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島津侵略400年琉球処分130年

前利 潔「奄美からの報告・<無国籍>地帯、奄美諸島」(2009年1月30日に開催された「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」結成集会)
仲里 効「群島状<間・主体>の新たなる時空へ」(月刊『情況』2009年8−9月合併号)
與儀秀武「薩摩侵攻400年と琉球処分130年」(同上)


<無国籍>地帯、奄美諸島


前利 潔


はじめに
 ※ここでは「国籍」を<帰属すべき場所><国家><実体>という意味で使う。

1.「琉球諸島自治政府」シンポジウム(99年1月、名瀬市)※講師:吉元政矩(元沖縄県副知事)
(1)「琉球諸島自治政府」―「奄美諸島」「沖縄諸島」「宮古諸島」「八重山諸島」の各自治政府
 ※「琉球臨時中央政府」―「奄美群島」「沖縄群島」「宮古群島」「八重山群島」の各群島政府(占領時代)
 ※奄美群島政府時代(50年11月25日〜52年3月31日)
(2)奄美側のパネリスト→「本籍は沖縄、現住所は鹿児島」※「奄美」という本籍はあるのか?

2.高橋孝代著『境界性の人類学〜重層する沖永良部島民のアイデンティティ〜』(06年)
(1)著者は1967年、沖永良部島和泊町生まれ。第35回伊波普猷賞を受賞(08年2月)
(2)沖永良部島民のアイデンティティ(600人を対象にしたアンケート)
 @帰属意識
  <全 体>「鹿児島県」47%×「沖縄県」53%
  <知名町>「鹿児島県」37%×「沖縄県」63%
  <和泊町>「鹿児島県」56%×「沖縄県」44%
 A高校野球※<鹿児島><沖縄>は、出自を示す
  <全 体>「鹿児島県代表」27%「沖縄県代表」29%「両方」41%「どちらでもない」3%
  <鹿児島>「鹿児島県代表」41%「沖縄県代表」20%「両方」39%「どちらでもない」0%
  <沖 縄>「鹿児島県代表」11%「沖縄県代表」54%「両方」35%「どちらでもない」0%
 B文化的アイデンティティ(どれだけ愛着や親近感を感じますか)
  ア.非常に感じる イ.どちらかといえば感じる ウ.どちらかといえば感じない エ.全く感じない
  <沖縄の歌、踊りなどの芸能> ア(54.5%)イ(39.3%)ウ(5.4%)エ(0.8%)
  <沖縄の言葉> ア(30.3%) イ(53.7%)ウ(13.4%)エ(2.7%)
  <鹿児島の歌、踊りなどの芸能>ア(4.7%) イ(30.6%)ウ(48.7%)エ(16.1%)
  <鹿児島の言葉>ア(6.1%)イ(25.0%) ウ(42.7%)エ(26.3%)

3.文学にみる<無国籍>※松下博文(築紫女学園大学教授)、南方新社『新薩摩学〜薩摩・奄美・琉球〜』
(1)安岡伸好(喜界島出身)、一色次郎(沖永良部島出身)、干刈あがた(沖永良部二世)
 @安岡伸好「地の骨」(芥川賞候補、58年)→「対薩摩」への怨念の姿勢を崩さない。
 A一色次郎「青幻記」(太宰治賞、67年)→「奄美(沖永良部島)」と「薩摩」と「琉球」で宙吊り。
 B干刈あがた「入江の宴」(芥川賞候補、84年)→父母の地(沖永良部)、<琉球>へ繋がろうとする。
(2)安達征一郎「怨の儀式」(直木賞候補、奄美大島出身、73年)、「日出づる海日沈む海」(同、78年)『祭りの海』(87年)は、北緯29度線と30度線で切り取られた敗戦後のトカラ列島が舞台。米軍統治下にあっても国境や国家原理をまったく無視した糸満漁夫の「回遊魚」的な行動力。「薩摩」とか、「琉球」とかを完全に無化してしまう、壮大なスケールの中に作品は進行する。糸満漁夫は漂白民であり、サバニと櫂さえあれば、どこにでも漕ぎ出してゆく、いわば無国籍者である。(松下博文)

4.『在沖奄美人名鑑』(1959年版)〜<無国籍>の悲哀〜
(1)奄美諸島に対する施政権が米国から日本国へ返還(53年12月25日)されたことによって、在沖縄奄美諸島出身者は、<琉球籍>を喪失し、在留(琉)登録が必要となった。
(2)「外人としての悲哀
 ・「外人としての登録制による居住を余儀なくせねばならなくなり」(在沖奄美連合会会長 池田武次)
 ・「外人としての存在を認識しながら沖縄の復興と発展に寄与してきた」(福井忠義)
(3)「権利の剥奪においては、非琉球人であり、義務の負担においては琉球人並みであった」(新崎盛暉)
 @奄美諸島の返還にともなって、泉有平(琉球政府副主席/奄美大島)と池畑嶺里(琉球銀行総裁/奄美大島)は事実上、公職追放となった。
 A在沖奄美諸島出身者に選挙権および被選挙権が与えられたのは1968年(主席選挙)。

5.<奄美>という実体はあるのだろうか
(1)島尾敏雄「奄美の呼び方」(59年)
 ・沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和にはいってからだ。
 ・それぞれの島はそれぞれキカイであり、トクノシマであり、エラブ、またヨロンであって、観念的にはアマミの中の一つだと理解しても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこないふうだ。
(2)現在でも沖永良部島民と与論島民の日常会話に出てくる「奄美」という言葉には、自分たちの島のことは含まれておらず、徳之島以北、あるいは奄美大島のことを意味している。


T 占領と帰属問題
1.「琉球諸島」に奄美諸島は含まれるのか
(1)GHQ指令「2.2宣言」(46年)によって、奄美諸島は他の北緯30度以南の島々とともに、日本領土から切り離された→無政府状態→「北部南西諸島米国海軍軍政本部」開設(3月14日)
(2)「臨時北部南西諸島政庁」発足(46年10月)※Provisional Government Northern Ryukyu
(3)奄美大島日本復帰協議会結成(51年2月)→ 結成と同時に、署名運動を展開
 ・14歳以上の奄美諸島住民の99.8%(139,348人)が署名。署名拒否者、56名
(4)対日講和条約調印(51年9月)、発効(52年4月28日)→ 「痛恨の日」(奄美連合復帰対策委員会)
(5)「講和条約第三条撤廃」をたな上げにした「実質復帰論(元鹿児島県大島郡の完全日本復活)」の台頭
 @奄美人民共和国樹立論(奄美共産党)、奄美独立論(アナーキスト)、宮崎県帰属論、兵庫県帰属論、東京都帰属論。←鹿児島県に対する根強い反発  ※沖縄県帰属論はなかった
 A参議院外務委員会の公聴会(51年2月6日)→参考人:昇直隆(曙夢、全国奄美連合総本部委員長)
 ・「奄美大島諸島」は「薩藩のために沖縄が征服」されて以降、「240年間、全く薩藩の直轄の下に生存して来た」のであり、明治維新後も「鹿児島県に属する」ようになったのであるから、「純然たる日本領であり、とくに終戦前までは鹿児島県の一部」であった。
 ・「新聞」が「奄美大島」と「琉球群島」「沖縄列島」を区別していない。

2.戦略的道具としての奄美諸島  ※皆村武一著『戦後日本の形成と発展』(日本経済評論社、1995年)
(1)「戦略的道具としての奄美諸島」(西欧の特派員)
 ・奄美諸島を一時的に米国の領有とし、必然的に起こる復帰運動は黙認するだけではなく、なんらかの方法であおり立て、最も効果的な時期をねらって日本に返還→ 日本国民の世論を北方領土へ
 ・参考:ロバート・D・エルドリッヂ著『奄美返還と日米関係』※吉田茂首相「バカヤロー解散」(53年3月)
(2)中華民国(台湾政府)、中華人民共和国の見解
 @「奄美大島も沖縄とともに中国領」であるという理由から、日本への返還に反対(中華民国53年11月)
 A「中華人民共和国大地図」解説→「琉球列島(奄美諸島含む)」は「中国に返還させるべきである」


U 国民国家への包摂
1.<日本人>という自己認識
(1)米国海軍軍政府→ 「北部琉球調査隊」を派遣(45年11月)
 ・調査隊は覚書で「調査隊全員の一致した結論」として、軍政府の設置に反対を表明。
 ・大島郡の住民は、あらゆる点で自らを日本人とみなしている。沖縄においてみられるような「沖縄人」対「日本人」という感情は全くない(覚書)。
(2)国場幸太郎(非合法沖縄共産党創設メンバー)からみた奄美共産党(47年4月創設)
 ・奄美共産党の行き方の根底には、敗戦直後の早くから、「祖国」日本との再結合を希求していた奄美民衆のナショナリズム(民族主義)がある。
 ・敗戦後の沖縄民衆には、「日本国民としての民族主義」が崩壊していた。
(3)94年下半期の南日本新聞コラム「南点」(前利潔)→「奄美人」という言葉に教師から抗議される
 ・「奄美人・沖縄人」「朝鮮人・半島人」「島人」等が差別用語であった歴史的事実(現教師…M/当時)。
 ・抗議した元教師、現教師にとって<日本人>になることが、差別からの解放であった。

