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松島朝義「復帰運動の終焉」(『情況』1971年1月号)
宮城島明「何故 沖縄人か<抄>」(離島社1971.02.22)


復帰運動の終焉


松島 朝義


■ 目次 ■
一 はじめに
二 沖縄における闘い
三 日本国家に対する幻想の崩壊
四 沖縄と入管、反軍、三里塚地域闘争との接点

一 はじめに

 〈輝かしい歴史を持つ沖縄の祖国復帰運動の政治性が、現在、72年帝国主義による沖縄併合の社会再編、日米共同した軍事基地再編強化過程の中で、拡散され、終焉しようとしている。
 それも、復帰協に代表される既成の運動体に裏切られた、裏切られるという裏切り史観の形ではなく、むしろ、この間の復帰運動を支えてきた運動論、組織論等々の戦略、戦術では最早闘い得ない状況に、あらゆる情勢が先取り的に進行し、日米両帝国主義の政策が吹き荒れる中で、自己を、組織を、沖縄を、どう防衛するのかという受動的な形でしか、暗中模索しえないという極めて否定的な復帰運動の限界性としてである。〉
 第二次世界大戦後、日本の国家形態の要員から分断され、米軍事権力の直接統治により、搾取され抑圧されてきた〈沖縄人〉が、そのような米軍の圧政と闘い、糾弾するところから、本土復帰=沖縄返還運動、いいかえれば民主的諸権利獲得闘争=本土志向型の様相を呈しながら出発し始め、〈基地撤去〉〈本土復帰〉という社会、経済、政治総体のスローガンに集約した形で展開した沖縄闘争の政治性、方向性が、いま、まさに問われている。そして、また、本土志向の中で培われてきた〈沖縄人〉の精神構造、あるいは、沖縄における文化運動(例えば、標準語奨励、日の丸掲揚運動)が、中央文化圏、首都東京を対象軸とし、日本=東京対沖縄という枠内での接点が導きだされ、標準語が教育の表向きとして絶対視されながら、他方、〈沖縄人〉みずからは沖縄(琉球)文化をも使用せざるを得ないというジレンマにたたされた環境そのものを、これからどう突破するのかという方法論も問われているのは言うまでもない。

 日本帝国主義の国民統合政策が、沖縄人民を抑圧することにより貫徹され、高度独占資本が安定期に入るのと裏腹に、沖縄人民の歴史は、米軍による土地収奪をめぐって島ぐるみ闘争へと進展し、直接的な攻撃力、戦闘性は、〈極東〉最大の米軍基地になされながらも、間接的には日本帝国主義の政策と対決することなく、むしろ、請願、哀願という異議申立ての形をとり、主権回復の潜在的概念にエネルギーを拡散せしめるという階級意識を止揚する過程で、ひとつの大きな幻想体を生じさせてしまった。それは、戦後世界体制における日本帝国主義の位置と役割である。そして、日本帝国主義国家=憲法幻想を志向することなしには闘い得なかった沖縄独自、独得の闘争の限界性としての国家権力である。
 この国家幻想=本土復帰の表裏一体をなす意識構造の価値尺度を、日米共同声明路線の一環としてある72年沖縄返還=第三の琉球処分過程の現時点で、ナショナルなもの、あるいはナショナリズムなものからインターナショナル、インターナショナリズムに、どう思想として自立させ、どう実践でもって構築するのかが、我々、沖縄人民総体に問われている最も重要な課題であり、同時に、現状を打破するものとしての階級形成をおしすすめることでもあり得るだろう。
 しかしながら、本土、沖縄を問わず沖縄闘争の方法論が混迷している現在、帝国主義にとっての(沖縄)とは、従来のアジア反革命戦略に規定された沖縄統治形態=米帝の一元支配ではなく、アジア人民の革命的な武装解放闘争の勝利的前進により、東南アジアからの後退を余儀なくされた形での日米共同の侵略前線基地として機能することを意味する。それは、米帝国主義のアジア支配体制の危機=ドル危機からくるドル防衛政策に起因するわけだけれども、日本帝国主義にとっては、アジアへの経済進出、支配を全面化させ、アジア市場の利害を増大させ、内的にも外的にも帝国主義アジア支配の維持、拡大再編のため、侵略、反革命政策として、ここ沖縄が位置付けられている。

 日米共同声明は、日米共同したアジア侵略、反革命政策としてあり、72年沖縄返還とは、日米両帝国主義が沖縄をして、アジアへの政治、経済、軍事力進出の足場として取り組んでいく過程であり、具体的には、日米共同した沖縄基地の再編、強化を意図した沖縄社会再編として立ちあらわれる。例えば、全軍労働者に対する大量解雇、合理化による基地の安定した維持・管理支配と組合破壊。世界有数の独占資本による石油コンビナート建設。本土の反動的労働者支配秩序の沖縄への導入→沖縄独自の戦闘性(教育行政等)の解体として進行している。
 そしてそれは、自衛隊派兵による沖縄基地の日米共同管理に沖縄労働者人民を合意させ、沖縄、日本労働者人民をアジア侵略、反革命へと総動員していく体制を作り上げていくことに集約される。それも、日本帝国主義本国の労働者人民を入管法再上程体制確立により民族差別、排外主義として形成させ、沖縄を尖閣列島をも包括した形で積極的に統合することにより国境の安全弁となし、もって社会排外主義による日本民族イデオロギー形成の完結軸となすことによってである。
 そのような社会再編を屋良琉球政府〈革新〉体制が、「豊かな沖縄県作り構想」という展望でもって積極的に展開すること自体、沖縄における復帰運動が、国家の政治への自己回復としての国政参加に、思想的にも、政治運動としても、のぼりはてるものとしてしかなかったのだという総括を、我々は、選挙の結果にみてとることが出来る。


二 沖縄における闘い

 あえて、沖縄を「明治」以降の歴史に限定し、沖縄の情況を変革しえた闘争に、何が提起されたのかを追求するならば、我々は、徹底した孤立無援の状況を想定する以外、なすすべはない。〈沖縄人〉と〈日本人〉と〈アジア人=第三世界〉が交錯する時間と空間の真只中で、事大主義と御都合主義が、より進歩した思想だと培われてきた沖縄の生き地獄の歴史を、我々は、あえて今、克明に点検しなければならない情勢に追い込まれている。復帰運動論がなんら政治性を発揮しえない以上、我々は、政治、経済、文化総体のあるべき姿勢と、ある現状を、思想的・階級的なものまで止揚しなければならない。

 沖縄における闘いの特殊性とは、何々からの解放闘争だとか、何々ははたして解放闘争になり得るかという思考形態では把握しえない事をおさえなければならない。それは、沖縄にとって、〈沖縄人〉にとって、解放とは何を意味し、何なのかを、沖縄的情況の原点で展開することを要求するものである。
 我々は、その出発点に、自由民権運動、移民問題、日本帰属=復帰運動を見てとることが出来る。
 まず、謝花昇らが中心となって展開した自由民権運動は、沖縄の閉鎖的状況を、どう突破するのかという政治専制国家に対する〈沖縄人〉の〈日本人〉たる意識の民族的高揚と中央集権化を図る国家権力の抑圧構造との衝突が、中心軸であったろう。山林開墾問題、杣山問題、奈良原知事排斥運動、参政権獲得闘争と直線的に上昇する闘いは、当時の政治、経済、文化総体の言うなれば〈沖縄〉総体をスローガン化した運動であったと見ることが出来る。失うべき物がなく、現状を突破しようとするとき、沖縄人の拠り所とは、唯一、孤立した魂だけである。1899年、自由民権運動の結社、沖縄倶楽部を結成し、旧支配層の貴・士族と結託した奈良原沖縄県知事らの弾圧と圧迫の下で闘い抜かれた民権運動は、直接統治をほしいままにする専割政治に対して、沖縄の農民が、あるべき権力を主張し、その実現の為に、参政権獲得という次元まで行きつかざるを得なかった闘いである。逆に言えば、謝花らの闘いが絶望的な闘いであるにもかかわらず、天皇制明治国家とその官僚を相手取り、しかも、帝国憲法が制定され、治安秩序が厳しく規制されていた時期に、沖縄から、あるべき国家形態を追求した民権運動は、謝花昇らが沖縄の解放とは、こうあるべきだと主張した論理的な到達地点であろう。

