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5・15沖縄にとって日本とは



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仲地 博


なかち・ひろし 1945年生まれ。74年明治大学大学院法学研究科(博士課程)公法学専攻単位取得。専門は行政法。琉球大学教授を経て現在、沖縄大学教授。沖縄道州制懇話会の座長も務めた。

同化から個性重視へ
豊かな自治の土壌に期待


 1972年5月15日、「復帰」の日は沖縄出身学生の学生寮、千葉の沖縄学生会館で迎えた。私は寮生ではなかったが、おそらく話し相手が欲しかったのだろう、14日の夜から入り込んで、午前零時、ちょうどその瞬間を迎えた。そこで、誰が言い出したか、抗議のデモをしようということになり、寮生の半分ぐらいで、深夜の駅前をデモ行進した。
 駅前といっても住宅が近接したところで、シュプレヒコールをすると、案の定、家から出てきた住民に怒られ、少し声を落として早々にデモを切り上げた。迷惑をかけたこちらはしゅんとなったが、怒鳴った方も沖縄の学生とわかったのだろう、「しょうがない」と思ったが、後味悪そうに引き上げていった。復帰を象徴としているようで、今も鮮明に思い出す。

憲法と逆方向へ

 復帰運動は、平和・人権・自治が脅かされる現状に対しての抵抗だった。しかし、沖縄返還によって、安保がアジアへ拡大し、日本にも核が置かれる状況になった(沖縄の核抜きは疑問視されていたし、現在も密約の存在などが明らかになっている)。当時は「うっちゃり理論」とも呼ばれたが、沖縄返還を利用して日本は沖縄化され、憲法とは逆方向へ向かうようになった。
 さらに軍雇用員の大量解雇、ドル不安、物価の高騰など先行きが見えない中、復帰に託した夢が裏切られるような気持ちになったのだろう。だから、復帰した日の深夜のデモは、抗議する相手やアピールする相手が目の前にいるわけではなく、やり場のない気持ちの表れではなかったかと思う。
 復帰運動は、1965年ごろから平和・反戦運動の性格を強めていくが、それまでは「小指の痛みは全身の痛み」「母国に帰り、分かれた民族が一つになる」というナショナリズムを基調としていた。そのために沖縄内外の広範な人々を結集することができ、民族運動になった。
 首里高が始めて甲子園に出場したのが1958年。選手たちが持ち帰ろうとした甲子園の土が、防疫法に反するとして、那覇港沖で海上に投棄させられた事実は、全国に報道され、沖縄への同情を集めた。原真弓という歌人はそれに対して「まがなしき(大変いとおしい)土を握れば民族の血潮流れて沸き出つものを」と歌った。この短歌が、同一民族の再統合の檄として違和感なく受け入れられる状況だった。

持ち始めた自信

 首里高校の応援歌には「日本の土」というのがあった。教育の場でも、怒とうのような同化運動だった。しかし、復帰が実現すると、短時間のうちに、沖縄の歴史や伝統、文化などの肯定的評価が高まり、個性を重視する傾向が表れ、今や主流になっていることは、驚きである。
 復帰10年目になったころの80年代前半、雑誌「新沖縄文学」で琉球共和国憲法私(試)案、玉野井芳郎氏のいわゆる沖縄自治憲章、自治労県本は沖縄特別県制構想を提唱した。当時これらは広範な支持というまでには至らなかったが、背景には、沖縄が自信を持ち始めた表れがあったと言っていい。
 それから80年代後半には、県外出身の琉大生が他県の学生に対して「沖縄は日本ではありません」と誇らしげに語り、沖縄出身の学生、そして聞いていた他県の学生も好意的に受け取るようなことにまでなる。このように沖縄の個性を前面に出すということは、復帰前にはあり得なかっただろう。
 アイデンティティーを確認することは自立の意識であり、歓迎することだ。

