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【2014.12.03】仲里効「来るべき自己決定権 沖縄/南のエッジから 日本を揺さぶる変革の波」を読む

 仲里さんが『世界』の2014年11月号と12月号に「来るべき自己決定権 沖縄/南のエッジから 日本を揺さぶる変革の波」と題した論考を発表した。(上)は、書かれていないことの大切を焙り出すような「昭和天皇実録」と、クリントン政権下で駐日大使を務めたモンデール口述記録を素材に“「天皇実録」と「モンデール口述記録」、この二つの記録を沖縄の視点で見ると、戦前期、戦間期、占領期を貫き現在まで継続する、包摂と排除を使い分ける鵺的統治構造に突きあたるだろう。……つまり72年以前においては排除しながら包摂したとすると、72年以後は包摂しながら排除していくことに変化したまでにすぎない”と述べ、最後に「95年からはじまった沖縄的不服従の思想資源」とのこ見出しで“……こうした95年を起点に、質的変化を遂げながら厚みを増していく抵抗が問題にしたのは、沖縄をアメリカの占領に隔離することによって「国体」を護持した日本政府の排他性であり、変わらない米軍の「特権的地位」と「例外状態」であり、「戦後レジームからの脱却」を掲げた政権の右旋回である.。……そして、第二次安倍政権が誕生後に打ち出した、サンフランシスコ条約が発効した4月28日を、日本が主権を回復し国際社会に復帰した日とする政府主催の記念式典は、日本の〈主権〉と〈国体〉が沖縄を切り捨てることによって回復した事実を、忘却の彼方から呼び出すことになったのである”、と(下)の“沖縄の自立的〈主体〉は発明し直されつつあるのだ。その自立的〈主体〉の発明を沖縄は、「島ぐるみ」という集団表現のなかから洗い出そうとしているようにも思える”と続ける。
 10万票差という圧倒的な翁長雄志=沖縄アイデンティティ=新知事誕生に対して、日本政府は、なりふり構わず暴挙を繰りかえさんとし、まさに仲井真が「自発的隷従」の徒よろしく、無惨な動きすら見せている中、沖縄の民衆の闘いはひるむことなく続けられている。

 かつて仲里さんは「独立を発明する」と語った。もちろん彼は「出来合いの独立論」に対しても優しい。「政治の希釈」は、間階級的な胎動、そして、あるいは民族ブルジョアジーの登場や排他的言説の台頭をも再審する射程を持つ。



来るべき自己決定権 沖縄
南のエッジから 日本を揺さぶる変革の波



仲里  効

なかざと・いさお 映像・文化批評家。1947年南大東島生まれ。1995年雑誌『EDGE』創刊に加わり編集長を務める。著書に『ラウンドボーダー』『オキナワ、イメージの縁』『フォトネシア―眠の回帰線・沖縄』『沖縄写真家シリーズ 琉球烈象』(監修)他。
浮かび上がる自己決定権 歴史意識と不服従思想の深化

 95年から始まる。止むことのない抵抗を不服従の資源としながら、沖縄は歴史意識の刷新と主体の変革を、重層的な自己決定権の樹立へと押し上げようとしている。
 たとえば『沖縄タイムス』の歴代基地担当記者9名がリレーで連載した「普天間問題の本質」(8月28日~9月10日)は、そうした力の流れを裏づける企画になっていた。
 「そもそも米国は沖縄にこだわっていない。こだわるのは日本側だ。普天間基地を通してそう学んだ」という記者の印象的な書き出しではじまるその連載は、米兵による少女暴行事件の7ヵ月後の1996年4月12日のテレビに映し出された橋本竜太郎首相とモンデール駐日米大使の記者会見で、普天間飛行場の移設・返還の発表の衝撃に触れ、「永久的に居座ると思っていた基地が動くかもしれない。突然の重大発展に頭が真っ白になった」ことも告白していた。
 異例ともとれるクリントン米大統領の謝罪やペリー国防長官の「沖縄の兵力削滅は日本政府のいかなる提案も考慮する」と言わしめるほど、あの事件はアメリカ政府をも動かした。だがそれよりも注目すべきなのは、沖縄の民衆意識を根本的に変えていく衝撃力にもなったということである。
 連載は、海上基地受け入れ拒否の意思表示を示した「97年名護市民投票」、翌98年大田昌秀知事の「海上ヘリ基地拒否」、99年の暮れ、基地使用協定の締結など7条件を付けての「岸本名護市長受け入れ」、同年11月に稲嶺恵一知事の民間航空機を活用できる軍民共用と使用期限を決めて受け入れた「15年使用期限」、「フェンスが沖縄全体を囲んでいる実態を思い知らされた」とすると2004年8月13日に起こった「沖国大ヘリ墜落」、従来の辺野古沖埋め立て案に変更した2005年10月の「在日米軍再編」、「最低でも県外」を打ち出した鳩山由起夫内閣が対米従属の政官財とメディアの包囲綱によって瓦解した「民主党政権」、そして2013年12月にそれまでの公約を破っての仲井真弘多県知事の「埋め立て承認」と、普天間基地をめぐる沖縄内外の動向を辿りながら問題点と課題に迫っていた。
 このなかで目を引いたのは、「在日米軍再編」を扱ったところで、11月に行われる知事選にも触れ、「保革の対立ではなく、『中央への同化』か『自己決定権の確立』が新たな軸に浮かびつつある」と述べたところである。
 この「新たな軸」こそ、まちがいなく95年の10・21総決起大会での「本来一番守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを心の底からおわびしたい」という大田昌秀知事の「謝罪」と高校生代表の「次の悲しい出来事を生みだす」ことへの加担を拒み、「若い世代の新しい沖縄のスタート」が出会い直す場からはじまった、沖縄の持続的な抵抗のひとつの到達点を示すものである。つまり、「自己決定権の確立」を浮かび上がらせたところに、沖縄の民衆意識の深層の変化を読み取ることができるはずだ。だとすると、大田知事が体現した沖縄戦と米軍占領を生きた世代の「謝罪」と、高校三年生が表現した「復帰後」世代の「新しい沖縄のスタート」の意思は、より広い歴史的パースペクティヴのもとに据え直されなければならない。95年以後の沖縄が試されたのは、その問いかけにいかに応答できるか、ということだった。
 たとえば2009年という年を思い出してみよう。この年が薩摩による「琉球侵攻」400年と明治国家が琉球を武力的に併合した「琉球処分」130年の節目の年にあたったこともあり、アカデミズムの世界にとどまらず、民間の有志による連続的なシンポジウムなどが開催され、沖縄の命運を変えたこの2つの出来事を問い直す試みがなされた。地元二紙でも年間を通した企画で検証していた。こうした領域を横断する探求は、「沖縄にとって日本とは何か」、そして「日本にとって沖縄とは何であったのか」をあらためて考え直すことになった。
 人びとの歴史意識の深層を掘り起こし、そのことが避けがたく沖縄の今の問題構造へと流れ込み、歴史意識と不服従の思想のいっそうの深化と刷新へと繋がっていく、フラッシュバック効果を創り出していくことにもなった。
 この領域を横断し過去と現在を往還するダイアローグは、これまで自他ともに抑圧してきた沖縄の文化的資源を再発見していく力をも生み出していくことになった。そのことの象徴的な現れは、沖縄の言語への痛みを伴った注目である。戦前の皇民化教育と戦後の日本復帰運動の同化=日本国民教育のなかで捨て去る対象にされたのが沖縄の言語であった。
 言語は文化の根を培養する、それゆえに併合と同化のためにまっ先にターゲットにされる。
 戦前、戦後を通して忌避され続けてきた果てに、国際機関からは危機言語と見なされるまでになった琉球諸語。95年を結び目にした沖縄の実践は、脱植民地化と自己決定権を視野に入れはじめたことにより、言語の再生とけっして無縁ではないことに気付きはじめる過程でもあった。抵抗と文化の力の結びつきの発見である。
 2006年3月31日に沖縄県条例として「しまくとぅばの日に関する条例」が定められたのをはじめ、琉球諸語を再興させようとする機運が地域や階層横断的に大きな流れを形成し、沖縄の地元二紙の紙面を賑わせている。『沖縄タイムス』は昨年9月18日の「しまくとぅばの日」の社説をウチナーグチで記述してみせた。このはじめての試みとなったウチナーグチ社説は、琉球諸語の現状への危機意識と再生への機運を象徴する文化的事件になった。同紙はまた、昨年9月から毎週日曜日に「しまくとぅば新聞」として紙面を割きさまざまな取り組みを紹介している。
 「琉球弧の先住民族会」による沖縄の過度な基地負担の解消や琉球語の保護を国連人種差別撤廃委員会へ訴える持続的な取り組みは、8月29日に同委員会から日本政府に対し、沖縄が「人民」としての自己決定権を持つことや琉球語を消滅の危機から守る琉球語教育などを行うよう勧告させた。
 9月2日には「しまくとぅば連絡協議会」が新たに琉球諸語の保護・強化に関する条例を制定し、学校教育にしまくとぅばを導入することや「しまくとぅば教育センター」の設置などを求め、県や県教育庁や県会議に申し入れた。
 これまで疎んじられ蔑まれた琉球諸語が一気に反転していくあやうさを孕みつつも、消えゆく、いや消されてゆこうとする言葉への危機感をともなった再生の取り組みは、間違いなく沖縄の主体意識を揺さぶり、変化を促さざるを得ない。そういった意味で「しまくとぅばの日 復興は自尊心も取り戻す」を見出しにした9月18日の琉球新報社説は、言語と主体の関係にまで目を届かせていた。「県民の間にしまくとぅばの保存・継承の機運が高まっている背景には、政府による辺野古基地建設強行など、沖縄が置かれている現状とも決して無縁ではないだろう。『琉球処分』以降、しまくとぅばが片隅に追いやられたように、辺野古強行は沖縄のアイデンティティを否定し、自尊心を傷つける行為にほかならない」として、普天間基地の辺野古への移設問題が言語植民地主義と不可分に絡み合ったアイデンティティの問題だと据え返され、そのうえで「しまくとぅばの復権・復興は、沖縄と本土との在り方を考える契機にもなる」と解説していた。ここには「しまくとぅば」という名づけにひそむ政治の希釈を、注意深く払い除ける言語植民地主義批判の視点がある。

「島ぐるみ」という群島民のエチカ

 沖縄の自己決定権は、こうした歴史意識の刷新や言語植民地主義の超克など脱植民地主義的な実践のなかから錬成されてきたと見なしてもけっして言い過ぎにはならないだろう。
 沖縄の自立的〈主体〉は発明し直されつつあるのだ。その自立的〈主体〉の発明を沖縄は、「島ぐるみ」という集団表現のなかから洗い出そうとしているようにも思える。
 たとえば、2012年9月9日に10万人余が結集したオスプレイ配備反対の県民大会とそのことを基礎に、昨年1月28日、沖縄内のすべての市町村長、議会議長らが署名したオスプレイ配備撤回と普天間飛行場の閉鎖及び県内移設断念を求める「建白書」を日本政府に突きつけた。この「建白書」の文面には新川明によって鋭く批判された日琉同祖論的な1行が挿入されている問題性と、昨年12月の5名の自民党所属沖縄選出国会議員と仲井真知事による公約違反の辺野古新基地建設容認によって揺さぶられたとはいえ、沖縄の変革への底流と一般意思を形成しようとしていることもたしかである。そしてその底流は、今年7月28日の「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」の結成へと至り、自己決定権を保障する権利章典まで視野に入れようとしている。 
 ここでの集団形成の特徴を示す「島ぐるみ」が1950年代の土地闘争や60年代の「沖縄県祖国復帰協議会」のようなそれと異なるところは、日本への幻想が相対化され、代わりにアイデンティティと自己決定権が結合軸にせり上がってきていることである。こうした変化は、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件10年目の今年取り組まれた連続企画のテーマが「問われる沖縄アイデンティティとは何か」になっていることにも現れている。このことは主催者側の「それはまるで、沖縄の島々を取り囲む海面の波が干瀬にぶつかるしぶきによってさまざまなプリズムを放っているかのようであり、そこで噴き出した沖縄アイデンティティをめぐる議論がキラキラと乱反射している感があります」(稲富日出夫・沖縄国際大学教授、沖縄タイムス6月15日)とか「沖縄は自分たちの運命を自分たちで決定するという権利を奪われたままでいいのか。今こそ自己決定権の在り方を真剣に論じ、沖縄アイデンティティを問う時期ではないだろうか」(照屋寛之・沖縄国際大学沖縄法制研究所所長、琉球新報8月13日)という問題意識が裏づけるところでもある。
 沖縄のアイデンティティと自己決定権、それは動き始めた県知事選の辺野古移設に反対する陣営の「イデオロギーよりもアイデンティティ」というスローガンにも反映されているように思える。「保革を越えて」という言い方もされる「アイデンティティ」の過度な強調は、現実社会の矛盾を覆い隠すイデオロギーと化していくことに十分注意深くなければならないし、「島ぐるみ」という結合の在り方にも同様なことが言える。しかし「島ぐるみ」的な集団形成は、大国に翻弄されてきた沖縄の民衆が巨大な権力と対峙するために編み出した群島的知恵であることもまた否定しようもないだろう。刮目すべきことは、そうした複数性と交渉可能にする結合のなかから、来るべき沖縄の自立的根拠を探り当てようとする潮流が胎動していることである。問われているのは、「島ぐるみ」的な群島状の共同性と重層的決定の関係を保ちつつ、その内部の陥穽を踏み越え、国家とそのイデオロギー装置のリミットを見据えた、新たなる〈主体〉と政治空間を切り開くことができるかどうかにかかっている。

〈主権〉のジレンマ、〈独立〉を発明すること

 「道標求めて――琉米条約約160年 主権を問う」(琉球新報、5月1日から連載)と「岐路――を掘る 未来を開く」(沖縄タイムス、7月1日から連載)は、重層的な自己決定権の確立と〈主体〉の変革へと向かう沖縄の転換点と応答しようとする意欲的な企画になっている。
 「岐路」は、沖縄の近現代のターニングポイントになった出来事を再考する試みで、「道標求めて」は、今年が1985年7月の琉米修好条約締結から160年にあたることから、〈主権〉を視軸に据え、海外の例も参照しつつ琉球史に光を当て直す連載である。「日本国への併合後も沖縄住民への差別や人権が無視される状況が続き、そのたびに自治権拡大や自立論、独立論など、沖縄の『主権』を追求する主張が叫ばれてきた。沖縄が目指すべき『主権』やその実現への道筋を考える上で、条約をめぐる歴史から学ぶ教訓は多い。歴史は今の沖縄に何を語り掛けるか。現在の視点から歴史を据え直し、沖縄が歩むべき将来像を探る」とした企画意図は鮮明である。〈主権〉という切り口から「沖縄の将来像」を探るこの企画は、辺野古の新基地建設問題をめぐって明らかになった日本政府と沖縄が対峙する臨界が意識され、沖縄の自己決定権の樹立へと向かう底流と結び合っていることは間違いない。〈主権〉の至高性=一者性を恃みに沖縄の独立を立ち上げることは、ある意味古い。だが、この“古さ”は沖縄の“新しさ”だという言い方が成り立つとするならば、この逆説とジレンマこそ、スコットランドをはじめスペインのカタルーニアやバスクなど実験に沖縄が繋がるエチカだと言えないだろうか。ただそこには発明という創造的批判行為〈主権〉への審問がならないだろう。
 二紙の試みは、沖縄と日本の関係史の再考と連動した2009年の「薩摩侵攻400年、琉球処分130年」の企画を路襲するものであったが、より明確に沖縄の将来像を描き込もうとしているのが読み取れる。このことはまた連載「普天間問題の本質――歴代担当記者の視点」(沖縄タイムス)のなかで言われた《「中央への同化」か「自己決定権の確立」か》という新たな軸とシンクロしてもいる。95年からはじまった歴史認識の刷新と〈主体〉の変革は、沖縄の戦後をひと色に染めた「日本復帰運動」の批判的乗り越えなしにはあり得ないということを物語ってもいる。日本政府と沖縄の対峙の臨界と言ったのはそういった意味からである。
 だとすると「道標求めて」の第四部〈識者の目〉で與那覇潤(愛知県立大准教授)が、記者の「硬直状況を切り開く視点は」という問いに答え「日本人が、復帰運動で沖縄の人に一度は『選んでもらった』過去を自覚することが、新しい選択の可能性に気付く契機にもなると思う。今、選んでもらった結果だと気付いて感謝することが、日本と沖縄の関係のリニューアルにつながる」と述べた見識を、復帰運動の同化主義批判の視点から据え直すと「日本と沖縄の関係のリニューアル」が違った見え方をしてくる。
 日本にとって沖縄は固有の領土などではなく、ましてや沖縄にとって日本は「帰る」べき「祖国」などではない、〈選んだ/選んでもらった〉という選択行為をともなった可変的な関係概念だということがはっきりしてくるだろう。そこからさらに「選び直す」こと、「選ばない」こと、極端に言えば「選び捨てる」という選択の幅があることを教えてもくれる。「道標求めて」と「岐路」の連載はこれまでにない「関係のリニューアル」に眼を開いてくれる。9月18日に行われたスコットランドの英国からの独立の是非を問う住民投票に強い関心を寄せたのもうなずけるということだ。 

スコットランドからの呼び声、〈球体〉の外へ

 結果は反対55.25%(約200万票)、賛成44.65%(約162万票)に終わったが、沖縄の地元二紙は投票前の動向を追い、投票結果を一面と社会面トップでこの「直接民主主義による壮大な社会的実験」を扱い、似たような分離・独立を目指す地域の関心や現地に視察にいった沖縄関係者や沖縄出身者の声、そして沖縄内の反応を紹介していた。スコットランド独立を問う住民投票への関心の質は、もはやとどめようがない沖縄の自己決定権の確立への潮流が、選択を介在させた「日本と沖縄の関係のリニューアル」を射程に入れはじめたことを物語っていると言えないだろうか。
 スコットランドの独立を問う住民投票の結果を受け、二紙は9月20日の社説で論説している。「自治への問い手放すな」の見出しの沖縄タイムス社説は、「変化しつつあるのは、県民の中から、かつての『居酒屋独立論』の時代とは異なる、地に足のついた自立への取り組みが見られること」と述べ「スコットランドの経験を受けて、沖縄でも独立論議が高まりそうだ。しかし(中略)ほんとうの危機とは、沖縄県民の中に政府への不信感がどうしようもないほどに根付き、広がることである。その兆候は表れ始めている」と結んでいた。
 琉球新報社説は「自治権拡大は世界の潮流だ」の見出しで「民主的手続きを通じて国家の解体と地域の分離独立の可能性を示した試みは世界史的に重要な意義がある。それを徹底的に平和的な手段でやり遂げたスコットランド住民に深く敬意を表したい」と述べ、「冷戦終結以降、EUのように国を超える枠組みができる一方、地域の分離独立の動きも加速している。国家の機能の限界があらわになったと言える。もっと小さい単位の自己決定権確立がもはや無視できない国際的潮流になっているのだ。沖縄もこの経験に深く学び、自己決定権確立につなげたい」とスコットランドの直接民主主義的な実験によって示された国際的な潮流のなかに沖縄の自己決定権を位置づけ直して論評していた。
 このタイムス、新報両紙の紙面からは、95年以降の沖縄の運動の歩みが、昨年12月の仲井真知事の辺野古移設容認によって沸点に達しつつ、どのような方位をとるのかを、スコットランドの独立を問う住民投票を参照にして予感している。住民投票は沖縄が「復帰運動」で日本を〈選んだ〉ということを明るみに出し、だがそのことは絶対ではなく、関係の変革のためには〈選び捨てる〉という選択もあり得るという道筋をつけた。そのとき国家としての日本は確実に相対化される。そこからたとえば『永続敗戦論』の著者白井聡が指摘した引き籠りの「球体」を問題にするのにはそれほど時間のかかることでもないだろう。
 白井は「『永続敗戦レジーム』は、なぜどのようにして壊れてゆくのか」(「ワセダアジアレビュー」第15号、2014年)のなかで、2013年の年末に発生した2つの出来事(安倍首相の靖国神社への参拝と仲井真沖縄県知事の辺野古沖の埋め立て許可)によって、日本の戦後が終わりを迎えつつあるという見解を提示し、その終わりの過程の進行を辿っていた。興味深いのは、「戦後レジーム」の本質である対米従属の意識の変化に着目していたところである。従属するためには従属しているという主体の意識が必要で、その意識を忘却することはある意味で戦後が終わることであり「戦後レジームからの脱却」とも言えるが、しかしそれは「一種の球体に閉じ籠ることを意味する」という独特な読みを示していた。「脱却」は別の形での「引き籠り」にすぎない、という。「外に出る」ことがますます「内に引き籠る」という捻れた世界。捻れの昂進は引き籠りの球体を内破に至らしめる。ともいう。
 この「引き籠りの球体」こそ、「モンデール口述記録」で明らかにされた「彼らはわれわれを沖縄から追い出したくなかった」というときの「彼ら」のアドレスであり、森本敏・元防衛大臣が「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると、沖縄がつまり最適の地域である」とした、「政治的」なるものの本体でもある。沖縄にアメリカ軍基地を集中させる理由を「地政学」や「抑止力」で取り繕う「政治的」なるものとは、あの〈球体〉のことであり、対米従属を本質とする「戦後の国体」なのだ。
 《「中央への同化」か「自己決定権の確立」か》というあえての問い立ては、スコットランドの「直接民主主義による壮大な社会的実験」を中継しつつ、確実に〈球体〉の外を開こうとしている。その外を開こうとする声をたしかに私は辺野古の海の潮騒とともに聴き取った、と思った。
 9月20日、前月23日のキャンプ・シュワブゲート前での集会に続いて開催された「止めよう新基地建設! 9・20県民大行動」の会場となった辺野古の浜は、5500人の人々で埋め尽くされた。市民団体代表(安次富浩ヘリ基地反対協議会共同代表)の挨拶は遠方からの声に呼応するように「18年にわたる辺野古の闘いは政府による構造的な沖縄差別を打ち破る闘いに昇華した。沖縄の自己決定権を勝ち取るためにも勝利しなければならない」と訴えた。集まった群衆の心の地図を色づかせた、と感じたのは潮騒の惑乱だったとは思えない。
(『世界』2014・12)