 けれども、〈沖縄人〉にとって沖縄の解放とは何かという問いかけの本質は、直線的な論理構成などではとらえきれない。それは、謝花の死が、自殺でも、他殺でもなく、狂死〈憤死〉せざるを得なかったというところにある。沖縄対明治国家という形での対決の勝敗は、力量関係を見れば明らかであるけれども、あえて、孤立した戦いを挑まざるを得ないところに沖縄問題の本質がある。しかも、このような苛酷な情況下ではじめられた自由民権運動は、沖縄的な特殊性のもつ矛盾した重圧の為に、必然的に悲劇的な運命が決定される。沖縄ナショナリズムと日本的天皇制ナショナリズムが、権力を媒介として、大衆みずからゆ着し結合することは、決して有り得ないという意識は、謝花らにとって、自明のことであり、それだからこそ、農民にとっての権力のあるべき沖縄を追求したと規定しても、依然として、沖縄的ナショナリズムがソテツ地獄の状況下で、外部に対しては、二者択一的な思考ではなく、二者獲得、二者否定の精神構造であり、内部に対しては、固守せざるを得ない血縁共同体を保持し続けるものであるならば、謝花昇らが展開した自由民権運動の歴史的意義とは、まさに、本土に於けるあるべき自由民権運動が圧殺され、敗北していく過程で、沖縄における民権運動がそのような思想を受け継ぎ、あえて、沖縄の歴史的異質性を媒介にしながら、天皇制国家権力と対決し、そのある体制をあるべき体制に沖縄内部から解体するものとしての運動であったということが可能であろう。それは、本土に於ける60年安保闘争の敗北過程において、沖縄に於ける様々な運動体が登場してくる形態と、どこか共通している部分を見つけ出すことができる。

 謝花らの行動に対し、当時の支配層の機関誌『琉球新報』は、謝花らをして「自己一身の営利の為に県民一般の利害を犠牲に供せんとする功名の徒なり。どうせ悪計と陰謀は謝花派の持ち前、誹謗と毒筆は時論記者の特有。」等と規定している。
 謝花昇が、発狂し時折り発作的に権力の暴政をののしり、農民の不幸をなげきながら狂死したとき、沖縄における自由民権運動は終焉する。そのような権力の弾圧に屈服し、民権運動が挫折した時、謝花の同志である当山久三らは、沖縄人民の活路を、海外への〈移民〉に求める。
 その精神構造とは〈いざ行かん、われらが家は五大州〉という当山自詠の句に代表される沖縄脱出の精神である。それは、沖縄の閉鎖的な状況、資質、体質そのものを否定し、現状を突破する手段であり、目的でもある。1899年明治32年12月5日、ハワイ行きの第一回移民団30人が、那覇港をたって海路、神戸へ向かった。これが、当山久三らが計画し実現した沖縄における最初の労働者の集団、海外移民である。自由民権運動の結社沖縄クラブの結成された年と同年にである。日清戦争で、戦勝し上げ潮の日本資本主義と天皇制国家主義を相手どり、いまだ沖縄の農民の意識が高揚していない歴史的な条件の下で孤立した闘いを組むとき、闘争のエネルギーを海外への移民に求める当山久三の運動論は、決して敗北の運動論ではない。問題は、海外に移民していった〈沖縄人〉が、どのように沖縄をとらえ、どのような思想形成をしてきたかという構造である。当山の発想と行動原理を妨害したのは奈良原知事を中心とする国家権力である。「日本語も知らない沖縄人が海外に出るといっても。それが認可できるのは10年も後のことで、今は時期尚早だ」という答えは、当山らにとって過去、現在、未来までも生き地獄の下で生活しろと命令するに等しい響きを持ったに違いない。そのような差別と抑圧の歴史を塗り変える闘いに、海外移民が提出されたのであれば、それは、沖縄解放の方法論ともなりえよう。「外国にいくのに日本語はいらぬ、どこまでも沖縄の人々の前途を閉ざす腹か。沖縄は内地のゴミ捨て場ではない。」という当山の言葉にそれを見て取る事ができる。

 けれども、様々な弾圧の下で獲ちとり、〈沖縄人〉を解放すべきものとしてあった移民運動も、移民先にまちかまえていたものは、契約労働の強制という、〈日本人〉による〈沖縄人〉差別であったといわれる。そのような差別をはねのけるのには、〈日本人〉よりも、より多く労働しその実績を認めてもらうことを意味する。いわゆる〈日本人〉よりも、より多く労働することにより、〈日本人〉と同等の権利を獲得する。そうすることによって日本人になりきる。そういう精神構造を肌でもって体験し形成してきたのが、移民先における〈沖縄人〉の思想であろう。沖縄における差別と抑圧の歴史を変革するものとして創出された海外移民は、沖縄人みずからが日本人志向型、日本同化型というタイプを作ることによって進展する。一方では日本人志向型を拒否しながら、他方では積極的に同化せざるを得ない状況に、たえず追い込まれてきたのが、〈沖縄人〉の歴史である。
 そうした苦悩を強いられてきた海外移民も、一定の安定期(同等の権利を認められてくる状況)に入ると、先を争って募集に応じ、全島あらそって移民熱に浮かれる。「沖縄は、都鄙をあげて、海外移民全盛時代を現出し、村宿、湯屋、床屋、呉服屋、雑貨店から芝居、辻かいわいまで、外国行き風景一色に塗りつぶされ、出船ごとに、通常、三重城、波の上は見送りで混雑をくりかえした。」(金城時男著『当山久三伝』)
 その発展の結果、輸移入超過と国税支払い超過に悩む沖縄経済を、海外移民の送金が、安全弁の役割をはたし、破綻から救ったといわれている。
 けれども、差別と抑圧政策から沖縄、〈沖縄人〉を救うものとしてあった移民も、沖縄経済を救い、日本資本主義を擁護する結果となり、沖縄、〈沖縄人〉内部そのものを逆に差別する、内なる差別構造を〈沖縄人〉みずから創出したにすぎない。そして現在でもなお海外移民とは、貧困から脱皮する手段として、毎年、数多くの労働者が一家ぐるみで、物質力を蓄積しにでかけている。血縁関係を頼って出かける姿は、まさしく、沖縄からの逃亡である。けれども、それを逃亡だと規定しえないところに、〈沖縄人〉にとって解放とは何を意味するのかという、どうしようもない混迷と悲劇性が、前提として、〈沖縄人〉の魂の奥深い第三世界に横たわっている。

 若年労働力の本土輸出、集団就職による低賃金労働力の確保を、日本帝国主義は、海外移民問題と同様な差別形態として取り続けている。そして何よりも、〈日本人〉になりきる事を強要する。沖縄における教育行政が、〈日本人〉としての自覚を植えつけることから始める事は〈沖縄人〉みずから沖縄を日本帝国主義政策の下に繰りみ、侵略体制を確立する時間的な差を短縮する役割を演ずる事に他ならない。しかしながら、〈日本人〉になりきる事を拒絶し、逆に〈沖縄人〉に固守すること自体、沖縄に帰省することを意味するし、自ら民族排外主義、社会排外主義を形成する事を意味する。
 日本帝国主義の政策貫徹にとって沖縄とは一日もはやくより完全に、日本国家に組み込み中央集権化を完成させることである。
 第二次大戦の敗戦過程でなした〈沖縄人〉の動物的愛国心≠ニは、自ら日本人になりきることによって、人間性を認めてもらうという表現に集約される。日本軍の前面に自らをさらけ出す事、殺される事によって、人間性を回復した、存在が肯定されたという否定的な状況を、我々は痛苦な心持ちで、あえて語らなければならない。そうしなければ生存できなかった状況そのものを暴き出さなければならない。それも、〈日本人〉を拒絶し、〈沖縄人〉をも拒否し、沖縄人としての自己を、主体を、獲得する事を通じてである。
 沖縄における闘いが、矛盾した二重構造を止揚することなく、現在まで通過してきた質そのものを、早急に点検し、同化を拒否する沖縄人としての闘争を創出しなければならない。


