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THE SEVENTH EMIGRANT

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【2007.11.3】 伊佐眞一『伊波普猷批判序説』を読む
 伊佐眞一『伊波普猷批判序説』が2007年4月に影書房から上梓された。いち早く、新川明が「『伊波普猷批判序説』を読む」と題した書評を『琉球新報』(2007.6.9)に掲載。そこで新川は“ほとんど不可侵と思われている領域に、敢然と斬り込んだ「衝撃の書」”と述べた。次いで、沖縄タイムスが<『伊波普猷批判序説』と現在>と題して、“歴史研究者の伊佐眞一氏がこのほど出版した『伊波普猷批判序説』(影書房)が、話題を呼んでいる。近代沖縄を代表する知識人である伊波普猷が、沖縄戦直前に「東京新聞」に書いた記事「決戦場・沖縄本島」が国家主義的な立場から戦意高揚をあおる文章だったとする伊佐氏の指摘を受け、伊波をめぐってさまざまな議論がなされている。ナショナリズムや愛国心などの問題が取り上げられる今日、伊波が沖縄戦争直前に書いた文章を沖縄・日本からどう読むのか。論評してもらった。”とのリードを付して、4人の論客による書評を連載した。

 伊佐眞一による「比屋根照夫氏の反論を批判する」(琉球新報2007.10.8、10.10、10.13)は「今まで、過剰な思い入れの中に描かれた普猷像は、一度壊すべきだろうと私も考えているが、伊佐の視座がどのあたりにあるのか、これが私の最大の関心事だ。これらの記事から考えてみたいと思う。」と書き記した showmyn'room W で読めます。




【2007.10.17】 『地域の自立 シマの力』を読む
 『地域の自立 シマの力』は、沖縄大学地域研究所主催の15周年記念シンポジウム(2002〜2004)をもとに新崎盛暉・比嘉政夫・家中茂を編者に「沖縄大学地域研究所叢書」として、<上>は2005年10月25日に、<下>は2006年10月25日にコモンズから発行された。以下目次。

地域の自立 シマの力<上>
まえがき●新崎 盛暉
序 章 実践の知をどう創るか――解題と論点の整理●家中茂
第T部 地域に学ぶ科学技術
 第1章 現場からの学問の捉え直し――なぜ、いま水俣学か●原田正純
 第2章 やわらかい技術の必要性●宇井純
 第3章 問題解決型の学問・民際学●森住明弘
 第4章 地域からつくる循環型社会●三輪信哉
第U部 開発と環境のせめぎあい
 第1章 生活の質をめぐって――「自然の本源的優越性」のための実践的覚書●松井健
 第2章 それはもちますか?――われわれはいかなる開発をめざすのか●桜井国俊
 第3章 地域の資源を誰が利用するのか――「周縁」からの視点●田中耕司
 第4章 生活を組み立てるということと調査研究●宮内泰介
第V部 市場主義を超える開発と援助
 第1章 「21世紀の開発」論に向けて●原洋之介
 第2章 地域と余所者の支援●村井吉敬
 第3章 「開発」はいかに学習するか――「意図せざる結果」を手がかりに●佐藤仁
 第4章 内発的発展による経済自立――島嶼経済論の立場から●松島泰勝
第W部 琉球孤・島嶼生態系の視点
 第1章 ユーザーを意識した知識生産――開発と環境の両立をめざす科学とは?●佐藤哲
 第2章 生物多様性の保全における種認識の功罪――琉球列島の両性爬虫類を対象とした研究とその保全策が示唆するもの●太田英利
 第3章 進化と絶滅の場としての島――沖縄やんばるの自然を見ながら考えたこと●伊藤嘉昭
 第4章 島の鳥類相に見る生物保全●中村和雄
あとがき●高良有政

地域の自立 シマの力<下>
まえがき●比嘉 政夫
序 章 実践としての学問、生き方としての学問――解題と論点の整理●家中 茂
第T部 沖縄から見えてくること――近代〈アイデンティティ・国家〉と学問
 第1章 沖縄から何が見えるか●新崎 盛暉
 第2章 沖縄をめぐる/に発する「文化」の状況●鹿野 政直
 第3章 沖縄がはらむ民衆思想――ピープルネス・サブシステンス・スピリチュアリティ●花崎 皋平
 第4章 沖縄のアイデンティティを語ること、そして語りなおすこと――「沖縄研究」の現在について●屋嘉比 収
第U部 海からの視点――島嶼社会におけるヒト・モノ・ネットワーク
 第1章 琉球・沖縄史をはかるモノサシ――陸の農業と海の交易●安里 進
 第2章 漁撈・海運・商活動――海面利用をめぐる海人と陸人の琉球史●豊見山和行
 第3章 海面利用と漁業権●上田 不二夫
 第4章 村落基盤の資源管理――村の自立にむけて●秋道 智彌
第V部 学問における実践とは――ローカリティ・当事者性の視点から
 第1章 民際学における当事者性――仲間、出戻り、そしてよそ者●中村 尚司
 第2章 学問の実践と神の土地●鳥越 皓之
 第3章 社会人類学徒としての実践――琉球列島からの視点●比嘉 政夫
第W部 記憶すること・記録すること――語られなかったことのリアリティ
 第1章 記憶を掘りおこす旅――個人史を越えた基層文化ヘ●加藤 彰彦
 第2章 記録すること・記憶すること――沖縄戦の記憶をめぐって●岡本 恵徳
 第3章 語るという行為の表と蔭●香月洋一郎
 第4章 記憶/記録のゆくえ――想起と抗争そして「問いかけ」をめぐって●重信 幸彦
あとがき●宮城 能彦

 <下>巻に納められている「第T部 沖縄から見えてくること――近代〈アイデンティティ・国家〉と学問」の「第4章 沖縄のアイデンティティを語ること、そして語りなおすこと」の中で、「『歴史の痛覚』を『歴史としての現在』において語りなおす」との小見出しを付して、屋嘉比さんは次のように論考を締めくくる。
 【2007.8.31】で紹介した岡本恵徳さんとの<論争>への屋嘉比さんなりの、更なる応答として読ませていただいた。

「沖縄研究」の現在について・屋嘉比収

……
 そして、私が興味深く思うのは、その新たな米軍基地建設に反対する辺野古の運動を語るときに、米軍による土地の強制収用に対して沖縄住民が反対した、1956年の「島ぐるみ闘争」の歴史的体験や記憶が想起されて、新たに語られているという点である。その「島ぐるみ闘争」への言及は、多くは当時を生きた世代による発言が中心であるが、私が注目しているのは次の点である。それは、沖縄の復帰した後に生まれて、米軍占領下の体験や記憶のない沖縄あるいは本土から移り住んだ若い世代のなかで、現在の辺野古の闘いの意義を知るために、その言説に接して戦後沖縄史を学びなおし、新たな〈沖縄のアイデンティティ〉を再発見する動きが見られる点である。
 その軌跡は、現実の課題に遭遇して、過去の歴史が想起とされ、その過程において沖縄のアイデンティティを再発見し、新たに創りあげていく動きだといえよう。その際、とくに注目したいのは出自や帰属や世代に関係なく、いかに沖縄の歴史に学び、沖縄にアイデンティファイして共生するかが、もっとも重要な要因となっている点である。それは、出身や帰属性を基準とした旧来の沖縄のアイデンティティを超えるような、新たな〈沖縄のアイデンティティ〉の創造の試みであるといえよう。
 その動きは、現在の沖縄における、さまざまな出自、性、世代、階層を横断しながら、多様で変化を内包した新たな〈沖縄のアイデンティティ〉を創りあげていく一つの可能性としてとらえることができるのではなかろうか。その意味でも、辺野古の反基地の運動は、現実の政治的争点としてだけでなく、新たな〈沖縄のアイデンティティ〉を構築する試みにおいても注目すべき行為主体の運動だといえよう。そして、そのような新たな〈沖縄のアイデンティティ〉の創設の試みは、鶴見氏の言う「同一性」としてずらされていく「アイデンティティ」ではなく、新たな関係性によって更新・生産されていく態度としての「インテグリティ」の考えにちかいものといえるのではないか。




【2007.9.29】 『環』30(藤原書店2007.7.30)を読む。
 藤原書店である。2002年4月、松島泰勝『沖縄 島嶼経済史』を発刊。次いで同年9月に那覇で、〈シンポジウム 21世紀沖縄のグランドデザインを考える〉を開催し、『別冊 環』bU(2003.6)を発行。今、松島の『琉球の「自治」』を2006年10月に発行し、併せて2007年3月に久高島で「ゆいまーる」車座集会を開き、標記の『環』30を発行した。特集は<今こそ、「琉球の自治」を−「復帰」とは何だったのか>。(もっとも巻頭は、第一回の受賞者・李登輝の講演を採録した「後藤新平賞」の特集で、いろいろきな臭いが。ちなみに後藤新平は岩手出身で記念館もあるそうな。)
 以下抜き書きしたのは、その中での川満信一さんの論攷である。


琉球の自治と憲法


川満信一



復帰から学ぶ

 日本軍と米軍の死闘が繰り広げられた琉球アイランドは、日本軍の敗退で米軍に占領された。1945年には「米軍政府」が置かれ、翌年には、いわゆる「南西諸島」の行政分離が宣言された。50年には「沖縄群島政府」と「群島議会」が組織され、同時に恒久的基地の建設がはじまった。翌51年、サンフランシスコにおける日米単独講和条約によって、奄美をふくむ「南西諸島」は米国の統治下におかれる。
 その間の日本における、体制側の動向と、反体制側の情況判断は、全く逆の位置から、琉球の位置付けを「良し」とする、呉越同舟の対応をしている。つまり、天皇の輔弼たちが、国体、すなわち天皇制を維持することを最優先策として、琉球諸島の割譲を取引に使ったことは、戦後史が明らかにしているところ。また、天皇メッセージとして伝えられる、米軍への琉球手土産話もすでに知られている通り。
 これに対して、日本共産党も情況を読み間違え、「祝琉球独立」の祝電を送った。米軍の琉球占領を、日本帝国主義からの解放として、一面的に捉えたのである。
 この全く違った角度から形成された一つの潮流が、「琉球」を宿命づける圧力として、終戦時の不当な処分から72年の復帰まで、無反省に持続してきた。
 つまり、日本の戦後体制は、国体護持の「借り」を返すために、アメリカの強引な要求をも呑まざるを得ない。代りにその路線で戦後の復興をも成功させた。
 72年の復帰の時も、日米の「琉球」をめぐる「利権」がうまく一致して、「国体護持」の取引と同じく、基本的な問題は見送り、利権の調整ということで密約外交になった。
 「西山事件」で暴かれたように、沖縄におる基地施設の強化と恒久化、および「思いやり予算」という、国民の眼を誤魔化すしか方法のないインチキ外交で、再度、アメリカの「沖縄利用」を手助けしたのが「復帰」の本質だった。中国、旧ソ連圏に対する包囲覇権という米国の軍事的利権と、国外へ膨張する日本経済の余剰力が、沖縄を取引材料にする好機を得たわけだ。
 また、国際的取り決めの200カイリという海底領土域を想定すると、東シナ海のガス油田、尖閣諸島の海底油田など、資源不足の日本の、経済的利権も当然大きい。
 さらにその先には、アジア諸国への侵略的拠点として、もう一度、沖縄だけではなく、日本全土をも「生贄の島」にするという、ひそかな計算があったとも考えられる。
 この日米体制間の取引に対し、共産党を始めとする「革新側」の「沖縄はわれらのものだ」と歌う情況判断の狂いは、終戦直後の「祝琉球独立」の祝電と同様の誤りを繰り返した。復帰の際の誤りは、今日の米軍再編へと繋ぐ「沖縄犠牲」の政治圧力を、構造化してしまった。
 体制は利権、革新は薄っぺらなナショナリズム的良心、それが結果として日米関係を固定化し、沖縄の情況を悪化させている。