【2014.10.25】新城郁夫「琉球国の主権というお化け」を読む。併せて仲里 効「独立を発明する①沖縄の主体組み直す」も。

 「けーし風」と「うるまネシア」を通じた「公開討論」とも言える「新城-新川論争」ではあるが、国家と社会をめぐる、そうであるが故に、人々と権力をめぐる沖縄の自立解放の来し方行く末について、大いに触発される。独立学会の危うさについて、それとして言及しているわけではないが、島袋純は「オープン・ナショナリズム」と語っているそうな。
 旧聞に属するが沖縄タイムスが2014年9月2日から「独立を発明する」という連載コラムを「歴史の転換点で、さまざまな自治・自立のあり方が議論された沖縄。「反復帰」「琉球共和社会」「沖縄自治州」などこれまで言及されてきた独立論を含む沖縄の自己決定権の獲得には幅広い選択肢がある。沖縄の現状を踏まえ、各論者に望ましい未来像について論じてもらう。」のリードを付して開始した。トップバッターの仲里効の論考も併せてアップ。

 普天間-辺野古-高江と連なる沖縄民衆の闘いは、11月県知事選を迎え撃とうとしている。辺野古新基地建設反対80%という沖縄民衆の世論調査と、「選挙」は全く別物であろう。かくも愚かしい安倍政権ですら、まだ50%の支持率だと聞く。そして沖縄県全11市長のうち9市長が仲井真支持だそうだ。
 辺野古での座り込みを先頭に、現場での闘いをさらに強め、広め、日米両政府に痛打を浴びせかけること抜きに、自発的隷従へ沖縄を引きずり込もうとしている植民地官僚と買弁勢力を一掃し難い。毎週バスを連ねて辺野古の座り込みに参加する「島ぐるみ会議」の健闘を讃えつつ。



備忘録⑧

琉球国の主権というお化け

新城 郁夫


 琉球民族独立について、新川明氏との論争が成立しないことは、「問われなければならないのは、琉球・沖縄人のがわの『排外主義』ではなく、日本国(国民)のがわによる琉球・沖縄『排除』による植民地支配の構造である」(『うるまネシア18号』収録「『琉球独立論』をめぐる雑感(補遺)」等の、新川氏の排外主義的開き直りの愚に明かである。故に論争もどきはしない。ただ新川氏の反論のなかの次のような論述は看過されえないと考える。
 備忘録⑥「琉球独立論の陥穽」での、新川氏が立論の要となる両属体制下の琉球国の国家主権とは何かという私の問いに、新川氏は、佐藤優氏の次のような文章に論拠を丸投げし、これを回答としている。琉球王国の「主権」を今日の沖縄の自己決定権の前提とするような論が、地元二紙やNHK歴史娯楽番組等で奇妙な盛り上がりを見せている昨今検討されて然るべきだろう。まずは、新川氏が自らの論拠として引用する佐藤優氏の論を再引用する。
 「沖縄は主権を獲得するのではなく、回復するのである。われわれは過去も沖縄人であったし、現在も沖縄人であるし、未来も沖縄人である。1854年の琉米修好条約、1855年の琉仏修好条約、1859年の琉蘭修好条約で、当時の帝国主義列強からも、琉球王国は、国際法の主体であると認められていたというのが客観的事実だ。/琉球処分以後、われわれの主権は潜在化していた。しかし、それは眠っていただけであり、死に絶えたのではない。今、その主権が顕在化しつつある。」(2013年9月28日、『琉球新報』連載「佐藤優のウチナー評論」)
 日本の国益を最重視し国家主義者たる日本人として自らの立場を言明する佐藤氏であるから、右の文章でも氏の論は一貫性があり帝国主義的発想が通底している。佐藤氏の論において、沖縄人であることと日本人であることは矛盾せず補完的であり、日本国家枠内での琉球独立も連邦的選択肢となる。むしろ問題は、佐藤氏のエピゴーネンたちが、「琉球王国の国家主権」の物語を通して、琉球民族独立国家の主権性を捏造しようとする流れである。
 基本的に国家主権とは、一定の領土と人口に対する独占的な至高権力を指し、それは、他の国家のいかなる力をも排除する権力と私は理解している。だが、右の議論では、ヨーロッパ公法の決定的変容であるアメリカ帝国主義拡大に伴う(この点は、カール・シュミット『大地のノモス』第4部第6章を批判的に参照)、武力威嚇による領事裁判権を含む不平等条約を締結させられたことが琉球王国の主権の証とされている。これは、歴史認識的な倒錯と私は見る。この論でいくなら、植民地化や保護領そして委任・信託統治化された全地域は、帝国主義拡大としての国際法の「原初的汚点」(阿部浩己『国際法の暴力を超えて』65頁)の力で「主権」を侵害されることを通して、従属=主体化(フーコー)において主権国家化されたことになる。この手の論は、日本の韓国併合合法論などに連動する可能性が大きく、ここから琉球処分の合法論を引き出すのもさほど困難ではなくなるのではないか(不当だが合法という国際法上の決まり文句で)。こうして国際法上の主権論に議論の台座を奪われると、サンフランシスコ条約第3条の日本の沖縄への潜在主権など、完璧となってしまいかねない。国家主権にかかわる現行の国際法を、民族独立の道具として用いることには、極めて慎重であるべきと私が考えるゆえんである。
 まず、主権者の概念と国家主権の概念とが、峻別される必要がある。少なくとも、琉球国の国家主権の有る無しと、「われわれは今も昔も未来も沖縄人である」といった物語は、およそ関係のない話である。いうまでもなく、琉米修好条約などは、「沖縄人・琉球人」の合意を経て締結されたものではない。人民主権不在の条約が、「われわれ琉球人・沖縄人」などといった存在の証となることなどない。人民主権あるいは主権者という概念は、国家主権を批判しこれを制限する概念=実践として育まれてきた運動体である。しかし、喧伝されている琉球国主権物語は、琉球国の主権とやらが、主権者である民衆の意思に基づいていたかのような歴史を捏造しかねない。沖縄の現在と未来の望ましいあり方を模索するとき、琉球王国の国家主権など、万が一想像され捏造されたとしても、決してモデルにしてはならないと私は考える。
 大切なのは、国家主権論で沖縄のあるべき姿を語らない慎重さである。国家主権や民族自決は、大国の思惑でその有無や効力が差配される危険と常に隣り合わせである。もし主権にこだわるならば、人民や民衆という行為体を政治的に主体化し、その権利の拡大をはかっていく方がずっと大事だろう。
 この文章が活字化される頃は、すでに知事選が直前に迫っている。ここで想起しなければならないのは、今の仲井真知事を自らの代表として選んだのが、沖縄に生きる私たちだったという痛恨の事実である。仲井真知事は、国が沖縄に押しつけた官僚ではない。私たちが私たちの主権性において「代表」としてしまった人である。自己決定というのは遠い未来に輝く何かではない。それは日常の実践において可能となる新しい生き方というべきだろう。その点でいえば、辺野古・高江への基地建設反対という原則を実現していくことは、おそらくはもっとも実質的な、私たち自身の主体化となる。この主体化の動きのなかでこそ、主権の論理とは異なる「私たち」という新しい共同性が創り出されていくはずである。
(けーし風84・201409)


独立を発明する①

沖縄の主体組み直す 全体主義陥った復帰運動

仲里 効


 クサムニィ風に言い回せば、あれは「超自我の虚無点」のようなものだった。〈あれ〉とは、「祖国」とか「母の懐」と擬人化された国家としての日本のことで、沖縄の戦後史をひと色に染め抜いた日本復帰運動はその「超自我の虚無点」へ無批判的に自己を投射し融合していった。アメリカの剥き出しの占領状態からの脱出を、擬人化された日本を内面化することによって果たそうとする心性は、二重の植民地主義のわなに気づくことはなかった。超自我は「祖国」や「母の懐」から「平和憲法」に変わったにしても、自己を投射することのうちに内在化された自発的隷従に変わりはなかった。
 かつて嵐のように吹き荒れる「超自我の虚無点」への合一運動にやりきれない思いを抱かされた。沖縄的なものをおとしめることによって球済されると思いこむ、そこでの主体はつねに欠如として意識され、それゆえにその欠如を埋めるように超自我に一層深くとらわれていくという構造をもっていた。逆立ちした自同律(aはaであるという原理)、そう言ってもよい。復帰後は復帰後で、そんなはずではなかったとして「真の復帰」とか「完全復帰」を唱え、いっそう隷従を教条化していった復帰原理主義者たち。彼らは今、どこにいるのか。
 「自同律の不快」という謎めいたタームに魅せられ、関係の革命を夢見たことがあった。日本の私小説的風土を揺さぶった埴谷雄高の惑星的な思考実験の書『死霊』のなかで、主人公三輪与志が「《俺は―》と呟きはじめた彼は、《―俺である》と呟きつづけることがどうしても出来なかったのである。あえてそう呟くことが名状しがたい不快なのであった」と対応する概念である。
 この「名状しがたい不快」を、私は埴谷雄高の植民地台湾での原体験を抜きにしては語れない、と勝手に思い込んでいた。つまり、帝国日本の植民地に対する同化主義を基調とする統治構造とかかわっていたということである。そのことはすぐ後に続く「主辞と賓辞の間に跨ぎ越せぬほどの恐ろしい不快の深淵が亀裂を拡げていて、その不快の感覚は少年期に彼を襲ってきた異常な気配への怯えに似ていた」というところに示唆されていると見てよい。少年埴谷の「怯え」は、帝国日本の自同律が植民地に拡がる深淵や亀裂を跨ぎ越すことによってしか成り立ちようがない擬制を鋭く嗅ぎ取っていた。だからこその不快であった。
 ひるがえって、戦後沖縄の日本復帰運動は、沖縄戦に極まる皇民化教育が跨ぎ越した歴史のふちや裂け目を再び跨ぎ越すことによって、私ではないものへへつらうように自ら進んで同一化していくものであった。逆立ちした自同律と言ったのはそういった意味からである。深淵や亀裂は深く隠されたまま置き去りにされた。
 沖縄の主体を超自我に向かって溶かし込んでいくことでもなく、自同律をドグマ化することでもなく、自立に向かって組織し返していくこと―1995年の米兵による暴行事件は、沖縄社会のマトリックスが依然として日米合作の軍事植民地状況であることを痛感させたが、その事件をきっかけにして途絶えることのない反復的抵抗から重層的な自己決定権を打ち立てようとするところまできている。昨年5月に設立された琉球民族独立総合研究学会はその画期をしるしたことは間違いないだろう。
 だが、とここであえて問わなければならないのは、もしも沖縄の植民地状況からの脱出がナショナルリズムと主催権のリピドー(欲望)を代補するものであるならば、それはもうひとつの自同律に閉ざされることはならないか。主辞と賓辞をイコールで結ぶ主権的なものは、排中律(中間を認めない原理)を抱懐することにおいて本質的にゼロサム(合計してゼロになる)的である。大切なのは、沖縄の歴史の間に置き去りにされてきた淵と裂け目を掬いあげる《第三項》を発見することができるかどうかにある。国家は擬人化された超自我の極みであり、暴力を装置化する。
 「《俺は―》《―俺である》と呟くことの名状しがたい不快」を近代のアポリアとして解き祓わなければならない、と思う。植民地状況においてはその作業は二重の困難が伴うにしても。
 「超自我の虚無点」への自己投射と「自同律」の共犯性は、コロニアル―ポストコロニアル状況を貫いて不断に主体を侵犯する。独立は発明され直さなければならない、と繰り返し言いたい。私にとってそれは、二重の植民地主義を内側から越えた〈反復帰〉の思想を構成する力能として前景化した2つの憲法構想(「琉球共和社会憲法C私案」と「琉球共和国憲法F私案」)の交差と葛藤のなかにある。
 その交差と葛藤には、来るべき共同体を〈国家〉において構成するのか、それとも〈社会〉において越えるのかという白熱した問いが問われている。いまだ明かしえないにしても、《第三項》を結び目にパイの風とオール―の水平軸でつながる、そんな群島的共和体があるはずだ。「自同律」暴力を孕み、「超自我の虚無点」は全体主義へと向かう。
(沖縄タイムス2014年9月2日)

【2014.10.18】「反復帰論のいま」を読む

 体力も、そして何よりも気力の減退を感じ始めてしまった。安倍ファシスト(もう、こう呼んでもいいだろう)壊憲政権が憲法はおろか、多分「日米安保条約」や「地位協定」さえ知らないであろうことが、日々暴露されているにもかかわらず、まだ、「お腹が痛い」とは言わない今、泣き言など言っている場合か!と叱られそうだ。
 こんなにも「怠け者だったのか」と、日々思い知らされている。もっとも、Kさん(@川田洋)には、とうの昔に見抜かれていたようだが……
 こんな繰り言も書き連ねるのも、我がPCがなんとも不調になったこともある。もうサービスが終了した「windows XP」である。買い換え時期か?
 よたよたしながらも、やっと、更新!である。

 さて、全球化帝国主義がのたうちまわる度に、災禍は人々の上に降り注がれる。そして、日本は「武器と原発輸出」に加えて「カジノ解禁」がアベノミクスの「第三の矢」だと!
 しかし、沖縄は不屈の闘いが普天間-辺野古-高江で繰り広げられている。絶対に沖縄に新たな基地を作らせてはいけない。これは我々日本プロレタリアート人民の責務なのだ。辺野古新基地は決して普天間代替ではない。軍港機能さえ持つ巨大軍資基地なのだ。安倍が嘯いた「主権回復の日」たる1952年4月28日は、我々日本プロレタリアート人民にとって「屈辱の日」ではないか。朝鮮特需という血塗られた「奇貨」による、日本帝国主義の復活の第一歩であったということは、決して忘れてはならない。沖縄の自立解放への連帯は、日本-沖縄の共生への第一歩に他ならないと、改めて懐う。

 沖縄タイムスが「岐路 歴史を掘る未来を開く 第3部 戦後編」において、二日間にわたって「反復帰論のいま」を掲載した。
 日本に比して、沖縄は「反復帰論」の思想資源を豊かに実らせつつある。もちろん、行く手は困難ではある。しかし、こう言ってよければ「希望」に満ちあふれているではないか。



岐路 歴史を掘る未来を開く 第3部 戦後編


反復帰論のいま 

思想的自立うながす 深層で流れ現代に湧出

 米国による軍事基地としての支配のもとで人権を踏みにじられていた沖縄住民が、平和憲法を持つ日本への復帰を求め、祖国復帰運動を闘っていた1969年。日本の佐藤栄作首相と米国のニクソン大統領が沖縄の日本への返還について共同声明を発表。しかし、日米安保体制下の沖縄の軍事的機能を認めたことに、復帰によって軍事基地の負担が減ると期待していた沖縄住民は失望した。
 「佐藤・ニクソン共同声明で合意された復帰は、(日本による沖縄の)再併合だった」と、ジャーナリストの新川明氏は振り返る。
 それまで沖縄住民の抵抗運動を担った復帰運動が、日米両政府の国家の論理に巻き込まれ、すり替えられていく。その流れをどう断ち切り、沖縄の主体的な運動を取り戻すか。復帰運動を支えていた「母なる祖国」へ帰るという日本同化志向への批判的視点が登場する。沖縄の思想的自立を促す「反復帰論」だ。
 70年、復帰前の沖縄に特別措置法を敷き実地した衆院議員選挙を、日米両政府に都合のいい形での復帰に対し沖縄住民の合意を得ようとするものとして批判した国政参加拒否闘争は、反復帰論が生まれるきっかけとなった。「国政参加の主張は権利回復の要求」という流れに逆らうように同闘争を呼び掛けた当時沖縄タイムス記者の新川氏と川満信一氏、裁判官だった仲宗根勇氏、琉球大学教員だった岡本恵徳氏が加わり、反復帰論を展開していった。

 反復帰論の代表的存在ともいえる新川氏は「母なる祖国、平和憲法下の日本という幻想」に支えられた復帰思想を批判。「日本志向の復帰思想をもってしては、沖縄における思想的の自立はあり得ない」(「『非国民』の思想と論理」1970年)と述べる。
 日本と沖縄の異質性を強調し、その差異を拠点に日本という国家を徹底的に相対化していった。そして「『反復帰』とは、すなわち個の位相で〈国家〉への合一化を、あくまで拒否しつづける精神志向と言いかえて差しつかえはない。さらに言葉をかえていえば、反復帰すなわち反国家であり、反国民志向である。非国民として自己を位置づけてやまない自らの内に向けたマニフェストである」(「〈反国家の兇区〉としての沖縄」)と宣言する。
 反復帰論は一つの思想であり、「反復帰運動」ではなかったが、復帰運動にまい進する沖縄社会にあっては異端視され、復帰を阻害するものとして時に激しい非難を浴びた。
 一方で、反復帰論は、日米両政府によって復帰運動がすり替えられていく過程で思考した若い世代に参照されることとなる。当時大学生だった仲里効氏(映像批評家)は「復帰とは違う新しい思想を模索し、悩んでいた世代に、反復帰論は喚起力をもって訴えてきた」と回想する。
 「反復帰論」という呼称で一くくりにとらえられてきた論の数々は「国家としての日本への合一化を拒む」という目標は共有しながら、それぞれ異なる思想として深められていく。そうしてそれぞれ異なる思想として深められていく。そうしてそれぞれが沖縄の深層で流れ続け、現代に湧出することとなる。
 反復帰論を唱えた一人、川満氏は、新川氏の前掲の論考と同じ「『非国民』の思想」を題に掲げ、「(日本と沖縄の異質性を強調する)その視点の先には沖縄内部の支配も、個人と国家共同体の原理的関係も見えてこない」「〈異質性〉を生きることが、はたして支配思想の廃滅にいきつくまで裁くものとしての位置を確保し得るか、という問いに追い立てられるとき、〈異質性〉に依拠する論理の限界が見えてくる」(「沖縄―〈非国民〉の思想」・「映画批評」1971年7月)と述べる。 
 新川氏が「日本と沖縄との異質性」を、沖縄自立のエネルギーにしたのに対し、川満氏は「異質性」を強調することで沖縄内部の支配/被支配が見えなくなることを危ぐし、近代の国民国家を超える形を想像していく。
 そして双方の思想は、近年、琉球民族独立総合研究学会が設立され、「独立」の軸が強調される中で、明らかな違い標榜して若い世代にとらえられ、それぞれ立ち上がっていく。
(沖縄タイムス20140917)


反復帰論のいま 

新川・川満思想を継承 二手に分かれた自立論

 新川明氏、川満信一氏、仲宗根勇氏が始めた国政参加拒否闘争。そこから始まった反復帰論は、岡本恵徳氏が加わり展開していく。 
 1995年、米兵による暴行事件で噴出した基地負担への怒り。沖縄の日本「復帰」から20年以上たっても変わらぬ植民地的な状況下で、沖縄にとって日本とは何かが問い返され、70年代の反復帰論への関心が高まっていった。
 反復帰論で同じく「非国民」としての自覚を表明した新川氏と川満氏だが、現代になって新川氏の思想はいまだ残る日本志向を断ち切り、植民地的支配から脱却するという主張として、川満氏の思想は国境が生む矛盾や権力関係が発生する根源としての国家を否定し、アジアへ開くものとしてとらえられていく。
 そして2013年、若い研究者が中心となり「琉球民族独立総合研究学会」が設立されると、新川氏自身が「画期的なこととしてその活動に期待している」という態度を表明。琉球大学の新城郁夫教授が、川満氏の論を引いて独立学会を批判したことに、反論を展開していく。
 新城教授は、13年に開かれた「東アジア批判的雑誌会議」で、川満氏が作成した「琉球共和社会憲法法C私(試)案」を「沖縄独立論の多くに内在される建国的ヴィジョンを退け、国家内部の亀裂から生み出される人間のネットワークを構想した」と、ナショナリズムを退けた社会構想であると評価。独立学会に「過去投影的な沖縄ナショナリズムを動力とする独立構想の危険性」がないかと危惧した。
 新城教授の独立学会批判を受け新川氏は「植民地的支配下にある人間集団(民族)が、自らの人間的な解放を求める反植民地運動(闘争)」が「ナショナリズムを起爆剤として始動する」のは「歴史的事実」と返した(「うるまネシア」第16号)。 
 新城教授は「生存権の更新とその実践の場たる沖縄の変革のためには、琉球民族主体の国家独立という選択は、真っ先に排除されるべきと考える」(「けーし風」第80号)と反論。「歴史的政治的に見て、ナショナリズムは、その起爆性において当の民族にさえ制御不可能な暴力となる」と、同一集団のマイノリティーへと視線を向けていく。
 新川氏は「(独立学会が)民族概念の曖昧さも含めて検討すべき課題を抱えているのは当然のことであって、私はこれを封殺するのではなくて、足りないところは補い、育て上げるために自分のできる範囲で手助けをしたい」(「うるまネシア」第16号)とした。
 新川氏に同調した若い世代からも新城氏への批判が飛ぶ。
 独立学会共同代表の松島泰勝龍谷大学教授は、新城氏の論を「観念的な無政府主義」と批判した上で、「そのような思想的営為は、琉球が日本の植民地であるという現実を少しも変えるものではない。日本国から分離独立することが琉球の脱植民地化、脱軍事基地化の最も有効な手段の一つ」(「同」第17号)とした。
 新川―新城論争には、「独立派」「越境・東アジア派」とも呼称できる、近年の沖縄における二つの思想の対立が現れているといえる。「独立派」には、国同士の争いへと発展した19・20世紀型の国民国家の矛盾をどう解くかが問いかけられ、「越境・東アジア派」へはかつて経験したことのない社会の実現性への疑問が投げられる。
 しかし、論争の元となっている新川氏と川満氏の思想は、究極的な目標と課題を共有しているといえる。
 新川氏は、前掲「うるまネシア」17号で、川満氏の琉球共和社会憲法が「地球規模における国家の揚棄」を目指す時の「指標」となり得るとした上で「『琉球独立』への取り組みは『独立』をもって完結させるのではなく、『指標』へ向う一つのステップとして位置づけ、『指標』とする新たなステップへすすむ構想力こそが問われている」と述べ、川満氏への批判を含みながら、その描く社会へとつながる可能性を示唆する。
 また、筆者のインタビュ― に新川氏は「独立後の新しい形は、これまでの国民国家の形を守ることで完結したら意味がない」と述べ「独立は簡単ではないが、復帰によって置かれている現状を打破する手段は他にない。今は日本国のくびきを断ち切ることだ」と答えた。
 沖縄が自立した後の形や、自立までの道筋、それらのビジョンを支える思想は多様にある。互いの考えを受け止めつつ批判し、考えを深め、実践していく。自立・独立論が高揚している今だからこそ必要な姿勢だろう。
 映像批判家の仲里効氏は「新川―新城論争には先端的な対立が現れているが、その両極さえも超える第三極、国民国家ではない独立を表明していくというもうひとつの視座があってもいい」と提起する。
(沖縄タイムス20140918)



