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沖縄経済自立への道



  嘉 数   啓


<目 次>

T 経済自立とは何か
U 経済自立の考え方  1・対外収支論 2・産業構造バランス論
V 自立への条件  1・沖縄をとりまく内外の環境<略> 2・市場経済の前提 3・自立的発展への内部条件 4・沖縄経済の可能性
W 自立的発展ヴィジョン  1・ローカル産業重視型  2・工業誘致型<略> 3・観光産業重視型 4・自由貿易地域型



T 経済自立とは何か

 昨年度(1981年=昭和56)で満10年の最終年度を迎えた沖縄振興開発計画(以下「振計」)は、「平和で明るい豊かな社会」の建設を基本理念に、経済、社会面における対全国及び県内の「格差是正」と並んで、「自立的発展の基礎条件の整備」を計画における二大目標として掲げている。ここでうたっている自立的発展のあり方をめぐって、様々な議論が展開されてきたことは周知の通りである。しかしながら、「自立」とりわけ「経済的自立」が一体何を意味するかについては、今だに計画立案者の間にさえもコンセンサスが成立しているとは思われない。「自立」という言葉のもつ多様さ、あいまいさが幸いして、多くの自立論が展開されてきたことは、「振計」を多方面から吟味する上で大きな収穫であったと思われる。しかしその反面、自立的発展に操作可能(オペレーショナル)な概念規定を付与しなかったがために、「振計」とそれを達成するための手段(資金、制度等)が明確に位置づけされず、手段のみが一人歩きしてきた状況を深く反省しなければならない。私は数年前、操作可能な自立の概念規定を試み世に問うたことがある。(1)その後、自立論の高まりの中で、私の試案に対する間接的な批判も蓄積されてきたので、沖縄経済の自立について今一度掘り下げて検討してみたい。
 「自立」の意味を『広辞苑』で引くと、@他の力によらず自分の力で身を立てること、A他に属せず自主の地位に立つこととなっており、行動の規範的要素を含む「自律」とは区別されている。自立の意味をこのように理解すると、経済的自立とは、「経済的な従属=支配・被支配関係を脱して、自らの力と知恵によって生計をたてること」と定義することができる。ここで注意しておきたいのは、経済的自立とはあくまでも相対的概念であり、意識的には自らの経済的運命を決定しうる経済主体と他の経済主体との関係として捉えることができる。従って、一つの経済(生活)が完全に他の経済(生活)に従属しているような奴隷及び植民地経済の状況下においては、経済的自立は問題にならない。森田桐郎氏(2)が説得的に論じているように、第二次大戦後、多くの植民地国が宗主国より独立し、自らの運命を自らの意志で決定しうる自由を獲得したときにはじめて、自立的発展(Development on self-reliance)が問題になったのである。
 経済的自立とは、独立した経済(圏)が他の経済(圏)と接触する過程で問題になる相対的概念であるから、市場経済以前の「自給自足経済(autarky)」、ロビンソンクルソーの「孤立経済」、トーマス・モアの「桃源境(ユートピア)」とは峻別されなければならない。
 今や社会主義経済を含むどのような経済(圏)も他の経済(圏)から孤立して存在することは不可能である。経済相互の連鎖は、1973年末に遠くアラビアの地で起こった石油価格の値上げが、いかにわれわれの生活基盤を根底から揺り動かしたかを想起するだけで充分である。世界くまなく結ばれた市場による相互の絡み合い、あるいは依存性は、異なる経済(圏)が平和裡に共存するための重要な条件であると同時に、強い経済(圏)が弱い経済(圏)を収奪し、従属せしめる強力なメカニズムとしても作用している。世界規模にまで広がった市場経済の連鎖の中で、収奪・従属関係を止揚し、対等な相互依存関係を創り出すことが経済自立への基本的な課題である。
 経済自立はそれ自体が目的ではなく、対外的には政治的自立(自決=Self determination)、対内的には各意思決定主体の自立(あるいは自治)を担保するものとして位置づけられるべきである。この場合、経済的自立が先か、政治的自立が先かという古くて新しい論争があるが、世界市場に深く組み込まれた現実を直視するとき、経済的自立を獲得することが先決であると思われる。
 第二次大戦後、多くの植民地国が独立して政治的自立を一応獲得したが、経済的には南北問題に象徴されるように、北への従属を強られ、政治的自立を危いものにしている。政治的自立の保障が、資本主義か社会主義かという体制選択の問題として片づかないことも、とくに1960年代に入って明らかになってきた。このことは中国のこれまでの実験及び東欧社会主義国とソ連との関係をみれば一層明瞭である。最近では、1962年のネ・ウィン政権誕生以来、独自の社会主義建設を進め、かたくなに外国資本を拒絶してきたビルマが、経済停滞を克服する手段として、外資を積極的に受け入れる方向に動いているという事実に注目するとき、経済的担保のない国造りが、いかなる体制下にあるにせよ、いかに困難であるかを物語っている。
 沖縄については、復帰直前から今日まで多くの自立論が展開されているが、復帰を境にして、「政治の季節」から「経済の季節」に移ったという認識が広く受け入れられていたにもかかわらず「沖縄自治州論」(3)から「琉球共和国論」に至るまで、経済的自立よりも政治的自立を優先する議論の方が盛んであった。このことは恐らく、沖縄の本土化によってもたらされた沖縄の政治的自立(自決)の程度が余りにも期待外れであったことと、経済的自立を目標に掲げてスタートした「振計」が、自立に関する限り後退すらしている、という認識と深く関り合っているように思われる。
 政治的自立論は、はるか昔の琉球王国の「黄金時代」を想い起こし、さらに外的支配勢力に翻弄された過去のいまわしい経験を知る者にとっては新鮮な響きをもって迫るものがあるが、この唯一の問題点は、自立の経済的状態を吟味せず、従って極めてリアリティーに乏しいということである。本土復帰後急速に進んだ本土化への反動として自立論が展開され、しかも議論がそこに止まっているとしたら、これらの議論は一部インテリ層の自己満足に終り、永遠に大衆のエネルギーを吸収して進展しメインストリームの思想を形成するには至らないであろう。
 慶長14年(1609)の薩摩の琉球入り、明治12年(1889)の廃藩置県、昭和26年(1951)のサンフランシスコ条約による日本よりの分断、そして昭和47年(1972)の日本復帰という歴史の一大変転に直面して、沖縄の人々を最も強くとらえて離さなかったのは、経済の未来像(状態)がどうなるかということであった。
 復帰後の沖縄経済は、予想に反して豊かになった。生活水準では間違いなく先進国クラスである。このような豊かな状況から、「琉球共和国」のような未来像を構想しようとするとき、日常生活者にとっては、その思想的アッピールはともかくとして、まず生活が今の状態より豊かになるかどうかが最も切実な問題となる。沖縄の日本復帰は、百万県民の悲願として求められたものだが、もし祖国日本が中国のような経済発展段階にあったとしたら、人々は積極的に日本への再帰属を望んだであろうか。一部自立論者は、中国をお手本として、中国流の自力更生に基づく県造りを提唱するが、かりに「琉球共和国」が実現して、生活水準が今日より低下しないにしても、日常生活者の発想様式は今日の中国の経済的現実と沖縄の経済的現実の比較より始めるであろう。香港が中国領土の一部でありながら英国の植民地(Crown Colony)に甘んじ、中国への帰属を欲しない最大の理由の一つは、両者における格段の生活水準の落差である。逆にハワイが、ある程度の政治的自治を犠牲にしてもアメリカ合衆国の一部となった背景にはハワイの相対的貧しさがあった。
 独立論の中でも極端なケースであると想われる琉球独立論は、沖縄の人々の不満を吸収する精神安定剤としての効用はあるかも知れないが、それがために逆に現状固定につながり、真の自立に向けての努力を放棄する精神作用の強化につながっていはしないか。以上の論議を踏まえて実行可能な経済自立論を展開してみたい。



