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国場幸太郎「沖縄の人びとの歩み――戦世イクサユから占領下のくらしと抵抗」(『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか』不二出版2013)
「戦後50年 人間紀行 そして何処へ/第2部 闘い/クニさん」(沖縄タイムス1995年4月2日〜13日)
国場幸太郎「沖縄の1950年代と現状――米軍基地反対闘争の発展」(『情況』2000年8-9月合併号)
国場幸太郎「沖縄非合法共産党文書」研究案内ノート
 (注)本論文は、沖縄タイムス2001年8月14日〜25日にかけて計8回にわたって連載されたものに加筆したもの。とくに終章の「沖縄の戦後史の転機1958年前後」は冒頭の部分を除いて、すべて新たに書き加えられたものである。
○国場幸太郎 沖縄・奄美非合法共産党文書 解説メモ
○「米軍統治下におけるCICと世論操作/人民党と非合法共産党」(『沖縄を深く知る事典』日外アソシエーツ2003年2月)

新川明「国場幸太郎氏を悼む」(沖縄タイムス2008年10月30日)




「戦後50年 人間紀行 そして何処へ/第2部 闘い/クニさん」



「戦後50年 人間紀行 そして何処へ/第2部 闘い/クニさん」

@ ナゾに包まれた過去

 宮崎県都城市の、碁盤の目のように区画された静かな住宅地。
 手入れの行き届いた庭の植え込みは、持ち主のきちょうめんな性格を感じさせる。ツバキにツツジ、キンモクセイ。
 表札に「国場」とある。国場幸太郎、68歳。那覇市出身。
 沖縄で「国場幸太郎」と言えば、10人中10人が、亡くなったあの国場幸太郎を思い起こすに違いない。経済界のかつてのリーダーで、立志伝中の人。国場組の元社長。
 同じ一門だという。そのよしみで学生時代、あの国場の家に泊めてもらったことがある。しかし、それ以外に重なり合うものは、ない。2人の歩いてきた道は、180度もかけ離れているように見える。経済人の国場幸太郎は、功なり名を遂げたが、もう一人の国場幸太郎を知る人は少ない。
 かつて行動をともにした仲間は、国場のことを今でも、親しみを込めて「クニさん」と呼ぶ。
 「クニさん、どうしてますか、元気ですか」。差し障りがあるので名前は伏せてほしい、と断ったうえで、かつての活動家は語った。
 「登山帽に古びた靴をはいて動き回っていたのを覚えています。落ちついた冷静な方で、とても尊敬していました」
 また、別の元人民党員は言う。
 「温和で、やさしい人でした。でも、闘いに立つ時は戦闘的でした」
 国場は、かつて人民党にいた。米軍の弾圧が激しかった1950年代の一時期、人民党の幹部だった。
 1月28日、国場は、宮崎市の市民グループの集会に招かれ、講演をした。
 ベートーベンが座右の銘にしたと言われる言葉を、話のまくらにふった。「可能な限り善を行い、何よりも自由を愛し、王座の前でも真理をまげるな」。王座という言葉を米軍権力という言葉に置き換えれば、それが、50年代の国場の、そうありたいと念じた姿勢だった。
 2月18日には、講師として高校教師らの集まりに呼ばれた。
 司会者は、国場のことを「沖縄でいろいろ活動していたとは聞いているが、ナゾめいた方です」と紹介した。
 国場はある時期、軍政批判の非合法活動にもかかわっていた。
 集会への参加を呼びかけるビラには「オキナワそのものを体現されている方」だと紹介されている。
 国場は、4、50人の教師らを前に、やわらかな口調で話した。
 「沖縄にとってこの50年は戦争と隣り合わせの50年であったと言っても過言ではありません。どうしてそういうことになったのか、ここにいたる歴史のいきさつを見てみましょう」(沖縄タイムス1995・04・02)


A 就職にも米軍の圧力

 1953年、国場幸太郎は東大経済学部を卒業して帰郷した。契約学生や、のちの公費琉球学生は、在学中の奨学資金の見返りに、卒業後、沖縄に帰って建設的な業務に就くことが義務づけられていた。
 国場は、那覇商業高校の教師に内定していた。校長は、県立二中時代の恩師である。さっそく、学校を訪ね、着任あいさつをした国場に、校長は意外な事実を打ち明けた。
 「君の就職内定は、取り消されてしまった」
 理由を聞いても、「文教局に行って聞いてくれ」と答えるだけ。二中時代の恩師である文教局幹部に聞いても、満足な説明は得られなかった。国場に真相を知らせたのは琉球育英会副会長の島袋全幸である。
 「実はね、米軍から指令が出て、波照間島の中学校以外には君をいかなる公職にも就けてはならない、と言ってきたのだよ。文教局としては、それを文字通り受けとって君を波照間島に送るわけにはいかないし…」
 50年代初め、レッドパージが吹き荒れた。米国による反共軍事ブロックの形成が進んだ時期でもある。米軍は、沖縄基地の無期限保有を明らかにしていた。
 国場が帰郷したその年の5月には、米国民政府情報教育部が「本土で学ぶ学生数人の契約を解除せよ」と琉球育英会に圧力をかけ、4人が、支給されるはずの奨学金を打ち切られている。
 原爆展開催などを理由に琉球大学生4人が退学処分を受けたのも、この年のことである。
 国場は在学中、『新日本文学』や『社会新報』などに軍政を批判するリポートを発表していた。初期の、東京での復帰運動にも熱心だった。狙い撃ちである。
 島袋全幸は、国場の立場に同情し、「君は東京に引き返した方がよいと思うが、どうだろう。必要な旅費は僕が考えてあげるから」と言った。国場は、島袋の好意を感じながらも、「いいえ、ここに残ります。ここは郷土ですから」と答えた。
 しばらくして、那覇市内の建設会社に職を得た。「国場正市」と名乗った。建設業界には、あの国場幸太郎がいる。同姓同名では、何かと具合が悪い、と思った。
 だが、そこも長くは続かなかった。米国民政府から会社に「国場を辞めさせなければ軍工事の入札に参加させない」と圧力がかかったのである。
 当時を知る元人民党員(67)が語る。
 「人民党に入ると仕事に就けないし、結婚もできない、といろんな人から言われました」
 家を新築するため申請していた融資を断られた事例もある。(1995・04・03)


B 軍政下で非合法活動

 1954年8月31日付沖縄タイムスは「東大政経部卒業のK君が日共本部から正式党員として潜行、人民党の組織細胞に相当食い入っている…」と報じている。
 日本共産党奄美地区委員会が58年7月に出した文書にも「党中央は、同志Kを琉球地方委員会に派遣」(松田清「奄美社会運動史」)したとある。「K君」や「同志K」が国場幸太郎のことを指しているのは、前後の文脈や当時の事情からして間違いない。
 国場は当時、人民党員や支持者から「共産党中央から派遣された指導者」だと見られ、「東大出の理論家」だといわれていた。
 今も残るこの見方は事実と違う、と国場は言う。
 コミンフォルム(ヨーロッパ各国共産党の情報連絡機関)の日本共産党批判をきっかけに、党内が所感派と国際派に割れたのは1950年。翌51年、篠田球一ら主流派は「51年綱領」を採択し、武装闘争路線を打ち出す。
 党は深刻な分裂状態に陥った。
 高安重正の『沖縄奄美返還運動史』によると、党中央は54年4月、非合法機関紙に「琉球の情勢について」と題する政治方針を発表したが、この方針は「党中央が沖縄、奄美大島に対して初めて党の政治的、組織的政策を示したもの」(同書)だという。
 国場が帰郷したのはその前年53年。この時点に「党中央の正式決定で党建設のオルグが沖縄に派遣されることはあり得ない」と、国場は言う。
 党中央にいた高安重正が、帰郷する国場に沖縄での党建設の必要性を個人的に説いた。その任務を「自ら進んで自分に負わせたようなもの」だと、国場は当時を振り返る。
 国場は、人民党真和志支部に属し表≠フ活動をする一方で、前衛組織の建設にも取りかかった。夜遅くまで地域や職場を回り、塀を越えて帰宅する国場のことを元人民党員(67)は記憶している。「信望が厚く、注目されていました」
 共産党中央の政治方針「琉球の情勢について」は、しばらくして国場らにも届いた。武力闘争戦術は変わっていなかった。
 国場によると、この方針に真っ先に反対したのは瀬長亀次郎である。「そんな方針が沖縄で実行できるわけがない」と、瀬長は主張した、という。国場を含めみな同意見だったらしい。
 国場は「沖縄の現状に適した方針と活動方法を手探りしながら前衛組織の建設を進めることにした」。
 裏≠フ活動は、非合法活動とか地下活動と呼ばれた。
 米軍は、CIC(防諜部隊)を使って、活動家を尾行した。(1995・04・05)


C 人民党に激しい弾圧

 1953年4月、真和志村銘苅の土地が米軍に強制接収された。11月には、小禄村具志に、土地の明け渡しを求める通告書が届いた。「この土地は必要であるから、できる限り早急に農作物を撤去せよ」
 12月5日、米軍は、武装兵を動員して土地を強制収用した。住民は部落事務所の鐘を乱打して現場に集まり、ブルトーザーの前に座り込んだ。土地接収に対する最初の組織的抵抗だった。
 国場幸太郎は、瀬長亀次郎の手引きで、この闘いに加わる。闘いを通して、農民との間に連帯感が芽生えた。
 土地接収を進める米軍にとって人民党は、目の上のタンコブだった。闘いのあるところ、どこにも人民党員がいた。「復帰運動は共産主義者を利するのみ」と、復帰運動をけん制するかたわら、米国民政府は露骨に人民党攻撃を始めた。
 人民党中央常任委員・林義巳と全沖労事務局長・畠義基の二人に沖縄からの退去命令が出たのは54年7月15日のことである。
 二人とも奄美大島の出身。53年12月に奄美大島が返還されて以降、同島出身者は「外国人」として扱われていた。二人は、外国人登録の手続きを取った。にもかかわらず、48時間以内に退去せよ、との命令である。
 国場幸太郎ら人民党の代表は翌16日、米国民政府の連絡官フライマスに会った。フライマスは、二人を「好ましからざる人物」だと断じた。二人は、退去命令を拒否して潜伏した。
 畠は、8月27日逮捕され、軍事簡易裁判所で懲役1年の実刑を受けた。畠をかくまったとの理由で人民党員の豊見城村長・又吉一郎が逮捕され、10月には人民党書記長・瀬長亀次郎が出入国管理令違反などの疑いで逮捕された。さらに、大湾喜三郎、真栄田義晃、瀬名波栄ら党幹部も逮捕された。40人を超える党員、支持者が相次いで逮捕された。党は深刻な打撃を受けた。
 そのさなかの8月31日、米国民政府は「日共の対琉要綱」という名の文書を発表している。当時の新聞はこれを「同党(人民党)が日共の指示によって動いていた事実を裏書きするもの」(沖縄タイムス)と報じた。恐怖心をあおり、住民と離反させる作戦だ。
 この文書がデッチ上げであることは、渦中にいた国場だけでなく、当時の関係者が等しく証言している。「『メーデーはマルクスの誕生日を祝う共産主義者の集まり』というのと同じ程度にレベルの近いねつ造文書」だと国場は言う。
 激しい弾圧にさらされた人民党は、島袋嘉順や国場らを中心に、急きょ、臨時指導部をつくった。(1995・04・06)


D 非合法機関紙を発行

 米軍制下の1950年代、「言論・出版の自由」は、集成刑法によって著しく制限されていた。
 @衆国政府や米国民政府を非難したり、けなしたりするような文書を発行、配布した者は5万円以下の罰金または5年以下の懲役。
 A琉球政府の許可を得ないで新聞、雑誌などを発行、印刷した者は5000円以下の罰金または6カ月以下の懲役。
 B印刷物輸入の許可経路以外からの新聞、雑誌などの輸入は2万円以下の罰金または1年以下の懲役…。

 「言論・出版の自由」は本来、批判する自由を含むものだが、それが封じられている以上、軍政批判の出版は、非合法活動にならざるを得ない。非合法活動に対しては、常に米軍の監視の目が光っていた。
 54年12月、国場幸太郎は、本永寛昭や前原穂積らと相談し、非合法機関紙を発行し始めた。タブロイド版数ページ。『民族の自由と独立のために』という題をつけ、題字のわきに毎号、「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の勝利をめざして」というスローガンを掲げた。
 発行所や発行責任者の名前は、当然のことながら、どこにも記されていない。
 発行のことばが、この機関紙の特殊な性格を物語る。「この新聞は沖縄人民党や沖縄社大党、あるいは労働組合、教職員会等の機関紙ではない。この新聞を口実にして、これらの政党や団体に弾圧を加えることをわれわれはだんじてゆるさない」
 国場が、解説記事を書いた。立法院事務局にいた本永は、伊江島農民の土地を守る闘いを紹介し、字のうまい野嵩高校教師の前原がガリを切った。
 土地の強制接収に対して、国場らは、激しい批判キャンペーンを展開した。55年3月29日付の第8号。「伊佐浜 伊江島にアメリカ軍の蛮行 3たびつきつけられた銃剣 ゆるしてはならぬこの暴虐」。同年4月17日付の第10号。「土地を守るために全県民の力をあわせよう」
 党活動に専念していた国場と違って、本永らには職場がある。米軍に知られれば、間違いなく職を失うことになる。「あのころ共産党機関紙の『アカハタ』も秘密裏に配られていたが、読後の処理に困って、借りている家の床下に隠したことがある。警戒心でいつもピリピリしていた。なにしろ、労働組合員というだけで尾行のついた時代だったから…」と本永は言う。
 スタート時の『週刊』が、第4号から「旬刊」に変わった。(1995・04・09)


E CICにら致される

 「乞読後火中」
 読み終わった後は燃やしてください、と便せんの欄外に書かれている。
 1955年3月。土地の強制接収に反対する伊江島の住民あてに、激励の手紙が届いた。送り主は、立法院事務局にいた本永寛昭。本永によると、実際に文章を書いたのは国場幸太郎だという。その手紙を、真謝の阿波根昌鶴は燃やさずに保管した。
 「みなさんがうけておられる苦しみを思うとき、胸もはりさけるような憤激をおぼえずにはおられません」「軍事力にものを言わせて土地強奪の法律をつくることはできても、人間の命を奪い、人間の生きる自由を奪うことは、絶対にゆるされません」
 手紙には、500B円のカンパが同封されていた。
 琉大文芸部の『琉球文学』もそのころから、編集方針を転換し、社会の矛盾をえぐり出すような作品を意識的に掲載するようになる。岡本惠徳(琉大教授)、川満信一(詩人)ら、当時の中心メンバーは、国場と地下活動をもとにしていた党員の手引きで、秘密の勉強会を重ねていた。
 地域や職場、大学の小さなグループが、党員を仲立ちにして、水面下でつながっていた。それをあぶり出そうと、米軍は躍起だった。
 国場がCIC(米軍防諜部隊)にら致されたのは55年8月のことである。
 病気見舞いのためコザ市の病院に行った帰り、バスの停留所で、国場、尾行の気配を感じた。アロハシャツを着た日系2世のアメリカ人らしい男が2人。国場はバスに乗って、後ろを振り向いた。男たちを乗せた乗用車が、ピタリ、バスのあとについてくる。
 いくつめかの停留所で、アメリカ人が乗り込んできた。「コクバサンデスネ」。アメリカ人は、国場に身分証明書を示し、バスから降ろした。
 国場は、宜野湾村伊佐浜のかまぼこ型兵舎に連行された。アメリカ人と、日本語の上手な2世が数人、国場を取り込んで、服を脱がせた。裸のまま、壁ぎわに立たせて尋問を始めた。服を脱がしたり着せたり、また脱がしたり、時に撮影用のライトを顔にあて、扇風機に針金を突っ込んでガラガラ騒音を立てながら、取り調べは2昼夜に及んだ。
 『民族の自由と独立のために』の発行責任者だと、英文の起訴状に書かれていた。集成刑法違反容疑。
 軍事裁判で、国場は起訴を取り下げられ、釈放された。その理由は今もわからない。(1995・04・10)


F 那覇市に“赤い市長”

 1956年3月、立法院議員選挙。国場幸太郎は、獄中の瀬長亀次郎に代わって、瀬長の選挙区(那覇中央)から立候補した。得票数も得票率も、前回実績に遠く及ばなかった。惨敗だった。
 「勝つ見込みは最初からなかった。弾圧に次ぐ弾圧で、住民の間に人民党に対する恐怖心が植えつけられていたので、選挙でそれを払いのける必要があった」と、国場は言う。
 国場に出馬を進めたのは瀬長である。公然、非公然二足のワラジをはいて活動していた国場に対し、とらわれの身の瀬長は「公然と活動した方がいい」とアドバイスした、という。
 国場は、瀬長の大衆性から多くを学んだ。
 「農民と話す態度がとても大衆的で、指示もてきぱきとしていた。弾圧や、集会のやじにも決して動揺せず、それが周りに安心感を与えた」
 56年4月、出獄。そして12月。瀬長は、おおかたの予想をくつがえして、那覇市長に当選した。国場は、首里支所長に迎えられた。53年に沖縄に戻ってから初めての公職である。短期間、建設会社に勤めていたことを除けば、これが初めての仕事らしい仕事だった。国場は、市民サービス向上のため、窓口業務の改善に乗り出した。
 赤い市長≠フ誕生は、米軍に大きな衝撃を与えた。都市計画事業に対する補助金の打ち切り、琉銀による融資の中止、預金の凍結。財界人は非協力を宣言し、建設業団体は、人民党同調者を雇用しない、と発表した。選挙で選ばれたにもかかわらず、露骨な瀬長市政攻撃が相次いだ。
 57年6月、市長不信任案可決。市議会解散。8月、市会議員選挙。瀬長市政をめぐって、めまぐるしい攻防が続く。
 瀬長はついに、米軍によって追放され、58年1月にふたたび市長選挙が行われることになった。56年6月に空前の盛り上がりを見せた土地闘争も、内部の分裂で瓦解(がかい)し始めていた。
 国場が、瀬長の対応に疑問を持ったのは、このころである。
 瀬長は、自分の後継者として、社大党那覇支部の兼次佐一を推した。「人民党の正式機関でさえ論議が行われないうちに、瀬長亀次郎が新聞紙上で『兼次佐一が候補になる』という談話を発表し、それが当然のことのように受け入れられるというかたちで、兼次次期市長候補は決定された」(新崎盛暉『戦後沖縄史』)。
 「結果として、あれが友党(社大党)を無視した形になった」と国場はみる。(1995・04・11)


G 沖縄での活動を断念

 大衆人気と指導力。瀬長亀次郎のカリスマ性は、人民党内で際立っていた。瀬長の意見が、党の公式見解を大きく左右した。そのような党のありようは、社大党とも、保守系の民主党とも、異なっていた。
 党主導の下に民主主義擁護連絡協議会(民連)を結成し、瀬長の後継那覇市長候補に民連として兼次佐一を決めたあたりから、「家父長的指導」に対する疑問の声が上がり始めた。
 国場幸太郎がそうだった。民連問題をきっかけに社大党が分裂し、社大党と人民党の間に決定的なミゾができたのを、国場は深刻に受けとめた。
 1958年9月、B円からドルへの通貨切り替え。人民党はこれを「永久属領化政策」だと位置づけた。国場は不満だった。「アメリカの政府転換の分析ができていない」と思った。
 59年5月、人民党は、第17回大会を開き、民連問題について「大胆な自己批判」をした。が、永久属領化反対のスローガンは変わっていない。国場は、中央常任委員からはずされた。
 国場がまいっているらしい、といううわさが党内に広まった。いつのまにか、党活動の表舞台に姿を見せなくなった。
 「飲まないと眠れないぐらいに悩んでいたが、僕自身、みんなを納得させるだけのものはなく、対応できなかった」
 人民党内部が割れているという怪文書が流れたのも、そのころだという。
 国場の挙動が不自然だと感じ取った党員が、国場を説いて、入院させた。人民党の関係者は、今も、そのあたりの事情にふれたがらない。国場は、沖縄での活動を断念、「東京に行く」と党に伝えた。沖縄を去るにあたって、こんな文章を党員のために書き残している。
 「党の活動方針を実現させたいという主観的希望が強いために、社会現象をありのままに観察することすら出来ないばかりか、自分の実現したいと思っている希望に合わせて主観的に物ごとを解釈する気風も、これまでにはかなり強かったように思われる」
 米国は、沖縄統治政策を転換しつつあった。国場は続けて指摘する。
 「一見してゆるやかなようで、その実は大きなうねりをもって発展しつつある現在の複雑な情勢の下では、旧態依然とした活動のやり方では大衆運動を組織し、前進させることはできなくなっている」
 上京する国場のために、知り合いの党員がカンパを集めた。
 60年3月、思いを残して国場は沖縄を離れた。(1995・04・12)