2.国民国家への包摂過程
(1)地租改正、徴兵制度、参政権
 @地租改正
 ・地租改正条例(73年7月)→地租改正事業事務局設置(75年)→改正作業終了(80年)
 ・<奄美>地租改正再着手(79年4月頃) → 終了(81年7月)※西南戦争の影響(県、79年1月)
 ・<沖縄>土地整理事業実施99年)→ 終了(1903年)※琉球処分(79年3月)→ 旧慣温存政策
 A徴兵制度→徴兵令発布(73年1月)
 ・<奄美>徴兵検査、始まる(79年) ・<沖縄>徴兵制の施行(98年)
 B参政権
 ・明治憲法と衆議院議員選挙法公布(89年2月)、第一回衆議院議員選挙(90年7月)
 ・<奄美>第一回衆議院議員選挙、第七区(大島郡)から基俊良(奄美大島)当選
 ・<沖縄>衆議院議員選挙法施行(1912年) ※納税制度が未確立(土地整理事業終了、1903年)
(2)学校教育 ※「学制」制定(72年)、教育令(79年)、小学校令(86年)
 @沖縄県 人口31万人(79年)
 ・琉球処分(79年3月)→ 会話伝習所設置(80年2月)→ 師範学校として教員養成開始(80年6月)
 ・小学校18校開設(80年)→ 53校(82年)・教員数108人(85年)
 ・生徒数 1,006人(81年)、1,854人(84年)、8,817人(89年)、16,775人(95年)、62,246人(07年)
 ・就学率 3%前後(80年代前半)、12.1%(89年)、24.2%(95年)、52.8%(00年)、92.8%(07年)
 ・当時の沖縄社会では、学校は「大和屋」と通称され、「大和学問」をさせると子供は家を捨て、大和に出て行くという噂がたっていた。(小熊英二著『<日本人>の境界』)
 ・あらかじめ「日本人」である者たちに忠誠心を育成してゆくのではなく、「日本人」という自覚のない者を「日本人」に改造してゆく作業であった。(同)
 A奄美諸島 人口12万人(77年)
 ・76年には、鹿児島県下に「正則小学校」が普及 鹿児島県師範学校開設(同年3月)
 ・奄美諸島では77年から83年にかけて、小学校が開設された→ 「大島郡」118校(83年)
 ・教員養成伝習所(名瀬、79~81年)→約200名、同(瀬戸内、80~86年)→約150名 計約350名
 ・沖永良部島→小学校17校、生徒数933人(77年)、半年間の教員養成講習会(80年)→受講生78名
 ・泉二新熊(奄美大島出身、1876年生まれ、大審院長)※近代→ 本人の努力で地位の獲得が可能
 ・法学関係への進学が多く、島の振興に寄与する農・水・林産業等の職業や学校を軽視する傾向。
 ・「父兄が向学心に厚きは殆んど驚くの外なく、負債を起こして迄も子弟を遊学せしめ」(鹿児島新聞、明治38年)
 ・「何になりたいか?」(問い)→「日本人になりたい」(生徒) ※大正の初期、奄美大島のある小学校
(3)背景としての近世
 @進貢貿易を通して「中国化」を進めた沖縄
 ・進貢貿易の中心的な担い手→ 華人の末裔である「久米村人」 ※王府の進貢貿易振興策
 ・国王や世子への進講:近世初期(薩摩から渡琉した僧や儒者) → 後期(久米村人)
 ・官生制度→ 中国の最高学府である国子監への国費留学生 ※自決した林世功(亡命琉球人)
 ・琉球館があった福州への自費留学→ 王府の許可が必要(王府の官僚予備軍)
 A薩摩支配を通して「ヤマト化」を進めた奄美諸島
 ・近世初期(琉球時代の統治体制を温存)→ 「置目之条々(1623年)→ 琉球との関係を切断
 ・沖縄系出自の島役人から薩摩系島役人へ権力移動 ※藩役人と島の女性との間にできた子孫
 ・遠島人(政治犯)→ 生計のためにも、島役人層の子弟たちに学問を教えた ※名越左源太
 ・大島→ 藩政期間に来島した藩役人(約1,000人)、遠島人(1852年、346人/人口は約4万人)
 ・優秀な子弟は鹿児島留学 ※「富民の子弟等は12歳より鹿児島に至り学ぶ」(1873年、大蔵省報告)
 B沖永良部島における権力移動 ※高橋孝代著『境界性の人類学』、『和泊町誌』歴史編
 ・琉球時代の統治体制の維持→ 沖永良部島代官所設置(1690年)→島内権力構造の変化(与人)
 ・与人:1690年から1790年(沖縄系7人、薩摩系9人)→ 以降、幕末まで(沖縄系2人、薩摩系11人)
 ・藩政時代の藩役人544人(代官93人) ※大久保利通の父も附役として二度、来島(島に子孫を残す)
 ・遠島人:幕末までの一世紀(1772〜1869年)に929人→ 代表格が西郷隆盛(1862年)
 ・初代(73年)の戸長である土持正照→ 幼い頃、鹿児島の父親のもと(土持家)で郷中教育を受ける
 C近世における<無国籍>
 ・冊封使の来琉→ 奄美諸島からも「貢物」を上納(1866年まで) ※進貢貿易には関与せず
 ・奄美諸島独特の一字姓→ 東アジアの冊封体制下における対外的カムフラージュ(弓削政己)
 ・沖永良部島民が朝鮮に漂着(1790年)→「琉球国中山王」の支配下の者、<琉球人>と主張
 ・沖永良部島民が薩摩の船で寧波に漂着(1773年)→月代をさせられ、<薩摩人>として対応

3.琉球処分と奄美諸島
 広義の琉球処分は一般的には、1872年9月の琉球藩設置に始まり、79年3月の沖縄県設置を経て、80年の日清間における分島改約案の妥結・破棄、という過程を指している。
(1)琉球処分と鹿児島
 @鹿児島藩から明治政府へ提出「琉球管轄之沿革調書」(71年7月)※廃藩置県の2日前の日付
 ・政府は廃藩置県によって、ひとまず琉球を鹿児島県の管轄下においた。
 ・岩倉使節団の欧米への出発(71年11月)→ 重要調査事項の一つに「琉球」問題
 A鹿児島県の対応(<琉球>に対する既得権益の維持)
 ・71年8月、大久保と西郷は協議の上、「善後ノ処置ヲ講セシムル」ために、西郷従道らを帰藩させる。
 ・71年12月、西郷、士族救済のために砂糖独占販売の商社設立に同意(桂久武への手紙)
 ・72年正月、鹿児島県から琉球藩へ「伝事」→「幸鹿児島之管轄ニ属シ、其段ハ御安心之事ニ候」
 ・72年前半、大蔵省への伺「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」
 B明治政府の対応(琉球と鹿児島県の関係を切断)
 ・72年9月、琉球王国を「琉球藩」とする(明治政府の直轄)→ 琉球王府の外交権は外務省の管轄。
 ・同9月、伊地知貞馨(鹿児島県の「伝事」)、外務省官員として琉球藩勤務を命じられる。
 ・同年11月、琉球の租税納入先、鹿児島県から大蔵省租税寮へ変更される。
 ・73年3月、琉球藩に外務省出張所開設、鹿児島の琉球在藩奉行も外務省出張所勤務→在藩奉行消滅
(2)「大島県」設置構想 ※弓削政己「明治維新と諸制度」(『瀬戸内町誌』歴史編、2007年)
 @大蔵省と鹿児島県の対立
 ・租税の納入方法→ 大蔵省は砂糖現物納、鹿児島県は金納
 ・士族の救済方法の一方法としての「大島商社」設置問題
 A大蔵省の方針
 ・「当年限り従前之通取計」(72年5月)→ 当年に限り、旧藩時代の独占販売体制を認めた
 ・砂糖の自由売買を布達(73年3月)→ 独占販売体制(大島商社)方式の否定
 ・鹿児島県は、大島商社方式を継続 ※大蔵省による奄美諸島調査(73年から9ヶ月間)
 B大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ稟申「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ」(74年9月)
 ・旧藩時代に民力が「傷害」→ 大蔵省管轄下で砂糖増産、輸入砂糖減少→「莫大之国益ヲ増加」
 ・内務卿大久保の「裁可」が「否」であったと考えられ、「大島県」設置は実現しなかった。
 ・大島に大支庁、他の四島に支庁を置く(75年6月)←それまで旧藩時代の統治体制のままであった。
 C砂糖自由売買運動(勝手世騒動)※「大島商社」の解体を目的とした運動
 ・丸田南里、密航先の英国、上海から帰島(75年初頭)→ 組織(主体)的な砂糖自由売買運動を展開
 ・征韓論争に敗れた西郷、帰県(73年10月)→「私学校」創立、県下に強い影響力を行使
 ・丸田南里ら3名、県庁に嘆願(76年4月)→ 「棒打の刑に処」せられる→大島へ、調査団派遣
 ・55名の陳情団、上鹿(77年2月)→西南戦争(同月)→従軍(35名)→生存者の大半、帰島中に難破
 ・西南戦争終結後、79年分から砂糖自由売買が認められた。(78年7月)。※琉球処分(79年3月)
(3)琉球王府、清国政府にとっての奄美諸島
 @奄美諸島の返還要求(琉球王府)
 ・琉球藩設置の際(72年9月)王府側は「道之島(奄美諸島)」の返還を政府に要求。
 ・薩摩によって「押領」された「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷
属」である。
 ・副島外務卿は、「宜しく琉球の為めに処置すべし」と空約束。
 ・琉球側には王国自身が存亡の危機という意識はなく、単に薩摩から解放されたという認識であった。
 A琉球三分割案(清国政府)
 ・琉球処分(79年3月)は、日清間の外交問題に発展→前米国大統領グラントによる調停(79年8月)
 ・琉球二分割案(沖縄諸島以北は日本帰属、先島諸島は清国帰属)で妥結(80年10月)→破棄
 ※妥結に抗議して、林世功(亡命琉球人、最後の官生)、清国で自決(80年11月)
 ・李鴻章が予備交渉の場で、日本政府側に琉球三分割案を提案し、拒否されていた(80年4月)。
 ※「北島(奄美諸島)」は日本帰属、「中島(沖縄諸島)」には王国復活、「南島(先島諸島)」は清国帰属
 ※琉球三分割案は復帰運動の嘆願書で、奄美諸島の「日本帰属」を正当化する論拠として使われる。

