Toppage Critic 図書室 リンク Emigrant 風游blog
風游

THE SEVENTH EMIGRANT

テーゲー
沖縄を考える 沖縄で考える

島豚 山羊汁 八重山 波照間  サバニ 永良部百合の花 赤田のみるくウンケー 塩屋湾のうんがみ フクギ マーラン船 シーサー エイサー(高橋治『星の衣』より) 二見情話(高橋治『漁火いじゃいび』より) 城間松明大綱引 路傍のシーサー[石獅子]

2004年以前のEmigrant2005年のEmigrant2006年のEmigrant2007年のEmigrant2008年のEmigrant2009年のEmigrant2010年のEmigrant2012年のEmigrant2013年のEmigrant /2014年のEmigrant2015年のEmigrant
【2011.12.13】  吉田孝『日本の誕生』を読む

 閑話休題。
 岩波新書、1997年6月発行。「そうか、今の「日本史」はこんな風になっているのか。」と思いを新たにさせる本ではあった。少し前に読んだ、溝口睦子『アマテラスの誕生−−古代王権の源流を探る』の時にも感じたが、世界史的(とは言え、古代では東アジアレベルではあるが)な広がりの中に、再度、日本という国家と権力を位置づけ直す作業として、真っ当な歴史認識の基礎作業が為されているように感じられた。

 “「日本」は訓読され、音読されてきたが、長期的に見ると、ヤマトの訓読から、しだいにニッポン・ニホンと音読されるようになった。このことは、「日本」が近代の国民国家の名へ移行することをスムーズにしたのではないか。”これが終章のポイントであろう。「日本」の訓読である「ヤマト」は、「日本」に先立って(そして「近世」に至っても)、「倭」であり「和」であり「大和」であった。つまり“ヤマトと訓読される「日本」は、何よりもまず、天皇の王朝の名であった。そして、ヤマトと訓読されるかぎり、天皇を核とするヤマトの国制が意識つづけられたであろう。……ヤマトとは違った展開をしていた地域をも、ニッポン・ニホンのなかに組み込むことを容易にしたのである。”
 そして“それにしても、天皇を核とする国制はなぜ、変革されないままに終わったのであろうか。”と自問し、天皇だけを取り上げ、その存続した理由や必然性を問うだけでは“問題の核心を捉えられないだろう。天皇を核とするヤマトの国制の存続をこそ問題にすべきである。そして、その背景に、日本列島の国際的・地理的環境と、その時々の国際情勢という偶然性−−日本列島の内在的要因に対する外在的要因−−が、大きく関与していたことを見落とすことはできない。”と答える。冊封体制に組み込まれまれず、極東アジアの小帝国の道を歩み、対外的(とりもなおさず、対中華帝国)に「倭→ヤマト→日本」と称した、この国のことである。

 単に私が不勉強なだけだが、新鮮な切り口ではあった。そこで、沖縄である(笑)。
 本書は、“この問題は、日本列島の歴史を考えるうえで、重要な手がかりとなる。というのは、江戸時代、琉球の人びとが本州・四国・九州などをさしてヤマトゥと呼び、その人びとをヤマトンチュ、薩摩から来る船をヤマトゥ船と呼んだように、琉球はヤマトではなかったからである。”と、簡単ではあるが触れる。
 はて、何時から、どのようにして、北方の国(島)を「ヤマト」と意識して呼んだ・名付けたのか。「ヤマト」は国号か。

【2011.11.27】  帰属問題1951−『「沖縄独立」の系譜』を読む

 やはり「復帰運動」は難問である。いや、謎と言ってもいいかもしれない。
 比嘉康文『「沖縄独立」の系譜』(琉球新報社20040618)から、三つの文献資料をアップ。二つは、初の公選群島知事選が終わり、ようやく琉球の帰属問題が沸騰しはじめた、講和条約締結(アメリカの占領統治の終焉)の最終局面にさしかかった1951年初頭の新聞社の社説である。『うるま新報』1951(昭和26)年2月2日付の社説「沖縄は国連の信託たるべし」と、翌3日の『沖縄タイムス』の社説「琉球の帰属」である。
 もう一つは、施政権返還の政治日程がほぼ確定し、首相佐藤栄作の訪米時の1969年10月1日に掲載された、「沖縄は沖縄人のものだ!われわれは日本復帰を急がない」という大見出しの「沖縄人の沖縄をつくる会」の意見広告である。比嘉康文によれば「この会は『ヤマト嫌いの者』と『復帰は時期尚早だという者』『三条貴族といわれる経済界の人々』で構成されている、と批判的にいわれた」と書く。

 さて、うるま新報は「沖縄の破壊は日本国民の責任であるから、その復興は日本に帰属して日本国民のせき任において為さしめればよい、と言ってみたって、無い袖は振れぬ。結局は豊かなアメリカの援助によってなされているが、これも最後までアメリカにせき任があるわけのものでもない。…… 遠き将来において沖縄或は琉球が独立し得れば独立でもよし、或は日本帰属するかアメリカに帰属するかは、その時における情勢によって全人民の意志によって決定すればよい」と主張し、結語部分で「沖縄住民が現在のみじめな生活から如何にすれば1日も早く抜け出し得るか、その方法をけつ定しようという重大問題に立ってわれわれは、近き将来に対する国際情勢の見通しと、目下の沖縄の状態についての認識から、あくまで現実的な結論を得なければならぬ」とした。他方、沖縄タイムスは、「日本帰属を希望するものは郷愁といったような感傷から出ただけのものでないことは明らかである。……琉球人が日本人と同一みん族であるという所謂血のつながりと、政治的自主心をもちたいという民族の政治意識は前途に如何なる苦難が積って居ても敢然として乗り越えて行こうとする精神を湧起せしめる。これが日本に帰りたい願望となってくるのではないか。」とうるま新報とは異なる主張となっている。
 池宮城秀意(うるま新報・社長)は、6日から署名論文「何故国連信託を主張するか」を3回にわたって連載しているが、そこで「社大党や人民党或はその他の政党も、この問題が極めて重大であることを認識しているために大事を取っているものと想像するのであるが、いずれは各政党とも党是としてそれぞれ方針を決定する際には、十分慎重に各面から検討を加え正しい方向を大衆に指示してくれるよう切に要望したい」と結ぶ。
 それから一ヶ月後には社大・人民両党とも「復帰運動」に着手し、1951年3月19日の沖縄群島議会で圧倒的多数(20人中17人)で「日本復帰要請」を決議し、わずか三ヶ月で全島の70%余の「日本復帰要求」署名を集めるに至った。

『うるま新報』 「社説」1951年2月2日
「沖縄は国連の信託たるべし」


 対日講和条約が次第に現実の問題になって来るにつれて、沖縄処理問題が日本においても熱心に議論されるようになった。日本政党もそれぞれの立場と見解から日本帰属を説き或は米国租借を唱えているが、これらの日本的見解はけっしてそのままわれわれの見解にならないことは当然である。
 日本的見解は琉球の歴史的或は国民感情的なところから説き起しているが、われわれ現地にある琉球人そして沖縄人のこの問題に対する見解は遥かに形而下的な日常生活の見地から立論せねばならぬ。そこに当然の差異が生じて来るはずである。
 われわれはアメリカにコビる必要もなければ、同様に日本に感傷を送る必要もない。あくまで現実に琉球或は沖縄に住む全人民の生活の再建を脚下の目標におかねばならぬところにわれわれの人間としての生々しい叫びがあるのである。
 第二次大戦によって生活をゼロにされた沖縄の人たちがその生活を元通り取り返すことは4、5、6年で簡単に出来るものではない。1952年末には沖縄経済が自立出来るようにいろいろと考慮が払われているが、この目標が達成し得るか否かについては、沖縄群島政府首脳部においても否定的である。
 沖縄の破壊は日本国民の責任であるから、その復興は日本に帰属して日本国民のせき任において為さしめればよい、と言ってみたって、無い袖は振れぬ。結局は豊かなアメリカの援助によってなされているが、これも最後までアメリカにせき任があるわけのものでもない。
 第二次大戦が誰のせき任であったから、その方に破壊された沖縄再建の責任を負わせろと主張してみたって、今更どうにもならないことである。
 そこで筆者がここで提唱したいことは、破壊された沖縄の再建は第二次大戦に参加した諸国の責任において遂行して貰うことにし、沖縄を国連信託とし、国連に沖縄復興のせき任をとらしめることを実現するよう努力すべしということである。そして国連信託となったその後において国連においてアメリカの単独統治とするか否かは、国連における決定にまつ外はない。
 遠き将来において沖縄或は琉球が独立し得れば独立でもよし、或は日本帰属するかアメリカに帰属するかは、その時における情勢によって全人民の意志によって決定すればよい。
 沖縄住民が現在のみじめな生活から如何にすれば1日も早く抜け出し得るか、その方法をけつ定しようという重大問題に立ってわれわれは、近き将来に対する国際情勢の見通しと、目下の沖縄の状態についての認識から、あくまで現実的な結論を得なければならぬ。そしてそのためには虚心たんかいに意見をたたかわすべきである。


『沖縄タイムス』 「社説」1951年2月3日
「琉球の帰属」


 ダレス特使の日本訪問が日本との講和条約締結を急速に実現するための準備であることと、戦勝国たるアメリカが敗戦国たる日本に対し条約案の無条件受諾を押しつけるような態度を避けて対等の立場に於て日本側の希望に耳を傾けるという態度をとって居ることは日本国民に好印象を與えて居るようである。
 勿論アメリカがそういう態度をとって居るからというて日本の言い分を全部受け入れるはずはない。アメリカの国策の線にそい得るもの又アメリカとして為し得る範囲のものしか容にんしないであろう。
 日本の朝野は挙げて講和後の経済援助と国連による安全保障の確にんと琉球、小笠原、千島の返還等を要望し、吉田首相からダレス特使に希望を述べたと伝えられて居る。その中で琉球住民にとって最大の関心事となっているのはわが琉球諸島の帰属問題である。
 自分らの政治的運命が決定されるのに無関心で居れるものは一人として居ないはずである。今まで沈黙して語らないだけのことであって意志表示を求められたら必ずやこうありたいと希望する独自の考えが示されるに違いない。しからば日本に帰るのを希望するか或はアメリカの信託統治を希望するか、を直に数字的に表明することが出来るかという段になると未だあえて民族の問題として取り上げて論議されたことがないので明確に示すことは今のところ不可能であり、必要とするなら人民投票を行なう外はないであろう。
 日本帰属を希望するものは郷愁といったような感傷から出ただけのものでないことは明らかである。琉球人が日本人とは人種言語風俗慣習を異にする異民族であると思って居るものは琉球人の中には恐らく一人も居ないと思う。
 もし異民族であると考えて居るならば同じく異みん族であるアメリカの統治下に入ろうが日本統治下に属しようが、異みん族の支配をうけることには何ら変りはないのであるから、特に日本に帰ればアメリカ以上の経済援助が受けられる見通しがない限り日本帰属の希望は戦前日本の領土であり、日本国みんの一部であったという感傷から出たものに過ぎないという見方も誤っては居ないであろうが、琉球人が日本人と同一みん族であるという所謂血のつながりと、政治的自主心をもちたいという民族の政治意識は前途に如何なる苦難が積って居ても敢然として乗り越えて行こうとする精神を湧起せしめる。これが日本に帰りたい願望となってくるのではないか。
 アメリカの経済援助は琉球の復興に絶大なる恩恵を與えて居ることは言うまでもないが、琉球が日本に帰った場合、日本には琉球の復興を助ける力はないという考え方からアメリカに帰属した方が琉球のためには利益であるとして信託統治を希望するものも居るはずである。人は顔貌が異ると同様にものの考え方も違ってくるのは当然であり其処に衆民討議の必要も生じてくる。が、琉球が日本に帰った場合には経済的援助は望まれないという見方は僅か独断の嫌いがありはしないかと思う。というのは日本の朝野が琉球の返還を要望して居る事実から推して将来その希望が幸いに容れられた場合、琉球の復興は日本政府および日本国民の責任となってくるし、殊に1945年の沖縄戦が日本のための一大犠牲であった事実に対する国民的良心を喚起せずにはおかないと思う。
 それで現実の経済的援助の問題だけでアメリカの統治を希望し或は日本帰属を希望するという態度であってはならないと思う。民族の政治的自主性という違い慮りによって冷静に考えなければ吾々自らは勿論子孫のためにも賢明とは言えない。
 吾々は経済的自立を要請されて居る。これはいうまでもなく自分の力で自分を養って行くことである。人間として民族として当然のことであり、何時までも外国の援助を仰ぐことばかり考えると知らず識らずのうちに乞食みん族に堕してしまう。吾々は経済的自立を念願するがそれは必然的に政治的独立への願望ともなってくる。
 琉球帰属はどうなるかは一にアメリカの意志によって決定される。日本の政党方面では琉球の主権及び領土権は日本に帰して貰いアメリカの必要とする軍事基地は租借の形式をとるという希望も出て居るようであるが、アメリカのアジアに於ける国防第一線がアリューシャン、日本、琉球、台湾、比律賓の線におかれて居るという冷厳なる事実と国際情勢とを吾々は正観し、如何に運命づけられるかを自らの判断でにん識してこれに対処する心構えを整えておかなければならぬ。希望と現実とは同一ではない。


琉球新報1969年10月1日<広告>

沖縄は沖縄人のものだ!われわれは日本復帰を急がない

 沖縄の日本返還を求める日米交渉は目前に迫っている。けれどもそれと共に、近頃かえって「復帰不安」という言葉を耳にするようになったのは、どういう訳だろうか。
 復帰不安ということは、日本復帰に際して経済の変動からくる生活の不安と、住民の一人一人が、経済混乱の波に巻き込まれる恐怖を言っているのであるが、日本復帰をすれば、とうぜんわれわれ沖縄人が戦後二十数年もかかって、灰爐のなかから営々と築きあげてきた政治と経済の機構が、その場でひっくりかえる訳であるから、住民のすべてが、そのあおりを喰うであろうことは言うまでもない。そして、その経済変動はやがて混乱し、住民の中から破産、倒産者が続出し、失業者はちまたにあふれ、お互の生活が苦しくなることは想像に難くない。
 ところが、現在の沖縄の政治家は日本復帰を叫ぶに急いで、それに伴なう経済混乱をどう切りぬけるかという具体案を示したものは一人もいない。まるで「日本復帰をすれば、沖縄人はその日から幸福になれるのだ」と言わんばかりである。沖縄の帰属を決定するという日米会談ですら、基地問題に終始して、かんじんな沖縄の経済や、沖縄人の生活不安の解消については、なに一つ話し合われていないのである。−それから考えると、沖縄人の生活は、沖縄人自身の手で守らなければならないということが、はっきりわかる。
 沖縄は沖縄人のものでありながら、われわれは何故、この場になって、外部からの都合のために、お互が生活不安のおびえなければならないのであろうか。−われわれは間違っていたのではないだろうか。
 もし、そうだとすれば、われわれはここで日本復帰によって一人の犠牲者も出さないために、いま一度とっくり考えてみる必要がありはしないか。−いたずらに復帰を急いで、生活の破綻と、多くの犠牲者を出すより、一歩しりぞいて適当な時期を待つべきではないだろうか。−だから日本復帰は、すべての沖縄人が日本本土と同等、あるいは本土以上に、ひとりひとりが自分の立っている経済基盤を、がっちりと固めたのち考慮されるべきであり、その時期は10年後、あるいは20年後になっても構わないのである。
 人間にとって、生活はすべての欲求に優先する。生活あっての人間である。もし、その生活を、日本復帰のために失うものがひとりでもあるとしたら、われわれは同じ沖縄人として、ただ腕をこまぬいて傍観してよいものだろうか。――その為にもわれわれは、お互同士、準備のない日本復帰を避けなければならない。
 ことに現在の沖縄の経済は、おそらく有史以来ではないかと思われるくらいな繁栄の途上にある。この繁栄は、われわれ沖縄人が自らの手によって築いたものである。おそらく今後10年、あるいは20年もすれば、沖縄は東南アジアの一角に、特殊な文化と経済をもつ楽土を建設するだろう。われわれは今、その光明に向かってまい進しつつあり、沖縄の現在の政治経済の制度は、すなわち、その発展の可能性を保障するものである。
 したがって、さらに繰りかえすが、日本復帰を急いではならない。――1972年は復帰の年だとされている。しかし、われわれは1972年こそ、「日本復帰を急がない」というわれわれの要望に世界を示し、かつ貫徹する為の「住民投票」の年にすべきである。
 沖縄人の生活と、沖縄の繁栄、そしてお互の幸福は、われわれ自身の手によって守り、築き、つかむほかはない。われわれはそのために、沖縄人同士ともに手をとって決起し、適切な方法により、日米両政府をはじめ関係者に対して、具体的行動をおこそうではないか。
 右の意見に同感の方は、発起人か、または左記事務所までご連絡下さい。