H 青春を郷土にささげる

 戦後沖縄の民衆運動を描いた戯曲『もう一つの歴史』が1971年、劇団民芸によって上演された。主人公南風原を演じたのは、鈴木瑞穂である。
 国場幸太郎とそっくりだったらしい。国場がモデルだろう、と言われた。若者の吉原公一郎はのちに「私の戯曲にモデルというものが存在すれば、国場さんの二つの論文であったように思う」と書いている。
 国場の二つの論文は、62年、『経済評論』と『思想』に掲載された。
 B円からドルへの通貨切り替えは、沖縄をプエルトリコのような属領にするための政策なのか。人民党は、そう主張していた。「属領化政策論の誤りは明らか。こういう見方が定着するのはまずいと思って、あえて人民党批判の筆を取った」
 二つの論文を発表したあと、国場は東京を離れ、宮崎に移り住む。
 「国場さんが指摘したことはベトナム戦争の激化とともに実証された」と吉原公一郎が書いたのは、復帰直後の73年。「当時にあって将来の展望に立って沖縄問題をこのように正しく指摘した人を私は知らない」
 国場が、沖縄で活動したのは53年から60年までの、わずか7年間である。しかし、この7年間は、どの時代にもまして劇的な7年間だった。
 昨年、国場は、東大経済学部の経友会誌に『回想−私の沖縄経験から−』という短い文章を寄せている。抜き刷りを友人、知人に送った。
 多くの人たちから礼状が届いた。本永寛昭は、こんなことを書いている。「私の青春は、あなたの青春でもありました。私達は、若さを故郷のために捧げました。そう思いませんか」
 本永の感慨は、国場の感慨でもある。「伊江島、伊佐浜の土地闘争のころ、この闘争を支え、島ぐるみの土地闘争を人知れず用意するために青春をささげた名もない多くの若者たちのほとんどが、私たち非合法組織のメンバーか協力者でした」
 国場は87年、高校教師を定年で辞めた。3年後、妻の圭子(59)も定年を持たずに、中学校の美術教師を辞めた。
 圭子は、国場の過去をくわしく知らない。知る気もないらしい。
 1月28日、共産党系の市民グループに講師として招かれた。国場は主催者に「党から離れている僕のような者の話をけむたいと思う人もいるのではないか」と聞いた。それでもいいというので講演を引き受け、「とらわれのない自由な精神活動」の大切さを説いた。(1995・04・13)[この項・長元朝浩編集委員]

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沖縄の1950年代と現状 ――米軍基地反対闘争の発展


国場幸太郎


1. はじめに

 今から47年前の1953年、私は東京の大学を卒業して沖縄に帰郷した。帰ってみると、「国場をいっさいの公職に就けてはならない」というアメリカ占領軍の琉球政府に対する指令が、私を待ち受けていた。その経緯はこうである。
 1951年9月、サンフランシスコ対日講和条約が締結され、その第3条で琉球諸島を日本から分離したままアメリカの施政権下におくことが取り決められたとき、東京在住の沖縄出身学生は、沖縄がアメリカの軍事基地になることに反対して、沖縄の日本復帰を要求する運動に立ち上がった。学生たちは1952年早々に沖縄県学生会を組織し、東京在住の沖縄出身者を結集して、沖縄を日本に返還させる国民運動を展開した。
 私は沖縄県学生会の中心メンバーの一人として活動していたが、その間に日本共産党に入党した。アメリカの軍事占領支配下にある沖縄の解放闘争を進めるには、世界の革命勢力・平和勢力との国際的な連帯が必要であると考えたからである。共産党は万国の労働者・世界のプロレタリアの連帯を目指す党というイメージがあった。
 動機がそういうことだったので、活動も沖縄問題に集中し、全学連の学生運動に関係したことはない。沖縄県学生会の活動を通じて共産党員になった沖縄出身の学生はかなりの数に上るが、殆どが私と同じ動機で入党し、同じ立場で活動していた。
 ちなみに、この頃の共産党をめぐる日本の政治環境はどうだったかというと、1949年1月の衆議院選挙で共産党は35議席を獲得して、前回の4議席から大躍進を遂げた。アメリカ政府は、その原因を共産党がアメリカの占領に反対する姿勢を明確にすることによって国民の間で支持を広げたことにあると見て、その抑圧に乗り出した。日本を占領支配しているマッカーサー司令部と吉田内閣は、1949年7月に相次いで起った下山事件、三鷹事件、松川事件を共産党の謀略によるものとフレーム・アップ(でっち上げ)して、世情騒然たる中で国鉄(現JR)の人員整理(首切り)を強行した。

 翌1950年1月、コミンフォルムが「アメリカの占領支配下にあると日本で平和的に革命を達成できると考えるのは誤りである」と日本共産党幹部野坂参三の平和革命理論を激しく批判、武力革命方式の採用を示唆したが、それをめぐって日本共産党は真っ二つに分裂した。徳田球一書記長らの主流派(所感派)がコミンフォルムの見解は日本の実情を考慮していないという所感を発表し、平和革命論を擁護したの対して、コミンフォルムに同調する志賀義雄、宮本顕治らの反主流派(国際派)が対立した。ほどなく主流派もコミンフォルムの批判を受け容れたが、党内分裂の溝は深まるばかりであった。
 そこへ6月、マッカーサー司令部は、朝鮮戦争の勃発直前に日本共産党中央委員会24人の公職追放を指令し、直後に党機関紙『アカハタ』の発行停止を命じた。それに続いて、マ司令部は共産党系労働組合活動家の指名解雇(レッドパージ)を指示し、解雇者は1万数千人に及んだ。そのために産業別労働組合会議は壊滅的打撃を受けて、解体した。その一方で、マ司令官は7万5000人の警察予備隊(自衛隊の前身)創設を日本政府に命じ、日本の再軍備が始まった。
 このように内外の情勢が風雲急を告げるなかで、共産党主流派幹部は地下に潜行して非合法指導部をつくり、合法の臨時指導部のもとでの活動と、火炎瓶に象徴される非合法の武力闘争とを統一して指導することになった。党内が分裂している上に、武力闘争戦術を採ったために、共産党は国民の間で急速に支持を失い、1952年の衆議院選挙では、獲得議席が前回の35からゼロに転落した。
 このような情況のもとで沖縄の日本復帰運動に全沖縄出身者を保革の別なく、党派を超えて結集することには困難もあったが、沖縄県学生会は映画「ひめゆりの塔」の講演活動を契機にして、それを成功させた。1953年2月には、保革合同の沖縄諸島祖国復帰国民大会が東京で始めて開催され、11月には「沖縄諸島祖国復帰促進協議会」が結成されて、持続的な国民運動を展開することになった。私が沖縄に帰郷したのは、こういう時期であった。
 戦後の沖縄には契約学生制度というのがあり、日本の大学に留学または在学する学生が学資の給与を受けた年数だけ沖縄に帰って、琉球政府の指定する職に就く義務を負うことになっていた。私も、東京大学在学中に2年間、学資の給与を受けていたので、卒業後少し間をおいて、1953年11月に帰郷した。そこでは、先に述べたように、アメリカ軍の公職追放指令が私を待っていた。その理由は明示されなかったけれども、私が沖縄県学生会の活動家で、共産党の組織者でもあると見られていることにあった。そのことは覚悟の上の帰郷だったので、私は沖縄に踏みとどまって、アメリカの軍事占領支配と闘うことにした。
 そういう私の体験も交えて、1950年代米軍政下の沖縄における民衆闘争の発展を跡づけ、それが現在の反基地闘争にどのように繋がっているか、考察したい。

2. 沖縄住民の日本復帰運動開始

 アメリカ政府は、冷戦の開始・進行にともない、「共産主義封じ込め戦略」の主要な一環として、1948年10月の国家安全保障会議NSC文書13/2及び49年5月のNSC文書13/3(5)により、講和締結後の日本を同盟国に引き入れて反共の防壁とし、沖縄は日本から分離したまま恒久的な軍事基地としてアメリカの排他的独占支配下におく方針を明確にした。(1)
 この方針に基づき、アメリカ政府は1950年度予算に5800万ドルの沖縄軍事施設建設費を計上して、恒久的軍事基地の建設を本格的に開始した。
 それと並行して、アメリカ極東軍司令部は、それまで捕虜として管理していた沖縄住民に対する統治政策も、対日講和後の情勢に対応できるように策定した。(2)
 経済面では、軍事基地建設工事から落ちるドル収入を梃子にして、「住民の生活基準を戦前の程度まで引き上げること」を目標に経済を再建する方針が立てられた。統治機構としては、奄美・沖縄・宮古・八重山の4つの群島にそれぞれ群島政府と群島議会を設け、その上に行政府、立法院、裁判所の3機関からなる中央政府として琉球政府を創ることにした。そして、群島政府知事、群島議会議員と琉球政府行政主席および立法院議員は住民の公選にする予定であった。このようにアメリカの連邦共和制を模した統治機構を創ることで、琉球を「民主主義のショー・ウィンドー」にする、とアメリカ占領軍当局は自負していた。しかし琉球政府の実質は、琉球列島米国民政府(USCAR、その長官は米極東軍司令官が、副長官は琉球軍司令官が兼任)という名の軍政府の代行機関に過ぎなかった。

 米軍政府による統治機構整備の第一歩として、1950年5月、群島政府知事と群島議会議員の選挙が実施された。この頃、アメリカ政府は先に見たNSC13/2及びNSC13/3(5)の線に沿って対日講和の準備を進めており、琉球列島を小笠原諸島と共にアメリカの信託統治下に置く方針は沖縄にも伝わっていた。そこで沖縄の住民は、アメリカの信託統治に賛成するかどうか、問われることになり、群島ごとの知事と議員を選ぶ選挙は、対日講和後の沖縄の帰属について考える機会になった。選挙の結果は、群島ごとの4人の知事と議員の大多数が奄美・沖縄の日本復帰を志向する人たちで占められた。翌1951年、住民が日本復帰の大衆運動を開始したとき、各群島の知事と議会は住民の先頭に立って日本復帰運動を盛り上げた。(3)
 そこで当てが外れたアメリカ占領軍当局は1952年4月、対日講和条約発効に合わせて琉球政府を発足させたとき、日本復帰運動の砦になっている群島政府と群島議会を廃止し、公選にする予定だった琉球政府行政主席はアメリカ占領軍の任命制にした。「民主主義のショー・ウィンドー」にするはずだった統治機構は、設立早々に住民の日本復帰運動という民族的抵抗に遇って、「軍政のカムフラージュ(偽装)」に過ぎない実体を曝け出したのである。
 そういう情況にあって、31人の民選議員からなる立法院は、日本復帰の要請決議、労働3法の制定などによって、日本復帰運動、労働運動を始め、生活と民主的権利獲得のための大衆運動を活発化させていた。それだけにアメリカ占領軍は立法院の革新勢力、とりわけ左翼政党である沖縄人民党(52年当時は琉球人民党)を目の仇にしていた。琉球軍司令官兼軍政府副長官ビートラー少将は、1952年8月、立法院議場に自ら出向していき、名指しで人民党を攻撃する反共演説をぶちまくったほどである。しかし、それでも復帰運動や労働運動など民主的な大衆運動の高揚を抑えることはできないまま1952年は暮れていった。
 この時期、朝鮮戦争は膠着状態に陥り、アメリカ国内では、トールマン政権のアジア戦略の失敗を批判する声が嵐のように捲き起こっていた。それを追い風にしてアイゼンハワー政権は誕生し、発足早々からアジア戦略の手直しを始めた。

3. ニュールック戦略と米軍沖縄基地

 沖縄の戦後史上、1953年から60年にいたる8年間は、アメリカ占領軍の苛酷な軍政が住民の島ぐるみの抵抗を呼び起こして、アメリカ政府も沖縄統治政策を転換せざるを得なくなるという激動の時代であった。それは、朝鮮戦争の早期終結を公約に掲げて生まれたアイゼンハワー政権がニュールック戦略を展開した時期に当たる。
 ニュールック戦略は、朝鮮戦争で膨大になったアメリカの常備兵力と軍事費を削減しながら冷戦に対応する世界戦略として策定されたもので、その骨子は、巨大な核戦力と海外核兵器基地を強化する一方、同盟国の兵力を増強して局地戦への即応戦力を高め、それにCIAの隠密行動や特殊部隊の作戦を組み合わせるというものである。特にアジアでは、朝鮮で中国軍と直接交戦した経験から、ソ連よりも中国を敵視する立場に立ち、冷戦開始時に韓国と台湾を注意深く除いて設定していた反共の防衛線、アリューシャン群島−日本列島−沖縄−フィリピンを結ぶ島嶼線に、「全面戦争の莫大な危険を冒して」台湾を加えた。それだけに、中国に対する核兵器基地・出撃基地としての沖縄基地の重要性は一段と高まった。(4)
 アメリカは、朝鮮戦争で283万余の地上軍と莫大な軍事費を投入しても勝利できなかった経験を踏まえて、アジア各地の地上戦では、アジア現地の反共同盟国の軍隊を戦わせる方針を採り、李承晩政権、蒋介石政権、ゴ・ディン・ジェム政権のような反共独裁政権に軍事援助と経済援助を与えて、短期間のうちに韓国、台湾、南ベトナムの常備兵力を増強することにした。後のベトナム戦争にしても、導火線は南ベトナム傀儡政府軍を増強したアイゼンハワー政権の手で用意されたと言える。
 日本の場合は、再軍備と米軍基地に反対の国民感情があることを考慮して、自衛隊の地上兵力の増強目標を35万にするのと引き換えに、駐留米軍のうち地上軍はすべて撤退し、即戦力として必要な海兵隊は沖縄に移すことにした。沖縄は制約の無い核兵器基地である上に、空軍、海軍、海兵隊、特殊部隊の自由な出撃基地であり、更に兵器、弾薬その他の軍需物資の貯蔵・補給基地でもあるという軍事上の重要な役割を負わされた。そういう沖縄基地を、アメリカ軍は、アジア戦略全体を支える最重要の軍事基地という意味から「太平洋のキーストーン」と呼び習わした。

4. 弾圧の嵐・反共主義ヒステリア

 1953年、朝鮮休戦を成立させたアイゼンハワー政権は、基地のない奄美諸島の施政権を日本に返し、沖縄基地だけは無期限に確保する方針を固めた。この方針は1954年の大統領年頭一般教書で明示され、それ以後55年、56年、60年と何度も繰り返し予算教書で示された。
 この沖縄基地無期限確保の方針を受けて、オグデン琉球軍司令官は、54年1月、「復帰運動の継続は混乱を誘発し、共通の敵共産主義者以外に誰にも慰安を与えるものではない」と声明して、復帰運動の禁止・抑圧に乗り出した。最初に着手したのは、奄美の返還と同時に布令を発して解散させた立法院を親米反共勢力で固める策動である。
 当時の沖縄には、日本復帰に積極的な抗米政党に左翼革新の沖縄人民党と中道革新の沖縄社会大衆党(社大党)とがあり、日本復帰に消極的な親米反共政党に任命行政主席与党の琉球民主党があった。オグデン声明から間もなく3月に行われた選挙では、アメリカ占領軍の指令によって前回の中選挙区制は廃止され、代わりに沖縄を29の選挙区に細切れした小選挙区制が導入された。それは、人民・社大両党を共倒れさせて、親米反共の民主党を有利にするゲリマンダーだった。
 この選挙に当たって、人民党は社大党に統一戦線の結成を呼びかけたが、両党の有力な候補者が革新勢力の強い都市部の同じ選挙区で鉢合わせしているために、候補者の調整がつかず、全面的な選挙協力は成立しなかった。そこで人民党は、旧那覇市3選挙区のうち二つの選挙区で独自候補の瀬長亀次郎、大湾喜三郎の当選を期し、隣の旧真和志市(現那覇市)の二選挙区では社大党の西銘順二、平良良松両候補と個別に政策協定を結んで、社大・人民両党の統一候補として推した。都市部以外で人民党の独自候補がいない選挙区では社大党候補を支持し、全住民に人民・社大両党の提携を軸にした統一戦線の結成を訴えた。
 選挙の結果は、瀬長、大湾、西銘、平良の4候補とも当選し、都市部では5議席中4議席を革新勢力が獲得して圧勝した。各党の獲得議席数は社大党12、人民党2、無所属3、民主党12であった。社大・人民両党に無所属を加えた野党革新勢力が過半数を制し、立法院正副議長は社大党が占めた。統一戦線結成のアピールに応えて、住民はアメリカ占領軍の策謀を打ち砕いたのである。それを、4月23日付米軍『星条旗』紙は「共産主義者達は社会大衆党と連合することにより、立法院議長並びに副議長に共産党の同調者を選出することに成功した」と忌々しそうに書いている。この後、アメリカ占領軍は常軌を逸した反共キャンペーンを張って、弾圧の嵐を吹かせた。

 メーデーが近づいた4月下旬、米軍政府は「メーデーはカール・マルクスの誕生日を祝う共産主義者の祭典である。共産主義者でない者は参加するな。参加者は共産主義者とみなす」と声明して、脅迫した。それは米軍政府の命令による労働組合活動家の指名解雇(レッド・パージ)の前触れであった。この前後から、組合のある殆どの職場で組合活動家が解雇され、生まれたばかりの組合は次々と潰されていった。
 また、日本復帰運動の主な担い手である教師たちに対しては、オグデン琉球軍司令官が直々に「教師たちは共産主義を教え、共産党員の補給の目的で教育を行なっている」と非難し、日本復帰期成会の中核になっている教職員会の会長ら幹部の日本への渡航を拒否するなどの弾圧を加えた。
 ちなみに、米軍政府が渡航拒否をする場合は、パスポート申請者に身元調査書を郵送して回答を求めてきた。それは「あなたは共産主義団体に参加したことがあるか、または関係したことがあるか」、「友人に共産主義者またはその同調者がいるか」等の微に入り細に入る質問事項からなっていて、虚偽を書いたら偽証罪に問われる。その調書に回答しないとパスポートの発給を拒否され、回答すれば限りないスパイ行為を強要される結果になる。それは1950年代のアメリカでマッカーシズムの名で知られる米上院非米活動調査委員会における「赤狩り」審問と同じ性質のものである。回答を拒否すれば非友好的証人あるいはコミュニストの烙印を押され、回答すれば、「ハリウッドの赤狩り」に手を貸した監督エリア・カザンのように、友人たちを支配権力に売り渡す結果になる。この時期の沖縄における反共に名を借りた弾圧は、まさしく、1950年代に全米で荒れ狂った反共ヒステリアの沖縄版だった。
 さて、労働組合を壊滅させ、教職員会の活動を封殺して祖国復帰期成会も自然消滅に追い込んだ後、米軍政府の反共主義攻撃は私も所属していた人民党に集中した。7月に奄美出身の人民党幹部林義巳、畠義基二人に米軍政府から沖縄外への退去命令が出され、それを拒否して潜行していた二人の中の一人畠義基が8月27日に逮捕された。その3日後の8月30日、米軍政府は『日本共産党の対琉球政策要綱』という秘密文書を入手したと発表した。翌31日の沖縄の新聞はその全文を掲載、人民党が日本共産党の秘密指令で動いているのが暴露されたと報道して、米軍政府の反共キャンペーンの片棒を担がせられていた。
 それを受けて立法院では、民主党の議員が『共産主義政党の禁止に関する決議案』を上程した。それが米軍政府の意を体して人民党の非合法化を狙っていたことは言うまでもない。しかしそれは、革新勢力の抵抗に阻まれて実現できず、社大党の修正意見で「共産主義政党調査特別委員会」が立法院に設置された。
 これでは人民党を非合法化できないばかりか、立法院特別委が『日共の対琉要綱』の信憑性を調査するとなると、それが捏造文書であることが暴露してしまう。そこで米軍政府は、社大党に圧力をかけて分裂させ、社大党の正副議長を辞任に追い込んで、親米反共の民主党に正副議長の座を明け渡させた。人民党関係では、先に逮捕した畠義基や畠を匿っていた家の人を脅迫・懐柔して証言をとり、人民党の瀬長亀次郎立法院議員と又吉一郎豊見城村長の二人を犯人隠匿幇助および教唆の廉で逮捕し、弁護士もつかない即決の軍事裁判にかけて投獄した。さらに、また、瀬長・又吉の不当逮捕に抗議する集会を開いたとか、そのためのポスターやビラを作製したとかいう廉で人民党の幹部・活動家30人前後が逮捕され、弁護士なしの即決軍事裁判にかけられて投獄された。

5.非合法共産党の組織と活動

 先に見た『日共の対琉要綱』を報道した1954年8月31日の『沖縄タイムス』記事に次のような文章がある。
 「(人民党)元中央委員の語るところによると去る2、3月ごろ東大政経部卒業のK君が日共本部から正式党員として潜行、人民党の組織細胞に相当食入っているといわれ……」
 Kは私のことである。これで見ると、私は日本共産党本部から沖縄に正式に派遣されたオルガナイザー(組織者)という印象を受ける。そのような噂が流れていたことは私も承知している。しかし、それは正確ではない。と言うのは、日本共産党中央委員会が第二次大戦後に沖縄について出した政治方針は、1954年4月1日付『平和と独立のために』(非合法機関紙)に発表した「琉球の情勢について」と題する決定が最初である。だからそれ以前に日共中央委員会からオルグが沖縄に派遣されることはあり得ない。私が沖縄に帰郷したのは前年の53年11月である。私は日共中央委から派遣されたのではなく、はじめに書いたように、契約学生としての義務を果たすために帰郷したのである。
 1953年当時、日共中央委が沖縄に対する政治方針をもっていなかったというのは、不思議に思うかも知れないが、それは第二次大戦後の歴史的事情による。第二次大戦中に日・独・伊のファシズムの支配下にあった地域では、世界どこでも連合国の軍隊は解放軍として迎えられた。戦後日本の共産党指導者も、ポツダム宣言に従って日本から切り離された沖縄は、アメリカ軍によって天皇制ファシズムから解放されたと考え、当面は国連の戦略的信託統治下におかれるにしても、行く行くは自治共和制政府を樹立する方向へ進むべきだ、という見解を表明していた。そこでは沖縄に対する政治方針を考える必要もなかった。日本社会党もほぼ同じ立場を採っていた。
 ところが沖縄を日本から分断したままアメリカの排他的独占支配下におく対日講和条約が締結される段になって、1951年10月、日本共産党第5回全国協議会(五全協)は沖縄・奄美諸島・小笠原諸島の「諸君とともに断乎として闘う決意を新たに」する声明を発表した。これは既に始まっていた日本復帰の大衆運動を後追いしたもので、この時点でもなお、共産党はこれらの諸島に対する明確な政治方針を持ち合わせていなかった。コミンフォルム批判を契機にした党内の分裂と混乱は、それほどまでに共産党の指導体制を弱体化させていた。

