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伊佐眞一『伊波普猷批判序説』を読む


新川 明「『伊波普猷批判序説』を読む」(琉球新報2007.6.9)
津覇実明「人権より経済を優先/東京で沖縄をアピール」(『伊波普猷批判序説』と現在1・沖縄タイムス2007.9.17)
屋嘉比収「強い愛郷の念を想像/権力臆せず真実語る必要」(『伊波普猷批判序説』と現在2・沖縄タイムス2007.9.18)
比屋根薫「近代再定義つきつけ/認識揺さぶる伊佐論考」(『伊波普猷批判序説』と現在3・沖縄タイムス2007.9.19)
冨山一郎「凝視すべき身体の言葉/問答無用の暴力、依然継続」(『伊波普猷批判序説』と現在4・沖縄タイムス2007.9.20)
仲里 効「戦争が露出してきた」(琉球新報2007.7.30)



『伊波普猷批判序説』を読む

新川 明

 沖縄研究において、多くの研究者たちのガードがあって、ほとんど不可侵と思われている領域に、敢然と斬り込んだ“衝撃の書”が刊行された。
 「沖縄学の父」と呼ばれ、戦前、戦中、戦後の激動の時代を“非戦の志”を貫いて生きた硬骨にして孤高のデモクラットとしてほとんど神格化されつつあった伊波普猷――。その“巨人”の実像に迫り、旧来の伊波諭に鋭い異議を申し立てた伊佐真一著『伊波普猷批判序説』の公刊がそれである。
 すでに本紙5月19日付朝刊社会面トップで報じられ、続く21日、23日文化面で全文が紹介された新発見の資料によって、本紙の読者はその一端を知ることができた。
 伊波普猷その人が、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸にあたって、沖縄人の「真価を発揮する機会が到来した」と言い、この時期は「藷(いも)の収穫期を迎えてゐる。食料に心配なく、地の利も亦敵の野望を挫くに不足はない」として、「墳墓の地に勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く者である」と言い切って、いままさに地獄の惨禍にさらされようとしている郷里・沖縄の人たちに戦意高揚の“檄”を飛ばしていた、というのである(但しこの発言には、郷里の沖縄人に“檄”を飛ばす形を借りて、本土の日本人の戦意高揚を図り、あわせて沖縄人がいかに“忠実なる臣民”であるかを本土の日本人に訴える意図が含まれているとも考えられる。しかし、仮にそうだとしてもこの言葉は“非戦主義”の対極にあって戦意を煽るだけのもので、本書における伊佐による伊波批判の本旨になんの矛盾も生じさせることはない)。
 『東京新聞』1945年4月3、4日に掲載されたという伊波の「決戦場・沖縄本島」と題する一文を目にした者は、誰であれ我れと我が目を疑い、これまで思い描いていた伊波像が音を立てて崩れ去るか、崩れないまでも震度7以上の激震に揺さぶられたにちがいない。
 それだけ伊波の一文は衝撃的であったが、今回の伊佐の著作の主眼は、発掘したこの新資料を振りかざして伊波の戦争加担者としての側面を告発するだけの狭いところにあるのではない。
 伊波の発言は、遠く1911(明治44)年に初版が出た伊波の代表作『古琉球』をはじめとする諸論考から1947(昭和22)年に伊波が逝去した直後に刊行された最後の著書『沖縄歴史物語』に至るまでの全研究の基調にある歴史意識が、逼迫した時局に促されて露出したものであるという、全く新しい伊波普猷像を描き出したところにある。
 その作業は、著者が本書「あとがき」で述べているように、「伊波普猷当人の批判と、彼の思想を支えてきた伊波普猷論の批判」として取り組まれるために、伊波自身の著作論文を細部にわたって批判の対象にするだけでなく、これまで伊波を完全無欠の人間像として描く傾向にあったすべての伊波普猷論や伊波普猷研究を再検証の対象として批判の俎上にあげるのである。
 その面で主流にある外間守善『伊波普猷論』(1979年沖縄タイムス社、1993年平凡社)をはじめとする多くの研究者や関係者の論文やエッセイはもとより、昨年10月からことし1月にかけて『沖縄タイムス』に連載された比屋根照夫「伊波普猷と日系ハワイ移民――第二次大戦下の社会意識」という最近の研究までを視野に入れて批判を展開しているのであるから、まさしく本書はこれまでのすべての伊波普猷研究の総体に対する最新の“異議申し立て”と言うべき著作である。
 それだけに著者は本書のために数年の年月をかけて伊波の著作を詳細に読み込み、関係する文献の検証に心血を注いだことは、「伊波が彼自身の沖縄研究の成果とそれに基づく信念のすべてを投入して書いた『決戦場・沖縄本島』という衝撃的なこの文章を目にして以後の数年は(略)、伊波と木刀や竹刀でなく、真剣で向き合った年月といってよかった」(本書「あとがき」)との述懐によって十分に察せられるところである。
 その努力は、著作の三分の一のスペースを占める詳細な〈註〉による出典の明示と自説を補足して周到な目配りをみせる注釈によって知ることができるし、さらにはたとえばその論文に国策追随の明白な文言は無くとも寄稿場所(出版物)をもってその時の伊波の思想を同定するなど従来にない着眼点で伊波の思想を読み解くことで示される。
 あるいは、河上肇と交流があったことをもって、伊波と河上の思想を同列に論ずるごとき通説に対する反証をはじめ、伊波が終生変わらぬ自由主義者であったように思い込まされている固定観念から私たちを解放する説得力のある数々の論述によってその努力は証明される。
 いずれにせよ本書が、伊波普猷という沖縄近現代史上に屹立する存在を解体しつつ問いかけているのは、いわゆる沖縄研究を「現在の政治、社会状況」とどのように切り結んで展開させ得るのか、という問いである。
 それだけにこれまでいささかなりとも伊波について語り、それなりの位置づけを試みた人たち、とりわけ本書で取りあげられた研究者たちは本書が提示した著者の問いを避けて、黙したままでいることはゆるされないであろうと思う。
 沖縄近現代思想研究に大きな一石を投ずる近来まれにみる労作の刊行である。これを機に伊波普猷をめぐる不可侵的な垣根が破られて活発な議論が展開され、“沖縄の思想”が豊かになることを願わずにはおれない。



