2004年以前のEmigrant/2005年のEmigrant/2006年のEmigrant /2007年のEmigrant/2008年のEmigrant/2009年のEmigrant/2010年のEmigrant/2011年のEmigrant /2012年のEmigrant/2014年のEmigrant/2015年のEmigrant 【2013.12.31】刮目して読む、佐藤学「新たに引かれる分断線」(琉球新報2013.12.30「時評2013」) 一日遅れの「新報」を読む。「知事承認不支持61%/公約違反72%」との大見出しが沖縄の怒りを反映(OTVと共同での世論調査)。「140万県民を代表して……」とか「私は安倍総理の応援団……」とかもはや論評に値しない妄言を繰り返す県知事仲井真に対して、「社説」は年末回顧として「県民は屈しない/尊厳と覚悟問われた一年」と書き、「埋め立て承認」のコラムのタイトルは「『裏切り』の衝撃」である。もちろん自民支持層の58・4%が「県外移設転換」に「納得」し、名護市長選立候補の買弁派末松文信は「知事を支持する人が34%もいることは大きい。移設反対がオール沖縄ではないということの証明だ」とうそぶく。 来年1月(もう20日を切った)の名護市長選は、稲嶺進現市長の圧勝を勝ち取り、2014年を日本政府と買弁派へ痛打を浴びせることで、自立解放への確かな歩みを進めよう。ステージが更新されたのだ。 さて、佐藤学の「時評2013」だが、変化球・変則投法の「優」とは違い、胸のすく、直球勝負を見せてくれた。風游では可能な限りウチナーンチュの論考を紹介しようと心掛けているが、<知事は、なぜ、あそこまで卑屈に、日本政府に対して媚びへつらったのか。日本政府が抱く「国に異議を唱える沖縄」への強い嫌悪感を、知事が共有し、県民に対して、国に歯向かうことはできないと教え込む意図があっただろう。いわば、戦前の内務官僚としての知事の役割を果たし、国家にとって従順な沖縄を率先垂範して示したのだ。>と言い切る佐藤学に敬意を表し、紹介したいと思った次第。
夏以降、気力体力の減退は如何ともし難く、サイト更新もままならないまま、ぐだぐだと過ごしてしまった。 【2013.11.06】「『島ぐるみ闘争』はどう準備されたか――沖縄が目指す〈あま世〉への道」を読む まず、はしがき・目次・あとがきを読んだだけであることをお断りしたい。 本書は2008年に出版された「戦後初期沖縄解放運動資料集」(不二出版)が売り切れ、再版要望に応える形で、2013年10月に刊行されたDVD版の別冊として発行された。(本書について、風游子は大原から借り出して必要な箇所はコピーを取りながら読んだにすぎない) 惹句は<1950年代にわき起こった「島ぐるみ闘争」は、どのようにして生み出されたのか、そして今日の超党派による基地反対運動は、その歴史経験をどのように受け継いでいるのか。/人民党と非合法共産党の中心的メンバーだった故・国場幸太郎氏の足跡を中心に、運動を担った人々の姿を振り返り、その歴史的な意義を考える。>とある。編者は月並みな表現を使えば、「気鋭の若手研究者の二人」の森宣雄と鳥山淳である。 編者として主導した森宣雄は「地(つち)のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放」(現代企画室2010年7月)を、もう一人の編者たる鳥山淳は、本年(2013年)3月に『沖縄/基地社会の起源と相克:1945-1956』(勁草書房)を上梓している。 未読にもかかわらず一刻も早く(苦笑)紹介したいと思ったのは、本書全体の半分近くをしめる国場幸太郎自伝(第Ⅱ部 沖縄の人びとの歩み―戦世から占領下のくらしと抵抗)に惹かれことにも依る。 森は「島ぐるみ」と「オール沖縄」を重ねてどのように論じようとしているのであろうか。彼の前著が解き明かそうとしたように、「オール沖縄」はいざ知らず、神話化された「「島ぐるみ闘争」は断じて通説が語るように「米軍政の重圧に抗して自然発生的に生まれた」ことだけにスポットを当てるのは間違いであり、そこに国場幸太郎という希有な非合法共産党(沖縄の党)の存在についての究明は不可欠であろう。 先日、急逝した川音勉は、中村丈夫さんの「革命論の最後の言葉は組織論である」という警句を夙に参照していたが、それはとりもなおさず、「組織とはつまるところ人」であることをいみじくも照射しているように思える。そして、叛乱論の長崎浩さんと官邸-国会前を埋め尽くした反原発の民衆を思い浮かべながら、沖縄の民衆の闘いの未来を考えさせられている。とまれ、読み始めようう。例によって目次を。
【2013.10.20】新城郁夫「新川明氏への疑問」(『けーし風』80号・2013・10)を読む 『けーし風』第80号(2013年10月発行)で、新城郁夫が連載コラム「備忘録」④に「新川明氏への疑問」と題して、琉球民族独立総合研究学会と新川明に対して、(琉球民族の)排外主義的傾斜に対して、警鐘を乱打している。新城は“「祖国琉球国の主権を取り戻す」という言葉には、16‐19世紀東アジアの歴史的政治構造における「独立琉球国の国家主権」という設定自体に無理があると思える。”と控えめな疑問を呈し、“反植民地、反帝国主義の戦いが、「第一義的にはそれぞれのナショナリズムに根座している」と断言するのは困難であり、危険であると私は考える。”と指摘する。さらに踏み込めば、新城が“ナショナリズムが「起爆剤」となったことは事実である。”ということさえ、再審が迫られている。つまり、新川がはしなくも吐露したように“反植民地、反帝国主義の闘いの動力は、まずナショナリズムを起爆剤として始動する”というように、ここでは道具的にナショナリズムが使われる。一体、誰が「起爆剤として始動させるのか」。 やはり、ここでは中村丈夫や山崎カヲルの言説を参照しないわけにはいかないだろう。
【2013.10.11】 川田洋「国境・国家・大東亜革命●Kさんへの手紙・続」を読む かつて『情況』2008年7月号に、「国境・国家・改憲国民投票──Kさんへの手紙」を執筆した川田洋が同人誌(苦笑)『共産主義運動年誌』第14号(2013年10月1日発行)に、改めて、標記「Kさんへの手紙・続」をしたためた。 商業誌ではなく、かかる媒体に「Kさんへの手紙」の続きを掲載した川田洋の感懐とは?もちろんKさんとは、本年8月3日、享年60歳で急逝した川音勉である。 【2013.09.21】 「反復帰論」の行方? いささか刺激的ではあるが、沖縄タイムス2013年7月1日の「刊行30年沖縄大百科事典を語る」(立役者たる新川明、川満信一、上間常道の鼎談)を読んでいたら、記者の「独立論どう考える」という質問に突き当たった。こうした特集の話題にも採り上げられる。そう、やはり「反復帰」から「自立・独立」の流れはもはや押しとどめられなくなったとも言える。