U 経済自立の考え方


1・対外収支論

 自立論で最もわかり易いのは、対外収支のバランスに着目した議論である。……

……
 地域経済の自立を対外(域際)収支のバランスに求める最近の議論として、北海道未来総合研究所編『自立経済への挑戦−−北海道開発への新視点』を挙げることができる。北海道の経済自立とは、膨大な赤字体質に陥ってる「域際収支の均衡化を実現する(10)」ことであり、その戦略として工業化を挙げている。
 このような対外収支の視点から沖縄経済の自立を考えたのが「自立収支」の概念である(第@図−略)。ここでの「自立収支」とは、「商品移輸出及びサービスの受取」から「商品移輸入及びサービスの支払」を差し引いたものであり、IMF国際収支表における「貿易収支+貿易外収支」に相当する。「自立収支」は自前の経済活動で得た県外からの収入でもってどの程度県外からの生産物やサービスを購入しているかを示している。従って、「自立収支」が黒字ということは、経済が他人の助けを借りずに充分な支払(自立)能力をもっていることを意味し、逆にそれが赤字だということは他人の稼いだ所得に依存して生活していることを意味することから、自立していないことになる。
 このような定義にもとづいて沖縄県の復帰後の「自立収支」を求めると図の通りとなり、1972年度の約800億円の赤字が大幅に増大して、1980年度は実に3600億円の赤字を記録するに至っている。経済の「自立度」(移輸出等の受取/移輸入等の支払×100)でみても、過去10年近く60%台を記録して全く改善されていない。この自立概念からする限り、自立的発展を目ざした「第一次振計」は完全な挫折に終ったといえる。
 この「自立収支」の莫大な赤字は、貯金(準備金)の取り崩しか、外部よりの借金か、あるいは新しい別収入でもって埋め合わされなければならない。別収入の大宗を占めるのが図で示した財政純受取(県民が支払う国税等と財政受取との差)と軍関係受取(自衛隊基地を含むすべての軍用地料収入を含む)である。これらの二つの「外生的受取」は、県民の自発的な経済環境の中から稼得されたものではないという意味で「非自立的収入」といえる。図でみるように、これらの「外生的受取」は「自立収支を大幅に上回って増大し、1980年度には6千億円強(自立収支赤字の約二倍)にも達している。「外生受取」の中でも財政純受取が八割強を占めており、他人からの収入でもって沖縄経済は「貯蓄」する余裕さえある。
 ここで展開した自立収支論に対していくつかの反論がある。その一つは、「自立収支」から除外されている基地収入は、基地労働者の賃金、軍用地料収入、米軍人、軍属の県内での支出等により構成され、これらはすべて県経済の活動の一環として移輸出等による収入と変わるところがない、とする意見である。確かに基地収入は対外収支の中でみる限り、沖縄への資金の流入を意味するから移輸出等収入と全く同じ効果をもつ。しかし後述するように、基地収入の発生源である基地は沖縄内にあって、生産−分配−消費という経済の循環構造に組み込まれていないばかりか、逆に経済の自立的発展を阻害している最大の元凶になっている。さらに基地は沖縄県民の選択に基づいて存在しているものではなく、従って一つの経済主体としてもネガティブな評価しか受けていない。久場政彦氏(11)が「脱軍事基地」に求めたように、沖縄経済自立の第一の条件は基地経済からの完全な脱却であり、そのことからして、基地収入は当然「自立収入」から除外されるべきである。
 二つは、「たんに県外との取引の上で収支バランスがとれさえすればそれが自立であるというのであれば、どの産業で所得をあげてもよい(12)」か、という問題提起が清成忠男氏によってなされている。ここで提案している「自立収支」にはプラスの項目として観光収入が入っており、清成氏が指摘するごとく、観光だけでも自立を達成しうることになる。確かに観光産業は相手(県外)の動向に左右される要素が強く、県内の内発的経済活動とは無縁のように思われる。しかし観光は一つの平和的産業として定着しており、観光産業を振興する形で経済の自立度を高めるという発想は、沖縄のもつ観光産業の可能性を考えた場合、正しい方向であると思う。……
 三つは、沖縄に限らず日本の地方県ならどこでも自立収支の均衡は不可能であり、財政収入による赤字の埋め合わせは当然である、とする意見が保革を問わず根強く主張されている。特に沖縄県は、全国の53%の軍事基地を楯にして財政を“ゆすって”いるところがある。財政の最も重要な役割の一つが所得の再分配であることを考えれば、地方における財政依存はむしろ当然の権利として主張してもよい。問題は財政依存のあり方である。後述するように、沖縄ほど過去10年間に財政支出が集中的になされた地域は他に例がない。県民総支出に占める財政支出の割合は1972年度の20%から1978年度には40%台にまで上昇し、他県と比較しても群を抜いて高い(第A図−略)。問題はこの財政支出が県経済の自立化につながっていないことである。先の「自立収支」でもみたように、莫大な財政支出にもかかわらず、県経済の自立度は逆に低下さえしている。
 「自立収支」が改善されるための財政支出は沖縄の自立化に役立ち、いくらでも歓迎してしかるべきであるが、それがもし今までのように、「自立収支」の悪化につながるようなものであれば、麻薬同様経済の活力をそぎ、県民自治はますます後退することになるであろう。特に最近の行財政改革、防衛予算突出の中で財政支出が基地の維持・強化とセットでなされつつあり、いよいよ政府の操作し易いような危険な経済体質ができ上がりつつある。……
 四つは、先述した「自立収支」の大幅な赤字は、移輸入等を通して県外にリーク(漏出)する資金が移輸出等により県内に流入する資金を上回るためにもたらされているものである。別言すると、県内自給率の弱さが経済の乗数効果を小さくし、自立収支の悪化につながっているのである。沖縄県の産業連関表(13)より算出された産業乗数は、第一次産業2.08、第二次産業2.78、第三次産業1.83となっており、沖縄が「ザル経済」とよばれながらも乗数では類似県とそう大差がない。このような数値をたてに、沖縄の「自立度」は類似県並で「自立収支」の赤字をことさら特殊的に強調する必要はない、とする意見がある。確かに乗数でみる限り、これらの主張は正しい。しかし類似県と沖縄とでは乗数の意味が非常に異なっていることに留意すべきである。たとえば佐賀県の連関表より算出された地域乗数は沖縄のそれより小さいが、「自立度」では前者がはるかに高い。つまり、佐賀県に投資が行なわれると、福岡を中心とした周辺地域にその効果がリークして地元での波及効果はそう大きくはない。しかし佐賀県の隣接地域で投資が行なわれると、佐賀は間違いなくその波及効果を受けることになる。したがって実際の「自立度」をみるには、域内での波及効果と同時に域外からのプラスの波及効果もみなければならない。ところが沖縄の場合は、本土(他地域)での投資による波及効果は恐らくゼロに近いであろう。本土では市場が相互乗り入れになっており、沖縄のような独立型とは全然異質であることに留意しなければならない。


2・産業構造バランス論

(1)R・ヌルクセの自立発展論

……
 このヌルクセ流の自立発展論に対しては、左右両派からの強烈な反論がある。左派には、政治的自立論を重視し、外国及び国内の抑圧資本の排除を主張するA・G・フランク(23)、S・アミン(24)などのいわゆる「従属学派」があり、右派にはP・Tバウァー(25)、H・G・ジョンソン(26)(故人)、H・ミント(27)などの国際分業論に立脚する新古典派がある。
 前者の「従属学派」の立場から沖縄の経済自立を真剣に論じたものに、矢下徳治・原田誠司氏の読み応えのあるシンポジウム論文(28)があるが、私の準備不足からここで詳細に取り上げる余裕はないので、2、3の疑問点だけを書き留めておこう。「中心−周辺」理論は確かに世界の南北問題だけでなく、日本国内の中央(東京)と地方(沖縄)、さらに沖縄本島と離島の問題にも応用可能な論理構造をもっていて極めて魅力的である。しかし南北問題の歴史・現状分析に立脚した理論的フレームがストレートに日本国内の中央と沖縄の問題に妥当性をもちうるかどうかは、沖縄経済の歴史的発展過程と現状分析を詳細に検討してみないと有効な回答は導き出せないと思う。沖縄は「国内植民地化」によって中央に「収奪」されてきたという認識は果たして史実によって正しく裏付けされているのであろうか。明治政府の重税による沖縄収奪説は、沖縄の歴史家の通説になっているが、その論拠は安良城盛昭氏(29)によって覆されている。経済的な収奪をどのように定義しても、復帰後沖縄は中央によって経済的に収奪されているという論理を説得的に展開することは困難であろう。
 さらに沖縄農業の一大特徴であるきび単作(モノカルチュアー)にしても、南の植民地経済より類推して、植民地的収奪の結果としてみるのは余りにも短絡過ぎはしないか。きび作は、市場経済下において沖縄の農民が最も有望な換金作物として選択したものであり、それ以外にどういった農業の発展方向があったのであろうか。さらに沖縄のきび価格は、国際市場価格よりはるかに高いところで決まる“政治価格”であり、沖縄のきびに関する限り、プレビッシュ流の交易条件悪化説は成立しない。
 G・ミュルダールはその大著『アジアのドラマ』(30)の中で、先進国経済でのみ有効性をもちうる理論を条件の全く異なる発展途上国経済にもあてはまるとした思考の危険性「誤まれる具体化の誤謬」とよんで厳しく批判しているが、途上国学者によって論理化された「従属学説」の沖縄(日本の一部)への適用に対しても似たようなことがいえはしまいか。沖縄の砂糖、パイン産業の政府による保護に対して、最も批判的なのは沖縄よりはるかに貧しい台湾、タイ、フィリピンなどのアジア発展途上国である。先進国経済の一部である沖縄とこれら発展途上国とが、「周辺」「モノカルチュアー」という共通項で「中心」に対して共闘を組むことが可能であろうか。これまでのUNCTAD(アンクタッド)(国連開発貿易会議)を舞台にして展開されてきた「南北交渉」の推移をみると、労働集約的な商品輸入に対する優遇措置、農産物輸入の自由化等、先進国の譲歩は先進国内部の周辺地域の犠牲の上に成り立っている場合が多い。「周辺−中心理論」は、エレガントな一般性をもちうるがために、逆に地域間の不平等を是正する実行的なプログラムの形成を困難にしていると思われる。

