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研究ノート
国際都市形成構想と道州制



  仲 地   博(琉球大学教員)


はじめに
1 国際都市形成構想のコンセプト
2 国際都市形成構想における一国二制度
3 国際都市形成構想と道州制
  おわりに─国際都市形成構想のその後


はじめに

(1)従来の自立構想と国際都市形成構想
 幕藩体制下において、沖縄は「異国」であったし、戦後は、1972年の施政権返還まで日本における完全な一国二制度であったということもできる。施政権返還後も沖縄開発庁の担当者をして「沖縄県という一つの地方公共団体を対象として制定された法令は、他に例のないほど複雑多岐で広範なものとなっており、国法レベルの各分野にわたって一つの体系をな(す)(1)」といわしめるようなものであった。
 このような歴史を背景に沖縄は自立構想の議論の盛んな地域であり、これまでも自治州や特別県制等が提起され議論されてきた。そのひとつに90年代の終盤に一国二制度を正面から主張した国際都市形成構想がある。
 国際都市形成構想が、それ以前の自立構想と異なる点は三点ある。ひとつは、民間の運動や研究者の提言ではなく、県の公式の将来計画であったことである。その内容も県民生活と密着し大胆であるが故に県民レベルの大議論を伴ないつつ展開されたが、この点も従来の独立論や自立構想が一部論者に止まったことと異なる。第二に、以上と関係するが、県が策定し、当時の沖縄の政治力を背景にして国に要求し、国も配慮の姿勢を見せるなど、実現の可能性を民衆が感じたことである。これまでの自立構想が、独立論を典型に「現実において可能性はほとんどない」と内心思いつつ議論がなされたのと異なる。それゆえに、連日の議論が新聞紙上で展開されることになる。第三に、従来の自立構想が特別県制など、国と地方関係における制度面に関心があったのに対し、国際都市形成構想は、地域開発計画としての経済政策が中心であり規制緩和や経済制度の特例を中心に展開した点である。

(2)時代的背景
 国際都市形成構想は、あの一時期の政治的背景を抜きに語ることはできない。念のために、国際都市形成構想の背景を簡単に述べておく。1995年、米兵による暴行事件を契機に、沖縄の反米軍基地の運動が高揚し、第三の島ぐるみ運動と呼ばれる状態にいたった。アメリカの極東戦略の変化の中で、基地の固定化を危惧した大田知事(当時、以下職名はすべて当時)は、軍用地強制使用手続きである代理署名を拒否した(95年9月)。これは、米軍基地使用の法的根拠がなくなることを意味し、実際翌年4月には、楚辺通信所で国が私人の土地を不法に占拠する状態が発生した。県と国の対立は精鋭化し、村山内閣総理大臣は知事に職務の執行を命じる訴訟を提起(95年12月)、最高裁判所まで争い知事は敗訴した(96年8月)。日本の自治の歴史で知事を被告とする始めての職務執行命令訴訟であった。他方、これも全国初となる県民投票が行われ(96年9月)、投票者の9割、有権者の過半数が基地の整理縮小を要求した。また、普天間基地の移設先とされた名護市の市民投票においても移設反対が多数をしめた(97年12月)。しかし、その後の名護市長選では、保守系が推す岸本市長が当選という逆転劇が生じ(98年2月)、年末の知事選挙で海上基地を容認する稲嶺候補に大田知事が敗れるという波乱の経過をたどった(98年11月)。国際都市形成構想は、このような激動の時代を背景に県と国のせめぎあいの道具という性格を持ちつつ展開された時代の産物だったのである。本稿は、道州制の論議が本格化しようとする今日、その一素材として、一国二制度を要求した国際都市形成構想を検証しておこうとするものである。

1 国際都市形成構想のコンセプト

(1)国際都市形成構想の基本理念
 国際都市形成構想は、大田知事の下で描かれた「21世紀・沖縄のグランドデザイン」と称されている。1992年にその萌芽的検討が開始され、96年知事決済で県の正規の将来計画と見なされる段階になった「国際都市形成構想」、「その具体化に向けたガイドラインとして推進方策や枠組みを示した」97年の「国際都市基本計画」を結節点とし、さらに、97年規制緩和と税制の特別措置をまとめた「国際都市形成に向けた新たな産業振興策」、98年「公表されることなくお蔵入り(2)」した『国際都市形成推進計画』(98年3月)まで段階を踏んで展開された。
 国際都市構想については、構想が固まる以前の諸調査があり、構想と不離一体であった「沖縄県産業創造アクションプログラム」、「基地返還アクションプログラム」等の計画があり、さらに段階ごとに審議会等が置かれ、また、規制緩和や自由貿易地域を中心に県民規模の議論が行われており、比較的短期に集中的に展開された割には、構想をめぐる議論の詳細は捉えにくい。しかし、本稿の目的から言えば、国際都市形成構想のコンセプトは、96年11月の「国際都市形成構想」を見れば足りる。主要部分を以下に紹介する。


