2004年以前のEmigrant/2005年のEmigrant/2006年のEmigrant /2007年のEmigrant/2008年のEmigrant/2009年のEmigrant/2010年のEmigrant/2011年のEmigrant /2012年のEmigrant/2013年のEmigrant/2015年のEmigrant/2016年のEmigrant 【2014.12.03】仲里効「来るべき自己決定権 沖縄/南のエッジから 日本を揺さぶる変革の波」を読む 仲里さんが『世界』の2014年11月号と12月号に「来るべき自己決定権 沖縄/南のエッジから 日本を揺さぶる変革の波」と題した論考を発表した。(上)は、書かれていないことの大切を焙り出すような「昭和天皇実録」と、クリントン政権下で駐日大使を務めたモンデール口述記録を素材に“「天皇実録」と「モンデール口述記録」、この二つの記録を沖縄の視点で見ると、戦前期、戦間期、占領期を貫き現在まで継続する、包摂と排除を使い分ける鵺的統治構造に突きあたるだろう。……つまり72年以前においては排除しながら包摂したとすると、72年以後は包摂しながら排除していくことに変化したまでにすぎない”と述べ、最後に「95年からはじまった沖縄的不服従の思想資源」とのこ見出しで“……こうした95年を起点に、質的変化を遂げながら厚みを増していく抵抗が問題にしたのは、沖縄をアメリカの占領に隔離することによって「国体」を護持した日本政府の排他性であり、変わらない米軍の「特権的地位」と「例外状態」であり、「戦後レジームからの脱却」を掲げた政権の右旋回である.。……そして、第二次安倍政権が誕生後に打ち出した、サンフランシスコ条約が発効した4月28日を、日本が主権を回復し国際社会に復帰した日とする政府主催の記念式典は、日本の〈主権〉と〈国体〉が沖縄を切り捨てることによって回復した事実を、忘却の彼方から呼び出すことになったのである”、と(下)の“沖縄の自立的〈主体〉は発明し直されつつあるのだ。その自立的〈主体〉の発明を沖縄は、「島ぐるみ」という集団表現のなかから洗い出そうとしているようにも思える”と続ける。 10万票差という圧倒的な翁長雄志=沖縄アイデンティティ=新知事誕生に対して、日本政府は、なりふり構わず暴挙を繰りかえさんとし、まさに仲井真が「自発的隷従」の徒よろしく、無惨な動きすら見せている中、沖縄の民衆の闘いはひるむことなく続けられている。 かつて仲里さんは「独立を発明する」と語った。もちろん彼は「出来合いの独立論」に対しても優しい。「政治の希釈」は、間階級的な胎動、そして、あるいは民族ブルジョアジーの登場や排他的言説の台頭をも再審する射程を持つ。
【2014.10.25】新城郁夫「琉球国の主権というお化け」を読む。併せて仲里 効「独立を発明する①沖縄の主体組み直す」も。 「けーし風」と「うるまネシア」を通じた「公開討論」とも言える「新城-新川論争」ではあるが、国家と社会をめぐる、そうであるが故に、人々と権力をめぐる沖縄の自立解放の来し方行く末について、大いに触発される。独立学会の危うさについて、それとして言及しているわけではないが、島袋純は「オープン・ナショナリズム」と語っているそうな。 旧聞に属するが沖縄タイムスが2014年9月2日から「独立を発明する」という連載コラムを「歴史の転換点で、さまざまな自治・自立のあり方が議論された沖縄。「反復帰」「琉球共和社会」「沖縄自治州」などこれまで言及されてきた独立論を含む沖縄の自己決定権の獲得には幅広い選択肢がある。沖縄の現状を踏まえ、各論者に望ましい未来像について論じてもらう。」のリードを付して開始した。トップバッターの仲里効の論考も併せてアップ。 普天間-辺野古-高江と連なる沖縄民衆の闘いは、11月県知事選を迎え撃とうとしている。辺野古新基地建設反対80%という沖縄民衆の世論調査と、「選挙」は全く別物であろう。かくも愚かしい安倍政権ですら、まだ50%の支持率だと聞く。そして沖縄県全11市長のうち9市長が仲井真支持だそうだ。 辺野古での座り込みを先頭に、現場での闘いをさらに強め、広め、日米両政府に痛打を浴びせかけること抜きに、自発的隷従へ沖縄を引きずり込もうとしている植民地官僚と買弁勢力を一掃し難い。毎週バスを連ねて辺野古の座り込みに参加する「島ぐるみ会議」の健闘を讃えつつ。
【2014.10.18】「反復帰論のいま」を読む 体力も、そして何よりも気力の減退を感じ始めてしまった。安倍ファシスト(もう、こう呼んでもいいだろう)壊憲政権が憲法はおろか、多分「日米安保条約」や「地位協定」さえ知らないであろうことが、日々暴露されているにもかかわらず、まだ、「お腹が痛い」とは言わない今、泣き言など言っている場合か!と叱られそうだ。 こんなにも「怠け者だったのか」と、日々思い知らされている。もっとも、Kさん(@川田洋)には、とうの昔に見抜かれていたようだが…… こんな繰り言も書き連ねるのも、我がPCがなんとも不調になったこともある。もうサービスが終了した「windows XP」である。買い換え時期か? よたよたしながらも、やっと、更新!である。 さて、全球化帝国主義がのたうちまわる度に、災禍は人々の上に降り注がれる。そして、日本は「武器と原発輸出」に加えて「カジノ解禁」がアベノミクスの「第三の矢」だと! しかし、沖縄は不屈の闘いが普天間-辺野古-高江で繰り広げられている。絶対に沖縄に新たな基地を作らせてはいけない。これは我々日本プロレタリアート人民の責務なのだ。辺野古新基地は決して普天間代替ではない。軍港機能さえ持つ巨大軍資基地なのだ。安倍が嘯いた「主権回復の日」たる1952年4月28日は、我々日本プロレタリアート人民にとって「屈辱の日」ではないか。朝鮮特需という血塗られた「奇貨」による、日本帝国主義の復活の第一歩であったということは、決して忘れてはならない。沖縄の自立解放への連帯は、日本-沖縄の共生への第一歩に他ならないと、改めて懐う。 沖縄タイムスが「岐路 歴史を掘る未来を開く 第3部 戦後編」において、二日間にわたって「反復帰論のいま」を掲載した。 日本に比して、沖縄は「反復帰論」の思想資源を豊かに実らせつつある。もちろん、行く手は困難ではある。しかし、こう言ってよければ「希望」に満ちあふれているではないか。