自立への実験場

 90年代に入ると、地方分権と規制緩和は、明治維新、戦後の改革に続く第3の改革として国民的な目標になった。95年の大田県政による抵抗は、当時強まっていた閉塞感を打破する旗手するように見られた。地方分権を進めるために機関委任事務の廃止が訴えられてきたが、それが目に見える形で現れたのが代理署名拒否だった。分権への世論づくりに沖縄の果たしてきた役割は大きかった。
 分権改革の目的は何か。地方分権改革推進法には「個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現」がうたわれている。沖縄は、それを大して意識することもなく肩ひじ張らずにしかも強力に行っている地域といえる。
 沖縄がのびのびと自己主張することができる時代になった。地域主権という用語は、政治的にはいまだ流行語の域を出ないが、地域のことは地域自らで決めるという国のあり方は、不可逆であろう。さらに、できるだけ住民に近いところで決めるという考え方も実践の中で定着するだろう。
 復帰前は、米軍統治に反発するエネルギーが、民主主義を学ぶ学校の役割を果たした。また、軍事優先の大枠がはめられていたが、琉球政府が自治の実験場の役割を果たした。加えて、先に挙げたさまざまな自立構想が思考上の実験となった。沖縄は自治の土壌が豊かであるということだ。住民がどういう種をまき、どういう花を咲かそうとするか、期待は大きい。(談)
(沖縄タイムス20100512)



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仲宗根 悟

なかそね・さとる 1927年沖縄市美里生まれ。旧日本海軍入団後、46年に復員。美里村青年会長、県青年団協議会副会長、美里村議会議員などを歴任し、66年、県祖国復帰協議会事務局長に就任。復帰運動に力を注いだ。

米軍からの人間解放
日本は平和憲法守るべき


 復帰運動は究極的には、戦後沖縄の過酷な米軍統治下での人間解放の運動だった。復帰運動が本格化したのは1960年の「県祖国復帰協議会」の結成以降という見方があるが、沖縄の戦後闘争の経過をたどると、大きな役割を果たし続けたのは各地域の青年団組織だった。
 一木一草もない沖縄で、兵役から引き上げた私たちはまず共同で家をつくり、畑を耕し、生活環境をつくった。また深夜はいかいをする米兵の犯罪行為から婦女子を守るため、各地域に酸素ボンベ(警鐘)を下げて自衛した。米軍の食糧配給停止に抗議してストライキを行うなど、青年たちがさまざまな権利要求を行い、それが復帰運動につながっていった。しばしば復帰運動に関して復帰脇だけに注目する傾向があるが、それだけでは戦後沖縄の闘争が見えない。

「初歩的勝利」

 復帰運動はただ日本に復帰することを目的にしたものではなく、人間解放の主体的な闘いだった。沖縄の基地負担のあり方など実際的な復帰の内容については不満があるとしても、結果としてはかつて中国の周恩来元総理が語ったように「初歩的勝利」だと言える。振り返ってみると沖縄は、戦後一貫してこのような立場の闘いを構築し、実践してきた。近現代から、現代に至るまで、基地負担をはじめとして、差別や抑圧、民衆が反対するような政治状況を沖縄に押しつけ続ける日本のやり方は、薩摩侵略から401年目にあたる今日まで、まったく変わっていない。
 今になって復帰運動は失敗だったという人もいるが「日本復帰しないでいい」というためには、「復帰」に対するアンチテーゼ(代替案)が必要。「〜しないでいい」という否定だけでは誰もついていかない。それが、いわゆる「反復帰論」が運動につながっていかない理由だと思う。例えば現在、道州制や自治論などの問題がさまざまに議論されている。だが、それを勉強し、理解を深めはするものの、県民運動、大衆運動にまで発展する取り組みは弱く、その手前でとどまっているのではないか。主張するだけではなく実践することが重要だ。