 (基本理念及び基本目標)21世紀に向けて、「共生」の思想や「平和」を志向する沖縄の心を大切にし、本県の「自立」を図ることを理念に、自らの歴史・文化・自然環境等の特性を生かした多面的交流を推進することにより、本県の自立的発展を図るとともにアジア太平洋地域の平和と持続的発展に寄与する地域の形成を目指す。
 (拠点地域の設定)国際都市の機能を整備し、地域の連携を図るため、拠点を配置し、各拠点の適切な機能分担を計画的に進める。
 また、それぞれの地域がその特性を活かした国内外との多様で重層的な交流拠点を築き、アジア太平洋地域の国際交流拠点としての機能を果す広域的な交流圏の形成を図るため、交通・情報通信・国際的機能等のネットワーク化に向けた整備を進める。


(2)国際都市形成構想の発想とその変化
 ところで、沖縄県の「振興開発は、沖縄振興開発特別措置法(現行は、沖縄振興特別措置法)を根拠とする沖縄振興開発計画(現在は沖縄振興計画、以下「振計」)を基本として行われている。振計は、沖縄県知事の作成する原案に基づき内閣総理大臣が決定する沖縄の総合計画である。復帰から10年ごとに策定され、現在は4度目の振計が進行中である。国際都市形成が構想された90年代は、92年からスタートした第三次振計の途上であった。三次振計の目標は、それまでの「本土との格差是正」「自立的発展の基礎条件の整備」と並んで「我が国の経済社会及び文化の発展に寄与する特色ある地域として整備」を図ることを謳っている。特色ある地域とは具体的にどう展開されるのか。振計は、「振興開発の基本方向」とする項におい「地域特性を生かした南の交流拠点の形成」を挙げている。すなわち、「沖縄県の地理的・自然的特性と独特の伝統文化及び国際性豊かな県民性を生かして、我が国の南における交流拠点の形成を図る」ことを目的としている。国際都市形成構想は、この三次振計の文脈の中にあり、突然出てきたというわけではない。
 大田知事は、知事就任当初から、「国際交流拠点の形成」を重要政策のひとつとして掲げていたが、文化や学術に重点が置かれていた。手元の資料からいくつか紹介する。91年2月知事就任後初めての施政方針演説で、「国際交流の場の形成と交流の推進」を掲げ、「経済、文化、学術、平和等に関する諸機能を集積し、人的・物的交流の拠点を形成する」と延べ、自由貿易地域にも言及するが、内容のほとんどは地域型研究機関の設置、国際シンポジウム、留学生の派遣等、文化や学術に関することである。
 94年に、「21世紀に向けた沖縄のグランドデザイン」と題して講演をしている。この講演でも、産業や自由貿易地域など後に沖縄の重要テーマとなる論点まで含むが、力点が置かれているのは、平和政策である。すなわち大田は、まず、第三次振計において「広くわが国の経済社会および文化の発展に寄与する特色ある地域としての整備」が振興開発計画の新しい理念に据えられたことに触れた後、この理念の目指す一つが平和行政であるとし、「具体的に沖縄が平和の発信地として世界に貢献していくために、国際平和に関する文化活動、交流、研究の新たな拠点の形成を目指した『国際平和創造の杜』(仮称)という壮大な構想を描いております。これは(中略)、国際平和に関する拠点形成を目指すものです」と述べている。この段階では、国際都市が用語としても内容としてもまだ熟していないことを窺わせる(3)。
 国際都市形成構想は、次第に経済政策的側面が強調されるようになる。96年9月橋本総理が来県して行われた「総理が語る県民へのメッセージ」と題する行事における大田知事の挨拶では、国際都市形成構想は、経済が先行し文化が後になる。すなわち、「国際都市としての産業経済活動」を一通り述べた後、最後に「基地のない平和で縁豊かな沖縄を築き、国内はもとよりアジア諸国との間で人、物、情報が行き交い、平和、技術、経済、文化交流が行われる国際都市を目指す」と結ぶのである。
