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『沖縄の自治の新たな可能性』報告書bT
沖縄自治研定例研究会議事録/期間:2004年4月〜2004年8月/場所:琉球大学


はしがき/仲地 博
仲地 博『沖縄自立構想の系譜』レジュメ

屋嘉比収『琉球救国運動と公同会事件にふれて』レジュメ

●はしがき/仲地 博

 本報告書は、文部科学省の科学研究費の給付を受けた「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−沖縄の自治経験と新たな展望をもとにー」(2002年度から2005年度)の第5報告集である。本研究の正式な研究テーマと研究目的は次の通りである。

研究テーマ
 「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−沖縄の自治経験と新たな展望をもとに−」
研究目的
 @国際統合、地域統合が進展し、主権国家の役割も姿も変容を迫られつつある。その中で地域の役割が大きな意味を持ち始めており、その表象として地域の基本法の研究が時代の要請となってきている。
 A本研究の目的は、地域の基本法・自治基本条例の理論的、歴史的、国際的比較、総合的な研究を行うものである。参加研究者が、理論面とともに沖縄という地域を意識した実践的研究を行い、(その産物として)市町村レベルと県レベルの自治基本条例・法の試案(モデル条例)を案出することにある。
 B沖縄県内の自治制度の研究に実績のある憲法・行政法・行政学・政治学者研究者を一堂に集め、さらに自治体職員及び議員等との意見交換をふまえ、国内外の最新事例を幅広く調査検討し、自治体の憲法と言われる地域づくり・自治基本条例に関する研究会を形成して研究目的を追求する。

 これまで、初年度上半期は、理論的・基礎的テーマについて研究成果の交流(報告書・1)を行い、初年度下半期は、自治基本条例のモデル素案の作成(報告書・2)を行った。2年目上半期は、自治の実態の分析とともにモデル条例の深化(報告書・3)をはかった。2年目下半期は、沖縄県レベルの自治のあり方に主たる焦点をあて、自治の理論と動態を広い視野から検討すべく、この分野の第一線の研究者を招き研究の交流を行った(報告書・4)。
 本年度は、いよいよ最終年度である。研究活動は上半期も盛んであり、沖縄の自治構想の歴史的研究を集中的に行った。同時に研究会を3つの班(主として政治学研究者からなる班、憲法研究者からなる班、行政法研究者からなる班)に分け、それぞれ新たな自治構想の提案の準備に入った。

 平成16年度前期定例研究会の概略は次の通りである。
第1回 定例研究会(平成16年4月10日)
  報告『沖縄自立構想の系譜』 琉球大学大学院法務研究科教授 仲地 博
第2回 定例研究会(平成16年5月20日)
  報告1『下河辺(淳)オーラル・ヒストリー』 早稲田大学大学院公共経営研究科教授 江上 能義
  報告2『復帰時の自治構想について』 元琉球大学教授 比嘉 幹郎
第3回 定例研究会(平成16年6月16日)
  報告1『1990年代の自治構想』 琉球大学教育学部助教授 島袋 純
  報告2『大田県政の自治拡充戦略』 元沖縄県副知事 吉元 政矩
第4回 定例研究会(平成16年7月10日)
  報告1『敗戦直後の沖縄の政党と独立論』 沖縄国際大学法学部助教授 照屋寛之
  報告2『政党政治の始動と沖縄民主同盟の設立』 元沖縄民主同盟青年部長 上原信夫
第5回 定例研究会(平成16年8月7日)
 第1部自治基本条例の諸相
  報告1『「痛みを伴う改革」の政治過程』 琉球大学法文学部助教授 宗前 清貞
  報告2『21世紀型の消費者政策のあり方と自治体消費者行政の役割について』 琉球大学大学院法務研究科教授 徳田 博人
 第2部「明治沖縄の自律構想と運動」 沖縄大学助教授 屋嘉比 収
 第3部 80年代初頭の自治・自律構想
  報告1『沖縄自治憲章』 沖縄国際大学法学部教授 前津 榮健
  報告2『琉球共和国憲法』 琉球大学大学院法務研究科教授 高良 鉄美

 三つの班ごとの研究会は、それぞれ3回から5回開催されている。その成果は、自治制度の構想案としていずれ発表予定であるので、ここでは割愛する。

 本研究は、上記研究目的の@ABで述べたように、住民、自治体職員や議員の参加により、現実から遊離しない理論と実践の架橋を目指している。今期も広く一般に公開したが参加者はこれまでより少なかったのは残念である。
 昨年度下半期のはしがきにも同様なことを書いたが、合併問題で自治の枠組みが流動化したところに加え、三位一体改革は未曾有の財政難となって沖縄の自治体を激震させている。道州制の議論も県庁内部や住民の間で始まっている。必然的に自治体関係者はもとより住民も地域や自治体の行方に感心をもち、メデイアも連日自治の諸問題を報道している。そのような背景のもと、本研究に対する関心も高い。科学の地域貢献としても評価し得るものと思う。

◎研究課題「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−沖縄の自治経験と新たな展望をもとに−」

◎研究組織/仲地 博 琉球大学大学院法務研究科教授(研究代表)/江上 能義 早稲田大学大学院公共経営研究科教授/高良 鉄美 琉球大学大学院法務研究科教授/前津 榮健 沖縄国際大学法学部教授/佐藤 学 沖縄国際大学法学部教授/島袋 純 琉球大学教育学部助教授(世話係)/徳田 博人 琉球大学大学院法務研究科教授/照屋 寛之 沖縄国際大学法学部助教授/宗前 清貞 琉球大学法文学部助教授

◎研究経費/平成14年度分 4,400(千円)/平成15年度分 3,900(千円)/平成16年度分 3,900(千円)

◎これまでの報告書
 第1報告書「新しい自治体とこれからのまちづくり−研究会議録」(平成14年10月)
 第2報告書「新しい自治体とこれからのまちづくりタ−自治基本条例モデル素案・シンポジウム&ワークショップ成果報告」(平成15年3月)
 第3報告書「新しい自治体とこれからのまちづくりチ−自治基本条例モデル条例」(平成15年10月)
 第4報告書「新しい自治体とこれからのまちづくりツ−自治研究講座」(平成16年3月)
◎他の研究費による関連報告書
 沖縄自治研究会発足記念シンポジウム報告書「新しい自治体とこれからのまちづくり−住民による・住民のための・住民の自治−」(平成14年5月)
 沖縄自治研究会自治基本条例研究プロジェクト2003年8月26日合意「自治基本条件−市町村モデル条件と解説−」(平成15年10月)

平成16年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)(2) 課題番号14320008 代表:仲地 博
−自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−報告書・5
「沖縄の自治の新たな可能性」定例研究会議事録
発行日 2004年10月12日
編 集 島 袋  純
発行者 沖縄自治研究会
 琉球大学文系総合研究棟702〒903-0213沖縄県西原町字千原1番地 電話&FAX(098)895-8473
 Email:junshima@edu.u-ryukyu.ac.jp URL:http://jichiken.at.infoseek.co.jp


仲地 博『沖縄自立構想の系譜』(第1回 定例研究会04.4.10)

 ……議事録をつくると言われて、少し困ったなというところです。あんまりきちんと準備してなく、原典を確認していないとか、あるいは拾い読みで誤解をしていないかとか気になります。いずれは論文として書くということになるはずですから、そのときにきちんとします。とりあえずはラフな中間報告と理解していただきたいと思います。
 さて、私に割り振られたテーマが、沖縄自立構想の系譜というようなテーマでありました。この研究会は、沖縄の自治や自立を考えるわけでありますけれども、沖縄の自治や自立についての言説で、これまでどのような蓄積があるかという、その系譜を素描してほしい、これから各自分担をして研究会をするけれども、大体流れとしてどうなっているのかというのを第1回目に確認をしたい、そういうのが私に課された課題であります。
 それで、沖縄自立構想の系譜を一通りさらってみようというのが私の報告のテーマであります。沖縄は自立、あるいは独立等を議論しますけれども、このような議論は沖縄だけではないのはもちろんです。九州に九州独立論がある。これは、九州大学の例えば手島孝先生、手島先生という方はもう古い方ですが、その他にも現役の政治学の教授、たしか今里先生だったと記憶しますが、九州法学会で報告を聞いたことがありました。ですから、地域が独立を求めるというのは、人間が独立、不羈、自由、縛られないで自由でありたい。自立したいというように、地域もまたそう考えるわけです。

背景にあるもの
 しかし、沖縄ほど自立についての議論がある場所というのは、ないだろう。それはなぜかということです。沖縄で自立論議が盛んである理由、あるいは背景というのは、レジュメに書いてありますけれども、琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱に明瞭に見てとることができます。これはWHOYOUというインターネットのホームページから引っ張ってきたものです。我々の研究会が発足したときに、島袋さん、藤中さんの手によって参加者に配られました。
 この琉球諸島特別自治制というのは、自治労のプロジェクトとして発表されたものです。この前文には、大体5点ほどポイントが書かれております。レジュメ1ページ、1つは沖縄の地理的状況、2つ目に琉球王国の存在、3つ目に悲惨な地上戦を経験したこと、4番目に米軍占領があったこと、そして5番目ですけれども、復帰で求めたものと現実の復帰との間には落差があったと。この落差という意味は、例えば、基地のない島を求めたけれども、基地はそのままだったというような点が、この復帰思想と現実の落差であります。この5つの要素が述べられております。この5つの要素とも、沖縄以外の地域にはないことがらですね。
 例えば、九州独立論とか、佐渡独立論がありますけれども、この五つの要素は他の地域にはない、佐渡は島でありますけれども、県全部が島というわけではない。この5つは沖縄の特質として認識されまして、こういう特質に裏打ちされて自立論が噴出することになるわけです。
 かつて、玉野井芳郎という沖国大の教授がおりました。玉野井先生による、「生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章』」を挙げてありますけれども、この前文が述べているところも、やはり先ほどの自治労の法律案要綱とほぼ同様に、地理的状況、悲惨な地上戦、米軍占領、復帰思想、そして非暴力の伝統です。
 我々がつくりました自治基本モデル条例は、このうちの悲惨な地上戦と米軍統治を前文で挙げてありまして、王国の存在、復帰思想などは特に触れられておりません。市町村のモデル条例であったというころが影響しているのかもしれない。あるいは、そういうところには関心がなかったのかもしれない。私は、このあたりはよくわかりませんけれども、県レベルの条例をつくるときに、これらがどう扱われるのかというのは1つの検討課題ということになるのだと思われます。

