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THE SEVENTH  EMIGRANT

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【2004.12.25】 沖縄国際大学編『グローバリゼーションの中の沖縄』(編集工房東洋企画2004)を読む。
 これは2003年10月18日に沖縄国際大学主催で開かれたシンポジウムの記録である。メインスピーカーは平恒次(イリノイ大学 名誉教授)の「沖縄の行方」である。国連−国際人権規約における「peoples」概念を手がかりに、「選択肢は独立か否かの二者択一ではない。不服な現状と至福の独立との間には、当面、最終目標へ向かって『前進』と評価できる幾つかの選択項目がある。忍耐強く前進に前進を重ねて行けば何時かは目的地に到達できるはずである。」と述べ、更に「今のところ、連邦制国家が独立志向の地域を繋ぎ止める最適の国制であるとされる。」と付け加えている。
 そして彼は持論である「その時(1972年の日本への統合・併合時)なら、国際人権規約第一条の大義の手前、沖縄ピープルの自決権主張は相当の説得力を持ったに違いない。/一つの機会はこうして風と共に去った。しかし、沖縄の人々が『ピープル』である限り自決権は失われない。グローバリゼーションの進展、世界秩序の変動、というような地球的マクロ現象に対して、沖縄の人々は『ピープル』として決して無力ではない。国連憲章は、『ピープルの同権及び自決の原則の尊重』を諸国間の友好関係及び世界平和の基礎であるとしている。独自のピープルとして、他の多くのピープルズと共に自決権を行使して行くためには、沖縄の人々は何よりもまずピープルとしての自己認識を維持し続ける必要がある。ピープルとしての地位と権利は、自主的に歴史を作って行くエネルギーの源泉である。」と結論づける。

 本書から、もうひとつ面白かったのが、フランス国立科学研究センター研究主任のパトリック・ベイヴェールの「EUの視点からみた沖縄のカルチュラル・アイデンティティと自立性」


【2004.12.1】
 太田良博『ほんとの歴史を伝えたい』(ボーダーインク04.7.13)を読む。
 「在野の歴史家」と呼べばいいのだろうか。極めてユニークな史観を提供してくれる。著者は2002年に逝去。本書は連れ合いの美津子さんが「遺稿」を編集して出版したもの。
 定説に対して「常に異論を提出」しているように感じられた。例えば薩摩侵攻時の「謝名親方」についても、「謝名親方を『悲劇の英雄』とすることは、琉球歴史の常識となっている。しかし、……彼を沖縄の誇るべき人物の一人に加えるなら、これは、疑問とせざるを得ない。なぜなら謝名親方は、久米村(中国租界地)出身で、中国人の子孫だからである。」とし、「謝名は沖縄における中国の、ことに久米村帰化人の利害を、何よりも優先して、事の判断[島津の要求を退け、彼の侵略の口実を与えたこと]をあやまったとしか言えない。」と結論づける。そして「名護良豊親方」のヤマト(島津)への恭順を「それが、沖縄の政治家の智恵というものである。」と語る。
 ただ「琉球処分」について、「第二次」「第三次」という言い方を私などもしているが、太田に言わせれば「明治政府」による琉球処分は「外国」たる琉球王国への侵略・併合であって、純然たる「外交問題」なのだ。それも対中国(宗主権問題)だけが問題なのではない。講和条約での米軍政への売り渡しも「日本復帰」も彼に言わせれば「内政問題」となったわけである。
 太田良博については「図書室」で『新沖縄文学53号』82に掲載された「ふたば会――崎間敏勝氏の歴史観を中心に」がアップされています。


【2004.11.16】 地名を歩く/「ヌーファ」の由来
 『地名を歩く』(編著 南島地名研究センター/ボーダーインク1991年10月10日発行)を読みました。そこで、普天間代替基地建設阻止を闘う「シマおこし」の一つとして誕生した「エコネット美(ちゅら)」のじんぶん学校がある「ヌーファの浜」の地名由来を見つけました。もうひとつ、「シマ」です。比喩的に「島=シマ」かと、ずっと思っていました。(そういう説明も読んだような。)ところが使われる通り「シマ」とは「居住」だったんですね。


ヌー  −外海とイノーをつなぐ出入り口−

 『おもしろさうし』に「くたかのみお」「こまかのみお」と出ている。みお(澪)は「河・海の中で、船の通行に適する底深い水路」と『広辞苑』にある。
 「くだかのみお」も「こまかのみお」も中城湾の入り口から港川まで連なる知念ウフビシの沖からイノーへ入る水路で、方言で「クダカヌー」「コマカヌー」と言っている。玉城村百名海岸の「ヤマラヂカサ」の前面には「アチヌー」(写真)「ジマイヌー」が開けている。沖縄の古代文明は各地の干瀬(裾礁)に開かれたヌーグチから入ってきたと考えられる。
 陸の地名にもヌーの語源をもつものが多い。豊見城村の饒波は国場川の支流が豊見城城跡の下で分かれ溝原まで深く入りこんだところにある。大宜味村の饒波川の三角州にある饒波が、ある。饒波は方言で「ヌーファ」と言う。また本部町の伊野波も「ヌーファ」のあて字で、満名川の川岸に位置する集落である。与那城村の饒辺(ヌヘン)も勝連半島と藪地島との間の屋慶名海峡の南岸にあり、この付近にある拝所を「ヌーウガン」といっている。海峡の深い水路もヌーである。ヌーの付く地名は水路と深いかかわりがある。
 激浪の外海と珊瑚礁に守られたイノーとをつなぐ重要な出入り口のヌー(澪)はまた津口とも呼ばれ、古くは沖縄各地の按司割拠時代の唐船の入る津口でもあった。海のかなたから多くの外来文化を持ちこんだのもヌーであるがまた悪疫、邪霊もこのヌーから入りこむという信仰もある。
 那覇港も国場川の津口であるこの防備のために造られた「やらざもりぐすく」があった、その古い碑文の中に「まうはらて、みよはらて」ということが書かれている。「みよはらい」は「ヌーバレー」と解かされる。の行事が今でも沖縄本島南部に「ヌーバレ」の行事が残っていて「ヌーハライ」の祈願がこめられる
 豊漁祈願の「海御願」もフーチゲーシの「浜御願」もヌーへ向かって拝んでいる。ヌー(澪)はイノーに生活圏を持つ人たちにとって、神聖なる関門である。(新垣 源勇)


