をいくらでも具体的に探ることができる。
 日米によって奴隷の境涯に追い込まれた琉球民族は、自らの国を創ることで、人間としての尊厳、島や海や空、子孫、先祖の魂を守らなければならない。琉球は日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し、新しい琉球が世界中の国々(もちろん日米も含む)や地域、民族と友好関係を築き、琉球民族が長年望んでいた平和と希望の島を自らの手でつくりあげる必要がある。
 学会の担い手となるのは琉球の独立を志す全ての琉球民族である。学問は一部の研究者に限定されるものではない。琉球民族という当事者が直面している植民地主義の諸問題を分析し、それを解決するための思想や方法について検討し、議論を行い、実践する過程で学問が生まれ、深化し、琉球民族が真に解放される。
 琉球民族が植民地という「苦世(にがゆー)」から脱し、独自の民族として平和・自由・平等に生きることができる「甘世(あまゆー)」を一日も早く実現させるために本学会を設立し、琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼び掛ける。(沖縄国際大学経済学部准教授)

(琉球新報20130513)


琉球民族独立総合研究学会 設立趣意書

 琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族は独自の民族である。15世紀半ばのポルトガル人、トメ・ピレスが書いた『東方諸国記』において、琉球民族はレケオ人、ゴーレス人と呼ばれ、「かれらは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこのことについては死を賭ける」と記述されている。また、琉球國はかつて独立国家であり、『歴代宝案』において明らかなように、アジア諸国と外交関係を結び、19世紀中頃には欧米諸国とも友好条約を締結していた。
 現在、琉球の島々には琉球民族が住んでおり、また日本国、そして世界各地にも琉球民族が生活をしている。5年に一度、「世界のウチナーンチュ大会」が琉球で開催され、2011年には第5回目を数えた。2012年にはブラジルにおいて「第1回世界若者ウチナーンチュ大会」も開催された。琉球民族は移民先でも生まり島のことを忘れず、琉球の文化や言語を守り、琉球民族アイデンティティの根を張り続け、世界中に琉球民族ネットワークを形成してきた。
 他方で、1609年の薩摩侵攻に端を発し、1879年の明治政府による琉球併合以降、現在にいたるまで琉球は、日本、そして米国の植民地となっている。琉球民族は、国家なき民族(stateless nation)、マイノリティ民族(minority nation)となり、日米両政府、そしてマジョリティのネイションによる差別、搾取、支配の対象となってきた。このことは、例えば1945年に琉球の地を日本が太平洋戦争の地上戦の場(=捨て石)としたことや、1952年に自らの主権回復のために琉球を質草にしたこと、米国軍政府による戦後27年間に及ぶ抑圧的支配、そして、1972年のいわゆる日本「復帰」(=日米の密約を伴う琉球再併合)後も日米が「日本国土」の0.6%の琉球に米軍基地の74%を押し付け続けていることなどからも明らかである。さらに、現在進行形の出来事として、1997年、米軍用地特別措置法改定により琉球の土地を強奪し、そして、全42議会の反対決議、知事や全市町村長、琉球民族一人一人による反対にもかかわらず、2012年、日米によりMV22オスプレイが琉球に強行配備された。これもまた明らかな琉球差別であり、植民地支配である。
 日本人は、琉球を犠牲にして、「日本の平和と繁栄」をこれからも享受し続けようとしている。このままでは、我々琉球民族はこの先も子孫末代まで平和に生きることができず、戦争の脅威におびえ続けなければならない。また、日本企業、日本人セトラーによる経済支配が拡大し、日本政府が策定した振興開発計画の実施により琉球の環境が破壊され、民族文化に対する同化政策により精神の植民地化も進められている。これは奴隷的境涯である。
 琉球民族は本来、独自のネイション(nation、peoples、民族、人民)であり、国際法で保障された「人民の自己決定権」を行使できる法的主体である。琉球の地位や将来を決めることができるのは琉球民族のみである。琉球民族は独自の土地権、資源権、生存権、環境権、発展権、民族自治権、内政権、外交権、教育権、言語権等の集団的人権を有する民族である。琉球は日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し、新しい琉球が世界中の国々や地域、民族と友好関係を築き、琉球民族が長年望んでいた平和と希望の島を自らの手でつくりあげる必要がある。
 琉球民族の独立を目指し、琉球民族独立総合研究学会を設立する。本学会の会員は琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族に限定する。本学会は「琉球民族の琉球民族による琉球民族のための学会」である。
 本学会は学際的な観点から琉球独立に関する研究を行う。学会の担い手となるのは琉球の独立を志す全ての琉球民族である。学問は一部の研究者に限定されるべきものではない。琉球民族という当事者が直面している植民地主義の諸問題を分析し、それを解決するための思想や方法について検討し、議論を行い、実践する過程で学問が生まれ、深化し、琉球民族が真に解放されるのである。
 琉球の独立が可能か否かを逡巡するのではなく、琉球の独立を前提とし、琉球の独立に関する研究、討論を行う。独立を実現するためには何が必要なのか、世界の植民地における独立の過程、独立前後の経済政策および政治・行政・国際関係の在り方、琉球民族に関する概念規定とアイデンティティ、琉球諸語の復興と言語権の回復、アート、教育、ジェンダー、福祉、環境、マイノリティ差別、格差問題、在琉植民者の問題等、琉球独立に関する多角的および総合的な研究、討論を行い、それらを通して人材の育成を行う。
 さらに、本学会では同様に独立を目指す、グアム、台湾、ハワイ、ニューカレドニア、仏領ポリネシア等のアジア太平洋諸島、スコットランド、カタルーニャ、フランドル、バスク、コルシカ等の欧州地域等や、独立国となった太平洋島嶼国等の人々とも研究交流を促し、琉球独立のための世界的なネットワークを構築する。学会の研究成果を踏まえて、国連の各種委員会、国際会議に参加し、琉球独立のための世界的な運動等も展開する。
 日米によって奴隷の境涯に追い込まれた琉球民族は自らの国を創ることで、人間としての尊厳、島や海や空、子孫、先祖の魂(まぶい)を守らなければならない。新たな琉球という国を創る過程で予想される日本政府、日本人、同化されてしまった琉球民族、各種の研究者等との議論に打ち勝つための理論を磨くためにも琉球民族独立総合研究学会が今ほど求められている時はない。
 我々は国際人権規約共通第一条に規定された「人民の自己決定権」に基づき、琉球独立という本来の政治的地位を実現することを目指し、市民的及び政治的権利に関する国際規約の第18条「思想、良心及び宗教の自由」、第19条「表現の自由」、さらに第27条「少数民族の権利」に拠って、琉球独立に関する研究を琉球民族として推し進めていく。
 琉球史上はじめて創設された琉球独立に関する学会の活動によって、琉球民族が植民地という「苦世(にがゆー)」から脱し、独自の民族として平和・自由・平等に生きることができる「甘世(あまゆー)」を一日も早く実現させるために本学会を設立し、琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼び掛ける。
 2013年5月15日 琉球の独立を求め、決意を新たに
(『沖縄自治州』・資料19)