 1954年11月に開催された日本在住沖縄・奄美出身党員の代表者からなる「日本共産党琉球グループ会議」で、高安重正は中央機関所属の南西諸島対策部を代表して次のように述べている。
 「去年(1953年)の9月に、琉球対策のセクションができたが、今まで琉球対策の方針は明確でなかった。市民対策や民族対策などで代行されていた。」(5)
 1953年当時、高安は市民対策部に所属していて、沖縄出身党員グループの指導も担当していた。それがこの年9月に南西諸島対策部が日共本部にできて、その担当者になったということである。その高安が、たまたま契約学生の義務を果たすために帰郷する私に、沖縄現地で共産党の組織建設に加わるように言ってきたが、それは中央の機関決定によるものではなく、高安個人の意向によるものであった、と私は思っている。私は彼の要望を喜んで受け容れた。
 沖縄現地では、戦後1947年にいち早く非合法奄美共産党を結成していた人たちが、沖縄人民党の中心メンバーに呼びかけて、1953年7月に沖縄で合同会議を持ち、この会議で非合法の「日本共産党琉球特別地方委員会」を結成することにした。ところが間もなく奄美諸島は日本に復帰したので、米軍政下の非合法共産党組織は沖縄だけで建設することになった。奄美出身では林義巳と畠義基二人が沖縄の非合法共産党組織に残った。
 組織の名称は「日本共産党沖縄県委員会」とし、人民党の主だった幹部や活動家の殆どが参加していた。委員長は瀬長亀次郎(人民党委員長兼任)で、数人からなる書記局の責任は私が負うていた。勿論人民党の党籍を持たない非合法党員もかなりいた。特に職場の組合活動家や大学の学生活動家などがそうであった。
 党員は職場、地域、大学などの地下細胞組織に属していたが、活動は合法面を最大限に活用して行なっていた。地下組織といっても、米軍政下では共産党が合法政党として認められないところからやむを得ず採っている組織の在り方であって、人民党が非合法化された場合でも、沖縄の解放闘争を民衆とともに推し進めるために準備された組織形態である。当時はアメリカ軍政府当局が沖縄人民党の非合法化を虎視耽耽とねらっていただけに、地下組織の建設は緊急に必要、と私たちは考えていた。
 そのような党の建設に着手して間もない1954年5月、日共本部の高安重正から、党中央の琉球対策を伝える会議を名瀬市で持つから、沖縄現地の党の代表を寄越すように連絡がきた。行くとなれば、渡航が拒否されることは分っているから、密航する以外に方法はない。となると、名前と顔がよく知られている人民党幹部が行くわけにはいかず、私が行くことになった。
 私は那覇から出航する与論行きのぽんぽん蒸気船に予め乗船を頼んでおき、沖縄本島北部沖の海上でサバニ(刳り舟)から乗り移って、先ず与論に渡り、それから島伝いに名瀬市に行った。そこで奄美地区代表の中村安太郎とともに東京から来た高安重正と会い、先に触れた『琉球の情勢について』という党中央の政治方針を渡され、その説明を受けた。(6)
 この政治方針は、奄美諸島がすでに日本に復帰しているにもかかわらず、依然として奄美を沖縄と一体の琉球地域として捉え、「沖縄を中心とする琉球諸島は、台湾と共に、アメリカ帝国主義の大陸侵略の2大前進基地である」と規定し、「沖縄・奄美大島・小笠原解放の問題は、中国による台湾解放の闘いと密接に繋がっている」という認識を示している。そして、対日講和条約発効後2年経っているにもかかわらず、日本については「沖縄・奄美大島・小笠原の解放を闘い取る主力である日本の国民は、いまアメリカ帝国主義の占領支配の下にある」としている。
 方針書を読み終わった後、高安重正は「以上の情勢分析に基づき、51年綱領の民族解放民主革命を達成した日本国民が、奄美を前進拠点にして『アメリカ帝国主義の完全軍事占領の下に置』かれている沖縄を解放するのが党中央の方針である。沖縄もそれに呼応できるように、そろそろ武力闘争の準備をしなければならない」と説明を加えた。
 説明を受けて、中村安太郎は「さすが中央の考えることは大したものですなあ」と感嘆していた。私は沖縄代表としては勿論、個人としても意見を述べるのを差し控え、中央の方針を持ち帰って、沖縄県委員会の討議にかけることにした。
 沖縄に帰ってすぐ、10数人の委員全員が出席した会議で、党中央の方針について私は報告した。会議では、討議に移って最初に瀬長委員長が発言し、「こんな方針を実行できるわけがない」と反対意見を述べた。他の委員も全員が同じ意見だった。そこで私たちは、党中央の方針を黙殺して、沖縄の現状に適した政治方針と活動方法を探りながら党建設を進めることにした。つまり、沖縄では、日共中央の間違った政治方針・組織方針はシャットアウトされていたのである。(7)
 この時期、労働組合は米軍政府の反共キャンペーンの下で幹部や活動家が指名解雇されて、壊滅状態に追い込まれつつあった。そのため、上部組織である全沖縄労働組合協議会(全沖労)は下部組合からの組合費の納入も無くなり、極度の財政難に陥っていた。そんなある日、全沖労事務局長の畠義基が「琉球政府労務課の組合関係担当職員に実家が質屋の人がいて『情報さえ提供してくれるなら、質草は無くても金は幾らでも都合してあげる』と言っている。その人から金を借りようと思う」と私に話した。私は、CIC(米軍諜報部隊)が畠をスパイ工作の標的にしていると直感して、労務課職員への情報提供を一切止めるよう、畠に厳しく注意した。林と畠に米軍政府から退去命令が出たのは、それから数日後のことである。組合関係や党関係をスパイする手蔓を切られたことに対して、CICと米軍政府が報復的攻撃を仕掛けたものと私は推測している。

 その後、畠は8月27日に潜伏先で逮捕されたが、米軍政府が『日本共産党の対琉球政策要綱』を入手したと発表したのは、それから3日後の8月30日である。CICは、おそらく、畠の自供によって、非合法共産党組織の存在と日共中央の琉球に対する政治方針書の存在を確認したと推測される。しかし、その方針書は入手出来ず、閉会間際の立法院の会期中に「共産主義政党禁止決議案」を上程・可決させるために、例の『日共の対琉要綱』なる捏造文書をCICは大急ぎで作文したのだと思う。(8)
 このような策略を弄しても人民党を非合法化出来なかったために、米軍政府が形振りかまわずに人民党に襲い掛かってきた様子は先に見た通りである。まことに、沖縄の1954年は、反共ヒステリアが猛威を振るい、弾圧の嵐が吹き荒んだ暗黒の日々の連続であった。そうした中で、アメリカ占領軍は土地接収に反対する農民に対しては完全武装の軍隊を出動させて鎮圧し、武力で強奪した土地の上に恒久的な「制約の無い軍事基地」の構築を急いだ。これに対して、非合法党委員会は次のような当面の方針を立て、実践に移した。
 @ 農地を軍用地に接収されることに反対している伊江島・伊佐浜の農民と1953年以来アメリカ軍の武力土地接収に抵抗を続けている小禄村(現那覇市)具志の農民との交流・経験交換を通じて3地区農民の連帯を固め、統一闘争を発展させる。
 A 伊江島・伊佐浜農民の闘争を支援するカンパ・激励活動を職場・地域・学園等で広く展開し、支援体態勢を構築・拡大する。
 B 軍用地問題に関する大衆的な報告集会を可能な形で数多く開催し、土地闘争の現状を全住民に知らせる活動を強化する。
 C 伊江島・伊佐浜農民の土地闘争を軸に、全住民の力を「土地を守る闘争」に結集する。
 D 日本を始め世界の平和・民主勢力との連帯をはかり、沖縄の日本復帰を日本国内は勿論、国際的にも世論化し、政治問題化するように呼びかける。
 E 以上の方針に沿った宣伝・組織活動を強化するため、機関紙を発行する。
 当時、機関紙は非合法でしか発行出来なかった。『刑法並びに訴訟手続き法典』と呼ばれるアメリカ占領軍布令に、次のような条項があったからである。
 「合衆国政府または琉球列島米国民政府をそしる文書を発行または配布するものは5年以下の懲役に処す。」「琉球政府の許可を得ないで新聞、雑誌、小冊子、廻状を発行または印刷するものは6ヶ月以下の懲役に処す。」
 このように言論、出版の自由が抑圧された軍政下で、1954年12月、私たちはタブロイド版数頁、週刊(後に旬刊)の非合法機関紙を創刊した。題は『民族の自由と独立のために』とし、題字の脇に毎号「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の勝利をめざして」というスローガンを掲げた。発刊のことばに、「この新聞は沖縄人民党や沖縄社大党、あるいは労働組合、教職員会等の機関紙ではない。この新聞を口実にして、これらの政党や団体に弾圧を加えることをわれわれは断じてゆるさない」と書き、暗黒の米軍政に対して自由と独立のための闘いを宣言した。

6.米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争

 1955年1月18日、那覇市内の人民党本部にいる私のもとに、全く予想していなかった知らせが届いた。2年前からアメリカ軍の土地接収に反対してきた伊佐浜が土地接収を承諾したというのである。すぐに私はバスに乗って伊佐浜に駆けつけた。私はそれまでに何度も伊佐浜を訪れていて、区民の皆さんとは遠慮なく話し合える間柄になっていた。
 ところが、その日、男たちは話すのがつらいのか、伏し目勝ちに顔をそむけて、話に応じてくれない。対照的に婦人たちは、心配な気持ちをそのまま訴えるように話していた。水田の側を流れるせせらぎで洗い物をしている年老いた農婦は、私を見上げる目に涙を浮かべて、「この田んぼが取られるくらいなら、私も一緒に埋めて欲しい」と嘆き、悲しんでいた。また、赤ん坊を胸に抱きしめた農婦が、庭に立ちつくしたまま、「土地接収を承諾してから、男たちは酒を飲んでやけくそになっています。男はそれですまされるかも知れません。しかし、生し子生し出じゃちゃる女や、あねーならぬ(子どもを産み育てる女はそうはしておれない)。」と母親としての気持ちを切々と語っていた。そういう婦人たちの声を聞いて、何とかしなければならないと思い、私は区の幹部の人たちと粘り強く話し合った。その結果、幹部の一人が次のように語った。
 「誰だって田んぼを取られることには反対だ。しかし、この13万坪の水田を持っている伊佐(通称伊佐浜)喜友名、新城、安谷屋の4区のうち、他の3区は、伊佐浜が反対すると、自分たちの区の軍作業員までも首になる≠ニか貰える補償も貰えなくなる≠ニか、脅かされて、伊佐浜に文句をつけている。それに行政主席や村長なども頼りにならない。もう私たちだけではどうにもならない。」
 この話を聞いて、私は、人民党を始め労働組合や教職員会等すべての民主的大衆団体に対するアメリカ占領軍の弾圧が伊佐浜の人たちを如何に深い孤立感に陥れているか、痛切に実感させられた。そこで私は次のように提案した。
 「沖縄には皆さんの土地闘争を支援する気持ちを持った人が沢山います。ただ、何をすればよいか分らないので、黙っているだけです。立法院も皆さんが働きかければ、親身になって動くはずです。試みに、私が人民党の大湾議員の他に社大党の議員も連れてきますから、座談会を開いて、皆さんの気持ちを率直に聞いてもらってはどうでしょうか。」
 幹部たちは、これまで行政主席や立法院に陳情してきた経験から、いぶかしげだったが、議員が来てくれるなら座談会を持ってもいいということになった。
 翌日の早朝、私は社大党の西銘順治・立法院議員を自宅に訪ね、ことの次第を話して、座談会への出席を要請し、承諾を得た。それから伊佐浜とも連絡をとって、1月28日に座談会を持つ段取りをつけた。
 ところが、当日は約束の時間になっても議員の姿がなく、伊佐浜の人たちの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。私は那覇に取って返して、立法院に行き、個室でためらっている西銘議員の言訳を聞くのもそこそこにして、西銘・大湾両議員と一緒に立法院の公用車で伊佐浜に駆けつけた。
 立法院議員が来てくれたということで、伊佐浜の人たちは大変喜び、男も女も殆ど全員が座談会に集まった。そして、伊佐浜の人たちの訴えを聞いて心を動かされた西銘議員は、社大党が全党あげて伊佐浜の土地闘争を支援するよう党内に呼びかけるほか、立法院でも支援決議するように働きかけることを約束した。(9)
 西銘議員のその言葉に元気づけられて、伊佐浜区民は土地闘争を今一度建て直す相談を始めた。そこで、土地接収に男は一旦承諾したけれども、女は反対だということで闘いを再構築する運びになった。ここまで話が進むと、「女や戦ぬ先駆(イナグヤイクサヌサチバイ=いざとなると女はたたかいの先頭に立つほど強い)」、「男女同権はアメリカが教えてくれたことではないか」などと冗談も飛び出して、みんな生き生きとなった。

 3日後の1月31日、伊佐浜の婦人たちは行動を起こして、行政主席に面会し、土地接収に反対の意思を伝えるとともに、主席が住民の側に立つことを要請した。同じ日、西銘順治は社会大衆党所属の立法院議員である桃原亀郎、大山朝常、平良良松、中里猛らと一緒に伊佐浜を訪れて実情を聴取し、社会大衆党も伊佐浜の土地取り上げ反対闘争に全党を挙げて取り組むことになった。
 これに対してアメリカ占領軍は、3月11日、いきなり伊佐浜水田地帯の一角で整地作業を始めた。それを見た伊佐浜区民は男も女も総出して、作業現場のパワー・シャベルが空中高く上がった隙を見計らってその下に座り込み、作業を止めさせた。すると隣接するキャンプ(兵営)に待機していた完全武装部隊が出動して来て、銃剣を突きつけ、銃床で殴って、座り込みの伊佐浜区民を退去させた。しかし、作業も中止され、この時はそれですんだ。米軍はどのくらいの抵抗があるか、小手調べしたようである。
 同じ日、3月11日、伊江島では、戦時の上陸作戦さながらに、約300人の米軍完全武装部隊が上陸し、ブルトーザーやダンプカーを次々と陸揚げした。そして、翌日から3日間をかけて、爆撃演習用地として百万坪の農地に有刺鉄線を張り巡らし、その中にある13戸の農家を家財道具もろともブルトーザーで次々とひき潰していった。火を放って燃やした家もある。作業はすべて銃剣をかざした武装兵が取り囲む中で行い、農民が作業現場に近づくと、殴り倒したりした上に、捕えて有刺鉄線を円筒形に積み上げて作った檻に監禁した。アメリカ軍の強制接収は3月14日に完了した。
 その後、真謝区の農民は、有刺鉄線をくぐって爆撃演習場の中に入り、「ここは私たちの土地であります。私たちは生きるために働きます。」と和英両文で書いた白旗を掲げて畠を耕作した。すると、武装したアメリカ兵が、軍用犬を使って襲いかかり、あるときは32人、あるときは5人と、農民を捕えて軍事裁判に送り、軍事基地に入ったという廉で、数ヶ月の懲役に処した。こうして投獄された農民は通算百数十人に上る。また、農民の中には、アメリカ軍の飛行機から投下される演習弾で爆死した者が二人、射殺された者が一人、重軽傷を負った者が38人もいる。
 このように大きな犠牲を払いながら、農民達は爆撃演習場内での農耕を続ける一方、他方では男も女も、老人も子供も、皆で沖縄本島に渡り、時には琉球政府前で抗議の座り込みをし、時には伊江島の実情を沖縄中に訴えて歩く「乞食行進」をして、不屈の闘いを繰り広げていった。(10)
 伊江島・伊佐浜におけるアメリカ軍の武力土地接収の模様は、新聞でも大きく報道されて、軍用地問題に関する世論を高めた。私たちの非合法機関紙『民族の自由と独立のために』もその都度、土地闘争の経過を伝え、4月17日付第10号では、「土地を守るために全県民の力を合わせよう」とアピールを発した。(11)
 こうして盛り上がってきた世論を背景に、5月19日、立法院は「軍用地問題に関する4原則」を全会一致で確認する決議を行った。「4原則」とは軍用地に関する住民の要求を次の4つに纏めたものである。
 @ 軍用地の買い上げまたは永久使用料の一括支払いは絶対に行なわないこと。
 A 軍用地使用料は住民の要求する金額を毎年支払うこと。
 B アメリカ軍が加えた一切の損害を速やかに賠償すること。
 C あらたな土地の取り上げは絶対に避けること。
 アメリカ軍は1945年に沖縄を占領するや、飛行機、兵営、軍需物資集積所などに使用する土地を自由勝手に金網で囲い、軍用地にした。それも、戦時占領とあって、土地の使用料は全く支払われなかった。1952年4月に対日講和条約が発効して後は、そのままでは許されないとあって、同年11月、「契約権」と称する布令91号を発し、土地所有者(地主)と賃貸借契約を結んで、使用料を支払うことになった。ところがその額たるや、年に1坪あたり1円8銭(1B円=3日本円)という取るに足らないもので、それを17年分一括支払いして永久使用権をアメリカ軍が獲得するというものである。それに対して立法院は1954年4月、先に掲げた「4原則」を全会一致で決議し、行政主席・立法院・市町村長会・軍用土地連合会(地主会)からなる4者協議会を結成してアメリカ占領軍と折衝することにしていた。

 ところが、その後、反共主義の弾圧が吹き荒ぶ中で、4者協議会はアメリカ占領軍と折衝することが出来ず、「4原則」も仮死状態に陥っていた。それが1955年5月19日に、立法院議会における超党派の確認決議となって、1年ぶりに蘇ったわけである。3日後の5月22日には「軍用地問題解決住民大会」が開催され、比嘉行政主席その他4者協議会のメンバーをアメリカに派遣して、「4原則」についてアメリカ政府と直接折衝することを決議した。この決議に基づいて、行政主席ら代表団は、2日後の5月24日に渡米した。土地取り上げに反対する伊江島・伊佐浜農民の抵抗と、それを支援する広範な民衆の力は、ついに立法院議員全員を奮い立たせ、アメリカ占領軍から任命された比嘉行政主席をも「4原則」を要求する運動の先頭に立たせたのである。ここで全住民を巻き込む「島ぐるみの土地闘争」の態勢が出来上がった。
 これに対して米軍政府は、「立法院が土地問題に没頭して予算編成を遅らせるなら軍政府補助金を取り消し、議会解散を行なう」と脅迫して、土地接収の強行姿勢を変えなかった。そして伊佐浜に対しては「7月17日までに土地を明け渡せ」と1週間前に期限を切って、最後通告を発した。
 伊佐浜では期限切れを前に区民総会を開いて最終的な対策を協議した。そして、この総会には区民以外の者は一人も入れず、区民だけで自主的に結論を出すことにした。総会がすんでから、その模様を区民に聞いたところ、始めのうちは、みんな思案にくれて黙り込んでいたが、しばらくして、おもむろに長老の一人が次のように発言したそうである。
 「接収に反対するか、応ずるか、どの道を選んでも、自分たちには土地も残らないし、移動先もない。それを自分で土地を明け渡したとあっては、アメリカ軍の野蛮な土地取り上げを自分たちが認めたことになる。それでは自分たちをこれまで支援してくれた沖縄中の人々や、遠くから激励の手紙を送ってくれた皆さんにも申し訳が立たない。私たちには、もはや子孫に残すものは何もない。この上は最後まで土地取り上げに反対して闘い抜き、せめて、歴史の上に伊佐浜の名を残そうではないか。」
 その一言で区民の意思は固まった、という。
 強制接収が予定されている7月18日、伊佐浜には早朝から幾百、幾千という人たちが農民の土地闘争の支援に駆けつけた。そのために、その日はアメリカ軍も手を出さなかった。強制接収は、支援の人たちが家に帰って、地元の区民の他は2、300人しか泊り込んでいない深夜に始まった。
 午前3時頃、水田地帯の一角から重車両の動く音が聞こえてきた。しかし、真っ暗闇で、その姿は見えない。水田地帯のすぐ側を通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきた所をよく見ると、武装兵を満載したトラックと、これまた武装兵を両脇に乗せたブルトーザーが、ライトを点けずに、何台も何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白みかける頃には、13万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルトーザーが32戸の住居がある部落に突入していた。海の方ではドレッジャー(浚渫船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けて繋いでいく。それは戦争さながらの海陸両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。
 夜が明けた時には、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の畦を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことが出来ず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりであった。
 伊佐浜の区民もこうなっては手の施し用が無く、金網の中に入った32戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。
 先ず部落の入り口にある店の屋根に鶴嘴が打ち込まれた。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルトーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルトーザーで寄せ集め、ダンプカーに積んで、海岸に捨てに行く。このようにして32戸の家屋が次々と取り壊された。水田にはドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に流し込み、水田は見る見るうちに砂で埋められていった。(12)
 家を取り壊され、強制立ち退きさせられた32世帯の人々は、暫く近くの小学校に収用された後、10数キロ離れた高台に移された。しかし、そこは農業が出来ない不毛の地だった。それで結局2年後には、大部分の人々が生計を立てる道を失い、南米へ移民として移住した。

