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【2008.12.24】 松田賀孝「地方自治を考える=琉球政府よ、復帰後も“政府”であれ=」を読む
 1970年10月の14日と16日の2回にわたって、『沖縄タイムス』の「論壇」欄に、松田賀孝が「戦後の苦悩の歴史の中で、われわれはかけがえのない貴重な体験をした。それは、みずからの政府をもったということである。」と書き出す、「地方自治を考える =琉球政府よ、復帰後も“政府”であれ=」という論考を掲載した。第三次琉球処分を目前、反復帰・自立論が生み出される一方、こうした自治・琉球政府論も取り交わされた。かつての大田県政での副知事・吉元さんが「私たちは政府を動かしていた経験がある」と講演会の度に「豪語」していたのを思い出す。「異民族支配」が「米軍政支配」と同義語であったのだが、今、「国連」での「琉球民族=先住民族」勧告など、時代は確実に転換してはいる。
 島津侵略から400年、さらに第一次琉球処分から130年を経て、沖縄の自立解放への胎動は、東アジアを見据えて確実に動き始めている。


【2008.11.22】 「ゆいまーる琉球の自治の集いin西表島 宣言」を読む

ゆいまーる琉球の自治の集いin西表島 宣言 

 私たちは、2008年11月14日から16日まで西表島で開かれた、「ゆいまーる琉球の自治の集い」に参加し、八重山諸島が抱える諸問題について考える機会をえた。集いでの議論を踏まえて次のように宣言する。
 現在、八重山諸島は「南の楽園」と呼ばれ、リゾート、ホテル、アパート等の建設が相次いでいる。石垣島白保にある青サンゴの群落も陸地からの赤土流出によって大きな被害を受けている。このままでは自然が無残に破壊され、住民は生活し文化を育む場所を失ってしまう。企業による住民を無視した横暴な行為を止めさせることができるのは、住民ひとりひとりによる「自治的自覚」にかかっている。企業誘致に島の運命をゆだねるのではなく、住民の自治によって島を守り、未来を自らの手でつくっていく必要がある。島を自らのからだの一部として生活し、島の過去・現在・未来に対し、責任をもって行動できるのは島の住民でしかない。住民ひとりひとりによる自治の実践が島を救うのである。
 西表島浦内では4年前に住民の反対を押し切って、ユニマット社は巨大リゾートを建設した。リゾートの汚水は地下浸透で海に流され、世界でここにしかいないトゥドゥマリハマグリが絶滅の危機に陥っている。海亀が産卵のために上陸する浜であったが、全く上陸しなくなった。地元民の雇用も少ない。さらにいまこのホテルを売りに出している事実もある。巨大リゾートを建設しても地域の活性化にはつながらないのだ。
 それにもかかわらず、現在、ユニマット社と、地元資本のドリーム観光社は同島船浮において、広大な土地を買い占めて巨大リゾートを建設しようとしている。ドリーム観光社は船浮に自生していた天然記念物のヤエヤマハマゴウを違法に伐採した。両社は、島の人々の生存権、生活権、環境権を無視して、資本の暴力を振り回すべきではない。数百年、数千年にわたり、地域の自然とともに生活し、文化を育み、自治を実践してきたのは島の住民たちである。一度破壊された風景や自然は二度と元には戻らない。船浮はイリオモテヤマネコが発見された場所でもある。竹富町は世界遺産登録を目指しており、船浮の開発が世界遺産登録にとって大きな障害になるおそれもある。

 住民の意思を無視し、自然を破壊するホテル、観光施設を「観光客」として利用し、「日帰りツアー」に参加することを、私たちは強く拒否する。外部の企業だけが問題ではない。他の島々においても、島内の企業と島外の企業が結託して島々の開発が進められるケースが少なからずみられる。内外の企業による島の開発を阻止することができるのは、島民ひとりひとりの「自治的自覚」である。
 日本各地に住む私たちは、現在の船浮で起こっていることを多くの人に伝えていく覚悟である。船浮の問題は、船浮だけの問題ではなく、西表島、八重山諸島のみならず、琉球全体、それから日本及び、全世界の問題であり、私たちひとりひとりの問題である。「自治的自覚」をもった人々の環を世界に広げていきたい。

2008年11月16日

 関連して、沖縄タイムス2008/11/20のコラム[魚眼レンズ]に松島泰勝さんさんが次のように語っています。

住民無視した開発に反対
 地域の自治のあり方について議論する「ゆいまーる琉球の自治の集いin西表島」を終えた龍谷大学准教授の松島泰勝さん。
 十四―十六日に西表島に滞在し「参加者全員で住民の意思を無視した開発に反対する宣言文を採択した」と開催の意義を強調する。
 「集い」では、日本全国や県内各所から二十五人が参加し、八重山の開発問題について意見交換。石垣島の他の自然保護団体や市民団体も参加し「西表島(船浮)への支援ネットワークの広がりが確認された」。
 「資本の自己増殖運動が各島々に行き渡る中、住民として何ができるかを考えることは重要。今後も活動の輪を広げていきたい」と話している。


【2008.11.14】 新川明「国場幸太郎氏を悼む」を読む
 沖縄タイムス08年10月30日に新川明さんの「国場幸太郎氏を悼む」が掲載されました。

国場幸太郎氏を悼む

米軍圧政不屈の闘士
解放へ理論と実践けん引



新川 明


 久しぶりに宮崎県都城の国場幸太郎さんと隣県熊本の石牟礼道子さんを訪ねる計画をしていたところへ、国場さんの突然の訃報であった。
 思えば沖縄戦後史の“暗黒時代”と形容される1950年代の沖縄で、米軍の占領支配に抵抗する闘いの中心を担う沖縄人民党にあって、国場さんの存在は党外にいる私たちの目にも輝いて映っており、接したあとはさらにその人柄に魅せられて今日に至るまで兄事する存在でありつづけていた。
 東京大学経済学部卒の国場さんは、運動における理論的リーダーであるだけではなく、実践面でもたとえば55年の伊佐浜土地接収反対闘争の現場で地元の人たちと共に闘う闘士であった。
 いずれにせよ米軍圧政下の沖縄で解放運動の理論と実践の上で欠かせない人であった。そのため、白昼、バスの中から米軍情報機関(CIC)に拉致、監禁されて拷問を受ける受難も経験されている。そのような不当な弾圧にも断固として屈しない強靭な精神を持つ一方、学者肌で温和な風貌によって多くの人に敬愛され、たとえば56年に誕生した瀬長那覇市長時代には、首里支所長として「人民党」市政に対する市民のアレルギー解消に大いに貢献したといわれていた。
 その国場さんが人民党を追われたことを知ったのは1960年、当時勤務地であった大阪においてであったが、はかり知れない衝撃を受けたその夜のことを忘れることはできない。
 やがて国場さんを中傷する噂が流されてきたりしたが、上京したあと62年に「沖縄とアメリカ帝国主義」(『経済評論』同年1月号)や「沖縄の復帰運動と革新政党」(『思想』同2月号)などのすぐれた論文を相次いで発表、さらに翌63年には『日本読書新聞』紙上で「国場・新里論争」が展開されたことで、国場さんが心身ともに健全であることが世に示され、国場ファンは安堵したものだった。
 沖縄の解放運動をめぐって、歴史家の新里恵二氏とのあいだでなされたこの論争は、のちに岡本恵徳氏が「復帰運動の民族主義的傾向を克服して新しい解放理論の樹立をめざす動きを顕在化させた」(『沖縄大百科事典』)と総括したように、後年台頭する「反復帰」論の発芽へ連なるところもあったが、何よりもさきの沖縄人民党における「国場追放事件」が同党内の路線対立の結果であったことを知らしめたことであった。
 国場さんの終生変わることのなかった沖縄への熱い思いが形になった最大のものは、沖縄の歴史を児童向けに平易に、しかし独自の視点で書いた『沖縄の歩み』(73年、牧書店)だと私は思う。「若い人たちにこれだけはぜひ語り伝えたい」(まえがき)という思いを込めて書かれた同書は、「太平洋戦争のいきさつ」から入って「沖縄戦の悲劇」を詳述する章を巻頭に置くという異色の構成だが、内容もたとえば自ら体験したCIC拉致事件を14ページにわたって記録することで、当時の米軍支配の実態をリアルに描き出すという、類書にない特色を備えている。
 本文の叙述は70年の「コザ暴動」で締めくくられているので、「復帰」後の沖縄の社会と文化の変容を書き継いで増補版を上梓すべく数年前には原稿を仕上げていたが、出版事情が悪く刊行は日の目を見ることができなかった。その原稿執筆にあたってはたびたび意見を求められ、若干のお手伝いをしていただけに残念であった。
 なお、50年代に“抵抗の文学”を掲げて活動をした『琉大文学』の関係者として特に心に残るのは、大城立裕氏が本紙に発表した自伝「光源を求めて」(97年に単行本化)で、繰り返し『琉大文学』を非難していることに対して、「大城立裕『文学のたたかい』への異論」(97年9月23日)を本紙に寄せて、私たちを弁護してくれたことである。50年代の苛酷な状況を共に生きて兄事した先輩からのメッセージは何よりの励ましであった。
 今は訃報を前にひたすらご冥福をお祈りするしかない心境である。(ジャーナリスト)






【2008.10.25】 屋嘉比収「『反復帰論』を、いかに接木するか/仲地博「沖縄は単独で州をめざす」を読む
  今年5月18日に沖縄県立美術館で開催された<来るべき<自己決定権>のために−「沖縄・アジア・憲法」シンポジウム>の第一部での屋嘉比収の基調講演「『反復帰論』を、いかに接木するか―反復帰論、共和社会憲法案、平和憲法」(『情況』2008.10月号所収)と、「現代の理論・社会フォーラムNEWS LETTER 2008.9」に掲載された仲地博「沖縄は単独で州をめざす」をアップしました。
 前者はすでに当日会場で配布された「レジュメ」を採録していましたが、月刊『情況』10月号に全文が掲載されました。渾身の報告とも言えるもので、文字通り「反復帰論総括の基調報告」となつています。


【2008.10.4】 「沖縄タイムス」・連載「沖縄自治論の現在」を読む
 沖縄における道州制論議を精力的に組織している仲地博さんが、かつて藤原書店主催の松島泰勝『沖縄 島嶼経済史』の発刊記念シンポジウム(2002年9月7日)で、「復帰闘争以後」の沖縄(人)の<自治(意識)>の衰弱を嘆いていた。今回の道州制論議も、彼は当然の事ながら「地方自治」「行政法」の専門家としての焦燥はあるにせよ、沖縄(人)の<自立・共生・連帯>の新たな形成に向けた礎が念頭にあるのではないかと思われた。「単独州だろうと何だろうと、日本に虐げられ続けることには替わりはない」というニヒリズムや、怨念の発露でしかない「(沖縄)民族主義」の「鼓吹」に傾きがちな傾向への警鐘でもある、とかってに思っているが……。

道州制論議2◆(沖縄自治論の現在/沖縄タイムス2008.09)
 1 小橋川清弘「新たな「琉球処分」危ぐ/全県民で自治州像議論を」
 2 真久田 正「独立の気概」持ち議論/独自法で自己決定権行使」
 3 栗野慎一郎「嘉手納」跡に州都建設/南海道州で基地問題共有」
 4 濱里正史 単独自治州実現の好機/避けたい中央集権道州制」
沖縄道州制論議1



【2008.9.20】 南城市で「帆掛けサバニ祭り」
 いささか一時の熱気は薄れましたが、「サバニで風游」を喚起させる記事が沖縄タイムスに載りました。

●沖縄タイムス08.09.14

伝統の競漕 波乗り快走/16隻がスピード競う/南城 帆かけサバニ祭り

【南城】沖縄古来の海洋文化を地域活性化につなげようと、第二回帆かけサバニ祭り(主催・同実行委員会)が七日、市安座真のあざまサンサンビーチで開かれた。/帆をなびかせたサバニのほかに、アウトリガーを付けたサバニなど県内から十六隻のチームが参加。ビーチ沖に設定した三・五キロのコースで、速さを競った。/観客も楽しめるようにと、競技コースはビーチから目視でサバニを確認できるよう設けた。好天にも恵まれ、多くのチーム関係者や観客などがレースを楽しんだ。/試乗会も企画され、百人近くの来場者がレースに参加したサバニに乗り、潮風を浴びながら沖縄伝統のサバニの魅力を楽しんだ。/上位チームは次の通り。(1)海想(2)純礁(3)新夏丸

 沖縄の海邦文化の復権も兼ね、真久田さんたちが仕掛けた、座間味−那覇間の帆掛け(ふうかき)サバニレース[=正式には「サバニ帆漕レース」といい、6月29日に行われた今年の大会が代9回目を数える]の伝播を示すように、南城市でも行われていたのですね。こちらはビーチ沖に設定した3.5キロのコースだそうで、浜から観戦できるようです。


【2008.9.15】 仲地博「道州制論議はアイデンティティの確認か」を読む
 沖縄県の沖縄道州制懇話会座長を勤めるなど、この間、沖縄単独(自治)州への活動を精力的に行っている仲地博の「沖縄大学シンポ・道州制・自治州、あなたはどうする−沖縄の自治と自立」の報告である。併せて、当日のシンポで発言した真久田正の「沖縄単独州への提言」(―「復帰・反復帰運動」の轍を踏まぬ警鐘 &「独立」への序曲として―)および前述の沖縄道州制懇話会<沖縄の「特例型」道州制に関する第1 次提言>を採録する。
 なお、沖縄タイムスが「沖縄自治論の現在」と題して、連載を開始した。逐次アップして行きたい。

仲地 博「道州制論議はアイデンティティの確認か」
真久田正「沖縄単独州への提言―『復帰・反復帰運動』の轍を踏まぬ警鐘&『独立』への序曲として―」
沖縄道州制懇話会「沖縄の『特例型』道州制に関する第1次提言」

【2008.9.10】 豊見山和美「痛苦抱き直し/連帯を求めて」(書評『沖縄/暴力論』)を読む
 沖縄タイムス08年9月6日「読書欄」の「今週の平積み」というコラムで豊見山和美さんが西谷修・仲里効編『沖縄/暴力論』(未來社・2520円)に対して、「痛苦抱き直し/連帯を求めて」と題して書評を執筆。豊見山さんと言えば、今年5月18日のシンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」第二部での名コーディネーターぶりを懐い出す人も多いのではないだろうか。かくいう風游子もその一人であるが……。

