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【2016.02.09】 仲里効「沖縄戦後思想史から問う:『県外移設』論」を読む
 もはや、この問題について、これ以上の論考はない、とさえ言えるほどのものである。琉球新報に本年1月20日より三回にわたって連載されたもので、「基地移設論の手前で踏みとどまること、少女を陵辱した戦争器官を〝いま〟と〝ここ〟においてなくすことを非暴力直接行動や自立の思想的拠点において組織し返していくこと」の必要性と、「沖縄が生き延びていくための原理」を鋭く問う。



沖縄戦後思想史から問う:「県外移設」論

仲里 効
(なかざと・いさお 1947年。南大東島生まれ。映像批評家。「越境広場」編集委員。主な著書に「悲しき亜言語帯」(未來社)、「フォトネシア」(同)、「眼は巡歴する」(同)など)


<上>死者の声を聴くこと

二重の植民地主義を内破

 昨年本紙で「県外移設という問い」(8月20日~9月8日)が5回にわたって連載された。その後連載へ応える高橋哲也氏の「今こそ『県外移設』を」が上・下(11月2日、3日)で載ったが、高橋氏のそれは連載最終回のインタビュー「識者に聞く」で、一定の留保ないし疑義を呈した新崎盛暉氏と私への応答に主に紙面を割いていた。
 そのインタビュー記事は、1回で4名のコメントを拾うというきわめて限定的な内容だったため、意を尽くしたものとはいえなかったことや、高橋氏の応答によってもなお疑義は解消されなかったことから、あらためて県外移設とそれを支持する論陣を張る高橋氏の見解を沖縄の戦後思想史の論脈から問い返していく必要性に迫られた。

奇妙な既視感
 「日本人よ、いまこそ基地を引き取れ」という呼びかけにイエスと応え、「引き取る」運動に対して「新たな運動ののろし」(本紙、記者リポート)という形容がなされる。たしかにいままで見られなかった取り組みであり、その意味で「新しい」と形容しても間違いにはならない。しかし、その理路を注意深く見ていくと、奇妙な既視感を抱かされる。
 それというのは、基地の移設によって負担平等を求めていくロジックに、沖縄の戦後史をひと色に染めた「復帰」運動が日本国家の制度的枠組みに入ることによって差別の解消と平等を求めたベクトルを見てしまうからである。そこでの宛先は、「民族」や「国民」であったため、日本国家の沖縄再併合の狡知に無惨なまでに刈り取られていった。
 「復帰」運動が日本(人)との一体化を目指したのに対し、基地移設論は「無意識の植民地主義」を論拠にした日本(人)と沖縄(人)を区別している違いがあるにしても、である。
 話を分かりやすくザックリと言えば、8割の日本人の安保支持を前提にした負担平等は、安保をもって安保体制をなくそうとする二段階改良主義にして体制内差別解消であり、それを動かすのが「日本人」と「沖縄人」の対項である。安保をもって安保体制をなくすことはできるだろうか。否である。天皇をもって天皇制を、原発をもって原発体制を、戦争をもって戦争体制をなくせないように。

一方的「犠牲」か
 高橋氏は米軍基地の沖縄集中は「一方的に押し付けられた『犠牲』」であり「日本(人)による一方的な差別だと言う。そのことは「沖縄が『基地を引き取れ』となかなか言えないのは、沖縄の優しさや弱さではなく歴史体験があるから」で、「沖縄戦の死者の声を聞き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」とした私の発言に、「沖縄の『痛み』に沖縄は責任がない。一方的に押し付けられた『犠牲』だ」という断言を導く。
 はたしてそう断言できるだろうか。私のコメントは、沖縄から出てきた基地の「引き取り」運動に対し、高橋氏がその著書のなかで「従来の運動が打ち破れなかった枠、自分たちに基地を押しつけているのは『ヤマトの人達』であると明示するのを避けてきた『沖縄の優しさと弱さ』の枠を打ち破るためのものであった」と評価していたことへの沖縄戦の死者の声を聴き取ることからする異議提起のつもりであった。
 「優しさと弱さ」の枠とは何か、そしてそれは打ち破るべきものなのだろうか。基地を引き取れという手前で踏み止まること、沖縄戦の死者たちの声を聴くこととは〝弱さ〟を〝弱さ〟のままに生存の思想を紡ぎ、そのことによって戦争に繋がるいっさいの〝強さ〟を拒否していくことではなかったか。