(2)沖縄の産業構造と基地の役割

……
 沖縄における基地需要は、丁度、日本における工業地帯が地方の過剰労働力を吸収して拡大していったように、農村の過剰労働力を基地周辺の地域に吸収し、基地に関連した第三次産業への投資を誘発する最大の原動力であったことはいうまでもない。第三次産業への急激な移行は、基地需要と米国援助の大きさとその形態によってかなりの程度説明することが可能である。民間サイドでは、就業者にとっても、投資家にとっても基地関連業種を含む第3次産業は最も魅力的な産業であった。ブーム的な形で発生し、その性質からして極めて不安定であると信じられていた基地需要を吸収するために、危険負担の大きい製造事業を起こしうる企業家は少なかった。企業及び資本の行動原理としては、基地需要をいち早く吸収しうる商業型第三次産業に投資することがはるかに賢明で合理的であった。「企業家精神」(つまり金儲けをしたい)、ケインズいうところの「アニマル・スピリット」がなかったというのは嘘で、むしろ企業家精神は横溢としてあったのだが、それを政策的に誘導し得なかったところに第三次産業への野放図な傾斜を早めた最大の要因があった。「政策的に誘導しなかった」のは、牧野浩隆氏(31)がいみじくも指摘しているように、米軍の「意図した政策」であったに違いない。
 戦後の米軍統治者の経済政策は、手段はともかくとして、1人当たり実質所得を引き上げることを最重要課題としていた。そのことが基地の安定的維持のために効果があったからである。人口急増の中で、1人当たり実質所得を引き上げていくには名目所得の引き上げと同時に、物価の安定が不可欠である。名目所得の引き上げは基地需要や援助の注入で可能だが、供給能力に乏しい沖縄経済ではそれが物価を引き上げ、逆に軍政に対する不満の火種になりかねない。従って、需要の創出と同時に、供給の安定的な確保を必要とした。そのための措置として、沖縄のB円軍票の対ドルレートの高め設定(本土では1ドル=360円に設定されたのに対して、沖縄は1ドル=120円に決められ、輸入に有利なレートであったとされているが、当時GHQのエコノミストでこのレートの決定に関与したM・ブロンフェンブレーナー教授の証言(32)によると、日本本土と沖縄の物価指数をもとにした購売力平価説に基づいて数分で決めたとのことである)貿易・為替の自由化、均衡予算の実施、準備金預託制度、通貨インフレを防ぐための見返資金勘定、流通機構の整備などがなされた。これらの物価安定策が奏効し、1955年から10年間の那覇市の消費者物価指数は、高度成長を実現したにもかかわらず年率1.2%(全国3.7%)という、今日では信じ難い低上昇率を記録した。
 基地収入を前提とした実質所得の引き上げという目的からする限り、米軍の政策は極めて目的に適っていたといえる。これだけの基地需要を沖縄経済内部で吸収していたら、間違いなく高インフレに見舞われていたに違いない。……
 沖縄の消費者物価の8割強は日本からの輸入でもって供給されていた。恐らく復帰後も同じ情況であろう。日本経済がドル不足に悩み、国際収支の天井に絶えず制約されながらストップ・ゴーの成長策を余儀なくされていた1958年に沖縄ではB円軍票から米国ドルへの通貨切替えが行なわれた。その後日本経済は未曾有の高度成長へ突入するのだが、その成長に油を注いだのが沖縄よりの成長通貨としてのドルの吸収であったことがつとに主張されている。日本は主に消費物資を沖縄に輸出してドルを吸収したわけだが、輸出入を通して沖縄から得たドルの純流入額(輸出−輸入)は1960年時点で6840万ドルに達し、当時慢性的な貿易収支の赤字を記録していた日本経済にとって沖縄はかけがえのない「ドル箱」であった。(33)
……
 基地需要及び米国援助は沖縄の経済情況に応じてかなりの程度調節された。このようにみてくると、沖縄経済の基地依存=非自立化は、需給両面における政策的意図によって構造化されたものである、といえる。しかしこの非自立化の過程は、少なくとも短期的には経済合理性にかなうものであった。前述したように、貧困に打ちひしがれた労働者が高い賃金(所得)を求めて基地周辺に集まるのは当然であったし、資金に乏しい沖縄の零細企業が目の前に降ってくる基地需要をいち早く吸収すべく、リスクの高い製造業よりも資金の回収が確実でしかも利益率も高い商業及びサービス業に目を向けたことは至極当然であったし、それがまた物価の安定を通して実質所得の増大につながったことはいうまでもない。
 沖縄の一人当たりの所得は、1955年度の149ドルから60年度には202ドルに上昇、70年度には鹿児島を上回る770ドルに達した。経済の自立的発展を問題にしなければ、与えられた条件下の中で第三次産業傾斜による経済発展が、沖縄の生活水準を引き上げる最も手っ取り早い方法であったことは先述した通りである。
 経済の非自立化(=基地依存)を促進したもう一つの大きな要因は、沖縄農業の貧困、停滞に求められる。戦前(1935年)の沖縄県の人口は59万人で、そのうち約7割強は農村人口であった。だが当時の農業純所得は全体の約5割で、1人当たり所得で商業の6割にも満たなかった。(34)狭い耕地面積に対する人口重圧及び税制による収奪等によって農村は極度に疲弊し、中毒の危険を犯してまでソテツを食しなければならない「地獄絵図」的な状況さえ現出した。(35)このような状況を脱出すべく、当時「棄民」扱いされた移民が新天地に望みを託して大量に流出し、また身売り同然の形で本土の紡績工場に出船せざるを得なかった女工の悲劇は、今日でもわれわれの胸を強くとられて離さないものがある(沖縄からの出稼ぎ女工の生活等については親泊康永氏(36)参照)。
 石川友紀氏(37)によると、沖縄における移民の歴史は1899年(明治32)当山久三の送り出したハワイ移民27人をもってその嚆矢とするが、以来1938年(昭和13)までの40年間に送り出された移民の数はじつに72,789人に達し、人口比でみて沖縄は全国一の移民県であった。
 これらの移民による送金は概して安定的に増大し、1937年(昭和12)には357万円のピークに達している(第D図−略)。戦前から沖縄の貿易収支は莫大な赤字を記録しているが、移民送金はその赤字のかなりの部分を埋めていることがわかる。
 移民、出稼ぎによって戦前の沖縄人口は50〜60万人で安定的に推移していた(第E図−略)。戦後の人口急増は、それだけ沖縄が経済的に豊かになり、人口扶養能力が高まった何よりの証明である。この人口増加の大部分が第三次産業において吸収されたことは、先述の所得構造の急激な変化より充分類推される。第三次産業は新たな人口増を吸収したばかりでなく、第一次産業からの大量の移動人口をも吸収した。1957(昭和32)年から72(昭和47)年にかけての15年間に、第一次産業就業人口は19万人から7万人に減少し、全就業人口に占める割合も52%から18%へと激減した。戦後日本の高度成長は、農村労働力を工業都市に吸収する形でなされたが、沖縄の場合は、農村から第三次産業を中心とする商業都市への移動という形で進んだ。農村労働力の都市への流出という点で沖縄ほどそれが急激に進んだ地域は他に例がなかった。
……
 戦後沖縄の農村は、急速な脱農の進行と同時に、兼業農家の増大によって特徴づけることができるが、特に後者を可能にしたのは全島に配置された米軍基地と基幹作物である砂糖きびへの特化であった。基地所得は、農業所得を補完し、粗放きび作は農業労働力の投入を大きく節減して兼業化に必要な余剰労働力を生み出した。きび作りにおける土地生産性が長期にわたって停滞した要因については種々指摘されているが、中でもきび作りによる相対所得が、生産性の向上を刺激するほど大きくなかったというのがその最大の要因であろう。つまり、労働の限界投入量による限界所得がきび作と他の兼業業種とが等しくなるところで、きび作への総労働投入量が決定されたと思われる。……
 基地需要を含む外生的需要の増大は、農業の相対的な生産性を引きあげることなく第三次産業に過度に偏重した経済構造をもたらしたという意味で、沖縄経済の自立化を阻害してきた。経済が他律的な需要に依存せず、内部のエネルギーによって創出された循環的要因によって発展を遂げていたならば、ヌルクセのいう意味での自立は確実に進展していたと思われる。しかしながら、このようなケースが起っていたとしたら、前述した他律的需要に対する依存度の異常な高さからして、沖縄経済の規模と生活水準は戦前のほぼ延長線上にあり、現在の7割前後であったと推定される。政治・経済が米軍に従属し、戦争で有形・無形の生産基盤を失った沖縄にとって、ヌルクセ的な自立的発展の選択の余地はなく、沖縄経済は否応なく非自立化への道を歩まざるを得なくなった。経済自立が課題として意識的にも浮び上ってくるのは、住民が自らの県知事を選出し、曲りなりにも政治的自立を獲得した復帰以降のことである。戦後27年間、日本経済が戦後民主化の過程の中で、「経済再建計画」、「経済自立計画」を策定して着実に自立化の道を歩んでいたとき、沖縄はひとり強制された非自立化の道を歩むことを余儀なくされていたのである。しかも沖縄経済の非自立化が、貿易あるいは日本の非軍事化を助けて日本経済の自立化に大きく貢献したことは前述した通りである。
 ヌルクセ的経済自立を、物的生産部門(第一次産業+鉱工業)に支えられた非物的生産部門(建設業+第三次産業)の進展として捉えると、沖縄経済の自立化は大きく後退している。データの利用可能な1955年度の物的生産部門の純生産割合は33.1%(第一次27.8%+鉱工業5.3%)であったが、その後低下を続けて1970年度には18.6%(第一次8.8%+鉱工業9.8%)にまで衰退した。この傾向は復帰後も変らず、1975年度には15.1%(第一次6.3%、鉱工業8.8%)、最近時の1980年度は14.4%(第一次5.7%、鉱工業8.7%)まで落ち込んでいる(第F図−略)。第一次産業の大幅な低下にもかかわらず、鉱工業は1960年代を通して停滞し、復帰後は衰退すらしている。逆に非物的生産部門のウエートは、1955年度の66.9%から1970年度には81.4%に上昇し、1980年度はじつに85.6%に達している。
 確立された経験法則ではないが、独立した経済(圏)が産業構造的に自立していくためには、3割程度の物的生産部門が必要であると思われる。日本経済の物的生産部門のウエートは、経済のサービス化に伴って低下してきているものの、1970年代の後半に至ってもがっちりと3割台をキープしている。
 類似県として沖縄とよく比較される宮崎、徳島、島根をみても、物的生産部門のウエートは3割程度に達しており、沖縄の産業構造の弱さは歴然としている(第G図−略)。