三 日本国家に対する幻想の崩壊

 沖縄が日本から分離され、独特の闘いを展開する背景には、まず、第二次大戦による日本軍国主義の米帝国主義に対する敗北があり、その歴史的産物として、米軍事基地権力が沖縄を統治し、それを、日本がサンフランシスコ条約を締結することによって、積極的に承認し、日米共通した帝国主義政策の一環として沖縄を、アジア全地域のカナメ石的存在として位置付けたのである。そして、その政策を補完する形で、新たな日本帝国主義の再建、膨張があり、その存立条件を貫徹する為に、日米安保同盟がある。
 日本と沖縄の分離軍事支配をもっとも具体的に言い表わしているのが、米軍事権力による土地収奪であり、土地をめぐる動向である。復帰そのものが、救いの手段であると規定し、日本国家を志向した政治状況下における必然性を点検するならば、我々は、日本、沖縄の敗戦過程、つまり、朝鮮戦争の勃発以前の敗戦から占領への過程を解明しなければならない。

 敗戦当時、日本共産党は「進駐軍は解放軍なり」と規定し、沖縄を天皇制軍国主義の搾取、圧迫から解放されたものと意義付け「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」を沖縄人連盟(本土に住む沖縄出身者で構成)に送っている。けれども、沖縄においての敗戦とは、二重の敗北を意味したであろう。それは、〈沖縄人〉内部で絶えず止揚せざるを得なかった日本国家の崩壊であり、米帝国主義異民族≠ノたいしての物質力の敗北である。沖縄における状況が、精神構造の崩壊と文字どおり地理そのものが塗り変えられたのであるなら、米軍を解放軍とは規定しえないであろう。むしろ、存在の方向性そのものを見失なったというべきであろう。敗戦から占領への動乱期において、日本本土の方向性は、きわめて、否定的、非論理的であり、精神主義的であったろうが、沖縄では方向性そのものがなくただ存在していたということ以外にいい表わすことが出来ない。しかしながら、虚脱状態の中でかろうじて存在し続けた〈沖縄人〉の目の前に、巨大な米軍事基地が建設され、朝鮮戦争の勃発と共に「解放軍」の衣が脱ぎすてられる中で、〈日本復帰=本土復帰〉運動が、また必然的に倫理の問題として展開する。それも、奪われた土地を取り返すという農民の生存権をかけた闘いとしてである。この奪われたものを取り返すという農民の闘いが、巨大な米軍事権力の力量の前におしつぶされようとする時、それが、社会、経済、政治の焦点になり日本の平和憲法を志向するのは必然である。しかも、その土地がアジア侵略、抑圧基地の機能する場所として設定され、米軍事権力による土地の収奪、接収がアジア全地域を支配する基地として建設されはじめるのと同様に、全ての民主的諸権利が剥奪された米帝国主義による一元支配下の状況では。

 そのような米軍事権力による直接統治に対決する政治性が、奪われたものを取り返すという民主化獲得の質に集約され、あらゆる社会構造が基地建設によって破壊され制約をうけるならば、それからの脱皮を目ざす方向性として復帰がスローガン化されたこともまた当然であろう。復帰運動の中核が、土地をかえせ、ヤンキーゴーホームという一種の民族排外主義から「基地撤去」という米帝国主義の意図そのものまで暴露し、撤去するという目的意識性に目覚めたスローガンに転化したことは、それだけ沖縄人民が被抑圧人民として施政権者に徹底的に搾取された裏返しであり、沖縄における支配構造が、余りにも特殊であり、弾圧政策が、アメとムチ、柔軟と強行、直接と間接等々であるにもかかわらず、本土復帰、基地撤去のスローガンを確立させ、闘い抜きえたのは、基地そのものの存在が悪だという厭戦意識が、第二次大戦の様々な悲劇を想定する中から個々人に必然化されるからであろうし、異民族≠セというナショナルな心情から、多分に、朝鮮戦争からベトナム侵略戦争への拡大と共に、インターナショナルな心情が芽ばえたからであろう。復帰論が展開された時、それは最初、独立論と対置する格好では、〈沖縄人〉の心情的な心の拠所としてあった。ところが、基地そのものに沖縄経済が依存し、かろうじて基地依存の異常経済が成り立ち始める頃から、琉球独立論を中途半端な形で乗りきり、〈沖縄人〉自らの意志を署名運動(72%)という形で開始し、沖縄の将来と運命を決定するものとして民族自決権的なものが止揚された。そして復帰運動論は明確に、革新、保守の即時無条件全面返還論と段階的返還論に分解する。それは、即時無条件全面返還を唱えることによって米帝国主義に奪われた権利を獲得すると共に日本帝国主義の反動性を露き出し一日も早く平和憲法の適用下に置くという既成左翼の運動論であり、段階的返還論とは、日本帝国主義の沖縄返還政策と一体であり、基地依存経済を肯定する地域ブルジョワジーの運動論であった。

 こうして展開してきた沖縄返還=復帰運動、とりわけ、三大選挙を勝利的に闘い、屋良琉球政府「革新体制」を誕生させた既成左翼の復帰運動論は、68年をもって闘い得ない運動論として終焉する。何故なら、間接統治の代行機関である琉球政府の公選主席を獲得した既成左翼の運動論が、統治者である米軍事権力を打倒する方針提起をなんら行ない得なかったからである。そして、日米共同声明路線の一環である第三の琉球処分、72年沖縄返還が、日米両帝国主義の合意に基ずいて明らかにされたとき、既成左翼運動体の組織論そのものが分解し、新たな運動体に解体される。否、むしろ、即時無条件返還論が、いかに反戦復帰論なるスローガンに転化したところで、72年帝国主義沖縄併合と日米共同した軍事基地再編強化が、同時的に進行している現在、最早、そのような復帰論次元の論理では、闘い得ないし、ましてや、帝国主義併合を阻止し、粉砕する階級形成は確立しえないし、アジア人民、本土プロレタリアートと連帯した闘いを組むことさえ出来ない状況に来ているというのが妥当であり、正当であろう。
 超党派の意識で出発した本土復帰が、72年を目の前にした現在、超党派の問題として一体化されようとしている。それも、米帝国主義の一元支配から日本帝国主義の独占支配への移行としてである。ここに沖縄問題の必然性が、普遍化されえない論理として、祖国復帰運動の限界性がある。

 世界情勢が、米帝の総体的後退としてあり、とりわけ、東南アジアへの経済的、軍事的進出強化政策が、ここ沖縄をめぐって流動化している現在、保守反動の一体化政策が、リアリスチックな説得力をもって反革命の役割を演じている。その影で屋良「革新体制」を擁護せよと没階級的な視点で、あらゆる闘争を放棄し、隠蔽し、自己正当化している形骸化した既成左翼が立っている。そのことは〈沖縄人〉による沖縄幻想の解体を意味する。
 けれども、戦後の沖縄政治史を語る場合、我々は、唐の世、大和の世、アメリカの世、そして今、又、日本の世という支配構造の遍歴を、階級的視点を形成する中から展開しなければならない。そこに〈沖縄人〉の悲劇史と階級闘争の決定的な立ち遅れをどう日本革命から世界プロ独の輝しい歴史に塗り変えるのかという人民解放、人間解放の保証される道が確立されるであろう。まず、民族問題と国家形態とを区別した形で、〈沖縄人〉はそもそも民族学上、大和民族であると規定する論理から、沖縄の歴史を語ることはできない。沖縄(琉球)における民族形成が、地理的環境に大きく左右されたことは自然条件から見ても明らかであり、琉球文化圏がたえず外部の大国に圧迫され抑圧されるという差別構造を取りながら、かろうじて、琉球文化を創出しえたのは、外部の支配権力が、余りにも巨大でありながらも、血縁共同体を固守し、原始的母権性を温存しえたからであろう。その為には、たとえば、擬似的な〈中国人〉〈日本人〉にならなければならなかった。