同化「日本人」
 被害と加害が捻り合った「集団自決」や「復帰運動」が再生させた「同化主義」と「国民主義」を批判的に踏み越えた沖縄の戦後思想の核心は、「痛み」や「犠牲」の内にある二重性に分け入り、そのことによって、戦争責任と戦後責任を課題化していったはずだ。
 基地の沖縄集中が「日本(人)による一方的な差別」だとしても、その差別主体を一方的に焦がれ内面化した戦後沖縄の自己史をシランフーナーするわけにはいかないだろう。そのことはかつて沖縄人が東南アジアや南洋群島において「オートロハポン」(もう一つの日本人)と呼ばれて抑圧移譲の鎖に繋がれ、他の植民地に先がけた同化「日本人」としてアジアの人々に「痛み」や「犠牲」を強いていった過去を忘却するわけにはいかないように。
 高橋氏が「決定的なのは」と前置きして、「植民地主義と差別の主体である『日本人』の責任をどう考えるか」と問う、その「日本人」も沖縄においてはすでに二重である。
 沖縄(人)のなかに日本(人)が折り重なり、日本(人)のなかに沖縄(人)が流れ込んでいるゆえに、「日本人」の責任を問うことは、裁きの門前に〈私のなかのもう一人の私〉の出頭を促す。この〈単数にして複数〉の主体の在りようは「日本人」と「沖縄人」を同時に問い、それぞれが純粋化と全体化へと向かう動きに内側から歯止めをかける。
 こうした二重の植民地主義を問い、内破することにおいて沖縄の戦後思想はポストコロニアルな地平に踏み込むことができた。もっと言えば、「沖縄人」とは当たり前の前提として即時的に〝ある〟のではなく、不断の脱植民地化によって〝なる〟という動詞的存在なのである。(琉球新報20160120)


<中>「包摂的排除」の狡知

疎外される主観的意図

 沖縄が植民地主義と決別するには、二重の作業を要請される。そのために沖縄に働く差別と抑圧、統合の政治がいかなるものであったかが明らかにされなければならないだろう。ここでは高橋哲哉氏もその象徴性に注目していた「天皇メッセージ」を取り上げて考えてみたい。なぜなら、その象徴性をどう認識するかは日本国家の沖縄支配の構造と、沖縄における脱植民地化への道とけっして無関係ではないからである。

残存主権と擬制
 「天皇メッセージ」とは、1947年9月に昭和天皇が側近を通してマッカーサ―とアメリカ政府へ、沖縄と南西諸島を「25年ないし50年ないしそれ以上」アメリカが軍事占領し続けることを希望し、そのことは「米国の利益になり、また日本を守ることにもなる」としたメッセージである。高橋氏が「熟慮したいのは」と注意を促し、「日本の安全保障のために米軍に頼り、その米軍の駐留先として沖縄を利用する構図が、この『天皇メッセージ』から今日の安保体制に至るまで貫かれているのではないか、ということだ」と指摘したように、その象徴性が何を意味するかは明らかである。追言すれば、すでにはじまっていた冷戦の力学を利用しつつ、国体護持と天皇の戦争責任を回避する意図が隠されていた。
 それ以上に注目したいのは、「米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借(……)という擬制に基づいてなされるべき」だとした「残存主権」と「擬制」である。とりわけ「残存主権」は沖縄統治(併合と分離と再併合)の要諦(ようてい)にかかわる鍵語とみてよい。「沖縄は日本の利益のために米国に差し出される」と高橋氏は言う。その通りである。しかし、沖縄をただ差し出すだけではない。重要なのは、差し出しつつ取り込むもう1つの力学が装填(そうてん)されていることにある。この力学を〈包摂的排除〉と呼んでみる。