V 自立への条件 

1・沖縄をとりまく内外の環境<略>


2・市場経済の前提


……
 経済自立の思考の順序として、日本経済の一部としての高度に発達した市場経済を前提にする限り、沖縄のもつ経済的優位性は一体何であるかが最大の問題である。市場経済のルールは、良質なものを安く供給しうる生産者が生き残るということであるから、他の地域と比較して沖縄で最も有利に生産しうる商品及びサービスは何であるかを先ず考えなければならない。沖縄経済の戦前戦後の発展は、沖縄のもつ相対的優位性を活用する形で展開されてきていることに気づく。たとえば沖縄は本土のどの地域と比較しても砂糖きびとパインの生産に向いており、これらの作物に特化して生活を支えるという考え方は、市場経済の下では当然の成り行きであった。砂糖、パインへの特化は、外部によってつくられた、植民地経済によくみられるモノカルチャー的耕作形態であるとする議論がある。しかし市場経済を前提として砂糖、パイン以外に有利に展開しうる商品があるわけではなかった。むしろ与えられた条件下で、市場のメリットを最大限生かした結果が砂糖、パインへの特化であったみるべきである。その証拠に、税金等による植民地的収奪がなくなった戦後においても、砂糖、パインは沖縄の基幹であり続け、そのことは今日でも変わりはない。もし砂糖、パイン以外に市場が確保されて沖縄で有利に生産しうる生産物が出現したとしたら、数年もたたないうちにわれわれはきび・パイン畑をみることはないであろう。最近になって、野菜、花卉の生産が盛んになってきているのは、エネルギー価格の高騰もあって、これらの作物が沖縄で有利に生産できるようになったためである。このことは、比較優位性の程度が、内外の条件の変化に応じて変化し、固定しているものではない、ということである。……


3・自立的発展への内部条件

(1) 人口と失業
 前出の第H図は自立発展への沖縄の内部条件を、マイナスと思われる部分(イ〜へ)と、プラスと思われる部分(ト〜ヲ)に分けて例示してある。当面、自立発展へのマイナス要因と考えられるものに人口と失業の増大がある。沖縄県の人口は第E図でみたように、戦後の50万人台から戦後、とくに1950〜55年にかけて増大し、復帰前の1960年には約95万人に達した。復帰後の総人口は、基地縮小に伴う経済規模の落ち込みを反映して大幅に減少するという見方が一般的であったが、大方の予想に反して著しく増大し、1980年10月『国調』では約111万人に達した。これは復帰時(1972年)より15万人(15.3%)も多く、さらに「振計」で想定した1981年度の目標人口(103万人)をすでに約8万人も上回っている。復帰後人口が急増したのは、公共投資主導による経済の浮揚に加えて、自衛隊を含む公務・民間人の流入があって、復帰前の社会減が一転して社会増に転じたためである。復帰後人口が急増したということは、絶対的にも相対的にも沖縄の暮らしがよくなったことを意味する。人口急増以上に所得の増大が実現したため、1人当たり所得は1972年度の42万円から1980年度には116万円へと2.8倍の増加を記録し、その対全国格差も56%から67%へと縮小した。
 沖縄県の人口は、宮崎及び石川県に相当し、ハワイ州(約90万人)より多く、独立国ではシンガポール(240万人)の約半分で、モーリシャス、トリニダート・ドバゴ共和国にほぼ近い。一人当たり所得でみた生活水準では、沖縄はシンガポールより5割程高く、先進国並だが、沖縄より人口が少なくて先進国並の生活水準を維持している国(カタール、アラブ首長国連邦等)は世界中に数えるほどしかなく、しかもそれらの国々はすべて石油を含む高価な資源を有している。沖縄の人口規模で、現在の生活水準を維持し、しかも前述した産業構造的意味での自立を達成するには余程のことが起こらない限り不可能である。シンガポールは沖縄の2倍の人口をもち、国内市場の条件は沖縄県内よりはるかに恵まれているにもかかわらず、そのGNPの約2倍(沖縄は22%、1980年)という驚異的な輸出をしてはじめて沖縄の6割に相当する生活水準が確保されているのである。沖縄の人口規模は、とくに資本集約的な製造業を起こすには余りにも小さ過ぎるし、また農業で支えていくには余りにも多過ぎる。つまり中途半端である。ちなみに沖縄の土地に対する人口密度は464人(1975年)で、全国の300人よりはるかに高く、台湾並である。台湾の農業生産条件は沖縄よりはるかに恵まれているが、農業人口は年々急速に低下してきている。
 人口の増大の背景には必ず生産力の増大がある。賃金基金説で説明されるように、産業革命以前のヨーロッパの人口は長期にわたって停滞していた。人口急増が起こったのは、農業から工業への「離陸」が行なわれて以降のことである。(38)インド、中国における人口急増は、主に耕地面積の外延的な拡大による生産力の増加によってもたらされたものであった。これらの国々では、植民地化の歴史もあって、土地の物理的な制約を経験するまで農業から工業への転換がうまく行なわれなかったところに、長期にわたる経済的停滞を招いた要因がある。
 沖縄県の場合もインドや中国とよく似た側面をもっている。戦前の沖縄の人口は、苛酷な生活条件のもとで長期にわたって停滞していたが、戦後は基地収入によって、復帰後は財政収入によって生活基金の拡大をみ、人口は急増した。だがこの人口急増が経済の離陸、つまり農業から工業への転換を通してもたらされてなかったところに、自立的発展に関わる真に重要な問題が潜んでいるのである。
 沖縄の場合、経済がロストウーのいう自立的発展のための先行条件を欠いたまま、外的収入の増大によって所得及び人口が急増したのである。産業連関表(1975年表)より算出された公共投資の雇用者所得誘発率(0.6)を使って、外的収入(財政+基地)の一人当たり県民所得への貢献度を概算してみると、戦前4%であった外的収入の貢献度が、1955年度には主に基地収入によって26%に上昇し、1980年度には主に財政収入によって38%に達している(第J図−略)、今かりに、1980年度の一人当たり県民所得(116万円)を維持するという前提で外的収入がゼロ(完全自立)の状況を考えると、現在の沖縄の生産力で維持できる人口は1950年当時の70万人程度である。これは琉球の「精神共和国」を説いてやまない平垣次氏の次の考察と奇妙に一致する。経済自立の条件として「まず何よりも琉球列島内の人口が過剰であることを認識しなければならない。群島間の人口再配分の余地はまだある。しかし、その可能性にもかかわらず、琉球列島内の総人口は、生活の質的、量的高度化のためには余りにも多すぎるのである。今の半分にでも減らすのでなければ、これからますます増やさなければならない一人当たり国民所得に見合う生活の向上と快適さは、琉球列島の面積と自然的条件(特に空気と水の供給)からして覚束ないと思われるのである。そこに琉球列島外の琉球精神共同体の役割があるわけである。」(39)
 所得を引き上げるのは極めて困難なので、平氏の提案がより現実的だが、かりに所得の低下も甘受して“自立的”に現在の人口規模を維持するというのであれば、一人当たり所得は概ね70万円(現在の6割)程度となる。もちろん図で示されたいずれのケースもありうるべきことではない。だが経済自立は言うは易しいが、実際に行うとなると身を切るような厳しさが要求されるということを図は示唆している。経済自立というのは沖縄にとって一つのロマンであるが、その実現に向かっては身銭を切る覚悟が必要なのである。
 このような状況下における人口増は、構造的な失業増に結びつくばかりでなく、他律的要因によって押し上げられた名目所得を維持あるいは拡大しようとする圧力になり、ますます経済の他律依存度を強める作用をするという意味において、自立への阻害要因になりうる。

