『沖縄経済の自立にむけて』(鹿砦社1979・6・25)
○沖縄自立経済のために 原田誠司/矢下徳治
序−自立経済論議をめぐる三つの問題点
第一章 復帰5年、沖縄経済の現状
第二章 自立経済諸論への視点
第三章「開発」経済学から「自立」経済学へ
<補論>沖縄自立の思想−川満信一氏の「共同体論」について−
<資料1>沖縄経済の現状把握のために 原田誠司
<資料U>国内植民地論(レジュメ) 中村丈夫
<資料V>島嶼経済論(レジユメ) 中村丈夫
※『沖縄経済自立の展望― '79第2回シンポジウム報告―』(比嘉良彦・原田誠司編著/鹿砦社1980.7)
沖縄自立経済のために
――沖縄経済の現状と自立経済の方法的一視点――
原田 誠司/矢下 徳治
序−自立経済論議をめぐる三つの問題点
「振興開発計画」の破綻と日本経済の長期構造不況という現実のなかで沖縄経済の活路をどこに見い出すか? 復帰5年を契機にまき起った沖縄自立経済論議は、様々にこの点を照射するものであろう。われわれには、この論議をさらに発展させるには、次の三つの問題点の解明が不可欠だと思われる。
第一の問題は、沖縄経済の現状をどうみるかである。復帰5年の決算は、結局何を明らかにしたか? 沖縄知識人の多くの論者によって分析されたように「振興開発計画」も海洋博も、沖縄経済の構造――一言でいえば外部・基地依存経済という――を変えはしなかった。牧野氏が鋭く指摘するごとく「振り出しに戻った」との実感は真実であろう。しかし、復帰5年を経過した沖縄経済は、後戻りできない。歴史は逆転しない。復帰しても変らない沖縄経済とは何か? この点を確定しない限り沖縄経済の自立はその展望のうちに見透すことはできない。われわれは、ここに焦点を定め、復帰の結果、沖縄経済が組み込まれた日本経済と沖縄経済の構造的関係を解明する。結論的には、「国内植民地」としての沖縄経済の構造的存在といえるであろう。沖縄経済は、このように位置づけ直され、「周辺」資本主義として回転せざるをえないのではなかろうか。自立経済論議は、このように72年復帰時とは異ったレベル(経済)ではあれ、日・沖経済の、構造的関係のなかで再び沖縄経済の自己規定が不可欠となっている事態を鮮明にしたのである。
問題の第二は、自立経済論議を現時点においてどのように“総括”するか? である。もちろん“総括”と言ってもわれわれがよくなしうるものではないことは、第二の行論から明らかではあろう。しかし、沖縄経済の自立を展望へと煮つめるためには不可避の作業である。対象とした諸主張は、沖縄経済の現状についてほぼ一致した見解をもちながら、経済自立の視点と展望において異っている。しかし、大略すれば、二つの傾向に区別される。一つは沖縄経済の後進ないし低開発からの脱却を近代化に求める主張、もう一つは後進ないし低開発自体の沖縄的独自性に依拠して自立の水路を探ろうとする主張である。前者が『沖縄の経済開発』、『開発と自治』および牧野論文であり、後者は「手ざわりの自立経済論」と川満論文である(本稿では川満論文=「共同体論」『新沖縄文学』32〜34号は「思想的自立論」として大きな意義をもつが、直接的な経済論でないことおよび紙数の関係で割愛した→「補論」として掲載) 。前者の近代化論は、多かれ少かれ、日・沖経済の一体化を前提にした論議であり、これに対し、後者は、沖縄経済総体の自立という視点の欠如がありながらも沖縄的独自性を「共同体」の再検討、発掘しており、近代化の現実と論理を批判する視角は確保している。しかし、もう一つここでの大きな論点は、日・沖経済の関係を“自立”との関係でどのように把握するかである。その点では、牧野論文に対する評価が一つの基準となるであろう。沖縄経済の活路は近代資本主義的発展か否か? と。
さらに第三の問題は、沖縄経済の後進性、低開発構造の脱却は、いわゆる第三世界の経済開発――自立論とどのように関連しているか?である。われわれがここまで領域を拡大しなければならないと考えたのは、牧野氏が明確に把握しているように、沖縄経済の後進性、低開発構造は、日本経済と一体化すれば解決されるものではないととらえるからである。一度び第三世界の経済開発論にわけ入ったとき、経済自立論の困難さは明らかとなる。新古典派的「開発」論、「中心−周辺」論、ソ連モデル「非資本主義的発展」論、中国モデル「自力更生」論などの主要な開発論は、結局、近代化論のワクを脱け出ていない。この評価には、相当の異論が出ることは、十分心得ているつもりである。にもかかわらず、重要なのは、一国経済の開発が帝国主義の経済構造の畸型的・周辺的一部分にしか結果しないという現実である。そこには国際経済体系についての根本的な認識の転換がある。低開発→開発の筋道は、経済自立には全く結びつかず、逆に第三世界諸国は「周辺」資本主義であり続ける。フランク、アミンの鋭い分析はこの点を明らかにした。われわれは、この視点と発展を追及するなかから、沖縄自立経済論を見直さなけれはならないであろう。
この小論は、以上の三点を軸にした若干の問題提起である。沖縄知識人、労働者諸兄、また沖縄経済に責任をもちあるいは関与されている諸兄に御検討いただき、御批判、御叱責いただければ、望外の喜びである。
第一章 復帰5年、沖縄経済の現状
1、 破産した「振興開発計画」
72年「復帰」に伴ない日本政府が沖縄経済に対する二大施策として策定したのは、復帰特別措置法と沖縄振興開発特別措置法であった。このうち振興開発計画の軸となったのが、72年度を初年度とする10カ年計画=沖縄振興開発計画であった。これは、@本土との格差是正、A地域特性を生かした自立的発展の基礎条件の整備、を主要目標とし、そのために産業構造の改編、すなわち、第二次産業の拡大、を達成しようとするものであった。しかしながら、周知のように、この10カ年計画は、既にその前半を経過しただけで大幅な見直しが行われている事実が示すように完全な破産を遂げている。また、政府レベルは言うに及ばす県レベルでの計画見直しも事実上、当初計画の枠内での手直しに留まっている。
今日、「自立経済」論議にとって必要なことは、「振興開発計画」を「復帰」以降の沖縄経済の推移のなかで総括し、その計画を貫く方法レベルに対する批判にまで高めることである。その意味で「自立沖縄経済」論議は「復帰」以降の沖縄経済の現状をいかに把握するのか、という点から出発する。
2、 72年「復帰」以降の沖縄経済
「復帰」以降の沖縄経済は、名目上では、大きな成長を遂げているかにみえる(大幅な経済成長率の伸び、県民所得一人による格差の縮小等々)。
しかし、@超緩慢な金融環境の現出、A好況見通し先行による高投資、高消費の惹起をその要因とするこの異常ともいえる沖縄経済の高成長は、一過性に過ぎなかった大型プロジェクト=海洋博の終了と共に、おりからの日本経済の不況ともあいまって、たちまちのうちにその虚飾をはがされたのである。
まず第一に、企業経済の悪化に伴なう企業倒産の急増である。76年には、72年比件数で件数で30倍、負債額で22倍という天文学的数字を記録している。
第二に、失業者数の急増である。72年以前には2〜4千人で推移してきた完全失業者数は、「復帰」以降急増し、特に海洋博終了後の75、76年は各々6000人ずつ増加し、76年には2万6千人(71年の6倍強)に達た。また、失業率も76年には6.3%を記録、同年の全国平均失業率の3.3倍に達している。こうした数字は、基本的には、一過的な海洋博ブームを牽引力とする沖縄経済の高成長が、長期的な雇用効果を生み出すべき何ら生産的なものを生み出さなかったことを示すものである。
第三に、移輸入依存の消費型経済のなかでこの高成長のもたらした高消費、海洋博工事労賃の急上昇を契機に全産業に及んだ賃金コストの急上昇との複合によって惹起せられた「本土」を上まわる高インフレである。このため、沖縄の実質賃金は、全国平均を大幅に下回っているのみならず、75年に至っては、その切り下げを招いてさえいる。このように沖縄経済の「高成長」は、沖縄人民の富の絶対的減価を招いているのである。
「復帰」以前の沖縄経済は、米軍基地依存による制約のもと資本蓄積が立ち遅れ、第三次産業の肥大化が象徴するように輸入依存の消費型経済としてきわめて脆弱な構造にあった。そして沖縄経済は、常に外部からの資金の流入(基地収入、援助等)によって辛うじて支えられてきた。この沖縄経済の構造的特質は「復帰」を経て今日変化してきているのか?
多く指摘されてきたように、結論的に言えば、第三次産業肥大の消費型経済としての沖縄経済の構造的特質は全く変化していない。むしろ第三次産業肥大化と製造業の停滞は一層進行してさえいる。製造業の低迷こそ、あの「高成長」が、沖縄経済にとって何らの生産的経済活動をも誘導せず、何ら沖縄における資本蓄積に貢献するものでなかったことを示している。
沖縄の製造業を、さらに一歩その内部に立ち入って検討すると、事態はより深刻であることが確認される。
75年の工業付加価値額、人口当たり工業付加価値額及び付加価値率は、いずれも全国最下位であり、しかも付加価値率は、72年以降年々低下、復帰以降の4年間で3分の1も低下している。この結果、全国平均との差はますます拡大し、4年間でその開きは2倍となっている。地域経済格差を、単純に経済主体の生産性格差と産業構造との相乗として把えるならば、単なる工業化、重化学工業化によっては、格差は解消に向かわず、逆に拡大しかねない、という教訓をこれらの事実は示しているのである。
対外収支構造からみても沖縄経済は、「復帰」以降、その特質を変化させてはいない。72年以前から一貫して赤字を計上した経常収支は、その後もこの傾向を拡大しており、日本政府による財政資金の投入によって経常赤字を補填する構造となっている。砂糖・パイン罐詰等一次産品に特化された移出品構造のモノカルチュア性はますます固定化させられている。こうした沖縄経済の移輸入依存度のきわめて高いという特質は、「復帰」後も全く変化はなく、むしろ復帰特別措置によって地場産業の活動領域を沖縄内部に限定された結果、こうした特質は一層悪化しているのである。
「復帰」を境に唯一変わったのは、このような対外依存度の高い結果としての対外収支の大幅な赤字を、従来は軍関係受け取りによって補填する構造にあったものを、日本政府による財政資金撤布によって補填する構造へと置きかえた点だけなのである。
3、国内植民地としての沖縄
沖縄の経済構造は、72年「復帰」を契機に、それまでの米軍支配下における基地依存経済――軍事植民地的経済構造としての色彩を次第に薄めつつ、新しい段階に入りつつある。われわれは、こうした新しい段階を迎えた沖縄と沖縄経済を国内植民地と規定する。沖縄は、工業的中心地域=日本「本土」に対して、一次産品供給に特化された、また「一つの経済システムが外部から押しつけられ、低開発的システムと構造を再生産し強化する傾向をもつ自発的な諸力の基礎を形づくっている」周辺地域であり、併合完成下において、日本国家内部の周辺地域、第三世界としての沖縄と沖縄経済は、日本帝国主義国家の国内植民地として存在しているのである。
沖縄経済の現実は、植民地に固有な諸側面を明らかに示すものとなっている。
第一に、沖縄における農業の日本に対する砂糖・パイン供給を媒介とした単一化、植民地的モノカルチュア化は明らかである。
第二に、「復帰」は、沖縄に日本製品を氾濫させ、日本資本の商品市場化が急速に進められてきた。
第三に、72年以降、以前にもまして急速な日本資本の進出と地場資本の系列化を進めたことも明白である。
第四に、「本土」に対する労働力の「輸出」により、自立的な経済発展の動因としての貴重な生産諸要素を喪失させられるという植民地的構造がなお基本的に続いていることも指摘できる。
沖縄の植民地化は、日本国家への併合によって促進され、ブルジョア同権の論理がそれを合理化しているのである。沖縄は、日本国家の一部として組み入れられることを通して植民地化状態に一層強く緊縛せられた、まさに国内植民地なのである。日本経済と沖縄経済の間には、財政を除いて国民経済的な有機的接合性は存在せず、あるのは、従属と収奪という植民地関係だけなのである。この植民地状態のもとで沖縄は、外部、すなわち日本から、一方的に経済システムを押しつけられ、歪んだ「従属的発展」を余儀なくされる周辺的資本主義の途を強制されているのである。