1969年10月1日

沖縄人の沖縄をつくる会(責任者 崎間敏勝)

沖縄人の沖縄をつくる会(仮称)
(発起人)当間重剛 山里永吉 宮城仁四郎 仲泊良夫 長嶺春景 宮里春行 照屋朝敏 屋比久孟吉 宮城能造 吉浜照調 久場長文 瀬田米三 東 常雄 謝花建徳 儀間優卓 島袋永徳 中村朝喜 知花親明 当山正輝 平良雄一 中村亀助 宮城嗣吉 照屋敏子 荒垣政二 牧 武次 湖城雲峰 坂井 律 仲本清智 城間盛徳 下里恵良 玉城要介 中村 勉 池原茂男 新垣安盛 松本完正 伊江朝陽 宮平守秀 比嘉正義 儀武息茂 親里栄通 金城唯仁 石原昌英 知念正輝 我那覇生英 山本宗盛 儀間真栄 柴喜与秋 上原亀助 崎間敏勝


【2011.11.10】 「戦後50年 人間紀行 そして 何処へ/第2部 闘い 立つ」を読む

  タイムスを定期購読していたわけではなかったので、県立図書館で「68年体制の崩壊/転換点を迎えた県内政治」の沖縄タイムスの長期連載コラムのバックナンバーを閲覧していた時、安里清信さんの「戦後50年 人間紀行 そして 何処へ/第2部 闘い 立つ」が5回(1995年5月16日〜23日)にわたって連載してあるのを発見(笑)。(国場幸太郎さんの「戦後50年 人間紀行 そして何処へ/第2部 闘い/クニさん」と同じ連載コラムである。)金武湾闘争の一つの資料としてアップしました。なお、「68年体制の崩壊」1995年3月30日付の項では「(1972年から始まる)CTS反対運動は、その後の長い苦難の発端となり、そして屋良三選の断念にもつながっていく」と書いてあった。「68年体制」は、「55年体制」と重ねて論じてしまうが、そもそも「沖縄革新共闘」なるものは、社大党という特異な土着政党の存在との関係でのみ論じるべきで、復帰運動−屋良主席誕生が「終わりの始まり」であった、とも言えるのではないか。

 当時の金武湾闘争の前提としての与那国暹「復帰前の拠点開発構想とその背景について」(『琉大法文学部特定研究紀要』1984年度:改題)が『戦後沖縄の社会変動と近代化』沖縄タイムス社20010914に[附論・「復帰前の工業開発構想」]として転載されていた。
 そこで与那国は、1970年9月の琉球政府「長期経済開発計画」について言及しつつ以下のように述べる。
……沖縄県が基地依存経済から脱却し、日本経済の一環として飛躍的発展をとげていくためには、まず当面労働集約型工業を積極的に誘致し、ついで将来の方向として重化学工業を中心とする工業化と観光開発を重点的に推進する。このうち、重化学工業については「石油中継基地、石油精製業を基礎とした開発を推進する必要があるが、それについては沖縄本島東海岸に大規模な臨海工業用地の造成が可能であるので、詳細な調査をしたうえで開発を進めたい」とし、さらに将来の電力需要の増大に対処するため原子力発電所の設置についても考慮するひつようがあるとしている。……
   1968年1月 松岡政保主席、ガルフ、カイザー、カネテックス、エッソの石油精製四社に外資導入許可
   1970年2月 米系資本アルコアがアルミ精錬事業の外資導入免許を琉球政府に申請
    同年6月 屋良朝苗主席、アルコアに許可
    同年6月 沖縄アルミ(株)[本土アルミ五社]、琉球政府に外資導入申請
    同年8月 本土アルミ五社に事業免許を交付
   1971年8月 アラビア石油、5億ドルの外資導入申請
   1972年3月 琉球政府、アラビア石油、三菱石油に外資免許
……当時すでに公害が政治的にも社会的にも大きな問題となり、とりわけ石油・アルミ産業がいわくつきの公害産業で、本土の各地の住民の反対にあい工場建設がきわめてむつくかしくなっていたという状況を考慮すれば、沖縄における工業開発政策の特殊性が明らかになってくると思う。もちろん当時国や県の経済開発計画のたて方が、60年代の本土の後追い開発だとする警告は一部の知識人からなされていた。しかし本土との格差の是正と自立経済の育成という至上命題の達成のためには、工業開発にともなう多少の犠牲はやむを得ないとする見解が正論として主張されたのである。


【2011.10.21】 「沖縄からの提言」を読む

 遅まきながら、『世界』2011年10月号に掲載された「沖縄からの提言」(新崎盛暉/我部政明/桜井国俊/佐藤学/星野英一/松元剛/宮里政玄)“脱「沖縄依存」の安全保障へ−国際環境の激変と3・11を受けて”をアップ。
 幾度となく沖縄から発せられる「言葉」に耳を傾けようとする人々は多くはない。しかし、「賽の河原の石積み」ではない、それこそ「持続する志」であろう。提言は云う、「東日本大震災からの復興が日本全体の課題であるのと同様に、戦後60年以上にわたり沖縄に甘え、依存してきた安全保障政策からの決別が、日本の課題なのだ」と。
 ただ次の一文が目にとまってしまった。「米国の覇権は、アジア太平洋地域では米軍プレゼンスに支えられ、それが沖縄の犠牲の上に成立したのだ。米国の同盟国は、米国覇権へフリーライド(ただ乗り)するために、沖縄を踏み台に使い続けてきた」。



【沖縄からの提言2011】

脱「沖縄依存」の安全保障へ
国際環境の激変と3・11を受けて



新崎盛暉/我部政明/桜井国俊/佐藤 学/星野英一/松元 剛/宮里政玄(あらさき・もりてる1936年生まれ、沖縄大学名誉教授・現代沖縄史/がべ・まさあき1955年生まれ、琉球大学国際沖縄研究所所長・国際政治/さくらい・くにとし1943年生まれ、沖縄大学教授・環境学/さとう・まなぶ1958生まれ、沖縄国際大学教授・米国政治/ほしの・えいいち1953年生まれ、琉球大学教授・国際政治経済/まつもと・つよし1965年生まれ、琉球新報編集局政治部部長/みやざと・せいげん1931年生まれ、沖縄対外問題研究会代表・国際政治)



 日本社会は、原発が安全で安価だとの神話に基づく思考停止から、いま必死で脱却しようとしている。3・11は、あらゆる面で思考停止からの覚醒を求めている。日本の安全保障は、東北への原発の押しつけと同様に、沖縄に過大な犠牲を強いてきた。米国に依存していれば安全だという思考停止からいまこそ覚醒し、平和で安定するアジア太平洋の秩序構想を追求すべきだ。

はじめに−分水嶺に立つ日本へ

 東日本大震災から6ヶ月を迎えるなか、その収束への筋道が見えない。一部で復興の兆しはあるものの、3・11以前へ戻ることはない。多くの人命とともに、人々の暮らしを育んできた町や村が一瞬にして失われた。そして、生き残った人たちの土地への記憶すらも奪われようとしている。
 66年前、沖縄戦は、緑の陰影に富んでいた沖縄島の風景を眼を刺す光が乱反射する埃と泥の荒景へと変貌させた。日米両軍の衝突の合間で、20万人以上の死者を出し、沖縄県民の4人に1人が亡くなった。66年という長い年月が過ぎたにも拘わらず、沖縄の人々は沖縄戦の悲劇から解き放たれてはいない。沖縄戦の過程で建設された米軍基地が今なお存在し、現代の沖縄を戦争へ縛りつけているからだ。
 過去の出来事によって失われたものが戻らないとすれば、復旧・復興ではなく、人々の繋がりを基礎にした新たな地域づくり、そして国づくりをめざさなければならない。再生というよりも新たな日本づくりである。その方向を見つけ出し、行動へと動きだし、成果を出すには、中長期的見通しが必要だ。過去へ戻るのではなく、新たな日本社会を築く方向への決断が、今、求められている。3・11は、東北だけでなく日本全体の転換を促しているのだ。
 3・11は、地震と津波という自然の力によって引き起こされた。しかし沖縄の米軍基地の集中は、人為の結果である。そして、沖縄の人々が望んだ結果として米軍基地が存続しているのではない。後述するように、原発建設への人々の対応とその結末は、沖縄における基地問題への人々の対応とその結末とは異なるところがある。
 しかし、今回の事故を機に注目を集めるようになった福島をはじめとする原発立地地域の犠牲への対応と、沖縄の米軍基地を前提とした日本の安全保障政策の犠牲への対応には、共通点がある。生き残った者が今までに何を為し、これから何を為そうとしているのか、つまり、3・11以後の新たな日本社会の構想こそが問われているのである。
 以下では、戦後アジア太平洋秩序のなかで形成され、展開されてきた安全保障政策を沖縄から再検討し、あらたな視点を提供したい。

1.戦後国際秩序への新たな挑戦

 アジア太平洋地域の戦後秩序は、米英ソの軍事力を前に敗北したドイツ・イタリアとその周辺諸国を巻き込んでできあがった戦後ヨーロッパ秩序形成とは異なる道を歩むことになった。2つの多国間安保体制の対峙しあうヨーロッパ秩序に対し、この地域では米国を軸とした同盟国との間のハブ・アンド・スポーク体制(米国が東アジアの親米政権との間で個々に2国間同盟を結び、アジアの各国同士の安全保障が欠如した秩序を、車輪になぞられてそう呼ぶ)と、協力と対立をくり返してきた中国とソ連の対抗勢力との間で織りなす冷戦秩序が進行した。

(1)沖縄の犠牲に依拠した戦後秩序
 冷戦の終焉以前から、この地域は秩序変動に見舞われ始めた。とりわけ社会主義経済の行き詰まりを経験しつつあった中国やソ連は、資本主義の国々との経済的、政治的な関係改善を推し進めていた。その結果、冷戦の対抗軸からは脱落したものの、両国は現在、新たな存在感を示しつつある。中国は市場経済を導入し、世界中に工業製品や加工製品を供給する「世界の工場」となり、13億の人口が巨大市場へと成長しつつある。社会主義ソ連は、崩壊後15ヵ国へと分離しながらも、軍事的には「大国」を自認するロシアが国際秩序の維持勢力の一翼を担っている。
 アジア太平洋地域の米国の同盟国は、冷戦終焉後も自らの国家体制をほとんど変更せずに世界経済との結びつきを深めていき、グローバル化の恩恵を受け、同時に激変する貿易・通貨による脆弱性をさらけ出した。とりわけこの間、米国との2国間安全保障に依存するアジア諸国と同盟国へ軍事的関与を提供する米国との間で秩序が維持され続けてきた。そして、覇権を提供する米国への依存を深めてきたため、これらの国々は自らの地域の秩序の構築や安定への主体的行動の素地を持たないままである。
 同盟国への米国の軍事的関与は米軍プレゼンスである。アジア太平洋における米軍プレゼンスはこれまでも、今もなお、沖縄の基地に象徴されている。そのことが意味するのは、沖縄に米軍が存続する限り、アジア太平洋地域の安全保障について、地域の各国が自ら考える機会が失われているということである。つまり、この地域にある各国の安全保障政策は、沖縄に甘えることで、自らの負担と危険を回避することが可能となった。米国の覇権は、アジア太平洋地域では米軍プレゼンスに支えられ、それが沖縄の犠牲の上に成立したのだ。米国の同盟国は、米国覇権へフリーライド(ただ乗り)するために、沖縄を踏み台に使い続けてきた。

(2)中国の台頭と新たなる国際秩序構築
 こうした戦後国際秩序は、今、挑戦を受けている。それは中国の台頭によって起きたものだ。中国の軍事力強化に対し、各国は米国の軍事関与の安定化と強化を求める方向にある。南シナ海における中国の関わる領有・領海問題において、この傾向は顕著に見て取れる。短期的にみて、中国以外の他の紛争当事国が優位になることは困難であり、米国関与によって現状が維持されるだけで、不安定性さは改善されない。むしろ、紛争当事国の間での武力衝突の可能性が高まっている。中長期的にこの地域内の秩序を安定化させ、変化に対応できる協調メカニズムを構築しなければならない。これらの国々は、自らの地域において米国にどのように関与してもらいたいのか自ら構想し、米国の関与のあり方をめぐってさまざまな協議を進めるべきだ。こうした挑戦に対する私たちの答えは、以下の3つである。
 第1の答えは、多国間の安全保障体制の構築への行動である。一つのアジアという歴史的経験の欠如や東アジアへ向かう地域規範の希薄さが、米国を軸とするハブ・アンド・スポーク体制をこれまで後押ししてきた。現実には、経済やエネルギーの相互依存が深まる中で、アジア太平洋地域における共通の利益は増大している。共通の利益を見つけ出せるのは、利益をめぐる交渉が行われる多国間での協議の場(フォーラム)である。その場を通じて、各国の利益に基づく主張がなされ、なんらかの合意を得るための駆け引きが行われる中で、共通の利益が浮かび上がる。このようなフォーラムでの交渉過程こそが、多国間安全保障体制の構築の行動そのものなのである。とはいえ、アジア太平洋地域における多くの国々は、フォーラムを効果的に使いこなせるほど多国間交渉に習熟してはいない。交渉をファシリテイト(促す、手助け)する知識と技術が必要なのである。
 これまでの2国間で行われるハブ・アンド・スポークの場合では、こうした技術は不要とされ、米国の妥協を引き出すための言い訳だけを懸命に探し出してきた。米国の関与のあり方そのものが、多国間のフォーラム形成の障害となってきたのだ。平和の可能性をこれまで以上に高める安定的な国際秩序の形成にむけた政治的意志が不可欠だ。
 第2の答えは、アジア太平洋諸国が地域の安全保障に責任を負うという当事者意識を持つことだ。この地域の安全保障を論じるとき、各国の安全保障は軍事力を増強してセルフ・ヘルプ(自助)を高める方法か、同盟を進めて大国による関与を招き入れる方法の2つの方法で論じられてきた。こうした考えは、主権国家が構成する主体であるとの前提に立つ。そこでは、主権国家が一枚岩として想定され、国家間の経済力や軍事力の比較を通じて各国の安全保障が論じられている。人々の周辺諸国への理解が変化しても、国家間の安全保障上の関係は変わらないとする立場だ。われわれの人間社会とは異なる考え方である。
 相手国やその国民をどのように理解するのかによって、関係は変化する。アジア太平洋の秩序形成と維持に対し、当事者としてどのように表現にし、行動するのかが重要である。当事者としての言葉と行動の相互作用の中から、共通の利益と規範を創出できる。経済のグローバル化は、通貨、通商、通信(インターネットを含む)などの空間に浸透している。アジア太平洋の一体感は高まることはあっても、弱まることはないだろう。これらの地域を包み込み、ときには地域を越えるさまざまなレベルにおいて、地域の一員、地球の一員としてのアイデンティティと規範を生み出すことが可能となっている。
 第3の答えは、軍事力によるバランスを重視した場合でも、アジア太平洋地域を安定化する方法があるということだ。それは、いわば「地域」大国として、たとえば中国と米国が均衡するときである。米国が「世界」大国として行動するとしても、アジア太平洋における「地域」大国がいれば、ある種の均衡を実現できる。もっとも危険なのは、力の均衡が予想を超えて動き出すときだ。それを回避するには、各国の軍事力の透明性を高めることが不可欠だまた、各国の軍事力についての適切な評価が、戦略的思考のボトム・ラインになければならない。さらには、各国の安全保障を考えるとき、軍事力による解決がそのコストに見合うのかどうかについて合理的な判断を求め合うことが重要だ。そのための軍事交流は重視されるべきだろう。それでも、出口がないと思ってしまうとき、今しか勝利はつかめないと思って武力行使へ突き進む事態があるかもしれない。もう戦争しかないと思い込む愚かな判断から、生き残ることを最優先する賢さが安全保障の基本となるべきだ。

2.米国の変容

 G・Wブッシュ政権末期以来、米国政治は、予想せぬ速度で変容を続けている。今後の日米関係を、より健全にするためには、米国で起きている事態をきちんと把握することが必要である。