(2)インフラストラクチュア<略>

(3)市場の狭小性<略>

(4)単位コストの高さ

……
 沖縄の単位コストが相対的に高くなっている要因には種々あるが、何よりも@労働生産性とは余り関係のない米軍基地労働者の賃金水準が他の部門の賃金を先導したこと、A労働組合の力が相対的に強かったこと、B特に復帰後は賃金の全国水準化が進んだこと、C企業規模の零細性、技術・組織面での遅れもあって、賃金上昇率を生産性の向上でもって吸収できなかったこと等を掲げることができる。復帰後の賃上げ状況をみると、沖縄が全国を上回っており、全国と沖縄の企業収益格差(賃金支払能力格差)からして信じ難いことである。企業倒産なしにこのような状況が長続きするとはとても思えない。最近の沖縄と全国の賃金格差は拡大傾向を示している。一方、企業の内部留保の大きさを反映する製造業の設備投資は1972年度の267億円から76年度には79億円まで低下し、79年度に至っても189億円のレヴェルである。生産性を引き上げるためには、日進月歩の勢いで進んでいる近代設備の採用を不可欠とするが、皮肉なことには賃金水準が高い沖縄において対外競争で生き残るためには、九州以上の近代化投資を必要としているということである。設備の老巧化→低生産性→高賃金→低企業収益→設備投資の低下という悪循環をどこかで断ち切らない限り、市場経済で生き残るすべはないし、従って自立への道もない。

(5)軍事基地の存在
 第5番目の自立への負の内部条件として、広大な軍事基地の存在がある。基地の存在が沖縄の所得水準を引き上げてきた最大の要因であったことは前述したが、同時に自立的発展を沖縄の物的生産基盤の強化というヌルクセ流に捉えると、基地は最大の非自立化要因でもあったし、今日でもそのことには変わりない。……
 広大な軍用地の存在はそれだけで自立発展の妨げになっているが、さらに一般より高い軍用地料は民間地代の高騰を誘発し、土地集約的なきび作農業の機会費用を人為的に高める役割を果たしているだけでなく、あらゆる土地利用的な経済活動に悪影響を与えている。特に復帰後は、軍用地料が7倍にも上昇し、軍用地そのものが収益性を生む資産として買売の対象になっていることは周知の通りである。沖縄は土地に対する人口圧力がどの県よりも高く、ただでさえも地価は上昇し易い環境にある。そこにもってきて市場の実勢によらない軍用地料の高めの設定によって、一人当たり所得は全国最下位にあるにもかかわらず地価は九州の3.5倍、中国地方の2倍、北海道の3.8倍もしている。土地(実物資産)の価値は、その土地を利用することによってもたらされるフローの所得の大きさによって決定されるが、沖縄の場合、軍用地料という強権による作用が大きく、ストックとフローの価値関係は著しく歪められている。つまり、軍用地料によって地価が高くなり、そのために成り立ち難い事業が相当あると考えられる。
 軍用地料総額は1972年度の123億円から1980年度には311億円へと2.5倍に増大したが、その所得源としての魅力は、復帰後の反戦地主(軍用地として土地を提供することに反対する未契約地主)の推移をみれば一目瞭然である。1972年に2941名(防衛施設庁調べ)もいた反戦地主は、1982年には136名(沖縄県土地収用委員会調べ)まで減少してきている(この中にはこま切れ返還に併う地主の減少も含まれている)。
 所得源としての軍用地の魅力は、その土地を他の用途に転用することによって軍用地料収入以上の収益を挙げることが困難であるという理由に加えて、軍用地料はじつに労せずして所得が確保でき、しかも最も確実な所得源であるというところからきている。民間事業のように、景気の変動に左右される心配はない。さらに重要なことは、軍用地を開放して貰って仮りにきび作りをしたにしても、相当な労働力をその土地に投下しても軍用地料収入以上の収入を確保できるかどうかは疑わしい。来間泰男氏の読谷村に関する調査(43)によると、さとうきびだと10アール当たり6.5トンの収獲があり、粗利益は11.2万円(純利益6万円)だが、同じ土地を軍用地に提供すると、地料が坪500円として、15万円の収入があり、きび作で軍用地料並みの土地収益をあげることは不可能だとしている。さらに軍用地地主は、地料に加えて、他からの労働所得も期待でき、所得効果は一層大きいはずである。

(6)共同体的閉鎖性
 自立的経済発展との関連でよく沖縄のもつ共同体的体質が問題になる。たとえば、県外資本に対する反発、若年層の高失業率、若者のUターン現象、前近代的な模合金融からヤマトンチューに対する排他的態度、はては事大主義的思考に至るまで、すべて沖縄の島共同体と密接に関り合っており、それらの社会体質が近代化=経済発展を阻害しているという議論である。沖縄が島嶼という地理的な条件に加えて、これまでの歴史の大半を独立あるいは半独立の形で歩んできたということもあって共同体意識が日本の他の地域と比較して濃厚であることは疑いなく、それがまた沖縄独自の文化を育み、社会的落伍者を出さない機能を果たしていた。しかし沖縄が復帰すると同時に巨大な日本市場に開放され、共同体原理に代る競争原理が経済・社会の隅々まで浸透するにつれて、共同体的体質が生き残るための近代化を阻む、桎梏として表面化した。

……
 中心−周辺理論の沖縄への適用についてはいくつかの問題点があることをすでに指摘したが、沖縄(周辺)が市場を通して本土(中心)によって収奪されたとしても、このような市場を沖縄側の意志で閉鎖することは独立国でもない限り、実際上不可能であろう。せいぜい本土大手企業の沖縄進出を阻むのが関の山である。経済の従属性、あるいはミュルダールのいう市場の逆流効果を断ち切るために沖縄を独立させ、経済の社会主義的発展を図るとする気の遠くなるような発想よりも、本土に大きく開かれた市場を活用しながら産業構造を是正し、基地を内部から締め出していくという、むしろ市場経済の強化(A・ルイスのいう『経済化への意志』(51))こそが自立への現実的な道であると思われる。
 以上のような自立的発展への負の内部条件を前提にして沖縄の産業・社会の方向づけを行なうと、@労働吸収型、A節水・省エネ型、B中・小市場型、C高付加価値型、D土地集約型、E知識(技術)集約型となる。これらの諸点については開発ヴィジョンとの関連で再論する。


4・沖縄経済の可能性

(1)豊富な若年層労働力<略>

(2)コバルトブルーの海と白砂のビーチ<略>

(3)亜熱帯性気候・風土

……
 沖縄の産業発展を考える場合、絶えず国内での比較優位性と同時に、特に東南アジアを含めた国際市場での優位性を念頭に入れておかねばならない。最近の貿易摩擦にみるように、日本が比較優位をもち得ていない農産物及び労働集約的な工業製品の生産は漸次他国に譲らざるを得ない状況にある。これは貿易立国日本が孤立しないための避け難い選択であり、またそのことが日本と比較して格段に貧しい発展途上国の水平分業を推進し、アジア隣国の生活水準を引き上げる最良の道なのである。

(4)東南アジアへの近接性<略>

(5)豊かな伝統文化

……
 大城(立裕)氏らのソフト文化論は、新川明氏らによって痛烈に批判されている。新川氏によると「ウチナーンチュ」と「ヤマトゥンチュ」の意識構造の差は、両者の歴史的、地理的に形成されてきた文化の「異質感」に根ざしたものであるが、この「異質感」を「マイナスとして恥じ、退けるのではなく、逆にこれを日本(本土)とその国家権力を相対化してゆくためのプラス要因として、思想的に取り込むことによって、国家権力による〈被害者〉から、国家権力に対する〈加害者〉へと(60)」転化させる強力な武器にすべきであるとしている。沖縄の文化は本土のそれと「異質」であるがゆえに価値がある、という認識では大城氏も新川氏も一致していると思うが、この「異質性」が沖縄の近代化を阻み、「本土側からの地域差別と沖縄側の劣等感とを招いた(61)」とする大城氏に対して、新川氏は逆に反近代化思想を讃美し、その砦として沖縄を位置づけようとしていることに両者の最大の違いがある。
 復帰後10年を経た今日、われわれは両者の主張をある程度検証しうる材料を得ている。日本経済による沖縄経済の包摂は予想をはるかに越えるスピードで進行し、あらゆる面で沖縄の本土化がなされてきた。その結果、大城氏が予想したように本土と沖縄の「意識的な距離感」は、本土との生活条件の類似化によって大きく縮小した反面、玉野井芳郎氏が「地域主義の思想」(62)の中で指摘しているように、地方文化の見直しという地域主義的な発想の変化もあって、沖縄独自の文化は逆に隆盛をみてきている。「文化の異質性」という点からすると、沖縄はすでにゆえない劣等意識を克服して、かつてのようにことさらその優位性を主張することによって自らをなぐさめる必要はなくなっている。つまり日本の中で沖縄が相対化され、沖縄のもつ文化的な「異質性」は、日本の「恥」にも「負荷」にもならず、逆にそれゆえに「望ましいもの」として受け入れられていることである。特異性の排除からその包摂へと日本社会は大きく変わってきているのである。このままいくと、ヤマト口同様、ウチナー口を使えない者が差別されるというアタヴィズム(先祖返り)に落ち込みはしないかという懸念さえある。このことは、新川氏のいう「異質感」が希薄になって社会変革のエネルギーとして有効性をもち得なくなったということではなく、むしろ日本の大衆が新川氏の方向に動いてきて、「異質感」からくる反逆のエネルギーを吸収するようになったといえはしないか。逆説的ないい方だが、新川氏の思想はマジョリティーに受け入れられて支持されるまでは、極めて健全でありうると思う。
 沖縄のもつ「異質感」が「反国家の兇区」としての政治的エネルギーに転化しうるかどうかの可能性をみるには、この「異質感」をかもし出している沖縄の基層文化の構造を厳密に分析した上で、復帰によって何がどのように変り、何が変らずに残ったかを見定める作業が要求される。
 最も土着的な文化が最も国際的になりつつある今、日本の中でも最も土着性をにじませている沖縄文化の可能性は大きいと思われる。文化というのは経済という下部構造の上部に咲くあだ花みたいに考える不遜な徒もいるが、著名な経済学者であるE・Eヘゲンによると、「経済的停滞状態から成長への飛躍をもたらしたのは、文化のパターンの基本的な変化であり、経済的変数はその際の単なるパラメーターないしは外的条件にすぎない(63)」のである。