憲法と復帰

 復帰が間近に迫ってから、沖縄の革新は、祖国へ帰ろうというスローガンから、平和憲法の下へ帰ろうという呼び掛けに一部変わった。現参議院議員の太田昌秀氏らもその一人である。それに対して、憲法はその国の基本法であり、実定法である。その法の下に服すということは、その国の無数の実定法にも服すということであり、法制度成立の過程に参与もしていないわれわれが、一方的にそれを認知するわけにはいかない。
 憲法は大統領行政命令と同じで、理念は掲げられるが、実際には数多くの布令、布告と同様の実体法によって権利の制限や義務が課される。
 日本の平和憲法も、基本的人権や、言論の自由など、種々の権利とやらを綺麗事に謳っているけど、大統領行政命令の下で、銃剣とブルドーザによる土地の強制接収がなされたのと同じく、支配者に都合の良いように解釈されるものでしかない、とぼくは反論した。占領者の法治への不信感が、身体的な経験によって深まり、法制度への拒否感を強めていた。
 ただ、復帰のときも、いまの沖縄も、ワラにもすがるような瀬戸際の情況に追い込まれている。日米の軍事同盟がこのまま進めば、沖縄は日本軍と米軍の基地で沈没してしまう。「自衛隊の軍艦を派遣し、国民の意思表現を弾圧せよ」、そんな解釈勝手な憲法のもとで、法制度に準ずるなど、正気の沙汰ではない。
 日本は背広に着替えた制服組の閣僚によって、昔の帝国軍の「問答無用」の弾圧体制へ突き進んでいる。灰色憲法の現状維持を、などと平和呆けを唱えておれる情況ではない。
 安倍政権は「戦後レジームからの脱却」という、いわば「軍事帝国」への針路変更宣言を打ち上げて、総反動化への舵切り替えを急ピッチに進め出したわけだ。では、沖縄の「戦後レジーム」とはどうだったのか。日・米軍の基地強化と、継続する米軍の世界的戦争への加担という不本意な「レジーム」でしかなかった。従って沖縄では「戦後レジームからの脱却」とは、日・米軍事基地の撤去をこそ、まず基本とする。ところが安倍政権の目指す「レジーム脱却」は、沖縄では逆に「レジームの強化と強制」という逆行にしかならない。日本では、戦後体制を維持してきた教育、福祉から、人権その他の基本的な法が改悪され、憲法改悪へと狙いを定めてきているが、そのしわ寄せは基地所在地や、沖縄のような弱いところへ集中してくるであろう。
 「沖縄戦後レジーム」のなかで、沖縄自体を切り売りして、ほほかむりしてきた人々は、日米軍事体制の強化と沖縄戦の体験を切り離すことで、情況に目を塞ごうとしている。このような内憂外患をどう超えるか。
 それにはもう一度、復帰の際の土壇場で、啓示のように着想した「憲法への復帰」を、逆手にとって考えなおしてみてもよいと思う。つまり、日本国憲法の柱である九条が改悪されたら、沖縄が復帰した目的も失われる。
 その目的を取り戻すには、憲法九条の厳守によって、自衛隊を解散せよ、という方向が単純明快だ。しかし、現在の代議制の下では、マジョリティ(本土)とマイノリティ(沖縄)の関係上、ムダな抵抗にしかならない。それではどういう方法があるのか。それを着想するのが、当面の沖縄の緊急課題ということになるが、一筋縄ではいかない。その焦りの心情が、最近の沖縄の、若い世代の発言や、著作に共通して現われる苛立たしいような文体ではなかろうか。


憲法改正(悪)は良いチャンス

 「沖縄自立への道」を模索する若い世代の主張を見てみる。
 たとえば野村浩也の著書『無意識の植民地主義』(御茶の水書房)は、「『沖縄は悪魔の島』という他者の声に、沖縄人は応答する。これ以上殺戮者になることを拒否する、と。そして日本人へよびかける。『日本へ米軍基地を持ち帰って欲しい』。都合の悪い現実に目と耳をふさぐことが可能な特権的な位置を抜け出て、日本人はこのよびかけにどう応えるのか」(帯文)と、マジョリティに進退を迫っている。
 沖縄が国内植民地的位置付けになっていることは、戦後の処分と復帰を通じて明らかであり、それに対する批判や抗議も群島議会のころから継続している。問題は、マジョリティの自覚や反省を促がしたところで、この問題は解決しない。その断念の深さから、沖縄側がどのような知恵で、二重宗主国の利権をはぐらかし、自己救済の道を切り開くかが課題である。
 知念ウシの、地元紙への寄稿も、知的諧謔に満ちた反逆心を、突っ走るような文体に乗せて押し切っている。抗議も大事、情況の暗部を暴露してゆくのも大事。だが、思索や創意のエネルギーの焦点を、もっと沖縄、大きくいえば人類の未来へむけての課題解決にしぼって欲しい。
 また、松島泰勝著『琉球の「自治」』(藤原書店)は、世界の島嶼独立国を紹介しながら、琉球の自治の可能性を、経済学の分野から追究している。沖縄の自治または自立・独立を問題にする際、現実的な経済問題は、常にネックになって、夢のしぼむような「いも・裸足論」へと傾きがちだった。
 こうした沖縄自体の依存的体質、腰の引けた主体性の弱さを、著者は鞭打つように励まし、価値観の転倒によって、乱開発よりは「いも、裸足」を選択するくらいの覚悟で、自治への道を切り開こうと提案している。
 これらの、世代の仕事は、道州制を主題に研究を進める島袋純や、社会学分野から戦後思想を整理する屋嘉比収らの仕事と連携して、いずれ沖縄の身の振り方を方向付ける基礎をつくるだろう。その際、平恒次、崎間敏勝、故人の喜友名嗣正他の先達たちの仕事にもしかっり目配りすることが大事だ。
 他にも思想、文学サイドでは、復帰をめぐる思考の経路を整理し直し、国家や世界への個の関わり方を再考して、思想の骨格を立て直そうとする潮流が力強く形成されつつある。
 その旗手は、高良勉、仲里効、目取真俊、比屋根薫、崎山多美ほかが挙げられよう。彼らは、「辺境」、「周縁」、「国境」といった、国民国家のフレーム意識を超脱して、その先に未来社会のイメージを構想しようとする。
 さて、それでは「憲法への復帰」という沖縄の、復帰目的を、足蹴にしようとする日本の国状に、どう対応するのか。その対応を誤れば、またしても沖縄は、奴隷国の嘆き節をくりかえすしかない。
 「裏切られた復帰」と同じ轍を踏まない方法はあるのか。それこそいま百家争鳴のテーマとして論じられるべき問題ではないか。
 いまの体制が仕掛けてきた「憲法改正」は、沖縄にとってまたとない大事なチャンスにすることもできる。(以下略)



【2007.8.31】 岡本恵徳『「沖縄」に生きる思想』(未来社2007.8.5)を読む。
 談話室に書き込みましたが、岡本恵徳一周忌に出版された、この批評集はゆったりとした力強さを、惑いそしてたじろぎつつ突き進んで行くことの確かさなど、多くのことを学ばせて貰った。しかし、どうやらかつて、若すぎた私はトレモロに惹かれるしかなかったようだ。

 さいきん、ことばでもって《思想》を語るとき、たとえばバイオリンのトレモロではなく、ベースの、曲の底にこもる響きに気を留めなければならぬことを、親しい友によって気づかされることがあった。バイオリンの、人を陶酔に誘いかけるトレモロではなく、メロディーの底に息をひそめて、みえかくれにそのあとを追いつづけるベースのその響きを、できうれば、おのれのものにしたい、とわたしはそうねがっているのである。(P37-8・初出『沖縄タイムス』1969.8.28-29)

 『けーし風』に、「偶感」と題する2〜3頁のエッセイを連載していた。不覚にも、まだ定期購読していなかった頃のものに、屋嘉比収との<対論>がある。
 屋嘉比は<「沖縄人になる」について>と題して、岡本恵徳の「偶感16」についての断章を書き、それに岡本が応答した。

岡本恵徳 偶感(16)

 「再定住」(リインハビテイション)という思想に接する機会があった。これは主として「バイオリージョナリズム」(生態地域主義または生命地域主義と訳される)の立場にたつ人たちの思想であるという。
 この考え方は、人間が自分の場所を喪失した“ルーツレス”"な状況を呈する現代文明に対する批判的な立場にたつもので、ひとつの場所に定住し、その場所の環境=生物・土壌・気候などについての正確な知識を獲得し、生態系に対する人間の責任を確認しながら生きることを言うのだそうである。
 古い時代には、人種と言語と文化と場所は同一のもの(重なるもの)として考えられていた。そこでは、ルーツは誰にとっても明らかであり、問題なくアイデンティティーも明確なものとしてあった。しかし今では事態はもっと複雑なものとなり、これらの要素は皆バラバラになってしまっている。現代においては、すべては流動化し、場所と文化は必ずしも一致しないし、人種と文化も緊密に結びつくものではなくなっている。人々も文化も容易に場所を越えることが可能となっているけれども、そのことは逆に、一つの場所に固執しようとしても、越境する文化によって絶えず、その場所の固有ものが脅かされ、喪失の危機にさらされることになる。人種と場所と文化の同一性によって保証されたアイデンティティーの存在は必ずしも自明のものではなくなっているのである。おそらくそれが現代文明の基本的な性格であり、そのような傾きはこれから先、いよいよ強まるだろう。
 現代の文明が、そういう性格のものだとすれば、人々は自らのアイデンティティーの根拠をどこに求めるか、があらためて重要な問題となってくる。そうしてその問いに応えて登場したのがこの「再定住」という考え方であったにちがいない。自分がいま現に生きている場所、あるいは、生きる場として選びとった所、そこでどのように生きるか、それは未来をどのように構想するかに関わってくるのだが、そのためにあらためて、その場所をとらえ返し、その場所について深く知ることが必要だ、というのがいわば「再定住」の意味するところだろうと思う。
 この理解は、多分、本来の「再定住」という思想の持つ意味を、かなり限定した形で受けとめていて、その点で偏りがあるにちがいない。しかし、この言葉は、生態地域主義の中で用いられているよりも、もっと広く、ふくらみを持たせて用いることができるような気がしないでもない。そして、さまざまな考え方をそこから汲みだすことができそうな気がするのである。
 私がこの言葉に接したのは、出版されたばかりの、ゲーリー・スナイダーと山尾三省の対談の記録『聖なる地球のつどいかな』(山と渓谷社)によってである。周知のように、ゲーリー・スナイダーはアメリカ合衆国カリフォルニアのシエラネバダでエコロジカルな生活を実践しながら、環境問題にかかわる多彩な活動を展開する詩人であり、山尾三省は1960年代後半からコンミューン運動に深くかかわり、現在は屋久島に住んで独自の活動を展開、環境問題についても発言し続ける詩人である。
 その二人が、シエラネバダのスナイダーの自宅で行なったというこの対談では、環境問題を基本的な視座としながら、それだけにとどまらない現代文明の本質的なありかたにまで深く踏みこんださまざまな問題提起を行なっている。だから読者はそこから自分なりの関心に沿って、それぞれの問題を考える手がかりを得ることができるにちがいないが、そのなかで特に興味をひいたのが先にふれた「再定住の思想」があったのである。それは、この考え方が、1970年代初め頃(沖縄返還前後)にひそかに考えていたことに近い内容を持っているからであった。
 当時考えていたことというのは、「戦後沖縄の文学」(『沖縄文学全集』17巻評論T収載)でもふれたことなのだが、一言で言えば、「沖縄人ウチナーンチュである」ことよりもむしろ「沖縄人になる」ということに意味があるのではないか、ということであった。つまり、沖縄という場所に生を享けたからといって必ずしも沖縄の文化や言語を身につけることができるわけでなく、その意味では、沖縄人というのは、あらためて「沖縄」という場所と文化を意識的に生き直す人のことを言うべきではないか、と考えたのである。それは、沖縄という言葉に特別な意味を持たせる考え方、人と場所と文化(言語)の同一性に疑いを持たず、そこにアイデンティティーの根拠を見出す楽天性をどうしても持つことができなかったからである。
 先にふれたように、経済のグローバル化と共に文化の混淆が進んで、世界の流動化は激しさを増している。これは沖縄に限らないことだが、そこでは、人と場所と文化の同一性を保証するものはなくなるだろう。そういう中であらためてアイデンティティーの根拠を求めるとすれば自らの生きる場所をとらえ直し、その場所にふさわしい文化を創り出すなかにおいて、それははじめて可能となるだろう。つまりは、たとえば沖縄人ならば、沖縄という場所に「再定住」する明らかな意志を持つということである。これは、むろん沖縄だけの問題ではない。しかし、沖縄の場合、流動化の真只中にあって、しかも未来をどのように構想するかいま切実に問われている。それだけに「再定住」の思想が魅力的にみえてくるのである。(『けーし風』第20号、1998年9月20日)