沖縄の民族意識
 さて、この5つが沖縄で自治、あるいは自立構想が出てくる背景だと述べましたけれども、さらに奥深いところで民族意識があるというのが、今日お話したい結論であります。ここに、「沖縄自立への挑戦」という本があります。復帰10年目、81年ごろに出た本であります。沖大の新崎盛暉先生などが中心になって編集をしておりますけれども、この「沖縄自立への挑戦」に載っている諸論文を見ますと、どの論文も沖縄の少数民族、あるいは民族意識というようなものに触れるわけであります。
 巻頭の論文は、平恒次というイリノイ大学の経済学の教授によるものですが、平恒次先生の論文には特に民族意識という言葉は出てきませんけれども、平先生が沖縄民族論を主張するのは周知のとおりであります。レジュメに・中村丈夫、・中野好夫、・仲吉良新、・比嘉良彦、・矢下徳治の諸先生による論文の中から、どんなふうに民族について触れているかというのを抜き書きしてあります。2番目の中野好夫をごらんください。
 中野好夫さんという方は、皆様ご承知のように、評論家で英文学者、1965年に「沖縄問題20年」という岩波新書を書かれました。新崎盛暉先生と中野好夫先生の共著で、沖縄問題を歴史的、体系的に議論した最初の本が、この「沖縄問題20年」です。中野先生は古くから沖縄に対して大変好意的な論評をしてきた方でありますけれども、この人の沖縄に対するほぼ最後の発言がこの括弧書きです。「ぜひ皆様に植民地隷属の状態から長い民族独立運動の結果、ついに独立を達成した諸国家の歴史を勉強していただきたい」と書かれました。中野さんはこの論文の中で、沖縄が少数民族だとは一言も言っておりませんけれども、行間はそう言っているわけです。これが一つ触れておきたいことであります。
 それから、3番目の仲吉良新さんであります。この仲吉良新さんは皆様ご承知のように、自治労の全国の副委員長を務めた方で、沖縄の復帰運動、労働運動のトップリーダーでありました。この仲吉良新さんが特別県制の案を出したわけです。自治労というのはオールジャパンの組織であります。そのオールジャパンの組織のリーダーが出した案ですから、その案の中には民族という言葉は出てまいりません。しかし、シンポジウムにおける仲良さんの発言の中では次のような発言が出てくるわけです。「(特別県制案の基本的ねらいは)かつて琉球王国でありまして、天皇がいたわけでもない…我々の心の中にも沖縄人という誇りがあります」と。
 もう一つ、4番目の比嘉良彦さんをごらんください。この人は、今では、県の政策参与、稲嶺知事のブレーンであります。この比嘉良彦さんはこう述べております。「日本国家は、沖縄を常に従属的地域社会として扱ってきた。その原因は、沖縄がマイノリテイとして民族的疎外の状態に置かれてきたからだといわざるを得ない。沖縄の自立とは…沖縄が民族的疎外から脱却することとして把握すべきであろう」と。沖縄はマイノリテイとして疎外された状態にあると、現状の分析をしているわけであります。
 さて、これらの論考に見られますように、表面には出なくとも、沖縄の自立構想の根源には沖縄を少数民族としてとらえる底流があるのだということです。

沖縄の思想的伝統
 この考え方をもう少しひもといてみたいと思います。琉球大学の比屋根照夫教授が、「混成的国家への道」という論文を書いております。レジュメ1ページのちょうど真ん中ごろに書いてありますけれども、これは、講談社の日本の歴史という25巻のシリーズの最後の巻「日本はどこへ行くのか」に収録された論文であります。比屋根さんは沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷、その弟の伊波月城、そして伊波普猷の影響を受けた牧師である比嘉静観、という沖縄の思想家たちを取り上げています。伊波月城は世界主義、国際連合主義というのを論じておりまして、比嘉静観は、世界人であり世界同胞主義であるというふうなことを言っており、そして伊波普猷は混成的国家というのを論じております。
 比屋根さんに拠りながら一連の思想家の特徴的な表現を紹介しましたが、レジュメ1ページの括弧書きのところをごらんください。これは、比屋根さんがこの論文の一番最後にまとめとして書いた文章でありますが、以下引用します。「これらのコスポモリタニズム、世界主義に共通するものは、伊波の個性論に基礎をおく『琉球民族意識』の発露であり、大和民族と異なった『異民族』としての歴史経験に裏打ちされた沖縄主体の自己認識の発言であった。このような自己認識が弱者や弱小民族、マイノリテイへの共感、連帯へとつらなっていったことは、最早疑うことのできない厳然たる事実である。そして、これこそが近代日本の周縁の地から発せられた良質なコスポモリタニズムの発現であったと言えるのであり、未曾有の沖縄戦をへて、さらに過酷なアメリカ統治を通じて、今日沖縄に受け継がれている思想的伝統にほかならない」。
 比屋根さんによりますと、沖縄の思想的伝統というのは、伊波に源流をもった、琉球民族意識の発露であり、ここから沖縄の世界主義というのが出てきたのだというのです。思想的伝統の基礎というのが琉球民族意識にあるということですけれども、戦後、沖縄社会に最も影響力をもった研究者は、大田昌秀先生でしょう。大田先生は知事として沖縄の自立に心血をそそぎますが、その大田先生が沖縄人をアイヌ、朝鮮、中国人と並ぶ日本社会の中の抑圧された少数民族と明確に把握していたというのも、周知のとおりであります。自立論、独立論の系譜を見ると、民族意識が強力な底流としてあるというのが今日の私の話であります。

明治期の思想・運動
 さて、明治期の思想・運動について、幾つか書き出してあります。
 まず、「近時評論」という政治評論雑誌があります。現物を見ておりませんので、孫引きになります。「近時評論」というのは自由民権運動の評論雑誌でありますが、この中の沖縄自治構想について、こんなふうなことを述べております。現在わが欧米の圧制に苦しみ国民はいかにして独立の国権を回復せんとしているが、そのためには、わが国自身が隣国外交において条理にそむき小弱を軽侮すべき如きあるべからず、日本は欧米の圧制に苦しんでいるけれども、それをかえりみると、日本が周囲の弱小国家を軽蔑するようなことはあってはならないんだといっているわけです。琉球問題でも、日本がしいてそれを併合せんとするのに反対し、もし琉球の『衆心ノ向フ所独立自治ヲ欲スルノ兆アラバ、我レ務メテ其ノ萌芽ヲ育成シ、天下ニ先立チテ其ノ独立ヲ承認シ、以テ強ノ弱ヲ凌グベカラズ、大の小ヲ併スベカラザルノ大義ヲ天下二証明』せよ、それこそわが国の名誉をあげ独立の基礎を固くする道である」と。琉球の人々が独立自治を望むような兆しがあれば、それを日本は育成しなさいと、諸国に先立ちて、琉球の独立を承認しなさいと、強いのが弱いのをしのいだり、大が小を併合するような、こういうことはするなと言っているわけであります。
 2番目に明治政府の分島案を出してあります。分島案というのは、周知のとおりでありますが、独立国家琉球あるいは清国の保護のもとにある琉球を、明治国家が勝手に併合してしまったということに対して清国が抗議をしてきたときに、日本政府は琉球を分割するという案を提示いたしました。宮古・八重山は中国領、沖縄本島以北は日本領と。日本政府は、宮古・八重山は譲歩して中国領にしてよい、譲ると言ったわけです。その反対条件として、中国の国内において日本に貿易上の有利な地位を与えよというのが分島案でした。
 これは日本政府から中国に正式に提案されて、中国側もそれを了承し、10日後に調印ということにまでなっておりましたが、調印には至りませんでした。以上は、歴史上、広く知られておりますけれども、その分島案の途中に、沖縄本島の独立案がありました。竜美以北を日本領、沖縄本島を独立の地域として残す。宮古・八重山を中国領とすると。日本政府が考えた一つの沖縄独立案でした。
 3番目が植木枝盛であります。これは自由民権運動家として有名な人であります。以下の報告は比屋根さんの論文「沖縄構想の歴史的帰結」(新沖縄文学)に拠ります。植木枝盛が「愛国新誌」という雑誌に「琉球の独立せしむ可きを論ず」ということを書いております。「琉球もかつて一個の独立をなし琉球といえる一個の団結をなしたるものなれば之を両断することはなお一身を両断しこれを殺すに同じく人の一家を両分してその愛を割かしむるに異なることなければなり」。これは政府の分島案、宮古・八重山を中国に譲り渡すという案に対して、それを批判したのがこの文章であるでわけです。琉球もかつて一個の独立をなし、それを分けるというのはなんたることかというわけであります。
 そして、植木枝盛は、次のような議論を展開します。近時評論と同じような議論でありますけれども、アジアの基本理念は、アジア諸国間の相互不可侵にある、この基本理念を内外に実践的に鮮明し、天下に立って義を示し、同等主義を重んせしむるの道を明らかにするために琉球を独立させよ」、「今にして琉球を独立せしがめるごときは実に天下に義を示すもの」と。国家は平等である。それを日本が模範としてちゃんと示しなさいと、それを示す道というのは、琉球を独立させるということなんだといっているのです。アジアの進むべき道は、アジア諸国の相互不可侵、諸民族の独立にあると。それに照らしたら琉球を独立させなければならないというのが、植木枝盛の「琉球の独立せしむ可きを論ず」という議論であります。

琉球王国独立運動
 レジュメ2ページの・のところでありますけれども、琉球王国独立運動を挙げてあります。これは比嘉春潮の論文の中に出てくる話であります。比嘉春潮によりますと、2つの独立運動があったというわけです。近代沖縄においては、2つの独立運動があったと。1つは「巴旗の党」という運動であり、もう1つは「公同会」運動であると。巴旗というのは、これは皆様ご承知のとおり、琉球王国の尚家の家紋が三つ巴であり、その巴旗の党ということになります。これは地下運動で、巴旗の党の話は、ほとんど歴史の中に埋もれまして、現在では掘り起こせない状況のようです。この党が目指すのが、清国の援助で琉球王国の復興運動をするということでした。
 先ほど、分島案の話をしました。そのころ、多数の脱清人が存在しました。脱清人というのは政府の文書の中に出てくる言葉でして、ここではそのまま脱清人と使いますが、漢字からの語感では、清を脱出して日本あるいは琉球に来た人、でしょう。金城正篤先生、西里喜行先生などは、これは正確に言うと、琉球を脱して清に渡った人々なのだから、脱琉人であるといいます。まあ通例の用語に従い脱清人という言葉を使いますが、この人々は、清国の皇帝に対して、沖縄救国運動を展開するわけであります。有名な人には中国名・林世功がいます。林世功は、清国に訴える方法として割服自殺を行なったのです。そういう脱清人は、福建省に何人、北京に何人とグループをなして運動したようでありますが、こういうグループが、巴旗の党だったのだろうと思います。
 しかし、そういう脱清人は、明治の最後のころまでいたようでありますけれども、結局、日清戦争の結果、清が日本に負けると、脱清運動は、小さくなってまいりまして、その後に出てきたのが、この公同会であります。
 公同会は政治結社でありますけれども、尚家の一門を党首に立てまして、当時の若手リーダー、太田朝敷や高嶺朝教などの大学を出てきた知識層と旧来の支配層が合体しまして行われた運動が、この公同会運動であるわけです。尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度の実施を政府に要求いたしました。沖縄百科事典で見てみましたら、実に7万3,000人の署名を集めて、政府に要請をしたようであります。
 しかし、相手にされなかった。東京の世論も時代錯誤として嘲笑し、さらに東京に遊学している若手青年たちも、この公同会運動会に反対をするという中で、つぶれていくわけです。明治期の思想運動としてはそういうようなところがありました。