4.近代における<無国籍>
(1)一字姓と<国籍>
 ・本土への進学、入営(徴兵)の場で、奄美諸島独特の一字姓ゆえに、<日本国籍>が疑われた。
 ・関東大震災のときに朝鮮人や中国人にまちがわれたことから、<日本>的な二字姓に改姓が進む。
 ・米国占領下では日本国籍法が適用されず、改姓の手続きも簡単であったことから、さらに改姓が進む。
(2)カトリックの招へい ※現在、奄美大島におけるカトリック信者は、人口の約5%だといわれている
 ・フェリエ神父、布教開始(1891年)→信者4,057人(1923年)、人口53,495人(25年)の7.6%。
 ・「岡程良が、島の新しい精神的支柱を日本本土の伝統的なものに求めず、西洋の宗教に期待の手を伸ばしたことは、彼が若いころ儒学をきわめた人であるだけに、島の人間としてのヤマトにたいする深い絶望感を示している」「薩摩藩いらいのあくどい収奪と搾取の、まだ生々しい記憶が、本土のすべてのものにたいする不信と反感をつちかった、という背景もある」(小坂井澄著『悲しみのマリア』の島)
 ・「佐賀に左遷させられる前、程良は、島の振興にはまず、万民は平等であるという西洋思想が必要と考え、島の有志らとともに鹿児島県本土のキリスト教各派に奄美での布教を要請する」「程良は、宗教としてではなく思想としてキリスト教に期待を寄せていたのだろう(宮下正昭著『聖堂の日の丸』)  
 ・4年生のミッション系スクール大島高等女学校開校(24年4月)
 ・古仁屋に陸軍要塞司令部開設(23年)→ 天皇の来島(27年)→ カトリック排撃運動(「非国民」)
 ・「民謡の如きもあまりに退廃的亡国的な声調に流れるようなものは貰いたい」(昭和天皇に拝謁した東京在住の喜界島出身実業家)
(3)アナーキストによる大杉栄追悼記念碑の建立(24年)← 要塞司令部のある大島南部の海岸
 ・奄美は保守的な鹿児島県のなかにあって、社会主義、共産主義思想の活動が比較的活発な所だった。藩政時代の薩摩藩による搾取、明治維新後も続いた差別的な処遇、そして貧困、離島という地勢的な問題も影響したのだろう。特にアナーキストと称されたグループは、主に奄美大島第二の町、古仁屋にいた。前述したように大正12年(1923年)6月の第一次共産主義者一斉検挙の時、鹿児島県内で唯一当局のリストに載っていたのは、古仁屋の武田信良。大杉栄虐殺事件の一周忌に古仁屋近くの蘇刈海岸に記念碑を建て問題を起こしたのも武田らのグループだった。(宮下)
 ・古仁屋のアナーキストは敗戦後の「無政府」状態下→ 旧日本軍人に対する人民裁判


W ヤポネシア論の受容の仕方
1.沖縄と奄美におけるヤポネシア論の受容の仕方の違い
 沖縄側はヤポネシア論を、日本という国家に包摂されることを拒否する思想として受容したのに対し、奄美側はヤポネシアと視野を広げることによってはじめて、「奄美」を日本という国家に正当に包摂することができる思想として受容した。

2.足場としての奄美諸島〜<奄美>から<琉球>へ〜
 ※「琉球弧の島々が、日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であった」(島尾敏雄「奄美―日本の南島」)
(1)カトリック ※安齋伸著『南島におけるキリスト教の受容』(第一書房、1984年)
 ・47年9月、カプチン会(ミシガン州)の神父2人が、廃墟の那覇に上陸→ 確認できた信徒は母子2人
 ・10日後、カトリックの地盤がある奄美大島(名瀬)へ→ 信徒、軍政府、群島政府らが出迎え(200名)
 ・沖縄宣教の準備(奄美大島)→ 再開(49年)→ 多くの奄美大島出身の青年信徒が沖縄各地へ
 ・沖縄全土を管轄する那覇教区の要職、女子修道会には奄美大島出身者が多かった。
(2)非合法共産党 ※森宣雄「越境の前衛、林義巳と『復帰運動の歴史』」、国場幸太郎『沖縄非合法共産党文書』研究案内ノート」
 ・奄美共産党(47年結成)の林義巳(笠利村出身)、琉球人民党の中央常任委員として渡琉(52年3月)。
 ・林には沖縄に非合法共産党を建設する任務が与えられていた。*瀬長亀次郎は反対
 ・林ら奄美グループが中心となって、戦後沖縄初の大規模労働争議、日本道路社ストを決行(52年6月)。
 ・ストの成功によって、国場幸太郎と瀬長亀次郎が会談、非合法沖縄共産党の創設に合意。
 ・「奄美共産党は、結成の当初から、(中略)多分に日本共産党から影響受けていた」(国場)
 ・沖縄人民党は「日本共産党から影響を受ける関係にはなく、(中略)独自の道を歩いていた」(国場)
(3)太宰府の出先機関(喜界島の城久遺跡群) ※千年前の奄美諸島
 ・城久遺跡の発掘調査から、同島に太宰府の「出先機関」があった可能性が出てきた。
 ・ヤコウガイの大量出土遺跡(奄美大島)、琉球弧全域を交易圏としたカムイヤキ古窯跡群(徳之島)。
 ・日本の古代、中世国家の強い影響下にあった奄美諸島北部→ 琉球弧のグスク社会形成へ刺激


おわりに〜「周縁」から「境界」へ〜
(1)高梨修著『ヤコウガイの考古学』(05年) ※「奄美諸島史のダイナミズム」(高梨)
 ・琉球弧のこれまでの歴史学研究は、琉球王国論に収斂される潮流が支配的だった。 
 ・奄美諸島は、二重構造の国家境界領域→ 琉球からも大和からも周辺地域として位置づけられてきた。
 ・琉球王国が奄美諸島を領域化する以前、日本中世国家の領域は奄美諸島まで押しひろげられた。
 ・「南方物産交易の拠点としての奄美諸島」「喜界島・奄美大島東海岸における政治的勢力の存在」
 ・国家周辺地域は、静態としてとらえるならば「辺境(マージナル)」という理解になるが、動態としてとらえるならば「境界(フロンティア)という理解も生まれてくる。
(2)高橋孝代著『境界性の人類学』(06年)※「(沖永良部島の)ダイナミックな歴史」(高橋)
 ・「日本」「鹿児島」「奄美」「沖縄」の周縁に位置づけられてきた沖永良部島→ 中心に据える
 ・沖永良部島は、「日本/沖縄」「鹿児島/沖縄」「奄美/沖縄」の境界を創り出している。
 ・「日本/沖縄」の境界→「日本/沖縄」のエスニシティの境界
 ・「鹿児島/沖縄」の境界→「薩摩/琉球」の権力のせめぎあいによる政治の境界
 ・「奄美/沖縄」の境界→ 奄美諸島内部の文化の象徴的境界
 ・沖永良部島民のアイデンティティの複雑性、混淆性→ 「適応戦略」の所産
 ・沖永良部島民のアイデンティティ研究は、グローバル化に伴い種々の境界が薄れていく今日、世界各地にある文化的融合点(境界地域)の文化体系の新たな枠組みを提示できるという、普遍性をもつ。








群島状〈間・主体〉の新たなる時空へ
「琉球処分130年・アイヌモシリ併合140年・「日本復帰」37年を問う沖縄集会から



仲里 効
(NAKAZATO Isao 映像批評)


 私の話の後に、いま沖縄の矛盾や問題を集約的に抱えている現場で闘っている人たちの報告が予定されていますが、それらの現場からの報告に私の話がどの程度応答できるのか、たいへん心もとないのですけれども、何とかやってみたいと思っています。
 今年は薩摩の琉球侵略から400年、明治の琉球処分から130年にあたり、そのことの意味を改めて問い返す試みがさまざまな分野で取り組まれています。沖縄タイムスと琉球新報の地元二紙は年間を通した特集企画を組んで多角的な視野から問題点を解明していますし、歴史研究者を動員したシンポジウムは多くの聴衆を集めています。また市民レヴェルでも実行委員会を組織して連続的なシンポジウムが行われるなど、関心の高さには驚かされます。とりわけ注目しておきたいのは、奄美本島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄などの琉球弧を横断して侵略と処分を問うシンポジウムが取り組まれていることです。沖縄でのシンポジウムでも宮古や八重山などの発言者を入れ、沖縄本島中心の史観を相対化し、侵略や処分の琉球弧内部の差異の地勢や重層的な構造を捉え直そうとしていることです。こうした試みはけっしてかつての王国時代へのローマン的回帰や主権的権力の立ち上げという割りきりで突き放すことはできない、沖縄の歴史意識の潜勢力について考えさせられます。薩摩の琉球侵略は幕藩体制下の東アジア関係に連動していたし、明治の「琉球処分」は日本のアジア侵略の起点にもなったということからみても今日的な課題に絡まりあってくるはずです。日本国家による琉球・沖縄の併合や日本と沖縄の関係史の批判的な問い直しは、琉球・沖縄における政治的共同性や未成の主体へと深化していく可能性を充分秘めているように思えます。この政治的共同性の創出やオルタナティブな主体化への問題関心は今日の私の話にも重なってきます。