屋嘉比 収  「沖縄人になる」について

 岡本先生。『けーし風』20号の「偶感(16)」の文章はいつもながら多くの点で触発され、想像力を喚起するものでした。今回は、その文章から刺激された点を含め、自分なりに感じた疑問について岡本先生の胸を借りたいと思います。
 まず、先生の文章を読みながら、一瞬、青ざめて、後で自らの不勉強を恥じ入る思いにいたったことを、率直に告白しなければなりません。私は、この数年間、試みとしてのエッセイの中で、「沖縄人である」のではなく、「沖縄人になる」のだという主旨のことを何度か書き発言してきました。
 その際、前の世代がほとんど疑ってない(とおもっていた)「沖縄である」「沖縄人である」という自明性について、それを批判的に問い返し、自分たちの世代的なポジショニングの意義を表すものとして、「沖縄人になる」のだと書き記していたと思います。それは、自分なりの思考的過程をたどって、岡本先生を含む前の世代にする一つの批判的な立脚点を築くため、発言してきたつもりでした。
 しかし、先の文章で岡本先生は、「沖縄人である」ことを疑い、「沖縄人になる」ということについて、すでに20数年間に提起していたことを記しております。その記述を読むやいなや、急いで『沖縄文学全集』17巻を手に取り読み直しましたが、どうやら私はその先生の文章を見落としていたようです。その論考は、岡本先生の著書『沖縄文学の地平』にも収録されていることを確認し、あらためて自らの不勉強を恥じ入り、お詫び申し上げるしだいです。
 さて私の見るところ、80年代後半から若い世代の中で「沖縄である」「沖縄人である」というその自明性を問うあり方は、様々な視点から言及されてきたように思います。最近では、私より一世代後の新城郁夫氏が、『EDGE』の最新号でその問い掛けを、今日の視点を加味しながら一段とソフィスティケートした形で、刺激的に論及しております。
 そこであらためて、岡本先生の提起された文章を読み直しているうちに、次のような新たな疑問が私の中で沸き起こってきました。それは、「沖縄である」「沖縄人である」という自明性を問うあり方において同じであったとしても、その問いがもつ文脈や解釈の仕方において、やはりあるズレがあるのではないか。
 それは、岡本先生が先の文章でゲーリー・スナイダーと山尾三省との対談記録『聖なる地球のつどいかな』(山と渓谷社)中から、そのパン種を「もっと広く、ふくらみを持たせて」提出されている、「再定住」という思想の解釈とも関連する問題のように思えます。例えば、岡本先生の文章に喚起され、その本を読み終えた後、あらためてその「再定住」という思想に対峙したとき、私自身はその思想の可能性の中心を何処に求めるのか、自問してみました。
 私自身が、自らの関心に照らして今の地点で大きく突き動かされたのは、「再定住」の中の「定住」にあるのではなく「再」(Re)という論点への注視でした。
 例えば、20年前に玉野井芳郎先生の「地域主義」から、私が学んだものの一つに、天動説の復権という考え方があります。言うまでもなく科学的常識からすれば地動説ですが、しかし、われわれの日常生活の実感からすれば太陽が上り下りする天動説の世界に生きている。それは、生態系に基づいた生活世界に座標軸の基点をおきながら、定住者がその日常生活を生きる天動説の世界の重要性を認識し、その復権を説く考え方でした。そのようなことを想起しつつも、今回その「再定住」という思想に対峙したときに、あらためて惹かれたのが「定住」という思想ではなく、その「定住」を「再び」「とらえ直し」ていくという視点への共感でした。
 そしてその「とらえ直す」あり方は、ゆくゆくは生活実感に依拠したアイデンティティという枠組みそのものも、問い返すことにならざるを得ないとの予感です。その「とらえ直し」という論点の重要性について、岡本先生は、先の文章で次のように明確に指摘されている。
 「これは沖縄に限らないことだが、そこでは、人と場所と文化の同一性を保障するものはなくなるだろう。そういう中であらためてアイデンティティの根拠を求めるとすれば自らの生きる場所をとらえ直し、その場所にふさわしい文化を創り出すなかにおいて、それははじめて可能となるだろう。つまりは、沖縄人ならば、沖縄という場所に「再定住」する明らかな意志を持つということである」。
 その指摘は文章の文脈からして、「沖縄人である」という視点から「沖縄人になる」という視点への移行と重なっているといえましょう。しかしその際、岡本先生の中で「沖縄人ならば、沖縄という場所」とあるように、「とらえ直し」への共感を別にすると、その「沖縄」「沖縄人」がある実感に基づき無前提に措定されているのではないか。「である」から「になる」と変化しても、「沖縄」や「沖縄人」という枠組みは相対化されることなく、その「われわれの沖縄・沖縄人」という統一体も揺るがず、繰り返し反復されている。
 岡本先生。いま「われわれ沖縄人」に問われているのは、次のような問いではないでしょうか。むろん私を含めて「われわれ沖縄人」が自明のように仮設するその「沖縄」「沖縄人」とはいったい何を、そして誰をさしているのか。(『けーし風』第22号1999・3)



岡本恵徳 偶感(19)

 『けーし風』22号の論点で、屋嘉比収さんから20号掲載の「偶感(16)」についての疑義が提起された。それは、「偶感(16)」で私が述べた「沖縄である」「沖縄人である」ことが決して自明ではないとしたことについて、大筋で賛意を示しながら、他方、「つまりは、沖縄人ならば、沖縄という場所に『再定住』する明らかな意志を持つことである」という言説から、私が「沖縄」「沖縄人」を「ある実感に基づき、無前提に措定」しているのではないか、そうではなくていま求められているのは、沖縄人が自明のように仮設する「沖縄」「沖縄人」とはいったい何かを問うことではないか、という内容のものであった。
 屋嘉比さんの指摘を受けて読み返してみたが、自分ではこれまでも「沖縄」「沖縄人」を無前提に措定した覚えがないから、どうしてそう読まれたのかよく判らない。文脈からして、「これは沖縄に限らないこと……」としたうえで、「つまりは、沖縄人ならば……」と述べたので、この「沖縄人ならば……」という文言は"たとえば沖縄人の場合であれば……"くらいのつもりであって、もしそう読みとれなかったとすれば、それが舌足らず言説であったことと、改めてそういう趣旨の発言であったことを断っておきたい。
 それはともかく、そういう疑義を提起したうえで屋嘉比さんは、むしろ「いま『われわれ沖縄人』とはいったい何を、そして誰をさしているか」を問うことではないか、という問題を提起していたのである。そして、実はそのことの方が屋嘉比さんにとっては、重要な問題提起のようである。私も、この提起は一般論として言うならば、重要なことを考えている。つまり、「沖縄」や「沖縄人」の内実を問うことなく自明の前提として語られる言説があまりに多いということも認めるし、そういう現状を捉え返すために、「沖縄」や「沖縄人」という前提そのものを問うことが重要なはずだという点でも、屋嘉比さんの発言に同調する。
 しかし、それから先になると、屋嘉比さんと私とでは若干考え方の違いがあるような気がする。そのことは本来ならば論議をつめたうえで問題にすべきことかもしれないが、私は「沖縄」とか「沖縄人」という場合の「オキナワ」というのは、吉本隆明風に言えば「共同幻想」のようなものであり、ベネディクト・アンダーソン風に言えば文字通りの意味で「想像の共同体」以外の何ものでもないと考えていて、したがって「沖縄」とは何か、「沖縄人」とは誰か、というふうに問いつめても、そこから実体として何かが取り出さるようなものではないと考えているのである。かりに百人もの「沖縄とは何か」という問いかけがあったとすれば、それでは百様の答えが見出せるにちがいない。それぞれが、これこそが沖縄だと認識する、その認識の内容がさし示されるだけだと考えるのだ。むろん、百様の答え、認識が示されてとは言っても、それが無限定な広がりを持つのではなく、ある一定の範囲に集約されるだろう。そうしてその集約される一定の範囲というを規定するのが、ゲーリー・スナイダーの言う「プレイス(場所)」であると考えている。
 「共同幻想」とか「想像の共同体」と言い、「プレイス」と言ったけれども、要するにいずれも実体概念ではなく、関係認識であるということが重要だと考えているということである。たとえば、いま「沖縄の人間としてのアイデンティティー」という言葉が流行語のように用いられて、何かを身につければ「沖縄の人間」としての存在証明がされるかのような思いが広がっているようだが、しかしこの「アイデンティティー」なるものは、「自分はいったい何者であるか」を問いかけることから出発するものでありものであり、その「自分」が「何者であるか」という問い自体、他者との関係性をどのように認識するか、そしてその関係をどう構築するか、によってアイデンティティーの根拠は異なってくるし、ひいてはアイデンティティーのありかたそのものを異なってくるはずである。
 これと同様なことは、スナイダーの言う「プレイス」との関係についても言えるだろうと思う。人はスナイダーの言う「定住」を拒否してあくまで「流動」し「流転」することも可能である。そして、そのどちらを選ぶかが人が生きていく上で決定的な選択となるだろうけれど、問題はその際「定住」を選ぶ場合のことだろう。「定住」するために、"自分はどこで生きようとするのか"という、その「プレイス(場所)」である。ということは、自分の生きる場所=プレイスをどう認識し、それとどのように関わるか、という主体と対象との関係性こそが問題となるはずである。たとえば、「沖縄」を「沖縄」として認識することは、「沖縄」を他の「プレイス」との関係性のもとにおくことであり、さまざまな態様をみせる関係性のなかから何を「沖縄」として見出し、それと関係、問われるのは「沖縄」として措定し、それと関わろうとするか、という自らに対する絶えざる問いかけであろう。
 屋嘉比さんへの答えというより、これがいま私の考えていることである。(『けーし風』第23号、1999年6月20日)