(1)米国責務上限引き上げをめぐる混乱が示すもの
 2008年大統領選挙で、オバマは、米国の救世主であるかのような期待を担って当選した。しかし、2010年の議会選挙で、共和党が下院多数派の地位に返り咲き、また上院でも議席を増やした。米国有権者は、オバマに2年間の猶予すら与えなかった。この共和党勝利の原動力は「茶会」運動であった。反税、反ワシントン、そして極端な「小さな政府」主義者の連合である「茶会」運動は、共和党の財政政策の座標軸を保守へと動かしただけでなく、米国全体の政策議論の基調を変えた。
 茶会運動に直接支援された共和党議員は、党内で圧倒的少数である。しかし、彼らの掲げる「小さな政府」原理主義は、共和党主流派が軽んじることのできない、党にとっての「錦の御旗」であり、その反税思想は、今年8月の債務上限引きあげ合意の枠組みを強く規定した。
 今回の合意は、実質的な削滅を、11月までに結論を出す超党派特別委員会決定に先送りした、債務不履行を防ぐだけの一時凌ぎ策に過ぎない。この委員会で消滅案が合意できないと、一律消滅がなされ、その場合、軍事予算消滅額は、向う10年間で、国防総省が想定している4000億ドルの2・5倍、1兆ドルに上る。
 従来、共和党は軍事予算を維持するタカ派が主流であった。しかし、「茶会」は、軍事・外交よりも財政均衡、赤字消滅を重視する。ブッシュ時代の軍拡への国民的反発もあり、共和党ベイナー下院議長の軍事予算維持を目指した案が、党内の支持を得られなかった状況が、「茶会」を超えた流れの強さの証である。
 一方、民主党は、医療・福祉予算死守を、存在意義を賭けた闘いとする。こうした米国政治の情勢から、軍事予算の大幅消滅なしには、11月の合意は不可能である。
 長期的な赤字解消策が実現しなければ、究極的には、米ドルの共通通貨としての地位喪失に繋がる。ただ、ユーロが極度に弱体化し、円が今後ドルに代わりうるわけもなく、人民元は到底共通通貨足り得ない状況は、米ドルが弱体化しても、なおかつ消去法により現在の地位に留まることを暗示する。また、米国には、1970年代から増加し、レーガン政権下で深刻化した財政赤字問題に関して、クリントン政権最後の2年間に単年度赤字を解消した実績がある。米国には、経済成長の実現と、民主党大統領すら福祉予算消滅を行う、現実的な、あるいは無慈悲な政策転換が可能である。米国経済も政府財政も、このまま没落はしないであろう。しかし、その下での財政・予算構想は、大きく変わる。

(2)グアム移設関連予算削除の意味するところ
 今年7月に、米国上院は、2012会計年度軍事予算案から海兵隊普天間基地のグアム移転関連予算を削減した。本稿執筆時点で、最終の予算がどのようになるか未定であるが、政府財政赤字消滅が最大の争点となった現在、米国議会に、グアム・辺野古移転への明瞭な反対の声が出たことは間違いない。
 金融危機時にしきりに説かれた米国資本主義の終焉、というような事態は起きなかった。しかし、ゲームは確実に変わった。現在、米国議会が取り組んでいる歳出削減は、新たなゲームにおいても米国が優位を保ち続けるためである。だからこそ、軍事予算も消滅対象となり、優先順位の付け替えが行われる。グアム関連予算の削減は、米国軍事政策における、海兵隊新基地建設の優先順位が大きく下がったことを意味する。
 現在の財政赤字問題は、ヴェトナム戦争以来の傾向を踏襲するならば、今後10年間は続く。米国政策の基軸は動いたのである。日本がその現実に眼を瞑って、ひたすら現状維持を望んでも相手は立ち止まっていてはくれない。
 米国の後押しで、中国と軍事的に対峙する、そのために沖縄の基地を米国に提供するという考え方は、中国が米国籍発行総額の4分の1、日本の1・5倍を保有し、また米ドルの保有額でも、中国が日本の3倍で、世界最大である現実を踏まえていない。一方、中国は米国の貿易相手国として、1位カナダ、3位メキシコという、北米自由貿易協定加盟国に挟まれた2位でしかないのに対し、米国は、中国の輸出先として、2位香港の1・5倍、3位日本の2倍という、圧倒的な市場である現実もある。両国の経済は、典型的な相互依存関係なのである。
 日本が、米国、中国との関係を、この現実に即した政策に転換しなければ、米国の「本音」が表に出た時に、「ニクソン訪中」のような、青天の霹靂に見舞われかねない。

3.日本の変化:政権交代と3・11

 日本における2つの大きな変化として、2009年9月の政権交代と3・11以降の一連の出来事を取り上げる。

(1)政権交代後も変わらぬ課題
 まず、現在の日本は政権交代以前と同様の課題をかかえていることを確認しておきたい。
 バブル経済崩壊以降の失われた10年とその後の日本経済の低調にもかかわらず、大企業の業績は悪くなく、しかし労働分配率は低いままだった。平均的な国民の苦しい暮らしとは裏腹に、官僚の天下りが目に余るものと映り、官僚支配からの脱皮が必要だと思われていた。国民が2009年の総選挙を政権交代の選挙と考え、そう投票したのは、官僚主導に代わって政治主導で改革を進めることを民主党が掲げていたからであった。ドブ坂選挙や利益誘導に代わってマニフェストに基づく政策論争で選挙を戦い、二大政党制を定着させること。密室政治に代わって情報公開を進め、国民に開かれた民主主義を実現すること。長年の自民党政治に限界を感じ、民主党の可能性にかけた有権者の思いが、政権交代の原動力であった。
 政権交代後、普天間の県外・国外移設という公約を実現しようとした鳩山首相の問題提起は評価できる。しかし、鳩山首相は自らの公約を完全に覆して、辺野古に新基地を建設する日米共同声明に合意し、辞任した。鳩山首相が批判されるべきは、「県外・国外」を公約として挙げた点ではなく、それを実現する準備も覚悟も全くないまま、既定路線を推進する官僚の思うままになった点である。鳩山首相がマニフェスト実現に向けて努力していたように見えたのに対し、後継の菅政権は国民が政権交代に期待していたものを次々と手放していった。消費税増税論、官僚依存、情報公開後退など、国民の政治不信を政権交代以前よりも深めてしまい、政権の政策遂行能力を劣化させた。
 対米関係では伝統的な交渉スタイルを維持し、米国内に既定路線変更の議論が出てきているにも拘らず、そして沖縄県内では県内移設に対する反対の世論が明確にあるにも拘わらず、既定路線にしがみつこうとしている。日本が期待するものをアメリカが常に提供し続けてくれるとは限らないのに。

(2)3・11が明らかにしたパワーの低下
 私達は、3・11の地震、津波、原発事故を経験して、沖縄と福島の類似性、政策遂行能力の劣化、そして日本のパワー(国際社会における存在感)の低下が明らかになったと考える。
 沖縄と福島の類似性を指摘する言説が目に付くようになった。この国の政治は、平和の問題も安全の問題も、特定の、それも所得水準の低い地域に地域に押しつけ、補助金や交付金という名の税金を使って「納得」させることで、根本的問題に取り組むことを避けてきた。国民が平等に負うべき社会的負担や危険を、こうしたやり方で「解決」することは改めなければならない。
 以前から明らかになっていた政権の政策遂行能力の劣化は、3・11以降の復興の遅れ、放射能汚染から国民を守ることの失敗によって、より明確になった。官僚主導から政治主導への移行がうまくいかず、エネルギー政策においても明確な見取り図を示せず、政府の政策決定能力が損なわれていることが露呈した。
 そして、日本のパワーの低下。世界は日本の政治の政策遂行能力の劣化に気付き、日本の技術の先進性の神話にも疑いを持ち始めている。それは、社会の高齢化と産業空洞化の危機を前に、日本経済の先行きへの不安に拍車をかけている。安全保障問題でアメリカに依存し、地方を犠牲にする姿勢に「持続可能性」がないという見方も含めて、これらは日本のパワーの低下を意味している。パワーの低下が避けられないとしたら、中ぐらいの国家としての日本に、どのような対外関係が適切だろうか。

4.中ぐらいの日本へ

 震災救援にあたり、米軍は、トモダチ作戦と称して、被災地への物資輸送や復旧作業に携わった。防衛省から割り当てられた地域への輸送の他に米軍は、自衛隊との共同指揮のもとで災害救援活動を展開した。この作戦では、日本のメディアを狙い撃ちした米軍との共同活動の意義を広め、多くの国民に米軍の有用性を確認させようとした。同時に、トモダチ作戦に動員された米海兵隊と普天間基地と結びつけて、沖縄への米軍駐留の正当化を狙った。この理屈は、従来と変わらない沖縄利用の再現であった。沖縄では災害救援と米軍基地による負担とは別なことだと冷静に捉えられ、日本のメディアの報道振りとは対照的であった。

(1)支援を受ける国、日本
 ここで見過ごせないのは、トモダチ作戦がショウアップされる中で、アジア諸国からの支援が見えにくくなってしまったことである。震災救援の活動は、周辺のアジア諸国が派遣した救援隊にも担われ、そして義捐金も寄せられていた。日本人の多くは、救援やお金などの支援を日本が受ける側になるとは想像もしなかったであろう。先進国・日本は支援を送る側に立つと、長い間、多くの日本人はそう考えてきた。日本を取り巻く国際環境の変化は、3・11以前にも顕在化していた。たとえば、経済大国を象徴する世界第2位を誇った日本の経済規模(GNPあるいはGDP)は中国に抜かれ、1人あたり国民所得ではシンガポールにそれ以前に抜かれていた。特殊な分野以外では、日本の技術力は激しい国際競争に晒され、周辺のアジア諸国だけでなく欧米の技術新興国にマーケットを奪われてきた。

(2)新秩序の担い手としての中国
 日本は、冷戦期とポスト冷戦期そして今日なお、米国を唯一の親密な同盟国として米国の側に付いてきた。米国が世界の秩序を担う限り、米国の覇権のもとで経済的繁栄と政治的安定を享受できると考えてきた。9・11以後の米国「一極体制」は、アフガン、イラクでの戦争における躓きと同時に崩壊し始めた。イラクからの撤退を主張して政権についたオバマ大統領にとって、一極後の新たなる国際秩序の構築、そのための米国の位置づけが最大の課題である。
 東アジアにおいては、経済的台頭に伴って、中国の政治的、そして軍事的拡張が目立ってきた。とくに安全保障の観点から、中国の軍事力増強による地域の不安定化を懸念する声が、中国周辺の国々において高まってきた。現行秩序の変更を求める挑戦者として中国、秩序を維持する勢力の中核に米国をおき、その側に位置するのが日本だととらえるのが大多数の理解であった。
 2011年の東アジアにおける中国の行動は、従来の拡張的な姿勢に加えて、秩序維持の立場を強めつつある。経済的にみれば中国は、グローバル経済に深く組み込まれつつも、貿易、投資、資源の各領域において存在感を高めているのは紛れもない。そして、ゼロサム・ゲーム的に捉えられる領土問題をめぐって中国は、東シナ海で日本と韓国、南シナ海でベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイなどとの間で対立してきた。
 つまり、中国の出方によって、地域の緊張が高まる構造が作られてきた。確かに、2010年に中国はこれらの国々との対立を一気に緊張へと高め、そしてオバマ政権の米国との間で厳しい対立姿勢を世界中に見せつけた。しかし、南シナ海をめぐる領土問題では、中国の軍事的存在を前提にした秩序ができあがりつつある。西沙諸島はいうまでもなく、南沙諸島においても、中国は海軍力と航空機をもって2つの大きな島を除く環礁や岩石周辺の実効支配を確実にしてきた。この秩序の中に船舶の自由航行を求める国際法の適用を米国が求めている。中国は米国の主張する航行自由が実現している事実を指摘し、ASEANとの行動規範(CoC)の作成に向けて一致している。中国は、南シナ海でみると、挑戦者から秩序維持勢力の中核的担い手へと変化しつつあるのだ。
 こうした中国の変化を捉えることなく、民主党政権の日本は、自民党政権時代に続き今なお秩序変更を狙う挑戦者として中国を敵視し、日米の軍事的補完関係を強化する姿勢を続けている。米国は、1971年の米中国交正常化から40年を迎える中、存在感を急増させた中国との新たな関係構築を求めている。安全保障と経済の観点から、オバマ政権は中国との対立と協調を織り交ぜながらの外交を展開する。同時に、日本、韓国、豪州などの旧来の同盟国と連携し、ASEAN諸国やインド、パキスタンなどとの多国間枠組みを構想しつつある。
 3・11後の日本のパワー低下は、物理的なパワーの変化がもたらした現象ではない。前述のような国際環境の変化にも拘らず、対米関係が深まればすべて良しと旧い外交にしがみついてきたため、日本が東アジアでの存在感を自ら薄めてきたことの帰結だ。当事者意識を持ち、多国間フォーラムを効果的に使いこなして、地域を安定化させる新しい外交を創り出さねばならない。近代日本がめざしてきた「大国」意識から脱して、周辺国としなやかな関係を築ける成熟した「国づくり」意識こそ、これからの日本にふさわしい。

5.沖縄の立場

(1)3・11を日本転換の契機に
 3・11、とりわけ福島の原発事故は、沖縄に大きな衝撃を広げている。沖縄では、辺境沖縄に在日米軍基地の圧倒的多数を押し付け、日本(国民)は、「偽りの平和」を享受している。と認識していた。ところが、福島の原発事故は、辺境に危険な原発を押し付け、そこから得られるエネルギーで、日本(国民)は、「偽りの豊かさ」を享受していたという、もう1つの構造的差別をも浮き彫りにしたのである。
 ただ、両者の間には、押し付けられたものと、受け入れさせられたもの、という差が存在する。もとより現在原発が立地しているすべての地域において、原発誘致反対運動があったと聞く。しかし、甘言、策略、そして電源立地交付金等の力によって、反対運動は押しつぶされ、全国18カ所、54基の原発が林立し、増設決議を行う地方議会までが現れている。
 にもかかわらず、ついに原発を拒否した地域もある。住民投票の結果、原発を退けた新潟県巻町がその一例である。沖縄で巻町がよく知られているのは、ちょうど同じ時期、普天間代替施設と称する新基地建設問題に対して、名護市民の意志を党名護市民投票が行われたからである。そしていずれも、反対派が勝利した。だが、巻町の原発建設計画は撤回されたが、名護市辺野古の新基地建設計画は、撤回されなかった。それどころか、現在もなお、名護市民、そして沖縄県民に圧力をかけ続けている。それは日本が、日米関係に関する限り、米側の意向を忖度することなしに自立的意思決定をすることができないからだ。
 沖縄は、3・11を、民主的で自立的な日本に転換する契機とすることを願っている。3月下旬、沖縄県庁前で、「思いやり予算を被災地へ」という横断幕を掲げて署名運動を始めた人々がいた。同じころ、3・11を踏まえたパラダイムシフトとして、「自衛隊を国際緊急援助隊へ」という発想もあるべきだ、という新聞投稿もあった。「思いやり予算」は、日米地位協定上は在日米軍が負担することになっている駐留経費を、特別協定によって日本が肩代わりし、今後毎年1881億円を5年間保障するというものである。こうした他の同盟国に例を見ない過剰サービスが、米軍の居心地を良くし、ひいては構造的沖縄差別を続けている。
 民主党は、前回はこの特別協定に反対したにもかかわらず、今回北澤俊美防衛相は、「日米同盟は国の根幹で、予算を消滅すれば防衛政策に食い違いが生じる。震災は突発的なもので一緒に論じるのはいかがなものか」と述べ、衆参両院ともわずか一日の審議で民主、自民、公明などの圧倒的多数で承認された。また、7月中旬沖縄を訪問した「新世紀の安全保障体制を確立する議員の会」の前原誠司(民主)、中谷元(自民)、佐藤俊樹(公明)らは、「日米で合意した米軍普天間飛行場の辺野古移設を超党派で推進していく」と強調した。これだけの大災害に直面しながらも、これを転機に新しい日本の在り方を追求するのではなく、既定路線を惰性的に踏襲し続けようとしているのである。