【2014.07.29】「島ぐるみ、オール沖縄、建白書―沖縄・琉球論の試み―」を読む 『うるまネシア』第18号(2014年06月23日発行)は、「島ぐるみ、オール沖縄、建白書 ―沖縄・琉球論の試み―」を「特集」として組み、10名の論者に様々な角度・視点からの論考を掲載している。これ自体、時宜に適ったものだと言えよう。もちろん「沖縄の指導者たち」への批判として「つまり、事大主義、強いもの、権威に寄りかかる行為である。同化主義がその典型だと思う。今回の「建白書」という形式にしたのも、物事の本質を考えない沖縄知識人の形式主義や事大主義からくるものだろう。古色蒼然とした「建白書」という響きに酔ったのだろう」という批判する論考(渡名喜守太「『建白書』という形式にみる沖縄指導者たちの心理と生理」)もある。 「オール沖縄」や「アイデンティティ」或いは「島ぐるみ」……、それぞれがダイナミズムを持って語られる、すなわち民衆の胎動として動き始めていることは確かであり、日本-日本人への批判・排斥としての駆動力を生むことも、なかば「歴史の必然」でもあろう。しかし、「同化主義」の対になる言葉は「排外主義」ではあるまい。「けーし風」での新城郁夫の論考を私はそう読んだが、いかがなものか。 「島ぐるみ会議」は主催者側が「千人は集めたい」と語っていたが、なんと倍する人々の結集を得たという。「植民地官僚」を担ぎ上げる同化買弁併合勢力との分水嶺を創り出すことこそが問われている。 愚かしくも壊憲(改憲ではない、憲法破壊である)安倍政権は、ありとあらゆる国家権力(-暴力装置)を投入して、辺野古新基地建設を強行せんとしている現在、彼が「日本の最高指導者」(そして最高指揮監督者)であることの不幸を嘆いてばかりはいられない。 ●高良 勉「島ぐるみ運動へ」 ●内海=宮城恵美子「『島ぐるみ会議』から自己決定権の獲得へ」 ●島袋 純「沖縄『建白書』の実現を目指し未来を拓く島ぐるみ会議の結成について」 ●平良 識子「総意を後退させてはいけない」 (『うるまネシア』第18号20140623「島ぐるみ、オール沖縄、建白書―沖縄・琉球論の試み―」) ※沖縄タイムス2014年7月27日<島ぐるみ会議2千人結集「基地支配を拒否」> ※琉球新報2014年7月27日<建白書の実現訴え 「島ぐるみ会議」大会に2千人> 【2014.07.21】 7.12シンポでの川満レジュメ採録
【2014.07.13】 丸川哲史の7.12シンポ呼びかけを読む 7月12日、風游トップページでも紹介した<シンポ「いま、なぜ、琉球共和社会憲法か」>の発題者でもある丸川哲史のシンポ呼びかけが、沖縄タイムス20140707に掲載されていた。もはや誰も「居酒屋談義」などと揶揄する者もなく(否、早世した真久田正が、佐藤優より十年以上も早く、「独立運動は居酒屋から始まる!」と豪語していたが)、「思想資源としての反復帰論」(これまた、若くして亡くなった屋嘉比収の2008年シンポの基調報告)から確実に、辺野古・高江の闘いと連動して、自立解放の政治・思想潮流として生まれつつある。
【2014.06.15】 川田洋「新左翼運動と沖縄闘争――全軍労第三波の“流産”と4・28闘争」を読む すでに風游サイトで川田洋「国境・国家・第三次琉球処分」(『情況』1971年4月号所収)をアップしたが、ほぼ一年前の『情況』(1970年6月号)に、川田洋が「新左翼運動と沖縄闘争――全軍労第三波の“流産”と4・28闘争」を執筆していた。 69年の敗北(頂点へ登りつめた!)後の苦闘の論考と言ってよいだろう。この二本の論考を読めば、69年日米共同声明=沖縄の「施政権返還」をめぐる当時の、日本からする沖縄・日本の闘いの有り様が生々しく浮かんでくる。70年代初頭における最良の論考、と言えば褒め過ぎか。 ……沖縄にとって「復帰」は、軍政権構造、および基地による生活破壊からの解放の政治表現として展望されて来た。現地の闘争は“復帰”の旗幟下に、何よりも民主的諸権利を獲得する闘争として展開されて来た。平和憲法こそ、沖縄に与えられなかった「平和と民主主義」のシンボルであり、“復帰”はその獲得である筈だった。その意識構造は、米軍政と巨大な基地構造という重い物質関係の中に、それえの抵抗・それからの解放の要求であったのであり、日本人意識とか愛国的意識とかに支えられたものではなかったし、従ってこれを「民族主義」としてイデオロギーの水準で問題にしてみても、現地の人民の闘争が変わるわけのものでもなかったのである。 ……政治性というのは、「奪還」か「解放」かというようなレベルで言っているのではない。「復帰」の旗の下に蓄積された闘争史の中で、沖縄人民がつくりあげて来た沖縄固有の戦闘性を、灰の中のダイヤモンドとしてとり出し、みがき、帝国主義的併合の権力政治と、政治のレベルで闘いうる政治的自己表出の論理こそが今形成されるべきものなのではないか、と考えるのである(注・16)。沖縄プロレタリアートの戦闘性は、「沖縄」としての独自性を媒介にしなければ成立しない。 「国境・国家・第三次琉球処分」では、「はじめに」で次のように書き始めている。 ……私たちは、一貫して問題を、次のように立ててきた―<沖縄>は<本土>を拒否することによって、かつての日支両属・戦後の日米両属の歴史から飛翔しうるのであり、〈本土〉は、まさにそのような〈沖縄〉との関係においてのみ、<本土>としての規定性・日本という規定性を自ら破砕して新しい歴史過程を展望しうるのだ、と。この問題提起が、どのような抽象性を身にまといつけていようと、歴史過程の現実は、ますますこの提起の意味を客観化しつつある。 だが、おろかしい者たちはたえず私たちに、次のような「批判」を投げつけて来た。「本土復帰」に反対なのか、それなら「独立」論ではないか、はっきり言え、と。この問題の立て方が、愚かしいのは、「本土復帰」を肯定しようが、「独立」を主張しようが(もっとも、公然たる独立論は、琉球国民党の流れを汲むごく少数の沖縄ナショナリストと、ML派の「臨時革命政府」論のみだが)、ひとしく「沖縄問題」のブルジョア的解決があると考えているところにある。 【2014.06.08】 沖縄タイムス「4・28座談会 沖縄の自己決定権」を読む 三世代の論客に、司会が与儀武秀、三回連載で、論者の発言趣旨が小見出しとして掲げられている。