【2013.05.08】 「とぅばらーま」から「沖青同」

 昨年9月末の普天間基地全ゲート封鎖から、今年の4・28まで、息もつかせぬ激動(!)。そして5・15である。風游サイトも、トップページの更新に追われ続け、Emigrantにまで手が回らなかった。もっとも、もう歳です、息せき切って走り続けるのはもう不可能になりました。そして泣き言も多くなりました。そこで山城博治応援(笑)

 八重山の大田静男さんの「とぅばらーま」を拝聴する機会があった、それも二度も。同席した伊達政保さんが「この人は『幻の唄者』だ」とつぶやき、しみじみと目を伏せて聞き入っていた。
 月並みな表現しか出来ない不敏な風游子であるが、朗々としたアカペラを聴きながら、かつて岡本太郎が三線抜きの唄だけが聴きたいと、石垣島を訪れた時、要求したことを思い出した。そして独力で「野とぅばらーま大会」を主宰したと言われている大田さんの心情に思いを馳せた。
【大田静男さんの紹介が「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」のサイトに掲げられている。】

 「4.28」である。無恥と無智を重ね合わせたような安倍政権だが、「主権回復の日」とはよく言ったものだ。1952年4月28日以前は主権を持たなかった(今でも持っていないではないか、という半畳を入れるのはやめよう)、だからこそ「憲法」も「押し付けられた」のだ。心底、そう思っているのかはともかく、彼は「占領下」に「押し付けられた」憲法などは、多分まともに一度も読んだことはないのだろうし、9条はいざ知らず、99条なんぞ全く知らない。<憲法第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。>

 いずれにせよ、「4.28」が「屈辱の日」であるのは「切り捨てられた」ことではない。そもそも「切り捨てられた」という表現そのものが「復帰運動のフィクション」でさえあったのだ。沖縄を、沖縄の人々を一顧だにせず、己が為に、自分の持ち物のように他国へ売り渡すこと、そして、それに抗すべくもなく、軍事属領の島にされてしまったことが「屈辱」なのだ。
 今、5.15と共に「屈辱」を打ち返し、自己決定権の行使へと確実に歩み出した。

 4.28政府式典抗議の集会が昼夜を分かたず全国各地で開催されたが、式典と同時刻に開催された沖縄現地での「政府式典がってぃならん沖縄大会」と連帯する集会とデモが、日比谷で行われた。
 そこで、1971年沖縄国会で、返還粉砕・国会爆竹闘争に決起した沖縄青年同盟の三戦士の一人・本村紀夫さんが基調報告とでも呼ぶべき特別提起を行った。
 本村さんの報告と、併せて、1971年沖縄国会での「檄文」をアップ。





 われらが沖縄は、今、大きな歴史の転換点にたたされている。
 一昨年秋の日米共同声明を基調にした72年沖縄返還=統合の過程は、帝国主義日米の帝国主義としての動向を規定し表現する政治過程である。就中沖縄における日米共同声明路線の展開は、沖縄の日本への絶滅的同化を不可避的に伴う社会的全面再編として進行している。
 そして今、さまざまな思惑をこめて〝沖縄国会〟が開かれんとしている。
 すでに沖縄返還協定の日米同時調印を6月17日にすませた帝国主義佐藤政府は、その後の国際政治経済情勢の変動にともない、通貨問題、日中問題などで動揺を深めながらも、他方において「沖縄返還」を「国民の悲願達成」という大キャンペーンでもって復帰前提派をも編みつつ批准国会をのりきらんとしている。
 われわれは問いたい! 議会制民主主義の名のもとに日本が沖縄の命運を決定することができるのかと。
 沖縄の歴史は、つねにそうであったように薩摩の武力的併合以来、よそ者=侵略者たちが刻みこんだ苛借ない搾取と収奪の軌跡であった。三度にわたる「世替り」は、そのたびごとに沖縄を分離したり併合したりした。明治の琉球処分は、日本の近代化の為、沖縄を「国内植民地=属領」化しソテツ地獄に落としこめた。戦後、第二の琉球処分では壊滅的打撃をこうむった日本資本主義の再生とひきかえに分離され、アメリカ帝国主義の軍事監獄にたたきこまれ四半世紀にもわたり奴隷的存在を強要せしめられた。そして今度の日米共同声明にもとづく72年沖縄返還は、日本帝国主義の対外膨張のため沖縄を併合しようとするものである。

 われわれは、はっきりと断言する。
 日本が沖縄を裁くことはできないだと。
 事態は72年返還をめぐって象徴的に進行している。
 72年沖縄の返還は帝国主義日本が自らの戦後史にピリオドをうち、一国的な枠をつき破り再びアジアへ向けて、その運動と政策を本格的に稼働させようとするものである。なによりもまた、沖縄においては戦後期に固有に形成されてきた沖縄社会諸形態の帝国主義的解体と再編であり、また沖縄戦後史を体現してきた復帰運動の主体と、その論理の歴史的な破産をもたらした。
 72年は、沖縄が、帝国主義国家としての日本と真正面から向かい会うときである。
 もはや、とうすいの時代は終った。あれ程までに復帰運動の生成から発展の過程において熱狂の眼差でもって語られた「祖国日本」が、帝国主義然としたその真姿をあらわにするとき、復帰運動は自らを沖縄戦後史の墓標として発現しようとしている。
 沖縄は、今、生みの苦しみの只中にある。第三の琉球処分の激動の渦中で、わが沖縄はその激動の波しぶきを新生への〝うぶ湯〟にすることができるのか。それとも激動は、沖縄の新たなる〝絶望〟を生み落とすものなのか。

 明らかに沖縄の内部で一つの時代が滅びようとしている。そして、それにかわる新しい時代の到来を沖縄の現実は乞い願っている。「祖国」の虚像と実像が交錯するなかで、沖縄の人民は、不安と焦燥にかられ、試行錯誤をくり返しつつも、自らの行くべき方向を模索しはじめている。それは、もはや、かっての幻想を追い求める心情的、他律的なものではなく、〝自律した変革主体〟としての自らの階級的力量に立脚し、現実と対決する〝さめた者〟としての位置からの模索である。
 コザの大衆の荒々しい蜂起、そして、それにつづく一連の沖縄現地での大衆的実力闘争の展開は、沖縄が、強いられた「苦が世」の負の歴史から真なる解放を闘いとるための「終りなき闘い」の開始をつげるものである。
 すべての在日沖縄人は今こそ勇気を持って立ちあがれ。「祖国」への幻想を断ち切り終りなき闘いを準備せよ。
 我々の沖縄解放の道は、日本-大和への反逆とアメリカ帝国主義の軍事支配との対決以外にはないのだ。沖縄人民の強固な団結とアジア人民との連帯をかちとらねばならない。沖縄の人民の対決している敵が日米帝国主義という全アジア人民の共通の敵であるからだ。まさにわが沖縄が帝国主義のアジア侵略反革命の最大拠点となっている以上、我々の任務は重大であり、かつ困難である。
 沖縄返還協定批准を阻止せよ!
 72年返還を粉砕せよ! 日本-沖縄解放の歴史の分岐がここに問われている。
 全ての沖縄人は団結して決起せよ!

