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「反復帰・反国家」の思想を読みなおす


徳 田  匡



はじめに

 本論で扱うのは、1960年代末期、沖縄の「日本復帰」「施政権返還」が既定路線となった時期に、「復帰」運動への違和感とともに「日本国家」を「相対比」しようと試みた、決してメインストリームになることのなかった「反復帰」「反国家」の思想である。この「反復帰」「反国家」の思想が、表立って現れるのは、すでに「復帰」「施政権返還」が「既定路線」となった時期である。このことは、「反復帰」「反国家」の思想を担った人々の私的な事情が多分に影響しているが、しかしこの時期、かれらが具体的な政治活動ではなく、「思想」という次元にこだわったのは、なぜだろうか。論を先取りして言えば、日本国家に包摂されることによって、野党や労組をふくめた沖縄の大衆運動が、東京中心の組織運動に系列化されるとき、保革を問わず沖縄の大衆運動は日本国家の変革のために動員されるのであり、そこでは沖縄は運動の全体に対する部分としてのみ扱われるという事態が予想された。そのような全体化のなかに埋没するのではなく、「沖縄」において「沖縄」を問うためには、それとは別の道を模索するしかない。「反復帰」「反国家」の思想の担い手の一人である岡本恵徳は、「復帰」を通過した1973年に次のように期している。


 中央への系列化を急ぐ人たちには、多くの沖縄の組織が日本のそれの部分と化しても、沖縄の独自の活動は可能であり、むしろその面では中央を領導する性格を持ちうるというのだが、政治を実効性において捉える限り、その可能性は乏しいと考えられる。機能的に、実効性を重視する立場に立つ限り部分が全体を領導することはかえって運動の停滞かマイナスの結果をもたらすばかりだからである。
 その意味でも沖縄が、政治において持ちうる特殊な意味があるとすれば、それは政治も機能や実効性においてよりも、むしろそれを超えたところの“思考性”において他にないといってよい。
 〔中略〕そしてそれは、多くは米軍の軍事占領支配に対する住民の抵抗によってもたらされたものであるが、そのような抵抗は、まさしく政治を日常の次元で捉えたり、あるいは機能として実効性を持つものとして捉える発想を超えるものを持っていたのであり、その意味では人間のありようにかかわる“思想”的なものとして生きていたのである。“イモとハダシの生活をえらぶのか”という保守党のドウカツに対して、同じく機能性と実効性において選びとったならば、おそらくはあのような抵抗も、そしてあるいはその後の“自由性”もありえなかったに違いない。
[岡本(2007)p.114―115]


 ここで岡本が「思想」という言葉によって押し広げようとした地平は、政党政治や、「復帰」に対する具体的な「代表」を提起していくといった意味での「思想」とは、大きく隔たった思想である。岡本が述べているように、彼らにとっての「思想」とは、「自ら生きているこの『沖縄』を明確に対象化し、いわば生きている人間の原拠から捉え直そうとする試み」であり、そのことによって「施政権の返還以降もなお持続する闘いを組みうる基礎をつくりあげようとことにあった」というところの、そのような「思想」であったのである[岡本(2007)p.107―109]。
 したがって、沖縄における「思想」とは、「沖縄」で語られたという意味ではなく、日常のなかに継続的に生起し、偏在する戦争と占領を体現する「沖縄」を捉えようとする不断な試みであると言えるだろう。
 そのような意味での「思想」がいっきに吹き出したのが、「復帰」「施政権返還」をめぐる1972年前後であり、その中心が「反復帰」「反国家」論であった。この思想から看取されるのは、「沖縄(人)」であること、つまり「日本(人)」に対峙する独立した〈主体〉としての「沖縄〈人〉」を立ち上げることではなく、そのような〈主体〉の立ち上げに見えながら、しかしそれとは別の可能性を提示していくことによって、逆説的に日米による帝国主義/植民地主義を根底から触もうとする希有な試みであったとひとまずは言えるだろう。
 「反復帰」「反国家」の思想を問い直す今日的な意義とはなんであろうか。制度的な観点からいえば、施政権返還は、あの有名な屋良朝苗の発言において、貫徹されたといえる。しかし、思想的な観点からいえば、現在においても反基地闘争のなかで、「復帰運動などしなければよかった」[徳田(2004)]という後悔の念や、1985年当時沖縄県知事であった西銘順治が「沖縄の心とは?」と問われて、「ヤマトゥンチューになりたくてもなれない心」[稲垣(2005)p.79]と吐露したように、「復帰」や「沖縄」という語は、施政権返還も問われつづけている。
 またその一方で、次のような言説も存在する。


 日本は沖縄にとって「祖国」であり、「祖国」に復帰することによって自らの曖昧な地位を解決することができる、と考えた。
 そのような認識を政治的に表現したものが日本復帰運動であり、この運動の結果、1972年5月15日、沖縄は日本に復帰して再び四七番目の県となった。つまり、沖縄の住民は自らの所属すべき国家が日本であることを選択したのである。

[大城、高良、真栄城(2000)p.4]


 沖縄は離島であり、島民の生活にも、殊に現在の経済状況は厳しいものがあると聞いていますが、これから先、復帰を願ったことが、沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、日本人全体が心を尽くすことを、切に願っています★1。


 「復帰」に「拒否」を焼き付けようとした多くの人びとの存在を闇に葬りさろうとする言説が、沖縄の人びとの「選択」や「願い」として、日本の統合の物語へと沖縄を動員するという欲望であることは間違いない。このような言説の存在が、沖縄の国家統合が未完であることの証左であるというよりは、擬制的な「日本人」を産出しつづけるためには、ほかならぬ「沖縄」がつねに動員される必要があるということだろう。
 また、上述した「復帰」や「統合」の物語に対して、一見すると「拒否」を訴える言説のなかにも、「日本人」と「沖縄人」の対立を先鋭化させつつ、日米同盟という沖縄の支配体制を不問にするものも台頭してきている。野村浩也は「無意識の植民地主義――日本人の米軍基地と沖縄人」のなかで次のように述べている。


 75パーセントもの在日米軍基地を強制することによって、日本人は沖縄人に屈辱を与えている。一方、沖縄から日本への基地移転は、決して日本人に屈辱を与えるものではなく、むしろまったく逆である。なぜなら、それは単に平等を実現することでしかないからであり、沖縄人に圧倒的な不平等という屈辱を与えている日本人が、その行為を積極的に終焉させることを意味するからである。
[野村(2005)p.40]