若い世代を意識してか、噛んで含めるように語る仲里さんに対して、島袋さんは持論の展開だけでなく、若い世代の「自治・自立・独立」に対する考察・認識の危うさを“「民族」で一体感を持つのではなく、人権侵害の痛みの共有を基盤に、普遍的な権利に基づいて人々を結び合わせながら社会を再構成した方がいいと思う。「民族」ではそれができないと思う”と、突く。 それにしても「復帰運動(そして「反復帰論」も)」の「未」総括が尾を引いていると思われてならない。国場幸太郎なら、どう考えるか。 【2014.05.22】 国場幸太郎「沖縄の人びとの歩み」を読む 大著『戦後初期沖縄解放運動資料集』(全3巻)の別巻とも言える形で刊行(森宣雄・鳥山淳編著『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか-沖縄が目指す〈あま世ユー〉への道』不二出版2013)されたが、その半分近くを占めているのが「国場幸太郎自伝」とも言える“国場幸太郎「沖縄の人びとの歩み」”である。 末尾に“「島ぐるみの土地闘争」は沖縄を外部の世界から遮断していたアメリカの軍事占領は壁そのものが取り壊され、沖縄の施政権が日本に返還されることになる。/「島ぐるみの土地闘争」はその起点であったと言える。”と記されている。残念ながら彼の回想録は、ここで終わる。 このサイトでも、国場幸太郎については取りあげ(国場幸太郎関連文書)ているが、彼については多くを語る必要はない。ただただ、この卓越した若き共産主義革命家の足跡から学びたいと思うだけである。 “具志区民の土地取り上げ反対闘争はよく言われるような「住民の自然発生的な抵抗」ではなく、人民党の組織的活動に支えられていたのである。住民の抵抗を共産主義者の扇動によるものとして弾圧する口実をアメリカ軍に与えないために、人民党はできるだけ表立たないように心がけ、民衆に密着して民衆の自発性を高め、発揮させていたのである。” ※沖縄を離れて後、書き上げた二本の論考も近日中にアップしたい(笑)。 「沖縄とアメリカ帝国主義――経済政策を中心に」(『経済評論』1962年1月) 「沖縄の日本復帰運動と革新政党 ──民族意識形成の問題に寄せて──」(『思想』1962年2月) 本編の末尾に付されている森宣雄の編集後記(やや感情過多の彼の文体は苦手だが)の一部を紹介したい。 “那覇の小さな一家族が世界大恐慌と世界大戦の到来によって運命を翻弄されながら、家族愛と思いやりによってたがいに肩を寄せあうようにして家庭をまもり、貧しい人びとのやさしい心づかいに包まれて育った幸太郎少年が、正義感と誠実さによってさまざまな人との出会いを重ね、戦中戦後の日本・沖縄の激動期を乗りこえ、ついには非道な軍事占領にたいする全沖縄の島ぐるみ抵抗運動を人しれず築きあげてゆく” “共産党からの統制にも抵抗しつつ、沖縄での自立的な幅広い統一戦線を築き、日米安保体制を超える沖縄の根底的な解放を目指していた国場”と総括される、森宣雄「沖縄戦後史の分岐点が残したある事件 :『国場事件』について」を紹介しておく。 【2014.04.25】 新川明「新城郁夫氏の『疑問』に答える」を読む。 やっと、『うるまネシア』№16(2013.08.15)と№17(2014.01.07)を入手。改めて№16を読むと、新川明(「琉球独立」論をめぐる雑感)は“今日私たちが「琉球」というとき、沖縄・宮古・八重山・奄美の各諸島を包括する呼称として使っているに過ぎない。……琉球文化圏としての島嶼群の総称であって、その言葉が旧王国を連想させることはない”と述べる数頁前には、松島泰勝(琉球の主権回復における我々琉球人の役割)は“「琉球ルーチュー」という言葉はかつて独立国家であったという記憶を喚起する”という書き出しで、“元々、琉球は主権国家であり、その琉球の主権が奪い取られた”と続けている。 さて『うるまネシア№17』所収の「続『琉球独立論』をめぐる雑感―新城郁夫氏の「疑問」に答える―」だが、やはり、新川は大いなる「転回」を遂げたようだ。【2013.09.21】で紹介した沖縄タイムス2013年7月1日の「刊行30年沖縄大百科事典を語る」での新川の発言「(「琉球民族独立総合研究学会」)の考えは、終戦直後や復帰前の独立論のように、ヤマトに対する被差別の感情から出てくるのではない。彼らには復帰世代に見られる日本に対する祖国意識がなく、『復帰思想』に毒されていない」というおよそ的外れの感想に新川が辿りついたのも、かの「居酒屋独立論」論争が転機か、と思料される。しかし、“現実に巌として存立する国家の壁は、いわゆる「生活圏」の議論などで超えられるものではない。”などという発言がよもや新川明から発せられるとは思わなかった。ましてや、“マザーテレサは「カルカッタはここだけではない。日本にもカルカッタはあるはずだからあなたは日本人として、“日本のカルカッタ”で貧しい人のために働きなさい」と諭して帰したというエピソードがある。/私は、日本人と琉球人の「連帯」について考える時、きまってこのマザーテレサのエピソードを思い出す”などと付け加えるとは! 川満信一は決してナショナリズムには与していない。そして徳田匡は“新川と同じく「反復帰」論者と知られる岡本恵徳は、「沖縄人」を「反復帰」「反国家」論のための中心に据えることはなかった”と、注意深く述べている(「『反復帰・反国家』の思想を読みなおす」『沖縄の問いを立てる―6』社会評論社2008年11月30日)。それに対して、新川は、「反復帰」から手放しの「ナショナリズム」へ傾斜しているとしか思えない。若き研究者たちが新川を指して「アナキズムの影響」を語っている論考を目にするが、新川がかつて<「反復帰」論は「独立論とどう違うのか」>あるいは<独立ではなく、反復帰とは一体何か>と責められたとき、一貫して「国家」や「政治」を忌避している(ような)言説を展開していることに幻惑されているように思われる。 新城郁夫は【2009.04.07】で紹介した「政治的な主体を創るために」(図書新聞090321号)でも、“新川明さんや岡本恵徳さん、川満信一さんをはじめ、何人もの反復帰・反国家論者の方達が拒否にこだわったのは、拒否がすぐれて政治的な実践だからです”とも語っているのである。 同号には、「日本人は基地誘致運動をしなさい」という一文を目にした。もちろん、これらの主張はもう十数年前からくすぶっていた言説である。かつて高里鈴代さんが「基地・軍隊を無くすんです!沖縄にもどこにも基地は要りません!」と切々と訴えていたのをお聞きしたことがあったが、多くのウチナンーチュの人は、こうした言説にまともに取り合う必要を認めないのだろうか、と不思議であった。 折しも「JAPANESE ONLY」が鋭く問われている。