ムラとソン  ―村(そん)は以前の間切に相当―

島寄せれ寄せれ小那覇村寄せれ 島の寄せられめ里前いまうれ

 語意―小那覇村は西原間切にある村名。歌意―「シマを寄せよ寄せよ小那覇のムラを寄せよ。近くに寄せて毎夜遊びたい」、「シマが寄せられますか貴方いらっしゃい」(『琉歌大観』島袋盛敏)
 この琉歌では、シマの同義語であるムラを見事に一つの歌に詠いこんでいる。『琉歌大観』をひもとくと、シマを詠いこんだ琉歌が30首近く撰されているのに、ムラという言葉を使った歌はただこの一首のみである。
 一方、村落共同体に関わる言葉は、そのほとんどが、ムラで表現されていて、なんとも奇妙な対照をなしている。例をあげると。
 ムラガニ(催し物や集会の合図で鳴らす銅鑼)、ムラアシビ(村芝居)、ムラガ−(村の共同井戸)、ムラソージ(共同清掃)、ムラグムチ(村の共有物)、ムラジュリー(共同体の集まり)、ムラジンミ(共同体の協議)、ムラガッコ−(村学校)、ムラハジシ(村端ずれ)、ムラジャケー(村境)、ムラバレー(村からの追放)などなどである。
 このようにみてくると、ムラとシマは同義であっても、それぞれの言葉の用い方は、あらかた判然としているようである。すなわち、シマは私生活上における心象の反映として、琉歌を詠むときや、全く私的な対話などに使用されることが主であることがわかり、またムラという呼び方は、村落共同体との関わりで使われるのが主となっている。
 シマなる呼び方は原始的には、住居が起こりで、イ音の下略によるスマ→シマであろうと考えられ、片やムラなる呼び方は、古代の採集漂泊時代の群が、農耕を知るようになり、定着−すなわち群居をしたことに起因するものと考えられることから、ムラはその源からして、原始共同体に関わり、シマは私生活と結びついて生まれた言葉のように思われる。
 ところで、古代共同体のムラは、歴史時代に入って自然の群(ムラ)から、行政村(ムラ)へと組み込まれていった。第二尚氏時代、とくにその中葉以後の島津氏の琉球侵略以後は、支配機構の末端組織にまで落された。1713(尚敬元)年に編纂をおえた『琉球国由来記』をみると自然群のマキヨと対応するのではとされるトゥン(殿)が二つ三つ合わさったのが、行政村の数である。
 当時のムラには、すでに村が当字され、それは現在の字(アザ)に相当し、現在のソン(村)は、当時はマジリ(間切)と呼ばれている。
 国語関係の辞典類では、ムラもソンも同義で、村を引くと“ムラともいう”などと出ている。しかしこの解釈は、いまだもって琉球弧には当てはまらない。1908(明治41)年、「沖縄県及島嶼町村制」が施行されて、これまでの間切が村(ソン)と呼ばれるようになり、それまでの村(ムラ)は、字と公称するようになる。
 しかし、上からの押しつけで、人間の心象の反映まで直ちに遷し変えることは無理というものであり、この地におけるムラ(村)はあくまでも従前のムラであり、ソン(村)とは間切から変遷した行政的呼称のみである。(久手堅 憲夫)


【2004.10.18】 城間松明大綱引き

 10.16今回の沖縄行のメインイベント(笑)たる「沖縄自治研シンポ」終了後、那覇市民会館で開かれた「高里鈴代総決起集会」に参加。「革新統一+下地派」の手枷足枷の中、どのような闘いとなるのか。是が非でも高里勝利の美酒に酔いたいと思いますが……。
 自治研シンポの報告はまた、別の機会にするとして(仲里効さんや新崎盛暉さん、それに真久田正さんや喜納昌吉さんの顔も見えてましたね。)、高里総決起集会を中座し、浦添に向かう。お目当ては浦添市城間〈グスクマ〉の「松明〈テービー〉大綱引き」です。

 1944年、戦禍激しくなる時代に途絶えた大綱引きですが、1995年に商店街が中心になり復活したものを地域活性化の一環として町内会(城間自治会)が引き継ぎ今日に至ったそうです。
 当日は昼過ぎの「道ジュネー」から始まり、夕方には「空手演舞」「てーびー太鼓」、そして「子ども綱引き」を経て、旗スガシー・ガーエーと続きます。我々が到着した午後8時頃は、「陽飛」「城」の二本の旗頭のガーエーの真っ最中。集落を「前村渠〈メンダカリ〉・後村渠〈シンダカリ〉」の二つに分けて競わせる。
 その後、大綱が路上に引き出されると「シタク」の開始。さて「シタク」とは?(「仕度」ですかね。)子ども会副会長の女の子が「護佐丸」に扮し、「その家来」に扮した女の子が「放送係」だそうです。これがメンダカリ。一方シンダカリは肩書きは聞き落としましたが、同じ小学六年生の女の子が「阿麻和利とその家来」に扮しています。それぞれが大人8人ぐらいに担がれた「輿」の上に、凛々しい武者姿ですくっと立っています。雌綱雄綱がにらみ合った先頭にそれぞれの輿が到着すると、長刀を振りかざし立ち回りを演じます。
 さて、「シタク」が終わり、いよいよ綱引きの本番!
 シンダカリの二連勝で幕!いやー翌日まで二の腕や太ももの痛みが消えませんでした。綱引き直後などは痛みというより、ちゃんと歩けないほど膝がガクガクしっぱなし。えっ? そうです、私たちも参加させて頂きました。戴いた資料によると、昔は松明〈テービー〉で、綱も引かずに見物する「不埒者」を追い回したそうです。
 こうなると世上に名高い「与那原の大綱引き」にも参加したくなるのが人情というものですね……



【2004.10.3】 エイサー三昧
 いささか旧聞に属しますが、6.13で書き込んだように、「沖縄のお盆」に行って参りました。お目当ては言わずと知れた「エイサー」。
 いまやエイサーは沖縄全域から日本、そして世界で行われているようです。ちなみに「エイサー」をインターネットで検索すると、何万とヒットします。観光アトラクションとしてはもとより、横浜・鶴見区の県人会がもとになった「鶴見エイサー潮風(うすかじ)」とか、全国各地で沖縄フリークも巻き込んでそれこそ無数のエイサー隊があります。
 去年、「全島エイサーまつり」を見物に行った際、高橋治の『星の衣』の一場面と見紛う体験をしました。コザ・中の町でタクシーを降りると、なにやら太鼓の音が響いてきます。思わず足早となり、その音のする方に駆け出しました。今度は太鼓・三線の音と少女たちの囃子声です。人だかりが見えます。その辻を曲がった途端、旗頭とチョンダラーです。
 もう、ダメです、こんな体験をしたら。