新城郁夫 「沖縄である」ことへの問い/植民地・多言語・多文化

 誰から問われているふうでもないのだが、にもかかわらず目にする表現の多くに、「沖縄である」という答えだけはあらかじめ用意されそして無前提に肯われているような、そんな奇妙な印象を持つことがしばしばある。たとえば、それは、現代沖縄の文学を読む行為の中で。むろん、それらテクストの中で「沖縄である」という言葉そのものが選択されているわけでないのは当然だとしても、様々なイメージの増幅や多彩な文学的素材の氾濫のただなかにありながら、その実、「沖縄である」ことだけがその表現の収斂するところでもあるかのように感じられて、些か空しい思いに捕らわれないわけではない。本来なら、ウチナーヤマトグチに集約的に示されているような多様な言語的実践を垣間見せてくれる現代の沖縄文学を、何よりもまず喜びたいのだが、一読者としてそこに紛れもない「沖縄である」徴候を見出しながら、それを享受できる幸福に素直に浸りきれないのは、あるいは、次のような出来事に出くわしたりするからだろうか。
 ついこの前のこと、那覇市内で催された「山之口貘シンポジウム」で様々な議論を聞く機会があった。話題は、多岐にわたったが、やはりと言うべきか、貘の代表作「会話」についてその多くが割かれた。その中で、パネラーの中の1人U氏が次のようなことを話された。−この「会話」において貘は自らが沖縄出身であることを「隠蔽」しているのであって、それは、「女」に「お国は?」と訊ねられて、「ずっとむこう」と言い、更には「南方」「亜熱帯」と迂回して、ついには「赤道直下のあの近所」と応えてしまう逡巡する「僕」の言葉に明かであり、そこで「僕」が選ぶべきだったのは、「沖縄である」と返答することであった−と。ほとんど耳を疑ったが、今そうした読み自体についてあれこれ語ろうとは思わない。その時、今更ながらのように気づかされたのが、何のことはないこの「会話」という一篇の中に「沖縄」という言葉が出て来てはいないという単純なことがらだった。しかし、「沖縄」という言葉が慎重に回避されることによって、逆にこの詩にはおいては〈問い〉としての沖縄が濃厚に顕現しているのは確かだ。つまり、沖縄、というその肝心要の一語だけが語られないという執拗なまでの欠落によって、沖縄を、易々としてイメージの中に馴化しようとする認識の囲繞に抵抗し、歴史的な葛藤としての沖縄を浮上させていることに、今一度気づかされたのだった。貘の「会話」にあるのは、沖縄の隠蔽などではない。むしろ、そこでは、「沖縄である」ことをア・プリオルな実体であるかのように装い、それを楽天的に表象し得るという認識の持つ抑圧的な構造そのものを露呈させ反転させようとする、そうした言葉のたくらみこそ読みとどけられなければならないはずである。何かを断定し明示的な語ることが、却ってその「何か」の孕む矛盾や葛藤自体の持つ広がりを削り取ることもある。逆に、誰もが気づいている決定的な「何か」を敢えて言い淀むことによって、既知的な風景(たとえて言えば「酋長だの土人だの空手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように、世間の偏見達が眺めるあの僕の国!」)のなかに、その「何か」が欠落しているが故の批評的な省察を招き入れることだってあるだろう。事実、「会話」の中で沖縄という一語を回避する過程の中で、それを代替するイメージとして提示される「刺青と蛇皮線」「頭上に豚をのせる女」「竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤ」などは決定的な「沖縄」の表象であることは疑いなく、しかも注目すべき事として、それら個々の表象のほとんど全てが、佐藤惣之助『琉球諸嶋風物詩集』(大正14年)の中で一介の「漂泊者」の目に映じた風景として繰り返し語られた沖縄的「風物」そのものであったことを確認する時、この詩が抵抗していることとは、「沖縄である」ことを無自覚に明示する行為そのものが、沖縄をめぐる社会的政治的抑圧の「隠蔽」に容易に反転していく危険であったとさえ見えてくるのである。沖縄を既知的なイメージとして再生産し続ける「世間」の側に問いを投げ返すこと。内なる植民地として鑑賞しつつ同時にその差異性の刻印によって、「世間」の側が自己同定的システムを補強していく営為そのものを露呈させてしまうようなしたたかな言葉の闘いを見出すとき、そこに、沖縄の隠蔽があったとは到底思えない。「沖縄である」と答えるといった鈍感さとは無縁の、認識の転倒をもたらすたくらみと、共同体間で補完的に交わされるステレオタイプのイメージの外に自らの発話の位置を押し出そうとする試みを読み出すのでなくては、貘の「会話」を語ることはついにできぬのではないか、そんなことをぼんやりかんがえたのであった。
 そこで、問いは初めに還るしかない。果たして、僕たちにとって「沖縄である」ことはそれほど容易なことだろうか。あるいは、自明であり、表象可能な対象として、沖縄は僕たちの前に開かれているのだろうか。沖縄から発せられるあらゆる表現が、それがごく自然なことであるかのように、「沖縄である」ことに回帰していこうとするように(少なくとも僕には)見える現在、「沖縄である」ことへの不問は、どこか自己撞着的な印象さえうける。
 たとえば、ウチナーヤマトグチという比較的新しい折衷的な言葉のもつ多様性や、典型化された近代日本語=国語に屹立するような「沖縄方言」が、なるほど現代の沖縄文学にその他の「日本文学」にはなかなか期待できないような言語的多層性を招き入れていることは確かである。また、そのそのことを通して、沖縄文学が正典化された「国語」の単一的かつ排除的統合への、政治的ですらある反措定の可能性を孕んでいることも、やはり、確かだと思う。たとえば僕は、知念正真『人類館』を読み返すことによってそうした可能性を強く感じることが出来る。だが、と急いで留保しなくてはならない。そうした幸福が稀であることも告白しなければならないのである。はたして、方言あるいはウチナーヤマトグチといった異種なる言葉は、積極的な意味において、全てをあるがままに国語によって表象し得るのかのような幻想によって成立しているとも見える「日本近代文学」の枠組みそのものを、根底から揺るがすような差異性を提示し得ているだろうか。それどころか、その通りの良い差異性そのものによって、多少なりともの変化を携えて「日本近代文学」の多彩さに貢献しその構造化に回収されようとしているのではないか。その場合、言語の多様性に集約化される沖縄文学の持つ差異性とは、あらかじめ了解可能なそれゆえに流通するイメージとしての沖縄の再生産に転落していく他はないだろう。そこにおいて「沖縄である」ことが為しえることとは、さしづめ日本文化の幅広さとかいったあたりの、取るに足りない言説に対する補完となることぐらいしかないのではないか。
 しかもことは、対日本といったベクトルだけの問題ではない。むしろ、問題なのは、沖縄内部へと向かうカウンターパンチであって、「沖縄である」であることの独自性や特異性が、その成立の過程の裏面において、常に沖縄そのものを均質化し標準化するような、これまた、類型への力学を潜ませていることであるだろう。たとえば僕のように宮古出身者にとって沖縄(方言)とはそれ自体社会的位置としては宮古(方言)の上位に位置する異種の共同体(言葉)であって、そこには、明かな社会的不均衡が存在する。ところが、今、沖縄で沖縄を表現しようとするとき、「ウマンチュの心」とかいった言葉に象徴されるような包括的な意識の力のみが、肝心の沖縄にかかわる表現自体の細部をも覆い尽くそうとしているように思える。「沖縄である」ことが、逆に沖縄の中の異種性を摘み取っていくようなそんな危うさを抱かないわけではないのだ。
 たとえば、そうした「沖縄である」という単純な包括に抗うようにして、試みにポストコロニアル状況として、沖縄を捉えなおしてみる。そうした視点から様々な議論がなされ、そして見るべき成果をあげていることも確かである。しかし、ここにも問題があるのではないか。言語的状況において「クレオール」的であり社会政治的文脈に置いて「ポスト植民地主義」で沖縄の今があるとするならば、その状況の中で「自分」はどこにあるのか。多言語・多文化主義的状況を言挙げしようとする時、その状況を俯瞰しえるような「主体」がどのようにして獲得されるのか、そのことへの問いが忘却されてしまっているように思う。もし、スラヴォイ・ジジェクが言うように、「多文化主義とは、ある種の空虚でグローバルなポジションから、植民地者が植民地化した民族に対するのと同じ態度で、あらゆるローカルな文化に接する。」(「多文化主義、あるいは多国籍資本主義の文化の理論」『批評空間』U−18)のであるならば、その警句を沖縄の文脈の中で考えるとき、まさに「沖縄である」こと、そしてポストコロニアル状況下の多文化主義を言祝ぐこととは、裏を返せば、沖縄を生きる僕たち自身が、沖縄を植民地主義的スタンスにおいて消費することに反転するのではないか。よく言われるようなチャンプルー文化を喜ぶような沖縄ブーム、そして、ひと頃の首里城騒ぎや大河ドラマなどに象徴されるような、沖縄内部での自己回帰的ブームなどは、どこか、「ローカルな文化」としてのシュミラクルな「沖縄」を同定し、そしてそれを消費するような、沖縄内部での認識の転倒としてみることも可能なように思えるのだ。語幣を恐れずに言えば、沖縄を鑑賞可能な「ローカルな文化」として植民地化しそこに「同化」を強いるような、そうした文化的状況が進展しているのが、沖縄の現在であるのではないだろうか。
 僕は、ここで何一つ沖縄の現在への確固たるヴィジョンを提示できない。出来ることと言ったらせいぜい反語的なことを語ることくらいである。しかしそのことによって、自らが沖縄の外部に立てるとも思わないしそれを望みもしない。にもかかわらず、いやそれだからこそ、「沖縄である」ことは所与の答えであるより、問いかけでなければならない、とそう感じる。(『EDGE』bV1998・12・24)




【2007.8.18】 まだまだ「工事中」にもかかわらず<路傍のシーサー[石獅子]>をアップしてしまいました(苦笑)。知念村も佐敷町も無くなってしまいました……

【2007.8.1】 糸数慶子・山内徳信勝利と「(沖縄の)68体制」
  予想されていたこととは言え、糸数慶子・山内徳信勝利はやはり喜ばしいことである。とっくの昔に崩壊した「55年体制」がまだ、沖縄では命運を保っているのか、とも思う。ここで、「55年体制」と較べられた「(沖縄の)68年体制」について、思いを回らすこともながち迂遠とは言えまい。
 江上能義「55年体制の崩壊と沖縄革新県政の行方−『68年体制』の形成と崩壊−」(『年報政治学1996・55年体制の崩壊』日本政治学会編・岩波書店1996.12)
 それにつけても、1971年段階での川田洋(「国境・国家・第三次琉球処分」1971)の指摘が想い出される。
 “だが、おろかしい者たちはたえず私たちに、次のような「批判」を投げつけて来た。「本土復帰」に反対なのか、それなら「独立」論ではないか、はっきり言え、と。この問題の立て方が、愚かしいのは、「本土復帰」を肯定しようが、「独立」を主張しようが……、ひとしく「沖縄問題」のブルジョア的解決があると考えているところにある。/私たちの問題提起は、その最初から、「本土復帰」か「独立」かという地平をはるかに超えているのであり「批判」者たちは、ただ自らの感性のまずしさゆえに「沖縄問題」のブルジョア的解決の可能性を前提とし、その前提のうえにあぐらをかいて「批判」したつもりになっているにすぎない。”
 もちろん、今日的には、この「ブルジョア的解決」をめぐるせめぎ合いに踏み込まなければならないとしても、である。だからこそ、「琉球独立党」を、その無惨さ故に等閑視してはなるまい。(付記:琉球独立党初代党首・野底武彦氏さんが8月10日亡くなられました。享年79歳。合掌)


【2007.6.27】 安良城盛昭「琉球処分論」(『新・沖縄史論』沖縄タイムス社1980.7.25)
 いわゆる「安良城旋風」を巻き起こした初発の論文である。
 浅薄としか言いようのない「日本人/沖縄人論」が跋扈する中、安良城のようなゴリの講座派(?)が語る「階級的視点」はいたく貴重なものと思われた。もちろん、二つの「憲法私案」から“自立・独立論への初期的な結晶化”が計られた、この時期に提起された「安良城史論」は、後の「安良城・西里論争」として展開されたわけだ。
 川音論文(川音勉「沖縄自立経済・再考」)では“その系譜に連なると見られる高良倉吉(の視点は)……基本的には、安良城の学説のパラフレーズである。「沖縄イニシアティブ」をめぐる同化主義的発言の理論的思想的背景がここにある。”と切って捨てたが、一方の西里も「真の民族統一論」を掲げた、復帰運動華やかなりし頃のイデオローグだったのであり、到底一筋縄では行かない。

【2007.6.16】 崎間敏勝『あまみきよ考』88.3を読む
 あの崎間敏勝さんの著書である。「あの」とは、1971年の国政参加選挙において、琉球独立党から参議院選に立候補した崎間敏勝さんである。1978年に沖縄県知事に当選し以降三期勤めた西銘順治らともに、「戦後沖縄の政治に新風を吹き込んだ」と言われる社会大衆党結成に参画した「若手のインテリグループ」の一人であり、沖縄経済界においても、重きを成した人の「琉球独立党からの立候補」ということで、耳目を集めたことは確かである。(結果は2673票獲得という「惨敗」であったが。)
 この著書は「シリーズ・琉球の文化と歴史の考察」と題されたシリーズの第三巻に当たる。ちなみに第一巻は「ニライカナイの原象」、第二巻は「按司の発生」である。

『あまみきよ考』(琉球文化歴史研究所88.3)

崎間敏勝

目次
1「おもろ」 は豊かな情報源
2 「あまみきよ」 を歌う「おもろ」
3 「あまみきよ」 は 「ぐすく」 造りの大工
4 「うざし」 する 「あまみきよ」
5 「むかし、はぢまりや」への疑念
6 「かみおれ、はぢめ」の知念森城
7 「あまみきよ・しねりきよ」の原形
8 「あまみや」 を歌う 「おもろ」
9 「すへの、きみ」 としてのノロ
10 恐怖の時代の 「おもろ」
11 国王を守る三重の霊力
12 「あまみやこ」 がもたらした物
13「きみはゑ」 についての幻想
14 日本僧袋の中“改変”作業
15 向象賢の“合成”作業

 まず、一読して驚いた。もちろん、私が無知であっただけなのかも知れないが、数年前、与勝半島から海中道路をドライブしていたときのことであるが、浜比嘉島に立ち寄った。なんと、そこには「アマミキヨ」の墓がある。「天照大神」か「いざなみ」に比する琉球創世神話の人物として「アマミキヨ」を理解していた私は、「えっ、アマミキヨの墓だって!」と驚いたものである。
 しかし、崎間の「あまみきよ考」を読んで、納得してしまった。とすると、「創世神話・琉球の祖神」という観念がなぜ生まれたのか、という新たな疑問が生じる。崎間は、「袋中主犯・向象賢従犯説」であり、向象賢の『中山世鑑』の「琉球開闢之事」を契機にして袋中の残した原型(というか、捏造?)が以後の「中山世譜」と「球陽」に受け継がれ、今に至るも「アマミキヨ=琉球の祖神」という話が引き継がれたという。

 以下、抜き書き

 したがって、「あまみきよ」は「おもろさうし」ではこの「おもろ」[整理番号74]によって先ず「城づくりの大工」として現われるのである。(P14)

 この「おもろ」[整理番号240]によると、「あまみきよ」は尚真王[おぎやかもい]のあの大建設計画にしたがって実際の建設工事を担当した工人たちであったことが明らかである。
 ここまで読んできて読者は驚ろいたはずである。「あまみきよ」は沖縄人の祖神であるとの常識をなんとなく信じてきた者にとっては「あまみきよ」が尚真王の時代に最も活躍した建設大工たちであったことをこの「おもろ」が述べていることはまったく予想外のことであろう。
 しかし右の「おもろ」は明確にこの事実を提示するものであり、筆者たる我自身にとってもこれは意表の事実であった。さきに我は「ニライ・カナイの原像」のなかで、史書に見る「ギライカナイの神」は「造営と鋳鉄の神」であることを述べたが、「あまみきよ」そのものが尚真王時代の建設大工たちを指していたことはこの「おもろ」を考察の対象とするまでは気づかなかった。しかし、この「おもろ」が厳然とこの事実を歌いあげてから既に500年近くも経っているのであり、気づかなかったのは当方の罪であった。
 したがって我はこの「おもろ」が示す3つの点、すなわち、「あまみきよ」は建設大工であり、その対語は「しねりやこ」であり、かつ尚真王にぎやかもりの時代に最も活躍した、という事実を大切な根拠にしてこれからの「あまみきよ」論を展開することにする。(P15〜17)

