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近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷/屋嘉比収

『別冊環E−琉球文化圏とは何か』(藤原書店03)所収


やかび・おさむ 1957年沖縄生。琉球大学非常勤講師。日本近代思想史。論文に「越境する沖縄」(『近代日本の文化史9』岩波書店)「歴史を眼差す位置」(『沖縄の記憶/日本の歴史』未来社)ほか。


はじめに

 近代日本は、以下のように、東アジアの地域を侵略し、編入や併合さらに植民地支配によって領土を拡張していった。1869(明治2)年、アイヌ民族が居住する蝦夷地を北海道と改称して編入し、75(明治8)年の樺太・千島交換条約によりアイヌ問題を日本の国内問題として包摂した。また1871(明治4)年、琉球の宮古島民が台湾に漂流し原住民に殺害された事件を契機に、明治政府は琉球藩を設置し内国化して台湾出兵を行い、79(明治12)年に沖縄県を布告し併合する琉球処分を断行した。そして1894―95(明治27―28)年の日清戦争によって、台湾を植民地として領有した。さらに日露戦争を経て、1910(明治43)年に韓国を併合し、朝鮮半島を植民地支配した。このように、近代日本は、日本列島周縁の少数民族を編入・併合し、周辺地域を植民地として領有し領土を拡大することで近代化を推進したのである。
 琉球処分によって日本に併合された沖縄の知識人は、その東アジアに膨張拡大していく近代日本の植民地政策の歴史をどのようにみていたのであろうか。沖縄学の創始者である伊波普猷の下で学んでいた郷士史家の比嘉春潮は、日記のなかで「韓国併合」について、同様な境遇にあった沖縄の立場から、次のような悲痛な心情を吐露している。
 
 「去月29日、日韓併合。万感交々至り、筆にする能はず。知り度きは吾が琉球史の真相也。人は曰く、琉球は長男、台湾は次男、朝鮮は三男と。嗚呼、他府県人より琉球人と軽侮せらるる、又故なきに非ざる也」。(1)

 この比嘉春潮の言葉に端的に示されているように、「他府県人」(日本人)から侮蔑されていた当時の沖縄の状況に照らし、近代日本の膨張政策によって併合・植民地化されていったアイヌ、台湾、朝鮮の問題は、けして他人事ではなく、沖縄の問題と通底するものとして受けとめられていた。比嘉によると「琉球は長男、台湾は次男、朝鮮は三男」というフレーズは、伊波普猷の言葉で、それは近代日本によって支配された地域の時代の順序を述べたものだと言う。(2)むろん、その言葉はたんなる歴史的経過を述べただけでなく、近代日本によって併合・植民地化された人々への共通する苦悶や悲哀の思いが含意されている点は想像に難くない。そしてそれらの認識は、抑圧された歴史に対する苦悩ともに、沖縄の状況や自らの生き方への反問をもたらすものであった。それについては、先の引用部分の後に続けて記している比嘉の次の発言が如実に示している。

 「琉球人か。琉球人なればとて軽侮せられるるの理なし。されど理なければとて、他人の感情は理屈に左右せらるものあらず。矢張吾等は何処までも<リギ人>なり。ああ琉球人か。されど吾等の所謂先輩は何故に他府県にありて己れの琉球人たるを知らるるを恐るるか。誰か起ちて(吾は琉球人)と呼号するものなきか。かかる人あらば、我は走り行きて其靴のひもを解くべし。吾は、意気地なき吾等の祖先を悲しみ、意気地なき吾等の先輩を呪ひ、意気地なき吾自身を恥づる也」。

 当時の沖縄の若い知識人たちにとって、アイヌ、台湾、朝鮮の問題に関心を寄せることは、沖縄や自らの生き方を考えることに重なっていた。その背景には、アイヌ、台湾、朝鮮の問題は、沖縄の問題と類似し共通する歴史的課題であるとの認識が彼らにあったからである。そしてそのことは、翻って、沖縄の歴史や沖縄人の生き方、そして自らを問うあり方へとつながっていったのである。しかし、沖縄の識者たちが沖縄に類似し共通する歴史的課題だと認識していたとしても、彼らがアイヌ、台湾、朝鮮の問題をどう考えていたかという点は、また別の問題だといえる。
 この小論では、近代日本の膨張政策のもとで併合・植民地化され、共通する歴史的環境を抱えていたアイヌ、台湾、朝鮮などのマイノリティーの問題に対して、近代沖縄を代表する三人の識者―明治期の太田朝敷、大正期の伊波普猷、昭和期の久志芙沙子―が、どのように考えていたかについて検討してみたい。その検討は、三人の識者が近代日本国家と沖縄との関係をどう考えていたかだけでなく、帝国日本におけるマイノリティーとしての沖縄人が、同じマイノリティーとしての位置付けられたアイヌ、台湾、朝鮮の問題をどう認識していたかを考察することを意味する。それはまた、その考察を通して、マイノリティーとしての沖縄人がもっている思想の強度を検証することにもつながるといえよう。