人権より経済を優先/東京で沖縄をアピール

津覇 実明


 「沖縄学の父」伊波普猷は、ウルトラ・ナショナリストだった。そうだとすれば「沖縄学」は地に落ちたことを意味するのだろうか。1945年4月3日、4日の東京新聞に掲載された伊波の小論は「決戦場・沖縄本島」のタイトルを持つ。その文中には「今や皇国民としての自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を遊撃してゐのであらう」とあり、最後は「墳墓の地に勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く物である」と結ばれる。
 もしこれが当時の琉球人に対して檄を飛ばしているのならば、伊波の軽薄さを笑うに躊躇はしない。しかし、両日の文章は当日の琉球人に向けて書かれてはいない。なぜならば4月1日を以て米軍との地上戦が始まっており戦火の最中に東京新聞が購読できたとは思えないからである。さらに伊波の文章が激しく動揺している点に注目したい。
 沖縄を「わが沖縄本島」「愛する郷土」と呼びながら、「同人種であり等しく郷土愛に燃えてゐる血といふよりも、もっと大きく尊いものは日本の国家教育の力だったと私は思ふ」と述べる。つまり個人的な心情が向かう先の「沖縄」からズレて「国家教育の力」という言語的制度を最大限に言祝ぐのである。とりわけ奇異に響くのは「幸ひ温暖の気候に恵まれた郷土は早くも藷の収穫期を迎えてゐる。食糧に心配はなく、地の利も亦敵の野望を挫くに不足はない」の一節である。これは文言通りに受け取るわけにはいかない。
 伊波は東京から沖縄を見ている、というよりも見せているのでないか。「明治となって日本の国民的統一の機」に遭遇した琉球は、殖民地としてではなく本土の一つとして取り扱われる建前のもと「沖縄県として完全に本土の一環に抱含せられた」のである。