 復帰運動が、理想的な国家を日本国家=平和憲法に見い出した時、それが、米軍事基地の圧政から解放するものとしてあれば、〈沖縄人〉=〈日本人〉だという民族形成が、〈沖縄人〉の側から高揚してくるのは当然であろう。それが、民主化獲得の政治性をおびたものとして日本国家=平和憲法を止揚した時、〈沖縄人〉の民族問題とは、なによりも、まず、初めに〈日本人〉になりきることであった。しかして、沖縄においての日本国家とは、現状を打破するものを意味し、潜在主権的概念での観念論である。
 しかし、かつて日本の国家形態に繰り込まれた歴史があったにもかかわらず、いまだ、国家論を十分に展開しえないという沖縄〈沖縄人〉の、国家に対する幻想性が、民族問題とからんで、沖縄階級闘争の前に立ちはだかっている。
 米帝国主義による直接統治の問題にだけ限定すれば、復帰運動は民族自決運動の様相を呈していたし、独立論を成り立たせる要素を十分に持っていた。ところが、米軍事権力対沖縄人民という階級的対立に、日本対沖縄という民族問題を同時的に〈沖縄人〉自ら注入した時、より以上に平和憲法下の日本が、沖縄の諸矛盾を解決する理想郷として一致するのである。けれども、本土と沖縄の要求が符合し、沖縄が日本を志向するとき、必然的に沖縄におけるアジア性・世界性は欠落する。

 独立論が、非現実的なものとして、葬り去られたのは、政治、経済、文化総体の自立しうる力量が決定的に不十分だということと、米軍統治の政策が、あまりにも目の前に非人道的なものとしてあり、それとの闘いが、沖縄的次元から一挙に、日本民族の自決、真の独立を≠ニいう形に進展したからであろう。ある意味で、沖縄における民族自決が、日本的規模の民族独立に移行する過程に、沖縄問題の矛盾、悲劇性が象徴される側面として表現されるであろう。沖縄が日本に返還され、戦後27年にして初めて真の独立は完成し、成し遂げられると規定するならば、この真の独立とは、アジア人民とりわけベトナム、インドシナ人民に対する民族排外主義以外の何者でもないことを意味するであろう。東南アジアにおける情勢が、米帝国主義の敗退と共にアジア革命戦争の様相を呈している現在、復帰運動に集約される沖縄問題の矛盾、限界性とは、そのようなアジア情勢を語れないところにある。沖縄において、民族と国家について語る場合、我々は、まず何よりも、国家の死滅−世界党、民族の高揚−世界人の樹立をめざす方向性としてのインターナショナリズムを構築しなければならない。

 日本本土における沖縄問題の高まりが人道主義的な高まりではなく、真に階級的な質を形成する高まりであったなら、日本革命を志向する政治性は、より具体化されていたであろうし、7・7廬溝橋33周年集会における、あの、華青闘の諸君らをして、いわしめた被抑圧民族を断固支持せよ≠ニいう階級闘争の鉄則は、60年代階級闘争の過程で必然化されていたであろう。ここに日本においてアジア人民の具体的な政治性の認識不足、情勢分析の不明確さが、決定的に階級闘争を担う者の犯罪的役割としてある。そのことの中に、沖縄闘争を止揚する階級形成の特殊な世界に類をみない「アジア管理における沖縄の帝国主義的役割」「日本革命を展望する側における沖縄の場所的、歴史的役割」「沖縄で革命を志向するときの綱領問題、戦術、戦略論」等の問題が横たわっているのである。
 沖縄における階級形成は、明確に、この民族と国家の問題に代表される復帰運動の限界地点を、具体的に、実践的に突破する中からしか構築しえない。
 そして今、従来のあらゆる価値体系を規定してきた本土復帰=国家幻想が、72年帝国主義沖縄併合=社会再編過程で崩壊しかけている。それは、基地依存経済からの脱却−平和産業の樹立−豊かな沖縄県作りという構想が、基地の存在を肯定した上での離職者対策、第一次産業から第二次、三次産業への転化に伴なうサトウキビ、パイン産業の破壊公害病の発生、結局、誰の為の沖縄県作りかという、国家=復帰に対する幻想が、物質過程を解明する中から崩壊していることを意味する。
 全軍労闘争、東洋石油粉砕闘争は、まさに、このような国家幻想を沖縄人自ら突破するものとしてあり、それを突破することなしには、沖縄人民の階級形成はありえない。ましてや、米軍事基地を解体するスローガンを提起することは出来ない。
 そのように、日本国家に対する幻想は、物質力が一体化という様相を呈して進行する過程から崩壊し、沖縄における幻想は真の階級形成を志向する中から解体される。


四 沖縄と入管、反軍、三里塚地域闘争との接点

 アジアにおける帝国主義支配は、60年の日米安全保障条約、65年の日韓条約をメルクマールとして貫徹されてきたけれども、70年安保自動延長は、日本帝国主義の対外膨張=侵略、反革命の道として、不可分に、沖縄と結びつかざるを得ないのである。現在、日本帝国主義は、自らの運動=対外侵略、反革命政策と国内抑圧を如何にして結合し、アジア再侵略、反革命を全面化しうるか否かの試練に立っている。60年代前半から後半への景気の循環による不況は、70年代における経済危機=社会的政治的危機を顕在化させている。産業構造におけるその変化は、民間部門への波及による賞金カット、合理化の進行により、顕わになっている。海外への資本投下→後進国侵略、反革命への推移こそ、かかる経済危機→政治危機への対応なのである。ここにおいて、実体的に後進国アジアへの対外侵略を、自衛隊→帝国主義軍隊をテコに海外派兵を似て推進していく構造が成立する。

 70年安保は、日本帝国主義と米帝国主義との共同利害的関係を通じて60年安保での除外対象たる沖縄を、共同軍事領域に組み込むことによりて自衛隊の沖縄派兵→アジア派兵に迫っていく環である。そして、この様な米帝国主義との共同関係を通して後進国人民への武力抑圧を媒介とする対外侵略への布告こそ、日米共同声明による72年沖縄返還に他ならない。それは同時に、本土における国家意識の薄さと沖縄における国家志向型とをうまく統轄し、疑似共同体意識=日本ナショナリズムを形成することにある。
 その場合、72年沖縄返還をも含む、70年安保における国民統合は、アジアへの侵略を、国内=国外の統一理念として提起することにかかっている。すなわち、A、アジアの繁栄→←日本の平和と安全のために自主防衛=安保存在の中での日本帝国主義のヘゲモニーの増大確立。B、祖国復帰→←国民の悲願達成の72年沖縄返還による沖縄への自衛隊派兵を拠点とした国外派兵→核武装→徴兵制施行に至る第四次防計画の実施。C、ABの点にそって、安保条約の事前協議制の実質的解消を通じて、日米両帝国主義の反革命共同軍事行動の相対的イニシアを確保していくことである。
 けれども、最も重要環である国家統合の帝国主義イデオロギー形成は、入管法の再上程と72年沖縄返還が貫徹されることなしには確立されえないし実現しない。そして、かかる帝国主義政策は、67年の日米共同声明により、米帝国主義による基地の再編、恒久的管理支配政策、例えば、新総合労働布令適用による沖縄労働運動への弾圧、と、日本帝国主義の本土一体化政策日米共同管理支配構想≠ニして同時的に開始された。これは、教育行政の本土並み改編。警察権力の一体化。本土既成左翼政党と沖縄既成政党との系列化、一体化、並列化。独占資本の系列化を内実とする日本帝国主義への施政権移行の準備、本土復帰運動の民族主義的買い上げによる闘争圧殺。等々として今日まで進行している。
 そのような政策に真向から対決しえないところに、沖縄問題をめぐる本土左翼の感性に至りつくことのできない論理の空論と、理論まで止揚できない感性的な沖縄左翼の成した没階級的労働運動がある。本土既成左翼、とりわけ、総評、同盟が二・四全島ゼネストを圧殺する形で沖縄闘争をわい小化せしめ、沖縄既成左翼を系列化する関連性でしか、運動論をも展開しえないという状況がある。