 96年11月の公告縦覧代行(4)後はこの姿勢はさらに明確になる。知事は県の広報紙で次のように述べている(5)。「(国に対して)基地問題と同様県政の最重要課題である産業の振興や雇用問題を解決していくため、新しい全国総合開発計画に沖縄県を一つの特色あるブロックとして国際都市形成構想の考え方を明確に位置づけるよう求めていきます。そして、国際都市形成構想関連の諸プロジェクトの具体的支援措置、税制上の特別措置や輸入の自由化による自由貿易地域の拡充強化、ノービザ制度の拡充等の規制緩和を軸とした、沖縄の振興策の確立を求めていきます」。
 97年10月の西川潤早稲田大学教授との対談では、冒頭で西川の「沖縄はずいぶん変わった(中略)。一連の政策はどのような考えで進めてきたのでしょうか」という問いに「基本は、自立した沖縄経済の確立にあります」と述べ、経済自立の重要性を指摘するとともに、「県では、数年前から、基地撒廃を前提にいくつかの経済振興策を推進しています。国際都市形成構想もその一つ」と、国際都市形成構想が経済政策であることを明確に述べている(6)。明らかに力点は移動したのである。
 国際都市形成構想が、経済計画としての性質を強めたのはなぜか。沖縄は、自立論の盛んな地域であることは先にも述べた。日本の版図に組み込まれて以来、一部ではあるが折りに触れ独立論・自立論が台頭した。戦後もそうである。しかし、それらは制度論や心情論が中心であり(新崎盛暉教授によって、アルコールで気炎をあげ、翌日は醒めてしまう「居酒屋独立論」と揶揄されたこともある)、経済的自立の論議が弱点であった(7)。大田知事は、「基地返還アクションプログラム」を策定し、基地を段階的に縮小し20年後には全面撒去することを主張した。しかし、沖縄経済に占める基地の地位が大きいことは共通認識であり、基地の全面返還要求は経済自立の構想を伴わなければ、県民的基盤を持ち得ず、本音を棚上げした建前の主張にしかならなかったのである。「少なくとも独立・自立と経済が一体のものであるという認識が広まりはじめたのである。結果として『米軍基地撤去』を声高に叫んできた勢力をも含めて、今や政治的立場を超えて『問題は経済にあり』という点では一致(8)」という分析は的確である。
 96年9月、大田知事は、公告縦覧の手続きを行い国への抵抗の旗を降ろした。間髪を入れず、橋本総理は「沖縄問題についての内閣総理大臣談話」を発表した。「21世紀・沖縄のグランドデザインは、沖縄県がその願いを込めた構想であると承知しております。政府としては、この構想を踏まえ、(中略)与党の協力を得て全力を傾注してまいります」。国際都市形成構想は、基地に対する沖縄の怒りを政治力にして、一国二制度を要求する大胆な経済政策として国政をも動かしはじめたのである。

2 国際都市形成構想における一国二制度

(1)経済政策としての一国二制度
 経済政策としての沖縄国際都市形成構想を概観しよう。「産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会」(田中直毅委員長)(9)は、「県からの要望を踏まえ、一国二制度的な思い切った産業振興策の実施が必要」と考え、「国際都市形成構想に基づき、これからの産業振興のあり方と展開方策を検討し」、1997年7月「産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会報告─新しい沖縄の創造・21世紀の産業フロンテイアを目指して」を答申した。県は、これを受け、同年11月「国際都市形成に向けた新たな産業振興策」(沖縄県案)を策定した。この内容が、沖縄の要求した一国二制度の到達した地点である。具体的施策は次のようなものである。


@ 自由貿易地域制度の拡充・強化
 2005年を目途とし全県自由貿易地域制度の導入、関税等の免除、域内の内国消費税の免除、免税店の設置、輸出入手続きの迅速化・簡素化
A 税制上の優遇措置
 投資税額控除制度、法人税率の軽減、地方税の課税免除等に対する補てん
B 運輸関係の規制緩和等の推進
 港湾運送事業の参入規制・価格規制の見直し、港湾使用料の軽減、二国間航空協定における那覇空港の優先指定、運輸権付き以遠権の付与、機材変更の自由、航空使用料の軽減
C 入国手続きの簡素・合理化
 査証手続きの簡素・合理化、特例上陸の許可条項の拡大