 日米安保、あるいは、軍事基地という国家による暴力の独占形態の最たるものの「平等」な負担が、人びとから「屈辱」を取り除くとする転倒した理論において、「日本人」「沖縄人」という名称を使った議論は、先の明仁の「復帰を願ったことが沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、 日本人全体が心を尽くすこと」という発言と奇妙に響きあってるといえるのではないだろうか。そこでは、植民地主義批判が、「日本人」と「沖縄人」という二項対立を動員しながら、「平等」という字句でもって、国家を再統合するという転倒が起きているといえるだろう。
 このような閉塞的な「沖縄」を打開するためにも、「反復帰」「反国家」の思想を問い直す意義は十二分にあるだろう。1970年に新川が「領土と主権の回復を目指すことで階級支配の永続的固定化を図る国家(日・米)の国家目的に、より高い(あるいは深い)次元で合致するばかりではなく、そのような国家目的を究極的には大衆的基盤で下から強力に補強する役割を担わされることにしかならなかった」[新川(1970)p.12,(1971,1996)p.69]と「復帰運動」を批判する文章を読むとき、その射程が今日の状況を撃ってあまりあるとさえいえるのである。
 したがって、本論考の目的は、日本思想史という通史のなかに「反復帰」「反国家」の思想を位置づけ、回収するのではなく、形を変えて継続する戦争と占領という国家統合と国家暴力に対抗する思想的抵抗の拠点として沖縄の思想を鍛え上げるために、いま一度、「反復帰」「反国家」の思想を問い直すことにある。のちにみるように、そこには、未発の可能性とともに多くの危うさもみえてくるだろう。その危うさも含めた「反復帰」「反国家」の思想の豊かさを描き出していこうと思う。


1 「沖縄人」

a 新川明における「沖縄人」


 「反復帰」「反国家」の思想を語るとき、特に新川の次の言葉が頻繁に引用される。


 少なくとも私が「反復帰」という時の「復帰」とは、分断されている日本と沖縄が、制度的に再統合するという外的な現象を指しているのではなく、それはいわば、沖縄人がみずからすすんで〈国家〉の方へと身をのめり込ませていく、内発的な思想の営為をさす。その意味で「反復帰」とは、すなわち個の位相で〈国家〉への合一化を、あくまで拒否しつづける精神志向と言いかえて差しつかえはない。さらに言葉をかえていけば、反復帰すなわち反国家であり、反国民志向である。
[新川(1971,1996)p.305]


 「あくまで拒否しつづける精神志向」に、既定路線の施政権返還ののちになお「国家」を問い続ける土壌を確保しようという強い思いが見受けられる。しかしここで問わねばならないのは、新川の思想の足場となる「沖縄人」の使い方と、「個の位相」という言葉である。
 ここで新川は、日本国へと「復帰」していく「内発的な思想の営為」を、「沖縄人」に投影して批判的に捉え、それに対峠する自らの足場を「個の位相」においている。「個」という言葉は、『沖縄文学』第18号で組まれた特集「反復帰論」のなかで、編集者の牧港篤三が最初に書いたものである。


 1972年という復帰は、日・米両政府の権力者たちによって設けられた。この規定の上を否が応でも走らなければならぬ、不条理なレール、それも多分に幻影と仮説に満ちた架空のレールを前にして、わたくしたちは再び仮構を叩いて模索する。
 即ち、「反復帰論」を編む真の目的はそこにある。
 全体論に対する個の問題、体制の中へ投入する個の抹殺。これはなんといっても容易ならぬ問題だろう。このいらだちが一口にいって、沖縄に許された当時の発言とすれば、それは苛酷な歴史と、その上に立つ回帰ですらある。唯一の、かけがえのない精神的埋蔵量が地下につらなっているのを発掘する作業は、これからであり、今号と次号の二回にわたって特集する“反復帰論”は、その端緒となる。★2
[新沖縄文学(1970)p.56]


 新川の「個の位相」もこの文章を前提に書かれている。日米による占領継続の思惑と、それに追従していく「復帰」運動が、「全体論」であり「体制の中への投入」であった。いわば「個の問題」や「個の抹殺」、あるいは「個の位相」という規座は、大きな流れである「復帰」を相対比するための視座という意味であったと思われる。というのも、のちに見るように、新川における「日本」を相対比する視点として描かれる「美意識」や「異族性」は、日本とは異なる「沖縄人」に準拠して行われることになるからである。つまり、「個」という視座と「沖縄人」という視座は、新川の中では反目しているわけではないといえるだろう。
 また、この時期の言葉の意味として押さえておきたいのは、「民族主義」や「ナショナリズム」である。厳密な定義を伴わないこれらの言葉によって表現されていたのは、当時の「異民族の支配」というフレーズである。米軍を「異民族」とする視線は、翻って「祖国」「日本」を同じ民族として統一を図るという思いに満ちていた。
 これに対する新川の認識は次のようなものである。


 〔72年復帰を前にして――徳田〕それぞれの立場、利害に立って不安、焦燥、我欲をからませ、自己矛盾をあらわにした思想の混乱をみせているが、その要因は基底にある「異民族支配からの脱却」という共通の心情的民族主義が、保守側はそれなりに、革新は革新なりに決定的に作用しているのではないか。
〔中略〕「復帰尚早論」に代表される保守人でも、決まってそのマクラ言葉で「日本人である以上、復帰に反対するものではない。復帰を願うのは当然のことだ。がしかし……」という形で心情的民族主義に秋波を送ることを忘れなかった。
 いっぽう革新側も、〔中略〕“はば広い統一”の美名のもとでたたかいの基本原理を圧殺したところで、民族的心情主義の歓心を買うのに血道をあげてきた。
 そこであらわれる保守・革新は、いわば心情的民族主義を母体にした双頭児であり、ともに冷徹な国家の論理に対する認識を欠落させているため、復帰は「民族の悲願」として見事に投げ与えられたわけである。
[新川(1970a)]


 このように新川は、保革を問わず「復帰」運動の中に偏在する「心情的民族」「民族的心情主義」を痛烈に批判していく。
 しかしその新川の「国家としての日本」への批判それ自体も、往々にして新川が批判する「心情的民族主義」的な様相を帯びたものであったことも強調しなければならない。つまり、新川は「日本人」へと合一化することを批判はするものの、その批判の根拠を「沖縄人」においているという点で、自らの「沖縄人」には「心情的民族主義」を当てはめていないように思われる。
 この点についてはすぐに反論を呼び起こすであろう。例えば新川は次のように書いていたからである。


 ことさらに断ることもないことだが、そのことは沖縄人が学理的な意味で日本民族の紛れもない一員であるか否かというたぐいの議論とは無縁(次元が異なる)のことであり、あくまで沖縄人の個人的位相における意識の中で「国」あるいは「日本=ヤマトゥ」がどのように知覚されつづけるのか、という問題として把握されなければならない。
[新川(1971,1996)p.11]