(2)名護から始まる自治追求の街づくり
 「沖縄」を論じる言説の中には、特定の意図をもって発信されるものが少なくない。特に中央メディアが発する沖縄観には、基地の島・沖縄を意のままに支配し続けようとする政府の国民向けの印象操作を無批判に下支えしているものがある。その最たるものが、「沖縄社会、経済の基地依存」論であろう。
 沖縄に米軍基地を置き続ける「構造的差別」を助長してきた大きな要因の1つに、「沖縄は基地がないとやっていけない」という見方が根深く存在する。全国に流布された誤った常識である。基地関連の経済指標と、基地受け入れと経済振興を取引材料にすることを疑問視する沖縄県民の意識の地殻変動からすると、基地依存からの脱却の流れは押しとどめられるものではない。
 米軍統治下、そして本土復帰後も、日米両政府は、米軍基地を安定的に維持するため、基地を受け入れざるを得ない沖縄の社会経済構造を政策的につくり出してきた。日本政府は中央への財政依存が深まるほど、沖縄での米軍基地維持がたやすくなる政策を推進した。
 沖縄経済が基地に大きく依存していた時期はあった。1950年代には基地関連収入が県民総生産の50%を超えていた。本土復帰時点では15・5%となり、その割合は減り続け、今では5%前後にまで低下した。
 米軍基地が県土全体に占める割合は10・2%、沖縄本島では18・4%を占める。にもかかわらず、基地は5%程度の経済効果しか生み出さない。米軍基地の土地利用の非効率さが歴然としてきた。
 普天間飛行場の基地関係収入と、基地外の宜野湾市域の純生産を比べると、基地外が2・5倍に上る。浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)も同様だ。基地を維持するよりも、返還・跡地利用した方がはるかに経済効果が大きくなることは返還跡地の実例が証明している。那覇市の新都心地区は返還前の20倍近い生産誘発額があり、約100人だった基地従業員が4000人近い雇用を生み出す街に変貌を遂げた。北谷町の美浜・ハンビー飛行場跡地の生産誘発額は約300倍に上る。
 在日米軍の再編によって、普天間飛行場を含む嘉手納基地より南の6基地が返還されることになっている。戦中戦後に米軍が組み敷いた県内で最も肥沃で平坦な優良地郡である。過大評価を避けるため、沖縄県が厳しいデータに基づいてはじき出した経済誘発予測は、1兆1000億円余に上る。
 こうした数値を積み重ねていけば、「悪貨(米軍基地)」が「良貨(民間経済)」を駆逐している実情がくっきり照らし出されてくる。
 政府が繰り出す基地絡みの「振興策」は地域を後戻りさせた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の見返りとして投じられた北部振興策は市町村財政をさらなる国依存型に仕向け、名護市の失業率はこの10年で悪化の一途をたどってきた。
 こうした中、「海にも陸にも基地は造らせない」と公約した稲嶺進氏が2010年1月に名護市長選挙で当選を果たした。政府が普天間飛行場の沖縄県内移設を推進する上で錦の御旗だった「地元自治体の同意」は崩れた。そして、仲井真弘多知事が同年11月の県知事選挙で、普天間飛行場の県外移設を求める公約に舵を切る。仲井真氏の方針転換の土台には、党派を超えてかつてなく高まった県内移設反対の県内世論と、基地絡みの振興策の「幻想性」を深く認識した沖縄の民意が横たわる。アメとムチを振りかざす「補償型の基地維持政策」の限界とそれを忌み嫌う沖縄の民意が鮮明になりつつある。
 米軍普天間飛行場の移設先とされて以来、名護市は、国策と地方自治が鋭く交錯する宿命を抱え込んできた。基地受け入れの代償として獲得する振興策が、主体性ある地域づくりに結びつく否かという根源的な問いを常に突き付けられてきた。稲嶺市長は、原発立地を促す電源三法をモデルとしてつくられた「米軍再編推進法」に基づく基地移設の進展に応じて出来高払いされる米軍再編交付金に縛られない、名護の自治を追及する街づくりを掲げている。
 稲嶺市長の当選後、政府は市の公共事業に充てる米軍再編交付金を凍結するなど、露骨な揺さぶりをかけてきた。だが、稲嶺市長は2011年度に再編交付金を計上せず、代替財源で対処する決断を下した。アメとムチに翻弄されず、他人任せでない名護市全体の活性化に向け、街づくりの理想を追求する動きが目立つようになっている。「『誰かが何とかする』ではなく、『自分達でやろう』という意識が必要」という名護市の街作りのリーダーの1人が発した言葉は、沖縄の未来を拓く気既にふさわしい。
 沖縄の施政権返還後、四次にわたった「沖縄振興計画」が2012年3月に終わりを告げる。27年間の米軍統治で立ち後れた社会資本整備に政府が責任を負い、道路や空港、港の整備など、一定の役割を果たしてきたが、近年は弊害ばかりが浮かび上がるようになった。都道府県の長期振興計画で、当該自治体に決定権がないのは沖縄だけだ。国直轄から抜け出せない公共事業費は、県民生活に近い教育や福祉には充てられない。全国平均のほぼ倍で高止まりする失業率、全国の5分の1に甘んずる「製造業」比率など、財政投資が民間経済の誘発に結びつかない悪循環を断ち切るべき時を迎えている。
 沖縄は、地域の将来を自ら定める「自己決定権」が奪われてきた。だが、ようやく、国の呪縛から解かれ、2012年度から沖縄県が策定する次期振興計画が立案される。沖縄振興の姿は、地域主権と自己決定権を両輪にして様変わりする。厳しくも希望を書かせる沖縄の自治再生の営みは、押し付けられた沖縄観、日本と沖縄の関係性を改める試金石となるであろう。

まとめ

 政権交代と3・11を経て、私達は、政治家頼み、政党頼みでは、行政官僚依存の国内政策と米国依存の対外政策という行き詰まりから抜け出すことが出来そうもないことがわかった。政治不信の裏返しとして、政治家が世論調査を利用して政策選択をするかもしれないが、政治家のイメージやパフォーマンスに一喜一憂しても事態は好転しない。
 人々の平和と安全を手に入れるためには、地域の社会関係資本(ソーシャルキャピタル)に支えられた地域主権の確立が必要である。地方分権によって「与えられた」予算や権限だけでは不十分なのだ。国民が平等に行うべき社会的コストやリスクを、従来のやり方で「解決」することは改めなければならない。まずは、地域社会と政府の努力によって負担・危険を減らす事、それでも残る負担・危険を地域社会が公平に分担する事が求められている。
 沖縄に即して言うならば、旧い安全保障政策を捨て、東アジアの安定と平和に寄写する安全保障政策を打ち立てることだ。旧い安全保障政策とは、沖縄の人々に負担を押しつける日本の安全のあり方である。3・11を契機に日本のエネルギー政策を見直すのと同様に、沖縄に依存してきた日本の安全保障を俎上に載せ、沖縄の人々も日本本土の人々と等しく安全で安心に暮らせるようにしなければならない。原発による電力需給関係でいえば、福島の負担の上で東京が繁栄する構造から決別しなければならない。
 東日本大震災からの復興が日本全体の課題であるのと同様に、戦後60年以上にわたり沖縄に甘え、依存してきた安全保障政策からの決別が、日本の課題なのだ。
(『世界』2011年10月号)



【2011.10.13】 「大田静男「教科書問題 隠ぺいされた八重山史」を読む

教科書問題 隠ぺいされた八重山史


大田静男(おおた・しずお1948年石垣市生まれ。元石垣市文化財審議院。著書に『八重山戦後史』『八重山の芸能』『八重山の戦争』)


巧妙な手段で歴史否曲
国の責任問わず住民に転嫁



 教科用図書八重山採択地区協議会(会長・玉津博克石垣市教育長)が「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社の公民教科書を選定するまでの手法は、「つくる会」系教科書が採択された横浜市など他地域と同じである。この巧妙な手段がいずれ沖縄にも波及するのは必定だと思っていた。
 県内での右傾化は急に起こったことではない。戦争体験者は高齢化し、米軍占領下の基地建設のための土地強奪、人権無視の歴史はかなたに追いやられた。県平和祈念資料館の「住民虐殺」の軍関与を薄めるような展示変更や、慶良間列島での「集団自決(強制集団死)」の軍関与を否定する大江・岩波裁判提起があった。
 八重山では与那国町や石垣市の保守首長誕生によって、自衛隊、米軍のヘリコプターが物顔で飛来を繰り返している。
 与那国町は積極的に自衛隊誘致を図り、石垣市では市議が市長と連絡をとりあいながら尖閣に上陸した。防衛協会も前面に出て、日の丸を振って自衛隊を歓迎するまでになった。国境の島には国防意識、愛国心、憲法改正を訴える横断幕やポスターがあちらこちらに貼られ、ハトの島はいまやタカの島に大変貌を遂げようとしている。
 そのようななかで、教育が狙い撃ちにされたのである。


■付け入る隙間
 育鵬社の歴史教科書「新しい日本の歴史」は、今回選定されなかったものの、琉球(沖縄)の重要な歴史など、国家責任に及ぶものは意図的に隠蔽している。
 琉球併合の例を挙げれば、脱清人たちの抵抗や、明治政府が軍隊を派遣して首里城を開城させ、反対運動を弾圧したことなど全くない。
 コラム「蛍の光りの歌詞4番」には、「千島のおきなわも やしまのうちのまもりなり…」と沖縄も領土だと紹介しているが、明治政府が琉球処分の翌年、日清修好条規で最恵国待遇得るために沖縄県を解体し、八重山・宮古を清国に割譲しようとした、いわゆる分島案には全く触れていない。
 八重山地区の教育委員は果たして、このような歴史を知りながら、育鵬社の教科書を評価したのだろうか。
 育鵬社版歴史教科書の隠蔽と狡猾は沖縄記述にも如実に表れている。
 日本軍が住民や朝鮮人を殺害したり、銃口を向けたことは一切記述されていない。「米軍の猛攻撃で逃げ場を失い、集団自決をする人もいました」とし、日本軍はまったく関与していないのである。つまり「自決」の責任は住民にあるということである。
 八重山の戦争マラリアは、軍が住民を汚染地域に強制的に退去させたことによって起きたが、かつて八重山戦争マラリア特性者慰霊之碑の式典で、沖縄開発庁長官は「戦禍を逃れた数の住民が避難を余儀なくされ…」と弔辞を述べた。
 また2006年までの内閣府マラリア慰藉事業のホームページにも「先の大戦時に沖縄県八重山地域において住民の方々がマラリア有病地帯への避難を余儀なくされ、衛生状態も悪く食糧も十分でない過酷な生活の中マラリアが集中的に発生し、多数の方がなくなられました」とあった。
 育鵬社の教科書には戦争マラリアの記述さえないが、軍の強制という主語が意図的に消され、住民に責任を転嫁する文脈は以前からあったのだ。こういう重大な問題を根底から批判することなくやりすごしたことが歴史を歪曲し、日本国憲法を敵視する勢力に八重山(沖縄)がつけ入る隙を与えたことを考えなくてはならない。

■教育の隷従
 沖縄戦、それに引き続く米軍占領支配下でどれだけの沖縄県民が虐殺され、財産を破壊され奪われたか。沖縄施政権返還については何故アメリカ施政権を持ち、その下で何が行われ、どういう理由で沖縄の人々が本土復帰をめざしたか。記述はない。
 この教科書は、日本国家の国益のためには沖縄を他国へ譲渡もしくは占領支配を容認してきたという歴史を、言葉のあやで巧妙に隠蔽しているのである。
 そのような史観を持った人たち(著作関係者13人中7人が歴史の執筆者と同じ人物である)が公民とは言わずと知れたものだ。
 育鵬社の「新しいみんなの公民」は憲法敵視、天皇賛美、軍隊(自衛隊)容認、日米同盟の必要性を強調している。国民が「国のためになにができるか」を考えることをねらいとしている。
 沖縄県民の意思よりも米国の国益を優先させ、基地被害をないがしろにし、核持ち込み(密約)で国民を欺いた政府。それには一切触れずに「国のために何ができますか」はない。この教科書を採択することはすなわち、教育の国への隷従である。
 風穴は開けられた。風はやがて沖縄中に吹き荒れる可能性が強い。ひとりひとりが問われている。
(沖縄タイムス20110914)

【2011.09.22】 「現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」を読む

 改めて、崎原盛秀さんインタビューの「現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」(『情況』2010年11月号)を風游サイトにアップしようと思い立ったのは、1974年9月、「四面楚歌」の中で、当時の「輝ける屋良朝苗革新知事」を相手に、提訴に踏み切った「金武湾を守る会」の「提訴にあたっての声明(1974年9月5日)」を入手したのとほぼ同時に、2011年6月4日に開催された「日本平和学会2011年度春季研究大会」での「施政権返還後の沖縄における住民運動と裁判−石油備蓄基地建設反対闘争(1973-1985)における裁判をめぐって」と題する上原こずえさんの報告レジュメを読んだことによる。
 上原さんについては、すでに風游サイトでも紹介しているが、世代を超えて、教訓を掴み出す作業が今に引き継がれていることも含め、琉球弧の住民運動の原点でもあり、かつ未決の復帰運動に対する民衆運動としての総括的提起を伴った闘いでもある、この「金武湾を守る会」を記録したいとの想いも強い。

金武湾闘争
  ☆崎原盛秀さんインタビュー「現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」(『情況』2010年11月号)
  ☆上原こずえ「施政権返還後の沖縄における住民運動と裁判−石油備蓄基地建設反対闘争(1973-1985)における裁判をめぐって」
  ★金武湾を守る会「提訴にあたっての声明(1974年9月5日)」


【2011.08.30】 『沖縄社会大衆党史』を読む

  いわゆる「68年体制の解体」について考えていたところ、やはり沖縄社会大衆党の存在にぶつからざるを得なかった。「55年体制の崩壊」がその内実はともかく、誰の目にも明らかなように、自民党一党支配の終焉という形で示されたが、「68年体制」は社大党・社民党・共産党の三党体制=「革新共闘」として生き延びている。社民党の沖縄的「奮闘」もさることながら、やはり社大党という「土着政党」の存在は大きい。

 もともと、社大党史を読むきっかけの一つに、土着をキーワードとしながら、政治的には「中道(左派)政党」、あるいは「ヌエ的政党」と呼ばれ、1972年併合後、試行錯誤はあれ、「本土一体化・系列化」を拒否し、復帰から自立への転身を模索している、この党派に、それなりの魅力を感じたからでもある。
 しかし、「社大党史」を読み始めたとたん、問題意識がそれからずれてしまった(と言うより拡散してしまった。今でもまとまらない)。それは社大党前史とも言える、1947年の民主同盟結成からの政党続出と、1950年群島選挙(知事・議員の公選)を転機とする社大党結成までの、戦後沖縄初期の、いわゆる独立論的熱気が数年も経たずに、日本復帰(祖国への復帰であり、日本への併合)運動に取って代わられ、拡大し、本流となっていったことについてである。
 そもそも「復帰政党」として自他共に認めた社大党からして、その出発点(結党宣言にせよ、綱領にせよ)においては「復帰」はまったく触れられていない。併合10年を経て、「琉球共和国憲法F私(試)案」(新沖縄文学81年6月に発表)を執筆した仲宗根勇は「明らかに民衆は、『母なる祖国』」というような甘ったれの国家幻想とは無縁の地点に立っていた。つまり、戦後初期のように(独立的熱気が)横溢していたことは、ほとんど自明なことと言ってよい。要するに、『沖縄自立=独立論』こそが、当時における正統かつ多数派的な沖縄の思想にほかならなかった。」(「特集 沖縄にこだわる―独立論の系譜/沖縄民主同盟――立ち枯れた沖縄独立共和国の夢」新沖縄文学1982年9月)と述べていた。

 かつて社大党書記長を務めた比嘉良彦は『地域新時代を拓く−沖縄社会大衆党論』(八朔社1992年9月)で、復帰政党としてのスタートを切った1951年の第2回大会では「住民の経済福祉に重点をおいた手段的復帰論であった」が、「第15回大会(1962年10月)」では「かつての手段としての復帰論はまったく影をひそめ、“復帰すればすべて良くなる”といった『復帰幻想』にどっぷりとつかった復帰政党としての姿が見られるだけである」と述べている。しかし復帰最優先・復帰万能論の方針を掲げるようになったとしても、「沖縄の立場を代表する」政党としての社大党にとって、底流には「復帰手段論」と通底する「復帰利用論」とでも名付けうるものがあった、と思われた。もちろん、そのしたたかさは、それ故、併合派・買弁派をも生み出してゆくという二律背反の構造ではなかったか。
 ここでは、「占領軍=解放軍」神話からも、「母なる祖国」幻想からも、全く自由ではなかったにせよ、位相の異なる地平が垣間見られる。

 現在、「自己決定権」が、あたかも民族自決権に取って代われることで、こう言ってよければ、その口当たりの良さで人口に膾炙している。しかし、沖縄自治研の島袋純が民族自決権と自己決定権の区別についてはっきりと提起している(「(「県民」は)独立国家の権利有する」沖縄タイムス2010年7月14日)ように、問われているのは「主権」すなわち権力をめぐる「自己決定権の行使」であろう。それゆえ、やはり政党・政治勢力・政治潮流問題としてこの<独立−復帰−自治・自立・独立>を解きほぐしていかなければならない。