 8月27日沖縄入り、28日ウンケー(お盆の入り=お迎え)、29日ナカヌヒ、30日ウークイ(=お送り)と、わざわざコザにホテルを予約してのエイサー三昧でした。エイサーについては書き始めると止まらなくなりますので、エイサー会館で戴いた『マングラーズマガジン』を中心にエイサーページを作成するつもりです。乞うご期待!
 幾つか、今後のエイサー見物の基礎資料を。
 1・ウークイとその翌日が山場。いろいろの説があるようですが、ご先祖様を歓待するためのエイサーというより、送り出すためのもののような気がします。一説によると、「ご先祖様を送り出したあと、『私たちは、このように楽しくやっておりますから、どうぞ心配せず、ご先祖様達もグソー(後生=あの世)で楽しくお暮らし下さい』と、エイサーに興じる」とあります。そしてガーエー(オーラーセー=競演)はウークイ当日のみのようでした。かの有名な平敷屋エイサーもウークイとその翌日。嘉手納基地のためにシマを奪われた千原(せんばる)エイサーはウークイの翌日の一日だけ(2004年)。どうせ二泊三日とか三泊四日で行くしかないのでしたら、ウークイの翌々日までをメインにスケジュールを組むことをオススメします。(笑)嘉手納では31日、古謝美佐子さんが登場していたようです。30日の北谷では与那覇徹さんも。
 2・ガーエーは、胡屋十字路近くの百軒通りが有名ですが、あとコザ十字路近くの農連市場と泡瀬(詳しい場所は聞き損ないました)の三っつを「三大ガーエー」というそうです。ちょうど「山里エイサー」と「久保田エイサー」とのガーエーを見ることが出来ましたが、これは必見です。改造トラックに乗っていた地方(地謡=唄三線部隊)も道路に降り、細い路地を両者がぶつかるようにしてすれ違ってゆくのです。チョンダラーが相手方の演者たちに、ちょっかいを掛けるなど、見物客も含め身動きではない状態でのエイサーです。
 3・道ジュネーをしないエイサー(元々はそうだったのでしょうか)もあります。例えば平敷屋など、拝所(ウガンジョ?)前での、いわば「奉納」踊りで、その後も各家々を回ります。そんなに広くない玄関先(庭先)での演舞です。どうやら「新築祝い」がメインのようですが、そんなに毎年新築の家があるわけはない。いわば「門付」に似たもののようです。そういえば、具志川で偶然「平安座(へんざ)エイサー」と遭遇しました。タクシーの運転手さんの説明によると、平安座出身者の店(居酒屋でしたね)で披露し、ご祝儀を貰うそうです。これが「青年会」の活動資金になるそうです。
 エイサーが始まる前、二人のチョンダラーによる演舞が「お浄め」でしょうか、オープニングとしてありました。(これも「道ジュネー」では無理でしょう。)ウチナーグチなのでほとんど聞き取れませんが、所々「今年で三十路…」とか「大学卒業…」とかの文句があります。即興というか、アドリブというか、もっとも伝統的と言われる平敷屋エイサーでしたが、「俺たち、こんなこと出来るのも今年が最後……」と謡っているようでした。
 4・30日、平敷屋エイサー見物からコザに戻り、居酒屋で遅い晩飯を摂っていた時、店の中に「園田エイサー」の一団が乱入(笑)してきました。店の中での演舞の合間にお客がビールやらなにやらを勧めています。もちろん、彼らはそれを当然の如く飲み干して演舞を続けました。私たちも「郷に入れば郷に従え」とばかりに、ご祝儀やら泡盛やらを振る舞いました。外にいるメンバーにもお店から、振舞酒やら果物やらの差し入れがありました。
 5・肝心なことを書き忘れていました。30年以上も前のことですが、夏のある日、地元客相手の食堂などが一斉に休んでいるのです。食堂だけではありません、小商いの店はそれこそ軒並み閉まっているではありませんか。「お盆」だったのです。いやー、参りました。ルンプロの身です。デパートや観光客相手の食堂やレストランなどはお呼びではありません。どこでもいい、何か食わせてくれ!という心境で那覇の街を歩き回った記憶があります。
 今年のコザの街も、ウークイの日はほとんど店じまいでしたね。(コザおなじみの民謡酒場「なんた浜」は29日−30日とお休みでした。)



【2004.7.18】
  『琉球王国』(赤嶺守/講談社2004.4)、『沖縄に立ちすくむ』(岩渕功一・多田治・田仲康博編/せりか書房2004.3)、『「沖縄独立」の系譜』(比嘉康文/琉球新報社2004.6)を読む。
 国際都市形成構想−一国二制度−全県FTZを「沖縄、そして日本の未来」と重ね合わせて考えていた時、これらの下敷きとなった「万国津梁の銘」や「大交易時代」から、「海洋民族」像を勝手に(それは「海邦」という魅力的な響きを持つ言葉とともに)夢想していたが、どうやら大きな錯誤を犯してしまいそうであることに思い知らされた。そして「大国」という、琉球的リアリティにたじろぐ。
 やはり「立ち位置」の問題がすべてのようだ。「研究」「研究者」「研究対象」としての「沖縄」に対しては立ち竦むしかあるまい。所詮、ポス・コロであれ、カル・スタであれ、「研究」にとどまらざるを得ない君/私が問われている。教条的に聞こえるかも知れないが、世界には中心も片隅もない。その意味では、このセッション(2003年国際シンポジウム『カルチュラル・タイフーン』)にコメンテーターとして参加した田仲康博の「やさしさ」は、両刃の剣でもある。それに対して、新城郁夫(「沖縄を語ることの政治学にむけて」)は他者をしてたじろがさせるほど直裁的であった。さて、今年の『カルチュラル・タイフーン in OKINAWA』はどうなったのか。
 そして、反日独立(親米・連台?)にせよ、沖縄の自立解放の方途は?未だカリカチュアとしての暴走の域を出ていないとはいえ、この日本の異様さ・無様さを見るにつけ、「密集した反革命を打ち破る」ことに心せよ。もっとも、このアフォリズムは自戒でもあるのだが。はてさて沖縄共産主義運動の系譜は?



【2004.6.13】 エイサー
 今年の旧暦では、2月に閏月があり(知ってました?旧暦の閏年は「1日増える」のではなく、「1月増える」っていうことを。)、旧盆が約1ヶ月半ずれます。つまり、ウンケー(旧暦7月13日の「お迎え」)がなんと、8月28日の「土曜日」なんです。というわけで「念願」のエイサー見学を挙行することになりました。(笑)というわけではありませんが、高橋治『星の衣』(講談社1995)をどうぞ。


【2004.5.29】さすが由井晶子さん!
 いささか鬱屈することがありましたが、由井晶子さんの文章を読んで心が洗われましたね。
 『労働情報』に沖縄からの報告が連載されていますが、そのbU48(04.6.1)での「復帰33年目 なお闘う沖縄」です。「予想以上の成果と予想外の懸念材料交錯」の副題が付されてありました。
 5.16宜野湾の海浜公園でもお会いしましたが、常に現場に足を運ぶその姿勢にも敬服しますが、さすが、沖縄タイムスの元編集局長です。どのような状況・事件・事態も清冽な筆致で書き留めていることに感服しました。


【2004.5.26】
 2003.11.23の豊見山和行説の補強かそれとも異説かは、にわかには分かりませんが、今日読了した赤嶺守『琉球王国』(講談社2004)につぎのような一文がありました。

 「そうした状況(日本の朝貢体制への参加や、北方遊牧民への防衛費増大など)は琉球への海船の下賜にも影響し、一四五〇年には、琉球側が費用を負担する形での海船建造が認可され、以後琉球側の費用負担による福建での海船建造がおこなわれるようになった。尚清王代(一五二七〜一五五五)には琉球製の進貢船が用いられるようになり、その後、進貢船は自国での海船建造へと移行していった。」(P71〜72)