 この文言をもって、新川の思想には「民族主義」がなかったと主張し、免罪するのは誤りである。なぜなら、この新川でさえ、次のように主張していたからである。


 沖縄(人)の日本(人)に対する「潜在的な距離感」の深さに由来する「差意識」は、日本(本土)に対する決定的な「異質感」に根ざしたものである。そして、その「異質感」はいうまでもなく沖縄(人)がこれまで歩んできた歴史的・地理的の条件(明治の「琉球処分」まで独自の文化圏を形づくってきた)ことによって形成されたものである。
[新川(1970b)]


 意識=価値観念も含めて、人間集団(一つの種族にしろ民族にしろ)の文化の形成過程を、たかだか百年そこらの時間を視野において考えることは、およそ無意味にひとしいからである。たとえば沖縄人の文化(意識)を考えるにしても、いわばヤマトゥ(日本国)の成立以前に及ぶ、ほとんどの時間を無限遡行するほど遠い昔からこの南の島々に住みついてきた私たちの祖先にたちにまで思索の触手をのばしながら、そのような気の遠くなるほどの時間の堆積の中で形成されて今日に至っている文化(意識)を、その深層にまで踏み込んで捉えつつ考察しないかぎり、文化(意識)の累層的な複合構造の解明は、およそ不可能であるからである。★3
[新川(1971,1996)p.80]


 吉本隆明が、弥生式文化以前の古層としての琉球・沖縄の存在によって、日本の天皇制支配を穿とうと画策した「異族の論理」[吉本(1996)]に影響を受けつつ紡ぎ出されるこの新川の「異族」感の表出は、「独自の文化圏」を「無限遡行するほど遠い昔」の「わたしたちの祖先」へと隔たりなく接続できることを無批判に前提にしている。これを「心情的民族主義」でないと言い切れるだろうか。もっといえば、そこに「沖縄人」の民族的な再生産を導入してはいないだろうか、と疑義を挟みたくなるのである。
 ところで、ここで新川の主張する「差意識」は、琉球大学教授であった東江平之の「沖縄人の意識構造の研究」(『人文社会科学』第一号琉球大学人文社会科学研究所、1963年11月)という1963年に書かれた論文を学的な根拠にしており、新川も本文中でも何度も引用している。この東江論文は、沖縄人の特徴を「事大主義」で「劣等感」をもつと述べたあと、「沖縄人にとって、初対面の相手が沖縄出身であるか他府県出身であるかが判明することはきわめて重大なこと」とし、沖縄出身であれば問題ないが、「『本土』出身だと判明したとたん、差意識が現実以上のものに及ぶ」とのべ、「それは『本土』と沖縄の間に大きな潜在的距離感が横たわっていることと関連する」と結論づけている。この東江論文は、「沖縄人」という自明視された存在を前提として「差意識」の根源を見出そうとしている。
 「沖縄人が学理的な意味で日本民族の紛れもない一員であるか否かというたぐいの議論とは無縁(次元が異なる)のこと」といいつつ、新川が東江論文を自らの理論のバックボーンに据えていることは、強調されるべきだろう。そして、他でもないこの東江論文そのもののもつ政治性を感受しえていないこともまた強調されなければならない。というのも、東江は、当時論文が掲載された『人文社会科学』第一号の「まえがき」に「琉球大学人文社会科学研究所所長」の名で、その研究所の設立意義を以下のように書いている。



「琉球における人文社会科学の進歩及び、琉球に関する諸問題研究に資するため、研究所員相互間の学術的交流を計るとともに外国における人文社会科学の研究に従事する研究所及び研究者と相提携し、共同研究する」ことを目的として設立された。
[東江(1963)]


 この文章が、「沖縄」ではなく「琉球」と表記されていることはやはり注目に値する。確かに東江自信は、論文の中で「琉球人」や「日本」ではなく、「沖縄人」や「本土」という語句を使用しているが、この研究所の設立目的の中に「沖縄」ではなく「琉球」が配されていることは、63年当時も「琉球化」★4は存続していたことを意味する。この63年は、第三代高等弁務官ポール・W・キャラウェイが、「自治は神話」であると述べ、米軍政の強権を知らしめた年である。キャラウェイの住民観について、宮地悦二郎は、「少なくとも彼が弁務官の権限をフルに利用して離日政策を推進する一方で、博物館の建設など文化行政に力を入れて住民のアイデンティティーの再確認を促そうとしたことからすると、どうやら、“琉球人”は“日本人”とは別であり、独自のアイデンティティーを育成すれば、復帰運動を抑制できると考えていたものと思われる」と述べている[宮地(1982)p.256]。だとするなら、63年のこの論文は、東江の意図がどうあれ、「米軍政に資するもの」という可能性を大いに孕んだ論文であり、植民地占領統治を穿つという意味では、非常に危うい論文であったことだけは確かである。★5
 そして、序章で述べたように、「復帰」後における日本の文化政策のなかで、明仁が沖縄をうれう文章を書いていくとき、沖縄文化の「異質性」は新川のいう天皇を撃つ「異族」ではなく、まさに天皇を中心とする日本の文化的多様性の一部として再統合されていくのである。このような事態をみるにつけ、いよいよ危機は増大するといわねばならない。

b 岡本恵徳の「沖縄人」批判

 新川と同じく「反復帰」論者と知られる岡本恵徳は、「沖縄人」を「反復帰」「反国家」論のための中心に据えることはなかった。さらにいえば、それに批判的でさえあった。ここでは「新沖縄文学」第19号に掲載された岡本(このときの筆名は池澤聡)の「沖縄の「戦後民主ゝ義」の再検討」という論文から考えてみたい。★6
 岡本は、「沖縄人意識」における「異質感」を、「沖縄という土地に生まれ育ち、そしてその中で生活や文化を強烈の保持」している「“共同的性格”」が、「異質な生活や文化を所持する共同体と接触すること」によって感受されていくものであり、この場合「『沖縄』という性格よりも、むしろ『異質の文化』との接触によって確認されるというところに問題がある」としている。新川の思考は、「対日本」的な枠組みのなかだけで「沖縄人」の「異質感」あるいは「異族感」を全面に打ちだすが、岡本は新川の「『復帰』を粉砕する」という「思想的モティフ」に共感を表明しつつ、「異族論」に対しては次のように書いている。


 沖縄の人間の持つ意識、あるいはその「異質感」については、もっと広く深く検討を加えなければならない。〔中略〕この異質感は、「本土」に対しては効果を持つかも知れないが、その他アメリカや、中国に対するより大きな異質感とむき合うとき、あるいは最も大きな「日本人意識」をつくりあげる拠点となりかねないと考えられるからである。こういう検証を抜きにして、“異族論はわれわれのよるべき唯一の拠点である”と断言されることには、わたしはやはり違和感を禁じえないのである。
[池澤(1971)p.66]