 沖縄既成左翼が、日本帝国主義に屈服している本土既成左翼に復帰次元で、系列化されることは、日米両帝国主義の政策を補完することしか意味しない。「国政参加」を頂点とする議会主義が、沖縄を規定している基地そのものを撤去できる訳はなく、むしろ、それを議会制民主主義の名の下に、沖縄人民の意志を代弁する機関として、隠蔽すること以外に選挙の役割はないのである。日本帝国主義は、沖縄問題の政治性を「国政参加」を筆頭として市町村合併、独占資本の一体化等々による物質過程で買い上げ、〈沖縄人〉から真の日本人の独立という民族問題に還元し、それを、東南アジア人民に対する民族排外主義形成に使用し、沖縄における自衛隊の登場を正当化する政策を着々と進行させている。それと同時的に、米帝国主義はアジア侵略政策の破綻する中で、ドル危機→国防予算の削減→軍事支出節減というドル防衛対策を唯一の理由として全軍労働者に対し、大量解雇、不当首切りを、人減らし合理化という名目で行なっている。
 現実に、基地そのものは維持され、むしろ、再編、強化の日米共同侵略抑制基地化として進行している。それも、基地の恒久管理支配を安上がりで維持する為に解雇者をパートタイム制に移行させ、時間短縮、格上げという形で、労務管理体制を強化し基地外へのドル流出を基地内への経済体制へ練り込み基地自ら自立化する構造へとしてである。その様に、日米両帝国主義が同時的に、「極東」戦略の最重要環として沖縄総体を軍事優先的に展開している。
 沖縄と本土における様々な闘争との接点とは、そのような日帝の政策と真向から対決し勝利することなしにはありえない。

 本土新左翼の沖縄闘争に対する網領問題の提起を、沖縄の地において点検する場合、我々は、沖縄人民の自決権、自治権が、どう有利な攻撃性をもった形で帝国主義を打倒でき、日本帝国主義打倒を目ざす運動体と連帯する為には、どう沖縄の地において闘いを展開しなければならないかを戦略的次元で答えなければならない。そのことは、沖縄解放闘争の戦略問題を日本プロレタリアートに対して沖縄人自ら提起することを意味するし、沖縄を含めた日本総体の戦後世界体制における自治権、自決権は、米軍事権力の圧政に対して、日本国家に帰属するという形で形成してきた。その帰属すべき日本国家とは、平和憲法により統轄された民主主義日本として位置付けられてきた。60年安保により、民主日本のベールがはがされ、安保闘争が敗北する過程で、沖縄人民の自治権、自決権は民主日本を獲得するものとして本土プロレタリアートをつきあげ、帝国主義本国を変革するものとして闘い抜かれてきた。けれども、沖縄人民が決定すべき自決権が、日米共同声明により、72年沖縄返還として決定された時、沖縄人民の自決権の極めて戦闘的であり、攻撃性を培ってきた要因が解体される。
 70年代の沖縄が、日米共同侵略前線基地として機能し、日本帝国主義のアジア侵略基地の重要環として沖縄が、社会再編された形で返還されるならば、沖縄人民にとって帰るべき祖国など有り得るはずはないのである。反復帰を提起することが、真の帝国主義打倒の方針につながり、階級形成が可能ならば、沖縄人民は自らその様な状況を創出しなければならない。それも、徹底した孤立の状況下においてである。本土人民が、日本において自衛隊の沖縄派兵阻止の展望を見出し、自国帝国主義を追いつめることが可能な時、初めて沖縄における自治権が階級意識を伴いながら有効性をおび、真の連帯が可能なものになるだろう。

 沖縄自決権が、日本帝国主義と根底から対決する自治権獲得の闘いとして、最も有利に復帰運動という形態をとりながら階級形成をなしえたにもかかわらず、戦後25年間の復帰運動は、日本帝国主義の国境を規定し、沖縄を併合するその統合軸=国政参加に、自ら投入することしか、政治的にも、思想的にもなしえなかった。屋良「革新」体制は、必然的に日米両帝国主義の政策を補完する役割として第三の琉球処分=日米共同侵略前線基地化を、豊かな沖縄県作り構想と相呼応しながら、沖縄自ら社会排外主義形成の一要因となるのである。
 組合運動の次元から言うならば、本土体制内的組合運動との一体化、系列化を阻止し、徹底して対決することを意味する。まさしく、十歩後退、一歩踏み出し≠ニいう階級意識の質を、社会再編として立ちあらわれている市町村合併、独占企業の誘致等々の政策と、実践的な闘いを組む中から創出し、本土における右傾化した組合主義労働運動を、ここ沖縄の地から解体すると共に、反帝国際主義に領導された労働運動を展開することが、本土一体化攻勢の吹き荒れている中で要請されている。

(『情況』1971年1月号)所収



何故 沖縄人か<抄>


宮城島 明(離島社同人)


はじめに
(1)沖縄をめぐる国家の諸相
(2)沖縄にとって国境とは何を意味するのか
(3)沖縄闘争論の不毛性
(4)沖縄人プロレタリアートの核とは何か
(5)孤立無援の展望


◇はじめに◇

 沖縄返還が、日米両帝国主義間の政治的課題として登場して以来、ここ沖縄をめぐって種々様々な方法・形態で、運動論が展開された。本土沖縄を問わず、いろんな階層の人達によって沖縄問題が論じられてきた。あるときは、〈復帰か独立か〉という二者択一的な方針が論点になりあるときは〈奪還か解放か〉という沖縄闘争論の戦略次元の問題となって展開され、またあるときは〈イモハダシか現状維持か〉という基地依存経済の生活基盤を中心軸として「沖縄人」どうし相対峙する。けれども、ヤマト(日本・日本帝国主義)による72 年沖縄返還政策が、沖縄社会再編、日米共同した基地管理体制として具体的に進行している現在、沖縄は、返還と復帰を同義語として止揚する「保守的」な人と、〈72 年〉返還に否定的な意味あいをこめ、〈反戦〉復帰というスローガンに「革新」「階級」性を見い出す部分が、入り乱れながらもかろうじて独自の運動を展開している。
 客観的には対立しているかのごとく映るこの二大潮流の現象は、本質的には、戦後20 数年間の異民族支配、あるいは明治百年という枠内でしか沖縄を設定しえず、自己の立場を展開しえないという、本土、沖縄の歴史に規定されている点で、同質であり、同一である。
〈大和、琉球〉を貫く歴史空間が、沖縄を取り巻く世界階級情勢のどまんなかで、どう〈世界性〉を獲得し得るのかと問われているにもかかわらず、それを同一民族、同一国家という「日本」的範ちゅう、一県的な規模でしか返還過程の沖縄は展開しえていない。
 日本復帰?祖国復帰?本土復帰?反戦復帰という形で展開されてきた復帰運動の思想性・階級性が一度たりとも点検され確立されなかったが故に、その政治的主張・内容は、ヤマト(日本・日本帝国主義)に対するオトシマエ論に集中し、大衆運動のエネルギーを自ら拡散せしめている。
 その混迷している沖縄の状況は、ヤマトの人間が沖縄と関わる際の、〈琉球人〉〈沖縄人〉〈沖縄県民〉〈沖縄人民〉という語り方の変化、語る主体の混乱と相関関係にある。
 かつて、日本民族の同質性を獲得する主体の限界地点が幾度となく指摘されつづけてき、“ 何故、沖縄プロレタリアートか” ということが、世界、「日本」の歴史、「沖縄人」の培かってきた歴史性の中で要請されているにもかかわらず、いままた敢て同質性を追求することに沖縄解放の展望を見い出そうと喘いでいる。
〈復帰〉というスローガンに階級性を見い出そうともがいている。
 沖縄の位置そのものの矛盾は、日本資本主義の発展段階に規定された矛盾であり、帝国主義間の矛盾であるにもかかわらず、それを〈復帰?真の日本の独立?日本革命〉または〈永続的復帰?日本革命〉という段階的、一国的革命のイメージでしか沖縄の位置を把握しえていない。
 けれども、72年施政権返還にともない沖縄の矛盾は、資本主義国圏対「社会主義国圏」の矛盾として登場してくる。
 それは、国境をめぐっての利害対立という形で顕在化してくる。
 NATO、SEATO、日米安保条約とつらなる様々な帝国主義同盟・侵略反革命同盟の戦略体制の再編成にともない、尖閣列島をめぐる領土権争いが、日本対中国の矛盾として激化する。
 このようにして、沖縄の矛盾が、資本主義間の矛盾から世界的な階級関係の矛盾として拡大され、沖縄の位置が、より強固な帝国主義の戦略位置として再編成されかけている中で、沖縄解放への視点は、どういう内容で構築されなければならないかが、いま、〈思想的〉〈政治的〉〈階級的〉に問われており、その主体の確立が要請されている。

