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沖縄の魂、自決の心は決して途切れることはない!



  山 城 博 治 (沖縄平和運動センター事務局長)


沖縄連続インタビューの第二弾、沖縄平和運動センターの山城博治さんにお話をうかがった。沖縄闘争の渦中で、いま、最も忙しい活動家の一人であろう。全国を飛び回っている山城さんをつかまえて、お話を聴くには大変だったが、ミスター・シュプレヒコールの異名を持つ山城さんの熱い思い、『復帰』以来のウチナーンチュの本音を十分に語っていただいた。(取材日、二月二〇日)


名護市長選の勝利とその背景

――最初に一月二四日に行われた名護市長選挙の勝利についてうかがいます。
山城 私たちは昨年の十一月に東京の星陵会館で集会を開きました。そこで私は名護市長選挙には圧勝するのだと発言し、その後もあちこちでそういってきました。その根拠は、願望もありましたが、沖縄全体がその方向に流れていると感じていました。〇八年の県議選でも逆転があった。昨年の八月の総選挙で自民党の候補はすべて敗北しました。そして、十一月の二万人を越える県民大会の成功も、その流れです。今年の一月三〇日に東京の日比谷野音の集会で、私は沖縄返還闘争以来の盛り上がりだといいましたが、そういう空気を感じるのです。六〇年代後半、沖縄返還協定に向かい、沖縄に依然として米軍基地を押し付けるのかということで七〇年安保に至るまで大きな沖縄の民衆の闘いの高揚がありました。時代のうねりのようなものをいま感じています。ただ、この問題は渦中であって、普天間の移設がどうなるかはまだわかりませんが、この長年の経過を見てきた仲間はいまも現役でがんばっているわけですから、その意味で意思合わせもできるし、名護市長選挙については、そういう流れから勝利の確信がありました。

――ただ、名護市長選挙の後半では、期日前投票でかつてない動員があり前職市長島袋派の巻き返しがありました。
山城 投票日の二、三日前は、六対四で負けているという情報もありました。出口調査によると危ない。でも全体としては相手を上回るだけの力をもっていた。前回の市長選挙では土木業者などが、期日前投票でも、各社で何人動員したかを確認し、票の集約を行っていました。期日前投票の怖さは、確実に票を読むことができることです。いくら基地推進派の候補者に投票するようにと説得していても投票日になれば、例えば一〇〇人中、三〇人はいろいろな事情や理由を楯に、投票所に行かない。期日前投票であれば、「今日は会社を半休にする。だから投票所に行け」といわれれば確実に投票するわけです。それは票固めの基礎になる。とくに、選挙が双方拮抗している場合には票の上乗せになるわけです。今回も基地推進派の元名護市長・比嘉鉄也らの勢力や商工会の締め付けは相当強いといわれていました。

――今回の選挙では岸本ファミリーが稲嶺支援に回るという意外な展開がありましたね。
山城 私も岸本さんが支援にくるとは意外でした。ただ、名護市は実は四年前あたりから流動化が始まっていました。つまり、二〇〇〇年から始まった年間百億円、十年間で一千億円の北部振興策が六年間続いていました。でもこの振興策が名護の発展に本当に役立つものかどうか疑問が出てきた。公民館などの箱物は作られるけれど、一般の市民を決して潤すものではなく、大企業がやってきてJVを組んで利益を吸収する。労働者も中部や那覇から連れてくるものだから、雇用の拡大にも繋がらない。振興資金の運用が市民を潤すわけではないという実態が明らかになってきました。結局、有力な企業、A社・B社と競い合うだけで振興資金の奪い合いでしかない。そういう内部での矛盾が噴出したのです。すでに四年前の選挙の時期でもそういう状態でした。ただ、四年前は基地反対派の候補者の分裂があって負けた。この分裂さえなければ私は、当時でも勝てたと思います。反対派が二人の候補に分かれたから、市民の間には選挙に行っても勝てないとのあきらめムードになってしまった。