一 明治期の太田朝敷

 明治期の太田朝敷のアイヌ、台湾、朝鮮に関する認識を端的に示しているのは、1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会での、いわゆる「人類館事件」に関する太田の発言である。人類館事件とは、博覧会の会場外に隣接された民間業者による「学術人類館」で、「北海道のアイヌ5名、台湾生蕃4名、琉球2名、朝鮮2名、支那3名、印度3名、同キリン人種7名、ジャワ3名、バルガリー1名、トルコ1名、アフリカ1名、都合32名の男女が各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作」を見せる状態で展示された事件である。(3)同博覧会は、娯楽性や見せ物的要素においても、これまでの博覧会の内容や展示のあり方とは一線を画すものだった。そして欧米の博覧会で採用されていた帝国主義の植民地主義的な展示方式、すなわち植民者が現地人を差別的に眼差す展示方式を、帝国日本として初めて国内に導入した博覧会でもあった。(4)それに対して、中国や朝鮮の展示については、公使や留学生から抗議や批判が起こり、中国や朝鮮人の陳列はいち早く中止された。(5)沖縄についても在阪県人から人類館事件の情報がもたらされ、それを現地取材した太田朝敷の中止を求める抗議記事などが数回にわたり、『琉球新報』に掲載されたこともあって、県民世論が反発し、琉球女性2人の展示も中止され、彼女たちは2ヵ月後に帰郷している。
 その博覧会には、前述したように、帝国日本がアジアに拡張するに伴い、欧米の植民地主義の眼差しを内面化した差別的な展示方式が導入されていたが、それに隣接し開設された「学術人類館」でも、異民族を「未開人種」や「劣等民族」として分類し評価する人類学の関与と、その人類学の学術知が果たした権力性や政治性が指摘されている。(6)その人類館事件に対して、太田朝敷は、琉球人を陳列した差別的展示のあり方に抗議し中止を求めたのであるが、その批判する論調の中で、はしなくもアイヌや台湾、朝鮮人に対する太田の認識が、次のような形で提示されている。
 
 「陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」(7)
 
 その引用文の後半部分で強調されているように、太田は帝国国民である沖縄県人が、台湾の生蕃と北海のアイヌと同列に展示されたことは沖縄県人を侮辱するものである、と反発している。その太田の発言に見いだされる批判の論理は、差別された者がそれから脱却するために差別意識を内面化し、他の少数民族を差別視する抑圧移譲の構造である。それは言い換えると、自らを擁護しその優位性を主張するために、他の少数民族を差別し排斥する論理だといえよう。その抑圧移譲の構造を含んだ太田の批判の論理は、女性に対する太田の認識のなかでも同じように指摘できる。それは、太田が他の少数民族を表象する際に用いた「劣等種族」という語句と同様に、女性を表現する際にも「劣等の婦人(賎業婦、辻遊廓の娼妓)」という語句を使用している点に端的に示されている。先の引用文のなかで太田が、「辻遊廓の娼妓」である「斯の婦人を指して琉球の貴婦人」として展示されているのを批判していることからわかるように、太田のなかではその「劣等の婦人」が「琉球人」を代表して展示されているあり方に対しても強い不満をもっていた。そこには、職種で女性の優劣をつける太田の家父長的で差別的な眼差しがみられる。それは、帝国日本の「内国植民地」として位置付けられ、日本から「女性」として表象されている沖縄のなかで、沖縄男性がより劣位の位置にある沖縄女性へ抑圧を移譲する差別的な眼差しである。
 ところで、なぜ太田の論説は、そのような論理構造をもっていたのであろうか。それは、彼の人類館事件に関わる論説の中で、先の引用箇所とは別の部分で数多く散見される、次のような「全国共通」「全国との調和」「全国帰一」「全国と一致」という語句に如実に示されている。太田の論調は、これからの沖縄は「全国」同様に帝国日本の一県として積極的に「同化」し、日本の「帝国臣民」「国民」として貢献すべきだとする強い主張である。そこで強調されているのは、明治30年代前半に沖縄でも徴兵制や土地整理、租税制度など全国同様の法制度が施行されたことを受けて、これからは意識や精神面でも沖縄県民はりっぱな帝国日本の「臣民」や「国民」になるべきだという太田の主張である。そしてその背景には、他府県人の沖縄人に対する「種族的差別」を、沖縄県民がりっぱな帝国日本の「臣民」「国民」になることによって乗り越えるべきだとする太田の論理構成がある。言い換えると、沖縄人に対する「種族的差別」を「帝国臣民」としての「ナショナリティー」に同化することで乗り越えようとする志向性だといえよう。人類館事件に関する太田の論説を読んでみると、沖縄とアイヌ、台湾、朝鮮との関係において、「人種」や「民族」の問題だけでなく、その「帝国臣民」としての「ナショナリティー」の問題が、いかに重要視されていたかを確認することができる。その点で、当時の沖縄の新聞を読んで印象的なのは、アイヌや台湾人、朝鮮人と異なり沖縄人は日本人と「同一民族」であるという主張と、いち早く帝国臣民になった沖縄県民に比べて朝鮮人や台湾人は帝国日本の「新俯の民」だという差異意識である。そのことからも、明治後期の沖縄の知識人において、いかに日本帝国の「臣民」「国民」としての「ナショナリティー」の威光が、眩しく輝いていたかがうかがわれよう。