侵犯された境界
 問題なのは、〈包摂的排除〉が支配の領分にとどまらず、沖縄の主体意識をもゆさぶったことにある。前回触れた沖縄(人)のなかに日本(人)が折り重なり、日本(人)のなかに沖縄(人)が流れ込む捩(ね)じり合いにかかわるからである。
 ここにおいては、アイデンティティとポジショナリティの関係も明快に区別してみせたようには自明ではない。「『県外移設論』が問題にしているのは、そうした『日本人』のアイデンティティとは区別される『日本人』のポジショナリティであり、『沖縄人』に対して基地を押しつけてきた差別者としてのポジショナリティである」としても、そのポジショナリティにおいてすでに「日本人」と「沖縄人」が前提にされているわけで、「日本人」と「沖縄人」の境界は沖縄の近現代史のなかで内と外から侵犯されていることの 〝汚れ〟と〝雑音〟に目を瞑(つむ)ることはできない。〝汚れ〟と〝雑音〟を一方向に純粋化し、たった一つのものとするのではなく、いや、たった一つのものではあってもそれは私のものではない位相をもはや無視し得ないだろう。いま、こうして書いている言語(日本語)にしてからがそうである。
 〈包摂的排除(排除的包摂)〉という視座から沖縄の戦後史を振り返ってみると、72年の「日本復帰」を境にしてそれ以前と以後が反転し合わせ鏡の関係になる。アメリカ支配下の27年間は沖縄を排除しつつ包摂し、「復帰」後は包摂しつつ排除していった。

ダッチロール
 かつて私は野村浩也氏の『無意識の植民地主義』の書評(沖縄タイムス、2005年6月25日)で「『終わらない植民地主義』への容赦のない批判的精通」であり、「沖縄の言説史に太い句読点を打つ一書になる」と評価しつつも、「イャームンヤワームンを身上とする〈グラフト(接ぎ木)国家〉に、したたかマチうたれてきたダダ的吃音(きつおん)からみれば、繰り返し主張される『日本に米軍基地を持ち帰ってほしい』という『負担平等』の回路は、ダッチロールを招きかねない」と疑義を呈したことがある。
 ここには沖縄の主張をあたかもそれが自分のものであったかのように接ぎ木し、消去する〈グラフト国家〉としての日本の、排除しつつ包摂(包摂しつつ排除)する支配の狡知(こうち)につねに意識的であるべきことと、「日本に米軍基地を持ち帰ってほしい」と反復する主張が日米の軍事再編に横領されかねない危惧を表明したものである。
 「ダッチロール」といういささかスキャンダラスな物言いは、「負担平等」や差別解消の陥穽を呑(の)み込む〈グラフト国家〉の抱き取りに対する要注意のシグナルのつもりだった。「ダダ的吃音」とは沖縄の言葉を発する口を封じられ、均質な国民に作り変えられた世代が二重の植民地主義から脱しようとして立てる軋(きし)みであり、痛みでもある。
 野村浩也氏の『無意識の植民地主義』へ抱いた違和と危惧は、高橋哲哉氏の『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』においてもけっして解消されることはない。暴力装置としての基地(と軍隊)を「持ち帰れ─引き取る」ことにおいて目指される「平等」は、その主観的な意図を疎外して国家と資本のヘゲモニーの内へと連れ込まれていく。
(琉球新報20160121)                


<下>戦争の「絶対否定」を

「負担平等」の罠に陥るな

 「県外移設」が沖縄の政治シーンに登場するのは、高橋哲哉氏も確かめ直したように1995年からであった。その年の9月に3名の米兵が小学生を拉致し、集団でレイブした事件の衝撃は日常に亀裂を入れ、沖縄戦とアメリカの占領、そして「日本復帰」とは何であったのかを、根本から問い直していくことを私たちに迫った。今日まで途絶えることなく続く沖縄の鳴動は1995年からはじまったと言っても過言ではない。その熱と渦は独立論への口ごもりを解いたのをはじめ、自己決定権への関心のかつてない高まりなど、それまでの沖縄の抵抗の史脈を書き換えていく重層的な潮流を形成していった。