「痛苦抱き直し/連帯を求めて」

 オキナワ、と聞いて楽園を連想する人もいるし、権力の暴力にさらされ続ける煉獄(れんごく)を想起する人もいる。人は日常的な虐待を受けると暴力を暴力と感じないことで防衛機制を果たそうとするというが、多くの楽園派は、沖縄に偏在する暴力の痕跡や予兆に忌避の身ぶりを示す。たとえば米軍基地、性犯罪、開発という名の破壊、失業、貧困、病苦、集団自決、沖縄戦のトラウマ…。
 いっぽうで、沖縄と暴力というきわめてシンプルな表題を持つ本書は、沖縄を取り巻く外的な暴力の構造だけでなく、時として沖縄から内発的に噴出する暴力のありように迫る。11万人の県民大会の余韻の中、昨年11月に東京外国語大学で開催されたシンポジウム「『集団死』の特異性」「暴力とその表出」の再録等と、沖縄戦だけではない暴力をめぐる7本の論考から成り、沖縄からは仲里効、目取真俊の両氏が参加している。
 皇民化と同化の仮借なき抑圧を受けた沖縄が、地上戦の凄惨(せいさん)な極限状態で、暴力のベクトルを内向させていった姿がここでも問われているが、どこかの高みから沖縄に覚醒(かくせい)を促すような分析的な志向は薄い。むしろ沖縄を暴力の磁場として表現しながらも、その痛苦を痛苦として抱きしめてなおし、記憶と経験の分有から人間の連帯を生み出そうという意志、領有の「眼差し(まなざし)」ではなく、「皮膚と耳」で他者とつながろうとする、論者たちの欲望を読者は感じ取るだろう。
 では、この意志と欲望はこれからどこへ向かうのか。思想の戦場にいる沖縄の二人のパルチザンは、その回路を十分に自覚しているようだ。目取真氏は、沖縄の拝金主義の象徴として用いられがちな「ムヌクユシドゥ、ワーウシュー」の再考を促す。それが、正義を配当しない権力者を更迭する沖縄の民衆の「力」の言葉だとすれば、そして仲里氏が鼓舞するように「自発的隷従」に埋もれない「抵抗」の力線を沖縄が死守するとすれば、そのどちらも「革命」という漢語の本来の意味に限りなく近づきあるようなのだ。
(豊見山和美・沖縄経験史研究会)

【2008.8.2】 川田 洋「国境・国家・改憲国民投票」(『情況』2008年7月号)を読む
 『情況』2008年7月号は「特集 沖縄5・18シンポジウム 来るべき<自己決定権>のために沖縄・アジア・憲法」を組み、第二部の基調報告(佐藤優)と四人のパネリストの発言を掲載した。それに呼応するように、川田洋が「国境・国家・改憲国民投票──Kさんへの手紙」と題する一文を執筆。Kさんとは言わずもがな、『情況』08年5月号に「東京からの応答」と題して「沖縄の〈自己決定権〉に向き合う、日本の主権性創発のために―東京から沖縄で憲法を考えるということ―」という一文を発表した川音勉(沖縄文化講座)のことであろう。ちなみに彼は『情況』07年3-4月合併号に「沖縄自立経済・再考」を発表している。
 川田は私たちが使用する<ヤマト>という表現ではなく、「内地」を使う(本文・注参照)が、面白いことに、佐藤優も「内地」という表現を使う。と同時に、両者とも<負け癖からの脱却(?)>を語っている。もう一つ、佐藤講演で面白かったのは「独立など簡単だ、知事が大統領になりたいと思うかどうか」。かつて、若い地方議員に向かって「将来は県知事を目指して下さい!」と口走ったら、すかさず「知事ではなく、大統領になりたい」と答が返ってきました。それこそ「居酒屋独立論」のたぐいの与太話ですが、この若き友人の即答に感激したことは紛れもない事実です。
 さて『情況』2008年7月号の「特集 沖縄5・18シンポジウム 来るべき<自己決定権>のために沖縄・アジア・憲法」です。

●基調講演「沖縄の独立は3年くらいあれば可能だ」佐藤 優
○パネリスト報告「民衆の連帯とは何なのか?」孫 歌
          「影の東アジア−−ああ、これが朝鮮だ」崔 真碩
          「琉球の自己決定権の新たな方向」松島泰勝
          「死者の記憶──沖縄の『思想資源』」仲里 効


国境・国家・改憲国民投票
   ──Kさんへの手紙


2008.03.20
川田 洋


Kさん──
 かねて開催に尽力されてきた那覇でのシンポジウム「来るべき自己決定権のために」、せっかく案内を受けながら参加できなかったのは残念ですがとても盛会だった由、嬉しく伝え聞きました。ゆっくり話を聞く機会を持ちたいものですが、とりあえず自分なりの考えを少しお伝えしておきたいと思います。

1.「琉球憲法草案」=空想的共産主義宣言

 まず順序として、事前にいただいた上記シンポジウムの資料冊子『沖縄・憲法・アジア』を読んでの感想から始めましょう。
 冊子冒頭にある「琉球共和社会憲法C私(試)案」(以下、「C案」)、少し前に一読したときの感想は、別の機会にメモしたことがあります。

 <「国家廃絶」を掲げる「憲法」とはそもそも何か? そこでの「琉球社会」とは?
 ──「憲法」って、「国家」が有するものだとばかり思っていた(笑)。
 「国家廃絶」後の「社会」とは「共産主義社会」だとする伝統的な思考回路(マルクス主義でもアナキズムでも)によるなら、これは「琉球」単独(もはや「国家」ではないのだから「一国」とはいえない)共産主義社会を意味する。
 ところで「共産主義」は地球上の特定の地域的区画だけで成立するものだろうか?
 これまた伝統的思考回路によれば断然「否」だ。国家の廃絶=共産主義は価値法則の廃絶を条件とし、それは世界的にのみ可能なことだ(だからこそ「世界革命」)。
 となればこの「試案」は、伝統とは別な思考回路の上に書かれていることになる。その思考回路とはいかなるものか? これは「沖縄」や「琉球」を超えた普遍的なテーマだろう。それがテーマとして定立される地平を確かめないと、詩人の言葉の魔力に惑わされるに終わると思う>。

 今回冊子に復刻された『新沖縄文学』の誌面は、上の「C案」─「琉球共和国憲法F私(試)案」(以下「F案」)─「匿名座談会」(以下「座談会」)の順で構成されていますが、実際は、まず「F案」が書かれ、それを素材にした「座談会」がもたれ、それを受けて「C案」が書かれた(そして「F案」が修正された(1))、という経緯だったことが冊子全体を通読してわかりました。「F案」にはかなり詳細な注釈が付けられているのに対して「C案」にはそれがありませんが、「座談会」がその役目を果たしていると思います。
 今回あらためて「C案」を読み直してみて、これは「空想的共産主義」の宣言なのだなと思いました。賢明な貴兄のこと、「空想的」という形容詞に何か否定的なニュアンスを読み取られることはないでしょう(2)。小生(不勉強ながら)シャルル・フーリエやサン・シモンの「空想的」社会主義を、凡俗な「科学的」社会主義よりも高く評価しますし、「F案」についても「座談会」で「ユートピア構想の一つ」(196頁)とコメントされていたので、「空想的」という形容詞に特段の独自性もありません。
 ここに提出された二つの「私(試)案」には明らかなアプローチのちがいを見て取れますが(3)、「現在の日本に対置しないといけない」(「座談会」A発言、190頁)という課題意識は共通のものですね。そこに「自立・自治」とか「独立」とかの志向が当然にも滲み出してくるわけですが、われわれ「内地」(4)の人間が──「変革」を志して──こうしたテーマに関わるとき、「沖縄エキゾチズム」とでもいった感覚の蠢きを内在的に克復しておくことが肝要と思います。
 これは冊子題名にもある「アジア」もそう──というか「アジア」こそ大問題──なのですが、この種のエキゾチズムは(70年頃から「内地」で盛んだった「差別告発・糾弾」の擬似闘争とその顛末にみられたように)容易に体制イデオロギーに回収されてしまいます。むしろ体制側がそうした「エキゾチズム」を思想操作する例すら珍しくありません(たとえばかつての赤字国鉄の客引きキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」とか)。今は亡きパレスチナ人の思想家サイードが鋭く指摘した「オリエンタリズム」の孕む問題をきちんと受け止めてかからないと、「内地」で直面した問題の解決を(「沖縄」とか「アジア」とか)「外地」に求める偏向に足をすくわれること必定です。
 ここにはひとつの罠、「国家」がしつらえたイデオロギー的な罠があると思うのですね。沖縄に即していえば、「反ヤマト」というかたちで自己表出する「沖縄」とそれに対置された「ヤマト」とを丸ごと〈日本〉へと括り包み込んでしまうイデオロギー作用です。「同化」というのも必ずしも均質化=均等化を意味するのではなく、「異化」を含みこんで括りこむことのほうが多い、そしてそのとき「異化」は「差別」として現前するのではないでしょうか。1960年代のアメリカで黒人問題が社会問題化したときの「インテグレーション」がそうでしたし、日本では被差別部落の「同和」対策がそうだったこと、まだそう記憶に遠いことでもないはずです(いや、もう遥か遠いかな?)。
 「ヤマト」対「反ヤマト」という対抗図式に置かれたときの「沖縄」は、多く日本の「辺境」としてイメージされます。たしかに地理的には「辺境」にちがいありません。しかしそれを単なる「辺境」とみなすかぎり、「辺境」がひとつの主体となる道筋を見出そうとすれば「特殊性」を語り出すしかなくなります。そしてまさしくこの「特殊性=特異性」観に罠の仕掛けがあるはずです(5)。
 このイデオロギー作用の包摂力も、いささかくたびれかけているとはいえなお強靱なものがありますが、それを突き抜ける上で、百の「科学的/現実的」言辞よりもひとつの「空想」のほうが遥かに豊かな力を持つ、そんな時代をわれわれは迎えているのではないか、「C案」を読み直してそんな感想を強く持ちました。先に“「沖縄」や「琉球」を超えた普遍的なテーマ”と書いた意趣もそのあたりです。
 なぁんだ、未だ「空想」の段階か、「科学」には至らないのだな、などとうそぶく徒輩は放って置けばよろしい。ようやく凡百の「科学」を、いや、「科学」という名の「現実」追随を超えて、「空想」の翼を拡げうる時代を迎えたのです。「転機」というべき時代に忌まわしい「現実」を超え出て行く方途を示す精神の営みは、いつだって「空想」の力にこそ支えられていたのではないでしょうか。新しいことをインスピレーションで思いつくのはフランス人、それを後から理論化するのがドイツ人、というのは、今は亡き師匠の口癖でしたが、その意味でこの「C案」は、フランス人的作品といえるのかなと思います。そこには南島の気候の要素もなにほどか介在しているかもしれません(6)。
 最初に引いたいつぞやのメモに転がしておいた設問──

 <この「試案」は、伝統とは別な思考回路の上に書かれていることになる。その思考回路とはいかなるものか?>

 もちろん本文に説明などないのですが、大きなヒントは「琉球共和社会」が拠って立つとされる「万物に対する慈悲の原理」にあると思います。
 「愛」さえも棄却したうえに定立される「慈悲」、これは実は壮絶ともいえる言葉ではないのでしょうか。小生はここで、第一次世界大戦を経て大きな回転を遂げたかのマックス・ウェーバーの宗教観を想い起こしました。ウェーバーがこのとき称揚した「宗教的同胞倫理」に通じるような精神の緊迫をこの言葉に感じたのです。日本はほとんどいいとこ取りで素通りした第一次大戦ですが、初めての総力戦に各地を蹂躙され戦前の価値観がガラガラと崩れたヨーロッパでは、「そうした戦争が終わったあとで、ふたたび戦前どおりの思想の隊列に復帰することなど不可能ではないか、そう思われた」と後日ウェーバーが回想したように、政治・社会的にも思想的にもまさしく「転機」と呼ぶに値する重大な歴史的事象でした(7)。

2.「憲法」から「沖縄」が浮き出す

さてKさん──
 那覇シンポジウムの資料に復刻された『新沖縄文学』が出たのは1981年、もう27年も前のことですね。それをつい最近のもののように感じてしまった時間感覚にもかなり問題がありそうです。空想には空想の、現実には現実の「時間」があるとすれば、その軸を相互に対照して相対化してかからなくてはなりません。
 では、現実の「時間」軸はどこに見出すか、それは各々の立場(近頃は「立ち位置」なんてヘンな言葉づかいが流行みたいですが)に規定されることで、小生にとってはさしあたり「憲法」問題──未来空間に浮かぶ空想の「琉球共和社会」のではなく、われわれが否応なく生を営んでいる今のこの日本国の「憲法」問題との関わりにあります。おやまた、「空想」の高みから急転直下えらく「現実」に落ちたもんだと思われるかもしれませんが、まあちょっと聞いて(いや、読んで)やってください。
 安倍政権のゴリ押しで改憲への手続きを定めた「国民投票法」が可決・成立した直後の昨年6月15日、東京・日比谷で開かれた集会に、わたしたちは「改憲〈国民投票〉を迎え撃て!」というビラを「改憲〈国民投票〉を考える五月企画委員会」の名で撒き込みました。憲法九条を改正しようとする案が出てきたら〈国民投票〉で葬り去ろうというのがその趣旨です。とりたてて独自な考えというのではなく、その前年の6・15デモの後、議員会館で開かれた集会の締め括りに、「九条改憲阻止の会」の小川代表が提起されたことにほかなりません。「これは勝てる闘いだ。今まで負ける闘いばかり強いられてきたが、一度くらい勝てる闘いをやってみようじゃないか」と語られるのを聞いて、大いに元気付けられました。以来あれこれ考えをめぐらして年末にはおよその問題整理をつけ、07年始めに呑み屋で仲間と語らい、「国民投票法案」の採決を目前にした5月に参議院の議員会館でささやかなシンポジウムを開き、それを経てこのビラに至った次第です。
 その半年ほどの間、改憲案を「国民投票」で葬ろうという主張がなぜか受け入れられにくい──というか理解されないという意外な現実にぶつかりました。実は意外でも何でもない、それこそ「護憲」という名のイデオロギー作用が緊縛的に表出する“忌まわしい現実”にほかなりません。
 ここに「沖縄」が浮かび上がります。そして、「護憲」イデオロギーから視えないのもまた「沖縄」なのです。それはごく自然なことです。なぜなら、戦後憲法秩序とは、「沖縄」を排除して成り立ったものにほかなりませんから(8)。
 あえてリクツを捏ねるなら、沖縄の「分離支配」を定めたサンフランシスコ講和条約と戦後憲法と日米安保条約とが「三位一体」で「戦後日本」の現実政治の枠組みを規定した、ということになりますが、理屈以上にその事情を端的に物語るのは、最大の「護憲」勢力だった日本社会党の書記長が、56年の砂川基地反対闘争の現場で語った言葉です。数年後(60年安保の直後)テロの凶刃に倒れる故・浅沼稲次郎氏はこのとき、「核兵器などはタイか沖縄にでも持っていけ」とアジったのですね(9)。当の砂川闘争時まだ中学生だった小生、この演説は施政権返還が目前の政治テーマになった1970年前後になって知ったのですが、それは実に衝撃的でした。「平和と民主主義」を象徴する「憲法秩序」なるものがまさしく「本土」だけのものとして(一種自覚的に)捉えられていた事情を、この浅沼演説ほど見事に示した例を他に知りません。
 そうした「憲法」意識には、ひとつの小さくない難点が塗り込められていました。それは改憲派が指摘してやまぬ「押付け憲法」説を正面から論破し抜くことができないことです。制定過程からすればGHQの絶対権力に「押し付けられた」にちがいないその憲法を「護る」という位置に立った戦後日本の「護憲」運動は、改憲派の「押付け」論攻勢をどのように回避しようとしたのか。加藤典洋氏は1995年の論文「敗戦後論」で次のような腑分けを示しています(10)。