【2014.07.29】「島ぐるみ、オール沖縄、建白書―沖縄・琉球論の試み―」を読む

 『うるまネシア』第18号(2014年06月23日発行)は、「島ぐるみ、オール沖縄、建白書 ―沖縄・琉球論の試み―」を「特集」として組み、10名の論者に様々な角度・視点からの論考を掲載している。これ自体、時宜に適ったものだと言えよう。もちろん「沖縄の指導者たち」への批判として「つまり、事大主義、強いもの、権威に寄りかかる行為である。同化主義がその典型だと思う。今回の「建白書」という形式にしたのも、物事の本質を考えない沖縄知識人の形式主義や事大主義からくるものだろう。古色蒼然とした「建白書」という響きに酔ったのだろう」という批判する論考(渡名喜守太「『建白書』という形式にみる沖縄指導者たちの心理と生理」)もある。
 「オール沖縄」や「アイデンティティ」或いは「島ぐるみ」……、それぞれがダイナミズムを持って語られる、すなわち民衆の胎動として動き始めていることは確かであり、日本-日本人への批判・排斥としての駆動力を生むことも、なかば「歴史の必然」でもあろう。しかし、「同化主義」の対になる言葉は「排外主義」ではあるまい。「けーし風」での新城郁夫の論考を私はそう読んだが、いかがなものか。

 「島ぐるみ会議」は主催者側が「千人は集めたい」と語っていたが、なんと倍する人々の結集を得たという。「植民地官僚」を担ぎ上げる同化買弁併合勢力との分水嶺を創り出すことこそが問われている。
 愚かしくも壊憲(改憲ではない、憲法破壊である)安倍政権は、ありとあらゆる国家権力(-暴力装置)を投入して、辺野古新基地建設を強行せんとしている現在、彼が「日本の最高指導者」(そして最高指揮監督者)であることの不幸を嘆いてばかりはいられない。

高良 勉「島ぐるみ運動へ」
内海=宮城恵美子「『島ぐるみ会議』から自己決定権の獲得へ」
島袋 純「沖縄『建白書』の実現を目指し未来を拓く島ぐるみ会議の結成について」
平良 識子「総意を後退させてはいけない」
   (『うるまネシア』第18号20140623「島ぐるみ、オール沖縄、建白書―沖縄・琉球論の試み―」)

沖縄タイムス2014年7月27日<島ぐるみ会議2千人結集「基地支配を拒否」>
琉球新報2014年7月27日<建白書の実現訴え 「島ぐるみ会議」大会に2千人>



【2014.07.21】 7.12シンポでの川満レジュメ採録

「いま、なぜ、琉球共和社会憲法か」


 川満 信一

[04年7月12日 とまりん地下研修所]

1,
 草案の前文で、「目本国への見切り」という言葉を使っています。これは誤解を招く言葉です。飽くまで国家体制への見切りであり、いっぱ一絡げに日本国民・本土人に見切りをつけるという意味ではありません。日本の先学者たちのおかげで、ロシア文学や世界の思想に接する窓口を開かれ、日本文学によって精神的栄養を吸収してきました。中にはヘロインや阿片のような毒もありましたが、毒物の体験もまた貴重な知恵の土壌だったと感謝しています。ですから「見切り」といっても、それは精神的領域、つまり知識や知恵に見切りをっけるということではありません。
 最近、若い世代からも「沖縄のアイデンティティ」という言葉をよく聞きます。関連して「沖縄の思想」とか「沖縄独立」という主張も聞きます。「日本に見切りをっけたのだから、当然川満も琉球独立論者だ」という安易な受け止め方で信頼されると、脇の下がくすぐったくなり、つい得意のアルカイックスマイルで誤魔化してしまいます。

2,
 私の信頼する高良勉さんをはじめ、「うるまネシア」の執筆陣の皆さんは、国連における先住民族規定を鬼に金棒として、「琉球の自治・自立権[自決権?]・独立」を主張しています。戦術的にはさまざまな試みがなされてよいでしょう。ただし私は、国連の「先住民族」などという不遜な格付けで、自分の思想的足場を固めようなどとは思わない。いま解体する必要を感じているのは、阿片やヘロインを宗敦的正義の包装紙で包み、先住民と規定する人々を大地の片隅に追いやった暴力思想の根底です。暴力思想の氷山として、かろうじて均衡を保っているのが国連であり、カントの「永遠の平和」イメージさへも反古にしてきたその組織の在り方が問われなければならないからです。第一次、第二次の世界大戦をくぐっても、人類が当然自覚すべきはずの至高の倫理を棚上げにして、東京裁判のような戦勝国の一方的都合で、茶番劇の幕を引くような国連の在り方は、正気で考えれば理屈が立ちません。国連を牛耳つて居る大国間の軍事競争は、東西冷戦という人類の知恵を愚弄するような歴史過程しか辿れなかった、そいう国連に望みを託すような思想はひ弱過ぎないか。

3,
 高良勉さんの草案で、新しい要素は「ネットワーク」という組織概念の導入にあると見ます。量子力学や新興宗教などで使われる「波動」という概念へ連結するキーだからです。オカルト的に聞こえるかも知れませんが、仏教における如来や空について考えていると、私たちが日常使っているテレビや電話などの電気機器が持つ機能性と似ているような感覚になります。電波と磁波、音波、宇宙的次元の波動によって存在の躍動性が保障される。問題は存在するもののアンテナ、あるいはチャンネル如何によって生命の波動の仕方が変化してくる。人類には知性、知恵、怒り、暴力あらゆる波動帯にチャンネルを合わせ、躍動のエネルギーを受信する可能性が保障されてる。すると戦争を考えるものには、戦争に発散した古代からの蓄積エネルギーが、愛にアンテナを合わせた者には、人類の母たちが発散した無償の愛のエネルギーが注がれてくる。誰がどの波動帯にチャンネルを合わせているか、そこを見分けるのが現実の組織を考えるときの基準であろう。つまり波動を基準に考えると、地域とか人種とか民族が問題ではなく、波動の同調性こそが大切だということになる。
 「平和はいかにすれば可能か」、その波動帯に蓄積されたエネルギーは膨大であり、チャンネル次第で地球いたるところに躍動するだろう。すると知恵と知性のネットワークは、地域にこだわる必要はないし、宇宙規模で発想されてよい。ネットワークを悪魔の手に渡すか、知恵の領域で活用するか、共和の概念の試されどころでしょう。

4,
 ネットワーク(波動帯)から考えると、「琉球独立」という発想には安易さを感じる。明治の頑固党と開化党まで遡って、沖縄の保守・革新は常に利権対立してきている。ある時代に「島ぐるみ」という錯覚をもたらす現象も起きるけど、コザ動乱でさへ、見えない内部の利権対立は激しかった。島共同体としての結集に、濃密なネットワークがあったことはたしかだが、慣習法の本質には弱者切り捨て、排除の論理もしっかり組み込まれていたことを見抜かなければならないでしょう。波動帯の混在や不純さを思い合わせると、「独立」よりも「非武装地帯」として、周辺大国の了解を得た条約を取り付けるのが現実的ではないか。そのためには「アジア共同体」の構想を併行させるのが早道、という判断をしているけどやはりボケの症状だろうか。体制に対する「反対という賛成者」と「守れという反対者」、そのいずれも資本主義に基づく私有の基礎波動帯では同調している。したがって体制の暴力波動帯から抜け出すのは難しい。戦争には絶対反対だが、遺族年金を支給している政権は支持する。天皇制は反対だが、勲章は名誉だから貰う。「琉球独立」の種を播こうとする土壌は、世界の知恵の波動と同調しているだろうか。やはり閉じる、守る思想ではなく、開く、開くことで波動帯上の同調者とネットを広げていく。済州島から琉球諸島、南沙諸島まで越境憲法を構想する。おそらく高良勉さんも仲宗根勇さんのF案も同床異夢の世界であろう、と思っている。

5,
 必要なことは、そろばんをお払いするように、既成の国家観や世界観をお払いにして、想念の空き地を創り出すこと。空き地に基礎石や柱が幻影として残っていても、一旦はまったくの新地にして、空き地をめぐる想念の自由性をまず確保すること。現在の国家体制の動向に矛盾を感じている以上、体制の解体は可能かが常に問われなければならないし、どういう方法や手段で解体するかはこの時代を生きている私たちの思想課題だと思います。
 世代的責任で考えれば、解体のイメージまでが私たちの役割であり、さら地を前にしてどんな活用をするかを考えるのが次世代であり、さらに次世代はイメージを現実化する、その手順を考えながらやるべきことを気楽に進めていく、どうせひと一人の人生、沖縄をマンガタミして桃源郷へ運ぶわけにもいかないでしょう。

6,
 今福龍太草案は、文化人類学者の視野の広がりをもっている。大国間の利権争いのはざまで、小国や周辺群島の社会は、常に風浪のさなかに翻弄されてきた。国民国家の土台を残したままのEU連合は、それ自体が巨大な利権国家として機能している。対ロシア関係でみるように、利権のはざまに位置する小国・民族の分離、独立を求める紛争は、「身の丈に合った社会」を希求する人々が、必然的に創り出す過度的状況である。さらに大陸周辺の群島は、世界の至る所で意志に反する統治権からの解放を求めている。世界の群島へ理念のネットワークを構成しようという今福草案のイメージの広がりは、開きの思想であり、国籍を超えて想いを繋ぐ憲法思想のエッセンスだと思う。いつもながら締まりのない話しでごめんなさい。
(04年7月7日 川満)




【2014.07.13】 丸川哲史の7.12シンポ呼びかけを読む

 7月12日、風游トップページでも紹介した<シンポ「いま、なぜ、琉球共和社会憲法か」>の発題者でもある丸川哲史のシンポ呼びかけが、沖縄タイムス20140707に掲載されていた。もはや誰も「居酒屋談義」などと揶揄する者もなく(否、早世した真久田正が、佐藤優より十年以上も早く、「独立運動は居酒屋から始まる!」と豪語していたが)、「思想資源としての反復帰論」(これまた、若くして亡くなった屋嘉比収の2008年シンポの基調報告)から確実に、辺野古・高江の闘いと連動して、自立解放の政治・思想潮流として生まれつつある。



いま、なぜ、琉球共和社会憲法か

丸川 哲史

国の枠外した平和を提起

 川満信一氏により1981年に書かれた「琉球共和社会憲法私案」(以下「私案」)が、今再び注目されている。これは実は興味深い現象である。なぜならば、今日の安倍内閣による「(解釈)改憲」及びそれに打ち続くであろう諸々の動向と全く無関係ではないからだ。「改憲」とは紛れもなく、日本の戦後の理念を殺すことに他ならないが、「改憲」に反対する勢力の対抗運動は、現時点ではいや応なく「護憲」を言うしかない。つまり、ある意味「私案」はこの「護憲」に対してある種のオルタナティブを提起したことになる。
 かつて60年代における沖縄の復帰運動の中心的エートス(倫理観)は、この日本の戦後憲法への憧れであったと言われている。ただ周知の通り、米軍基地は去らず、戦後憲法の理念は沖縄において実現されなかった。この歴史的脈絡の中で「私案」が書かれたのであるが、一方この今において、戦後憲法の方はまさに危機にひんしているのである。
 総じて、この「私案」の目指す方向として、精神的な意味での国家からの「自立」をうたっているわけであり、情緒的な日本への反発としてあるわけではないものと読める。だから、おそらく、日本の戦後憲法の理念そのものについて否定しているのでもないのだ。すると、並び立ってお互いに競い合う関係となっているようにも見える。ここにおいて「比較」が成立するのであり、これも実に興味深い。
 またさらに、既に「私案」に書かれている最も大きな特徴として、そこでは国籍や人種といった枠を外したところでのメンバーシップが求められている。つまり大和の人間だけでなく、アジア諸国、さらに世界中の人間がこの理念に賛同し、メンバーシップを共有できる仕組みとなっているのだ。これは一つの発明であると同時に、また他の発明を誘発するだろう。
 今回刊行される「琉球共和社会憲法の潜勢力」(未来社)の執筆の1人、高良勉氏が述べているように、無数の他の地域憲法が書かれる可能性が出て来る。なぜそうなる予想が出て来るかというと、この「私案」の最大の意義として、歴史に裏打ちされた理念=理想の提示があるからだ。背景にあるものは、島で起きた残酷な地上戦の記憶であり、そしてその後に続く軍事基地の固定化の現実である。だからこれは川満氏個人のものでありつつも、やはり集合的な記憶と闘いの積み重ねによって生み出されたものと言える。
 そこで思い出されるのは、ルソーが「社会契約論」の中で発想した「一般意志」と呼んだものである。しかしその「一般意志」とは、単なる個々の意思の総和というものではない。それは、新たな社会的結合(社会契約)によって旧来から引き続く状態の克服を目指す公的な力である。すなわち、戦後憲法がますます空洞化の危機にひんしていることとのコントラストにおいて、「私案」の理念の力が人々を揺り動かし始めるのである。
 繰り返しになるが、この「私案」は、国籍や人種を問わないものである。いわば、それぞれの国家の国民であることを担保しつつも、同時にこの「私案」と契約することが可能な仕組みとなっている。これは、実に平和の出発点となるものである。カントは「永遠平和のために」の中で、二か国間条約(契約)では原理的にその約束がほごにされる可能性が高いのであり、戦争状態を経た後の複数の国家連合においてこそ永遠の平和が保てる、と述べていた(実際にこれは、国際連合となって半ば実現している)。
 この「私案」が提起するものは、ここでカントが念頭においたところの「連合」を可能にする条件である。よりよき「連合」の基礎となるためにも、あえて「私案」は「国家」を名乗らないものとなっている。「私案」への賛同やアイデンティファイが、東アジア(さらにその外)の平和の「連合」の基礎となるもの、と私は考えている。「私案」は直ちに複数の外国語に翻訳されるべきだろう。
(明治大学教授)
…………
シンポ「いま、なぜ、琉球共和社会憲法か」は、12日午後2~6時、那覇市のとまりん地下研修場(泊港ビル正面口地下)で開催。資料代500円。/第1部は大田昌秀、仲宗根勇、長元朝浩、三木健、第2部は、大田静男、高良勉、山城博治、丸川哲史、川満信一の各氏が登壇。コーディネーターは仲里効氏。/問い合わせは電話090(4470)7156(仲里氏)。
(沖縄タイムス20140707)

【2014.06.15】 川田洋「新左翼運動と沖縄闘争――全軍労第三波の“流産”と4・28闘争」を読む
 すでに風游サイトで川田洋「国境・国家・第三次琉球処分」(『情況』1971年4月号所収)をアップしたが、ほぼ一年前の『情況』(1970年6月号)に、川田洋が「新左翼運動と沖縄闘争――全軍労第三波の“流産”と4・28闘争」を執筆していた。
 69年の敗北(頂点へ登りつめた!)後の苦闘の論考と言ってよいだろう。この二本の論考を読めば、69年日米共同声明=沖縄の「施政権返還」をめぐる当時の、日本からする沖縄・日本の闘いの有り様が生々しく浮かんでくる。70年代初頭における最良の論考、と言えば褒め過ぎか。

……沖縄にとって「復帰」は、軍政権構造、および基地による生活破壊からの解放の政治表現として展望されて来た。現地の闘争は“復帰”の旗幟下に、何よりも民主的諸権利を獲得する闘争として展開されて来た。平和憲法こそ、沖縄に与えられなかった「平和と民主主義」のシンボルであり、“復帰”はその獲得である筈だった。その意識構造は、米軍政と巨大な基地構造という重い物質関係の中に、それえの抵抗・それからの解放の要求であったのであり、日本人意識とか愛国的意識とかに支えられたものではなかったし、従ってこれを「民族主義」としてイデオロギーの水準で問題にしてみても、現地の人民の闘争が変わるわけのものでもなかったのである。
……政治性というのは、「奪還」か「解放」かというようなレベルで言っているのではない。「復帰」の旗の下に蓄積された闘争史の中で、沖縄人民がつくりあげて来た沖縄固有の戦闘性を、灰の中のダイヤモンドとしてとり出し、みがき、帝国主義的併合の権力政治と、政治のレベルで闘いうる政治的自己表出の論理こそが今形成されるべきものなのではないか、と考えるのである(注・16)。沖縄プロレタリアートの戦闘性は、「沖縄」としての独自性を媒介にしなければ成立しない。


 「国境・国家・第三次琉球処分」では、「はじめに」で次のように書き始めている。
……私たちは、一貫して問題を、次のように立ててきた―<沖縄>は<本土>を拒否することによって、かつての日支両属・戦後の日米両属の歴史から飛翔しうるのであり、〈本土〉は、まさにそのような〈沖縄〉との関係においてのみ、<本土>としての規定性・日本という規定性を自ら破砕して新しい歴史過程を展望しうるのだ、と。この問題提起が、どのような抽象性を身にまといつけていようと、歴史過程の現実は、ますますこの提起の意味を客観化しつつある。
 だが、おろかしい者たちはたえず私たちに、次のような「批判」を投げつけて来た。「本土復帰」に反対なのか、それなら「独立」論ではないか、はっきり言え、と。この問題の立て方が、愚かしいのは、「本土復帰」を肯定しようが、「独立」を主張しようが(もっとも、公然たる独立論は、琉球国民党の流れを汲むごく少数の沖縄ナショナリストと、ML派の「臨時革命政府」論のみだが)、ひとしく「沖縄問題」のブルジョア的解決があると考えているところにある。



【2014.06.08】 沖縄タイムス「4・28座談会 沖縄の自己決定権」を読む
 三世代の論客に、司会が与儀武秀、三回連載で、論者の発言趣旨が小見出しとして掲げられている。若い世代を意識してか、噛んで含めるように語る仲里さんに対して、島袋さんは持論の展開だけでなく、若い世代の「自治・自立・独立」に対する考察・認識の危うさを“「民族」で一体感を持つのではなく、人権侵害の痛みの共有を基盤に、普遍的な権利に基づいて人々を結び合わせながら社会を再構成した方がいいと思う。「民族」ではそれができないと思う”と、突く。
 それにしても「復帰運動(そして「反復帰論」も)」の「未」総括が尾を引いていると思われてならない。国場幸太郎なら、どう考えるか。


【2014.05.22】 国場幸太郎「沖縄の人びとの歩み」を読む

 大著『戦後初期沖縄解放運動資料集』(全3巻)の別巻とも言える形で刊行(森宣雄・鳥山淳編著『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか-沖縄が目指す〈あま世ユー〉への道』不二出版2013)されたが、その半分近くを占めているのが「国場幸太郎自伝」とも言える“国場幸太郎「沖縄の人びとの歩み」”である。
 末尾に“「島ぐるみの土地闘争」は沖縄を外部の世界から遮断していたアメリカの軍事占領は壁そのものが取り壊され、沖縄の施政権が日本に返還されることになる。/「島ぐるみの土地闘争」はその起点であったと言える。”と記されている。残念ながら彼の回想録は、ここで終わる。

 このサイトでも、国場幸太郎については取りあげ(国場幸太郎関連文書)ているが、彼については多くを語る必要はない。ただただ、この卓越した若き共産主義革命家の足跡から学びたいと思うだけである。
“具志区民の土地取り上げ反対闘争はよく言われるような「住民の自然発生的な抵抗」ではなく、人民党の組織的活動に支えられていたのである。住民の抵抗を共産主義者の扇動によるものとして弾圧する口実をアメリカ軍に与えないために、人民党はできるだけ表立たないように心がけ、民衆に密着して民衆の自発性を高め、発揮させていたのである。”