(1)沖縄をめぐる国家の諸相

 第二次世界大戦の戦後処理の問題として、ここ沖縄が米帝国主義の一元支配下におかれて以来、沖縄の矛盾は、資本主義の発展段階である日本帝国主義と米帝国主義間の矛盾、世界階級情勢に規定された反共軍事同盟の矛盾として、その戦略位置が拡大されてきた。
 終戦当時、米帝国主義にとって沖縄の戦略位置は、敗北した日本帝国主義の再建・膨張を抑制する位置としてあった。
 日本軍の抑圧支配から解放された沖縄の人間に、米軍が解放軍と映ったとき、沖縄にとっての国家とは、沖縄人みずから日本からの独立というイメージで展開され、琉球という国家が夢みられた。それは、沖縄の矛盾が、日本軍国主義の矛盾であり、その矛盾から解放してくれたのが連合軍であると規定する人民解放軍のイメージである。
 ところが、朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄の戦略位置が中国大陸に向けられ、米帝の沖縄統治政策が武力による土地収奪、土地接収、基地の恒久的建設の開始・管理体制の強化という形で進展し沖縄の位置が、日米両国の合意にもとづくサンフランシスコ平和条約により決定されるという日米両帝国主義の矛盾として展開されると、沖縄にとっての解放、沖縄にとっての国家とは、日本国憲法に統轄された日本国家がイメージされ、その日本国家にみずからを投入させる運動として自己を、沖縄を展開する。
 思想的には、もともと「沖縄人」は日本人であり、日本人として、戦後民主主義の中で人間性回復のイデオロギーを確立すべきだという視点であり、そうであるが故に、米帝支配は異民族支配になり、ひめゆり部隊の悲劇は、日本民族の悲劇であるという一億総ザンゲの戦争責任論ですべてを語ってしまう。
 政治的には、そのような思想性を武器にしながら復帰運動にすべての問題を包摂させ、あるべき日本国家を顕在化させる闘いとして沖縄を主張する。復帰というスローガンに階級性、民族性をもたせるが故に、統一と団結が強調され、真の日本の独立という一国的な闘いを軸にするという方針が提起される。
 もし、復帰運動に階級性を見いだすならば、それは、日米帝国主義の矛盾としてある沖縄の位置そのものを揺がす戦いがあった時期であろう。たとえば、それは、日米帝国主義の沖縄統治政策に否定的な確信をもった三大選挙の際の屋良「革新」主席誕生の時であり、65 年の北爆からB52 常駐化にともなう反戦復帰闘争であり、米帝の基地管理体系ともろに衝突する全軍労闘争である。米帝の一元支配を追認していた段階の日本資本主義に対して復帰を掲げること自体、有効性を持ちえたけれども、それは、日本帝国主義の政治力量に左右される一国資本主義の発展段階に規定されたものでしかない。逆にいうならば、日本に対する沖縄の復帰運動は、日本民族・日本国家を自ら規定する方向性でのみ闘いの質は存在し得たのであるといえるであろう。
 60年安保による反革命同盟の戦略体制が確立されるとき、沖縄の復帰運動は極めて高度の政治性を獲得しえたにもかかわらず運動体としては展開しえなかった。
 日米安全保障条約の戦略的中心環が、ここ沖縄基地の拡大再編強化という形で展開された事実を見抜けていたならば、日本、沖縄を問わず60 年安保闘争は政治的には敗北しても、思想的には、より自立する核を世界的地平にまで押し上げ、獲得するものとして構築しえたであろう。
 60年安保の思想的敗北以降、「日本」の運動体は極めて政治主義的に展開されていく。〈本土・沖縄〉の統一と団結が強調され、「日本的」なレベルでしか沖縄問題はかたられず、国家の解放より、国民の結合、国民としての解放をめざす闘いへと進展する。そういう状況下において、沖縄では復帰協を構成するさまざまな運動体が次々に形成されてくる。安保闘争の敗北から、平和憲法擁護の運動へと、民主化獲得のスローガンが中心軸となって、27 度線を越える統一した闘いが「日本的」闘いとして沖縄から北上した。
 このようにして、沖縄・本土を統一した形での日本革命のイメージは、まずなによりも日本国民としての結合軸を闘い抜く中から真の日本国民を形成し、それに勝利してのち、初めて日本国家権力を打倒する、日本革命の展望を切り開くという段階的革命論のイメージとして理論化された。即時無条件全面返還路線が、より革新性を持ちえたのは、沖縄の位置が日米両帝国主義の共同した条件づけの矛盾として存在しているからであり、沖縄の解放を無条件的に追求したからである。けれども、即時無条件が思想的な軸になりえても、政治的なスローガンにはなりえない。何故ならば、沖縄を規定している諸要因を打倒するスローガンを提起しえないかぎり、返還とは、施政権が米帝国主義者から日本国家権力に移行するだけの意味しか有しないのであり、沖縄の矛盾を根底から揺さぶる方針なくして、幾ら復帰に〈革新性〉〈革命性〉を見い出しても、それは、一国的なものでしかなく、世界階級情勢から取り残されるのが積の山である。
 72年返還が日米共同声明で合意に達した時、復帰そのものの思想性・政治性がいとも簡単に崩れ去り、復帰運動そのものの歴史的・現在的総括が早急に要請されたにもかかわらず、〈反戦復帰〉〈完全復帰〉という修飾語を並べたて、沖縄が本土に復帰するのではなく、むしろ、本土が沖縄に復帰すべきだなどと、沖縄問題を論じている。
 これから、復帰というスローガンにもし、〈階級性〉〈革命性〉を見い出すならば、それは、〈アジア復帰〉〈世界復帰〉でなければならない。
 本土復帰を掲げる新左翼の方針なども、極めて、一国革命論といわざるを得ない。国境を越える闘い云々といいながら実はきわめて一国主義的な闘いであり、むしろ、日本国民を形成する、日本国家権力を顕在化させる役割しか演じていない。それは丁度、日本国家権力が沖縄問題を日本国家の国境の問題として位置づけており、そのための日本人イデオロギー政策による中央集権化攻撃とうまく符合する。
 沖縄における闘いの質とは、ヤマト(日本・日本国家権力)を相対化・顕在化させる闘いと、沖縄を規定する日米両帝国主義間の権力を打倒する闘いを同時的に展開しうる内容を有しなければならない。もし、本土復帰を永続的に掲げることでヤマト(日本・日本国家権力)を相対化・顕在化できるならば、72 年沖縄返還政策粉砕ではなく、それは、72 年沖縄返還粉砕でなければならない。ヤマトを絶えず拒否することで、相対化しなければならないし、即時無条件に否定しなければならないはずである。自からを、非国民として永続的に顕在化させなければ、決して〈世界性〉など獲得できはしない。
 日本人・日本国民という概念を突き崩す闘いとして、沖縄解放闘争の質があるんだということを欠落させるならば、〈本土・沖縄〉を貫ぬく沖縄闘争は一国的・民族的な排外主義の闘争へと堕落する質しか生み出しはしないであろうし、〈本土・沖縄〉を貫ぬく闘争の主体として位置づけられている「日本プロレタリアート」を普遍的なプロレタリアートとしての概念に止揚する闘いとして、〈沖縄人プロレタリアート〉を対置しなければならない。
 何故ならば、この間の沖縄の闘いは、日本プロレタリアートの闘いという風に自己を鍛え、培かってきたけれども、それはむしろ、日本プロレタリア独裁の段階に至りつくものとして展開されており、それから日本プロレタリアートとして世界プロレタリア独裁をめざす闘いとしてしかイメージしえていないからである。
 文字通り、沖縄人プロレタリアートとは、日本人・日本プロレタリアートとしての概念を〈世界人・世界プロレタリアート〉としての地平に永続的に押し上げる質として存在するのであり、〈沖縄プロレタリア+本土プロレタリア=日本プロレタリア〉という風に展開される存在ではない。沖縄人プロレタリアートの闘いという形で展開すれば、おそらく、左翼・新左翼を問わず沖縄人民による沖縄独立論をイメージするであろう。〈復帰か独立か〉〈奪還か解放か〉という範ちゅうで沖縄の位置を捉えれば、復帰に対して当然〈独立〉である。けれども、問題は、沖縄の矛盾が日本帝国主義一国の矛盾ではなく、日米両帝国主義の矛盾として存在するというところにある。沖縄解放闘争の解放というイメージが、一国的な矛盾からの解放ではなく、世界階級情勢の矛盾からの解放でなければならないというところに、沖縄解放の意義づけ方と、沖縄問題をめぐるさまざまな混乱がある。そういう意味で、独立とはヤマトに対する思想的な独立でしかない。
〈復帰でも独立でも〉なく、また〈奪還でも解放でも〉ないところに沖縄解放闘争は存在するのである。
 そのことを理解できない〈左翼〉は全て、沖縄人プロレタリアートにとって反動的であり、〈確信〉の名の下に沖縄の矛盾をインペイする運動は、すべて反革命でさえある。沖縄の矛盾を日本国家の議会において〈革命的議員〉なる者でもって展開したところで何ら獲得されるべきものはない。国政参加選挙がそうであり、参議院全国区に新左翼が登場し、「リープクネヒト」として沖縄問題を展開したところで、沖縄解放闘争とは無縁の所で存在する者でしかない。沖縄の矛盾を議会制民主主義の範囲でとらえることが出来るかのごとく幻想をふりまくこと程、反動的なことはない。
 沖縄をめぐる国家の諸形態を大別すれば、2 通りに解明できる。それは、政治権力としての米軍基地権力であり、国家権力としての潜在的な日本国家権力である。そして、72 年返還過程で明らかになるのは、施政権返還にともない潜在的な日本国家権力が顕在化することであり、沖縄支配の帝国主義体制が確立されることである。従来の形態から、国家権力が日本となり、政治権力が日米共同した軍事基地権力になるというだけの話しであり、それを、沖縄の位置の矛盾が、日本帝国主義一国の矛盾になると考えるのは間違いである。それは、日米帝国主義間の合意の下に沖縄が決定されているからであり、資本主義の発展段階としてある日本帝国主義が共存できる体制として、今日の日米両帝国主義が存在し得るからである。
 歴史的に見ても、沖縄は絶えず外部の国家群によって決定されてきており、一国的な矛盾として、沖縄の悲劇を語ることはできない。
 そうした状況下で蓄積されてきた「沖縄人」の精神構造の中には、絶えずある国家にみずからを投入させないと存在しえないという意識があり、それがたとえば、薩摩の圧制に対し、清(大陸)帰属論を展開する頑固党が存在したり、現在では、日本独占資本の進出に危機感をいだく地域ブルジョワジー達が構成する“ 沖縄を明るくする沖縄人の会” という米資本に依拠し展望を見い出す論理がでてくる。けれども、そのような論理も結局は、〈復帰か独立か〉という範ちゅうでしか沖縄を展開しえないという没階級的なものでしかない。