7.アメリカ軍による人権侵害――戦時占領下の軍政の継続

 アメリカ占領軍が反共主義の弾圧によって言論・表現・出版・結社の自由を抑圧し、大衆運動・政治活動を圧殺していた様子は先に見た。また、アメリカ占領軍が伊江島・伊佐浜において農民の耕す土地を強奪し、住む家を破壊して、基本的人権を蹂躙する蛮行を重ねて来た事実も見てきた。このほかに、1950年代の沖縄では、駐留米軍による住民殺傷、婦女暴行などの人権侵害事件も後を絶たなかった。
 伊江島・伊佐浜の武力土地接収があった年、1955年9月、沖縄本島中部の石川市内で、永山由美子ちゃんという6歳の女の子がアメリカ兵に連れ去られ、乱暴されて殺害されるという痛ましい事件があった。翌56年4月には、32歳の主婦がくず鉄(スクラップ)を拾うためにアメリカ軍弾薬集積所に入ったというので、アメリカ兵に射殺される事件があった。その主婦に対しては謝罪がないどころか、反対に軍事基地への不法侵入という罪名を着せられた。
 このような米軍による人権侵害は、沖縄が戦時占領された地域として軍政下におかれ続けていた状態から生まれている。そのことをよく示す米軍布告・布令の一つに「集成刑法」と呼ばれる布令がある。これは、1945年、アメリカ軍が沖縄を軍事占領するや、ただちに発した布令『戦時刑法』を手直しした1949年布令第1号『刑法並びに訴訟手続き法典』のことで、55年に再度手直しされて布令144号となったが、「戦時刑法」である実質に変わりはない。

 先に人民党幹部が弁護士もつかない即決の軍事裁判で投獄されたことに触れたが、その法的根拠を与えているのがこの「集成刑法」という布令である。伊江島の農民が爆撃演習場に取られた自分の畑を耕しに行って射殺されたり、捕えられて軍事裁判にかけられたりしたのも、この布令で合法化されている。言論・出版の自由を抑圧する条項がこの布令にあることも先に見た通りである。
 また、米軍政下の沖縄ではCIC(米軍諜報部隊)による拉致・拷問という人権侵害が普段にあった。私自身、1955年夏、伊佐浜の武力土地接収から数週間後の暑い日、バスに乗っているところを乗用車で尾行・追跡してきたCICに拉致され、まるまる2昼夜、一睡もとらされず、食事はおろか一滴の水も与えられないまま、熱と光と騒音で攻め立てる拷問にかけられたことがある。その間黙秘で通した私に軍事法廷で手渡された英文の起訴状には、起訴理由として私が『民族の自由と独立のために』の発行責任者であると記されていた。この種の拉致・拷問を可能にしているのもこの布令である。(13)
 この布令にも、住民を逮捕するには、現行犯でないかぎり、逮捕状が要ると一応は書いてある。ところが、すぐその後に「ただし、この定めは、合衆国軍隊要員が、重罪を犯しているのも、犯そうとしているもの、または犯したものを逮捕することを禁ずるものではない。」とある。ここでいう「重罪」とは、アメリカ軍の安全を損なうとか、アメリカ軍に反抗するとか、そういうことを扇動するとかいうことである。そういう「重罪」を犯そうとしていると疑いさえかければ、逮捕状なしに逮捕できるわけである。「合衆国軍隊要員」とは、CICやMPやその他の一般将校などである。このただし書きによってCICは目星をつけた者はだれであろうと、理由の有る無しにかかわらず、好き勝手に拉致・尋問・拷問・脅迫して自白やスパイを強要できるようになっている。こういうことは戦時占領下でなければ、あり得ないことだ。人権侵害が日常茶飯事である戦時占領下の軍政が、沖縄では、戦後27年間、対日講和条約発効後も20年間続いていたのである。

8.島ぐるみの土地闘争

 先に見た沖縄住民の「4原則」の要求に対する回答として、アメリカ政府は、1956年6月、下院軍事委員会・沖縄軍用地問題調査団の報告(プライス勧告)を発表した。この報告は先ず、沖縄基地の戦略上の重要性について説き起こし、「琉球列島には挑戦的な民族主義運動がないので、アメリカは、ここの島々を長期にわたって、アジア・太平洋地域における前進基地として使用することができる。ここでは原子兵器を貯蔵または使用するアメリカの権利に対し、なんら外国政府の干渉や制約をうけることはない。」と公言して憚らなかった。
 住民の「4原則」の要求については、「いかに琉球の問題に同情的になっても、琉球におけるわれわれ(アメリカ)の主要な使命は戦略的なものであり、したがって、ここでは軍事上の必要性が断乎としてすべてに優先する。」と軍事優先の立場から住民の要求を頭ごなしに退け、1万2000エーカーの新規土地接収と軍用地の永久買い上げを勧告した。
 このプライス勧告の発表によって、苛酷な軍政下で積み重なった住民の怒りは民族的危機感とも結びついて爆発し、全住民を巻き込んだ島ぐるみの抵抗運動へ発展した。アメリカ軍がプライス勧告を強行するなら、任命行政主席も、立法院議員も市町村長も、市町村議会議員もみんな総辞職して、無抵抗の抵抗をする決意を表明した。政党も大衆団体もそれに足並みを揃えて、「土地を守る協議会」を結成し、プライス勧告に反対する大衆運動を繰り広げていった。市町村ごとの住民大会が沖縄全島で一斉に開かれ、その締め括りに那覇市で10万人、コザ市(現沖縄市)で5万人の大集会が開催された。沖縄全島が熱っぽい民族運動の坩堝に化していた。
 島ぐるみの土地闘争は日本でも大きく報道されて、国民の沖縄に対する関心は俄かに高まった。そして、沖縄をアメリカの軍事占領支配に委ねている日本政府の責任を追及する声も大きくなっていった。
 これに対して、鳩山内閣は、「講和条約でアメリカの統治下に置かれている沖縄の問題に介入は出来ない。当分は冷却期間をおき、その後で沖縄島民とアメリカ政府との間を取り持ちたい。」という態度で終始した。それはアメリカ政府の望むところで、2ヶ月の冷却期間をおいた後、アメリカ占領軍は住民の団結を切り崩す分裂工作を始めた。その手段に使われたのが、先ず、経済的な圧迫と利益誘導である。

 沖縄経済は、米軍基地関係から落ちるドル収入を梃子に再建されてきた結果、基地依存度が極めて高い構造になっている。1956年の貿易収支について見ると、輸出約2000万ドルに対し、輸入は約8000万ドルで、約6000万ドルの輸入超過になっている。この極端な輸入超過額の80パーセント近くを穴埋めしているのが米軍基地関係から落ちるドル収入4700万ドルである。その基地収入のうち、半分以上はアメリカ兵とその家族が消費したドルで、基地周辺ではそれで生活している人たちが何万人といる。残りが米軍雇用労働者3万5000人の賃金その他である。これら基地に依存して暮らしている人たちが分裂工作の最初の標的になった。
 アメリカ占領軍は軍雇用労働者の土地闘争への不参加を厳命し、アメリカ兵相手のバーや土産品店が建ち並ぶ基地の街コザ市(現沖縄市)をオフ・リミッツにして、アメリカ兵の立ち入り禁止区域に指定した。それで、アメリカ兵を相手に商売している業者たちとコザ市長は、オフ・リミッツを解除してもらうために、土地闘争に反対を表明して戦列から脱落した。
 次いでアメリカ占領軍は、全学生が自治会の決議で土地闘争に参加している琉球大学に対し、「土地闘争に積極的に参加している反米的な学生を処分しないならば、大学に対する補助金をいっさい打ち切る。」と通告した。大学理事会はそれに屈して5人の学生を退学処分にし、大学も戦列から脱落した。
 このように、アメリカ占領軍の圧迫に負ける人たちが増えるにつれて、行政主席・立法院議員・市町村長会・市町村議長会・土地連からなる5者協議会にも動揺が生まれて、土地闘争はだんだん下火になっていった。その隙に、財界人の間では、一括払いされる軍用地料が景気を良くすると当て込んで、一括払いを望む空気が広がった。それを代弁するかのように、当間重剛那覇市長は「軍用地料の一括払いに必ずしも反対ではない」と公然と表明するまでになった。
 そういう折りも折り、比嘉秀平行政主席が急死し、当間那覇市長がアメリカ占領軍から後任の主席に任命された。財界人はそれを大歓迎し、早速、軍用地料の一括払いに賛成の署名運動を始めて、当間新任命主席に声援を送った。
 ここに至って、島ぐるみ≠フ土地闘争は完全に分裂し、住民は大きく二つの勢力に分かれた。その一方は、土地を守る4原則を堅持して、日本復帰に積極的な抗米革新勢力である。その先頭には沖縄人民党が立っていた。これに対する他の一方は、アメリカ政府の軍用地政策を容認し、アメリカの軍事占領支配に協力的な親米保守勢力で、当間主席や財界人が先頭に立っていた。そして、この二つの勢力は当間市長の後任を選ぶ1956年12月の那覇市長選挙で激突することになる。
 この選挙戦を、非合法共産党沖縄委員会と沖縄人民党中央委員会は、土地闘争の分裂を画策してきたアメリカ占領軍と親米保守勢力に対する反撃の機会と捉え、いち早く、この春出獄していた瀬長委員長を人民党公認候補に推して戦う態勢を整えた。
 これに対し、保守陣営からは二人候補したが、保守勢力は土地闘争を分裂させた余勢を駆って「選挙戦は保守候補二人の争い」と高を括っていた。新聞の観測も同じ論調であった。ところが、選挙の結果は大方の予想を覆して、瀬長候補が得票率40.4パーセント強で当選、保守二候補の得票率は35.7パーセント弱と23.9パーセント弱だった。那覇市民はアメリカ占領軍と親米保守勢力に手痛い反撃を加えたのである。

9.瀬長革新那覇市政をめぐる攻防

 選挙の結果が判明するや、アメリカ占領軍は「赤い市長≠ノ援助を与えるわけにはいかない」と声明して、那覇市に対する都市計画事業補助金の打ち切りを発表した。また、アメリカ占領軍が51パーセントの株を持つ琉球銀行に命じて、那覇市に対する融資をを中止させ、那覇市の預金も凍結させた。他の銀行もこれと歩調をあわせた。
 財界人たちは「那覇市長に当選した瀬長亀次郎氏は共産主義者であり……われわれは、同氏に対し、絶対協力しないことを声明」し、それを300人の連名で新聞に広告・発表した。那覇市会議員の多数も、さらに、那覇市役所の部課長たちまでも、同じような非協力声明を出し、その広告で新聞紙上が賑わった。そういう反共・非協力キャンペーンが張られている中で、1957年1月、瀬長市長は就任した。
 瀬長市長は、就任直後から、市政報告市民集会を数多く開催し、市政の実情や施政方針を市民に直接説明して、アメリカ軍と保守勢力の不当な圧迫と干渉をはね返すために、市民の協力と団結を訴えた。市民集会は夜の時間を利用して野外の広場で開かれていたが、集会を通じて市民と市長との結びつきは強くなり、瀬長市長を支持する声は日増しに大きくなっていった。そういう市民の動向を見て、非協力を声明した市議たちも瀬長市長をいきなり不信任することにたじろいでいた。
 そこで焦った米軍琉球司令官や当間主席らは、保守の市議を時には料亭やクラブに招き、時には主席公舎に呼び集めて、酒や肴で持て成しながら、市議会で瀬長市長を不信任するよう画策した。こうした裏工作によって、6月17日、不信任決議が市議会で可決された。それを受けて、瀬長市長は直ちに市議会を解散し、信を市民に問う市議選挙が8月4日に行われた。

 この選挙にあたって、革新勢力は人民党と社大党那覇支部との提携を軸に、民主的革新那覇市政の擁護、祖国復帰、4原則貫徹等の統一スローガンを掲げて、「民主主義擁護連絡協議会(民連)」を結成し、瀬長市長に対する再度の不信任を阻止するに足る3分の1以上の議席獲得を目指した。一方の保守勢力は、共産主義市長の追放、都市計画の再開、住民生活の向上等を旗印に「那覇市再建同盟」を結成し、再度の市長不信任に必要な3分の2以上の議席獲得を目指した。
 選挙の結果は、全議席30のうち、民連が3分の1を超える12議席を獲得したのに対し、再建同盟は3分の2を下回る17議席に留まった。
 瀬長市長を合法的に退任させることに失敗したアメリカ占領軍は、今度は、11月23日、布令を発して市町村自治法と市町村選挙法を改定する暴挙に打って出た。自治法は再度の首長不信任を過半数の議員の出席で足りると改め、選挙法は欠格条項を新たに設けて瀬長市長の被選挙権を剥奪した。11月25日、市議会は市長不信任案を可決、後任市長を選ぶ選挙は年が明けて1月12日に行なわれることになった。
 この選挙で、人民党と社大党は候補者の選定をめぐって意見が対立し、話し合いは決裂した。民連が社大党那覇支部長の兼次佐一(元立法院議員)を後継市長候補に推したのに対して、社大党本部は同党初代委員長の平良辰男(元沖縄群島知事・元立法院議員)を公認候補に推した。民主党や再建同盟や当間主席らの保守勢力は候補者を立てることさえ出来ず、平良候補を支持した。親米保守勢力は中道革新の社大党主流派と一緒になって人民党・社大党左派の民連に対抗したのである。アメリカ占領軍が平良候補に期待を寄せたのはた易く想像できる。結果は接戦の末、約1千票差で民連の兼次候補が当選した。
 1年間にわたる革新那覇市政をめぐる攻防は、アメリカ軍の反共キャンペーンと強圧をはね返して、那覇市だけでなく、沖縄中で革新勢力を奮い立たせ、「民連ブーム」という革新勢力の高揚をもたらした。
 ここに至ってアメリカ政府は、沖縄の統治を国防長官の管轄下で現地軍だけに任せておいては沖縄の政情が不安になり、それが引いては日本に跳ね返って日米関係を危うくし、結局的には沖縄基地の安全を脅かす結果になる、と見て取った。そこでアメリカ政府は、沖縄統治に大統領と国務長官が介入出来るように、1957年6月5日の大統領行政命令で高等弁務官制度を設けて、沖縄統治政策の転換を計った。(14)

10.米政府の沖縄統治政策の転換

 アメリカ政府が1958年から60年にかけて転換した沖縄統治政策の骨子は、先ず、軍用地問題では、地料の額と支払方法をめぐる住民の要求に譲歩を示して妥結させ、金融面で、通貨を軍票B円からアメリカ本国ドルに切換えて、外国資本(特に日本資本)の導入を図り、それと効果的な財政援助をかみ合わせて、民間産業資本の形成と沖縄経済の成長を促すというものである。(15)
 それは、アメリカに対する日本の相対的地位が上昇してきて、1960年に日米安保条約を片務的な形式から双務的な形式へ改定した後の日米新時代の協力関係を視野に入れた沖縄統治政策の転換であった。
 このような政策転換に助けられて、沖縄の親米保守勢力は息を吹き返し、勢力を挽回していった。それに引き換え、革新陣営では1957年末から58年初頭にかけて、「民連ブーム」が絶頂期にあるまさにそのとき、指導者個々人の好悪の感情も絡んだ主導権争いから内部分裂が始まった。その発端は、先に見たように、瀬長市長の後継統一候補選びをめぐって、人民党と社大党とが対立したことにある。両党は選挙戦でも全面的に対決し、その過程で社大党内の左派は脱党して沖縄社会党を結成した。その社会党は、また、初めのうちこそ人民党と提携していたが、いくばくもなく両党は労働運動の主導権をめぐって相争うようになった。こうして革新勢力は社大・人民・社会の3派に分かれて3つの巴の対立抗争に明け暮れる泥沼に陥ってしまった。(16)
 それに加えて、アメリカ占領軍が次々と打ち出してくる統治政策の転換に対しては、どの革新政党もそれを客観的に分析することが出来ず、ただ単に、沖縄をアメリカの属領に組み入れる準備であるとか、沖縄の土地をドルで買い取ってプランテーションを経営するためであるとか、主観的に判断して、属領化反対とか、植民地的搾取反対とかいうようなスローガンで民族主義の感情に訴えるばかりであった。このような革新政党の有様では、民衆の共感と支持が得られるはずはなく、革新の「民連ブーム」は潮が引くように勢いが衰え、間もなく消滅した。(17)

 しかし、そうした状況にあっても、島ぐるみの土地闘争と革新那覇市政をめぐる攻防を通じて蘇った労働運動や学生運動やその他の民主的大衆運動は、アメリカ軍のどんな弾圧をもはね返して進むまでに成長しつつあった。これに対してアメリカ政府は、1960年代に入ると、それまで拒絶していた沖縄に対する日本政府の財政援助と技術援助も受け入れて、日米両政府の協力で沖縄の経済的、政治的安定と米軍沖縄基地の安全な維持を図るようになった。
 しかし、日米両政府の協力をもってしても、沖縄住民のアメリカ軍の占領支配に対する闘争を抑え込むことは出来なかった。1960年代の沖縄では、日本復帰運動、主席公選要求を始めとする自治権拡大闘争、ベトナム反戦・平和闘争、言論・出版の自由獲得闘争、民主的教育を守る闘争などが、労働組合の主導で質的にも量的にも飛躍的に発展した。その結果、世界的なベトナム反戦運動が高揚する中で窮地に立たされたアメリカ政府にとって、沖縄問題は負担に耐えない重荷になってきた。それに引き換え、この時期、日本は急速な高度経済成長を経て、アメリカに対する相対的地位を一段と高めた。沖縄と日本で、このように情勢が発展するにつれ、アメリカ政府は沖縄占領統治に伴う経済的・政治的負担をすべて日本政府に肩代わりさせ、そうすることによって沖縄基地の安全な確保を図る方向へ再度の政策転換を迫られることになった。そこでアメリカ政府は、1972年5月15日、沖縄基地の機能維持と日米軍事同盟の再編強化を条件に、沖縄の施政権を日本に返還した。(18)

11.補足――沖縄基地問題の現状

 沖縄の施政権が日本に返還されて以後、米軍沖縄基地を維持する費用は、軍用地料ばかりでなく、基地従業員の賃金、アメリカ兵住宅の維持費、光熱費などにいたるまで、すべて、日本政府が負担している。そして又、住民が米軍基地に反対することから起る摩擦や紛争も日本政府の責任で解決することになっている。つまり、日本政府の責任で安定的に供給され、安全が保障される沖縄基地を、アメリカ政府は、財政上の負担や住民とのトラブルからも解放されて、快適に維持出来るようになったわけである。
 沖縄の日本復帰後、日本政府は、沖縄住民の米軍基地反対の感情をなだめ、沖縄の政情を安定させるために、1972年この方、10年単位の3次にわたる沖縄振興開発計画を策定し、これまでに約6兆円にのぼる公共投資を施してきた。しかしそれも、1995年秋のアメリカ兵による少女暴行事件をきっかけに立ち上がった沖縄県民の米軍基地撤去要求の噴出を抑えることは出来なかった。そういう沖縄住民の要求に対して、日米両政府は、日米安保協議委員会の下にSACO(日米特別行動委員会)を設け、米軍基地の整理縮小計画を作らせた。それは、1996年4月に中間報告され、同年12月に最終決定されたが、その内容は、普天間飛行場や那覇軍港などの沖縄県内移設という、その場凌ぎの姑息な解決策であった。だから当然のことながら、その目玉とされている普天間飛行場の沖縄本島北部名護市東海岸への移設計画は、住民の根強い反対に遭って、3年以上も宙に浮いたまま現在に至っている。
 このように行き詰っている普天間飛行場の移設問題の血路を開くために、日本政府は、昨年(1999年)春以来、サミットの沖縄開催、守礼の門を図柄にした2000円札の発行、経済振興策による財政資金のばら撒き等々、採りうるあらゆる手段を講じて、沖縄の財界人や県知事や北部市町村長や与党議員たちを懐柔し、この人たちを使って米軍基地反対の世論を分裂させ、米軍基地の県内移設に反対する民衆闘争を孤立させようと図ってきた。そういう日本政府の思惑に乗せられて、稲嶺知事と岸本名護市長は、昨年(1999年)末、普天間飛行場の名護市辺野古海岸への移設を容認した。そのために、沖縄の基地問題はかつてない重大な局面を迎えている。
 日本政府の筋書き通りに普天間基地の移設を許すとなると、沖縄住民が承諾して造らせた米軍基地が初めて沖縄に出現することになる。初めてのことはそれだけではない。アメリカ海兵隊の軍事基地を、日本政府の責任において、日本政府自身の手で沖縄に建設し、それをアメリカ政府に提供するというのも、また、史上初めてである。
 アメリカ政府が望む最新鋭の海兵隊ヘリ基地建設の工費は、移転費等の関連費用を含めると、およそ1兆円と見積もられている。それはすべて日本政府の負担、つまりは日本国民の税金で賄われる。しかも建設されるヘリ基地の運用年数は40年、耐用年数は200年という。そのようなヘリ基地の建設は、当然の結果として、総体としての沖縄基地の固定化、恒久化を招くだろう。そうなると沖縄は、いよいよ、アメリカと日本との「共同軍事植民地」としか言いようのない状態に縛りつけられることになる。そういう状態を作り出すのに、日本政府はサミットの沖縄開催を利用し、クリントン大統領は、それを「日米同盟の戦略的重要性を示すよい機会」と捉えている。
 よく知られているように、名護市辺野古の珊瑚礁の海は、日本で唯一、ジュゴンの棲息する海域である。そこの海岸と海に2000数百メートルの滑走路をもつヘリコプター基地を建設すれば、珊瑚礁の海が破壊されることは、目に見えている。敢えてそれを強行するのは、軍事戦略の必要を優先させて、自然環境を破壊して顧ない横暴な振る舞いと言わなければならない。
 名護市民のヘリ基地建設反対の運動を軸に高まりつつある米軍基地撤去を目指する沖縄の民衆闘争は、そのような日米両国首脳の軍事戦略優先の政策に反対して、自然環境を守り、平和を築くための連帯を世界に呼びかける闘いである。この闘いの発展は、サミットを契機に、世界注視の中で、米軍沖縄基地は何のためにあるのか、その存在の意味を問うものになるだろう。