確かに、沖縄の低開発性は歴然としている。しかしながら、この低開発性は、工業的中心地域=日本の主導下で開発が進められた結果として生起したものであり、決してその以前から存在したものではない。沖縄は、かつては、米をほぼ自給しえており、最初から今日のような砂糖(及びパイン)のモノカルチュアが存在していたわけではないのである。
だが、日・沖双方において多くの人々は、この低開発状態を、経済的停滞、すなわち、遅れとして把え、政治的には遅れからの脱却としての「本土」並み=祖国復帰が、経済的には海洋博等大型プロジェクトを沖縄開発の起爆剤とするごとき外部からの衝撃、成長の移転を対置してきた。しかし、沖縄のこの5年の現実は、そのような思考に裏打ちされた諸施策を破産させてきた。今日、沖縄において主流的位置を占めている財政資金に依拠した福祉の島への展望もまた、基本的には、外部刺激、成長の移転思考の亜種であり、決して沖縄の自立的経済発展をもたらすものとはなりえないのである。
まさに、この5年間、沖縄が経験せざるをえなかったものは、「経済成長は進むが、経済の中心地域への従属性は却って進め、自律的発展をますます困難にさせる」という「低開発の発展」(A・G・フランク)であったと言える。しからば、その突きつける問題とは、単なる「振興開発計画」の見直しや、ましてや手直しで済むはずもなく、「開発」理論の方法そのものの再検討と批判に裏打ちされた、沖縄人民の叡智のすべてを集中した独自の「開発」計画、すなわち、本質的には自前の沖縄的近代の展望であろう。
こうした観点にたつとき、諸々の自立経済論は、いかなる位置を占めるものであろうか? これが次章で検討されなくてはならない。
第二章 自立経済諸論への視点
1、 新植民地主義の開発論
「豊かな沖縄」、「沖縄自立経済の自立的発展」を謳った沖縄振興開発計画が、すでに5年にして「白日の夢」と化したということは、その開発計画を支えた沖縄開発理論への批判を必要としている。
そこで、諸々の自立経済論を検討するにあたってまず第一に『沖縄の経済開発』(1970年、伊藤善一・坂本二郎共編、潮新書)をとりあげることとする。これは一口で言って、最も典型的な新植民地主義の(沖縄)経済開発論である。
著者達の沖縄経済開発の基本的な志向は、当然ながら工業化を基軸とする「低開発」――「人工栄養の経済」(大来佐武郎)圏からの「近代化」的開発である。その際の基本的視点――認識は、沖縄は「日本列島の最南端にあるという認識をやめて沖縄とくに那覇が東南アジアの戦略的拠点」、つまり「南方経済圏の拠点」にあるという観点にたつことであると言う。ここから「沖縄開発の戦略」としての「沖縄メガロポリスの創造」(伊藤善一)が結論づけられる。
その内容は、工業基地化と国際観光地化の二つである。第一の工業基地化とは、日本への石油供給を軸に、石油―アルミ工業を基幹にした関連諸工業を創出し一大工業団地を形成しようとすることであり、また、第二の国際観光地化とは、「日本のハワイ」をめざして観光産業を振興させることである。この中で、那覇を中心に、糸満から石川に至る都市を高速鉄道・高速道路で結び、事実上人口70万人を包摂する沖縄メガロポリス(巨大都市)を形成しようとする。このような工業化と都市化がその戦略である。
このような「拠点化」論・開発論が沖縄経済の自立なり、進歩に何らつながるものでなかったことは、先に述べた復帰5年の沖縄経済の現実をみれば明らかである。石油基地は、日本にとっての石油備蓄基地ではあっても、沖縄経済には雇用効果も関連諸企業効果も生み出さず、沖縄人民に対して何らのメリットも生み出さなかった。逆に、農民から土地と海を奪い、公害をまきちらしただけである。他方、海洋博を契機とした観光開発も投機的な観光業者による乱開発と、その結果としての過大投資による倒産をもたらしただけである。こうした沖縄経済の構造は、むしろ逆に日本経済への従属性をますます強めてしまったのである。
では、このような「拠点化」論、沖縄経済開発論は「未来学者」坂本二郎の「未来学」的白日夢として既に消しとんでしまったと言えるであろうか? 決してそうではない。坂本二郎の「三つの選択」(軍事基地の道、社会保障の島への道、実験の島の道)の第三、「実験の島の道」として現実の沖縄は位置付けられていると言えよう。この道は、「一部軍事基地をもちながらも、しかし軍事基地によって生きるのではなく、軍事基地より以外のものによって生きようとする」道であり、「対外関係の中継基地として新しいものを切り拓いていくという道」である。「一部軍事基地」どころか、ほとんど軍事基地は撤去されず――因みに、著者達は「昭和41年4月に、東京大学が行った世論調査の結果では、……『米軍のいることが経済の向上に役立っている』と認めるものが67%もある。こうした動かしがたい事実を重視しなければならぬ。……基地撤去は望ましいものであるが、そのタイム・スケジュールを誤まると、経済・社会面で大混乱が生ずる」という観点から、軍事基地の経済的役割を肯定しているが、現実は軍事基地だけが残り、経済的役割は全くなくなっているのである。軍労働者の大量解雇をみよ!――、CTS建設は強行され、原発設置の声すら上がっている現状は、「実験の島」が厳然と生きていることの証明である。
しかも、この「実験の島」という位置づけは政治的には、「われわれは沖縄開発という偉大なる実験が、東南アジア開発に対する日本の熱意と能力をテストする重大な意味をもつものであると考える。沖縄開発のための費用は、つづいて展開されるであろう東南アジアに対する援助計画のための研究費ないし調査費であると考えるべきであり、これから得られた種々の教訓やデータは、世界にむかって開かれるべき性質のものである」という、文字通り日本帝国主義のアジア支配の一環という観点で把えられているということが重大である。
明らかに『沖縄の経済開発』の立場は、日本政府の財政援助と日本資本による工業化を通して、沖縄を「国内植民地」化しようとするものであり、沖縄経済を、日本資本主義への従属性を深めさせることによって、「周辺的・従属的」経済構造に留まり続けるという構造を促進するものでしかない。その沖縄人民に対する反人民性が、この5年間の沖縄経済の実情として露呈してきているのである。
2、「革新」の経済開発論
これに対し、いわゆる「革新」の側からする「沖縄経済開発」論がある。例えば宮本憲一の「沖縄の地域開発を考える」(岩波新書『地域開発はこれでよいのか』所収)、沖教組経済研究委員会の『開発と自治』(日本評論社)等である。
これは、「基地撤去」、「公害のない産業」、「地方自治権の拡大」等、政治的には先の開発論と対極にたつものである。ところが、これが果して新植民地主義的な沖縄経済開発論の破綻を真に批判し、克服しえるものであるかについてはきわめて疑問である。以下、『開発と自治』の主張に則して若干の問題を提起していきたい。
論点の第一は、沖縄返還と自治権奪回の必然性という問題である。松田賀孝氏(本書研究委員長)は、「沖縄返還の意味するもの」を一方で、ドル体制の崩壊→日本への肩代わり、およびアジア安保の政治・軍事的維持、強化(日本の軍事大国化)に求め、他方沖縄人民の側においては「第三の琉球処分」、「住民の意志を何ら介することなく、外的権力によって一方的、強制的になされた」ものとして把える。また、松田氏は返還過程における沖縄住民の意志は復帰運動として表現されたが、その理念は72年返還によっては実現されなかったと、72年返還の限界を指摘する。つまり、復帰運動の中心理念は「アメリカの軍事支配から脱して(日本の)平和憲法の下に復帰する」ことにあったが、現実の返還過程は、先に述べたような内容であり、この理念が形骸化され、裏切られていく過程であった。この点で「反復帰」の思想が譲成されたのも当然であった、という。かくして、松田氏は、復帰後の復帰運動は「自治権奪回」の運動へと変わる、というのである。
しかしながら、ここでは二つの問題がある。第一は「第三の琉球処分」と言いつつも、72年返還の本質が把えられていないことである。住民の意志を何ら介することなく日本国家の国境再編が72年返還協定において行われていることに対する沖縄住民からの原則的批判が込められた把握が問われているのである。つまり「併合」という規定である。第二は、「自治権奪回へ!」の空論性ということである。「平和憲法下への復帰」が裏切られたとすれば、その憲法第8章地方自治への理念が裏切られない保障はない。かくて氏の「第三の琉球処分」−−「自治権奪回」という立論は、併合−−沖縄住民の独自の社会的経済的独自性としての沖縄人民の自決権として突きつめられなくてはならないのである。
論点の第二は、日本政府の開発政策に対する地方自治の復権という把握である。松田氏は沖縄経済開発の現状を日本資本主義の歴史的体質、限界の問題として説く。日本の明治以来の開発政策は、国と独占との「混合経済」的開発であり、それは即「農民切り捨て」工業化、および地方自治の不在の過程であった。戦後も資本のための政策――新全総、列島改造論、新国土総合開発法等――が政府によって推進され、住民、国民の福祉は犠牲にされてきた。その結果、沖縄経済は石油基地と公害、インフレ、伝統工芸の破壊、海洋博の乱開発等、完全に破壊され、日本資本の資本優位の開発が公然化されるようになった。このことは、ある意味では、「“異民族による支配”よりも“同民族による支配”のほうが、はるかに深刻で残忍である」。こうして松田氏は、日本経済の開発政策=産業集中化と拮抗するのは自治権の拡大によるしかなく、これこそ「沖縄の心」であり「沖縄の命」なのであると言う。
このような“住民福祉を犠牲にする開発政策”←→住民福祉=住民自治という発想は、日本の革新自治体における一般的見解でもある。しかしながら、73年石油ショック以来の不況の中でこれが大きく破綻してきていることも事実である。それは、革新自治体が多様な形態をとりながらも、高度経済成長下の資本による地域乱開発の矛盾をテコに成立し、自らの産業――経済政策を体系的にもちえないからであった。経済を動かすのは資本であり、その矛盾を緩和するのが地方自治体という関係を変革しえないのである。しかも日本の自治体は、そもそも上から、官製的につくられたものであり、独自の産業――経済体系を主体的に創出する歴史的条件を有していないのである。
真の地方自治は、住民自身の自己決定――まさに松田氏のいう「地域住民自身がみずからの自由意志によってみずからを治める」という――の運動=人民自治の運動によってしか成立しえない。ここで初めて資本の論理はチェックされるだけなく、否定されることができるのである。とすれば、“住民福祉を犠牲とする開発政策”という言い方は“住民自治を犠牲とする開発政策”と言いかえられるべきであり、松田氏が、「特に沖縄の場合、その住民福祉は単に“本土並み所得水準”だけで解決がはかられるべきではない」と言うのも、このような観点に立ったときに唯一、その方向が明らかとなるのではないだろうか。
第三の論点は、ではこのような住民福祉=住民自治と沖縄自立経済とはどのような関連にあるか、ということである。本書では、自立経済とは、「基地依存経済」――「外部依存の消費経済」からの脱却を、工業開発優性主義ではなく、住民参加を基調にして行うことと規定し、次のような政策を提起している。@農業はさとうきび価格引上げを中心にした政策、A製造業は、全体的経営規模拡大を基本とし、有機的、多様な連関をもった産業構造への転換、B観光開発は住民主体のものへ、C自治体を生活環境整備優先主義に転換させる、D住民審査制による環境、公害チェック等である。
この自立経済論は、結局のところ自治体(県)をどう動かすかに最大の力点がおかれている。その思想的基礎となっているのは“シビル・ミニマム”の思想である。シビル・ミニマムとは、「すべての市民がその地域において近代的生活を送るうえで必要とされ、かつ権利として保障されるべき最低限の生活水準」として把えられ、その基本理念は、憲法25条の生存権の保障から導き出されている。これについて二点ほど問題を指摘することができる。第一は、「民主的」自治体(革新自治体)といえども自治体=国家権力の一分枝であり、人民ないし住民自治、自己統治の問題とは別個の問題であるということであり、第二はシビル・ミニマムと言った場合、では沖縄人民にとってのシビル・ミニマムとは何か、という問題である。