 とりあえず、この自前の海船建造とは、やはり豊見山の語る如く「小土船」(マーラン船程度のもの)なのでしょうか。



【2004.5.25】
 東アジア−環太平洋における平和と連帯を踏みにじるかのように、国家的戦略はおろか見識すら持たない日本帝国主義・小泉政府は、普天間代替・辺野古移設のためのボーリング調査を強行せんとした。……ということで、5.16普天間包囲−人間の鎖行動と合わせて、辺野古の闘いにささやかなりとも協力するための、今回の沖縄行でした。短い時間でしたが、何度も高速道を往復しながら「小満芒種の沖縄」を肌に感じました。
 現地の沖縄タイムスが、5.16普天間包囲行動と辺野古座り込み行動を対立的に捉える報道をしていたのが気になりますが、「普天間の5年以内の返還とは、辺野古沖に一本の杭も打たせないこと」と壇上で声を振り上げた山内徳信さんのアジテーションが印象的でした。様々なネガティブキャンペーン(かっての「居酒屋独立論」もそうでしたが)は、なるべく気にしないようにしょう。

【座り込み住民に安堵と疑問の声/辺野古】(2004年5月17日沖縄タイムス)
 普天間飛行場の代替施設建設に向けたボーリング調査に反対し、名護市辺野古で座り込みを続ける住民・市民団体は、包囲行動の成功に安堵した。一方で、「県内移設反対」のスローガンが見送られたことに、「重要な時期に、なぜ辺野古が取り上げられないのか釈然としない」と疑問の声も上がった。/南風原町から来た松井裕子さん(53)は「辺野古移設反対と普天間返還は一セット。一回目に失敗して心配したが、つながってよかった」。「琉球諸島を世界自然遺産にする連絡会」世話人の伊波義安さん(63)は「動員の数合わせのため、辺野古を前面に打ち出すのをためらった。妥協を重ねたごまかしでしかなく、今回は参加する気になれない」と厳しい表情だった。

 ヤマト・ウチナー関係の距離感をともすれば見失ってしまいがちですが、「過剰な思い入れは迷惑だ」と、はねつけられてしまうことに戦々恐々としている、と言っても過言ではありません。とはいえ、抜く「ガス」もないのに、「ガス抜き」と言われても狼狽するばかりですが。
 もちろん、そうしたことに直反応し、一喜一憂する風游子に対して、「『熱い思い』と『沖縄の消費』の異なりは、いまの程度のつきあいでは解消できないはず。自立解放闘争の爆発の彼方にしか、同志的関係は生まれないよ。それぐらいがまんできないでどうする。」というお叱りのメールも戴きました。しかし、「がまん」して創られるようなものは「同志的」とは、呼べないのではないか、私はと思ってしまうのです。

 5.15のOMB企画『琉球電影列伝』aftermath―仲里効さんを囲んで―は、従来のヤマトからの参加者が過半を占める集会とは異なり、ウチナーンチュの方々の多数の参加で「成功」裡に終わりました。やはり「琉球電影列伝」と、それをほとんど独力で準備したと思われる仲里さんあっての「成功」だったのでしょう。
 「短い時間でしょうから戦前のニュースフィルムをセレクトして貰えると嬉しい」と主催者のOMBの皆さんに伝えておきましたが、戦前の南進政策・戦意昂揚のプロパガンダ映画『海の民』(1941年制作)はとても見応えのあるものでした。風游子がずっと注目している「帆掛きサバニ」の映像も見られたし(笑)。

 掲示板にも書き込みましたが、奈美子さんの「屋嘉節」も堪能できたし、帰ろうとする私たちを引き留めて、大城美佐子御大が「白雲節」を唄ってくれたり……、レキオスでの歓待も感激物でしたし、はたまた最終日は、例によってシーサーハーのアキヨシの助手を務めながら、知念村のMさんにも会えたし、充実した3泊4日でした。(レキオスで詩誌「飛燕」ゲット!)



【2004.5.15】
 はてさて、32年目の「5.15」である。


[2004.4.24]
 『海と資本主義』(東洋経済2003)所収の永沼博道「海の原理とネットワーク共同体」より。

 「ヒトが船を手に入れたとき、海はコトとモノが行き交う主要な交通路となったのである。峻険な山や谷、深い森によって往来が妨げられる陸地よりも、はるかに容易に人々は往来することができた。平野であっても敵対者や獣に脅かされる陸地に比べて、海はより安全に移動すること可能な空間であった。」
 「砂漠のオアシスは、海における島であり港である。砂漠もまったくの無人の空間ではない。しかし、そこに暮らす遊牧民にとって、遠隔地貿易は不可欠の存在ではなかった故に、交易はオアシスの民によって担われていた。海上の遠隔地交易を担う人々もまた海に暮らす漁民ではなくて、海のオアシスたる海港都市の住民であった。」
 うーん、してみると、琉球に「海港都市」があったのか否か。


[2003.12.24] フクギ
<あるメーリングリストでの話題です。勝手に抜粋。>


[2003.12.21] マーラン船
 「手作りサバニの作成」が頓挫した今(「そんなことは始めから分かっていた」とは、知人・友人・家人の声)、「夢」を追うなら、マーラン船!とつぶやいていたら、沖縄タイムス<2002年4月1−2日>> に板井英伸さん(沖縄民俗学会会員)という方が「明治期に起きた馬艦船の変化」を寄稿していた。県立博物館で、大型ジャンクである進貢船の隣に、「子どもジャンク」のような「馬艦船(マーラン船・山原船)」が並んでいた。


[2003.11.23]
 前回ちょっと筆が先走りすぎたか、もう少し琉球史を学ばねば、と思っていた。以下に紹介するのは、『日本の中世5北の平泉、南の琉球』(中央公論2002)の第2部南の琉球(豊見山和行)の「5アジア世界のなかの琉球」である。
 そこで豊見山は、「1570年を最後に東南アジア貿易から琉球が撤退した理由」として、次の4つをあげている。(大交易時代の終焉!)
 「第一に、明朝による海禁が1567年に緩和されたこと」。中国の民間商船による東南アジア交易の拡大によって、「琉球(王国)の優位性が大きく低下した」。「第二に、ポルトガル勢力の東南アジアへの進出による影響」。1511年には、マラッカがポルトガルによって占領された。「内的要因として第三に、琉球の交易に従事する華人集団の久米村の衰退」。1579年には「現在のビン人は、わずか七姓に衰えている。」(冊封使・謝杰)
 「これに加えて、前述の明朝による海船支給の打ち切り措置、そして琉球船の小型化もその要因にあげられる。」とある。そして、豊見山は「琉球は小土船を建造できたにもかかわらず、大型船を建造できなかったのはなぜだろうか」と自問しつつ、「ともあれ明朝の優遇策に浸っていたことの代償が、このような形で現れたといっても過言ではないであろう。」と締めくくる。

 吉元政矩の政治構想や、宮城弘岩の経済構想もさることながら、「陸のアジア」に隣接した琉球が北東太平洋〜東南アジアへとその翼を広げることが、いかにして可能か、あらゆる意味で縮小しつつある世界・地球を前に、島嶼国家の展望を見据えて。


[2003.11.19]
  なかなか刺激的な本に出会った。白石 隆『海の帝国』(中公新書2000)である。これを知ったきっかけは、この間新たな角度と切り口で沖縄問題を照射しつづけている東京外語大学の上村忠男さんに教えられた『歴史を問う6歴史の解体と再生』(岩波書店2003)所収の座談会の中で上村さんが言及していたことに縁る。
 琉球王国−大交易時代という「ロマン」の浮上が、懐旧談としてエピソード的に消費されて以降、提唱者たる高良倉吉自身は、日本に隷属することで沖縄の未来を考える地点まで後退し(「沖縄イニシアティブ」)、新たな「大交易時代」を構想した吉元が退けられ、今、沖縄は「閉塞状況」を迎えている、といっても過言ではない。