 岡本にとっての「異質感」は、別のものとの対峠によって発見されるものであり、且つその別のものとの関係で規定されるものである。つまり、沖縄の人びとがもつ「異質感」を自明なもの、即自的なものと想定し、「差意識」や「異族性」を打ちだすことは、岡本にとって不可能であった。
 岡本が即自的な集団的性格を想定し、それを「国家」に対する抵抗の拠点として打ちだせない/ださない理由は、沖縄における「集団自決」を想起していたからであろうと思われる。
 岡本は、論文「水平軸の発想」[岡本(1970)]のなかで、「集団自決」を「共に生きる方向に働く共同体の生理が、外的な条件によって歪められたとき、それが逆に現実によって死を共に選ぶことによって、幻想的に“共生”を得ようとしたのがこの事件であった」と捉え、外的な条件を戦前・戦中の天皇を中心とした「国家思想」であったとしている。そして戦後の「復帰」運動もまた、米軍の苛酷な占領支配に対する反発という「共同体的生理」が、「異民族支配からの脱却」を旋回軸として国家としての日本を「祖国」だと幻視するスパイラルに陥ったとするのである。
 新川にとっての「異族」が、「独自の文化圏」を「無限遡行するほど遠い昔」の「わたしたちの祖先」へと隔たりなく接続できることに依拠していたことに比べ、岡本の「共同体的生理」が「共に生きる方向に働く」ことだけに限定されていることは付言しておかなければならない。つまり、新川の「異族」が、「沖縄」を実体視した「想像の共同体」(アンダーソン)を想起させるのに対して、岡本の「共同体的生理」は、「生理」という言葉が示すように生命活動や日々の暮らしといった次元に限定されているということだ。★7
 当時から周囲の人びとの注目されていた二人の論文の重要な違いは、未だ十分には論じられていない。このことは、この時期、数多くの論考が書かれたにもかかわらず、肝心の「国家」または「国民」論がついに沖縄から書かれなかったということと関連していると思われる。
 ここでは少し脇道に逸れて、「反国家」や「非国民」の思想のなかで語られなかった、「国家」や「国民」を、特にアンダーソンの「想像の共同体」を手掛かりに、それを敷衍しながら沖縄の問題に接続してみることにする。


2 潜在的総力戦体制と「異族論」の危機

a 兵士の身体と国民


 フーコーは、国民国家へと移行したあとの「兵士」について次のように記している。「18世紀後半になるとどうかといえば、兵士は造り上げられる或るものになっていて、人々は形をいまだなさぬ体質、不適格な身体でもって必要とする機械(つまり、人間機械)をつくったのであり、少しずつ姿勢を矯め直したのである。徐々にではあるが、計画にもとづく拘束が、身体外部にゆきわたり、それらを自由に支配し、身体全体を服従させ、恒久的に取り扱い可能にし、しかも自動的な習慣となって暗黙のうちに残りつづける。要するに「農民の物腰を追放し」てしまい、かわりに「兵士の態度」を持ち込んだのである」[フーコー(1977)p.141]。
 ここでの「農民の物腰」の追放から「兵士の態度」の持ち込みという身体の解剖学的政治学が明らかになるのは、次のような一連の事態からである。前近代的な兵士においては、職業軍人という要素が多かったのにくらべ、国民国家が常設する軍隊の構成員は一般の住民出身へと変わったということだ。しかし、一般の住民から軍隊の構成員を絶えず徴用しようとすると問題が起きる。徴用される住民の考え方や言語、日常の身体作法が統一されなければ、軍隊が一つのアクターとして行動をとることに支障をきたす恐れがある。そこでは当然、均質で計算可能でさらに従順な人間の集合が求められる。その結果、いつどこから誰を徴用したとしても、軍隊を極端に乱す恐れのない人間の集合を作り出すことができるようになった。国民に対する〈規律=訓練〉による統制によって産出された従順な人間の集合は、国家暴力としての軍隊に延長されており、逆に軍隊を構成するために〈規律=訓練〉による統制が国家内部で要求されるという相互補完的な関係ができあがる。
 つまり、国民国家における「兵士」が持つ意味は、つねに徴用可能な国民を作り続けることと同義であるといえるだろう。その意味で、国民国家はつねにすでに総力戦体制なのであり、それを考慮に入れない国民国家は存在しない。そこでは徴兵であろうと、志願による兵員構成であろうと関係がない。国民国家における「兵士」の身体とは、国民のすべてが「徴用可能性」のなかに留めおかれるということなのである。「兵士の態度」を持ち込むという〈規律=訓練〉が、徴用可能な兵士と行動可能な軍隊を構成したとしても、なお一つの疑問が浮かんでくる。「死」の問題である。軍隊は「死」の可能性に常にさらされている。そして、すべての国民がすぐに死ぬわけではないにしても、彼らが潜在的な総力戦に動員されているとするなら、潜在的にすべての国民は「死」の可能性を刻印されていると考えられる。しかし、近代社会において、国民に「死」の可能性を付与するのは矛盾のように思われる。たとえば、資本主義にける資本増殖のための労働者の「次代再生産」が刷り込まれていることを考えれば、潜在的な国民の「死」は、「次世代」どころか、現在における「国民」それ自体の減少をも巻き込む。そのため、この国民国家の軍隊という機構は、次代再生産と現在における「国民」の損失という「死」の問題を乗り越えなければならない。
 アンダーソンは、国民国家を論じる際に次のように問題を提起している。


 国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実に不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。/これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的問題に正面から向かい合わせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。
[アンダーソン(1997)p.26]