 この「おもろ」[整理番号242]が今までの三首と違うのは「あまみきよ」はここでは大工ではなく、ノロに指図して国王の長寿や稲穂の健康な生育を祈らせる宗教的権威者となっていることである。
 これは非常に珍しい例である。他のすべての「おもろ」ではノロは独立した宗教者としていろいろな「せぢ」を降ろして国王の長寿を保障するが、この「おもろ」ではこのようなノロの行為も「あまみきよ」の「うざし」によるものだ、と述べられているのである。したがって「あまみきよ」は、尚真王の時代には、ただに城や森や島を造ったばかりでなく、またノロの宗教的行為も指導していたのである。
 いま我は「あまみきよ」の姿の探究の旅において一番大事な地点に来ている。「あまみきよ」が城や森や島をつくった「真細工」であることは既に解明したが、「あまみきよ」はまたノロに「うざし」をした宗教的権威でもあったことを我はこの「おもろ」によって知らされたのである。「あまみきよ」の姿はこれではっきりしてきた。
 尚真王の時代、「あまみきよ」は一方においては真細工であり、他方においてはノロ祭祀指導者だったのである。「おもろさうし」は「せぢ」を祈り降ろすノロたちの活動をいきいきと述べる「おもろ」を無数に収録しているが、このノロの祭祀活動が「あまみきよ」の「うざし」によることを知らせるのはこの「おもろ」だけであり、「あまみきよ」の真の姿を追求する者にとってこの「おもろ」は特に貴重である。(P20〜21)

(14)日本僧袋中の“改変”作業
 まず日本僧袋中の著書「琉球神道記」がある。袋中は浄土宗念仏僧で慶長8年(1603年)中国への渡航の目的で琉球に来たが志をはたせず、3年間滞在して慶長10年鹿児島を経由して京都に移った。「神道記」はこの3年間の見聞などを記録したもので全五巻の稿本は帰国の年に京都でできたが、その印刷本は40年後の慶安元年(1648年)になって始めて世に出た。(P89)

 念仏僧袋中は、彼の眼前にあるこれらの「おもろ」の豊富な伝承の世界に一顧も与えず、「あまみきよ・しねりきよ」の話を「未ダ人アラザル時」という遠い昔の話にしてしまったのである。その上、まるで古事記のイザナギ・イザナミの物語りのように、「あまみきよ」を女、「しねりきよ」を男にして、三子を生んだことにし、それぞれを「主」、「祝」、「土民」の先祖にして階級的系図を造ってしまったのである。
 「未だ人アラザリシ時」、「男女2人」(神とはいっていない。)「三子」、「主、祝、土民」−−これらはすべて「おもろ」のなかの「あまみきよ・しねりきよ」とはまったく関係のないものばかりである。
 また、「つくる」ことに関していえば、たしかに袋中の「あまみきゆ」は「たしか、しきゆ、阿檀」という木や草を植えて国の躰をつくったが、それはただ草木を植えただけであって、「おもろ」の「あまみきよ」が「しよりもり」や「ちゑねんもりくすく」など「かみおれはぢめ、のだてはぢめ」の宗教的施設をつくったのとは本質的に異なるものであった。
 要するに袋中は「おもろ」の「あまみきよ・しねりきよ」の名を借りて実は「おもろ」とはまったく別の創世人話を創作したのであり、これによって「おもろ」の「あまみきよ」は思想として抹消され、かわりに「おきなわ」の歴史や文化に根をもたない、いわば“足のない幽霊”のような「あまみきゆ」がつくられたのである。(P90〜91)

 このように見てくると、袋中の「あまみきゆ」は「おもろ」の「あまみきよ」が日本神話的解釈によって改変されてできたもので、それまで数百年の伝統のなかで生きてきたノロたちのあずかり知らぬものであったが、これを記した「琉球神道記」が43年後の慶安元年(1648年)京都で出版されると、袋中の「あまみきゆ」は一人歩きして、以後の沖縄の史書に決定的な影響を与えることになったのである。(P94)

 慶安3年(1650年)、向象賢は「中山世艦」を書き、その巻1の冒頭に「琉球開闢之事」と題して「あまみきゆ」“伝説”をのせたのである。恐らく向象賢は出版されたばかりの「琉球神道記」を手早く入手し、これによって「中山世艦」を書く気になったものであろう。時間的関係からそのように思われる。それでは「中山世鑑」は「あまみきゆ」をどのように描いたかを見ることにするが、そのためまず「琉球開闢之事」の全文を次に記す。(P94〜95)
 
 一読して分ることは、この記事は「神道記」を骨子にし「おもろ」の字句を加えて合成されたものであることである。合成の要領は、「あまみきゆ」がまだ人も出現しなかった原古の昔“島つくり”をしたこと、および後に三子を生んで階級の先祖としたことの骨子は残して全体の記述は更に精密化し合理化したことである。その結果、「あまみきゆ」は「島つくり」だけを担当し、3男2女を産むのは別の「天帝ノ御子、男女」ということにした。
 また、「おもろ」との関係を見ると、向象賢は「辺土の安須森」など9個の森や嶽の名を借用し、これらの嶽々や森々は「数万歳」も前の昔「あまみきゆ」が土石草木を運びこんで造ったものとした。これは「おもろ」の「たけたけもりもり」は実は「おきなわ神道」の祭祀場のことであったことを無視して、袋中に追随してこれらを“地質学”的な土石草木の寄せ集めと見たものである。
 こうした合成のしかたを見ると、向象賢においても「おもろ」の伝承のなかに生きる「あまみきよ」はその念頭になく、「おもろ」はただ形式的に利用されただけであったことが分る。「阿摩美久」の漢字名も袋中の「あまみきゆ」を写したものであろう。
 しかし、また、右にのべたような袋中以来の「あまみきよ」像の変造は、袋中が試みたように「此国初」、すなわち「琉球開闢之事」を問題とする場合には、当然のなりゆきであったと思われる。「おもろ」に「開闢」の説がない以上、それは日本神話流に構成されるほかはなく、この場合「おもろ」は形式的にせよ「あまみきよ」や「島づくり・国つくり」や「たけたけもりもり」の素材を提供することができたのである。
 このようにして向象賢は「琉球開闢之事」を契機にして袋中の残した原型にもとづく「あまみきゆ」像を「中山世艦」に確立したが、以後の2大史書、「中山世譜」と「球陽」、は当然ながらこの「あまみきゆ」像をひきつぐことになった。(P96〜98)

 ここ(「中山世艦」)において「おもろ」の「あまみきよ」は完全に袋中の「あまみきゆ」に代られたと見るべきである。(P99)


【2007.6.4】 遠山茂樹「日本近代史における沖縄の位置」(1972.3初出)を読む。
  「喧嘩過ぎての棒ちぎれ」との感は否めないが、日本の歴史学界でのビッグネームであった遠山茂樹が沖縄問題を正面切って、はじめて扱かった論考である。
 彼は、同書の「東アジアの歴史像の検討」(『歴史学研究』281号、1963年10月)論文に於いて、徹頭徹尾「帝国主義の歴史法則が貫徹している、それ以外にはありえない」とし、「明治維新」からの歴史的文脈をも踏まえた上で、いわゆる「日本にとっての満韓問題」に始まる東アジアについて考察を展開している。その中で私が興味を惹かれたのは次のフレーズである。

 この時点の歴史で私が疑問とするのは、日清戦争から日露戦争にかけての期間、まさに日本が帝国主義国への転化を開始し、中国が半植民地国への途をたどり、両者が本質的に敵対関係に転化しはじめた時、中国の民族運動の中にもっとも親日気分がたかまり、日本が中国革命運動の根拠地たる観を呈した事態が何故に生じたかという問題である。その理由として考えられることは、(1)中国分割の先頭に立ち、もっとも露骨にこれを推進したロシアに対抗する役割での日本に期待をよせた、(2)中国の民族運動は、民族の独立=帝国主義反対の運動というよりも、排満興漢の民族主義的運動を中核としていた。従って日本の清朝にたいする勝利と、南満における利権獲得要求にもかかわらず、中国民族運動への援助を日本に期待した点である。要するに帝国主義時代における植民地・半植民地のブルジョア民族運動は、ある帝国主義国に従属しその援助を求め、他の帝国主義国に対抗するという帝国主義的対立を利用することなしには遂行が困難であったこと、逆にブルジョア民族運動は、常に帝国主義的対立に利用されることを免れえないこととなるという特質である。

【2007.5.7】 川音 勉『沖縄自立経済・再考』(『情況』07.3-4月号所収)
 やっと、アップ。でも月刊『情況』を本屋で購買してくれると嬉しい(苦)。


【2007.4.1】 与那国「国境交流特区提案2006」
 旧聞に属するが(まぁ、このサイト自体、旧聞だらけだが(笑))、吉元政矩さん主催の沖縄21世紀戦略フォーラムの「天妃ドットコム・メールマガジン-0915(No.256)」に沖縄自治研メンバーでシンクタンク研究員の濱里正史さんが<国境海域の平和利用と国境交流 国境の島「与那国」の挑戦>と題して、この「与那国自立ビジョン」について触れていた。
 そこで「このビジョンの柱の1つである国境交流を実現するための行動として、策定後すぐに“国境交流特区”申請をしたが、国の厚い壁に阻まれている。」と、町当局と日本政府とのやり取りについて言及はしている。(与那国町ホームページに掲載)
 その一つが、「与那国−石垣間を航行している『フェリー与那国』で、それと同等の距離である与那国−台湾間の旅客運送(12人以上)をしてはならない」という規制撤廃要求である。この「国境交流特区申請は実を結ばなかったが(今もあきらめたわけではない)、与那国は次なる行動を起こす。昨年度策定した『どぅなんちま交流・再生計画』である。……そのなかで面白い構想は、姉妹都市である台湾花蓮市との間で結ぶ『災害時相互支援協定』と台湾と与那国の間に広がる海域の「海域利用協定」の2つである。」
 彼は自治研メンバーらしく、「国と国のメンツのぶつかり合いや現場を遠く離れた場所での交渉では問題がこじれやすいのに対し、お互いの顔が見える自治体間であれば、平和的な話し合いがしやすい環境にあるからだ。この意味で、与那国と沖縄の自治体外交力が問われている。」と結ぶ。
 与那国町は、更にめげず、「平成18年10月30日、政府・第10次構造改革特区提案にあたり、「与那国・国境交流特区提案2006」を内閣官房構造改革特区推進室に提出しました。/本提案は、昨年6月末の第七次特区提案に続くもので、“疲弊する国境の島”から、“自立・定住できる日本のフロントライン・アイランド”を目指し、以下の事項を提起致しました。」
※東京新聞2006.10.29掲載「拳はおろさない・・/特区で辺境から国境へ・・/独立DNA 脈々と」

 かつての名護市の逆格差論から30余年である。去年、これまた30年ぶりに与那国を訪れた(今回も巨大な台湾島を見ることはかなわなかったが)。沖縄とも先島・八重山とも違う<どなん>を味わった。もっとも買い込んだのは「舞冨名」でしたが。

【2007.2.17】 仲里効「ふるえる三角形 いまに吹き返す〈反復帰〉の風」(『世界』2006・12)
 72年沖縄の日本への併合を前に、反復帰論が蒼惶として湧き上がった。その中でひときわ異彩を放ったのが、かつて「琉大文学」に拠った三人である。新川明、川満信一、岡本恵徳。
 ただ、仲里さんの論攷の中で、ナイーブに日本と区別される日本人を語る新川明に、69年に出版された大田昌秀の『醜い日本人−日本の沖縄意識』(サイマル出版会/岩波現代文庫00)を換骨奪胎的に低質化したにすぎない『無意識の植民地主義』を想い出してしまった。この評価はじっくりと仲里さんに訊いてみたいものである。
 併合35年、かくも時の流れはあがらい難いものか……


ふるえる三角形
いまに吹き返す〈反復帰〉の風


仲里 効

 8月5日、岡本恵徳がなくなった。沖縄の文学研究や評論の分野で堅実な実績を残しただけではなく、「金武湾を守る会」や権力によってデッチ上げられた「松永裁判」支援闘争などの住民運動にも身を投じ、つねに時代と格闘する知の実践者でもあった。何より沖縄の戦後世代にとって岡本恵徳は、60年代後半から70年代初めにかけて、新川明や川満信一とともに、国家へ収斂していく日本復帰運動を内在的に批判し、「反復帰」論の一翼を担い、私たちの思考に少なくない影響を与えたのである。