奴隷状態の解放

 もとより廃藩置県を薩摩からの奴隷解放と評価する伊波の立場からすれば、戦争は皇国民を証明する絶好の機会であった。それは、琉球を日本国家の源流で発見し、「日本国民」の完成を夢みる「沖縄学」の嫡出子である。しかし伊波は「人権」よりも「経済」を優先させる。
 「食を与ふる者は我が主也」というよく知られた俚諺は、沖縄人の奴隷根性・ご都合主義を批判するとき好んで引用されるが、伊波にあっては「我主は食を与ふる者也」が含意されている。そうすることで伊波は本土並みの取り扱いを要求し得ると考えた。
 「我主」は近代国家の長たる天皇である。そして琉球語の源流は母なることばを通して模索された。父と母が伊波の頭の中で重なったとき沖縄の貧困からの解放が夢みられたのである。
 近代国家の版図の拡大という観点から沖縄を見ると、貧弱な土地が立派な「領土」として発見された。その正当性を伊波の学問は根拠づけていく。沖縄の生き残る道は近代国家日本の国民として統一されることであり、その近道が「標準語」の奨励であった。しかし、伊波はその必要性を強調する一方で、「方言の撲滅」には反対する。「方法」として行き過ぎだというのだ。母国がすでに失った「ことば」の残像をありありと湛えているのが「方言」であり、母の子としての「証拠」にほかならない。したがって方言の撲滅は、伊波にとって「証拠隠滅」という「自殺行為」に等しかった。

「序説」化に期待

 伊佐眞一の労作『伊波普猷批判序説』から教わるところは多い。丹念な資料の読み込みにはただ圧倒されるばかりである。けれども伊佐が、右の伊波の文章を「彼自身の沖縄研究の成果とそれに基づく信念のすべてを投入して書いた」とする断定には賛成できない。伊波は、本土の日本国民に向かって沖縄をアピールしたのである。沖縄人は「長らく薩摩に抑へられてゐた惰性で、いつの間にか自分らは他県の者よりも弱いと思ひ込んでゐるから負ける。教育如何によってその劣等観を去り、自分の強さを自覚すれば誠に精強な兵となり得る」と述べる瀬戸少将を引く伊波は、薩摩を批判している。そして決戦で勇敢に戦ってこそ教育によって生産された「日本国民」が完成すると考えているのである。
 「決戦場・沖縄本島」を「伊波が沖縄について何十年も営々と行きつ戻りつしながら考え続けてきた研究のエッセンスが、集約して注ぎ込まれている」と判断する伊佐は、沖縄の源流を日本と決めてかかる伊波と異なるところがない。伊佐自身が、伊波を「行きつ戻りつ」すべきであって、右の文章によって伊波の首根っこを押さえた積もりになっているのは感心しない。
 伊佐は、伊波の思想を単純化しすぎる。しかしこれまでの伊波普猷像に一石を投じた姿勢は高く評価されてよい。文字通り「序説」となることを期待して止まない。

郷土愛と愛国心

 さて、伊波は琉球処分を貧窮と差別からの解放だと位置づけた。だからこそ国民=皇民化が急務であった。しかしその構図は日本復帰運動とどれほど異なるのであろうか。沖縄は日本と同質だからこそ日本「領土」として戦争の舞台となり、異質だからといって本土から切り離された。ナショナリズムは「哀しいマイノリティ」が解放されるのを夢みるときに持ち出される常套句であり、対岸に向かって漕ぎ出す泥船である。
 いま沖縄の「特異な」文化が日本本土に好まれ、沖縄が悦に入っているありさまは、沖縄が日本の文化の多様性と豊かさを側面から補強し、郷土愛が愛国心に接続される過程でもある。そんな沖縄を見て伊波はどんな感想をもつだろうか。沖縄をはみ出していった伊波をどうすれば沖縄に取り戻せるだろうか。伊波はそこから私たちに問を投げてくる。
(沖縄タイムス2007.9.17)



強い愛郷の念を想像/権力臆せず真実語る必要

屋嘉比 収


 最近、沖縄学の双璧である伊波普猷と東恩納寛惇の、戦時下での戦意高揚の寄稿文が相次いで発見された。まずは、その新たな資料を発掘した伊佐眞一氏(『琉球新報』5月21、23日)と仲村顕氏(『琉球新報』7月3日)に敬意を表したいと思う。
 発掘された伊波と東恩納の寄稿文と、両氏の解説を繰り返し読みながらいろいろと考えるところがあった。しかし、率直に言うと私には、寄稿文の内容よりも、むしろそれを解説した両氏の対照的な叙述のほうが、ことさら印象に残った。

