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追悼・岡本恵徳


態度としての思想


屋嘉比 収


亡くなられる前日の病床での会話

 岡本先生のことを考えると、いつも「態度としての思想」という言葉が、わたしの中に浮かび上がってくる。
 たとえば、亡くなられる前日に、先生がとった次のような態度について。
 先生の意識は、入院されていた最後まではっきりしており、人と接する態度はいつもと変わりなかった。次女の由希子さんによると、4月に医師から癌の肺への転移を告げられたが、先生は抗がん剤を投与しない選択をしたので入院中はつねに激痛の走る状態にあったという。意識がはっきりしていたとはいえ痛みを抱えており、体調が急変された後に常備の酸素吸入器をはずして交わす会話は、先生に過重な負担だったことは想像に難くない。しかし、先生は病室を訪れる人には最後まで手を上げて感謝の意志を表明されていた。そのような状況を知っていたので、私自身は先生に直接面会するのを遠慮して、しばらく廊下でたたずみ、体調がいいときに挨拶するようにしていた。亡くなられる前日も、同様に病室の廊下で立っていると、先生と長女の亜紀さんとの次のような会話のやり取りがもれ聞こえてきた。
 先生は、のどが渇いたのでオレンジジュースを求めた。だが、あいにくオレンジがなく、亜紀さんが機転を利かせて、手元にあった桃を細かくつぶして桃ジュースを作り、先生に渡した。先生は、それを一口含んだ後で、オレンジジュースにして欲しいと話された。その際、先生が酸素吸入器をはずしながら、桃は繊維質が残るので飲みにくいからと、その理由を亜紀さんにおだやかに説明されたのである。
 わたしは、その会話のやり取りを廊下で聞きながら、ホッとするとともに、あらためて胸をつかれる思いがした。ホッとしたというのは、先生が桃ではなくオレンジジュースを要求した点に先生の気力を認め、きっと体調は回復されるに違いないと勝手に確信したからである。だが、その確信は、翌日すぐに砕かれ、わたしの勝手な思い込みにすぎなかったことが明らかになった。
 もうひとつの胸をつかれる思いとは、次のようなことである。親しい親子の間柄からすると、病床の親が子に対して自らの要求を一方的に告げることは決して不自然なことではない。たとえば、病床にある父親はオレンジジュースが欲しいというだけで、通常は娘に対しその理由など一々説明するようなことはしない。しかし、先生は激しい痛みの中で酸素吸入器をはずしながら、亜紀さんに話しかけて、その理由をはっきりとおだやかに説明したのである。そのような病床での岡本先生の態度が、わたしを驚かせた。
 あらためて思えば、そのような先生の態度は、病床という特別の状況に関係なく、わたしたちとのごく普通の会話のやり取りの中においてもみられることだ。日頃そのような態度を取ってなければ、病床のときに娘に対して理由をおだやかに説明することはできない。岡本先生は、どのような立場の人でも一人の個人としてあい対し、つねに言葉を尽くしておだやかに接しておられた。わたしは、病室での親子の会話を廊下で聞きながら、先生の中の「態度としての思想」ということを思い浮かべていた。

現場から逃げたことを考え続ける

 では、そのような岡本先生の「態度としての思想」は、何によってもたらされたのであろうか。先生は自分自身のことについて語ることはほとんどなかった。それでも晩年は、沖縄戦のときの記憶や「琉大文学」のことなど、こちらが聞くと少しずつ話されるようになったが、ほとんど断片的な話に終始しすぐに別の話題に転じられた。したがって、書かれた文章においても、自分自身のことを語っているのはきわめて少ないが、若いときに書いた次のエッセイは、その数少ない文章の一つだといえよう。この文章は「現代をどう生きるか」というテーマで求められたエッセイで、先生はそれに「『わからないこと』からの出発」(『沖縄タイムス』1969年8月28、29日)という表題をつけて、論じている(同文章のコピーは、岡本恵徳著作目録を作成した我部聖氏から提供いただいた。記して感謝したい)。34歳のときに書かれたこのエッセイは、先生の「態度としての思想」を考えるうえで、きわめて重要な位置を占めているように思う。
 先生は、このエッセイの冒頭で、「現代をどう生きるか」というテーマに対して、「すでに生涯の半ばを費やしてしまったにちがいないおのれの過去の帰結を、現在のうちにどのように見出していくかを考えることによって答えるほか、なんのすべもない」と述べている。そして、現在から見出される「過去の帰結」として、いずれも「現場から逃げた」あるいは「何も為しえなかった」ことの自分自身の体験の記憶として、以下の3つの事例を語っている。
 1つは、1955年7月18日早期に武装米軍が土地の強制収用を強行した伊佐浜闘争の現場から逃げたこと。2つは、56年8月に「琉大文学」の友人たちが退学処分になったとき救護の動きはあっても何も為しえなかったこと。3つは、60年6月15日の安保闘争のとき国会議事堂の衝突の現場から恐怖にかられてひたすら逃げたこと、である。先生は、自分自身が遭遇したこの3つの体験に言及しながら、「現場にいあわせながら、いつも、おのれの血を流すこと」をせずに、「現場から逃げ」「何も為しえなかった」と、自分の右手で自分自身を何度も殴り続けるかのように、繰り返し記している。また、それにより、先生は、自分の「内側から、何かが喪われ、それにかわってなにかがべったりはりつく」のを感じたことも記している。
 そして、安保闘争のとき現場から逃げた後、樺美智子の死を知り、先の2つの体験に続けて、自分の内側にはりついて「よろんでいた澱に重なるように、さらになにかが沈んでいっ」て、「いちど喪ったものは、とりかえしのつかぬものに思えた」と書き記している。それらの記述を読むと、先生の中で、沖縄と日本という区分よりも、伊佐浜闘争と「琉大文学」の抵抗と安保闘争が同一線上でとらえられている点も興味深いが、その3つの体験が先生にとっていかに大きく、その後の生き方に決定的な意味をもっていたのかが確認できる。