とりわけ、沖縄人民にとってのシビル・ミニマムとについては結局のところ本書では全く明らかにならない。松田氏が批判した“本土並みの所得水準”とどう違うのか? 第一の問題とも関連するが、つまりこのことは、経済自立という時の主体が不明確であるということに由来しているのである。自治体、自治権を理念的に措定し、そこに憲法25条の理念からシビル・ミニマムの思想をもち出してきても、現実に沖縄の社会的経済的主体にとっての自己発展の軌道がどこにあるのかを確定しえない。本書に経済自立論が、日本経済との関係において沖縄経済の「周辺的・従属的」性格を何ら把えられないのもここに原因があると言うことができる。
3、手ざわりの自立経済論
次に検討しなければならないのは、ある意味では最も沖縄的な“手ざわりの自立経済論”とでも言うべき「名護市基本構想」を軸にした方向性である。この方向性は、前二者が曲がりなりにも全沖縄的視点に立ってその経済活動を論じているのと異なって“地域”(基本的には市町村領域)に拠ってその経済活動を論ずる。いわゆる“地域主義”的自立経済論である。「名護市基本構想」(以下「名護プラン」と称す)のそれは名護市――北部(国頭)の地域主義として現われている。
地域主義といった場合、それは経済的というより政治的な概念であろう。事実、「名護プラン」は二つの思想的・理論的側面が重なり合っていると思われる。第一に、いわば「共同体中心主義」とも言うものであり、沖縄独特の村落共同体の存在をもって「プラン」の核心としていること、第二に、反中央の志向(この場合の「中央」とは那覇、「県」当局、その「振興開発計画」を指そう)、それを支える個有権論的自治=地域分権主義のとらえ方があると思われる。この二つの重なり合いこそ、「名護プラン」の意義と弱点の双方を映し出すものとなっている。
「名護プラン」は、沖縄独自の共同体(具体的には名護地域の自然的・伝統的共同体)の上に立ちつつ独自の農業(第一次産業)経済再建を媒介にした地域環境・経済論である。それは、一方で近代化農業批判とそれへの対置――例えば、外部依存の経済路線・計画への批判、近代化農政への批判、農業・農村の現状批判とこれに対する農・漁業――地場産業への依拠、有機農業の再建(集約化・複合化)農村の豊かさ(共同性、共同施設)の見直し、等々の理論的提起――を前提にしつつ、他方で、きわめて具体的な地域経済構築の方策――営農方式、生産−流通の機構論――を提案する。その柱は、@輪作・耕畜結合・土づくりによるところの複合農業の構築、A農家の複合経営の集落単位の集落農業としての組織化、B兼業問題の副業、“安心兼業”としての解決。C自主的地域的な流通機構の建設、の四点である。
沖縄(名護)の独特な共同体に立つという意味では、四つの柱のうちAが最大の問題であろう。つまり、Aのいかんが@を実行しうる労働力を保障する関係となっているからである。複合農業は労働力の一層の集約的投入を要請するために、この集約的投入を保障し、各農家の複合経営を成立させるだけの共同体的な協働を組織しうるか否か、ここに「名護プラン」の成否のすべてがかかっているのである。「共同体中心主義」は、このように具体化されるが、これを担う主体のエートスと目的はどのようなものであろうか?当然、「名護プラン」のプランナーたる都市計画・設計者のそれではないことは言うまでもなく明らかである。
実は、この主体のエートスがどれほど沖縄(名護)の共同体意識からの抽出物として把握されているかが沖縄的「共同体主義」の要であろう。この点は、やはり、地域主義の枠組みとの関係を厳密に検討しなくては確定できないと思われる。日本の地域主義は、大きく二つの傾向に分けられる。一つは、自治体中心の分権主義であり、もう一つは、住民自身の地域分権主義である。前者は、沖縄においては革新自治体の機能強化を主張する松田賀孝氏的な憲法的分権主義としてある。それがシビル・ミニマム追求運動を通じた革新自治体強化論でしかないことはすでに述べた。
問題は後者である。その代表的主張は、「名護プラン」のプランナー達とも親しいと言われる杉岡碩夫氏の「地域分権主義」である。村岡氏の所説の特徴は、@高度成長で行きすぎた社会経済運営の中枢管理体制の分権化、A分権化を通した現代の技術体系と組織体のつきくずし、B地域住民の生活変革=文化革命としての地域主義、という点にある(『地域主義のすすめ』1976年)。杉岡氏の主張は、高度工業社会日本=管理(画一化)社会批判としての地域主義に核心があり、その限りで自立した地域経済――住民自治を目ざすものである。沖縄の地域主義もこの一環であり、管理社会批判として明確に位置づけられている。
このような地域分権主義は、沖縄的「共同体中心主義」を日本における反管理社会、反近代の一貫と評価するために、沖縄的「共同体中心主義」を担う主体のエートスへと深く分け入りえないのである。それは反日本管理社会−反日本近代の抵抗体としての沖縄的「共同体中心主義」の意義が等閑に付されることでもある。かくて、「名護プラン」の地域主義は、沖縄的「共同体中心主義」と沖縄経済の関係を明らかにすることなしには、杉岡氏の「地域分権主義」と等式で結ばれることは必定であろう。
現振興開発計画が破綻しているとしたら、各地域はいかなる方向性において経済自立を展望すべきか、外部依存がよくないとしたら、日本経済との関係はいかに考えるべきか、そこにおいて「名護プラン」の方向性がいかに自身の地域経済論の諸前提を展開しうるか、これが問われている。
4、近代資本主義としての自立沖縄経済論
日本経済との関係を対象化しつつ沖縄経済の「発展」をとらえるものとしては、いわゆる牧野論文が検討に値しよう。「主役不在の経済開発」と「振り出しに戻った沖縄経済」(『金融経済』182、185号所収)である。牧野浩隆氏の立場は、いわゆる近代化論であるが、それは明確に、後進国経済圏沖縄をいかに強力な近代資本主義沖縄へと発展させるかを論じたものである。
牧野論文を一貫している精神は、いわば“沖縄ブルジョアジーのルネッサンスの叫び”とでも言うべきものである。牧野氏は、復帰五年を経ての沖縄経済の破産をまず指摘し、振興開発計画の限界を次のように述べている。すなわち、沖縄経済の混乱の最大の原因は、「経済開発の主役は事業体=企業の担い手であるという命題に対する認識欠如と主役不在の事実」にあり、この「企業者活動の担い手=開発の主体」についての共通認識なしには自立経済開発はありえないと。これは、資本主義草創期の資本家精神=エートスのみならず、第三世界の経済開発論の総括――賃金援助や技術導入のみによって工業化をはかろうとした路線は失敗し、むしろ工業化を支え領導する企業者精神や企業者能力の問題が要となる、という――をも踏まえ、その視点・方法を沖縄経済開発論に適用しようとしたものである。
氏は、これまでの沖縄経済の総括を、担い手自身の問題とその政治、経済意識の決定的限界として喝破する。その批判は極めて痛烈である。まず、沖縄経済の第三次産業偏重とは地元資本が輸入、販売に専念する「商業資本」として生成されたことにもとづくものであり、この「商業資本」は経済開発には役立たないと言う。「商業資本」主導では独自な再生産構造の構築も有効需要政策も効力をもたないということである。また、第二次産業=産業資本は、沖縄経済が基本的には「商業資本」化を促進する自由貿易制度の上に成立してきたが故に、域内市場のみを対象としたサービス的・消費財的在来工業に留まってしまっている。こうした、沖縄経済においては商業資本も産業資本も「開発の主役を担う力量」を備えていないと言うのである。これに加えて、戦後の沖縄の政治過程は、沖縄人に経済的被害者意識を一般化させるように作用し、「経済論理の洗礼を受けた開発の苦悩=学習過程」を体験させえなくさせた。この「他力依存型開発」とその発想方法は、「行政力の蓄積不足」を招き、例えば、明治時代の日本資本主義が「先見性に富んだ官僚」の国家資本主義的指導によってはじめて強力な発展が可能となったような「行政力」を蓄積しえなかったのである、という。つまり、行政=官僚もまた開発の主体たりえないというのである。結局、沖縄への外部要因――日本政府ないし資本――の導入によるインパクトが不可欠の構造となっていると言う。しかし、返還過程における日本政府の欺瞞性のゆえに、日本政府・資本への不満、不信が生じ、これに対する拒絶的姿勢がきわめて強い。祖国復帰運動はこの表現であり、そこから生ずる経済意識は被害者の意識であり、経済における「経済者の役割」の軽視、経済問題の政治的解決という姿勢を一般化させていると言う。
このような牧野氏の総括は、沖縄のすべての主体、勢力に否定的過去との断絶を迫ると同時に、経済開発の主体は産業資本=新しいブルジョアジーの創出にこそあるということを突きつけている。復帰運動を闘った主体・勢力はこれに何を対置するのかが決定的に問われているのである。
次に、ではその沖縄経済開発の具体的政策はどうであるのか? 氏は経済開発の意義を単純に産業構造の転換=第二次産業の育成というようには言わない。むしろ、「失業問題の解決」という俗耳に入りやすい問題から説き、結局、職場づくりとは物的生産力の拡大(産業資本の育成)であるという論理へと導いていく。その上にたって、その制約条件の共通認識を通して「自立経済の確立」をはかろうとする。氏は、沖縄経済の脆弱性を「物的生産力を有しないための移輸出入収支の大幅赤字」としてとらえ、「自立」とは「『県外収支の拡大均衡』をはかりうる経済力をビルトインすること」であると理解する。これによれば、@移輸出代替産業の新規設立→県内自給率の引上げおよび対外支払削減、A同産業の生産量拡大→雇用・所得上昇→需要増加→生産規模拡大→生産性向上→消費者の還元、という経済循環の図式が波及すると考えられている。この図式は、県産品との競争制限措置の不可能性、100万人市場という狭隘性、県産品優先購入強制の限界などの沖縄経済をめぐる制約条件を考慮しても、移輸出の拡大増強があれば達成できると言う。しかし、地元資本にその能力がない現状においては、「企業誘致」=日本資本の導入によって担わせなくてはならず、沖縄経済はこの「誘致企業を最大限に活用」し、その過程で独自の再生産構造を構築するための「学習」をしなくてはならない。その意味で「門戸開放的」であり、かつ日本市場を対象にした「対外志向型」の方向をとるであろうと言う。
以上から明らかなように牧野氏の言う「自立経済の確立」とは、日本資本の導入を推進しつつ、それを徹底的に活用し、それをテコとして沖縄産業資本を勃興させ資本主義的蓄積構造を構築しようとするものである。比喩的に言えば、明治維新後の日本資本主義の国家資本主義的蓄積過程の小型版であると言えよう。氏は、この過程を推進するために、産業資本誘導機関の新設、誘導産業の具体的選定、能動的誘導機関の遂行を提起する。ここには、沖縄の本格的、資本主義的再構築の情熱がみごとに論理化されている。
しかし、牧野論文にも問題がある。それはこのような沖縄ブルジョアジーのルネッサンスの根拠は果して存在するのかどうか、ということである。資本主義の勃興期にはプロテスタンティズムの倫理が資本家精神を形づくり、また後進主義諸国においては民族的自立、民族的キャッチ・アップがブルジョアジーの精神であった。さらに、第三世界諸国においては、帝国主義の植民地支配からの民族独立−民族国家の形成が民族ブルジョアジーの精神として存在した。沖縄の場合はどうか?牧野氏は沖縄ブルジョアジーの限界を痛烈に批判し、そのつくりかえをめざしている。だが、旧来の軍事植民地経済構造のなかで、その利益を亭受してきた沖縄ブルジョアジーが、日本への復帰と言う新情勢が到来したとはいえ、何を媒介に、あるいは何を目的として自己変革できるというのだろうか?現実は氏自身が鋭く分析しているように新たな盟主たる日本主義と国家に従属し解体されつつあるとすら言えるのである。
牧野論文は、沖縄ブルジョアジーを主体とした沖縄「自立経済」論の実践的破綻の中で、沖縄「自立経済」の政治的主体を第一義的に明確にすることによって止揚されるのである。
第三章「開発」経済学から「自立」経済学へ
1、経済自立の概念
政治経済学的に言って、「自立」の概念は、「低開発−開発途上」や「後進」のそれとは位相を異にする。また当然のことながら、「自立」とは、「自給自足」ではない。「低開発」または「後進」的経済水準で「自立」している社会−国家はあまりにも多く現存するし、国際収支や累積責務を基準とすると、「自立」している国家は「先進」国でも教えるほどしかない。「自立」を「従属」に対置した場合でも、両者の概念の共軛範囲はあまりにも大きい。したがって、経済自立とは、さしあたり、厳密性を欠くとしても、一定の社会的経済単位とくに民族集団が、自己発展力の主体と体系を内在させ、固有の経済発展の軌道をみいだし、それへの動態を開始している状態、とでも考えておくべきであろう。その状態は、一定の政治的条件に保障されなくてはならないことは、言うまでもない。
