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独断的「沖縄の魅力」

山羊汁
[01.03.01/この項、古波蔵のむかし洞古書店主の投稿です] 
 山羊汁をはじめて口にした時から、二年ほど嫌っていた。レトルトのものだったので、旨みよりも、けものの匂いが膨らんで感じられたのだろう。勇んで高価なそれに挑んだわりに、ふた口目にしてやられてしまった。こんなはずではない、と思いつつ。たまに風に混じって漂う山羊の香りも、喉元で胃酸を刺激する。

 安里の栄町には、山羊汁屋が多い。いわれを何度か尋ねたものの、あまり的を得た返答は覚えていない。この一画は娼婦の路でもある。おんな買いの壮年が「体力を付ける」、そんな感じで広がったものかもしれない。
 その栄町の一軒の店に、先日知人とともに行った。「山羊は臭い」「山羊は高い」という先入観から、遠ざかっていた世界ながら、何物も「ちゃんと喰ってからものを言う」べし。既に桜坂の二軒を背にした徒ゆえ、また長らく口にしていなかった銘酒「山原くいな」にも後押しされ、お汁の旨いこと。次の日に酒も残らない(酒より山羊が勝つ)。本当にしばらく元気になる。ただ、そうそう何杯も喉を過ぎるものでもない。それでも旨い。

 娼婦街といえば、「辻」だろう。昨年から、「ジュリ馬祭り」が復活した。姉さんたちが、馬の紙型を腰に付け、奇麗な装束で練り歩く。去年も今年も結局見に行けなかったが、この時期の地元紙には、これに関しての投書やコラムが多く掲載される。「子供を連れて行って、祭りのいわれを聞かれても、答えられない」「再開の意図が無さ過ぎる」等の批判の意見は多い。実際、今の辻は、ソープランドとラブホテルばかりのビル街で、味もそっけもない。宜野湾の真栄原社交街の風情に優る要素は感じられない。ただ、意図が曖昧だからとか、「娼婦」を奨励するようなものは女性差別だから駄目、という合理性は寂しくもある。それが正しい意見と思うものの、それだけではない要素に魅かれるところもある。たとえば、辻の遊廓は、必ずしもシステム化された売春の場でもなかったようだ。客は、姉さんが気に入ってくれないとやらしてもらえず、売る決定権が姉さんたちにあった、と聞いたことがある。男は、お茶やお酒を一緒に呑みながら、一生懸命口説く。また、当然貧しい娘(文盲)が多かったこともあり、字や言葉を学べる環境も整っていた(一般市民に比しても)よう。

 不合理で、駄目で(今の価値観では)、訳が分からないもの。そんなものが、本当は、何かを動かすエネルギーにつながっている。八〇年代のガロに描いていた根本敬が『人生解毒波止場』(洋泉社、九五年)という面白い本を出している。これまた、浮浪者差別といえば、その要素の満開ながら、「渋谷を歩いている若者を見ても全くそう思えないが、土方や浮浪者のオヤジと会っていると、人生っていいなあ、生きてるって素晴しいなと思える」というような言い方をしている。最後のしめは、「必要なのは野性のデフォルメをえいやあと受け止める先祖返りなのである」。その通りでしょう。一方で、合理性・整理された倫理を、また一方で、単純な激しさを求めても無理なこと。訳の分からないものは、そうあるしかないし、訳の分からないものが分かってしまったら、これほど味気ないこともない。

 山羊汁は、臭い臭いと言いながら、旨いと思わせてしまうエネルギーがある。運動に必要なのは、皆で旨いと思うことでなく、臭くも旨くも喰ってしまう、昔ながらの単純さでしょう。

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