 先に述べたように、戦争は「死」を覚悟しなければ始められない。ある意味では「生きること」よりも「死ぬこと」の価値を高めておかなければならない。そうでなければ、戦闘可能な──死を賭けた──兵士(その背後にいる潜在的兵士としての国民を含む)を常設することは不可能であるように思われるからだ。
 アンダーソンは「国民」という空間の設定において、「時間」が主要な役割を果たしたと指摘している。その「時間」の一つの側面は、個別の人間が同じ時間を生きているという感覚──新たな共時性──である。
 アンダーソンによれば、出版資本主義による出版語と境界線によって他の地域から区別された領土の相関が、ある特定の領土内における、ある特定の言語の了解可能性に収斂する「共通の読者」を想定することを可能にし「新たな共時性」の感覚を胚胎したとしている。換言すれば、それは、同じ「時間」を共に生きているという匿名の人間の集合としての共同体の存在を確信する儀式である。
 この出版語と領土によって脱人格化された匿名の集合の横のつながりは、しかし、まだ「死」を賭けるほどの力はない。この共時性を有する一定地域内の想像された集団が「死」を思考停止にするには、通時性を獲得しなければならない。通時性とは、それが「過去」にあり「未来」にも永続するものとして想像することである。つまり、一つの永続する集合的アイデンティティとしての「国民」を想像しなければならない。
 近代に成立した国民国家は、その生まれた日付──たかだか二世紀余り前のそれ──を持っている。その「誕生の刻印」は、新たな共時性を持った集団的アイデンティティの通時性の無根拠性を暴露してしまう。そのため、ナショナリズムは、その「誕生の刻印」において、自らの過去を掘り起こしつづけ、そのことによって「誕生の刻印」を忘却しなければならない。この「誕生の刻印」という断絶が、「忘れ去られた」連続性の経験を捏造し、その補完のために集合的アイデンティティとしての「国民」の物語の必要性を絶えず生み出していくのだ。
 こうした「国民」という集合的アイデンティティの捏造は、いま生きている個々人の「生」が累々と重ねられた「過去の国民の死者」の上に成り立っているとする。そうであるなら、「現在の国民の生」は、「未来の国民」のための糧として、生きながら先取り的に「死者」として補捉されなければならない。「未来」に永続するものとしての「国民」は、こうして自らの「死」を次代再生産の掛け金として、潜在的に現在において引き受けることができるようになる。実際には「国民」は作られたものであるにもかかわらず、「過去の国民の死」という「国民」の主体化以前の「死」を想定し、その効果によって主体化した「国民」の維持のために「未来の死」を想定するのである。この「過剰な死への欲望」こそ、国民国家の形態の根幹部分であり、あの大量自己犠牲を生み出した一つの原因であった。


 救済の不条理、これほど別の形の連続性を必要とさせるものはない。そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと世俗的に変換することであった。(中略)国民の観念ほどこの目的に適したものはなかったし、いまもない。
[アンダーソン(1997)p.34]


 アンダーソンを軸として、「国家」や「国民」を論じたのは、新川の「異族」と岡本の「共同体的生理」の違いを際立たせるためである。
 潜在的な死せる兵士としてカウントされる「国民」を出現させるのが、「運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換する」という「救済の不条理」であるとするなら、新川の「異族性」は「沖縄人」を「沖縄人」のため「死」へとのめり込ませる可能性を帯びている。「沖縄人」という集合的なアイデンティティの立ち上げによって、いま生きている個々人の「生」が累々と重ねられた「過去の沖縄人の死者」の上に成り立っているとするなら、「現在の沖縄人の生」は、「未来の沖縄人」のための糧として、生きながら先取り的に「死者」として捉えられているとさえいい得るのである。
 確かに新川の語ってきたことのなかには、沖縄の「独立国家」を目指すような安直な姿勢はない。まして「兵士」や「潜在的な死」を称揚することは断じてない。だが、それゆえに新川のいう「沖縄人」や「異族性」を安易に設定することにも警鐘を鳴らさなければならないのではないか。「国民国家」論を媒介として考えたときにみえてくるのは、無限遡行可能な「沖縄人」という想像力の産物が「共死」へと接ぎ木される可能性を孕んでいるということなのである。
 アンダーソンが指摘したように、「この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」という言葉を沖縄にみるとき、「軍官民共生共死の一体化」という「総力戦体制」のなかで、殺し殺され死んでいった夥しい死者が甦ってくるのである。
 一方の岡本は、「共同体的生理」の上に「民衆の行為の規範となるところの“秩序感覚”」に支えられた“共同体的意志”として天皇が機能しえたところ」にあの沖縄戦のなかでくり返された「集団自決」を見ており、「『共同体的生理』に沿って機能する権力の支配とそれをそのまま受容しようとする『秩序感覚』をどのように否定し、『ともに生きよう』とする意志を、どのように具体性において生かしうるかということを、あらたな課題としなければならない」と述べている。ここでの岡本の立論は、「共同体的意思」を「天皇」に仮託させているが、「“異族論はわれわれのよるべき唯一の拠点である”と断言されることには、わたしはやはり異和感を禁じえないのである」という先の文章に接続して読むとき、沖縄人意識を基盤とした「異族論」は「共同体的意思」として、「共同体的生理」の上に接ぎ木され、「共死」へと至る連筋として感知されていたと読み得るのではないだろうか。岡本が、「誤解をおそれずあえていえば、『慶良間島の集団自決事件』と『復帰運動』は、ある意味では、ひとつのもののふたつのあらわれであったといえよう」というとき、「異族論」は三つめのそれとして浮上する危機があったのではないだろうか[岡本(1970)p.191]。

3 「声にならぬつぶやき」

 守中高明は、「国民国家」による死者の回収=自己固有化を次のように批判している。


 政治的共同体に関してもまた、死者たちの記憶によってその「アイデンティティ」は問題化されるだろう。そして、そのような起こり得べき問題化を否認して死者たちの記憶を政治的共同体の構築ないし、再構築のために転用するようなあらゆる身振りこそが、批判されなければならない。
[守中(1999)p.104]


 ここで守中が想定するのは、日本/日本人という国民国家のなかで「生」と「死」に鎹をうちこもうとする「靖国神社」に代表されるような装置の数々である。そしていうまでもなく、私は、守中のいう「あらゆる身振り」のなかに新川の「異族性」=「沖縄人」をみている。そしていま考察すべきは、そのような「身振り」の瓦解へ向けての一歩である。
 この新川による「異族性」=「沖縄人」という政治共同体の「瓦解へ向けての一歩」という可能性を、ほかならぬ新川の言葉に見出してみようと思う。