 以上の内容は、全県自由貿易地域制度の創設、税の減免、規制緩和とまとめることができる。一国二制度と表現するに値する内容である。

(2)分権としての国際都市形成構想

 国際都市形成構想の理念・目標はともあれ、構想形成の手段は、この三つ(全県自由貿易地域制度、税の減免、規制緩和)に要約することができる。地域の自己決定・自己責任という観点─すなわち自主性の向上という面からこれら三つを見ると、規制緩和は、国の有する権限についてであり自治体の権限が拡大するわけではない。税の減免も自治体の自主性の強化確立との関係は薄い。それでは、国際都市形成構想の目玉であった全県自由貿易地域制度についてはどうか。自由貿易地域には固定した概念はない(10)といわれる。自由貿易地域を県庁の内外で推進した宮城弘岩氏による沖縄の自由貿易地域の法的定義は次の通りである(11)。


「沖縄自由貿易地域制の法的定義」
 沖縄全域の関税をフリーとし、輸入される外国貨物の関税免除および内国消費税などを免除とし、輸入手続の簡素化をはかり、他法令に関する輸入許認可は税関の権限とする。また、税関長の権限は沖縄県知事に一元化し、沖縄を越えて本土に出荷される外国貨物の加工・製造製品は選択課税とする。


 税の免除とともに、税関長の権限の知事一元化が述べられていることに注目したい。知事に権限が委譲されたとして、知事が主務大臣の指揮監督に服するのかどうかは不明であるが、仮に機関委任事務的なものであったとしても自治体の長が国の権限の一部を行使することの意義は大きい。一国の関税制度の中に地域独自の関税制度が形成されることになる。
 国際都市形成構想は、規制緩和と税の減免を中心に論議されており、地方への権限委譲の要求はほとんど姿を見せないのであるが、構想がより具体化していけば、地方分権・権限委譲にテーマが深化する可能性はあったと思われる。事実、「お蔵入り」になった「国際都市形成推進計画策定調査報告書」(98年3月)では、「国際都市形成にあたっては、地方の自立・分権及び自治の確立をめざし」という文言が入り、県主導の総合計画の必要性や、また、政策体系においては自治・分権として「新たな立法化の実現」「新たな推進体制の確立」を図示し、さらに、報告書の最後は、「国際都市形成に向けた地方分権の推進」と題する一章を置く。しかし、この部分においても権限・財源の委譲を唱えはするが、未だ抽象的であり、幾分具体的な提案は、「都市計画の権限」、「空港、港湾計画等における権限」等が例示されているに過ぎない。分権の必要性がようやく意識された段階に留まっていたと言ってよい。
 大田知事の右腕といわれ国際都市形成構想をリードした副知事の吉元政矩は、退任後の91年次のように述べている。「97年7月の県議会で(中略)『今回の国際都市構想、全県自由貿易地域ができあがっていくときの受け皿となる行政は、県、あるいは国なのか』という趣旨の質問がありました。それに対し、『新たな県政の枠組みはどうあるべきかについて検討していく必要がある』、『全県フリーゾーンを実施する手段として構想を再検討したい』と答弁した。すべての権限を国から委譲してもらい沖縄県自らが行うのが分権であり自治であると明確に認識していたからです(12)」。吉本は、議会で副知事再任の承認を得られず退任する。権限委譲の議論にいたる前に、国際都市構想はそのエンジンを失ったのである。

3 国際都市形成構想と道州制

 日本における道州制の議論で、肝心の「道州とは何か」という点についての基本的共通認識はなく、道州制という同じ言葉で語られながら、単に府県の区域を広域にしたものから、連邦制までその内容にはさまざまなものが含まれている。議論の歴史も古く、昭和2年行政制度審議会の「州庁設置案」にまで遡ることができる。
 道州制について、第27次地方制度調査会の答申(2003年)は、「現時点では」と断りつつ、基本的考えを次のように整理し、その概略を描きだしている。