二 大正期の伊波普猷

 アイヌ、台湾、朝鮮に対する大正期の伊波普猷の認識をみる前に、まずは明治期の伊波の認識について言及しておきたい。実は、アイヌ、台湾、朝鮮に対する明治期の伊波の認識は、意外に思われるかもしれないが、前節の太田朝敷の認識とほとんど変わるところがない。確かに伊波の発言には、アイヌ人や台湾人に対して、「野蛮人種」や「台湾の鬼」という激しい言葉を吐いた太田とは違い、おだやかな表現や言い回しが多い。しかし、他の少数民族に対する認識という点では、両者の間に共通する感覚が指摘できる。
 明治44年に発刊された『琉球史の趨勢』の中で、伊波は琉球と比べてアイヌや台湾について次のように述べている。「(琉球民族は―引用者)アイヌや生蛮みた様に、ピープルとして存在しないでネーションとして共生したので御座います。彼等は首里を中心として政治的生活を営みました。『万葉集』に比較すべき『おもろさうし』を遺しました」「アイヌを御覧なさい。彼等は、吾々沖縄人よりも余程以前から日本国民の仲間入りをしています。併し乍ら諸君、彼等の現状はどうでありませう、やはりピープルとして存在しているではありませんか。不相変、熊と角力を取っているではありませんか」(8)。とくに、他の論考でも同様な表現を使用しているように、同時期の伊波の中でアイヌや台湾に対する認識として何度となく使用されている表現は、アイヌや台湾人、マレイ人が「ピープル(人民)」であるのに対して、沖縄は「ネーション(国民)」であるという指摘である。(9)その認識の背景には、文明化の発展段階がいまだ未発達なアイヌや台湾人の「ピープル」の状態とは異なり、琉球はかつて王国を形成し「おもろさうし」に代表される高い文化を永く保有した「ネーション」だという、自らの文化を誇る心情がある。その伊波の指摘からもうかがえるのは、明治期の沖縄の知識人が「ネーション」としての「国民」という言葉に過大な評価を付与し、つよく執着している点である。明治期の伊波普猷にとっても、前節の太田朝敷の認識と同様に、沖縄が帝国日本の「臣民」や「国民」である/になるという威光は、圧倒的な輝きを放っていたように思える。逆に言えば、当時の沖縄の識者にとって、他府県人による沖縄文化への誤解を解き、さらに差別から脱却するためにも、帝国日本の「臣民」「国民」という威光は、後進的な沖縄を導いて救ってくれる絶大な光として受けとめられていたのである。
 しかし、その帝国日本の「臣民」「国民」としての沖縄が、大正末期のソテツ地獄の惨状を経験したことによって、それまでのアイヌや台湾に対する伊波の認識にも大きな転回をもたらすことになる。そのソテツ地獄(10)を契機とする伊波の転回については、すでに比屋根照夫(11)、安良城盛昭(12)、鹿野政直(13)らの先行研究によって詳しく分析されている。とりわけ、安良城は、比屋根の先駆的指摘を受けて、それを伊波の中での「広い意味での歴史観の一大転換」ととらえ、以下の4つの歴史観の転換として、琉球処分=奴隷解放論の修正、孤島苦の主張、土地制度観の転換とともに、アイヌ認識の転換について言及している。さらに鹿野は、比屋根や安良城の分析を受けて、そのソテツ地獄を契機とする伊波の歴史認識の転換により、ヤマトへの期待、近代への希望、宗教という善意≠フ教導への信頼などが「一つ一つ剥落した」点を指摘している。そしてさらに私自身は、その伊波の歴史認識の転換にともなう「剥落」の中に、もう一つ、伊波にあったそれまでの帝国日本の「臣民」や「国民」への期待が剥落していった点も同じく付け加えたいと思っている。なぜなら、沖縄人が参政権の獲得をはじめ法制度的にも帝国日本の「臣民」や「国民」となっても、ソテツ地獄による沖縄社会の惨状や困窮が救済されない現実に対して、伊波は絶望感とともに国家政策に翻弄される沖縄社会の悲哀を痛切に感じていたからである。帝国日本の「臣民」や「国民」の威光に大きな期待を寄せていた明治期の伊波は、ソテツ地獄による歴史認識の転換にともない、大正末期以降にはその帝国国民の威光に対する期待も、しだいに剥落していったように思われる。