 『海の帝国』は「アジアをどう考えるのか」という副題が示す通り、東南アジア地域(白石はインドネシア研究が専門らしい)を中心に海のアジアとして見直そうとするものである。もっとも言及は乏しいが、濱下武志を援用し、オホーツク海から日本海・東−南シナ海を経てマラッカ海峡までを「海のアジア」として捉え、そこでの近代的秩序の形成のスタートを帝国主義−植民地支配としてとらえ返す。
 さて沖縄はどうか。この「海のアジア」の中で沖縄はどのように位置付けられたのか。沖縄の未来を「内発的発展と海洋ネットワーク」(松嶋泰勝)として展望することが可能なのか。それは前述した「大交易時代」における琉球王国の繁栄も、陸の帝国=中華帝国への冊封−朝貢体制に組み込まれていたが故であって、それを離れては繁栄はなかった。(高良は歴史の教訓をここから得たのか?)
 ただ、そうなると果して沖縄は海洋民族であったのか、といえば疑問が残る。倭寇からキャプテン・ドレイクまで、「海商」と「海賊」は同じようなものであった。どの本を紐解いても「琉球民族」の猛々しさは見当たらない。白石の本に出てくる海商であり海賊でもある東南アジアの海洋民たちと較べて見ると、レキオ(ス)たちは余りにも優雅で優しい。ここでは「守礼の民」は蔑称でしかない。多くの識者が引用するトメ・ピレスの『東方諸国記』(岩波書店『大航海時代叢書』)の中の文章こそ私に疑念をもたらした。「彼等はたえずそれ(ジュンコ=ジャンク型の船)をシナから買い入れている。彼等はそれ以外に船を持っていない。」
 彼らは、海洋交易用の船を宗主国=中国から買い入れるだけ!自前の船は、「小舟(サバニ)」だけ!
 サバニという、南太平洋の島嶼民に共通する、世にも美しい小舟は、しかし、漁民のものである。例え「帆掛け(ふうかき)サバニ」で遠くフィリピン沖まで出掛けたとしても、サバニは決して「交易−海商・海賊」用の船ではない。もちろん島津侵略以降の植民地的隷属を強いられて以降、近代に至る過程は更に琉球民族の「海洋民族」としての牙を抜いた。

【いやー、サバニに気をとられすぎて、馬艦まーらん船=山原やんばる船のことを失念していました、もっとも沿岸地域で活躍しただけらしいのですが。お恥ずかしい!せっかく県立博物館のまーらん船の前で写真を撮ってもらったのに。もうひとつ付け加えると、風游子、わざわざ与那城にまーらん船の模型を見に行ったのです。】

閑話休題:沖縄の知人たちの中に、かなり「カナヅチ」がいることに驚いた。「だって貧しいから、学校にはプールがなかったさー」と言われてしまった。キャプテン・マックに今度あったら、このあたりを是非聞いてみたい。


[2003.10.24]
 さて旧聞に属するので紹介するのに気が引けるが、沖縄タイムスの「いくつもの自画像/新たな起点に立って」という連載コラムに仲地博が今年2月の二回にわたって「『沖縄自治憲章』から20年」と題して執筆している。2月24日の(上)には、「拒まれた地域個性宣言/『歴史は変わった』と実感」、25日は、「追い立てられる市町村/合併論議の前に県は将来像を」と小見出しが付されてある。
 その中で仲地は、「玉野井沖縄自治憲章案」に対して「平和を創る沖縄百人委員会の長老」たちの「独立しようというのか」「また戦前のように差別された特別の地域になる」「国に訴えられたらどうするか」という激しい批判(非難)の中で、最後は百人委員会幹部の「この運動をやるのなら百人委員会の委員を降りる」という発言に至り、「百人委員会をつぶしては元も子もないと、かくして自治憲章は封印された。」と書く。
 現在彼は、若手研究者、地方議員、行政マンを中心にした沖縄自治研究会の「顧問格」(失礼!)として、参加している。彼らの2003年度後期日程はトップページにアップしたが、沖縄独立を全面に掲げた沖縄日雇労働組合を中心としたグループと、反戦反基地・市民運動のグループ、そして「100年後」を見据えたうるまネシアグループといった様々な潮流と、「リアルポリティックス」に肉薄する(?)沖縄自治研のグループの横断・横結、連携・連合は如何にして可能なのか。さらに琉球弧の先住民族会(Association of Indigenous Peoples in the Ryukyus)に集う20代の若者たちとは……。



[2003.8.28]
 さて、今回の沖縄行は「沖縄講座・シーサーハー」のAKIYOSHIの助手となり、磁石で方位を、巻き尺で高さや長さを測定しながらの「路傍の石獅子」巡りも重要なイベントでした。
 それぞれの市町村の教育委員会やら郷土博物館やらに押しかけ、いろいろお世話になりました。AKIYOSHIに成り代わり、御礼申し上げます。
 ゆくゆくは「路傍の石獅子」を蘊蓄たっぷりにご紹介するつもりですが、仲々本人がもったいぶって、やろうとはしません。というわけで、その中の1枚をご紹介します。
 8月15日、ゆいレール・儀保駅で下車。真嘉比川のジブガーフィージャー(宝川樋川)を見学し、竜潭池を巡り、弁財天堂・円鑑池を経て、首里城を通り過ぎる。そして崎山御嶽に立ち寄ってから、今日のメインエベントのシーサーに向かう。
 首里城東南に位置する、このシーサーは、御茶屋御殿跡に移設されたものですが、ご覧の通り、立派な姿形をしており、隣接する雨乞い御嶽と並んで、素晴らしい景観を形作っていました。後ろを見上げると首里城の石垣が聳え、前には、海と那覇の街の広がりを眺望できる場所です。クソ暑い中、あそこかな、いや違う、と散々引き回されたあげくに辿り着いたのですが、結果よければ全てよし、という言葉がぴったりのシーサー探訪でした。この後、十何品という食べきれない沖縄料理と泡盛のみ放題で3000円の石畳の「石畳」(金城村屋・大樋川の向かい側にあり、なんとあの平敷屋朝敏の屋敷跡に建てられたお店とのこと。)で、夕食を摂りました。