※沖縄を離れて後、書き上げた二本の論考も近日中にアップしたい(笑)。
「沖縄とアメリカ帝国主義――経済政策を中心に」(『経済評論』1962年1月)
「沖縄の日本復帰運動と革新政党 ──民族意識形成の問題に寄せて──」(『思想』1962年2月)

 本編の末尾に付されている森宣雄の編集後記(やや感情過多の彼の文体は苦手だが)の一部を紹介したい。
 “那覇の小さな一家族が世界大恐慌と世界大戦の到来によって運命を翻弄されながら、家族愛と思いやりによってたがいに肩を寄せあうようにして家庭をまもり、貧しい人びとのやさしい心づかいに包まれて育った幸太郎少年が、正義感と誠実さによってさまざまな人との出会いを重ね、戦中戦後の日本・沖縄の激動期を乗りこえ、ついには非道な軍事占領にたいする全沖縄の島ぐるみ抵抗運動を人しれず築きあげてゆく”

 “共産党からの統制にも抵抗しつつ、沖縄での自立的な幅広い統一戦線を築き、日米安保体制を超える沖縄の根底的な解放を目指していた国場”と総括される、森宣雄「沖縄戦後史の分岐点が残したある事件 :『国場事件』について」を紹介しておく。


【2014.04.25】 新川明「新城郁夫氏の『疑問』に答える」を読む。

 やっと、『うるまネシア』№16(2013.08.15)と№17(2014.01.07)を入手。改めて№16を読むと、新川明(「琉球独立」論をめぐる雑感)は“今日私たちが「琉球」というとき、沖縄・宮古・八重山・奄美の各諸島を包括する呼称として使っているに過ぎない。……琉球文化圏としての島嶼群の総称であって、その言葉が旧王国を連想させることはない”と述べる数頁前には、松島泰勝(琉球の主権回復における我々琉球人の役割)は“「琉球ルーチュー」という言葉はかつて独立国家であったという記憶を喚起する”という書き出しで、“元々、琉球は主権国家であり、その琉球の主権が奪い取られた”と続けている。
 さて『うるまネシア№17』所収の「続『琉球独立論』をめぐる雑感―新城郁夫氏の「疑問」に答える―」だが、やはり、新川は大いなる「転回」を遂げたようだ。【2013.09.21】で紹介した沖縄タイムス2013年7月1日の「刊行30年沖縄大百科事典を語る」での新川の発言「(「琉球民族独立総合研究学会」)の考えは、終戦直後や復帰前の独立論のように、ヤマトに対する被差別の感情から出てくるのではない。彼らには復帰世代に見られる日本に対する祖国意識がなく、『復帰思想』に毒されていない」というおよそ的外れの感想に新川が辿りついたのも、かの「居酒屋独立論」論争が転機か、と思料される。しかし、“現実に巌として存立する国家の壁は、いわゆる「生活圏」の議論などで超えられるものではない。”などという発言がよもや新川明から発せられるとは思わなかった。ましてや、“マザーテレサは「カルカッタはここだけではない。日本にもカルカッタはあるはずだからあなたは日本人として、“日本のカルカッタ”で貧しい人のために働きなさい」と諭して帰したというエピソードがある。/私は、日本人と琉球人の「連帯」について考える時、きまってこのマザーテレサのエピソードを思い出す”などと付け加えるとは!
 川満信一は決してナショナリズムには与していない。そして徳田匡は“新川と同じく「反復帰」論者と知られる岡本恵徳は、「沖縄人」を「反復帰」「反国家」論のための中心に据えることはなかった”と、注意深く述べている(「『反復帰・反国家』の思想を読みなおす」『沖縄の問いを立てる―6』社会評論社2008年11月30日)。それに対して、新川は、「反復帰」から手放しの「ナショナリズム」へ傾斜しているとしか思えない。若き研究者たちが新川を指して「アナキズムの影響」を語っている論考を目にするが、新川がかつて<「反復帰」論は「独立論とどう違うのか」>あるいは<独立ではなく、反復帰とは一体何か>と責められたとき、一貫して「国家」や「政治」を忌避している(ような)言説を展開していることに幻惑されているように思われる。
 新城郁夫は【2009.04.07】で紹介した「政治的な主体を創るために」(図書新聞090321号)でも、“新川明さんや岡本恵徳さん、川満信一さんをはじめ、何人もの反復帰・反国家論者の方達が拒否にこだわったのは、拒否がすぐれて政治的な実践だからです”とも語っているのである。

 同号には、「日本人は基地誘致運動をしなさい」という一文を目にした。もちろん、これらの主張はもう十数年前からくすぶっていた言説である。かつて高里鈴代さんが「基地・軍隊を無くすんです!沖縄にもどこにも基地は要りません!」と切々と訴えていたのをお聞きしたことがあったが、多くのウチナンーチュの人は、こうした言説にまともに取り合う必要を認めないのだろうか、と不思議であった。
 折しも「JAPANESE ONLY」が鋭く問われている。



続「琉球独立論」をめぐる雑感
―新城郁夫氏の「疑問」に答える―

新川 明


 はじめに
 『うるまネシア』前号(2013年8月15日発行、第16号)に寄稿した拙文で、新城郁夫琉球大学教授と屋良健一郎名桜大学講師が「琉球民族独立総合研究学会」(以下、「琉球独立学会」と略記)について述べた所感を批判的に取り上げて論評したことに対して、新城氏が季刊『けーし風』第80号(2013年10月10日発行)で「新川明氏への疑問」と題して反論されている。そこで、ひとつ釈明をした上で新城氏に答えることにしたい。
 前記拙文は新城氏が東アジア批判的雑誌会議における全発言を聞くことなく、新聞報道に基づいて拙論を書きながら、屋良氏が新聞報道に基づいて書かれたことを「取材不足」などの理由で批判し、他にも言葉が過ぎたところがあったことを自省して、当該部分の発言は撤回することにする。また、新城氏からは拙文発表後、前記会議で発表された報告の全文を収めた資料集が送られてきて氏の発言の全体を見ることができた。
 「独立論から独立し、共生社会を構想すること―川満信一『琉球共和社会憲法試案』考」と題するその論考で、新聞で伝えられた発言の内容を詳細に知ることができ、氏の立論に対する「違和感」を再確認することに役立ったが、本稿では『けーし風』掲載の「疑問」への応答にとどめて前記会議における発言全体の検討は他の機会に譲ることにする。

 投げかけられた問い
 さて、新城氏は、まず私が雑誌『情況』(2013年1、2月合併号)に「尖閣は沖縄に帰属する」と題して書いた拙論が「国家の論理に絡め取られていないか」と指摘する。これは同じ『情況』誌で川満信一氏が述べる論理と共通する指摘で、川満氏はつぎのように書いていた。
 「新川明氏も同趣旨{尖閣は沖縄にこそ主権があるという}で沖縄に無償返還すべしと主張」していることは「究極的には領域圏というナショナリズムに巻き込まれる危険性をはらんでいる。思想の質という観点からすると、沖縄県=日本国のナショナリズムの範疇に収まってしまう」。
 この論理は、新城氏に共通するもので、いかにも正当に見えるが、拙論に対する反論または批判にはなっていない。拙論の主旨を捨象して展開する一般論にすぎないからである。
 拙論は、平和裡に守られてきた尖閣問題「棚上げ論」が日本国政府の国有化によって日中両国間に軍事的緊張を生じさせ、日々エスカレートしている状況下で、これを緩和し、もとの「棚上げ」に戻す方策として、まず尖閣の所有権を国から一地方自治体である沖縄県に移譲することで、同諸島を「固有の領土」とする両国の主張に楔(くさび)を打ち込むことを狙いとしていた。また、日本国政府の「尖閣固有の領土論」は、琉球・沖縄も自国の「固有の領土」とする前提に立っている主張であるゆえに、そのような歴史を歪曲する日本国政府の身勝手な国家の論理を拒否する主張が拙論の主旨であった。
 現実に巌として存立する国家の壁は、いわゆる「生活圏」の議論などで超えられるものではない。同諸島と周辺海域に生起する軍事的危機の回避と問題解決にあたっては、琉球・沖縄に住む私たちは、自らの生存を賭けた当事者として介入すべき喫緊の問題であり、当事者性を確保する手段として尖閣の帰属を主張するわけであって、それを単なる領土ナショナリズムの発現としてなされる批判はあたらない。
 むしろ、拙論のその主旨を一般論で退ける両者の論理こそが、日中両国の「国家の論理」=領土ナショナリズムを承認し、軍事的危機的状況下で生存の危険も予知される現下の状況を放置することに何ら痛痒を感じない傍観者の無責任な言説といえる。
 新城氏の「疑問」の第2点は、私が小論(『沖縄の自立と日本―「復帰」40年の問いかけ』2013年、岩波書店所収)で沖縄人の「祖国復帰」運動における「祖国」意識を検証する文脈で、沖縄人が日本国を「祖国」と観念する矛盾を指摘、沖縄人が「祖国復帰」を主張するならば、その本来の語義からみて「日本国」への「復帰」ではなく、「琉球国」への「復帰」であり、「祖国琉球国」の主権を取り戻すことを意味する、と述べたことを、「奇妙なファンタジー」といい、その「設定自体に無理がある」と判定していることである。論拠を示さず下すその判定はフェアではないし、拙論に対する批判になり得ていないところである。
 第3の「疑問」とされたのは、前記著作のなかの座談会で、日米両国が沖縄をモノ扱いにしているという話題を受けて、「だから問題は、日本がアメリカに追随してやっぱりモノ扱いをする、というところにある。だからといってアメリカがそう思うのは当然だとは言いませんが、一応彼らは血を流して取ったところだから、一定程度分かるわけですよ」と言った文言であった。その文言を前後の文脈と関係なく切り取って、「アメリカ軍事覇権への批判的知性の欠落」と論断する手法も感心できない。
 その文言は、日本とアメリカの沖縄に対する対し方の関係を沖縄戦という流血の歴史に立って比較し、両者の立場の違いを大田昌秀氏に教えを乞うたもので、「アメリカ軍事覇権」を免罪する趣旨でないことは前後の話の流れを見れば判読できるはずである。それは私の質問を受けて大田氏がつぎのように答えていることでも証明されよう。

 「……その点はまさに言われるとおりです。(略)米軍はいまだに、新川さんが言われるように、沖縄を文字通り一種の『戦利品』としてみているんですね。ですから、そうしたアメリカ側の視点や、日本本土の沖縄認識など双方の異同などについてもきちっと踏まえて、自立なり独立なりを考えていく必要がありますね。」

 大田氏はこのように述べたあと、「ただ日本政府の施策だけを問題にするのでなく、アメリカ政府や軍部にも発想を変えてもらわないと、沖縄問題はうまく解決できないのではないでしょうか。」とこの話題を締めくくっている。米寿を迎えてなお視界狭窄に陥ることのない大局観に学びたいものである。
 新城氏の「疑問」の第4は、いよいよ「独立論」である。そして、「ナショナリズムは、他のナショナリズムへの対抗的依存において自らを構成する点で(略)民族的主体では説明のつかない他律性を有している。」「ナショナリズムによってこそ民族と領土が多く事後的に創られる。」「そこで生み出された民族は、あたかも大昔から自然に存在していたかのように幻想されるが、その幻想を実体化するのがナショナリズムの魔術である。」「ナショナリズムは自らが外部からの力によって形づくられたことを隠して自らを自然化し純粋化するとき、排外主義的傾向を帯びる」等々、ナショナリズム論や民族論をめぐり一般的に語られている議論を展開するが、今や国家、民族、エスニシティ、ナショナリズムに関する著作物は翻訳書を含めて世に溢れている。そして、キーワードになる「ネーション」という語の概念の日本語訳も「国民、民族、種族、人民」等々多義にわたり、使い方によって如何ようにも料理できる。また、「ナショナリズム」も同様で、「民族主義、国家主義、国民主義、国粋主義」と多様な概念をもって使い分けられる。つまり、ナショナリズム論や民族論の概念は、時代によっても、論者によっても多種多様である。
 また、いわゆる「マイノリティ・ナショナリズム」の研究も、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、ブルターニュ、コルシカ、バスク、ケベック等、欧米の大国ナショナリズムに対抗する欧米のマイノリティの運動をテーマにした欧米の研究者の著作が多い。
 マイノリティ・ナショナリズムに限らず、ナショナリズムが内包する暴力性や排外主義についての考察もナショナリズム論の初歩的な問題として承知しているが、沖縄における反基地闘争にみる非暴力抵抗の問題を既成のナショナリズム論や民族論の枠内ではなく、どのように位置づけ、定義すればよいのか、未分明のところは多い。
 もとより新城氏には、ネグリのポストコロニアル状況にかかわる認識を検討しながら、辺野古の米軍基地建設に関わる軍事的暴力に対する拒否を通して、『再発見』される「マルチチュード的抵抗の連携的創造性」や同じく「特異性」の創出と「共」の創造等を考察した論文「<帝国>の岬―再領土化される帝国主義的突端=縁から」(2008年『現代思想』5月号)があり、ここを起点にナショナリズム論や民族論などへのさらなる探究が期待されるところではある。
 こうしたなかで、マイノリティ・ナショナリズムの噴出としての琉球独立論の研究は、「琉球独立学会」の設立によって初めて着手され、その緒に就いたところである。従って後述するように、民族概念の曖昧さも含めて検討すべき課題を抱えているのは当然のことであって、私はこれを封殺するのではなくて、足りないところは補い、育て上げるために自分のできる範囲で手助けをしたい、と思っている。
 そこで再び新城氏の「疑問」への応答に戻るが、私が川満信一氏の「琉球共和社会憲法試案」が描く国家を超えた“想像の共同体”としての共和社会を究極の指標としつつも、現実に私たちの生存を規定している被植民地状況に抗する人間解放の闘いを考えるとき、「琉球独立」を1つのステップとした拙論に対して、新城氏は「地球規模の国家の揚棄という目的にむけて、琉球民族独立がなぜ今必要かについて、新川氏は根拠を何も述べてない」と批判する。

 「主権」を確立する当面の形
 私は国民国家に繋ぎ留められて植民地支配下に苦しむマイノリティが、「自己決定権」の確保を目指して闘い、自らの「主権」を確立する当面の形は、その「民族」の「独立」だと考えており、日本国という国民国家の中の琉球・沖縄の現状がまさに植民地支配下で苦しむマイノリティの姿そのものだと認識している。現下のこの状況において、「自己決定権」の確保を求めて闘う運動の、もっとも尖鋭な政治的主張が「独立」論である、ということは折に触れて述べてきたところであった。
 普天間基地の辺野古移設強行を画策する日米両覇権大国の強圧が日を追って強まり、琉球・沖縄の意思など一顧だにされない状況が示す現実を前に、「琉球独立論」という形で日本国の大国ナショナリズムに抗う琉球・沖縄のマイノリティ・ナショナリズムを、ナショナリズム一般論をもって排撃する新城氏の思考に私は同意することができない。
 姜尚中と宮台真司のトーク・セッションを収めた『挑発する知―愛国とナショナリズムを問う』(ちくま文庫)の中で宮台が、ネイション・ステイトを「どうハンドリングするか」という問題を提起、「たとえばイラク特措法が問題になっているとき、『アンチ・ナショナリズム!』などというタワゴトが何の役に立ちますか。この場合はステイトを渾身の力でハンドリングせんとする動機を、どう調達するのかこそが問われているのです。」と述べる場面がある。
 ステイトをハンドリングする、という発想は、ステイトのマジョリティの執り得る手段で、マイノリティはステイトをハンドリングすることはできない。それだけに自らの生存権を賭けてステイトの強権に立ち向かい、闘うしかないわけで、その闘いの場においては、宮台が言う「アンチ・ナショナリズム!などというタワゴトが何の役に立つか」という言葉は痛切に身に沁みるにちがいない、と私は思う。
 つづいて新城氏は、「ナショナリズムは国際主義(インターナショナリズム)と不可分」という私が引用したB・アンダーソンの言葉を引用文の中から取り出して、そういうことは「無いと考える」としたうえでナショナリズムの暴力性について述べている。B・アンダーソンのその言葉を全体の文脈のなかでみると、ホセ・リサールらフィリピンのナショナリストたちが世界周遊のなかで反植民地主義の思想を有する自由主義者や左派活動家(特にアナーキスト)と親交を深めたという具体的な歴史的事実に立って、フィリピンの独立運動を担ったナショナリストたちは、自由主義者やアナーキストとの交流のなかで思想的な影響を受けて自らの反植民地主義の思想形成をした、というように解すべきだと私は考える。つまり、フィリピンのナショナリストたちの反植民地主義の思想形成は、国際主義(インターナショナリズム)と不可分の関係のなかで生成されたものである、と理解するように求めた言葉として受け取るべきであるということである。それは、B・アンダーソンの当該著作のタイトル『3つの旗のもとに―アナーキズムと反植民地主義的想像力』という文言からも推察できるところであろう。
 ところで、B・アンダーソンは、この著作の刊行と前後して(同書の原著は2005年に刊行)来日、早稲田大学で講義しており、その講義録『ベネディク・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(2007年、光文社新書)が梅森直之編著で公刊されている。
 そのなかでアンダーソンは前記著書で論述した19世紀末の「初期グローバル化」の時代空間における世界中のナショナリストの「重力場」がアナーキズムであったことを再説したうえで、アナーキストたちがナショナリストたちに「きわめて重要な問題を投げかけて」いたことを明らかにしている。
 それは、「独立することはよいとしても、その後、どのような国を、もしくはどのような共同体を実現するのかという問い」であった。そしてアンダーソン自身もナショナリストを名乗る人に対する言葉として「あなたはいったい、どのようなネーションを望んでいるのか」と問いかけるのである。
 つまり「独立」を目的化し、その達成をもって完結させるのではなく、どのような国=共同体にすべきかを不断に問い直していくことの大切さを問うているのである。「ナショナリズム」と「独立」問題を考える時、肝に銘じておくべきことであろう。

 排外主義と「民族」概念
 つづく新城氏の「疑問」は、「琉球独立学会」が会員を「琉球の島々にルーツを持つ琉球民族」と限定していることを「排外主義の公言」として厳しく糾弾、私が設立委員・友知政樹氏らの説明を聞いて「納得」したことは、「何に『納得』したのか見当もつかない」と指摘している点である。私もその文言が持つ排他性には違和感を持つが、その規定の意味は、「琉球の地位や将来を決めることができるのは琉球民族のみであり、琉球民族があえて自らを難儀をし、それを乗り越えていくことが、自らを解放するプロセスに不可欠である」という友知氏らの説明を受けて「納得」したのであった。
 「納得」した理由の第一は、この規定は主として日本人(非琉球人)を想定したものと考えられ、日琉それぞれに属する人の役割を示したものである、と友知氏の説明を受け取ったからである。
 インド、ベンガル地方のカルカッタのスラムで貧しい人たちのために尽力したマザーテレサの物語を知らぬ人はいないほどだが、ある時ひとりの日本人女性がカルカッタを訪れ、マザーテレサのもとで働きたいと申し入れたのに対して、マザーテレサは「カルカッタはここだけではない。日本にもカルカッタはあるはずだからあなたは日本人として、“日本のカルカッタ”で貧しい人のために働きなさい」と諭して帰したというエピソードがある。
 私は、日本人と琉球人の「連帯」について考える時、きまってこのマザーテレサのエピソードを思い出す。このエピソードが教えるのは、琉球人は琉球の地で自らの解放のために汗を流す。日本人はたとえば新城氏も指摘する「安倍極右政権」の暴走を阻止して日本国を健全な姿につくり変えるために汗を流す。それこそが真の両者の「連帯」である、と私は考えており、友知氏の説明は、そのような双方の役割を明示したものと理解したのである。
 「納得」した第2の理由は、「琉球にルーツ」を持つ「琉球民族」に限定した規定の文言は、さきに述べた双方の役割分担を示す修辞ではないか、と考えたからである。
 なぜならば、その文言の排外主義もさることながら、「民族のルーツ」とか「琉球民族」をどのように判定し、線引きするのか、という極めて初歩的な問題にただちに逢着するにもかかわらず、その文言を採用したのは他に意図するところがあったに相違ない、と考えざるを得なかったからである。
 いわゆる「民族」概念が幻想であり、虚構にすぎないことは、たとえば『民族幻想論』(スチュアート・ヘンリ著、2002年、解放出版社)、『幻想としての人種/民族/国民』(ましこ・ひでのり著、2008年、三元社)、『増補 民族という虚構』(小坂井敏晶著、2011年、筑摩書房)などのいずれかでも一読すれば判然とするものである。そのような「民族」概念の虚構性を設立委員の中の社会学専攻の研究者が知らぬわけはないにも拘らずその文言を使ったことに、何らかの意図を感じて「納得」したのである。しかしながら、排外主義を示すだけでなく、概念も曖昧な規定の文言の表記は、再考すべきである、と私は考える。(注)
 ところで新城氏の「疑問」の最後は、7項目にわたる問題の提示であった。その中の、⑦「琉球民族がなんであるかの規定が全く無い」については、すでに述べた「民族」の概念をめぐる私の問題意識と新城氏のそれが少しだけ重なり合ったように思える。そして『うるまネシア』前号で触れた屋良氏がかつての琉球王国が中国や日本の渡来者を活用したことに触れながら、「民族のルーツ」問題にまで踏み込まなかったのは惜しまれる。同氏が「民族」論にも思考の触手を伸ばして「琉球独立学会」をめぐる議論に参加されることを期待したい。