“五十歩百歩”

 伊佐氏は、今回発掘した伊波の寄稿文の内容は、伊波の思想だけでなく、これまでの伊波像に根底的な変更を迫るものだとして痛烈な批判を行っている。他方、仲村氏は、当時の知識人は大なり小なり同じような言動をしており、戦後という地平から戦中という時代を一方的に裁断する在り方に慎重な姿勢を示している。そして、時代背景を含め、なぜそのような事態になったのかを問う視座の必要性を説いている。
 確かに、仲村氏が指摘するように、発言は当時の政治状況や社会的文脈に埋め戻して考察することが歴史叙述の基本的な手続きだ。とくに戦争完遂に向かって政治状況が刻々と変化する総動員体制期以降の発言は、どの時点の発言かで発言のもつ文脈や評価が異なってくるので、分析はより慎重に丁寧でなくてはならない。
 しかし、だからといって、当時の多くの知識人が「大なり小なり同じような言動をしている」との理由で、不問にすることに私は反対だ。戦時下という厳しい時代状況だからこそ、同じような言動における<五十歩百歩の違い>を重視したい。五十歩百歩は通常、大差がないとの意味で用いられるが、戦時下での発言の五十歩と百歩との違いは極めて大きい。例えば、大枠で戦意高揚の文章であっても、その内容や表現、叙述の在り方での五十歩と百歩では大きな違いがある。文章の中で、何を書いたのかという点とともに、<何を書かなかったのか>も同じく重要である。

抑制された声

 その点で、伊波の寄稿文「決戦場・沖縄本島」は、東恩納の寄稿文や同時期の戦意高揚を謳った他の居丈高の文章に比べて、論点も拡散して分かりにくく、最後の部分では食糧問題でピントはずれの記述さえある。しかも伊波が、その寄稿文で沖縄戦そのものに言及しているのは、最初の段落と最後の部分だけだ。その大部分は、自らが中学生だった日清戦争時の緊張した沖縄の状況や、日露戦争後に軍事視察に来た少佐との会話などの過去の歴史叙述が中心である。
 伊波は、なぜ同時期の沖縄戦そのものを正面から論及せずに、日清戦争や日露戦争の回想を中心に記したのか。この寄稿文が、仮に伊佐氏の言う「伊波の思想から必然的に流出した信念」であれば、沖縄戦について正面から論じ、もっと激烈な檄文であっても不思議ではない。そのような歴史叙述にズラした在り方に、伊佐氏の解説とは異なって、伊波の真意を見ることも可能ではなかろうか。むしろ、私には、伊波の寄稿文に、当時の戦意高揚を高々と謳う他の多くの知識人の文章とは異なった、抑制された声さえ聞こえるような気がする。
 しかし、伊佐氏の問題提起はそれだけではなかろう。なぜ、伊波は1945年4月に戦意高揚の文章を書き、敗戦後のわずか4ヶ月後に一転して、沖縄人連盟で「無謀な戦争」だったと相反する演説ができたのか。そこに伊佐氏は「沖縄の知識人」を代表する伊波普猷の「あまりにも無節操」な言動を確認し、批判の矢を放ったのである、その批判は、いま伊波普猷の発言をどう読むべきか、という現在に生きる私たち一人一人への重い問いかけでもある。