1972年5月15日の原景

 ところで、今日は5月16日、37年前のいわゆる「日本復帰」の1日後ということになります。いま私は「日本復帰」という言い方をしました。まずこの「日本復帰」という言葉の使用はそれでいいのかどうか、その用語の政治性について考えることからはじめたいと思っています。というのも、37年前のあの歴史的なトピック、というか、あの歴史的なトピックにいたる過程は、過ぎ去った過去の出来事として歴史に収納し切れない、いつだって現在の課題に流れ込んでくるような潜勢力をもっているからです。そのことは毎年この季節になると〈1972年5月15日〉が意味するものを改めて問い返す作業が途絶えることなく行われていることからもわかるはずです。沖縄の可能性を日本という国民国家の枠組みから解き放とうとする問題関心にとって〈1972年5月15日〉はいまだなお、いや、齢を重ねるたびに遠近を越えて呼び戻されてくるということでしょうか。
 配布された主催者側の資料のひとつに、1972年5月2日の日付が入った「5・15県民総行動」への結集を呼びかける沖縄県祖国復帰協議会が発行したビラがあります。「沖縄処分を糾弾し核も基地もない平和な沖縄をかちとろう」の見出しが躍っていますが、ここで「沖縄処分」の言葉が使われていることに注目してみてください。「復帰協」と通称された沖縄県祖国復帰協議会は沖縄の政党や組合、婦人団体や青年団体などを網羅した統一組織で、その組織が発行するビラはいってみれば一般意思的な性格を持つ見解だとみても間違いではないでしょう。事実、1972年5月15日に与儀公園で開催された抗議集会は「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、5・15県民総決起大会」となっています。この「5・15」の本質を「沖縄処分」として受け止めていたということを「日本復帰運動」の論理からはみ出る意識空間として、というよりも、自己超出力として析出し、もっと光を当てなおしてみる必要があるのではないでしょうか。むろんそのことは、「日本復帰運動」のなかにあった同化主義的な国家幻想が「戦争で失われた領土を平和的に回復した」というナショナルビルディングを沖縄側から補完するものであったことを、厳しく批判していくことをやめろということではないことはいうまでもありません。
 新聞やテレビなどのジャーナリズムは、この日を沖縄が日本に「復帰」したと言い方をしていますし、沖縄戦後史研究者も「1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した」などと書いて、転換期の不定形な流動や未発の声を封印するような役目を果たしたりしているのには大いに疑問を抱かされます。「施政権返還」という言い方もされますが、だいたい「復帰」という言葉が今では一般的ですね。しかし、繰り返すようですが、問題はこの「5・15」をめぐる名づけの政治なのです。当時民衆レヴェルで「処分」と受け止めていたことに注目することは、不定形の流動のなかにあった未発の声を新たなる審級のもとに開いていくことになるはずです。〈1972年5月15日〉を「復帰」とみるか「返還」とみるか、それとも「処分」とみるかは、歴史認識の問題である以上にきわめて実践的な問題といったのはそういった意味なのです。そのことは、たとえば1609年を薩摩の「進入」や「進出」とするのか、あるいは「侵攻」なのか「侵略」ととらえるのかによって東アジアの地勢がまったく違った見え方をしてくるし、また1879年の「琉球処分」を「上からの民族統一」とか「下からの民族統一」という違いはあれ「民族統一」としてみるか、その変形として「二段階的包摂」とみるか、そうではなく「侵略」や「併合」とみるかの論争が、日本復帰運動の評価と絡み合ってなされたとき、歴史認識論争を越えて、というよりは、歴史認識そのものがすぐれて実践的な問題にかかわってきたということからもわかってもらえるはずです。つまり〈1972年5月15日〉をどう評定するかは、沖縄の時空間を国民国家史の領土化の史脈に囲い込むか、そうではなく未完の沖縄自立として東アジアにおける異集団の交通史に開くかに関わっているのです。
 「復帰」という意味は、言うまでもありませんが、ある期間、ある事情ではなれていた者が「もともとあったところ」に帰るという意味合いが強い。だが、はたして沖縄と日本の関係はそうだったのでしょうか。そうではなかったことは、薩摩の琉球侵略や琉球処分をめぐる論争をみるだけでも明らかです。沖縄と日本は異なる歴史を歩んできました。近現代をみただけでも、併合・分離・再併合の複雑な歴史過程を辿らされてきました。同じではないものを同じだというには、権力の強制とそれを内面化する論理のマジックがなければなりません。「日本復帰運動」のなかではその関係が親(母になったり父になったり)と子に擬せられ、それが抱き取る/抱き取られる、きわめてエモーショナルな関係として見立てられたのは周知のことです。この場合あくまでも親は日本であり、子は沖縄という従属関係や位階化が伴っています。この強力なイデオロギー装置となったのが「日琉同祖」論だったこともよく知られたことです。
 資料として配布した二つの写真を見ていただきたいと思います。一つは沖縄の戦後写真史に太い読点を印した平良孝七さんという、もう亡くなりましたけれども、「沖縄〈100万県民の苦悩と抵抗〉」(1969年)という写真集から拾った一枚です。もう一つは、平良孝七さんと双璧をなす比嘉康雄さんが撮ったものです。平良孝七さんの写真は日米共同声明で沖縄の返還が日本の戦後の再編とアメリカの東アジア戦略の立て直しのための政治的スケジュールに乗せられた翌年の4・28の集会の様子を撮ったもので、画面中央の「琉球処分はいやだ!」と書かれたプラカードが否応なく目に入ってきます。1968年といえば沖縄でも画期をなした年で、4月に全軍労が実質的な24時間ストともいえる10割年休闘争を打ち抜き、基地の内部からはじめて巨大な米軍支配に異議を突きつけ、暮れには戦略爆撃機B52の爆発炎上事故や毒ガス事故などが続出、「命を守る県民共闘会議」が結成され、翌69年の2・4ゼネストへと沖縄の民衆のエネルギーが大きなうねりをみせていきます。この写真は日米共同路線にもとづく沖縄の「施政権返還」の実態が「琉球処分」に他ならないということを、民衆レヴェルで見抜いていたということをわたしたちに教えてくれます。
 もう一枚の比嘉康雄さんの写真をみていただきたいと思います。集会に参加した婦人の背中の段ボール紙で作ったゼッケンに「再び琉球処分を許すな」の文字が書かれています。この写真からもやはり日米共同声明路線による施政権返還をどのように受け止めていたのかということがわかります。
 ところがどうでしょう。そうした認識があったことさえ忘れ去られ、今では「復帰」という言葉が一般化しています。復帰後の日本国家による「一体化政策」という名の沖縄統治が成功したということでしょうか。たとえば世論調査などでは復帰直後から82年までの10年間は、復帰してよかったのか、そうではないかを問う設問には「よくない」という答えが「よかった」という答えを上回っていました。それが復帰10年目の82年を境にして逆転していきます。
 ここで日米共同声明に基づく沖縄返還を「処分」と捉えたことと、その後の評価の推移と変化の深層にあるものをどう把握すればよいのかを、すこし踏み込んで論じてみたいと思います。そのために迂回をすることになるかもしれませんが、もうひとつの住民意識調査を参照にしてみます。琉球新報社が2001年から5年に一度実施したもので、二度の実施データがあります。設問は「生活意識」「郷土意識」「文化意識」「社会・政治意識」などの6分野で構成され、「他県とは異なった沖縄独自の歴史、伝統文化、生活様式に根差した設問」であるとして、その結果は「ウチナーンチュ(沖縄人)の自画像」と重なってくるもので、ウチナーンチュ像の現在と今後を長期的に調査・追跡していくという問題意識でなされたものです。そのなかの「政治・社会意識」分野で「あなたは、沖縄の近・現代の出来事で、何が最も重要だと思いますか(三つの選択)」という質問項目があります。それを見ますと2001年と06年いずれも第1位は「沖縄戦(01年52.8%/06年52.1%)で2位は「日本復帰」(01年47.1%/06年44.8%)となっています。3位は「米兵少女乱暴事件及び基地縮小をもとめる」(01年38.5%/06年26.5%)で、以下上位9位まで拾ってみると06年の調査で「米軍再編・普天間飛行場県内移設で日米合意」が新たな項目として入り、第4位となっている以外、01年、06年とほぼ同様に「沖縄サミット」「沖縄尚学選抜初優勝」「首里城復元」「宮森小ジェット機墜落」、そして「琉球処分」と「コザ反米騒動」の順となっています。
 01年、06年いずれも「沖縄戦」と並んで「日本復帰」が1位、2位を占めていること、そして100年以上も前の「琉球処分」が9位を占めていることをどう理解すればいいのでしょうか。「沖縄戦」についてはのちほど触れるとして「日本復帰」と「琉球処分」について考えてみます。というのは、この二つは、沖縄と日本の関係のあり方に関わっているからです。まず「日本復帰」が復帰10年目の82年以降、復帰を好意的に評価する数値が高くなり、逆転するところまでいったことをみれば、緩やかな日本との一体化・統合に向かいつつある、と表面上は言うことが可能だと思います。だが、こうした評価は留保が必要です。転形期の沖縄の一般意思が「復帰」の内実を「琉球処分」や「沖縄処分」として認識していたこと、そして調査当時から言えば120年以上も前の明治国家の「琉球処分」への注目が決して無視できない高さであることなどを考え合わせると、「日本復帰」を重要な出来事として見なすことの内部には、反語的な意味も含まれていると見るのはけっして的をはずした見方にはならないはずです。「日本復帰」を挙げたからといっても、それは必ずしも第一義的に日本への帰属をよしとする意見に固定されるものではなく、「日本復帰」そのものを相対化する二重の視点があたかも「自己矛盾的同一存在」のように混在しているとみてよいでしょう。その視点が欠けると、沖縄タイムスと琉球新報の地元二紙での年間を通しての「薩摩の琉球侵略400年」と「明治の琉球処分130年」を問う連載企画や、同時多発的に取り組まれているシンポジウムでの関心の高さとその質を見誤ることになる。
 考えてみてください。400年前の出来事や130年前の出来事に、これだけ熱くなる現象やホットスポットは日本中どこを探しても見当たらないはずです。こうした現象を大胆に言い換えると、日本国家の沖縄併合は、いまだなお未完であること、沖縄にとって日本国民であることや日本国家に帰属することは当たり前の前提ではないということです。〈1972年5月15日〉は戦後の時間の枠組みで捉えるのではなく、日本が東アジアへの侵略と植民地主義として膨張していく結節であったこと、そしてその沖縄の位置を、近世や近代史を貫いた射程のなかに据えることによってはじめてその要諦が明らかになるといえます。〈1972年5月15日〉を「第三の琉球処分」とした民衆意識が潜勢力として新たな位相のもとで浮かび上がってくるということです。
 あの二枚の写真は「復帰」後の時間のなかで忘却され、政治的、文化的圧力で封印されてきた集合的記憶を蘇らせ、沖縄の〈今〉を問う、そんな喚起力をもっているといえます。ですから今日ここに参加された方は、いまや当たり前のように使われている「復帰」という言葉を疑ってみる、そのとき「処分」という言葉から、近現代を貫いた沖縄と日本の関係史をみるパースペクティブを獲得することができるのではないでしょうか。このことは歴史批判を実践的意識の中に再生することにもつながっていくはずです。