 おわりに
 ともあれ新城氏が提示した残りの6項目を現時点で問うのは、余りにも性急な要求である、と私は考える。提示された問題を含めて、独立に関わる問題群を研究するために同学会は設立されたわけで、提示された問題への解答がいずれなされるであろうことを期待して待つしかないだろう。
 私は出てくる解答について、さきの「民族のルーツ」問題のように異論があればその都度私見を述べることが私のささやかな役割だと考えている。

 【注】
 拙論を脱稿したあとで「琉球独立学会」設立委員でもある桃原一彦沖縄国際大学准教授が「琉球独立論」における「民族」概念を定義する次の文章を発表した(「沖縄タイムス」2013年11月29日「思潮2013」)

 今日「琉球独立」論において提示される「民族」概念は、ひとまず民族的なルーツ(roots=起源、出自)を出発点としている。しかし、それは〈血〉に序列関係を与え、政治的に宣揚する血統主義や民族主義運動ではなく、明確な地理的範域と定住を設定した土着性でもない。今日の独立論における「民族」概念とは、琉球、沖縄をめぐる政治的な立ち位置や自己言及的な問いを言説化し、議論の俎上に載せるための政治的なルーツ(routes=経路)を開くためのものなのである。よって、それは、既成の政治的な秩序から離脱した別の未来を創造するための手がかりであり、自らの手で国を描き直すための端緒である。

 右の定義によって「琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族」という文言に独自の意味を付与して用いた学会設立委員諸氏の志と理念を知ることができるし、私がその文言には何らかの「意図」があると感じ、「納得」したことに一定の根拠を与えてくれるところでもあろうか。
 しかし、その定義には学会設立の目的に託した設立委員の思いが塗り込められているとはいえ、第三者は文言そのままの解釈しかせず、桃原氏の解説にみる超越的で高邁な志まで読みとることはしないし、できない。たとえば「民族的ルーツ」云々の文言は、「血統主義ではない」と主張してもその言葉はそれ自体が「血統」の審問を含意している以上、血統主義の概念から逃れることはできないからである。「民族」概念の不確定性は上述した。
 従って、理解が難しく誤解を招く文言ではなく、桃原氏が説く「理念」を世人が容易に受容できる文言(表現)を考えたらいかがかと私は思う。さすれば、その文言が持つ排他的イメージは払拭されるし、私のように"勝手読み"をして「納得」し、新城氏から余計な批判を受けるような例もなくなるはずだからである。(11月30日追記)
(『うるまネシア№17』2014.01)


新城郁夫氏の論考に対する批判

松島 泰勝  龍谷大学教員

 私は琉球人の一人として、2013年10月発刊の『けーし風』第80号に掲載された新城郁夫氏の「新川明氏への疑問」という文章の批判該当箇所を引用しながら反論を行いたい。

1 「尖閣の帰属性を琉球・沖縄の名において主張するとき、氏(新川明氏:松島注)の認識は、国家の論理に絡めとられてはいないか」68頁

 琉球の国家としての独立を目指す者が、国家の一つの特性である領土保有を主張することは当然である。「国家の論理に絡めとられる」という消極的な、受動的な位相ではなく、積極的、主体的に国家の論理を活用している新川氏の論旨を新城氏は理解できていない。

2 「『祖国琉球国への復帰』という言葉には奇妙なファンタジーしか感じられないし、『祖国琉球国の主権を取り戻す』という言葉には16-19世紀東アジアの歴史的政治構造における『独立琉球国の国家主権』という設定自体に無理があると思える」68頁

 琉球が独立することに「奇妙なファンタジー」しか感じられないのだろうか。琉球が1879年まで独立してきた歴史的事実を否定し、これまでの琉球独立運動や独立論に対する無理解がある。新城氏はそもそも独立論を議論するだけの研究上の蓄積を有していないのではないか。それは「独立琉球国の国家主権」に疑問を附している点からも、新城氏の琉球の歴史、政治に対する認識不足が示されている。

3 「私は、沖縄は日本国家からの離脱という選択を実践していくべきだと考えている。しかし、私が考える離脱は国家システムからの離脱であって、独立論とは異なる。逆に私は、生存権の更新とその実践の場たる沖縄の変革のためには、琉球民族主体の国家独立という選択は、真っ先に排除されるべきと考える」69頁

 日本国から離脱することは、独立以外に具体的に何を意味するのかが明確でない。新城氏が考える「国家システム」からの離脱とは、全ての国家的存在を否定するという、観念的な無政府主義であろう。しかしそのような思想的営為は、琉球が日本の植民地であるという現実を少しも変えるものではない。日本国から分離独立することが琉球の脱植民地化、脱軍事基地化の最も有効な手段の一つであるという、世界の現実を無視する観念の世界に新城氏は堕している。世界の多くの民族が民族自決権に基づいて「生存権の更新とその実践」のために独立を実現してきたという事実を否定して、琉球には民族独立という選択肢を認めないと強弁しており、暴論である。

4 「ナショナリズムは地域からの乖離のなかで生成し、地域を分断する。そして、ナショナリズムによってこそ、民族と領土が多く事後的に創られる」70頁

 ナショナリズムは地域の歴史や文化から生成し、地域を統合することについての、アントニー・スミス、ウィル・キムリッカ、マイケル・ヘクター等の研究があるにも関わらず、自分に都合のいいナショナリズム論の紹介でしかない。

5 「そこで生み出された民族は、あたかも大昔から自然に存在していたかのように幻想されるが、その幻想を実体化するのがナショナリズムの魔術である。しかも、ナショナリズムは自らが外部からの力によって形づくられたことを隠して自らを自然化し純粋化するとき、排外主義的傾向を帯びる。」70頁

 民族や国家概念は近代の産物である。しかし人類学、考古学、歴史学等の研究成果によれば日本人とは異なる琉球人の存在、日本国とは異なる琉球国の存在が実証されてきている。それはナショナリズムによる魔術による幻想でもなんでもなく、歴史的事実である。ナショナリズムが排外主義的傾向を帯びるという断定も、論理の飛躍と錯誤がある。

6 「幾多の民族独立過程で、反帝国主義的な装いのもと帝国主義的覇権が反復され、反植民地主義闘争のなかで新植民地体制の再編強化が組織化されてきた。しかも、そうした反動は、ナショナリズムを「起爆剤」とする独立運動のなかでの被植民者協力による資本形成、そして性と階級に関わる差別構造化、あるいは移住者への排外主義において、多く顕著となる。遠い時代の遠い地域の話ではない。この沖縄で今の今起きていることである」70頁

 これは世界史における脱植民地化運動を批判した文である。だが、「幾多の民族独立過程」と述べているが、具体的にどの国や民族において、どのように帝国主義的覇権が反復されたのか、そのような国は全独立国の中でどれだけ存在するのかという、明確な証拠を示すこと無く、一方的な断定を下すだけである。自分の頭の中で自己対話しているだけではないか。
 植民地闘争に対する批判はあるが、植民地支配に対する批判がなく、新城氏の議論は権力者側からの言説と変わらない様相を帯びている。
 今の琉球における独立運動で「被植民者協力による資本形成、そして性と階級に関わる差別構造化、あるいは移住者への排外主義」における具体的事例を示すべきである。それが無いなら、嘘の言説を展開しているとして批判されよう。

7 「歴史的政治的に見て、ナショナリズムは、その起爆性において当の民族にさえ制御不可能な暴力となるからである」70頁

 「歴史的政治的に」研究者としてどのように新城氏はナショナリズムを研究して、右のような結論を下すのだろうか。ナショナリズムが制御不可能な暴力にならずに、脱植民地化の動力となる「国家なきナショナリズム」、「マイノリティー・ナショナリズム」というナショナリズムがあることに理解が及んでいない。

8 「民族的アイデンティティは、民族から逸脱するグループの創出とその排除において自己免疫的に構成される。この点、琉球独立学会が、その設立趣意書に『本学会の会員は琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族に限定する』と明記していることは、排外主義の公言として注目に値する」71頁

 新城氏は上の理由をもって民族的アイデンティティを排外主義であるとして否定している。在日コリアン、在日中国人、在日ブラジル人等、日本の中でエスニック・アイデンティティを持つ人が私の周りにいる。このような民族も排外主義者なのであろうか。新城氏は世界の他の民族のアイデンティティも否定するのだろうか。過去、現在において植民地主義の下におかれてきたという歴史を持つ琉球人が、自らの歴史や文化、先祖との?がり、日本人による差別等を基にして自己確認をすることを同氏はなぜ否定するのだろうか。
 国際法によって人民=民族の自己決定権が認められ、独立も国連の支援によって実行に移す事ができる。琉球人の民族的アイデンティティを否定するということは、国際法上有する琉球人の法的地位に基づく脱植民地化の可能性をも否定することにつながる。また民族的アイデンティティ=排外主義という論理展開も短絡的であり、愚論であるといえる。


9 「両者(新川明氏と琉球民族独立総合研究学会:松島注)の認識に問題点があるのも確かである。①帝国主義暴力を問うさいに、対日本(人)への糾弾は焦点化されるがアメリカを問う作業が絶望的に乏しい。②ポストコロニアル状況下における資本と国家と軍事覇権の重層的関係が全く問われていない。③階級が問題化されていない。④ジェンダー/セクシュアリティとりわけ異性愛主義体制が全く問題化されていない。⑤民族自決権をめぐる歴史的政治的文脈の批判的検証がなされていない。⑥主権概念が混乱を極めている。⑦琉球民族がなんであるかの規定が全く無い」71頁

 同氏が批判の対象としている「琉球独立学会」とは何を意味しているのか。趣意書に書かれていることをもって独立学会と考えるのか。共同代表のこれまでの活動、思想をもって判断するのか。新城氏は本学会の趣旨文を根拠にして学会批判を行っているようである。独立学会を批判する場合、学会設立後の活動までを見た上で批判すべきではないのか。まだ本格的な活動もしていない時に、予断を持って自らが作り上げた学会のイメージに対して愚論を展開している。
 2013年11月に学会大会、オープンシンポジウムを開催し、琉球独立について多面的な議論が行われた。また本学会の会員には日常的に米軍基地反対活動を実践し、米軍基地撤去を独立の目的としている人や、日本企業による琉球経済の支配に批判する人も多くおり、①や②の批判は的外れである。
 ③や④では階級、ジェンダー/セクシュアリティも問題化していないとして、自らの価値観が含まれていないことをもって批判している。我々の学会は新城氏の関心に従った学会でないことは言うまでもない。同氏の思想の堕落を感じる。ただ本学会の趣意書を丹念に読めば、独立とジェンダーについても学会の研究課題の一つにすることが明記されていることが分かる。
 ⑤は、民族自決権の行使によって脱植民地化が世界において行われてきたという事実を見ていないことを示している。新城氏も琉球人、被植民者であるかと思われるが、自らが置かれた状況を踏まえた思想形成を行っているとは言えない。同氏は琉球が植民地状況にあることに同意するだろう。しかし、まるで自分は被植民者でないかのように、日米の評論家のように琉球の植民地主義を論じているように見える。
 ⑥は、新城氏が考える主権概念とは異なる考えを排除し、「混乱を極めている」として他の主権概念を認めない独断に陥っている。⑦の琉球民族の規定については、「琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族」という規定が明示されているのを見落としている。ILO169号条約、民族に関する諸学説である原初主義・手段主義・境界主義・表出主義・創造主義・想像主義・記憶主義(林泉忠氏によるナショナル・アイデンティティの生成・活性化要因に関する分類)等に基づき、また、グアム、ニューカレドニア、パレスチナ等のように世界の脱植民地化を進めている諸民族の事例を参考にしながら、琉球民族とは何であるのかのさらに詳しい定義をも他者ではなく、琉球人自らの手によって学会の中で議論していきたい。

10 「私には、新川氏が引用する2人(友知政樹氏、照屋みどり氏:松島注)の開き直りのような言葉のどこにも、学会が排外主義でない説明を見いだせないし、新川氏が何に「納得」しているのか見当もつかない。ここで引用されている設立委員2人の言辞は、普遍性に開かれてあるべき『学会』を民族で資格限定する点で、厳然たる排外主義である。それを否認するなら、在日の人々へのヘイト・スピーチを繰り返しながら、『これは差別ではなく区別だ』と嘯く右翼と認識上なんの違いがあるだろうか」71頁

 琉球民族独立総合研究学会の共同代表の実名を出し、その主張を「開き直りのような言葉」として貶めている。私も同学会の共同代表の一人である。新城氏は、我々の学会がヘイト・スピーチを繰り返す人種差別主義者と同じ排外主義の団体であると主張している。いつ本学会は在特会のようにヘイト・スピーチ等、人権差別的行動をしたのだろうか。排外主義である具体的な証拠を明示しなければ本学会に対する悪質な名誉毀損にあたる。断じて許せない学会に対する侮辱であり、差別的言辞である。
 人民=民族の自己決定権という国際法上の権利を行使する法的主体である琉球人自身が独立について議論し、研究する学会を設立したことがなぜ排外主義になるのか。本学会を電話、ファックス、ネット上で誹謗中傷する日本人を批判せず、本学会のみを批判することにも悪意を感じる。
 排外主義という人や団体を卑下する言葉を投げつけること自体が、排外主義的行為ではないか。新城氏に琉球民族独立研究学会に対する謝罪を強く求める。
(『うるまネシア№17』2014.01)

【2014.04.20】 追悼・佐久間さん
 特段、密におつきあいしていたわけではありませんが、沖縄に行く度に、親しくお話をしてくださいました。とくに、高江に居(?)を移してからは、高江まで足を運ばなければお話をする機会がありませんでしたが、いつも「懐かしさ」を感じていました。「気負い」など微塵もなく、風景に溶け込むような立ち姿でした。合掌


お疲れさまでした<海鳴りの島から2014-04-13 13:31:52/沖縄・ヤンバルより…目取真俊>

あなたの行動は世界に影響するんだ<アキノ隊員の鱗翅体験2014年04月09日>

やんばるからの手紙・佐久間さんのこと<根本きこ「琉球新報20140415」>
 高江の座り込み現場では有名な、関西弁の佐久間さんが、今月7日に永眠されました。去年のこと、「俺は肺がんにかかってます。でも、心配しないで下さい」と、みんなの前できっぱり宣言された。「最近、佐久間さん体調が芳しくなさそうだなぁ」と誰もが感じていたけれど、まさかがんとは思いもよらなかった。それからあれよあれよという間に、それこそ医者もびっくりするほどの進行の早さで佐久間さんは逝ってしまった。
 親戚関係のことは誰ひとりとして知らない。その辺のプライベートはほんとうにミステリアスだっただけに、「誰にも迷惑掛けたくない」と、潔く天国へ疾走して行った。
 佐久間さんの座り込み経歴は長い。辺野古から、高江へ。一時期は、東村の役場近くの信号の下で、来る日も来る日も「オスプレイ反対」の旗を持って、「ありがとうございます!いってらっしゃい!」と通り行く車にアプローチをし続けた。雨の日も風の日も炎天下の日も。まるで鋼鉄のような意志の強さ。
 その姿に子どもたちもなにかを感じていたようで、「誰が偉い」うんぬんの話になったとき、「佐久間さんみたいな人をエライっていうんだよ」と、子ども同士が話していたのを聞いたことがある。
 お正月には近所の子どもたちにお年玉を配ってくれた。ある日、ふらっとうちを訪ねて来て、桃の缶詰をくれた。
 平和に関しては、ほんとうに揺るぎない彼の哲学があった。徹底した「非暴力」は、仲間内で話し合いをしていても、ぽろっと暴力的な言葉が出てくると「それいっちゃーあかん」とピシャリと押さえた。
 鋭い視線。笑っていても泣いているような、きっと過去には言葉にしがたいつらいことがあったんだ。なにを背負って、なにを想って高江で座っていたんだろう。
 沖縄に来てから、初めて参加したお葬式。ふだん高江で会うときはみんな作業着だったりとラフな格好の人が、その日は当たり前だけどみんな黒い服。そして、たくさんの人が列に並んで佐久間さんを見送った。
 「戦争はあかん。絶対にあかん」まだ、佐久間さんのしゃがれた声が耳に残っている。「いのちを懸けた平和への戦い」という、「平和」と「戦い」という相反する同士がなぜか絶妙に渾然一体となったような佐久間さんの生きざまは、ほんとうに凄まじかったと思う。(元フードコーディネーター)



【2014.04.15】 新城郁夫「備忘録⑥・琉球独立論の陥穽」を読む

 新城郁夫が『けーし風No.82』(2014.04)での「備忘録⑥」で、前々号(『けーし風No.80』(2013.10)の「備忘録④・新川明への疑問」に対する批判(『うるまネシア№17』2014.01所収の新川明および松島泰勝両氏の論考)への反批判「琉球独立論の陥穽」を掲載した。新城は「沖縄への内在的批判抜きに沖縄の脱植民地化など絶対にない。新川氏はそれを知るべきである。」と、突き放す。そして「独立の思考が持ちうる批判力を私も肯うが、それは国家や資本そして民族というシステムへの内在的批判無しにはありえない」ことを力説。もう一人の松島に対しては「この沖縄において、民族アイデンティティの前景化が資本や国家への問いの後景化と連動していることを松島氏が理解できていない点こそ致命的である」とし、「空疎にして偏狭な言葉で、『沖縄の声』が流通する現状にこそ沖縄の危機がある」とまで断罪に近い論法で批判を展開している。もとより「コラム」という小論であるが、新城のウチナンーチュ(松島の言い方を借りれば「琉球人、被植民者であるかと思われる」)としての、いわば悲しみに満ちた批判として読んだ。荒川・松島論考も併せてアップすべきだったが、間に合わなかった。取り急ぎ、新城郁夫の論考のみアップする。ただ、付け加えておくが「民族アイデンティティ」ではなく、「沖縄アイデンティティ」が今秋への<キーワード>たり得るかはまた別の問題を孕んでいるのではないかと、思う。



備忘録⑥

琉球独立論の陥穽

新城 郁夫


 備忘録④で私が提示した琉球独立論への疑問について、『うるまネシア17号』に新川明氏と松島泰勝氏の反論が掲載されている。しかし両氏とも私の批判した排外主義について確かな応答もなく、論点を逸らすのみである。これでは「論争」(新川氏)など望めない。そこで私の見解は両者との不毛な議論と切り離し理論的な形として提示することを予告し、今回は新川氏と松島氏への再批判を提示するに留める。
 まず新川氏の論について。拙論の七つの疑問について、氏は「性急な要求」と回避する。この回避は、新川氏が謳う琉球独立に、いかなる社会や国家を目指すかという基本理念が無く、何から「解放」される独立であるべきかという思想も無いことを示している。私が提示した七つの「疑問」は、琉球独立でいかなる社会が目指せるかを最低限の条件で問うものだが、それを「性急な要求」とする氏の論は、理念なき独立幻想という閉域を形成するだけである。しかも、この幻想を支えるのが、「祖国琉球国の主権回復」という更なる幻想なのである。(両属体制下にあった「琉球国」の主権とはいかなる主権か? この「主権」を独立論の前提とする新川氏と松島氏は、それを明確にする必要がある)。
 新川氏の論の更なる陥穽は、日本の植民地支配下で苦しむ沖縄の「マイノリティ」を、琉球「民族」としてのみ措定している点に見いだせる。この沖縄において、軍事植民地主義や家父長制と異性愛主義に基礎づけられた資本主義的植民地体制、そして自民族中心主義による排外の力に曝されている存在を、琉球人・沖縄人という恣意性で捉えることは完全な誤りである。植民地支配構造を沖縄もまた温存し再生産しているのであり(例えば「琉球石油」や「琉球大学」における資本や知の権力化や、杣山訴訟にみる性差別と富の配分の結託など)、琉球民族の日本からの独立が脱植民地化への「当面の」早道といった短絡は、氏の独立論が、民族的他者を生み出しこれらの人々を排除する暴力となる危険を持つことを明らかにしている。沖縄への内在的批判抜きに沖縄の脱植民地化など絶対にない。新川氏はそれを知るべきである。
 次に、松島氏の論であるが、これは論理以前であり、思考としてこれ以上の低レベルは考えられない。松島氏は「琉球人の一人として」、「琉球人、被植民者であるかと思われる」「新城氏」にむけて書くと宣言する。こうして発信者と受信者の関係を画定し得ると考えること自体に、氏の思考の歪みが露呈している。あらゆる問題を琉球民族中心に語り、この騙りにおいて、資本や国家やジェンダーといった基本的な問題を抹消していくのが氏の論理である。しかも松島氏は、陶酔的に琉球人という自己画定をするだけでなく、あらゆる他者を民族アイデンティティのなかに囲ってしまう。ここには、民族を持ち出せばあらゆることに批判的スタンスを持ちえるかのような錯誤がある。たとえば琉球人の定義について、「琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族」という学会設立趣意書のなかの片言がそれだと氏は断言するが、「島々」や「民族的ルーツ」に関して何ら明示できない以上、これは反規定である。そして同じ趣意書において、琉球民族の概念規定についてこれから詰めていくとその未定性を認めつつ、会員を琉球民族に限定し他を排除しているのである。学会の排外主義を批判する私に「謝罪要求」をする氏には、趣意書を一度読んでみることを勧める。加えて、琉球独立学会設立委員連名による、福島からの避難者を植民者と中傷し、保養受入れ活動を非難する行為や、沖縄・生物多様性市民ネットワークへの根も葉もない公開批判とネットワークからの回答・質問への黙殺にも、この組織の排外性が示されている。
 私の七つの疑問に対して松島氏は、矛盾を重ねた説明をしているが、その破綻は、階級やジェンダーという問題を、「新城氏の関心」と退ける点に露わとなる。これらは沖縄に関わる生政治の根幹的問題であり、沖縄が組み込まれているネオリベラリズムの核心である。「琉球民族」がこれらと無縁であるはずもない。この沖縄において、民族アイデンティティの前景化が資本や国家への問いの後景化と連動していることを松島氏が理解できていない点こそ致命的である。
 空疎にして偏狭な言葉で、「沖縄の声」が流通する現状にこそ沖縄の危機がある。こうしたとき想起すべきは、丁寧な言葉とふるまいによって、他者と共生・共棲していくための自律を求めてきた沖縄の運動の歴史ではないか。総じて今の琉球独立論には、沖縄の社会史や思想史への考察が欠如している。そして、対日本人への糾弾によって現状を乗り越えようと前のめりとなり、琉球人という主体を闇雲に画定しようとする硬直が見られる。独立の思考が持ちうる批判力を私も肯うが、それは国家や資本そして民族というシステムへの内在的批判無しにはありえない。沖縄における独立論が可能性を持つのは、制度としての沖縄からの独立の思考が深められる時だろう。そのありうるべき独立論は、国家の論理からの離脱を試みつつ、他者の権利への最大限の尊重と共生と共棲への情動によって構成される運動体でなければならない。今の琉球民族独立論に欠けているのが、この基本的な理念である。その欠落は、無惨であるばかりでなく危険である。高度な共生と共棲によって成り立つ沖縄という複雑な生活圏の問題を、民族を基とする分離独立で解決することは不可能であり、倫理に悖っている。いま私たち沖縄を生きる者が闘うべき相手は、独立論議の外にいるのである。
(『けーし風No.82』2014.04)