戦後の独立論
 さて、戦後の独立論でありますけれども、まず、沖縄人連盟であります。この沖縄人連盟は、戦後すぐに、東京にいた沖縄出身者の、例えば、伊波普猷であるとか、あるいは早稲田の総長を務めました。大浜信泉であるとか、そういう人たちが発起人になりまして、引掲者のための救援運動や沖縄に物資を送る運動等をした団体です。今、その後身は東京沖縄県人会であり、その文化部門が沖縄文化協会であるわけです。沖縄文化協会というのは、今でも活発に活動し、仲原善忠賞、そういう賞を出したりするところですね。
 その沖縄人連盟が、初期は日本復帰に批判的で、共産党の「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」は、この連盟宛に出されたものです。共産党が沖縄民族の独立を祝うメッセージを出したというのは知られておりますけれども、内容を改めて紹介をしますと、こういう内容であります。ある一つの典型的な見方をしているわけですね。「数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以降は、日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた沖縄人諸君が、今回民主主義の世界的発展の中に、ついに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれたことは諸君にとっては大きい喜びを感じておられることでせう。…たとひ古代において沖縄人が日本人と同一祖先からわかれたとしても、近世以降の歴史において日本はあきらかに沖縄を支配してきたのであります。すなわち沖縄人は少数民族として抑圧されてきた民族であります」。沖縄という少数民族が、米軍によって解放されて、独立へと向かったことを祝うというわけです。実際、米軍に占領されているだけで、独立はしておりませんけれども、そういうメッセージが沖縄人連盟に対して出された。そういう性格を沖縄人連盟は持っていたということです。

戦後沖縄の政党
 2番目の沖縄民主同盟でありますけれども、これは戦後、沖縄で最初に結成された政党であります。琉球独立・琉球共和国を主張いたしました。後に共和党に吸収されますけれども、共和党も琉球独立を主張いたしました。
 3番目に、初期の沖縄人民党を挙げてあります。沖縄人民党というのは、今の日本共産党沖縄県委員会の前身でありまして、長い期間を瀬長亀次郎が率いまして、反米闘争の核となった政党であるというのはご承知のにとおりであります。この沖縄人民党も明確には言い切っておりませんけれども、少数民族観に立ち、独立を思考していたと評価されています。
 文章を見ますと、例えば「全沖縄民族の解放」とか、「琉球民族の基本法たる憲法の制定」というようなことをスローガンにしておりまして、少数民族が前提だったのだろうと理解できます。このような人民党の立場は、1951年ごろまで、戦後数年間は続きます。沖縄の戦後の世論というのは、独立論だったということです。
 初期独立論は、多分、こんな感じじゃなかったか。サイダーのふたを外したときに、つまり日本帝国のくびきから解放されたときということでありますけれども、サイダーのふたを外したら、噴出してきたのが、沖縄人意識であったのたろうと。非常に素朴でした。ですから、このときの政党の文書等を見ると、ほとんどスローガンどまりであります。素朴としか言いようがありません。

衰退した独立論
 戦後の独立論は、急速に衰退いたします。ほとんど1、2年、長くても数年で衰退し、復帰運動にとってかわりますけれども、なぜこれほど急速に復帰運動にとってかわるのか、このへんは興味深いところであります。考えられる幾つか理由を挙げてみました。「大正昭和前期の沖縄の知的リーダーの支配的思想」例えば、太田朝敷であるとか、伊波普猷であるとか、こういう人たちが日本人になるということを考えていたということです。伊波普猷も太田朝敷も屈折しておりますけれども、よく引用されるのが太田朝敷が女学校の卒儀容式のあいさつで、くしゃみをすることも、日本人のくしゃみの仕方をまねなさいといった演説が有名であります。日本人になる方法を考えていたということです。
 2番目は、「日本人教育しか知らない教師」です。これは大城立裕さんなどが大変厳しく指摘しますけれども、沖縄戦後社会のリーダーは教師であったと、その教師たちが師範学校で日本人教育しか習わなかった、日本人教育しか知らない人たちがリーダーになるものだから、日本復帰が主流になるんだということです。
 3番目に「大衆の民族意識」というものも、挙げておかなければならないだろうと思います。既に民衆の中では日本民族意識というのがかなり広く行き渡っていて、復帰運動というのは、その大衆の民族意識に合致していたのではないかということです。そして、かなり本質的なところで「よらば大樹の陰」意識があったのだろう。米軍支配に反対するんだったら、米軍にかわるべき大樹が必要だった。指摘される沖縄の事大主義であります。何かに頼らないと安心できない、頼るべき大樹としてのアメリカにかわる日本ということではなかったということです。

琉球国民党
 さて、独立論の高揚期は、戦後初期であり、その次は復帰前後ですが、その間に琉球国民党の存在があります。琉球国民党は、独立を掲げましたが、政治的影響力はほとんどありませんでした。国民党は、大宜味朝徳という人がリーダーでした。大宜味朝徳は運動を広げることはできなかったけれども、長い間運動をしたことは特筆に価します。私もこの選挙のトラックが走っていたのを覚えておりますけれども、非常に人目につくトラックでありました。昔の映画の看板のような、候補者の半身を色鮮やかにかきまして、それをトラックに載せて走っておりました。この琉球国民党については、新沖縄文学の何号かで島袋邦先書いておられます。

復帰前後の独立論
 さて、復帰前後も自立論・独立論が噴出をいたします。もっとも有名で今日も読まれているのが比嘉幹郎先生の「沖縄自治州構想」です。まとまった形で議論しております。比嘉先生は琉球大学の政治学者で、後に県の副知事を務めます。
 2番目の久場政彦さんが「なぜ沖縄方式か」というのを書いておられます。久場政彦先生の論文の中で、他の論者も紹介されています。久場先生も、復帰前から積極的に発言され影響力を持った琉球大学の経済学者です。
 3番目に野口雄一郎さん、これは経済学者でしょうか、「復帰1年沖縄自治州のすすめ」というのを書いておりますけれども、これは制度論を書いていて、おもしろいです。国の出先機関の義務を自治州と市町村に委譲すること、二院制を取ること、財政権を強化すること、中央政府と自治州の間に連略委員会を置くこと、州代表を閣議にオブザーバー参加させること、自治州外交防衛委員会の設置などです。
 4番目に平恒次の、これは引用されることが少ないんてすけれども、「日本国改造試論」があります。これは新書になっております。私は持っていましたけれども、見えなくなってしまいまして、図書館にあるかもしれません。この本の特徴は、他の論者が日本との距離をいかにするかという自立論・独立論であるのに対して、平恒二先生は、日本国家そのものを相対化をしたいという感じがいたします。非常に構想が大きくて、独自の民族としての沖縄人が日本国家と対等に合併をして、連邦国家をつくるというのが平恒次さんの基本的な主張であるわけです。新琉球国、新アイヌモシリ、新朝鮮国、そのほか、日本残部からなる日本連邦というわけですけれども、日本を相手取って、沖縄が対等の合併による連邦的結合をするという構想、そういうふうはな発想したのは、平恒次先生だけだろうと思います。

復帰前後の運動
 次のところ、琉球議会、これは復帰尚早論を唱えたグループでありますけれども、あと、沖縄人の沖縄をつくる会、それから琉球独立党、この3つは保守側から出てきた議論です。復帰が迫ってくる中から既得の利益を失う人々、あるいは保守側の文化人たちが沖縄の自立を求めたのが、この沖縄人の沖縄をつくる会や琉球独立党でした。琉球独立党は参議院に候補まで立てます。発起人はそうそうたる人々です。当間重剛というのは元行政主席、山里永吉というのは、かなり視点のいい文化、歴史学者てありました。視点のいい論評をした人であります。文化財保護委員会の委員長などをしました。
 真栄田義見先生、これは元沖縄大学の学長された方ですね。崎間敏勝という方は、東京大学を出て、琉球政府の高官だったんでしょうか、この崎間敏勝さんを候補に立てまして、参議院選挙に臨みましたけれども、ほとんど泡沫候補の状態でした。71年の参議院選挙でこれは与野党がかっぷり4つに組んだ選挙でした。革新側は金城睦さんいいわゆる革新共闘の候補であります。保守側が稲嶺一郎さん。この両雄の間にはさまれて、ほとんど票を取ることはできませんでした。
 琉球独立党についての資料をアップしたホームページがありました。独立10訓、たとえば「道理の支配する社会と国家、琉球共和国を打ち立てよう」というよう独立10訓とか、琉球独立党綱領など見ることができます。
 2番目の沖縄青年同盟でありますけれども、71年11月、国会内で爆竹をならした闘争で知られております。威力業務妨害罪か何かに問われまして、裁判にかけられますけれども、このとき、方言で陳述をしまして、また話題になりました。基本的な主張は、我々日本民族ではない、沖縄人として存在しているということでありますが、沖縄民族かどうかということについては、あんまりはっきりした言い方はしておりません。政治文章が残っていて、これがたしか、風游のホームページに載っていたと思います。これを見ると、かなり過激でありまして、「沖縄人民の闘いは、日米帝国主義打倒への闘い」として、人民の武装しなければならないというふうな主張をしております。71年というのは、ラジカルな政治運動が行われた時期でありまして、そういう考え方の影響を強く受けたと思われます。

反復帰論
 最後に、反復帰論であります。このような周知のように、後沖縄タイムスの社長になりました新川明さんが中心的な論客でありました。反復帰論というと独立論とすぐみなされそうですけれども、反復帰論と、独立論というのは全く別物であるわけです。反復帰というのは何かと言いますと、「反復帰とは、すなわち反国家であり、反国民志向であり、非国民として自己を位置づけてやまないみずからの内に向けたマニュフェストである」と新川さんは言っております。彼は、領土が一つになるとか、制度が一つになるという、そういう意味の復帰に対して、反復帰を言っているわけではなくて、彼が反復帰と言っているのは、みずから進んで国家を求めようとする心の中の営為、これを復帰と言って、これに反対するのが反復帰だというわけです。復帰運動をする沖縄人の心の中、内発的な思想、なぜあなた方は国家を求めるのかと、それに対して異議申し立てとして反復帰と言っているわけです。復帰運動をする沖縄人の心の中、内発的な思想、なぜあなた方は国家を求めるのかと、それに対して異議申し立てとして反復帰と言っているわけです。
 彼の言葉を引用としますと、「反復帰とはすなわち個の位相で、国家への合一化をあくまで拒否し続ける精神志向と言いかえて差し支えないと」というのです。繰り返しになりますが、反復帰と復帰とは、復帰運動が言っている制度の問題ではないわけです。反復帰とは、国家を求める心を拒否する、そういう精神的な立場なんだと。彼はこう続けます。「さらに言葉をかえて言えば、反復帰、すなわち反国家であり、反国民志向である」と。新川が批判をしようとしたのは、おそらく国家という権威、あるいは国家という権力へすり寄ってしか生きられないと思っている、ウチナーンチュの主体性欠如の問題だったんでしょう。彼は多分、自立しようとする人間の誇りを反復帰というふうに主張したのだろうと思います。
 以上が、復帰前後の自立論であります。

復帰10年自立論
 復帰10年のころについて述べます。もう1時間近くになりましたので、少し速めたいと思います。
 まず、特別都道府県構想を宮本憲一先生が書いております。地方自治法を改正し、特別都道府県の第1号にする、特別都道府県というのは幾つもできると。その最初が沖縄だというわけです。このころは、一国多制度という言葉を使っている人は多分いないと思いますけれども、宮本憲一さんの考えは、まさにのその一国多制度のはしりであったのだろうと思います。沖縄を特別都道府県の第1号にして、その特別都道府県というのは、軍事・裁判・貨幣などの国の事務の一部を除く、全部の内政的国政事務とするというわけです。基本的には1990年代の地方分権推進委員会の考え方が、ここでもう既にあらわれているということです。
 2番目が自治労の、「沖縄の自治に関する一つの視点」と、これは仲吉構想と通称されるもので、先ほども述べました仲吉良新という自治労の委員長の名前がついた構想であります。沖縄は特別県とする、その特別県の意味は、市町村連合だというわけです。今の県ではなくて、市町村連合と言いますから、一部事務組合のようなものを想定すればいいのかと思いますけれども、この特別県には県議会と、県参事会、要するに二院制でありありますが、県参事会というのは、市町村長と市町村議員で構成されるというふうな構想であります。