12.覇権の変容と米軍沖縄基地――結びに代えて

 アメリカの戦略構想の基本的な目的について、冷戦終結直後の1990年4月、チェイニー国防長官は『アジア太平洋における戦略的枠組み――21世紀に向けて』と題する報告で次のように述べている。
 「われわれは単に他人の利益のために役立とうとしているのではない。一言で言えば、われわれの軍事的プレゼンスが、この地域でわれわれの行なう経済活動の舞台を作ることになる。それゆえに、われわれの役割が必要なのである。太平洋を往復する貿易量の総額は年間3000億ドルに達し、大西洋貿易より50パーセントも多い。太平洋の平和と安全を維持することが、われわれ自身の最善の利益となる。」
 つまり、アメリカの大資本と大企業がアジア太平洋地域で自由に経済活動できるようにし、そこから得られる経済的利益の安全を保障するというアメリカの国益を守るために、この地域での前方展開戦略が必要だというのである。同じように、アメリカの世界戦略の基本的な目的は、世界中でアメリカの大資本と大企業が自由に経済活動できるように、自由資本主義の世界市場を創出、維持することにある。それは現在も変わらないアメリカの世界戦略の基本である。
 この世界戦略に従って、アメリカ軍は日本に駐留し、沖縄をアジア・太平洋地域におけるキーストーンとして確保しているというわけである。
 キーストーンとは、石や煉瓦でアーチ型の建造物を両側から積み上げて造る際、一番上の中央に最後に嵌め込んで全体を力学的に支える要石のことである。この要石を抜き去ると、建造物全体が力の支えを失って崩れ落ちてしまう。それと同じように、沖縄から米軍基地を撤去すると、アジア・太平洋から中東・アフリカに至る広大な地域におけるアメリカの前方展開戦略は崩れてしまい、アメリカの世界戦略構想全体が揺らぐことになる。それはアメリカにとって、覇権の盛衰にかかわる事態である。沖縄の米軍基地問題は、それほどまでにアメリカの覇権と直接に、かつ深く関っている。従って、沖縄の将来を展望するには、覇権の変遷・変容についての考察は欠かせない。
 ここでいう「覇権」とは、世界の秩序を創出・維持・指導する強大な政治力・経済力・軍事力・文化的影響力を兼ね備えた国際的な支配力のことである。そのような世界的支配力を持つ国が覇権国である。周知のように、世界で最初に覇権国になったのはイギリスで、19世紀はパクス・ブリタニカの時代であった。その後、第一次世界大戦を境にイギリスの覇権はアメリカに移っていく。パクス・アメリカーナの幕開けである。それから両大戦間の移行期を経て、第二次大戦を契機にアメリカの覇権が確立した。
 英・米二つの国の覇権は異なる時代に、異なる歴史的条件の下で形成されただけに、本質的に異なる特性を持っている。パクス・ブリタニカの下では、資本主義経済の発展とともに、帝国主義列強が世界を植民地として分割領有し、その勢力争いはしばしば植民地獲得のための侵略戦争や帝国主義国間の戦争を引き起こした。そういう歴史が進展する成り行きの中でイギリスを覇権国とする世界体制は形成された。
 これに対して、アメリカはヨーロッパから北米大陸の植民地に移民した人たちが独立して建国した世界最初の共和国である。そのアメリカが工業・農業生産力を急速に発展させて、海外に進出するようになった19世紀末以降、必要としたものは、新たな領土や植民地ではなく、自由に貿易できる海外市場であり、その海外市場で得た利益の安全な確保を保障する海外軍事基地であった。アメリカが手に入れたカリブ海のプエルトリコ、キューバの米軍基地は中南米・大西洋地域の市場を抑えるためのものであり、ハワイ、グアム、フィリピンの米軍基地はアジア・太平洋地域の市場への架け橋であった。
 そういうアメリカにとって、旧来の植民地と中国などの半植民地は、領土として争奪する対象ではなく、帝国主義諸国の支配から脱して、自由に貿易できる相手になることこそ望まれた。だからこそ、第一次大戦時のウィルソン大統領も、次いで第二次大戦時のローズベルト大統領も、ともに民族自決の原則・通商航海の自由・交易の機会均等を強く主張したのであった。ここにアメリカ帝国主義の特質がある。それは、ヨーロッパ諸国やロシアや日本の旧帝国主義・近代帝国主義・植民地主義とは異なり、新帝国主義・現代帝国主義・覇権主義とでも呼べるものである。

 こうした特質をもつアメリカの覇権の下で築かれた世界体制、すなわちパクス・アメリカーナはアメリカの構想に従って意識的に形成された点でも、パクス・ブリタニカとは異なる。第二次大戦後の国際政治機構である国連と、国際金融経済体制であるプレトン・ウッズ体制は、アメリカ主導の下で、1941年の米英首脳会談による大西洋憲章、1942年の26ヶ国によるワシントン協定、1944年の国際通貨会議によって創り出された。それは「自立・自由・民主主義」、「独立自営・自由競争・機会均等」というアメリカ建国以来の伝統的理念を全世界に普及させて、豊かな自由資本主義の世界体制を築こうというものである。それが二次にわたる世界大戦を引き起こした帝国主義を抑制すると同時に、社会主義革命を防ぐ道に繋がり、アメリカの利益になると考えられていた。
 もともと、アメリカは覇権国になった当初から社会主義体制を対抗勢力として強く意識していた。第一次大戦を契機にソ連という巨大な社会主義国家が生まれ、国際的な共産党の組織であるコミンテルンの指導で社会主義を目指す運動が世界に広がることは、自由資本主義の世界体制を脅かし、アメリカの利益を損なうものと考えられていた。そこで共産主義の脅威からアメリカ社会を守るという反共主義が生まれ、1920年代には狂暴な赤狩り≠ェ全米で猛威を振るった。それは第二次大戦後の1950年代、冷戦の開始時に反共ヒステリアが全米に蔓延して、赤狩り≠ェ国中で荒れ狂ったのと軌を一にしている。(19)
 このような反共主義のアメリカも、第二次大戦前は、日本の中国大陸における軍事行動・侵略行為を牽制するために、ソ連政府を正式に承認して共存を図っていた。そして、第二次大戦では米ソは連合国として協力関係にあった。この協力関係は、第二次大戦直後もしばらくは続いていたが、1947年3月、冷戦の開始宣言とも言うべきトルーマン・ドクトリンの発表で終止符を打った。
 冷戦は、その起源を見ると、トルコとギリシャの革命闘争を鎮圧するのに、アメリカが両国政府に4億ドルの軍事・経済援助を与え、軍事要員を派遣したことから始まっている。その後、東ヨーロッパ、中国で社会主義を目指す人民民主主義革命が急速に進展し、さらにアジアを始め世界各地で植民地の解放闘争・独立闘争が高揚して、資本主義体制から離脱する国と地域が急増した。それをアメリカが軍事力で食い止め、封じ込める戦略をとったことから東西両陣営が対立し、冷戦が激化していった。それがアジアでは朝鮮とベトナムで「熱戦」にまで発展した。
 一般的に言われているように、冷戦が1989年12月3日のマルタ島における米ソ首脳会談で終結した結果からすると冷戦は米ソの対立によって生じた世界核戦争の危険を孕んだ緊張状態であった、と定義できる。その冷戦の終結によって、世界核戦争の危険も遠のいた。しかし、それにもかかわらず、南北朝鮮や中国の台湾をめぐる情勢には、今もなお、軍事的・政治的対立状態がある。社会主義国家キューバ、リビアとアメリカとの間、中東産油国のイラク、イランとアメリカとの間にも、強弱の差はあるものの、同じような対立状態がある。その根源は、自由資本主義の世界市場を創出し、維持するという覇権国アメリカの世界戦略にある。

 ところで現在、自由資本主義の世界市場化(グローバリゼイション)が進むとともに、自由競争は激化の一途を辿り、一国内でも、国際間でも、提携・合併による資本と企業の巨大化が進んでいる。それに伴い、生産性向上やリストラによる人員整理は、世界いたるところで失業者を増大させ、失業問題は世界中で深刻になっている。さらに、自由資本主義の世界市場化に伴い、貧富の差の拡大、先進国と途上国との不等価交換、富の偏在、資源の浪費、自然環境の破壊等々、さまざまな問題が噴き出して、発展途上国ではもちろん、先進国でも、民衆の反発と抵抗を呼び起こしている。そのことは、昨年(1999年)11月30日から12月3日にかけてアメリカ・シアトルで開催された世界貿易機関(WTO)閣僚会議が、世界各地から集まった10万人規模の市民やNGOの抗議行動と、それに勇気づけられた途上国政府代表の反対に遭って、失敗に終った事情が雄弁に物語っている。(20)
 このような国際環境の中で世界の政治・経済秩序を取り仕切ることは、超大国アメリカの覇権をもってしても、単独では不可能である。実は、このことは、1970年代初頭、ベトナム戦争におけるアメリカの敗北によって、すでに明らかになっていた。だからこそ、1990年代初頭の湾岸戦争のときには、巧みな情報操作で内外の世論の支持を取り付けながら、先進諸国(旧帝国主義国)の軍事的・財政的協力を得なければならなかった。
 現在、アメリカは、覇権に従わない国々を「テロ支援国家」「ならず者国家」と呼んで軍事的・経済的制裁を加えたり、あるいは先進諸国の国益にかかわる地域紛争を鎮圧したりするのに、先進諸国(旧帝国主義諸国)の共同歩調を一段と強く求めている。このアメリカの要求に応えて、ヨーロッパでは旧覇権国イギリスを先頭にNATO加盟の旧帝国主義諸国が、アジアでは唯一の旧帝国主義国日本が、アメリカを盟主とする軍事同盟を強化して、地球上のどのような地域においても共同の軍事行動がとれる態勢を整えている。北大西洋条約・日米安保条約は「再定義」され、両条約の適用範囲を越える「域外」での共同軍事行動も「新戦略概念」で合理化している。
 このようにして、アメリカの覇権はヨーロッパ・日本の旧帝国主義諸国の補完によって成り立ち、旧帝国主義諸国はアメリカの覇権に庇護されて先進国としての地位を保っている。このような持ちつ持たれつの関係の中で、アメリカを盟主とする先進諸国の軍事同盟強化を背景に、主要国首脳会議(サミット)は先進国相互の利害を調整し、世界の政治・経済問題で歩調を整える場になっている。日本政府が、そのサミットの沖縄開催を利用して、普天間海兵隊ヘリ基地の名護市辺野古への移設を強行しようとしていることについては、すでに見た通りである。
 日本政府は、先に、「日米防衛協力のための指針」いわゆる「新ガイドライン」によって、アジア、太平洋地域およびその域外で、アメリカの軍事行動と共同歩調をとる第一歩を踏み出した。そして今、日本政府は、最新鋭のアメリカ海兵隊出撃基地を沖縄に建設して、アメリカに提供しようとしている。このような日本の動向は、アジア諸国の人たちに、日本は、経済面だけでなく軍事面でも、アメリカとの「共同覇権」を追求しているのではないか、と警戒心を抱かせるものになるに違いない。それは、アジア諸国を最新の軍備拡充に向かわせる要因になり、更には、侵略的な日本軍国主義を抑えるには米軍沖縄基地の存在が必要という「瓶のふた論」に説得力を持たせる原因の一つになるだろう。(21)
 沖縄問題の核心をなす米軍基地撤去の問題は、したがって、軍事力で覇権の維持を図るアメリカ政府の政策と、それを積極的に補完している日本政府の政策とを平和的に改めさせる闘い抜きに解決はあり得ない。それは、ことがらの性質からして当然に、アジアだけでなく全地球上に恒久平和を築き、自由資本主義の社会を民主的に変革する世界史的課題に直結している。それだけに、この闘いは、達成までにある程度の期間を必要とし、困難も伴うである。しかし、それを、世界の平和と民主的変革を求める世界中の人々、とりわけ東アジアの民衆との国際的連帯の下で粘り強く闘い抜くことによって、沖縄を戦争と無縁な平和な島にする展望が開けることは確実と言ってよい。
 沖縄・日本と台湾・韓国、中国、朝鮮民主主義人民共和国との人的、経済的、文化的交流のような東アジアの連帯を求める運動は、米軍基地を沖縄から撤去する運動と相互に関連し、影響し合いながら発展するに違いない。その先に、覇権国アメリカの軍事力に頼る安全保障体制に代えて、多国間の相互信頼と友好に基づく話し合いによる平和の体制を築く道が見えてくるだろう。

【注】
(1)NSC13の決定過程については、宮里政玄『アメリカの対外政策決定過程』(31書房、1981年)228−231頁。河野康子『沖縄返還をめぐる政治と外交』(東京大学出版会、1994年)15−28頁。五十嵐武士『戦後日米関係の形成』(講談社学術文庫、1995年、旧著は東京大学出版会、1986年)40−85頁。
(2)詳しくは、拙稿「沖縄とアメリカ帝国主義−経済政策を中心に」(『経済評論』1962年1月、日本評論新社)110−118頁。
(3)日本復帰運動の開始および民族意識再生の問題については、拙稿「沖縄の日本復帰運動と革新政党−民族意識形成の問題に寄せて−」(『思想』1962・2、岩波書店)84−89。
(4)ニュールック戦略のアジアにおける展開については、李鐘元『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会、1996年)参照。
(5)高安重正『沖縄奄美返還運動史(上)』(沖縄奄美史調査会、1975年)501頁。
(6)高安・前掲書467−470頁に『琉球の情勢について』の要約がある。末尾に、「この方針は、党中央が沖縄、奄美大島に対して初めての党の政治的、組織的政策を示したもの」と説明がある。
(7)沖縄の党に武力闘争の準備を指示してきた党中央は、1年数ヶ月後、6全協で火炎瓶争や山村工作隊に象徴される極左冒険主義を自己批判したが、その直後、沖縄の党に「伊江島・伊佐浜の闘争に現れた極左冒険主義を6全協決議に従って自己批判せよ」と要求してきた。沖縄の党委員会書記局はそれを黙殺して、拒否した。このように日共中央の方針をシャットアウトした経験に基づいて、私は前掲『思想』拙稿の中で次のように書いた。
 「植民地・従属国における武力闘争戦術を伴った民族解放民主革命方式が自殺行為にひとしいことも、沖縄の厳しい現実では、6全協決議をまつまでもなくたやすく実証されることであった。」「沖縄の革新政党の行き方は、日本のどの政党とも異なっている。たとえば、沖縄人民党の場合、51年綱領の民族解放民主革命理論にしたがって、国民から孤立する方向へ進んだ日本共産党の行き方とくらべると、異なる思想方法の上に立っている。」「沖縄の革新政党を日本の各府県の支部組織と全く同一視して、官僚的、画一的に既成の鋳型にはめこもうとするならば、沖縄の革新政党の個性と自主性と創意性を殺す結果になりかねない。」(前掲『思想』84頁、87頁、88頁)。
(8)私の推測は、最近公開されたアメリカ陸軍省幕僚情報連絡部の部外秘・上位(CONFIDENTIAL PRIORITY)文書、1954年9月7日付、琉球軍司令官から東京の極東軍司令官宛に送られた報告で裏付けられる。原文を掲げる。
 Part1:Army Counter Intelligence Agents interrogated Hatake, Yosiki recently apprehended member of communist OPP at Naha prison during first week of Sep. Hatake is withholding information pending action on part of OPP to take care of his family during his imprisonment. However gist of his answer indicates there is definite Tie-in between JCP and communist elements on Okinawa. This information must remain unconfirmed pending further development.
 Part2:(略)内容は村長選挙における沖縄人民党候補又吉一郎当選に関する報告
 Part3:USCAR released to press last week interpretation of covert communist article "intensify policy of Ryukyu" carried in April1 54 issue of J***P "for peace and independence", Contents of original document were not released. All newspapers played this up considerably and its impact has been great enough to cause this office to believe that the Okinawan newspaper now believe conclusively that OPP is a party advocating communist line. Public dissemination on this documents interpretation resulted in passage of legislation in Ryukyu legislature to investigate communism and the committee appointed included Senaga, kamejiro of OPP.
 Part4:(略)内容は島外追放指令を犯して潜行していた林が9月4日以来奄美の名瀬市にいるという報告。(原文の中のYosikiは畠の名「義基」の誤読)
 以上の報告から、次の点が注目される。
 第1に、米軍諜報部隊当局は逮捕して尋問した畠義基から、日本共産党と沖縄の共産主義分子との明確な結びつきを指摘する返答を得た。
 第2に、琉球列島米国民政府は、1954年4月1日付日本共産党非合法機関紙『平和と独立のために』で伝達された「琉球対策を強化せよ」と題する非公然論説の解説(interpretation)、いわゆる「日共の対琉要綱」を、新聞で一般大衆に公開したが、その原本(original document)の内容は公開されなかった。米軍当局が原本を入手していたかどうかについては、言及がない。
 第3に、沖縄のすべての新聞が、米軍当局の思惑通りよく演じ、沖縄人民党は共産主義路線を擁護する政党であることを疑いなく信じている、と米軍当局は見ている。
 第4に、原本(original document)の解説(interpretation)を公けに広めたことは、琉球立法院において共産主義とその政党を調査する法案を通過させる結果になった、と米軍当局は評価している。沖縄の新聞が米軍の情報操作に利用されていた模様がよく示されている。
(9)西銘順治は、後に自由民主党公認の衆議院議員、沖縄県知事になったが、当時は沖縄社会大衆党の若手幹部であった。その頃の彼の日記に次のように記されている。
 1955年1月19日 朝、国場幸太郎君が久方ぶりに訪ねてきて、1時間ばかり話した。1月28日 大湾喜三郎、国場君と一緒に伊佐浜部落に実情調査にいった。緊迫した情勢だった。殊に、婦人たちの悲壮な気持ちに胸をいためた。3月29日 大湾喜三郎、国場君と一緒に伊佐浜に行って部落民たちと土地の件で懇談した。3月30日 土地委員会に行く。発言し、住民の希望とおり取り上げ反対の意思表示をすべきであり、補償の件はその次に考慮されるべきであると主張する。……結局吾輩の提案通り処理することに決定された。(「戦後政治を生きて−西銘順治日記−149」『琉球新報』1997年10月16日)
(10)伊江島農民の闘いについては、新崎盛?『新版 沖縄・反戦地主』(高文研1995年)41−62頁に詳しい聞き取りが記録されている。
(11)『民族の自由と独立のために』に関して『沖縄タイムス』の「戦後50年 人間紀行」コラム、1995年4月9日の記事に次のようにある。
 「54年12月、国場幸太郎は、本永寛昭(現弁護士)、前原穂積(元自治労役員)らと相談し、非合法機関紙を発行し始めた。……国場が、解説記事を書いた。立法院事務局にいた本永は、伊江島農民の土地を守る闘いを紹介し、字のうまい野嵩高校教師の前原がガリを切った。土地の強制接収に対して、国場らは、激しい批判キャンペーンを展開した。55年3月29日付の第8号。〈伊佐浜伊江島にアメリカ軍の蛮行 三たびつきつけられた銃剣 ゆるしてはならぬこの暴虐〉。同年4月17日の第10号。〈土地を守るために全県民の力をあわせよう〉……」。ここに名前が上がっている以外に、機関紙の発行では、あと数人の党員が編集、印刷、配布等の仕事を分担していた。
(12)前掲「西銘順治日記」には次のように記されている。
 7月19日6時ごろ、善光さん(山城)が見えて「伊佐浜が大変だ。タクシーで迎えにきた」という。良松さん(平良)と3人で出掛ける。普天間登口で通行止め。車を捨てて伊佐浜まで歩く。ものものしい警戒だ。ブルトーザーを入れて周囲から田畑をどんどんつぶしていく。あさましい限りの強奪ぶりだ。アメリカは民主主義も自由も口にする資格はない。
(13)私に対する拉致・拷問の模様については、拙著『沖縄の歩み』(牧書店、1973年)に、編集者の要望もあって、詳しく述べてある。同書264頁−278頁。
(14)アイゼンハワー大統領の「琉球列島の管理に関する行政命令」は日本の岸首相が日米安保条約改定交渉のために訪米する直前に出された。それは沖縄問題が日米間の重要な国際政治問題になりつつある事態に備えるためであった。前掲『経済評論』拙稿112頁の注1、2。
(15)詳しくは、前掲『経済評論』拙稿123−5頁。『思想』拙稿89頁以下。
(16)詳しくは、新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社、1976年)165−86頁
(17)アメリカ政府の沖縄統治政策の転換を、沖縄をアメリカの属領に組み入れる政策、即ち属領化政策と見た見解の代表的なものに、次のような論考がある。
 「沖縄は独自の通貨をもたなくなったという点で、いまや植民地というよりもアメリカの1州に近いものになったと言えよう。……(沖縄の人々は)経済的にドルの奴隷になることが予想されている。……(日本政府は)そのように沖縄をアメリカの為すにまかせ、いまや決定的にその属領にしておいて、……」(日本の潮=w世界』1958年12月、岩波書店)/「(アメリカ軍の)永久駐屯の野望を具体的に現したのが現在進行中の一連の沖縄の属領化政策の強行である。…(ドルへの通貨)切替えのねらいは…アメリカ金融独占資本による沖縄の土地の買上げにある。…(アメリカ政府は)属領化政策に肉付けをして不敗の原子戦略体制を築き上げるには本ドルを流通貨幣として持ち込む以外にないとの結論に達したのである。」(瀬長亀次郎「平和条約第3条を撤廃せよ」『世界』1959年1月、岩波書店)
 ちなみに、前掲『経済評論』拙稿は、「属領化政策論」の誤りを指摘し、アメリカ政府の沖縄統治政策が、経済政策も含め、軍事基地を安全に確保する目的と必要から策定されていることを実証的に明らかにして、沖縄の解放闘争の展望に役立てたいと念じ、書いたものである。
(18)1960年代から72年の施政権返還に至る過程は、前掲新崎盛暉『戦後沖縄史』193−372頁に詳しい。
(19)「第一次世界大戦後、ウィルソン大統領が世界に向けて提起した国際秩序構想において、ボリシェヴィズムは平和とデモクラシーに対する新たな敵対勢力と規定されることになった。…中略…ウィルソンによれば、ボリシェヴィズムとは、戦いにうちひしがれ、飢えた諸国民の絶望に根差するウィルスである。したがってそれに対する最良の対策とは、戦後のヨーロッパに対するふんだんな食糧供給と産業復興援助以外にない。1920年代には、国内における孤立主義への反動に妨げられて十分に実現されえなかった、このウィルソン的国際秩序構想は、やがて第二次世界大戦後には、マーシャル・プランなどのかたちをとってより効果的に展開されていく。そしてその時、ウィルソン的な『国際共産主義』観も、トルーマン・ドクトリンのうちに再現をみることになる。」古矢旬、「反共主義」(歴史学研究会編『講座世界史9・解放の夢』東京大学出版会、1996年)。第二次大戦後、トールマン政権は、ウィルソンの考え方を引き継いで、大戦時に敵国であった敗戦国ドイツと日本の経済力を復活させた。そして、両国をそれぞれヨーロッパとアジアにおける「生産工場」にし、日独の生産力を活かして反共同盟国の経済を復興させ、その軍備を増強していった。
(20)佐久間智子「包囲されるグローバリズム−世界の市民はなぜWTOに抗議するか−」(『世界』岩波書店、2000年2月号)参照。
(21)経済秩序における日米の「共同覇権」については、次のように指摘されている。
 「東南アジアや東アジアにおいては、第二次大戦後、パクス・アメリカーナの経済体制は、結局アメリカ1国で支配的な地位を維持できず、日米の「共同覇権」といった体制を築いてきた。80年代の中頃以降、「共同覇権」の性格が顕著となっている。」鴨武彦『世界政治をどう見るか』(岩波新書、1993年)205頁。
 日米の「共同」、協力関係について、私は、ほぼ40年前に次のように書いた。「日本独占資本は……アメリカ軍の沖縄における核兵器基地維持を自己の帝国主義的膨張政策追及のためにも軍事的に必要なものとして承認し、沖縄の新興資本家層も実利主義的な考え方からそれに協力させられている。最近の米日両政府の協力による沖縄経済援助はその現れである。それは米日両帝国主義が反共軍事同盟の強化を背景にして、アジアの諸国に対する一種の集団的植民地主義を推進する政策の一環にほかならない。」
 前掲『経済評論』拙稿114頁。ここで指摘したことは、上記文中の「沖縄における核兵器基地維持」、「米日両政府の協力による沖縄経済援助」、「集団的植民地主義」という言葉をそれぞれ、「前方展開戦略における出撃基地としての沖縄基地維持」、「日本政府の財政資金のばら撒きによる沖縄経済振興策」、「共同覇権主義」と置き替えるならば、現在も有効である、と考える。