基本的考え方
 道州制は、現行憲法の下で、広域自治体と基礎自治体との二層制を前提として構築することとし、その制度及び設置手続きは法律で定める。
 ア 現在の都道府県を廃止し、より自主性、自立性の高い広域自治体としての道又は州を設置する。
 イ 道州制の導入に伴い、国の役割は真に国が果たすべきものに重点化し、その多くの権限を地方に移譲する。
 ウ 道州の長と議会の議員は公選とする。
 エ 道州の区域については、原則として現在の都道府県の区域を越える広域的な単位とし、地理的、歴史的、文化的な諸条件を踏まえ、経済社会的な状況を勘案して定められるものとする。


 以上の基本的考え方の中から、本稿の関心に即して、道州制のメルクマールを上げれば、@府県は廃止されること、A州の権限が増大すること、B「原則として」府県の範囲を越える広域自治体であること、ということになる。
 検討の都合上まず、Bの広域行政について見る。「現在の都道府県の範囲を越える」ということに関して言えば、沖縄県のみで道州を形成することはできないことになる。広域という点に着目すると北海道は一つの自治体ですでに広域であるが、沖縄は広域とは言えない(13)。しかし、「原則として」と慎重に留保が付されていること、後半の「地理的、歴史的、文化的な諸条件を踏まえ経済的社会的な諸条件を勘案して定められる」を併せ読むと、この答申は沖縄単独で道州形成を容認する趣旨であると読むことができよう。
 次にAの州の権限の増大についてである。先に述べたように国際都市形成構想は、一国の中における経済特別区にとどまり、自治特別区の議論に及ばなかった。しかし、国際都市形成構想がかもし出した雰囲気は、まぎれもなく道州であった。例えば、篠原章大東文化大学教授は、「日本のシステムを問う沖縄の『独立』構想」と題して次のように述べた(14)。


 「(国際都市形成構想では)「本土」はすべて「日本」と表現されている。まるで「日本をやめよう」と宣言しているのかのようだ。誤解を恐れずにいえば、この構想は「沖縄独立宣言」の草稿なのである。(中略)基地の跡地利用を見据えて沖縄県がとりまとめた『規制緩和等産業振興特別措置に関する要望書』をみても、日本というシステムから離脱したいという彼らの意志が伝わってくる。(中略)国の権限である関税権や出入国管理権の一部を沖縄に委ねるということは、一国二制度どころか国境の変更を意味している。これはまさに「独立」のための下地づくりを企図したものといってよい。(中略)沖縄は、日本の枠内での特別扱いを求めているのではなく、あくまで日本の枠外においてほしいと主張しているのである。」

 我部政明琉球大学教授は、「沖縄が要求するかぎり」と限定を付しつつ、次のように論じた(15)。

 「(香港と異なり)経済的に弱体な沖縄が、日本本土への統合ではなく本土からの分離の過程として『一国二制度』の地位を得ることになる」。「(基地の集中が緩和されても)動き出した『一国二制度』の後戻りはないだろう。その時すでに、日本本土から沖縄を分離する環境は出来上がり、慣性力によって沖縄は『一国二制度』を越えて独立へ動いていくであろう」。「安全保障を切り離した経済を中心とする沖縄での『一国二制度』は、安全保障の役割が消滅する時点でもう『独立』になってしまうのだ」。

 このように国際都市形成における一国二制度論は、権限の再配分という面での国と自治体の関係の全体はほとんど手がつかないまま、先の@の都道府県の枠組みを飛び出し、国からの相対的独立をした地域の幻影が作られたのである。その意味で国際都市形成構想は未発の道州制であったと言えよう。

おわりに─国際都市形成構想のその後

 1997年1月梶山官房長官「自由貿易地域の法改正はやってやれないことはない」、3月自民党の野中広務幹事長代理「大胆にやることで、結果として一国二制度になってもよい」、4月与党合意事項「一国二制度的な大胆な改革を目指す」、11月橋本総理「国際交流拠点沖縄の形成を積極的に支援」等、政府与党筋の発言から、国際都市構想の可能性が仄見えるかのようであった。しかし、98年2月大田知事は普天間基地の移設先である海上基地反対を表明し、政府と県の関係は悪化、11月の知事選挙で敗北へとつながっていく。
 国際都市形成構想はどうなったのか。2000年4月県の国際都市形成推進室が廃止された。琉球新報記者の前泊博盛は、「基地なき後の沖縄の振興ビジョンとして登場した国際都市形成構想は、県政の政権交代で消え(た)(16)」と総括した。他方で、96年、97年に国際都市形成推進室長を努めた宮城正治は、「歴史性や独自性、地理的条件を踏まえた沖縄の方向性を位置づけたと思っている。その考え方は脈々と生きている」と評価する(17)。稲嶺県政下の副知事である牧野浩隆は、「構想の延長で政策協、21世紀プランができた点は評価できる。県も引き継ぐべきものは引き継いでいる」と述べる(18)。
 国際都市形成構想は大田知事の退場とともに消えたのか、精神は生き残ったのか、施策は具体化されたのか。国際都市形成構想の帰結を整理しよう。