 沖縄民主同盟・沖縄人民党……、「蔡温」にも擬せられた西銘順治は、社大党創立メンバーにして、青年部長であったし、かつての琉球独立党につながる崎間敏勝も、おなじく中央委員兼遊説部長であった。混沌とした初期の政党形成は、琉球新報社長となる池宮城秀意が、「人民党」と「社会大衆党」の両方の名付け親(!)でもあったし、人民党と社大党の中央委員でもあった。さらに兼次佐一は人民党の中央委員(初代浦崎康華委員長の後を襲い委員長に就任!)から社大党の書記長になり、後に人民党に担がれ、社大党を離脱し「社会党」を結党する。「社共共闘」の悪見本だが、そして那覇市長時に、余りにも米軍政府に迎合的であると批判され、その社会党から除名されるという憂き目にあっている。そして、沖縄民政府官房長から琉球政府・任命行政主席にまでなり、沖縄民主党(沖縄自民党の源流)を結成した比嘉秀平も社大党中央委員であった。

 民主同盟に戻れば、党首・仲宗根は、民主同盟解散後、典型的「植民地官僚」でもあった松岡政保を中心とした保守系群島議員が結集した共和党に潜り込むも、到底、独立論など受け入れられず、次の立法院選挙直前に共和党自体は解散。民主同盟の有力幹部であった桑江朝幸は、土地連を組織し、コザの保守の重鎮となり、併合後、自民党から総選挙に二度程出馬するも落選したが、沖縄市市長も歴任。地盤が大山朝常(社大党・コザ市長。97年『沖縄独立宣言』を出版)と重なっていただけでなく、人民・社大の復帰運動勢力に与し得なかった側面もあろう、何しろ民主同盟の反日・独立論の洗礼を受けていたのだから。もう一人の民主同盟の有力幹部であり、戦前の共産主義運動にも関係していた山城善光は、逆に社大党・立法院議員となったという。
 民主同盟の青年部長(当時、20代半ば)の上原信夫は、1950年に沖縄を離れてしまっていたが、沖縄での復帰運動の開始に対して「(中国で)1952年の春ぐらいからそういう新聞が手に入るようになり……親の懐に帰るのだとか、兼次さんなんかこういうようなことを言ったということが載って、最初、兼次は頭が狂ママったんだろうかと思ったりして」と述懐する。また彼は、次のような証言をしている。「平良(辰雄。初代沖縄群島知事にして社大党の初代委員長)さんは農林何とかの責任者で、しかも、日本の翼賛会みたいな、それの沖縄人を代表するような人物の一人であったという点ですね。……かつて日本政府のすなわち翼賛会の中におけるところの彼らに与えた名誉と地位というものが、やっぱり大変ありがたかったんでしょうね。……いろいろな話し合いの中で、我々が独立すべきであると、独立するならこうであるべきであるというときに黙っていて、独立したら食っていけないぞなんていうようなことをおっしゃっておられた。」

 はてさて、離合集散は世の常、毀誉褒貶は世の習いとは言うが……。『沖縄人民党の歴史』にも目を通さざるを得ないか……。例によって、以下目次。

『沖縄社会大衆党史』

目次

発刊に際して(党史編纂委員長 仲本安一)

第1部 通史編
 第1章 社大党の結成(1945年〜1950年頃)
   第1節 結党前の沖縄政界
   第2節 結成の萌芽
   第3節 群島知事選挙
   第4節 結党大会
 第2章 初期の復帰運動(1951年〜1953年頃)
   第1節 社会情勢
   第2節 復帰運動の胎動
   第3節 任命主席と党の分裂
   第4節 植民地化反対闘争
 第3章 軍用地接収反対闘争(1953年〜1958年)
   第1節 軍用地問題の発端
   第2節 4原則貫徹闘争
   第3節 民連ブームと党の分裂
   第4節 第1党進出と一括払い廃止
 第4章 自治権拡大闘争(1959年〜1967年)
   第1節 自治権拡大と主席公選
   第2節 復帰協の結成
   第3節 第1党方式と新情勢
   第4節 自治権拡大と大衆運動
 第5章 反戦復帰闘争(1968年〜1972年頃)
   第1節 反核・反基地闘争
   第2節 屋良革新主席の誕生
   第3節 国政参加選挙の勝利
   第4節 5・15復帰の意味
 第6章 完全復帰闘争(1972年〜1980年頃)
   第1節 新たな闘いへの出発
   第2節 復帰後の諸問題
   第3節 平良知事の誕生
   第4節 80年代の展望

第2部 資料編
 第1章 年表(党30年の歩み)
     1、党活動日誌
 第2章 記録(党関係の文章)
 
1、政党に就テ(布告) 2、各群島政府の知事及び民政議員選挙(布告) 3、立候補挨拶(沖縄群島知事候補者 平良辰雄) 4、沖縄群島知事選挙政策(松岡、平良、瀬長の各候補) 5、群島知事及び群島議員の選挙調(定数及び得票) 6、沖縄群島政府首脳部(名簿) 7、宣言(結党大会) 8、綱領(結党の頃) 9、政策(結党の頃) 10、社会大衆党結成届書 11、初代党役職員名簿(本部及び支部) 12、社会大衆党月報第1号 13、琉球社会大衆党の性格(委員長 平良辰雄) 14、社会大衆党実践経過 15、馨明書(1951年) 16、日本復帰促進期成会趣意書 17、日本復帰促進期成会会則 18、琉球政府の設立(布告) 19、馨明書(1953年) 20、アメリカの琉球統治に関する見解 21、米国の沖縄統治の決算(政治編) 22、米国の沖縄統治の決算(財政編) 23、沖縄社会大衆党への理解 24、大会挨拶(委員長 安里積千代) 25、施政権返還折衝に対する基本態度と要求 26、沖縄返還折衝に関する声明 27、復帰後の党組織路線について(試案) 28、復帰後の諸問題処理に関する要請書(第1次) 29、復帰後の諸問題処理に関する要請書(第2次) 30、沖縄県戦後・政党(政治団体)一覧 31、歴代党3役 32、1980年度党執行体制

編纂後記(編纂委員 比嘉良彦)


1981年4月8日
沖縄社会大衆党史編纂委員会


【2011.07.20】 「合意してない的、高江座り込みトラノマキ/トラノアナ」を読む

  <「なーにへっちゃらさ、こちとら百戦錬磨の座り込みのエキスパートよ!」というあなたも、できれば、ちょっとだけ、前のめりな姿勢で突っ込む前に、参考にしてもらえるとうれしい。>という「合意してない的、高江座り込みトラノマキ/トラノアナ」を紹介します。言わずと知れた<Project Disagree 合意してないプロジェクトblog>です。
 例えば、“<ハラスメントについて>人がたくさん集まれば、ハラスメントもある。セクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント……我慢しないで「いやだな」「やめて欲しいな」と言えるのびのび安心な空間、指摘されたら「ごめんなさい」と認めて距離を置ける余地、そういう環境を、みんなでつくっていきましょう。……”とか“<無理をしたら誰も喜ばない>体調が思わしくないな、何か気持ちがのらないな、と感じたら、すぐに現場を離れよう。そして、元気になってから、また、座り込みに来よう。……業者や防衛局と対峙させられていやだな、怖いな、と感じたら、迷わず逃げよう。みんな弱い。……”とか、“<高江を離れても「現場」は創り出せる>”とか。
 もちろん、最新状況やヘリパッド問題について、<やんばる東村 高江の現状>や<オフィシャルパンフVoice of Takae>、<高江座り込みガイド>など、情報満載です。

 と思っていたら、日本共産党沖縄県委員会ブログなるものを眼にしました。 “話し合いを求め平和に訴える活動を大原則としています。◎非暴力(言葉も含む)に徹して、無理をせず、相手の身体等には触れないこと。◎挑発をしない、挑発をされても乗らない。◎逮捕者やけが人を出さないのが原則。”うーん、三里塚を思い出してしまいましたね。決して他人の足を引っ張らないように……

【2011.06.22】 『21世紀沖縄の自治と自立の構想』を読む

 2011年5月14日、第479回沖縄大学土曜教養講座・シンポジウム「21世紀沖縄の自治と自立の構想〜沖大構想の提案〜」が開かれた。よびかけ文は“2009年発足した民主党政権は地域主権を政策の1丁目1番地と謳った。一括交付金制度の導入や地方出先機関の廃止などが具体的政策になっている。沖縄の高率補助金制度は継続されるのか、沖縄総合事務局は県に吸収されるのか。他方、沖縄振興特別措置法は、2011年度末で期限切れとなる。今、沖縄は重大な岐路に立っている。沖縄大学大学院研究会は、2012年度以降の新しい沖縄の姿を探求し、民主的に統制された自治政府の在り方を提言する。”と語る。
 趣旨説明を仲地博(沖縄大学教授)、報告者は島袋純(沖縄大学大学院講師・琉球大学教授)、濱里正史(沖縄大学非常勤講師)、前城充(南風原町職員)、幸地東(沖縄県職員)。同日、同会場でシンポと併せて『21世紀沖縄の自治と自立の構想』(沖縄大学2011)が発売。
 同書のはしがきで研究代表の仲地博が「沖縄は、重大な岐路に立っている。国による振興計画の策定、沖縄振興予算の一括計上、高率補助の仕組みは、2011年度末に沖縄振興特別措置法とともに終わる。地域主権に即した新しい仕組みを構想することができるのか、特別措置法延長の嘆願をするのか。官民を上げてポスト振計を見据え、沖縄の現実を正確に分析し、理論的研究を深めなければならない。そのような危機意識の下で本研究は行われた。/思うに、大学は知の拠点であり、沖縄大学は特に地域とともに歩む「地域共創・未来共創の大学」として、沖縄社会の発展に理論的に寄与することこそが責務である。本研究は微力とは言え、沖縄の自治と自立の課題を明らかにし、情報を収集し、理論的に深め、沖縄像を構築し、それらを広く社会に提示し、以て地域と国の展望を語り、沖縄自立の現実の力になることを念願したものであった。」と述べている。

 沖縄自治研究会(「沖縄自治州基本法試案」2005年10月)から道州制懇話会(「沖縄の『特例型』道州制に関する提言」2009年9月)へ着実に進んでいる。(もっともタイムテーブルは5年、いや10年ほどずれ込んだか?)かつて島袋純は「沖縄の自治確立、1、短期・2、中期・3、長期展望について」
(島袋純http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5343/jichitenbou.html)で、「(2)“2006年〜2010年あたりにできそうなこと”『沖縄県自治基本条例制定・琉球諸島広域連合設立』から、『沖縄自治基本法制定と琉球諸島政府(沖縄省)設立』へ/(3)“2010年〜2020年あたり”この段階に至り、沖縄は主権国家として『独立』する。」と「夢」を描いていた。

 島袋純は「本研究の目的と意義」で語る。
……
 現在の、国の自治改革の中心的議題は、自民党政権下の地方分権改革推進委員会の議論を引き継ぎ発展させたものであり、「地域主権戦略大綱」での改革テーマは、1、一括交付金制度の導入(国庫支出金の廃止)、2、国の出先機関の廃止、3、義務付け枠付けの緩和、4、権限委譲となっている。
 国の以上4つのテーマは、沖縄においては、第1に、沖縄振興法が規定した国庫支出金の高率補助制度をどうするのか、また、基地関連の振興事業の改廃をどうするのか、という問題に結びつき、第2の国の出先機関の統廃合は、沖縄振興体制、すなわち、内閣府沖担当部局及び沖縄総合事務局の予算、事務、権限、組織、人員をどうするかという問題になり、第3の義務づけ枠付けの緩和については、県内自治体の独自のシビルミニマムの設定能力と、そのための実情調査能力、それに基づく政策形成能力、立法能力の改善に関わっており、また、第4の権限移譲については、県内自治体のガバナンスが、住民起点の計画・実施・評価・改善の経営サイクルの確立に向けて再構成されなければならず、そのためには、沖縄振興計画の策定・実施(毎年の予算化・事業化)・評価・改善の権限を国から、現在の県レベルと市町村レベルが勝ち取る必要がある。
 しかしながら、展望は必ずしも楽観を許さない。沖縄のおかれた状況においては、基地の維持存続・再編強化のために、分権化よりも集権化が進む可能性もあり、事実、分権改革あの多い流れの中でも安全保障関係、基地維持政策については、集権化が進んでいる。日米安保、同盟関係の強化について、中国の軍拡や北朝鮮問題など東アジアの緊張など、多様な理由で、それ以上深く考えもせず、本土メディアをはじめ、大学研究者にいたるまで在沖米軍の基地の維持や強化を当然とみなすか必要とみなすような思考停止状態にあり、合理的な議論がなされないまま、その上にのった政治家や政党によって利権による懐柔と分断統治(保障政治)が進展している。これは、地域の社会的ニーズを顧みない公共事業中心のいびつな補助の有り方を増長し沖縄の自治体の財政規律を破壊する効果をもつが、沖縄側でもまた新たな利権の構造を求める力とそれに応えようとする政治が一部にあるのも事実である。
 結果として、軍事優先のための利権の構造化による依存体質の増長、財政規律の破壊、そして自律性と自治の崩壊につながる道であり、分権改革の流れ、地域主権改革の理念等とは相反するものであり、両立しようがない。
……
 2011年度には時限立法である現行沖縄振興法が終了する。残された時間はわずか1年である。にも関わらず、幅広く専門家を集めた調査機構、研究提案の公的な機関はいまだに存在しない。早めに提案し、国の方針へ反映させ、2012年度以降の沖縄振興体制にとって代わるより自律的な自治の姿を沖縄から提案していかなければならない。
 本研究の意義は、大学や職員の有志がこのような問題意識を共有し合い、自発的に研究を組織化し、無償で取り組み、その提案を試みようとしたことにある。
……

 例によって目次を示す。

 はしがき
 本研究の目的と意義 島袋純
 第1章 研究会報告
  自立した地方政府の確立を目指して 増田寛也
  日本型地方財政システムと基地関係収入 川瀬光義
  地域主権改革〜出先機関改革を中心に〜 北川正恭
  北海道開発体制と道州制特区法の現状と課題 山崎幹根
  地域主権改革の課題と展望 逢坂誠二
  福祉国家の再編と地方財政改革 神野直彦
  自治通則法のねらいと概要 岡田博史
 第2章 研究会提案
  沖縄からの地域主権改革
  新しい提案
  ガバナンス改革


【2011.05.20】「屋良建議書」を読む

 幻の「屋良建議書」である。いろいろと言及されることが多いが、なかなか原文を読むことが出来なかった。今回、やっと、沖縄県公文書館で原本をコピーすることが出来た。身分証明書(運転免許証で可)が必要だったり、実物閲覧に公文書館職員に、用意された白手袋着用が義務づけられたりと、ありました。
 A5版のわずか百数十頁の小冊子ではあるが、冒頭、「……私は復帰の主人公たる沖縄百万県民を代表し、本土政府ならびに国会に対し、県民の率直な意思をつたえ、県民の心底から志向する復帰の実現を期しての県民の訴えをいたします。……/百万の県民は小さい島で、基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました。それのみでなく、異民族による軍事優先政策の下で、政治的諸権利がいちじるしく制限され、基本的人権すら侵害されてきたことは枚挙にいとまありません。県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外なりません。経済面から見ても、平和経済の発展は大幅に立ちおくれ、沖縄の県民所得も本土の約六割であります。その他、このように基地あるがゆえに起るさまざまの被害公害や、とり返しのつかない多くの悲劇等を経験している県民は、復帰に当っては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります。」と切々と訴える。しかし、体裁も含め、誤字脱字の多い校閲不十分なこうした「陳情書」はヤマト官僚に一顧だにされなかった。

建議書19721118
【資料名等】復帰措置に関する建議書 昭和46年11月18日/【資料コード】G00015600B/【解説】昭和46年11月、「沖縄国会」と言われた第67臨時国会での審議は最終段階を迎えていました。11月17日、屋良主席は、県民の声を訴えた「復帰措置に関する建議書」を国会に提出するため上京しました。/建議書は、「沖縄県民が今日まで払ってきた多くの犠牲に対し、国は、沖縄をして『太平洋のかなめ石』から『平和のかなめ石』へ転換させるための、政治的、道義的責任体制を確立して、県民福祉を最優先する施策の展開に十分な配慮をすべきである」として、自治・反戦平和・基本的人権の尊重・県民本位の経済開発を柱に、「平和で新しい豊かな沖縄県づくり」のための具体的な措置を求めるものでした。/しかし同日、屋良主席の到着を待つことなく、衆院沖縄返還協定特別委員会は同協定や関連付属文書を強行採決しました。携えてきた建議書は審議されずに終わったため、「幻の建議書」と呼ばれることもあります。慎重審議を求める県民の望みは叶いませんでした。