〈反復帰論〉との格闘の中から

 新川・川満・岡本が沖縄の戦後思想のフロントにその猊をみせたのは、叢書『わが沖縄』第6巻〈沖縄の思想〉(1970年、木耳社刊)であった。新川明は「『非国民』の思想と論理−沖縄における思想の自立」、川満信一は「沖縄における天皇制思想」、そして岡本恵徳は「水平軸の発想−沖縄の共同体について」を書いていた。
 それらの論考は、高揚する復帰運動の心情と論理に国家による併合の論理と、相補的な関係をなすナショナリズムを見ぬき、それを根底的に批判していく思想の強度を持っていた。 外在的な視点からするそれではなく、沖縄に生を享けた者として己の自己史を晒しつつ、内側から激しく、しかも鋭角的に踏み越えていく思想の実践であった。国家としての日本とのかかわりで、天皇制と同化主義に搦め捕られていった沖縄の民衆の意識のありように着目し、それが復帰運動の中に流れ込んでいる心的メカニズムを改変していく作業でもあった。それと同時に、沖縄が地理的・歴史的に培ってきた、日本とは異なる固有時を〈異族性〉として発見し、その〈異族性〉を反復帰・反国家の思想の原基に鍛え直していくアクティブな試みとしても位置づけることができる。
 むろん三者は、〈反復帰論〉で共同の歩調は取ったとはいえ、その文学・思想は決してひとつには括れない独自の声と文体をもっていたことはいうまでもない。しかし、私たちにとって、沖縄の転形期の思想空間の鋭角的なトライアングルであったことは否みようもない。沖縄の戦後世代は、いわば、三者の思想的な個性が架けたトライアングルの吸引力からそう簡単に抜け出すことはできなかった。というよりもむしろ、その吸引力や思想的強度との格闘の中から、独自の声と思考を産み出すより他に方法はなかった、のである。同時代的にその言語的実践から影響を受けた、後続する世代の一人である比屋根薫は、現在沖縄タイムスに連載している「文芸時評」で、〈反復帰論〉を「永遠回帰の自己決定」として、たびたび採り上げていた。岡本恵徳が亡くなった8月の「文芸時評」では、1970年の夏、東京新宿の地下道を出たところで、紀伊國屋方面からひもで束ねたたくさんの本をぶらさげた岡本恵徳とすれ違ったときに、声をかけることができなかったことを回想しつつ、そのすれ違いがいつのまにか〈反復帰論〉の行方を解明することが、自らにとって死活問題になったと告白していた。比屋根は「反復帰とは単に日本復帰に反対ということではなくて、日本政府の都合のいいように沖縄を統合しようとする国家意志に対する永遠回帰の自己決定の思想のことだ」として「反復帰論を越える思考が展開されるかぎり岡本恵徳は私たちとともにある」と言い添えていた。
 最近、さらに下の世代から〈反復帰・反国家〉論を再読する試みがなされようとしている。そのきっかけをつくった一つが、2004年西原町立図書館での新川明文庫設立を記念して行われた「新川明シンポジウム」であったといえようが、その後、同シンポジウムのパネリストの一人でもあった目取真俊は、やはり沖縄タイムスで担当する連載コラム「地を読む、時を見る」で、〈反復帰論〉が今でもその力を失っていないことと、その読み直しの必要性について触れていた。
 また、新城郁夫は「『人類館』断想」で新川明の「反復帰論」を知念正真の戯曲『人類館』のなかに読み込み、「復帰」の残酷さを見据えるもので、それ自体が別の形の「反復帰」であったとしていたし、屋嘉比収は「自らの内側を穿つ思想−新川明の『反復帰論』」で、30数年前の新川明の論考が、今なお放つ喚起力と魅力について論じていた(いずれも季刊『前夜』9号、2006秋)。そして同誌は、川満信一の詩と論考や新川明へのインタビューを掲載することによって、反復帰思想を不断に現在へと送り返すことを試みていた。
 この後続する世代の読み直しの作業と〈反復帰〉の思想的実践者の声はどのように交差し、そこにはどのような時代的要請があるのだろうか。

岡本恵徳の〈最後の目〉

 いま、私の手もとに一枚の新聞の切り抜きがおかれている。
 「本稿は生前に入稿・校正を終えていました」と説明が添えられた400字詰原稿用紙2枚ほどの、岡本恵徳の絶筆となった文章である。亡くなってちょうど一週間後の8月12日付沖縄タイムスに『太田良博著作集4』の書評として書かれ、太田の代表作ともいわれる「黒ダイヤ」について触れたものである。これは、日本兵の一員としてインドネシア義勇軍の養成に当たったとき、そこでパニマンという美少年と親しくなり、敗戦後熾烈になったインドネシアの独立戦争のために銃を持って闘うパニマンの姿に打たれ、彼の後を追う衝動に駆られるという内容の小説であるが、かつて新川明によって批判された作品でもある。
 岡本はここで、新川明の批判に答えた「ムルデカ(独立)の熱気にわきたつインドネシアへの憧憬が、執筆当時の私の心のなかにあったことだけはいなめない」という作者の言葉を引用しながら、「題材として沖縄にふれていないにせよ、沖縄の敗戰直後の精神的気運をまぎれもなく反映するものであったと言える。その意味では、本作品は改めて検証すべき余地がありそうだ」と書いていた。
 死の床にあってもなお文学研究者として衰えることのない関心の在り処を知らされるとはいえ、うっかりすればそのまま読み流してしまいそうな一文ではある。しかし、それが「本稿は生前に入稿・校正を終えていました」という言葉の生々しさとともに絶筆であることを知らされるとき、この短文に独特な声の含みを聞き取っている自分に気づかされる。
 ここで私が目を落としたいのは、作者のインドネシアの「ムルデカ」への憧憬と、作品に反映された敗戦後沖縄の精神的気運に着目したことであるが、さらにそのことによって浮かび上がってくる岡本恵徳の関心の審級である。沖縄の自立・独立への気運が時代の変り目に召還されるということを考え合わせると、岡本の関心は「暗喩」となって沖縄の「いま」に差し向けられてくることは避けられない。この絶筆からかすかに聞えてくる声の含みにはまた、島尾敏雄の〈ヤポネシア〉論を、自らの経験の遍歴と重ねながら検証した『ヤポネシア論の輪郭』(1990年、沖縄タイムス社刊)のなかの声との響き合いを想起せずにはおられない。
 島尾は、沖縄について触れた最初期の「『沖縄』の意味するもの」で「沖縄を見失うことはわれわれの枯渇だ。われわれはそこを切り離すことを肯んじてはいけない」という地点から、1970年になって「沖縄の自律性、独立性」(「琉球弧から」)を強調するようになり、沖縄の「日本復帰」後の74年には沖縄の韻律や魅力を「小国寡民(国が小さく人口が少ない、老子のいう理想国家)の思想の具現」(「琉球弧の吸引的魅力」)とみるようになり、やがて「琉球弧に本土とちがうところがあるのなら、そのちがうところをしっかり調べてみて、結論として日本と言えなければ日本でないと言ってもいいじゃないか」(「琉球弧の感受」、1978年)というところまて歩みより、改めて沖縄の魅力を「小国寡民」の思想によって読み直そうとした。
 こうした島尾敏雄の〈ヤポネシア論〉、あるいは琉球弧の可能性についての視点の転位の背後には、日本復帰後10年に沖縄がさらされている「画一化」への絶望があったことは疑いようがない。「『ヤポネシア論』の受容」の章の最後を、岡本恵徳は「島尾が『日本国』を相対化するにとどまらず、ついに『ヤポネシア論』解体とほとんど隣合わせの『小国寡民』賞揚にまで歩みよっていったということは、実のところ胸の痛みをともなうものである。それはまさに日本国の現代の社会と文化の状況に対する、島尾の絶望の深さを示しているにちがいないからである」と結んでいた。
 島尾の遍歴に「胸の痛み」を感じ「絶望の深さ」を読む、その感受性と読みは、ほかならぬ岡本恵徳自身の内部へと配電されていた、はずである。
 1972年の沖縄の日本復帰前後の混沌とした状況のなかで、「啓示」となった〈ヤポネシア論〉が島尾自身によって変更を余儀なくされたことは、岡本にとっても避けようのないアポリアとなったことは疑いようがない。だから「胸の痛み」と「絶望の深さ」は、二重である。島尾の歩行へ向けられていると同時に、岡本自身の歩行の内部へも向けられているといっても過信ではない。1987年から90年までの三年にわたって書き継がれた論考は、この「胸の痛み」と「絶望の深さ」によって独特な陰影を帯びさせられるのである。
 あの絶筆となった短い書評に私が見たのは、島雄敏雄のヤポネシア論の自己解体にみた「痛ましさ」であり「絶望」からの吹き返しである。新川明の批判へ応え「黒ダイヤ」がインドネシアの「ムルデカ」への憧憬として書かれたこと、そしてそのことが敗戦直後の沖縄の精神的気運を反映するものであったことに着目した、岡本恵徳のまなざしの置きどころに、「ヤポネシア論の輪郭」のリミットでみた島尾敏雄の「ヤポネシア」から「小国寡民」への解体構築からの反照をみてしまうのは、あまりにもうがち過ぎた見方だろうか。
 ところで、戦後沖縄の文学・思想の分野で、岡本恵徳と近傍で同志的関係を結んだ新川明と川満信一が、岡本恵徳の死と相前後して刻んだ二つの言葉は、2006年の現在とどのような関係を切り結んでいるのか。

川満信一の〈吃音〉

 川満信一の詩と論考「吃音のア行止まり」(『前夜』第8号、2006年夏)は、沖縄の自立が言語の思想を不可避的にもたざるを得ないことを改めて再考している。導入に置かれた詩「吃音のア行止まり」は、久しぶりに帰った島の、「カンコウシンコウ」や「シンコウカイハツ」の名のもとに変わり果てた風景の極みで立ち竦む詩人の喪失感が詠われている。干瀬や海兵はコンクリートで固められ、風景とともにあった生き物や「スマフツ」(島言葉)が失われてしまっていくことを、それまでの川満の詩の特徴をなしていた言語を畳みかけていく思想詩の筋力とは違い、平易な言葉で織り上げている。だが、この詩の注目すべきところは、言語をめぐる植民地主義を母の死の床で審問したことである。
 風景の死滅はかつてその風景とともにあった言語の死滅でもあった。変わり果てた風景と名前を失った島の岬や風や雲に、口を衝いて出た「ああ、あお、あい、あいなあ」とア行で止まる「吃音」はこの二重の死からくるものであったが、母語としてのスマフツの禁止を代償にして習得したニッポン語を話す「ぼく」は、母の死の床で試される。

 最後の息を引き取る間際の
 スマフツ(島言葉)を呑み込んだ母に
 スマフツで答えきれないでいたぼくの
 謂われもないコンプレックスの無惨さ
 「ンザガア、ンザガア、ヤンムガ、アニー」
 (どこね、どこが、痛むの、お母さん)
 