[こくば こうたろう 1927年沖縄県那覇市生まれ 
 この頃思うこと:米軍基地に反対する沖縄の民衆闘争が、サミット開催時の米軍嘉手納基地包囲を契機に再構築され、新たな歴史の段階を切開いて進むことを念じています。]
(『情況』2000年8-9月合併号)

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「沖縄非合法共産党文書」研究案内ノート

国場幸太郎

敗戦直後の奄美共産党と沖縄人民党

 6月5日付本紙学芸欄で加藤哲カ教授が紹介している「沖縄・奄美非合法共産党文書」(以下「非合法党文書」と略す)の中に、日本共産党奄美地区委員会の党史とも言うべき報告文書が三点ある。提出先は日本共産党中央委員会(以下、党中央と略称)南西諸島対策部である。1954年、56年、58年にそれぞれ作成されたものであるが、何れも冒頭で「1947年には奄美共産党が結成されて、日本共産党の指導を受けつつ成長、沖縄においては沖縄人民党が結成されて日本共産党の影響を受けながら成長した」と述べている。この文言は、沖縄の非合法共産党と日本共産党との関係について考察する場合、誤った認識に導き易い。それは、歴史の事実に基づく記述ではなく、結成当初から日本共産党の下部組織になることを志向し、党中央の指導を求めるのに熱心であった奄美共産党の人たちの思い込みによるものであるからだ。文書史料は、例え一次資料であっても、事実に照らし合わせた史料批判をゆるがせにしてはならない。特に今回発見された「非合法党文書」のように政治性を強く帯びた文書については、注意が必要である。

 敗戦直後、日本を占領管理する米軍を解放軍として迎えていた日本共産党の指導者は、日本から切り離された沖縄・奄美諸島を、米軍によって日本の天皇制ファシズムから解放された地域と考えていた。そして、これらの地域は、当面アメリカを施政権者とする国連の戦略的信託統治下に置かれることは止むを得ないが、行く行くは自治共和制政府を樹立する方向へ進むべきだ、という見解を表明していた。そこでは、沖縄・奄美に対する政治方針や指導方針を持つ必要がなかった。だから、非合法奄美共産党は、日本共産党の下部組織として承認されたことはなく、日本共産党とは別個の党として存在し、合法政党である奄美社会民主党の中で合法活動をしていた。
 もっとも、奄美共産党は、結成の当初から、『アカハタ』等の党出版物を取り寄せることもしていて、日本共産党に親近感を抱き、多分に日本共産党から影響を受けていた。こうした奄美共産党の行き方の根底には、敗戦直後の早くから、「祖国」日本との再結合を希求していた奄美民衆のナショナリズム(民族主義)がある。以上の点については、里原昭著『琉球弧奄美の戦後精神史─アメリカ軍政下の思想・文化の軌跡─』(5月書房)が参考になる。

 奄美と対照的に、敗戦直後の1947年に沖縄で相次いで結成された沖縄民主同盟、沖縄人民党、社会党(後の日本社会党系とは別)の三つの政党は、三党三様の政治的主張を掲げていたが、その主張は何れも、沖縄を戦争の惨禍に陥れた天皇中心の超国家主義と軍国主義を否定する立場に立ち、沖縄の日本からの分離と自立を前提にしていた。当時、虚脱状態にあった沖縄住民の間では、天皇中心の超国家主義によって培われた「日本国民としての民族意識」が崩壊して、奄美民衆に見られる「祖国」日本の観念、すなわち日本を祖国と考える民族意識は喪失していた。そういう歴史的現実を反映して、三つの政党は、何れも、日本の政党から影響を受けることもなく、独自の道を歩いていた。沖縄人民党も、日本共産党から影響を受ける関係にはなく、人民自治政府の樹立、憲法制定議会の開催、日本政府に対する戦争被害の賠償要求等の主張を掲げ、米軍政下の合法政党として、独自の道を歩いていた。そして、住民の生活を守り、自治権その他の民主的権利を要求する活動を通じて、沖縄人民党は、アメリカの軍事占領支配との対決姿勢を強めていき、対日講和条約の締結を前にした1951年2月には、全面講和による沖縄の日本復帰を主張して進むことになる。人民党は、50年10月結党の沖縄社会大衆党(社大党)とともに、日本復帰運動の中心勢力になり、両党の主導する日本復帰運動の中で沖縄住民の崩壊した民族意識も、平和と民主主義の理念を伴った民族意識に再構成されて、再生することになる。

沖縄非合法共産党の結成

 1952年4月の対日講和条約発効に合わせて、アメリカ占領軍は奄美・沖縄・宮古・八重山の四群島を統轄支配する琉球列島米国民政府(通称)を新設し、その代行機関として琉球政府を発足させた。この新たな情勢の展開に対応できるように、沖縄人民党と奄美社会民主党は、統合して琉球人民党になった。その際、奄美共産党は沖縄にも活動の場を広げ、沖縄に渡ってきている奄美出身党員よりなる沖縄細胞を組織した。「細胞」とは当時の共産党用語で、組織の基本単位である支部のことである。
 沖縄細胞のメンバーは、人民党の合法活動と米軍基地工事に従事する奄美出身労働者の組織活動に力を注ぐ一方で、人民党の沖縄側幹部に非合法共産党の結成を働きかけた。それに対し、当初、沖縄側の若手幹部の何人かは賛成したが、書記長の瀬長亀次郎氏は反対した。反対の主な理由は、戦前の日本で、合法政党である労農党が、「党中党」的存在の非合法共産党と対立して、混乱、不振を招いたように、合法政党の人民党とは別組織の非合法共産党を沖縄で結成すると、「党中党」をつくることになり、人民党の組織を壊すおそれがある、と懸念してのことであった。それが後に、瀬長書記長も非合法共産党の結成に同意したが、それは、アメリカ占領軍当局が人民党の非合法化を虎視耽耽と狙っている意図が露骨になり、それに備えておく必要があったからである。万一、人民党が非合法化された場合でも、大衆闘争を組織し、推進する力量を持った地下組織を整備しておく必要が痛感されたのである。地下組織というのは、アメリカ占領軍当局や警察の目が届かない組織のことである。

 以上のような経過を辿って、1953年7月、沖縄の人民党幹部と奄美共産党幹部は那覇市で合同の会議を持ち、琉球列島全体を活動範囲とする非合法共産党を結成した。そして東京の党本部に勤務している沖縄・奄美出身の故高安重正氏、故久留義三氏を介して、「日本共産党琉球地方委員会」としての承認を党中央に要請した。それを受けて党中央は、南西諸島を対象とする対策委員会を新設して、沖縄現地の党を指導する体制作りに着手した。新設された対策委員会の実務は高安重正氏が担当した。その直後の53年12月に奄美が日本に復帰したために、琉球地方委員会は、奄美と沖縄とに分かれてそれぞれの党を組織することになった。沖縄の党は名称を日本共産党沖縄県委員会とし、委員長は瀬長氏で、書記局の責任は私が負うことになった。私は、東京大学在学中に共産党に入党し、53年11月、大学卒業後は琉球政府の指定する職に就くという契約学生の義務を果たすために帰郷して、沖縄の党建設に加った。
 このようにして始まった党中央の沖縄の党に対する指導はどのようなものであったか、それに沖縄の党はどのように反応したか、それについては章を改めて見ることにする。

沖縄の党と党中央との関係

 沖縄の党と党中央との関係を考察する上で、手がかりになる文書が「非合法党文書」の中にある。「現地の情勢」と題する1955年5月30日付文書がそれで、それは日本共産党本部の南西諸島対策部で纏めた党機関内報告文書である。その中に、メーデーの集会に初めて参加した社大党と同党所属の西銘立法院議員の言動を高く評価して、次のように述べている箇所がある。「社大党内における反共理論家の第一人者といわれていた西銘氏がこのように大きく変ってきたのは、現地における労、農、市民の闘いの発展と、これを指導する現地の党機関が、これまでの少数精鋭主義的、玉砕主義的傾向を一歩一歩克服し、1・27方針」の理解の上にたって、統一戦線戦術の正しい運用に努力しはじめたことを示していると考える。」
 1・27方針というのは、1955年1月27日付『平和と独立のために』(日本共産党非合法機関紙、略称『平独』)の主張「琉球の情勢について」で示された党中央の対沖縄基本方針のことである。これよりも前、党中央は、54年4月1日付『平独』紙に「琉球対策を強化せよ」と題する無署名論文を発表している。これは、党中央が沖縄に関して戦後初めて出した全国向けの政治方針である。ちなみに、アメリカ占領軍が、54年8月30日に沖縄人民党を非合法化する目的で発表し、地元新聞が大々的に報道した「日本共産党の対琉球政策要綱」は、米軍G2(参謀二部=諜報担当)がこの「琉球対策を強化せよ」を下敷きにして反共宣伝用に捏造した英文解説文書の日本語訳である。

 全国向けの方針「琉球対策を強化せよ」のほかに、党中央はまた、沖縄現地向けに、日本の民族解放民主統一戦線を、沖縄では反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の運動として具体化し、発展させることを「当面する闘いの方向」として示した。それと共に、「日本の民族解放勢力が奄美を前進拠点にして、アメリカの軍事占領下にある沖縄を解放する時に、沖縄が呼応できるように武装闘争の準備を始めなければならない」という軍事方針を指示した。
 54年5月、以上のような党中央の方針を討議した党沖縄県委員会では、「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線」のスローガンは、委員全員に抵抗なく受け容れられた。アメリカの軍事占領支配に反対して祖国復帰を要求し、軍用地接収に反対して土地を守ることは、当時すでに沖縄全住民の統一要求になっていたからである。しかし、「武装闘争の準備」については、瀬長委員長が「そんなことを沖縄で出来るわけがない」と最初に反対意見を述べ、他の委員も全員が同調した。そこで沖縄の党は、党中央の武装闘争準備の指示は黙殺して、沖縄の現状に適した政治方針と活動方法を手探りしながら党建設を進めることにした。つまり、沖縄では、党中央の誤った武装闘争方針はシャットアウトされていたのである。

 1954年も末頃になると、党中央の指導部内では、中核自衛隊、山村工作隊、火炎瓶に象徴される極左冒険主義を自己批判して、武装闘争方針を放棄する戦術転換の準備が始まった。その線に沿って党中央は、沖縄に対しても、それまでの基本方針である「琉球対策を強化せよ」を暗黙のうちに破棄し、代わりに、先に見た1・27方針を基本方針の座に据えた。それ以後、党中央から沖縄の党に送られてくる文書は、アメリカ占領軍による54年の人民党弾圧が、沖縄の党の極左冒険主義的な指導の結果であるかのように言い、沖縄の党の活動を「猪突的な極左的衝動にかられた行動」「少数精鋭主義」「玉砕主義」「一揆主義」等々と決めつけてきた。
 冒頭に引用した文書では、沖縄における統一戦線の発展は、そういう誤りを、沖縄の党が、党中央の指導によって一歩一歩克服し、1・27方針に従って努力した結果である、となっている。だがそれは、党中央の我田引水の言い分であって、事実は全く異なる。

 そもそも、社大・人民両党の提携を軸に、人民大衆を統一戦線に結集する方針は、奄美の日本復帰直後に実施された54年3月の立法院選挙以来、沖縄の党が実践し、堅持してきた基本政策である。沖縄を29の小選挙区に細切れしたこの選挙で、那覇市、真和志市(現那覇市)、首里市(同)では、那覇市三選挙区中の二選挙区で人民党の瀬長亀次郎・大湾喜三郎両氏が当選、真和志市二選挙区で社大党の西銘順治、平良良松両氏が人民党との統一候補として当選、首里市で革新系無所属の知念朝功氏が当選、都市地域六選挙区のうち五選挙区を革新勢力が制した。それが決め手になって立法院の過半数を革新勢力が獲得し、立法院正副議長は社大党議員がなった。
 この選挙の結果を脅威に思った米軍当局は、親米保守政党の琉球民主党を使って、人民党非合法化をねらった「共産主義政党禁止決議案」を立法院に提出させた。しかし、それが革新勢力の抵抗に遭って失敗に終るや、形振り構わぬ人民党弾圧に乗り出してきたのである。それは紛れもない歴史的事実である。人民党弾圧の前にも、後にも、沖縄の党は極左冒険主義の戦術をとったことは全く無い。弾圧の直後、党政治局は「全人民大衆の力を結集して敵の狂暴な弾圧に総反撃せよ」という方針を発して、全党で実践した。この方針書も今回発見された「非合法党文書」の中にある。

 沖縄の党の方針書は、中央の1・27方針が出る3ヶ月前の54年10月下旬から11月初旬までの時期に作成されたもので、時間的にも1・27方針に先行している。それは、半紙22枚、400字詰原稿用紙にして凡そ50枚の分量からなっている。その内容は、弾圧後の情勢を綿密に分析した上で、宜野湾・伊佐の軍用地接収に反対する農民の闘争が反撃に移る突破口になることを見通して、土地を守る闘いに沖縄全住民の力を結集し、それによってアメリカ占領軍当局に総反撃する方針を示したものである。
 この方針を広く民衆の間で宣伝するために、沖縄の党はまた、非合法機関紙を54年12月に創刊した。現在、この非合法機関紙は第2号から第10号までが保管されている。タブロイド版4頁ないし8頁の謄写印刷、週刊(後に旬刊)で、『民族の自由と独立のために』(略称『民独』)という題字の脇に、毎号「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の勝利をめざして」というスローガンを掲げている。そして特に、米軍の土地接収に反対する農民の土地闘争については、情況の移り変わりを丹念に報道している。

 さて、以上のように沖縄の党が反撃態勢を整えつつある間も、アメリカ占領軍当局は土地接収予定地の農民に対する脅迫、分裂工作を強化し、その結果、55年1月には、伊佐浜の農民も一旦は土地接収を承諾した。そのあと、婦人たちが立ち上がって闘争を再建したが、それには、私が社大党の西銘立法院議員に要請して、人民党の大湾立法院議員と一緒に伊佐浜の人たちとの座談会に出席してもらったのが契機になった。それから社大党幹部たちはこの伊佐浜闘争に参加するようになり、弾圧で怯んでいた姿勢を立て直して、メーデーにも参加するまでになったのである。その下支えになっていたのが沖縄の党の献身的な活動であった。その経緯については、雑誌『情況』2000年8・9月合併号掲載の「沖縄の1950年代と現状」の中で具体的に述べてある。それはまた非合法機関紙『民独』からも伺える。

 『民独』54年12月22日付第3号は、3面から7面までの5頁を使って、土地闘争の現状をつぶさに伝えている。その記事は、冒頭で「12月17日の沖縄タイムス紙は宜野湾村伊佐の土地問題は円満に解決されるだろうと報じている。……果たして円満に解決される見通しがあるのか」と問い、「じっさいは円満に解決しないどころか、伊佐の土地問題はこれから本格的にはげしくなろうとしている」と、見通しを述べている。その後の展開はその通りになった。
 また、55年1月31日付第5号の「土地を渡してはならぬ/おしつけをはねのけて/たたかう伊佐浜の農民」という見出しの記事は「去る1月18日の新聞に宜野湾伊佐の土地問題は『円満に』解決したと書いている。実際に伊佐浜の土地問題は解決したのであろうか」と書き出し、立法院が伊佐浜の土地問題を行政主席に一任して投げ出しているところへ、アメリカ占領軍、行政主席、宜野湾村長三者の合意を脅迫的に押し付けられて、住民も一旦は土地接収を承諾させられたが、婦人たちが「男の人々はつかれきっている。私たちはありったけの力をふりしぼっていこう」と立ち上がり、土地を守る闘いを再構築していった経緯を伝えている。
 次いで2月18日付第6号は、「たちあがった伊佐浜婦人=子供を育てるために/土地は守らねばならぬ」の見出しで、ライカム(米琉球軍司令部)司令官、行政主席、宜野湾村長に対し、土地接収中止を要求して押しかけた婦人たちの行動を詳しく伝えている。
 これらの記事は、民衆の生活に密着し、民衆と共に闘う立場に立たなければ、書けない内容のものである。その点は、当時の地元新聞が米軍当局や琉球政府の発表等から取材した報道に留まっていたのと対照的である。
 こうして伊佐浜の土地闘争が再建されるにつれ、伊江島・伊佐浜の闘争を支援する輪が沖縄中に広がっていった。そういう情況の中で、3月11日には、伊江島・伊佐浜で、米軍武装部隊の出動による武力土地接収が始まった。伊佐浜では早鐘を打ち鳴らして集まった住民の抵抗で米軍も接収作業を中止したが、伊江島では100万坪の土地の囲い込みと住居15戸の取り壊しが強行された。その模様を、『民独』3月29日付第8号は、「三たびつきつけられた銃剣/ゆるしてならぬこの暴虐」の見出しで報じ、米軍の暴虐ぶりをリアルに、生々しく描いて、抗議している。この頃ともなると、地元新聞も米軍の武力土地接収とそれに抵抗する農民の闘争を客観的に報道するようになっていて、沖縄住民の軍用地問題についての関心を高めるのに寄与するようになってきた。

 情況が以上のように進展する中で、『民独』4月17日付第9号は、主張に「土地を守るために全県民の力を合わせよう」というアピールを掲げ、「政府も、立法院も、市町村長や市長村議会も、アメリカの言いなりになって土地とりあげに協力することなく、あくまで土地を守るために住民とともに団結してたたかうならば、アメリカ軍は完全に孤立し、県民の要求をみとめねばならなくなるだろう」と"島ぐるみ闘争"を構想し、土地闘争の進むべき方向を差し示している。
 以上のように見てくるならば、沖縄の党が「人民大衆の力を結集して敵の狂暴な弾圧に総反撃せよ」という大衆路線を着実に実践していることが読み取れるであろう。それは、党中央の指導によるものではなく、沖縄の党が独自に切り開いた活動である。非合法機関紙『民独』は、沖縄の党活動の実態を明らかにする上で、掛け替えのない貴重な史料である。