日本の外部と沖縄の戦後思想

 ここで一遍の詩を聴いてください。高良勉さんが最近出した、彼にしてみれば8冊目の詩集になるそうですが『ガマ』のなかの冒頭の詩「ガマ(洞窟)」です。(まよなか・しんやさんのギター演奏で司会の平良識子さん=那覇市議=が朗読)。

  隆起珊瑚礁から生まれた島々を
  数万年もの間 雨水や炭酸ガスが溶かし
  地底の奥深くまで 鍾乳洞が拡がっている
  恥毛のような草むらの中に
  妨錘形の口を開き
  島の腹部は ガマ(洞窟)だらけだ
  ああ 聖なるかな 島の子宮よ
  (2連省略)
  数軒の家が建つであろう
  大空洞の彼方 に広がる闇
  ホッ ホーイッ と呼びかけても
  こだまは返ってこない
  その闇の中に 数えきれぬ人間たちが
  うごめいている わめいている
  艦砲射撃で左肩をやられ
  目と耳を失った 父がうなっている
  看病しているのは戦友か 母か
  (4連省略)
  地中の暗闇から 真夏の青空へ
  やがて父や母たちが 捕虜となって
  はい上がってくる ノミやシラミ
  ウジ虫に喰われた 身体を引きずって

  その母の子宮の中 小さな
  私の命が宿っている
  ガマから生まれた 戦後の命が

 この詩は沖縄の戦後の〈原点凝視〉としてみても間違いありません。「ガマ」は亜熱帯の自然の造形物であるが、そこはまた沖縄戦の時に住民が避難した暗がりであり、日本軍による住民虐殺や集団自決の惨劇の場にもなった。「ガマ」の闇が戦争の惨劇の記憶を身ごもった〈子宮〉に見立てられていて、その亜熱帯の〈子宮〉から父や母たちは生き延び、そして「その母の子宮の中 小さな/私の命が宿っている/ガマから生まれた 戦後の命が」と結ばれるとき、そこにゆるぎない生成の思想が書き込まれているはずです。ここでは〈子宮〉は亜熱帯の自然と実際の母のそれとして二重の意味を帯びさせられている。「ガマ」はまた歴史の〈子宮〉でもある、ということが言われています。
 高良勉さんは1949年生まれですから、沖縄の団塊の世代に属することになりますが、しかし、この詩は戦争と戦後を貫いて生き延びたものはみな「ガマ」から生まれた命だということが認識されています。先に沖縄の住民意識調査のなかで、沖縄の近現代にとって最も重要だと思う出来事を問う設問に対する答えの1位が「沖縄戦」だったということはみてきましたが、この詩は、その「沖縄戦」がどのような意識によって受け止められているのかということを私たちに教えてくれると同時に、詩が表出したところはまた、教科書検定意見で「集団自決」の軍命の書き替えを契機にしてわき起こった沖縄からの異議申し立てとその結晶ともいえる、2007年9月29日に行われた「教科書検定意見の撤回を求める県民集会」に11万人が結集した出来事が、どのような質をもっていたのかということを言い当ててもいるように思えます。
 「沖縄戦」は沖縄の近代が行き着いた果てに何をもたらせたのかということを凝縮した形で顕しています。つまり明治の琉球処分によって日本の版図に併合された沖縄は、言語と主体を同化主義的に改造されてきました。沖縄の言語を禁圧し共通語=日本語教育を強制され、沖縄人という主体を日本人=国民に変更・同化させられていきました。沖縄における皇民化は、帝国日本がアジアの周辺諸国・地域の植民地主義的支配の、いわば実験的な場にもなったのです。そうした皇民化の極限が「沖縄戦」であり、その起点に遡っていけば「琉球処分」に辿り着くことになるということです。「沖縄戦」を裏返せば「琉球処分」になり、「琉球処分」を表返せば「沖縄戦」になる、という関係にあるといっても過言ではないでしょう。「沖縄戦」と「琉球処分」は、表と裏の構造的に不可分の関係にあるということが分かってきます。
 話は飛びますが、沖縄の戦後は日本国憲法の外部におかれ、日米安保の結節として長くアメリカの軍事的な植民地状態を生かされてきました。よく言われることではありますが、日本の「平和」や「民主化」、「高度経済成長」は、沖縄をその枠組みの外に切り離し、アメリカの占領下にゆだねることによって可能となった、いわば〈擬制の体制〉です。そしてこの〈擬制の体制〉の原像となったのが、天皇はアメリカが沖縄を長期にわたって占領することを望む、とした1947年の「天皇メッセージ」です。実際その通りにアメリカの長期にわたる占領下におかれてきました。この「天皇メッセージ」は、天皇の戦争責任の免責、国体護持を狙う自己保守と延命のメッセージでもあった、と言い換えることもできますが、その自己保守と延命のためには他者を切り捨てる、きわめてドメスティックな構えは、日本国家と日本の戦後の見事な鏡像にもなっている。そのことを憲法に表現したのが第9条の平和条項と第1条の天皇条項の〈矛盾なき同居〉といってもよいでしょう。ほんとうは鋭く矛盾するはずの両者が、あたかも矛盾がないかのように同居する、このことの内に戦後日本の最大の自己欺瞞があった。しかもこの自己欺瞞は、沖縄を利用したという意味で二重の構造をもっていることになります。「象徴天皇制」は天皇の戦争責任を免責する避難所になり、その場所で実に巧妙に生き永らえたのです。護憲派といわれる人たちは、この合わせ鏡の関係にある9条と1条の〈矛盾なき同居〉の擬制にどの程度意識的であるのでしょうか。そしてこのドメスティックな鏡像は、沖縄を国民や領土の境界の外部に排除することによってはじめて成り立ったものであり、日本の戦後的主体はこうした一国主義的閉鎖空間の中で9条と1条を抱きしめていたのです。
 このことは冷戦下の東アジアにおける「日本型」と「沖縄・韓国型」のまったくことなる二つの戦後/占領を産出してしまい、9条と1条が〈矛盾なき同居〉する日本の戦後は、そのまま植民地支配の記憶を封印する装置として機能することにもなったのです。とはいっても、日本の旧植民地が実態はどうであれ、「解放」や「光復」として独立したのに対し、沖縄は日本の「残存主権」を残したままアメリカの占領下に宙吊りにされたという違いはあります。この国際法上のマヌーバーともいえる「残存主権」はまた、「天皇メッセージ」が関与できるイデオロギー装置にもなったのです。ただはっきりしていることは、9条と1条が〈矛盾なき同居〉する日本の戦後的主体、つまり、象徴天皇制が国民の総意であるとか、天皇が国民統合の象徴であるというときの、その「総意」や「象徴」の共同性にいかなる意味でも沖縄は関与しなかった、という事実は確認しておく必要があります。ここから沖縄の戦後的主体の履歴が浮上してきます。
 とはいえ、沖縄は9条と1条の〈矛盾なき同居〉の外部であるということを、独自な戦後的主体を形成していく条件にすることはなかった。アメリカの占領支配と基地の不条理からの脱却を「日本」を希求する「復帰運動」のなかに主体を溶解させていく、皮肉なことですが脱主体化の運動として機能していたのです。ここで注意しておきたいのは、「脱主体化」の中身は「同化=日本化」であったということです。この「脱主体化=日本化」の表象は復帰運動の展開過程でいくつかに、例えば、初期の「民族的悲願」から平和憲法の下への復帰とか核も基地もない「完全復帰」とか、「真の復帰」というように変奏されていきましたが、基調にある〈復帰=同化=従属化〉は変わることなく一貫していました。「日本」は「民族」であったり「平和憲法」であったり「高度経済成長を果たした豊かさ」であったりしてきましたが、それらの〈表層の日本〉を支える下意識としての「復帰」思想は変わらなかった、ということです。アメリカという異民族統治への反発や抵抗から、独自な主体の創発へ向かうのではなく、日本を「祖国」とする仮構された幻想へ同一化していく方位をとった。「日本」が「反米」において力学的に発見されたということですが、そうさせたのは、明治の沖縄併合以来、強力に推し進められてきた植民地主義的な同化教育であり、そのイデオロギー装置として動員されたのが「沖縄学」であった。
 問題を整理し直してもうすこし先に進みましょう。まず第一に、復帰運動の心情と論理は、9条と1条が〈矛盾なき同居〉する擬制に目を瞑り、天皇制は問わなかったことである。問わなかったのは復帰運動を中心的に担った主体(教員や公務員)が温存させていた「内なる天皇制」であり、日本との同一化幻想であった。第二に、「民族」であったり「平和憲法」であったり「高度経済成長を果たした豊かさ」であったりと変奏された〈復帰思想〉は、戦前の皇民化思想と断絶しているのではなく連続し密通する構造をもっていること、そしてその連続や密通を中断したのが復帰運動を中心的に担った教師たちであったこと、そのゆえに戦後、義務教育空間である小中学校で共通語=日本語教育や国民=日本人教育が情熱を傾けて実践されていったことです。換言すると「反米」の意識空間に、沖縄が沖縄であることによってアジアとつながるインターナショナルな根は封印され、「日本」が「祖国」として脱=没主体的に呼び寄せられた、ということになります。この沖縄を脱=没主体化した運動は、国家の併合原理を補強し代行したことはいうまでもありません。その帰結が〈1972年5月15日〉だったのです。