@全国総合開発計画など
 大田県政は、国際都市形成構想を、第五次全国総合開発計画に位置づけることを要求してきた。政府は、98年3月の新しい全国総合開発計画「21世紀の国土のグランドデザイン」を策定したが、その中で、沖縄の振興を首都機能の問題と並んで特定課題として掲げ「アジア・太平洋地域における人、物、情報の結節点となる広域国際交流圈の形成を図る」と述べ、沖縄を「太平洋・平和の交流拠点(パシフィック・クロスロード)」と位置づけた(19)。
 それに先立つ97年12月には、県が国に提出していた「国際貢献都市OKINAWA構想」の審査が国土庁など関係7省庁で終了し、多極分散型国土形成促進法に基づく振興拠点地域とし同意された。同構想上の事業を実施する際、国の財政的支援が受けられる。同構想は那覇、宜野湾両市など県中南部の7市9町8村が対象で、約10年かけてアジア太平洋地域への国際貢献拠点として機能整備を図ることを目的としている。

A沖縄振興特別措置法
 稲嶺県政に交代し、沖縄振興特別措置法─いわゆる新法が制定される(02年3月)。新法では、情報通信産業特別地区、特別自由貿易地域、金融業務特別地区の3つの制度があらたに措置された。情報通信産業特別地区は、情報通信産業の振興を図るため必要とされる地域で、24地域が指定されている。振興の手法は税制上の優遇措置である。金融業務特別地区は、金融業、証券業、保険業等の集積を図ることを目的とし、その手法は税制上の優遇措置である。名護市が指定されている。特別自由貿易地域は、沖縄における産業および貿易の振興に資するために必要とされる地域で、中城湾新港地区が指定されている。優遇措置は所得控除、関税、税制、金融上の措置がある(20)。

B沖縄政策協議会
 大田知事が、公告縦覧の手続きを代行した時点で、国は沖縄に正面から取組む姿勢を見せた。96年9月設置された沖縄政策協議会である。沖縄政策協議会は、「沖縄県が我が国経済社会の発展に寄与する地域として整備されるよう、沖縄に関連する基本施策に関し協議することを目的」(9月17日閣議決定)とし、総理大臣と北海道開発庁長官を除く全国務大臣、内閣官房長官と沖縄県知事をメンバーとしている。一県知事が、閣僚と同じ資格で列席する協議会には連邦国家の幻想さえ生じかねない。

 以上、沖縄の当時の政治力を背景とした国際都市形成構想は、たしかに何ものかを残したのである。しかし、金融業務特区も特別自由貿易地区も、優遇措置を設けても進出した企業はまだ一社もない。沖縄政策協議会も、沖縄のイニシアチブで開催することはできない。国際都市形成構想は、構想段階で分権の側面が弱かったことに加え、経済政策の実効性の面においてもやはり未発の道州制であったのである。国際都市形成構想の帰結から学ぶことは、沖縄のみの主張では、国(官僚)の壁を崩すことが困難であること、中途半端な制度では成果を生めないことである。とはいえ、全国で行われている特区が、構造改革特別区域法に基づくもので、その手段が主として規制緩和であるものに対し、沖縄にはまったく異なる制度がともあれ施行された。ここまで来たことは、道州制の一里塚と評価できないこともない(21)。