[2003.8.20]
 8月17日、県立博物館で波照間のムシャーマでのミルク・ミチスネーの写真を眺めながら、「このミルク様の行列を見てみたい」と友人に話しかけていたら、赤ちゃんを抱いた若いお母さんが、「今日、赤田で、ミルクウンケーがありますよ」と教えてくれた。早速、受付に行き、訪ねたところ、赤田クラブ(公民館)を紹介された。赤田町自治会が10年前に「ミルクウンケー」を復活させたという。スネーイ(道ジュネとは違うのでしょうか?与那原町の大綱曳資料館ではスネーイ=示威行進との説明あり。)は、午後4時からとのこと。全島エイサー大会の前半を犠牲にして、このミルク道スネーイを見学。
 寿kotobukiでおなじみの「赤田首里殿内あかだすんどぅんち」のメロディーに乗って、ミルク様が子ども達(ミルクングァ)を引き連れ、スジグワァを練り歩く。中学生?の男女がドラ(チャンチャン)とラッパ(ピーラルラー)と小太鼓(クー)の楽器の担当。これを路次楽と呼ぶそうな。そして、その後ろに小学生以下の子ども達がムカデ(ンカジ)旗を持って続く。道には赤ちゃんを抱いたお母さんがミルク様から祝福を受ける。おばあさんも同様にミルク様が手に持った団扇で頭を撫でて貰う。でも中には、ミルク様の豊かなおなかを撫で撫でするおばあさんもいた。そんな風に、ミルク道スネーイは1時間ほど首里城の城下である赤田町を1周する。
 その後、赤田クラブの狭い庭に設えた舞台で奉納芸能(ウトゥイムチ)が執り行われる。私たちは、コザの全島エイサー大会を見学するために5時前に首里赤田を後にせざるをえなかったが、そこで入手した「赤田みるく 復興の記録」は貴重な資料です。

 今回は、コザのエイサーに、塩屋湾のウンガミ、そして赤田のミルクウンケーと充実した沖縄行になった。合間に石獅子(路傍のシーサー)もたっぷり見学したし……。もちろん、「なんた浜」で饒辺愛子さんの「肝愛さ」を聴き、「島思い」で大城美佐子さんの「白雲節」を聴き、極めつけは千鳥の店。CD2枚ゲットし、那良伊千鳥さんの「月ぬ美しゃ」をたっぷりと聴かせていただいた。おまけに「童神」も。「島つんださー」を今度は是非ともリクエストせねば。もちろんまるみかなーもレキオスも、石畳にも行きました。



[2003.8.6]
  八重山ネタです。
 『沖縄を深く知る事典』の中で「島は一つ一つの独立王国・ヤマト世30年の検証」と題して、森口豁・仲里効が対談。

 仲里:島々の風景が変わり、そこに住む人も代わり、祭りさえ変わって文化と言われるものまで形を変えていく。ヤマト世30年で島を成立させてきた“根”自体がどんどん空洞化され、薄くなっていく。これは過疎など離島が孕んでいる問題からくるがゆえに難しい対応が迫られているとは思いますが、特にそういう現象が顕著なのは八重山の島々ですか。
 森口:石垣をはじめその周辺の八重山が多い。もちろん宮古が好きで住み着いている人もいるわけだが、人口比率を変えるような形で増えているのは八重山ですね。


 これに金城朝夫さんの「やっぱり沖縄は日本から解放されるべき」(うるまネシア第4号02.7)という文章からの引用を付け加えよう。

 筆者は、石垣のタウン誌に大和人は主張する権利はあっても決定権は三代目からしかない。沖縄、宮古は同じ琉球文化圏だから二代目から決定権はある旨の小論を書いたら、八重山に住む大和人から猛烈な反論があったようだ。/わが沖縄人と大和人とは共有する歴史が余りにも違う。きのう、きょう来た大和人が大きな顔をして沖縄を支配し始めるとあのぎすぎすした大和と同じになる。彼等もゆとりのある沖縄が好きなはず、であればあせらず沖縄に従うべきである。

 もう一つ、八重山ネタ。  八重山の知識人として注目している大田静男さんが、同じく『沖縄を深く知る事典』の中で、「先島のアイデンティティ」と題して、次のように述べる。

 八重山は、古代から統一国家を形成することなく、琉球王府や幕藩体制、日本、米軍、日本への再統合と被支配者の道を歩んできた。先史時代の遺跡からは鏃などの武器は出土しない。それゆえ、首里城などのような、人が人を支配する世界遺産などない。……/八重山の民はグスクのような世界遺産を持たない事を誇りにすべであろう。天皇という異教教育のために村落共同体の精神的支柱である御嶽の敷地を切り、学校となし、その果てが軍人という殺人者に仕立て上げられたことを反省すべきである。
 ……戦後、国家に放棄されながら自力で八重山人民政府を誕生させた。国家がなくても民衆が生きることが出来ること(を)証明した。そのエネルギーを噴出させない限り、国家や観光資本に食い荒らされるだけであろう。


[2003.8.3]
 ヤマトではやっと「梅雨明け」の報が……。
 またまた沖縄ネタではないが、『情況8-9月号』に、長崎浩さんが「戦後という歴史」で巻頭に登場。「『<民主>と<愛国>』(小熊英二)によせて」という副題にも惹かれた。小熊英二著『<日本人>の境界』は、明快な論理と「あの時代」を彷彿とさせる筆致で「これは読んどいた方がいいよ」などと口走ってしまった本でもあった。
 さて、その小熊を長崎さんがどう料理するのか。結論からさきに言えば(というより、これは長崎さんのやり方。)“先に見た戦後史の「呪縛の構造」、いまにいたるまでわが国民を縛っている縄目の由来が、これでは探り当てられない。”ということになる。彼はしかし“従来なら、歴史が自家中毒で身動きがとれなくなるときは、動乱と革命が予測される。そうした力を借りなければ、歴史は自らの歩みをリセットすることができない。だが、内乱の予感はない。/どこでどうして、こういう事態になったのか”と自問し、「60安保闘争と高度成長の時期」を示す。否、それだけである。これでは「探り当てた」だけである、と言うしかない。極論すれば「権力体験の確かさ」(長崎)を知らない、全共闘よりもずっとあとの世代に属する小熊英二に「戦後史を教え諭す」だけにしかならないのではないだろうか。
 長崎さんの筆法で言えば、私なんぞは「高度成長と全共闘」 (「国民の終焉」か)という回答になるが、しかし、「ダカラヨー」とつぶやくしかない。もっとも本音を言えば「ねぇ、レーニン」というところか。

[2003.7.19]
 久しぶりに「Okinawan Theatre」を覗いてみたら、「沖縄の芝居」というサイトが紹介されてあった。沖縄県がOTVなどに委託してできたものらしい。○沖縄の芝居とは1心情別演目 2シーン別演目 3形態別演目4時代背景別演目 5地域別演目 6芸能家別演目7演目一覧演目 8沖縄芝居の歴史 ○沖縄の芝居 特別撮影映像というコンテンツで、リアルプレーヤーで「名作歌劇」や「名優」などが紹介されている。さっそくわがリンク集に入れてしまった!