 1971年10月19日
 沖縄青年同盟行動隊

20130428本村紀夫
沖縄の主体性獲得を求めて


本村 紀夫


 みなさんこんちにちは。ご紹介頂きました木村です。
 本日は、後ほど話される新崎さん、安次富さんより、多く時間をもらっていますので、時間を無駄にしないよう原稿を用意してまいりました。

 1971年10月19日、いわゆる沖縄国会において、沖縄の民意を一切無視し、沖縄「返還」を強行しようとする日本の国会に対し、沖縄青年(当時)3人で爆竹を鳴らし、ビラをまき、「日本が、沖縄の命運を決定することはできない!」「沖縄『返還』粉砕!」、「全ての沖縄人は団結して決起せよ!」と訴え、抗議活動を行った1人です。アレから早いもので、40年以上がたちました。
 一つ残念な報告があります。去る1月17日、共に闘った真久田氏が亡くなりました。うるまネシアの15号(最新号)の編集を終え、そのまま帰らぬ人となってしまいました。これから沖縄の自立・独立のためにやる事が山積していただけに、私たちとしても残念でしかたありません。本人のご冥福を祈るばかりです。

 主催者から、沖縄青年同盟、以下「沖青同」といいます。沖青同の話を、総括を含め話して欲しいといわれましたが、そんな時間的余裕はありませんので、当時どのような活動を行っていたか簡単に紹介し、その後、沖縄=琉球独立に絡めて沖縄の現状を話ししたいと思います。
 沖青同のスローガンでもあった「我々は、日本国民たることを拒否し、自らを沖縄人と呼ぶ」との意識のもと、私たちは在日沖縄青年として、関東の地で裁判闘争をはじめ、さまざまな闘いを担ってきました。

 私たちの闘いには、大きく分け在日沖縄青年の組織化と、日本人に沖縄問題を常に提起していくという二つの方針がありました。しかし、実態はスケジュール闘争に振り回され、学習会を呼びかけるのがやっとで、沖縄青年とのつながりは希薄でした。沖青同の呼びかけで71、72年とヤマトの新左翼を中心に、数千人が結集し沖縄闘争が大いに盛り上がったこともありましたが、返還後、沖縄問題がマスコミから消え始めるのと同様に、アレほど沖縄と叫んでいた多くの党派及び団体・個人が、潮が引くかのごとく私たちの前から消えていきました。そのころ、私たち自身も訴えるべきは日本人でなく、沖縄人だと認識し始めており、事務所を東京から沖縄出身者が多く住んでいる鶴見に移したり、いろいろ模索していた時期でもありました。
 そうした中、関西で山口君事件が起こりました。それは、宮古出身の青年が集団就職先の社長にひどく差別的言辞で罵倒されたことに怒り、その社長宅に放火してしまったのです。その火災で社長の奥さんが焼死し逮捕されるという事件でした。私たちは関西の沖縄青年と連携し裁判闘争など支援に取り組みましたが、残念ながら私たちの支援も及ばず、彼は、裁判途中拘置所で首をつって自殺してしまいました。私たちは、彼がそこまで追い詰められていたにも関わらず、彼を守る事が出来なかったことに涙しながら、在日沖縄組織がどうあるべきかを考えさせられると同時に、政治闘争に明け暮れていた私たちの目を大きく見開かされました。
 そのことをきっかけに関東では、ゆうなの会、関西ではがじゅまるの会の結成へとつながっていきました。ちなみに、当時は沖縄県人会・青年部はありませんでした。エイサーを行ったり、沖縄労働学校を開催し、講師を招いて在日沖縄青年が抱えているさまざまな問題や、沖縄の歴史などをみんなで学び合いました。厳しい環境の中でしたが、関東では北部、東部、南部、西部、川崎、三多摩の5支部が次々と結成され、皆イキイキと活動していました。特に、鶴見公園で行った、関東での最初のエイサー大会には、100人近くのメンバーが参加し、手づくりの旗頭が舞い、大太鼓を先頭に60人余によるパーランクーが優雅に打ち鳴らされ、マミドゥマー、クイチャーなどが次々と披露されました。そこは、まさしく沖縄そのものでした。遠くふるさとを離れ、東京南部地域・鶴見・川崎に住む沖縄出身者が2000人以上も集まり、ともに踊り、歌い、涙を流していた光景を今でも昨日のように思い出されます。

 沖青同は、その後いろいろありました。沖電気・島添さんの差別解雇撤回闘争で3度にわたる権力による弾圧もありました。僕自身、3度も逮捕されました。また、主体の弱さから、ヤマト党派からの介入等で組織が分裂状態に陥ったことも何度かありました。組織名も、沖青同から、沖縄解放同盟準備会、沖縄労働者の会、沖縄研究会と変わっていきました。現在は、沖縄人独自の組織はありませんが、沖縄一坪反戦地主会・関東ブロックでみなさん頑張っております。
 組織名はいろいろ変わりましたが、在日沖縄人組織として、沖青同の思想性はしっかり受け継いできたと自負しています。組織名が変わっていく過程にはさまざまな問題が内包されていますが、今日はそういう話をする場ではありませんので、このあたりで沖青同の話は終わらせてもらいます。

 次に、沖縄の現状を私なりに話したいと思います。1971年当時は、沖縄でも、沖縄「返還」の実態が明らかになるにつれ、日本政府に対する抗議やデモが相次いでおり、その怒りはついには全島ゼネストへと突き進んでいました。
 しかしながら、その全島ゼネストは、文字通りの全島ゼネストとはなりませんでした。その理由は、政府・自民党だけではなく、野党の面々が「沖縄が日本に『復帰』した後、日本の民衆とともに真の『復帰』を」、などといいつくろい、恫喝等を含め、横から後ろからといろいろな方法で潰しにかかったのです。
 それ以前の沖縄の政党、労働組合等の諸団体は、ヤマトの既成政党とは一線を画し独自性を持っていました。しかし日本「復帰」が近づくにつれ、経済界等を含めてですが、その多くが日本の組織へ系列化され、単なる一つの下部組織としての機能しかもてなくなっており、中央の決定には逆らえない状況が作られつつあったのです。これは、沖縄の主体のあたらかな(もったいない)喪失でもありました。そうした状況の中、沖縄の「全島ゼネスト」はズタズタにされてしまったのです。
 その結果、40年以上が経過した現在でも、沖縄の米軍基地を取り巻く状況は変わっていません。それどころか、那覇軍港、普天間基地等老朽化した基地を返す変わりに、新しい基地をよこせと盗人猛々しく言う米国に対し、日本政府は、沖縄の民意など無いかのように新しい基地を米国に提供しようとしています。それに対して、野党と称する部分もなすすべがないのが現状です。
 たら、ればの話しをしてもどうしようもないのですが、71年に、沖縄の全島ゼネストが日本の圧力に屈することなく行われていたならば、沖縄は大きく変わっていたことだろう。沖縄「返還」そのものが吹っ飛んでいたのかもしれません。少なくとも今のような沖縄にはなっていなかったと思います。