アジアの一員

 復帰運動の精神は、軍事防衛の重要性を強調する立場に対して、軍隊が国を滅ぼす「軍事亡国」ということを、沖縄が身をもって歴史的に体験した上での「絶体平和主義」を顕彰する思い。しかし現在、そのような沖縄の歴史認識とヤマトの歴史認識とがまったく違うということがはっきりしてきている。
 明治期の日本は琉球処分などを経て脱亜入欧の道を進んだが、沖縄も含めた日本の立場は地勢的にも、歴史的にもアジアの一部。だが、脱亜入欧の道を選んだ結果、東アジアに対する侵略を進め、その歴史がいまだに反省し統括されていない。そのことが、日本が沖縄を犠牲にし続ける根幹にあると思う。
 米国の属国として米国を背中にしながら、中国や北朝鮮などと対決姿勢で臨むのではなく、アジアの一員としての位置を明確にし、近隣諸国と友好関係を築く。そして非武装、非軍事という平和憲法の精神を顕現する。それが日本に求められている本来の立場だと思う。

命がけの闘い

 今、ヤマトに問いたいのは、日本は独立国家、主権国家なのか、日本の沖縄差別、犠牲の強要は国策なのか、日本は本当に人間の尊厳が尊重される国家なのか、ということ。米国の属国として言いなりになるのではなく、アジアの一員として、平和憲法の非軍事、非武装の精神を顕現する、それが日本の本来の立場だと思う。
 復帰運動を経た後、今日的にも県民の意識が質的に変わり、高まってきたと思う。
 戦後沖縄の住民運動は、人権や自治、民主主義など、ひとつひとつを命がけで闘い、無から勝ち取ってきたものであり、ヤマトのように与えられたものとは違う。
 先日、読谷村で行われた米軍普天間飛行場の国外・県外移設を求める4・25県民大会でも、9万人余りが怒りを持ち拳を握りしめて参加しており「烏合の衆」ではない。しかしヤマト側は「沖縄は大変ですね」で済ませてしまう。
 戦後闘争を経て、沖縄の先進機運はヤマトを圧倒していると言える。かつての沖縄はヤマトに対するコンプレックスがあったのは事実だが、現在は日本解放の原点が沖縄にある。沖縄は基地負担などの犠牲を強要されているが、日本は平和憲法の精神をきちんと顕彰し、守るべきだ。それを沖縄の戦後闘争を原点にして、実践していくことが沖縄の生きる道であり、沖縄人の願い、私の願いでもある。(談)
(沖縄タイムス20100513)



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仲里 効

なかざと・いさお 1947年南大東島生まれ。批判家。95年に雑誌「EDGE」創刊に加わり、編集長。著書に「オキナワ、イメージの緑(エッジ)」「フォトネシア」など。

復帰は併合プロセス
自己決定権問われる時期


 1972年の5月15日はとても憂うつで、悔しい思いもした。69年の日米共同声明で沖縄返還の全体像がはっきりした。それは、沖縄の基地機能を維持、高度化しながら、日米の共同管理体制に取り込むという内容だった。その時はまだ東京にいたが、進学や集団就職でヤマトに来ていた沖縄出身者は、沖縄の返還をめぐり、どのような態度をとるかが問われた。それは単に政治状況的の意味としてではなく、大げさな言い方をすれば、沖縄にマンブリーレ、沖縄をマンガタミーしていた沖縄出の者として全存在をかけた実存的なかかわりであった