【2013.09.06】〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ~5・18沖縄シンポジウム全記録 [解説(文責・沖縄講座/深沢一夫)]ここに掲載するのは、五月18日に那覇市内の沖縄県自治会館ホールで開催された沖縄シンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ~復帰40+1年 サンフランシスコ講和条約60+1年」の全記録である。録音を原稿に起こし、当日発言し切れなかった部分も含めて、各発言者に加筆・校正をお願いした。14時から17時半まで、10分程度の休憩を挟んで3時間半。会場を埋めた約120人の参加者は、シンポの議論に熱心に耳を傾けた。[中略] この5・18沖縄シンポジウムは、4・28東京シンポジウム「サンフランシスコ講和条約締結60+1年――オスプレイ普天間配備、「尖閣問題」を問い直す」の企画と連携しており、東京と沖縄でそれぞれ実行委員会を立ち上げ、相互討論もしながら準備された。冒頭に掲げた5・18沖縄シンポジウムの呼びかけ文に、シンポを企画するに至った問題意識が、余すところ無く表現されている。 今回のシンポの前史としては、2008年5月に沖縄県立美術館 ホールで開催されたシンポジウム「来るべき〈自己決定権〉のために~沖縄・憲法・アジア」がある(『情況』2008年五月号掲載)。復帰運動の高揚期に反復帰論を唱えた新川明さん、川満信一さん等をパネラーに、反復帰論の思想的資源をどう受け止めるのかが議論された。川満信一さんは『情況』同年7月号では「東アジア越境憲法」を提起した(註3)。あれから5年、「自己決定権」の言葉は、沖縄の地元紙の社説や論壇、投稿欄などどこでも目にするようになり、辺野古や高江、普天間の闘いの現場でも語られるようになった。そのことは沖縄の軍事植民地状況の深まりを示している。と同時に「東アジアの戦後史を凝縮している」(註4)沖縄における闘いが、戦後半世紀以上も続く軍事植民地状況を突き破る新たな地平を切り開きつつあることをも示している。そのことを象徴するのが、昨年9月末の普天間基地全ゲート実力封鎖行動である。もちろんその背景には、辺野古・高江の長期に亘る座込み実力抵抗闘争がある。 米中二大国の「複合覇権」(註5)が鬩ぎ合い、「尖閣問題」を口実に「領土ナショナリズム」が掻き立てられ〈国境〉が蠕動する中で、東アジアの冷戦秩序を揺るがす闘いを押し広げ、国民国家の領土主権を前提とした国境管理――ウェストファリア・システムを、生活者住民の自己決定権を基礎として組み換え〈平和と連帯の東アジア〉を構想する。そのための政治思想的課題を探ることが、改めて求められている。 (註3)川満信一は「済州島の海風」(『情況』2008年7月号初出。情況新書『沖縄発』所収)の中で次のように語っている。 「ここに提起する『東アジア幻想共同体』構想は、沖縄が弱者の論理によって、弱者だからこそ可能性が開けるという逆転の発想である。(中略)端的に言えば、大国間の軍事的力関係を逆用することだ。沖縄を軍事上のエアポケットにし、バランス地帯とすることである。(中略)軍事的エアポケットに最適なところは、東アジアでは陸のシルクロードに対応した、『黒潮ロード』に位置する済州島から奄美を含む琉球諸島、台湾などである。(中略)そのためには、いまの日本における憲法改正の動きにのって、『越境憲法案』を構想するのがベターだ。「越境憲法」は「黒潮ロード」の非武装地帯憲法である。」(『沖縄発』213‐214頁) (註4)中国社会科学院研究員の孫歌は、「沖縄に内在する東アジア現代史」(『アジアのなかで沖縄現代史を問い直す』沖縄大学地域研究所ブックレット所収 2010年11月発行)の中で、次のように指摘している。 「沖縄は、半世紀あまりの東アジアの戦後史を凝縮しており、この期間の歴史のあらゆる苛酷さ、そしてジレンマを取り集めたものである。つまり、沖縄人の反抗は沖縄の運命を決定してきただけでなく、東アジアの運命にも影響を与えてきたものである。」(56頁) (註5)「複合覇権」の概念は、4・28東京シンポのパネラーの一人、武藤一羊が「『アメリカの太平洋時代』とは何か」(『季刊ピープルズ・プラン』58号2012年7月6日号)で提唱している。 「ではいま展開している米中の覇権レベルの抗争はどのような性格のものか。私は、両者の対立と結託、競合と協力が撚り合わされた『複合覇権』とでもいうべき独特の体制が出現しつつあると考えている。」(5頁) 【2013.08.21】「沖縄への主権返還に関する要請決議」を読む 「けーし風」第79号(2013.7)で島袋純は、1962年2月1日の琉球政府立法院決議「施政権返還に関する要請決議」(いわゆる「2・1決議」)の趣旨を継承する「県議会決議」の新案(沖縄への主権返還に関する要請決議)を提案している。両者の異同については後段に触れるとして、彼がかかる「新決議案」を構想したのは、紛れもなく、<沖縄の「権利の章典」>を打ちださんがためである。それは、安倍・日本政府が強行した「4.28主権回復祝典」に対する、沖縄からの発信として書かれた“沖縄発「権利の章典」を/「償いの心」破棄した政府”(識者評論4・28沖縄からの問い■6・新報20130423)によっても明らかである。 島袋純は、そこで「日本政府が同じ民族として悲劇を共有することを拒否しつつ、それでも日本政府の配下に従属させておきたいというのならば、それは沖縄に対する植民地化の意思表示になる。つまり、沖縄の人々は日本の主権のもとに、日本本土の人々とまったく同じ取り扱いを受け、権利を等しく保障されるべき同じ民族ではなく、制限や抑圧があったとしても仕方がないという意味である」と断じる。もっとも、安倍及び安倍政権が「民族」なるものを理解しているとは到底思えないし、彼・彼らが支配していると観念される領土や国民は、彼らの恣意のままに利用しえると思っているというのが事の真実のようだ。それは「憲法改正」にせよ、「福島」にせよ、全く同じ文脈で透けて見える。 そして、それが「我が国」の「政治」なのだ。 さて、島袋は、それ故、問題は安倍及び日本政府の思惑ではなく、沖縄の人々の意志・志向だと強調する。 「沖縄の自民党が……植民地主義政党に生まれ変わる」、さらにその他の政党も「ここまで沖縄差別が露呈しても、それでもなお沖縄からの要求や世論が、日本の『民族』や『主権』の中に、沖縄を差別せず入れてくれという願いであれば……植民地的な政策は止むことがない」ことを止められない、という批判がそれである。 そして島袋は「第三の道」を指示する。それが沖縄への主権の奪還である。 かつて「無意識の植民地主義」ということが声高に叫ばれたが、安倍をして「無意識の」(もっとも、ほとんど無知に等しいが)と罵ることは可能だが、沖縄は「軍事属領=(国内)植民地」であり、百歩譲っても、島袋の指摘するように「植民地的な政策は止むことがない」状況は一顧だにされていないと言わざるを得まい。 佐藤優も屋良朝助も「独立は簡単だ」と説き、今また、琉球民族独立総合研究学会を立ち上げた友知政樹は「琉球の独立を前提とし……琉球の独立が可能か否かを逡巡することはもはや行わない」と宣言した。もちろんこれに対して、「過去投影的な沖縄ナショナリズムを動力とする構想の危険性」も指摘されてはいる(新城郁夫「タイムス」2013年7月11日の記事)。 こうした時、島袋純が提起する「沖縄の人々の総意として権利の章典を打ち出すことができれば、自らの未来を作っていく基盤になる」という方途が実践的現実的色彩を帯びるためには何が必要なのだろうか。 