【2014.04.20】 追悼・佐久間さん 特段、密におつきあいしていたわけではありませんが、沖縄に行く度に、親しくお話をしてくださいました。とくに、高江に居(?)を移してからは、高江まで足を運ばなければお話をする機会がありませんでしたが、いつも「懐かしさ」を感じていました。「気負い」など微塵もなく、風景に溶け込むような立ち姿でした。合掌
【2014.04.15】 新城郁夫「備忘録⑥・琉球独立論の陥穽」を読む 新城郁夫が『けーし風No.82』(2014.04)での「備忘録⑥」で、前々号(『けーし風No.80』(2013.10)の「備忘録④・新川明への疑問」に対する批判(『うるまネシア№17』2014.01所収の新川明および松島泰勝両氏の論考)への反批判「琉球独立論の陥穽」を掲載した。新城は「沖縄への内在的批判抜きに沖縄の脱植民地化など絶対にない。新川氏はそれを知るべきである。」と、突き放す。そして「独立の思考が持ちうる批判力を私も肯うが、それは国家や資本そして民族というシステムへの内在的批判無しにはありえない」ことを力説。もう一人の松島に対しては「この沖縄において、民族アイデンティティの前景化が資本や国家への問いの後景化と連動していることを松島氏が理解できていない点こそ致命的である」とし、「空疎にして偏狭な言葉で、『沖縄の声』が流通する現状にこそ沖縄の危機がある」とまで断罪に近い論法で批判を展開している。もとより「コラム」という小論であるが、新城のウチナンーチュ(松島の言い方を借りれば「琉球人、被植民者であるかと思われる」)としての、いわば悲しみに満ちた批判として読んだ。荒川・松島論考も併せてアップすべきだったが、間に合わなかった。取り急ぎ、新城郁夫の論考のみアップする。ただ、付け加えておくが「民族アイデンティティ」ではなく、「沖縄アイデンティティ」が今秋への<キーワード>たり得るかはまた別の問題を孕んでいるのではないかと、思う。
【2014.03.22】 仲里効「自発的隷従と自己決定権の磁場」を読む 島袋純『「沖縄振興体制」を問う―壊された自治とその再生に向けて―』は、初出誌の時に読んだ論攷がいくつかあったが、こうやってまとめて読んでみると(つながりの悪さはともかく、余りにも誤植が多かったのはいただけないが)、新聞などでの小論やインタビュー記事も含め、きわめて勉強になった。もちろん、「復帰運動総括」にまつわる部分に関する違和感や、「大田県政評価」に対する物足りなさは否めない。 と思っていたら、『世界』2014年3月号で、仲里効の論攷を眼にした。「パペットモンスター仲井真 沖縄県知事の“一人クーデター”」、副題が「自発的隷従と自己決定権の磁場」である。相変わらず、切れ味の良い文章である。この論攷は、島袋の観点を包み込み、「隷従」、それも「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見当たらない悪徳」としてしか名付けようのない「自発的隷従」(ド・ラ・ボエシ)として、「オール沖縄」内部から生まれた仲井真を筆頭とする「復帰・同化・買弁勢力」の転質・新たな登場(「仲井真の“一人クーデタ”」)を一刀両断に切って捨てる。「オール沖縄」の再生は、こうした「植民地官僚(エリート)」「隷従・買弁勢力」にキッパリと一線を画することからしか始まりえないのではないか、と思う。仲里は、「軍用地料」問題から、ファノンの「〈橋〉の思想」に注意を喚起しつつ、この小論で、沖縄の現状-階級階層分析さえ、鮮やかな手際でやってのけている。 【2014.03.11】 いれい・たかし<沖縄から透視される「祖国」>を読む 【emigrant 2013.03.13】で、『沖縄 本土復帰の幻想』(吉原公一郎編・三一書房19681125)の一部(討論・沖縄にとって「本土」とは何か)をアップしたが、やはり、「歴史的文書」としては、「第一章」に掲げられたいれいたかしの<沖縄から透視される「祖国」>も、やはりアップすべきだと思った。それは前述のemigrantでの「もはや本書は『稀覯本』となっており、沖縄ならいざ知らず、図書館でも仲々置いていない」ことにも依る。 「復帰運動」は未だ総括されていない。否、もう、総括されることはないのかも知れない、とさえ思わされたのが、いれいたかしの遺稿集『ちゃあすが くぬ沖縄』(死去一年後の2010年に、「琉大文学」同人を中心とする刊行委員会が編集し、『沖縄大百科』の実質的主宰者である上間常道さんが立ち上げた出版社Mugenから発行された)である。 <沖縄から透視される「祖国」>で、彼はシモーヌ・ヴェーユを引用した後、「沖縄にとって、もはや『祖国』とは日本しかありえないということ、それ以上の精神的拷問がありましょうか。そのことを拷問として感受しつつ、なお『祖国復帰闘争』の必然性、その内実を究明しなければならない時点に、沖縄の私たちは立たされています」と書く。執筆当時、30代前半、「復帰運動」の指導者として八面六臂の活躍をしていたと聞く。 大杉莫は、「沖縄の自立解放と日帝国家の解体へ」(『情況』2013年1-2月合併号)で次のように書く。 “「祖国復帰運動」と名付けられた巨万の沖縄民衆の闘いは、その内部に様々な矛盾を孕みつつ、さらにその外には圧倒的少数派でしかなかったとしても「反復帰」の潮流がその萌芽を見せていた。それ故、あえて、今回の一〇万人の県民大会と数百の普天間ゲートの闘いを対比させてみることも必要ではないだろうか。さらに総選挙が示したが(議会制)民主主義を重ねてみよう。少なくとも「普天間県外移設」は自民党全議員の「公約」だったのだ。 復帰運動に対する救抜は、「日の丸復帰」から「反戦復帰」への転換を強調する(これは未だ存在しているが)だけではなく、復帰運動が幾多の随伴した民主々義的諸権利獲得運動としての側面を強調する傾向としても存在する。