――前回の選挙と、もう一つ違う点で言えば、民主党政権下での選挙でした。この影響というのもありますか。
山城 それは当然あったというしかないでしょうね。つまり市民には東京は変わった、中央は変ったのだという思いはあったと思います。基地推進派は、東京との太いパイプが売りだったわけですから、その構図が崩れたわけです。彼らが言う、経済振興・太いパイプ論というのが完全に消えた。この論理は当然ながら十一月の知事選にも繋がっていくでしょうね。

――そして政権をとった民主党ですが、当初の公約から大きく後退して、県外移設について、民主党政権の主張はぶれはじめています。平野官房長官の暴言を含めて、民主党政権をどのように評価しますか。
山城 最近、平野長官は仲井眞知事に会って、「県内移設になるかもしれない」と言っています。沖縄からすればとてもじゃないけど飲むことはできません。それは裏切りだといいたい。だって鳩山総理自身が「最低でも県外」といっていたわけですから。約束していたのですから。回りまわって、いまさら辺野古だという話は絶対に受け入れられない。どういう回路をたどってそういう結論になるのか、それが本当に政府の結論だというのだったら沖縄はだまってはいない。最大の決起で沖縄は反撃しますよ。私たちは、昨年の総選挙では社民・民主を支える形で運動をしてきました。当然、連立政権ですから、照屋寛徳さんがいっていたように「賞味期限付きの政権だ」いつかは賞味期限が切れるのはわかっていても、鳩山さんが県外、国外だ、最低でも県外だといってきたから応援してきたのです。民主党への批判など議論があったときも、そこはしばらく静観しようじゃないか、と私自身、集会で発言したこともありました。私の発言に厳しい批判もありました。「鳩山政権を支えるとは何事だ」と。それに対しは「この政権に力強い大衆運動を対峙して厳しく監視していくのだ」と、反論してきました。一定の期待は誰もが持っていたのです。ただ、裏切りの予感は当然あるわけで、それ故に、大きな大衆運動を作っておかなければならないと強く思っていました。

――こうした情勢の中で、辺野古や高江の現場に変化はあるでしょうか。
山城 辺野古の現場はヘリ基地反対協や市民団体が中心なので私がとやかく言う立場ではありませんが、支援団体としての平和運動センターの立場で言えば、辺野古自体の闘いは揺るぎなく継続されています。かつての海上案、現行の沿岸案に対する闘いはいまも力強く展開されています。市長選挙に勝利したことはとても強い後押しになっています。昨日の地元紙の報道によれば、仲井眞知事は辺野古への移設は「やむをえない、ということはもう言わない」と語っています。沖縄の自民党や公明党は、すでに昨年末には方針転換をして、今年二月の定例県議会で自民党は仲井眞知事に対し、自分たちは方針転換したのだから「あなたも県内移設やむなし」という方針は撤回すべきだと迫ってきた。その結果が「県内移設やむなしは、もう言わない」という知事の発言になったと思います。ただ、辺野古への移設はダメだとは断言しているわけではない。そこは政治家の微妙な言い回しだと思いますね。ただ、ここまで知事が追い詰められたのは、辺野古への普天間移設はもうない、という県内世論の高まりがあるわけです。そうなれば知事も県内移設を受け入れるという話は消えたと思わざるを得ない。県知事は辺野古沿岸の埋め立ての認可権をもっているわけですから、これを行使することはもう不可能です。その中で名護市民に対する平野官房長官の「名護市長に何の権限があるのか」と、こういうわけです。信じ難い暴言ですよ。県知事が持っている湾岸の埋め立ての認可権とか、埋め立てに使う砂の採取権は、たしかに地元の名護市長にはありません。しかし、当該の市長の立場を無視した発言を平気でするわけです。この十三年間、これだけ地元が反対したから基地はできなかった。その経過を踏まえれば地元の現職市長を無視するような発言は、名護市民だって怒りますよ。辺野古はこの十三年間、本当にがんばってきた。ヘリ基地反対協の安次富さん1をはじめ、オジー、オバーの闘いについては心から敬服しています。