南の北、新しい友、インターナショナリズムの根

 これまで日本国家による併合とそれと相補的な関係にあった「日本復帰運動」の陥穽についてみてきましたが、ここからは封印されてきた沖縄の未成の主体は、いかにして、創発していくことができるのか、ということについて考えていきたいと思っています。「日本復帰運動」が沖縄の戦後史の浮力になってきたとはいえ、これまで日本とアメリカの狭間で沖縄独自の政治的共同性を開発していこうとする契機は、歴史の転換期に顕われては消え、消えては顕われてきました。言葉を換えて言えば、沖縄が沖縄であることの根拠に降り立とうとする試みや沖縄自立への模索は歴史の深層に潜流しつづけてきた、ということです。
 この潜勢力は、戦後初期、宮古や八重山までの裾野を広げた沖縄での自治や共和国構想、講和条約が締結されようとしたとき、日本復帰、独立、信託統治論としてたたかわされた「帰属論争」の形をとって表出されてきました。そして、1960年代の後半から70年代にかけて、国家の領土的欲望を代替していくナショナリズム運動としての「日本復帰運動」を批判する〈反復帰論〉が登場します。この〈反復帰論〉は、これまでの政治力学を超えた、沖縄の口をふさぎ、沖縄自身口をふさいだ共犯の構造を内破する思想的実践だったといえます。「日本復帰」の心的現象を近代までさかのぼって内側から批判・解体し、沖縄の可能性を日本という国家の枠組みから解き放つ、きわめてアクチュアルな試みとして位置づけてもよいでしょう。〈反復帰論〉は、ですから、国家と国民へ捕捉されていく領土的主体を再審し、その再審において自立の思想的根拠とそのアジア性を拓いていくものでもあったといっても間違いではないでしょう。「沖縄学」といわれた沖縄の近代的知や「沖縄民権運動」のなかにある国家幻想を内部から抉り出し、沖縄における天皇制思想や復帰運動の共同体的生理に集団自決とつながるものを探りあてる、それこそ自己への審問と批判の実践だった。〈反復帰論〉は60年代後半から70年代の転形期の状況への批判的介入から、沖縄の近代批判の射程をもって沖縄の日本国家への統合や併合を撃つ、いわば「革命を革命する」場所に踏み込むことができたといえます。この思想実践には「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、そしてどこへ行こうとしているのか」という問いが通奏低音のように鳴っていて、この場所から新たな主体をめぐる戦線に立つことができた、といっても過言ではありません。〈反復帰論〉においてはじめて国家統合と近代批判から、思想のヴァリアントを手にすることが可能になったのです。
 最後にこの「革命の革命」について触れていきたいと思っています。最近、谷川雁を改めて読み直していますが、イメージを裏返さない限り世界は永久に変革できない、イメージから先に変われ、という言い方をしているところがあります。「原点の力学」ですね。制度や経済から発想する変革の思考コードをコケにし、逆なでする谷川雁の「原点の力学」は〈反復帰論〉の思想的実践と時と場所を超えて交差しているように思えます。
 今日のこの講演のタイトルは「ヤマトのチビウーヤーはやめ、主体を再審・再創造し、新しいドゥシを探そう」となっていますが、「チビウーヤー」とは、子ともが母親の尻を追っかけるように、後追いとか追っかけという意味で、「ドゥシ」は友のことです。ヤマトの追っかけはやめましょう、自立して新しい友を探しましょう、ということです。72年の日本国への併合以降、「本土と格差是正」、「一体化」が「復帰」思想の変態として、沖縄の政治や経済の領域で主流を占めていくことになりますが、その「格差是正」や「一体化」のエンジンになったのが沖縄振興開発特別措置法に基づく沖縄振興開発です。この莫大な国家資本を投下した沖縄振興開発は、東アジアの戦略的軍事拠点としての沖縄基地の維持装置としての性格を持っていると同時に、装填された「格差是正」や「一体化」は、日本国家の沖縄統合の思想として強力に機能していきます。沖縄の保守と革新の対立などチャラにするほどの回収力をもっていました。
 谷川雁は1983年の11月に初めて沖縄を訪れますが、その旅の前に「からまつ林からの挨拶」というエッセイを沖縄タイムスに寄稿しています。そこで言われている核心は、沖縄を日本の血脈に縛りつける「沖縄祖型論」や「日琉同祖論」への批判と、琉球音階が〈レ〉と〈ラ〉が非在であることを思想的に読解し、そこに自立の思想的根拠を喚起したことにあります。〈レ〉と〈ラ〉がないということは欠如としてではなく、〈ない〉ことはそこに〈ある〉ことなのだという意表をつくような視点を提示する。琉球音楽が〈レ〉と〈ラ〉ないことによって成り立っていることの固有性にもっと思いを返すべきだというのです。そこからさらに沖縄の風景には〈レ〉と〈ラ〉が充満しているということまで視野を広げていっているところが、いかにも原点の思想家と工作者らしいところですね。〈レ〉と〈ラ〉が非在である、非在であることによって成立している音を含めた感覚のシステム、ここに沖縄が沖縄である根拠を視よ、と言っているように私には聞こえます。そしてそこは、他ならぬ沖縄がアジアであることの場所ならぬ場所なんだ、とも断言しているように思えます。このことは沖縄と本土を比較し、そこに沖縄の「遅れ」や「格差」を発見して「一体化」へと向かう接続法の虚妄性を鋭く衝いています。「イメージを裏返さない限り、現実は永久に変わらない」といった原点の力学が躍如としているところですね。谷川雁の視点はまた「復帰10年」目の沖縄の疲れと、その疲れの根源にあるものを鋭く見抜いてもいました。沖縄はヤマトと付き合いすぎた、皮膚の下の結晶片が摩滅している、新しい友を探すべきである、といってるところです。その「新しい友」とは二つの方角にいて、ひとつは、「ジャワ、タイ、マライからフィリピンにいたる、ラーマーヤナ物語を共通のかたりごととして持つ地帯」で、もう一つは「照葉樹林帯に対する落葉広葉樹林帯とをとりでにし、数百年の悪戦ののち、ついに日本によって滅ぼされた縄文・続縄文の後裔エゾの世界」だという。ここから「沖縄の感覚の基本システムにおいてなにものかの南ではない。あきらかに、なにものかの北端である。沖縄の感性の潮は遠くジャワ、フィリピンから寄せている」、つまり「北の南」としてではなく、「南の北」として沖縄の時空認識を転生させる思考の跳躍力には瞠目させられます。
 こうした谷川雁の沖縄論は、〈自立論〉の内実を持っていますが、亡くなる2年前、「復帰20年」目の1992年の『新沖縄文学』に発表された「〈南〉の北としての文学を」においてより鮮明になり、反復されていきます。谷川雁の沖縄自立論は〈反復帰論〉とその後の展開と不思議に響き合っているように思えます。60年代後半から70年代にかけて、「復帰運動」の国家幻想や日本との同化・一体化を内破した〈反復帰〉の思想は、1980年代に入って「琉球共和社会憲法」と「琉球共和国憲法」として結実していきますが、この政治的共同性への架設作業は、ちょうど谷川雁がはじめての沖縄への旅のために書いた「からまつ林からの挨拶」のなかで展開した琉球音階の思想的読解から「〈南〉の北」としての沖縄の時空認識の刷新と越境性を拓いたことと深いところでつながっているように思えてなりません。
 この「原点の力学」と新たな政治的共同性への架橋は、グラフト国家の統合の接続法を解体・構築するものであり、同時に新たな審級のもとで主体をめぐる闘争の戦線を設営するものであるといえます。ここで言う「グラフト国家」とは、吉本隆明さんの「南島論」や「異族論」に登場する概念で、包括的共同体が小共同体や地域共同体を統合するとき、法の継ぎ目を消し、あたかも包括的共同体のものであるかのようにする、いわば、天皇制の包摂の狡知として使ったものです。「グラフト国家」の「グラフト」とは接木のことを意味します。
 さて、結論らしきものを急ぎましょう。80年代に架橋された「琉球共和社会憲法」と「琉球共和国憲法」試案は最近になって、ポスト東アジアの群島的想像力として、国家主権を脱領土化し〈あいだ〉を生命とする、間・主体的な沖縄〜台湾〜済州島を横断する「越境憲法」として累進していきます。日米軍事再編に基づく名護市辺野古への新基地建設や海兵隊のグァム移転へ抵抗するインターナショナルな根を、ここ沖縄から構築していくためには、こうした政治的共同性の新たな時空の発明なしにはグラフト国家のドメスティックな併合の論理に回収されていくしかない、ということを〈5・15〉の遠近を抱きしめる、この日において肝に銘じておきたいと思います。そして日本の近代が、北のアイヌモシリと南の琉球・沖縄を併合することによって帝国として膨張していったことの意味を、現代的文脈で問い直していくこと、群島状の新たなるターミナルを発見していくこと、ここに谷川雁が沖縄の旅で鋭く喚起した「二つの新しい友」へつながる文法を獲得していくことになる、と信じたい。主体化が領土化や従属化となる罠に捕捉されずに、「新しい友」を得る沖縄の未成の主体をいかにして救出していくことができるのかということは、依然として「革命を革命する」マチエールであることに変わりはない、と思っています。まとまりのない話になりましたが、ここで終わりたいと思います。