 みなさん! 何故、日本政府は沖縄に、沖縄人にこんなにもひどい事を平気でできると思いますか?
 これから、私なりに考えを話しててみたいと思います。
 今年3月22日、沖縄防衛施設局は「普天間飛行場の辺野古沖への移設に向けた公有水面埋め立て承認申請書」を県北部土木事務所に提出しました。アセスメントの補正書提出の時もそうでしたが、正規の提出先でないところに持ち込み、受領書も受け取らずに脱兎のごとく消えたといいます。これが、「主権回復、国際社会復帰を行った」という、日本という国のやることなのです。
 その10日前の3月12日には、この日本の長である安倍晋三首相が、突然4月28日を「主権回復の日」とし、式典を行うことを得意げに発表しました。
 敗戦を終戦といいつくろい、米国が作った憲法を変えるといきまきながらその実は、その米国に何の意見も言えず、言うがままの属国に成り下がっている日本が、「主権回復」とはへそでお茶を沸かすくらい可笑しい話しです。また、沖縄からの抗議に、安倍首相は「講和条約が沖縄の復帰につながった」と恥ずかしげもなく述べたと言います。その安倍自民党政府は、今、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を行っているようです。

 沖縄総体がオスプレイ配備に反対し、10万人余の結集で県民大会を行っても、沖縄の全ての41市町村が反対決議を上げ、その全ての首長及び、全議会議長が建白書を携えて直訴しても、沖縄の民意など一顧だにしない日本政府が、沖縄にとって米軍に売り渡された「屈辱の日」の4月28日に、「主権回復」の日として式典を行うことは、これまでの日本政府の沖縄への動向を考えればさほどの驚きではありません。
 この4・28とは、1952年4月28日に発効された「サンフランス講和条約」によって、日本が沖縄を米軍監獄の中に押し込んだまま、自らの独立を成し遂げたとする日です。そのとき、日本国・及び日本人は沖縄・沖縄人のことをどう考えていたのでしょうか? その後、27年間も!そして、現在までの61年間も!。
 日本にとって沖縄は、1879年に明治政府が軍隊をもって手にいれた植民地以外の何物でもないので、自らの「主権回復」のために沖縄を売り渡すぐらいどうってことなかったのでしょう。現在の日本政府も、「沖縄は日本であって日本ではない」程度の認識なのです。沖縄は道具であって、沖縄(人)の意識など一切眼中にないということなのです。そのことは、オスプレイ問題での、沖縄と山口県等への政府の対応と比較すれば明らかです。それゆえに、沖縄に米軍基地を押しつけ、欠陥機オスプレイを強行配備し、沖縄が怒りに震えているさなかに、4月28日を「主権回復」の日と称して式典を、と言えるのです。
 日本国家がそこまで沖縄を無視するのであれば、我々沖縄(人)が取るべき道はただ一つ。我々沖縄人は、沖縄人として「自己決定権」を行使する以外にないのです。子や孫に、「何故日本は沖縄をこんなにいじめるの?」と問われたら、沖縄人としてちゃんと答えなければなりません。沖縄人としての主体をしっかり持つことを伝えなければなりません。間違っても日本に対して「同じ日本人なのだから、差別しないでくれ」と懇願し続けるべき等と答えるべきではありません。
 我々は、今こそ沖縄の負の歴史からしっかり学ばなければならなりません。
 沖縄はこれまでの歴史がそうであったように、日本国の国益のための道具としてしか沖縄が認識されていないのであれば、それを断ち切るのは我々沖縄民衆の当然の権利ではないでしょうか。いくら日本政府にお願いしても、抗議しても彼らは一切聞く耳を持たないのだから。

 沖青同の話しに戻りますが、1971年当時、私たち沖青同は、「沖縄人民権力樹立」というスローガンは掲げていましたが、沖縄民族、沖縄独立との主張はしていませんでした。勿論、民族問題や独立についての討論は行われていましたが。しかし、当時の左翼思想に毒され、民族ナショナリズム=排外主義・ナンセンスの言葉が踊っているところ、我々は自己主張することはできませんでした。

 しかし、沖縄の現状はどうでしょうか、5~6年程前から若い人達中心に、沖縄の自己決定権行使をという主張が堂々と言われるようになっています。
 また、2000年に発刊された沖縄独立論争誌「うるまネシア」は、今年で13年目を迎え、その間15号を発行し続けており、執筆者は勿論、多くの読者から幅広い支持を受けています。
 さらに今日では、沖縄独立や沖縄・琉球民族について、あちこちの集会や新聞紙上に見る事ができるようになっています。復帰運動を中心に担っていた年配の方達から、「日本は戻るべき祖国ではなかった」。現役の若い市・町・村議員からも、「沖縄は独立しかない」との声が公然と上がっていることも事実です。25日行われた、琉球新報社・沖縄テレビ・ラジオ沖縄主催の、フォーラム4・28「沖縄から『主権』を問う」シンポジュゥームには620人が参加があり、そのシンポの5人のパネラーの1人は「琉球独立」提唱者として紹介され、「琉球独立」を主張し、参加者から大きな拍手を受けました。このように沖縄は大きく変わっているのです。これらは前述したように、現在の沖縄に対する日本政府のやり方を見ていれば当然の帰結であるといえます。
 そして現在、沖縄の独立を目指す「学会」も着々と準備されています。
 昨日は、その「琉球民族独立総合研究学会」準備委員会主催の国際シンポジウム「4・28を前に琉球の主権を回復を考える」が、沖縄国際大学で行われ、  人が集い真剣な討論が行われました。そして、5月15日には、多くの発起人でもって、学会の正式発足を行うことになっています。
 その学会の趣意書の一部を紹介します。