W 自立的発展ヴィジョン

 沖縄をとり巻く内外の制約条件と自立的発展のためのプラス要因を踏まえて、種々の自立ヴィジョンを検討してみよう。


1・ローカル産業重視型

 NHK沖縄放送局の「経済発展の方向」に関する世論調査によると、「農業と牧畜」及び「農産物・水産物の加工」に力を入れるべきだと答えた人が復帰後大きく増大し、1975年調査では両者で55%を占めている。つまり大半の人が一次産業を中心としたローカル的な産業発展の方向を望んでいるといえる。ここでいう「ローカル産業」とは、農業を主とした第一次産業に加えて、第一次産業の延長線上に位置づけられ、地域の資源を加工し、地域住民のニーズを満たす地域産業と、さらに「地域的独自性を有する財を供給する特産品工業で、市場は一応地域をベースにしながらも、全国市場、さらに外国市場へと展開する(64)」地場産業を含む概念である。
 ローカル産業重視が強まった背景には四つの大きな要因がある。一つは、高度経済成長の終焉に伴って1970年代に台頭してきた「地域主義思想」の潮流に乗って地方の文化とそれを支えているローカル産業の見直しが全国規模で起こったこと、二つは、「第一次振計」で最も重視されていた工業誘致による発展が種々の要因によってあえなく挫折したばかりでなく、既存の工業も本土企業との競合の中で実質的な進展をみていないこと。三つは、農業を中心とした第一次産業が、沖縄の省エネ的な自然条件、基盤整備、害虫根絶、専業農家の拡大等によって確実に振興し、明るい材料が多いこと。四つは、観光産業の急成長、農畜産業の進展などに支えられて食品、泡盛、伝統工芸品の供給条件がよくなったことを挙げることができる。
 ローカル産業重視の発展モデルは、世論と事実の進行によって力強い支持を得ており、沖縄で経済自立を考える場合最も確実な方向であるといえる。第一次産業を基底に据え、その地域循環効果を段階的に積み上げることによって地域の自立を目ざしているのが名護市の「基本計画」である。中村誠司氏の言葉を借りると、「沖縄の自然・社会条件を確かにふまえるなら、農業・漁業および地場産業の本質的育成を経済自立の戦略課題とすべきではないか。自前・自力・自作の方法に裏打ちされない自立の論理は、地域の現実において実体化し難い。地域の個性に即した第一次産業と地場産業によるまっとうな稼ぎを、沖縄そして名護市における地域開発、地域づくりの基礎に据えたい」。(65)このようなローカル産業重視の発展方向に対して直ちに、ローカル産業の振興だけで人口の流出は止められるか、都市との所得格差は一層開くのではないか、といった類の疑問が浴びせられる。これらの当然予想される疑問に対して、名護市の計画者は共同体的発想に基づく「逆格差論」で応戦している。つまり、県の「振計」で最も重視されている「一人当たり所得」の引き上げというフローの面での豊かさの追求よりも、むしろ入会山、入会漁場、共同売店、ユイマール、公民館広場・モー等の共同ストック、消費による地域の共同体としての豊かさと、地域創りへの共同体的共感を重視している。
 これまで減少を続けてきた名護市の人口は、1975〜80年にかけて約3000人も増加しており、共同体に地域創りの原点を置く「名護方式」が住民の共感を得ている証拠であるといえる。だがしかし、「名護モデル」が沖縄の他の地域にも適用可能であるかどうかは慎重な吟味を必要とする。共同体的経済活動のモデルケースとして絶えず学者の注目をひいてきた国頭村の奥部落に関する大城常夫氏の最近の調査によると、貨幣経済の浸透に伴って共同体を支えてきた共同労働の仕組みが次第に変質し、「共同体全体の利害をまず優先して考える視点が失われている。」(66)と指摘している。伝統的共同体は、人口移動及び商品経済の発達に伴って必然的に崩壊するというのがこれまでの定説である。名護市で共同体的な地域創りが成功する鍵は、市場経済の無駄を排除し、共同体的に競争的になりうるかどうかである。そのためには伝統的な共同体的エネルギーを開かれたコミュニティー原理によって再編成する必要があると思われる。「名護モデル」を拡大させた発展モデルについては後述する。

2・工業誘致型<略>


3・観光産業重視型

 「観光」という言葉を「広辞苑」で引くと、「文物・風光などを見聞してまわること」とある。ところが「観光産業」でいう観光はこの定義よりはるかに広く、得体の知れないものである。沖縄でいう観光産業とは、「沖縄を訪れる県外者にホテルやタクシー、食事などのサービス及び生産物を販売することによって成り立っている種々の産業」と定義できる。観光客の落す金は対外収支項目の「貿易外受取」に記録され、輸移入のための貴重な資金源になることから、日本各地はむろんのこと、社会主義体制を含むどの国でも観光客(Tourist visitors)は大歓迎である。観光産業は地域間の「人の流れ」によって成り立ち、その収入効果は地域間の「物の流れ」によって成り立っている輸移出と全く同様であるが、後者にみるような貿易摩擦は生じない。「日本人が群れをなしてアメリカ観光にやって来るのは困る」という苦情は聞いたことがない。
 物的生産力が弱く、輸移出能力のない沖縄が、このような観光産業を振興することによって、これと同様な効果を得ようとするのは無理からぬことであり、方向としては正しい。さらに沖縄は、相対的に観光資源に恵まれ、観光客数もここ10年間で10倍近くにも急増し、今や観光収入は基地収入を抜いて県経済のバックボーンになっていることから、いよいよもって観光立県論が具体性をおびて語られる。さらに沖縄における観光産業は、小は民宿から大は大型ホテル、大那覇市から竹富島、さらには各地に散在するビーチ等を舞台に展開されており、少なくとも観光産業の恩恵は、大企業の寡占的商品生産とは異なって、地域のすみずみまで及び(第@表−略)、観光産業振興に対する住民のコンセンサスが得やすいという特徴がある。反面、観光振興は観光客に媚を売り、社会の俗流化、物価高、交通混雑、水不足、喧噪・犯罪、環境汚染などの観光公害を招いているとする意見も根強い。
 県の「第二次振計」は、目標年度(1991)の観光客数を約300万人と想定し、これによってもたらされる観光収入を1980年度価格で約3500億円としている。この想定値は1980年度に比べて、客数で約1.7倍、収入で1.9倍の増加を見込んでいる。将来の観光客数の想定は、観光施設の整備を含む観光計画の根幹をなすもので極めて重要であるが、この300万人体制に対しての異見も多い。特に300万人は多過ぎるとする見方が中小の観光業者から出ていることは注目に値する。彼らは観光客及び収入の量よりもその経済効果との関連での質を強調する。1980年度の観光客収入は1800億円に達しているが、その経済全体への波及効果と地域間及び大小企業間への配分効果を考えると量より質を求めるのは当然である。
 地域科学研究所の地域乗数モデルによる推計(73)によると、観光収入10000円に対して、全産業で5819円(所得乗数0.58)、第一次産業6041円(0.64)、製造業2081円(0.21)、サービス業8010円(0.80)の所得効果を生んでいる。所得乗数はいずれも一以下あり、観光収入の半分近くは輸移入を通して他地域にリーク(漏出)している。特に製造業での乗数は0.21で極端に低く、県経済の構造的欠陥を浮彫にしている。観光消費の直接の対象となる土産品の大半を移輸入に依存している実体を考えるとき、観光客の急増はそれを上回る移輸入土産品の増加を、もたらしている可能性がある。高良有政氏が喝破しているように、「観光産業はそれが物的生産セクター(特に第一次産業や地場産業)と遊離すればする程、腐朽化する傾向(74)」(かっこ内は筆者)をもっており、観光の量的追求がこのような傾向に拍車をかける恐れがある。観光産業の望ましい位置づけについては後述する。
 観光収入の分配効果について、観光産業の中核を占める宿泊施設の稼動率(県調査−1979年)でみると、南部の63%と久米島の24%とは3倍近くの開きがあり、さらに収容人員300人以上のホテル(73%)と100人未満(34%)とは2倍強の差がある。ホテル稼動率の格差は、そのまま収益性の格差につながっていることはいうまでもない。沖縄金融公庫の譜久山当則氏(75)の詳細な分析によると、1979年度の県内大手ホテルの売上高経常利益率が5.6%であったのに対して、中ホテル(マイナス0.2)、小ホテル(マイナス0.8)となっており、収益格差はここ数年間歴然としている。300万人体制にもっていくには今の倍の大型ホテルが必要だと計画当局に説明されるとき、観光客の急増にもかかわらず赤字経営を脱し切れない中小ホテル経営者にとってはそれこそ脅威にしか写らないであろう。
 「第二次振計」はさらに、現在の3泊4日の「かけ足型」からハワイのような「滞在型・保養型」観光への脱皮をうたっている。沖縄の自然条件からして、年輩層を中心とした長期保養型への移行は好ましい方向であるが、ハワイのケースについてハワイ銀行のハイレンドール氏(76)が指摘しているように、300万人体制で長期滞在になると、地元住民と観光客との間に種々の摩擦が生じ、「観光客に不快な反応」を示すようになるという。第A表(略)は喜屋武氏(77)が整理した沖縄とハワイの観光関連指標であるが、沖縄の10年後の状況を知る上で参考になると思われるので掲げておいた。