大杉莫は「沖縄の自立解放について――復帰・併合・買弁勢力に抗して」(『共産主義運動年誌』第三号2002年)で「運動は、展望とともに実際的な『獲得目標』が鮮明に打ち出されなければならないだけでなく、それへの手段・方法あるいは(運動・組織)形態が確立されなければ、運動そのものが成立しない。……主体の『強固な意志』は、『可能な目標』と『可能な方法』を要求するのである」と述べていた。この観点は、「〈研究ノート〉沖縄の自立解放について・その二」(同第五号2004年)で、島袋純の「沖縄の自治確立、1、短期・2、中期・3、長期展望について」に触れ、「『意志』を顕在化させる『政策(目標と方法)』」という一項を立て、さらに敷延された。 前置きが(不当に・苦笑)長くなったが、「沖縄への主権返還に関する要請決議」と「2・1決議」を対照してみよう。 「2・1決議」の「この間沖縄住民は日本復帰を訴え続け~」を、島袋純案では「この間沖縄の人々は、米軍基地の整理縮小と住民の権利の回復を訴え続け~」と書き改めて、「このようなアメリカ合衆国による沖縄統治」(2・1決議)に対して「このような日米両政府による沖縄統治」(島袋案)とし、「領土の不拡大及び民族自決の方向に反し、……日本の主権平等を無視し、統治の実態もまた国連憲章の統治に関する原則に反するものである」(2・1決議)とあるのを、「国際的に承認された人権や人民の自己決定権の方向に反し、国連憲章及び世界人権宣言、自由権規約、社会権規約の条件に該当せず、国連加盟国たる日本が主権国家として守るべき沖縄人々の基本的権利を著しく侵害している」とする。
【2013.8.10】 山城選挙とは何だったのか。 やはりスルーするわけにはいかない(苦笑)。とりあえず備忘録程度に記す。 社民が2議席を確保するためには最低でも79万票を上乗せする必要がある。これはほとんど不可能な数字である。 しかし、「山城当選」のためには(つまり社民党が一議席しか獲得し得なかったのであるから、又市票を一票でも上回るためには)、単純に43,515票を上積みすれば、比例社民党獲得1議席は山城博治のものとなっていた。これは決して不可能な数字ではなかった(沖縄で111,313票を集票)。3年前の参院選・選挙区選挙で山城は21万票余を獲得している(少なくとも「山城博治」と21万人余の人々に書かせている)のだ。 社民党全国比例票が半数以下に落ち込んだにもかかわらず、沖縄では15.1%(約1.9万票)減に留まっている(ちなみに2012総選挙における社民党の沖縄での獲得票を見てみれば、選挙制度が違うとは言え、前年2012年12月の衆院選時より今回の参院選では約2.8万票増加しているのである)。しかし、社民党名票(「山城博治」と書かずに!)が前回の2万票余から3万8千票近くに!(又市票が117票から752票へと7倍近く増大)。さらに、前回山内徳信票の68パーセント(沖縄地区)しか山城博治票とはならなかった(全国では77%)。 前年の衆院選での照屋寛徳(社民党・沖縄2区当選)票(73,498)と対比すれば、これまた照屋票の30%しか沖縄2区では山城博治票とはならなかった。 大票田・那覇市での市議選・社民候補との連動は辛うじて果たせた(市議総得票9,955票・山城票9,789票)が、那覇市地区での集票を見れば、社民総得票(社民党名投票8,425票を含む18,776票)の52%しか山城は集票できなかった。3年前の選挙区選挙での那覇市地区での山城博治票は46,598票もあったのだ。 ①沖縄での党名=社民党票の80%が候補者=山城票となっていれば約3万票の上積みが可能だった。 ②さらに山内票の90%を候補者=山城票へ連動させることが出来れば約1.8万票が上積みできた(照屋票で見ればあと3%程度の上積みである)。 首都圏での山城票(11,423票)は、6年前の山内票の2倍を集票し得たが、それでも又市も10,247票を集票していた。 圧倒的知名度不足をどのように解消しえたか?山城の基礎票は?本部選対、社民党沖縄?自治労県本および平和運動センター傘下の諸団体は?糸数選対との連携は?日共(5万余の沖縄集票)? 【2013.8.3】 川音勉さんが亡くなりました。 4.28東京シンポから5.18那覇シンポは、東アジアを見据えた<日本-沖縄>の次なる一歩を踏み出した。まさかここまで愚かで恥ずかしい政権であろうとは思いも寄らなかったが、沖縄の自立解放闘争に連帯し、日帝打倒・国家解体に向けた痛打のための橋頭堡を固める必要が、急である。 この東京-那覇シンポに先立つ2008年5月18日、「来るべき自己決定権のために」のマーカラワージーガ?那覇シンポで、「このシンポが後に、歴史の転換点を刻印するものになれば……」と開会の辞を述べた川音勉が8月3日、急逝した。彼は沖縄側のスタッフと共に今年のシンポに対しても病魔と闘いつつ、心血を注いでいた。そして、最後まで那覇行を希望していた。享年60歳。合掌。 ☆沖縄自立経済・再考(月刊『情況』2007年3-4月号所収) ☆沖縄の〈自己決定権〉に向き合う、日本の主権性創発のために(月刊『情況』2008年5月号所収) 【2013.7.7】 『沖縄自治州』を読む。 参院選総括はスルー(泣)。ということで『沖縄自治州』です。 2013年6月に発刊。2011年4月に“栄えある立法院の歴史を共有する県議会議員が立つ!/異民族支配の下で、自治の拡大を闘い獲ってきた立法院の歴史と誇りを共有する沖縄県議会の議員経験者”が結集し、“「特例型・沖縄単独州」実現に向け、覚悟と決断のとき!”と宣言した(本書資料16)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」による編集である。会長の外間盛善は沖縄政界の「保守勢力」を代表してきた人士であり、「結成までの歩み」を寄せた平良長政は沖縄社会大衆党の重鎮(元県議)でもあった。なお、本書では、自公に推され社大党を除名なっても沖縄県議会議長になりたかった喜納昌春が祝辞を述べている。 「3.論文」として、(1)「沖縄道州制懇話会」がめざすもの……仲地博/(2)沖縄の自治決定権の確立のために権利の章典を-スコットランドをモデルとして-……島袋純/(3)特例型沖縄単独州の経済論……宮城弘岩/(4)「済州特別自治道」の現在・展望及び考察……呉錫畢/(5)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成までの私的歩み……平良長政、が掲載され、「4.インタビュー」として、太田守明(元りゅうせき社長で沖縄経済同友会副代表幹事)、吉元政矩(大田県政時の副知事)が登場。そして「5.Q&A」として、この間の沖縄自治研の成果を盛り込む形で、濱里正史・藤中寛之が執筆。 しかし、それ以上に、本書を意味ある(意義ある)ものとしているのは、その資料編である。沖縄政治史上画期的とされる「1962・2・1立法院決議」から、2013年515日の「琉球民族独立総合研究学会」設立趣意書まで網羅されている。風游子も、本サイトを立ち上げてから、こうした資料を追っかけ、渉猟し、アップしてきたが、ここまでまとまって一覧されると感動さえ覚える。 とりあえず「6.資料編」のタイトルだけでも以下列記する。 (1)施政権返還に関する要請決議(1962年2月 立法院)<施政権返還に関する琉球立法院決議および日本政府見解> (2)沖縄の日本復帰に関する要請決議(1964年4月 立法院) (3)平 恒次 「琉球人」は訴える 中央公論1970年11月号 (4)久場政彦 なぜ「沖縄方式」か 中央公論1971年9月号 (5)復帰措置に関する建議書(一部) 1971年11月<全文> (6)比嘉幹郎 沖縄自治州構想論 中央公論1971年12月号<抄> (7)野口雄一郎 復帰一年 沖縄自治州のすすめ 中央公論1973年6月号<抄> (8)沖縄の自治に関する1つの視点 1981年<抄> (9)玉野井芳郎 生存と平和を根幹とする「沖縄自治憲章」(案) 1985年<全文> (10)琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱 1998年2月<全文> (11)沖縄自治研究会「憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法」(試案) 2005年11月<構想案> (12)沖縄県道州制等研究会中間報告 2005年11月 (13)沖縄経済同友会の道州制シンポジウム宣言文2005年12月 (14)国連先住民族権利宣言 2007年9月<全文> (15)沖縄の「特例型」道州制に関する提言 2009年9月<全文> (16)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成宣言文 2011年4月 (17)「特例型・沖縄単独州を実現する沖縄県議会議員経験者の会」結成総会紹介記事 2011年4月 (18)道州制基本法案(自民党) 2012年9月 (19)「琉球民族独立総合研究学会」設立趣意書 2013年5月<全文> さて、次は言論界(例えば5.18シンポに象徴される反復帰思想資源を今に引き継き、道州制-自治基本法を提唱した沖縄自治研に代表される流れと、新たに胎動し始めた独立学会など)と、運動圏との連携・連結へどのように突き進むのかであり、もう一つは、こうした動きを政治(言うところの制度圏)に押し広げることであろう。もっとも制度圏などと言っても、友知政樹ならば「日本の国政での山城惨敗などは関係ない」と突き放すだろうが……それにしても「朝日」の記事は酷かった。 【2013.07.10】平和市民連絡会の「安倍政権への抗議声明」を読む 遅ればせながら平和市民連絡会の「『慰霊の日』・沖縄全戦没者追悼式」を政治利用する安倍政権への抗議声明をアップします。参院選も早、終盤!山城博治を「国会の演壇」に押し出しうるか。正念場である。
【2013.07.01】「沖縄マーラン船の船型に関する調査研究」 久しぶりです。まーらん船ネタは。偶然見つけた東海大学紀要海洋学部「海―自然と文化」第7巻第1号(2009)に掲載された八木光・河邉寛「沖縄マーラン船の船型に関する調査研究」を紹介します。 惜しまれて急逝した真久田正の「夢」を思いだしました。<「県民の船」琉球帆船(進貢船)を造り、ニライの海へ乗りだそうと夢見て企画しているのは、海技士で作家の真久田正さんらヨット乗りや帆かきサバニにかかわる海人グループ。> 【2013.06.15】「亀裂の回廊 主権・国家を問う」を読む 沖縄タイムスが、2013年4月26日から5月20日にわたり、「重要な岐路にある。県民大会も建白書も無視され、政府の「主権回復の日」式典は意図的な切り捨ての意思表示とさえ受け取れる。なぜこのような断絶は生まれ、どの道に向かうべきなのか。国家・主権・憲法などの視座から問う。」とのリードを付し、全10回の「亀裂の回廊 主権・国家を問う」を連載。 これからの沖縄の言論シーンをリードするであろう親川さんの余りにもナイーブでステロタイプな言説が気にはなった。 第一回が川満信一、以下、我部政明、高作正博、金平茂紀、高良鉄美、親川志奈子、乗松聡子、新藤健一、鹿野政直、進藤榮一。 全文は「地元紙で識るオキナワ」 で読める。
【2013.06.12】「識者評論 4・28沖縄からの問い」 <4・28>を巡って、改めて沖縄と日本が問い直された。「祖国復帰運動」なるものをもはや誰も「賛美」し得ないばかりか、「祖国日本」が、おぞましいものとして、多くの沖縄の民衆の眼前に立ちはだかった。もちろん、とは言え、あの「復帰運動」の総括が十全になされているとは言い難く、仲里効が指摘する“アメリカ統治からの脱却を、日本を「祖国」と見なしそこに同一化することで果たそうとした復帰運動の幻想のカラクリである。思えば復帰運動は「血の同一性」や「平和憲法」や「反戦」や「真の」と冠を取り換えながら延命してきたが、その起点となったのがサンフランシスコ講和条約が発効した日を「屈辱の日」としたことにある。とはいえ、「屈辱」によって立ち上げられた「民族意識」は、戦前の同化主義と密通していたことを忘れてはならないだろう。”(新報2013.04.17)は、今も、形を変えて引きずっている。それ故「独立学会」に集う若い世代は「なぜ、かくも復帰運動は全島を席巻し、1972年の5月15日を迎えたのか」「なぜ、日本は<祖国>だったのか」にまで踏み込んで琉球独立の展望を考究して貰いたいとも思う。さらに、そして1879年まで遡るのであれば、1840年のアヘン戦争から日清日露を経て1919年の五・四運動/三・一運動、そして現在までを射程に入れた東アジア大の日-沖関係を解き明かしていただきたい。 仲里効が「ヤレーヌーヤガー」とつぶやいたことを受けてか、島袋純は、沖縄自民党が「植民地主義政党に生まれ変わることにな」ろうが、「その他の政党」もまた「国民統合の論理に支えられており、その継続を政府に求めている」以上、「いずれにせよ植民地的な政策は止むことがない」と解き明かしつつ「しかし、第三の道がある」と言い切る。 琉球新報が2013年4月6日から連載を開始した「識者評論 4・28沖縄からの問い」をアップ。 連載に当たっての新報のリード「安倍政権は、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」として政府主権の式典を開催する。一方で、日本の独立から切り離され米軍統治が始まった沖縄にとってこの日は「屈辱の日」と呼ばれ、今に続く軍事支配の源流として捉えてきた。政権を奪還した政府自民党が、発効から61年を経た現在になって「主権回復」を揚げる思いは何なのか。沖縄から見える4・28の意味を、各識者の視点で読み解いてもらう。」