 沖縄人がみずから表現するとき「ウチナーンチュ」といい、沖縄人以外の日本人を呼ぶのに「ヤマトゥンチュ」または「ヤマトゥー」と規定する。
 相手の「ヤマトゥンチュ」が、九州の男であるか、東北の女であるか、あるいは北海道からやってきた人であるか、そういうことはここでは一切問題にはならない。〔中略〕日本(本土)の人間はおしなべて「ヤマトゥンチュ」であり、その人が住む国土は「ヤマトゥ」である。そして沖縄に住む私たちは、あくまでも「ウチナーンチュ」である。〔中略〕
 例えば高知県の男に、「君は日本人か」と問うとき、おそらく彼は何のためらいもなく「そうだ。おれは日本人だ」と答えるにちがいない。〔中略〕どの地方の人たちをとってみても、彼または彼女は、一瞬のためらいもなく「日本人だ」と答えるにちがいない。〔中略〕
 だが、もし同じ問いを沖縄人に向けて発するとき、程度の強弱はあれ、あるいは表情にあらわれるか、あらわれないかは別にして、内心一種の戸惑いを感じない人は稀である。そのとき一瞬間、彼また彼女の胸中を素早く駆け抜けるのは、「私は沖縄人だ」という声にならぬつぶやきである。その胸中のつぶやきが彼または彼女を一瞬の戸惑いに誘い込む。〔中略〕
 そこで沖縄と沖縄人にとっては、日本と日本人はあくまで「ヤマトゥ」であり「ヤマトゥンチュ」でありつづけるし、沖縄人はその「ヤマトゥンチュ」たちと同一民族であり、同一の主権国家に属する同一の国民でありながらも、なお、あくまで「ウチナーンチュ」でありつづけるのである。
 このような沖縄人の意識の特質とでもいうべき日本と日本人に対する「異質感」あるいは「差意識」は、近代に至るまで日本と別個の国家形態を形成し、かつ独自の文化的領域を占めてきた歴史的、地理的の諸条件によって培われたもので、明治の「琉球処分」のあと上からの強権的に推進された皇民化やそれと対応して沖縄の側から熱烈に希求された同化(日本国民=日本化)への努力にもかかわらず、沖縄人の意識の基層で今日なお脈々として生きつづけている。ことさらに断ることもないのだが、そのことは沖縄人が学理的な意味で日本民族の紛れもない一員であるとか否かというたぐいの議論とは無縁(次元が異なる)なことであり、あくまで沖縄人の個人的位相における意識の中で、「国」あるいは「日本=ヤマトゥ」がどのように感知されつづけるのか、という問題として把握されなければならない。 
[新川(1996)p.7-11]


 ここでの問題は、新川の「ウチナーンチュ」「沖縄人」をいう発言が、新川にとってどのような意図のもとに書付けられたのかではなく、その言葉の使用そのものが喚起するある不確かな可能性へ向けての考察である。そこでは、新川の発言に寄り添いつつ、新川の発言を問いに付すような考察が求められる。つまり、先の引用文における「民族主義的な発話」のなかにある、ある種の「言いよどみ」によって、決して民族主義的な文脈には還元されない可能性を読み解くということである。
 先の引用文のなかで、新川は「沖縄人」が自らを「ウチナーンチュ」と呼び、沖縄人以外の日本人を「ヤマトゥンチュ」と呼ぶ一連の表現を、「君は日本人か」という問いかけ(呼びかけ)の場面のなかで説明している。そしてそこでは、何のためらいもなく「そうだ」と応える「ヤマトゥンチュ」に対して、「内心一瞬の戸惑い」を感じながら「その一瞬間、彼または彼女の胸中を素早く駆け抜けるのは、『私は沖縄人だ』という声にならぬつぶやき」であるという。ここで重要なのは、「君は日本人か」という問いかけに、決して十分には応えていないということである。つまりここでは、呼びかけられた人間の応答は、「私は日本人だ」とか「私は沖縄人だ」といった明瞭な応答ではなく、「声にならぬつぶやき」によってしか表現できないということだ。
 この「声にならぬつぶやき」は、「声にならぬ」という自己表現の否認と、「つぶやいて」しまっているという承認とのあいだで、分裂している。おそらく、すぐあとで表明されると思われる応答としての「私は日本人」もしくは「私は沖縄人」という発話から、この「声にならぬつぶやき」としての戸惑いや「分裂」は、抹消されてしまうだろう。そこでは、「日本人」や「沖縄人」といった同一性が、何の疑いもなく反復されていけるだけのようにみえるだろう。
 ここで応答の形式として、そのような同一性への回収を避けるために「君は日本人か」という問いに応えないという選択肢がありうるようにみえる。しかし、それは現実の植民地的政治状況に対する抵抗になりうるだろうか。応答しないことは、「君は日本人だ」や「君は沖縄人だ」というナショナルな同一性への囲い込みに、抵抗することなく包摂されうる可能性を帯びている。アルチュセールの「呼びかけ論」を修正しつつジュディス・バトラーが指摘しているように、「名づけられていることに気がつかぬまま、名づけられているという状況がある。この状況は、わたしたちすべてが最初に置かれている状況、ときには最初のさらまえにある状況ですらある。わたしたちは名称によって社会的に構築されるが、この社会構築は、わたしたちが気づかないうちに行われている。〔中略〕主体は主体として構築されるためには、かならずしも振り向く必要がないし、主体を起動させる言説は、声の形態をとる必要もない」[バトラー(2004)p.49]。「呼びかけ」は、呼びかけられたものがたとえ振り向かなくても呼びかけの効果を発揮する。つまり「君は日本人か」という呼びかけは、呼びかけられたものがどのような応答を選択しようとも、ナショナルな同一性へと回収可能な呼びかけなのである。なぜなら「君は日本人か」という呼びかけは、そもそもナショナルな同一性を前提とする立場に立って発話されているのであって、日本人という同一性に回収するか、それとは別の同一性に回収するかという、既存のナショナルアイデンティティの構造を反復引用することのなかで可能な問いであるからだ。
 しかし、そもそもアイデンティティの表明は、対他関係抜きにはあり得ない。周知のように、帝国日本は周縁を差異としても取り込むが故に中心としての「日本」を遡及的に捏造することができた。そのなかで沖縄の人びとは、「日本人へと同化すること」のなかで「差異化」された。そして戦後は、米軍統治のもと、「琉球化」することで「日本人」との「差異化」を刻印された。その後の「祖国復帰」がその反動としての「同化=復帰」であった。このような多重的な「同化」と「差異化」という「呼びかけ」のなかに沖縄の人々は位置づけられてきたという歴史性、偶有性がある。つまり、帝国主体は、自らの主体性のために根源的に依拠する外部に対してつねに「呼びかけ」を行い、自らの主体構築の枠内に取り込もうとする。そして自らの主体の充全性を偽装するために、「呼びかけ」つつ「取り込む」という、帝国主体自らの主体性構築に必要な一連の作業の痕跡を抹消しようとする。したがって、そこで呼びかけられる外部としての沖縄の人びとの表明は、たとえそれが「私は日本人である」あるいは「私は沖縄人である」という自己主張であると思っても、その「日本人」「沖縄人」というカテゴリーの構築性に対して自らは充全性を持ち得ない。アイデンティティの表明は、それがどんな自己主張、どんな既存のカテゴリーの反復引用であっても、「他者」の呼び込みという「あやまち」を起こしている。この「あやまち」の抹消に、カテゴリーの虚構の充全性が担保されている。
 「君は日本人か」という呼びかけは、常に既にあやまった呼びかけであるにもかかわらず、その呼びかけに応えないわけにはいかない。「呼びかけ」への不可避の応答は、既在のカテゴリーの「あやまち」を引き出すことになるが、同様に、同じ不可避の応答のなかでナショナルな同一性への規範的な反復引用の様式を追認し、それに効果を与え続けてしまうことにもなる。
 ここで、もう一度、新川の発言に注目してみよう。新川は「沖縄と沖縄人にとっては、日本と日本人はあくまでも『ヤマトゥ』であり、『ヤマトゥンチュ』でありつづけるし、沖縄人はその『ヤマトゥンチュ』たちと同一民族であり、同一の主権国家に属する同一の国民でありながらも、なおあくまで『ウチナーンチュ』でありつづける」と述べている。そしてその根拠を「近代に至るまでは日本と別個の国家形態を形成し、かつ独自の文化的領域を占めてきた歴史的、地理的の諸条件によって担われてきた」ことに求める。この地理的、文化的独自性への根拠をみるにつけ、いよいよ新川の「民族主義的な発言」が看取されるかもしれない。しかし、だとするなら、なぜそれを根拠に、「声にならぬつぶやき」ではなく、はっきりと「沖縄人」だと発言し、「別の民族」と名乗らないのか。ここにきて看取されるべきは、新川自身が提示した「声にならぬつぶやき」のまえで、ほかならぬ新川自身がその異質な応答によって分裂させられていくありようである。
 「日本人」と「沖縄人」の明確二項対立ではなく、「日本人」や「沖縄人」という名乗りを「声にならぬつぶやき」という分裂によって表現する新川の論から見出されるのは「君は日本人か」という問いを呼びかける帝国主体のなかに、そしてその応答である「沖縄人」のなかに秘かに差し込んだ分裂であり、呼びかけの「あやまち」である。この分裂・あやまちの痕跡において、「沖縄人」は「日本人」とともに充全な主体とはなれずに裂けてしまうだろう。
 新川にとって、みずからを「日本人」として「日本」復帰することが、生存の危機であり、また岡本が提示したように「共同体的意思」の接ぎ木が生存の危機であるという状況とは、帝国主義的な「呼びかけ」が強いる不可避の状況である。したがって、その「呼びかけ」のまえでは、たとえそれが生存の危機を引き起こしつつあるとしても、呼びかけの力学から逃れることはできないが、それでもなおそこに回収されない未発の可能性を生き延びさせるためには、「沖縄人」という幾重にも傷を負ったカテゴリーを身体化するようにみえつつも、しかし身体化しないという身振り、どこまでも分裂した身振りが必要なのである。「声にならぬつぶやき」という否認と承認に分裂した発話において、新川自身が分裂しつつ提示してしまったのは、帝国主体の欲望によって包摂されつつ抹消される「他者」や、自閉的なアイデンティティを前提にした相互承認としての「民族主義」にみえながら、そのような観点からは決して分節化され得ない可能性としてあったと読み得るだろう。ここにおいて、日米による軍事占領の継続が強いる民族的規範の反復引用に亀裂を生じさせる「抵抗」の「思想」が香取されるのである。
 新川が「『有色人種』抄 その一」[新川(1956)]で「異郷の黒人兵」に連帯を呼びかけるように、「反復帰」「反国家」の思想は、「沖縄人」をゆるやかに乗り越えて、植民地支配によって虐げられるものたち、規範的な反復引用に「正しく」引き取られない者にたちに繋がっていくのである。「日本復帰」が間近に迫るなか、新川が「狂気」や「懐疽」として自らを表象するとき★8、そこに連なって描かれていくべきは、占領者によって正しく呼びかけられ、正しく応答する過程ではなく、そのような呼びかけと応答のなかに違法な「破壊の表象★9」を散種する者たちではなかっただろうか。そこにこそ、「思想」という抵抗の可能性があったはずである。