 島袋純が、D−Navi20101201の「インタビュー・普天間問題から見る沖縄の自治の現状と展望」の中で次のように背景説明(?)をしています。
……1972年の復帰に際して沖縄をどのような体制にするかという時に、憲法的な原理である平和や人権、沖縄で言えば「沖縄のこころ」を実現するために特別な自治制度にしてほしいという建議書を作成します。当時の琉球政府主席の屋良朝苗の名前をとって「屋良建議書」と呼ばれています。その建議書を持って屋良主席自ら日本政府に臨んだのですが、結局無視されてしまいました。
 その代わりに成立したのが沖縄振興開発体制です。……ですから、「屋良建議書」で求めていたような、人権とか平和を求めるために沖縄の自治権を拡大する制度ではなく、振興開発や格差是正が沖縄の最重要課題であるとし、そのための公共投資を大量に沖縄に流せるシステムを作るということで一挙に国主導の振興体制が出来上がるのです。今でもそうですが、振興策というのは国策なのです。国主導の振興体制が出来た結果、沖縄県の自治は沖縄の人が「屋良建議書」で求めたような平和や人権を求める制度にはなっていない、ということです。
……ただ当時主席であった屋良朝苗さんに、最初は復帰後の沖縄県に他の府県と異なる特別の制度を導入すべきだという確固たる哲学と理念はなかったと思います。彼は日本ナショナリストとしての側面が強く、本土他府県とちょっと違う制度を沖縄に導入するということよりも、日本人として普通の県でいいという発想が強かったのではないでしょうか。
 しかし、「屋良建議書」に至る段階で琉球政府の内部でも、せっかくここまで米軍から権限を獲得したにも関わらず日本の普通の一県になった時にどう扱われるのか、余りにも不利ではないかという議論が出てきました。琉球政府の中でも見直しをして、1970年から71年にかけて、沖縄県は普通の県ではなく特別な県にしようという「屋良建議書」でまとまったと思います。70年くらいまで琉球政府にそんな意識はなかったのですが、復帰が目前に迫ってきて琉球大学の先生の議論が出てきたこともあり、71年の「屋良建議書」にも特別な制度という哲学が初めて出されたのではないかと思います。
……(D-Navi 東アジアから軍縮平和を目指す総合情報サイト2010/12/01)

 次に沖縄タイムスの記事。「沖縄振興〜39年目の答え」という連載コラムの<第1部「ガラスの天井」>■20「本土復帰と振興策(下)」(2011年3月28日)で、次のように屋良建議書について言及している。

基地前提の計画採用
 復帰準備のため琉球政府主席・屋良朝苗が委嘱した復帰対策県民会議。審議が終盤を迎えた1971年5月、委員のうち4人が、会長と屋良あてに意見書を提出した。
 意見書は「(県民大会では)基地問題について意識的に避けてきた」とし、会議で審議中の復帰対策要綱へ「軍用地の即時撤去」「米国の不当支配に対する損害賠償の要求」など8項目の建議を提案した。
 会議を仕切る復帰対策室長・瀬長浩は、後に著書で「(委員の)四氏はかなり思いつめた様子で、県民会議分解の危機をはらんでいた」と振り返る。同著によると屋良は、会議は基地問題を論じる場ではない−と四氏の提案を突っぱねたという。
 異論を唱えた委員の一人は、会議発足とほぼ同時期に琉球政府職員有志が立ち上げた行政研究会へも参加していた。
 研究会は、復帰後の沖縄振興を方向付ける国要綱をはじめすべての施策が、米軍基地返還に触れていないことを疑問視。研究会に参加していた吉元政矩は「それまでの復帰作業で示されていたのは、米軍基地の存在を前提とした沖縄像だった」と話す。
 研究会は、琉球政府が70年5月、総務長官・山中貞則への要請書で求めた沖縄開発庁の設置にも異論を唱えた。開発庁の施策に対する沖縄側の意見反映の機会が薄く「沖縄の自治が再び侵害される危険性があった」と吉元は語る。「復帰が、米国から日本への単なる施政権≠フ返還になることを誰もが恐れた」
 「何だこれは」。国の復帰作業の総決算でもある「沖縄国会」の開催を約1カ月後に控えた1971年秋、屋良は研究会がまとめた「復帰措置に関する建議書素案」を見て驚いた。県民会議はすでに審議を終えており、琉球政府と国が進める復帰作業は整ったはずだった。
 そんな折、建議書素案の存在を知った屋良の心中は語られていない。だが素案の存在にためらったかのような態度には、内部から一時批判もあったという。これに対し秘書・大城盛三は「『屋良さんは建議書に反対なのではないか』と言う人もいたが、それは決して違った」と言い切る。
 屋良は、副主席・宮里松正のもと「復帰措置総点検プロジェクトチーム」を結成。国会への建議書提出に向けて内容の精査を急がせた。しかしできあがった建議書の提出は、衆院特別委員会での自民党による強行採決で間に合わなかった。
 復帰直前、沖縄で作成された「復帰対策要綱」と「建議書」の振興計画=Bこの時、国が採用したのは前者となったのである。
(敬称略、肩書は当時/「沖縄振興」取材班・黒島美奈子)





【2011.05.11】「県民意識調査」を読む

  まだまだフクシマは危ない。電気と核とをエネルギー問題として同一化させてきた陰謀の化けの皮はまだまだ剥がれてはいない。「在日特権を許すな」なる不潔な言動で千人以上を集めてきた差別・排外主義グループが、「原発のない社会よりパチンコのない社会を」などと喚いていたが、5.7渋谷駅頭では10人もいなかった。で「浜岡原発停止」の報が流れる。転んでもただでは起きない政治家と資本家どもではあるが、ここは「素直に」喜ぶ。Twitter上では様々なつぶやきが流れているが、「菅と子どもは褒めて育てる」というつぶやきを眼にした。

 と言うことで(笑)世論調査である。
 2007年4月に琉球新報社『2006沖縄県民意識調査報告書』が出された。「全国と沖縄を比べるとき、県民は47都道府県と自らを同列に置いた47分の1の発想にはならない。いや、ならなかった。常に2分の1というのは、中央対地方という対比ではない。ヤマトゥ対ウチナー。いつも沖縄があって、海の向こうの国内は、ひとくくにしてヤマトゥだ。」(はしがき)という書き出しで、2001年12月に初めて県民意識調査をして、5年後の06年に、前回調査とどう変わったかを再度調査した。「ウチナーンチュ・アイデンティティ」がどうやらこの調査のターゲットらしい。
 この種の意識調査(世論調査やアンケート)については、いつも眉唾もので眺めていたが、09年に沖縄県が実施した「くらしについてのアンケート」(1979年の第1回から5年ごとに行われている県民選好度調査)や、2001年を最後に終了した内閣府大臣官房政府広報室(組織改組前は総理府大臣官房広報室で1975年から不定期で行われた)による「沖縄県民の意識に関する世論調査」などの各種世論調査を読んでみた。
 それぞれ発表当時新聞などに報道されたが、琉球新報調査は07年元旦号に発表されるとともに、それを元に「素顔のウチナーンチュ」「県民像を読み解く」などが連載コラムとして10回近く掲載され、上記冊子として出版された。

(1)新報調査は、まず「あなたは、今の生活に満足していますか」と訊く。
 「とても満足」と「まあ満足」を併せた満足度は、前回(2001年)調査より4.8ポイント減の61.5%。年代別では50代が唯一60パーセント台を割っている[この「50代」に注目!調査時点での年齢を考えれば、紛れもない「68年世代」であり、「復帰運動」の渦中に「青春」を過ごした世代である]。地域別では八重山地区が79.2パーセントでダントツだが、他方宮古地区は58.7%最下位。
 今後の見通しでも、「良くなる(とても+やや)」は19.8%、「悪くなる(とても+やや)」は30.4%に対して、50代は「とても悪くなる」がこれまた唯一10%を超えている。地域別では、これまた八重山地区が「良くなる(とても+やや)」で29.2%を示しているのに、宮古地区では最も低い10.8%であった。
 日本政府による世論調査は1975、76、77年と併合3年後から3年にわたって毎年調査。その後81年から2001年を最後にほぼ4〜5年おきに実施。そこでは「暮らしに対する満足度」は81年調査からで、それ以前は「去年と比べて暮らし向きはどうなったのか」という設問。
 「去年とくらべて」は、「良くなった」は5〜6%台で推移しているが、「苦しくなった」は漸減し続け(1975年=45.3%から1994年=27.2%へ)、「同じようなもの」は逆に漸増し続けた(1975年=43.7%から1994年=67.1%へ)。代わって「満足度」は、81年の50.6%から2001年の77.4%へと上昇。新報調査は2001年が66.5%で5年後の2006年は61.5%と逆転現象を生じさせたから、日本政府が2001年で調査を止めたのは「正解」か(笑)。

(2)新報調査は、その他、沖縄料理の選好、沖縄文化の誇り、方言への愛着、地域行事への参加、模合、祖先崇拝、トートーメー(位牌)継承など興味深い項目が並ぶが、「あなたはユタへ悩み事を相談しますか」という項で、琉球新報の解説は「8割がユタに相談しない」(まったくしない60.2%+あまりしない19.3%)と見出しをつけているが、「あまりしない」を「一度でもした」と考えれば、よくする2.3%+たまにする14.8%を加えて、なんと「したことがある」人は36.4%にも上る。もちろん20代では、18.9%となるが、ここでも50代34.3%は、40代36.9%や60代47.9%に比して低い。こうした50代の傾向は、「あなたは沖縄人(ウチナーンチュ)であることを誇りに思いますか」の項でも顕著である。これまた解説では「85%が『沖縄人』に誇り」との小見出しをつけており、それ自体、特筆すべき事柄ではあるが、その中でも50代はやっと80%であり全世代の中で最も低い。この50代は「どちらでもない」が11.7%でこれも全世代で唯一10%を超えた。もう一つ、地域別では、宮古地区が65.2%と極端に低い。
 宮古の例について新報コラムで、「生き残りを懸け誕生した市町村合併=宮古島市は累積赤字約55億円を抱え、財政再建団体転落が現実味を帯びているという現状に直面している」と書き、琉大教員林泉忠は、調査の偏りも指摘しつつ「宮古島での追跡調査の必要性を強調」した。手元に資料がないので確かなことは言えないが、他の統計資料などを眺めていた時、宮古地区だけ有意差のある事柄が結構、眼につき、ウチナーと言えどもひとくくりには出来ないなぁ、と感じたことを覚えている。

(3)新報調査は「あなたは、他の都道府県の人との間に違和感がありますか」という質問に対して、「ある(とても+少し)」と回答した人が前回の28.2%に対して今回は33%と4.8ポイントも増えている。これは若い世代が高く(20代42.4%)、70代以上は25.4%まで低下している。この質問に関しては50代(50代39.4%)の有意差は見あたらない。

 政府調査では、1981年に「他府県人との一体化」についての設問があり、「出来ている」33.6%を大きく上回る、出来ていない53.3%という数字が示されている。もっとも、この設問はこの年だけ。
 もう一つ、新報調査には掲げられていないが、政府調査の「復帰して良かったか」という設問に対しては、1989年(併合17年後)に、「満足」74.7%、「不満」15.8%という答えが示され、次いで5年後(1994年)には「満足」83.3%、「不満」10.9%となった。しかし政府調査での「本土の人の沖縄に対する理解は復帰当時と比べ深まったと思いますか。」という問いには、1989年の「深まった(十分+まあ)」77.3%をピークに2001年は73.0%へと下降していった。
 NHKが行った1977年から92年まで、5年ごとに沖縄県民に対して「復帰して良かったか」を問う世論調査の数字を紹介しよう。1977年=良かった40%・悪かった55%、1982年=良かった63%・悪かった32%、1987年=良かった76%・悪かった18%、1992年=良かった81%・悪かった11%。

(4)新報調査は米軍ではなく、在沖自衛隊について訊く。現状維持38.0%で最大だが、縮小・撤去あわせれば38.3%(縮小26.2%、撤去12.1%)と拮抗、拡大派は2.5%。解説は意図してか、「縮小派を自衛隊の存在を認める立場の人たちとみれば、自衛隊を容認する県民は6割以上に上る」と危機感(?)を表明。
 次に「皇室への親しみ」については、「親しみを持っている(つよく+まあ)」43.2%、女性では50%を占める。世代的に見れば、20代では「親しみを持っていない(あまり+まったく)」が56.3%になっている。ここで、安良城盛昭が、NHKが行った「天皇尊敬度」を比較し、1978年(『全国県民意識調査』)「尊敬すべき存在だと思う」35.7%(全国平均55.7%)が、1987年(『本土復帰15年の沖縄』)では44.5%に上昇したことの「復帰後の本土化の進行」について指摘すると共に「明治31年の沖縄小学生の『思想』調査」において、具志川尋常小学校第四学年生39名のうち、「最も尊敬すべき者は如何」に33名が「天皇陛下」と応えた資料を元に「沖縄住民が天皇とかかわりあうようになるのは……明治12年=1979年の『琉球処分』からのことである。以来20年もたっていない明治31年に、このような『思想』を、天皇を知らなかった沖縄住民の子どものうちに根付かせているのである。教育のもつ力の恐ろしさに慄然とせざるをえない。」(安良城盛昭『天皇・天皇制・百姓・沖縄』吉川弘文館89年4月)という発言を思い出した。
 仲程昌徳『沖縄文学の諸相』(ボーダーインク2010.2)で教えられたが、明治政府の琉球処分1979年の翌年(1980年)には、日本語の教習本『沖縄対話』上下が刊行されたという。統治に関しては「旧慣温存」政策が採られたにもかかわらず、80年2月には会話伝習所の設置から6月には師範学校として教員養成を開始している。まさに植民地経営の「王道」か。

 はてさて、こうした数字を眺めて何がわかるのか、と問われれば何とも答えようがない。ただ言える事は、世論調査などは回答者にとって「幻想領域」を漂うものであるということと同様に、政治もそうした幻想(観念と言い換えてもいいかもしれない)領域に大いに規定されていることは確かであろう。<幻視>ならざる<政治>にたどり着くためには、さらに<リアル>が要請されているようだ。




【2011.04.21】 4.12カマドゥ―小たちの闘い/<差別の構図「メヤ発言」を穿つ>を読む

 普天間基地返還を決めたSACO合意から15年たった4月12日、「カマドゥ―小たちの集い」と普天間爆音訴訟団のメンバーが嘉数高台をはじめ基地周囲7箇所で、午前9時から午後5時まで断続的に直径90センチの風船で約20個を揚げた。
 「風船抗議に米軍緊迫」「風船を掲げた抗議活動は、米軍が沖縄防衛局を通じて中止を求め、一時緊張も走った。だが、一般空港ではない同飛行場周辺で、掲揚物の高さを規制する国内法は見あたらない。日米地位協定により、米軍には最低安全高度の規制も適用されず、米軍が示した強い警戒心は、市街地で運用される同飛行場の異常さを、図らずも示した形だ。」(沖縄タイムス2011年4月14日
 いささか旧聞に過ぎるが、沖縄タイムスが「差別の構図『メヤ発言』を穿つ」を連載。その中から、知念ウシ、新城郁夫の論考をアップ。「トモダチ作戦」なるものを掲げた「ユスリ・タカリの名人」たる米軍は、早々と「駐留米軍経費負担特別協定」によって、今後5年間にわたって、毎日5億円以上もせしめることになった。ヘリ基地反対協の安次富浩さんは「おもいやりは被災者に!」と4.16東京集会で強調した。震災への復旧・救援のために「思いやり予算」を凍結するという簡単なことすら、日本政府−民主・自公は出来ないのか(瑞慶覧長敏議員は反対に回った、とのこと)。

差別の構図「メア発言」を穿つ〈4〉

知念 ウシ

見える支配の構造/自尊心深める議論必要


 地震、津波、放射能で紙面もチブルも埋め尽くされ、そういえば、米国国務省日本に本部長を更迭されたメア氏はその後どうなったか、と思っていたら、震災支援の調整担当になっていた。当初国務省を退職する意向だったが、震災が発生したため、在日米軍や原発に詳しいとポストが与えられた(asahi.com3月16日)。これを知って、沖縄人の名誉と被災者の生命、安全とが天秤にかけられているような複雑な気持ちになった。震災支援は大切な仕事である。しかし、沖縄人のみならず、日本人、日本文化への差別発言をした彼は、それについて説明も謝罪も撤回もしていない。米国国務省には優秀な人材が他にたくさんいるはずだ。沖縄人と被災者双方の名誉と尊厳を重んじ、氏の処遇について米政府は筋を通すべきだ。オバマ大統領の任命責任が問われる。