沖縄振興経済のもたらした利権構造

――一月二四日の名護市長選挙の結果、基地反対派の稲嶺進さんが当選しました。これは基地問題の解決に加え、名護市の利権構造からの脱却という意味でも多くの変化をもたらすと期待していますが、これまでの利権構造の実態はどんなものだったのですか。
山城 いま使っている全沖縄の海岸を埋め立てる砂利の一年間の採取量をはるかに超える五百万立方メートルの土砂が基地の埋め立てに使われるといわれています。それは当然、膨大な利権を生むわけです。埋め立て事業者である国に砂利を買ってもらい、膨大な利益を得ることになる。大量な砂利を採掘するには、沖縄だけでは賄えませんから、本土の業者も群がってくる。加えて、採掘事業に関係する漁業者の保障をどうするか、関連業者の利権をめぐる争奪戦が繰り返されてきたのです。それは陸の箱物事業でも同じです。
 名護市は北部振興策の名目で十年間で一千億円、すでに五百億円の資金が投入されていたといわれています。その資金を元に比嘉鉄也元名護市長は、名桜大学の理事長におさまり、市政の裏世界を牛耳ってきたといわれています。しかも、一私立大学を名護市に買い取らせて北部広域圏の公立大学にしようと画策していました。こんなことをすれば役所は倒産しますよ。名護市長を退いた後は大学の理事長におさまって、経営が傾いた大学を役所に買い取らせるというのですから、恐ろしい話ですよね。もう一つは、島袋前職市長の選挙前に聞こえてきた話ですが、辺野古の埋め立てがうまく進まない中で、屋部という地区の沿岸埋め立て工事を計画してきた。二十一世紀の森の近くにあり、本部に繋がる地域です。そこを埋め立て、公共施設などを建設するという計画を発表しました。辺野古の埋め立て事業が進まないものだから、つなぎの事業としてこれを計画した。名桜大学の公立化による格上げ、屋部地区の埋め立て、この二本立てが、今回の名護市長選挙の島袋派の公約でした。振興策の一千億円とは別に、一兆円といわれる辺野古新基地建設の利権が反対派によって動かない、一兆円に群がる土建業者が喉を枯らしていたわけです。そこで島袋前職市長派は繋ぎのアメとして土建業界を引き寄せようとしていたわけです。その前にも、辺野古の海上基地の位置を巡って、島袋前職市長を支持する利権業者の攻防がありました。ご存知の通り、五十メートル、百メートルの埋め立て地域の位置変更の話がありました。それは、辺野古集落の騒音被害の軽減という建前の話でしたが、実際には、地元の建設業者の利害の話です。大浦湾は水深が深い。珊瑚礁を越えると技術的には難しい、ヤマト資本の大手ゼネコンにしか工事ができない。地元業者が受注するには浅い珊瑚礁内に作りたい、そういう思惑で攻防があったのです。環境アセスの裏でそんなせめぎあいがあったのだと思います。