お前の敵はお前だ

 もはや、その「喪ったもの」を取り返すことはできない。しかし、そのままにただ傍観していると「何かを絶えず喪い続けることになる」。では、どうすればよいのか。先生は続けて次のように述べている。「それらの「わからないこと」どもを、どうにかしてわかりたい、と考えることから、歩み出さねば」いけない。そして、そのためには、「ただひとつのよりどころとすべきものは「おまえの敵はおまえだ」ということの確認でなければならない」と静かに記している。
 前述したように、このエッセイは、岡本先生がめずらしく自分自身のことを語っており、さらに先生の「態度としての思想」を考えるうえでも注目すべき文章になっている。それは、後年、先生が好んで引用した木下順二の戯曲『沖縄』(1961年)の中の「どうしても取り返しがつかないことを、どうしても取り返すために」という一文ともつながっている。先生は、このエッセイで自分自身の心の中にある傷痕としての記憶−米軍や警察権力の暴力による恐怖のあまり、「おのれの血を流すこと」をせずに「現場から逃げたこと」について正直に書き記した。そして、その後に先生がとった態度は、その傷痕としてある「現場から逃げたこと」を忘れずに、それを取り返すために、逃げた地点から考え続けながら生きることだった。
 そのことは岡本先生の中で、現場から逃げずに権力と対峙した少数の人たちの姿勢や志向性とは、別の態度と視点をもたらした。先生は、現場から逃げた者の一人として、現場から逃げずに権力と対峙した少数の人々への賛辞と敬意を惜しまない。それは、その後の住民運動の現場で体を張って闘っている人々へ先生が示す一貫して変わらない尊敬の念からも首肯できよう。と同時に、現場から逃げた、あるいは現場にいなかった人々の心情について考えることも同じく手放さなかった。それは、岡本先生自身が現場から逃げたから、ではない。現場から逃げた。あるいは現場にいなかった多くの人々は、後で逃げたことを弁解し、あるいはごまかし、そして忘れていってしまう人々がほとんどである。しかし、先生は、「おまえの敵はおまえだ」ということを確認し自覚することにより、その「現場から逃げた」ことを決して忘れずごまかさなかったために、現場から逃げた、あるいは現場にいなかった人々の心情をも手放すことなく、その地点から同様に考え続けることができたのである。
 その背景には、こぼれた者として、逃げたことから目をそらさず、そのことを考え続けようとする先生の態度がある。岡本先生の中には、こぼれた者への視点と、こぼれる者からの視点があり、その2つの視点を決して手放すことはなかった。すなわち、岡本先生の書く文章は、「現場から逃げたこと」を忘れず、逃げた地点から現場を考え続けることによって、「逃げなかったこと」を乗り越える道があることをわたしたちに提示している。そのあり方は、多くの逃げた普通の人々の心情を手放さず、その地点から考え続けることの意義を示して、大きな励ましを与えてくれる。
 岡本先生の40数年間は、いわば「現場から逃げたこと」を忘れずに考え続けることであり、その先生の態度は一貫していたように思う。そのことは、先生の書かれた文章の文体にも表われている。
 作家の崎山多美さんと岡本先生のことについて対話している中で、2人であらためて確認し再認識したのは、若いときの岡本先生の書かれた文体と晩年における文体とがほとんど変わっていないという点である。言い換えると、そのことは、先生の他者との関係のあり方や自分自身に向ける姿勢において、つねに自覚的であったことを表している。そして、それは、先生のもつ「態度としての思想」を端的に示すものである。
 かつて思想というのは、理念や主義主張だけでなく、態度も含むものである。という主旨のことを書いたのは鶴見俊輔だった。岡本先生の思想の根幹には、「態度としての思想」があるのではなかろうか。その態度とは、人柄という個人的特性だけでなく、他者との関係性に対する感受性と自覚という意味である。今後、岡本先生の「態度としての思想」を、戦後沖縄の思想の中にどのように位置づけて継承していくかは、きわめて大きな課題だといえよう。そのためにもこれから続く者は、先生の残された多くの文章の森に分け入り学ばなければならない。岡本先生は、つねに若い世代を励ます人であった。先生は亡くなられたが、先生の文章は生き続けながら、わたしたちを励まし続けるはずだ。
『けーし風』52(2006・9)