琉球共和社会憲法、琉球共和国憲法
 3番目が琉球共和社会憲法、4番目が琉球共和国憲法であります。3番目と4番目、いずれも起草者の名前は公表されないで、新沖縄文学に掲載されました。3番目と4番目、どこが違うのか。3番目は「共和社会憲法」であります。4番目は「共和国憲法」であるわけですね。この琉球共和国社会憲法というのは、これはもう夢の世界を書いています。「国家も法律も司法機関も納税義務も私的商行為もない」、個人的に買ったり売ったりすることもない、そういう社会の憲法なんだというのが、この琉球共和社会憲法であります。
 琉球共和国憲法のほうは、困民主義の基本とするとし、その困民主義とは何かということについては、説明で、「人民の参加と自主管理によって無政の郷」、コミューンであります、政府のない地域、困民を樹立しようという歴史哲学を基礎とするというわけです。3も4も知的な遊戯という感があります。

玉野井自治憲章
 5番目に、沖縄自治憲章です。玉野井芳郎という大教授が沖縄におられました。この人が自治体憲法をつくろうと主張しました。それが形をとったのが、この自治憲章であります。「地方の時代とは諸自治体がそれぞれ本格的な憲法、憲章または条例を制定する時代である」と玉野井先生は述べます。そして、住民がみずからそういう憲章をつくるというのは、よきしきたりを打ち立てることであると。そんなふうに玉野井先生は「世界」という雑誌で論文を書いておられます。
 沖縄自治憲章は、そういうものとしては日本では多分2番目でしょう。1973年に川崎市で学者等がつくったのが最初で、玉野井自治憲章というのは、日本で2つ目の自治基本条例案だとうと思います。
 この自治憲章は大変強い特徴を持っております。それは何か言いますと、シマ、共同体の意味のシマですね。Islandのシマではありません。シマすなわち地域共同体を基礎とするとか、総合扶助と共同性とか、自然の共有という、そういう沖縄らしい視点を明確に打ち出した憲章であります。玉野井先生の思想をもろに表現しております。
 もう一つの特徴は、最高規範、審査委員会、抵抗権の規定があって、これが非常に強く表現されておりまして、前にも後にもこれほど明確にこういう規定を置いたものはないだろうと思います。抵抗権の規定は、川崎市の憲章にもありましたけれども、玉野井自治憲章は、それをまた強めた形で、丁寧な形で表現しております。こういう最高規範、審査委員会、抵抗権の規定があったから、自治憲章は独立論と見られた節があります。今回読み直してみたら、そういうふうに読めないこともないなという印象を持ちました。
 さて、これが復帰10年目ごろでありますけれども、復帰10年たって大和世に、日本の社会になった、日本になった沖縄で、改めて自治の見直しが行われたというのが、これらの幾つかの構想ということになります。

1995年前後
 1995年前後、独立論が噴出したというのは、皆さんまだこれは記憶に新しいと思います。沖縄自立を求める市民フォーラムとか、沖縄の独立の可能性を目指す激論会が、95年から97年ごろに行われました。自治労の「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」がでました。沖縄権庁でも1国2制度が真剣に議論されました。国際都市形成構想がそうです。この当時の県庁の考え方は、形をかえて実ったのか、全然実らなかったのか、そのへんの評価は議論したいところです。

今日の状況
 さて、最後になります。今日、21世紀初頭に沖縄の自立論はどのように議論されているか。
 1番目に沖縄自治研修会、本研究会ですけれども、本研究会は、自治基本条例の制定を目標しましたが、その基本条例は連邦制まで構想するというのが、今の段階です。県レベルの基本条例を創ろうとしていますが、1つは地方自治法の範囲、1つは憲法の範囲、1つは憲法を越えている、そういう3つ案をつくってみようということになっております。3つ目の案というのは、これは連邦制まで構想するようです。場合によっては、共和社会憲法まで構想するかもしれません。
 2番目が、21世紀同人会であります。21世紀同人会というのは、95年の激論会をやった人々が21世紀同人会をつくりまして、「ウルマネシア」という雑誌を刊行しております。私は最近の号は1冊しか持っておりませんが、バックナンバーの目次を見ましたら、島袋純さんが何回かお書きになっているようですね。ウルマネシアは、「私たちは、琉球孤の自治、自立、独立を求め続けた運動の成長を継承する」としています。ウルマネシア発刊宣言は、こう述べています。「さらば、戦争と暴力と環境破壊と帝国主義、植民地主義、男権中心主義の20世紀よ。この百年余で、私たちの住む琉球孤は琉球王国という国家を滅ばされ、植民化され、戦争と軍地基地の島に変えられてしまった。しかし、この百年余はまた私たち琉球孤住民が帝国主義と植民主義に対してくり返し返し、粘り強く抵抗し、変命し、創造していく運動を展開してきた歳月でもあった。私たちは、琉球孤住民の解放と自治・自立・独立を求めて闘い、志半ばで倒れていった多くの祖先、先輩方の苦闘を忘れることはできない。私たちは、琉球孤の自治・自立・独立を求め続けた運動の成果を継承し、ここに新しい思想同人誌『うるまネシア』を創刊する」、これが思想運動しての自立・独立を求める人々の雑誌であります。
 3番目が自治労の特別自治制でありますけれども、自治労は自治体労働者の集まりだけに、節目節目で沖縄の自治制度を考えようといたします。果敢に案も提示いたします。特別自治制をもう一度考えてみるプロジェクトチームを立ち上げたいと今いっています。今それをする理由というのは、沖縄は地理的優位性があるけれども、現在の行政制度の枠組みでは、それは不利な条件に転嫁されてしまうというわけです。辺境になってしまうと危惧するわけです。道州制になると、経済単位として州がつくられていくけれども、九州州も、それから関東州も、沖縄は結びつきが薄い。1国2制度が必要だとし、今これを考えないといけないと、そういう運動をもう1回取り組みたいというのが、4番目の自治労の特別自治制です。

民族自決を求める住民運動・先住民族の会
 4番目が、沖縄の民族自決を求める住民運動と、これは始まったばかりであります。この運動の考え方は、基本的に沖縄は独自の民族である、しかし、同化されてしまって、その結果、自己矛盾が生じていると。例えば、西銘知事(今の稲嶺知事の前が大田知事その前の知事です)。西銘知事が「沖縄の心とは何か」と聞かれて、「ヤマトゥンチュになろうとしてなりきれない心」というふうに返事をしたというのは有名でありますけれども、この矛盾をウチナーンチュはどう解決しようとするのかと、問いかけるわけであります。そして、我々の内なる同化思想を克服、乗り越えなければ、沖縄の幸せというのはないんだと。それをしなければ、今の道州制の嵐の中で、第3の、あるいは第4のかもしれません、琉球処分が行われるだろうと。沖縄が将来にこういう社会を求めるという構想力を示さない限り、道州制は第3の琉球処分になってしまう。復帰の過ちを繰り返すなというわけです。
 5番目が琉球孤の先住民族の会であります。この会の規約を見ると、こう書いてあります。「国際連合憲章と世界人権宣言の精神にしたがい、先住民族である琉球・沖縄民族の自己決定権を中心とする権利回復を目指して活動することを主要な目的とする」と。会員資格としては1879年、琉球処分以前に琉球に住んでいた人々の子孫が会員資格であること。この琉球孤の先住民族の会は、毎年熱心に国連の会議に参加をしております。先住民族部会を中心にしまして、そのほか、NGOが参加できる会には積極的に参加をしまして、きょうも何か集会を那覇でしているようですね。
 先住民族と聞くと、最初は何か非常に変な感じがするわけですね。先住も、後住も、もともと沖縄にはウチナーンチュが住んでいたじゃないかと。何で先住民族なんだと思ってしまいますけれども、これはこういうことだそうです。上村英明さんという恵泉女学園大学の教授が、この先住民族の会の理論的な支え役でありますけれども、この上村英明さんの本「先住民族の近代史」は、こう説明しています。
 「先住民族は近代国家の成立によって生じる。近代国家が国民形成の名目のもとで、野蛮未開とみなした民族の土地を一方的にうばってこれを併合し、その民族の存在や文化を受け入れることなく、さまざまな形の同化主義を手段としてその集団を植民地支配した結果生じた人々が、先住民族と呼ばれうる民族的集団である」。先に住んだか、後に住んだかの話では全くないわけです。住民族というのは何かというと、近代国家が成立するときに、多数派によって同化を強いられた人々のことが先住民族だと言うわけです。そう言われてみると、沖縄が先住民族というのもうなずけないことではないということになります。
 上村さんは、こう言います。「国家という政治機構によって分割された地球上の社会の多くは、教育を通してその社会の中で多数を占める民族が形成したナショナリズムに日常生活のすみずみまで染め上げられている」というわけです。沖縄が、ナショナリズムに日常生活のすみずみまで染め上げられたかどうかは、議論が必要だと思いますけれども、少なくとも多数派の文化に少数派の文化が相当に染め上げられているというのは間違いないだろうと思います。

道州制の足音
 以上が現在の状況、自立・独立を考える沖縄の社会状況でありますけれども、冒頭でどの地域でも自立や独立を考えるけれども、沖縄は最も自立論の盛んなところだというのは、この現在の状況を見てもうなずけるだろうと思います。
 さて、分権の流れの中で、市町村合併の次が道州制だというのが自治の状況です。その迫り来る道州制の足音に、沖縄の将来を考えようという動きが出ているということです。自治労にしろ、沖縄の民族自決を求める住民運動にしろ、あるいは沖縄自治研究会もそうかもしれません。経済界にも道州制の研究を始めたいという意見があると聞いております。レジュメの「終わり」の部分は省きます。
 最後にまとめますと、以上、見たように、沖縄の自立論・独立論というのは、百家争鳴で、同じ言葉で違うことを語っていたり、あるいは違う同じ言葉で同じことを語っていたり、同床異夢という感じはいたします。しかし、どちらにしろ、地域を、地域と国家の関係を考えているということは間違いないのです。
 以上で、ちょうど1時間、こんなに長いこと話すつもりはありませんでしたけれども、これで報告を終えます。

レジュメ・沖縄自立構想の系譜(沖縄自治研究会・仲地報告・04.4.10)

1) 背景にあるもの
 「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」(自治労)の前文が一つの典型で次のような諸要素が述べられる。@地理 A王国の存在 B悲惨な地上戦 C米軍占領 D復帰思想と現実の落差。 玉野井の自治憲章は、@BCDと非暴力の伝統をあげる。
 そのさらに奥深いところで「民族意識」がある。