第3の琉球処分

 当時の僕らはけっして「復帰」とは言わなかった。第3の「琉球処分」、日本による沖縄の併合のプロセスとして認識し、その併合の制度的な結節ととらえていた。72年5月15日に東京と那覇で行われた「復帰記念」の式典や祝賀がテレビ中継された。東京では佐藤首相が「戦争で失われた領土を平和的に回復したことは史上きわめてまれなこと」と自画自賛する一方、那覇では屋良主席が「いいしれぬ感激」を表明し、復帰を礼賛した。この佐藤―屋良の二人の発言は、復帰運動の論理がナショナリズムの論理に回収された結末を象徴するできごとだった。
 結局、復帰は日本国家による沖縄の併合だった。72年5月15日以後、沖縄振興開発計画などで本土と沖縄との一体化路線が国家政策として打ち出され、貫かれていった。その結果、復帰後38年になる現在の風景は、一見すると政治的にも社会的にも日本の中の「一県」のように思える。しかし、日本国家の内部でありながらも、内部に収まりきれない「沖縄性」や「外部性」を開口部のようにもっている。そのような沖縄の特異性が復帰後も節目節目で表れ出る。例えば、95年の米兵による暴行事件への8万5千人の異議申し立て、2007年に11万6千人を集めた教科書検定意見撤回を求める大会、そして今回の普天間基地の県内移設反対を求めた9万3700人の結集。そうした民衆のエネルギーは沖縄戦の体験とアメリカの占領体験によって培われた意思の形であり、領土的思考や国民主義的な視線の〈外〉を示唆している。琉球弧の潜勢力、さらに無視できないのは沖縄の歴史意識の潜在的な力である。昨年は琉球処分130年、薩摩侵略400年ということで、あらためて沖縄が日本に併合されたことの意味が問い直された。たとえ沖縄が日本の制度空間の中にあったとしても、そこには囲われない沖縄のもつ〈非日本性〉に注目せざるを得ない。今回の普天間移設=新基地問題で、徳之島の3町長が鳩山首相と会談した後のコメントで、伊仙町の大久保明町長が「この基地問題で島民の多くが歴史を思い出した。沖縄県民と私たちは歴史的にも文化的にも民俗学的にも同胞で、気持ちは痛いほど分かる」と発言していた。大久保町長の発言は去年、薩摩侵略400年、琉球処分130年が沖縄や奄美諸島で熱を帯びて議論された深層意識にあるもので、琉球弧の潜勢力を浮かび上がらせもした。基地問題は基地問題に限定されるものではないということを強く感じさせられる。沖縄をめぐる状況の本質は、抑止力とか防衛とか軍事的側面には還元できない、民衆の意識空間や身体性にまで視線を下ろしていかなければ核心を見誤る。

沖縄自身の地図

 沖縄には日本という国民国家を相対化しつつ、独自な主体と政治空間を創出していく思想資源の蓄積がある。例えば1960年代後半〜70年代には、近代にさかのぼって沖縄人の同化主義の病根を内在的に批判しながら、日本国家にノンを突きつけていく「反復帰」の思想があった。沖縄の固有性に根をはった社会的、政治的構想の系譜をたどれば、80年代になって復帰を問い直すかたちで「沖縄特別県制構想」や「沖縄自治憲章」、そして反復帰論の転生として構想された「琉球共和社会憲法」や「琉球共和国憲法」などがあった。琉球弧の先住民族としての権利を国連勧告として引き出した若い世代の実践も新しい。これらは日本国家の内部での自治にとどまるか、国家を超えて新たな政治体を創り上げるかの違いはあるものの、沖縄の自立力をめいっぱい引き出そうとする、貴重な試みであった。
 95年以降の各県民大会に表れた民衆のエネルギーの可能性をどう考えていけばいいのか。「抗議・要請型」に終わってしまっている不満がどうしても残る。むろん、沖縄の不条理な現実に対して、何度でも抗議や要請を行うことは必要だが、そこだけにとどまっていては国家間の政治ゲームに囲われかねない。抗議・要請型の運動から離陸し、沖縄の自立の思想資源に接続されるとき、はじめて沖縄の主体の思想が可能性の中心としてせりあがってくるだろう。言葉を換えて言えば〈琉球弧の自己決定権の樹立〉ということであり、イタリアの思想家アントニオ・ネグリが言う「構成的権力」につながる越境する思想を時代の先端に刻み込めるかどうかである。沖縄自身の地図を作成すること、果敢に未知に向かって踏み出すこと、今はまさにそういう時期なのだと思う。(談)
(沖縄タイムス20100514)


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