【注】
(1)2002年12月18日、明仁が、「国立劇場おきなわ」の開館にあわせて来県前に語った言葉である。
 引用は、宮内庁ホームページhttp://kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kishakaiken-h15.htmlから。なお、この発言に関しては、新城郁夫(2007)も併せて参照されたい。
(2)無署名の文章であるが、創刊から第27号まで編集長を勤めた牧港篤三の文章であると思われる。
(3)この新川の文章については、新城(2007)p.42の指摘による。併せて参照されたい。
(4)鹿野政直によれば、米軍は沖縄戦以前から、占領統治に関する研究を進めており、そのなかで「琉球」と「沖縄」の違いを意識していた。日本の一地方としての「沖縄県」から、独自の文化圏としての「琉球」を称揚した。そこには、長期的な占領を遂行するために、「日本とは異なる」という感情を喚起させ、「日本復帰」への心情を最小限に押しとどめようとする意図があった。占領政策において、米軍は、公的機関の名称を「琉球」とし、教育、文化財の保護、伝統芸能の復興などを通じて、「琉球化」をすすめていった[鹿野(1997)]。
(5)70年当時、新川が東江の論文を引用することに対して批判的な指摘がなかったわけではない。「沖縄と70年代」が刊行されたあとの読書欄に次のような書評が掲載された。「アメリカの権力支配のイデオロギー的な側面の系譜に位置し、権力のしっぽをかついだにすぎない、東江平之の論文を、新川が、担ぎだしてくるのは、新川の思想的モチーフの弱さを象徴している。新川の思想的基盤は東江の思想的基盤とは対極にあるのだから新川は、自らの『非国民』の思想を、東江らのリベラリズムをつきくずす『異族』を空間化する対極に自らを位置づけなければならないはずである。なぜならば、東江らリベラリストの『異質性』や『差意識』という心理学的なうすっぺらな認識は、いつも、『異族』固有の権力中枢と抱き合いながら存在し、東江らは、どのように転んでも、『異族』固有の権力とだき合いをして心中する奴隷にすぎないからだ。新川らの思想的な視界は、『異族』固有の権力中枢に格闘しようとする論理をひきのばして、国家をその射程内にひき込もうとするものであり、新川が論理化しなければならないものは、なにも《沖縄》の《本土》に対する《差意識》ではなく、むしろ、人間のなかにある自然な本性として、国家という人為的な権力中枢に対峙する《差意識》であり、権力中枢に位置づけられている階級に対する自らの『異族性』を自らに還元しなければならないということであるのだ」(上原生男『沖縄タイムス』1970年12月11日)。
(6)池澤(1971)は、大阪の沖縄県人会が、大阪府教育委員会が発行する中学生用副読本「にんげん」で部落問題や在日朝鮮人への差別問題と一緒に「沖縄問題」を掲載したことに対して、大阪府教育委員会に削除要求をしたことと併せて、沖縄選出の国会議員と屋良主席が県人会の要求に従って副読本「にんげん」の使用禁止を申し入れたことに関する論文として書かれたものである。
(7)管見の限りではあるが、当時の多くの論文、対談などで論じられる事柄は、息つく暇もないほど次ぐから次へと起こる諸問題を取り上げるがゆえに、往々にして「状況論」的なものに留まっている。そこでは、「国民」「国家」を論じなければならないという危惧は提示されるものの、実際それが提示されることはなかったといえる。
(8)「〈狂気〉をもって撃たしめよ」(『現代の眼』1971年8月号)で、新川は戦前の沖縄で参政権獲得の民権運動を行なった謝花昇を論じている。当時の沖縄県知事奈良原繁との政争に破れ、参政権獲得を果たせなかった謝花は、発狂する。新川は、国家への主体的な参与を目指す「正気の謝花」(=「復帰思想」)と、国家への参与幻想を喪失した「狂気の謝花」を対置させつつ次のように喝破する。「正気の謝花はなお《沖縄闘争の原点》たり得るか。ふたたび、三たび、そしてくりかえし、くりかえし、私たちはみずからの内なる狂気の謝花をもって正気の謝花を撃たしめなければならぬのだ」〔傍点――原文〕。
 また、「祖国復帰」がいよいよ目前となった1972年1月には「「亡国」のすすめ」(『思想の科学』1972年1月)で次のようにのべる。「国家が実体的な権力機構であるだけでなく、人びとの生存様式や価値観を含めてこれを規定する不可視の強制力をもち、人びとはまたこれを「政治経済=生活の次元」における幻想(豊かな国または豊かな郷土という形の)で自己救済をはかりつつ支える以上、いまこそ「思想=文化的次元」へとおりて、「内なる国家」との不断の対決を深めなければならないだろう。/「内なる国家」を撃つことなしに「外なる国家」を撃つことはできないし、その逆は成り立たないからである。「亡国」の民にある武器は、亡国の思想と怠惰の思想である。その思想は肥大化する国家が抱えこんだ懐疽になるだろう。私(たち)は少しも性急になることはない」。1970年から1972年という「祖国復帰」目前の短い期間に発表されたこれら新川の論考は、アメリカと日本による「不可視の強制力」のまえで虐げられる人びとを、「狂気」や「懐疽」という言葉でもって分節化するのである。この逸脱としてしか理解され得ないものなかにこそ、「反復帰・反国家」の思想が、「不可視の強制力」の前で分裂した身体もって描き出そうとしたいまだ名付け得ない可能性があったのではないだろうか。
(9)新川が(1956)のなかで、国家が一元化し独占する暴力の象徴ともいえる「兵士」の身体に向けて、占領者を「焼きつくせ!」と呼びかけるとき、その呼びかけは全く正統性をもたぬがゆえに、国家によって「テロリズム」として暴力への予期と捉えられかねない。しかし、敵対性の重要性を説く酒井隆史にしたがって、「戦争が「強要的」でありテロリズムは「印象的」である、つまり、戦争が「物理的」でテロリズムは「精神的」である――あくまで相対的なものだけれども――という指摘からするならば、テロリズムは物理的破壊そのものではなく、破壊の表象こそが核心」であるとの言葉を受け取るなら、まさに新川の詩による「連帯」への「夢想」は、文学による「破壊の表象」の散種だったと言い得るだろう[酒井(2004)p.156]。