 『沖縄自立への挑戦』(社会思想社1982年)の所載の諸論考 @中村丈夫(長野大学教授)「事実を思想的・政治的に直視すれば、それは単に社会的マイノリ主張ではなく、沖縄民族の形成過程」A中野好夫 (評論家英文学者)「是非皆様に植民地隷属の状態から長い民族独立運動の結果、ついに独立を達成した諸国家の歴史を勉強していただきたい」 B仲吉良新(自治労副委員長)「(特別県制案の基本的ねらい)かつて琉球王国でありまして天皇がいたわけでもない…われわれの心の中にも沖縄人という誇りがあります」 C比嘉良彦(政治アナリスト)「日本国家は、沖縄をつねに従属的地域社会として扱ってきた。その原因は、沖縄がマイノリティ(少数民族)として民族的疎外の状態に置かれてきたからだと言わざるを得ない。沖縄の自立とは…沖縄が民族的疎外から脱却することとして把握するべきであろう」 D矢下徳治「(特別県制は)沖縄人民の自決権の主張が異質の法論理たる地方自治権の拡大という経路を経由して語られている」

 比屋根照夫「混成的国家への道」(『日本はどこへ行くのか』(日本の歴史第25巻、講談社1999)。伊波月城(世界主義、国際連合主義)、比嘉静観(世界同胞主義)、伊波ふゆうの混成的国家 「これらのコスモポリタニズム、世界主義に共通するものは、伊波の個性論に基礎をおく「琉球民族意識」の発露であり、大和民族と異なった「異民族」としての歴史経験に裏打ちされた沖縄主体の自己認識の発言であった。このような自己認識が弱者や弱小民族、マイノリティへの共感、連帯へとつらなっていったことは、最早疑うことのできない厳然たる事実である。そして、これこそが近代日本の周縁の地から発せられた良質なコスモポリタニズムの発現であったと言えるのであり、未曾有の沖縄戦をへて、さらに過酷なアメリカ統治を通じて、今日沖縄に受け継がれている思想的伝統にほかならない」。

2) 明治期の思想・運動
@「近時評論」の自治構想 <現在わが国が欧米の圧制に苦しみ国民はいかにもして独立の国権を回復せんとしているが、そのためには、わが国自身が隣国外交において條理にそむき小弱を軽悔するが如きことあるべからず、琉球問題でも、日本がしいてそれを併合せんとするのに反対し、もし琉球の「衆心ノ向フ所独立自治ヲ欲スルノ兆アラバ、我レ務メテ其ノ萌芽ヲ育成シ、天下ニ先立チテ其ノ独立ヲ承認シ、以テ強ノ弱ヲ凌グベカラズ、大ノ小ヲ併スベカラザルノ大義ヲ天下ニ証明」せよ、それこそわが国の名誉をあげ独立の基礎を固くする道である。
A明治政府の分島案(途中案に沖縄島の独立案があった)
B植木枝盛「琉球の独立せしむ可きを論ず」(『愛国新誌』)「琉球もかつて一個の独立をなし琉球といえる一個の団結をなしたるものなれば之を両断することはなお一身を両断しこれを殺すに同じく人の一家を両分してその愛を割かしむるに異なることなければなり」
C琉球王国独立運動 巴旗の党−清国の援助で琉球王国の復興運動
 公同会−尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度の実施を政府に要求 「独立論とはよく似ていても内容はまったく別」(比嘉春潮)

3)戦後の独立論
@沖縄人連盟−初期は日本復帰に批判的で、共産党の「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」は連盟宛に出されたもの。東京沖縄県人会・沖縄文化協会の前身。
「数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以降は、日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた沖縄人諸君が、今回民主主義の世界的発展の中に、ついに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれたことは諸君にとっては大きい喜びを感じておられることでせう。…たとひ古代において沖縄人が日本人と同一祖先からわかれたとしても、近世以降の歴史において日本はあきらかに沖縄を支配してきたのであります。すなわち沖縄人は少数民族として抑圧されてきた民族であります。」
A沖縄民主同盟−琉球独立・琉球共和国。後に共和党−琉球独立を主張
B初期の沖縄人民党−「全沖縄民族の解放」「琉球民族の基本法たる憲法の制定」のスローガン。51年ごろまで続く。
 初期独立論の意義と限界−政党が世論を代表するものであれば、初期独立論は、沖縄の素朴なそして深く潜在する意識の表明であった。素朴というゆえんは、ほとんどスローガンの域をでなかったことであり、サイダーのふたをはずしたように、日本帝国のくびきから解放されて噴出した沖縄人意識であったといえよう。初期独立論が急速に衰退するのは、いろいろ考えられる。@大正昭和前期の沖縄の知的リーダーの支配的思想であり、A日本人教育しか知らない教師、B大衆の民族意識、Cよらば大樹の陰。(琉球国民党1958年結成−独立論)

4)復帰前後の自立論・独立論
@比嘉幹郎「沖縄自治州構想」中央公論71年12月
 沖縄州の設置、「軍事外交を除くすべての権限をもつ沖縄州」 行政主席は、中央政府の指揮監督は受けない。
A久場政彦「なぜ沖縄方式か」中央公論71年9月号
B野口雄一郎「復帰1年沖縄自治州のすすめ」中央公論73年6月号
 自治州−憲法の枠内。州知事のもとに州政府を置き中央政府の行政事務の委譲をうける。国の出先機関の業務もすべて州と市町村にゆだねる。二院制。財政権の強化。中央政府と自治州の間に連絡委員会の設置。州代表の閣議へのオブザーバーの参加、自治州外交防衛委員会の設置。
C平恒次『日本国改造試論』講談社1974年
 独自の民族としての沖縄人の日本国家との対等合併による連邦的結合。新琉球国、新アイヌモシリ、新朝鮮国、日本残部からなる日本連邦。単一民族国家の擬制を解体するもの。 
D琉球議会−復帰は時期尚早 
E沖縄人の沖縄をつくる会−復帰時期尚早、後琉球独立党へ吸収される。
F琉球独立党−琉球の自主独立を唱え71年の参議院選に挑戦 当間重剛、山里永吉、真栄田義見、崎間敏勝 独立10訓「道理の支配する社会と国家、琉球共和国を打ち立てよう」
G沖縄青年同盟−71年11月国会内で爆竹をならした闘争で知られる。我々は日本民族ではない。沖縄人として存在している。「沖縄人民の闘いは、日米帝国主義打倒への闘いとして、ハッキリ表出してきている。」「支配階級と人民の闘いの最終的な決着がつくのは人民の武装が支配者を打ち倒すときである。」
H反復帰論−反国家、反国民、反権力、反帝国主義
「反復帰とは、すなわち反国家であり、反国民志向であり非国民として自己を位置づけてやまないみずからの内に向けたマニュフェストである」。


5)復帰10年目ごろ
@特別都道府県構想(宮本憲一)・地方自治法を改正し、特別都道府県の第1号とする。特別都道府県は、軍事・裁判・貨幣などの国の事務の一部を除く全部の内政的国政事務と現行都道府県の事務を行う。(『開発と自治の展望・沖縄』1979年)
A自治労「沖縄の自治に関する一つの視点」−沖縄は特別県とし、市町村連合とする。県議会と県参事会(市町村長と市町村議員)
B琉球共和社会憲法−国家も法律も司法機関も納税義務も私的商行為もない社会の憲法。
自治体と州奄美州、沖縄州、八重山州、宮古州がある。琉球共和社会と州には専門委員会と執行部が置かれる。参考になる点としては、公職の交代制がある。
C琉球共和国憲法−困民主義(人民の参加と自主管理によって無政の郷を樹立しようという歴史哲学) 琉球共和国は、奄美州、沖縄州、宮古州、八重山州およびその余の周辺離島からなる。分権主義を基礎とする連合国家である。
D沖縄自治憲章−玉野井芳郎「地方の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な憲法、憲章または条例を制定する時代である」自治憲章の特徴は、シマ、総合扶助と共同性、自然の共有等の際立った特色がある。最高規範、審査委員会、抵抗権の規定があり、独立論と見られた節がある。

6)1995年前後
@独立論の噴出
 『沖縄自立』を求める市民フォーラム
 沖縄独立の可能性をめざす激論会
A自治労「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」
B県庁の1国2制度、

7)21世紀初頭の状況
@沖縄自治研究会−連邦まで構想
A21世紀同人会(「ウルマネシア」の刊行)私たちは、琉球弧の自治、自立、独立を求め続けた運動の成果を継承(する)
B沖縄の民族自決を求める住民運動
 沖縄は独自の民族である。内なる同化思想を超克しない限り、ウチナーンチュの自立はない。同時に多民族社会日本をつくる運動。沖縄が構想力を示さないと第3の琉球処分になる。
C自治労特別自治制 −地理的優位があるが現在の行政制度の枠組みでは不利な条件になる。1国2制度が必要である。道州制になれば沖縄は九州か。特別法を制定する運動を。
D琉球弧の先住民族の会
 国際連合憲章と世界人権宣言の精神にしたがい、先住民族である琉球・沖縄民族の自己決定権(自決権)を中心とする権利回復を目指して活動することを主要な目的とする。1879年以前に琉球に住んでいた人々の子孫が会員資格。
 上村英明「先住民族は近代国家の成立によって生じる。近代国家が国民形成の名目のもとで野蛮未開とみなした民族の土地を一方的にうばってこれを併合し、その民族の存在や文化を受け入れることなく、さまざまな形の同化主義を手段としてその集団を植民地支配した結果生じた人々が先住民族と呼ばれうる民族的集団である」「国家という政治機構によって分割された地球上の社会の多くは、教育を通してその社会の中で多数を占める民族が形成したナショナリズムに日常生活のすみずみまで染め上げられている」(先住民族の近代史)

8)おわりに
 1997年に国会で行われた二つの議論を紹介する。
 衆議院で上原康助議員は、「もし沖縄が独立をするという場合、どういう法的措置が必要か」と質問した(予算委員会2月13日)。もう一つは、参議院で照屋寛徳議員が、「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったか」と質問している(安保特別委員会4月14日)。この質疑が個別沖縄を越えて、国と自治体の関係、日本国・日本人・日本国籍の関係という本質的な問題を含んでいるのは、明らかである。

基本的文献
 新沖縄文学48号特集琉球共和国へのかけ橋(81年)(自立論にかかる文献紹介がある)
 新沖縄文学86号特集玉野井芳郎と沖縄(86年)
 新沖縄文献53号特集・独立論の系譜
 新崎盛暉・他編『沖縄自立への挑戦』(社会思想社)(82年)
 新川明『反国家の兇区』
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/index.htm#toshoshitsu「風游」(充実しています)。
 http://www.geocities.jp/HeartLand-Kaede/ 4722/index,html琉球独立党の綱領等が掲載


屋嘉比収『琉球救国運動と公同会事件にふれて』(第5回定例研究会04.8.7)