――ところで、辺野古に比べて高江の情報は少ないのですがいまはどんな状況ですか。
山城 背景からお話します。九六年のSACO合意で米軍北部訓練場の一部返還が日米両政府の間で合意されました。高江のある東村は、国頭村を含めた広大な北部演習場が返還されるということで沖縄県民は歓喜するわけです。米国と日本政府は、九五年の性暴力事件で怒りの頂点に立っていた沖縄県民を抑え込むために、普天間基地の返還と、北部訓練場の返還を目玉に米軍基地の整理縮小の形だけでも見せたかったわけです。これは普天間基地の返還の論理と同じように、北部訓練場の広域の面積を返還するのだから、訓練の可能な地域は確保したい。そうして東村・高江に集落を囲む形でヘリパッド(ヘリ着陸帯)を七つ建設すると通告してきたのです。もともと高江周辺には十五ヶ所のヘリパットがあったのに、七ヶ所も追加建設するという話です。つまり東村の高江という集落にヘリパットをさらに隣接させる形で建設される。一番近い民家との距離は僅か数百メートルです。沖縄防衛局の言い分では、「米軍は七つのヘリパットを要求してきたけれど、私たちは六ヶ所に値切った。私たちもそういう努力をしているから感謝しろ」という。こういういい訳が通じるのでしょうか。しかも、この計画には欠陥機種と疑われているオスプレイという特殊な巨大ヘリが導入される。そうして高江の工事がはじまったのが〇七年です。その後、〇八年、〇九年と何度も高江にやってきて工事を強行しようとしていますが、高江の住民が座り込み、身体をはって阻止しています。いつも防衛局が来るのは七月です。何故かというと四月から六月までの期間は希少動物のノグチゲラなどの営巣期間で、雛を育てる時期だからです。もともとやんばるの森林は、有名なヤンバルクイナをはじめ、絶滅危惧種が残る貴重な地域で、多様な生物の宝庫です。だから「私たちも環境に配慮しています」というポーズをとる。彼らは世間体を気にしてそういうわけですが、沖縄防衛局は、〇八年の十一月に高江住民の十五名を工事妨害(座り込み)だとして、那覇地裁に仮処分の訴えを起こしました。昨年の十二月に那覇地裁は住民の十三名については訴えを却下、共同代表の二名は妨害しているという決定を下しました。いま防衛局は、この代表二人を現場にあぶり出し、この二人が工事を妨害しているという証拠写真を撮ろうとしています。そこまでやるのかと思います。先日の高江のN1ゲート前の沖縄防衛局の動きはかつてないビデオカメラの砲列でした。挑発していかに工事妨害をしているのかという証拠映像を撮りたいのです。私たちは嘉手納の沖縄防衛局に行って話し合いをしましょうと重ねてお願いしてきたのですよ。でも門前払いで、話し合いを拒否してきたのは防衛局です。審尋の場で話すというのが彼らの逃げ口上でした。結局、話し合いを拒否して、高江のヘリパットの建設工事を強行しようとしています。仮に裁判で係争中だから話し合いも裁判の場でというのならば、裁判中の工事も中断すべきでしょう。工事は進めながら、話し合いを拒否する、沖縄防衛局の一方的なやり方にはとても納得できるものではありません。
 高江は人口百六十名ほどの小さな集落ですから、座り込みを継続するだけでも大変な苦労です。ぜひ、全国のみなさんの注目をお願いします。「高江の現状」というHP2で日々の状況を見ることができます。

――昨年の県民大会、名護市長選挙の勝利と沖縄はいま闘いの正念場を迎えようとしています。ヤマトと沖縄の関係は運動の世界でも、七二年の『沖縄返還』以来の連帯関係にしっくりいかない面もあると思います。例えば、昨年十一月の県民大会でも、「ヤマトンチュは米軍基地をもって帰れ!」という横断幕が掲げられていました。今後の運動のあり方についてお伺いします。
山城 当然ですが県内にはいろいろな意見があります。例えば、今回の県議会の普天間基地の移設は県外に、という全会一致の決議をするということになりました。共産党は県外とすると本土に移設するということで他府県に迷惑をかけるという主張がありました。普天間の移設断念、新基地建設反対でいいではないか、という意見でした。沖縄が求める県外・国外という意見は私は当然だと思います。ただ、私たちの口から長崎や佐賀に持っていけ、ということはとても言えない。沖縄が言っている県外というのは日本政府が言っている沖縄への基地の押し付けは許さないということです。何故、これ以上沖縄に押し付けるのか、冗談ではない、日本政府こそ責任をもって引き受けろといっているのです。勝手に沖縄に長年押し付けた米軍基地の移設先は日本政府の責任です。私たちが○○県の○○地域と特定することなど、当然できません。日本の大マスコミは沖縄の利益だけしか考えていないという、これは逆差別ですよ。さらに沖縄を孤立させる論理です。ものごとの経過や歴史を振り返るべきです。沖縄側からすれば何故米軍基地を沖縄に押し付けてきたのか、長年の日本政府の差別政策を許さないといっているのです。それが沖縄の思いですよ。基地は米国に持ち帰れというのが当たり前の本音ですよ。仮に世界中どこでも米軍基地が移設されれば、沖縄の人々はその地域と連帯して闘います。それは長年の反基地の経験があるからです。その思いは沖縄の私たちの共通した考えです。