【2013.06.07】 「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」 もはや旧聞に属する。 東京で開かれた「4.28シンポ」と連動して、5月18日午後2時から、那覇・自治会館ホールで開催されたシンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」について、タイムス5月15日付け沖縄タイムスに掲載された丸川哲史さんの論考をアップ。ちなみに、パネラーとして丸川さん以外に、李鐘元さん(早稲田大学教員)、大田静男さん(八重山郷土史家)、仲里効さん(映像批評家)で、コーディネーターとして長元朝浩(タイムス論説委員長)、司会は平良識子さん(那覇市議)が勤めた。 昨年の9.9県民大会から10.1オスプレイの普天間強行配備をめぐる攻防、さらに年が明けての総理直訴行動へと2013年は激動の沖縄を予感させたが、それは沖縄代表団建白書に対する安倍政府の二つの回答(「4.28国家主権を回復した日」祝典開催と、辺野古新基地建設のための埋立申請)によって、日本-沖縄関係が歴史的にも現在的にも植民地(軍事属領)支配にあることが誰の目にも明らかになったことで加速されたとも言えよう。 この那覇シンポに先だつ5月15日には、「琉球民族独立総合研究学会」が設立された。それに対して友知政樹さんが「自己決定権への道/琉球独立学会設立に寄せて」という一文を新報5月13日寄せた。併せてアップした。余りにも無知にして無恥の安倍政権であるが、これがわが国の国家指導者である。しかし、沖縄への苛政に抗する沖縄の自立解放への道が今、徐々に切り拓かれつつある。 沖縄タイムス:5.18シンポ報告 〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐシンポ 復帰幻想問い直す必要も 18日に那覇市の自治会館で開かれたシンポジウム「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」では、早稲田大学の李鍾元教授、明治大学の丸川哲史教授、八重山郷土史家の大田静男さん、映像批評家の仲里効さんが、東アジア全体を見渡す中で、沖縄がどうあるべきかについて意見を述べた。 李さんは、米国のアジア政策において、日本が本格的な軍事化に抵抗しながら経済成長を達成していく一方、韓国や台湾では軍事国家になっていったと説明。「日本の強烈な反基地運動の成果として地上軍は撤退されたが、そのかわり韓国と沖縄の米軍は強化された」とした。 ナショナリズムの衝突を解決するためには「地域そのものを対立の地域から協調の地域に変えていかなくてはならない」と主張。「アジアで米国を中心とした軍事力に依存するような状況が創られたのに対し、欧州では米国の力を利用しながらもその枠の中に安住したのではなく、自らの利益のために、地域的な利害を確保する努力を成し遂げた」とした。 中国に対しても「単に脅威に備えるだけでなく脅威そのものをシステムの中に取り込むという発想に変化していくのが流れた」とし、近年日本で台頭する「国防」という考えを批判した。 丸川教授は、中国社会科学院の研究員らが発表した沖縄の領有権を問う論文の背景を説明。「国際条件体制が東アジアに入ってくる」前の朝貢体制は、沖縄でいうと日清両属が存在する空間だったが、それを暴力的に壊され、日本の完全な帰属にされてしまったという不満が中国にはある」と説明。「論文は国際条約の基準で読むと領土権を主張しているようだが、朝貢体制の認識と、現在の国際条約体制という二つの価値基準があり、あいまいに存在している。折り重なって表現されていることを考えなくてはならない」とした。 大田さんは、八重山地域で進む保守化について現状を報告。1968年の主席公選などで、日米両政府が西銘順治氏を当選させるために画策した結果、八重山の教職員会が分裂し、保守派の流れが八重山地域教科書問題や与那国への自衛隊配備に影響しているとした。「歴史をわい曲しようとする人たちが力をつけてきて、先島は大変な状態になっている」と批判した。 仲里さんは、68年の主席公選で革新共闘会議でという形で表出した「六八体制」が1995年以降、緩やかに崩壊し、新しい目と声と思想的実践が起こりつつあると分析。特にサンフランシスコ講和条約発効の日を「主権回復」として祝う4・28政府式典に対する動きの中で、沖縄の新しい実践のあり方がより具体的に見えてきた。とした。 「沖縄の歴史と民衆意識を考えるときには、(国家の併合、分離と再併合を繰り返す中で揺らいできた)『内的境界(国境)』を考えなくてはならない」と主張。「内的境界」の発動のあり方が沖縄の思想や実践のあり方を決定すると考える、とし、それが今回の4・28で露出したとした。 日本と沖縄の非対称な戦後が明らかになった一方で、根強い復帰幻想も残っていると指摘。吉本隆明氏が沖縄の「復帰」を国家が地域を併合していくあり方の問題として提示した「グラフト(接ぎ木)国家」という概念を挙げ、「『真の復帰』『真の主権』というロジックは、まさにグラフト国家の統合の論理に回収されていくと思う。いかにして内側から越えるかを考えたい」とした。(城間有) (タイムス2013年5月24日)
【2013.05.08】 「とぅばらーま」から「沖青同」 昨年9月末の普天間基地全ゲート封鎖から、今年の4・28まで、息もつかせぬ激動(!)。そして5・15である。風游サイトも、トップページの更新に追われ続け、Emigrantにまで手が回らなかった。もっとも、もう歳です、息せき切って走り続けるのはもう不可能になりました。そして泣き言も多くなりました。そこで山城博治応援(笑) 八重山の大田静男さんの「とぅばらーま」を拝聴する機会があった、それも二度も。同席した伊達政保さんが「この人は『幻の唄者』だ」とつぶやき、しみじみと目を伏せて聞き入っていた。 月並みな表現しか出来ない不敏な風游子であるが、朗々としたアカペラを聴きながら、かつて岡本太郎が三線抜きの唄だけが聴きたいと、石垣島を訪れた時、要求したことを思い出した。そして独力で「野とぅばらーま大会」を主宰したと言われている大田さんの心情に思いを馳せた。 【大田静男さんの紹介が「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」のサイトに掲げられている。】 「4.28」である。無恥と無智を重ね合わせたような安倍政権だが、「主権回復の日」とはよく言ったものだ。1952年4月28日以前は主権を持たなかった(今でも持っていないではないか、という半畳を入れるのはやめよう)、だからこそ「憲法」も「押し付けられた」のだ。心底、そう思っているのかはともかく、彼は「占領下」に「押し付けられた」憲法などは、多分まともに一度も読んだことはないのだろうし、9条はいざ知らず、99条なんぞ全く知らない。<憲法第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。> いずれにせよ、「4.28」が「屈辱の日」であるのは「切り捨てられた」ことではない。そもそも「切り捨てられた」という表現そのものが「復帰運動のフィクション」でさえあったのだ。沖縄を、沖縄の人々を一顧だにせず、己が為に、自分の持ち物のように他国へ売り渡すこと、そして、それに抗すべくもなく、軍事属領の島にされてしまったことが「屈辱」なのだ。 今、5.15と共に「屈辱」を打ち返し、自己決定権の行使へと確実に歩み出した。 4.28政府式典抗議の集会が昼夜を分かたず全国各地で開催されたが、式典と同時刻に開催された沖縄現地での「政府式典がってぃならん沖縄大会」と連帯する集会とデモが、日比谷で行われた。 そこで、1971年沖縄国会で、返還粉砕・国会爆竹闘争に決起した沖縄青年同盟の三戦士の一人・本村紀夫さんが基調報告とでも呼ぶべき特別提起を行った。 本村さんの報告と、併せて、1971年沖縄国会での「檄文」をアップ。