【引用・参照文献】
東江平之(1963)「まえがき」、『人文社会科学研究』第1号、琉球大学人文社会科学研究所、1963年11月
新川明(1956)「「有色人種」抄その一」、『琉球文学』2巻1号(通巻第11号)1956年3月15日
 ――(1970a)「沖縄と70年代」(コラムのタイトル)、『沖縄タイムス』1970年1月1日
 ――(1970b)同、『沖縄タイムス』1970年7月14日
 ――(1970c)「「非国民」の思想と論理」、『叢書 わが沖縄』第6巻「沖縄の思想」木耳社
 ――(1971)『反国家の兇区』現代評論社
 ――(1996)『反国家の兇区――沖縄・自立への視点』社会評論社
池澤聡(1971)「沖縄の「戦後民主ゝ義の再検討」」、『新沖縄文学』第19号、沖縄タイムス社
岡本恵徳(1970)「水平軸の発想」、谷川健一編『叢書 わが沖縄』第6巻
 ――(1972)「戦後沖縄の文学」、『中央公論』1972年6月号、中央公論社
 ――(1973)「沖縄施政権返還≠サの後」、『思想の科学』第15号、思想の科学社、岡本(2007)所収
 ――(2007)『「沖縄」に生きる思想――岡本恵徳批評集』未來社
鹿野政直(1987)『戦後沖縄の思想像』朝日新聞社
酒井隆史(2004)『暴力の哲学』河出書房新社
清水晶子(2006)「キリンのサバイバルのために――ジュディス・バトラーとアイデンティティ・ポリティックス再考」、『現代思想』vol.34-12、青土社
新沖縄文学(1970)特集「反復帰論」、『新沖縄文学』第18号、沖縄タイムス社
新城郁夫(2003)『沖縄文学という企て――葛藤する言語・身体・記憶』インパクト出版会
 ――(2006)「呼びかけの濫喩へ――バトラーのポストコロニアル批評」、『現代思想』vol.34-12
 ――(2007)『到来する沖縄――沖縄表象批判論』インパクト出版会
平恒次(1970)「「琉球人」は訴える」、『中央公論』1970年11月号
徳田匡(2004)「個人による政治参加のために」、『けーし風』第45号、新沖縄フォーラム刊行会議
野村浩也(2005)『無意識の植民地主義――日本人の米軍基地と沖縄人』御茶の水書房
宮城悦二郎(1982)『占領者の眼――アメリカ人は〈沖縄〉をどう見たか』那覇出版社
守中高明(1999)『脱構築』岩波書店
吉本隆明(1969)「異族の論理」、『文芸』1969年12月号、河出書房新社
Anderson, Benedict (1991) Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, London & New York: Verso, Revised Edition [アンダーソン(1997)白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』NTT出版]
Butler, Judit(1997)Excitable Speech: A Politics of the Performative, New York & London: Routledge[バトラー(2004)竹村和子役『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店]
Foucalt, Mchel (1975) Surveiller et Punir ―― Naissance de la prison, Gallimard[フーコー(1977)田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』新潮社]
*本稿は、日本学術振興会研究補助金による研究成果の一部である。


沖縄の問いを立てる―6 反復帰と反国家――「お国は?」(2008年11月30日社会評論社)

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