 これは対話の不発である。と同時に最も痛切な対話にもなっている。この背理の痛切さは「コンプレックスの無惨さ」の背後からせり上がってくる〈声の声〉としてのスマフツによって波立っている。詩と論考「吃音のア行止まり」はまた、1971年の「ミクロ言語帯からの発想」の改めての書き込みだと読むこともできる。「ミクロ言語帯からの発想」は、島尾敏雄の〈ヤポネシア論〉からの深い影響のもとに書かれたものであった。いわば、ヤポネシア論を言語論的に展開しつつ、それを沖縄の自立の問題圏へと流し込んでいったといっても過言ではないだろう。
 川満はそこで、長い間自らの恥部として封印していた広津和郎の『さまよえる琉球人』が沖縄の人びと自身の手によって復刻された意義を、沖縄の主体性構築への確かな姿勢として評価し、新川明の「〈憲法幻想〉の破砕」に触れつつ、沖縄が日本および日本人への異族性を否定すべきマイナスの精神志向としてみなすのではなく、日本国家を否定する毒として積極的に評価する試みに、「政治の表層における国家体制へのなだれ込みとは別に、独立国、または異族といった地点まで沖縄の主体のありかを突き出し、みずから立っていこうとする志向が公然として出てきている」として、「ミクロ言語帯からの発想」もそのコンテキストに位置づけていた。
 明治以降、国家政策として体罰まで加えながら実行された方言撲滅、標準語励行にもかかわらず、人びとの言語表現の内実はなおミクロ状態で、乱脈、不統一のままであった。この乱脈、不統一な凹凸を、多系列の総合的時間をもつヤポネシアのヴィジョンによってすくい上げ、「ことばの社会的機能の便宜を得たかわりに、方言の拠ってきた文化と精神風土の秘境を喪失し、ミクロ言語の胎内の闇に輝くことばの生霊たちを埋め殺すとすれば、沖縄の不幸は政治の表層にみられる不幸などとはくらべものにならないほど深いものになるはずである」と結んでいた。 この地点から振り返ってみるとき、「吃音のア行止まり」はのっぴきならない声の響きを帯びてくるのがわかる。「ミクロ言語帯からの発想」は島尾敏雄の〈ヤポネシア論〉への共感と影響のもとに書かれたことは先に触れたが、「吃音のア行止まり」は、田中克彦の『ことばと国家』からの影響のもとに書かれたもので、言語政策への批判はいっそう鋭さを加えている。とはいえ、この詩の全体に流れているのは深い喪失感であり、母の死の床での母/子の会話は、いわば詩のモチーフの核心部分を表現しているといえよう。
 人は母の死に際で一体いかなる言葉で話しかけるのか−−この問いは、沖縄における言葉をめぐる〈政治〉を露にした。つまり〈ことばと国家〉の関係をよりはっきりさせ、沖縄のミクロ言語帯の履歴に介在した植民地主義的同化圧力の存在を現前化する。明治以降、監視と処罰のシステムを動員して実行された言語政策とそれによって生み出されるコンプレックスの所在を明らかにしたということである。
 「吃音のア行止まり」での、死の床に伏す母に、息子はニッポン語で話しかけるが、母はスマフツを呑み込む、という設定はまぎれもなく、沖縄における〈ことばと国家〉の原像にもなっている。母の死に際でニッポン語でしか話しかけられない「ぼく」に、柳田国男が「沖縄県の標準語教育」のなかで紹介し「ミクロ言語帯からの発想」でも引用していた、共通語に到達するために4つの言葉の階梯(「小学校を平良の町に卒業し先ず宮古島の語を学び、師範学校時代を首里で送って、ここで沖縄本島語と標準語を学んだ」)をたどらなければならなかった宮古多良間島出身の少年の例をみてもいい。この多良間島出身の少年の言語体験は川満信一のそれでもあった。琉球諸島に出自をもった者ならば多少の濃淡はあったにせよ、こうした地域言語から日本語(共通語)に達するために二重、三重の言語の階梯を辿らなければならなかった。
 沖縄における標準語政策による日本語への階梯は、そのまま母語を捨て去る階梯でもあったのだ。この二重性がコンプレックスを生産する。川満信一が母の死の床で審問したのは、こうした息子のコンプレックスであり、そのコンプレックスに刻印された〈ことばと国家〉の関係であった。
「ミクロ言語帯からの発想」では、ヤポネシア論を梃子にミクロ言語帯の胎内の闇の、言葉が生まれる原像まで降り立ち、胎内ではぜる言葉を監視と処罰の体系で殺すのではなく、多言語主義的な可能性へと差し向けていた。そこでは言語の階梯は重層的な決定力となって、国家を審問しつつ、自立を呼び込んでいたはずである。
 だが、「吃音のア行止まり」の喪失感は何を語っているのだろうか。1971年「ミクロ言語帯からの発想」の最後に置いた滅びへの予感は、35年後の現在、不幸にしてその方向を辿ろうとしているようにも思える。「吃音のア行止まり」の〈吃音〉は、国家に喰われていく群島の諸言語の声、言葉にならない声の断片として琉球孤の風景の背後の闇を漂流しつづけている。「ああ、あお、あい、あいなあ」という音の断片は、埋め殺されつつあるミクロ言語の胎内に輝くことばの生霊たちの死の審級なのだといえばいい過ぎだろうか。
 植民地化された地域における思想は〈ことばと国家〉の関係を抱懐せざるを得なかった。だから川満の詩の現在が抱え込んだ〈吃音〉は、沖縄の自立思想を新たな展開へと送り返し、困難さと、それゆえの可能性をぎりぎりの結界で示唆してもいるはずだ。疎外された前言語であり、音の断片でもある〈吃音〉をそのまま死産させるのか、それとも自立を織る言語の誕生に赴かせることができるのか。詩と論考「吃音のア行止まり」は、母の死の床からする〈未決の反復帰論〉への回り込みとして読むことができる。

新川明の〈恐れ〉

 川満信一の思想が抱え込んだ「吃音」を、新川明は別様な感受性で言い表していた。『前夜』9号(2006年秋)でのインタビュー「反復帰論と同化批判−−植民地下の精神革命として」(聞き手:中野敏男・屋嘉比収・新城郁夫・李孝徳)は、新川明という強烈な個性の自己史と関わらせて、戦争体験と戦後責任、アメリカ占領と抵抗の文学、そして〈反復帰論〉の思想的な意味などが語りおろされている。ここで改めて確認されるのは、〈反復帰論〉が内なる同化主義批判であり、沖縄における「精神の革命」であることである。そして李孝徳によって〈反復帰論〉が「植民地主義批判」であることがいっそう鮮明にされたということだ。
 このインタビューでとりわけ興味ぶかいのは、川満信一との思想的な個性の違いについて触れて「僕の場合は川満のような故郷がない。つまり川満には生まれ育った宮古が、久松部落がある。幼少時から村人と一緒に海に潜って漁をしたりしている。こうした故郷体験が僕にはない」といい、また、「生まれた場所の嘉手納はまったく記憶にないし、父祖の地・西原も幼少期に一年ほど過ごしただけ。小学生時代は石垣島で、高校はコザというように故郷喪失者だからじゃないかね。さらに母親はヤマトゥだし、リアリティのある故郷を持っていないところが川満君と決定的に違うところだと思う」と語っている。ここに、〈共生・共死〉の思想から「民衆論」や「共同体論」を展開し、「ミクロ言語帯からの発想」やスマフツと故郷の風景の変猊に立ち竦んだ川満信一の〈吃音〉を置いてみると、〈反復帰論〉のトライアングルを形成した辺と辺の関係が味わい深い形で呈示されているのがわかる。
 ところで私が新川明の言葉のなかで、とりわけ目を凝らしたのは、靖国問題に触れ、それが過去の問題ではなく、未来にかかわる問題であり、「いまの日本の国民性に残る歴史に対する不感症と、そこから想像される未来の日本国の姿をこそ批判しなければならないと思う」として、次のようにいっているところである。
 すなわち「私は日本国民が恐い。沖縄の人間のひとりとして、日本の国民は非常に恐いわけさ。日本国−−、つまりはその国を構成する国民ということになるが、その国[民?]に対する恐怖は中国や韓国の人と共有できると思うんですね」と述べた。
 この個所は、このインタビューの中でも一種異様な感じを与える。新川明の口からふと漏れ出た「私は日本国民が恐い」という咳き。それは低い、だが決して聞き捨てることはできない声の鷲きを持っていた。かつて島尾敏雄は、新川明と川満信一を「双頭の鷲」に喩えて、「沖縄のことを考えると、まず双頭の鷲さながらに、鋭い羽音をたてて飛び廻っているもののあることが感じられる。双頭をかたどるその川満信一と新川明が私の心に住みつきだしたのは、いつのころだろう」と川満信一詩集の略注に書いていた。
 堅固な気配となって、島尾敏雄の夢の中に容赦なく入り込む「鷲」のイメージとはずいぶん異なる、新川明が漏らした〈恐れ〉に、もう一方の川満信一の〈吃音〉を重ねるとき、反復帰思想の現在の位相を思わずにはおられない。さらに、絶筆となった「黒ダイヤ」の書評で、岡本恵徳の最後の目がまなざした〈暗喩〉のような「ムルデカ」を重ねるとき、そこに結ばれるのは、脱植民地主義へと送り返される沖縄の文体が描く、神経のふるえのような三角形である。
 新川明の〈恐れ〉と川満信一の〈吃音〉と岡本恵徳の〈最後の目〉。ここに私は2006年・沖縄の、反復帰論から脱植民地主義の抵抗へと敷設されたトライアングルの三辺をみる。
 いま沖縄のアジアにおける位置の政治を根本的に書きかえる「日米軍事再編」と、それへの選択が問われる県知事選や辺野古への新基地建設に対する抵抗が、新たな局面を迎えている。さらなる転形期の沖縄の政治的・思想的空間に、三角形のふるえは歴史の臨界点を回り込みながら、沖縄における自主の根拠を黙示する。

『世界』岩波書店2006・12

【2007.2.13】 「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」ホームページ

 以前から気になっていましたが、あるMLで掲載されてあったので、ここで紹介します。
 「ニュース 第5号(2007年1月)」では、<「おりがきた裁判」―大江・岩波沖縄戦裁判の射程>と題する中で、出版指し止めを要求されている大江健三郎の書『沖縄ノート』の一節を引用し(「旧守備隊長が、かつて『おりがきたら渡嘉敷島に渡りたい』と語っていたという……本土においてすでにおりはきたのだ。かれは沖縄においていつ、おりがくるかと虎視眈々に狙いをつけている。」)、<原告たちは……ついに「おりはきたのだ」と踏んでこの裁判を仕掛けてきたのだ。……私たちは「おりがきた裁判」とさせてはならない。そうではなく、「ヤマトンチュウの戦後平和思想を問う裁判」として位置づけてこの裁判に向かい合わなければならないだろう。>と書き記す

【2007.2.12】 <復帰35年・揺れた島 揺れる島>仲地博「『独立』をめぐって」
 「沖縄タイムス」が本年1月16日より「復帰35年/揺れた島 揺れる島」というコラムの第一回で、仲里効さんが、この間(昨春、3月5日の県民大会での「琉球独立」の旗を高々と掲げて以来?)時折垣間見せる、より踏み込んだ発言を行った。「歴史家とはもっと歴史の『正典』の行間を読み、少数者の声にならない声を聞き分け、そこに未生の可能性をすくい上げる繊細な目と耳をもっているものと思ったが、ここにあるのは、ポピュリズムをまとった同化主義・国家主義的イデオローグとしか言いようがない。/……『桃太郎』にならなかった沖縄の団塊世代は、シジホスの神話に喩えられようが、封印された未発の可能性に寄り添いながら、いまだ明かしえぬ共同性を拓く試みを、あきらめずにやりつづけることである。それが『鬼子』の一人である私にかせられた、最低限の『責任』だと思う。」
 それを受けて、高良倉吉が1月23日に、「沖縄の多数意思が選択した現実に寄り添い、その展開がもたらすはずの状況に対して、評論家としてふるまうのではなく、責任の一端を引き受ける実践者になるとの覚悟である。」である、と読売新聞(西部版)での「連載コラム・沖縄から」で、稲嶺・仲井真の随伴者としての己を明らかにしたことを、ある意味、開き直った。そして、続けて翌24日では、「無節操で、しかも『国家』意思に迎合するパフォーマンスだという批判や中傷をあびせられてきたが、むしろ私はその人々に問いたいと思う。何のために活動しているのか、誰に責任を感じて行動しているのか。歴史の行間にインプットされている少数者の声に耳を傾けるべきだという人がいるが、自分はその少数者の理解者だと規定し、それなるがゆえにその立場から世情の本質がよく見えるというのであれば、沖縄をより良くする目的のために、少数者を多数派に転換するための手段を構築すべきではないのか。/現実に根ざさない言葉は、自分の思想の高質性や孤高さを誇ることができたとしても、今を生きる具体的な生活者に届かないのではないか。」と、これは仲里さんへの挑発に見えて、かくも辛く哀れな自己憐憫の言説としか読めなかった。もっとも、「仲里さん!高良倉吉の挑発に乗りましょう!」との想いを禁じ得なかったことも事実ではあるが……。
 そして三人目の論者が琉大の学長候補に擬せられた仲地博さんである。題して「『独立』をめぐって」。



<復帰35年・揺れた島 揺れる島>
「独立」をめぐって

仲地 博


自治の背景として市民権
「代理署名拒否」経験血肉に


 最近興味深い数字がある。一つは、去る知事選で琉球独立党の看板を掲げて立候補した屋良朝助氏に投じられた6200票である。保守県政の継承なるか野党知事が誕生するか全国注視の下、メディアは仲井真弘多、糸数慶子二候補の政策と動向をクローズアップし、独立党はその中に埋没した。地盤・看板・カバンとも無きに等しい候補が獲得した6000票は、多くの人にとって予想外ではなかったか。独立党自身も、大躍進と総括し勝利宣言を行っている。
 もう一つは、林泉忠琉大助教授による住民意識調査で、独立を支持するのが24%という数字である。これは二年続けての調査で、昨年も同じような数字が出ているせいであろうか、この調査を報じる本紙は比較的地味な扱いであり、強調されたのは、若者に独立支持が少ないという点であった。しかし、前年と同じ数字が出ていることは、調査時の特別な事情による突風的支持率ではないことが裏付けられたことになる、4人に1人が琉球独立に少なくとも共感しているということは、復帰35年の沖縄社会の一面をよく示しており、報道はこの点を掘り下げるべきだったと思う。