【2014.03.22】 仲里効「自発的隷従と自己決定権の磁場」を読む

 島袋純『「沖縄振興体制」を問う―壊された自治とその再生に向けて―』は、初出誌の時に読んだ論攷がいくつかあったが、こうやってまとめて読んでみると(つながりの悪さはともかく、余りにも誤植が多かったのはいただけないが)、新聞などでの小論やインタビュー記事も含め、きわめて勉強になった。もちろん、「復帰運動総括」にまつわる部分に関する違和感や、「大田県政評価」に対する物足りなさは否めない。
 と思っていたら、『世界』2014年3月号で、仲里効の論攷を眼にした。「パペットモンスター仲井真 沖縄県知事の“一人クーデター”」、副題が「自発的隷従と自己決定権の磁場」である。相変わらず、切れ味の良い文章である。この論攷は、島袋の観点を包み込み、「隷従」、それも「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見当たらない悪徳」としてしか名付けようのない「自発的隷従」(ド・ラ・ボエシ)として、「オール沖縄」内部から生まれた仲井真を筆頭とする「復帰・同化・買弁勢力」の転質・新たな登場(「仲井真の“一人クーデタ”」)を一刀両断に切って捨てる。「オール沖縄」の再生は、こうした「植民地官僚(エリート)」「隷従・買弁勢力」にキッパリと一線を画することからしか始まりえないのではないか、と思う。仲里は、「軍用地料」問題から、ファノンの「〈橋〉の思想」に注意を喚起しつつ、この小論で、沖縄の現状-階級階層分析さえ、鮮やかな手際でやってのけている。


【2014.03.11】 いれい・たかし<沖縄から透視される「祖国」>を読む

 【emigrant 2013.03.13】で、『沖縄 本土復帰の幻想』(吉原公一郎編・三一書房19681125)の一部(討論・沖縄にとって「本土」とは何か)をアップしたが、やはり、「歴史的文書」としては、「第一章」に掲げられたいれいたかしの<沖縄から透視される「祖国」>も、やはりアップすべきだと思った。それは前述のemigrantでの「もはや本書は『稀覯本』となっており、沖縄ならいざ知らず、図書館でも仲々置いていない」ことにも依る。
 「復帰運動」は未だ総括されていない。否、もう、総括されることはないのかも知れない、とさえ思わされたのが、いれいたかしの遺稿集『ちゃあすが くぬ沖縄』(死去一年後の2010年に、「琉大文学」同人を中心とする刊行委員会が編集し、『沖縄大百科』の実質的主宰者である上間常道さんが立ち上げた出版社Mugenから発行された)である。
 <沖縄から透視される「祖国」>で、彼はシモーヌ・ヴェーユを引用した後、「沖縄にとって、もはや『祖国』とは日本しかありえないということ、それ以上の精神的拷問がありましょうか。そのことを拷問として感受しつつ、なお『祖国復帰闘争』の必然性、その内実を究明しなければならない時点に、沖縄の私たちは立たされています」と書く。執筆当時、30代前半、「復帰運動」の指導者として八面六臂の活躍をしていたと聞く。

 大杉莫は、「沖縄の自立解放と日帝国家の解体へ」(『情況』2013年1-2月合併号)で次のように書く。
 “「祖国復帰運動」と名付けられた巨万の沖縄民衆の闘いは、その内部に様々な矛盾を孕みつつ、さらにその外には圧倒的少数派でしかなかったとしても「反復帰」の潮流がその萌芽を見せていた。それ故、あえて、今回の一〇万人の県民大会と数百の普天間ゲートの闘いを対比させてみることも必要ではないだろうか。さらに総選挙が示したが(議会制)民主主義を重ねてみよう。少なくとも「普天間県外移設」は自民党全議員の「公約」だったのだ。
 復帰運動に対する救抜は、「日の丸復帰」から「反戦復帰」への転換を強調する(これは未だ存在しているが)だけではなく、復帰運動が幾多の随伴した民主々義的諸権利獲得運動としての側面を強調する傾向としても存在する。筆者が注目する島袋純は「『沖縄振興開発体制』への挑戦」(『世界』一二年七月号)で「沖縄にとっては、戦後憲法が復帰運動の最大求心力、最大の力の源であった。復帰運動が目指したものは『人権・自治・平和』であり、それを作っていくために沖縄自らが歴史創造の主体、政治的主体となることである」と書く。しかしこれは「歴史の改竄」ではないか。もちろん島袋は正当にも「日米両政府にとって、沖縄返還の要諦……アメリカ軍にとって在沖基地の自由使用及び安定維持を図るためのものである。その役割を在沖の米軍・政府から日本政府が替わって担うことになるという『統治主体の交代』、それが沖縄返還の本質的な目的であった」と言うが、これに対して復帰運動の側が「手を貸した」ことを捨象してはならない。依然<復帰/反復帰>が未決の問いとして残っている。”
 もちろん、「歴史の改竄」とはとはいささか穏当を欠く表現だし、大杉論文の勇み足とも思われる。しかし、復帰闘争(「日本(祖国あるいは本土)復帰」)は、紛れもなく「日本/日本人」に「沖縄/沖縄人」がなることと一対であったのであり、この点は曖昧にされて良いわけがない。
 復帰政党から地域政党へと苦闘していた社大党を「沖縄を代表する政党」として推し進めんとしていた比嘉良彦(1989年から97年まで書記長)は『地域新時代を拓く』(比嘉良彦・原田誠治共著・八朔社1982年9月)で、次のように語っている。
 “ちなみに、この綱領が何回か改正されて「党は祖国復帰することを最終目標とし、すべての政策を復帰の促進に即応せしめ、その実現を図ることを基本的信条とする」という有名な文言になるのは10年後の1960年[9月29日]の第13回大会である”。しかし“当初の復帰論はあくまで、琉球と日本の相違をふまえた「復帰論」であ(り)、……住民の経済福祉に重点をおいた手段的復帰論であった”。そして第15回大会(1962年10月)に至り当時の安里積千代委員長の「沖縄政治の基本的問題について」を引き合いに出し、“かつての手段としての復帰論はまったく影をひそめ、「復帰すればすべて長くなる」といった「復帰幻想」にどっぷりとつかった復帰政党としての姿が見られるだけである”と指摘する。

 大杉莫は『沖縄の自立解放について――復帰・併合・買弁勢力に抗して』(『共産主義運動年誌』第3号2002.11)で、
 “おずおずと提唱された「復帰時期尚早論」とともに「今、復帰すれば、沖縄はイモハダシの生活に戻る」という、いわゆる「イモハダシ論」が流布された。それに対して、当時「イモハダシの生活になろうとも祖国に復帰することが沖縄県民の願いである」という解説がなされた。つまり、日本ナショナリズムに連れ添うように「祖国に復帰することが最大の悲願である」というわけだ。果たしてそうか。そうした心情が皆無であるとは言わない。しかし、圧倒的多数の沖縄の民衆は「日本人の一員になれば、今よりははるかに豊かになる」ことを信じ込んでいた。しかし、「豊かさ」などは所詮、相対的なものでしかない。そこでは「豊かな日本の中での貧しい沖縄」という「格差」しか問題にならなかった。この「格差是正」の呪縛から沖縄は今も逃れられていない。/復帰協の中心を担った公務員達にとって「本土並み待遇」は垂涎の的だった。例えば、六〇年代を通して日本詣でを繰り返した沖縄教職員会の教師達は「本土」の教育環境の素晴らしさに目を見張ったという。彼らの主導する復帰運動はいとも簡単に「イモハダシ論」をデマとして退けることが可能だったのだ。そして、日本人になることで「平和」も「民主主義」も手にし得るという新しいデマを流すことに専念した、といえば言い過ぎか。”とも指摘する。
 もうひとつ、琉球新報2012年10月九日号で、比屋根照夫は「復帰を経験した人たちが、基地の固定化によりオスプレイの強行配備を招いてしまった、という贖罪感を抱き、『復帰責任』を果たそうとする意思の『萌芽』を感じ、それに感動を覚えた」。そして「従来の抗議型の運動というより、自己を振り返り、過去への自責感を克服して、未来の若者たちにどうつなげていくか、という歴史認識の広がりに今後の可能性をみる。この運動が新しい思想潮流として沖縄を覆うことになった時、沖縄の人間の尊厳や自決権が踏みにじられている現状、差別問題などに抵抗する挑戦的な運動へと転化することであろう」とも語る。

 現在、復帰運動も全軍労闘争もコザ暴動も知らない世代が沖縄社会の中核となりつつある。


【2014.02.26】 島袋純『「沖縄振興体制」を問う』(法律文化社2014年1月25日)を読む/【2014.03.05】一部をアップしました。

 まだ全部を読み通したわけではないが、「はしがき」「あとがき」を読み終え、取り急ぎ紹介したいと思った次第である。宮城康博は琉球新報2014.01.26の「書評」で、「『時機を得た』出版とは本書の出版をいう……『抵抗運動』こそが、沖縄の主体確立と回復をなす」と述べている。

 島袋は「あとがき」において次のように語る。
 “沖縄の統治構造や政治行政制度を規定する最大の要因……とは”と書き出し、“米主導のグローバル経済でも、世界戦略でも、その一環として極東の地域的な安全保障でも、軍事的合理性でもない。また、地元経済界を中心とする経済振興緒の要求によるものでもなければかつて独立王国であった沖縄の独自の文化的アイデンティティの要求でもない”とした上で、“最大の要因は、日本の戦後政治の基本的構造である「戦後国体」を護持するために制度が構築されているということであり、そのためには「沖縄問題」を国政レベルにおいて「非争点化」しなければならず、それこそが沖縄の統治の仕組みの本質だということである。/「戦後国体」とは豊下楢彦によると、1952年の講和条約の際に、独立講和の条件として、在日米軍に駐留軍としての特権(日本の主権を侵害する権利と言っても過言ではない)をそのまま保持することを認め、さらには沖縄を日本から分離し長期にわたって米国に施政権を委ね米軍をそこに集中させることによって成り立つ日本の戦後国政の基本構造のことである。駐留軍としての特権を独立講和後そのまま認めることが安保体制の本質であり、安保体制=戦後国体となり、その護持こそが日本政治の表にもおいても裏においても極めて強い政治の動力源となり続けた。/講和に伴う沖縄の施政権の分離とその後の在日米軍基地の沖縄への移転と集中が行われ、また、復帰後の沖縄統治システムが制度化されてきた。……/
 戦後国体護持のために沖縄基地問題の本質を争点化させない仕組みは、沖縄にとって「構造的抑圧」あるいは「構造的暴力」そのものと言ってよく、米軍による軍事占領から今日に至るまで、日本政府及び国民多数による絶対的な価値剥奪の観があり、近年では「構造的差別」という文言が沖縄の保守政治家や地元経済界からも頻繁に言及されている。その絶対的な価値剥奪による社会的疲弊、主体性の喪失は非常に顕著な沖縄の社会現象であり、もはや日米の「軍事的植民地」と規定せざるを得ない状況になっている”と結論づけている。
 例によって、以下、目次を記す。


「沖縄振興体制」を問う―壊された自治とその再生に向けて―

 はしがき
 初出一覧

序 章 戦後日本政治の根源的病理と沖縄
 Ⅰ 戦後日本政治の根源的病理
   1 戦後憲法の不幸
   2 独立講和と日米安保
   3 復帰運動の「日本」と日本の実態
 Ⅱ 日本政府による沖縄の統治
   1 沖縄振興開発体制=基地問題の非争点化システム
   2 「振興」に偏重させられる構造的な問題
 Ⅲ 日米安保の変容と分権改革
   1 「沖縄国際都市形成構想」の意味
   2 振興体制と新たな振興事業=軍事的植民地化
 Ⅳ 沖縄からの問いかけ
   1 沖縄振興予算と基地関連収入
   2 沖縄からの問いかけ
 Ⅴ 施政権返還後の沖縄統治の仕組み
   1 北海道開発庁・北海道開発局モデルの導入
   2 沖縄の復帰と自治
   3 沖縄開発庁と沖縄総合事務局
第1章 「復帰」の内実を問う:沖縄の人権・自治と米軍基地
 Ⅰ 構造的暴力の制度化
   1 国益・軍事的公共性・公共の福祉・人権
   2 沖縄問題解決の主体
   3 平和の実現に向けて
 Ⅱ 確立できない日本の立憲主義と沖縄の闘争
   1 福祉国家の破壊と新しくて古い国民統合
   2 立憲主義国家の形成と復帰運動の本質
   3 憲法廃止論としての憲法改正論と沖縄の運動
   4 欧州における「憲法」の現在―多元的多層的人権保障
   5 沖縄の運動と「憲法」の実体化
   6 小 括
 Ⅲ 沖縄における自治の破壊と再生
   1 公共性を支える「痛みの共有」
   2 軍事目的優先と「痛みの共有」否定
   3 国による地域社会の破壊
   4 小 括
第2章 冷戦終了とグローバリゼーション
 Ⅰ グローバリゼーションと地域―スコットランドと沖縄
   1 グローバリゼーションと自治
   2 グローバリゼーションのなかのスコットランド
   3 グローバリゼーションの進展と沖縄の自立
   4 沖縄・日本・アジアのこれから
 Ⅱ 変容する国民国家と地域ガバナンス
   1 欧州におけるガバナンスの変容
   2 英国におけるガバナンスの変容
   3 沖縄におけるガバナンスの変容
   4 小 括
 Ⅲ グローバリゼーションと沖縄の自律構想
   1 国際都市形成構想の背景
   2 3つの構想
   3 反グローバリズムの広がり
   4 小 括
第3章 基地問題の争点化と非争点化
 Ⅰ 沖縄のガバナンスのゆくえ―国際都市構想から沖縄振興計画へ[初出より]
   1 財政援助―グローバリゼーションと沖縄振興策のフレームワーク
   2 経済の自由化、一国二制度・全島フリーゾーン構想
   3 特別自治制度構想
   4 小 括
 Ⅱ 沖縄県民投票における政治過程
   1 連合沖縄の提起
   2 「県民投票条例」制定をめぐる政治過程
   3 県民投票の広報活動
   4 県首脳の交渉と自民党県連の「棄権」表明
   5 小 括
 Ⅲ 基地問題の争点化と非争点化
   1 沖縄振興開発体制の確立と屋良建議書
   2 振興開発体制の受容と基地問題の非争点化
   3 国際都市形成構想と基地問題の争点化
   4 再編強化される基地問題の非争点化―稲嶺県政の登場と主役の交代
   5 21世紀の新「旧慣温存策」
   6 軍事的植民地へ
   7 小 括
第4章 沖縄振興体制による自治の破壊
 Ⅰ 分権改革のなかの集権化―主体性の破壊
   1 政府による沖縄基地問題の「非争点化」のプロセス
   2 「非争点化」に挑んだ沖縄県知事
   3 沖縄から代理署名手続きを奪った地方分権一括法
   4 「財政規律」の崩壊と自治の破壊
   5 中央従属からの脱却と自前の政策開発能力
   6 信頼のネットワーク「社会関係資本」の形成
 Ⅱ 自治破壊と自治体改革の停滞
   1 構造改革と沖縄振興体制
   2 沖縄の自治体における財政規律の崩壊
   3 小 括
 Ⅲ 新たな沖縄の政府構築への始動
   1 2009年末に県議会で発覚した問題
   2 沖縄振興開発体制及び沖縄振興体制の問題点
   3 顧みられなかったガバナンス改革
   4 小 括
第5章 道州制議論と自治の展望
 Ⅰ 道州制の議論を沖縄の視点で考え直す
   1 構造改革の目的、「小さな政府」の基本原理
   2 道州制をめぐる新たな議論の提唱
   3 小 括
 Ⅱ 分権改革のなかの道州制と沖縄
   1 道州制議論の経緯と展開
   2 28次地方制度調査会の道州制案と市町村
   3 道州制の今後の展望
   4 分権改革、道州制議論の進展と沖縄の自治の展望
   5 沖縄道州制懇話会による合意形成と提言
   6 小 括
 Ⅲ 世界につながる沖縄の自治―沖縄発の自治の提案
   1 冷戦終焉とその後の変化
   2 シティズンシップの再興
   3 国際都市形成構想とその崩壊
   4 新自由主義的改革の嵐
   5 「市民」が創る自治政府
終 章 沖縄の自治の挑戦
 Ⅰ 基地問題の起源と本質
   1 復帰運動の本質
   2 沖縄の施政権返還の目的―基地問題の「非争点化」
   3 「リンク」論の登場と補償型政治
 Ⅱ 民主党政権と補償型政治の変容
   1 民主党政権への期待と混迷
   2 沖縄振興一括交付金の導入
   3 地域主権改革と新たな沖縄振興体制
   4 沖縄振興一括交付金への県の取り組み
 Ⅲ 構造的差別の現実
   1 オスプレーの普天間基地配備問題
   2 第2次安倍政権による自民党の変質と国民統合の否定
 Ⅳ 沖縄の未来

あとがき
 事項索引
 巻末年表



【2014.02.09】 「辺野古断念と普天間早期閉鎖を求める緊急声明」を読む

 何処まで堕ちるか!島尻安伊子!いくら買弁派と言え、ここまで「国会」で暴言を吐くとは、もはや言葉もない。
 沖縄タイムスは2014年2月6日に<島尻議員発言:「国の先兵」「即刻辞任を」>と報道。琉球新報は「島尻氏発言 暴政容認は辞職しかない」との見出しの2014年2月7日付社説を“夜郎自大と事大主義はここに極まった感がする”と書き出し、“沖縄の戦後史は、日米両政府の意向に忠実な代理人たち(政治家、経済人など)が必ず存在していたことを教えてくれる。70年続く「軍事植民地状態」を終わらせ、「自己決定権」を行使する沖縄の未来を展望するとき、国家権力の代理人はもう要らない。”と締めくくった。
 さらに同日付<識者評論>で照屋寛之が“こともあろうに県選出議員が国会で辺野古を積極的に推進するだけでなく、反対派の住民運動を「妨害活動」と決めつけ、警察権力を最大動員して弾圧・排除を誘導するような発言をした。残念無念だ。断固排除するように政府に進言するに至っては、県民の代表としての責務を放棄し、国家権力と一緒になって県民の反対運動を弾圧する宣言であり、多くの県民が憤りを禁じ得ないであろう。/政府関係者でも発言したくてもできないような内容だ。安倍晋三首相らは、「よくぞ言ってくれた」とほくそ笑んだに違いない。住民運動の本質、沖縄の痛み、「沖縄のこころ」を全く解してない発言だ。”と、唾棄する。

 1月27日には宮里政玄、桜井国俊、我部政明を代表とする県内外識者65人による「辺野古断念と普天間早期閉鎖を求める緊急声明」が発表された。そして2014年1月9日に「世界の識者と文化人」29人によって発せられた「沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」が、28日には100人を越え、今現在も続々と署名が集まっている。<署名サイトは日本語がhttp://chn.ge/1glVJSw。英語がhttp://chn.ge/1ecQPUJ
 日本ヤマト政府の焦りをして、使嗾させたとは言え、植民地官僚・買弁勢力の言動は眼を覆いたくなる。