知識人の責任

 その問いを前にしたとき、私が思い浮かべたのは、秀逸な知識人論を書いたE・サイードの以下のような発言である。それは、フランスのアルジェリア侵攻という時代背景の中で、アルジェリア出身でフランスの作家A・カミュの「もし戦争状態のなかで、正義や道義といったものと自分の母親の生命のいずれかの選択を迫られたならば、自分は迷うことなく母親を選ぶ」という問いと認識に対して、サイードが行った次の批判である。
 「そのような問いは選択肢の設定自体が誤りです。選択を迫られているのは、正義と真実に対する知識人としての責任を貫くか、それを偽るかのどちらかです」。
 例えば、ここで、カミュの問いの中の「自分の母親の生命」という語句を、「沖縄への愛郷心」に置き換えてみると、論点がはっきりと浮かび上がってくるであろう。
 在京の「沖縄の知識人」を代表する伊波が、米軍上陸の緊迫した状況下で先の寄稿文を書いた背景には、文面からもうかがえるように、「郷土沖縄」への強い愛郷の念が、伊波を突き動かしたのは想像に難くない。
 だが、「沖縄の知識人」には、それは一つの陥穽でもある。そこで問われているのは、「知識人としての責任」なのに、すっと「沖縄」をすべり込ませ、それに置き換えてしまう誘惑と欲望がある。伊波普猷を含む在京の「沖縄の知識人」に問われていたのは、「郷土沖縄」を思う愛郷心などではなく、「知識人」として「正義と真実に対する責任を貫くか、それを偽るかのどちらか」だったのだ。
 それは、今日においても同様である。いまも「沖縄の知識人」に問われているのは、沖縄への愛郷心などではなく、サイードの言うように「弱い者、表象=代弁されない者たちと同じ側に立ち」「権力に臆することなく真実を語る」姿勢である。
(沖縄タイムス2007.9.18)



近代再定義つきつけ/認識揺さぶる伊佐論考

比屋根 薫


 伊佐眞一の力作評論『伊波普猷批判序説』を読んで、ひさしぶりに思考をひっかきまわされたような気がする。世界に対する総体的ヴィジョンを揺さぶられた、という考えが浮かぶ。
 日本の社会構造全体に対する総体的ヴィジョンをとらえそこねたインテリゲンチアの思考変換が転向の定義であったはずだ。吉本隆明の転向論の定義である。

重なる「既視感」

 島惑いした伊波普猷の沖縄学の総体が、米軍の沖縄本島上陸直後、1945年4月3、4日の「東京新聞」に伊波が書いた「決戦場・沖縄本島」という「戦意高揚」の文章が発掘されたことによって、その同化主義的本質にはっきりと検証の光があてられることになった。
 「衝撃、震度七以上」と評価する新川明、「衝撃、事件」と受け止める仲里効、事後的な視線によって学問的伊波普猷像の限界を批判されることにいら立つ比屋根照夫の文章なども読んだが、私の反応は鈍く、70年ごろに反復帰論を展開した新川明の伊波普猷批判の延長線にあること、45年4月2日「朝日新聞」に発表された高村光太郎の「琉球決戦」の詩が既視感となって重なること、そのふたつが最初の感想だった。
 神聖オモロ草子の国琉球/つひに大東亜最大の決戦場となる/敵は獅子の一撃を期して総力を集め/この珠玉の島うるわしの山原谷茶、/万座毛の緑野、梯梧の花の紅に/あらゆる暴力を傾け注がんずる/琉球やまことに日本の頸動脈/万事ここにかかり万端ここに経絡す/琉球に於て勝て全日本の全日本人よ/琉球のために全力をあげよ/敵すでに犠牲を惜しまず/これ吾が神機の到来なり/全日本の全日本人よ、起って琉球に血液を送れ/ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ/蒲葵の葉かげに身をふして/弾雨を凌ぎ、兵火を抑へ/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ
 高村の詩にくらべて日清戦争のころの思い出や日本語の普及と国民教育によって皇国民の自覚に立った琉球を強調する伊波の文はなにやら間が抜けている。

吉本隆明の批判

 しかし、文学者の戦争責任についてはすでに、55年ごろ、皇国思想に没入して戦争をくぐった戦中派、吉本隆明などが、戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、作品か行動によって戦争を推進したことを、左翼の文学組織の戦争責任の追及の仕方に異議をとなえて批判を展開したし、その文学者の戦争責任論も、80年代のなかごろになると、すべて無効、解体したと述べるにいたっている(吉本隆明「文学者と戦争責任について」)
 伊波普猷と真剣をにぎって向き合った伊佐眞一の論考に思考をひっかきまわされたのは、琉球処分以後、日本と沖縄の近代をめぐる、時代感覚と時代の折れ曲がり地点についての認識を根底から、伊佐眞一の問題提起が揺さぶるからである。伊佐眞一によって封印を解かれた文とその文に貫かれた同化主義を内破する知的実践が、国民、国家、領土の前提を疑義にさらし、国家としての日本の外を開き、統合の原理を踏み越える道筋を示唆する、という仲里効の読解に私も同意する(「琉球新報」時評2007.7.30付朝刊)
 さてしかし、世界に対する総体的ヴィジョン(世界像)を揺さぶられた私が沖縄をめぐる思考のせめぎあいから切実につきつけられているのは、近代の再定義についてである。