〔1〕〔実質的憲法「かちとり」説〕=平和憲法は当時の旧体質の日本政府にこそ「押しつけ」られたが、民主的改革を望んでいた日本人民には熱烈に支持された、
〔2〕〔憲法形見説〕=平和条項は戦争の死者の犠牲によって日本国民に与えられたいわば死者からの贈り物なのだ、
〔3〕〔押しつけ消化説〕=押しつけられたのは事実だが、以後、実質的に日本国民により長きにわたって保持されることで、この初発の「汚れ」は消えている、

 「護憲」ではなく「改憲阻止」だと叫ぶ左翼も含めて、多かれ少なかれこうした論法に依拠してきたことは否定できません。でも、いずれも「苦しい言い訳」もしくは「詭弁」というべきでしょう。今ではこんなヘリクツは、口を開けば「護憲・ゴケン」と唱えてさえいれば「私(たち)は正しい」と思い安心しておられる一握りの幸せな人たち以外には、もはや通用しません(通用しないという現実に目をつぶっておられるから「幸せ」なのですが)。
 国民意識としてはすでに襤褸と化したこれらのヘリクツ衣装を脱ぎ捨て「護憲」イデオロギーが内蔵する難点=隘路を突き抜ける道はただひとつ、制定過程からすれば現憲法が“押付け憲法”以外ではなかったことを公然と認め、その上で憲法九条をわがものとする段取りを踏むことです。小生らは、改憲〈国民投票〉こそその結節点に位置すると考え、先の6・15ビラで次のように提起しました。

 《占領軍は絶対権力で敗戦日本に「平和憲法」を“押し付け”た。押し付けられたが内容は良いものだと、日本人は60年間なんとかこれを護ってきた。/国民投票で「九条改悪」に「NO!」を突きつけること、それは「九条」をわが手で選び直し、“われらの憲法”とすることだ。それは、初めて自らの意志で「憲法」を定める歴史的行動になる(11)》。

 これこそ「改憲派」の論理と正面から対決する筋です。そうでしょう?「九条改憲」が「国民投票」で否定されれば、「九条」は文字どおり国民自らが選び取った「自主憲法」となり、もう“押付け憲法”説はヘリクツとしても成り立たなくなってしまうわけですから。
 つけ加えるなら、「平和憲法」が社会党や共産党とその支持層の力だけで60年間も護られてきたわけではありません。自民党もまた財界も、その主流の本音は「護憲」でした。疲弊した国の財政が軍事費で圧迫されずに高度成長=資本蓄積を達成できたのも「憲法九条」あったればこそですから。保守本流はこの本音と保守合同以来の党是=タテマエたる「自主憲法制定」との乖離に苦慮し、現憲法をそのまま「国民投票」にかけて「自主憲法」にすることを発案したとも伝えられます(12)。
 実際、改憲派がこの点を危機感を持って認識していたことは、昨年の「国民投票法案」審議の過程ではっきりと露呈しました(13)。それだけでもあの法案をめぐる攻防の意義はあったというべきでしょう。
 まさにここで“「沖縄」が浮上する”ことになります。なぜなら、沖縄は「平和憲法」を“押付け”てさえもらえなかった、それこそが「分離支配」だったのですから。かくして「平和憲法」は、沖縄を排除して具現化したのです。先の砂川闘争における浅沼発言と平仄もピッタリでしょう(14)。
 したがって、改憲〈国民投票〉で「国民」というとき、「内地人」と「沖縄人」は異なる歴史を背負って向き合うことになります。戦後沖縄を色染めた「復帰運動」の心は「平和憲法の下への復帰」であり、言い換えれば「沖縄にも平和憲法を」という要求でした。それがどれほど切実なものであったか、「平和」のもとに暮らしてきた本土人の想像を絶するものがあったはずです。“押付け”られたものを「護って」きた(実は憲法に「守られ」てきた)者と、“押付け”てさえもらえずにきた(憲法に「守られ」ることなく苛烈な米軍政支配に晒されてきた)者と、この両者の大きなズレを「国民投票」が照らし出します。
 法にもとづく「国民投票」とは、われわれがあらためて「日本国民」であるとの自覚を否応なく迫られる事態であって、任意の「住民投票」とはわけがちがいます(15)。
 そんなのイヤだ、オラ断乎として非「国民」でいたいと考える人もいるでしょう。ならばその信念にもとづいて敢然「投票ボイコット」を選択し、確信をもって広く呼びかければよろしい。昨年のエジプトに例を見るように、ボイコットもまたありうる政治選択のひとつにはちがいありません。でも小生、むしろここであらためて自らが「日本国民」であるという事実を再確認し積極的に「投票」に臨むことに意義を見出します。“迎え撃て!”とはそれに向けた呼びかけにほかなりません。
 それは、現日本国憲法が発布された時に「日本国民」だった「内地人」と、当時「日本国民」とは認定されなかった「沖縄人」とでは、「国民」という位置にはっきり断絶があることの歴史認識を迫る事柄です。「改憲派」も「護憲派」も“等しく日本国民として”改憲に賛否を問うという姿勢を示すことでしょう。だけど“等しく”なんてことはない、それこそ「戦後日本」的=「本土」的な制約を照らし出す点ではないでしょうか。そうした制約を歴史的な制約として対象化し乗り越えることが、「改憲阻止」の国民的多数派を形成する上での課題となります。それを回避し半ば無自覚なままその制約を温存し合理化しようとすれば、そこにどれほど深い自己欺瞞と頽廃が黒い淵を開くか、先の加藤論文はその点を掘り下げた論稿として今も意義をもっていると思うのです。

3.「護憲」イデオロギー=「敗北の思想」

 先に述べた“改憲案を「国民投票」で葬ろうという主張がなぜか受け入れられにくい──というか理解されないという意外な現実”の話を少し続けましょう。また去年のビラから──。

 《「護憲」勢力の多くは、この手続法が成立したら“改憲まで一直線”だと「危機」をアジった。いざ「国民投票」になったら負ける、だから「改憲手続法」より実は「国民投票」そのものに反対、というのが「護憲」派の本音だったろう。試合になったら負けるから試合そのものができないようにしたい──なんと情けない姿勢だろう。それでは初めから負けている。/「九条改憲阻止」──そのためには、まずこの「負け心」を拭い去ること、それが一歩だ》。

 このビラに至る間の論議でどんなやりとりがありました。
 「国民投票なんてやらせないのだ」─「やったら負けるから?」─「だって政府広報からマスコミから総動員するんだぜ、カネだって向こうはいっぱい持ってるし」─「だったら法案が通っていざ〈国民投票〉となったらどうするの」─「そりゃ、『改正反対』票を増やすために努力するに決まってるさ」─「だったら最初から『〈国民投票〉で葬り去れ』で取り組めばいいじゃん」─「いや、改憲派からの攻撃だからハネ返すのが当然だ」。
 法案成立までは「〈国民投票〉反対」、その法案が可決・成立したら一転「『反対』投票を呼びかける」──これは果たして姿勢として一貫したものといえるのでしょうか? そもそも「国民投票」は憲法自体が定めている手続ですから、この「国民投票」そのものを否定する=“やらせない”というのは、「護憲」という立場からの大きな逸脱に思えるのですが、そんな論理は通じないらしい。そしてこれが「護憲」派の多数を代表する雰囲気のようでした。
 「国民投票法(改憲手続法)」を強引に成立させた安倍内閣は脆くも自壊を遂げ、同法にもとづく議会手続も停滞したまま衆参ねじれ状態で国会も半身不随になっている現状では、明文改憲が政治プログラムに乗る日程はかなり遠のいたかもしれません。はからずも生まれたこの時間を有効に使い、ビラで言った「第一歩」、つまり“「負け心」を拭い去る”ことが、「改憲阻止」の主体の側に問われているのではないでしょうか。
 そこで上のような「護憲」多数派の発想の内実を少し考えてみると、今の国民の多数派は「九条改憲」に「反対」票を投じないだろうという根深い絶望感が横たわっていると推察できます。別の機会に聞いた「今の日本人の民度ではとても……」という言葉が印象的でした。なるほど、石原慎太郎などを都知事に押し上げてしまう「民度」を考えれば、気分としては無理からぬことかとも思いますが、だからといってそこから“「国民投票」などやらせない”という方針を導き出したら、「国民」から選択権を奪うことになるでしょう。この筋道をたどると、「護憲」とは“憲法を「国民」から護る”ことを意味しかねません。
 小生もちろん「九条改憲」に断然反対で、要するに「九条護れ」といっているわけですから、世の中的には「護憲」派に括られて一向にかまいません。でも、「九条改憲」を現実に阻止する力は、「民度」が高いと自認する一握りの人ではなく「国民」の多数派の手にあるのです。上のような「護憲」イデオロギーでそうした多数派を形成できるかといえば断然「否」といわざるをえません。このイデオロギーをもってしては敗北必至だという将来の問題ではなく、これがこれまでの敗北の歴史が残した負の遺産、「敗北した思想」だからです。
 この過去の敗北を象徴するのが、旧日本社会党の崩壊でしょう。組織としての社会党の解体より重にして大なのは、かつて社会党に体現されてきた戦後的政治思想とその価値観、いいかえれば民衆のなかに確かにあった“社会党的なるもの”が風化し尽くしたという現実です。「九条改憲」を阻止する国民的多数派は、この現実そのものの中に根拠を置いて形成されるほかないというところに焦点を据えて進路を構想することを切実に問われているはずです。旧日本社会党の解体というのは、大きな「国民的」事件でした。今、「改憲阻止」に向けた国民的多数派の形成というのは、数の問題を超えて新しい「国民」形成を意味する課題だと思います。
 かつての社会党は、自民党と並んで「国民政党」でした。それの崩壊が意味する深さと広さを自らに引き付けて考えないと、「民度が低い」という蔑視の視線を民衆に送ることで自らを民衆から引き離してしまう結果を避けることはむづかしいのではないでしょうか。
 ここで「国民政党」というのは、かつて党内で交わされていた“「国民政党」か「階級政党」か”という論争のそれとは関係なくて、共産党や公明党のような「イデオロギー政党」と区別しての表現です。これらイデオロギー政党とちがって旧社会党を特徴づけていたのは、公然たる派閥抗争でした。これは自民党とも共通するところですが、自・社の「派閥」というのはそれぞれが特定の社会層の利害を表現していたミニ政党であり、自・社いずれもそれを束ねた連合党だったわけです。絶え間ない派閥抗争は活力の源泉であり、「派閥均衡」というのは、国民諸階層の利害の党内的な調整にほかなりませんでした(16)。もちろん自・社両党ではカバーする「国民」の範囲が(重なるところもありながら)ズレていましたから、両党内部の利害調整がそれ自体で完結することはなく、両党間で諮って「全国民」的“調整”に至る、これがいうところの「55年体制」だったわけですね。
 もうひとつ、「沖縄」との関連でいえば、諸政党の中で社会党ほど「土着性」の希薄な党もなかったと思います。自民党にせよ共産党にせよ(あるいは革マル派にせよ)、戦後沖縄の政治的土壌から生まれた政党・政治グループがある時期から内地の組織に系列化されていったのに対し(社会大衆党はついに系列化されずに残りました)、沖縄の社会党は内地の党が(官公労組織を媒介に)上からつくったものではなかったでしょうか。ここには、沖縄の「復帰」運動と内地での「返還」運動とが交叉する点を検証する上で、小さくない問題が孕まれているはずです。
      *
 さて、締まりなく書いていたら誌面もそろそろ限界、歳のせいか書き続けるのも息切れというところです。続きはまたにして、ひとまず筆を擱くことにしましょう。続きは、かつて書き散らした「沖縄=国境」論の制約といったあたりを自省しながらになるかと思います。また、よろしく。
(6月5日・記)