経済自立の状態は、一人当りのGNP、国民所得、鉱工業生産や、あるいは生産的投資率、経済成長率などの量的指標によっては確認されえない、と言うべきであろう。産油国のように、当該国民経済がまったく従属的に構造化されている場合には、比較的高いこの種の指標はなんの意味をもちえないし、逆に現在の指標は相対的に低くとも、経済的自己発展――W・W・ロストウの言う没主体的・非体系的な「離陸」(『経済成長の過程』)とは本質的に異なる――の軌道を踏みだしつつある社会は、より自立的である。
たとえば、ラテン・アメリカを例にとってみると、反革命クーデター前のチリの一人当り国民所得は、「メジャー」=石油超独占体の支配下にある産油国ベネズエラのそれの二分の一にも達しなかったが、当時のチリよりベネズエラの方が自立的であるとは、到底言いえないであろう。アジェンデ政府はソ連の「援助」を期待して経済政策を誤ったが、ITTやアナコンダの支配に対抗するそれなりの経済自立化への方向は、米ソ「平和共存」=デ・ファクトの世界分割協定のもとに無惨にも圧殺された。ちなみに、砂糖モノカルチュアから部門間整合発展の経済体系への修正を妥協的に断念したキューバは、経済安定とひきかえに、ソ連への従属下にラテン・アメリカ革命への道を閉され、文字どおりの「血税」として軍隊を輸出するにいたった。
他方、主体的、体系的であろうとするだけでは、経済自立の実質はかならずしも保障されえない。こんにち、すべての国民経済は世界経済に緊密に連動し、帝国主義世界体制特にその先端に立つ世界企業=多国籍企業の動向に多かれ少なかれ規制されている。したがって、経済自立は民族的ないし国家的規模での「自力更生」によって必要かつ十分に達成されうる、という命題は、明らかに再検討を要する。
たとえば、完全主権国家であり、資源的には「自給自足」も可能な、それ自体一箇の「世界」であるかのごとき中国ですら、ソ連への従属やスターリン主義的重工業優先を拒否して、農工均衡の独自の経済発展を追求してきたとはいえ、農業での国民的剰余を世界市場を媒介として高度生産手段と交換する迂回的再生産軌道をとってきた。そのさい、「第三世界」にたいしては、恒常的な片道貿易=輸出超過の(農産物・農産加工軽工業製品――戦略物資)をもって臨んできた。そして、結局は、もっとも安易な対「先進」国石油輸出に依拠する道を歩んでいる。中国が、「第三世界」の盟主をもって任ずるのであれば、「援助より貿易を」と望む諸国との間での新しい有機的連帯の道が探究されなくてはならなかったであろうに。
したがって、経済自立とは、体系的経済発展の動態としてすぐれて主体的に理解されなくてはならないと同時に、他者との関係では、この自己発展の客観的な構造連関を踏まえての連帯と協働の探究を含蓄する。
現実の世界経済構造では、両者の方向は住々――というより概して――矛盾し相剋する。それは、帝国主義世界体制(およびそれになお基本的には規定されている既成「社会主義」世界)のもとでは、経済発展が極度に不均等的であり、いわゆる「後進」または「周辺」領域での工業化さらには重化学工業化を軸とする単なる近代化は、少数の「中進国」的例外――その質は問題として――を除くと、「先進」または「中心」領域との経済格差をむしろ促進し加速化するようはたらくからである。
このような大きな格差のもとで経済自立を達成するには、もはやたんなる自生的資本主義の発展ないしは国家資本主義化や経済計画化を起動とする自立にとどまらず、世界経済構造をも変革しようとするそれが追求されなくてはならないであろう。既成「社会主義」世界は、その内部であってすら、ソ連と中国、ソ連と東ヨーロッパ諸国との対立にみるように、そのような変革、そのような「南北問題」の解決に失敗した。いわんや、「社会主義的」援助による「第三世界」の「非資本主義的発展」は、幻想にとどまっている。政治的な意味での自立としての民族「自決」の概念は、ブルジョア民主主義的(=国連憲章的)にも、プロレタリア社会主義的にも、それなりに原理的にはほぼ明確に定義しうるが、経済自立の方はそうなっていないことは、このような現実の困難や矛盾を反映している。
2、「開発」経済学の破産
一口に言って「低開発」・「後進」領域を対象とする従来の経済学的方法は、実践的にこの領域の自立への経済発展を望むもっとも良心的なものであっても、「高度発展」・「先進」領域をモデルとする「開発」ないし「近代化」のためのそれであった。それら「開発」理論や「近代化」理論は、国連専門委員会による「低開発国開発のための諸方策」(1951年)の発表以来、まさに汗牛充棟の観がある。ここではそれらの学説史的要約が主題ではないので、きわめて大胆に整理して、それぞれの特徴を若干とらえておくにとどめよう。
従来の「開発」・「近代化」理論は、当面の必要上、つぎのように分類することができよう。
A、近代経済学的方法
(1)新古典派的「開発」論――代表的なものとしてヌルクセ(北)――ミント(南)
(2)「中心−周辺」論――代表的なものとしてミュルダール(北)――プレビッシュ(南)
B、マルクス主義経済学方法
(1) ソ連モデル「非資本主義的発展」論――ドッブ、ソ連諸学者、
(2) 中国モデル「自力更生」論
ここでは、Aでは(1)に先行する公然たる帝国主義的植民地経済論は省いてある。Bに関連しては、本来のマルクス経済学たるレーニンやローザ・ルクセンブルクの帝国主義と非資本主義領域との関連にかんする貴重な言及についても同様である。
「開発」経済学は、古典的・帝国主義的な伝統的見解(イギリスを典型とする自由な市場、価格メカニズムのもとでの私企業を主体とする経済発展の経路)に鋭く反発し、国家資本主義的工業化を基軸とする「低開発」諸国の急速な近代化的「開発」を志向する。そのような見解の代表的なものとして、「先進」国側ではラグナール・ヌルクセ(コロンビア大学教授)の主著『低開発諸国における資本形成の諸問題』(1953年)であり、「後進」国側ではこれに対応するのはビルマ出身のラ・ミント(ラングーン大学総長)の『低開発国の経済学』(1964年)を挙げるべきであろう。
ヌルクセは、「低開発」国経済を「貧困の悪循環」(資本の需要・供給両面における低生産力なるがゆえの投資誘因不足と低貯蓄力)ととらえ、この「低開発均衡」と称すべき定常状態を打破するために、「先進」国的な貨幣的有効需要拡張ではなく、計画的な実物資本の「均衡の取れた成長」と多様化を主張する。その基軸は、計画的な政府投資であり、モデルは日本および政治的限定づきであるがソ連である。ヌルクセは、そのかぎりでは、「低開発」国の「自力更生」に期待し、そこでの資本形成の鍵を生産力と生活水準の乖離を以下に埋めるかという点に探ろうとしたと考えることができる。
これに対し、ミントは、ヌルクセと同じく均斉的成長論者であるが、「第三世界」出身者らしく、それぞれの発展段階にあるさまざまな類型の「低開発」国に適応しうる「選択的分析モデル」を提示する。その際彼が強調するのは、工業−農業の相互補完的発展である(工業が発展しても農業が停滞していればそれは工業の隘路となる)。現実には農業の近代化−輸入代替工業化を提示した。その点では、ミントも「低開発」国の「自力更生」を追求したといえる。
このヌルクセ−ミント的な近代化的「開発」経済学は、1960年代後半、「南北問題」が爆発するに及んでその限界を露呈した。「南」と「北」との間にはたんなる「開発」、そのための「援助」によっては超えがたい構造的な格差と対立が存在することが明白である以上、「後進」国は「先進」国の経済発展の跡を追うべきである。(継起的段階論)とか、「既開発」国と「低開発」国との並存状態を修正すべきである(二重構造論)とかの、「北」から「南」への「援助」その他の衝撃の必然性を結局は是認し合理化する理論的視座そのものが動揺せざるをえなくなったのである。
「援助よりも貿易を」として表現された「南」の主張の旗手は、ラウル・プレビッシュ(アルゼンチン元蔵相、UNCTAD創設者)であった。プレビッシュは、UNCTADの指針的政策に自らの理論をこめて、「援助よりも貿易を」の長期的措置が不可欠なことを提示した。彼は、「低開発」の説明原理として年来採用してきた<中心−周辺>論に立って、この間の格差は「周辺」側の一次産品の行為条件悪化−貿易収支悪化に集中的に表現されるとする。この交易悪化の克服策(一次産品の国際商品協定、一般特恵関税、GNP1%融資等)と「低開発」国の自主的努力こそ「低開発」からのダ脱却の基軸であるとした。特に前者の「格差」是正のための反自由貿易原則は、「低開発」国の発展のための世界戦略として「先進」諸国につきつきられた。
この「南」の公然たる不平等是正の原則的要求は、「北」では、K・グナール・ミュルダール(スウェーデン、元国連ヨーロッパ経済委員会委員長)によって辛うじて支持された。ミュルダールは、すでに『経済理論と低開発地域』(1957年)で「低開発」国との間での経済的不平等、不均等発展の必然性を説明し、従来の経済理論の限界を明らかにしていた。社会民主主義社たる彼の価値前提は「近代化理念」であり、分析方法は「制度的分析」であるが、その限界内では「開発」経済学が「南北問題」解決に向っての用具たりえないことを自認しているものといえよう。つまり、市場諸力に干渉することなしに経済発展はありえず、それは本質的に「政治的計画」であることを明らかにし、プレビッシュの主張を支持したのである。
しかし、このようなプレビッシューミュルダール的な不平等是正の主張は、本質的に「開発」経済学を超克するものであろうか?結論的には、彼らの主張は世界的良識となりつつも、やはり「南」−「北」間の問題意識、「周辺」の「中心」化=格差の量的減少の域を超えることはできなかったと言わざるをえない。それは「低開発」とその悪循環という歴史的・構造的質を浮き彫りにし「南」独自の自立的発展の道を内在的にみいだしえなかったからである。他方で、それはまた、近代経済学の原理的・方法的限界を示すものでもあった。
この点では、既成のマルクス主義経済学も決して圏外に立つものではない。その「後進国」経済論の全面的総括は別途論ずることとして、ここでは次ぎのことだけ指摘しておきたい。モーリス・ドップ『経済発展の若干の側面』やポール・バラン『成長の経済学』などの先駆的業績もいわんや中ソの国家的対立を背景として「第三世界」に提示されたソ連の「非資本主義的発展」論、中国の「自力更生」論およびそれらにもとづく「援助」実践も、近代化論の枠組みを破りえなかったことである。
そのことは、戦後マルクス主義の世界経済に対する理論的視角が、いまでは虚妄に等しい資本主義の「全般的危機」論に拘束されつづけてきたこと、また「低開発」経済の打破をソ連ないしは中国の革命と経済建設のモデルにしたがってしか考えられてこなかったことと緊密に関連している。ひとたび既成「社会主義」世界が帝国主義世界体制に経済法則面でも本質的に規定されていること、そしてソ連の「社会主義」建設も中国のそれも、それ自体が民族国家的近代化を本質としていることが判明してしまえば、一切の立論は失ってしまうのである。
かくして、今日、たとえば累積債務の棒引き要求に見られるような「低開発」諸国の経済危機、その内部での社会危機の進行は、自立的経済発展の条件、路線、主体などに関する全く新しいマルクス経済学的解明を求めることを余儀なくされているのである。
3、「自立」経済学の胎動
「開発」経済学が「南北問題」の激化のなかで、近代経済学派もマルクス主義経済学派も破産しさった現在、「第三世界」の経済自立を理論化しようとする「自立」経済学の胎動が始まった。その代表的なものとして、アンドレ・グンデル・フランク(チリの反革命クーデター後西ドイツのマックス・プランク研究所客員研究員)とサミール・アミン(西アフリカ・ダカールの国連経済開発・経済研究所長)の所説をみておこう。