 今日、私に与えられた報告の課題は、「明治沖縄の自律構想と運動」というテーマです。僕自身が、これまでの沖縄自治研究会の経緯や中身と、今日与えられたテーマとどういうつながりがあるのか、まだ明確に把握しているとはいえませんが、与えられた責務を果したいと思います。さて、時間が限られていますので、さっそくですが本題に入りたいと思います。レジュメ二枚と資料三枚を、お手元にお配りしています。それに沿いながら、この「明治沖縄の自律構想と運動」というテーマについて、現在の沖縄近現代史の研究状況、主として西里喜行氏と森宜雄氏の研究成果に大きく依拠して話を進めることになると思います。おそらく、基本的な内容について話すことになると思いますがどうぞ宜しく御願いいたします。
 ご承知のように、沖縄は近代以前には、日本とは独自の琉球王国を形成していました。その琉球王国は、19世紀後半に近世日本が黒船来航に象徴されるウェスタン・インパクトを受けて近代日本が国民国家を形成していく過程において、明治国家に併合され沖縄県が設置されます。その近代日本の国民国家の形成過程で琉球王国が併合され、沖縄県が設置されることに反対するいくつかの動きがありますが、その動きを「明治沖縄の自律構想と運動」としてとらえて、その代表的な二つの動きについて話をしようと思います。

 近世の琉球王国というのは、これまで一般には「幕藩体制の中の異国」として認識されています。それは、琉球が、近世期日本の体制である江戸幕府の幕藩体制の中で異国として位置づけられていることを表しています。つまり、日本の枠内という視点からとらえると琉球(沖縄)は異国であるという認識です。それに対して、最近、近世流球が幕藩体制の異国という事を認めつつも、琉球が薩摩の支配下にありながら中国と進貢交易を続けていることを強調して、幕藩体制下で中国との対外関係を重視する意味から、「従属的二重朝貢国家」(豊見山和行)という指摘もなされています。それは、先ほどの幕藩体制の中の異国という指摘。日本という枠組みからの視点であるのに対して、琉球と中国との対外関係を重視して強調する視点から近世琉球を従属的な二重朝貢国家としてとらえる指摘だと言えるように思います。そして、その近世琉球が近代になってどのように転換していったのか。その転換が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものです。

 琉球処分は、一般的に琉球王国が解体されて近代日本国家に併合される一連の過程をさして言われますが、狭義には廃藩置県によって琉球藩から沖縄県が設置された1879年をさす場合が多いといえます。それに対して最近、「琉球処分」の過程そのものを二つに区分けすべきではないかという森宜雄氏の指摘が出ております。一つは、廃琉置県という過程。これはすでに西里喜行氏も指摘されていることですが、その琉球処分の過程を、1872(明治5)年の琉球藩の設置から1879(明治12)年の沖縄県の設置までを、廃藩置県という行政過程における処分の過程としてとらえ、それを廃琉置県過程として認識すべきだとという指摘です。もう一つは、79年の廃藩置県で行政的な処分はなされたといっても、実質的な明治国家への琉球の併合過程はその後も続いており、その79年以前、以後と別けて琉球併合過程ととらえる指摘です。この併合過程において、旧琉球王国の士族層が日本国家の中に参入していく。つまり、近代日本の明治国家が琉球を上から統合しただけでなく、沖縄側の旧琉球王国の士族層が下から日本国家の中へ参入することによって琉球の併合が完成するという認識です。その過程を、前述の行政過程としての琉球処分とは別に琉球併合過程としてとらえて、琉球処分の過程を二つの過程に区分して認識すべきだとする指摘です。この検証については細かな議論になるので、ここではこれ以上ふれませんが、琉球処分期の考察において、そのような認識が最近出ているということを述べておきます。
 これは無論、琉球王国から琉球藩、そして沖縄県という琉球処分の過程というのは日本と琉球との関係だけではなく、近世期における中国を頂点とする東アジアの伝統的な宗属関係が西欧列強による東アジア進攻によって崩壊していく歴史が大きく影響しています。この時期はちょうど、ウェスタン・インパクトと称される欧米の列強が東アジアへ商品販路のための市場拡大を求めて進攻してくる時期に重なっています。……近世期の琉球王国の時代は、中国を宗主国として東アジア地域の諸国との間で行われた冊封・朝貢体制だった。冊封・朝貢体制は宗主国である中国に琉球を始めとする周辺の小国、東の朝鮮、南のベトナム、ビルマなどが朝貢し、中国から冊封を受ける伝統的な宗属関係に基づいている。その近世期の東アジアの伝統的な宗属関係に基づいた冊封・朝貢体制が、欧米列強の進攻によって大きく崩壊していく過程が近世から近代へ転換の時期にあたるわけです。この時期から東アジアに、国民国家体制が形成されていくわけですが、その論拠になっていたのが万国公法という概念です。
 これも皆さんがご承知の通り、欧米で形成された国家間の法システムで今で言う国際法の体系ですが、国家を文明国と半文明国、そして未開という三つに区分けして分類しています。この万国公法は文明国同士、特にキリスト教国家である欧米の国々が対等に結んだ条約を意味しています。しかし世界には、半未開あるいは未開の国々がある。例えば、東アジアの国々は半未開国であり、アフリカの地域は未開の国である。当時の日本は、欧米からすると半未開の国と見られていた。万国公法の体制は、キリスト教徒たる文明人である欧米人によって統治された国家間で対等に結ばれた条約であり、統治能力に疑問符が付された他の半未開あるいは未開の国々との間では不平等な条約が結ばれていました。統治能力のない半未開や未開の国々、とくに未開の地域を無主の地を植民地化してとらえ、文明国で統治能力のある欧米の国が未開の統治能力のない無主の地を植民地化してもよいということになるわけです。その中で、近世期の中国を宗主国とする東アジアの冊封・朝貢体制自体が、西欧列強の進攻によって崩壊し、中国へ朝貢していた国々も西欧の植民地になって喪失していきます。朝鮮には、1882年の壬午事変、84年の甲申事変において中国が武力介入します。これはかつて宗主国であった中国と親交を続けていた朝鮮との伝統的な宗属関係に基づいた関係が、欧米列強が東アジアに進攻したことにより、無論日本との関係もありますが、その宗属関係が崩れてことを示しています。また、東南アジアでは、フランスがベトナムに進攻して問題が起こって、中国の武力介入により清(中国)とフランスの間で戦争が起こります。しかしフランスが勝利して、ベトナムはその後フランスの保護権の下に入ることになり、中国はかつてのベトナムへの宗主権を放棄することになりました。さらにビルマも同時期にイギリスの植民地となり、中国へ朝貢していた東アジアの国々が欧米列強の植民地となっていきます。そのような欧米列強の東アジア進攻によって近世期の中国を中心とする冊封・朝貢体制が崩れていく時代背景が、琉球処分の過程と重なっているわけです。その琉球処分の過程において琉球王国の旧士族層がどのような言論活動や行動を行ったのかが、今日の報告のテーマになります。その中心に位置しているのが、琉球救国運動と公同会事件という二つの問題群です。

 その東アジアの転換期における近代日本の国民国家形成の過程の中で、琉球処分をどうとらえるのか。それについては、西里喜行氏が琉球処分のプロセスについて最も詳細に分析しています。(「琉球処分と樺太・千島交換条約」)。
 この論文の中で、西里氏は琉球処分の過程を5つに時期区分しています。第一期は、1872年琉球建藩前後から1875年の前後まで。その時期には明治政府の中で琉球に対して2つの議論があった。一つは井上大蔵大輔が建議した琉球の版籍奉還、つまり琉球は日本に属する地域だから琉球の奉還して貰うという考え方。もう一つは、当時の法的機関である左院の見解ですが、琉球は異族で日清に両属しているという捉え方です。後に明治政府の主流になるのは、前者の「琉球属邦論」と呼ばれる井上建議です。つまり琉球は日本国家の一部であって、琉球藩を設置して最後の琉球王である尚泰を日本天皇に冊封させ、藩の王として後に華族として処遇するという考え方です。しかし、そのような明治政府の琉球属邦論は、琉球王権が、琉球と清との冊封朝貢関係が維持されている点からすると、矛盾をきたすことになり、そのため明治政府は琉球と清の冊封朝貢関係を廃棄するように求めることになります。
 その時に大きな転機になったのが、1871年の台湾事件です。ご承知のように、台湾事件は宮古島の貢納船が嵐により台湾に漂流して、そこで台湾原住民によって54人の宮古島民が殺害され、12人が救済された事件です。それに対して、琉球の帰属問題として当時日本と清との間で争われていたですが、明治政府は、当初、日清提携という政府の方針があったにもかかわらず、台湾出兵を一つの契機として明治国家の方針を脱亜入欧の方向に大きく舵を転換するきっかけとなります。そして、琉球をめぐる中国との関係においても、台湾事件は大きな転機になりました。明治政府は、台湾出兵の論拠として次のような点を挙げています。……清国にとって台湾は化外の土地であり、清国に統治されていない無主の土地にすぎない。明治政府は、先に述べた欧米の万国公法の文脈を踏まえ、その論点を一つにしたのである。そして同時に、琉球というのは我が藩に属しているんだという論点です。それ故に「討藩ノ公理」として出兵ができるんだという論理構成を行っています。

 第二期は、1875年7月の進貢冊封停止命令から79年3月の琉球問題が外交課題になるまでです。……清は、琉球問題を対日外交の基調である日清提携によって処理しようとしますが、その時期から琉球問題が外交問題として浮上して来ます。先の台湾出兵の講和条約の中で、琉球人の帰属について「日本国属民」という語句が清と日本の間で結ばれた協定の中に初めて文言として挿入されますが、その後も琉球の帰属問題は清と日本政府の間で外交問題としてくすぶります。しかしそれが、行政処分としての琉球処分によって大きく転換することになります。

 第三期目は、1879年4月の廃琉置県から1880年3月まで。この時期には行政処分として沖縄県となったわけですが、しかし日清の間では外交問題化してくる。その過程で大きな問題として浮上してきたのが、琉球列島の分割の問題です。琉球分割構想の胚胎がこの時期あたりから出てきます。一般的に言うと、法制度的に日本国沖縄県になっているわけですから、琉球の帰属が明確になったと考えられますが、琉球の帰属問題は外交問題としてなお日清両国の間で争われることになります。……清は、先に述べたように対日外交の基調は日清の提携路線を優先することでしたが、琉球処分の前から琉球旧士族が中国に亡命して、日本の処分に救済を求めるようになります。……清政府の中で、対日外交問題としてなお日清両国の間で争われることになります。……清は、先に述べたように対日外交の基調は日清の提携路線を優先することでしたが、琉球処分の前から琉球旧士族が中国に亡命して、日本の処分に対して中国に対して中国に救済を求めるようになります。……清政府の中で、対日外交の基調である日清提携と、かつての進貢国の琉球から亡命してきた琉球人の請願運動を重視する論者の間で、大々的な議論が行われます。