【註】
(1)「××年前わが共和国人民が、サンフランシスコ条約第三条の里子に出され」(174ページ、注釈(一)2)の「××年」という部分、元案では「90年前」と年数が明記されていたことが「座談会」からわかります(188頁)。
(2)レーニンは、ドイツ古典哲学とイギリスの経済学とそしてフランスの社会主義とをマルクス主義「三つの源泉」に数え挙げていますね。この「フランスの社会主義」こそ「空想的社会主義」にほかならず、レーニンがそれに革命思想の先達として(チェルヌイシェフスキーなどロシアの先達に対したのと同じく)浅からぬ敬意を払っていただろうことは、『帝国主義論』の最後の一行からも透けて見えると思います。
(3)「社会」か「国家」かというのももちろん重要な論点のひとつでしょうが、未来空間に想定される「基本原理」のちがいに小生はより関心を惹かれます。「F案」は第一条で「労働と愛に基礎を置く」としているのに対し、「C案」はその「前文」の冒頭段落で「浦添に驕るものたちは浦添によって滅び、……愛によったものたちは愛に滅んだ」として、当の社会の依って立つ原理から「愛」さえも除外・棄却し、「万物に対する慈悲の原理」に依るとしています。この“愛さえも”という点、もう一度立ち返ります。
(4)「内地」などという言い方もあるいは違和感を呼ぶかもしれません。なぜ「本土」と言わないのかと。理由は簡単、北海道を意識するからです。かつて「琉球」も「蝦夷地」も徳川幕藩体制のテリトリーの外にあり、それを併合=併呑して「大日本帝国」が歴史に登場します。そして明治帝国権力が双方に送り込んだ任命知事は、いずれも薩摩人でした。この歴史的経緯に照らすなら、〈沖縄対ヤマト〉という対抗図式で考えられる「ヤマト」は北海道を含まないはずです。そして北海道の人は今でも本州・四国・九州をまとめて「内地」と呼んでいます。もちろん、沖縄分離支配を定めた戦後に限れば、「日本国憲法」の実効的適用範囲として北海道を含めて「本土」という言い方はできるし、本州・四国・九州を「内地」と呼ぶ北海道人の圧倒的大多数が蝦夷人ではなく「内地」出身の入植者とその末裔なのですが。それにしても、近年議論される「道州制」で「沖縄」が「県」を脱して「道/州」として構想されているらしいのは面白いですね。
(5)「辺境革命論」という思想系譜がありました。典型例が毛沢東でしょうか。「辺境」延安から遥かに沿岸部を見わたせば、そこには世界の列強がそれぞれ「租界」をつくってダニのように吸い付いている様が一望のもとに見わたせる、「辺境」に追いやられた革命は、今や世界の列強全体と対峙する位置に立ち、「辺境」は一転世界の「中心」となった−−この逆説的なインスピレーションこそ中国革命を導いた「革命的中華思想」だったにちがいない、てなことを昔書きましたっけ。
(6)思想と気候との関係は意外に重要な要素なんじゃないかと数年前ふと思いました。日本の近代思想なんてだいたいがヨーロッパ渡りですが、ひとくちに「ヨーロッパ」といってもアルプスの北と南とではほとんど別世界ですよね(ドイツ人やロシア人がどれほど南欧の日差しに憧れたか、例は枚挙にいとまがないほどです)。アルプス北方は寒くその中世は「暗黒」と呼ばれた歴史だったのに対し、アルプス南方は気候温暖なばかりでなく、北方の「暗黒の中世」時代に地中海でアラビヤ人とユダヤ人とバンバン交易していたでしょう。ところで日本は気候は地中海的に温暖なのに、明治以後受容された近代思想はドイツやロシアなど「寒い国から来た思想」が主流を占めた結果、どうも頭と身体が分裂したまま百年以上過ごしちゃったんじゃないかと、これは数年前の某忘年会での酒飲み話ですが、こと左翼に限ってみても(というか左翼ほど)このズレは際立っているように思えます。イタリアやスペインやフランス系の運動とその歴史の紹介や受容は、ドイツ・ロシア系に較べてまったく微々たるものにすぎません(マルクス『哲学の貧困』は広く読まれても、批判の対象とされたプルードン『貧困の哲学』は未だ翻訳がないとか、フランス・スペイン・イタリアの「革命的サンディカリズム」の運動史は−−それが波及したラテンアメリカの運動を含めて−−ろくに紹介されてこないとか、そこにイタリア産のグラムシだのネグリだのが登場すると目を白黒させるほかないとか)。
(7)このウェーバーに対応する歴史の転換・断絶を深く意識して書かれた同時代の古典作品のひとつはいうまでもなくレーニンの『帝国主義論』。なお、ウェーバーにおける宗教観の回転を示した作品は『宗教社会学論集』中の「中間考察」(邦訳は大塚・生松訳『宗教社会学論選』所収)。この論点開示にご関心なら、四半世紀前の習作ですが、河原肇「『中間考察』を読む・1」(寺小屋教室ウェーバー講座『ウェーバー研究』第五集[1983年4月])をどうぞ。
(8)憲法から「排除」されてきたのは沖縄だけではありません。内地の「在日」社会もまた憲法の定める諸権利を保障されずにきました。この「在日」−韓国・朝鮮問題は別の機会に触れたいと思いますが、戦後「平和」運動を象徴した「原水爆禁止運動」もまた“唯一の被爆国”というスローガンが内包した国民主義という位相で検証を必要とします。
(9)当時使っていた沖縄関係の本は一箇所へ資料集中すべく手放してしまったので、この浅沼演説の文献典拠を示すことが今できません(たしか亜紀書房から出た『資料・沖縄闘争』という本に収録されていたのではなかったかと……よかったら探してみてください)。それにしてもこの浅沼演説がされた集会には沖縄からも代表が参加していたとのこと。米軍政の苛烈な支配下にあった当時の沖縄から内地に渡るだけでも大変な苦労だったはずですが、その苦労を背負って砂川に来た沖縄代表は、いったいこの浅沼演説をどんな気持で聴いたのでしょうか。
(10)『敗戦後論』(講談社刊、23頁/ちくま文庫版、26-7頁)。ここの記述には次の註が付いているのでついでに紹介しておきましょう。「ここにいう憲法実質かちとり説は、左翼陣営から示され、憲法形見説は、主に戦中派の論者によって示された。押しつけ解消説は、ほぼ戦後が時をへた1970年以降になって現われてくる」。
(11)平和憲法を「選び直す」という論理は小生らの創見ではなく、前註の加藤論文が提起したものです。加藤さんご自身はこんな「政治的利用」を好まれないかもしれませんが、「書物にはそれ自身の運命がある」と諦めていただきましょう。なお、論文集『敗戦後論』文庫版に「解説」を書いている内田樹氏の編著書『九条どうでしょう』(毎日新聞社刊)の諸論稿も示唆するところ多いと思います。この内田さんってなかなか面白い人ですね。論文集『敗戦後論』では、ここで取り上げた第一論文「敗戦後論」よりユダヤ人問題を扱った第三論文「語り口の問題」の内容により関心を惹かれますが、内田さんの『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)も、周致な論旨展開で刺激的です。
(12)「故竹下元首相は、『現憲法と同じ条文でよいからこれを国民投票にかける方法はないのか』と語ったことがある」(日経、2007年5月3日付朝刊、「憲法施行60年」)。そうすればきっと過半数の賛成を得、現憲法はそのまま「自主憲法」となって党是の立場とも乖離しなくなる、という筋道を描いたというのですから、小生らの主張は竹下路線の延長かもしれませんね(苦笑)。
(13)昨年の通常国会で「改憲手続法案」を審議した衆議院憲法調査特別委員会の中央公聴会に自民党推薦で公述人に立った改憲派法学者・百地章日大教授は、次のような認識を示していました。
   「護憲派は国会での改憲阻止を諦め、国民投票で否決する戦略にシフトしたとも言われている。……いうまでもなく、憲法改正国民投票では、改憲反対の票が一票でも賛成を上回れば、それで終わりであって、たとえ国会で3分の2以上の改憲勢力が結集できたとしても、何の役にも立たない。改憲派には、その怖さがわかっていないのではなかろうか」。
   http://www.japancm.com/sekitei/sikisha/2007/sikisha24.html
   『新論』その他でも活字・ネットを通じて活発な発言をしていた百地氏ですが、その論旨はこれで十分わかるでしょう。なお、同氏著『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)は一読の価値があると思います。
(14)沖縄は「平和憲法」を“押付け”てももらえなかったという指摘は、愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書、235頁)に見えます。著者がこの重要な点を指摘しながら「押付け憲法論」を「まやかしにすぎない」(同、72頁)とする立場にこだわっているのは残念ですが。 
(15)改憲に関する「国民投票」を地域の「住民投票」の延長で捉え“直接民主主義”だとして一般化しようとする考え方があります。代表的なものが今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書)ですが、地域の「住民投票」が現状まったく任意なものなのに対して、憲法自体の規定にもとづく手続としての「国民投票」はまったく性質が異なります。この点を見落とすと、「改憲手続法=国民投票法案」審議での民主党のような混乱に陥るのではないでしょうか。なお、諸外国の「国民投票」制度の具体的な内容については、昨年5月の院内シンポジウムの資料パンフレットに専門家の解説を附して収録しました。
(16)新左翼系でいえば、社会党的=自民党的体質をモロ露呈していたのはブントでした。自・社とちがって「調整」機能が貧弱・未熟だったため、派閥抗争、いや分派闘争がそのまま組織分裂へ進んでしまったのは顧みて実に残念ですが、かつての過激派大衆は、革共同に体現された「イデオロギー政党」体質とのちがいをよく感じ取っていたと思います。ブント自身にその自覚が足りなかったのが「調整」機能の貧弱さを結果したのかもしれません。



 慌てて書き加えておきたいが、『インパクション163』(2008年5月30日発行)は、冨山一郎を中心にした編集(?)で「沖縄 何が始まっているのか」という特集を組んだ。しかし、どうも「何故、こうも後ろ向きなのだろう」という想いを禁じ得なかった。若い頃からの「非実践的主体による観想的物言い」への条件反射的違和感が、今も尾を引いている。冨山の「何が植民地主義なのかということを、丁寧に議論していく必要がある」とする「基調」がどうにも浮かび上がってこない。「(すぐさまヤマトにおける沖縄連帯運動の方針を提起するという)こうした性急な行動や方針提起が追認してしまう内省をくぐらない組織形態こそが、問われなければならないのではないか」という言説は何を語っているのだろうか。
 植民地主義を再審に付すということは、とりもなおさず、民族と階級、国家と権力について解き明かすことと同義ではないだろうか。


【2008.6.23】 「往復書簡−沖縄をめぐる対話−」
 沖縄タイムスの2008年4月21日から総計16回にわたり、連載された「往復書簡−沖縄をめぐる対話−」を採録。5月18日に那覇市県立美術館講堂で開催された、シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」のパネリスト達による「公開・書簡」である。
 沖縄タイムス4月21日の第一回目に掲載されたリードでは次のように問題提起をしている。
 「往復書簡−沖縄をめぐる対話−/1952年のサンフランシスコ講和条約発効から28日で56年。来月15日には沖縄が日本に復帰して36年を迎える。毎年、沖縄の帰属や自立のあり方が再考されるこの時期、文化関係者は現状をどうとらえているのか。「東アジア」「憲法」「復帰─反復帰」「自治」などのテーマをめぐって、各論者の考えを往復書簡の形式で論じてもらった。」

「往復書簡−沖縄をめぐる対話−」
 第一回 東アジア  <仲里 効vs孫 歌>
 第二回 憲 法   <佐藤 優vs川満信一>
 第三回 沖縄の自治 <松島泰勝vs平 恒次>
 第四回 復帰−反復帰<崔 真碩vs新川 明>


【2008.6.1】 屋嘉比 収「『反復帰論』を、いかに接木するか−反復帰論、共和社会憲法案、平和憲法」を読む。
  日本への再併合36周年を迎えた<5.15>を受けて、5月18日に、沖縄県立美術館講堂で<シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」>が開かれた。主催はオキナワからチームデルタ、前島夜塾、ヤマトから沖縄文化講座によって形成された5・18シンポジウム実行委員会。
 「第1部<反復帰>の思想資源と琉球共和社会/共和国憲法(私・試案)の意義」において、屋嘉比収が「『反復帰論』を、いかに接木するか−反復帰論、共和社会憲法案、平和憲法」と題して基調講演を行った。以下は、当日配布されたレジュメの採録である。その後のパネルディスカッションは、コーディネイターに豊見山和美(神谷三島名で『月刊情況』5月号に「琉球政府の時代−沖縄が沖縄に取り返すべきもの」を発表)、パネラーに新川明、川満信一、比屋根薫、屋嘉比収という顔触れ。新川、川満がこうした公式の場で同席するのも、これが最後ではないか、とも言われた。



【2008.5.7】 『思想読本[12]ポスト<東アジア>』(作品社2006)を読む。
 5.18シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」の参考文献として読む。
 編者にシンポパネラーの孫歌さんが、編集協力に同じく崔真碩さんの名前が見える。さらに編集協力者に名を連ねた丸川哲史さん、米谷匡史さんも、当シンポへの協力を惜しまなかったとも聞く。
 熟読したわけではないが、風游子の琴線に触れた文章を、例によって抜き書き。この柳浚弼Ryu Jyunpilさんの提起こそ「意識的被植民者」や事大主義的「独立論」者たちに読んで貰いたいと思った。


『思想読本[12]ポスト<東アジア>』
第3部<東アジア>の形成と「ポスト」の可能性

<東アジア>を問うということ竹内好を通した註釈

柳 浚弼Ryu Jyunpil


1<東アジア>その他者性と少数性
2反−啓豪の逆説……内在と外在
3植民地への問い……「無意味の論理性」
4<東アジア>を問うということ

……
 被害者(奴隷)が被害者(奴隷)だったという事実のみを自らの正当化の根拠として提示する限り、二次的抵抗の契機に出会うことはできない。たしかに、脱植民地性あるいは植民地性の克服は、東アジア内部の当面の課題だ。しかしながらこれが、「日本」が心から謝り、反省することによってのみ解決される問題だとは言いがたい。被害者の被害経験こそが、もしかしたら、より根源的な難題なのかもしれない。端的に、韓国の「民族主義」はその被害の経験と記憶を自らの正当性の根拠として再生産し続けている。被害者(植民地)としての経験を根拠にすれば、加害者に対して常に優越な位置に立つことができるからだ。
 その点で韓国の東アジア論の大部分は、実際のところ、民族主義の策略にすぎない。たとえば中国や日本に向けて発散される最も典型的な対応は、覇権主義と侵略主義に対する憂慮である。これによって、中国には覇権主義的な野望を牽制することができる自己批判を要請し、日本には植民地の侵略・収奪に対する反省と考慮があるのかどうかを確認しようとする。こういった発想の根底には、韓国の植民地経験が位置する。そこは、韓国の民族主義を除いた外的な勢力のすべてを批判することができる安定的な位置だ。抵抗は存在せず、抵抗の「記憶」あるいは被害の「記憶」のみに依存する。内的な動揺はなく、外的な環境のみがある。
 韓国の民族主義は、被害者が加害者に対して持つ道徳的優越性を自身の正当性の根拠にしている。しかし、その正当性は加害者−被害者関係においてのみ確保されるにすぎず、普遍性を獲得することはできない。民族主義は常に被害者の記憶としてのみ生きようとする。その結果、植民地−被害者の根拠として回収されない問題とは向き合おうとしない。被害者が被害の記憶にすがりつこうとして加害−被害の構図を脱しようとしないことこそ、植民性の構造を再生産し続ける核心的な要因だと考える。
 <東アジア>を通じて問わねばならない究極の課題は、被害者(加害者)が被害(加害)の経験に寄りかからないまま加害−被害の構図を乗り越えることができる方法とは何か、である。先に、日本は自らが(半)植民地でありながら同時に植民地を支配しているという逆説的条件を思想課題にしなければならないと述べた。日本が自らの内的な構造を相互表象不可能な非対称的関係として構成することができるなら、「被害の記憶」を自らの正当性の根拠として再生産する韓国の民族主義の内部的効果もまた瓦解してしまう。表象の交換不可能性、あるいは境界の横断不可能性を強調するのは、こういった意味からである。
……
 加害−被害の当事者である場合、事情はまた異なる。東アジアにおいて加害−被害は基本的に重層的な連鎖構造をなす。その複合的で重層的な構造から単一の関係のみを抽象してはならない。したがって、被害者の二重的抵抗にもとづいて(二重的抵抗は対象化することができないという点で内在的関係の構成だ)、加害−被害関係をより大きな構造の中に押していくことによってのみ、加害−被害図式が瓦解されうるのである。それゆえ、倫理的正当性は常に弱者−敗北者−奴隷から生成されるのであるが、被害の経験と記憶に捕らえわれないという前提の上でのみ、それは可能だ。<東アジア>を問うということは、このようなものではないか?社会的・歴史的に少数者の位置に立ち、外から「与えられるもの」−−普遍への幻想を絶えず拒否すること。不平等の構造による限定にもとづいてはいるが、その限定を通じてのみ、その構造の瓦解に至ろうとする苦闘の過程。実体化を拒否し流動する現実の中に内在するによってのみ獲得される批判性の契機。




【2008.5.6】 川音 勉「東京からの応答」を読む
 5.18シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」の東京側(ヤマト側と言い換えた方が良いか)の共催団体である「沖縄文化講座」の川音勉が「東京からの応答」と題して、「沖縄の〈自己決定権〉に向き合う、日本の主権性創発のために―東京から沖縄で憲法を考えるということ―」という一文を『月刊情況』08年5月号に発表した。ちなみに同号は「特集1:沖縄・憲法・アジア−来るべき自己決定権のために−」であり、5.18シンポと向き合う編集をとっている。川満信一・比屋根薫対談をはじめ、與儀秀武、松島泰勝、神谷三島、丸川哲史が並ぶ。