4・自由貿易地域型

(1)輸出加工型<略>

(2)輸入加工型<略>

(3)観光ショッピング型<略>

(4)トレードセンター型<略>

(5)ローカル産業複合型
 この発展ヴィジョンは、今後沖縄が進むべき経済発展の方向として、私が『沖縄総合事務局報』(1979年6月15日)に展開したものであるが、その後吉川博也氏(87)をはじめとする多くの貴重なコメントないし修正があったので、ここでこれらのご意見を取り込みながらやや詳しく再展開してみたい。正直なところ、これまで取り上げてきた発展ヴィジョンは、沖縄の内外の制約条件と沖縄のもつポテンシャリティーを考えると、いずれも沖縄が抱え込んでいる問題を解決するための有効性と実行性に欠けている。
 これまで述べてきた発展ヴィジョンの中では、「ローカル産業重視型」が最も望ましい方向であるといえるが、しかし県民の生活水準を改善しながら、沖縄に住みたいとする100万人余の人口を維持していくには余りにも心細過ぎる。現在、前述の定義によるローカル産業が支えている人口は10%にも満たない。これから確実に増大する人口(1990年の封鎖人口はほぼ確実に125万人台に達する)を主にローカル産業で吸収しうると考えるには、開かれた市場経済を前提とする限り、2つの重要な条件を必要とする。その1つは、ローカル産業が市場制約を克服して県外へ向けてダイナミックな発展を遂げること。その2つは、実質所得の低下である。最初の条件が満たされない限り、増大する人口を主にローカル産業で吸収しようとすると、実質所得の低下につながらざるを得ない。現実的には後者の可能性の方が強いが、ただこの場合、実質所得の低下を人人は甘んじて受け容れるかどうかという問題がある。もしそれが受け入れられない場合は、本土への人口流出の形で所得水準が調整されることになる。……
 ここで提案する「ローカル産業複合型」は、ローカル産業の連関効果を最大限に生かすような形で工業、観光、自由貿易地域を位置づけるという発想に基づいている(第P図−略−参照)。
 図に沿って説明すると、県内で生産される第一次産業の生産物にまず注目する。全国の中で最も比較優位的に生産されている生産物は、砂糖きび、パイン、野菜、畜産物、水産物等であるが、これらの生産物は直接消費の形で県内外の市場に出荷されるか、県内の「地場型二次産業=一次的二次産業」の加工用原材料として利用される。「地場型二次産業」は、「原料需要創造型」と「原料供給創造型」に分けられる。前者は図で例示してあるように、県内原料に対する需要を喚起するが、技術の利用レヴェルに応じていくらでも考えられる。中には砂糖、パイン缶詰、泡盛など、種々の問題は抱えているが、地場的二次産業として大きなウェートを占めているのもある。後者は肥料、農機具、漁船など、第一次産業の生産拡大につながる供給創造型の地場的二次産業である。
 第三次産業も、「地場生産物需要型」と「地場生産物・サービス開発型」に分ける。前者は観光関連産業、飲食店、種々のサービス産業で、第一次産業の生産物を直接消費し、また地場的二次産業の生産物に対する需要を創造する。後者は、地場生産物及びこれと関連したサービスの開発を促進するソフト・ウェア的な産業で、試験研究、技術開発、人材養成、資金供給などが含まれる。
 本自立的発展モデルは、地場産業間の需給両面における連関効果を最重要視するという点では先述の「ローカル産業重視型」と類似しているが、基本的に異なるところは「自由貿易地域」が組み込まれ、県外市場開拓の「先兵」として位置づけされていることである。ここで重要なポイントは、自由貿易地域は外国にみられる「輸出飛び地」的なものではなく、県内の各産業セクターと有機的な連携をもっていることである。つまり、自由貿易地域はローカル産業に原材料を供給するのみならず、ローカル産業からも原材料・半製品及び種々のサービスの供給を受けて存立することになる。

(6)ローカル産業複合型モデル実現のための戦略<略>
 @技術開発を最優先した開発の「有効継起」を考える
 A「自由貿易地域」の創設を考える
 B「幼稚産業保護育成」を考える
 C生産における「地域間分業」を考える

(7)ローカル産業複合型発展モデルの課題
 本発展モデルは、沖縄の所得水準を少なくとも現在より低下させずに、開放経済体制の下で増大する人口を着実に県内で吸収することを前提に提案されている。本モデル実現に向けて、解決すべき主要課題を列挙しておこう。
 一つは、将来にわたって需要の増大が見込まれ、国内、海外をにらんだ上で沖縄で競争的に供給しうるローカル生産物は何かを検討すること。
 二つは、増大する需要に対応しうるだけの供給体制(とくに原材料)がとれるかを検討すること、ホーメルのブランドで豚肉製品を売り出し、今や沖縄の代表的な食品加工業にまで発展させた末続桂吾氏(100)がいみじくも指摘しているように、企業が成功するか、否かの鍵は「原料が安定して、低コストで調達可能かどうか」にかかっている。
 三つは、有望産業育成に向けての研究開発、生産、販売等の組織化をいかに推進するかを検討すること。これまでの沖縄における種種の経済組織形態をみると、組織化の当初の意図に反して動脈硬化的な現象をきたし、逆に経済の活力を阻んでいる面がある。組織の運営は徹底した競争原理に基づいてなされるべきである。
 四つは、県内外市場の開拓である。この点に関してはすでに多くの論者によって指摘されていることであるが、本モデルの実行性と関連して特に重要な戦略であることを強調しておきたい。生産物の供給が安定的に拡大していくためには、それに見合った需要の拡大が要請されることは経済の基本的な原理の一つである。この際特に留意しておくべきことは、身近にある県内市場を先ず確保し、その後に本土市場の攻略を考えることである。県内市場で成功し得ない企業は、まず本土市場でもその見込みはないであろう。