 ところで、伊波のなかでアイヌ認識が転回する直接の契機は、伊波が大正14年2月にソテツ地獄の状況下にある沖縄から上京し、その翌月に開催された第2回アイヌ学会で、アイヌの青年である違星滝次郎(北斗)の講話を聞いてからであった。伊波は、そのときに受けた深い感動を「目覚めつつあるアイヌ種族」という論考(14)にしたためて、いち早く沖縄教育会の機関誌である『沖縄教育』に投稿している。そのような行動に伊波を突き動かしたのは、違星の感銘深い講話によって、それまでの自身のアイヌ認識の是正と転換がもたらされたからであった。伊波は、先の論考のなかで講話の要約を行ない、その感想としてこれまでの自らのアイヌ認識の不当性を率直に認め、次のように述べている。「一同は少からず感動しました。アイヌは5以上の数は数へることが出来ないなどと聞かされていた私たちの知識は、見事に粉砕されました」。伊波のアイヌに対するそれまでの不当な認識は、「違星君以外のアイヌにあったことはない」という事情によるもので、違星の講話が伊波に与えた影響は決定的なものだった。その論考の中でそれを示す逸話として、講話を聞いた後、伊波にしてはめずらしく感情を表に出し、感動のあまり琉球から来た私が「君の気持ちは誰よりも私には能くわかる」と話し、違星に握手を求めたエピソードが記されている。
 その後も伊波は違星から二度の訪問を受けて、ウタリ・クスの地位の向上とアイヌの権利回復のために行動しているアイヌ青年たちの運動の話を聞き、助言を行なっている。伊波は、彼らが出している機関誌の内容が、明治中期に東京で発刊された沖縄青年たちの雑誌の「思想よりは遥かに進んでいる」と指摘して、違星たちの運動について「今日の青年アイヌは男女共実に維新当時の志士のやうなものです。互に連絡を取りつつ、亡び行く同族の頽勢を撤回すべく誓っている」と述べている。また、違星との出会いを通して、「彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたやうに、ユーカリといふ美しい詩をのこしています」と記しており、前述した明治期の伊波のアイヌ認識が是正されている点が確認できる。そして伊波は、機関誌を出して思想やアイヌを主張し、また中等程度の学校を設立している青年アイヌたちの運動の重要性を認めつつも、「目下の急務は、同胞の間に這入り込んで通俗講演」や「啓蒙運動」を行なうことの必要性を助言している。むろん、青年アイヌたちへのその助言の背景には、伊波が明治後期から大正前期にかけて沖縄のなかで自ら精力的に行なった衛生講話や通俗講演などの啓蒙運動の経歴が前提にあることは言うまでもない。しかし伊波は、そのような啓蒙運動の重要性をアイヌ青年たちに助言しながらも、ソテツ地獄下の沖縄社会の現状を考えると、胸中は複雑な心境にあったといえよう。
 伊波は、上京する前年に書いた「琉球民族の精神分析」という論考(15)の中で次のように述べている。ソテツ地獄による沖縄社会の惨状は、宗教や教育による「個人的救済」ではなく経済生活などの「社会的救済」が必要であり、「今となっては、民族衛生の運動も手緩い、啓蒙運動もまぬるい、経済的救済のみが私たちにのこされた唯一の手段である」と強調している。その見解は、先の「目覚めつつあるアイヌ種族」の論考でも、沖縄は「今やその経済生活も行詰って、国家の手で救済されなければならない羽目に陥っている」との記述にみられるように、当時の沖縄社会の経済状況に対する伊波の強い危機意識が投影されている。さらにその論考の翌年に、伊波が宗教家のアール・ブルーに送った書簡(16)では、その末尾においてより一歩踏み込んだ表現で、「琉球は昨今非常な窮境に陥って、国家の手で救済されなければならないやうになっていますが何だかもう助からないやうな気がします」とさえ明記している。それからわかるように、伊波は沖縄社会の絶望的な状況に対して「啓蒙運動」ではなく「経済的救済」の必要性を強調しており、アイヌ青年たちの運動に啓蒙活動の重要性を強調した助言とは大きく隔たっている。むろんその背景には、沖縄とアイヌの状況の違いに対する認識が前提にあるといえるが、これから続くであろうアイヌ青年たちの運動の困難さを考えると、伊波の中には複雑な思いがあったことは想像に難くない。

 伊波は、同論考の最後の方で次のように述べている。「私は青年アイヌの運動に多大な同情を有するものです。けれども世界の民族運動がその終焉に近いた頃に彼等がおくればせに雄々しくも最初から出発しようとするのを見て、一滴の涙なきを得ません」。その背景には、伊波が沖縄の現状と格闘する過程で構築してきた、「民族的自覚」(17)から「宗教的自覚」へ、そして「経済的救済」の必要性へと思想的進展がなされたなかで、これから出発するアイヌ青年たちの民族的自覚に基づく運動への「多大な同情」があった。しかし、そのアイヌ青年たちの「最初から出発しようとする」姿勢は、ソテツ地獄の沖縄社会の現状に「絶望感」を抱き悲痛な思いにあった伊波にとって、逆に大きな励ましを与えるものだった。そしてそのアイヌ青年との出会いと彼らの運動が伊波に与えた励ましは、伊波を通して、沖縄の青年たちへの励ましへとつながることになる。その論考の末尾で記されている伊波の次の文章は、そのことを含意しているように思われる。「私たちはこれまでアイヌを甚しく誤解していました。大方の人は彼等をその価値以下に見ているだらうと思います。どうか貴誌を介して、アイヌの真相を県下の教育家諸君に知らして下さい。これひとりアイヌの幸福ばかりではないと思ひます」。アイヌの真相を正しく理解することは、アイヌの幸福ばかりではなく、沖縄の未来の幸福へとつながるものと、伊波は考えていた。伊波が、「目覚めつつあるアイヌ種族」という論考を『沖縄教育』に投稿した背景には、アイヌの青年たちの運動に励まされ、そしてその意欲的な活動を沖縄に報告することによって、ソテツ地獄で困窮している沖縄の青年教師たちへの伊波の激励の意味が含意されていたことは想像に難くない。伊波が同論考を、その『沖縄教育』の編集者である又吉康和へ呼び掛ける形式によって書いている点が、それを示している。
 先に「琉球民族の精神分析」という論考の中で、伊波が沖縄社会の経済的救済の必要性について指摘している点にふれたが、同論考の中でその経済生活の社会的救済に言及する前段で、伊波は「人の意識が人の生活を決定するのではなく、其の反対に人の社会的生活が人の意識を決定する」という「唯物史観」に言及している。伊波のなかで、ソテツ地獄の惨状を経験して経済的救済の必要性を認識したことは、唯物史観やマルクス主義への関心をより身近なものにしたことの現れといえよう。事実、その後、伊波は昭和3年にハワイ在留沖縄県人の招きで渡米し、その渡米の際に、社会主義者の新城北山や比嘉静観、宮城与徳らと出会い(18)、彼らから聞いた様々な日本移民の哀史の話を元に、「布哇物語」や「布哇産業史の裏面」という論文を書いている。その渡米の際の見聞に基づいて書いた二つの論文は、伊波の数多い論文の中でもっとも唯物史観やマルクス主義の色彩が強い論文だと言われている。その後の伊波の論文の中では、唯物史観やマルクス主義への関心が深められた痕跡は確認できない。だが、ソテツ地獄後の昭和初期には沖縄社会にも社会主義思想などの新思潮が流入し、また在京在阪の沖縄出身者の中でも唯物史観やマルクス主義への関心が高まって、一部では共有される状況があった。その同時期にソテツ地獄下の沖縄から作家を目指して上京し、同時代の息吹を共有しながら河上肇の本を読み、プロレタリア文学に関心を寄せていた一人の女性がいた。昭和戦前期に文筆活動を始めた久志芙沙子である。