<東京からの応答>

沖縄の〈自己決定権〉に向き合う、日本の主権性創発のために
―東京から沖縄で憲法を考えるということ―


2008.03.20
川音 勉(沖縄文化講座)


1 日本〈国民〉にとっての「戦後レジームからの脱却」

 安倍前首相がその華々しい「改憲論」とともに「自滅」して半年がすぎた。日本国家は福田新首相の下で、一層混迷を深めている。安倍前首相の破産そのものは、政治家にとっての不可欠の資質としての「目測」を誤ったことの帰結であった。「事物と人間に対する距離」への「習熟」、世界と国内の政治と経済の諸力の配置を見渡す視点、社会の現在を規定する歴史の趨勢に対する感覚が、政治家の技量として問われたのであり、さしあたりはこれに落第したのである。その結果、当面、改憲攻撃は後景に退いたかに見える。だが政治家としての安倍が退場したわけでもなく、また国民投票法が消滅したわけでもない。衆参「ねじれ国会」に示される、与野党伯仲状況のなかで、些細なきっかけによって一瀉千里に改憲問題が現実化する可能性は依然として存続している。小沢・福田密室会談によって検討された「大連立構想」は、流れたとはいえ、このことを示唆している。
 世界的な政治経済の構造変動のなかで、日本国家・社会の基本的な進路が問われている。とりわけ日米軍事同盟と、その下での国軍=自衛隊の世界的展開が具体的な焦点であり、だからこそ九条改憲が政治日程に上された。1989年のベルリンの壁崩壊とともに、米ソ冷戦体制は過去のものとなり、さらにそれに続く1991年湾岸戦争から、現在にいたるアフガニスタン、イラク侵略戦争の泥沼化と軍事占領の失敗によって、米国の力の衰退も明らかとなってしまった。戦後日本国家を規定してきた、日米安保体制も、国内統治における保革構造ももはや過去のままではありえなくなった。日本の支配者の九条改憲の衝動はこの事実に発するものである。従って、明文改憲が一歩後ろに下がった現在、自衛隊の海外派遣と米軍再編への同調が、実質における改憲として急速に進められている。
 「戦後レジームからの脱却」は安倍前首相や、その亜流たちの専売特許でもなければ、彼らが先鞭をつけたことでもなく、遡れば60年代の後半から、戦後日本国家の歴史的な歩みと、現在の世界的な布置のなかで、「日本国民」が等しく直面してきた課題なのである。だから私たちは、ほかの仲間とともに、昨年の国民投票法制定に際して、ささやかながら、「九条を選びなおす」ことを「国民的」政治課題とすることによって、改憲攻撃を迎え撃つことを主張してきた。同時にこれは、戦後日本国家と憲法の成立の事情からして、「日本国民」の内向きの政治選択に止まるものではなく、自らの発意・発信によって東アジアから世界に及ぶ民衆の共同と連帯を実現することによって、初めてその内実を満たすことができるということも訴えてきた。
 だから私たちの主張は、「護憲」というよりは「反改憲」であり「九条改憲阻止」であった。昨年10月の時点で、各地域、諸分野における「九条の会」は6千7百を超えたという。この数字がどれほどの実態を顕わしているのかについて、知る由もないが、私たちの小さな声もそのひとつにすぎないのであって、こうした人々の運動にことさら異を唱えるものではない。しかし今日の改憲状況の現実化が、戦後における護憲運動の衰退と軌を一にするものであることを考えれば、「戦後的なもの」の終わりを受け止めて、「普通の国」、「国際貢献」、「東アジアにおける軍事バランス」などなどの、今日の社会にあふれかえった政治的通念に伍して、―ここでその内容に踏み込むことはしないが、―さらにそれらにも増して現実的な説得力のあるものとして憲法九条の「戦力不保持・国の交戦権否定」を再定立させることが必要になる。他方、この作業は改憲論のなかで繰り返し主張される「おしつけ憲法」論への有意な回答にもなる。そもそも「おしつけ憲法」論は、大日本帝国の敗戦とその結果としての米軍による占領・統治を否定する主張と一体でなければ成り立たつものではない。さらにいえば、日本「国民」多数にとって、欽定憲法としての大日本帝国憲法が「おしつけ」でなかったわけでもない。その意味で日本の民衆が、憲法制定権力を発動したことはかつてなかった。例外的瞬間、局地的規模を除けば、日本民衆が国家の主権者として十全に振舞う歴史的経験は新しいことなのである。従って、いまだ国民の信認を得たことのない戦後憲法の個別・九条を、いまここで「選びなおす」ことが「国民」多数への広く深い訴求力を持つこと、またこの運動を立ち上げることが民衆の主権性を創発する可能性を持つと私たちは考えた。

2 私たちにとっての沖縄闘争

 だが、「戦後憲法を『おしつけ』さえもされなかった沖縄」という歴史的事実がある。
 『沖縄戦後史』(中野好夫・新崎盛暉/岩波新書)は、最初のほうで、次のように問いを立てた。「本土戦後史において重要な意味を持つ日本国憲法の成立は、沖縄にとってはいったい何であったのか。戦後の沖縄に、戦後民主主義は存在しなかった。もしかりに存在したとすれば、それは本土における戦後民主主義とは異質のものであった。憲法に保障された民主主義とは異なり、無権利状態の中から形成された独自の民主主義であった。」そして「沖縄戦後史は、日本戦後史の虚構を写しだす鏡」、「日本戦後史の矛盾をするどくえぐりだす刃」であるといっている。
 私たち自身の最近の経験を書き添えよう。昨年私たちの大先輩にあたる、60年安保闘争当時の全学連メンバーの呼びかけに応えて、私たちも微力ながら、しばしば行動をともにした。6・15の日比谷野外音楽堂での集会では、樺美智子さんの遺影―死者は永遠に若い―の下で、老境に入ったと自他ともに認めざるを得ない人々を中心とする1000人規模の集会が行われた。(この集会については、本誌でも蔵田計成さんが詳細な報告と主張を掲載している。〇八年一・二月号参照。)ここには、沖縄・辺野古現地から安次富浩さんが駆けつけ、力強い報告と激励のアピールもしていただいた。この光景から種々の感慨が呼び起こされた。60年安保闘争と沖縄という組み合わせは、かつて仲宗根勇さんが「気も動転せんばかりに驚いた」と記述したエピソード―アイゼンハウアー訪日阻止のために国会前に座り込んだ人々に対して(学生自治会執行部が)「卑怯なアイゼンハウアーは沖縄に逃げ去りました!」と誇らしげに報告し、大衆は歓呼したという―を、私たちに想い起こさせずにはいない。だが、私たちの仄聞のかぎりでは、これを想起した先輩はいなかった。
 「鏡」でも、「刃」でもなく、また先輩たちの経験でもなく、私たちが自らの経験を通じて、日本における沖縄闘争との出会いと、それが極めて大切な闘いであると気づく過程を振り返ろう。とても大雑把に言ってしまえば契機は、時系列に添って二つあった。まず、おおむね、安保・沖縄闘争―69年4・28闘争に破防法が適用されたことも偶然とは思えなくなってくる―と一くくりにして呼んだ、60年代末の闘争の経験から始まる。「復帰運動」の評価は、ひとまずおくとして、これに対応する日本の「革新」勢力の(その急進主義的傾向を含む)一般的な論理は「返還、奪還論」であった。これが高度成長期を経て、対外進出を強める戦後日本国家戦略の枠組みをなぞり、沖縄の日本への再併合を合理化してしまうものであることは見易い道理であった。さらに琉球・沖縄の近世・近現代史の独自性と、薩摩以来の日本の侵略・支配についての歴史的知識が、森秀人などの著作によってもたらされた。同時にベトナム反戦闘争の経験から、「戦争に巻き込まれることに反対」というような一国平和主義、当時の言葉でいえば「被害者意識」からの脱皮があった。ベトナム人民をはじめとするアジアにおける解放闘争と一体のものとして、日本における闘いをすすめ、全世界的な青年・学生反乱に呼応するという視点である。もちろん、沖縄における全軍労闘争、反米軍政闘争、国政参加選挙粉砕闘争など具体的な闘いと、反復帰論に鼓舞され、在「本土」沖縄青年の果敢な闘いにも触発された。そのなかで、私たち自身の仲間のなかから沖縄青年の決起も生みだされ、私たちの気づきも促された。こうして日米安保体制粉砕の闘いと不可分のものとして、私たちは、「返還・奪還論」に対する、「沖縄併合粉砕、第三次琉球処分粉砕、自決権支持、自立解放連帯」などなどの政治言語の表現を蓄積していった。
 もう一つの経験は、75年海洋博開催とこれに伴う皇太子訪沖反対の闘いから、87年海邦国体における「日の丸」焼き捨て闘争を含む、現在にいたる反天皇、「日の丸・君が代」強制反対の闘いである。天皇制との大衆的な規模での正面対決は、日本の近現代史をつうじて、初めての闘いであった。上記のこの闘いの象徴的ピークが、沖縄で行われたことは、私たちにとってやはり銘記するべき事柄であった。
 戦後国家・憲法を規定する、天皇制と日米軍事同盟とは、二つながら沖縄と深く係わり合い、だからこそ日本にとって沖縄の闘いは決定的に重要であることがここから明らかになる。さらに日本の民衆にとっての日本国家・国家権力批判とは?日本の国家権力を打倒するために、どのような展望を描き、その先の東アジアと世界に開かれた政治社会のあり方を構想するのか?あるいはそのこと自体を「国民的」政治争点としてどのように設定するのか?こうした私たちの未来を切り開くために、沖縄の自立解放闘争に連帯する日本民衆の政治目標設定とその具体化と豊富化が問われている。

3 日本戦後清算・総括の前提

 1609年薩摩による琉球侵略、1879年明治国家による琉球処分は、それぞれ1603年徳川国家、1868年明治政府の成立に対応する。封建的軍事征服国家としての徳川国家の尖兵となったのが薩摩藩であった。明治国家は、近代資本主義国家としての出発点を築き、アジアに押し寄せる欧米帝国主義による自国の植民地化を防ぐ一方、後発帝国主義としてそれらに伍しての仲間入りを果たそうとするものでもあった。大日本帝国は、周辺アジア諸地域、諸国に対して、当初から強い好戦性と侵略性を示した。琉球処分とそれに先立つ1874年の台湾出兵はその初発の現れであった。そして日清戦争、日露戦争、韓国併合から中国侵略・15年戦争に突き進み、1941年「大東亜戦争」開戦から1945年の敗戦にいたる。
 1945年3月、米軍の沖縄上陸によって沖縄戦がはじまり、6月には日本軍が壊滅して沖縄における米軍占領、統治が始まった。8月・日本敗戦により事実上の日沖再分離が行われた。1947年米軍統治下における日本国憲法制定がおこなわれ、1952年対日平和(サンフランシスコ)条約・日米安保条約の発効、沖縄を切断した日本独立、米国アジア支配の枠組みに組み込まれることによって、戦後日本国家はスタートした。そして敗戦後27年間の米軍支配の時代をはさんで、1972年沖縄「復帰」=再併合によって、日沖の歴史が共時化し収斂して現在に至っている。
 憲法「一条と九条の凭れあい」とは、やはり痛烈な指摘だ。つまるところ、「沖縄の経験史から言えば『戦後レジーム』とは、二重の意味での疎外態であった」という事柄は、近代日本国家と社会とが二重に疎外されているという―例えれば日本の国家と社会の関係を、横倒しにしたような―ことに対応するように思われる。帝国主義の植民地支配の類型に、英国を典型とする「自治主義」と仏国を典型とする「同化主義」とがあるというが、いずれも宗主国・国家統治の反映であるとも見える。沖縄が(現在にいたるまで)近代日本国家の「国内植民地」であったかどうかも大きな論議のあるところだし、日本帝国主義の台湾、朝鮮などでの近代植民地経営について、理念的な類型化が可能であるかについても極めて曖昧である。しかし地理的歴史的他者支配のこうしたあり方は、社会と国家との境界の不分明性、分離と癒着との混在を常態とする日本国家の自画像の反映にほかならない。つまりは日本国民のポジティブな政治選択としての憲法制定過程の不存在と、これを代補する天皇制の存続、日米安保体制との補完関係に行きつく。だから私たちは、三次にわたる「琉球処分」を含む日本近代の歴史総括を、「九条選びなおし」を国民的政治課題とすることから始めようとしている。