筆者が注目する島袋純は「『沖縄振興開発体制』への挑戦」(『世界』一二年七月号)で「沖縄にとっては、戦後憲法が復帰運動の最大求心力、最大の力の源であった。復帰運動が目指したものは『人権・自治・平和』であり、それを作っていくために沖縄自らが歴史創造の主体、政治的主体となることである」と書く。しかしこれは「歴史の改竄」ではないか。もちろん島袋は正当にも「日米両政府にとって、沖縄返還の要諦……アメリカ軍にとって在沖基地の自由使用及び安定維持を図るためのものである。その役割を在沖の米軍・政府から日本政府が替わって担うことになるという『統治主体の交代』、それが沖縄返還の本質的な目的であった」と言うが、これに対して復帰運動の側が「手を貸した」ことを捨象してはならない。依然<復帰/反復帰>が未決の問いとして残っている。” もちろん、「歴史の改竄」とはとはいささか穏当を欠く表現だし、大杉論文の勇み足とも思われる。しかし、復帰闘争(「日本(祖国あるいは本土)復帰」)は、紛れもなく「日本/日本人」に「沖縄/沖縄人」がなることと一対であったのであり、この点は曖昧にされて良いわけがない。 復帰政党から地域政党へと苦闘していた社大党を「沖縄を代表する政党」として推し進めんとしていた比嘉良彦(1989年から97年まで書記長)は『地域新時代を拓く』(比嘉良彦・原田誠治共著・八朔社1982年9月)で、次のように語っている。 “ちなみに、この綱領が何回か改正されて「党は祖国復帰することを最終目標とし、すべての政策を復帰の促進に即応せしめ、その実現を図ることを基本的信条とする」という有名な文言になるのは10年後の1960年[9月29日]の第13回大会である”。しかし“当初の復帰論はあくまで、琉球と日本の相違をふまえた「復帰論」であ(り)、……住民の経済福祉に重点をおいた手段的復帰論であった”。そして第15回大会(1962年10月)に至り当時の安里積千代委員長の「沖縄政治の基本的問題について」を引き合いに出し、“かつての手段としての復帰論はまったく影をひそめ、「復帰すればすべて長くなる」といった「復帰幻想」にどっぷりとつかった復帰政党としての姿が見られるだけである”と指摘する。 大杉莫は『沖縄の自立解放について――復帰・併合・買弁勢力に抗して』(『共産主義運動年誌』第3号2002.11)で、 “おずおずと提唱された「復帰時期尚早論」とともに「今、復帰すれば、沖縄はイモハダシの生活に戻る」という、いわゆる「イモハダシ論」が流布された。それに対して、当時「イモハダシの生活になろうとも祖国に復帰することが沖縄県民の願いである」という解説がなされた。つまり、日本ナショナリズムに連れ添うように「祖国に復帰することが最大の悲願である」というわけだ。果たしてそうか。そうした心情が皆無であるとは言わない。しかし、圧倒的多数の沖縄の民衆は「日本人の一員になれば、今よりははるかに豊かになる」ことを信じ込んでいた。しかし、「豊かさ」などは所詮、相対的なものでしかない。そこでは「豊かな日本の中での貧しい沖縄」という「格差」しか問題にならなかった。この「格差是正」の呪縛から沖縄は今も逃れられていない。/復帰協の中心を担った公務員達にとって「本土並み待遇」は垂涎の的だった。例えば、六〇年代を通して日本詣でを繰り返した沖縄教職員会の教師達は「本土」の教育環境の素晴らしさに目を見張ったという。彼らの主導する復帰運動はいとも簡単に「イモハダシ論」をデマとして退けることが可能だったのだ。そして、日本人になることで「平和」も「民主主義」も手にし得るという新しいデマを流すことに専念した、といえば言い過ぎか。”とも指摘する。 もうひとつ、琉球新報2012年10月九日号で、比屋根照夫は「復帰を経験した人たちが、基地の固定化によりオスプレイの強行配備を招いてしまった、という贖罪感を抱き、『復帰責任』を果たそうとする意思の『萌芽』を感じ、それに感動を覚えた」。そして「従来の抗議型の運動というより、自己を振り返り、過去への自責感を克服して、未来の若者たちにどうつなげていくか、という歴史認識の広がりに今後の可能性をみる。この運動が新しい思想潮流として沖縄を覆うことになった時、沖縄の人間の尊厳や自決権が踏みにじられている現状、差別問題などに抵抗する挑戦的な運動へと転化することであろう」とも語る。 現在、復帰運動も全軍労闘争もコザ暴動も知らない世代が沖縄社会の中核となりつつある。 【2014.02.26】 島袋純『「沖縄振興体制」を問う』(法律文化社2014年1月25日)を読む/【2014.03.05】一部をアップしました。 まだ全部を読み通したわけではないが、「はしがき」「あとがき」を読み終え、取り急ぎ紹介したいと思った次第である。宮城康博は琉球新報2014.01.26の「書評」で、「『時機を得た』出版とは本書の出版をいう……『抵抗運動』こそが、沖縄の主体確立と回復をなす」と述べている。 島袋は「あとがき」において次のように語る。 “沖縄の統治構造や政治行政制度を規定する最大の要因……とは”と書き出し、“米主導のグローバル経済でも、世界戦略でも、その一環として極東の地域的な安全保障でも、軍事的合理性でもない。また、地元経済界を中心とする経済振興緒の要求によるものでもなければかつて独立王国であった沖縄の独自の文化的アイデンティティの要求でもない”とした上で、“最大の要因は、日本の戦後政治の基本的構造である「戦後国体」を護持するために制度が構築されているということであり、そのためには「沖縄問題」を国政レベルにおいて「非争点化」しなければならず、それこそが沖縄の統治の仕組みの本質だということである。/「戦後国体」とは豊下楢彦によると、1952年の講和条約の際に、独立講和の条件として、在日米軍に駐留軍としての特権(日本の主権を侵害する権利と言っても過言ではない)をそのまま保持することを認め、さらには沖縄を日本から分離し長期にわたって米国に施政権を委ね米軍をそこに集中させることによって成り立つ日本の戦後国政の基本構造のことである。駐留軍としての特権を独立講和後そのまま認めることが安保体制の本質であり、安保体制=戦後国体となり、その護持こそが日本政治の表にもおいても裏においても極めて強い政治の動力源となり続けた。/講和に伴う沖縄の施政権の分離とその後の在日米軍基地の沖縄への移転と集中が行われ、また、復帰後の沖縄統治システムが制度化されてきた。……/ 戦後国体護持のために沖縄基地問題の本質を争点化させない仕組みは、沖縄にとって「構造的抑圧」あるいは「構造的暴力」そのものと言ってよく、米軍による軍事占領から今日に至るまで、日本政府及び国民多数による絶対的な価値剥奪の観があり、近年では「構造的差別」という文言が沖縄の保守政治家や地元経済界からも頻繁に言及されている。その絶対的な価値剥奪による社会的疲弊、主体性の喪失は非常に顕著な沖縄の社会現象であり、もはや日米の「軍事的植民地」と規定せざるを得ない状況になっている”と結論づけている。 例によって、以下、目次を記す。