[2003.6.23]
 もう6月25日になっています。
 何度目かの「6.23」ですが、ここ数年来、脱力化傾向に陥っている私にとって今年ほど沖日労(沖縄日雇労働組合)の「安保粉砕!軍事基地撤去!天皇打倒!沖縄解放!」のコールがしみじみと胸に沁み込んできたことはないのではないかと思われました。「月桃の花」を歌うんだったら「さとうきび畑」の方がいい、なんて思ったら、いつの間にか「インターナショナル」を口ずさんでいました。周りの友人たちも期せずして歌い始めていました。嬉しくなってしまいました。ついでに「ワルシャワ労働歌」も……。

[2003.5.15]
 このサイトは言わば「沖縄限定」でもあり、この頁は「EMIGRANT」などと粋がっているのであるが、「移住計画」(笑)は頓挫し、ここ数年の沖縄「理論的実践的体感」は 気力を減衰(泣)させてきた。というわけではないが、乞う「閑話休題」!
 今、読み終わったばかりの「本」のホンの紹介。(小説の類も含めて「沖縄本」に偏ってきた読書傾向だったが「ファン心理」とは恐ろしいもの。本屋で目に付いたら思わず買っていたのです。もっとも「ツンドク」状態だったのですが……)
 その本とは『上野千鶴子対談集・ラディカルに語れば…』です。平凡社2001年10月24日初版。

 「足場のない未来への投企─あとがきにかえて」から抜き書きを少々

 竹村和子さんを、多くの読者は理論の人、と思うかもしれない。その含意は思弁的で非実践的、というものである。……/…竹村さんは「連帯の政治」について、こう書く。/「一気呵成の、あるいは連帯の熱気のなかの解放はもはや望むべくもないが、局所的で偶発的で内主体的な攪乱が、間主体的な新たな政治組成を生みだしていくように思われる。」/それでも「だからどうしろと言うのだ?」といういらだちが、運動の担い手からもれおちるだろう。彼女は注意深く「組成」ということばを使い、政治「組織」とは呼ばない。「政治」がアイデンティティやセクシュアリティ、そして心理の現場で実践されるものならば、これまでの闘い方とは異なる闘い方が要請されるのは当然であろう。「それはどこにあるのか?」と問う前に、まだ見ぬものへの想像力をこそ、わたしたちは「理論の力」と呼ぶ。

もう一つ。

 足立真理子さんは、孤独な戦士である。社会科学の分野では、経済学にジェンダー分析はいちばん最後に入った。うらがえして言えば、経済学は学問としての自律性をもっともつよく持っており、フェミニズムのインパクトに対して頑強に抵抗してきた。抵抗というもおろか、歯牙にもかけず黙殺されてきたのである。……/フェミニスト政治経済分析をめざす「過程は、もしかしたら、『政治経済学』という、みずからの仮構された〈起源〉を曝すものとなるのかもしれない。」/足立さんのこの末尾の一文には、ゾクリとさせられる。このひとは、ほんとうにラディカルである。

 もう一人の対談相手である大沢真理さんについては、故坂内仁さんの「私の出番は終った」という絶妙の警句を思い出した。(MRレビュー5)
 較べるのも不遜だが、彼女らの闘い(「学者」とは言うまい。)に比して、私(たち)はどのような軌跡を残し、いま、ここに在るのかという感懐にかられてしまった。森崎和江−田中美津−上野千鶴子……こう並べたら怒る人も出るかな。


[2002.11.22]
 「沖縄民謡」=「島唄」の世界は、ネーネーズや大島保克から始まり、「寿[ナビィとヨシミツ]」や古謝美佐子の「追っかけもどき」として、はまっていったが、「組踊」や「沖縄芝居」も是非、体験したいと思っていた。そうこうするうちに、ひょんなことから、この間、沖縄の演劇シーンに造詣の深い「Okinawan Theatre 沖縄演劇の魅力」の管理者=与那覇さんとネット上で友達になることが出来た。
 与那覇さんが注目している「坂手洋二」なる劇作家・演出家が、復刻された竹中労の『琉球共和国−汝、花を武器とせよ!』の解説を書いているの見落としていた。ましてや「他に誰もいなければ、沖縄女性と結婚した沖縄婿(ウチナームーク)である私は、喜んで氏(竹中労)の後継者となろう。」とまで言っていたとは。それに彼の新作(「ブラインド・タッチ」)が、あの獄中結婚した「○○○○」がモデルであると知って少し腰が引けたのかも。どうも「××派」は苦手です。


[2002.11.17]
 「県知事選」も予想通り「買弁稲嶺圧勝」。ダブルスコアどころではない。吉元さんが「自立沖縄」を目指す政治家であるならば、「琉球自治政府構想」を再度、練り上げ、「革新再結集」などという悲喜劇を演じるのではなく、「買弁・併合VS自立・独立」の分水嶺を沖縄のあらゆる潮流へ持ち込むための努力をすべきだろう。
 「居酒屋独立論」などという矮小な批判によって、「自立・独立」をめぐる政治協商への足掛かりへの論争の契機が失われてしまったが、制度圏・運動圏に加えて、思想・文化・生活圏も包み込む壮大な時空を構想し得ないものだろうか。

[2002.10.6]
 『うるま』10月号の特集は、なんと!「石垣島で暮らす。」です。『うるま』の「沖縄に移住するとしたらどこに住みたいですか」というアンケートの中間集約(132通)で、「3位が宮古島、2位が他を引き離して那覇市、そして1位は!」と、オドロキマーク付きで「石垣島でした!」。
 石垣島は古い集落(四個字?とか、川平)は別にして、他島からの移住者によって開拓された集落が多く、いわゆる「よそ者」に対して「寛大である」という話は聞いていたが、台湾からの移住者もあり、地元タウン誌『やいま』編集長の那根真さんは「そういう意味でここは、八重山合衆国。」という。
 米原で「coffee&pasta」の店を経営している移住歴7年の人の述懐。 「自分の人生って50歳くらいになると見えてきますね。…(退職までの)10年がもったいなかった。」。だから、どうだというわけではありませんが。

[2002.6.9]
 サバニのページをとうとうアップ。
 「沖縄の舟・サバニ」ゲット!自費出版(頒価2000円/白川勝彦住空間設計室FAX03-3426-5179)とはとても思えない本格的な造本で、「はまるというのは、ここまでやることだなぁ」と妙に感心しました。1/5縮尺(艇長1400ミリ)の模型まで古来の方法で作ってしまうんですから、脱帽。
 泳ぎも達者ではありません。舟にも強いとは言えません。ヨットなんか、一度「芦屋の浜」で小一時間乗ったくらいです。(その時、横揺れ防止の「センターボード」なるものがヨットに必要だと初めて知りました)でも、海は好きですね。
 一つは無人島での生活なんか「憧れ」ます。念のために云うとは、私はアウトドア派でもありません。もう一つは、海洋もの。帆船、海賊船、八幡船とか。アラン・ドロンとリノ・バンチェラの映画「冒険者たち」の中の大型ヨットでの「宝探し」のシーンはいつ見ても爽快です。不純な動機もありました。それは「密輸」「密航」です。「マリンスポーツに興じているヨットなら、海上保安庁も見過ごすだろう」とか。そして何よりも、まったく束縛されず、何処へでも自由に行ける、という大海原に対する感懐でしょうかね。
 そんなこんなで、帆船で島巡りをしつつ、ゆくゆくは本格的クルージングで沖縄−台湾間や沖縄−横浜間を帆走。手始めに「手作りヨット」でも作成しよう、というのが計画の第一歩。海も舟も日曜大工さえ全くの素人がはてさてどうなることやら。まずは白川勝彦さんの経験と、「舵」の「10万円で出来る手作りヨット」を参考に、まず、1/10モデルの「風游プレ1号」を作成しよう。