4 日・沖の歴史的現在と憲法問題

 百年単位の近世・近代を総括することも重要だが、〈いま・ここ〉に焦点を絞って、近い過去、私たちの経験と記憶の及ぶエポックから考えよう。「琉球憲法案」の提出された81年前後のことである。あと知恵ではあるが、この時期―70年代中盤から80年代中盤にかけての10年ほど―はさまざまな意味でとても重要だったことに気づかされる。世界的には、79年イギリス・サッチャー政権、80年米国・レーガン政権に代表される労働組合運動との対決を通じて市場経済の活性化をはかろうとする新自由主義・新保守主義の政権が登場してくる。日本国・社会では、82年中曽根政権とその下での第二次臨時行政調査会(土光臨調)が、国鉄などの分割・民営化の答申を行ったことなどがこれに対応する。また79年にはイラン革命がおこり、80年には隣国アフガニスタンへのソ連の侵攻が行われた。同年ポーランドでは連帯労組が結成され、韓国では79年朴大統領暗殺に続き80年には光州蜂起がおきた。
 これらに先立つ、71年のドルの金兌換停止・変動相場制への移行、75年ベトナム革命の勝利などの大きな出来事が、戦後世界の一時代の終了を告げ、支配者側の次の時代にそなえた対応が80年前後には打ち出され、これに対する民衆の闘いにも今日に続く運動の質が現れ始めた。西独で80年に結成された『緑の人びと』はその典型の一つだ。環境問題をはじめとする社会運動の新しいテーマへの積極的な取り組み、底辺民主主義による組織運営、制度化された政治代表制への挑戦など、60年代末以来の世界的大衆反乱とそれ以降の「新しい社会運動」の経験をぬきにしてその存在は理解できないだろう。だがそれにもまして、いわば「68年革命」の経験と総括を国政に関わる現実政治に結晶させたこと―理念を政策綱領に、力を5%条項を突破する政党組織に―、結党28年を経た今日的な評価はともあれ、ここにこそその意義がある。
 わが国・社会でもこれに類する試みがなかったわけではない。想い起こされるのが、たとえば『労働者綱領』である。55年体制と言われる戦後政治体制は、93年・細川連立政権の登場をもって崩壊したとされる。労働運動の分野でこれを代表した「総評」が解散し、「連合」の発足したのが89年だったが、この右翼的労働戦線統一の動きが顕在化、加速化したのが、80年「統一推進会」発足、81年「労働戦線統一の基本構想」作成、同年「統一準備会」発足という経過であった。これに対抗し、闘う労組の結集に向けて、「『われわれの組合』をめざせ」(『季刊労働運動』誌第23号)という提言が行われたのがやはり80年だった。これを引継ぎ82年、第6回全国労働者集会(大阪集会)で「われわれの基本構想」「労働者綱領」作成の提案が行われ、『季刊労働運動』、『労働情報』、『新地平』などで、これをめぐっての議論が行われた。これは、時代の転換の性格を見極め、資本と国家への批判を明快に表現し、左翼労働運動の団結の内実を公然と掲げようという、闘う労働者の要求に応えようとする試みだった。
 だが、振返ってみれば上記課題は充分には達成されなかった。労働運動の左派結集のための議論だから、憲法や政策全般が扱われなくてもそれは当然であったかもしれない。しかし、少なくとも提案の主唱者にあっては、国家社会のトータルな変革のヴィジョンにこれまでの運動―とりわけ60年代末の全世界的大衆反乱の経験―の総括、情勢の大転換への認識などを組み込み、この新しい時代状況の中での労働運動の基本的あり方、配置を構想する意図があったはずだ。とすれば、この種の作業は、労働運動の延長線上ではなく、別途行われなければならなかった。だが事実として、いまにいたるまで、既成政党を除けば、憲法や国政全般に関わる政策を、系統的に扱うという経験はほぼなきに等しい。『緑の人びと』の例と比較すれば、知や知識人のあり方に関わって、政治的な意味でのアマチュアリズムを払拭できなかったことの結果としか言いようがない。ポストモダンの時代に入って「知識人」なるものが消滅したという類の言説があったが、そうではなく、社会の複雑化が進み、知識・情報が質量ともに急激に増大したことによって、知の役割をになう人の社会的なポジションが変動したということにすぎない。大衆運動と結びついた知識人の役割がなくなったのではなく、むしろ形を変えて一層強まったと見るべきなのだ。支配の側と対抗し、時代の趨勢を見極め、政治社会の変動に対応する支配の体系に対抗するプランを提示すること、国民的な要求を理解し、地球大のスケールで考え国政に介入する展望を現実的なものとして扱うこと、これを大衆運動と結びついた知の課題とすることが、80年前後には否応なしに要求されたのである。だが、これは達成されずに宿題として現在に積み残されている。
 沖縄では屋良主席公選に向かう革新共闘の政治枠組みが形成されたことをもって68年体制の成立といわれ、日本の55年体制にほぼ対応するとされ、これは94年・大田県知事再選の際に革新共闘が解体したことをもって終了したといわれる。日本における93年=55体制の終焉が、そのまま沖縄における政党構造の変化に反映したものだが、日沖の支配−従属構造を考慮すれば、その意義は全く同じとはいえない。同時期の日本社会における私たち自身の経験に比較してみればすぐわかることだ。その間81年の時点で「憲法案」が作成されたことは偶然でもなければ、提起者たちが韜晦するように「知的な遊戯」でもない。「パロディ」ではあっても、沖縄の自立・解放を求める運動は、ことごとく日本国家・国家権力との格闘を強いられるというむきだしの現実が、「憲法案」作成作業をその時点で必然化したものと受け止められる。だから、どんなに抽象的であってもそこには戦後27年、「復帰」後10年の沖縄の民衆の運動の総括が畳み込まれているのであり、この言説を基礎として、一方では固有の民族観念・国家的独立、他方では国家を否定する社会と個人の問題を、絶えず呼び込む、緊張を孕んだ、今日と連続する政治と思想の空間の成立が可能となる。私たちが当面する九条改憲阻止の課題に関わって、沖縄の「憲法案」作成に相当する作業から手をつけるべきかは、今はわからない。だが少なくとも「琉球共和国/共和社会憲法案」を読み込み、理解することは「日本国家」と正面から向き合うための、そしてそれとの対決の政治展望を東アジアと世界に向かって発信するための不可欠な取り組みの一つであることははっきりしている。

5 沖縄自立解放連帯―日・沖の闘いの共時性をアジアに向かって開く

 シンポ「来るべき自己決定権のために」の呼びかけにあるように、来年は薩摩による琉球侵攻400年にあたる。日・沖の政治的支配−従属の起源が想起され、検証されるであろうこの時期を、私たちもまた、辺野古、高江の基地建設反対行動へのささやかな連帯を行いつつ、日本国家・社会の今日的総括の問題意識を携え、共有したい。それとともに、改憲状況をめぐる日・沖の闘いの共時性をシンポを通じて確認し、そこで合意されるのであれば、九条改憲阻止の主張を、それぞれの立場と経験からアジアに向かって発信することを追求したい。これが九条改憲阻止をテーマとする次のシンポによって集約されるのであれば願ってもないことである。
 米軍による日本占領統治を円滑化するために天皇制を温存する(一〜八条)とともに、日本軍国主義の武装解除を行うことを目的として九条は成立し、これとひきかえに沖縄は米国の軍事拠点として差し出され分離させられた。戦争の惨禍を体験させられた日本国民の平和主義への切実な希求が広範に存在したことは疑いえないが、日本敗戦・戦後国家再建時の日米支配階級の政治合意がこの内容に集約されていたことも事実であろう。この政治合意は同時に戦勝国としてのソ連・中国を含む「連合国」の承認を求める身振りをものであった。これに続いて、中国・朝鮮から押し寄せる反帝・社会主義革命の波を抑止するために、日本国内における米軍補助兵力として警察予備隊(自衛隊)創設が決定され、同時に沖縄における米軍基地の拡大強化・固定化が行われ、この一連の政治・軍事過程を総括して日本の独立と日米安保体制が成立した。東アジアは朝鮮半島における38度線、台湾海峡によって区切られ(ベトナムにおける17度線も入れて考えれば、これがヤルタ・ジュネーブ体制であった)、日米同盟はその「西側」―地理的なアジアでは東側なのに―の政治・軍事核の一つとなった。こうした歴史的経緯と要素とが、今日にいたる戦後東アジアの政治支配秩序の原点を構成してきた。第二次世界大戦の終結にもかかわらず東アジアでは、米ソ冷戦構造の磁場のもとで戦争は形を変えて継続し、ソ連崩壊以後も民族分断国家など独特の政治的軍事的緊張は存続して現在に到っている。だがいまや、ようやくにしてこの戦後秩序も大きく変わろうとしている。だからこそ資本と国家の支配の維持強化に向かって、九条改憲や米軍再編などの支配の衝動が突出する。時代の地殻変動のなかで、支配階級の思惑とは違う東アジア民衆連帯の新しい可能性を展望することが切実に求められている。
 その前提は、いうまでもなく日本国民多数が九条選びなおしの闘いの過程を通して、その歴史的社会的成立条件をそれぞれの身体と記憶において確認し、そこから主権性を発動することである。沖縄民衆は、現在にいたるまで「平和憲法」と出会い損ねているし、日本民衆にとっても、米軍の占領と沖縄の分離支配という条件のもとで「平和憲法」が成立したという事実は重い。国民主権の名目を欺く天皇制の明文存続、日ならずしての平和主義に背反する国軍の創設・日米軍事同盟の形成、こうした政治的な欺瞞が、国民の政治意識の退廃をもたらす一つの根拠である。とはいえ九条改憲が政治日程に上った現在、日本国民多数の意志形成と行動をもってこれに明瞭な拒否を突きつけることからはじめるしかない。
 このための私たちの取り組みの核心は、九条成立の地域的・世界的規模での歴史的社会的条件を、それぞれの地域に生きてきた人々の歴史的経験の検証と対話の積み重ねによって共通認識とし、これを基礎とする民衆の連帯によって九条改憲を求める衝動を、その根拠から無力なものとすることである。その客観的条件は既に新自由主義・グローバリズムの一時代によって整えられている。国境を越えて巨大な規模で運動する資本は、同時に世界的にも一国的にも急速に格差と貧困を作り出した。この社会的諸結果から、同様に国境を突破して資本の運動とは逆のベクトルで動く民衆の力とメッセージを現実のものとすることが求められている。90年代末以降、台湾・韓国・沖縄・日本の各地でおこなわれた戦後東アジアにおける国家テロリズムを検証するシンポ(『東アジアの冷戦と国家テロリズム』04年/徐勝編/お茶の水書房)、『ポスト〈東アジア〉』(作品社/06年)の刊行とこれをめぐるシンポの開催など、既にこの種の試みの優れた先例もある。この東アジア民衆の共通の歴史・社会認識形成と、戦力不保持・交戦権放棄の九条の理念とを、日本国家における九条改憲阻止の目的に向かって、国境を越えて訴え、結合することが、私たちの活動の不可欠の条件となる。この作業を近代主権国家のさらにその先の展望のなかに配置すれば、廃絶に向かって国家を開く契機とするための、九条の可能性もここで試される。
 2010年国民投票法の発動による、憲法改悪に抗し、九条選びなおしを国民それぞれの主権性行使の固有の経験とするための、共同の実践を沖縄の人々とともに進めたい。沖縄の政治的自立のあり方は、この運動の結果によって方向性を与えられることになる。他方、日本民衆の主権性創発の強度に応じて、憲法の理念にもとる天皇条項の廃棄と、日本国家における憲法外的規定としての日米軍事同盟=日米安保体制の清算が視野に収められてくるはずだ。国家障壁と資本の利潤追求の論理を越えて人々の直接の経済・社会的結合を促し、歴史を自在に往還して現存国家の統合論理からあふれ出る民衆連帯の発話をより合わせる作業のなかで、この地域に生きる人びとの共同の歴史的社会的認識を形成し、これを基礎に、日本・東アジア、さらに地球大の規模の人々の意志と力によって九条改憲を粉砕すること、ここから東アジアの新しい民衆連帯の時代を展望することがわれわれの願いである。

(『月刊情況』08年5月号)




【2008.4.5】 5.18シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」
 旧態依然として、このコーナーを続けているが、いちいち更新する手間を考えれば、今はやりのブログとやらに乗り換えようかな、と思いながら……
 まぁ、公私多忙と体調不良で2ヶ月以上もご無沙汰。しかし、今月(3−4合併)号の『情況』誌にの「情況への発言」に、来月5月18日に沖縄・那覇市で開催される<シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」>が載っていた。談話室に書き込んだが、<開催趣旨>を全文掲載する。その格調もさることながら、熱にも感動を禁じ得なかったことを記す。
 1997年5月に開催された「〈日本復帰・日本再併合〉25周年 沖縄独立の可能性をめぐる激論会」から11年目でもある。



シンポジウム「来るべき自己決定権のために―沖縄・憲法・アジア」

開催趣旨

薩摩侵略400年、琉球処分130年の前夜へ
 2007年は沖縄にとって画期を記した年であることは疑いようがない。11万5000人が結集、復帰後最大といわれた9・29「教科書検定意見撤回を求める県民大会」は、集った人の数の多さということだけではなく、沖縄戦と歴史認識の問題を世代横断的に繋いでいく経験を創出したという意味で特筆される出来事であった。この経験は沖縄の人々にとってのアイデンティティ形成の固有なあり方を改めて認識させた。
 そして2008年。1609年の薩摩による琉球侵略から400年、1879年の明治国家による琉球処分から130年の「前夜」。2009年の前年という暦は、長い歴史時間のひとつの通過点ということにすぎないにしても、その通過点が節目として位置づけられ、過去の出来事が歴史認識とのかかわりで捉え返されるとき、日本と沖縄の関係史を問い直していこうとする深い動機があることはいうまでもない。なぜ人は過去のある時に特別な意識でもって句読点を打とうとするのか。そうした行為には、過去を救済しようとする願望があるということだが、歴史としての<今>に<終わらない過去>を呼び込む認識行為をもっているということでもある。あの9・29の広場の密度がまざまざと見せつけたのも、沖縄においては未だなお戦争が終わっていないことが世代を越えて分かち持たれていたことである。
 時代が大きくかわろうとしていることが予感を越えて現実のものとなりつつある。
 「米軍再編」という名の日米の軍事的一体化と名護市辺野古沿岸域への新基地建設、日本防衛の西方重視・島嶼防衛と沖縄駐留自衛隊の再編強化、高校歴史教科書に対する検定介入による沖縄戦の記憶の抹殺と岩波・大江裁判、「戦後レジームからの脱却」という名でこの間行われてきた諸法制の改悪と「憲法改正」圧力......などなど。これらの出来事は、ここ沖縄においては、72年の「世替わり」以来の大きな転機になるだろうということは明らかである。
 ところで、では、私たちはそれらの転形期の出来事をトータルに把握する視点と方法を持ちえているだろうか。あるとすればそれはどのようなもので、そしていかなる実践的回路をもっているというのだろうか。


復帰思想の末路から
 1969年の日米共同声明路線に基づいた沖縄の返還=国家併合は、その後の沖縄の歩みを方向づけるものであった。沖縄返還=日本復帰は軍事的には西太平洋の要石としての沖縄の基地機能を損なうことなく、日米の共同管理体制への移行でしかなく、本土との「格差是正」という名のもとに莫大な国家資金を投下した沖縄振興開発にしても、一体化・系列化という名の統合のエコノミーであった。基地機能の維持を目的にしていたという意味できわめて政治的であったといわなければならない。「格差是正」そのものが沖縄という地域を日本の版図に縫い合わせるための強力な編成原理であった、ということでもある。
 いっぽう素朴なナショナリズムから出発した日本復帰運動は、その後の展開過程で「反戦復帰」とか「平和憲法下の日本への復帰」とかいうように機能主義的なデフォルメーションを遂げたとしても、その基底にある<復帰>そのものを問うことはついになかった。そのゆえに領土的思考を越え出ることはできず、沖縄を梃子にしたナショナルビルディングに対して批判力を失い、それどころか自らの破産を覆い隠すかのように「真の復帰」とか「完全復帰」という同化幻想をいっそう原理的に強化しつつ、沖縄社会の解体再編を補完していく役割を演じる以外なかった。復帰運動の論理はいわば、国家統合を代行、ないしは配電する役割を果たしたといえる。復帰後35年、沖縄が独自に形成してきた抵抗のネットワークは分断され、あらゆる領域で系列化の波が流れ込んでいる。


反復帰・沖縄自立の思想資源から群島的主体の創出へ
 とはいえ、そうした日本を「祖国」と見立てそこへ帰一する欲動を、明治の琉球処分以来沖縄がたどってきた同化主義との深いつながりののうちに読み、それを内側から越えていく思想的資源を私たちはもっている。60年代後半から70年代はじめにかけての「世替わり」期の激動のなかで産出され、鍛えられたその実践的思想は、それまでの沖縄の主流をなしていた同化主義的な<主体>のあり方を根本的に批判しただけではなく、「終わらない植民地主義」への持続的抵抗を促しかつ励ましつづける思想の強度を失っていない。
 <反復帰・沖縄自立>論として時代の限界を回り込んだその思想資源は、72年の復帰=国家統合の後、新たな社会的主体と政治的公共圏の創出へと進み出ていった。80年代に入り<琉球共和社会への架橋>として構想された「琉球共和社会/琉球共和国憲法」がそれである。この憲法構想(私/試案)は、復帰思想批判・沖縄自立論を受け継ぎ、沖縄の可能性を天皇とその国家の<外>に開いたところに大きな特徴があった。系列化・同一化へと流れ込む潮流をせき止め、異種の回路を設営し直し、沖縄の可能性をその限界点まで押し広げてく試みであったという意味で十分注目されてよい。
 だが、復帰後の時間の流れは、その憲法構想を宙吊りにしたことも否めない。宙吊りにしたのは他でもない、復帰思想と国家による統合路線の相乗りであった。宙吊りにされたままの<私/試案>を沖縄の今の時代思潮のなかに持ち込んでみるとどうなるだろうか。そして<反復帰・沖縄自立>論から<琉球共和社会/琉球共和国憲法>まで累進していった思考の運動をアジアの文脈で読み込むとどのような視界が開けるだろうか。国家・国民・領土によって囲われた想像の共同体・日本の内面には縫い合わされない沖縄がにわかに立ち上がっていく力線がみえてこないだろうか。