 本学会は、『沖縄の独立が可能か否か逡巡するのではなく、琉球の独立を前提とし、琉球独立に関する研究、討論を行う。独立を実現するためには何が必要か、世界の植民地における独立の過程、独立前後の経済政策、および政治・行政・国際関係の在り方、琉球民族に関する概念規定とアイデンティティー、琉球諸語の復興と言語権の回復、アート、教育、ジェンダー、福祉、環境、マイノリティー差別、格差問題、在琉植民者の問題等、琉球の独立に関する多角的および総合的な研究・討論を行い、それらを通して人材の育成を行う。』
 『歴史上はじめて創設された琉球独立に関する学会の活動によって、琉球民族が植民地という「苦世(にがゆー)」から脱し、独自の民族として平和。自由・平等に生きることができる「甘世(あまゆー)」を一日も早く実現させるために本学会を設立し、琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼びかける。』

 以上見てきたように、沖縄では、沖縄の解放=自立・独立を日本・日本人に依拠するのではなく、沖縄人自身が主体となって実現する。その準備が年齢層を超え、大胆に進み始めているのです。勿論沖縄には、「沖縄独立」について慎重な人はまだまだ大勢います。沖縄独立を主張する人はまだ圧倒的少数派であることは否定できない事実ですが、これまで見てきたように、日本政府の沖縄に対する「植民地的政策」のゴリ押しを体現する中で、多くの沖縄人が自らのアイデンティティーに目覚めつつあるのも事実です。その動きは、もう誰にも止めることは出来ないと思います。

 「復帰運動」当時流行った言葉に、日本「本土」の闘う人々とともに連帯し、沖縄の未来を切り開くと言うのがありました。しかし、今日の沖縄の運動体はその多くが日本に系列化され、沖縄独自の闘いが押し込められ、後退を余儀なくされているというのが現実です。そのことを見れば、日本の組織に、そして意識あると自負する日本人たちにも大きな期待を持つことは出来ません。
 我々、沖縄人は、今こそ勇気を持って、「復帰運動」をしっかり総括すべきです。そうすれば、おのずと沖縄の未来が明確になるはずです。
 繰り返しになりますが、我々沖縄人は日本に・日本人に依拠するのではなく、自らの主体を形成し、自らの信じる道を未来に向けて歩むしかありません。

 日本の民衆と真の連帯があるとすれば、沖縄の自立・独立があって初めて実現するのだと思います。

 限られた時間で主張できなかった事や、言葉足らずの表現も多々あったと思いますが、最後まで聞いていただきタンディガータンディ、ありがとうございました。

 2001年「沖縄の自立解放に連帯する」と大見得を切ってサイトを立ち上げてから、一時の中断を挟んで、もはや10年余の月日が経つ。今年元旦の琉球新報は「自治・自立・独立についての県民論議が、より深まることを期待したい。」とまで言い切っている。そして、この10年、インターネット上での「沖縄の自立解放」に関するサイト・ブログの拡大・充実は目を瞠るものがある。かつては、この問題を正面から採り上げるサイトは手前味噌になるが「風游サイト」以外、余り無かったことから比すれば、感無量である。さらに、「自立解放」を掲げるに当たって、「今後、沖縄から分離・独立の声が高まることは必至だろう。その時、少なからずの日本人が、それに対して悪罵を投げかけるのも火を見るより明らかだ。とすれば、『沖縄の自決権支持!』は日本人プロレタリアート人民にとって、欠かすことが出来ないスローガンである」と熱弁を奮ったことを、つい昨日のように思い出す。まさか、今年1月の「オール沖縄行動」へ投げつけられたヘイトスピーチまでも登場するとは思わなかったが。1972年段階での、沖縄における「右翼」の跳梁跋扈(日思会=日本民族思想普及会?などが思い出される)からは、今は幸福の科学が尖兵か?。

【2013.03.13】 『沖縄 本土復帰の幻想』(三一書房1968年11月25日)を読む

 もはや本書は「稀覯本」となっており、沖縄ならいざ知らず、図書館でも仲々置いていない。かく言う風游子も那覇市立図書館で再読し得た。「あとがき」で“復帰解放運動”という言葉に眼が釘付けになった。ほぼ同時代的に読んだと思うのだが、ほとんど気にしなかった言葉だ。「復帰運動」をめぐる言説が、その主体とともに改めて浮かび上がってきた。「普天間・大山ゲート」で早朝6時から「No Osprey!No Marines!」の闘いを連日繰り広げている「さらばんじ(「今が盛り」の謂い)ぬ会」こそ、官公労関係での「退職者の会」とともに、まさに復帰運動を担った世代(日本では「全共闘世代」と重なっているが)でもある。平和運動センターの山城博治は、復帰運動時、高校生だったと聞く。
 復帰運動の陥穽、それは反復帰論(本書・討論での川満信一ら)が鋭く突き出した思想的論点にとどまらず、運動-組織的総括をも要求している。それにしても、いまぞろ「平和と民主主義」的価値を振りかざす世代が登場とするとは思いも寄らなかった。いれいたかしの遺稿集『ちゃあすが くぬ沖縄[うちなー]』(Mugen2010)でも紹介するか(笑)
カオスの貌・川満信一「戦後・沖縄思想の鋭鋒――いれい・たかし追悼」(2009年2月7日)

 復帰-併合40年も、もう過ぎてしまった。

 あろうことか!3月7日、安倍首相が「4月28日」のサンフランシスコ条約発効の日を「主権を回復した日」として祝う政府式典を挙行する意向を国会で表明、沖縄タイムスは翌日<「屈辱の日」認識欠く「主権回復の日」>との見出しで「日本は1952年4月28日の講和条約発効により米国の占領統治から独立したが、沖縄や奄美諸島にとっては、米国施政下に置かれ本土と切り離された『屈辱の日』でもある。米施政から日本への復帰後も沖縄に過重な基地負担を強いる源流ともいえ、式典を企画する政府与党の認識を欠いた姿勢に県内から強い反発を招くのは必至だ」と報道。まさに、日本が主権を回復した日は、沖縄が米軍政支配下での無制限の無権利状態に突き落とされ、主権も人権も奪われた日である。
 沖縄にとって「4・28」とは、琉球処分から皇民化政策の重圧、そしてその延長線上にもたらされた、あの「醜さの極致」と呼ばれた沖縄戦を経て、なおかつ、戦後の平和を味わうことなく軍事支配が永遠に続くと思わされた日ではないか。日本・日本人にとって、自らの「独立=主権回復」のために沖縄を売り渡した日として刻印されねばならないのにもかかわらず、なんということだ。沖縄だけではない、戦争責任も戦後責任も取ろうとはせず、朝鮮戦争の軍需景気を奇貨として、戦後復興-高度成長へと突き進んだことさえ口を拭って来た。「領土問題」も、そうした「日本問題」の一つなのである。
 日本国家にとって「固有の領土」とは自らが恣に出来る「領地」を指しているのではないか。すでに琉球処分=併合前後から宮古・八重山諸島を清国領へとして分割せんとしていた。まさにそうであるが故に、かの有名な「天皇メッセージ」(長期にわたるアメリカ沖縄占領継続の要望!)も天皇及び日本国家にとって全く当然のことだった。逆に米軍は沖縄支配・統治を「日-沖異質論」によって裏打ちさえしていた。そして日本は、と言えば、サンフランシスコ条約締結によって、沖縄をアメリカに売り渡すことと引き替えに「潜在主権」なる「沖縄領有(権)」すら手に入れたとも言える。