 第四期目は、1880年3月から1881年3月までの琉球分割交渉の時期です。この時期には明治政府と清政府との間で、琉球分割構想を前提とした八回の政府間の交渉が行われます。ご承知のように、明治政府が分島(先島割譲)改約(清国内地通商権獲得)案を提起するわけですが、分島というのは先島を中国に割譲し、沖縄本島以北を日本に帰属させる案です。その代わり、改約として清国の中で日本が通商権を獲得するという取引の案を出します。これに対して中国政府も日本に対していろいろ議論があるわけですが最終的に、日清提携という対日外交の基調もあって、多少中国側と日本側で違いはありますが、交渉は分島改約案として妥結することになります。交渉が妥結して調印待ちになるのですが、清国政府内部から反発が起こってきます。次第にこの交渉調印に対して可否論が出てきて、事実上、その調印そのものができなくなって廃案になります。その際、当時の中国の外交を指揮していた李鴻章に亡命琉球人の請願運動が大きな影響を与えたと指摘されています。
 先に述べたように、琉球列島の分島改約案というのは調印されずに廃案になるわけですが、廃案になった1年後の85年3月にも再び日清両政府の間で分島改約案の締結の可能性が模索されることになります。しかしそれも結果的には不成功になって、琉球列島の分割は行なわれず、今日に至るというになります。先ほども言いましたが、分割対象になった琉球の民族的抵抗、亡命琉球人の琉球復旧運動というのが、日清両政府の交渉の中で、とりわけ清の対日強硬論の論者に大きな影響を与えたというのが西里氏の強調している点です。
 従って、日清の外交上の問題に琉球から亡命した脱清人の人たちが、様々な救国運動によって大きな影響を与えた点が指摘されています。……これまで脱清人に対しては、1970年前後まで、かつての琉球王国の旧支配階級士族が自己の特権的地位の確保のために動いた運動として、ほとんど否定的に捉えられていました。つまり、旧支配階級士族の自らの特権的な地位を守る自己保身のための運動にしか過ぎないと否定的に解釈されていたのです。73年に比屋根照夫氏が那覇市史の中で脱清人に対する論考を書いていますが、そのころは沖縄の近代史研究においてマルクス主義史観が大きな影響力を持っていた時期であり、例えば脱清派に関する県史の叙述と、那覇市史の叙述との間では解釈において若干の違いが見られます。比屋根氏は、脱清人を、近代期から近代の国民国家の形成過程において、国民国家に翻弄されたマイノリティーとしてとらえ、少数民族の問題や、琉球の独自の国家意識に基づいた運動として改めて問い直すべきだといち早く指摘しています。これは、今日での脱清人や亡命琉球人の琉球復興運動研究において基本的な認識になっていると言えるように思います。

 例えば、近代では西里氏も、脱清人たちの琉球復旧運動というのは、琉球の自立的な自己回復の要求だったと記しています。それは、独自の国家意識に基づいた救国運動だったとも指摘しています。これは近世期における伝統的な宗属関係を背景にした認識だといえますが、独自の国家意識に基づいた救国運動だったと解釈されています。例えば脱清派は、琉球処分に反対し琉球王国の維持存続を掲げて清国に脱出し、琉球救援を清国政府に誓願した琉球藩民だとらえられている。さらに、西里氏は、そのような琉球士族の運動主体の実像に着目すると、「脱清人」より「亡命琉球人」の「琉球救国運動」として捉え返すべきだと主張しています。例えば、脱清人というのは明治政府の資料に出てくる言葉であり、当時の新聞にも脱清人という言葉がよく使われています。だが、脱清人という言葉自体が非常に曖昧といいましょうか、清から脱するとの意味にもとれますが、琉球から清に脱したとの意味でもとれ、新聞ではほとんど後者の意味で使用されています。明治中期にそのような意味で使われており、1970年代初期においても同様な意味で脱清人という語句が使われました。西里氏は、そのような意味を帯びた脱清人の語句を改めて再検討し、脱清人という言葉は非常に形式的であり、運動主体としての琉球士族の実像に着目すると、やはり「脱清」ではなく「琉球救国運動」だと強調しています。旧琉球士族の自律的な自己回復の要求運動であるとか、あるいは独自の国家意識に基づいた救国運動だということを強調する意味からすると「脱清」よりはやはり「琉球救国運動」だというのが、西里氏の指摘です。
 その救国運動は、清に亡命した琉球人士族だけでなく、日清両政府や東京の外国の領事館や公使に対して琉球が一方的に処分されている状況に救済を訴える請願書を出した琉球人士族たちも同様です。西里氏によると、現在確認できるところ、47通の請願書があり、その内訳は明治政府へ16通、清国政府へ30通、オランダ公使に一通が確認されています。また、それらの亡命琉球人による琉球復旧運動は、1879年の廃藩置県の以前と以後に大別されますが、西里氏は琉球処分のプロセスや日清両政府を中心とした政府間の交渉過程を踏まえた上で、亡命琉球人たちの行動を次の四期に分けて分析しています。

 第一期、これは79年の行政処分、琉球処分以前から脱清人あるいは亡命琉球人達がいろいろと活動している。その時にもやはり、近世期の琉球王国という独自の国家意識や琉球と清との間に冊封・進貢関係があった歴史的経緯にもとづいて彼らは考えているわけですね。琉球はかつて日清両属に歴史に基づいており、その琉球を救国するために日本とは違う社稷(しゃしょく)の保持の目的を追求することが言われています。しかし、それに対して明治政府は、琉球はあくまでも日本の属邦で日本国の一部であり、日本に専属すべきだと処分を断行しました。その処分される以前において、琉球士族たちが明治政府に対していろんな請願を行ったのがその背景になっています。
 第二期は、改めて琉球処分が現実に政治日程として出てくる時期にあたり、琉球人士族たちが在京のアメリカ、フランス、オランダ公使に宛てて救援要請をします。つまり、琉球人士族たちが東京において在京駐在の外国公使に対して請願・救援運動をする。一方では清に亡命していた琉球士族の場合も、この時期になると請願運動が一段と強まっていきます。国頭親方(毛精長)あるいは幸地親方(向徳宏)と呼ばれている久米系等の琉球士族たちですね。とくに幸地親方は、亡命琉球士族として請願運動においてとても中心的な役割を担った人物です。当時の清政府の対日外交に中心にあった李鴻章に対して、幸地親方は補佐役として琉球の現状について直接説明をしていました。中国と琉球はかつて宗主国と進貢国との関係であり、そのことを重視した清の外交官である李鴻章に対して、琉球人の幸地の進言が李鴻章の心を動かして、大きな影響を及ばしたと指摘しています。
 第三期、第四期になりますと、行政処分としての廃藩置県が行われた後の問題として、琉球列島の分割問題がでてくる時期にあたります。日清両政府の間で琉球列島が二分割される話しが進められ、その切迫した状況の中で亡命琉球士族たちは分割案に反対する請願運動を繰り返し行います。その亡命琉球人の救国請願運動が、対日外交の基調として日清提携を重視していた李鴻章に対して強い影響を与える様になります。幸地親方について先に述べたとおりですが、他に有名なのは分島条約の調印を阻止するために、自決した林世功がいます。それら亡命琉球人の必死の請願運動が李鴻章などの清国内の分島条約調印延期派に影響を与えて廃案にいたります。その亡命琉球人の救国請願運動をどのようにとらえるかが、今日私に与えられた「明治期の沖縄自律・自治運動」についてどう考えるかの論点につながっているだろうと思います。
 さて、明治期の沖縄自律・自治運動のもう一つは公同会事件の問題です。亡命琉球人の救国請願運動が親清派である頑固党の旧士族が中心だったのに対して、この公同会事件は親日派の開化党の旧士族が中心になっています。前述したように、1879年の行政処分としての廃藩置県(琉球処分)は、旧士族層に大きな以降に大きな衝撃を与えます。処分直後には旧士族層のほとんどが親清派である頑固党に属しており、彼らは明治政府による新体制へ強く反発して不服従運動で抵抗します。当初、明治政府は旧士族を何とか懐柔するために鎮撫説諭を行い、いろいろな地域を回って説得をしますが、それが中々うまく行かない。それに対して、旧士族たちは、連名の血判誓約書を作成するなど不服従の抵抗の姿勢をとります。しかし、明治政府はその後、懐柔策から武断策へ転回して、旧士族の反対派の代表を捕捉し拷問を加えて弾圧をします。例えば、中国へ脱清した士族が帰ってきた情報を得ると、その士族を脱清犯として捕まえて激しい拷問を加えます。そのような弾圧により、明治政府に反発していた親清派である頑固党の士族たちの中に動揺が生まれる状況になります。
 そしてその状況に大きな転機をもたらしたのが、琉球処分の際に首里城を明け渡して明治政府によって強制的に上京・幽閉させられていた琉球王国最後の王の尚泰が、1884年に一時沖縄に帰ってきたことです。その際に、尚泰は、明治政府への忠誠とともに、琉球救国運動をしている脱清亡命者を批判します。これが、旧琉球士族にとって非常に大きな転機となります。すなわち、琉球王国復旧あるいは救国運動に身を投じていた脱清派にとって、その忠誠を尽くしていた琉球王国の尚泰が、琉球を処分した明治政府への忠誠と、復旧を求めた自分たちの行動を批判したわけでするから、その衝撃は大きかった。さらに、その発言を受けて明治政府は、琉球救国運動のために亡命した琉球士族を脱清した「国事犯」として法的処置として処罰することになります。そのような状況下で、尚泰から見放された亡命琉球士族は、明治政府の処罰とともに一般士民からも孤立するようになり、時代錯誤という批判を受けるようになります。

 そのように時代の状況が進展する中で、1895年に親日派の旧士族である開化党の中から尚順や太田朝敷などが中心になって、琉球を愛国し日本も愛国するという愛国協会、後の公同会を創設します。愛国協会は、琉球も日本も二重に愛国するという意味で付けられていますが、琉球愛国を日本の体制内に存続させることを宣言し、その趣旨は公同会に引き継がれより鮮明な主張になりました。……
 最後に自治の問題でどうしてもふれておきたいのは、太田朝敷の問題です。この琉球国王尚泰を沖縄県の知事にして沖縄人による沖縄県政をつくることを目指した公同会の運動については、佐々木笑十郎という人物がすっぱ抜いて、本土新聞に記事を投稿して報道され大騒ぎになります。それで明治政府が非常に激怒し、公同会運動を国事犯として処罰すると強圧的に警告するにいたって、同運動は胡散霧消するという顛末になります。ただ、その過程で太田朝敷が公同会運動に関して読売新聞に談話を発表しているのですが、その発言が明治初期の沖縄の自治運動を考察する上で興味深い問題を提出しているように思います。それは「沖縄県の自治問題」(『読売新聞』明治30年7月26日)という文章ですが、そこで彼は、公同会について「強いて命名すれば自治党と名づくべきや」と述べて、その「自治党の目的は沖縄県下の利益を進めると同時に帝国全体の利益を進めると欲するにあり」と主張している。その主張の中には、前述の琉球と日本の愛国の問題も含めて、沖縄の利益と帝国の利益との間には矛盾がないわけです。