 さて、党中央は、55年7月19日の伊佐浜の武力土地接収から8日後の27日、第6回全国協議会(六全協)で、それまでの極左冒険主義の戦術を自己批判した。それを受けて党中央は、又もや、沖縄の党に自己批判を要求する文書を送ってきた。今度は、伊佐浜・伊江島の土地闘争に現れた沖縄の党の極左冒険主義的な指導の誤りを六全協決議に従って自己批判せよというのである。これを受け取った沖縄の党政治局は、党中央の言い分は当たらないし、自己批判要求は不当であるとして、黙殺することにした。このことは、今回発見された「非合法党文書」に含まれている「沖縄に於ける党建設上の誤りと欠陥について」と題する文書で間接的に裏付けられる。

 この文書は半紙13枚、400字詰め原稿用紙にして約17枚の分量で、沖縄の党政治局で討議した結果を、私以外の書記局メンバーが執筆、作成した党としての自己批判書である。それには、「いまだに六全協の決議の理解と実践のための、全党的な討議と学習が行なわれないでいる」とあり、極左冒険主義の問題については、最後まで一言も触れていない。伊佐浜・伊江島の闘争を含む55年初頭からの党活動については、次のように総括している。
 「土地をまもるたたかいの面でも、生活と権利をまもるたたかいの面でも、平和をまもるたたかいの面でも、大衆闘争は大きな発展をみせた。その面で県(沖縄)の党が果たしてきた役割は大きなものがある。とくに職場、地域、青年サークル、合法政党の中で、大衆行動を組織するのに、各党員の示した献身的な活動は、それ相当の成果をあげている。
 伊江島・伊佐浜の土地闘争を支援する運動の中で党員は積極的活動力を発揮し、労働者、青年との結びつきをつよめて、懇談会、実情報告大会などを組織していった。又『土地問題解決促進住民大会』や『8月15日終戦記念』の平和集会などに多くの大衆を動員し、これを成功させた。(後略)」
 この文書が沖縄の党の「主要な偏向」として挙げているのは、六全協で問題にされている極左冒険主義ではなく、反対に、右翼日和見主義から生まれる「自由主義的傾向」と「秘密主義的なセクト(セクショナリズム)」との二つの偏向である。

 自由主義的傾向については、「党の原則の問題や規律をいいかげんに考え」、「実に無原則的な自由放任主義がたくさんある」といましめている。もっとも、それは「マルクス・レーニン主義の革命的思想」のステレオタイプな原則、旧ソ連共産党(ボリシェヴィキ)モデルの鉄の規律に照らし合わせて言っていることであって、別の角度から見れば、規律はゆるやかでルーズあるが、個々の党員は人間的な信頼関係で結ばれ、創意を生かしてのびのびと自由に活動していたという、そんな党の姿を描くことも出来る。
 秘密主義的な傾向は、非合法共産党の組織に付きまとい勝ちなもので、沖縄でも皆無ではなかった。しかし、沖縄の党員はみんな、民衆の間で合法活動をしていて、そこでセクトになって孤立することはなかった。そうでなければ、政治局の総括にあるような大衆運動の組織など出来るものではなく、非合法党組織をつくる意味もない。
 米軍政下にあった沖縄の党員は「マルクス・レーニン主義の革命的思想」や日本共産党の綱領・規約を学習する機会に恵まれなかったが、それはマイナスに作用するのではなく、期せずして、教条主義に陥ることから免れるプラスの結果をもたらした面もある、と言えよう。
 以上で見たように、当時の党中央の対沖縄政策は、その時々の党の綱領、方針、戦略、戦術を沖縄に機械的、画一的、官僚的に適用したもので、沖縄の党は、それに当惑しながらも、敢えて党中央に反論することなく、中央の誤った方針や指示は黙殺して、沖縄の実情に適した活動を切り開いていったのである。
 党中央に対する沖縄の党の態度は、意識的なものではないが、面従腹背と言えないこともない。しかし、それは、沖縄の党が、中央との無用な摩擦を避けながら、独自の活動を繰り広げてきた結果である。

CICによる拉致・拷問事件

 「非合法党文書」の中には、1955年8月、私がCICに拉致され、まるまる二昼夜、一睡もとらされずに、光と熱と騒音で攻め立てる拷問にかけられた事件について、党中央に報告した自筆文書と自己批判書が含まれている。それには、「国場は『民族の自由と独立のために』という不許可出版物の発行責任者である」と軍事法廷へ起訴した英文起訴状の写しも添えてある。
 経過報告書は半紙20枚、400字詰め原稿用紙にして約31枚で、8月13日に拉致された時から8月16日に軍事法廷で不起訴になり、釈放されるまでの経過を詳細に記述している。拉致・拷問されている間、私は党の組織に関することや友人関係やアジト(地下活動の仕事場、住居)などは一切黙秘する一方、私が共産党員であることは東京にいた学生時代に公然化していたので、共産党員であること認めて、軍事法廷で共産党員として公然と闘う姿勢をとった。CICは、8月15日、私を軍事法廷に起訴して、私の身柄を那覇警察署の留置場に移したが、軍事法廷で争っては不利と判断したのであろう、その翌日、私に対する起訴を取り下げた。
 ライカム(琉球軍司令部)は、私が釈放された16日、「沖縄に日本共産党委員会が54年初頭から存在している」と発表して、翌日の地元新聞に報道させた。沖縄の党はこの挑発的な発表に対して、沈黙を守った。すると、ライカムは20日、追い打ちをかけるように、日本共産党沖縄県委員会の細胞組織に関する追加情報を発表して地元新聞に報道させた。それでも沖縄の党は沈黙を守っていた。それに痺れを切らしたようにライカムは、今度は琉球政府に命じて、ライカムの発表を裏付ける証言があることを報道させた。それでも沖縄の党は沈黙を守った。挑発に乗ると、党に対する弾圧を招く危険性が大きかったからである。

 そういう情況の中で、私の報告を受けた党政治局員の間では、私が採った態度について、何の誤りもないという意見と、重大な誤りだという意見とがあった。その二つの意見を汲み取って書いたのが「今度の拉致事件における私の誤りについて」と題する自己批判書である。それから暫くして、人民党弾圧で服役、入院中の瀬長委員長から病院に来るように連絡を受けて行ったところ、事件の経過を間接的に聞いてよく知っていた瀬長委員長は、私が採った態度はそれでよい、これからは公然と活動することだ、と言って私を励ました。私の拉致事件に関ってライカムが党沖縄県委員会の存在を発表したことは、結果からすると、沖縄の党の存在をライカムが公然化させ、共産党員というだけでは、逮捕も起訴もできないことを広く認知させることになった。私は、その後、立法院議員選挙に沖縄人民党公認として立候補するなどして、合法面での政治活動分野を広げていった。さらに、1957年の一年間は、瀬長市長の下で那覇市役所の首里支所長を勤め、公然たる活動分野を一段と拡大した。私は合法面の活動に専念することになり、非合法党書記局の責任は他の書記局員に肩代わりしてもらった。
 振り返って見ると、この時点で沖縄の非合法共産党は基本的任務を果たし終えていたと言えるかも知れない。というのは、1956年の島ぐるみの土地闘争とそれに続く57年の瀬長共産党市長問題は、日本でも大きく報道され、アメリカ占領軍当局が沖縄人民党を非合法化することは、もはや不可能な情勢になっていたからである。東京の日本共産党本部と那覇の沖縄人民党本部との交流も合法的に可能になっていた。1957年当時、沖縄をめぐる内外の情勢はそこまで発展していたのである。その後に続く1958年は、政治、経済、文化等、あらゆる社会生活面で、沖縄が日本に系列化する幕開けの年であった。この年に生まれた沖縄社会党は、結党の当初から、将来は日本社会党の沖縄県支部になることを明確に表明していた。沖縄の地元資本は、日本資本との提携を強め、沖縄の保守政党は日本の自由民主党との協力関係を強めていた。

沖縄の戦後史の転機1958年前後

 『大原社会問題研究所雑誌』4月号と5月号に加藤哲郎教授が史料紹介している「沖縄・奄美非合法共産党文書」目録70点余のうち、47点は高安重正氏が所蔵していたもので、1953年から1957年の間に作成された文書類である。58年以後の文書は一点もない。このことは、高安氏が58年前後に沖縄問題の実務担当から外されたことを物語っている。伝え聞くところによると、党指導部を宮本顕治氏の人脈で固めるために、故徳田球一氏の人脈につながる高安氏は排斥されたのではないか、という。その真偽のほどはともかく、後任として、故牧瀬恒二氏が沖縄問題の実務担当者になった。問題は、この人事の更迭で、党中央の沖縄に対する指導がどうなったか、ということである。
 沖縄が日本へ系列化する幕開けの年になった1958年は、沖縄の戦後史が大きく転換した転機の年である。55年の伊江島・伊佐浜の闘争に続く56年の島ぐるみの土地闘争の中で培われた民衆の力は、島ぐるみ闘争が分裂した後の57年、瀬長那覇市長を誕生させた。そして、アメリカ占領軍当局と親米保守勢力の革新那覇市政に対する反共攻撃は、かえって「民連(民主主義擁護連絡協議会)ブーム」を巻き起こして、革新勢力を高揚させた。

 ここに至ってアメリカ政府は、沖縄の政情不安は日本に跳ね返って日米同盟関係を危うくし、終局的には沖縄基地の安全な維持を脅かす結果になることを認識した。そこでアメリカ政府は、58年から数年間かけて、沖縄に対する統治政策を転換していった。
 先ず、軍用地問題については、地料の額と支払方法をめぐる住民の要求に譲歩を示して、妥結させた。経済面では、通貨をB円軍票からアメリカ本国ドルに切り替え、外国資本、特に日本資本の導入と財政援助によって、民間産業資本の形成と経済の成長を捉した。61年には、ケネディ政権の下で、制限付ながら「日の丸」の掲揚を認めて、日本復帰運動に見られる民族感情やナショナリズムを宥和する政策に転じた。62年以後は、それまで排除していた日本政府の技術援助と財政援助も受け容れて、日米両政府が協力して沖縄の経済的、政治的安定と米軍基地の安全な維持を図るようになった。
 このアメリカ政府の沖縄統治政策の転換に助けられて、沖縄の親米的な財界と保守政権は、住民の間での影響力を回復し、勢力を挽回していった。それに引き換え、革新陣営では、57年末から58年初頭にかけて「民連ブーム」が絶頂期にあるまさにその時、指導者個々人の好悪の感情も絡んだ主導権争いから内部分裂が始まった。その発端は、米軍当局の追放指令で退陣を余儀なくされた瀬長市長の後継統一候補選びをめぐって、人民党と社大党とが、対立したことにある。

 もともと、社大党は、対日講和条約が日程に上がってきた1950年に、日本復帰を強く志向している教職員や公務員や新聞人、弁護士等の広範な知識層を主な基盤にして結成された中道革新の大衆政党である。1950年代の沖縄の日本復帰運動と抵抗運動は、この社大党と人民党との提携、協力のもとに、広範な人民大衆を結集して発展してきた。
 その両党が瀬長市長の後継を選ぶ選挙戦で全面的に対決するようになり、その進行の過程で社大党内の左派は脱党して沖縄社会党を結成した。その社会党は、また、初めのうちこそ人民党と提携していたが、やがて両党は労働運動の主導権をめぐって相争うようになる。こうして革新勢力は、社大、人民、社会の三派に分かれて三つ巴の対立抗争に明け暮れる泥沼に陥った。
 それに加えて、アメリカ政府が次々と打ち出してくる統治政策の転換に対しては、どの党も客観的に分析することが出来なかった。人民党は、瀬長委員長の見解に従って、沖縄を、プエルトリコのように、アメリカの属領に組み入れる準備、すなわち属領化政策であるとし、属領化反対、植民地的搾取反対のスローガンを掲げて、民族主義の感情に訴えるばかりであった。そのような革新政党の有様では、民衆の共感と支持が得られるはずはなく、革新の民連ブームは潮が引くように衰退し、間もなく消滅した。

 この混迷した状況をどのように打開するか、私自身もその方策を探しあぐねて困惑していたが、戦後日本のオピニオンリーダーであった岩波書店の雑誌『世界』は私の困惑の度を一段と深くした。というのは、後に『沖縄からの報告』として岩波新書に纏められた瀬長氏の論文を『世界』が次々と掲載し、瀬長氏の属領化政策論や社大党批判を全面的に支持し、後押ししていたからである。
 例えば、『世界』58年10月号の瀬長論文は、社大党の政策や同党指導者の言動を批判して、「沖縄におけるファシストの中核をなしている裏切分子、右翼社会民主主義者の売国的行為」と論難している。これを肯定的に受け止めて、同誌12月号の「日本の潮」は、「こうして沖縄では、民主、社大、社会の全政党に対して民連(実質は人民党のみ−筆者)が対決するという情勢になっている」と書いている。そこには革新勢力の分裂を如何に修復し、革新の統一戦線を如何に再構築するかという配慮が全く見られない。行間から読み取るのは、アメリカ政府の沖縄統治政策の転換に異なる対応をした友党に対する敵意と、人民党の孤立した姿である。
 『世界』はまた、59年1月号その他の号で、属領化政策論を展開している瀬長論文を載せているが、先の「日本の潮」は、それを一歩進めて、「沖縄は独自の通貨をもたなくなったという点で、アメリカの一州に近いものになったといえよう。…(日本政府は)沖縄をアメリカの為すにまかせ、いまや決定的にその属領にしておいて…」とも書いている。

 このような言説は、当時の『世界』の傾向、論調から見て、日本共産党中央の意向に沿ったものと推察される。それは、この時期に党本部の沖縄問題の実務担当者になっていた牧瀬恒二氏が、岩波書店の『思想』1961年10月号に寄稿した「沖縄における民族意識の形成と発展−沖縄の戦後史にそって−」と題する論文の中で、次のように述べていることからも伺える。
 「1947年に沖縄人民党が結成されたことはおどろくべきことであり、また人民党の結党自体が人民のはげしい祖国復帰の意欲の反映でもあった。」
 「社大党は沖縄の階級分化の過程で人民党に対抗する小ブルジョア政党として結成された。」
 この文章は、沖縄の戦後史に対する無知を曝け出したもので、論評にも値しない。しかし、敢えてそれを問題にするのは、党中央の沖縄問題の実務担当者が、歴史の事実を歪曲してまで、社大党を敵対視し、社大・人民両党の対立を扇っているからである。党中央の指導態勢がこのような状態では、沖縄に対する正しい指導を期待することはできない。そして沖縄に対する間違った指導が、『世界』や『思想』を発行している岩波書店の名前で権威づけられて、沖縄の革新政党に受け容れられるならば、大衆運動にとって害はあっても、益するものは何もない。そのような事態を招いてはならない、という痛切な思いに私は駆られた。その頃、私は沖縄人民党からも、日本共産党からも離党して、東京に移り住んでいた。それで、党内の相互批判で誤りを正す道は、私には閉ざされていた。それにしても、牧瀬氏の論文や『世界』の沖縄に関する諸論考を、黙って見過ごしてはいけないと考えて、私は二つの論文を書いて発表した。
 一つは、「沖縄とアメリカ帝国主義−経済政策を中心に−」(『経済評論』1962年1月号、日本評論新社)で、アメリカの沖縄統治政策が、軍事基地の安全な維持のために、沖縄の経済的、政治的安定を図ることを目的としていることを実証的に示して、属領化政策論の誤りを指摘したものである。

 もう一つは、「沖縄の復帰運動と革新政党−民族意識形成の問題に寄せて−」(『思想』1962年2号、岩波書店)である。これは、戦後沖縄の民衆の間で民族意識がどのように再生し、再構成されたか、また、その民族意識に根差した復帰運動を発展させる努力の中で、革新政党はどのように成長していったか、考察したものである。その中で、私は次のように書いた。
 「沖縄の日本復帰運動は……平和擁護と民主主義擁護の理念をともなって再生した民族意識に支えられて始まった。社大党と人民党は、そのような日本復帰運動を住民の生活と権利を守る運動と結び付けて発展させる努力のなかで、みずからの政治的経験と思想を豊かにし、しばしばアメリカ軍の占領統治を揺るがすほどの力量をもつ大衆的な革新政党に成長していった。このように、沖縄の革新政党は、そのおかれた特殊な歴史的条件のために、その何れをとってみても、日本の革新政党とは単純に類比できない性格をもっている。それを日本の革新政党の各府県の支部組織と全く同一視して、官僚的、画一的に既成の鋳型にはめこもうとするならば、沖縄の革新政党の個性と自主性と創意性を殺す結果になりかねない。」
 1958年、沖縄の日本への系列化が幕を開けるのと同時に始まった沖縄の革新陣営の分裂や、アメリカ政府の沖縄統治政策の転換に誤った対応をした属領化政策論等、それらを生み出した革新政党の思想的弱点を克服出来なかったことについては、沖縄の党指導部の一員であった私も責任を分かち合わなければならない。それを回避しようとは、さらさら思っていない。前掲二つの論文をせめてもの償いにしたい、と私は念じてきた。


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沖縄・奄美非合法共産党文書 解説メモ


国場幸太郎


1 日本共産党「沖縄県委員会」についての米琉球軍司令部発表

 第二次大戦末期の沖縄戦でアメリカに軍事占領された沖縄は、1972年に施政権が日本に返還されるまで、アメリカの直接軍事占領支配下にあり、軍政が布かれていた。その沖縄で、1955年8月17日の『琉球新報』朝刊は「沖縄に日共の委員会 軍司令部が存在指摘」という五段抜き見出しの記事を報じた。『琉球新報』と並んで沖縄の二大地元紙である『沖縄タイムス』も同じ日の朝刊に同じ記事を掲載していた。記事の内容は次のようなものである。

「琉球軍司令部は16日、沖縄に日本共産党沖縄県委員会が存在していると次のように発表した。東京の日本共産党本部の直かつで働いている秘密組織であるこの団体は1954年初頭より存在しているが、同委員は、それよりもずっと前から活躍していた。
この委員会は琉球内のすべての細胞の活動を統かつし、各細胞は他の細胞から独立している。全組織は極秘に伏せられているので、その構造全体は僅かの人々しか知らない。
日共のこの秘密委員会の主要目的は次の方法で琉球住民とアメリカ人の間に分裂と不和を作り出すことである。
 1、琉球内におけるアメリカ合衆国の努力を無駄にするため反米思想を醸成すること(共産主義者は沖縄の軍事基地を宣伝手段によって無効化することを望んでいる)。
 2、琉球住民と米人間の相互親善、信用を破壊すること。
 3、政治及び民間団体が無意識に共産主義に添った教育をする目的で、それらの団体に潜入する。
 4、新しい党員を募集する、特に労働者及び農民階級から。
 5、琉球の日本行政下への即事無条件復帰を提唱し、琉球のすべての団体及び指導者がこの政策を支持するよう懇請する。
 6、日共本部からの地方宛指令に基づく方針と一致するように現地の共産主義方針を立てる。
 共産主義委員会は沖縄人民党の政策および活動を完全に統かつしており、また同委員会の大部分の者は人民党員である。しかし人民党員の大部分は同委員会の存在を知らない。その委員会はうまく沖縄の政治、実業、文化団体などに潜入しており、その勢力を現在、地主(軍用地地主のこと−筆者)や農民の間に伸ばそうとしている。土地問題(軍用地問題のこと−筆者)における抵抗に関係したことのある沖縄の人たちの指導と扇動には、ほとんど全委員が今日まで直接または間接的に活躍している。不幸にこの指導は地主や農民に害をおよぼしている。(以下略)」

 米極東軍配下の琉球軍司令部(Ryukyu Command 略して)の唐突とも思えるこの発表に対して、名指しされている日本共産党の中央および沖縄の関係機関や沖縄人民党は何の反応も示さなかった。一方、琉球軍司令部は四日後の8月20日、追い討ちをかけるように、日本共産党沖縄県委員会の組織と活動に関する追加情報を発表し、それをまた、前記二つの新聞が21日の朝刊で次のように報じた。

 「ライカムでは16日に日本共産党沖縄県委員会の存在を発表したが、16日更に追加情報として次のように発表した。
 この共産党委員会は居住地区細胞と職場細胞との二つのタイプの細胞を通じて活動を行なっている。居住地細胞は那覇、真和志、首里で活発であるほか、他の地区にもある。職場細胞は、主要な職場単位で、“沖縄漁業組合連合会”、“沖縄食料社会”および“琉球政府立法院”の職員の中でも活発である。ライカムでは、これらの職場細胞が極秘のうちに活動を行なっていることを再び強調している。各方面の民間および文化団体および立法院議員は大方この細胞がかれらの活動範囲に非常に接近していることを知っていない。特に注目すべきことは沖縄人民党書記局内の職場細胞である。共産党沖縄県委員会の指導の下に共産主義の前衛組織として活動を執行できるようにこの細胞を組織している。沖縄人民党書記局とは別の機関である沖縄県委員会書記局は、この委員会の執行機関で、その指導者によって決定された政策を実行している。(以下略)」

 ライカムのこの追加発表に対しても、日本共産党の関係機関と沖縄人民党は沈黙を守っていた。それに苛立ったかのようにアメリカ占領軍は、今度は琉球政府に命じて8月24日付で次のような情報を発表させ、それをまた、翌25日朝刊で二つの新聞が報道した。