三 昭和期の久志芙沙子

 久志芙沙子は、昭和戦前期における沖縄出身の数少ない女性作家の一人で、昭和7年6月号の『婦人公論』に掲載された作品「滅びゆく琉球女の手記」が、在京の沖縄県学生会や県人会の抗議により、「筆禍事件」になったことで知られている。(19)そして、その激しい抗議と批判のなかで書かれた久志の釈明文は、当時の沖縄の言論や思想状況をはるかに凌駕した論点を提起し、今日に通じる先駆的な論考として高く評価されている。
 久志芙沙子は、1903(明治36)年に沖縄で知られた首里の士族の家系に生まれた。祖父の代までは琉球王府の有力士族だったが、その後の琉球処分を境にして没落し、さらに父親が経営する砂糖会社の事業の失敗もあって、幼少の頃から困窮した家庭環境のなかで自己を形成した。琉球処分という世替わりで由緒ある家系が没落し、生活が貧窮していった経験は、その後の久志のものの見方や考え方に大きな影響を及ぼした。久志は、そのあと県立高等女学校に進学するが、その厳しい生活環境とは異なり、女学校時代は学生生活を謳歌し、人生の中で最も心楽しい一時期だったと後に回想している。在学中から文学に親しみ、とくに短歌が好きで、鈴木ユミのペンネームで『女学世界』などに投稿していたという。その頃から、文筆で立ちたいとの希望をもっていたが、生活のために一時期ではあるが小学校で教職に就かざるをえなかった。だが、さまざまな事情もあって、また作家への夢も断ちがたく、久志は、昭和5、6年に上京する。しかし、生活に追われ文筆もままならず、その後結婚をして、病弱な夫と子供を抱えながら困窮した生活を続けていた。その頃、投稿して賞金でももらえればとの「軽い気持ち」で雑誌に投稿したのが、後に「筆禍事件」の対象になった原稿であった。「片隅の悲哀」という表題で久志が投稿したその原稿は、編集部により「滅びゆく琉球女の手記」という表題に替えられて雑誌に掲載されたのである。
 
 その作品は、仕事で成功するため職場や家族にまでも沖縄出身であることを隠して、東京で立身出世をした祖父の生態を、姪のわたしの目を通して率直に語られた内容である。それには、ソテツ地獄で貧窮を極めた叔父の沖縄の家庭の様子が記されている。そして、久々に故郷に帰った叔父が、その沖縄の困窮と悲惨な状況にうんざりし、親交を望んでいた親類縁者との係累を断ち切り逃げるように帰っていった話が綴られている。その叔父のようにこれまで苦労して築き上げた境遇を守るため、沖縄出身をひた隠しする当時の在京県人の一部に存在した卑屈な状況を、久志は批判的に叙述したのである。この作品は、創作というより、金城朝永が言うように「当時流行のいわゆる『実話もの』」(20)としてとらえられ、実際、そのように受けとめられて、この作品は大きな反響を呼んだ。久志が書いた釈明文によれば、雑誌発刊後に沖縄県学生会の会長と前会長が来て、沖縄の風俗習慣を洗いざらい書き立てられて誤解されること、アイヌや朝鮮人と同一視され迷惑であること、さらに沖縄県人を差別待遇して侮辱しており、就職難や結婚問題に影響するから謝罪しろと抗議された、と記されている。それに対して久志は、故郷の事を嘘やあしざまに書いたのではなく謝罪の言葉が見つからないと述べ、民族間に優越をつけるあり方を批判し、アイヌや朝鮮人も人間としての本質的な価値は何ら違いはなく同じ東洋人だと述べている。さらに沖縄の文化や風俗習慣に無理解の人々へ媚びへつらい、自分自身まで卑屈に陥る必要はないと述べ、逆に就職や結婚問題について具体的に反論している。それは今読んでも釈明文というより、自らの主張を一歩も譲ることのない見事な反論の文章である。
 久志の作品が沖縄について誤解を与え、アイヌや朝鮮人と同一視され迷惑であるとの在京県人会や学生会からの抗議に対し、久志は釈明文のなかで次のような論旨で反論している。「アイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑するとの事でしたが今の時代に、アイヌ人種だの、朝鮮人だの、大和民族だのと、わざわざ階段を築いて、その何番目かの上位に陣どって、優越を感じようとする御意見には、どうしても、私は同感する事が出来ません。(略)代表の方々は、我々を差別待遇して侮辱するものだといきまいて居られたが、その語はそっくりその儘、アイヌや朝鮮の方々に人種的差別をつけるやうなものではないかと思はれます。妾自身は、沖縄県人が、アイヌ人種でもよし、大和民族でもよし、どっちにしろ境遇的には多少歪められたにしても、人間としての価値と、本質的には、何らの差別も無い、お互いに東洋人だと信じて居ります」。
 