【2014.02.09】 「辺野古断念と普天間早期閉鎖を求める緊急声明」を読む 何処まで堕ちるか!島尻安伊子!いくら買弁派と言え、ここまで「国会」で暴言を吐くとは、もはや言葉もない。 沖縄タイムスは2014年2月6日に<島尻議員発言:「国の先兵」「即刻辞任を」>と報道。琉球新報は「島尻氏発言 暴政容認は辞職しかない」との見出しの2014年2月7日付社説を“夜郎自大と事大主義はここに極まった感がする”と書き出し、“沖縄の戦後史は、日米両政府の意向に忠実な代理人たち(政治家、経済人など)が必ず存在していたことを教えてくれる。70年続く「軍事植民地状態」を終わらせ、「自己決定権」を行使する沖縄の未来を展望するとき、国家権力の代理人はもう要らない。”と締めくくった。 さらに同日付<識者評論>で照屋寛之が“こともあろうに県選出議員が国会で辺野古を積極的に推進するだけでなく、反対派の住民運動を「妨害活動」と決めつけ、警察権力を最大動員して弾圧・排除を誘導するような発言をした。残念無念だ。断固排除するように政府に進言するに至っては、県民の代表としての責務を放棄し、国家権力と一緒になって県民の反対運動を弾圧する宣言であり、多くの県民が憤りを禁じ得ないであろう。/政府関係者でも発言したくてもできないような内容だ。安倍晋三首相らは、「よくぞ言ってくれた」とほくそ笑んだに違いない。住民運動の本質、沖縄の痛み、「沖縄のこころ」を全く解してない発言だ。”と、唾棄する。 1月27日には宮里政玄、桜井国俊、我部政明を代表とする県内外識者65人による「辺野古断念と普天間早期閉鎖を求める緊急声明」が発表された。そして2014年1月9日に「世界の識者と文化人」29人によって発せられた「沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」が、28日には100人を越え、今現在も続々と署名が集まっている。<署名サイトは日本語がhttp://chn.ge/1glVJSw。英語がhttp://chn.ge/1ecQPUJ> 日本ヤマト政府の焦りをして、使嗾させたとは言え、植民地官僚・買弁勢力の言動は眼を覆いたくなる。
【2014.02.01】「意識調査」「世論調査」「首長アンケート」を読む 沖縄においては植民地官僚とも呼ぶべき知事・仲井真によって、一昨年来からの「オール沖縄」が見るも無惨に踏みにじられた。もちろん、辺野古・高江、そして普天間での実力行動は、倦まず弛まず続行されており、ヤマト政府・自民党の悪辣な策動は、沖縄の人々の怒りを改めてかき立てた。しかし、とは言え、「オール沖縄の行方は?」「沖縄の民意は?」との問いが抜き差しならないものとして突きつけられているのも事実であろう。 沖縄県が5年に1度行ってきた「県民選好度調査」を引き継ぐ「2012年・県民意識調査」について、琉球新報社説20140130は<画期的なのは「沖縄への米軍基地の集中を差別的と思うか」と問うた点だ。従来なかった設問で、その結果、県民の74%が差別的と感じていることが分かった。>と報道。そして<県は県庁職員に配布しただけで、いまだに県民向けに公表していない。従来と同じペースなら昨年6月には公表したはずだ。遅すぎる。/基地集中を差別と見る県民意識と、大きな乖離(かいり)がある知事の埋め立て承認があったから公表を遅らせた、と見るのはうがちすぎか。いずれにせよ、税金を投じた調査である。県は早急に県民に対し全容を公表すべきだ>と叱咤する。 朝日新聞20140124での<辺野古、賛否は二分 沖縄と意識の差 朝日新聞世論調査>を見よう。そこでは、昨年12月中旬に行った沖縄県民調査で、辺野古移設に対して「賛成」22%・「反対」66%にのぼっていたが、しかし今回の全国調査では「賛成」は36%、「反対」は34%と、賛成がわずかではあれ上回っている現実を見せつけられた。さらに、「沖縄の米軍基地が減らないのは、本土による沖縄への差別だという意見」について、<「その通りだと思う」と答えたのは26%にとどまり、「そうは思わない」は59%にのぼった>。それ以上に暗澹たる気持ちにさせられたのが、続けて<しかし年代が若いほど「そうは思わない」が多く、20~30代では7割を超えた>という結果だった。 昨年4月28日、あの「屈辱の日」を「主権回復の日」として祝ったヤマト政府に対する抗議行動<日米安保粉砕・安倍政権打倒4・28反戦行動>への故川音勉の連帯アピールの次のフレーズが想い起こされる。 “「主権回復の日」を日本社会でどのように受け止めるかということです。沖縄タイムス社と琉球朝日放送による沖縄全県での世論調査(本年四月一三日~一九日に実施)によれば、約七割の県民が「主権回復の日」式典・政府開催を「評価しない」と否定的にとらえていることが明らかになっています。その最も多かった理由は「沖縄にとって屈辱の日だから」の53・9%、次いで「沖縄の主権は回復しているとは言えないから」の39・7%。他方、日本社会を対象とした世論調査(JNN三月九、一〇日実施)では、賛成36%、反対33%、わからない32%という数字になります。ここでも日本社会の意識との大きな断絶が明らかです。この日本社会の反応は、事態への賛否以前に、沖縄戦後史についての理解を欠いていることを示すものではないでしょうか?” 次いで<共同通信社が25、26両日に実施した全国電話世論調査>はどうか。2014年1月28日付・新報社説は、この共同通信調査結果を受けて<国民世論 沖縄の民意を伝えたい>と書き記す。こちらは朝日と設問が異なっていた所為もあり、<稲嶺進名護市長が再選されたことを受けて「市長の理解が得られるまで中断する」と答えた人が42・9%に上った。