――この間、グアム移設という話が大きく取り上げられていますが、沖縄の運動ではグアムのチャモロの人たちとの交流活動も行ってきました。グアム移転についてはどうお考えですか。
山城 この議論の中心にいたのは宜野湾市長の伊波洋一さんです。私は最初、少し誤解をしていて、グアムに移設先を決めることには疑問を感じていました。しかし、詳しく話を聞いてみると、米国自身が移設先をグアムに移転する計画を持っていた。しかも予算化までしていたのです。普天間の移設は辺野古ではないはずだと、もともと米国には計画があるではないかと、米国から取得した資料をもとに実証していたのです。この計画があるにも関わらず辺野古だというならば、それは移設ではなく、新基地建設であると証明したわけです。そのことから波及して社民党内ではグアムという選択議論になったわけです。伊波洋一さんの主張を冷静に聞くと、既定事実としての米国のグアム移設を論証し、暴露した伊波さんの功績だと思います。つまり、米国の米軍再編パッケージ論というのは日本政府への圧力の方便であって、実際には、米国独自の政策は着々と進められてきたということです。その辺の伊波さんの論理が日本の国会の議論にも反映されることを期待しています。日本の政治家も事実は事実としてしっかり受け止めてその上で議論をしてほしいと思います。アメリカの圧力を額面通りに見て、前提の条件とする、いまの議論はおかしいとおもいますね。

――今後の情勢もまた一段と厳しくなると思いますが、この先の闘争スケジュールを教えてください。
山城 私たち平和運動センターでは五月に普天間基地を人間の鎖で包囲する行動を予定しています。いまは実行委員会の結成に向けて準備をしているところです。政府の一部からは普天間基地をそのまま維持するというような、とんでもない発言もありますが、私たち地元では絶対に許さないという意思表示をするつもりです。政府は五月に普天間移設の結論を出すと言っているので、これに対抗する行動を行います。ただ、問題は、今日明日にも辺野古だ、キャンプシュワブの陸上案だとかの政府の発言がもれ伝わっています。そのことにも備える必要があります。仮に三月、四月に先走った結論がでれば、緊急でも昨年十一月の県民大会をはるかに上回る大決起集会を行います。昨年の十一月とは情勢が違います。先日の沖縄県議会は全会一致で「普天間基地の県外・国外移設」を決めたわけですから、与野党の総力で初めて県民大会をひらくことになるでしょう。二万や三万ではすまない十数万人の沖縄民衆のうねりが爆発することになると思いますよ。

――十一月の知事選挙の見通しはどうでしょうか。
山城 その前に七月の参議院選挙があるので、この動静によって変ると踏んでいます。いまは参議院選挙の統一候補をどうするか、これが課題です。参議院の場合は、統一候補の条件は無所属を貫くことが必要ですが、民主党は当選後には民主党もしくは民主党会派に入れというわけです。沖縄では革新統一候補の枠組みを守ってほしいと要請しているのですが、どうなるか、その枠組みができれば知事選も同じ流れで大きな力になると私たちは考えています。政党にはいろいろ思惑があって、難しい局面ではありますが、私は、十一月の知事選挙に向けて一日も早く参議院選の統一候補、県知事選の統一候補を決めてほしいと願っています。

これ以上の日本政府の仕打ちが続けば、沖縄は自決権を行使する!