改憲問題を沖縄から見る
 安倍政権の崩壊と参議院議員選挙の自民党の大敗によって、「憲法改正」への動きはしばらく鳴りを潜めた感は否めないが、「改正」圧力は完全に払拭されたわけではないこともまた確かなことである。確実により巧妙にそれはやってくることは間違いない。
 とすれば、いま、何を問い、何をなすべきなのか。
 これまで改憲が状況の先端にせり上がってくる過程で「論憲」「創憲」「護憲」など、幾つもの見解に分かれたが、そうした論戦に違和を感じたのは、日米安保体制の閉域での一国主義的枠組を出るものではなかったことにあり、沖縄の経験史が不在であったことである。いや、本土日本の沖縄返還運動と沖縄の日本復帰運動のナショナリズムが戦後抵抗の最良の遺産を流産させる役目を担ったことに理由を求めてもよいだろう。
 「改憲」に収斂していく「戦後レジームからの脱却」というときの、「戦後レジーム」とは何か。それはどのような内実において語られなければならないのか。沖縄の経験史から言えば「戦後レジーム」とは二重の意味での疎外態であった。そのレジームは、国家主権の潜在と顕在の使い分けによって、沖縄を利用し続け、今もなお利用し続けている。
 つまりこういうことである。日本の「潜在主権」を残しつつアメリカの占領に委ねたこと―排除しつつ繋ぎ止めていた―アメリカ占領下の27年間と、「潜在主権」の顕在化によって日米安保体制の要の再編―併合しつつ排除する―した復帰後の時間として構造化できる。二重の意味の疎外態といった理由である。
 そもそも日本国憲法は、その起源において沖縄の犠牲の上に成立した擬制の体制であった。戦力の不保持と交戦権の否定(第9条の平和主義)と天皇制の存続(第1条の象徴天皇制による国体護持)は、沖縄の分離とアメリカによる占領によってはじめて可能であった。そしてその結び目となったのが、天皇は「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」「天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与をするという擬制の上になされるべきである」とした、いわゆる「天皇メッセージ」であった。日本の戦後レジームを定礎した憲法は、この天皇メッセージによって連結されていたことは疑いようがない。第9条は第1条と表と裏の関係にあり、それは「潜在主権」を残しつつ「貸与」するという形をとって、沖縄をアメリカの占領に供するするまさしく「擬制」の上に成立したのだ。
 沖縄からの視点からみれば9条と1条は不可分の関係にある。
 言葉を換えてみよう。アメリカ占領下の27年間は、「日本国憲法」の外部でまれにみる軍事植民地として<例外状態>に置かれてきた。「日本国憲法」が適用された復帰後も、日米安保体制の要として軍事機能がそのまま保持されることによって今度は「日本国憲法」の内部に<例外状態>を構造化してしまう、より巧妙な擬態を産んでしまった。<例外状態としての沖縄>では、日米安保条約(体制)が「日本国憲法」より上位に立つ倒錯した実態をみせらつけられる。「日本国憲法」は沖縄においてはつねにカッコにくくられなければならない。
 この憲法内部の<例外状態>において、復帰運動の革新的スローガンとしていわれた「平和憲法下の日本への復帰」が、9条が1条と抱き合う擬制への批判を欠いたがゆえに、結局のところ国家統合を下支えしたことが根本的に問題にされなければならにところである。ここに、復帰思想批判を経由して天皇制の外部に構想された<琉球共和社会・共和国憲法>が明かしえぬ共同性として現在に差し戻される理由がある。


沖縄から/沖縄で始まる潮流
 「憲法」が改正(改悪)されることは日本のあり方が根本から変わることである。改憲の最終的な標的は9条にあることも疑いようがない。9条が変わるときは戦後政治と社会の風景の基調が変わることを意味する。そのことの決定的な意味に自覚的でありたい。
 とはいえ、「改憲」阻止の論拠は、ここ沖縄においてはいうまでもなく二重の階梯をくぐることが要請される。より象徴化していえば1条と9条の凭れ合いの構造としての日本の戦後は、沖縄を疎外しつづけてきたわけであるが、沖縄から打ち立てられる視座は、そうした凭れ合いの上に成立した戦後国家と戦後意識の私小説的な球面を同時に問いつつ、改憲に装填されている国家意思の膨化を解除し、国民の物語の外を開鑿する試みに開いていくうちに見出さなければならない。
 沖縄の歴史と体験からいえば、「日本国憲法」はつねに異議提起の対象であった。より大胆にいえば、憲法の選び直し、もしくは創り直しの対象でしかなかったということである。復帰運動においては平和憲法を幻想化したために自衛隊の進駐という現実によって破綻した。いわば「日本国憲法」と出会い損ねたということであるが、皮肉にもいま、復帰思想を出自にした沖縄革新が、改憲状況の露出によって「日本国憲法」と出会っているというきわめて逆説的な光景を目撃させられている。
 <反復帰・沖縄自立>論は、沖縄から憲法を幻想する根拠を問い、平和主義が象徴天皇とまぐわう陥穽に視線を届かせ、沖縄の文化的・政治的主体を異なる文脈に差し向けた。二重の階梯とは「日本国憲法」それ自体が孕む陥穽と沖縄と「日本国憲法」の出会い/損ねの原像を同時に抉り出し、<例外状態>からの脱却と沖縄の主体を「改憲」や「護憲」という、それ自体「日本国憲法」の構造的欠陥に規定された二項とは別の地平に開いていくこと、そこに「命がけの飛躍」の戦線が浮上してくるはずだ。それはまた沖縄の自己決定権を呼び込んでいく場にもなるだろう。沖縄で/沖縄から「改憲問題と自己決定権」についての論議が開始される意味と価値がある。
 いまだからこそ問わなければならない。われわれはどこから来て、どこへ行くのか、と。改憲状況を簡単に通り過ぎるわけにはいかない。立ち止まり、目を落として考えてみたい。問題の所在を明らかにし、幅広い論議を尽くす、そのための場を設営していきたい。沖縄自身の自立の発明と自己決定のドキュメントを製作していくために――




【2008.1.29】 新城郁夫『到来する沖縄 ――沖縄表象批判論――』を読む。
 この間、「合意していないプロジェクト」を始め、行動する知識人として活躍する新城郁夫の新刊である。風游サイトでも幾つかの文献をアップしているが、以下、初出紙誌を含めた目次の紹介。

序 章
 不可能性としての「自画像」(『沖縄タイムス』2003年4月17〜18日)
第一章 反復帰・反国家論の現在
 「にっぽんを逆さに吊す」――来たるべき沖縄文学のために(『日本近代文学』第75集、2006年)
 沖縄・歌の反国家――新城貞夫の短歌と反復帰反国家論(『国語と国文学』第996号、2006年)
 沖縄でサイードを読む(『季刊前夜』第2号、2005年)
 『人類館』断想(『季刊前夜』第9号、2006年)
第二章 日本語を裏切る
 呼ばれたのか呼んだのか――デリダ『他者の単一言語使用』の緑をめぐって(『現代思想』2005年12月号)
 「愛セヌモノ」へ――拾い集められるべき新城貞夫の歌のために(『音の力 沖縄アジア臨界編』2006年)
 日本語を裏切る――又吉栄喜の小説に於ける日本語の倒壊(台湾東海大学でのシンポジウム発表原稿、古川ちかし、林珠雪、川口隆行編『台湾・韓国・沖縄で日本語は何をしたのか』三元社、2007年)
 沖縄を語ることの政治学に向けて(岩渕功一・多田治・田仲康博編『沖縄に立ちすくむ――大学を越えて深化する知』せりか書房、2004年3月)
第三章 元「従軍慰安婦」問題と戦後沖縄文学
 奪われた声の行方――70年代沖縄文学を「従軍慰安婦」から読みかえす(『文学史を読みかえる7〈リブ〉という革命』2003年)
 文学のレイプ――又吉栄喜『ギンネム屋敷』論・戦後沖縄文学における「従軍慰安婦」表象(ソウル大学でのシンポジウム発表原稿、報告書『継続する東アジアの戦争と戦後』掲載、2005年)
第四章 抵抗の現在
 「日本復帰」への違和――境界を積極的に生きる勇気(『朝日新聞』2003年5月15日)(初出タイトル 帰属すべき「国」への違和感――境界を積極的に生きる勇気)
 炎上する沖縄で考える――米軍ヘリ墜落(『沖縄タイムス』2004年8月24日)
 資源化される沖縄の命(『図書新聞』2004年9月24日)
 差別政策への抵抗(『琉球新報』2004年10月11日)
 沖縄をめぐる「対話」の困難のなかから(『図書新聞』2005年3月12日)
 沖縄戦を語る言葉の到来(『沖縄タイムス』2005年6月22日)
 反省そして抵抗の再創造(『沖縄タイムス』2005年10月31日、11月1日)
 国家暴力に抗する――私たちが生き残るために(『琉球新報』2005年11月3日)
 軍事支配の病理(『琉球新報』2006年2月2日)
 日米「合意」と沖縄(『沖縄タイムス』2006年5月9日)
 沖縄は「合意」の暴力を拒絶する――日本という「国家」からの離脱に向けて(『世界』2006年6月号)




【2008.1.1】 『世界』(774 臨時増刊2008.1.1)を読む。
 自らも当事者としてではあれ、さすが『世界』である。<沖縄戦と「集団自決」−何が起きたか、何をつたえるか>とし題しての臨時増刊号の発行である。その中で、“「明かしえぬ共同体」としてアジアに向かって開くとき、沖縄の〈あらがい〉が方法としてのアジアを獲得するときになる”という象徴的な一節を末尾として書かれた仲里効さんの論攷を採録。

魂込み(まぶいぐみ)
――最後の言葉から始まりの時へ


仲里 効(なかざと・いさお 1947年生まれ。文化批評。)



通い合う沈黙

 これは巨大な耳だ。広場が巨大な耳になった、と思った。「教科書検定意見の撤回を求める県民大会」に押し寄せた人の密度を目の当たりにしての率直な感想である。会場となった宜野湾海浜公園は、勢いを増した人の波で盛り上がり、大会がはじまった後もとどまることをしらずいっそう厚みを増していった。12年前の95年、米兵による少女暴行事件へ抗議し日米地位協定の見直しを要求する大会のときも同じ会場にいたが、そのときの人の密度をはるかに越えていた。途中、参加者人数が11万名とアナウンスされたときどよめきが走り、宮古や八重山での参加者数を合わせると11万6000人にものぼったという。
 だがそれよりも、広場のほぼ真ん中にいて感じたことは、これほどの人が集まったというのに、異様なほど抑制された静寂があったことである。その静けさはこの種の集会の常識を越えていた。いったいこの出来事をどう理解すればいいのだろうか。整然と広場を埋め、壇上の発言者の声に耳を傾けている。広場が巨大な耳になった、と思ったのはそうした群衆の静かに聴き入る姿勢からくる印象であった。誰が演出したわけでもなく、そこに出現したのは、巨大な耳としかいいようがなかった。そしてその耳の印象に加えてさらにもうひとつ広場に漂う強い気配を感じ取らずにはおれなかった。それは類としての「魂込み」といっても過言ではないような、死者たちへの呼びかけと死者たちからの呼びかけのようなものである。人々はいわば沖縄戦の死の訴求力を沈黙において通い合わせていたのかもしれない。
 この「復帰後最大」と新聞やテレビでも報道され、95年の米兵による少女暴行事件に抗議する大会を上回る人々を広場へ駆り立てたものは一体何だったのだろうか。まず言えることは、日本軍による集団自決の軍命を教科書から削除する検定意見をきっかけにして、これまで沈黙していた体験者たちが重い口を開いて語りはじめたことである。そうさせたのは沖縄戦の記憶と日本軍の責任の所在が消されることに対する強い危機意識であった。例えば、仲里利信大会実行委員長自身が、これまで妻子にすら語ったことはなく、グソー(あの世)にもっていくつもりだったという、アメリカ軍の砲撃から逃れた宜野座村のガマで、日本兵から泣き叫ぶ妹やいとこの命を断つよう毒入りおにぎりを渡されたことやガマを逃れてさまよったうえ、幼い弟を失った体験をはじめて明らかにした。渡嘉敷島での集団自決の生き残りの一人吉川嘉勝さんは「年を取り、いつまでも証言できるものではない。最後の機会という思いで訴えたい」と心境を語っていた。
 また、座間味島での「集団自決」を逃れたものの妹を爆撃で失い、戦後島を離れいちどは島に行かねばと思いつづけてはきても、気が重くていけなかったが、軍関与の削除がきっかけとなって、「いてもたってもいられなくなって」62年ぶりに島に渡った上里和子さんのケース、そして、進学や就職で島を離れ、「定年後島に戻っても戦争について触れることはなかったが、今年の春、ついに口を開いた」中村一男さんの場合など、沈黙を破って語りはじめた「集団自決」の体験者の切迫した言葉が物語っている。
 これまで沖縄戦の証言は、沖縄の現代史のあり方と不可分に結びついていた。渡嘉敷島での集団自決の生き残りの一人である金城重明さんが、母親と弟妹を兄とともに手にかけた体験を公の場で語りはじめたのは、赤松嘉次元海上挺進隊隊長が合同慰霊祭に参列するため来沖したことに対し、激しい抗議行動が行われ、隊長命令はあったのかどうかが問題にされたときであった。
 この時期にはまた、日米共同声明路線に基づく沖縄の「日本復帰」の内実が明らかになり、自衛隊の沖縄進駐がはっきりしたことから、改めて日本軍に対する沖縄の人々の集合的記憶を呼び戻すことになった。その後1984年に文部省(当時)による教科書検定制度と、その運用手続きなどの違法性を訴えた家永「第三次教科書訴訟」をめぐる取り組みのときも似たような現象が生じた。この訴訟には日本の侵略、南京大虐殺、731部隊による生体実験、そして日本軍による沖縄住民虐殺や集団自決などが含まれて、沖縄戦記述に関して沖縄出張法廷が認められたことで、沖縄の内部で大きな波紋を呼び起こした。体験者が堰を切ったように日本軍による沖縄住民虐殺の目撃証言を語りはじめ、沖縄戦研究の蓄積が実証的にも理論的にもより緻密に検証されもした。
 そして今年の3月の高校歴史教科書の検定によって「集団自決」の軍命の削除である。沖縄のメディアは素早い反応を見せ、連日のようにその問題点や沖縄の内部に広がる抗議の声などを拾い上げていった。それまで沈黙していた人たちが重い口を開き「集団自決」の体験を語りはじめた。注目したいのは、体験者の証言にこれまでとは異なる声の質と響きが込められていることである。その声の質とは先に紹介した「年を取り、いつまでも証言できるものではない。最後の機会という思いで訴えたい」という言葉の内にある、切迫した危機意識である。この危機意識にはこれが〈最後の時〉になることと、同時に〈最後の言葉〉であることが予感されていた。沖縄戦を体験し、それを証言として語れる世代がすでに二割を切って一割台に入ったといわれる。この一割台の戦中世代の「いてもたってもいられない」思いが、9・29に至る状況を内側から動かしたのだ。
 こうした自らの死を意識し体験の臨界点で発せられた言葉が、戦争を体験していない戦後世代の心をつかむことになった。体験者が〈最後の時〉の〈最後の言葉〉として語り、子や孫の世代は〈最後の言葉〉として聴くことがなければ、これほどの反響は起こりえなかった。そうした語り手と受け手の分かち合いやコンパッションが広場を埋めた人の密度を特徴づけていたことは間違いではない。語りを通わせ、新たな世代の文体で発見し直す集積された回路が類として存在し、現実的に機能していったということであろう。
 〈最後の時〉と〈最後の言葉〉をめぐるダイアローグが9・29の広場の思想としてあったのだ。ここにはまた、「世代」という時間の概念がただ単に概念としてだけではなく、リレー装置として生きられたということでもある。広場が巨大な〈耳〉になり、〈魂込み〉だったということはそういった意味である。
 だからこそ体験者が封印を解いて投げ返した〈最後の時〉の〈最後の言葉〉が、それを分有する世代によって〈始まりの時〉と〈始まりの言葉〉として翻訳し直される場にもなった、ということになる。翻訳とは根を損ねることなく、根を生き直すことであり、蘇らせることであるはずだ。