テロを突き抜け

 なにかの集まりで、辺野古で闘っている青年が、このままではわれわれはアルカイダになるしかない、と悲痛な声でいうのを聞いて、はっとしたことがある。またつい最近、文芸誌で崎山多美などの女性作家、文学研究者が沖縄の文学の可能性を、そろって、ランギスティック・テロリズムにもとめていることに驚かされた。
 仲里効は前出の時評で、吉本隆明の「戦争が露出してきた」という言葉を引用しているのだが、あれは連合赤軍事件とテルアビブ空港事件の直後の講演会における発言だった。
 われわれ全共闘世代にとってふたつの事件は社会変革の運動が国家をめぐって、テロリズムにまでおいつめられて時代がはげしく折れ曲がった象徴的な事件である。吉本は戦争が露出したという言葉によって、戦後がいきつくところまでいきついて、公よりも私を優先する原則さえ怪しくなってき時代に突入し、思想の原理、原則によって世界の現状に耐えるしかないと語っていた。
 テロリズムがなぜいけないのか、嘲笑されるのを覚悟でいえば、社会システム変革のために実存(いちどかぎりの生)が犠牲になるからである。
 国家は諸悪の根源であり、自由競争を平等によって制御しないかぎり万人の幸福はない、という思考をつきつめると、かならずテロリズムにいきつく。反国家の凶区としての沖縄は本気になるとすればテロリストになるいがいに、日本とアメリカふたつのならずもの国家から解放される道はない。この結論はマルクス主義を乗り越えようとして登場してきたポストモダン思想の相対主義とかさなっており、近代とは何かを考える上でアポリアになっているものである。
 テロリズムを突き抜けるためには、どうしても近代の始発点にもどらなくてはいけない。
 4、5カ月前岡本恵徳をめぐるシンポジウムがあって、ヘーゲルとマルクスは矛盾しない、と発言したとたんに、思想のすべての領域を遍歴してきた川満信一から、ヘーゲルがどうしたってえ、と即座にきりかえされてしまった。目の前には新川明がすわっており、上のほうから目取真俊が、団塊世代は生ぬるい、といっている。しかし、反復帰論をどう継承していくか、われわれにとって死活問題だった。
 ナハ、トウキョウ、ソウル、ピョンヤン、ペキン、タイペイを結ぶキーワードは反復帰論=国家にもどらない=自己決定である。
(沖縄タイムス2007.9.19)



凝視すべき身体の言葉/問答無用の暴力、依然継続

冨山一郎


 既に米軍が上陸していた1945年4月3日と4日に、『東京新聞』に掲載された伊波普猷の「決戦場・沖縄本島」には、伊波の文章に一貫して存在しつづけた、国家への希求と植民地支配への恐れが錯綜している。「今や皇国民という自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を激撃」という主張は、植民地主義の暴力を不断に感知する中でなされてきた自己証明の延長線上にはあるが、その先に破局でしかない決戦がすえられている点で、逃れがたい運命に向けた自己説得でもある。そしてこの翼賛知識人と化した伊波の無残な文章を、強いられた「奴隷の言葉」とするのではなく、戦争動員の推進者として批判することは全く正しい。

停止した地点

 だがそれが、別の真正な思想を希求することに向かうとしたら、思想を考えることにはならないだろう。思想を考えるとは、現在の状況における何らかの可能性を、あえていえば政治的可能性を考えることであり、その際重要なことは、垣間見られた可能性を、圧倒的に不可能な状況に向けてたたみ広げることである。したがって、ある思想から肯定されるべき可能性を見つけ出し、それを正しいこととして宣揚することよりも、その正しさが消失する場所こそが重要な起点になる。伊波の無残さに対して別の正しさを強調するのではなく、この正しさの停止した地域から、今に繋がる可能性を思考しなくてはならない。
 基地の存在があまりにも日常化されているがゆえに、その身に深く隣接する危険をすぐさま明確な言葉にできないままフェンスの横で生きてきた人と、基地の存在を諸概念で饒舌に語る人が、同じ言葉で「基地は要らない」、あるいは「あってもいい」と語るときに生じる亀裂。同じことを語りながら、別の身体において考えていることによる亀裂。私にとって伊波普猷の言葉は、総じてそのような亀裂を持ち込むものだ。伊波は、饒舌に語る言葉に別の身体を差し込もうとしたのだ。それはいわば考えることと体を動かすことが不可分になった言葉であり、その結果言葉はいきおい喩法を帯びるだろう。そこでは日本人であるという自己証明は、拒絶する身体と紙一重である。