【2013.02.23】 まくた ただし 覚醒のファンタジー「さんぴん茶」(『詩とファンタジー』№20秋雅号2012年12月1日発行) を自炊((苦笑)

 那覇・むつみ橋交差点近くの『レキオス』(こんな便利なところに料理も酒も旨い、料金もリーズナブルなお店があるとは!)の河合民子さんからご教示を受けた『詩とファンタジー』です。真久田正さんの「遺稿」とも言える童話です。あれほどみんなに親しまれ、頼りにされた人も少ない。


【2013.02.14】 「建白書」2013年1月28日、「東京行動を読み解く」(宮里政玄、比屋根照夫)を読む

 去る1月27-28日、全41市町村長と議会議長が一人も欠けることなく、県議ら含め140人余が日本(人)と日本政府への抗議行動を展開した。恩着せがましく「負担軽減に取り組みます」とだけ言うために四分間の面会をしたという安倍総理。さらに無惨なのは、パレードに対して在特会・右翼の聴くも耐えがたい口汚い罵声が「首都東京」にこだましたことである。

 沖縄タイムス社説20130128は“[要請団東京集会]今度は政府が試される”と題して、その末尾に“東京行動の成果が直ちに表れるとは要請団も思っていない。そのことを熟知しながら愚直に行動に打って出たのだ。自分たちの後ろに、多数の県民が控えていることを感じながら。そこにこそ沖縄の強みがあるというべきだろう。/沖縄の行動を政府がどう受け止めるかは、今後の基地政策全般に重大な影響を与えることになる。尊厳がおとしめられた時、人はどのような苦難にも立ち向かうものだ。/金をばらまいて懐柔するというような従来型の基地政策はもはや通用しない。”ときっぱりと書ききる。
 1972年併合に際して日本政府に提出した「復帰措置に関する建議書(当時の琉球政府主席の名を冠して『屋良建議書』と呼ばれた)」に擬した「建白書」を携えての要請であった。多くの問題を抱えつつも、今なお、参照されることもある40年前の「建議書」は、それこそ一顧だにされることなく打ち棄てられた。

 建白書と同時に琉球新報が20130125-26両日、「識者評論 東京行動を読み解く」として掲載した宮里政玄、比屋根照夫の論考をアップ。



建  白  書
2013年1月28日
内閣総理大臣 安 倍 晋 三 殿

 我々は、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
 にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月も経たない10月1日、オスプレイを強行配備した。
 沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。
 沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。
 とくに米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
 このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
 沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2ヶ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
 その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。
 オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
 この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。
 安倍晋三内閣総理大臣殿。
 沖縄の実情を今一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。
 以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。

 1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
 2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。


識者評論 東京行動を読み解く 上
宮里政玄氏(沖縄対外問題研究会顧問)
沖縄の犠牲 筋通らない

 これまでも沖縄が基地に関する問題を提起して反対してきたが、日本政府は何も言わず、米国はそれを逆手に取って、沖縄が反対した以上のものを得てきた。例えば普天間飛行場の返還を約束した後で、名護市辺野古への移設が日米で合意された。沖縄側の問題提起は失敗し、取り入れられていない。少なくともそれがこれまでの実態だ。
 その理由は、どうしても(基地に)賛成する人が出て、沖縄が割れていたから。日米両政府は沖縄全体と交渉しようとせず、経済援助などで沖縄を切り崩し、割れさせる方向に働き掛けた。これは非常にずるいやり方で、現在でもその手法が取られている。東京での要請行動に向けては、沖縄のパワーが分断されないようにすることがまず大事だ。そして、ほかに広げていく必要がある。本土の人々に沖縄の状況をはっきり伝えないと、これまでと同じような状況のなりかねない。
 普天間飛行場の県内移設反対にこれほど広く支持が得られたのは今までにないことだ。本土の人の中には沖縄は経済的援助が欲しいから基地反対を要求していると言う人もいる。それを打ち消す団結が今度はあるのではないか。戦後の沖縄政治を見ても、これほど反対運動が広がったことはない。「自分の裏庭に持ってくるな」「沖縄に持って行け」という従来の本土の考え方を打ち消し、基地の過重負担の実態を伝える必要がある。
 米国では、沖縄はやはり大変だという考え方の理解が高まっている。むしろ日本政府が沖縄に米国の基地が必要だと見るかもしれない。日本政府を動かすにはやはり、沖縄の中で反対を主張しても届かない。本土に行って運動して、問題を知らしめること意義は非常に重要だ。
 日本政府が一部の土建業者と接触するなど、再度沖縄を割ろうとしているが、これまでように全体を左右するほど辺野古移設への賛成者はいない。今回の行動は新しい局面で、一つの転機だと言える。
 日本政府としても沖縄を差別し、基地を押し付けて犠牲にしていることを外国に知られる事は外交上良くない。特に米国から見れば、沖縄を少数民族として犠牲にし、74%の基地を置いているのはどう見ても筋が通らない。本土の世論を変えることと同時に、特に米国にアピールすることも大きな意味がある。
(談、国際政治学/まとめ・池田哲平/琉球新報20130125)