フランクは、「……現代の低開発は大部分、過去も現在も続いてきている低開発的衛星諸国と先進中枢諸国との間の経済をはじめとする諸関係の歴史的所産にほかならない。しかも、これらの関係こそ、世界的規模での資本主義体制の構造と発展の本質的部分をなしているのである」(『世界資本主義と低開発』1976年)と喝破する。フランクの言う<中枢−衛星>関係は、プレビッシュの平面的・併存的な<中心−周辺>関係とは本質的に異なって、一元的、構造的な相関−相即関係である。この分析視座からフランクは、「低開発」が「遺制の残存や資本の不足」に原因があるのではなく、「資本主義の発展そのものによって創出された」と把握する。しかも、この関係は、「低開発」国内でも「中枢」都市と「衛星」地域とそれに妥当する。最も重要なのは、そこでは「低開発の発展」という構造が一般的であることだ。つまり、「資本主義体制の世界的拡張と統一、その歴史を通じて一貫している独占的構造と不均等発展、その結果、低開発地域(比較的工業化が進んだ国も含む)において根強く存続している重商資本主義」という構造である。
フランクは、この「発展」をチリやブラジルについて具体的に検討した。そこから結論されるのは、政治的解放はもとより経済的自立もまた、「進歩的民族ブルジョアジー」――実は「中枢」による「低開発」強化の道具――に依拠することはできず、「真の経済的・人間的発展を行わせる先導的な、実効ある政治行動の担い手は、必然的に都市・農村の資本主義的衛星たる被搾取層である」ということである。フランクは、1967年の論文で「資本主義的低開発か、社会主義革命か」と対置し、「戦術的に言えば、ラテンアメリカにおける民族解放の当面の敵は、ブラジル、ボリビア、メキシコなどの民族ブルジョアジーであり、ラテンアメリカ農村部の地方ブルジョアジーである。戦略的にみるならば(アジアやアフリカを含めて)帝国主義こそ主要な敵であるにもかかわらず、それは真である」、と大胆に定式化している。
フランクの「新帝国主義」−「新従属」論は、階級構造、支配構造の政治学的・社会学的分析を通じ解放運動論に直結――というより短絡――しており、プレビッシュの「開発」理論批判は鋭くとも、本稿の課題である経済自立そのものについては十分に論及していない。もちろん「民族ブルジョアジー」を主体とするするならばともかく、彼が解明したような「低開発」国内にまで浸透し構造化している<中枢−衛星>関係の徹底的打破は、まず政治と戦略・戦術の問題であるにはちがいない。しかし、「低開発」の経済的変革=「自立」の方向は、過渡的にせよ潜在的にせよ、もっと正確に探究されなくてはならない。その探究は、「低開発の発展」の構造的重圧に抗するきわめて具体的な闘争の内容をゆたかにし、最大の回答が社会主義であるとすれば、その展望に資するはずである。
その点では、われわれは、フランクの方法的開拓を承けつつ、経済「自立」の可能性に正面からとりくんだアミンに一層学ぶことができよう。アミンも、『世界基準での蓄積』で、旧来の「従属」理論、たとえば、〈先発−後発〉の段階的継起論や〈資本主義―前資本主義〉の併存的二重構造論を徹底的に批判する。現存のすべての社会は資本主義的世界体系に全く統合されつくし、その内部での〈中心−周辺〉関係は世界基準での価値移転の流れによって、一口で言うと世界的な本源的蓄積のメカニズムによって一貫して規定されてきたし、いまも規定されている。「共産主義世界」もその埒外にあるものではない。そこでは、自立的な資本主義国内および資本主義国間のような一箇の相関的全体を形成する経済、その累積的な成長をみることはできない。資本主義的世界体系に組みこまれたこの「周辺」資本主義化は「中心」経済の延長でしかなくきわめて畸型的なものである。
アミンは、この「周辺」資本主義化の過程を有名な次のシェーマによって解明する。「周辺的・従属的サブ・システム」としての輸出部門と奢侈的消費部門が、「中心的・自立的サブ・システム」としての大衆消費部門と設備部門を停滞させ、かつ畸型的「低開発」経済構造をつくり上げる。このシェーマから導かれる「資本主義的世界経済という単一のメカニズムの部分である低開発経済」、中心の発展過程と同時に進行する低開発過程、すなわち、「低開発の発展」−「発展なき成長」を、「開発」や「近代化」によって促進しようとする一切の「低開発の理論は世界基準での蓄積の理論たらざるをえない」のである。アミンのこの原理的解明は、様々にさらに具体化されているが、最近初めて邦訳された「自立的発展、集団的自立および新国際経済秩序」(『展望』1977年12月号)はその代表的論文であろう。
われわれが最も関心をもつのは、当然「周辺」資本主義の「発展なき成長」から脱却して経済自立をかちとる「発展条件」についてであろう。『世界基準での蓄積』の末尾では、それはつぎのように展望されている。それは、「体系的・構造的変革」であり、「等質的・自己中枢的・自己運動的国民経済の自主的建設」であり、前記の構造的特徴を一掃する経済発展政策である。それが前記サブ・システムとしては大衆消費部門−設備部門への転換を軸とすべきことは自明であるが、そのための大前提は資本主義的世界経済体系からの離脱でなくてはならない。この難問を、アミンはどう解こうとするか?
彼は言う。経済自立の道は、第一に低生産性部門から高生産性部門への、特に生計維持的農業から近代的工業への就業人口の漸次的移行の組織化であり、前者での生産性の引上げ、根源的な技術的変革である。そのことは、既成の不均等発展の基礎にある国際分業と衝突せざるをえない。第二には、正しく選択された発展目標にしたがって新しい経済に有機的な関連性と統一性を保障し、農業・軽工業および消費財工業・基礎工業(エネルギー、鋼鉄、機械、化学)間の連結的均衝を各国の具体的条件に応じて生みだすことである。この「内向的」構造化は、「中心」志向と断絶せざるをえない。第三には、新しい経済の「自己運動」のために、対外貿易構造や運賃制度の根本的変革にとどまらず、加速的発展の要請に応える所得分配や金融に関する政策を確立することである。とくに必要なのは、経済発展のための工・農間の価格政策、自己金融政策である。それは、国際分業の現行形態や内外の私企業中心体制と正面から闘う経済計画化を必要とせざるをえない。以上のような条件を確保するために、「世界市場との断絶」を「発展の前提」として提案する。
アミンは、この「世界市場の断絶」をソ連、東欧が「官僚的国家資本主義」への過渡形態でしかない現実において、単なる「周辺」の解放ではない「新しい過渡形態」のうちに考究しようとする。それは客観的に社会主義的変革の必要を意味しても決して十分であるとは言えない。このように彼は、フランクとちがって、自立への政治運動理論を十分に明らかにしてはいないが、彼が創出した<中心−周辺>の世界資本主義としての一元的理解の方法は、民族自決=政治的解放の土台としての経済自立のための焦点を確定するうえで、大きな武器となりうるものなのである。
4、経済自立と民族自決
以上、きわめて駈け足ながら、「低開発」問題についての方法論史を概観してきた。いまのところ、その先端に立っていると考えられるフランク−アミンの方法論は、経済自立への道については、経済と政治、構造と上部構造を統一的とらえる点でまだ難点を残してはいる。だが、「低開発の発展」ないし「周辺的資本主義」の概念に象徴される鋭い客観的把握は、まさに世界構造の過渡期にさいして、その方向を決定すべき最重要の動因のひとつであるこの問題を追求してく礎石たりうるものである。それにもとづいて、経済自立の過程とその政治的保護との関連について、若干補足的に提起しておこう。
フランク−アミンの場合、経済自立への道の展望は少なくとも、社会主義および社会主義世界――正確には、社会主義世界体系の有機的構成部分としての社会主義体制――であった。ソ連型ないし中国型の前期的な既成「社会主義」とはおそらく本質的に異なるであろうこの社会主義の政治経済学的内容を考えていく場合、いまだ十分に解かれていないさまざまな問題につきあたることになる。たとえば、(一)「低開発」国独自の社会主義的自立と、伝統的に「第三世界」解放の心然的径路とされてきた民族自決との関係、(二)この社会主義的自立の担い手たる主体の確定を中心とする階級分析、(三)「低開発」国の社会主義的自立と「既開発」国の社会主義的主体との連帯の可能性、(四)社会主義世界体系を構成する諸民族ないし諸国家間の新しい結合原理、などである。
抽象的には、つぎのように考えられよう。
(一)については、かつて民族ブルジョアジーを主体とする反帝民族革命=ブルジョア民主主義革命(ないしは人民民主主義革命)の代名詞とされていた「民族自決」とは、こんにちの「民族自決」は質的内容を発展させざるをえないであろう。そのことは、すでに1975年に、ヴェトナム革命の勝利が実践的に明示しているところである。この勝利によって成立した統一ヴェトナムは、まさに社会主義ヴェトナムであり、ヴェトナム革命とは、少なくともインドシナ革命と不可分な国際主義的な民族解放社会主義革命と規定しうるし、また規定すべき革命であった。それは、いわば「民族主義を革命する民族主義」、「世界革命的民族主義」の開始であった。こんにちの経済自立は、「中心」とくに世界企業の経済的支配と対決し、それを一掃せざるをえないという一点からだけでも、もはや民族資本主義の自生的発展ではありえず、社会主義的社会変革を必然的にともなうということは、このような民族自決の内容変化に対応する。「民族自決か、社会主義革命か」という設定は、無意味と言うほかない。
(二)については、「周辺」資本主義の性格があきらかにされることは、かつての買弁資本主義の規定以上の重要な意義を担っている。それは、産業ブルジョアジーであっても、世界企業の系列に統合または従属するブルジョアジーであり、「中心」ブルジョアジーと一定度の利害の対立面をもちつつも、基本的には民族自決―経済自立を担いうるものではないであろう。そうであるとすれば、「低開発」国内での<中心−周辺>関係には十二分に留意しなくてはならないが、下層農民、被抑圧少数民族・亜民族、雑業細民層などの最「周辺」と労働者階級とをことさらに対立的に布置するまでもないであろう。もちろん、労働者階級を利している所得水準の格差の問題はあるし、多分に「共同体的」な最「周辺」と都市化された労働者階級との断層の問題もある。しかし、基本的には、肝要なのは、労働者階級とまさに全人民的危機――全人民的変革の要因としての民族問題との関係であり、社会主義的民族統一戦線の形成である、と考えられないであろうか? もちろん、この点は、戦術的起爆薬と戦略的炸薬との関係と同一視されてはならず、文字どおり具体的な階級分析を必要としよう。
(三)については、「中心」の労働者階級と「周辺」の被搾取人民との利害の同一性、無条件連帯の必然性という、いわば「神話」は決定的に棄てられなくてはならないであろう。「中心」の支配者と「周辺」のそれとは同生共死であるとしても、「中心」の被支配者と「周辺」のそれとでは、経済的利害は往々ないしは概して対立すると考えておいた方が無難であろう。ここにとくに世界企業の完全掌握下にある「周辺」の経済自立にたいする「中心」の労働者階級の無理解または敵意という困難な障壁がある。場合によっては、レーニンが「スイス帝国主義」について分析したように、「中心」国内での「周辺」出身労働者の搾取、労働者階級内の民族的位階構造の問題が重大化しうる。たが、「世界基準での蓄積」のもとでは、自然発生的な経済的対立はかならずしも基本的な階級対立ではない。「世界基準での変革」に向けて政治的に自覚した労働者階級は、分進合撃のなかから国際主義的階級連帯の環をつかみとりうるであろう。問題はむしろ、「中心」国労働者階級の擬似「民族共同体」的体制内統合、「民族プロレタリアート」化の攻撃への対応である。
(四)については、形態としては過渡的な連邦制またはそれに近い連合しか考えられないであろう。しかし、連邦制のもとで<中心―周辺>関係が激化する例は枚挙に暇がなく、結合――融合へと接近すべき――の原理は、いかにして自立的・自決的連合が可能か、という点で構築されなくてはならないであろう。それは、根底的には、国家死滅から民族死滅をまで展望する原点でもある。本来、民族ないし亜民族集団とは、その都度各集団の下からのイニシアティヴとしての自決=自己権力の原理が確認されなくては、たとえ社会主義の名に値いする社会主義体系のもとであっても、否、そのような体系のもとでこそ、完全な同権にもとづく民族ないし非等質的社会集団の自立的な、自由な連合が有機化されうるであろう。