(2)沖縄にとって国境とは何を意味するのか

[中略]

 日本帝国主義にとって国境とは侵略の為の統合軸としての日本人を鼓舞する排外主義イデオロギーを確立するものとして存在するのであり、確立させる為に沖縄を奪還するのである。国境を越える為に闘われていたはずの階級闘争が、実は「日本」の国境を設定する為に、戦後二十数年間闘ってきたというところにいきついたのが本土復帰運動であり、七二年返還を「勝ち取った」運動の質にほかならない。
 いま、尖閣列島の領土権をめぐるイデオロギー交錯が国境線の問題とからみあって、様々な階層の人達によって展開されている。石油資源の利害対立をめぐって左、右を問わず民族イデオロギーを媒介にしながら、〈民族〉的対立へと転化しようとしている。復帰運動の中心核として頑張った教職員の中に尖閣列島は日本のものであり、日本の領土である、と自から日本国家を前面におし出し、日本国民を武器にしながら主張している。日本帝国主義も尖閣列島の問題を日本領土の問題として展開する一方、反共軍事同盟の結集軸として戦略再編をいそいでいる。
「社会主義国圏」が尖閣列島の領土権を主張して以来、沖縄をめぐる国境の問題は、アジア階級情勢の矛盾、現代世界の矛盾として、「社会主義国圏」対帝国主義反革命同盟の緊張関係へと拡大している。韓国、台湾、日本の三国が三国連絡委員会を結成させ、資本主義対〈社会主義〉の階級利害の対立へと進化されており、その主導権を日米両帝国主義が握っている。
 この日本の国境線と位置づけられている尖閣列島の問題が、反革命同盟の軍事路線となり、日本帝国主義の帝国主義イデオロギーの構成要因となって展開されているのが、72 年返還過程にともなう沖縄での状況である。
 はたして、沖縄において国境とは何を意味するであろうか。沖縄階級闘争において国境の問題はどう展開されなければならないであろうか。
 文字通りそれは、国境を問題とする帝国主義返還・一体化政策と思想的・現実的に対決する以外展望はない。
 沖縄人プロレタリアートにとって〈祖国〉とか〈国境〉はないのであり、国境を政治的に規定する帝国主義の反革命同盟の解体、祖国を規定する民族主義の打倒なくして沖縄解放闘争はあり得ないのである。また、「沖縄人」みずから日本国家を規定しなければ生存しえなかった状況下で培かわれてきた精神構造は、実は、一国的な矛盾ではなく世界的な矛盾であり、その世界矛盾を階級的に解明することなくして、沖縄階級闘争はありえないのである。
 国家と民族を規定する方向から沖縄問題を展開することは極めてナンセンスであり、帝国主義の論理にしかならない。日本国家と日本民族の幻想性を掘り崩すものとして沖縄問題が存在するのであって、日本国家・日本民族を顕在化させる為にのみ沖縄問題を論じてはならない。
 かつて、〈沖縄人〉の海洋性が、沖縄をしてアジア海邦民族の名にふさわしい生活圏を有していたにもかかわらず、神の国、天皇の臣民という天皇制イデオロギーが注入されて以来、沖縄の悲劇史と呼ばれるものが始まる。この天皇制イデオロギーを思想的・政治的に打倒しえないかぎり、いくら国境を乗り越えた闘いを組み得たと自負したところで、それは、日本人としての闘いでしかない。天皇陛下バンザイが日本人民バンザイに転化するだけの話しである。

[中略]

(4)沖縄人(ウチナァーンチュ)プロレタリアートの核とは何か

 沖縄の闘いが、復帰運動という形態にあらゆる矛盾を解決する闘争軸として集約され続けて以降、沖縄問題は日本人の問題であり、それは真の日本の独立以外あり得ないという日本革命に至る重要環として、主に社会党・共産党の人達によって闘われ、社共の武器として対日本国家権力打倒の戦術に使用されてきた。沖縄がサンフランシスコ条約によって米軍に売り渡されたが故に、沖縄問題は日本国家権力の不当性の問題であり、その不当性を追求すれば沖縄問題は解決されるかの如く幻想をふりまいてきたのが、この間の沖縄闘争の政治的内容に他ならない。沖縄問題が戦術の問題として展開されたが故に、政治力学的に膨張してきた日本帝国主義による72 年沖縄返還政策に対し、ペテン的であるとか、超反動的である云々と泣き言を並べ、より統一と団結を強めなければならないと自己の政治的堕落を正当化する方向へと転落している。戦術問題としての沖縄闘争論がはたした内容は何をかくそう、〈沖縄・本土〉を貫なる天皇制イデオロギーを統一と団結の名の下に助長したにすぎない。