明白な論理破綻
 さて、メア氏の件の発言だが、その内容の論理破綻ぶりが興味深い。例えば、彼は「日本政府は『金がほしければサインしろ』と沖縄知事に言う必要がある」と言うが、それはそもそも効果のないことだ。なにしろ、彼が言う「日本政府を巧みに操りゆする名人」である沖縄人なら、そんな脅かしなど巧みに切り抜けられる。また彼の言うとおり、そもそも沖縄人の「3分の1が、軍隊がいなくなれば、より平和になれると信じていて」「対話不可能」、すなわち、説得不可能な人々である。その上、名護市長選、県知事選をへて、今や県内移設を拒否し県外移設をつきつける県民の意志は強固になるばかりだ。そして、今回の発言が公になったために、今後知事が方針を変えて県内移設をのめば「金がほしくてサインした」ことになる。
 彼は「沖縄の主要産業は観光業だ」「沖縄人は怠け者だからゴーヤーを栽培できない」「沖縄は離婚率、出生率(特に非嫡出子)、飲酒運転率が最も高い。これは度数の高い酒を飲む沖縄文化に由来する」と述べる。ゴーヤーの部分は、うちの近所の小学生でも「はー?ゴーヤー、つくってるやし」というぐらいの嘘である。その他、米でも観光業は一大産業だし、離婚率、出生率(特に婚外子)、飲酒運転率は高い。ブッシュ前米大統領には飲酒運転の逮捕歴がある。バーボンなど度数の強い酒を好む人も多い。このように、米社会にもあることを、沖縄社会の特色のように差異として捏造して侮辱することを、差別という。

不当性露見恐れ
 彼が沖縄研修旅行に行く米の学生たちにこんな話をしたのは、学生たちに自分と同じまなざしで沖縄を見てほしかったからだろう。そうでなければ、学生たちは、軍事基地に抵抗する沖縄人に気高さ、威厳、勤勉さ、忍耐強さを見いだしてしまうからでなはいか。そうなれば、沖縄への基地押しつけの不当性が自国の若い世代にもばれてしまう。そして実際そうなった。
 彼の侮蔑の言葉に潜むのは、「未開、野蛮、劣等、頑迷、固陋、不衛生、怠惰、放縦、強欲、享楽的、不誠実」という沖縄人への勝手な評価の押しつけだ。これは、「琉球処分」以来、日本人が沖縄人に強要したレッテルと同じである。そして、日本人やアメリカ人のみならず、世界中の植民地主義者が被植民者をこのようなやり方で貶めてきた。
 彼らは自らの侵略、植民地支配を正当化するために、「文明が野蛮を支配する」「優れた者が劣った者を支配する」という論理をでっち上げた。そして、自らを「文明」「優れた者」と高めて偽装するために、支配したい者を侮辱し、低めようとする。琉球においては、このような日本人の差別が沖縄人を同化に向かわせ、沖縄戦において「立派な日本人として戦い死ぬ」(目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』)までに追いつめた。そして日米の差別は基地押しつけという具体的な形で今も続く。

ヤレーヌーヤガ
 今回、自国の差別と闘う米学生とつながって沖縄人がメア氏更迭を勝ち取ったのは、特に沖縄の次世代への大きなプレゼントだ。「私たちは差別を受け入れないし、許さない」という姿を沖縄社会が示せたからだ。そして、大事なことは、このような「評価の押しつけ」に、反論や事情説明で理解を請うというより、「ヤレーヌーヤガ(だから何だ)」と言うことである。私たちは私たちのままでいい。
 「野蛮人」と呼ぶなら呼べばいい。(植民地支配に不都合な)「野蛮人」は正しい。私たちは「野蛮人」を徹底して生きるのである。
 ただ、そう言えるようになるのには一人では難しい。沖縄人同士で話し合うことが必須だ。それぞれの傷、怒り、悲しみ、恐怖とは何か。心と体のどこがどのように反応するのか。そうすれば、差別による支配のメカニズムやその弱点が見えてくる。互いの知恵を学び合い、自己肯定感、自尊心を深めることで、他の沖縄人やより弱い者への差別の転化・植民地支配への共犯をやめられる。
 沖縄人だけで集まるのは「排他的」と非難されると怖いかもしれない。その非難に対しても「ヤレーヌーヤガ」なのだが、あえて言い換えればつまり、「沖縄人が『排他的』になることが必要な時には必要だ」。恐れることはない。(ちにん・うしぃ1966年那覇市生まれ。むぬかちゃー(ライター)。沖縄国際大学非常勤講師。著書に「ウシがゆく」など。沖縄タイムス2011.03.21)



差別の構図「メア発言」を穿つ〈5〉

新城 郁夫

同盟 無意味さ明確/軍隊の災害支援は無力

 東日本大震災の災害と原発危機の報道に直面して言葉を失いながら、いま実感しているのは、脅威からの防衛を存在理由とする軍隊の、現実の脅威を前にした無力さである。米軍であろうと自衛隊であろうと、これら軍隊は、国家と軍組織を守ることのみを目的とする純然たる暴力装置であって、災害時に国民を守るという主目的を初めから有していない。核兵器や戦略爆撃機をはじめとするあらゆる兵器は国民生活を守るために存在するのでは全くないし、沖縄戦が証明するように、非常時においては国民こそが軍隊の標的となる。
 その意味で、今回の大震災に当たって、米軍と自衛隊が後手後手にまわりほとんど無力と見えるのは、それが軍隊である限り当然と言えば当然で、これが災害支援を本務とする組織であれば、現在の軍事費の数千分の一で現状と比較にならない有効的な支援が展開できたはずである。
 中国や北朝鮮が脅威だと虚言を言い募って沖縄周辺で日米共同軍事演習を拡大強行しながら、現実に起こる脅威に対してはほとんど為すすべがない。一方、脅威と言われてきた中国は援助隊を早急に送り、北朝鮮に敵対的行動はみられない。いったい、日米両政府が喧伝してきた脅威などどこに存在するのか。むしろ、原発や生活支援体制の驚くべき脆弱さこそが、私たちがさらされている脅威の本質ではないか。脅威は、この国家体制そのものというほうが、より正確であるように思える。

占領者の愚劣さ
 今回の震災で、日本政府は異様ともいえる早さで米軍へ支援要請し、オバマ政権は米軍イメージ回復を急ぎ「日米同盟の重要性」というプロパガンダを謳いあげて、よりにもよって原子力空母を三陸沖合に派遣したが、これも放射能汚染を恐れ沖合遠くに退避する始末。そのうえ、アメリカが打開策として示したのが、この米軍プロパガンダ作戦の調整役に、沖縄差別発言で更迭したばかりのケビン・メア氏を任命するという事態である。
 この差別主義者が、大震災で被災した人たちの支援の要請を「ゆすり」と見なさないと誰が明言できるだろうか。沖縄の人間に対して、常軌を逸した人種差別発言をして憚らない官僚を、この危機において対日調整役にまたも着任させるアメリカという国もまた常軌を逸している。ここに至って、日米軍事同盟を解消していく道筋も見えてきたと言えるだろう。
 そもそも、私たち沖縄に生きる人間に、日米軍事同盟というものの無意味さと恐ろしさを明確に認識させてくれたのがケビン・メア氏にほかならない。メア氏の唯一の功績は、身をもって占領者というものの愚劣さを私たちに示してくれた点に尽きる。沖縄が集約的にその構造的暴力にさらされている日米軍事同盟とは、対等な同盟国の絆などでは全くない。その内実は、日本のアメリカへの全面的かつ自発的な属国化であり、この支配関係の最下層に押し込められている沖縄の人間は、生存権を主張し軍事植民地化を批判する正当な声をあげただけで、「ゆすりの名人」と侮蔑される仕組みになっている。この仕組みこそが日米同盟と呼ばれるものの本質であり、人種主義的な差別を基盤とする日米同盟とは、そもそも同盟などではなく、対米隷属というほうが実情に近い。

対米隷属が根本
 アメリカという占領者にとって占領されている沖縄の人間は、ただの未開人であり、対等な人間などであろうはずがない。米軍車両に轢き殺されようが、米兵にレイプされようが、米軍は占領者なのだから被占領者である沖縄の人間によって米兵や米軍が裁かれるいわれは無い。それが日米地位協定を死守するアメリカと日本政府の論理である。在日米軍の犯罪に対して日本側が裁判権を放棄する密約を含むこの日米地位協定において、沖縄の人間は、頻発する米兵の犯罪を犯罪として訴える道さえ閉ざされているのである。
 そしてこうして手厚く治外法権で保護された米軍は、さらには、年間約6500億円にも上るおもいやり関連予算を私たちの税金のなかから日本政府によってあてがわれている。つまりは、日米同盟という名の対米隷属が、メア氏のような愚劣な占領者を育成するのであり、こうした占領者の愚劣を通じて、沖縄は日米軍事同盟の構造的暴力のなかに監禁されてしまうのである。この占領的な構造を根本的に変えるには、基地県外移設などでは決してなく、日米軍事同盟の解消しかないのはもはや明白である。

「抑止力」は妄想
 日本の安全保障政策にしろ、日米軍事同盟にしろ、それらは沖縄への在日米軍基地の集中という差別政策によって辛うじて構成されている砂上の楼閣に過ぎない。そして、日本国内で数万の死者・不明者と数十万の避難者が出るという現実の脅威を前にして、日米軍事同盟の軍隊は、膨大な軍事予算をつぎ込みながらほとんど何もできていない。私たちは、いまこそ、「国民の安全」が軍隊という「抑止力」によって防衛されているという妄想から解き放たれなければならない。
 そのためにも、なんらの留保もなく、米軍基地完全撤去と日米軍事同盟解消の声が私たち沖縄に生きる者からあげられていく必要がある。求められているのは、日米同盟と呼ばれる支配関係の解消と日米安保条約の破棄である。そうでなければ、メア氏が語る「沖縄の人間はゆすりの名人」という言葉を、沖縄に生きる私たちが証明してしまうことになる。
 メア氏の差別発言によって明らかとなった日米軍事同盟の根幹に作動する対米隷属的な人種主義的差別を解体していくためにも、米軍基地撤去と日米軍事同盟の解消にむけた多様な実践が、他ならぬ差別を受けている私たち沖縄に生きる人間によってこそ、すみやかに展開されていく必要がある。いま求められているのは、あらゆる軍事覇権を退け、未曾有の困難のなかを生きている私たちが、他の人々と共に生き延びていく繋がりへの無条件の信頼以外ではない。(しんじょう・いくお1967年旧平良市生まれ。琉球大学教授(沖縄・日本文学、戦後思想専攻)。近著に「沖縄を聞く」。沖縄タイムス2011.03.22)





【2011.03.18】 真喜屋美樹「返還軍用地の内発的利用――持続可能な発展に向けての展望」のアップ

 「3.11」という日付はどのように記憶されるだろうか。反吐が出そうな産経の記事だが(朝日も似たようなモノでしかないが)、職員退避を打診した東電に「撤退はあり得ない」と首相菅は怒鳴り散らしたそうな。14日の段階。しかし、東電関係者は“「『撤退は許さない』というのは『被ばくして死ぬまでやれ』と言っているようなもの」だと不満を口にした。”(毎日新聞 3月18日)というが、現場で、それも下請けなど虫けらのように扱ってきた極悪と言ってもいいいお前たちが言えるのか。かつて浜岡原発を取材した長野智子が、「冷却装置は万全。原発は100%安心。大地震が起きたときは原発に避難してほしいくらい」という担当者の言葉をtwitter(http://twitter.com/#!/nagano_t/status/47239692692897792)していた。それにしてもメディアも劣化していることを痛感させられた、経済も政治も。
 マスメディアの「沖縄報道」に接するにつけ、怒りを抑えきれなかったが、ことは「沖縄」だけではなかった。1号機の水素爆発以降も、「疑問すら湧かないのか」と、テレビ・新聞を見ながらつぶやくことしきり、である。
 ついでにもう一つ、ケビン・メアである。日本部長を更迭された時、すでにこれはやらせである(侮蔑発言そのものもやらせ?)とし、早晩新しいポストに就くことが予定されている、とネットなどで流されていたが、この大震災の「対策本部で日米間の調整担当」に就くとは!

 さて、『島嶼沖縄の内発的発展−経済・社会・文化』(藤原書店2010.03.30)の真喜屋美樹「返還軍用地の内発的利用――持続可能な発展に向けての展望」のアップです。
 脱基地経済という重いテーマ(しかし、自立に向けての絶対的課題でもある)に取り組んでいる。おもろまちや北谷・ハンビータウンの成功を普遍化は出来ない、という問いに(これまた、一般化できないが)読谷の例を丁寧に紹介分析している。名護市の「逆格差論」や、未見だが、佐藤学(沖縄自治研)を座長とする普天間基地跡地利用計画など、「脱基地と脱基地経済の構築に必要なのは、脱基地に向けた県民の本気度と活用の知恵、脱基地に踏み出す勇気、そして脱基地への挑戦を推進できるリーダーの存在」と政治勢力=ヘゲモニーであろうか。





【2011.03.06】 呉錫畢(オソクビル)『環境・経済と真の豊かさ――テーゲー経済学序説』を読む

 琉球新報が2011年2月28日に「新沖縄振興法/自己決定権回復の契機に 地域の課題は自ら解決を」と題した社説を掲載。「今年は沖縄の今後10年の「設計図」を定める大切な年だ。にもかかわらず、論議の機運が乏しい。……とはいえ、われわれ県民は立ち止まってはいられない。現在の沖縄振興計画、沖縄振興特別措置法が来年3月末で切れるからだ。」と書き出し、
 復帰後の振興体制の高率補助、「国頼み」、なによりも「誰も責任を取らない無責任体制、政策立案能力欠如の弊害は歴然としている。」とまで書き切り、「いわゆるリンク論、つまり基地負担と引き換えの振興策など、社会の一体感を破壊した最たる例だ。反省すべきはその点であろう。」その上で、社説は、「いずれにせよ、沖縄の自己決定権を国から取り戻すことが重要だ。それが、政策立案能力を県や市町村が磨くことにもつながる。」と結論づける。

 さて呉錫畢『環境・経済と真の豊かさ――テーゲー経済学序説』(日本経済評論社08年2月)。タイトルに惹かれたというのが偽らざる感想。筆者は韓国生まれ、東大・北大大学院を経て沖縄国際大学教員に。厚生経済学専攻ということだか、環境科学が専門のようだ。
 「Part1 環境・経済と沖縄」、「Part2 環境の経済評価入門」ときて、「Part3 環境はいくらか」で「第5章 バッズ(赤土汚染)の損害評価」、「第6章 グッズ(サンゴ礁)の経済評価」、そして締めが「Part4 環境と沖縄の観光経済」。

 その中でロストウの発展段階説を援用した項(「第2章 沖縄の経済発展の道」)が面白かった。
 @伝統的社会の時代A離陸の先行条件期B離陸期C成熟期D高度大量消費時代E所得の限界効用逓減の時代、というロストウ6段階のうち「沖縄では第1段階の一部分に相当……第2、第3、第4段階を飛ばして、沖縄は第5段階の時代に入って、第6段階を迎えているように見える」エッ!であるが、要するに沖縄には産業革命(発展)期が見えない、ということ。この点に関しては、かつて川音勉が「沖縄自立経済・再考」(2007.2『情況』07.3-4月号所収)において、「5 従属論の再審@―沖縄社会の近代史に即して―」で展開している論点が改めて思い返された。
 例えば「薩摩侵略以後は、その対外関係における中日両属支配が顕在化・強化されたことによって、国内支配も一層強化されたが、『琉球処分』に到るまで、社会構成体の独立性と、封建的というよりは古代的な固有の性格には大きな変化はなかった。資本の本源的蓄積はほぼ皆無に等しく、社会発展を促す新たな階級は自生的には形成されなかった。」であり、また「近世近代における土着の豪商、豪農といわれる階層、社会集団の存在が全く見当たらないことに気づく。*本源的蓄積に結びつくはずの余剰生産物は、王府の強収奪によってことごとく国家財政に吸い上げられ、さらにそれは、王府にとどまることなく、薩摩藩への貢納、進貢貿易・『江戸立ち』の日・清両属外交によって蕩尽されてしまったのである。近代以降の琉球・沖縄社会における人民闘争・階級闘争のあり方にとって、こうした経済状況は深い影響を及ぼしているように思われる。『琉球処分』時点でのこれに対する抵抗が、歴史的反動としての旧士族の一部にしか浸透しなかったこと。」云々。そして、そのまま琉球処分から沖縄戦を経て米軍政支配に至り、再度の日帝への併合と連なっている。ロストウはいざ知らず、「他律的」な琉球・沖縄史が現在も引き継がれているのか。琉球王国の黄金時代とされる「大交易時代(万国津梁)」も、中華帝国(明・清)の海禁政策と册封体制の賜物でしかなかった、とさえ言える。
 話が横道にそれてしまうが、「国内植民地」論議も、そして階級横断的な反ヤマトゥも(当然、買弁勢力の台頭も)、現在のアジア・日本・沖縄の階級闘争の少なくない基礎を形作っている。