正しさの判定

 こうした一つで複数の意味を指示する言葉は、真偽による正しさの判定にとっては極めて厄介であり、また思想史研究の対象としては扱いにくいが、思想とは元来こうした身体を持った言葉なのである。体系化され汎用性のある全集としてまとめられた巷に溢れるものこそが、亜流なのだ。そして『決戦場・沖縄本島』が読む者につきつける問いも、この身体という問題である。また、国家への希求という論点を念頭におきながら考えるべきは、生きるための自己証明が逃れがたい死の自己説得に変わる瞬間である。
 ところで思想における身体は、戦時期という戦争状態における言葉の問題でもある。河上肇が大学を去った1928年に同じく京都大学に入学した松田道雄は、自らの非合法活動にふれながら「転向の肉体性」ということを問題にしている。つづめていえば、取調室の拷問のみならずさまざまな日常的暴力において「転向者」になった者が「肉体の弱さを弁明することができない」ということが、何を意味しているのかということだ。そこでは「非転向」は肉体から切り離された思想の絶対的正しさとして宣揚され、「転向」はただ、思想の敗北として遺棄された。それは肉体の敗北を思想の敗北として宣伝した特高側も同様であった。対立しながら両者は、思想を身体から遠ざけていったのである。だがしかし、動員とはまずもって身体の問題であり、問答無用の暴力を国家が行使していく事態ではなかったか。ナショナリズムとは、身体性にかかわることであり、国家とは人間の生と死を統括する装置ではなかったか。戦争状態において、この身体拘束の暴力を看過した批判は全く無力だ。だからこそ思想の敗北に対しては、「非転向」の正しさを対峙さすのではなく、敗北として遺された肉体から別の身体を言葉において見出すことから始めなくてはならないのだ。

“物理的闘争”

 「帝都」における空襲のさなか「真っ先に沖縄がやられる!」と叫んだ伊波の身体が知覚した問答無用の暴力とは何だったのか。凝視すべきはその肉体である。廃虚を予感し、それを運命に見立てた『東京新聞』の論説が、沖縄を日本の玄関や前盾としてのみ考え、死者さえも忘却していく今にまで続く日本社会の中枢部で書かれたことを、忘れてはならないだろう。そして、戦場と占領が重なり合いながら問答無用の暴力は依然として継続し、それは今、制度と情動の両面から深化している。国益が法を超える法として語られ、有事なるものが法を無効にし、排撃すべき敵を見出さんとする情動が蔓延する。言葉は饒舌に溢れるが、身体は既に抜き差しならない危機にあり、それは同時に言葉を失った「物理的闘争」の始まりでもある。だからこそ無残な伊波の文章を読む私たちには、身体を持った言葉を、すなわちフェンスの横で身構える身体の言葉たちを、いかに獲得していくのかということが問われているのだ。
(沖縄タイムス2007.9.20)