<辺野古断念と普天間早期閉鎖を求める緊急声明>

 安倍晋三首相宛て
 バラク・オバマ米国大統領およびキャロライン・ケネディ駐日米国大使宛て

辺野古への新基地建設計画を断念、普天間飛行場を早期閉鎖せよ
 2014年1月27日
 1月19日に投開票された名護市長選挙の結果は、名護の市民だけでなく沖縄の人々が沖縄に新たな基地は要らないという態度の表明である。選挙結果は、普天間飛行場の移設先を沖縄県内ではなく、県外に求める声が沖縄の民意であることをあらためて確認したといえる。
 この沖縄の声は、普天間飛行場の閉鎖と移設を表明した1996年3月の日米合意以来、沖縄が一貫して求めてきたことである。たとえ、当時の稲嶺恵一沖縄県知事、あるいは岸本建男名護市長らが沖縄県内での移設を容認しようとした時でさえ、条件を提示し、条件を満たさないときには容認できないとしていた。
 なぜ普天間飛行場を閉鎖することに日米両政府が合意したのか。同飛行場が住宅地の真ん中に位置し、離発着の度に周辺に暮らす沖縄の人々の頭上を飛行せずには飛行場として機能しない深刻な危険性をもっているからである。今なお、危険な現状は何ら変わっていない。同飛行場のもつ危険性は、2004年8月に沖縄国際大学のキャンパスに米軍ヘリが墜落したことにより、あらためて浮き彫りになった。
 この18年の現実は、危険な普天間飛行場を狭小で既に米軍基地が過密である沖縄県内に移設できる場所がないことを示し、沖縄の人々が同計画に対し一貫して賛同してこなかったことを示している。この名護市長選挙は、沖縄県内に移設先を求める日米両政府の計画が現実性をもたないことをあらためて示しているのである。
 稲嶺進名護市長の再選で明確に示された名護市、沖縄の米軍新基地建設反対の民意を無視して日米両政府が埋め立てなどの新基地関連手続き、工事を強行することは、沖縄を混乱に陥れるだけでなく、日米関係に深刻な支障をきたすことになる。ひいてはアジア・太平洋地域の平和と安定に悪影響を与えるおそれがある。
 私たちは日米両政府に対し、以下、要求する。
(1)日米両政府は名護市辺野古における新基地建設計画を断念せよ。
(2)普天間飛行場の機能を代替する新基地建設に向けての埋め立て手続き、関連工事は取りやめよ。
(3)普天間飛行場を早期閉鎖し、土地を返還せよ。
 また、日米両政府に対し、18年前に合意しながらも放置してきた危険な普天間飛行場の閉鎖までの間、至急対処すべき事項の実施を、以下、求める。
(1)普天間飛行場での航空機の離発着を、現行より大幅に削減すること。
(2)普天間飛行場及び他の米軍基地の予定される返還に備えて、環境調査のための基地内への立ち入り調査が行えるようにすること。
(3)将来に向けた沖縄の環境保全のための調査として、沖縄に建設されたすべての米軍基地において立ち入り調査が行えるようにすること。
 新垣修、安良城米子、新崎盛暉、石原昌家、井端正幸、稻正樹、今村元義、上里賢一、浦田賢治、浦野広明、小栗実、上脇博之、我部政明、加藤彰彦、加茂利男、木村朗、来間泰男、古関彰一、小松浩、小森陽一、桜井国俊、佐藤学、島袋純、清水雅彦、瀧澤仁唱、高作正博、高里鈴代、高嶺朝一、高良鉄美、武居洋、千葉眞、照屋寛之、中島正雄、仲地博、永山茂樹、成澤孝人、西川潤、西谷修、比屋根照夫、星野英一、前原清隆、前田達男、前田哲男、真栄里泰山、又吉盛清、松井裕子、三木健、水島朝穂、宮城公子、宮城内海恵美子、宮里昭也、宮里政玄、宮田裕、宮本憲一、三輪隆、村田尚紀、森英樹、山口和秀、屋富祖建樹、屋富祖昌子、山口剛、屋良朝博、萬井隆令、若尾典子、若尾祐司(五十音順)
 以上を代表して 宮里政玄、桜井国俊、我部政明
(琉球新報2014年1月28日)


【2014.02.01】「意識調査」「世論調査」「首長アンケート」を読む

 沖縄においては植民地官僚とも呼ぶべき知事・仲井真によって、一昨年来からの「オール沖縄」が見るも無惨に踏みにじられた。もちろん、辺野古・高江、そして普天間での実力行動は、倦まず弛まず続行されており、ヤマト政府・自民党の悪辣な策動は、沖縄の人々の怒りを改めてかき立てた。しかし、とは言え、「オール沖縄の行方は?」「沖縄の民意は?」との問いが抜き差しならないものとして突きつけられているのも事実であろう。
 沖縄県が5年に1度行ってきた「県民選好度調査」を引き継ぐ「2012年・県民意識調査」について、琉球新報社説20140130は<画期的なのは「沖縄への米軍基地の集中を差別的と思うか」と問うた点だ。従来なかった設問で、その結果、県民の74%が差別的と感じていることが分かった。>と報道。そして<県は県庁職員に配布しただけで、いまだに県民向けに公表していない。従来と同じペースなら昨年6月には公表したはずだ。遅すぎる。/基地集中を差別と見る県民意識と、大きな乖離(かいり)がある知事の埋め立て承認があったから公表を遅らせた、と見るのはうがちすぎか。いずれにせよ、税金を投じた調査である。県は早急に県民に対し全容を公表すべきだ>と叱咤する。

 朝日新聞20140124での<辺野古、賛否は二分 沖縄と意識の差 朝日新聞世論調査>を見よう。そこでは、昨年12月中旬に行った沖縄県民調査で、辺野古移設に対して「賛成」22%・「反対」66%にのぼっていたが、しかし今回の全国調査では「賛成」は36%、「反対」は34%と、賛成がわずかではあれ上回っている現実を見せつけられた。さらに、「沖縄の米軍基地が減らないのは、本土による沖縄への差別だという意見」について、<「その通りだと思う」と答えたのは26%にとどまり、「そうは思わない」は59%にのぼった>。それ以上に暗澹たる気持ちにさせられたのが、続けて<しかし年代が若いほど「そうは思わない」が多く、20~30代では7割を超えた>という結果だった。

 昨年4月28日、あの「屈辱の日」を「主権回復の日」として祝ったヤマト政府に対する抗議行動<日米安保粉砕・安倍政権打倒4・28反戦行動>への故川音勉の連帯アピールの次のフレーズが想い起こされる。
 “「主権回復の日」を日本社会でどのように受け止めるかということです。沖縄タイムス社と琉球朝日放送による沖縄全県での世論調査(本年四月一三日~一九日に実施)によれば、約七割の県民が「主権回復の日」式典・政府開催を「評価しない」と否定的にとらえていることが明らかになっています。その最も多かった理由は「沖縄にとって屈辱の日だから」の53・9%、次いで「沖縄の主権は回復しているとは言えないから」の39・7%。他方、日本社会を対象とした世論調査(JNN三月九、一〇日実施)では、賛成36%、反対33%、わからない32%という数字になります。ここでも日本社会の意識との大きな断絶が明らかです。この日本社会の反応は、事態への賛否以前に、沖縄戦後史についての理解を欠いていることを示すものではないでしょうか?”

 次いで<共同通信社が25、26両日に実施した全国電話世論調査>はどうか。2014年1月28日付・新報社説は、この共同通信調査結果を受けて<国民世論 沖縄の民意を伝えたい>と書き記す。こちらは朝日と設問が異なっていた所為もあり、<稲嶺進名護市長が再選されたことを受けて「市長の理解が得られるまで中断する」と答えた人が42・9%に上った。「計画を撤回」の17・9%と合わせて6割が移設を強行しようとする政府・与党に批判的>という結果となった。

 琉球新報20140124は、<24首長「辺野古断念を」>と題して、<19日に投開票された名護市長選で移設阻止を訴えた稲嶺進氏が再選したことを受け、琉球新報は県内全41市町村長に移設方針、解決法などを問う緊急アンケートを実施し、23日までに34人から回答を得た>と報道。
 しかし、石垣市、恩納村、金武町の3首長はそもそもアンケートに<「回答しない」と返答>し、アンケートには応じたがこの設問に答えなかった首長(三人)もいた。さらに、昨年(2013)の全41市町村による「建白書」(オスプレイ配備撤去・新基地建設断念)についても、「意義は失われていない」と回答したのは28人に留まった。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-218302-storytopic-3.html

 3月には、あの石垣市での市長選があり、4月、沖縄市長選、そして秋には名護市議選から県知事選へと上り詰める。たびたび言及しているように、保革を超え、アジアへの平和の発信地として、運動圏・思想-文化圏・制度圏を束ね、沖縄の自立解放勢力の立ち上がりが待たれる。



【2014.01.26】 「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」201401、「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉について」を読む

 2014年年頭、名護市民、そして沖縄県民は新たな勝利への第一歩を踏み出した。そしてこれは、日米安保体制とその厄災に覆われた東アジアの平和への確かな一歩となるであろうし、我々の手によって、そうしなければならない勝利でもあろう。
 トップページで“ただ、今後日本政府の問答無用の強権的建設着手が悪辣な策謀とともに濁流のように押し寄せてくることは必至だろうし、「オール沖縄」が、「隷従・同化・買弁勢力」によって打ち毀されたことを見据える必要はあろう。/「沖縄問題」ではない、否、「日本問題」でさえない。日米安保と東アジア大の問題なのだ。”と書き記した。
 名護市長選勝利の追い風にもなったであろう<「辺野古移設中止を」 海外識者29人が声明>を琉球新報2014年1月8日付で掲載。そこではノーム・チョムスキー、ジョン・W・ダワー、ノーマ・フィールド、ナオミ・クライン、そしてオリバー・ストーンも名を連ね、「辺野古基地建設中止・普天間基地の即時返還」を訴えている。

 さらに併せてアップしておきたいのが、「けーし風80」(2013・10)に掲載された「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉」である。これは2013年8月23日に38カ国400人余りが署名した「東アジア冷戦体制の最終的解決として 朝鮮半島に平和体制の確立を」と題する、東アジアの民衆連帯を志向する宣言である。若林千代の解題を付す。

 まさに、ここでは、アジア-世界の「識者」によって、日米両帝国主義によって「沖縄の軍事植民地状態を深化し拡大」(声明)され、「沖縄を世界的な戦争基地にする」(宣言)ことが、東アジア戦後史を解き明かしつつ、現在に至るも、はっきりと刻印されていることを糾弾している。
 加えて、2010年段階で藤原書店発行の『環』№41(特集◎「日米安保」を問う)での丸川哲史<日米安保と大陸中国/台湾関係【東アジアにおける「脱冷戦」とは何か】>の警句を引用しよう。
 “沖縄における反基地運動は、東アジアにおけるリージョナルな脱冷戦運動の一環としてあり、さらにはそれは暗黙のうちに日米安保体制の廃棄を展望するものである。であるならば、沖縄における反基地闘争とは論理的には、奇妙にもまさに沖縄の人々が日本(本土)に成り替わって、日本の「独立」のための日本の「再生」のために闘っている歴史的行為であり、またそれはさらに潜在的には両岸関係(及び朝鮮半島)の平和構築というリージョナルな歴史事業とも連関する行動にほかならないのである。
 日米安保の「終わり」、それこそ、東アジアの新しい時代の真の幕開けを意味するものである。”
 今は亡き川音勉が、昨年開催の4.28東京集会と連動し、5月18日に那覇で開催された「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」シンポジウムに丸川さんを是非招請したいという熱い気持ちが理解できる。


 ◎ 「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」
 ◎ 「東アジア冷戦体制の最終的解決として 朝鮮半島に平和体制の確立を」
   <解題>若林千代「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉について」



東アジア冷戦体制の最終的解決として 朝鮮半島に平和体制の確立を
――朝鮮戦争停戦60周年を迎え、狭小な領土主義、民族主義、国家主義、軍事主義を乗り越えるための東アジア知識人宣言――

 2013年は、朝鮮半島で戦争が起こり、朝鮮半島内で200万人余りの死者を出し、さらに国際的レベルにおいて第二次大戦以降の戦後世界秩序を冷戦的対決秩序へと切り替えるのに決定的な役割を果たした、朝鮮戦争の停戦から60年となる年である。この戦争は、60年を経た今でも停戦しているのみであり、終戦や平和体制に切り替わっていない。朝鮮戦争以後現れた朝鮮半島の停戦体制と分断体制は、単に韓国と北朝鮮だけの問題ではなく、東アジアの次元で我々すべてを狭小な領土主義、民族主義、国家主義に捕われたまま、持続的な軍事的対立関係に陥らせた。我々はこの停戦、分断体制を終息させ、朝鮮半島に平和を定着させることこそ、我々の生きる東アジアを平和共同体へと作り変える長い旅路において大変重要な最初の一歩であると考え、東アジアの知識人の名においてこの宣言を行う。

 我々は、朝鮮戦争の勃発が、朝鮮半島に住み戦争を経た多くの人々に人間的な苦しみと不幸をもたらしたことをよく知っている。そしてその戦争は後々にわたって、大韓民国(以下、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)のいずれにも、人間的・社会的な憎悪と敵対を継続させた。このような停戦体制は、南北朝鮮の政治的、社会的発展を厳しく制約し、民衆の多様な選択の可能性をはじめから遮断した。
 しかし、朝鮮戦争の波紋と苦痛はそれを越え、より大きな世界的レベル、そして私たちの生きる東アジアのレベルにおいて、おびただしい波紋と苦痛をもたらした。まず、朝鮮戦争は第二次大戦以降、より良い秩序を生み出そうとするアジア各社会の自生的な努力を挫折させ、世界的レベルでは冷戦体制を生んだ。そして20世紀後半には、米ソを頂点とする資本主義陣営と社会主義陣営の間に「不毛の対決」を生んだ。

 我々は、朝鮮半島で起こった朝鮮戦争が20世紀の世界史を消耗の多い冷戦的対決へと導き、20世紀後半を「悲劇の時代」へと作り変えた重要な事件であったといわざるを得ない。第二次大戦においてはファシズム的戦争国家に対抗して手を組んだ米国とソ連は、朝鮮戦争を機に相手を「悪魔化」し、敵対的な対決と共存――むろん、それは「敵対的共犯」でもあった――の泥沼に陥った。このような米ソ間の消耗の多い敵対的対決は、単なる二強大国間の対決に終わらず、東アジアの各国でさまざまな国内の政治社会的対決を極端化し、不要な軍事的葛藤を引き起こした。民主主義的な手続きによって国内の選挙葛藤や政治的葛藤として展開されうる多くの事案が、虐殺と独裁、軍事対決へとエスカレートする重要なきっかけとなった。
 さらに、朝鮮戦争は東アジアにおける保守的秩序を強化する重大な「外的」要因としてはたらいた。東アジアにおいて植民地支配と戦争に責任のある日本の天皇および戦前ファシズム勢力をして米国の庇護のもと戦前のファシズム秩序を「変形」させ維持することのできる決定的な契機を与えた。米国は東アジアの反共秩序を強化するために、妥協的に日本の天皇制・保守秩序を容認することとなった。このような意味において、朝鮮戦争は日本の右翼勢力の保守的な支配秩序、戦争責任と植民地支配を反省しない右翼的な歴史認識と態度を強め、沖縄を世界的な戦争基地にするという、意図せぬ効果を生んだといえよう。現在、「天皇陛下万歳」を叫んで戦争責任を否認し靖国神社参拝を堂々と行う日本の安倍政権の姿は、実は戦後日本の民主化プロセスと可能性を厳しく制約した朝鮮戦争の負の効果の一つといえる。
 また、1949年、蒋介石政権は人民に見捨てられて本土から台湾に敗走し、政権の存立自体が困難な境地に至ったが、やはり朝鮮戦争を機に切り替わった米国の対東アジア冷戦政策の中で、長期独裁の基礎を固めることに成功した。朝鮮戦争以降、蒋介石政権は台湾人民に対し白色テロを通じて国共内戦を延長し、米国の台湾海峡封鎖に協力する過程で、台湾の政治的・社会的発展を極度に制約しつつ独裁体制を守った。
 さらに、朝鮮戦争は革命以後一年にしかならない中国の49年革命政権にも衝撃と変容とを引き起こした。すなわち、中国は建国から一年にも満たない時点で朝鮮戦争に介入することで、多くの人命損失と経済的な被害に耐えなければならなかった。そればかりでなく、朝鮮戦争は安定的かつ平和的な方法で国家建設を推進しようとしていた初期の「新民主主義」構想から遠ざかり、猛スピードで社会主義体制の建設を押し進めさせる政治的動力を提供する負の政治的遺産を残した。
 朝鮮戦争の影響はここに留まらない。朝鮮戦争によって、東アジアの多くの国々で戦後秩序が急激に否定的に変形され、帝国主義秩序に組み込まれるか積極的に協力していた多くの勢力が「反共」の名の下に国内政治を硬直化させ、植民地時代の既得権を維持することに成功した。朝鮮戦争と停戦によって朝鮮半島に南北朝鮮の分断体制が成立したとするなら、この分断は東アジアの多くの国々の内部で「親共対反共」の分断体制を出現させたのである。

 このように東アジアにおびただしい負の遺産を残した朝鮮戦争は、その後、南北間の対決、朝米間の対決、さらに最近の日朝間の対決などの形で再生産されながら、東アジアが平和共同体へと向かう動力を目に見えて弱めてきた。むろん、1970年代以降、米中関係正常化、日中国交正常化等を経て、朝鮮戦争による東アジアの冷戦的対立は緩和されもした。特に1990年代、グローバルな次元で冷戦体制が解体されるにともなって、東アジアでも冷戦の陣壁を乗り越えようとする交流と協力の試みが部分的になされた。しかし、不幸にもこのような試みは朝鮮半島の冷戦体制を平和体制へと作り変えることにつながらなかった。その結果、朝鮮半島の停戦体制は東アジアに「平和の好循環構造」を生ませず、「葛藤拡散の悪循環構造」を生む方向で今もはたらいている。すなわち、冷戦体制の解体過程において朝鮮半島に新たな平和体制が構築されなかった結果、自己に対する安全保障の脅威が増したと判断した北朝鮮は、体制の安全を確保すべく厳しい経済的条件においても核兵器開発など軍事力の強化に多くの財政を投入している。このような北朝鮮の自衛的な軍事力強化を、日本の再武装化を促進し平和憲法の改定と自衛隊の強化などのための「外的名分」として、日本の右翼勢力は利用している。さらに米国は東アジアの同盟国の保護という名のもとで再び米韓軍事演習を強化し、日本の軍事基地を強化している。実際、鳩山由起夫政府の時期に民主党が公約までしていた沖縄県外に普天間基地を移転するという公約を諦め、沖縄県内の辺野古基地内への移転に後退したことは、天安艦事件による朝鮮半島の軍事的緊張の高まりを理由にした米国の日本政府に対する圧迫が主に作用していた。安倍政権が近隣諸国の憂慮にもかかわらず進めている自衛隊の軍隊化および軍事大国化戦略、さらに、平和憲法改定の試みもやはり朝鮮半島の軍事的緊張を悪用した代表的な事例である。これは、朝鮮戦争から引き続く朝鮮半島での南北間対決、米朝間対決が、現在も形を変えて東アジアの「葛藤拡散の悪循環構造」の環として作用していることを示している。
 これは単に軍事的緊張拡大の「間接的」要因として作用することを超えて、1993~1994年には「第一次北朝鮮核危機」として、そして2002年には「第二次北朝鮮核危機」という形で、戦争状態に戻りかねない危機状況としても現れた。幸い2003年以降「6カ国協議」という形で朝鮮半島における南北間対決体制と米朝間対決体制を終息させるための努力が進められ、このような努力は、2005年に韓国、北朝鮮、米国、中国、ロシア、日本の6カ国協議当事者による9・19共同声明が発表され、朝鮮半島の緊張緩和への重要な原則を確立し、実行体系を議論する段階に至った。しかし、6カ国協議は平和定着の道へと進むことができずに漂流し、2013年2月の北朝鮮の核実験以降に発生した余震から、朝鮮半島が未だ抜け出せていない。

 朝鮮半島の軍事的対決が全世界の平和をいかに脅かしているかは、世界の軍事費の統計にも明らかに表れている。冷戦終息後、世界が軍事費を35%減らす間にアジアの国家たちは軍事費を36%増額させ、アジアの国家が占める国防費比重は1995年の世界の6・9%から2000年には世界の14・5%へと大幅に上昇した。2010年現在、南北朝鮮、米国、中国、日本、ロシアなど6カ国協議参加国たちの軍事費が継続的に増えている。米国の6,980億ドル(世界軍事費1位)、中国の1,190億ドル(2位)、ロシアの587億ドル(5位)、日本の545億ドル(6位)、韓国の243億ドル(12位)、また公式統計ではつかめない北朝鮮(米中央情報局の推計30億ドル)までを含めると、6カ国協議参加国の軍事費総額は9.302億ドルに達しており、2010年全世界の軍事費の約57%の水準に至っている。これは朝鮮半島を取り囲む軍事的緊張の構図が、全世界の軍事的対決の重要な基盤であり、構成部分であることを示す。これからも現在の停戦・分断体制は今後の東アジアの軍事的緊張と領土主義の衝突を深化させる根拠として作用するだろう。
 このような点において我々は東アジア知識人共通の関心と意志を結集して次のように主張するとともにこれを広く共有したい。