[註]この講演録は、5月16日に行われた「琉球処分130年・アイヌモシリ併合140年・「日本復帰」37年を問う沖縄集会」の基調講演に加筆・補強したものです。
(月刊『情況』09・08−9合併号所収)








薩摩侵攻400年と琉球処分130年


與儀秀武
(YOGI Hidetake 文化批評)




 2009年は、琉球・沖縄の近世・近代史にとって、大きな節目となる二つの出来事が重なる年である。ひとつは1609年、当時の独立国だった琉球王国が薩摩藩によって侵攻されてから400年という節目であり、もうひとつは1879年、侵攻以降、薩摩と清朝(中国)の両方の支配を受け入れていた琉球王国が、明治政府によって強制的に廃され、沖縄県が設置されたいわゆる「琉球処分」(廃琉置県)から130年という節目である。
 この二つの出来事は、琉球・沖縄の日本という国家への「二段階的包摂」(安良城盛昭)ともとらえられ、琉球・沖縄の政治的、社会的変化を考える上で、大きな歴史的画期をなしている。今日の沖縄のあり方を考える上でも重要なものとして関心を集めており、沖縄や奄美諸島で、シンポジウムや講演会が開催されるほか、関連書籍の出版がなされたり、地元新聞が長期連載で記事化するなど、歴史研究者に限らず、広く一般的にも注目されている。400年と130年の節目が重なったのは、もちろん単なる歴史的な偶然だろう。だが、その重複を踏まえ、琉球・沖縄の「近世」と「近代」を同時に視野に入れて問題化し、今日の沖縄を捉え返すとき、どのような社会認識が立ち現れるのかを問うことは、決して無意味なことではないと考える。その符合はまた、今日的課題として敷衍するならば、広く世界を覆い尽くした近代国民国家のあり方を再考するための示唆を私たちに与えるだろう。
 以上のような問題意識から、本稿では近年の近世琉球、近代沖縄の歴史的歩みを簡単に概観し、そこからいくつかの論点を指摘した上で、沖縄の現状と今後のあり方についてあらためて考えたい。



15〜16世紀、沖縄は「琉球王国」として、自立した王権国家を築いていた。周囲を海に囲まれアジア諸国に開かれた地理的条件を生かし、国際的な対外貿易によって中継地として繁栄した琉球は、各地からさまざまな人々や文物が往来する中で、経済的に発展し、独自の王国文化を形成する。当時の東アジアは、明国(現在の中国)を中心とした冊封体制(宗主国である中国の皇帝に対して周辺諸国が臣下の礼をとり、その地域秩序を基盤に進貢貿易などを行う国際体制)によって維持されており、琉球も中国皇帝の権威を背景として、広大な東アジアを舞台とした対外交易によって発展したのである。
しかし、このような冊封体制を基盤とした東アジアの国際秩序は大きな変化を迎えようとしていた。この頃、薩摩藩の藩主である島津氏は、琉球渡海船の管理を強化し、琉球貿易を統制しようと意図した。同じ頃、天下統一を果たした豊臣秀吉は明国の征服を目論み、1592年に朝鮮侵略を意図して出兵。琉球は豊臣政権への服属を求められ、朝鮮出兵に際しては軍役を要求されたが、明国へ秀吉の朝鮮出兵の情報を知らせた上で、服属を拒否している。秀吉から徳川家康へ政権が移行すると、徳川は豊臣政権によって破壊された対明関係の修復をめざして、琉球国王の尚家の仲介に強く期待していた。すなわち、薩摩による琉球侵攻の背景には、琉球を介して東アジアの新秩序の構築を模索しようとする島津家や徳川政権の意図があり、中国や朝鮮との新しい外交関係を構築し直そうとする思惑と深く関わっていたのである。薩摩の琉球侵攻に関しては、当時の島津家内部の権力闘争を一元化するかたちで琉球侵攻が断行された(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋敦之著、1990年)との要因も指摘されるが、同時に、薩摩と琉球の二項関係だけではない、東アジアの国際秩序が意識されていたことは注目すべきである。
このような背景のもと、1609年3〜4月、薩摩藩から島津氏の軍勢約3000人が武力侵攻し、琉球は征服された。琉球国王である尚寧は捕虜として薩摩を経て駿府まで連行され、徳川家康に謁見。形式的には独立国として存続を認められる一方、実質的には島津氏の支配を受け入れることになる。薩摩侵攻後、徳川家から琉球の統治権を与えられた島津氏は、検地を行うほか、「掟15条」などで琉球への統治方針を定め、その支配権を強めた。しかし琉球は、将軍や国王の代替わりなどの際の江戸への慶賀使、謝恩使の派遣(江戸立ち)の際には、「唐装」(中国風の衣装)で謁見するなど、徳川幕藩体制の中に組み込まれながらも、あくまで「異国=外国」としての位置づけのまま、服属するというスタンスをとった。また薩摩も、奄美大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島の五島は島津の領土として直轄支配したが、沖縄本島以南の先島は首里王府の一定の支配権を認めた上で間接的に支配し、両者の違いを前提にしながら、異なった統治の仕組みを考えていた。
 一方、薩摩による琉球侵攻(倭乱)は、周辺諸国にも驚きをもって受け止められた。東アジア全域に侵攻の情報が広まると、明国の官僚間では、「琉球の復興を図るべきだ」とする声も上がったが、北京や福建の当局は表向き沈黙を保っていた。琉球国王の尚寧は、薩摩に捕虜として連行され、徳川家康と謁見した後、琉球に帰国。「倭乱のため琉球国民は困窮し、進貢品も十分調えられないことをご憐察願いたい」と弁解して、明国に進貢使を派遣した。しかし、琉球に続いて自国も徳川幕府による侵攻の対象になることを警戒した明国は、冊封の体載を守りながらも、琉球と距離を置こうと考え、倭乱により琉球の国力が衰えていることなどを理由に、10年後の進貢を申し出た。しかし、尚寧は1614年9月、従来の貢期(2年1貢)に戻してほしいとの書簡を出し、「もし狡猾な倭を拒絶するために、忠順な琉球までも拒絶するのであれば、属国の心を天朝へ繋ぎ止めることはできません。どうか、琉球の立場を配慮されて貢期を回復して頂きたい」と要請。窮地にありながらも粘り強い外交交渉によって結局、薩摩侵攻後も明国と徳川幕府にそれぞれ「臣服」「朝貢」し、東アジアの中の一独立王国として存続し続けた。
 また、冊封体制下で琉球と同じ明国の属国だった朝鮮の間では、その後も進貢の年ごとに国書の往復が繰り返され、北京における進貢使節同士の往来を通じて国交を維持。徳川幕府の侵攻に対する警戒や情報交換も共有されており、当時の東アジアの冊封関係に裏打ちされた広域的なネットワークは、関係国間で相互に機能していた。