(1)「沖縄振興開発六法昭和51年版」(全国加除法令出版株式会社)のはしがき
(2)上妻毅「沖縄県『国際都市形成構想』がめざしたもの─自治・分権の視点からの再考察」私家版『21OFT』2001年6月。なお、著者は国際都市構想の当初から関わったシンクタンク研究員であり、この文献には、本稿で紹介しなかった国際都市に関する諸報告が年表と共に示されている。
(3)大田昌秀『沖縄平和の礎』岩波新書1996年119頁。なお、98年発刊の対談集においても、国際都市形成構想は、平和拠点に力点が置かれている。大田昌秀・池澤夏樹『沖縄からはじまる』集英社1998年90頁以下
(4)ここでの公告縦覧代行とは、当時の土地収用法に定められたもので代理署名とともに基地用地の強制使用手続きの一環として知事の事務(機関委任事務)である。大田知事は、代理署名訴訟の最高裁判所における敗訴後、公告縦覧を代行した。
(5)沖縄県広報「県政プラザ特集」1996年11月10日
(6)ダイヤモンド社「週刊ダイヤモンド」1997年10月25日号
(7)経済も含めて論じた数少ない論文として沖縄経済研究会「沖縄経済自立の構想」新沖縄文学48号1981年がある。
(8)篠原章『「沖縄の自立」をめぐる視点』大東文化大学経済研究所ワーキングペイパーNO.18(2000年3月)、http://www.daito.ac.jp/kirashi/okinawa.htmI♯anchor1038798より引用
(9)委員会メンバーは次の通りである。田中直毅・21世紀政策研究所理事長、本間正明・大阪大学経済学部長、稲盛和夫・京セラ株式会社会長、牛尾治朗・ウシオ電機株式会社会長、塚越弘・かわさきファズ株式会社専務取締役、黄茂雄・東元電機製造公司会長、徐明珠・香港中文大学日本研究学科教授、稲嶺恵一・株式会社りゅうせき会長、宮城弘岩・株式会社沖縄県物産公社代表取締役専務
 ところで、審議会答申が県の政策として採用されるかどうかは、知事の栽量であり、それに責任を負うのは知事、延いては主権者である県民であることはあえて断ることでもない。しかし、「産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会報告」には、通常の審議会答申などには見られないトーンで自己決定・自己責任が述べられている。次の通りである。「(自由貿易地域などは)最終的には県民自らが選択・判断すべきものであ(る)」。「沖縄はいま、まさに転換点にあり、自己決定・自己責任の原則に基づく積極的な取り組みが求められている」。「沖縄側の要望をできる限り組み入れる方向で検討を行い、全県自由貿易地域の創設を目指すなど一国二制度的な手法をも盛り込んだ内容となった。しかし、これには沖縄県民自らが復帰プログラムに幕を引き、自己決定・自己責任の原則に基づき「新しい沖縄の創造」に向けて取り組むことが前提となろう」。規制緩和と地方分権のキーワードである「自己決定、自己責任」が、繰り返し強調されている。一国二制度の導入による混乱の可能性が大きいことを暗示していると言える。
(10)宮城弘岩『沖縄自由貿易論』琉球出版社1998年174頁
(11)宮城前掲書187頁
(12)「琉球諸島特別自治制の構想」北海道自治研究386号2001年3月号6頁
(13)海域を含めて沖縄もまた広域と主張することも可能であるが、ここでの広域は単に面積の問題ではなくそれに見合う人口や経済規模を含むと考えるのが妥当であろう。
(14)朝日新聞1996年10月8日、前掲のHPから引用。
(15)朝日新聞1997年6月23日朝刊
(16)百瀬恵夫・前泊博盛『検証「沖縄問題」』東洋経済出版社2002年144頁
(17)琉球新報2000年4月3日
(18)琉球新報2000年4月3日
(19)第四次全国総合開発計画においては、第三次沖縄振興開発計画と呼応し「わが国の南西端に位置するという地理的特性を生かした東南アジアをはじめとする諸外国との交流拠点の形成」を謳っていた。
(20)自由貿易地域(「特別」が付かないことに注意)の制度は第一次沖縄振興開発計画時代からあり、自由貿易那覇地区が指定されている。
(21)島袋純琉大助教授の評価を紹介する。「大田県政が引き起こした中央政府への激しい攻勢が、中央政府の沖縄政策の仕組みの変化をもたらしたといえるが、沖縄県の側にはなんらの変化も生じていない。96年末に始まる稲嶺県政は、沖縄の自治制度改革になんら言及していない」。(島袋純「沖縄のガバナンスのゆくえ〜国際都市形成構想から新沖縄振興計画へ〜」山口二郎、山崎幹根、遠藤乾編『グローバル化時代の地方ガバナンス』岩波書店2003年200頁)

〔琉大法学第73号2005年3月発行・所収〕


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