八月のメモリー 「ベースの響き」のように


崎山 多美


 1969年8月29日付の「沖縄タイムス」朝刊に、池沢聰の筆名で岡本恵徳氏が記した文章がある。「現代をどう生きるか−わからないことからの出発」と題されている。自分自身の内部へ語りかけるような、静かな、心に沁みる文章だ。

 現代を生きるために、「もやのようにかかっている過去」を「書きとどめることから始めねばならない」として、岡本氏が書き出したのは、55年7月の伊佐浜土地闘争の記憶。翌56年8月、闘争に参加した友人たちの処分を知り何もなしえなかった自分への悔い。そのあと「おきなわ」を「おちのびた」東京で、国会議事堂前のデモ中に体験した樺美智子の死。傷ついたまま東京から「拠りどころを求めて」戻ってきた「おきなわ」は、「すわりごこちのきわめてよくない場所」であったが、そこで政治運動の痛手を引きずりながらもその眼を沖縄の状況からそらさずに生きる友人たちを見、この「おきなわ」に「おのれを恃みとする論理」を求めようとしたこと。それらのいきさつが「不在の彼」の声を借りて語られる。

 しかし、沖縄の過酷な歴史と風土と現実の中で「わからないこと」はいよいよ「彼」を「泥沼」にひきずりこむ。出発点はなかなか見つからない。それでも「ことばにこだわり」ながら出発の論理を探さなければならない。「ことば」が「虚像を宙に結ば」ないように用心しながら。そう岡本氏は書いている。

 現代をどう生きるか、という問いに対して、わからない、と何度も呟くように記す氏の「ことば」は、思考のひだを幾重にも刻みこむように細やかに揺れながら、やさしい。やさしさの中に深い悲しみを感じるのは、書き手亡きあとに読む文章だからであろうか。いや、教え子の一人として私が聴くことのあった氏の声は、いつも低く、どこか愁いを含んでいた。その愁いの意味を今私はこう考えている。氏は、「おきなわ」を悲しんでいたのだと。「沖縄文学」の吃音性を、地政的な「おきなわ」の苦渋の歴史を。抵抗のために上げた拳が、声高な声が、ぎゃくに、権力側のほしいままにからめとられていくさまを。だから、「メロディの底に息をひそめてみえかくれ」する「ベースの響き」のような「ことば」の低さにこそ願いを託し、呟くように語りながら悲しみの色を消すことはできなかったのだ。

 沖縄を語る「ことば」が、つい声高になってしまうのは、沖縄の表現者たちの貧しさだと私は感じることがある。高い声は、一時は多くの人々の耳をおどろかすが、すぐに醒める。思考の連続性を断ち切る。ときに、声高さは暴力に逆襲される。だから、この理不尽な沖縄の現実に抗する「ことば」は、氏のいう、「メロディの底に息をひそめて、みえかくれ」する「ベースの響き」のように、人の心に染み入ってゆっくりと現実に立ち向かう思考を醸成する持続力のあるものでなければならない。氏の「ことば」は、私たちにそう教えてくれる。

 岡本先生は8月5日に永眠された。あとにつづく8月の、終戦の記憶に重なる慰霊の日を前に、その悲しみの日々をその身に引き取るようにして。

 病院のベットの上で病気と闘いながら、先生は、最後まで文学を語ることをやめなかった。やり残した仕事への思いが溢れるようにあったのだと思う。さいきん同人誌に発表し出していた小説「洋平物語」を、私は読んだばかりだった。「洋平」という、果てしない海洋にゆらりゆらりとたゆたうような名前を与えられた人物の視点から、戦時中や学生のころの記憶が語られる。

 今年の8月は、セミの鳴き声が、魂の悲鳴に聴こえる。
「沖縄タイムス」06.8.20


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