 その釈明文で述べられている久志の主張は明快である。アイヌや朝鮮人を人種や民族において差別するあり方を批判して、人種や民族の違いではなく「人間としての価値」でとらえることを主張し、日本人や琉球人も含めてともに「東洋人」だと強調している。その久志の主張は、前述した沖縄の明治期を代表する太田朝敷の論調と照らし合わせてみても、沖縄近代史のなかで画期的であることが確認できよう。その久志の主張は、それまでの近代沖縄の言論や思想状況をはるかに突き抜けた見解だといえる。ではなぜ、久志はそのような見解をもちえたのであろうか。それは、久志が沖縄の問題を、「民族」や「人種」という視点だけでとらえるのではなく、その視点を開き、他の視点と接合して考えていたからではないか。例えば、久志は釈明文の終わりの方で次のように述べている。「地位ある方々ばかりが叫びわめき、下々の者や無学者は、何によらず御尤もと承っている沖縄の常として、妾のやうな無教養な女が、一人前の口を利いたりして、さぞかし心外でございませうけれど上に立つ方達の御都合次第で、我々迄うまく丸め込まれて引張り廻されたんでは浮ばれません」。
 その久志の発言の背後にあるのは、「妾のやうな無教養な女」や「下々の者」という表現にみられるように、ジェンダーや階層という視点の存在である。久志が、沖縄の中の内なる他者としてのジェンダーの視点から、民族や人種をとらえ返していることはすでに宮城公子が指摘している通りである。(21)また久志の階層への視点は、雑誌のインタビューで彼女自身が述べているように、その作品が没落士族に嫁いだ母親の不平不満を背景に、河上肇の本の影響下で書かれたという点からも首肯されよう。また、「滅びゆく琉球女の手記」の叙述にみられるように、当時流行していたプロレタリア文字の影響下で書かれている点も同じく指摘できよう。(22)確かに、それまでの沖縄の男性論者が沖縄の民族や人種の問題を、帝国臣民としてのナショナリティーで越えようとしたあり方とは違い、久志がこの問題をジェンダーや階層の視点からとらえ返した点は重要だといえる。その意味で、久志がそのような新しい視点を獲得したことは重要な意味をもっているが、ただその前提にあるソテツ地獄での沖縄社会の矛盾や不合理な状況に対して、久志がけして目をそらすことなく対峙して考えた姿勢にこそあらためて注目すべきではなかろうか。久志にとって、琉球処分による家系の没落とその没落士族に嫁いだ母親の不平不満、さらに作品の時代背景としても叙述されているソテツ地獄下の沖縄社会の惨状からけして目をそらすことなく、その矛盾や不合理をとらえる視点を自ら模索したことが重要であった。そして久志が導きだしたのは、社会を女性の立場からとらえ返すジェンダーの視点であり、河上肇の本やプロレタリア文字から学んだ唯物史観やマルクス主義の視点であった。そしてさらに重要な点は、それらの新しい視点を導入したことにあるのではなく、久志がソテツ地獄の沖縄社会の矛盾や不合理を批判するために、その複数の視点を接合して考えた点にこそあるのではなかろうか。そのような複数の視点を接合して考えるあり方が、沖縄に対する差別を民族や人種の観点だけでとらえ、帝国日本のナショナリティーで乗り越えようとする近代沖縄の男性論者とは、異なる視点を久志にもたらしたように思われる。

結びにかえて

 その久志の主張は、第一節で言及した明治36年の人類館事件における太田朝敷の論調とは、明らかに異なっている。前述したように太田は、琉球人がアイヌや台湾人と同様に陳列されていた人類館事件に対し、帝国臣民である沖縄人を劣等で野蛮な人種である台湾生蕃人や北海アイヌ等と同一視し侮辱するものだと反発し、抗議の声を挙げた。そこにあったのは、アイヌや台湾先住民と同列に扱われることを拒否する姿勢だった。それは、差別された者が差別から脱却するために、その差別意識を内面化して他の少数民族を差別する抑圧移譲の構造だといえる。そしてその構造は、太田の女性に対する視点にも共通しており、太田はその内なる差別意識をもちながら、他府県人による「沖縄人」の「種族的差別」に対し沖縄人が帝国日本の立派な「臣民」になることで乗り越えようと主張した。そこにみえるのは、「沖縄人」の苦悩を、帝国日本のナショナリティーへの同化によって越えようとする論調であった。
 さらにそのような論調は、大正末期の転回以前の伊波普猷のアイヌ観にもみられ、琉球人は優秀なネーションであり、いまだピープルの段階にあるアイヌとは違うと主張した明治期の伊波の認識とも通底していた。しかし、伊波は、大正末期に上京し、アイヌの青年・違星北斗に直接出会うことで、それまでの自らのアイヌ認識を是正して大きく転換することになった。その背景には、ソテツ地獄を契機とする伊波の歴史認識の転回があった。
 そしてそのソテツ地獄の沖縄社会の惨状を経験し、その矛盾と不合理から目をそらすことなく対峙し、それを作品や釈明文の中で思想的論点まで高めたのが作家の久志芙沙子だった。とくに釈明文で主張された久志の論点は、それまでの近代沖縄の男性論者が提出してきたアイヌや朝鮮の認識とは異なる、新たな論点を提起するものであった。その背景には、ソテツ地獄を経験した沖縄社会の矛盾や不合理が一段と凝縮されている地点から導きだした女性や階層の視点があり、その複数の視点を接合することで新たな視野が開かれたといえるように思う。そしてさらに重要なのは、その複数の視点を接合して考えるあり方が、久志のなかで、社会の矛盾と不合理に対し、人間として生きていくための個人の主体のあり方として導きだされている点である。
 