「計画を撤回」の17・9%と合わせて6割が移設を強行しようとする政府・与党に批判的>という結果となった。 琉球新報20140124は、<24首長「辺野古断念を」>と題して、<19日に投開票された名護市長選で移設阻止を訴えた稲嶺進氏が再選したことを受け、琉球新報は県内全41市町村長に移設方針、解決法などを問う緊急アンケートを実施し、23日までに34人から回答を得た>と報道。 しかし、石垣市、恩納村、金武町の3首長はそもそもアンケートに<「回答しない」と返答>し、アンケートには応じたがこの設問に答えなかった首長(三人)もいた。さらに、昨年(2013)の全41市町村による「建白書」(オスプレイ配備撤去・新基地建設断念)についても、「意義は失われていない」と回答したのは28人に留まった。 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-218302-storytopic-3.html 3月には、あの石垣市での市長選があり、4月、沖縄市長選、そして秋には名護市議選から県知事選へと上り詰める。たびたび言及しているように、保革を超え、アジアへの平和の発信地として、運動圏・思想-文化圏・制度圏を束ね、沖縄の自立解放勢力の立ち上がりが待たれる。 【2014.01.26】 「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」201401、「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉について」を読む 2014年年頭、名護市民、そして沖縄県民は新たな勝利への第一歩を踏み出した。そしてこれは、日米安保体制とその厄災に覆われた東アジアの平和への確かな一歩となるであろうし、我々の手によって、そうしなければならない勝利でもあろう。 トップページで“ただ、今後日本政府の問答無用の強権的建設着手が悪辣な策謀とともに濁流のように押し寄せてくることは必至だろうし、「オール沖縄」が、「隷従・同化・買弁勢力」によって打ち毀されたことを見据える必要はあろう。/「沖縄問題」ではない、否、「日本問題」でさえない。日米安保と東アジア大の問題なのだ。”と書き記した。 名護市長選勝利の追い風にもなったであろう<「辺野古移設中止を」 海外識者29人が声明>を琉球新報2014年1月8日付で掲載。そこではノーム・チョムスキー、ジョン・W・ダワー、ノーマ・フィールド、ナオミ・クライン、そしてオリバー・ストーンも名を連ね、「辺野古基地建設中止・普天間基地の即時返還」を訴えている。 さらに併せてアップしておきたいのが、「けーし風80」(2013・10)に掲載された「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉」である。これは2013年8月23日に38カ国400人余りが署名した「東アジア冷戦体制の最終的解決として 朝鮮半島に平和体制の確立を」と題する、東アジアの民衆連帯を志向する宣言である。若林千代の解題を付す。 まさに、ここでは、アジア-世界の「識者」によって、日米両帝国主義によって「沖縄の軍事植民地状態を深化し拡大」(声明)され、「沖縄を世界的な戦争基地にする」(宣言)ことが、東アジア戦後史を解き明かしつつ、現在に至るも、はっきりと刻印されていることを糾弾している。 加えて、2010年段階で藤原書店発行の『環』№41(特集◎「日米安保」を問う)での丸川哲史<日米安保と大陸中国/台湾関係【東アジアにおける「脱冷戦」とは何か】>の警句を引用しよう。 “沖縄における反基地運動は、東アジアにおけるリージョナルな脱冷戦運動の一環としてあり、さらにはそれは暗黙のうちに日米安保体制の廃棄を展望するものである。であるならば、沖縄における反基地闘争とは論理的には、奇妙にもまさに沖縄の人々が日本(本土)に成り替わって、日本の「独立」のための日本の「再生」のために闘っている歴史的行為であり、またそれはさらに潜在的には両岸関係(及び朝鮮半島)の平和構築というリージョナルな歴史事業とも連関する行動にほかならないのである。 日米安保の「終わり」、それこそ、東アジアの新しい時代の真の幕開けを意味するものである。” 今は亡き川音勉が、昨年開催の4.28東京集会と連動し、5月18日に那覇で開催された「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」シンポジウムに丸川さんを是非招請したいという熱い気持ちが理解できる。 ◎ 「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」 ◎ 「東アジア冷戦体制の最終的解決として 朝鮮半島に平和体制の確立を」 <解題>若林千代「朝鮮戦争停戦60年〈東アジア知識人宣言〉について」
【2014.01.17】沖縄県議会「仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」(2014年1月10日)を読む 遅ればせながら、新年1月10日に可決された沖縄県議会「仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」をアップ。併せて沖縄タイムス・琉球新報の翌日に掲載された社説と、この県議会決議に先立つ1月6日に可決された那覇市議会「辺野古移設断念と基地負担軽減を求める意見書」もアップした。 新報社説は「もはや信を失っている 民意に背いた責任は重い」との見出しを掲げている。「オール沖縄」の陰に隠れて、買弁派が蠢いていたが、買弁派-植民地官僚としての馬脚をとうとう現したとも言える。 自民選出国会議員は、石破の恫喝に屈服しただけではない。フェイク島尻にせよ、「ウチナーンチュの心」を引き継げなかった西銘にせよ、名護市長選で「新基地建設推進」を声高に叫び、またぞろ石破が「500億円で君たちを買収したい」とさえ宣っている。そして、あの無惨な仲井真は、東京から戻るや「知事公舎」に立てこもっていたが、新年早々の1月5日には、宮崎政久衆院議員、島尻安伊子参院議員に加えて、佐喜真淳宜野湾市長、宜保晴毅豊見城市長、松本哲治浦添市長、中山義隆石垣市長などが「仲井真激励」に訪問している。(新報20140106) 名護市長選の圧勝を!