【2013.03.13】 『沖縄 本土復帰の幻想』(三一書房1968年11月25日)を読む もはや本書は「稀覯本」となっており、沖縄ならいざ知らず、図書館でも仲々置いていない。かく言う風游子も那覇市立図書館で再読し得た。「あとがき」で“復帰解放運動”という言葉に眼が釘付けになった。ほぼ同時代的に読んだと思うのだが、ほとんど気にしなかった言葉だ。「復帰運動」をめぐる言説が、その主体とともに改めて浮かび上がってきた。「普天間・大山ゲート」で早朝6時から「No Osprey!No Marines!」の闘いを連日繰り広げている「さらばんじ(「今が盛り」の謂い)ぬ会」こそ、官公労関係での「退職者の会」とともに、まさに復帰運動を担った世代(日本では「全共闘世代」と重なっているが)でもある。平和運動センターの山城博治は、復帰運動時、高校生だったと聞く。 復帰運動の陥穽、それは反復帰論(本書・討論での川満信一ら)が鋭く突き出した思想的論点にとどまらず、運動-組織的総括をも要求している。それにしても、いまぞろ「平和と民主主義」的価値を振りかざす世代が登場とするとは思いも寄らなかった。いれいたかしの遺稿集『ちゃあすが くぬ沖縄[うちなー]』(Mugen2010)でも紹介するか(笑) <カオスの貌・川満信一「戦後・沖縄思想の鋭鋒――いれい・たかし追悼」(2009年2月7日)> 復帰-併合40年も、もう過ぎてしまった。 あろうことか!3月7日、安倍首相が「4月28日」のサンフランシスコ条約発効の日を「主権を回復した日」として祝う政府式典を挙行する意向を国会で表明、沖縄タイムスは翌日<「屈辱の日」認識欠く「主権回復の日」>との見出しで「日本は1952年4月28日の講和条約発効により米国の占領統治から独立したが、沖縄や奄美諸島にとっては、米国施政下に置かれ本土と切り離された『屈辱の日』でもある。米施政から日本への復帰後も沖縄に過重な基地負担を強いる源流ともいえ、式典を企画する政府与党の認識を欠いた姿勢に県内から強い反発を招くのは必至だ」と報道。まさに、日本が主権を回復した日は、沖縄が米軍政支配下での無制限の無権利状態に突き落とされ、主権も人権も奪われた日である。 沖縄にとって「4・28」とは、琉球処分から皇民化政策の重圧、そしてその延長線上にもたらされた、あの「醜さの極致」と呼ばれた沖縄戦を経て、なおかつ、戦後の平和を味わうことなく軍事支配が永遠に続くと思わされた日ではないか。日本・日本人にとって、自らの「独立=主権回復」のために沖縄を売り渡した日として刻印されねばならないのにもかかわらず、なんということだ。沖縄だけではない、戦争責任も戦後責任も取ろうとはせず、朝鮮戦争の軍需景気を奇貨として、戦後復興-高度成長へと突き進んだことさえ口を拭って来た。「領土問題」も、そうした「日本問題」の一つなのである。 日本国家にとって「固有の領土」とは自らが恣に出来る「領地」を指しているのではないか。すでに琉球処分=併合前後から宮古・八重山諸島を清国領へとして分割せんとしていた。まさにそうであるが故に、かの有名な「天皇メッセージ」(長期にわたるアメリカ沖縄占領継続の要望!)も天皇及び日本国家にとって全く当然のことだった。逆に米軍は沖縄支配・統治を「日-沖異質論」によって裏打ちさえしていた。そして日本は、と言えば、サンフランシスコ条約締結によって、沖縄をアメリカに売り渡すことと引き替えに「潜在主権」なる「沖縄領有(権)」すら手に入れたとも言える。 【2013.02.23】 まくた ただし 覚醒のファンタジー「さんぴん茶」(『詩とファンタジー』№20秋雅号2012年12月1日発行) を自炊((苦笑) 那覇・むつみ橋交差点近くの『レキオス』(こんな便利なところに料理も酒も旨い、料金もリーズナブルなお店があるとは!)の河合民子さんからご教示を受けた『詩とファンタジー』です。真久田正さんの「遺稿」とも言える童話です。あれほどみんなに親しまれ、頼りにされた人も少ない。 【2013.02.14】 「建白書」2013年1月28日、「東京行動を読み解く」(宮里政玄、比屋根照夫)を読む 去る1月27-28日、全41市町村長と議会議長が一人も欠けることなく、県議ら含め140人余が日本(人)と日本政府への抗議行動を展開した。恩着せがましく「負担軽減に取り組みます」とだけ言うために四分間の面会をしたという安倍総理。さらに無惨なのは、パレードに対して在特会・右翼の聴くも耐えがたい口汚い罵声が「首都東京」にこだましたことである。 沖縄タイムス社説20130128は“[要請団東京集会]今度は政府が試される”と題して、その末尾に“東京行動の成果が直ちに表れるとは要請団も思っていない。そのことを熟知しながら愚直に行動に打って出たのだ。自分たちの後ろに、多数の県民が控えていることを感じながら。そこにこそ沖縄の強みがあるというべきだろう。/沖縄の行動を政府がどう受け止めるかは、今後の基地政策全般に重大な影響を与えることになる。尊厳がおとしめられた時、人はどのような苦難にも立ち向かうものだ。/金をばらまいて懐柔するというような従来型の基地政策はもはや通用しない。”ときっぱりと書ききる。 1972年併合に際して日本政府に提出した「復帰措置に関する建議書(当時の琉球政府主席の名を冠して『屋良建議書』と呼ばれた)」に擬した「建白書」を携えての要請であった。多くの問題を抱えつつも、今なお、参照されることもある40年前の「建議書」は、それこそ一顧だにされることなく打ち棄てられた。 建白書と同時に琉球新報が20130125-26両日、「識者評論 東京行動を読み解く」として掲載した宮里政玄、比屋根照夫の論考をアップ。
識者評論 東京行動を読み解く 上 宮里政玄氏(沖縄対外問題研究会顧問) 沖縄の犠牲 筋通らない これまでも沖縄が基地に関する問題を提起して反対してきたが、日本政府は何も言わず、米国はそれを逆手に取って、沖縄が反対した以上のものを得てきた。例えば普天間飛行場の返還を約束した後で、名護市辺野古への移設が日米で合意された。沖縄側の問題提起は失敗し、取り入れられていない。少なくともそれがこれまでの実態だ。 その理由は、どうしても(基地に)賛成する人が出て、沖縄が割れていたから。日米両政府は沖縄全体と交渉しようとせず、経済援助などで沖縄を切り崩し、割れさせる方向に働き掛けた。これは非常にずるいやり方で、現在でもその手法が取られている。東京での要請行動に向けては、沖縄のパワーが分断されないようにすることがまず大事だ。そして、ほかに広げていく必要がある。本土の人々に沖縄の状況をはっきり伝えないと、これまでと同じような状況のなりかねない。 普天間飛行場の県内移設反対にこれほど広く支持が得られたのは今までにないことだ。本土の人の中には沖縄は経済的援助が欲しいから基地反対を要求していると言う人もいる。それを打ち消す団結が今度はあるのではないか。戦後の沖縄政治を見ても、これほど反対運動が広がったことはない。「自分の裏庭に持ってくるな」「沖縄に持って行け」という従来の本土の考え方を打ち消し、基地の過重負担の実態を伝える必要がある。 米国では、沖縄はやはり大変だという考え方の理解が高まっている。むしろ日本政府が沖縄に米国の基地が必要だと見るかもしれない。日本政府を動かすにはやはり、沖縄の中で反対を主張しても届かない。本土に行って運動して、問題を知らしめること意義は非常に重要だ。 日本政府が一部の土建業者と接触するなど、再度沖縄を割ろうとしているが、これまでように全体を左右するほど辺野古移設への賛成者はいない。今回の行動は新しい局面で、一つの転機だと言える。 日本政府としても沖縄を差別し、基地を押し付けて犠牲にしていることを外国に知られる事は外交上良くない。