 しかし、近代沖縄思想史を概観すると次のような点を指摘せざるをえない。伊波普猷は、大正末期のアイヌ認識の転換のあと、ハワイを訪れ先住民族に関心を寄せるが、その後は沖縄研究に没頭したために、アイヌをはじめマイノリティー問題に対する論述を展開することはなかった。また昭和初期の久志芙沙子の主張も、彼女の作品が在京沖縄社会の一部から批判や抗議を受けて筆禍事件となったため、彼女の優れたマイノリティー認識も、省みられることなく忘れ去られることになった。むしろ、昭和期の沖縄では、マイノリティー認識を含めて思想的潮流の中心を流れていたのは、太田朝敷の主張する帝国日本への「同化主義」の主張であつた。つまり、転換後の伊波や久志のマイノリティー認識は、沖縄社会では共通の認識にはならなかったのである。その事実はあらためて考察されなければならない。確かに、その「同化主義」を分析する際には、当時の時代状況や社会文脈にそくして詳細に検討しなければならないが、その「同化主義」の主張がアイヌや台湾、朝鮮などのマイノリティー認識において、多くの問題を抱えていたことは明らかである。その意味で、マイノリティー認識への視点は、近代沖縄の思想的潮流の一つである「同化主義」の主張を検討するうえでも、重要な試金石になるように思える。
 そして沖縄社会で、伊波や久志のマイノリティー認識の思想的意義があらためて評価されたのは、1970年代に入ってからであった。岡本恵徳は、1970年代前半に、久志が提示したその論理の内実に、「いま沖縄にすむぼくたちが、なにほどのものをつけ加えたか」と問うている。(23)その岡本の指摘からすでに30年が経過し、いままた沖縄で新たな「同化主義」が囁かれているなかで、伊波や久志の提起した論点に何を付け加えたかと問うことは重要な意義をもっている。その意味でも、伊波や久志の提起した論点を、今日の地点からどう読み直して、いかにつないでいくかが私たちに課された課題だといえよう。