戦争体験の風化
 立ち止まって考えてみたいのは、県外移設の盲点を手厳しく衝(つ)いた目取真俊氏の見解である。すなわち、「県外移設を言えるようになったのは、沖縄の中で戦争体験が風化したからです。戦争に対する絶対的な否定感がなくなったから」で、さらに「そんなこともきちんと認識しないで、県外移設だと言えるようになったから、今までの運動を超えたような地点に自分がいるかのような気になっている。こんな認識しかできない人たちが県外移設を唱(とな)えても、これは足がない幽霊みたいなもの」(「神奈川大学評論」82号、2015年11月)だと。「足がない幽霊」とはまたなんと辛辣(しんらつ)な指摘だろう。
 ここでは安保をもって安保体制をなくそうとする「引き取り」運動やそれを「新たな運動ののろし」と見なすことへの批判が、決定的な指標で言われているはずだ。そしてそれは高橋氏の米軍基地を「合理的」に配分しようとする考えの剣呑(けんのん)さにまで真っ直ぐに伸びている。たとえば橋下徹大阪府知事が関西国際空港を普天間基地の移設先として検討したことを、あたかも評価するように取り上げたり、都道府県別の米軍規模と米軍施設の統計を示し、「県外移設をする場合には可能な限り『合理的』。に『負担平等』の原則に近づけて」沖縄を除く都道府県への分散移転を提案するところなどは、それまでの応答責任から重苦しいまでの論の運びとは違い、底が抜けたような楽観さを露呈してしまっている。
 いったい殺戮(さつりく)装置である基地(と軍隊)を「合理的」に移設すると言う「合理的」とは、「負担平等」の「平等」とは、「応分の負担」の「応分」とはなんだろう。私はそこに「本土並み」返還論の亡霊を見る。「戦争体験の風化」と「戦争に対する絶対的な否定感」の不在――目取真氏の指摘は重い。

残余の思想
 「ボク零歳・黒焦げんぼ」という詩があった。1962年12月20日に米軍の大型輸送機KB54が嘉手納に墜落し、24歳の青年と生後2カ月の男児が焼け死んだ事故の衝撃から中里友豪氏が作った詩である。
 この詩は米軍基地や米兵がらみの事件、事故によってむごたらしい死に追いやられた死者たちを呼び入れながら、アメリカ占領下の沖縄の不条理をたじろがず見ることを要請する。眼を凝らしたいのは、「カラダゴト黒イ目の形ニナッテ」という一節や「ボク食ベラレタクアリマセン/食卓ニ黒イカタマリガアレバ/ソレハ/ボク/ボクニハ権利ガアリマス/アナタノ食卓ニイツマデモ/居続ケル/黒」という言葉からも読み取れるように、〝零度の眼〟を獲得したことと、アメリカ占領下の沖縄の日常を死者たちを「食べる」という位相で認識していることである。〈居続ける/黒〉とは、沖縄戦を生き延びてしまったことを「艦砲ヌ喰ェーヌクサー」と心に染める残余の思想とも重なる。〝残余の思想〟は〈居続ケル/黒〉を持つことによって「永遠平和」の理念から不断に働きかげられる。
 ここでの「アナタノ食卓ニイツマデモ/居続ケル/黒」を持つことによって「永遠平和」の理念から不断に働きかげられる。
 ここでの「アナタノ食卓ニイツマデモ/居続ケル/黒」からする永久告発は、目取真俊氏の戦争の「絶対否定」と共振する。そしてそれはさらに、日米両国から「死者」として位置づけられ、その「死者」の位相からすべてを発想するほかにないとした「わが沖縄・遺恨24年――死亡者台帳からの異議申し立て」(川満信一)の場に繋(つな)がっていく。そこには沖縄の戦後思想の核心点があり、辺野古の海とゲート前で日に日を繋いで実践されている抵抗の同時代史に受け継がれている原点でもある(詳細は「越境広場」1号での山城博治スペシャルインタビュー参照)。

永遠平和のため
 「死者」としての位相と戦争の「絶対否定」は、戦後ゼロ年を生きる沖縄が召換した「永遠平和のために」であり、またたとえ到達することが遠いにしても、絶えず現実に働きかけ現実を変える「統整的理念」(カント)だと言い換えることもできよう。それは基地負担を数量化し「合理的」に分散するという現実主義が陥る「負担平等」の罠(わな)を糺(ただ)す。
 基地移設論の手前で踏みとどまること、少女を陵辱した戦争器官を〝いま〟と〝ここ〟においてなくすことを非暴力直接行動や自立の思想的拠点において組織し返していくこと。「安保条約の廃棄と日本の軍事力の完全解消、産業および経済の軍事的構造化を逆転すること、死亡者台帳の中から沖縄100万の人間が蘇生するためには、いまのところその方向にしか道は求められない」と1970年に刻んだ「死亡者台帳からの異議申し立て」は、沖縄が生き延びていくための原理である。戦争が露出する今、戦争を知らない世代の責任が問われる。
(琉球新報20160122)