特に米国から見れば、沖縄を少数民族として犠牲にし、74%の基地を置いているのはどう見ても筋が通らない。本土の世論を変えることと同時に、特に米国にアピールすることも大きな意味がある。 (談、国際政治学/まとめ・池田哲平/琉球新報20130125) 識者評論 東京行動を読み解く 下 比屋根照夫氏(琉球大学名誉教授) 「一揆的」に不条理問う 今回のオスプレイ配備撤回を求める東京要請行動団は、これまでにない混成的な抗議集団となっている。県議会・各自治体の首長・議員団・各種女性団体や市民団体・教職員や労組などを網羅した横断的な集団であり、今の沖縄の状況が反映されている。 復帰前にもさまざまな東京要請の抗議行動が展開されていた。しかし、今回の行動は日米同盟の下、全く変わらない沖縄の過重負担の不条理を問い掛ける「一揆的」行動の様相を帯びているかにみえる。今の「オール沖縄」は既成の政党や政治団体などの党利党略を超えて、オスプレイ配備や軍事強化がもたらす命への危機の一点で集結した混成的な沖縄独特の市民的集団とみなしうる。その特徴は、非暴力的であり、反戦平和主義であり、沖縄土着主義である。それらが融合し合っているところにこの思想の強固な基盤がある。 そこに根差した行動こそオスプレイに反対し、普天間飛行場ゲートを封鎖した市民的抵抗の姿だ。それはあたかも米軍統治時代の伊江島や伊佐浜の軍用地強制接収への抵抗運動を生々しく想起させる。 そうした復帰前の民衆闘争の遺産を強く示したのがオスプレイ配備に反対し、市民らが普天間飛行場の4ゲートを封鎖した事実である。 とりわけ目を引いたのは復帰を推進した復帰前の世代の参加である。そこには復帰後の変わらない基地の現状を招いたことへの世代的な責任と、自己検証を通していま立ち上がらなければならないという痛切な思いが見てとれた。 今の沖縄の状況はいつ戦争になるのかという不安がある。 沖縄の現状は今なお変わらず日米同盟の下、人権侵害や米軍犯罪の頻発にあえいでいる。そうした中で、先の10万余の沖縄の人々の反対にかかわらずオスプレイが配備され、各階層の重層的な体験からくる思いが一気に噴出している。 このような状況について、「沖縄差別」という言葉が突いて出るのは、基地負担の過重性と不平等性にある。日米安保を容認し日米同盟を推進すると言うのであれば応分の責任を全国で分担せよ、との主張である。同時に加害者である日本政府に対して「沖縄差別」を撤廃せよ、との痛烈な批判を込めているのだ。 沖縄の運動は永続的な非暴力運動である。今回、抗議団が上京して、仮に安倍首相が面談を拒否するなら、それでもいい。民主主義の精神や大義、正義は沖縄のわれわれにある。 今回の東京要請団は復帰40年の歴史が培った民主主義の直接性を政府に問い、その正当性を訴える行動である。 (近代日本政治思想史/談、聞き手 内間健友/琉球新報20130126) 【2013.02.04】 琉球新報『ひずみの構造――基地と沖縄経済』(琉球新報社20120811)を読む 本書は2011年1月1日から8月24日までに「琉球新報」に連載された同記事の単行本化である。「はじめに」で“長年、県内外で言い古された「沖縄は基地がないと食っていけない」という誤解を解くという狙いから、琉球新報は……連載をスタートした”と書き始め、「おわりに」で“仲井真知事は、基地跡地は「沖縄全体の発展につながる空間資源」と指摘した上で、県が初めて策定した長期構想「沖縄21世紀ビジョン」の柱に「基地の負担軽減を挙げている」と述べ、基地返還が望ましいとの考えを強調した。/経済界出身・保守系の仲井真知事が米軍基地の返還と跡地利用を積極的に求めるほど、沖縄経済の「基地依存度」は低くなっていることを物語るものだ。沖縄の本土復帰から40年。隔世の感がある”と締める。 しかし、本書を読めば読むほど、「沖縄」の未来の困難さに暗澹とさせられた。もちろん、これは過疎化・シャッター街化を象徴とする「地方の疲弊」と二重写しにして見れば見るほどその感は深い。 各自治体から地域社会・各家庭にまで入り込んだ「軍用地料」。1972年の併合後、沖縄を苦しめ続ける「失業」を生み出した軍雇用問題。脱依存経済が物語るハコ物・土建経済、そして自治体財政。決してバラ色ではない「跡地利用」。「絶対にまねをしてはいけない都市計画」とも揶揄された「新都心」も経済効果からすれば「大成功」なのだろう。しかし、しかし、である。 かつて「基地撤去はマイナス」論争なるものが、沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロックの機関紙紙上で行われた(『一坪反戦通信』№138/02.07.28から№152/04.1.15)。そこで丸山和夫は「基地はいや、でも金は欲しい。それはしかたがないことだ。基地撤去は経済的にも『ペイする』ことを示さなければ、人々の総意に基づく基地撤去は不可能だ」との批判に対し、来間泰男は「私は今後とも『基地の撤去は経済的にはマイナスだが、それでも基地を撤去させよう。基地の存否問題を経済の問題にするな。平和と人権と自由と人間の尊厳の問題としてのみ考えよう』と言い続ける。丸山氏は『基地の撤去は経済的にプラスだ。だから基地を撤去させよう』と言い続けたらいい。いずれも基地の撤去を目指すという共通点があるのだから、敵対することはない。それぞれでやっていこう。どちらが世論を獲得するかは、そのうち分かるだろう。」と矛を収めた。 やはり、この10年は大きい。今、例えば、かの翁長雄志那覇市長の朝日新聞のインタビュー(2012.11.24)での「振興策を利益誘導というなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。」という発言は、記者の「利益誘導こそが沖縄の保守の役割なのではないか」という挑発的質問に答えたものではあれ、沖縄政界を牽引してきた翁長の発言として特段の注目を浴びている。しかし他方、執拗に辺野古新基地建設を策動する日本政府は、タイムス社説(2013年1月26日)が指摘するように新たな買収策として「那覇空港新滑走路建設」を大々的に持ち上げているし、防衛相に至っては辺野古現地の新基地容認派と密談まがいの工作さえ行っていた。 今や、基地経済とは、振興策がらみの公共投資をも内包している。もちろん、ここでは地方交付税交付金から基地交付金に至る「地方財政」問題についても慎重な検討が必要なのは言うまでもないが…… 宮城康博はツイッター(@nagonagu 20130128)で次のようなつぶやきを発していた。“沖縄県内の基地が所在する市町村の全首長は、財産収入である軍用地料を供託し予算が組めるよう準備。全議員は住民合意を得るべく奔走。沖縄県は市町村間の財政状況の調整を担い、失業対策を大胆に施策しハードランディングに備える。沖縄の公有地は一坪たりとも基地に貸さない「全基地閉鎖」だ”と。 