[中略]

 沖縄問題は、世界革命の戦略問題であり、そうであるが故に、日米両帝国主義を打倒する主体として沖縄プロレタリアートが存在するのである。それは文字通り、世界革命なくして沖縄人民の解放はあり得ないのであり、それを日本性の地平に高め、共に日本革命を目指す闘う主体(沖縄プロレタリア+本土プロレタリア=日本プロレタリアート)として展開したところで、民族排外主義、ブルジョワ民族主義の落し穴がまちかまえているにすぎず、その落し穴をとびこえたつもりが実はその穴が拡大していたというのに気づくのが関の山である。〈沖縄・本土〉を貫ぬく歴史の中で、今問われているのは、日本性獲得の質ではなく、世界性獲得の質であり、又その核が沖縄に存在しているのである。
 日本国家が形成されてくる過程で、沖縄の位置は絶えず一サイクルおくれており、一サイクルおくらされたが為に日本史なるものが展開されてきたという歴史的事実を解明しえる革命家はいない。もし沖縄史ということが展開されるならば、それは日本史と世界史の中間に位置づけなければならないであろう。日本人という概念が形成されてくるのと同時に沖縄人という概念が形成されてきたことをふまえなければならない。沖縄において沖縄人という概念が形成されてくるときの対称軸に大和人(ヤマトゥンチュ)という名称が用いられたことも把握しなければならない。
 沖縄人という言葉は日本人として日本国家を形成してきた歴史を見事に解明する名称であり、日本民族の誇りがいかに馬鹿げたものであるのかを暴露する民族的武器である。あるときは〈日本人〉になり、あるときは〈琉球人〉にされてきた沖縄の歴史の中で日本を相対化する名称として、この沖縄人が存在してきたのである。
 日本国家権力を打倒する主体は日本国民、日本人が、という形で民族問題を展開してはならない。〈沖縄人+本土人〉=日本人とか〈沖縄プロレタリアート+本土プロレタリア〉=日本プロレタリアートという図式を導いてはならない。それは、沖縄人+日本人=世界人、沖縄人プロレタリアート+日本プロレタリアート⇒世界プロレタリアートという形で展開しなければならない。沖縄人プロレタリアートの闘いにとって、民族とは、勝ち取っていくものであり、もともと沖縄人も日本民族の一員であるから、日本民族の解放を目指して闘わなければならないという論理は、没階級的論理以外の何ものでもない。
 沖縄プロレタリアートの獲得すべき民族性とは〈世界民族〉にほかならない。日本人という概念が解体されつくすまで、沖縄人プロレタリアートは存在するのであり、日帝が日本国民として包摂したところでますます、沖縄プロレタリアートは、その階級性・民族性を発揮するものとして自己の存在を普遍的な〈プロレタリアート〉へと止揚するのである。
 沖縄が本土に復帰するのでもなく、本土が沖縄に復帰するものでもなく、あるべき日本に両者が復帰するのである、というこの論理は一見、普遍的な命題のように映るが、実は極めて没階級的である。何故なら、それは、沖縄の解放を一国的な展望として展開しているからであり、それは、沖縄が本土に復帰するのでもなく、本土が沖縄に復帰するのでもなく、あるべきアジア、あるべき世界に復帰しなければならないという風に論理化されなければならないからである。
〈本土・沖縄〉を貫ぬく民族問題は、アジア民族、世界民族の範ちゅうで問われているのであり、あるべき日本民族云々という形で問われているのではない。あるべき日本民族は世界革命が勝利することなくして展開されるものではないのであって、世界性を獲得することなくして民族問題は展開されない。
 ベトナム民族解放闘争が民族性を持ち得るのは、米帝を中軸とする反革命同盟に対する闘いで世界性を獲得しえているからであり、あるべき民族とは世界性を有しなければならない。
 日本民族にとって、天皇制イデオロギーを打倒し得ない限り、日帝打倒どころか、民族排外主義の大日本帝国が、またまた登場し、天皇制を頂点とする大日本民族のどす黒い血がベトナム人民に向かって吹き出すにちがいない。沖縄人とは、まさにこのようなものとして存在する日本人、日本民族を告発し、国家に規定されている国民を分解する武器として世界に存在しているのである。日本国民としての存在がいかに、排外主義として在日アジア人民の目の前でかたまっているかが、入管法再上程をめぐる政治情況の中で露呈されている。その在日アジア人民の告発を前にして、多くの闘う日本人が言語障害に陥り、総ざんげするという構造が70 年代階級闘争の特徴的な傾向であり、その政治的・歴史的本質問題を無条件防衛、支持という主体性抜きの論争へと自己を正当化し、天皇制イデオロギーの問題を思想的に総括したのみでなんら政治的には解明しえていない。
 日本国家としての日本人が何故日本人たり得るのかを自己と国家・国民との緊張関係においてどうアジアを射程に組み込む政治的内容として展開されえるのかが、突きつけられている情況下において、即、コスモポリタン的に時間と空間を語る思考がさも、インターナショナリズムとしての政治的内容だというふうに位置づけられ、戦争責任の問題を論理一般の問題に解消する傾向が、二十数年経過した現在でも存続している。それは同時に、戦争責任の問題が、ここ沖縄においても、思想的・政治的に展開されなければならない訳だけれども、どのような主体として総括しなければならないかが、実は、〈日本対沖縄〉〈沖縄対アジア〉の関係として問われている。〈沖縄対日本〉の関係で云えば被害者意識が優先し、〈沖縄対アジア〉の関係で云えば加害者意識が優先する。その関係は戦后も一貫して同様であり、日本人と「沖縄人」が二重、三重の矛盾として共存する歴史の中に沖縄の戦争責任の基盤が存在するのである。この二重三重の構造を解明するためには、日本人として自らを投入させた基盤、すなわちヤマトゥ(日本・日本国家権力)を相対[化]することによって、その裏返しであるところの「沖縄人」を顕在化させなければならない。そうすることによって初めて、沖縄人プロレタリアートにとって戦争とは何であり、アジア人民にとっての沖縄プロレタリアートが、どういう形で自己のアジア性を獲得するのかが明確になろう。
 沖縄問題がアジアの矛盾であるということを欠落させ、日本、沖縄の関係でのみ展開されるならば、それは醜い日本人という形で沖縄の矛盾を日本の矛盾にのみ規定し、「沖縄人」の存在を隠ペイすることになる。
 沖縄人プロレタリアートとは、今日まで蓄積されてきている日本人、「沖縄人」の相共存する構造を、思想的、政治的に破砕するものとして位置づけられるのである。
〈ヤマトゥンチュに負けるな〉云々と主張する言葉は全て「沖縄人」の言葉であり、沖縄の解放闘争の主体とは無縁な存在の人達である。このような言葉は、沖縄エゴイズムであり、本土エゴイズムに対置したところでの内容でしかない。
 沖縄人プロレタリアートは、日本の国家、国民を、日本民族の名においても相対化しえるが故に、非国家としての非国民たり得るのである。それはまた当然、弁証法的に永続的な闘いでもって展開されなければならないし、沖縄の思想とは、そのような形でしか構築しえないのである。沖縄の位置とは帝国主義にとっての戦略位置だからこそ、たえず過渡期であり、その過渡期の状況を相対化する作業を放棄するならば、「日本的」「沖縄的」ナショナリズムか、それと相関関係であるところのコスモポリタニズムしか生み出しはしない。返還過程の今日、日本独占資本に利害の一致を見い出す「日本派」と基地依存経済に依拠する親米的「沖縄派」、日米独占資本と対決し真の日本の独立をめざす一国的「日本革命派」が対立しながら独自の思想を政治主義的に展開している。
 沖縄人プロレタリアートの戦いとはそれ一切のものと思想的・政治的に対立する中から確立されるのであり、その事は必然的に普遍的なアジア性、世界性を獲得するのである。

[中略]

〈沖縄人プロレタリアートは世界革命に向けて自己を垂直に飛翔させなければならない。〉

(離島社1971.02.22−森宣雄採録)


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