以上は、抽象的な次元での問題提起でしかない。経済自立が含蓄し推進する政治的課題は、より具体的な次元でまさに複雑多様であって、それぞれ具体的に分析され、具体的に解決されなくてはならない。だが、経済自立は、それと革命や独立との前後関係、規定関係を論ずることにまさって、被抑圧民族の政治的飛躍の土台を制約し、世界的には諸民族の平等な連合の物質的基盤を有するものであることが、一刻も忘れられてはならないであろう。(筆者・現代景気研究員)
<補論>
沖縄自立の思想−川満信一氏の「共同体論」について−
自立経済論議の中には入りにくいかも知れないが、広く沖縄の自立の問題について論じたものとして見のがせないのは、川満信一氏による「共同体論」の提起である。
いわゆる反復帰派知識人の70年代初頭における存在は非常に大きなものがあったが、72年併合から75年頃に至るその政治的な完成の中にあって、反復帰派知識人の発言は、ややその量を減じてきていると思われる。が川満氏の「共同体論」はそこにおける苦闘から一歩抜け出て、沖縄の自立の問題をその思想的レベルから模索したものとして貴重なものといわなくてはならない。
氏もいわれるように、拙速を排し歩一歩進められなくてはならない共同体論の模索において、先走った言及を行うことはあまりよいことではないだろうし、また自立の思想を探る章に対して、沖縄自立の現実的展望を問うことは適当ではないかも知れない。しかし、自立経済論議などの形で沖縄の自立の問題が真剣に考えられている時に、共同体論のような視角からのアプローチが、ひとつ不可欠であるということを確認して、いわばこの現実からの緊急性ということにおいて、川満氏の所論をあえてとりあげてみたいと思う。
1
氏の問題設定、問題意識は、「共同体論」(上)のはじめに述べられ、また(下)の冒頭に再説されている。それは、労働者階級の闘いの観念的空転、結果としての体制内化(国家志向あるいはマイホーム主義)を超克する視点を求めて、民衆論へと分け入り、その民衆の現存の基礎を探るために、さらに民衆の出自たる島々の村落共同体の対象化を志すというところからはじまる。
しかし、氏はその村落共同体の歴史的な変遷を跡づけるという方法をとらず、その変遷のあり方を探る。すなわち「そのようにあらめした不可視の要素と、環境としての諸条件を探り、われわれの現実の存在の基礎を成しているエートスを対象化するという方法をとる」。そして氏は、このエートスを対象化する作業において、東江平之の心理学的アプローチを排し、新川明氏の唯物論的視点不足をいい岡本恵徳氏の「共同体の生理、意識」とそれに加えられる自然的・社会的諸条件との関係の説を導きとする。
その下に氏は、第一に共同体の神々の問題、第二に創世神話の問題、第三にそれと関連して竜宮、ニライカナイの説話・伝説の問題をとり上げ、それらと共同体のあり方との関係性を分析していく。そしてこれら神話・伝説(そして恐らくは共同体の神々も)の科学的視点からする解体によって、共同体成員の深部のエートスを汲み出し、もって新たな共同体の創造に資すべきと主張する。
もちろん、氏の展開はここにとどまらない。現実の共同体のエートスとしての「共生」志向が都市プロレタリアの変革志向といかに切り結ぶのかという点に言及し、いったんは、「資本主義に基づく農地私有制をもう一度何らかの形の共有制へ変革し、各単位の共働組織を確立していく、具体的なスケジュールが提案さ」れるべきと提起する。が氏は、ここにあきたらず、さらに(下)において、共同体の内在的な変革律を押さえながら、変革の時を迎えている現実の共同体の抱く矛盾へと下向せんとする。その軸はいわば欲望論に置かれていると思われるが、氏の論鋒もここに至って苦闘の色を帯び、さらなる模索の必要性を強調しつつ、転開する。
このような「共同体論」の本筋を貫いているものはいうまでもなく、現在の沖縄における共同体(その宗教的幻想生活倫理)の確固たる存在に対する氏の確信である。それは、「確信」と表現するのも憚られるような、事実そのものの提示であるかも知れない。論者はここにおいては、氏の説く所を承認する以外のすべ持たない。が、72年「返還」前後の過程において沖縄労働者階級のヘゲモニーが敗北的なものであったことが確認され、沖縄の変革−自立の主体がよりトータルな視野から再考されねばならない現在、共同体へと分け入った考察が必要であるという論の外枠は十分に諒解されるのである。氏の共同体論への到達は、沖縄の変革−自立へ向けての理論作業の中において、大きな前進であるといわなくてはならない。
しかし、氏は共同体の問題を変革−自立の現実的展望においてもっぱら論じているわけではない。そのような言及は随所にあり、またこの論は最終的には当然そこへいきつくものであるが、氏は共同体の問題を思想のレベルから取り上げることを第一にしている。
思想のレベルから共同体の問題を取り上げる場合、その趨く方向は二つあると思われる。一つは共同体とつながる知識人の思想をいかにうち立てるのか、という方向性であり、二つには、共同体自体の思想(宗教的幻想、生活倫理)をいかに発掘して、民衆的レベルにおける新しい共同性の創造に資していくのか、という問題である。(後者は当然にも、いわば文化的な闘いの問題であり、変革−自立の現実的展望と直接に結びつくものであるが、当面、共同体の有する思想としていかなるものを発掘しうるのか、というところに課題を有するものである。)
2
第一の知識人の思想の確立という点は、氏の展開においてもいわば副筋となっており、論者も全面的にとり上げるわけにはいかない。が、沖縄の変革の主体をよりトータルな視野から再考するとした場合、沖縄知識人論の問題は非常に重要と考えられるので若干述べてみたい。
氏は、沖縄知識人の「啓蒙という共通のスタイル」についての貴重な示唆をし、その由って来たるところを考察しつつ、『自立の思想』と「対象としての民衆または共同性その関わりについて次のようにいう。「その自前の思想は関係としての現実を対象として、それとの訣別、隔離、分析という思考、情念の力学関係を通してしか産出できないような歴史的条件にわれわれは規定づけられていると思う。すると、この島々で、人々がある時は狡智をもって対処しある時はひたすらにうずくまり、またある時は死守”し反抗しながら、その歴史過程でつくり成してきた意識、感性のエートス、あるいは文化のアイデンティティーをどうつかみ出すかが、その思想の生命の決め手にもなる、といえる。」
「訣別」「隔離」ということと、「分析」あるいはつかみ出しということとの、いわば弁証法的な関係をいわんとしているわけであるが、ここで一考しなくてはいけないことは、その「分析」あるいはつかみ出しが果して可能か?ということであろう。もちろんいかなるレベルのものであれ、つかみ出すということは可能なのであって、問題は正当性、普遍性あるものをつかみ出しうるのか?ということである。
論者は不可知論をとるわけではないので、それが可能であるとするものである。が、そこにおいてつかみ出された結論が、思想の生命の決め手となりうるということについては、懐疑的たらざるをえない。何故ならそこではもっとも包括的な述揚された結論、半ば科学としてのそれが提示されるのであって、思想の生命を賦活すべき混沌は失われているからである。論者には、岡本氏の共同体の生理、意識についての説への依拠、そこにおける「共生」志向の抽出も、このように思えてならない。
では、沖縄知識人の自立の思想は、民衆のエートスから思想的な何ものも汲み出しえないのであろうか?
それについては、断乎として否と答えなくてはならない何故なら、そのような流路は知識人の民衆の中における実践によって切り拓きうるからである。そして、この実践的流路においてまた、知識人の思想も大衆へと侵透し、そこにおいてはじめて、思想の生命というものも獲得されるのである。こう考えていくと「訣別、隔離、分析の力学関係を通してしか<思想>産出できないような歴史的条件」にあるという氏の認識が問題となろうが、このことについては、しばらく氏の展開を待つしかない。
以上のことを一般論ながらもおさえるとすれば、共同性と知識人との関わりにおいて、もう一歩知識人論の方が深められるべきであると考えられる。いわば主体の問題として知識人の問題を引きつけるのではなく、客体としての知識人の思想と行動をつき放すことである。
このような知識人論の深化は、当然にも広い意味における政治の次元をくぐるものであるが故に、それはまた、沖縄の変革−自立の主体の再考といった作業をも直接に利するものであるはずである。
この深化、つき放しは、まず対象としての沖縄知識人の概念の拡張、具体化にからはじまるであろう。その点では氏の「沖縄で一定の知的なレベルに達したもの」という規定が精密化されるべきなのである(この規定自体は断然正しいが)。村々の名望家層、教員層等々の生理から、各政党成員の志向までが解明されねばならないのである。そして、その果てに沖縄知識人の特性とでもいうものが見透かされるとすれば、それは既成の知識人論の適用からではなく、日本さらには中国、朝鮮の知識人との厳密な対比の中から現われてくるものであるにちがいない。
ともかく、このように知識人論を構想する中において、共同体エートスと知識人との現実的な関わり合いも浮び上がってくるはずである。
3
「この島々で、人々がつくり成してきた意識、感性のエートス、あるいは文化のアイデンティティー」を、一応「共生」志向として押さえた上で、氏は、その「共生」志向そのものが本質的に外的条件の変数によって様々に展開するものであるが故に、共同体の外来文化への対応の仕方にスポットを当てようとする。しかし、その対応の仕方も「村落共同体の歴史過程から実証的に解明」して行く作業は行われず、むしろ氏の行論は、共同体の神々の存在の仕方の問題から創世神話、説話、伝説の問題へと、いわば共同体エートスを直接的に求めていく方向をとる。 ここにおいて、冒頭述べた共同体論の思想的な展開がおもむかせざるをえない第二の方向、すなわち共同体エートスをつかみ出すことによって直接的に新たな共同性の創造に資していくという方向が開けてくるのである。
第一の共同体の神々の存在の仕方に関する考察は、神々の存在と共同体成員の存在とを貫く同位概念をいって、さらに「共生」志向の淵源の指摘に及び、もっとも成功しているところである。しかし、第二の創世神話の考察においては、共同体の発展段階の観点を強調する余り、男女対の創世神話についていきすぎた裁断(男女対の創世神話がすべて政治的権力・宗教的権威・性的禁忌が備わった社会の虚構であるという)を行っているかに思われる。私見によれば、男女対の神話的な想定は太平洋の島々の創世神話に普遍的にみられるところであり、問題はもっぱらその男女対のとる位相のいかんにあると考えられる。
氏の宮古島の創世神話の引用に対して、八丈島の創世神話をみてみよう。或時大海瀟あって孕みたる女のみが難をのがれて、その女の産み落としたる子供が幸に男子であったが故に、母子夫婦となり、人の種を伝え、繁らしめたというタナ娑伝説である。イザナギ・イザナミの神話に対してこのような古形のものが日本にあることは驚くべきことであるが、この神話の特徴は、第一に創世に「神しか関与しないこと、つまり大破滅に先んずる共同体の存在を前提としていることである。これでは創世神話にならぬともいえるが、それは人智が開けた後の考え方であって、古朴なる精神にとっては、想像を絶する遥かな昔から連線と続いてきた共同体生活のその始源を尋ねることはなかなかに容易なことではなかったのである。強いてそこに踏み込めば、創世神話は鳥や魚の所為、草木の化生を説く自然神話の中に溶けこんでいったはずである。この神話の第二の特徴はいうまでもなく性的タブーが顧慮されていない点である。氏の述べる兄妹結合の型よりも甚しく、この母子結合の型がより古層に位置することは明らかである。
このように、この種の創世神話においては、母子結合の型(父子結合の型)、姉弟・兄妹結合の型、姉弟・兄妹のそれを「神」が示現してわざわざ承認する型(姉弟・兄妹結合をいとう共同体の反映である)、等々が存在する(念のためにいえば、ここにおける結合は一対一の対結合とは限らない)。男女対の神話的想定を共同体の発展段階と結びつけることはできないのであって、その男女対の位相がその反映なのである。
創世神話に限らず、沖縄においては神話はとりわけ科学的な解体の対象であるのかも知れない。氏もいうごとく、神話を記載する沖縄の文献は非常に新しいが故に、幾層にもわたって作為されているからである。文献記録の科学的解体を行う一方で、口碑伝説の類から残片をすくいとり、また広くアジア・太平洋の神話との対比を行っていくことは、大部分が今後の事業となっていると思われる。