歴史意識の潜勢力

 ところで、こうした記憶の分有と潜勢力を、沖縄の民衆意識にみるとどうなるだろうか。
 琉球新報社では「21世紀の沖縄県民像を探ろう」と「日常の県民生活に密着した事項や、沖縄の伝統文化に関する関心、他府県出身者との接触の中でとらえた県民の自己意識、沖縄の現状と未来に対する政治的・社会的な意識の在り方を、調査して浮かび上がらせ」ようと6項目の設問からなる「県民意識調査」を5年ごとに実施し「県民自身が描いたウチナーンチュ(沖縄人)の自画像」を探り当てている。
 調査は2001年と2006年の2回行われたが、政治・社会意識を問う項目に「沖縄の近・現代史の出来事で何が、最も重要だと思いますか」という設問がある。01年、06年のいずれも〈沖縄戦〉が1位で〈日本復帰〉が2位、そして3位に〈米兵の少女暴行事件及び基地縮小を求める10・21県民大会〉となっている。
 この調査結果は男女、地域、世代別に多少の差はあるものの、その差を横断して分かちもたれていた。これをもう少し異なる視点で見てみると、沖縄が日本という国民・国家へ統合されるときの縫合線のありかたが浮かび上がってくるように思える。
 調査にあたっての「はしがき」でいみじくも「全国と沖縄を比べるとき、県民は47都道府県と自らを同列に置いた47分の1の発想にはならない。いや、ならなかった。常に2分の1の立場で考える。2分の1というのは、中央対地方という対比ではない。ヤマトゥ対ウチナー。いつも沖縄があって、海の向こうの国内は、ひとくくりにしてヤマトゥだ」と言っていた、日本という国家のフレームには収まり切れない独特な「発想」があることを無視することはできない。
 〈沖縄戦〉がいかに沖縄びとの歴史意識の最も繊細にしてかつ強固な比重を占めているのかが分かるというものだが、そこに少なくとも「はしがき」でいわれたベーシックな自他認識があったことを忘れてはならない。沖縄の民衆意識に示された「沖縄戦」と「日本復帰」という2大トピックは、沖縄が沖縄であることにひき戻し、日本が沖縄を統合する縫い目の問題性を問い直す。
 9月29日、広場に集った群衆の密度と潜勢力はそのような位相において理解されなければならないだろう。「県民へのアピール」はこんな韻律を探り当てていた。
 「砲弾の豪雨の中へ放り出され/自決せよと強いられ/死んでいった沖縄人の魂は/怒りをもって再びこの島の上を/さまよっている/いまだ砲弾が埋まる野山に/拾われない死者の骨が散らばる/泥にまみれて死んだ魂を/正義の戦争のために殉じたと/偽りをいうなかれ/歴史の真実をそのまま/次の世代へ伝えることが/日本を正しく歩ましめる/歪められた教科書は/再び戦争の破壊へと向かう/沖縄戦の死者の怒りの声が/聞こえないか/大和の政治家・文科省には届かないか/届かなければ 聞こえなければ/生きている私たちが声を一つにして/押し上げ 訴えよう」と。
 このアピールから伝わってくるのは、〈終わらない戦争〉ということである。死者たちへ返すまなざしと怒りを立てて歩まそうとするゆるぎない意思の存在である。
 ここでの訴えは国民の物語の内部にとどまっているにしても、「死んでいった沖縄人の魂」とそれが今もなお「さまよっている」ことによって、アピール主体の意図をも越える質を持っている。
 むろんここでの声を届ける対象はヤマトの政治家でありその政府であり、「泥にまみれて死んだ魂」を「正義の戦争」や殉国美談に偽ることを拒み「日本を正しく歩ましめる」というコンテキストのうちに据えられているが、沖縄戦とその死者の魂の「さまよい」や「拾われない死者の骨」は「さまよう」ことと「骨」そのものにおいて国民の物語のコンテキストには回収されない強度を孕み持っていた。
 このアピール文の格調は、沖縄人の語りのあり方や、その限界と可能性を二重に表出しているという意味においても注目されてもよい。まさしくこの二重性は、日本国家が沖縄を縫い合わせる縫合線に働いている力のあり方と異議提起の訴求力を凝縮した形で提示されているとみてよい。「県民意識調査」で沖縄の近・現代史の出来事で何が、最も重要だと思うかの問いへの答えとして示された〈沖縄戦〉の比重の高さに抱懐されているものの可能性と不可能性を示唆しているといっても、決して言い過ぎではないはずだ。
 9月29日の広場で分有された「魂込み」の思想に瞠目しつつも、なおそこに潜在する沖縄びとの心的現象の矛盾に満ちたパラドックスに、くり返し立ち返らせられるということでもある。死ほど訴求力の強いものはない。だからこそ国家と国民はその訴求力を自らの物語に繋ぎとめようとする。
 さまよう「死者の魂」や「拾われない骨」をナショナルヒストリーへ縫い合わせる手前で解きほぐし、「魂」と「骨」それ自体の文法を創り出すべきなのだ。とはいえ、広場において通い合わされた「魂込み」と異議提起のうねりは、沖縄民衆の経験史にとっての大きな結節点になるであろうことは間違いないだろう。

「魂込み」、あるいは「明かしえぬ共同体」

 9・29の広場の思想を「魂込み」の通い合いとしたのは、唐突に聴こえるかもしれないが、目取真俊の小説『魂込め』との深い共振を見たからである。とりわけ大会アピール文の「沖縄人の魂」の「さまよい」とか「拾われない骨」という言葉に含意された〈継続する沖縄戦〉においてである。つまり、あの11万人もの群衆によって埋め尽くされた広場の共同性は、沖縄戦の死者の魂といまだ拾われていない骨の分有においてはじめて可能となった空間であった、というべきだろう。広場において出現した出来事の核心は「明かしえぬ共同体」として生きられたということでもあるはずだ。
 目取真俊の『魂込め』は、終わらない沖縄戦(とその記憶)がいかに沖縄びとの戦後の時間に流れ込んでいるのかを鮮やかに描きこんでいる。
 主人公のウタは夫の清栄を日本軍によってスパイ容疑で殺され、戦後を独り身で生きてきた。あのイクサは夫も含めかけがえのないものを奪った。食糧確保のため海辺の畑に一緒に出かけた幼馴染のオミトは、海亀が浜辺に産み落としたばかりの卵を、危機を顧みず拾っていたところ、日本軍によって銃殺された。日本軍と海上に群れなすアメリカ艦船にさらされた浜辺に横たわったオミトの亡骸に、必ず迎えに来るからと心で誓いつつ、浜を後にして避難壕にもどるが、男たちは日本軍に連れ出され女と子供しか残されていなかった。戦後、収容所から解放されてすぐ浜に行ったがオミトの遺骸はすでにどこへともしれず消えていた。ひとり生き残ってしまったウタは、オミトと勇吉の間に生まれた幸太郎をわが子のように育てた。虚弱な幸太郎は幼い頃よく魂を落としたが、そのたびにウタは落としたマブイ込みをしてやった。幸太郎がマブイを落としたのは、オミトが迎えに来たからだと思い、そのたびにオミトにお願いし魂を呼び戻してもらった。
 大人になった幸太郎は妻を娶り二人の子に恵まれ、以前のようにマブイを落とすこともなくなったが、ある朝、アーマン(大きなヤドカリ)が幸太郎の口の中に入り込んだ。ウタは浜すう木の下で海を見つめている幸太郎の魂に戻ろうと懸命に呼びかけるのだが幸太郎のマブイは戻ることはなかった。「魂込み」は今度ばかりは成功せず、ウタは自分の無力を嘆いた。幸太郎の口の中に入り込んだアーマンは日に日に大きくなってマッチ棒の先のような両目や赤紫のグロテスクな爪を眠り続ける幸太郎の鼻先や口からのぞかせる。
 海亀が砂を蹴り上げて砂浜に産卵を始めた梅雨前の満月の夜、幸太郎の魂がはじめて動いた。そこはオミトが海亀の卵を拾おうとして銃殺されたところであった。幸太郎のマブイが消え、海蛍が二つ光っていた。不吉な予感に撃たれ幸太郎のところに戻ると、噂を嗅ぎつけたヤマトの雑誌記者とカメラマンがフラッシュを焚いた瞬間、びっくりしたアーマンがあわてて口の中に入り込んだとき、喉を塞ぎ幸太郎は窒息死してしまった。死んだ幸太郎の口からアーマンを引きずり出し、最後はウタが振り下ろした鍬でアーマンを仕留めるが、その瞬間振り向いたマッチ棒のような目に、このアーマンこそオミトの生まれ変わりではなかったか、という思いにウタは胸を衝かれる。
 すべてが済んだ後、ウタは海亀の孵化が近づいた夜の浜に出て、浜すう木の下で海を見ながら記憶と現実の区別がつかない状態で夫の清栄との幸福だった時間や父のこと、そして、イクサの記憶を漂う。海亀が孵化し海に戻り、海蛍が光っては消える波に足首を洗われながら海に向かって祈った。しかしウタの「祈りはどこへも届かなかった」――。
 この「魂込み」が読む者の心を撃つのは、主人公のウタにおいて生きられている〈終わらないイクサ〉である。イクサを終わらせないのは、ウタの幼馴染のオミトを浜に置き去りにしてしまったことの取り返しのつかない罪悪感であり、その罪悪感は決して償われることはないことで、生き残った者の時間をより深くあのイクサに繋ぎとめてもいる。これまで成功した幸太郎の「魂込み」が失敗に終わったことが示唆するものは、ウタの戦後の時間を貫いて心にわだかまって離れない罪悪感と関係していた。取り返しのつかないものを取り返すこと、だがそれは未遂に終るほかはなかった。
 沖縄の近・現代史で最も重要な出来事として示された「沖縄戦」の内実は、ここでは最も困難な「魂込み」として試されているということである。『魂込め』はだから「魂込み」の不可能性を描いたものであり、その不可能性において〈終わらないイクサ〉をいまなお生きなければならないパラドックスに満ちた沖縄の戦後のあり方を問いつづける。「戦後ゼロ年」という言葉はそういった意味においてこそ理解されなければならないはずだ。
 9・29の広場に分有された「魂込み」を感じ取ったのは、目取真俊の『魂込め』のウタにおいて生きられた心の現実を、沈黙を破って語り始めた「集団自決」の体験者の〈最後の言葉〉と共通するものをみたからである。
 この〈最後の言葉〉を〈始まりの言葉〉にするためには、日本がアジアを踏み荒らした植民地戦争による死者たちの無念の閾に開いていくことではないだろうか。今もなおさまよいつづける沖縄人の魂や拾われない死者たちの骨、そして泥にまみれて死んだ魂を「日本」というフレームに縫い合わせることではなく、沖縄のイクサで死んだ従軍慰安婦やアジアの死者たちと通い合う関係において掬い上げていくとき、はじめて〈始まりの言葉〉としてよみがえるだろう。
 「本土決戦」をひきのばすための「捨て石」となった沖縄戦とその死者たちを、ナショナルビルディングに横領させてはならない。もっとも難易度の高い「魂込み」を試みた「県民へのアピール」はそのリミットを回り込まなければならない。
 ここにおいてこそ、かつて高校教科書から中国、韓国、東南アジアについての記述とともに日本軍による沖縄住民虐殺が削除された教科書検定問題において、沖縄の〈あらがい〉が「たとえば韓国や東南アジアの民衆のあらがいと切実に結びついているということが、この問題を通して明らかに浮かびあがってきたことであるから、今度のその教訓は大切にされるべきこと」としつつも、沖縄で「教科書問題が燃え上がった頃、筆者には一つの危惧があった。それには、教科書に殺害の記述の復活を要求することが、そのまま教科書を絶対化することにつながりはしないか」とした岡本恵徳の危惧が想起されなければならないだろう。
 岡本の危惧は「誤解をおそれずにあえていえば、『渡嘉敷島の集団自決』と『復帰運動』は、ある意味で、ひとつのもののふたつのあらわれであったといえよう」(「水平軸の発想」)とした、沖縄の日本への統合を問う世替わり期に練り上げられた、痛切な認識に裏づけられていた。この「水平軸の発想」からの遠い呼びかけが、いま、もっとも近くの声として私には聴こえてくる。
 「集団自決」への軍命の削除が、新自由主義史観の台頭や防衛庁の省への昇格、日本防衛の南方重視への転換、そして日米軍事再編という状況の要諦として現れていることに思いを返すとき、沖縄の〈あらがい〉の質はいっそう切実に問われてくる。
 「集団自決」へと沖縄住民を駆り立てた目もくらむほどの深淵を、9・29の広場で分有された「魂込み」をアリーナとしつつ「明かしえぬ共同体」としてアジアに向かって開くとき、沖縄の〈あらがい〉が方法としてのアジアを獲得するときになる、と思う。

(世界774臨時増刊/岩波書店2008.1.1)




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