識者評論 東京行動を読み解く 下
比屋根照夫氏(琉球大学名誉教授)
「一揆的」に不条理問う

 今回のオスプレイ配備撤回を求める東京要請行動団は、これまでにない混成的な抗議集団となっている。県議会・各自治体の首長・議員団・各種女性団体や市民団体・教職員や労組などを網羅した横断的な集団であり、今の沖縄の状況が反映されている。
 復帰前にもさまざまな東京要請の抗議行動が展開されていた。しかし、今回の行動は日米同盟の下、全く変わらない沖縄の過重負担の不条理を問い掛ける「一揆的」行動の様相を帯びているかにみえる。今の「オール沖縄」は既成の政党や政治団体などの党利党略を超えて、オスプレイ配備や軍事強化がもたらす命への危機の一点で集結した混成的な沖縄独特の市民的集団とみなしうる。その特徴は、非暴力的であり、反戦平和主義であり、沖縄土着主義である。それらが融合し合っているところにこの思想の強固な基盤がある。
 そこに根差した行動こそオスプレイに反対し、普天間飛行場ゲートを封鎖した市民的抵抗の姿だ。それはあたかも米軍統治時代の伊江島や伊佐浜の軍用地強制接収への抵抗運動を生々しく想起させる。
 そうした復帰前の民衆闘争の遺産を強く示したのがオスプレイ配備に反対し、市民らが普天間飛行場の4ゲートを封鎖した事実である。
 とりわけ目を引いたのは復帰を推進した復帰前の世代の参加である。そこには復帰後の変わらない基地の現状を招いたことへの世代的な責任と、自己検証を通していま立ち上がらなければならないという痛切な思いが見てとれた。
 今の沖縄の状況はいつ戦争になるのかという不安がある。
 沖縄の現状は今なお変わらず日米同盟の下、人権侵害や米軍犯罪の頻発にあえいでいる。そうした中で、先の10万余の沖縄の人々の反対にかかわらずオスプレイが配備され、各階層の重層的な体験からくる思いが一気に噴出している。
 このような状況について、「沖縄差別」という言葉が突いて出るのは、基地負担の過重性と不平等性にある。日米安保を容認し日米同盟を推進すると言うのであれば応分の責任を全国で分担せよ、との主張である。同時に加害者である日本政府に対して「沖縄差別」を撤廃せよ、との痛烈な批判を込めているのだ。
 沖縄の運動は永続的な非暴力運動である。今回、抗議団が上京して、仮に安倍首相が面談を拒否するなら、それでもいい。民主主義の精神や大義、正義は沖縄のわれわれにある。
 今回の東京要請団は復帰40年の歴史が培った民主主義の直接性を政府に問い、その正当性を訴える行動である。
(近代日本政治思想史/談、聞き手 内間健友/琉球新報20130126)



【2013.02.04】 琉球新報『ひずみの構造――基地と沖縄経済』(琉球新報社20120811)を読む

 本書は2011年1月1日から8月24日までに「琉球新報」に連載された同記事の単行本化である。「はじめに」で“長年、県内外で言い古された「沖縄は基地がないと食っていけない」という誤解を解くという狙いから、琉球新報は……連載をスタートした”と書き始め、「おわりに」で“仲井真知事は、基地跡地は「沖縄全体の発展につながる空間資源」と指摘した上で、県が初めて策定した長期構想「沖縄21世紀ビジョン」の柱に「基地の負担軽減を挙げている」と述べ、基地返還が望ましいとの考えを強調した。/経済界出身・保守系の仲井真知事が米軍基地の返還と跡地利用を積極的に求めるほど、沖縄経済の「基地依存度」は低くなっていることを物語るものだ。沖縄の本土復帰から40年。隔世の感がある”と締める。
 しかし、本書を読めば読むほど、「沖縄」の未来の困難さに暗澹とさせられた。もちろん、これは過疎化・シャッター街化を象徴とする「地方の疲弊」と二重写しにして見れば見るほどその感は深い。
 各自治体から地域社会・各家庭にまで入り込んだ「軍用地料」。1972年の併合後、沖縄を苦しめ続ける「失業」を生み出した軍雇用問題。脱依存経済が物語るハコ物・土建経済、そして自治体財政。決してバラ色ではない「跡地利用」。「絶対にまねをしてはいけない都市計画」とも揶揄された「新都心」も経済効果からすれば「大成功」なのだろう。しかし、しかし、である。

 かつて「基地撤去はマイナス」論争なるものが、沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロックの機関紙紙上で行われた(『一坪反戦通信』№138/02.07.28から№152/04.1.15)。そこで丸山和夫は「基地はいや、でも金は欲しい。それはしかたがないことだ。基地撤去は経済的にも『ペイする』ことを示さなければ、人々の総意に基づく基地撤去は不可能だ」との批判に対し、来間泰男は「私は今後とも『基地の撤去は経済的にはマイナスだが、それでも基地を撤去させよう。基地の存否問題を経済の問題にするな。平和と人権と自由と人間の尊厳の問題としてのみ考えよう』と言い続ける。丸山氏は『基地の撤去は経済的にプラスだ。だから基地を撤去させよう』と言い続けたらいい。いずれも基地の撤去を目指すという共通点があるのだから、敵対することはない。それぞれでやっていこう。どちらが世論を獲得するかは、そのうち分かるだろう。」と矛を収めた。

 やはり、この10年は大きい。今、例えば、かの翁長雄志那覇市長の朝日新聞のインタビュー(2012.11.24)での「振興策を利益誘導というなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。」という発言は、記者の「利益誘導こそが沖縄の保守の役割なのではないか」という挑発的質問に答えたものではあれ、沖縄政界を牽引してきた翁長の発言として特段の注目を浴びている。しかし他方、執拗に辺野古新基地建設を策動する日本政府は、タイムス社説(2013年1月26日)が指摘するように新たな買収策として「那覇空港新滑走路建設」を大々的に持ち上げているし、防衛相に至っては辺野古現地の新基地容認派と密談まがいの工作さえ行っていた。
 今や、基地経済とは、振興策がらみの公共投資をも内包している。もちろん、ここでは地方交付税交付金から基地交付金に至る「地方財政」問題についても慎重な検討が必要なのは言うまでもないが……
 宮城康博はツイッター(@nagonagu 20130128)で次のようなつぶやきを発していた。“沖縄県内の基地が所在する市町村の全首長は、財産収入である軍用地料を供託し予算が組めるよう準備。全議員は住民合意を得るべく奔走。沖縄県は市町村間の財政状況の調整を担い、失業対策を大胆に施策しハードランディングに備える。沖縄の公有地は一坪たりとも基地に貸さない「全基地閉鎖」だ”と。


琉球新報『ひずみの構造――基地と沖縄経済』(琉球新報社20120811)目次
 はじめに
 第1部 依存神和=〝安全〟な金融商品に/「事業仕分け」の標的に/「返還後」に増す期待/変わる生産の場/海外移住した苦闘/返還見据えた活動も/商業施設拡充で減少/軍人の割合が大幅減/円高影響、経営厳しく/手当上昇で活況に/軍方針が需要左右/地域崩壊に危機感/ボンド制が障壁に/一括発注で下請けに/本土と異なる成り立ち/国内からの購入低く/パート増加、雇用不安も/返還懸念し応募激減/再就職阻む業務細分化/正規への転職厳しく/復帰機に労働状況激変/返還論議に雇用対策なく/交通網、いびつな構造に/ドーナツ状に人口密集/高い地価、米軍基地が拍車/円高で営業悪化の一途/跡地の経済波及効果
 第2部 脱・依存財政=/大浦パーク、運営費めぐり開業危機/自主運営で地域一体/文科省補助で体育館/移設と振興策〝リンク〟/予算折衝で国とパイプ/振興事業で市債増加/巨額投下も乏しい効果/「北振」で箱物を整備/身の丈の財政目指す/東村施設、増産が課題/公園の効果、検証課題/税収増、取り組み弱く/産業振興は未達成/区の予算、大半占める/手厚い区民サービス/被害と経済のジレンマ/経済活性化進まず/〝騒音苦〟で国有地増/「後続」白紙、波及見えず/基地被害に見合わぬ額/「配分ルール明確化を」/西海岸に活路求める/開発と返還にジレンマ/ごみ処理、町民が負担/基地の〝アメ〟地域翻弄/補償要求、足並み乱れ/県税6・8億円減収/米中枢テロで大打撃
 第3部 跡地を歩く=移設と引き換え、最後の島田懇事業に/ホテル誘致が成否の鍵/新沖振法に期待と不安/長引いた所有権問題/利用前に給付金終了/〝細切れ返還〟計画立たず/官主導で商業中心地に/環境汚染で開発遅れ/商業施設進出に反対も/開発は広域調整が鍵/汚染、合意形成で難航/軍転法、不備浮き彫り
 おわりに