戦争が露出してきた
予兆を超え現実に/同化を内破する知的実践を

仲里 効

 戦争が露出してきた−−という言葉を聞いたのは70年代初めごろだった、と思う。<状況への発言>として放った吉本隆明のその言葉に、妙に納得したことを思い出す。具体的にどのような現象を指してそういったのかはいますぐに確かめることはできないが、私が納得したというのは、物理的な意味で戦争状態を指すということではなく、時代の声や社会意識に「戦争」の時のそれと同質なものを鋭く読み込んだということにあった。あれ以来、その言葉が妙に気になっていた。
 そして今、「戦争が露出してきた」という言葉が、私の時代認識の核心部分にじわりじわりと浸透しはじめてきている。そう感じるのは、「戦後レジームからの脱却」の名のもとに「教育基本法」の改悪や防衛庁の「省」への昇格、日本防衛の<南方・島嶼防衛>への重心移動、そして「米軍再編」によるアメリカの軍事グローバリズムへの自衛隊の一体化、さらに高校歴史教科書から「集団自決」への軍の関与を削除する教科書検定など、「教育」と「国防」のフロントに見え隠れする国家意思の膨化からである。
 こうした国家意思の膨化は、ここ沖縄においては、「復帰プログラム」の基調にあるヤマトとの「一体化」イデオロギーや基地とリンクした各種の振興策に実に巧妙に配信されているのがわかる。金欲しさに基地を受け入れる行政の姿勢が、政府によって見透かされ、出来高払い方式の「米軍再編特措法」によって首根っこを押さえられるまでになった。
 沖縄では<経済>はいつだって<政治>だということをまざまざと見せつけられる。唐突に聞こえるかもしれないが、あの「沖縄イニシアチブ」が逆説的に物語っているのも、そうしたエコノミーと国家意思を沖縄において代行する知のあり方である。

伊波論を再考

 5月19日、本紙朝刊社会面トップで報じられた、伊波普猷が1945年4月3、4日に東京新聞に書いた「決戦場・沖縄本島」は衝撃的だった。21日と23日付文化面に上下で掲載された全文と、その問題点を指摘した伊佐眞一の「沖縄の近代とは何か」は、沖縄学研究や伊波普猷論の根本的な再考を促すものであったということだけではなく、沖縄の歴史や現在に思いをめぐらす者にとって、決して避けては通れない「事件」であった。
 伊佐は新著『伊波普猷批判序説』で、この「決戦場・沖縄本島」を伊波の「沖縄学」の内的構造を丹念に辿ることによって立件していた。その衝撃の大きさは、新川明が6月9日付文化面に「『伊波普猷批判序説』を読む」を書き、そして比屋根照夫が反論の形ではじめた連載(「いま伊波普猷をどう読むか」7月26日付文化面)によってもうなずけるはずだ。
 伊波普猷がまさに物理的にも「戦争が露出してしまった」只中で書いた時局文がこれまでの伊波普猷像を揺るがしかねないものであったということと、そこで論じられた内容が沖縄の<近代>のアポリアにかかわるものであった。それが何であったかは伊佐眞一の「近代とは何か」と新著で論じられているので、ここでは次の一点に注目してみたい。
 すなわち、琉球人が日本人として「真価を発揮」し「他府県出身者と同様に精鋭なる皇軍として譲らぬ事を立証」したのが「言語の普及と国民教育の発達」であったということである。"化外の民"である琉球人を皇国の民に仕立て上げ、戦争体制を沖縄自ら内面化するのに言語と教育が絶大なる効力を発揮したということである。
 伊波普猷がいう「皇国民としての自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を邀撃してゐるであろう」とか「墳墓の地に勇戦する琉球人」がいきつく、その極限に「集団自決」の修羅場があったことを私たちは知っている。改めて伊波の「決戦場・沖縄本島」から帝国と植民地、結合と同化をめぐって、沖縄の今につながる倒措のなまなましさを思い知らされるのである。

新たな声獲得する時

 伊佐眞一によって発掘された新資料や伊波普猷と伊波普猷論への批判的介入によって、国民・国家・領土について当たり前と思っている前提が疑義にさらされるのだ。そしてそこから、例えば「改正教育基本法」の「愛国心」条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度を培うというときの、「我が国」や「伝統と文化」のなかに、果たして沖縄は入るだろうか、という問いが立ち上がってくるのか分かる。その時はまた、天皇制を統合の原理としてもってこなかった沖縄の歴史的身体が異議提起として新たな声を獲得していく時でもある。
 「戦争が露出してきた」という言葉が、予兆を超えいよいよ現実のものとなってきている今、伊佐眞一によって封印を解かれた文とその文に貫かれた沖縄の近現代に、途絶えることなく流れ込んでいる同化主義を内破する知的実践は、国家としての日本の<外>を開き、統合の原理を踏み越える道筋を示唆してもくれる。(時評2007・7月/琉球新報2007.7.30)


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