<注>
(1)嘉数啓「沖縄の金融システムはどう変わったか」『時琉』・1976年、第2号
(2)森田桐郎『南北問題』・日本評論社・1972年
(3)比嘉幹郎「沖縄自治州構想論」、『中央公論』1971年12月特大号及び野口雄一郎「復帰一年沖縄自治州のすすめ」・『中央公論』1973年6月号
(4)「特集―琉球共和国へのかけ橋」『新沖縄文学』・1981年48号
(5)(6)経済企画庁調査局編『資料経済白書25年』・日本経済新聞社・1972年
(7)金森久雄他編『日本経済事典』・日本経済新聞社・1981年
(8)経済企画庁『復刻経済白書』・日本評論社・1976年
(9)西原文夫「日本資本主義における『自立と安定』」・『経済評論』・1957年6月号
(10)北海道未来総合研究所編『北海道開発の新視点:自立経済への挑戦』・日本経済新聞社・1980年
(11)久場政彦「脱軍事基地経済の条件」『世界』・1971年9月号
(12)清成忠男『地域主義の時代』・東洋経済新報社・1978年
(13)沖縄県企画調整部『県経済の構造―昭和50年沖縄県産業連関表』
(14)Clark, C.G.,The Conditions of Economic Progress,(London:Macmillan,1940)
(15)Fisher,A.G.B., The Clash of Progress and Security,(London:Macmillan,1935)
(16)Kuznets,S.S., Modern Economic Growth:Rate,Structure,and Spread,(New Haven,Conn.: Yale Univ.Press,1966)
(17)(19)ラグナー・ヌルクセ著・土屋六郎訳『後進諸国の資本形成』・巌松堂出版・1966年改訳版
(18)デヴッド・リカード著・小泉信三訳『経済学及び課税の原理』・岩波文庫・昭和26年
(20)Harrod, R.F., Towards a Dynamic Economics,(London:Macmillan,1948)、Domar,E., Essays in the Theory of Economic Growth,(New York Oxford Univ.Press,1957)
(21)Little,I.,Scitovsky,T.,Scott,M.,Industry and Trade in Some Developing Countries,(Oxford University Press,1970).
(22)嘉数啓「台湾の自由貿易地域」『琉球新報』・1981年3月30日〜4月8日
(23)A・G・フランク著・大崎正治他訳『世界資本主義と低開発国』・柘植書房・1979年
(24)サミール・アミン著・野口祐・原田金一郎訳『周辺資本主義構成体論』・柘植書房・1979年
(25)Bauer,P.T.,Dissent on Development,(Harvard University Press,1972)
(26)H・G・ジョンソン著・大畑弥七訳『南北問題の経済学』・ダイヤモンド社・1972年
(27)H・ミント著・木村修三・渡辺利夫訳『開発途上国の経済学』・東洋経済新報社・1981年
(28)原田誠司・矢下徳治編著『沖縄経済の自立にむけて―78年11月シンポジュム全記録』・鹿砦社・1979年
(29)安良城盛昭『新沖縄史論』・沖縄タイムス社・1980年
(30)Myrdal,G., ASIAN DRAMA-An Inquiry into the Poverty of Nations,(New York:Pantheon,1968)
(31)(81)牧野浩隆『沖縄経済を考える』・琉球新報社・1978年
(32)M・Bronfenbrenner,「資本主義は生残れるか」(1980年6月23日琉球大学法文学部での講演)
(33)通商産業省『通商白書』・1961年版
(34)山城新好「琉球経済と貿易―その現状と問題点―」『琉球大学経済研究』・1959年・第1号
(35)仲地哲夫・安仁屋政昭「そてつ地獄と昭和恐慌」『沖縄県史』第3巻
(36)親泊康永『沖縄よ起ち上れ』(東京 新興社・1933年)琉球大学附属図書館マイクロフィルム
(37)石川友紀「沖縄出移民の歴史とその要因の考察」『歴史学研究』・1968年・第103号
(38)(45)W・W・ロストウ著・木村健康他訳『経済成長の諸段階』・ダイヤモンド社・1965年
(39)平恒次「新しい世界観における琉球共和国」『新沖縄文学』・1981年48号
(40)宇沢弘文『自動車の社会的費用』・岩波新書・1974年
(41)T・ヴェブレン・小原敬士訳『有閑階級の理論』・岩波書房・1961年
(42)Smith,A., The Wealth of Nations, (London: Menthuen &Co.Ltd.,4th ed.,1925)
(43)来間泰男『沖縄の農業』・日本経済評論社・1979年
(44)阿部統「沖縄経済をどう理解するか」『地域開発:特集―新しい沖縄を求めて―』・1971年10月85号
(46)Gerschenkron,A.,Economic Backwardness in Historical Perspective(Cbmeridge:Harverd University Press,1962)
(47)Rosenstein Rodan,P.N.,"Problems of Industrialization of Eastern and Southeastren Europe,"Economic Journal,Vol.33,(June-Sept,1943)
(48)大塚久雄『共同体の基礎理論』・岩波書店・1955年
(49)知念清憲「沖縄経済自立への構想」『中央公論』・1971年11月特大号
(50)新川明「文化・発想・情念」『沖縄経験』・1972年第3号
(51)Lewis,W.A.,Theory of Economic Growth,(London:Geroge Allen & Un-win Ltd.,1955)
(52)高良倉吉『琉球の時代―大いなる歴史像を求めて』・筑摩書房・1980年
(53)Reischauer,E.O., The Japanese,(Tokyo:Tuttle,1977)
(54)嘉数啓「東南アジアの経済・社会―とくにシンガポールを中心として」『東南アジア経済調査報告書』・沖縄労働経済研究所・1980年6月
(55)矢野暢「脱アジアのすすめ」『中央公論』・1979年8月
(56)喜納昌吉「いま何が沖縄の可能性か」『地方自治通信』・1982年
(57)大城立裕『内なる沖縄―その心と文化』・読売新聞社・1972年
(58)岡本太郎『沖縄文化論―忘れられた日本』(中央公論社・1972年)
(59)大田昌秀『沖縄人とは何か』・グリーン・ライフ社・1980年
(60)新川明『反国家の兇区』・現代評論社・1971年
(61)大城立裕「変ったものと変らざるもの」『地方自治通信』・1982年2月号
(62)玉野井芳郎『地域主義の思想』・農山漁村文化協会・1979年
(63)C・P・キンドウルバーガー著・坂本二郎他訳『経済発展論』・好学社・1968年
(64)清成忠男『地域主義の時代』・東洋経済新報社・1978年
(65)中村誠司「地域農業振興の論理と方法」『新沖縄文学』1976年32号
(66)大城常夫「農村の市場経済化の過程」『琉球大学経済研究』・1982年1月第23号
(67)A・ハーシュマン著・小島清監修・麻田四郎訳『経済発展の戦略』・巌松堂・1965年
(68)宮本憲一『地域開発はこれでよいか』・岩波新書・1973年
(69)杉岡碩夫『地域主義のすすめ』・東洋経済新報社・1976年
(70)伊藤善一「1970年代の沖縄開発の諸問題」・1966年10月
(71)山里将晃「工業化」・伊藤善一・坂本二郎編『沖縄の経済開発』(潮新書・1970年)
(72)山里将晃「地域開発と工業開発」『琉球大学経済研究』・1982年1月第23号
(73)沖縄地域科学研究所『観光収入の経済効果調査報告』・1980年7月
(74)高良有政「観光」『本土復帰による沖縄社会経済変動調査報告書(上巻)』・沖縄社会経済調査委員会・1980年6月
(75)譜久山当則「沖縄のホテル業界の現状と課題」『公庫レポート』・1982年3月
(76)Hillendahl,H.,Development of the Visitor Industry in Hawaii-Past and Future,(Bankot Hawaii,Information Center, Meme., November 7,1974)
(77)喜屋武臣市「沖縄観光の現状と課題」『復帰10年目の開発課題と展望』・沖縄労働経済研究所・1981年3月
(78)山城新好「自由貿易に関する一考察」『琉球大学経済研究』・昭和37年5月第3号
(79)藤森英男編『アジア諸国の輸出加工区』(アジア経済研究所268号・1978年)
(80)藤田睦博「新しい産業地形成と自由貿易地域(1)」『産業立地』・1981年4月号
(82)川原勇雄「アジアにおける輸出加工区の現況と展望」『海外投資研究所報』・日本輸出入銀行・1981年3月・第7巻第3号
(83)(87)吉川博也「沖縄自由貿易地域の新しい位置づけ」『沖縄の自由貿易地域』・沖縄協会・沖縄振興開発シリーズ第62号
(84)『日本経済新聞』・1982年3月22日朝刊
(85)嘉数啓「沖縄産業振興の方向」『沖縄総合事務局報』・1979年5月15日・6月15日・7月15日
(86)Kakazu,H.,"Japan's Econmic Cooperation:History and -perform-ance-With a Particucar Emphasis on the Philippines-,"in Interdisciplinary Studies on Culture and Society of the Southeast Asian Countries, Asian Study project,(March 1982)
(88)Duesenberry, J.S., Income, Saving and the Theory of Consumer Be-havior,(Cambridge,Mass.:Harvard University Press,1949).
(89)E・F・シュマッハ著、斎藤志郎訳『新訂人間復興の経済』・佑学社・1976年
(90)香西泰「日本経済の軌跡」『経済セミナー』1978年4月―79年3月)
(91)鶴田俊正『戦後日本の産業政策』・日本経済新聞社・1982年
(92)Corden,W.M., Trade Policy and Economic Walfare,(Oxford:Clarendon Press,1974)
(93)Bhagwati, J.N., "The Generalized Theory of Distortions and Wel-fare,"in Trade, Balance of Payments, and Growth in honor of Charles P. Kindleberger, ed.J.N. Bhagwati, R.W.Jones, R.A. Mundell", and J.Vanek(Amsterdam : North-Holland Publishing Co.,1971)
(94)Kemp, M.C., "The Mill-Bastable Infant-Industry Dogma," Journal of Political Economy, 1960)
(95)The Pure Theory of International Trade,(Prentice-Hall,1969)
(96)根岸隆『貿易利益と国際収支』・創文社・1971年
(97)与那嶺盛男「自立発展のための農業・農協の役割」『地方自治通信』
(98)(99)叶 芳和「農業自立戦略批判に応える」『経済評論』・1981年12月号
(100)末続桂吾「ホーメルの本土逆上陸のための基本経営戦略」『マネジメント.リヴュー』・第一巻・1981年8月
(かかず ひろし・琉球大学助教授)<『新沖縄文学』56(特集●自立経済を考える・沖縄タイムス1983.6)>

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