【2013.01.20】 真久田正「沖縄の民族問題と独立論の地平」を読む
 真久田正さんが亡くなりました。知る人ぞ知る沖縄青年同盟・国会爆竹闘争の三戦士の一人であり、ウチナーグチ裁判の「被告・八重山」でした。2002年10月、横浜の<沖縄の自立解放闘争に連帯し,反安保を闘う連続講座>の『沖縄「復帰」30年を問う』の第二回公開講座に「沖縄の民族問題と独立論の地平―「沖青同の総括」を参考として―」と題して講演を行っています。但し、沖縄講座は新サイト移行してしまい読めなくなってしまいましたので、改めて再録しました。
 「沖青同独立派」とでも呼べばいいのだろうか、反復帰論が思想資源とすれば、紛れもなく「政治資源」であった。清水谷公園に翻る「海邦」の旗が懐い出される。合掌

※沖縄タイムス2013年1月18日 09時44分[訃報]真久田正氏 2001年に新沖文賞
 真久田正氏(まくた・ただし=詩人・作家、沖縄文化の杜取締役) 17日午前5時ごろ、心不全のため那覇市首里末吉町3の50の1の自宅で死去、63歳。告別式は19日午後4時から5時、那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣で。喪主は妻由美子(ゆみこ)さん。海を題材にした作品が多く、2001年に「〓(〓1)(ざん)」で第27回新沖縄文学賞、04年沖縄タイムス芸術選奨奨励賞(詩)を受賞。詩集に「真帆船のうむい」。
※(注=〓はへんが「魚」でつくりが「需」)※(注=〓1はへんが「魚」でつくりが「艮」)



【2013.01.01】 新たな年に!沖縄の自立解放と日帝国家の解体を!
 2012.12.13のEmigrantに、“或る意味では天下大乱の兆しとでもいえる情況に、おちおち書き込んでいる閑がなかったとも言える。もちろん総選挙なんぞを指しているのではない。原発から沖縄、そして東アジア大の隘路である。我々は何をしているのか、何処にいるのか。9.30の普天間ゲートの攻防は決定的であった”と書き込んだ。さらに、高江・ヘリ(オスプレイ)パッド建設阻止闘争における12.19「ゲリラ戦」の勝利から12.23大行動の貫徹である。
 火事場泥棒のような「追加評価書」の搬入や、まだ首班指名も受けていない安倍の「辺野古移設」発言。9.9県民大会実行委員会において、沖縄保守政界のエースともいえる翁長雄志代表(現那覇市長)は「革新といっしょにやるのはどうも」という声を退け、1月行動を決定した。

 1995年、行政主導の弱さが大田敗退を生み、一時の「チルダイ」現象を惹起したが、今度は、安保維持-併合派たちが、「民主々義」を楯に、「基地の本土移設」論を声高に挙げて、「負担軽減-応分負担」を日本政府に要求するという構図が現出した。いずれにせよ、基地容認・振興策資金受容を越えた言説の登場である。いわば、かつての「沖縄イニシアティブ」の論者たちが「サイレント・マジョリティ」(比嘉良彦)を読み違えた轍を踏まない、翁長を始めとする沖縄保守層の新たな動きである。

 12.23闘争はサウンドデモも3000人余の結集は2012年を締めくくるにふさわしい闘いであり、勝利であった。全国からも、この年の瀬に数百単位で駆けつけた。しかし、何よりも「平和行進」などを別にすれば、画期的な普天間デモであった。あと二千人が加われば、普天間封鎖は難しくなかったし、平和運動センターを中心にした闘いの翼へ「日共」系を巻き込んだ(肝腎に時に逃亡を決め込む習性に充ちた集団だが)ことも特筆すべきであろう。

 この間の目取真俊は「もはや移設ではなく撤去運動を進めるべき」と言い切り、最終的に排除されたとは言え、普天間基地ゲートの実力封鎖を突き出し“県民大会の決議をもって東京に行き、政府に要請して終わる、というこれまでのパターンをくり返してはならない”と強調する。文字通り2013年は「普天間封鎖」が指呼の間である。

 経産省テント広場は、「9条改憲阻止」に立ち上がった60年安保世代を中心に二度目の年越しを貫徹しているが。普天間包囲は復帰運動世代の立ち上がりを多くの論者が称揚している。しかし、“復帰を経験した人たちが、基地の固定化によりオスプレイの強行配備を招いてしまった、という贖罪感を抱き、「復帰責任」を果たそうとする意思の「萌芽」を感じ、それに感動を覚えた”(比屋根照夫・琉球新報2012.10.9)とは何を指し示しているのだろうか。「再版復帰運動」について、もう少し論議を深めるべきかも知れない。
 Emigrant 2012.12.13で“復帰運動に対する救抜は、「日の丸復帰」から「反戦復帰」への転換を強調する傾向(これは未だ存在しているが)ではなく、復帰運動が随伴した民主々義的諸権利獲得運動としての側面を強調する傾向としても存在する”と触れたが、例えば島袋純の「『沖縄振興開発体制』への挑戦」(『世界』2012・7月号)は“沖縄にとっては、戦後憲法が復帰運動の最大求心力、最大の力の源であった。復帰運動が目指したものは「人権・自治・平和」であり、それを作っていくために沖縄自らが歴史創造の主体、政治的主体となることである”とはある意味「歴史の改竄」ではないか。島袋は正当にも“日米両政府にとって、沖縄返還の要諦は、「人権・自治・平和」を沖縄で実現するためには当然、ない。端的にいえば、アメリカ軍にとって在沖基地の自由使用及び安定維持を図るためのものである。その役割を在沖の米軍・政府から日本政府が替わって担うことになるという「統治主体の交代」、それが沖縄返還の本質的な目的であった”と書くが、これに復帰運動の側が「手を貸した」ことを捨象してはならない。そして、敢えて言えば、1972年以降、併合・同化・買弁の嵐が吹き荒れたことも付け加えておかなければなるまい。



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