(1)比嘉春潮「大洋子の日録第参冊」明治43年9月7日(『比嘉春潮全集第五巻』沖縄タイムス社、192頁、1973年)。比嘉は、日記の他の箇所「大洋子の日録第弐冊」明治42年3月18日、同全集五巻、126頁)でも、「韓国併合」について次のように記している。「今の韓国の有様、無知無力を蔑視さるる韓国民、果して彼等は無知無気力か。併し同じく合併せらるるなら、奴僕になるなら、日本の様なやさしい御主人を持ったがよい」。前半部分は問題ないとしても、後半部分の指摘についてはある程度の注釈が必要となろう。その発言の背景には、比嘉が教えを受け傾倒していた伊波普猷の認識が大きな影響を与えていたように思う。伊波は明治44年3月に処女作である『琉球人種論』を発刊するが、比嘉はそれについて次のように述べている。「『琉球人種論』読了。日本人種であるとの結論。伊波先生の持論である。併し、先生がなぜこんな論を公にせらるるかに就いては、わけがある。先生の考では、今の琉球人は早く日本人と同化するのが幸福を得るの道である、其為めに右の様な論をする」(「大洋子の日録第四冊」明治44年4月29日、同全集五巻、295頁)。鹿野政直は、その比嘉の日記を引用して、当時の伊波の主張が「戦略論として提唱された」と指摘している。(『沖縄の淵』岩波書店、101〜102頁、1993年)。先の比嘉の日記の後半部分の発言には、伊波のその「戦略論」としての主張が逆に大きな影響を及ぼしていると考えられる。しかし伊波の考えが、当時の沖縄の状況を鑑み「戦略論」として主張していた点は理解できるが、当時の韓国の状況を沖縄の状況と同様に考えていいのかという課題は残っているように思う。
(2)比嘉春潮「インタヴュー 明治老人の魂魄」(『比嘉春潮全集第五巻』沖縄タイムス社、595〜596頁、1973年)。
(3)『風俗画報』269号、1903年、37頁。なお、人類館は内国勧業博覧会協賛会の主催ではなく民間業者による開催であったが、同協賛会から費用が補助され同会の承認を得た催物だった。
(4)吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、207〜217頁、1992年)。なお、政府主催の内国博覧会の敷地内でも、初めて植民地展示館として台湾館が設置された。
(5)厳安生『日本留学生精神史──近代中国知識人の軌跡』(岩波書店、1992年)。坂本ひろ子「中国民族主義の神話」(『思想』1995年3月号)。
(6)松田京子「パピリオン学術人類館」(大阪大学文学部日本学研究室『日本学報』15号、1996年)。
(7)太田朝敷「人類館を中止せしめよ」(『琉球新報』明治36年4月11日)。なお太田朝敷の論説の全体像については、比屋根照夫・伊佐眞一編『太田朝敷選集』上中下巻(琉球新報社、1994〜6年)を参照。人類館事件と太田の論説については同選集の中巻の解説、比屋根照夫「同化論の成立と展開」を参照。また人類館事件と沖縄については、真栄平房昭「人類館事件──近代日本の民族問題と沖縄」(『国際交流』63、1994年)がある。
(8)伊波普猷「琉球史の趨勢」(『伊波普猷全集第一巻』平凡社、49−63頁、1974年)。
(9)伊波普猷「古い琉球の政教一致を論じて経世家の宗教に対する態度に及ぶ」(『琉球新報』明治45年3月29日)。
(10)「ソテツ地獄」は、第一次大戦後の戦後不況期から世界大恐慌期の慢性的不況下における沖縄経済および県民生活の極度の窮迫状況を示す語句として使用されている沖縄近代史の歴史概念である。その長期不況で生産基盤の脆弱な県経済(生産力の低さ、零細経営、社会的分業の未発達)は大打撃を受けた。税金の滞納で財政危機を招いて吏員や教員への給与の不払い、労働力の県外流出、銀行の倒産、経済疲弊による県民生活の困窮で欠食長欠児童が増え、子女の売買などが横行した(西原文雄「ソテツ地獄」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社、1983年)。ソテツ地獄の分析としては、安仁屋政昭・仲地哲夫「慢性的不況と県経済の再編」(『沖縄県史』第3巻)、高良倉吉「ソテツ地獄」(『沖縄県史』第1巻)、西原文雄『沖縄近代経済史の方法』(ひるぎ社、1992年)を参照。
(11)比屋根照夫「啓蒙者伊波普猷の肖像─大正末期の思想の転換」(『近代日本と伊波普猷』三一書房、116─143頁、1981年)。
(12)安良城盛昭「琉球処分論」(『新・沖縄史論』沖縄タイムス社、174─211頁、1980年)。
(13)鹿野政直「転回と離郷」(『沖縄の淵』岩波書店)、157─186頁、1993年)。
(14)伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ民族」(『伊波普猷全集第11巻』平凡社、302─312頁、1976年)。なお、その論考の初出は、『沖縄教育』(146号、大正14年6月発刊)であるが、『沖縄教育目次集』(那覇市企画都市史編集室、1977年)によると、同号には知里幸恵の「『アイヌ神謡集』の序」とともに、違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲ひて」という第二回アイヌ学会での違星の講話原稿も収録されている。しかし、残念ながら、現在のところ同雑誌は公開されておらず、両文章は確認できていない。
(15)伊波普猷「琉球民族の精神分析−一県民性の新解釈」(『沖縄教育』136号、大正13年3月)。
(16)伊波普猷「E.R.Bull 宛書簡」(『伊波普猷全集第十巻』平凡社、450頁、1976年)。
(17)被植民地民族に関する当時の伊波普猷の「民族的自覚」についての認識は、「古い琉球の政教一致を論じて経世家の宗教に対する態度に及ぶ」(『琉球新報』明治45年3月29日)を訂正増補して書き替えた、『古流球の政治』(大正11年3月、郷土研究社)の末尾にある次の文章が端的に示している。「こゝを私達はよく考へなければならない。私はこの頃朝鮮から帰った人から、大学の先生の日韓同祖論よりも、基督教の宣教師の同胞主義の説教よりも、ウィルソンの民族自決の宣言の方が、朝鮮人の心を動すことが甚だしいといふことを聞いたが、こゝは日本国民の一寸考へなければならない点であると思ふ。さて日本人はかういふ異民族等を如何にして同化しようとするか」。
(18)ハワイにおける比嘉静観の活動については、比屋根照夫「沖縄ディアスポラの思想@〜B」(『みすず』2001年7月─10月号)、宮城与徳については、比屋根照夫「羅府の時代@〜E」(『新沖縄文字』89号〜95号、沖縄タイムス社)、野本一平『宮城与徳』(沖縄タイムス社、1997年)を参照。
(19)久志芙沙子については、沖縄で発刊されていた雑誌『青い海』(1973年10月号と11月号)で、その作品と釈明文が復刻され、同じく著者の「四十年目の手記」やインタビューも掲載されて、久志に関する重要な基礎資料として研究の基盤を提供している。久志に関する研究では、金城朝永の先駆的な紹介があり、文字の領域では復刻前に作品と釈明文を考察した岡本恵徳の論考(『沖縄文字の地平』三一書房、1981年)や作品分析を通して昭和戦前期の沖縄文字の特徴に論及した仲程昌徳の論文(『沖縄の文学』沖縄タイムス社、1990年)がある。また、女性史の領域では『青い海』で著者へのインタビューを手掛け、その後も久志に関する新たな叙述を積み上げている宮城晴美の論考(『時代を彩った女たち』琉球新報社、1996年)がある。そして最近では、筆禍事件前の久志の投稿文を発掘した大野隆之の考察(『琉球新報』2000年12月5日)やジェンダーの視点から作品や釈明文を分析した宮城公子の論考(『琉球新報』2000年12月8日、9日、語られる『沖縄』))などが提出されている。なお、本文と重複する部分もあるが、拙文「久志芙沙子『筆禍事件』前後」(『琉球新報』2003年2月12日〜14日)も同じく参照されたい。
(20)金城朝永「琉球に取材した文字」(『金城朝永全集(上巻)』沖縄タイムス社、493─495頁、1974年)。
(21)宮城公子「語られる『沖縄』」(上村忠男編『沖縄の記憶/日本の歴史』未来社122─128頁、2002年)。
(22)大城立裕は、久志芙沙子「滅びゆく琉球女の手記」と池宮城積宝「奥間巡査」をめぐる座談会(大城立裕・国吉真哲・岡本恵徳「沖縄の近代文字と差別」『青い海』1973年10月号)の中で、「久志さんの小説には、素朴なプロレタリア文字の匂いがしますね。作者にそれへの志向があったのでしょう」と指摘している。
(23)岡本恵徳「『滅びゆく琉球女の手記』をめぐって」(『沖縄タイムス』1970年10月27、28、後に同論考は『沖縄文字の地平』三一書房、1981年に収録)。

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