――それでは少し沖縄の歴史を振り返るお話を伺いたい。私自身も安保・沖縄闘争に関わったのは沖縄返還協定に反対する活動でした。沖縄の『復帰』という時代の前後、山城さんはどんな思いで当時の運動にかかわっていたのでしょうか。
山城 壊滅的な沖縄戦以降からのお話をしましょう。当初、沖縄の一部には「米軍は沖縄解放軍である」との誤解がありました。日本共産党の解放軍規定の影響です。加えて、日本からの独立を求めるという声があがったのもその時期でした。沖縄戦の悲惨を強制され、沖縄の未来を考える上で、そういう主張が出てきたのは私には理解できます。ところがその後の米軍の動きは、沖縄を日本の植民地から解放するということではなく、沖縄を戦争の出撃基地として使うわけです。一九五〇年になると朝鮮戦争が始まりました。日本軍の後を継いで作った嘉手納飛行場、読谷飛行場、普天間飛行場だけではなく、こんどは海兵隊の補給基地が瑞慶覧やハンビー飛行場など、「銃剣とブルドーザー」に象徴される暴力で土地を奪って米軍基地を建設した。そうなるとさすがにどこかに助けを求めたいということから結成されたのが『祖国復帰協』でした。そこからヤマトへの恨みや複雑な思いが封印されて、「祖国幻想論」が作られてきました。県民が一丸となって日の丸の小旗を振って祖国復帰運動に参加しました。今から思えば、超ナショナリズム運動でした。そういう運動を七〇年代まで平気でやってきました。そのことが後になって気づいてやはりおかしいと思うようになりました。そんなことで日米の国家の楔から解放されるのか、そういう問題意識が学生運動の中から浮き上がってくる、当時、私は高校生でしたが、復帰運動はおかしいのではないかと疑問を持つようになりました。六九年に沖縄返還協定の話が出てきた頃、確信を持ちました。それは六九年の佐藤・ニクソン会談でよりあきらかになりした。沖縄の基地の自由使用というのはこのときに決められた。そこに孕まれた危険性を強く感じました。ただ、それは復帰運動を真剣に担っていた人々から見ると,軽々にはいえない。復帰運動に携わってきた人も「基地のない平和な沖縄」を求めた気持ちは一緒なわけですよ。ただ、権力の側は冷徹に復帰運動を利用していた、と考えざるを得ない。いずれにせよ、復帰運動も大きな転換を迫られていた。その切り替えが遅れてしまったという気持ちが残ります。それでも、七二年の五月十五日、復帰派も反復帰派も豪雨の中、与儀公園で会いまみれて、裏切られた祖国復帰運動を確認しあい、互いに抗議の声を上げたのです。五・一五を機に、沖縄はあらためて闘いを立て直すことを心に誓った出発点でもあったと私は思っています。

――復帰前後には六九年に全軍労を中心とした全島ゼネストの挫折があり、七一年の十二月にコザ暴動があり、東京では沖縄青年同盟による国会爆竹闘争3、沖青委の皇居突入闘争などがありました。東京での沖縄青年たちの闘いは沖縄にも伝わっていたのでしょうか。
山城 もちろん、伝わりました。当時、いたたまれない思いで見ていました。東京にいる仲間が郷里の沖縄よりもやるせない思いで決起したという気持ちは本当に共感を覚えた、それは沖縄の民衆全体の受け止めでもあったと思います。沖縄の歴史では、焦燥感、閉塞感というものが繰り返されてきました。あの七○年代の初頭というのは、復帰に裏切られた気持ちの極致でしたから。
 私も大学に入学するために、東京にいきました。最初に東京の街を歩いて、立派なビルの立ち並ぶ光景を目の当たりにして、この東京の権力がちっぽけな沖縄を踏み潰すのは簡単なことだと、絶望感をいだいたことがあります。子どもの頃の思い出は、中学校の先生の薦めで黄色いリボンを胸につけてデモに参加していた頃のことです。嘉手納基地の前で機動隊に蹴散らされて、側溝に足をとられ、群集に踏み潰されそうになったのです。ここで死ぬのかとおもいましたが、近くにいた大学生に引っ張り出されて命拾いをしたことがあります。沖縄の子ども時代から東京の大学生活まで、日本との向き合い方は、辛く厳しいものでした。もの心つくまで、ずっと基地との闘いでしたので、七二年の「祖国復帰」の結論が、沖縄の現状は何も変らないと知ったとき、本当にショックでしたね。

――「反復帰論」との出会いはその頃になるのでしょうか。
山城 そうですね。新川明さん、川満伸一さん、岡本恵徳4さんらの論考にはとても共鳴しました。あの当時、沖縄の「新沖縄文学」では反復帰論の論壇の中心でしたから、わたしも読み漁りました。東京の雑誌『情況』も新川さんらの主張が掲載されていましたから、学習会の資料としても使っていました。私が新川さんらに共鳴したのは復帰批判というよりも国家とはなにか、権力とはなにかを見据えていたからだと思います。ナショナリズムや民族問題だけでは沖縄は解放されないというのが一つ、そして、もう一つは、われわれが中学、高校時代に刷り込まれた「祖国幻想論」を打ち壊してくれた。国家、政治とは何かという歴史観を見事に書き記してくれた。しかもマルクス主義の階級史観だけではなく、沖縄と日本を貫く緊張関係、中央政府と辺境地域のもつ関係性をきちんと認識すべきだと、沖縄と日本が国家として併合される関係を捉えていた。こうした過程を執拗に問いかけていた。そこから復帰運動が持つ限界と弱さを突いていたのです。
 いま、鳩山政権が海上案、陸上案とか、出ていますが、それは沖縄と日本の歴史に通底する国家の論理がずっと継承されているのだと思います。沖縄は日本の「国内植民地」だったとおもいます。いまだにこうした歴史は続いているのです。