 そして呉は言う。「沖縄にはいわゆる香港型、シンガポール型のような域外から資本を導入しての経済発展を目指したいが、これをバックアップできる物的資源、人的資源が乏しい」。それ故「沖縄は沖縄にしかない資源から経済発展の要素を探らないといけないだろう」。企業誘致も製造業育成も難しいということから、観光産業を基軸にした産業振興を描き、環境破壊が観光産業に多大な被害を与えることに注視する。(「赤土汚染」と「サンゴ礁」を本書では特に採り上げている。)一部の「民族主義者」からは植民地経済の権化として認定されがちな「観光産業」であるが、壊滅的な「第2次産業」状況を見据えて、島嶼経済の行方を模索しているとも言える。

 さて、伸び悩む観光収入であるが、彼は「観光収入にもっとも影響するのが滞在日数」とし、成功したアイルランド観光7.8日に対して「沖縄の滞在平均日数はほぼ半分の3.7日に過ぎない」。「観光産業」に疎い風游子であるが、そもそも日本人が1週間以上も観光に費やすことは一般的にはあり得ない。せいぜい3泊4日のパック旅行が良いところだろう。呉は、宿泊費よりも高い県外交通費を問題にしているが、そうであれば尚更である。
 百瀬恵夫・前泊博盛「検証『沖縄問題』」(東洋経済新報社02年5月)で「『観光植民地』の悲劇」との小見出しの中で、最大の産業視されてはいるが、「沖縄観光の場合、年商100億円規模のホテルでも、利益は数千万円止まりというケースが多く……観光産業は、まったくのザル経済になっている」と嘆いているホテル支配人の証言を報告。つまり「本土の大手旅行エージェントの集客システムと航空三社」による「収奪」である。日本旅行の調べでは、沖縄県内主要ホテルでは「客室総数の9割を旅行エージェントに委託販売している」という。そして同社の2000年度調査によれば、沖縄観光収入は実質4割にも満たない。
 呉は、もう一つの例として済州島を挙げている。1981年段階での済州島観光客は72万人、沖縄は193万人。ところが1995年には済州島が5.5倍の400万人にふくれあがったのに対して、沖縄は1.7倍の328万人に増加した過ぎない。それはその内訳として外国人観光客が1981年で済州島では4万人強に過ぎなかったが、1995年には6.6倍の約28万人、対する沖縄は約8万人から14万人に増えたに過ぎず、1992年の約20万人をピークとして減り続けている。済州島は1980年度以降日本人観光客へのノービザ制度を導入、2006年7月には済州特別自治道(済州国際自由都市)となり、済州特別法で、ノービザ制度が中国・フィリピンなど11か国にまで拡大した影響が多いと、と指摘している。
 本書は多くのヒントを与えてくれてはいる。が、さて、「主体」は?

 独立宣言を発しつつも「日本人、日本的なものをそぎ落としていく作業の重要性について互いに確認しました。」(NPO法人ゆいまーる琉球の自治)というレベルであることは、自己決定権も、民族自決権も後ろ向きにしか捉えられないのではないか、と案ずるのは杞憂か?





【2011.02.03】 島袋純D-Naviインタビュー20100830を読む
 D-Navi(東アジアから軍縮平和を目指す総合情報サイトhttp://d-navi.org/node)に2010年12月1日付けで、島袋純インタビュー「普天間問題から見る沖縄の自治の現状と展望」が掲載された。(収録は県知事選以前の2010年8月30日)
 島袋ならでは視点で、現在の沖縄が抱える問題を語っている。

 まず、冒頭、「沖縄自治を求める動きの歴史や経緯」について、第一に、日本本土とは異なり、統治機構そのものが絶滅した沖縄では“本当にゼロから自治を作り出していかなくてはならなかった。”しかも既存の統治機構−統治様式の解体・再編(民主化)ではなく、米軍がすべての権力を掌握し“軍事占領の目的に見合うだけの自治権しか与えませんでした。したがって、人権を回復し、守るための自治機構の整備というのが沖縄の人々の中の非常に重要な願いだったわけです。”と語り始め、「復帰運動」を“日琉同祖論の持ち出しや日本民族主義的・ナショナリスティックな側面も有していましたが、日本国憲法が保障している人権や自治権、主権在民や平和主義といったところが大きな求心力になったことは疑いのないことだと思います。”と位置づけ、“そういった出発点があって復帰運動は、「人権と自治権を回復する運動」と言われたのです。”と「復帰運動」の「正の部分」を押し出す。
 それ故、1972年「復帰」を巡って、“憲法的な原理である平和や人権、沖縄で言えば「沖縄のこころ」を実現するために特別な自治制度にしてほしいという建議書を作成します。”と、この「屋良(朝苗。当時の琉球政府主席)建議書」を高く評価する。しかし、復帰運動の「負の側面」や、また、この「建議書」が日本政府に一顧だにされなかったことについての論評が是非ほしいところだと思われた。何故なら、今なお、この「問い」は未決のままになっているのであるから。

 “その代わりに成立したのが沖縄振興開発体制です。公共事業を中心とした国土開発計画に沖縄を組み入れて振興開発を一挙に進める、悪く言えば田中角栄型の利益還元政治ということであり、公共事業を中心に利益還元を行っていって社会基盤、産業基盤を整備するという形です。……振興開発や格差是正が沖縄の最重要課題であるとし、……この「屋良建議書」に象徴される沖縄の自治を求める動きを否定して、国策として導入されたのが沖縄振興開発体制でした。……とにかく何もないし、道路も舗装されてないから、とにかくお金を注ぎ込めばニーズはあるというような考えが最初の20年くらいでした。”

 「格差是正」を大義名分に本土一体化(=沖縄併合)の道をひた走った西銘県政(在任1978〜90)から、沖縄の「自立」を志向した大田県政(在任1990〜98)をはさんで、稲嶺・仲井真と続く買弁県政への評価を聞かれ、島袋は、“大田県政の中枢には経済界の中心人物、稲嶺さん(恵一、前知事。りゅうせき=元・琉球石油社長、沖縄県経営者協会会長など歴任)や仲井真さん(弘多、現知事。通産官僚の後、沖縄電力理事に就任。その後社長や会長を歴任)がいました。というのも彼らは、国際都市形成構想を新たな振興策導入の裏付けと見なして、そこに新たな利権導入の大きな期待を抱いたと考えられるのです。……(しかし)大田県政の国際都市形成構想は、単に中央からの補助事業の拡大だけではなく、グローバル化に対応する全島フリートレーゾーン構想と沖縄開発庁の予算と権限を沖縄県が引き取るという特別自治制度がセットされていました。……中央からの利益還元にいつまでも依存せずに自立の方向を探ろうというのが国際都市形成構想にあったからです。……そうなると沖縄の大手建設・土木会社、セメント会社など、沖縄の公共事業を中心とする利益還元の中心にいる人たちは、恐いわけです。ですから、国際都市形成構想を利権の部分だけ残して、自由貿易や自治構想は潰すことを目論み、そのためには経済界自ら政治に出て行くしかないということで中心にいる人たちが政治の場に出るようになったのです。”「振興開発体制維持・沖縄自立構想阻止」の“一番重要な役割は、振興開発体制をもう一度再編・強化することです。国はそのために官房機密費まで使って稲嶺陣営に肩入れして、振興開発体制を強化しようとします。”

  “問題は、全国水準以上になってしまったので、国家官僚の側としては他の地域を差し置いて沖縄だけ特別にやるわけにもいかない。そのためこの15年ほどは、沖縄振興の公共事業予算はずっと減額しています。この12、13年で4600億円あった振興予算が半分に下がっています。整備する理由がないのでもっと下がっていくはずです。もはや振興体制のメリットがない。/そこで新しいメリットとして防衛省の裁量がきく島田懇談会事業[1997年から2007年までに総予算約1000億円の資金が投入]や北部振興策[県知事と名護市長が普天間代替施設建設受け入れを表明した1999年末の閣議決定に基づく予算措置。2000年度から10年間で総額1000億円に及ぶ事業を行う]といった基地受け入れと直接リンクした事業が出てきます。”
 いずれにせよ、“国策により懐柔するのが政府の目的だったわけです。……これまでと違い、稲嶺県政以降は防衛省の役人が前面に出て防衛省の予算でバラマキをしています。防衛省から沖縄開発庁に出向もされている。私はそのような状況を「軍事植民地化」と表現しています。”

 しかし“公共事業を行っても儲けが少なくなりました。県レベルでの利益還元政治が機能しなくなり、票を獲得することが難しくなったのです。それが稲嶺県政から仲井真県政の弱点になっていきました。”
  “基地に依らない沖縄というイメージを県民がある程度持ち始めてきていると思います。基地があって、公共事業があるから分断統治されて問題になる。今までは生活のために仕方ないと思っていた人々も、基地がなくても、公共事業がなくてもいいのではないかと展望を持つことができるようになってきたと思います。……島田懇談会事業や北部振興策は当時かなり大きな期待があったのですが、今はそれほど住民から期待は出てこないでしょう。”

 “沖縄の出発点で重要なのは、沖縄は基本的に日本国憲法で謳われた人権・自治権・平和を非常に強烈に希求してきたということです。今ある様々な運動も人権・自治権・平和を求める復帰運動からの継続だと思います。単なる基地反対運動ではなく、民主化運動なのです。戦後、アメリカの統治から自治権を勝ち取り、しかし、自治権だと思ったら振興開発体制になってしまいました。ですから、国策に翻弄されずに自分たちで自分たちの未来を切り開いていきたいという意見が強いのです。”とした上で、 “今回の普天間問題で分かったのは、普天間問題は、沖縄の利権の問題ではなく、より根本的な、日本の「戦後国体」の問題だということです。”と語る。つまり、“日本国憲法よりもアメリカ軍が上にあるということです。……国民の人権や自治権を基本的にアメリカ軍の前では放棄しているということです。アメリカ軍の異様な基地使用や裁判権の放棄などで日本の主権を侵しても処罰できません。普天間基地を日本全国のどの自治体もどこも絶対に受け入れないのは、その地域の住民の人権保障も何もないような米軍の特権をこの国は認めていると、どの自治体の首長も関係者も十分に承知しているからです。その問題が明らかになると困るからこそ、日本国内の基地を沖縄に押しつけたままにしているのです。”と述べ、“「基地問題」とは、国民主権や基本的人権を保障できないという主権喪失の問題です。日本は本当の意味で主権の回復を目指すべきです。講和条約のやり直し、日米安保条約の改正が必要です。普天間問題は日米対等関係に向けた「出だし」に過ぎません。”と提起。

 “今一番大きな問題は、安倍政権はそうでしたが、この属国状態を憲法改正により固定しようと動きです。憲法を国の最高法規にしようとするのではなく、アメリカ軍の自由を最高にしようとしているのです。これではもはや「憲法」とは言えません。ですから私が言っているのは、そういう方向で憲法改正するなら沖縄は日本から独立した方が良いよ、ということです。”と述べ、続けて“とはいえ、逆に、条文が変わってない限りはどうにか日本国憲法に希望を持ちましょうよ、というのが私の立場です。”と、「構成的権力」への「希望」を語る。それ故“憲法問題については9条に問題を小さくしてしまっていると思います。そうではなくて、憲法こそが最高法規であり、それをみんなでつくっていくという、立憲主義の精神をどれだけ国民に浸透させているかが問題なのです。……国権の最高法規としての憲法、しかも主権在民で、国民が自分達の権利を守るために制定して、権力にゆだね、権力を統制するという発想が必要です。”

 “沖縄の問題は単なる自治の問題ではおさまらずに、「主権国家」、「国民国家」、「資本主義システム」といったマクロな構造が関係してくる。特に「ナショナリズム」は非常に大きな問題です。”と投げかけ、“一国におけるナショナリズムと異なり、自分たちは大多数の国民、マジョリティとは違う文化、言語、歴史を持っているという「マイノリティ・ナショナリズム」を持つ地域の自治制度を研究しようと思い、ヨーロッパを見てみたのです。……既存の国民国家から分離独立させて、今から新しい国民国家をつくるとなると相当な困難も予想されるため、地域が実質的な主権を再獲得し共有化していくという、準連邦的な自治政府の構築が進んでいます。カタロニアや、バスク、スコットランドは大体そうです。……基本的に、沖縄の自治権を強化しながら、沖縄の問題を沖縄で解決したいということです。このような議論は沖縄で復帰以来ずっとあります。”

 さらに東アジアを見据えて“経済のグローバル化が進んでいくと必ず、日本と中国、韓国は緊密な経済関係を作らなければなりません。チベット問題や北朝鮮の問題、台湾の問題はその中でしか解決しないのではないでしょうか。今、「ひとつの中国」の圧力のもとでは、独立するって言うと、戦争になりますから。独立はしないけれども、ほぼ独立するのと同じ状態を中国で作っていく、朝鮮半島でも独立性を保ちながら統合を進める、ということで東アジアの共通の屋根を作れたらいいと思います。……日本全国で日本と中国の橋渡しをできるのは沖縄だと思います。”と、沖縄の位置と役割を踏まえて自治州構想の射程を語る。

 最後に“今政界が混沌としていますが、沖縄振興開発体制を変えるかどうかが焦点です。”そして“沖縄振興体制は、戦後政治の構造的病理、安保が憲法の上にあることを維持するために密接に結びつけられて継続されている面があり、振興体制の廃止の要求は、戦後日本政治の構造的病理にメスを入れるという意味があります。”と締めくくる。

 沖縄民衆の画期的闘いでもあった「復帰運動」を救抜するかのような島袋の立論であるが、国家を問い直しつつも、余りにも権力問題に関してはナイーブすぎないかと気になる。とは言え、情勢に関する分析は学ぶべき点が多い。「戦後国体」という表現で、東アジアを見据えた日米安保−日本帝国主義に対抗する「(沖縄民衆の)自治」を採り上げること自体、権力問題を巡る諸階層諸階級の闘いを否応なく惹起するであろう。「構成的権力」問題は、憲法と自己決定権へ突き進む「新しい抵抗のための共同性」の陶冶へと至るか!





【2011.01.02】 さて、2011年が始まったが……
 森宣雄『地<つち>の中の革命』によって教えられました。「戦後50年 人間紀行 そして何処へ」と題したシリーズの 「第2部 闘い」。第34回(1995・04・02)から第42回(1995・04・13)までの「クニさん」とのタイトルで9回連載されました。当時、沖縄タイムスの編集委員を勤めていた長元朝浩さんよる国場幸太郎伝です。そして、国場さんご本人の手で「沖縄非合法共産党文書 研究案内ノート」が沖縄タイムスの2001年8月14日〜25日にかけて計8回連載されました。
 さらに国場文書のアップです。『情況』2000年8-9月合併号に掲載された「沖縄の1950年代と現状――米軍基地反対闘争の発展」と『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ20030225)第1章●日本・アメリカとの相剋から見える沖縄〈3.「アメリカ統治」時代に関する項目〉に執筆された「米軍統治下におけるCICと世論操作/人民党と非合法共産党」です。

「戦後50年 人間紀行 そして何処へ/第2部 闘い/クニさん」(沖縄タイムス1995年4月2日〜13日)
★国場幸太郎「沖縄の1950年代と現状――米軍基地反対闘争の発展」(『情況』2000年8-9月合併号)
「米軍統治下におけるCICと世論操作/人民党と非合法共産党」(『沖縄を深く知る事典』日外アソシエーツ2003年2月)

 1972年、泡盛のコーラ割りとやらで悪酔いした時、「人民党ってのは、母親みたいなモンだ」とかつて革マルシンパだったとおぼしき、某市役所の職員がつぶやいたのを思いだした。日本共産党への正式な合流(併合)はまだだったが、すでに日共沖縄県委員会視していた。それにしても、1950年代の沖縄階級闘争は私には謎だった。もちろん、あの「島ぐるみ闘争」を頂点とし、コザ暴動と全島ゼネストへと至る60年代も含め、何もわからなかったと言ってもいい。あれから、もう半世紀近く経つ。そして、今、『地<つち>の中の革命』のような研究論文が出版される。
 森さんは、反戦復帰・反復帰が台頭してきた60年代末から72年へかけての「中部地区反戦」等の闘いの研究に着手していると聞く。時あたかも、「68年体制」の解体・消滅が誰の目にも明らかになった伊波惨敗後の「捲土重来」の秋である。




【このページのトップにもどる】


トップページにもどる