琉球新報『ひずみの構造――基地と沖縄経済』(琉球新報社20120811)目次 はじめに 第1部 依存神和=〝安全〟な金融商品に/「事業仕分け」の標的に/「返還後」に増す期待/変わる生産の場/海外移住した苦闘/返還見据えた活動も/商業施設拡充で減少/軍人の割合が大幅減/円高影響、経営厳しく/手当上昇で活況に/軍方針が需要左右/地域崩壊に危機感/ボンド制が障壁に/一括発注で下請けに/本土と異なる成り立ち/国内からの購入低く/パート増加、雇用不安も/返還懸念し応募激減/再就職阻む業務細分化/正規への転職厳しく/復帰機に労働状況激変/返還論議に雇用対策なく/交通網、いびつな構造に/ドーナツ状に人口密集/高い地価、米軍基地が拍車/円高で営業悪化の一途/跡地の経済波及効果 第2部 脱・依存財政=/大浦パーク、運営費めぐり開業危機/自主運営で地域一体/文科省補助で体育館/移設と振興策〝リンク〟/予算折衝で国とパイプ/振興事業で市債増加/巨額投下も乏しい効果/「北振」で箱物を整備/身の丈の財政目指す/東村施設、増産が課題/公園の効果、検証課題/税収増、取り組み弱く/産業振興は未達成/区の予算、大半占める/手厚い区民サービス/被害と経済のジレンマ/経済活性化進まず/〝騒音苦〟で国有地増/「後続」白紙、波及見えず/基地被害に見合わぬ額/「配分ルール明確化を」/西海岸に活路求める/開発と返還にジレンマ/ごみ処理、町民が負担/基地の〝アメ〟地域翻弄/補償要求、足並み乱れ/県税6・8億円減収/米中枢テロで大打撃 第3部 跡地を歩く=移設と引き換え、最後の島田懇事業に/ホテル誘致が成否の鍵/新沖振法に期待と不安/長引いた所有権問題/利用前に給付金終了/〝細切れ返還〟計画立たず/官主導で商業中心地に/環境汚染で開発遅れ/商業施設進出に反対も/開発は広域調整が鍵/汚染、合意形成で難航/軍転法、不備浮き彫り おわりに 【2013.01.20】 真久田正「沖縄の民族問題と独立論の地平」を読む 真久田正さんが亡くなりました。知る人ぞ知る沖縄青年同盟・国会爆竹闘争の三戦士の一人であり、ウチナーグチ裁判の「被告・八重山」でした。2002年10月、横浜の<沖縄の自立解放闘争に連帯し,反安保を闘う連続講座>の『沖縄「復帰」30年を問う』の第二回公開講座に「沖縄の民族問題と独立論の地平―「沖青同の総括」を参考として―」と題して講演を行っています。但し、沖縄講座は新サイト移行してしまい読めなくなってしまいましたので、改めて再録しました。 「沖青同独立派」とでも呼べばいいのだろうか、反復帰論が思想資源とすれば、紛れもなく「政治資源」であった。清水谷公園に翻る「海邦」の旗が懐い出される。合掌 ※沖縄タイムス2013年1月18日 09時44分[訃報]真久田正氏 2001年に新沖文賞 真久田正氏(まくた・ただし=詩人・作家、沖縄文化の杜取締役) 17日午前5時ごろ、心不全のため那覇市首里末吉町3の50の1の自宅で死去、63歳。告別式は19日午後4時から5時、那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣で。喪主は妻由美子(ゆみこ)さん。海を題材にした作品が多く、2001年に「〓(〓1)(ざん)」で第27回新沖縄文学賞、04年沖縄タイムス芸術選奨奨励賞(詩)を受賞。詩集に「真帆船のうむい」。 ※(注=〓はへんが「魚」でつくりが「需」)※(注=〓1はへんが「魚」でつくりが「艮」) 【2013.01.01】 新たな年に!沖縄の自立解放と日帝国家の解体を! 2012.12.13のEmigrantに、“或る意味では天下大乱の兆しとでもいえる情況に、おちおち書き込んでいる閑がなかったとも言える。もちろん総選挙なんぞを指しているのではない。原発から沖縄、そして東アジア大の隘路である。我々は何をしているのか、何処にいるのか。9.30の普天間ゲートの攻防は決定的であった”と書き込んだ。さらに、高江・ヘリ(オスプレイ)パッド建設阻止闘争における12.19「ゲリラ戦」の勝利から12.23大行動の貫徹である。 火事場泥棒のような「追加評価書」の搬入や、まだ首班指名も受けていない安倍の「辺野古移設」発言。9.9県民大会実行委員会において、沖縄保守政界のエースともいえる翁長雄志代表(現那覇市長)は「革新といっしょにやるのはどうも」という声を退け、1月行動を決定した。 1995年、行政主導の弱さが大田敗退を生み、一時の「チルダイ」現象を惹起したが、今度は、安保維持-併合派たちが、「民主々義」を楯に、「基地の本土移設」論を声高に挙げて、「負担軽減-応分負担」を日本政府に要求するという構図が現出した。いずれにせよ、基地容認・振興策資金受容を越えた言説の登場である。いわば、かつての「沖縄イニシアティブ」の論者たちが「サイレント・マジョリティ」(比嘉良彦)を読み違えた轍を踏まない、翁長を始めとする沖縄保守層の新たな動きである。 12.23闘争はサウンドデモも3000人余の結集は2012年を締めくくるにふさわしい闘いであり、勝利であった。全国からも、この年の瀬に数百単位で駆けつけた。しかし、何よりも「平和行進」などを別にすれば、画期的な普天間デモであった。あと二千人が加われば、普天間封鎖は難しくなかったし、平和運動センターを中心にした闘いの翼へ「日共」系を巻き込んだ(肝腎に時に逃亡を決め込む習性に充ちた集団だが)ことも特筆すべきであろう。 この間の目取真俊は「もはや移設ではなく撤去運動を進めるべき」と言い切り、最終的に排除されたとは言え、普天間基地ゲートの実力封鎖を突き出し“県民大会の決議をもって東京に行き、政府に要請して終わる、というこれまでのパターンをくり返してはならない”と強調する。文字通り2013年は「普天間封鎖」が指呼の間である。 経産省テント広場は、「9条改憲阻止」に立ち上がった60年安保世代を中心に二度目の年越しを貫徹しているが。普天間包囲は復帰運動世代の立ち上がりを多くの論者が称揚している。しかし、“復帰を経験した人たちが、基地の固定化によりオスプレイの強行配備を招いてしまった、という贖罪感を抱き、「復帰責任」を果たそうとする意思の「萌芽」を感じ、それに感動を覚えた”(比屋根照夫・琉球新報2012.10.9)とは何を指し示しているのだろうか。「再版復帰運動」について、もう少し論議を深めるべきかも知れない。 Emigrant 2012.12.13で“復帰運動に対する救抜は、「日の丸復帰」から「反戦復帰」への転換を強調する傾向(これは未だ存在しているが)ではなく、復帰運動が随伴した民主々義的諸権利獲得運動としての側面を強調する傾向としても存在する”と触れたが、例えば島袋純の「『沖縄振興開発体制』への挑戦」(『世界』2012・7月号)は“沖縄にとっては、戦後憲法が復帰運動の最大求心力、最大の力の源であった。復帰運動が目指したものは「人権・自治・平和」であり、それを作っていくために沖縄自らが歴史創造の主体、政治的主体となることである”とはある意味「歴史の改竄」ではないか。島袋は正当にも“日米両政府にとって、沖縄返還の要諦は、「人権・自治・平和」を沖縄で実現するためには当然、ない。端的にいえば、アメリカ軍にとって在沖基地の自由使用及び安定維持を図るためのものである。その役割を在沖の米軍・政府から日本政府が替わって担うことになるという「統治主体の交代」、それが沖縄返還の本質的な目的であった”と書くが、これに復帰運動の側が「手を貸した」ことを捨象してはならない。そして、敢えて言えば、1972年以降、併合・同化・買弁の嵐が吹き荒れたことも付け加えておかなければなるまい。 |
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