[2002.5.15]
 「再併合30年」とは、何だったのか。
 「沖縄の元気を伝える亜熱帯マガジン」と銘打った『うるま』に「みやじゃと・うんぶー」さん(あの宮里さんです)が「ウチナー的沖縄」というコラムを連載している。その52回(02.7月号)で、『情況』6月号での田仲さんと同じように「静かな30周年」に触れているが、「復帰20周年」は、成人式みたいなものだから盛り上がりもするが、30歳の誕生日などお祝いをした記憶がない、とあっさり片づけてしまっている。でも、20年も静かだった。ただ、「25年」は違っていた。何しろ政府式典は「5.15」には挙行できなかったのだから。『沖縄が独立する日』『沖縄独立宣言』、そして「沖縄独立・激論会」が2日にわたって延べ1000人を集め、その余韻(?)は「居酒屋独立論」論争まで続いた。
 ただ「30年」の今年の「5.15」は、平和市民連絡会の「有事=戦争法制を考える市民の集い」が那覇市・てぃるるで200人足らずの参加者によって開催されただけだった。こういってよければ「生活苦と民主主義的諸権利の剥奪」という状況の打開を「日本帰属」に求めた30年前の「祖国復帰運動」の総括は、もはや誰にとっても遠い過去となったのだろうか。軍事属領下での植民地的支配としての「本国依存」の強化は、「自己決定権の剥奪」と「自治の精神の衰退」(沖縄自治研シンポ)を見せつけている。5.19の日本政府と沖縄県の共催で開催された「式典」反対闘争は、その大半の参加者が「ヤマトからの外人部隊」であったこと(その「外人部隊の一人」でしかなかった私だが)なども含め、忸怩たる想いを禁じ得なかった。

[2002.3.5]
 もう、うりずん。八重山では「海開き」の声が聞こえ、「タイムス」では、「もう3日も夏日」なる記事が見受けられる。
 名護の惨敗は「予想」していた事とは言え、「ひょっとすると…」などと甘い期待も抱かないではなかったのだが。(今、石垣市長選では現職の大浜圧勝の報も。)「復帰30年」、紛れもなく日本への軍事属領としての再併合の30年だった。絶望的な「依存(経済)」を基礎に、流行(はやり)の言葉で言えば「ポストコロニアル」ってか。もっとも川満信一さんが、「外から勝手に名づけてくれる島」と自嘲したように、希望も絶望も表層を撫で、そして、「まーかいが沖縄」。しかし、「何処へ行く」と問われなければならないのは日本(ヤマト)だ。
 自戒をこめて、たゆたうこと。誤解を恐れず言えば、沖縄にないものはいっぱいある、にもかかわらず、沖縄でなければならないのは、「南であること」かも知れない。

 閑話休題/OMBに連帯して―地に響く群集の声

[2002.1.1]
 そもそも「21世紀」なんてのが理解の外であったのに、もう2002年である。確か40歳を迎えた「年賀状」(まだ、その頃は気まぐれで出していた)に、「馬齢を重ね、脾肉の嘆をかこつ」なんて書いた覚えがあるが、いやはや。
 さて、今年は名護市長選を皮切りに、秋の県知事選に至るまで、沖縄は「選挙の年」である。そして1972年5月15日の日本への併合以降30年を迎える。ちょうど、この10年、転換の時代であった。25周年5.15の「沖縄独立の可能性を問う激論会」から5年、日本−沖縄は何処へ行こうとしているのか。
 風游子の「移住計画」なるものも、しばし幕間狂言に委ねざるを得ない仕儀と相成りました。このサイトも当分、このまま続けます。どうぞ、本年もよろしく。

[01.10.24]パンパカパーン!今日は風游子の誕生日、「めでたく(泣)」定年の歳を迎えました。もう、こうなったらなりふりかまわず、人の迷惑省みず、THE SEVENTH BRIGADEを旗揚げしましょう。

[01.08.06]もう8月です。いったいSEVENTH EMIGRANT は何処へ行ったのでしょうか。何て言う愚痴はやめてもう少し前向きに考えましょう。と言うわけで、私こと風游、一度も乗った事の無いのに「ヨット」の本やら「和船」の本やら、はたまた「帆掛け=ふうかき=サバニ」の新聞切り抜きやらを集めて、こっそり読んでいます。「ウォーターワールド」のカタマランも良かった、何てね。
 「10万円で出来る手作りヨット」なんてのも私の資料集にあります。そう、「小型船舶」の免許も取らなければ…

[01.07.14]素敵な写真集です。どうぞ、堪能して下さい。私の親友です。(「あ」なんて言うハンドルネームはやめましょう。)どうやら、恋人と二人でたゆやかな時間を過ごしたようです。でも彼は「冬は稚内だ!」と言ってますけど。

[01.06.21]念願の波照間です。石垣島から 琉球エアコミュータ(定員19人・操縦士2人、もちろんスチュワーデスなんておりません)に乗って鳥のように、島々を眺めながら……。いいですよ、エアコミュータは。冷房が無く全座席に「持ち出し禁止」と書いてある団扇が備え付けてあって、タラップは紐で持ち上げ、離陸は二人掛かり(?)で、何しろ低く飛ぶのですから。
 ざわわざわわ、と ウージの甘い風が流れ(ホントに風が甘いのです!)、容赦無く照りつけるティダの島でした。片隅に「櫻画報」がある、クモとヤモリと珊瑚(猫の名)のいる パナヌファでは「泡波」を飲ませてもらいましたよ。 マスター、泡盛の味もよく分からない客に、ありがとう!ここで「ギジムナー」のTシャツを買いました。(波照間良美さん画)

[01.06.04]私も波照間に行きます。6.23にかこつけてですので、たった1泊。琉球エアコミュータに乗るのです。

[01.04.22]友人が私に断りもなく(?)一人で、八重山・波照間に「遊び」に行ってしまいました。写真付き(とても素敵な写真です)のメールを勝手にアップしました。残念ながら私は波照間にはまだ行ったことがないのです。トホホ

[01.03.01]那覇・古波蔵のむかし洞古書店主さんからの投稿を「山羊汁」にアップしました。読んでみて下さい。私は山羊は駄目です。です。

[01.02.07]あきらめました。ということで、01.01.01メモは削除しました。ただ、痕跡は残したいと思います。さて、本当はTHE SEVENTH BRIGADE としたかったんですが、「顰蹙」を買うと嫌だからやめました。例えば「ジョージ・オーウェル」とか「ジャック白井」とか、「ヘミングウェイ」(というよりはゲーリー・クーパーですかね)を気取ってみたかったんですけどね。

[01.02.04]訳がわからず文字化けしてしまいました。初心者としてはいろいろやってみたのですが、まったくお手上げ状態です。トホホ。どなたかお教え下さい。

[01.01.01](文字化け削除+痕跡)
「2001年沖縄への旅」1・職場を辞められません。2・家族は無視してます。3・友人は無責任に煽るか、反対するかの両極端。でも、移住しますよ、断固として。

シーサー三線(サンシン)

↑この素材の作成者のホームページもどうぞ(フリー素材満載です。)

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