<琉球新報>2014年1月11日 社説 知事辞任要求決議 もはや信を失っている 民意に背いた責任は重い こじつけとはぐらかし、開き直りが、これほど飛び交った議会答弁がかつてあっただろうか。/県議会臨時会で米軍普天間飛行場の辺野古移設のための知事の埋め立て承認をめぐる質疑がなされたが、知事や県幹部の答弁は詭弁(きべん)と言い逃れに終始していた。支離滅裂と偽装の羅列と言い換えてもいい。今の県庁には「話者の誠実性」が徹底的に欠けている。/県議会が仲井真弘多知事の辞任要求決議を可決した。賛成多数とはいえ、選挙で選ばれた県民代表の構成体が辞職を求めた意味は重い。知事は辞任すべきだ。自分の決定の正しさに自信があるなら、堂々と県民に信を問うべきだ。 開き直り 知事は2期目の出馬の際の公約に「県外移設を求める」と掲げた。当時の記者会見では「(県内移設受け入れの可能性は)まずなくなった」とも述べている。辺野古移設にほかならない「日米共同声明」の「見直し」も明言した。/県外と言えば県内反対であるのは論理的必然だ。だが今臨時会で知事は「辺野古が駄目だと言ったことは一度もない」と繰り返した。この開き直りは「だまされた有権者が悪い」と言うに等しい。/知事は公有水面埋立法に照らして「基準に適合しており、不承認とする合理的理由はない」と説明したが、牽強付会(けんきょうふかい)だ。同法4条は「環境保全への十分な配慮」を必要条件としている。昨年11月末、環境影響評価に対する知事意見は「環境保全措置について懸念が払拭(ふっしょく)できない」と注文を付けたが、その後、環境保全措置は追加されていない。それなのになぜ突然、「適合」になったのか。/當銘健一郎土建部長は「(今後)保全措置をやれば適合するだろう」と知事に報告したという。こんな珍妙な理屈があるか。/法は、措置が十分かどうか吟味するよう求めているのだ。まだ提示されてもいない措置を勝手に推測し、それを根拠に許可するなら、今後いくらでも許可しなければならなくなる。/當銘氏は、国が申請する埋め立てに対し、県は拒否できないかのような説明もしたが、そんな判例はないはずだ。他の副知事や部長の答弁も、過去の答弁との矛盾に満ちていた。県の公務員は知事への奉仕者でなく、県民への奉仕者であるべきであろう。/知事は昨年末の埋め立て承認会見であえて振興予算に言及し、称賛した。この臨時会でも冒頭、予算に触れて「沖縄が飛躍的に発展する」と述べた。これで振興と基地の「リンク論はない」と強弁しても、納得する国民はいるまい。 意味のすり替え 今回の質疑には意味もあった。普天間の「5年内運用停止」に伴う「県外移設」は、新基地が完成すれば「機能はかなり(沖縄に)戻ってくる」と、知事が認めたのだ。「県外」が万が一現実化しても、あくまで一時的にすぎないことがはっきりした。「県外」の意味はいつの間にか「暫定」とすり替えられていたのだ。/「県外移設の公約を変えていない」という知事の弁明について、今回の辞任要求決議は「不誠実の極み」と指摘する。琉球新報社などによる世論調査でも、承認を公約違反と見る意見は72%に上った。指摘の正しさを裏付ける。/決議はまた「かつてこれほどまで政府に付き従い、民意に背を向けた知事はいない」と批判した。「県民の中に対立を持ち込むもの」だったのも間違いない。/知事の承認表明が「沖縄の人はカネで転ぶ」「沖縄の抵抗はカネ目当て」との印象を全国に発信してしまったのは確かだ。その意味でも政治的責任は重い。/県内移設は、知事や当該市長が容認していた時代でさえ失敗した。その歴史から教訓をくみ取るべきだ。まして今回は、決議が示す通り、知事はもはや信を失っている。不毛の17年を繰り返したくないなら、日米両政府は辺野古移設を断念すべきだ。 <沖縄タイムス>2014年1月11日 社説[辞任要求決議可決]知事は状況を直視せよ 県議会は10日、臨時会本会議で「仲井真弘多知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」を賛成多数で可決した。知事の辞任要求が決議されるのは県議会史上初めてである。法的な拘束力がないとはいえ、議会が「ノー」を突きつけた意味は極めて重い。知事は重大に受け止めるべきだ。/県議会が開かれるのは、昨年末、知事が米軍普天間飛行場移設に向けた辺野古埋め立て申請を承認して以来初めて。本会議では、知事の辞任要求決議とともに「普天間飛行場の閉鎖・撤去と辺野古移設断念を求める意見書」が賛成多数で可決された。/このことは、沖縄の多数意思が依然として普天間の辺野古移設に反対であることを示している。/意見書では、知事を支える与党の公明党も賛成に回った。仲井真県政を支える与党の一角から辺野古移設断念を求める意見が上がったことは、県の今後の基地行政にも大きな影響を与えずにはおかないだろう。/辞任要求決議は、知事が辺野古埋め立てを承認したことについて「公約違反であり、県議会が全会一致で求めてきた『県内移設反対、普天間基地は国外・県外移設』とする決議を決定的に踏みにじるものである」と強く非難した。/知事が埋め立て承認をしながら「公約を変えていない」と開き直っていることについても「不誠実の極みで県民への冒涜(ぼうとく)というほかない」と強い調子で批判した。/9日の県議会での説明からは、承認理由や公約との整合性について県民に説明責任を果たそうとする姿勢はみられなかった。疑問は深まるばかりである。 ■ ■ 知事は安倍晋三首相との会談で「140万県民を代表して感謝する」などと謝意を述べ、県民の大きな反発をかった。これに那覇市議会が抗議の意見書を可決したが、県議会の決議でも「屈辱的で、県民に大きな失望と苦痛を与えた」と断じた。/知事が安倍首相に対して謝意を表したのは、知事一個人の判断であって、決して沖縄の多数意思を反映したものではないことを、県議会や那覇市議会の保守系議員も指摘したのである。/昨年1月に全41市町村長と議会議長らが署名した県民総意の「建白書」に込めた決意を否定し、県民の中に対立を持ち込むものであるなどとして、決議は、仲井真知事に辞任して県民に信を問うよう求めている。 ■ ■ 県議会の知事辞任要求決議は、埋め立て承認に至る不透明な政策決定と、その後の知事の説明責任を十分に果たさない姿勢に対する抗議である。要請書作成の経緯や官邸との水面下の調整、埋め立て承認に当たっての環境保全対策などは、まったくといっていいほど真相が明らかにされていない。/昨年12月27日の記者会見や9日の県議会で浮き彫りになったのは、「独走」と批判されても仕方のないような知事の対応である。県民が抱いている数々の疑問を丁寧に説明する義務がある。闇に葬ってはならない。 |
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