これらの苦闘の中から、新たな共同性創造のための糧をかちとっていく仕事は、そのまま文化的な闘いであるということは、すでに述べた。一般に文化的な闘いは、自立のためのアイデンティティーを獲得するために大きな意義を有している。諸々の人民の自立−自決の運動の中にあって、幾多の攻勢的な文化復興の運動があったことはよく知られている。
そうした観点からみた場合、一点問題としておくべきことは沖縄における言語の問題であろう。氏の行論の中には登場しないが、共同体の言語ということは共同体論にとって無視できぬ要素であるはずであるし、また一般に自立−自決の運動の中においても、その占める比重ははなはだ高い。例えば、かつてアイルランドの独立闘争の中においては、ダグラス・ハイド等のゲール語による文芸復興の運動、「ゲーリック連盟」によるゲール語教育の運動があった。(ここにおいては、残念ながら、改めて学校を開いて教えねばならぬほど、ゲール語は衰微していたのである。にもかかわらず、アイルランド人は書物と学校という近代の二大手段を用いて必死にゲール語の死滅を防いだのである。)
論者はこの問題で詳論しうる資格を持たないが、正直いって、学問的な例証を重ねなければ「同一言語」たることを強弁しえぬ日本語によって、沖縄語の中に盛りこまれてきた感性、世界観を代替しうるとは信じられないのである。
4
氏の「共同体論」はこのように思想的レベルにおいて展開されるが、氏の論鋒は決してそこにはとどまらず、変革−自立の現実的展望へと絶えず下降せんとする。ここにこそ氏の思考先進性があると思われるのである。
この氏の思考の導きの糸となっているのが、「共同体論」を貫いて存在する次のような二者択一であろう。
「この島々の村落共同体の民衆感性へ向けて、衝撃をつくりだし、資本主義の陥穽を一挙にまたいで社会変革へと飛翔する共同体の幻想をひき出すか、あるいは社会意識の分轄とアトム化を進め、ヨーロッパ資本主義社会下の、自我意識の確立と苦闘まで進んで、そこから“近代超克”の課題を引き受けていくか、という思想における、民衆へのアプローチの分岐が問われてくる。」
ここでは思想におけるアプローチとされているが、この二者択一か、後段、農地私有制の共有制への変革、共働組織の再確立というややナロードニキ的な展望へとほとばしり出ることは、冒頭紹介した通りである。以下、この二者択一について考えてみたい。
氏の共同体への投入が、一旦変革の問題と結びついた場合に、このような二者択一が生起してくることは論理的必然であるが、ここにおいてはもう一方に、氏の“近代”というものに対する独特の見構え方が接合しているように思われる。「近代の超克」といい、それを「世界が等しく直面している工業化社会の矛盾超克」であるとするひとつの普遍主義である。
一般にナショナルな展望の追求において、このような普遍主義の観点を結合させることはむずかしい問題である。その双方は直接的には結合しないといってもよいであろう。西欧・日本をはじめとする「近代」に対して、“非近代”としての沖縄が対置されるとしたら、それは事実における結合ではないからである。「近代」は沖縄をも包含した世界の「近代」としてともかく存在し来っているのである。ここにおいて問題とされるべきは、「近代」「工業化社会」というものの現下の世界的な存在形態を対象化することであろう。そしてそのことは、その中における沖縄の存在形態を自己把握することにつながらざるをえない。このような世界−沖縄の客観化こそが、「近代」批判の普遍主義とナショナルな展望の追求との事実における結合の場となるはずである。
論者は、この世界−沖縄の客観化をよくなしうるものではないが、先程の氏の二者択一は、このように押えることによって、その現実的意味を失うと考えられるのである。論理的レベルにおける共同体への依拠か、その放棄かという択一に対しては、当然にも前者が選択されねばならない。歴史的にみても、ロシア、中国、ベトナムの革命はそれぞれの仕方によって共同体に依拠したものであった。
沖縄も世界の「近代」の中にあって、沖縄資本主義の成立の裡に、「近代」への足どりをともかくも踏み出しているのであって、そこにおける共同体は時々刻々と変化しながら存続するもののはずである。共同体の「たたずまい」−景観は変らないとしても、その成員の意識の変化はあるとしなくてはならない。それは、すでにして「資本主義の陥穽」へと足を突っこんだものであろう(もちろん、その半面において、それは決してヨーロッパ的な「社会意識のアトム化」にいきつかぬものである)。氏も(下)において、共同体成員の切実なる「近代希求」を説いているのであって、共同体もその「近代希求」の側面を含めて考察されなくてはならない、そのような時代に入ったのである。
そして氏は、このことを直観することによって、確実にかの二者択一のレベルを超えんとしているのである。(沖縄資本主義、沖縄の「近代」は、アメリカによる典型的な「近代」の氾濫と日本の再侵出の中で、1958年頃に始ったと考えるべきか。明治国家による微温的な「近代」導入は「ソテツ地獄」で大破産したと思われる。)
考えてみれば、この「近代希求」という指摘はまことに重要な意味をもつ。それこそは、沖縄の脆弱な「近代」が、世界の「近代」における一“周辺”として存在してきたことを物語っているからである。このことをふまえて、この“周辺”の変革的な自立の途を考えるならば、それは根本において独自の近代をつくり上げることとしてひとまず展開せざるをえないであろう。この方向性は、日本の側に往々見られる、世界−沖縄をみることのできぬ安易な反「近代」の普遍主義者の思惑を超えて、たくましくも貫徹するものである。そしてその独自の近代が自らと世界のそれとをいかほど止揚する契機をもつかということは、変革的な自立のその闘いのもつ質によってのみ決定されよう。最後にその質とは何か?ということについていわねばならぬとすれば、論者は、エジプトの“周辺”経済の理論家、サミール・アミンの次の言葉を引用せざるをえないのである。
「我々の理論は、周辺部においては、成熟した、自立的な資本主義の成立は不可能であるとし、そこでは周辺的資本主義システムからの社会主義的な離脱が客観的に必要とされることを主張する。」「周辺部において社会主義が必要なのは、それが発展と自立の不可欠の条件だからであって、『自由』にえらばれるイデオロギー的ないしは道徳的な動機によるのでは決してない。」
<資料1>沖縄経済の現状把握のために 原田 誠司
T はじめに
このレジュメは、沖縄経済の歴史的展開を大ざっぱにつかみ、「国内植民地」としての沖縄経済の特質を明らかにしようとするものである。それは、一般に低開発ないし後進ととらえている沖縄経済の構造を世界――日本資本主義との関係においてとらえ直そうとする第一歩である。
その際、二つの視点が重要だと考える。(1)沖縄経済の時期区分、および(2)経済構造の諸指標の二つである。後者の指標を軸に前者を明らかにするという関係であろう。
指標については、次の諸点をあげたい。(1)産業構造(土地所有および工・農関係)、(2)労働力構成(賃労働の態様)、(3)財政構造(金融含めた)、(4)経済の位置(対外収支および島しょ性)。政治、軍事的条件も、大きな要素であるが、ここでは(4)に入れておく。
U 時期区分について
1.試論的に沖縄経済の発展過程を次の五期に区分できるのではないかと考える。
第一期(1878年〜1899年)――廃藩置県(第1次琉球処分)から土地整理まで
第二期(1900年〜1929年)――土地整理から世界大恐慌勃発まで
第三期(1930年〜1949年)――戦争経済による収奪と混乱の時期
第四期(1950年〜1971年)――米軍支配経済の開始から日本復帰前まで
第五期(1972年〜 )――日本復帰後の経済
2.各時期の特徴を四つの指標に沿って簡単に素描する。
(1)第一期――この約20年間は、いわゆる「旧慣」温存の時代である。
a地割制が続き、農業が圧倒的であり、b賃労働は構造的に創出されず、c財政も封建地代・貢納が支配していた。d沖縄経済は、日本資本主義による権力的従属機構のもとに徐々に再編成され、それは日本資本主義の国家資本主義的蓄積にとって「属領」的収奪経済として位置した。
この時代の特徴は、政治的なところにむしろある。日清戦争(1894〜5年)によって沖縄の日本帰属が最終的に決定される(併合)までの「属領」的従属が沖縄経済の「後進」性を放置することになった。
(2)第二期――この約30年間は、日本資本主義の帝国主義的発展の周辺的収奪地域=国内植民地として位置づけられた時代である。
a土地整理により地割制が廃止され私的土地所有が確立。封建的貢納廃止による地租、租税制度が確立された。bこれを契機に過剰労働の移・輸出が開始され、構造化される。c甘蔗(小営業)――製糖業(日本資本)の産業構造が形成され、モノカルチャー経済が展開される。第一次産業が圧倒的。d財政は、国税重課(間接税)――砂糖消費税(実は生産者税)による収奪。反対に日本財政よりの散布なしという構造から沖縄側の完全出超。eとくに1920年の慢性不況は、糖価下落――「そてつ地獄」をまねく。県外収支は完全赤字へと転化した。
この時代は、沖縄経済が日本資本主義の一環に組み込まれたが、それは日本資本主義の帝国主義的発展(日露戦争、一次大戦)のための周辺的収奪=国内植民地経済への転化でしかなかった。
(3)第三期――この約20年間は、帝国主義戦争(二次大戦)経済下での収奪と経済破壊の時代であった。
a1930年代に入り「そてつ地獄」からの「救済」をめざし、「振興10年計画」が実施されたが、予算比実施率20〜30%であり、「振興」は全くならず、bそれだけでなく、日本の帝国主義戦争を支えるため「増産」と「貯蓄」を強制され、一次産業自体破滅へ向かった。c日本の最大の犠牲となった沖縄戦で農業破壊の極に達した。d戦後の米軍占領は、土地の大幅収奪(基地)をもたらし、経済回復の方途を喪失させた。
この時代の特徴は、日本帝国主義と米軍占領により、国内植民地経済すら完全に破壊され、収奪されつくした時代であった。
(4)第四期――この約20年間は、米軍植民地経済=米「属領」経済として位置づけられた時代であった。
aいわゆる冷戦への突入によって、沖縄米軍基地の島として位置づけ直され、1950年から膨大な基地建設予算が組まれた。と同時に民生安定のための復興金融基金、対日民間貿易開始等米軍事植民地経済構造が展開され始めた。bこの経済構造は、基地需要に依存し、砂糖・パインのモノカルチュー産業を軸とし、かつ日・米両財政援助によって補完されるものであった。cとくに1958年ドル通貨制への移行と60年代の日本資本・日本政府援助の増大によって「高度成長」を達成した。労働力の移輸出は相対的に減少した。dしかし、対外収支は、基地関連収入と援助を除けば全くの赤字であり、自立経済の構造は全く存在していない。
この時代の特徴は、沖縄が米帝国主義によってアジア軍事基地の要と位置づけられ、経済的には米の「属領」経済として存在しつづけられたところにあった。
(5)第五期――72年復帰以後の日本帝国主義の国内植民地として位置づけられた時代である。
a復帰によって沖縄経済は、新しく日本経済の一環に組み込まれた。しかし、「自立的発展」をめざした「振興開発計画」はすでに破綻し(復帰特別措置も延長)、「振り出しに戻った」とさえいわれる。b産業構造的には、圧倒的第三次産業の比重(第四期で形成)のもと、第一次産業の危機、第二次産業の不振はおおうべくもない。cこの不況下で雇用−労働力移出問題は深刻化し、失業率、移出率とも増大している。d財政資金撒布はかつて(第二期)とは異なり、巨大となり(交付金、国庫支出金・財政)、また日本資本の進出と系列化が進行し、「従属」を深めている。e県外収支はもちろん赤字である。このような、現在の沖縄経済は第二期とは異なる意味での国内植民地として存在する。日米共同軍事作戦の島(基地経済の維持)であると同時に、日本帝国主義のアジア南進「拠点」=原料貯蔵・資源開発の「拠点」でもあるという二重の性格をもつ。第二期との相違は、財政資金散布の存在だけでなく、この二重の意味での性格をもった島しょ社会−経済として位置づけ直されたことである。
V 問題提起と若干のまとめ
以上の検討から、次のような問題点を指摘することができる。
1.沖縄経済は、いわゆる近代資本主義的発展の道をたどってはいない――それは産業構造のバランスの問題ではなく、資本の蓄積構造が、“自立的”に形成されていないからである。