 一つ、我々東アジアの知識人は、旧い国際的対決構造であり葛藤誘発体制である停戦体制を平和体制に切り替えるための根本的な努力が必要であると宣言する。我々はまず最初に停戦60年を迎え面期的な思考の転換を通じてこのような東アジアの悪循環構造を真っ向から見すえ、朝鮮半島における停戦体制を終息させるためにともに立ち上がらなければならない。我々は朝鮮半島に平和体制を定着させることを出発点として、究極的には「東アジア平和共同体」へと進んでいくべきであるという点を強調したい。そのためには、地域内の国家間において、覇権的競争よりはむしろ協力的競争が我々すべての共存と繁栄のためにはプラスであるという認識を持つ必要がある。同時に、圧迫と覇権の強化を通じて平和を達成しようとする過去の冷戦的かつ対決的な指向を乗り越える認識の大転換が必要である。それとともに、各々の市民社会の内部に深く根を張っている冷戦の遺産を、我々皆が省察克服していかねばならない。

 二つ、停戦体制を平和体制へと切り替えることは、戦争状態の公式な終結を宣言する「終戦宣言」をはじめ、当事者間の平和協定締結、米朝修交および日朝修交などを含む包括的なものでなければならないと我々は信じる。これに関して、朝鮮半島の平和体制と東アジアの平和体制を脅かす核心的な要素として、北朝鮮と米国が即刻対決関係を清算し、米朝間の不可侵協定および関係正常化が全面的になされなければならない。米国は北朝鮮の体制を不当に脅かす行為を中断し、北朝鮮は非核化に向けた即時の全面的転換をしなければならない。2005年の9・19共同声明ではすでに、北朝鮮が「すべての核兵器および現存する核計画の放棄」および「核拡散防止条約(NPT)および国際原子力機構(IAEA)への復帰」を約束する一方、米国は「核または通常兵器で北朝鮮を侵略せず、関係正常化のための措置を実行すること」に合意している。このような方向に向かうにあたり、米朝間にある深い不信の溝が大きな障害物となっている。これに関し我々は、北朝鮮が米国に対して最も深く憂慮している「北朝鮮の体制に対する脅威」の問題を明示的に解決し、北朝鮮は核兵器開発など、国際社会が容認しない自衛手段を通じて体制を守ろうとする姿勢を放棄し、全面的な平和の道へと進むやり方で電撃的な解決法案を模索しなければならないと言いたい。

 三つ、我々は平和体制の構築を飛び石に「核なき東アジア」へと向かって行かなくてはならない。第二次大戦の終結過程において経験した日本での原爆被害、戦後冷戦体制下における核を取り巻く進歩勢力内の葛藤、2012年の3・11原発事故、東アジアのさまざまな地域における大小の原発事故とそれに関連した民衆の苦しみを考慮するなら、「原発なき東アジア」の意味を持つ。また、我々はここで「核兵器なき東アジア」という意味での非核化は東アジアにおいて譲歩することのできない非妥協的な原則として位置付けられなければならないという点を強調する。このような点で我々は、北朝鮮が自らの体制擁護のために行う核兵器開発戦略が、東アジアにおいて核兵器と軍事力の増強などの悪循環を生んでいることに深い憂慮を表す。同時に我々は、2005年に韓国、北朝鮮、米国、中国、ロシア、日本の6カ国協議当事者が合意した9・19共同声明において表現されたように、韓国には戦術核が配置されてはならず、日本も核兵器開発の試みがあってはならず、核保有国はこの地域で使用しないことを約束しなければならないという点を強調する。我々の言う北朝鮮の非核化、朝鮮半島の非核化、東アジアの非核化の原則は、当然、米国の韓国と日本に対する「核の傘」提供の廃止も含まれなければならない。そして「東アジア非核地帯」が具現化されなければならない。そして、最終的には米国、ロシア、中国など核武装国家の核軍縮、さらには非核化へと進まねばならない。

 四つ、我々は停戦体制を平和体制へと切り替えるための国際的介入を、より体系的かつ組織的に、より大きな影響力としていかなければならない。ゆえに我々が達成すべき平和体制の原則と方向、具体的な姿を、国際的な協議とコミュニケーション、検証と世論化を通じて、地域的・国際的な代案として作り上げるのにすべての努力を傾けなければならない。朝鮮半島と東アジアにおいて平和体制を作り上げていく過程は、政府間の交渉だけでは決して達成されえない。むしろ、市民社会と民衆の共通の認識、そしてそれに基づいた連帯の実践、さらに下からの圧力を通じてはじめて実現されうる。朝鮮半島の停戦体制を東アジアの共通の問題と捉え、東アジア知識人の共通の連帯声明文を発表するのも、そのような努力の一環であると我々は信じる。

 振り返ってみれば、第二次大戦以降、冷戦の長い年月の間に実は「東アジアの共通の連帯性とアイデンティティ」を失ってきたのかもしれない。この失われた連帯性とアイデンティティは冷戦が解体した後にも回復されておらず、我々は今も僻偏狭な国民国家的安保観に囲まれ、互いに対立しあっている。我々は朝鮮半島において平和体制を定着させていく過程が、東アジアの個々の国家を越える共通の連帯性とアイデンティティを回復していく過程の一部となることを信じる。東アジア、あるいはアジアは、経済的差異、理念、人種およびエスニシティ、民族、宗教、言語など、多様な側面で大きな異質性を持つ地域である。これは葛藤と敵対の大いなる土壌ともなりうるが、我々がこのような「差異」を真に尊重しようとする思考へと転換するならば、豊かな「共存の美学」と「共存の政治学」が発展しうる土壌でもある。このような異質性の状況で我々は――覇権的な理念や圧倒的な経済力で地域内の国家を制圧しようとする思考を乗り越えて――差異を尊重し、差異を通して「多様性の好循環構造」を生みだす方向に向かわねばならないと考える。
 残念なことに、朝鮮戦争停戦60年を転換点として平和への道へと邁進すべき現在、極端な緊張と対決の時点へと回帰していること自体が悲劇的であると言わざるをえない。朝鮮戦争が重要なきっかけとなった冷戦秩序が表面的には終焉を告げたにもかかわらず、朝鮮半島の内外でその秩序がより強烈に継続している姿は、現在の国際秩序の真の姿を見せてくれる魔法の鏡でもある。これは21世紀の東アジアの最大の罠であり、傷であり、ゆえに最大の解決課題だと言わざるをえない。我々は停戦60周年を迎え、東アジアにおいて一大転換が必要だと考える。今こそ停戦体制の60年が作りだした軍事的かつ抑圧的な国際・国内秩序を反省し、朝鮮戦争を確実に終結させ、朝鮮半島の平和体制を構築することによって、東アジアの平和定着に決定的な転機が準備されなければならない。
 そのために、我々は狭小な領土主義、民族主義、国家主義、そしてそこに基盤をおく軍事主義を飛び越えなければならない。停戦60周年を迎える2013年、東アジア諸社会の知識人は知恵を集めて旧い体制の全面的転換を宣布し、平和体制に向けた代案を共有するための努力を共に行わんとするものである。
2013.8.23



朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉について

若林 千代

 今年は朝鮮戦争停戦60周年にあたり、韓国ではさまざまな記念行事やシンポジウムが開催されている。昨年から今年にかけて、韓国での政権交代や北朝鮮の核実験などを契機とする国内/国際的な情勢の不安定化を憂慮し、国家ではなく市民や民間の立場での平和努力に関する議論が活発である。
 そうした動きの一つとして、去る8月28日、80年代の民主化運動時期より活動を続けてきた韓国の民教協(民主化のための教授協議会)が中心となってまとめられた「朝鮮戦争停戦60周年を迎え、狭小な領土主義、民族主義、国家主義、軍事主義を乗り越えるための東アジア知識人宣言」がある。「宣言」には、38カ国400名余りの研究者やジャーナリスト、市民活動家が署名した。沖縄に関しても、普天間/辺野古に関する記述だけでなく、沖縄が「世界的な戦争基地」とされていく直接的な契機として朝鮮戦争があったことが指摘されている。次頁は、その日本語バージョンである。
 「宣言」発表と同じ日、民教協は「東アジアのなかで朝鮮戦争を位置づける――朝鮮戦争停戦から平和体制へ」をテーマにシンポジウムを開催した。シンポジウムでは、朝鮮半島情勢についてだけでなく、ブルース・カミングス(シカゴ大学)、汪暉(北京清華大学)、和田春樹(東京大学)ら諸氏が朝鮮戦争に深く関与した米中日の問題に言及し、また、中国内戦で敗退して台湾に逃れた国民党の関与と戦争捕虜問題、さらに朝鮮戦争における米軍の出撃・兵站両面で前線基地とされた沖縄に議論が及んだ。「宣言」にも署名したカミングス氏は、60年前の停戦は平和協定にはならず、朝鮮半島に「戦争ではないが、平和でもない」という状態を生みだし、同時に、停戦協定以後、アメリカが韓国に対する核配備を進めたことを指摘。北朝鮮の核武装をめぐる問題の根源には、こうしたアメリカの、いわば「恫喝じみた外交」があると述べた。この問題は沖縄の核基地化はもとより、日本本土や台湾、あるいは中国(核開発など)、フィリピンや東南アジアの政治状況にさまざまな面で影響をもたらしたと言えるだろう。民教協代表のチョ・ヒヨン氏(聖公会大学インターアジアNGO大学院教授)は、今後、「宣言」を土台として、BINA(境界なきアジア知識人ネットワーク/Borderess Intellectuals Network in Asia)を構想し、平和に関する議論をより一層深める必要があると語っている。沖縄が直面する島嶼領有権や軍事化の問題について考えると、こうしたネットワークの議論は今後重要となるように思う。(沖縄大学/本誌編集委員)
(けーし風80・2013・10「北の風・南の風」)


【2014.01.17】沖縄県議会「仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」(2014年1月10日)を読む

 遅ればせながら、新年1月10日に可決された沖縄県議会「仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」をアップ。併せて沖縄タイムス・琉球新報の翌日に掲載された社説と、この県議会決議に先立つ1月6日に可決された那覇市議会「辺野古移設断念と基地負担軽減を求める意見書」もアップした。
 新報社説は「もはや信を失っている 民意に背いた責任は重い」との見出しを掲げている。「オール沖縄」の陰に隠れて、買弁派が蠢いていたが、買弁派-植民地官僚としての馬脚をとうとう現したとも言える。
 自民選出国会議員は、石破の恫喝に屈服しただけではない。フェイク島尻にせよ、「ウチナーンチュの心」を引き継げなかった西銘にせよ、名護市長選で「新基地建設推進」を声高に叫び、またぞろ石破が「500億円で君たちを買収したい」とさえ宣っている。そして、あの無惨な仲井真は、東京から戻るや「知事公舎」に立てこもっていたが、新年早々の1月5日には、宮崎政久衆院議員、島尻安伊子参院議員に加えて、佐喜真淳宜野湾市長、宜保晴毅豊見城市長、松本哲治浦添市長、中山義隆石垣市長などが「仲井真激励」に訪問している。(新報20140106)

 名護市長選の圧勝を!


仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議

 仲井真知事は、去る12月27日、国が提出した辺野古埋め立て申請を承認した。これは、選挙で「県外移設」を掲げた政治家としての公約違反であり、県議会が重ねて全会一致で求めてきた「県内移設反対、普天間基地は国外・県外移設」とする決議を決定的に踏みにじるものである。
 療養のため欠席した県議会がまだ開会している中、上京し、政府首脳との会談で本県議会に何らの説明を行わないまま「承認の4条件」と称されるような要請を唐突に行うなど、その手続きは議会軽視であり、許されない。また、「驚くべき立派な内容」「140万県民を代表して感謝する」などと県民を代表して謝意を述べ、米軍基地と振興策を進んで取引するような姿がメディアを通じて全国に発信されたことは屈辱的ですらあり、県民に大きな失望と苦痛を与えた。
 加えて、埋め立て承認によって米軍基地建設のための辺野古の埋め立てに自ら道を開きながら「県外移設の公約を変えてない」とその非を認めず、開き直る態度は不誠実の極みであり、県民への冒涜(ぼうとく)というほかない。
 かつて、これほどまでに政府に付き従い、民意に背を向けた県知事はいない。戦後69年、復帰後42年を迎えようとする中、昨年1月の県民総意の「建白書」に込めた決意を否定し、県民の中に対立を持ち込むもので、言語道断である。
 沖縄の自立を遠ざける方向へ後戻りを始めた仲井真知事にもはや県民代表の資格はないと断ぜざるを得ない。知事は、公約違反の責を認め、その任を辞して県民に信を問うよう求める。
 以上、決議する。
 平成26年1月10日

 沖縄県議会

 沖縄県知事あて


仲井真県知事の辺野古埋め立て承認に抗議し、辺野古移設断念と基地負担軽減を求める意見書

 去る12月27日に仲井真県知事は、辺野古移設に向けた政府の埋め立て申請を承認した。埋め立て承認は、県内すべての市町村長、議会議長、県議会議長らが署名し、普天間基地の県内移設断念などを求めて、安倍晋三首相に直訴した「建白書」に反するものである。
 これまで仲井真県知事は、平成23年5月に辺野古移設に向けた日米共同声明を受け、「県や地元の了解を経ずに移設案が決定されたことは誠に遺憾。受け入れは極めて厳しい」、また続く6月県議会では「県内移設は不可能に近い。拒否の選択肢もある」。同年9月県議会においては、「日米共同声明を見直し、県外移設を求めていきたい」。また、平成24年9月に当時の外相や防衛相との会談では「県外で移設先を探した方が早い」。続く同月の米国ワシントンでの国際シンポジウムでは「他の都道府県への移設が合理的で、早期に課題を解決できる。辺野古移設は見直すべきだ」。そして去る12月県議会においては、「日米両政府に普天間の県外移設、早期返還の実現を強く求めていく。県外で探さないと現実的にはならない」などと、これまで県民の総意を反映した姿勢を示してきた。
 仲井真県知事は、埋め立て申請を承認する一方、「県外移設」要求という前回県知事選の公約は撤回せず、「県外移設の方が早い」との持論を堅持する姿勢を示しているが、これは埋め立て申請を承認することと相いれないものである。
 また、去る12月25日、安倍首相の仲井真県知事との会談での「米軍普天間飛行場の5年以内の運用停止」に向けた一連の発言は、閣議決定でもなく担保力もないものであり、いわゆる口約束にすぎない。
 当日の安倍首相の基地負担軽減策などの説明に対し、仲井真県知事の「驚くべき立派な内容に140万県民を代表して感謝する」との発言は、県民の思いと大きくかけ離れたものであり、県民の落胆は計り知れないものがある。
 仲井真県知事のこれまでの辺野古問題に関する公約や議会答弁などと、今回の埋め立て申請に対する承認が全く矛盾するものであることは言を俟たず、仲井真県知事が県民に対して説明責任を負うことは言うまでもない。
 よって、本市議会は、安心、安全で平和を求める沖縄県民の期待に反し、辺野古埋め立てを承認した仲井真県知事へ強く抗議するとともに、辺野古移設断念を含めたあらゆる基地負担軽減策を早急に実行するよう政府に要請することを求めるものである。
 以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。
 平成26年(2014年)1月6日

 那覇市議会

 沖縄県知事、および内閣総理大臣あて


<琉球新報>2014年1月11日
社説 知事辞任要求決議 もはや信を失っている 民意に背いた責任は重い

 こじつけとはぐらかし、開き直りが、これほど飛び交った議会答弁がかつてあっただろうか。/県議会臨時会で米軍普天間飛行場の辺野古移設のための知事の埋め立て承認をめぐる質疑がなされたが、知事や県幹部の答弁は詭弁(きべん)と言い逃れに終始していた。支離滅裂と偽装の羅列と言い換えてもいい。今の県庁には「話者の誠実性」が徹底的に欠けている。/県議会が仲井真弘多知事の辞任要求決議を可決した。賛成多数とはいえ、選挙で選ばれた県民代表の構成体が辞職を求めた意味は重い。知事は辞任すべきだ。自分の決定の正しさに自信があるなら、堂々と県民に信を問うべきだ。

開き直り
 知事は2期目の出馬の際の公約に「県外移設を求める」と掲げた。当時の記者会見では「(県内移設受け入れの可能性は)まずなくなった」とも述べている。辺野古移設にほかならない「日米共同声明」の「見直し」も明言した。/県外と言えば県内反対であるのは論理的必然だ。だが今臨時会で知事は「辺野古が駄目だと言ったことは一度もない」と繰り返した。この開き直りは「だまされた有権者が悪い」と言うに等しい。/知事は公有水面埋立法に照らして「基準に適合しており、不承認とする合理的理由はない」と説明したが、牽強付会(けんきょうふかい)だ。同法4条は「環境保全への十分な配慮」を必要条件としている。昨年11月末、環境影響評価に対する知事意見は「環境保全措置について懸念が払拭(ふっしょく)できない」と注文を付けたが、その後、環境保全措置は追加されていない。それなのになぜ突然、「適合」になったのか。/當銘健一郎土建部長は「(今後)保全措置をやれば適合するだろう」と知事に報告したという。こんな珍妙な理屈があるか。/法は、措置が十分かどうか吟味するよう求めているのだ。まだ提示されてもいない措置を勝手に推測し、それを根拠に許可するなら、今後いくらでも許可しなければならなくなる。/當銘氏は、国が申請する埋め立てに対し、県は拒否できないかのような説明もしたが、そんな判例はないはずだ。他の副知事や部長の答弁も、過去の答弁との矛盾に満ちていた。県の公務員は知事への奉仕者でなく、県民への奉仕者であるべきであろう。/知事は昨年末の埋め立て承認会見であえて振興予算に言及し、称賛した。この臨時会でも冒頭、予算に触れて「沖縄が飛躍的に発展する」と述べた。これで振興と基地の「リンク論はない」と強弁しても、納得する国民はいるまい。

意味のすり替え
 今回の質疑には意味もあった。普天間の「5年内運用停止」に伴う「県外移設」は、新基地が完成すれば「機能はかなり(沖縄に)戻ってくる」と、知事が認めたのだ。「県外」が万が一現実化しても、あくまで一時的にすぎないことがはっきりした。「県外」の意味はいつの間にか「暫定」とすり替えられていたのだ。/「県外移設の公約を変えていない」という知事の弁明について、今回の辞任要求決議は「不誠実の極み」と指摘する。琉球新報社などによる世論調査でも、承認を公約違反と見る意見は72%に上った。指摘の正しさを裏付ける。/決議はまた「かつてこれほどまで政府に付き従い、民意に背を向けた知事はいない」と批判した。「県民の中に対立を持ち込むもの」だったのも間違いない。/知事の承認表明が「沖縄の人はカネで転ぶ」「沖縄の抵抗はカネ目当て」との印象を全国に発信してしまったのは確かだ。その意味でも政治的責任は重い。/県内移設は、知事や当該市長が容認していた時代でさえ失敗した。その歴史から教訓をくみ取るべきだ。まして今回は、決議が示す通り、知事はもはや信を失っている。不毛の17年を繰り返したくないなら、日米両政府は辺野古移設を断念すべきだ。


<沖縄タイムス>2014年1月11日
社説[辞任要求決議可決]知事は状況を直視せよ

 県議会は10日、臨時会本会議で「仲井真弘多知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」を賛成多数で可決した。知事の辞任要求が決議されるのは県議会史上初めてである。法的な拘束力がないとはいえ、議会が「ノー」を突きつけた意味は極めて重い。知事は重大に受け止めるべきだ。/県議会が開かれるのは、昨年末、知事が米軍普天間飛行場移設に向けた辺野古埋め立て申請を承認して以来初めて。本会議では、知事の辞任要求決議とともに「普天間飛行場の閉鎖・撤去と辺野古移設断念を求める意見書」が賛成多数で可決された。/このことは、沖縄の多数意思が依然として普天間の辺野古移設に反対であることを示している。/意見書では、知事を支える与党の公明党も賛成に回った。仲井真県政を支える与党の一角から辺野古移設断念を求める意見が上がったことは、県の今後の基地行政にも大きな影響を与えずにはおかないだろう。/辞任要求決議は、知事が辺野古埋め立てを承認したことについて「公約違反であり、県議会が全会一致で求めてきた『県内移設反対、普天間基地は国外・県外移設』とする決議を決定的に踏みにじるものである」と強く非難した。/知事が埋め立て承認をしながら「公約を変えていない」と開き直っていることについても「不誠実の極みで県民への冒涜(ぼうとく)というほかない」と強い調子で批判した。/9日の県議会での説明からは、承認理由や公約との整合性について県民に説明責任を果たそうとする姿勢はみられなかった。疑問は深まるばかりである。
    ■    ■
 知事は安倍晋三首相との会談で「140万県民を代表して感謝する」などと謝意を述べ、県民の大きな反発をかった。これに那覇市議会が抗議の意見書を可決したが、県議会の決議でも「屈辱的で、県民に大きな失望と苦痛を与えた」と断じた。/知事が安倍首相に対して謝意を表したのは、知事一個人の判断であって、決して沖縄の多数意思を反映したものではないことを、県議会や那覇市議会の保守系議員も指摘したのである。/昨年1月に全41市町村長と議会議長らが署名した県民総意の「建白書」に込めた決意を否定し、県民の中に対立を持ち込むものであるなどとして、決議は、仲井真知事に辞任して県民に信を問うよう求めている。
    ■    ■
 県議会の知事辞任要求決議は、埋め立て承認に至る不透明な政策決定と、その後の知事の説明責任を十分に果たさない姿勢に対する抗議である。要請書作成の経緯や官邸との水面下の調整、埋め立て承認に当たっての環境保全対策などは、まったくといっていいほど真相が明らかにされていない。/昨年12月27日の記者会見や9日の県議会で浮き彫りになったのは、「独走」と批判されても仕方のないような知事の対応である。県民が抱いている数々の疑問を丁寧に説明する義務がある。闇に葬ってはならない。



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