――数年前になりますが、沖縄タイムスの特集記事で「独立論の系譜」という連載記事がありました。沖縄の自立・独立をめぐる議論は沖縄では脈々と受け継がれているように思います。
山城 九七年ですか、大山朝常5さんの著書「沖縄独立宣言」が発刊されました。わたしはこの本を見て泣きましたよ。あの大山さんがそこまで言うのか、大山さんがコザ市長の時代には、私は批判的でしたが、大山さんが自身の親族を沖縄戦で奪われ、年老いた大山さんが述懐をして切々と「日本は帰るべき祖国ではなかった」と書き記しているのを見て本当に泣きました。これは沖縄人の本音だと思います。だから、復帰運動の最前線にいた人々や社大党の当時の運動を担った人々を一概に否定することはできないと思っています。既存の復帰運動のエネルギーについて否定はできない。そこにはウチナーンチュの復帰運動の裏にある本音があったと私は見ています。薩摩侵攻以来、沖縄人は日本による深く抜きがたい差別支配の構図を見てきた。結局、辺野古しかないと、民主党政権が言っているのも、日本の支配の歴史の反復だと思います。沖縄が置かれてきた位置の反復です。そういう歴史認識に立って運動しているのは、照屋寛徳さんや山内徳信さんなどの世代も一緒の気持ちだと思います。照屋さんはサイパンの捕虜収容所で生まれた人です。やんばるの森をさまよった山内少年、この歴史体験が彼らの運動の根っこにあるわけです

――大山さんの「沖縄独立宣言」が発刊されたのは、九七年だとおもいますが、同じ年に、「独立をめぐる激論会」6が開催されています。
山城 はい、私も参加しました。あのときは、復帰運動を担った人々も多く参加していて、かつての復帰派の沖教組の花城さんなどと大変な激論となりました。復帰派は、当時の戦略論を展開しながら論陣をはりましたが、結局、復帰運動の総括について整理できなかったのではないでしょうか。

――昨年は薩摩侵攻四百年、明治政府の琉球処分から百三〇年という節目の年でした。沖縄ではさまざまなイベントが開催されたということですが、依然としてこうした節目には、独立論の議論は繰り返されています。この潜在的な系譜は今後も続くのでしょうか。
山城 それは沖縄の人々がウチナーンチュという自己のアイデンティティを捨てない限り自立とか独立論は消えることはありえません。私の心の中でも自分はウチナーチュだと思っているし、自分は日本人ではではないと思っています。日本国籍を有する国民ではありますが、ウチナーンチュであると思っています。それは複雑な思いでもあります。心の中では葛藤があって、あなたは日本人ですかと問われれば、いや、ウチナーンチュですよと応えます。大きな時代の節目があれば、自決権(自己決定権)を行使するかもしれない。事実、歴史的には明治政府の琉球処分に反抗して、沖縄の救国運動・脱清人の行動もありました。当時の清国に日本の侵略から逃れたい思いで、中国(当時の清国)にわたって助けを求めた。そういう決断だってあるわけです。もし、日本政府がこれ以上のやりたい放題の仕打ちが続くなら、そういう選択もありうると私は思っています。