 幕府体制下の異国として二つの大国との関係を保ちながら独立国としての体面を維持していた琉球は、19世紀後半、近代化を急ぐ明治政府によりあらためて日本国家の内部に併合される。それまでの清国(薩摩侵攻時の「明国」は滅亡、1661年の清朝成立により冊封体制の宗主国も清国に移行した)を宗主国とする琉球王国を解体し、名実ともに日本の領土内の一地方に位置づけることを意図した明治政府は、1875年、松田道之を処分官として琉球に派遣し、これまでの清国との関係を断ち、明治元号を使用すること、法律や政治制度を日本の府県制度に倣いあらためること、などの命令を言い渡した。
 琉球王府は再三にわたり、日本と清国の双方との関係を維持しながら、これまで通り王国体制を継続してほしいと訴えたが、明治政府の姿勢は変わらず、1879年、松田が軍隊を率いて琉球を訪れ、首里城内で琉球藩を廃し沖縄県を設置する廃藩置県(廃琉置県)を断行。琉球の土地や人民は明治政府に引き渡され、強行的に日本の一県に位置付けられた。一方的に沖縄県設置が言い渡されると、沖縄本島のほか宮古・八重山諸島でも日本化反対の動きが起こったが、これらの親清派(頑固派)の動きは処分官らによって高圧的に抑え込まれていく。琉球王府の元役人の中には清に渡り、要人らに琉球復国への請願要求を働きかける人々もおり、「脱清人」と言われた。
 ところで清国は、このような日本による一方的な沖縄県設置を認めてはいなかったものの、ロシアとの国境紛争など国内問題の混乱を抱えており、さらなる外交問題として琉球の帰属が懸案化することに頭を悩ませていた。日本は清国の沖縄県設置不承認の意向を一定踏まえた上で、琉球の帰属に関して、沖縄本島周辺諸島以北を日本領土、宮古・八重山諸島を清国領として分割し、さらに1871年に締結した日清修好条規に、日本商人が中国内部で欧米諸国なみの商業活動ができるよう条文を追加するという案(分島・増約案)を提示した。日本側に有利な条件を盛り込んだこの案に対し、清国側は奄美諸島以北を日本領土、沖縄諸島を独立し琉球王国を復活させた上で、宮古・八重山諸島は中国領とする、という案(琉球三分割案)を提示したが、日本側はこの案を拒否。琉球問題の早期決着を意図する清国は、1880年10月、やむをえず日本が提示した分島・増約案に合意した。
 しかし、日清修好条規の改約による国内市場の混乱やそれに乗じた日本への台湾進出の懸念、琉球の旧士族層からの日本帰属、分島案反対の強い働きかけなどを受け、清国は同条約の正式調印を棚上げした。その後、国際情勢の変化に伴い日本が朝鮮進出すると、日本と清との対立は決定的となり、日清戦争(1894〜1895年)が勃発。日本が勝利したことで琉球の帰属問題にも決着が付き、琉球王国の版図は完全に日本の領土に組み込まれることになった。宗主国である清国からの救援を期待していた琉球復国の請願要請運動は、日清戦争の清国の敗北によってその根拠を断たれた。以降、琉球王国は沖縄県として急速に近代日本への同化志向を強めていく。近代的な学校制度の普及により、日本語教育と皇民化教育に重きが置かれ、沖縄文化の独自性は否定的なものとして排除される一方で、後発的な近代化を推し進めなければならなかった沖縄は日本からの差別的な扱いにさらされながら、積極的に日本への同化を推し進める。
 そして、帝国主義の軍事的な対外進出を推し進める明治政府は、満州事変、蘆溝橋事件に端を発した日中戦争、アジア太平洋戦争と戦線を拡大させ、沖縄の人々も対外戦争に参加。日本に帰属し、同化を推し進めた沖縄の近代史は、国内で唯一の地上戦闘である沖縄戦によって、民間人を含む多数の死傷者を出すという逆説的な帰結を導くことになった。



 ここまで近世、近代の琉球・沖縄の歴史的歩みを簡単に概観した。その歩みを踏まえ、整理できるポイントは三点ある。
 第一点は、近世琉球と近代沖縄の特徴の対照性である。中国と日本という二つの大国の支配を受けながらも、独立国として存続していた琉球王国。その存在の背景には東アジアの冊封体制という国際秩序があり、ゆるやかな宗主国と附庸国の広域的なゾーンニングが、琉球の存在を裏付けていた。しかし、近代沖縄においてはその様相は一変し、自らの存在を排他的なラインで定める国民国家のフレームによって、その所属が確定的に決められ、中央集権的な制度や価値観が強要される。近代国民国家の線引きによって強いられるのは、フレームの内と外を分かつ排除と選別であり、権力の中心化であり、差別化、序列化の開始である。近世琉球と近代沖縄の双方を同時に見据えることによって明らかになる対照性は、一義的な価値の中心化を要請する近代国民国家の強固な性格を特徴づける。
 第二点は、近世琉球の主体性の問題である。薩摩侵攻直後、琉球と距離を置こうとする明国に働きかけ、冊封体制を維持した交渉力。琉球の分島案を事実上の廃棄に追い込んだ要請行動。「江戸立ち」などの際、徳川幕藩体制下ながらも「異国」としての側面を強調し、独自性を保った戦略性。これらの事例は、近世琉球が大国のもとで、単に従属的な関係に拘束されていたのではなく、小国でありながらも日中の狭間で埋没せず、したたかに外交交渉を行い、一定の存在感を持っていたことを明らかにする。従来まで近世琉球に対しては、「この戦争(薩摩侵攻−筆者註)の結果、薩摩と琉球との関係は、兄弟の関係より主従の関係に代わつた」(伊波普猷「島津氏の征服と両属政策」)と、従属的位置に置かれていたことを強調する理解がなされたが、近年の近世琉球史研究においては、逆に「小国寡民」的な戦略性が注目されており、ここでも近代沖縄の国家主義的な同化志向を相対化するような、近世琉球の独自性が浮かび上がる。
 第三点は、琉球諸島の各島々によってまったく異なる歴史認識が浮かび上がるという「群島性」である。薩摩侵攻以降、島津と琉球王府との二重支配によって苛酷な役人の中間搾取に苦しめられていた宮古、八重山は、琉球処分後の分島案によって分割されようとした歴史を持つ。また、薩摩藩の直轄支配を受けた奄美諸島では、一定の独自性を保っていた琉球王国の版図内の島々とは異なり、苛酷な黒糖収奪が行われており、薩摩も奄美諸島と琉球王国の違いを前提にして統治を行っていた。さらに、奄美大島、喜界島は、薩摩侵攻以前、琉球王府の軍勢によって攻められたという経験も持っている。
 奄美から沖縄へとゆるやかに隣接した琉球弧の島々は、自然的、地理的な条件からしばしば情緒的に「兄弟島」として一括して理解される傾向もある。しかし史実が明らかにするのは、それぞれの島々がその他の島々とはまったく異なった歴史認識を持ち、それが各々の独自性、固有性に結びついているという特徴である。それぞれ似てはいるが、同時に注意深く見ると明確な個別性が浮かび上がる「家庭的類似」とでもいうべきさまざまな相違は、琉球王国という一元的な権力の中心史観には決して収斂しないような社会認識の広がりを強く印象付ける。
 さて、以上三つの論点を踏まえ、ここで本稿冒頭の問題意識に戻ってあらためて考えたい。今日の沖縄・奄美諸島で、「薩摩侵攻」「琉球処分」のトピックが研究者だけではなく広く一般的にも大きな関心を持って、人々に受け止められていることは既に述べた。ここまでの考察を踏まえた場合、その問題の共有化には明確な根拠があるように思われる。
 排他的な国境のフレームを相対化する東アジア地域のゾーンニングにしろ、中央集権に回収されない戦略的主体にしろ、中心化や代表制とは異なる群島性にしろ、「薩摩侵攻400年」と「琉球処分130年」を複眼的に捉えて得られた三つの論点は、まず何よりも、現在の世界をくまなく覆い尽くしている近代国民国家に対する批判的吟味としての意味を帯びており、ポスト国民国家の理念を模索する示唆を、私たちに与えるものとなっている。その問題意識は、単に郷土史の趣味的な回顧意識からくるものではなく、現在の沖縄が置かれた現状を問い直し、とらえ返そうとする切迫感によって要請されたものであり、きわめて今日的な危機感を踏まえた上で発動されていることに注意すべきである。
 2009年の沖縄が直面しているのは、新たな軍事的負担を強いる名護市辺野古沖、東村高江への基地建設への抵抗であり、高校の歴史教科書からいわゆる「集団自決(強制集団死)」をめぐって日本軍の命令、強制、誘導などの記述を削除した文科省に対し、検定意見撤回と記述回復を求める県民総ぐるみの抗議であり、復帰後も一向に収まることのない米兵による事件・事故の頻発と、それを是認し続ける日米両政府への苛立ちである。日本という一地方として組み込まれた琉球・沖縄社会の歴史的歩みを系譜的にとらえ返した場合、近代国民国家のフレームの淵に位置付けられながら、さまざまな排除と包摂の紆余曲折を経て、今日に至るプロセスがあらためて浮かび上がってくる。そのようなポジションから見る世界観は、必然的に国民国家のフレームを前提としたものとは異なる社会認識のあり方を要請するものとなる。「薩摩侵攻400年」と「琉球処分130年」の問題化が孕んでいるのは恐らく、沖縄という社会が日本という国家の中に帰属している現状への根本的な疑いであり、近代国民国家の枠組みを前提に自分たちの社会の意思を決定し、行動することはできないという危機意識の顕在化なのではないか。
 東西冷戦終結以降、新たな社会構想を模索する理念の失効によって蔓延したシニシズムは、今日的な資本と国家の暴走をもたらした。その流れは結果として、今後も近代国民国家の周辺部に位置づけられた沖縄の現状を、危機的な状況に追いやっていくだろう。沖縄において社会変革への希求は、一過性のものではなく、終戦直後や復帰前後、1995年前後と歴史の節目ごとに繰り返し現れてきた。近世琉球と近代沖縄が経験した歴史を普遍化し、ポスト国民国家の理念を肯定すること。「薩摩侵攻400年」と「琉球処分130年」の歴史への着目は、その必要性を私たちにあらためて気付かせる契機である。 (了)
[情況09・08−9]







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