2.しかし、それは後進ないし停滞、低開発の持続的、一般的存在を意味しない――沖縄経済は、歴史的に世界―日本資本主義との構造的関係において変転しつつ存在してきた。そこには「低開発の発展」が特徴的である。
3.周辺的資本主義としての沖縄経済の存在は歴史的事実であるが、重要なことは、島しょ社会、経済としての沖縄経済の特質においてとらえることであろう――その点で、第二期と現在の比較検討は重要である。
<資料U>国内植民地論(レジュメ) 中村丈夫
一、定義と根拠
国内植民地とは、人口移住としての東ヨーロッパなどでの内国植民Binnenauswarderungの対象地域とは異なり、広義の植民地(純植民地・従属国などを包括)の一部をなす概念であり、一般には、形式上本国の平等な構成部分でありながら、実質的には特殊な質をもつ搾取、収奪、抑圧、疎外のもとにおかれた従属地域を指す。ここで資本主義的植民地とは、(1)本源的蓄積期のいわゆるold colonial system(東西間の貿易・軍事拠点・原住民にたいする奴隷的・封建的搾取にもとづく栽培植民地plantation colony、奴隷供給地など)、(2)産業資本主義期の工業製品(主に繊維製品)の販売市場およびヨーロッパにたいする工業原料、食料供給地、(3)古典的帝国主義期の資本輸出を軸とした資源独占、低廉労働力搾出のための文字通りの植民地および軍事植民地、(4)いわゆる「植民地体制の崩壊」以降、とくに世界企業=多国籍会社の拡大のもとでの新植民地主義的衛星地域=「低開発の発展」地域に歴史的に区分される。国内植民地は、イギリスにおけるアイルランド、アメリカにおけるWestward movementの一時期でのインディアン清掃――農業地域のような例もあるが、典型的には(3)の段階の帝国主義国にすべりこみえた後発・早熟資本主義国の内部にみることができよう。すなわち、イタリアの南部・島部、ロシアのコーカサス・トルコ系諸民族以外の従属地域(ウクライナ、白ロシア、沿バルト、別にポーランド王国、フィンランド大公国)、オーストリア・ハンガリアのスラヴ系、アルバニア、モンテネグロなど、それに日本の南北辺境(沖縄、東北)などである。
これらの地域を国内植民地と規定しうる根拠は、民族問題の顕在に尽きるわけではなく(民族集団はその都度の経済諸関係・権力諸関係応じてつねに再構成されること、またスイスのように複数「民族」から構成されても一般民主主義が貫徹されれば民族問題は発生しないこと)、資本蓄積にとっての地域格差の質的役割に注目しなくてはならないだろう。ローザ・ルクセンブルグは、その再生産論把握に難点はあるとしても、資本蓄積を非資本主義的地域の不断の併合との関連を中心にとらえ、その点では国外植民地と国内農業および共同体地域とを区別しなかった(『資本蓄積論』、『経済学入門』)。そのことは彼女の帝国主義論を段階論的にあいまいにさせ、政治的には、民族自決権の否認にいたらせたが、現実に資本主義は本源的蓄積外からの収奪をともない、とくに突貫工事的発展の必要や海外植民地獲得の困難が存在する場合には、非資本主義的環境からの収奪の構造的保障が要件とならざるをえない。レーニン『帝国主義論』における植民地概念の対外的拡大は、古い資本主義国内部での「併合と民族的抑圧の強化」の指摘(9章)と併せ読むとき、「地上人口の圧倒的多数の植民地抑圧と金融的絞殺の世界的体系」としての帝国主義(仏独版序文)の主体である「ひとにぎりの“先進”諸国」を「ひとにぎりの金融寡頭制」におきかえることを可能にすると考えられる。
二、比較的事例(1)――イタリア南北問題
「北部のブルジョアジーは南部イタリアと島部を征服して、それらを搾取のための植民地にひきさげた。北部プロレタリアートが資本家的くびきから自己を開放するならば、北部の銀行および寄生的産業資本主義に隷属させられている南部の農民大衆をも解放するであろう」(『オルディネ・ヌオーヴォ』1920年1月3日)の展望に発するグラムシの南部問題論(選集第2巻)は、それまでの自由主義的南部主義meridionalismoを革命化させるヘゲモニー戦略にみちびいた。イタリア南北問題の実態、第二次大戦後の南部開発政策の逆効果については『イタリア経済』(東洋経済)所収竹内啓一論文などを参照。グラムシの探究は南北経済関係にとどまらず、南部支配の政治的・社会的メカニズムにおよび、南部農業ブロックの解体、南部知識人のひき離しをつうじての北部労働者と南部農民との同盟を国民的人民的運動とする方向を追求させた。この方向は、帝国主義国内の周辺資本主義的地域にとり一定の普遍性をもちえよう。
三、比較的事例(2)――東北問題
かって山田盛太郎『日本資本主義分析』は、露日資本主義=軍事的封建的帝国主義という誤った視角からではあるが、半封建的農業総体を国内植民地に準じてとらえ、この基底に制約されて産業資本が植民地=インド以下的低賃金にもとづく前期的性格をおびるとともに、農業地域は東北型、近畿型、北海道型、朝鮮型の種差に分化したことを指摘した。そのかぎりでは、より封建的な低開発地域たる東北が朝鮮と並列されていることに注意(隷農制的従属関係−アイルランドより本質的に遅れた−の「植民地での再現」)。東北問題は「帝国の負担」として1913年「東北振興会」設立以来表面化し、農業恐慌下に1931、34年の大凶作を機に爆発した。大野峯治『東北の主張』(1920)は『沖縄救済論集』と対比されるラディカリズムをしめした。東北の「後進性」は、(1)歴史的な商品生産の未熟、(2)大地主制と特殊小作慣行−工業未発展、(3)明治維新における賊軍的地位−地租改正の不平等、国有林への共有地収奪にもとづくとされる(西川秋雄「東北新興問題」−『日本農業発達史』第8巻)。だが、最低の一人当り所得水準(対全国平均40〜60%)は、講座派的な半封建制強化論からではなく、特殊な周辺資本主義的発展(米作基地、低賃金土壌、電力、鉱業、林業給源、強兵基盤)をつうじての国内植民地的地位からとらえなおされなくてはならないであろう。周辺的資本主義化からみなくては戦後の格差是正(農業では先進化)は説明されえない。東北問題の解決方法については、農民は土地革命を、地方ブルジョアジーは国有林解放を、そして保守議員ですら戦争の重圧(西日本−満州に重点)反対を、高級官僚ですら「東北特別施設」を要求させたが、当時のプロレタリア党には、グラムシ的視点は存在せず、東北問題は東北振興=電源開発に収斂された(『社会政策時報』東北問題研究、1935年3月を参照)。今後は、ブルジョア的解決をへて、民族問題的性格はもたずとも、社会主義的リージョナリズムを分泌せざるをえないであろう。
四、国内植民地としての沖縄(略)
沖縄問題は、1950−72年のアメリカ軍事植民地期を介在、媒介させて戦前的国内植民地−戦後的・新植民地主義的国内植民地の最悪の位置づけを強制されていると思われる。軍事植民地的−畸型的ではありながら、「半独立国的」近代化・体系化を一定度発芽させたのが挫折させられたのは、東北問題とはさらに質的に異なる民族問題を内包させているからであろう。経済的自立−政治的自決への体系と主体をそなえた自己発展力を反帝国主義的対決をつうじて構築しなくては、問題は基本的に解決されえないと考えるが、詳しくは別報告に譲りたい。
<資料V>島嶼経済論(レジユメ) 中村丈夫
一、既成の島嶼性論
「島嶼性」とは、従来、経済学的には内外ともに近代経済学的−新古典派的な効率性原理にもとづく特殊生産要素論として扱われてきた。それは一口に言って、「後進性」の極限をなす「辺境性」「孤立性」と等置され、その是正は、典型的に開発経済学的に「位置係数Location quotient」の利用として探求された。そのかぎりでは、island economyとは、シンガポールなど少数の例外を除いて、あまり展望のない閉回路である。
たとえば、国連統計は、LDC(低開発国)からLLDC(最低開発国 Least developed countries)を分離して処理しているが、このカテゴリーに属する諸国は島嶼国と内陸国である。UNCTADが1971年に島嶼国10ヵ国を対象としておこなった調査も後進性克服のために資本・土地・労働の主生産要素以外の比較的優位性の賦存状況を調べたものである。このような方法は、R・F・ハロッド『国際経済学』に集成されている。まさに離島苦=「島ちゃび」。
わが国での島嶼性研究は、「離島振興」の目的でおこなわれてきたが、右のような一応の近代経済学的合理性につらぬかれているとも言えず、むしろ島嶼性=辺境性の研究は、九学会連合の対馬調査にみるように、従来の開発に間接に奉仕することをめざしつつ、「日本文化の本源的なものが僻遠の地に残るものを探ろう」という人文科学的方法に主として依ってきた(木内俊蔵『地域概』東大出版会)。そこでは、島嶼的後進性は、地域個体説が成立しうるかのごとき有機的統一性=共同体性としてとらえられているようである。このような立場は、島嶼の経済的自立・発展の困難に直面するとき、ロマン的ラディカリズムとしての「離島コミューン」論をすらうみだしている。
二、位置の意義
島嶼にとって位置の問題は、たしかに軍事的にのみならず、経済的にも重要である。この位置が諸後背地にたいする重心的なものとしてまさにいわば、経済的資産となった例は、シンガポール、香港、にみることができる。すなわち、中継貿易−depotindustry−工業化−金融センター。
シンガポールは、この位置を固守するため、マレーシアとの連邦から脱退し、世界企業の前進基地として輪入代替工業から進んで重化学工業を「中進国」的に発展させ、さらに、アジア・ダラー市場を創設してユーロ・ダラー、オイル・ダラーの流入を含め、東南アジアの新植民地主義的開発の金融センターとなり(ソ連すら銀行を進出させている)いま経済発展の限界に直面して、頭脳・情報センターたるべく、科学技術・文化施設を強化しつつある。
香港もほぼ同様の路線をたどり、とくに近代化を急ぐ中国、ヴェトナムと先進資本主義国との経済的結合の環節の機能をはたしつつある。
だが、両者は、大陸との隣接や華僑社会の形成という条件に恵まれた稀な例であり、また「中進国」=ロストゥ流の「離陸」の道は、LLDないしLDの島嶼にとって望ましいものではなく、経済自立とは正反対の世界企業への従属の道であろう。位置、立地を比較的優位の特殊生産要素とする開発方式の限界は、プエル・ト・リコにしめされる。
ここでは、アメリカの超巨大石油資本と産油地(ベネズエラ)とをつなぐ位置(および潜在的・相対的過剰入口にもとづく低賃金)が綿密に近代経済学的−産業立地論的に計量されて、石油精製−石油化学−合成繊維工業の開発計画が推進された(W・アイザード他『Industrial Complex Anaysis and Regional Development,1959』)。結果は、甘蔗モノカルチュアと相まって、アメリカ本土への棄民的労働力輸出をもたらした。
沖縄の場合は、戦後はもっぱら地政治学的・兵要地理学的にまさにキー・ストーンとしてアメリカ帝国主義のアジア戦略上に位置づけられつつ、石油メジャーの進出を招いたが、石油基地は対日本および東アジアの精製基地にとどまっている(ガルフは尖閣列島=大陸棚油田開発拠点まで想定していたと言われる)。
問題は、島嶼性すなわち後進性・停滞性とみられながちな位置にある地域をも含めて、経済自立をめざす島嶼人民の立場から位置にかんする価値の転換をどのように構想しうるか、いわば逆手にとりうるか、ということであろう。このことは、当該島嶼にかんする時空的関連構造−歴史的動態と他地域とくに後背地との関係−を具体的に再検討することを要求する。そしてそのことは、島嶼内部の統一性totalityの理解、その統一性を保証する主体の問題につきあたる。
三、島嶼的統一性
島嶼的統一性を新しい次元で再建するためには、家族−地域共同体と資本主義ないし帝国主義との関連という、なお十分には解明されていない問題に接近しなくてはならない。移民問題の根源もそこにある(C・メイヤスー『家族的共同体の理論』筑摩書房、における「還流的移民」論および、アミン−メイヤスー論争を参照)。
四、島嶼の政治学
島嶼は一般に、経済的発展の度合いにかかわらず、政治的ないし行政的に独自の地位を賦与されざるをえない。
西野照太郎「島嶼住民の自決権と自治権」を参照。
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