空気の変化
 
 ひるがえって、独立党の屋良の得票率を見ると、投票者の1%以下であり、独立支持派を結集できなかったことを示している。その視点からすれば、屋良の獲得した票は意外と小さいということになる。独立党は、なぜ独立支持派の票を結集できなかったか。
 一つは、選ばれる側の問題、すなわち琉球独立党の足腰の弱さでその存在と政策を浸透させえなかった、あるいは、有権者の信頼を獲得するレベルに達しなかったということ。二つは選ぶ側の問題、すなわち、独立支持は理念や願望のレベルであり、現実の政治選択ではないと判断していること、のどちらか、あるいはその両方ということになろう。
 もう一つの数字がある。1971年復帰を翌年に控えた参議院選挙に、独立党の崎間敏勝氏が打って出た時の得票である。崎間は、琉球政府系の金融機関である大衆金融公庫総裁を務めた戦後沖縄社会のリーダーである。その崎間をしても得票は2600票。今回知事選は、71年参院選に比べ「(屋良は)実質ゼロからのスタートであるにもかかわらず(崎間の)二倍以上を獲得し」大躍進(独立党の総括)ということになる。独立をめぐる空気は復帰の際と現在と変わったのだろうか。

復帰リーダーが警戒

 復帰運動は、沖縄住民のみならず国民的な奔流となり、それに抗する独立論は異端以外の何者でもなかった。沖縄自治憲章をめぐる次の挿話がそれを示唆しよう。
 1983年ごろ、地域主義を唱えたことで高名な玉野井芳郎氏(当時は沖国大教授)が、沖縄自治憲章の制定をもくろんだことがある。今、全国の自治体で静かなブームとなっている自治基本条例の走りであり、20年以上前にそれを試みた玉野井の先見性をよく示している。
 玉野井は、「平和を作る沖縄百人委員会」を舞台にして自治憲章制定運動を行うことを考えていた。百人委員会とは、研究者、ジャーナリスト等による啓蒙的団体で平和運動や環境保護問題に大きな影響力を持っていた。その百人委員会で玉野井の自治憲章はコアとなるメンバーの賛同を得ることはできなかったのである。「独立をしようというのか」「こんなものを作ると、沖縄はまた戦前のような特殊な地域になって差別される」「もし国に訴えられたらどうするか」というような反対論であった。
 百人委員会のコアメンバーは、復帰世論のリーダーであった。日本国家を求めた復帰思想が、地域の個性を最大限に発揮しようとする玉野井の自治憲章に、独立論的傾向を読み取り警戒したのである。

事大主義の克服
 
 復帰とは、日本の国家体制に組み込まれることを意味し、復帰運動は保革を越え多様な潮流を飲み込んでいたが、その公約数は基地のありようを含め本土なみの普通の県になることを求めた運動であった。復帰10年に、普通の県かそれとも地域の個性を宣言するか、自治憲章をめぐっての同化と異化のせめぎあいが生じたのであった。
 復帰35年を迎え、独立論は、政治的影響力はともかくとして、排斥ないしは無視してよい異端ではなく、自治・自立論の一つ、あるいはその背景にあるものとして市民権を獲得しつつある。
 復帰から今日までに独立をめぐって意識の変容があるが、それを引き起こしたものは何か。沖縄の県民性といわれた事大主義の克服が大きいように思う。そしてそれに貢献したのが、95年の大田昌秀知事(当時)の代理署名拒否である。国は、基地の安定使用をめざした。知事に署名を命じる首相、知事敗訴にした最高裁判所、沖縄にのみ適用される特別法を制定した国会と、次々とかぶさってくる国の権力に沖縄は正面から立ち向かった。この経験が、沖縄の自立精神の血肉になったのであろう。

時代結ぶ道州制論議
琉球政府の経験もモデルに


 安倍晋三首相は、3年以内に道州制のビジョンを策定すると宣言し、担当大臣を置いた。その諮問機関で、今月中にも本格論議がスタートする見込みである。道州制は、国の貌を変える大改革である。
 経済が停滞したころ、道州制は閉塞感を打破する処方箋の一つとして国民にも自治体にもいくばくかの期待感もあったが、安倍首相が、期限を切って政策の正面に据えるとともに警戒感が広がってきた。
 日本世論調査会の調査で、一年前に47%あった道州制賛成は、現在29%に激減した。知事会においても賛否は割れている。都道府県制は、120年の歴史を持ち国民に定着しており、それを変える必然性が十分に理解されておらず、さらに未知のものに対する不安がある。
 道州制が一気呵成に進む状況ではないが、国と自治体の財政状況は厳しさを増す一方であり、行政機構のリストラ策として遂行される可能性が高い。しかし、道州制は効率の論理ではなく、分権の論理で語らねばならない。

実現可能性も

 道州制の具体的内容はこれからの議論であるが、地方制度調査会(内閣総理大臣の諮問機関)の答申で、そのアウトラインは次第に見えてきている。すなわち、@都道府県は廃止し、地方自治体は、道州と市町村の二層制とするA道州の区域は、数県を併せた広域なものとし、北海道および沖縄県については、その地理的特性、歴史的事情から、単独で道州を設置することも考えられるB道州制への移行は、全国同時に行う。
 一番重要なことは、国と道州と市町村の間で仕事をどう配分するかである。地方制度調査会は、現在県がやっている仕事を大幅に市町村に移譲し、道州は、広域的な社会資本整備や環境保全、経済政策などの仕事を行うとしている。
 道州制は、全国的な議論が必要である。道州制についての議論は、沖縄ではまったくゼロからのスタートというわけではない。一つは全県民的な議論を重ねた国際都市形成構想の経験がある。また、沖縄は、道州制のモデルとなる実験をした経験もある。琉球政府である。
 まず、10年ほど前に華々しく議論された国際都市形成構想がある。1990年登場した大田昌秀知事は、知事就任当初から「国際交流拠点の形成」を重要政策としていた。当初は、文化や学術の側面に重点がおかれたが、国際都市形成構想として、次第に経済政策の性質を強め、21世紀沖縄のグランドデザインとして位置づけられた。当時の沖縄の政治力を背景に、国政与党が「一国二制度的な大胆な改革を目指す」と合意したように、実現可能性も仄かに見えたかのようであった。

作られた幻影

 この構想は、全県自由貿易地域、税の減免、規制緩和が柱をなした。すなわち、国の中における経済特別区構想であり、そしてそれにとどまり、自治特別区の構想に発展する時間は与えられなかった。にもかかわらず、かもし出す雰囲気は、まぎれもなく道州制あるいはそれを越えるものであった。
 例えば、篠原章大東文化大教授は、次のように述べる。
 「(国際都市形成構想)は、沖縄独立宣言の草稿なのである。国の権限である関税権や出入国管理権の一部を沖縄に委るということは、一国二制度どころか国境の変更を意味している。沖縄は、日本の枠内での特別扱いを求めているのではなく、あくまで日本の枠外においてほしいと主張しているのである」と。
 このように国際都市形成構想における一国二制度は、国と県の間の権限の再配分という面では手付かずではあったが、都道府県の枠組みを飛び出し、自立性の高い地域の幻影が作られたのである。そういう意味で国際都市形成構想は、未発の道州制であったと言えよう。

司法権も行使

 沖縄の経験の二つ目は、復帰前沖縄に存在した琉球政府である。琉球政府という用語は、二つの意味で使われている。一つは琉球の統治機構という意味であり、これは日常に使用しておりわかりやすい。もう一つ。最近、県や市町村を地方政府と呼ぶ人々がいる。この立場では、国と県の関係は政府間関係と表現される。琉球政府という用語もこの意味、すなわち政府が、組織や機構ではなく、統治権を持つ団体を意味するのである。
 琉球政府の経験が、道州制の議論に役立つ一例を挙げよう。
 琉球政府は、司法権も行使した。司法に関する仕事は地方自治法上、国の仕事とされていたが、地方分権一括法により改正され、国の仕事とする明文はなくなった。したがって、自治体が司法権を有するかどうかは、憲法解釈の問題であることが明確になった。沖縄自治研究会が起草した「沖縄自治州基本法」は、沖縄自治州裁判所を構想している。
 道州制論議は、復帰35年目に沖縄の過去と未来を結ぶものとして登場してきたのである。

(沖縄タイムス 07.1.30−31)


【2007.2.4】 「逆格差論」(名護市総合計画・基本構想1973年6月 名護市)
 やっと、「逆格差論」をアップ。ただし第2章までですが。とりあえず図表等を除いて全文アップするつもり。様々な形で参照を求められているものです。

 沖縄タイムスが、2006年6月11日に連載コラム<脱基地のシナリオ・第2部・振興策 光と影>の第一回に次のような文章を掲載しました。

沖縄タイムス<2006年6月11日 朝刊 1面>
脱基地のシナリオ(23)/第2部・振興策 光と影(1)


「逆格差論」の挫折

国費400億依存深く/名護、自立の道かすむ

 「人口を増やし、定住条件をつくり上げる。この二つが重要だ。人口の拡大がなければ、どんな計画も始まらない。この点を目標に据えて頑張ってほしい」
 今年二月七日、名護市役所一階ロビー。任期満了で退任する岸本建男名護市長は、集まった数百人の職員や市民にこう語り掛けた。
 岸本氏が、条件付きで米軍普天間飛行場の代替施設の受け入れを表明したのは一九九九年十二月。その前後から、地域振興策の名目で、名護市にマルチメディア館や国立沖縄工業高等専門学校(国立高専)など、さまざまな施設が建てられた。
 「毒をのんででも地域の発展を目指そうとしたのか」。五十代の幹部職員は、病気療養でほおがこけ別人のようになった岸本氏の姿に言いようのない胸のうずきを覚えた。
 岸本氏はその翌月、死去。首長として最後のメッセージとなった。

新境地模索

 七二年の復帰を機に、沖縄は本土との経済格差を埋める方向に走り始めた。これに対し、名護市は「現金収入が少なくても、自然や文化に囲まれた暮らしこそ本当の豊かさ」という「逆格差論」を掲げ、地域おこしの新境地を模索した。
 復帰翌年の七三年に市がまとめた「名護市総合計画・基本構想」。「逆格差論」の理念に貫かれた構想は、当時、日本全体を覆った開発至上主義の流れと真っ向から対立し、県内外で大きな反響を呼んだ。計画づくりの中心メンバーが若き日の岸本氏だった。
 「自分たちの手で地域をつくり上げようと熱く燃えていた」。計画づくりに参画した元名護市中央公民館館長の島袋正敏氏(62)は振り返る。

「現実」の壁

 だが、先進的と評された「逆格差論」は「現実」の壁の前で挫折を余儀なくされる。
 復帰後、順調な発展を遂げた本島中南部と対照的に、名護市を中心とする北部地域は雇用の場も少なく、若者の流出が続いた。過疎から抜け出す特効薬も見えぬ中、バブル時の八八年に策定された市の新しい総合計画は、開発志向型に大きく軌道修正した。
 新計画から約十年後の九九年。岸本氏は基地の新設を受け入れ、見返りとなる巨額の政府資金で地域振興を図る「苦渋の選択」をした。「(岸本氏には)中南部に取り残され、北部は沈没してしまうという焦りがあった」と元側近は明かす。
 名護市には、北部振興策や国立高専の設立などを含め約四百億円の巨費が投入された。人口は約二千五百人、新規雇用も情報関連分野を中心に五百人以上増えた。市は金融・情報特区などでさらなる活性化を模索する。

 一方で、市の財政指標は悪化の一途をたどる。国への依存度は一層深まり、自立への展望は見えにくくなった。
 「箱物ばかりが増えた。政府に頼りきった地域振興はいずれ行き詰る」。琉球在来豚アグーの保存運動などで地域おこしに取り組み、「逆格差論」の理想を追う島袋氏は不安を隠せない。
 新基地建設の見返りや安定維持などのため、沖縄には振興策の名のもと、約十年間で二千億円以上の「国費」が投入された。数々の振興策は地域に何をもたらし、何を失わさせたのか。現場から報告する。(「脱基地」取材班・鈴木実、稲嶺幸弘、知念清張)

 なお、平良識子「琉球・沖縄人の権利回復運動と私」(沖縄ミニ講座 in YOKOHAMA 2003.04) もアップしました。若き日の(今でも十分すぎるほど若いですが)の真摯な論攷です。

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