【2016.01.06】 『越境広場』1号を読む
 『越境広場』1号が昨年末(2015年12月25日)に刊行された。創刊準備号として「0号」が刊行されたのが2015年3月だから、「生き急いでいる」とも思える刊行ペースである、否、沖縄の現況が「師走」を強制されたか。なにしろ巻頭<スペシャルインタビュー・山城博治>「わが原点、われらが現場、抗う沖縄の思想>である。
     
  ……確かに毎日100名200名が現地に足を運んで、声を上げ続けるっていうのは至難なことで、ここまで運動が続いているのは喜びであり、これからの運動の持続にも繋がると思う。何がそうさせているのかというと、ここで引いたら、多分未来がないだろうという感じがする。二度と歴史に責任をもって声上げることは難しいだろう。だから、今声上げよう。
 
     
 【2015.10.15】『越境広場』創刊0号(2015年3月)を読む
 取り急ぎ、目次を


<越境広場>1号

【巻頭の言葉】  石川為丸

【スペシャルインタビュー】<山城博治>(聞き手・與儀武秀、親川裕子)
  「わが原点、われらが現場、抗う沖縄の思想」

【特集1】〈1995・沖縄〉何がはじまり、何が変わったのか
 〈座談会〉田仲康博、前崇西一馬、親川裕子、玉城江梨子、聞き手・仲里効
 〈論 考〉往還する〈95年・沖縄〉と〈2015年・沖縄〉喜納えりか
       1995年・そして今 この世の〈あり方〉 内原英聡
       1995年の原点  西藏盛史子
  『人よ、神をお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです』1995年と世界の終わり(マニュエル・ヤン)
  軍事的暴力に抗するということ 「平」と「和」の言葉を求めて(鄭柚鎮)

【特集2】追悼 真喜志勉(TOM MAX)
  友よ  山下洋輔
  粋な生き方を見せたTOM MAX  真久田巧
  前田ビバリーヒルズのプロペラ  能勢孝二郎
  マキシさんがNYにやってきた  宮城 明
  TOM MAXを巡る三つの閾とさかみち  銘苅 靖
  出会い  桃原須賀子
 〈インタビュー〉「DIG&PILE」のように(真喜志好一)

TOM MAX作品

【特集3】短編小説の魅力〈短編小説〉
  慰霊の日記念マラソン大会(又吉栄喜)
  橋上の三人(玉木一兵)
  同性同盟(田場美津子)
  キユぬピイ°ば(崎山多美)
  闇のなかの惑い、私の血(崎浜慎)
  和樹(草野榧)
 〈論考〉戦後沖縄短編小説史概説  我部聖

  生き残った者の倫理的義務 オキナワとフクシマからの問い(朱恵足)

【詩】
  目を瞑ろう(崔真碩)
  コクミン・タリョン(崔真碩)

【状況への発言】
  沖縄は、僕にとって、内部であり外部である(金平茂紀)

【クロストーク】<石川竜一、豊里友行>
  日常のなかに深淵を視る 沖縄〈で〉写真を撮ることを巡って

【コラム「交差点」】
  島に吹く『風』とウタの記憶 周辺のポリティクス  粟国恭子
  『セミの歌』が聴こえてくるとき  大田静男
  日本の中のもう一つの国『沖縄』  韓 成禮
  韓国と沖縄の被爆者  市場淳子
  沖縄が私にくれたもの  具 仲書
  京都・舞鶴浮島丸沈没の地を訪ねて  有銘佑理
  聞き取られなかった沖縄  村上陽子
  報道の“境界”から  工藤剛史
  儀間進著『琉球弧・沖縄文化の模索』  崎原千尋
  東京レポート:『越境広場 創刊0号』合評会@立教大学  上原こずえ

【文化レビュー】
  映像 心の目でみる「ことば」  謝花佐和子
  写真 記録と表現の〈今〉を提示 友寄寛子
  舞台 読谷 つながる文化 つなげる文化  中村晋子

【編集後記】(K)(T)
 表紙絵 真喜志勉
 装幀  宮城 明

発 行:越境広場刊行委員会
サイズ:四六判/238ページ
発行日:2015年12月25日
価 格 1,404円(内税)

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