 後に、太田朝敷は「沖縄県政五十年」(大正六年)という本を書きますが、その中でも次のような主張を述べている。
 「今日の地方政治は、如何に発達した地方でも、その実権が地方人にあるとは限らない。寧ろ何れの地方でも、行政の実権は外来者の手にある。自治の権域が狭い今日の地方制度に於ては、地方庁は内務省の出張所たるを免れない。しかもそれを牽制して地方の事情に順応せしめ、地方民の要求に合致せしむるには、そこにある力がなければならない。それは即ち、社会的勢力である。あるいは社会的権威とか威力とかいうのが適当かも知れない。しかして、政治的権力を尽く地方人の手に属するものとは限らないが、社会的勢力に至っては何れの地方でも、絶対にその地方人の手に離れるものではない」。当時、太田らが公同会運動を始めようとしたとき、やはり沖縄の実権は本土からきた鹿児島県を中心とした外来者によって実権が握られていました。地元の地方人として、そのような外来者が政治的権力を握っている中で、地元の沖縄人による社会的勢力を拡張することの重要性を強調して、その観点からそのような主張をしているわけです。そして、大田は次のように続けます。「もし地方の為政者にして、その権力の運用を誤るか、あるいは地方の事情に添わぬ政策でも行った場合には、その地方における社会的勢力が直ちに活動してこれを矯正するのが普通である。しかるに我が県政の第一期(明治12年から28年)における我が県民は、政治上の権力を共に社会上の精力までも放棄し、あたかも食客の位置に置かれて顧みなかったのである。かかる地方は恐らく植民地のそとにはあるまい」と。
 その大田の主張をみると、明治政府に対する忠誠や日本への愛国の問題においては前述した頑固党の亡命琉球士族の救国請願運動と大きな違いが指摘できるわけですが、しかし琉球に対する愛国の情という点においては公同会と脱清派の中にさほど違いがないように私には思えます。この公同会運動での太田朝敷の自治運動をどう考えるか。また、先の亡命琉球人士族の救国請願運動をどうとらえるか。そして両者が提起している問題をどう考えるかが、明治期の沖縄自律と自治運動を検討する際に、重要な論点を提示しているように思います。
 最近、公同会運動に対する評価として、琉球王国で政治権力を握っていた尚家の尚順を中心とした旧士族階層が、日本国家による琉球併合に合意し、沖縄側から日本国家の体制内に参入するということを初めて自ら決断した事件だという指摘が森宣雄氏からなされています。公同会運動は、明治国家による上からの統合という行政処分としての琉球処分の後に、沖縄の有力な旧士族階層が日本国家に参入することを自ら決断したことを内外に示した事件だったという認識です。

 さて結びにかえてですが、これまで「明治期の沖縄自律・自治運動」として脱清人の亡命琉球人の救国請願運動と公同会運動の太田朝敷の自治に対する考えの一端のについて話してきました。その明治期沖縄の問題を現在の自律・自治の問題としてどのように考えるか。むろん、自治研の皆さん研究対象としている現在の戦後憲法下における自治権の問題と比べて、その時代背景や社会文脈も大きく異なっています。その中でどのように考えるのか。例えば、太田の自治概念の検討は近代沖縄における自治意識を考察するうえで非常に興味深い問題になろうかと思います。しかし問題は、歴史研究としてのその事実関係の分析ではなくて、明治期の時代状況や社会文脈と異なることを踏まえた上で、亡命琉球士族・脱清人の救国運動や公同会運動から、現在の状況下で私たちが何を読み取ることができるかが問われていると思います。
 事実、西里喜行氏は70年代から90年代まで継続して亡命琉球人の救国運動を研究した背景には、70年代初期に氏自身が日本復帰論を主張して、その時に反復帰論の論者が一つ論拠としていたのが、亡命脱清人の思想が含意している重要性についての指摘であった。それに対して当初、西里さん自身は階級論の観点から、60年代後半や70年初期においては否定的にとらえて論じていた。しかし、その後いろいろな資料を探査し分析していくと、亡命琉球人が持っていた琉球人意識といいますか、あるいは独自の国家観の問題などは、今日の民族問題や民族自決権の問題、さらに植民地主義の問題を考察する上でも重要な問題提起を行っていると改めて考えるにいたったことを述べている。西里氏が亡命琉球人の救国請願書を集大成した資料集のあとがきには、当初の自分の意見は一面的だったと、その課題を改めて問い返すために、精力的に中国側の琉球救国運動関連の資料を探査し分析した経緯が率直に記されてる。そして、その明治期の亡命琉球人の問題を検討することで、現在の世界的な民族問題や少数民族の自決権、自律の問題、アイデンティティの問題につなげることの重要性を指摘している
 実際に、現在の自治の問題を考えるさいに、今の枠組みを踏まえた上での議論が中心だろうと思うのですが、しかし歴史的に形成された、今日の報告で言うと明治期の沖縄自律・自治運動の歴史を参照することによって、今の自治概念(自律・自立権・自決権)を相対化しあるいは拡張するヒントがあるのかどうか、あるにしても、ないにしても、その歴史を踏まえて議論する必要性が重要だと思います。以上です。


レジュメ・『明治沖縄の自律構想と運動(琉球救国運動と公同会事件にふれて)』

はじめに
・近世琉球国から近代日本国沖縄県へ
 →幕藩体制の中の異国/従属的二重朝貢国から琉球処分へ
・琉球処分/@廃琉置県過程 1872年琉球建藩から1879年の廃藩置県まで
 →A琉球併合過程 琉球の政治権力の日本国家への参入による併合の完成
・東アジアの伝統的宗属関係から近代国民国家体制へ
 →中国を宗主国とする東アジアの冊封・朝貢体制→中華帝国体制
  中国⇔琉球、朝鮮、ベトナム、ビルマ、中央アジア
 →近代の国民国家体制/万国公法・文明、半末開、末開・無主の地
 →欧米列強の東アジア進攻による中華帝国体制の崩壊→朝貢国の喪失
   1882年壬午事変、1884甲申事変で中国の武力介入
   1884年の清仏戦争→ベトナムの仏の保護権/中国宗主権の放棄
   1886年ビルマのイギリス植民地化
 →琉球復旧運動→宗主国中国とベトナム、朝鮮の動向との影響関係

1.琉球処分のプロセス(時期区分)/西里喜行「琉球処分と樺太・千島交換条約」
(1)1872年琉球建藩前後から1875年前後まで
 ・政府論議/@琉球の版籍奉還 (井上建議) A日清両属説 (左院の見解)
  →琉球属邦論(副島・井上建議)、琉球藩の設置、尚泰の冊封・藩王華族
  →琉球王権=清国冊封 琉球と清の進貢冊封関係の廃棄
 ・1871年台湾事件、1874年台湾出兵→日清堤携から脱亜入欧への転換
  →台湾出兵の論拠→台湾無主地論、琉球=「我藩属」論、討蕃ノ公理
(2)1875年7月進貢冊封停止命令から1879年3月外交課題として琉球問題/清国
  →琉球問題を対日外交の基調=日清提携の枠組みで処理する姿勢
(3)1879年4月廃琉置県から1880年3月
  →琉球列島の分割による解決案=琉球分割構想の胚胎
  →日清提携路線の優先と亡命琉球人の救国請願運動との相克
(4)1880年3月廃琉置県から1881年3月までの琉球分割交渉の時期 8回の会談
  →明治政府の分島(先島割譲)改約(清国内地通商権獲得)案
  →正式交渉の妥結、調印待ち →清国内調印可否論→事実上の廃案
(5)1881年3月廃琉置県から1885年3月
  →日清両国、分島改約案条約締結可能性の模索→不成功
  →分割対象となった琉球の民族的抵抗(亡命琉球人の琉球復旧運動)

2.球球復旧運動/亡命琉球人・脱清人
 ・琉球王国の旧支配階級の土族が自己の特権的地位の確保に挺進した運動
 →琉球の自立的な自己回復の要求=独自の国家意識に基づいた救国運動
 ・脱清人→琉球処分に反対し、琉球王国の維持・存続をかかげて清国に脱出
   琉球救援を清国政府に誓願した琉球藩民
 ・琉球土族の運動主体の実像に着目すると「脱清」より「琉球救国運動」
 ・47通の請願書/明治政府へ16通 清国政府へ30通 オランダ公使1通
 ・1879年の琉球処分以前と以後に大別

 →第1期、琉球独自の国家意識/琉球・清国間の冊封進貢関係に基盤
 →琉球土族/日清両属に基づく琉球救国=社稷の保持の目的追求
   明治政府/琉球の日本専属論
 →第2期、在京琉球人による米・仏・蘭公使あての救援要請
   清国での救国請願運動→国頭親方(毛精長)、幸地親方(向徳宏)
 ・向徳宏→李鴻章の対日外交の補佐役として影響を及ぼす
 →第3期、第4期 亡命琉球土族による琉球分割反対の救国請願の頻発
 ・李鴻章の豹変の直接の契機に向徳宏の琉球分割反対の泣訴
 ・分島条約調印阻止のための林世功の請願と自決→調印延期への影響
 →李鴻章などの清国内の条的調印延期派による廃案へ
 ・亡命琉球人の必死の請願運動は清国政府に一定の影響を与えた

3.公同会事件
 ・琉球処分・廃藩置県の断行は旧琉球士族に衝撃を与える
 →旧士族による明治政府・新体制への不服従運動
 →明治政府/鎮撫説論 旧士族/不服従・連名血判誓約書
 →1879(明治12)年8月、懐柔策から武断策へ
 →1884(明治17)年、尚泰の帰県 明治政府への忠誠と脱清亡命を批判 
 →大きな転換期→明治政府、 法的措置で琉球復旧運動を「国事犯」
 →亡命士族、尚泰から見離され、一般士民から孤立、時代錯誤の批判

 ・1895年5月 愛国協会/琉球愛国を日本の体制内に存続させる  
   日琉二重の意味/愛国協会→公同会へ  公同会趣意書?資料
 ・太田朝敷→強いて命名すれば自治党と名づくべきや
 →自治党の目的は沖縄県下の利益を進めると同時に帝国全体の利益を進めると欲するにあり/「沖縄県の自治問題」『読売新聞』明治30年7月26日

 今日の地方政治は、如何に発達した地方でも、その実権がその地方人にあるとは限らない。寧ろ何れの地方でも行政の実権は外来者の手にある。自治の権域が狭い今日の地方制度に於ては、地方庁は内務省の出張所たるを免れない。しかもひれを牽制して地方の事情に順応せしめ、地方民の要求に合致せしむるには、そこにある力がなければならない。それは即ち社会的勢力である。あるいは社会的権威とか威力とかいうのが適当かも知れない。しかして政治的権力は尽くその地方人の手に属するものとは限らないが、社会的勢力に至っては、何れの地方でも、絶対にその地方人から離れるものではない。もし地方の為政者にして、その権力の運用を誤るか、あるいは地方の事情に添わぬ政策でも行った場合には、その地方における社会的勢力が直ちに活動してこれを矯正するのが普通である。しかるに我が県政の第一期(明治12年から28年)おける我が県民は、政治上の権力を共に社会上の勢力までも放棄し、あたかも食客の位置に置かれて顧みなかったのである。かかる地方は恐らく植民地の外にはあるまい。(「沖縄県政五十年」『太田朝敷選集上巻』第一書房、149頁)

・公同会運動への評価
 →琉球王国の政治権力が琉球社会の総意として初めて国家日本による琉球併合に同意し、日本の体制内に参入することを自ら決断した(森宣雄)

むすびにかえて
 ・「明治期の沖縄自律・自治運動」として
   琉球救国運動と公同会事件をどう考えるか?

 ・現在の自治問題との比較考察では、彼我の相違が甚だしい
 →近世から近代への転換という時代背景や社会環境の相違
 →明治初期の沖縄での自治の意味と現在の自治との異同
 →太田の中における自治概念の変遷

 ・むしろ、重要なのはそのような時代状況や社会文脈が異なるなかで、
  今日の私たちはそれから何を読み取ることができるか。

 ・西里→70年代の復帰論の再考/反復帰論→琉球士族/脱清派の再検討

 ・民族問題 植民地主義 自決権 自立/自律権 アイデンティティ
 ・現在の自治(自決権/自立・自律権)の概念を相対化し拡張するヒント?はあるか。その議論の必要性。


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