――少しアジアに目を転じてお話を伺います。復帰の当時、全軍労の労働者に接していた川田洋さんは全軍労の女性労働者が復帰派の社大党の幹部に向かって『私たちは日本人ではないよ。アジア人だよ』とヤジっている光景を目撃した話をある雑誌に書いています。基地の実態を放置しまま、強引に返還を強制した政府の仕打ちに怒る沖縄の人々のエピソードだと思います。ウチナーンチュの魂には、日本よりもアジアという意識を感じますがいかがでしょうか。
山城 日本人ではないよ、という意識は、返還を巡る沖縄の抗議の裏返しでアジアという言葉がでたのかなあと思います。ただ、本来、ハワイ、ミクロネシア、ポリネシアの海洋民族の人々は、広い南太平洋に点在する島々で、互いに交流する中で海洋の道を拓いてきました。小さな木造船で星空の観測だけを頼りに、沖縄や大和の島々にまで足を伸ばし、自由に航海していたと思います。こういうルーツがあるから、サイパンの人、テニアンの人、沖縄の人も顔かたちがよく似ています。その血があるから沖縄の祖先は、かつてサバニを駆使して東南アジアの人々と交易し、例えばシャムに行って酒をもらって帰って、今はそれが島酒・泡盛に繋がっています。島唄の音階もインドネシア音楽の影響を受けています。そういう祖先からの血は、アジアに開かれた思いに繋がっているはずです。そのことからも、鳩山総理がアジアに重心をおいた外交をすべきだと言ったのは、その中身はわかりませんが、私はそれに関してはその通りだと思いますね。

――最後に、日本政府に対して言いたいことはありますか。
山城 今日はいろいろな話をしましたが、今日お話した七〇年前後の辛かった過去の思い出、最近では大山朝常さんの著書との出会いですとかは、自分が沖縄の歴史の中で生きてきたことの再認識です。自分自身、間違った生き方をしてきたわけではない。もちろん、今後の闘いでも自信と誇りを持ってやっていこうと思っています。これまで私がお話した沖縄の歴史を、私たち沖縄の人間は共有しているのだと思います。だから、ウチナーンチュは、いざとなれば総結集して闘うはずです。この沖縄のエネルギーには私は確信を持っています。例えば、ウチナーチュという意識を捨てろと言われ、日本人と思いなさいと言われて、それで沖縄が救われるのであれば、とっくにそうなっていたはずです。しかし、そうではない。それは沖縄の歴史が証明しています。かつての皇民化教育の中で日本人になって、天皇の赤子となって、救われたかというととんでもない。沖縄は一億玉砕の名の下に、総決戦、総玉砕を強いられた。それが沖縄戦でした。だから沖縄の人はわかっています。自分がいる位置はこの沖縄の島だし、この島で生きていることが自分たちの存在を証明しているのだと思っています。そういう認識がある限り、日本政府がどんな無理難題を沖縄の押し付けたとしても跳ね返そうという力は残っていく。日本政府に迎合し、万歳して「好き勝手にやってください」ということには絶対なりません。そのことを日本政府は知るべきだと思います。平野官房長官が、もう一回、辺野古に持ってくるなんて平気で思っているとするなら、それは沖縄のことを知らないからだと思います。私たち沖縄はこれまでも闘ってきたように、これからも闘って行きます。

――今日はお疲れのところ、雑誌『情況』の読者ためにわざわざ時間を割いていただいてありがとうございました。

山城博冶(やましろ・ひろじ)沖縄平和運動センター事務局長、一九五二年、沖縄県うるま市(旧具志川市)生まれ、五七歳。


【注】
1 安次富浩、辺野古の新基地反対運動の中心であるヘリ基地反対協の共同代表。
2 「高江の現状」http://takae.ti-da.net/
3 国会爆竹闘争、一九七一年二月、沖縄青年同盟の三名が沖縄国会の傍聴席から爆竹を投げて逮捕された沖縄青年の闘い。
4 新川明、川満信一、岡本恵徳の三人は反復帰の沖縄トライアングルといわれた沖縄思想界の論客。
5 大山朝常、九八歳で死去した元コザ(現沖縄市)市長で、沖縄の次世代に「遺言」として残した「沖縄独立宣言」は、九七年、沖縄でベストセラーを記録した。
6 九七年五月、「本土復帰」二五年の節目を迎える中、沖縄の独立を自由に論じようと「沖縄独立の可能性をめぐる激論会」が、那覇市民会館を会場に二日間の日程で開催された。 県内外の活動者、学者、文化人、経済関係者が多数参加。


<『情況』2010年4月号【シリーズ】時代の転換を沖縄に聴く−苛政に育つ琉球弧の自己決定権 その2>

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