 「琉球政府は24日、情報局を通じ、さきに伊佐浜で米軍憲兵に逮捕された××××氏(元××高校助教諭)について、次のように発表した。
 ××氏は55年7月20日に署名した自己の供述書の中に「54年3月、日本共産党に入党して以来ずっと日共党員である」と述べている。××氏は54年5月から××高校助教諭として勤務していたが、同人の供述によると「日共党員として、同党沖縄細胞として活動し、秘密機関紙の発行に従事していた」ものである。これまで軍新聞課から2回にわたって、沖縄にも共産主義が侵入しつつあることを指摘公表したが、今回の事実によってこれが裏書きされた。(以下略)」

 この記事の中にある「米軍憲兵」とはCIC(Counter Intelligence Corps 米軍諜報部隊)のことで、MP(Military Police)ではない。××氏の供述書というのは、CICが××氏を拉致、拷問し、アメリカ占領軍の支配下にある職場に勤務している父親や妹を解雇すると脅迫して作成したもので、それを琉球政府に命じて発表させたのである。
 さて、以上見た、アメリカ占領軍の3回にわたる執拗で挑発的な共産党攻撃は、1952年以来アメリカ占領軍が採ってきた反共主義キャンペーンの下での住民弾圧政策に沿うものであるが、直接的には、私がCICに拉致・拷問された事件と関っている。
 その経緯を概観し、それと合わせて、今回『大原社会問題研究所雑誌』4・5月号に目録が掲載される「沖縄・奄美非合法共産党文書」中の沖縄関係史料について解説・紹介を試みたい。

2 奄美の「祖国」日本志向と奄美共産党の創立

 1946年1月に日本から分断されて、沖縄と共にアメリカの軍政下に置かれた奄美諸島のその後の歩みは、沖縄の戦後史とは異なる特色を示している。里原昭著『琉球弧奄美の戦後精神史−アメリカ軍政下の思想・文化の軌跡』(五月書房、1994年)は、1953年12月に日本復帰するまで8年間の奄美の戦後史を考察しているが、その結語の中で、次のように述べている。
 奄美民衆の思想・文化運動の総和としての祖国復帰運動の「祖国」意識の内実には、日本の戦後出発時における民主化(戦時中のナショナリズム批判等々)の変革過程から遠く離れ、戦後も皇国民意識を継承した戦中世代と、1947年4月に創立された奄美共産党の影響のなかで戦後への出立の思想を培い、歴史を透視し得る史観を学び、歴史発展の必然性と法則を信じ、奄美・日本の政治、思想状況を把握したなかから、民衆の連帯としての「祖国」観を内発させた戦後世代が混在していた。もちろん米軍政下の当初は、総じて、奄美の戦後民主化の波は、奄美共産党の活動と不可分に結びついたなかでの開花であった。(中略)この時期に、戦中世代のリーダーたちは、皇国民としての自己の戦争体験の、検証と自己批判を欠落させ、戦争時の思想の止揚を経ずに、奄美民衆の米軍支配から受けていた自由な精神の桎梏や暮しの苦渋を、「皇民的民族との一体化」によって解決するとの幻想を一般化し、民衆をひきつけ、また民衆の多くも、この幻想に、付和随行したのである。恐らく、民衆の感性の中身には、後進的な奄美が、天皇を象徴とする日本国家の体系に同質化することで、軍政下の暮しの桎梏から解かれ、基本的人権の確立も就職(立身出世)も享受できる、との幻想を希求していたのではないか。

 奄美の戦中世代のリーダーたちの行き方に、奄美共産党とその影響下にある青年たちは反発し、対立した。しかしながら、そうした奄美共産党も、“民衆の連帯としての「祖国」観”から、日本志向が強く、日本共産党の下部組織としての承認を求め、日本共産党中央の指導を求めるのに熱心であった。それには、「祖国」日本との再結合を求める奄美民衆の民族主義(ナショナリズム)が根底にある。

3 沖縄における政党の結成と「民族意識」の崩壊

 奄美共産党が創立された同じ年の1947年、沖縄では、沖縄民主同盟。沖縄人民党、社会党(後の日本社会党系の沖縄社会党とは別)の三つの政党が相次いで結成された。
 沖縄民主同盟は、戦前、非合法下で日本共産党創立に参加した経歴を持つ仲宗根源和を中心に結成され、沖縄社会の民主化促進、琉球の独立、琉球共和国の設立を主張していた。
 沖縄人民党は、瀬長亀次郎、兼次佐一その他、戦前の日本で左翼の社会運動、労働運動に携わった経験のある人たちをはじめ、思想・信条の異なるかなり広い範囲の人々が参加して結成され、人民自治政府の樹立、憲法制定議会の開催、戦後沖縄社会の民主化、日本政府に対する戦争被害の賠償要求などを政治目標に掲げていた。
 社会党は、親米派の人たちによって結成され、アメリカの世界政策を支持し、琉球がアメリカの信託統治下に置かれることを容認していた。
 このように敗戦直後の沖縄に生まれた政党は、三党三様の政治的主張を持っていたが、三者の主張は、いずれも、沖縄を戦争の惨禍に陥れた天皇中心の超国家主義と軍国主義を否定する立場に立ち、沖縄の日本からの分離と沖縄の自立を暗黙の前提にしていた。それは、敗戦直後の沖縄住民の間で、天皇中心の超国家主義によって培われた「日本国民としての民族意識」が崩壊して、奄美の民衆に見られる「祖国」意識が喪失していたという歴史的現実の反映である。沖縄の左翼の人たちには、奄美共産党に見られる“民衆の連帯としての「祖国」観念”も無いに等しいほど稀薄であった。

 沖縄と奄美とのこのような相異は、両者の歴史的条件の相異に由来する。その具体的な考察については、ここでは省略し、次の点を指摘するだけにとどめる。
 もともと琉球文化圏に属する奄美諸島は、15世紀に首里王朝に征服されて琉球王国に統合されたが、17世紀初頭の薩摩の琉球征服以後は琉球王国の版図から切り離されて島津藩の直轄領有地となり、明治維新を迎えた。その奄美の住民が、明治以降、鹿児島県民としての日本国民の地位を与えられたことは、奄美住民を日本に同化させ、奄美住民が強い「祖国」意識、すなわち日本を祖国と考える強烈な観念を育む決定的に重要な要因になった。沖縄にはそれが無かった。
 敗戦直後の沖縄における民族意識の崩壊と再生の問題について、私は幾度か言及してきたので、ここでは繰り返さない。下記の拙論を参照していただきたい。
◇「沖縄における日本復帰運動と革新政党−民族意識形成の問題に寄せて−」(『思想』岩波書店、1962年2月号)
◇『沖縄の歩み』(牧書店、1973年)中の次の節/「五 明治時代の沖縄」中の「同化政策と皇民化教育」「同化の一応の<完成>と本土なみ制度の適用」/「六 大正・昭和前期の沖縄」中の「つづく半植民地の状態」「戦争直前の軍国主義教育」/「七 第二次大戦後の沖縄」中の「敗戦直後の捕虜生活」「日本復帰運動の開始」「理想の祖国と現実の日本」
◇「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』青土社、2000年6月号)中の「5 日本復帰運動の開始と民族意識の再生」

4 敗戦直後の日本共産党の沖縄対策

 第二次大戦中に日・独・伊のファシズムの支配下にあった地域では、世界どこでも、連合国の軍隊は解放軍として迎えられた。敗戦国日本の共産党指導者も、日本を占領管理する米軍を解放軍として迎えた。そして、ポツダム宣言に従って日本から切り離された沖縄は、アメリカ軍によって日本の天皇制ファシズムの支配から解放されたと考え、当面はアメリカを受託者とする国連の戦略的信託統治下に置かれることはやむを得ないとして、行く行くは自治共和制政府を樹立する方向へ進むべきだ、という見解を表明していた。だから、そこでは沖縄に対する政治方針を考える必要も無かった。
 その日本共産党が、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島の「諸君とともに断乎として闘う決意を新たに」する声明を発表し、これら諸島の日本復帰運動を支持する態度を明確にしたのは、1951年10月の第五回全国協議会(五全協)においてであった。しかしそれは、既に始まっているこれら諸島の日本復帰の大衆運動を後追いしたものとで、この時点でもなお、日本共産党はこれら諸島に対する政治方針を持ち合わせていなかった。そのことを自己批判して、1954年、日共中央委員会が戦後最初に出した琉球に対する政治方針「琉球対策を強化せよ」(日共非合法機関紙『平和と独立のために』1954年4月1日)は、次のように述べている。

 「これまで党内には、日本の完全解放なしには、琉球の日本復帰はあり得ないという想が、相当根強く浸透していた。この見解は、日本と琉球はともに、日本民族解放闘争の両翼をなす、一体ののものであるという基本点を見うしなって、米帝が、占領支配を維持するために、人為的に武力で切断した民族の分割、支配の、既成事実をそのまま容認する、ブル民的社民的思想に根ざしている。」

 この自己批判の内容や考え方には問題があるが、ここでは日共中央委員会が琉球の日本からの分離を容認していたことを初めて反省した事実を指摘するに止める。ところが、日共奄美地区委員会の党史とも言える報告文書、『結成から現在まで、琉球における党の歩いた道』(1954年、金沢資料4)及び『戦後10年間における党の歩いた道』(1956年、金沢試料40)の冒頭には「1947年には奄美共産党が結成されて、日本共産党の指導をうけつつ成長、沖縄においては沖縄人民党が結成されて日本共産党の影響を受けながら成長した」とある。同じ意味のことは『沖縄・奄美大島における党建設とその活動』(1958年、松田試料18)の冒頭にも書かれている。それは、歴史の事実に基づく記述ではなく、日本共産党の下部組織としての承認と指導を党中央に求めていた奄美共産党の人たちの思い込みによる文言であろう。
 もっとも、奄美共産党は結成当時から東京の日共本部と連絡をとり、日本共産党の出版物を取り寄せるなどもしていて、多分に日本共産党から影響を受けていた。しかし、その奄美共産党も日本共産党の下部組織として承認されたことはなく、日共とは別個の党として存在し、奄美社会民主党の中で合法活動をしていた。対照的に、敗戦直後の沖縄人民党の場合は、日本共産党から影響を受ける関係にはなく、アメリカの軍政下で合法政党として独自の道を歩いていた。そして、住民の生活を守り、住民の自治権などの民主的権利を要求する活動を通じて、沖縄人民党はアメリカ占領軍との対決姿勢を強めるとともに、民衆の間で支持を広げていった。

5 琉球非合法共産党の結成

 1952年4月の対日講和条約発効に合わせて、アメリカ占領軍は奄美・沖縄・宮古・八重山の四群島を統轄する琉球列島米国民政府(The United States Civil Administration of the Ryukyu Islands通称という軍政府、以下、と呼ぶことにする)を設立し、その代行機関として琉球政府を発足させたが、この新たな情勢の展開に対応するために、沖縄人民党と奄美社会民主党は統合して琉球人民党を結成した。その際、奄美共産党は沖縄にも活動の場を広げ、沖縄に渡って来ている奄美出身党員よりなる沖縄細胞を組織した。その模様については、奄美共産党から沖縄に派遣されて、沖縄における党活動の中心的役割を果たした林義巳の手記を手がかりに、里原昭が前掲『琉球弧奄美の戦後精神史』の「第5章、4沖縄基地労働者の組織−奄美共産党沖縄細胞のオルグ活動」(188頁以下)で検証している。それを参照していただきたい。
 さて、奄美共産党の主要メンバーは琉球人民党の中で活動しながら、沖縄・奄美の統一非合法共産党の建設を沖縄側の人民党幹部に持ち掛けたが、当初は沖縄側の人民党幹部が乗り気でなく、すぐには実現しなかった。それが1953年になって、沖縄側の人民党指導者も非合法共産党の建設に同意し、この年7月、沖縄側の人民党幹部と奄美共産党幹部が那覇市で合同の会議を持って、琉球全体を活動範囲とする非合法共産党を結成した。そして日共本部に勤務している沖縄・奄美出身の党員(高安重正、久留義三)を介して、日共中央委員会」に「日本共産党琉球地方委員会」としての承認を要請した。日共中央委員会は、それを受けて、この年9月、沖縄・奄美諸島を対象とする対策委員会(名称、構成は不詳)を新設し、沖縄現地の党組織を指導する態勢作りに着手した。対策委員会の実務は沖縄出身の高安重正が担当していた。その対策委員会では、先ず最初に、共産党員である沖縄出身の学生、特に契約学生は、大学卒業後は沖縄に帰郷して、沖縄現地で党活動させる方針が立てられた。

 アメリカ軍の占領下にあった1950年代の沖縄には契約学生制度というのがあり、日本の大学に留学または在学する学生が学資の給与を受けた年数だけ沖縄に帰って、琉球政府の指定する職に就く義務を負うていた。私も東京大学在学中に二年間、学資の給与を受けていたので、1953年3月に大学を卒業した後は沖縄に帰郷することになっていた。ところが当時、「党内には日本の完全解放なしには、琉球の日本復帰はあり得ないという思想が、相当根強く浸透して」(前掲1954年4月1日付『平和と民族のために』)いて、沖縄出身の学生党員は卒業後は日本に留まって党活動に従うべである、という意見が私の周りでは強かった。共産党員であった私は、その意見に従い、日本で党活動を続けることにしていた。
 そのおよそ半年後に、日共琉球地方対策委員会は、沖縄出身の学生党員は、卒業後は沖縄の党組織に参加して活動させる方針に転換したのである。その方針に従って私は、1953年11月、沖縄に帰郷することになり、発足したばかりの琉球非合法共産党に加わった。
 それは奄美諸島が日本に復帰する直前であった。そこで、奄美と沖縄は別々に共産党組織を建設することになり、米軍政下の非合法共産党組織は沖縄だけで建設することになった。


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米軍統治下におけるCICと世論操作/人民党と非合法共産党


国場幸太郎


1.日本駐留のCIC

 CICはCounter Intelligence Corpsの略語で、米軍が占領している敵地で諜報活動をする陸軍部隊である。日本語では諜報部隊、防諜部隊、対敵諜報部隊、対諜報部隊などと訳され、訳語は一定しない。
 敗戦後の日本を占領管理していた連合軍総司令部(GHQ)には4つの部からなる参謀部(General Staff Section)があり、参謀2部(G2)が情報関係を担当していた。1948年当時、G2の総勢は約3000人、そのうち約2000人が民間情報局に属し、その中に約900人のCIC第441部隊が含まれていた。CICは日本全土を6つの管区に分け、県単位で分散駐留していた。日本政府をはじめ日本各地の行政機関や警察から情報を得る一方、情報協力者の通報によって、住民の動向や重要人物についての情報収集と監視に当った。占領当初、GHQが日本の非軍事化と民主化の政策を実行していた時期には、主として旧軍人や政財界、学術・教育機関、民間諸団体の旧指導者が情報収集と監視の対象とされた。
 47年3月12日の米上下両院合同会議におけるトルーマン・ドクトリンの表明で幕を上げた冷戦の進行に対応して、アメリカ政府は対ソ封じ込めの世界戦略を策定した。その線に沿ってGHQは、48年、日本民主化の占領政策を打ち切り、日本資本主義経済の復活、旧支配層の復権を推進して、日本を反共の防壁にする「逆コース」の方向へ占領政策を転換した。これに伴い、CICの情報収集と監視の対象は共産主義勢力、すなわち共産党とその関係団体、共産主義者とその同調者に変っていった。
 CICには、極秘の別働隊としてキャノン中佐の率いるキャノン機関があった。キャノン機関は、日本の政財界上層部に接触して情報を収集するほか、共産党関係者に対するスパイ工作もしていた。50年代初頭の鹿地亘事件に見られるように、拉致・監禁・拷問してスパイ活動を強要した例もある。CICは逮捕令状無しに占領地の住民を逮捕する権限を与えられていた。CICは、また、朝鮮戦争で捕虜にした朝鮮と中国の兵士に反共思想を植え付け、反共工作員として密かに朝鮮・中国に送り込む活動もしていた。
 52年4月の対日講和条約発効に伴い、日本駐留CICの活動はアメリカ政府中央情報局(CIA)の東京支局に引き継がれた。CIAは、47年、国家安全保障会議(NSA)により設立された大統領府直属の情報統轄官庁で、第二次大戦中の戦略情報事務局(OSS)の後身である。GHQの管理下にある日本では、総司令官のマッカーサー元帥とG2のウィロビー少将がCIAの駐留を認めなかったので、CIA東京支局は48年に密かに開設され、初代局長は外交官を装って赴任した。

2.沖縄駐留のCIC

 沖縄駐留のCICは、47年当時、米陸軍極東軍司令部(FEC)の下にあるフィリピン・琉球軍司令部のG2に所属していた。それが48年7月、琉球軍司令部(RYCOM)はフィリピンから分離、独立して、極東軍司令部直属となり、沖縄駐留のCICは琉球軍司令部参謀二部(RYCOM・G2)の所属となった。さらに、57年6月、米軍の組織替えによるFECの廃止に伴い、琉球軍司令官は新設された国防長官直属の琉球列島高等弁務官の兼務となりCICはその統括下に入った。正式名称は526th Counter Intelligence Corps Detachment, Ryukyu Command, U.S.Army(米陸軍・琉球軍司令部・第526諜報部隊)である。この526CIC部隊は、沖縄の日本復帰まで、琉球軍司令部の下で沖縄に駐留、諜報活動を続けていた。
 占領当初、米軍は琉球列島を奄美、沖縄、宮古、八重山の4つの群島に分割して統治し、各群島毎に軍政府設けていた。そのため、この時期の沖縄・奄美の政党は各群島毎に結成され、CICも各群島毎に政治、経済など社会生活全般に関する情報を収集するほか、住民の動向や政党の活動を監視していた。
 奄美大島では、47年、戦前・戦中に日本共産党員であった中村安太郎らが非合法の奄美共産党を設立し、文化団体、青年、労働組合、農民組合など大衆組織の中で活動していた。間もなくそれはCICに察知され、48年8月、米軍政府は共産党の影響下にある奄美青年同盟に解放を命じ、さらに、中村安太郎らを「アカハタ」など日本共産党の出版物を密かに取り寄せた廉で逮捕、投獄した。中村安太郎は出獄後、50年、泉芳朗らと共に合法の社会民主党を結成し、合法の政治活動を展開した。
 沖縄本島では、沖縄民主同盟、沖縄人民党、社会党の3つの政党が、47年に相次いで結成されたが、結成当初は、どの政党も米軍政府と直接対立することなく、住民の生活と自治権をめぐる不満や批判は米軍から任命された沖縄民政府知事に向けられていた。それが、食糧の配給と価格の問題や、労務徴用の問題や、課税の問題が深刻になるにつれ、その解決を求める政治運動は大衆を巻き込んで米軍政府に対抗するものに発展していった。その過程で人民党はアメリカの軍事占領支配に対決する姿勢を強めていき、住民の人民党に対する支持も大きくなっていった。49年の第3回人民党大会で瀬長亀次郎が書記長に選出されて以後、CICは人民党の動向を厳重に監視するようになる。
 対日講和条約の発効に伴い琉球政府が発足した直後の52年8月、奄美大島の笠利村で立法院議員の選挙やり直しが行われている最中に、ビートラー琉球軍司令官は立法院に赴いて「人民党は共産主義と呼ばれる恐怖すべき病気の媒介者である」と演説し、人民党の中村安太郎候補に投票するなと呼びかけた。地元の新聞はビートラー演説を全文掲載して、米軍政府の人民党に対する反共攻撃に利用されていた。選挙の結果は人民党の中村候補が当選した。
 53年、朝鮮休戦を成立させたアイゼンハワー政権は、奄美諸島の施政権を日本に返還して、沖縄基地だけは無期限に確保する方針を固めた。それ以後、恒久的基地建設を急ぐ沖縄の米軍政府は、占領政策の妨げになる住民の運動をすべて、「共産主義」を利するための「共産主義者の扇動」によるものとして弾圧した。この年12月5日、米軍は小禄村具志の農民に銃剣を突き付けて農地を武力接収したが、土地取り上げに反対してブルドーザーの前に座り込んだ農民は「小グループの共産主義者」に扇動されていると宣伝した。
 明けて54年1月、アイゼンハワー大統領が年頭の一般教書で沖縄基地無期限確保の方針を明示したのを受けて、オグデン琉球軍司令官は「復帰運動の継続は共通の敵共産主義者以外に誰にも慰安を与えるものではない」と声明し、日本復帰運動を禁止した。しかし、3月に行われた小選挙区制の立法院選挙では社大党、人民党に革新系無所属を加えた即時日本復帰を目指す統一戦線勢力が過半数の議席を獲得し、正副議長は社大党が占めた。この事態に危機感を募らせた米軍政府と親米与党の民主党は、人民党だけでなく、社大党も反共攻撃の対象にした。立法院選挙で敗北した民主党の副幹事長新里銀三は、4月10日、オグデン司令官に書簡を送り、反共主義の尖兵よろしく、人民・社大両党に対する米軍政府の厳しい対策を強く要望した。5月19日、オグデン司令官は新聞関係者をライカムに招集して反共の講釈をし、「日本復帰は共産党の方針である。復帰を支持する社大党は共産党の方針に従っている」。「教職員は共産主義を教え、共産党員の補給の目的で教育を行なっている」と社大党、教職員会を攻撃した。
 これより先、5月1日のメーデーでは、米軍政府が「メーデーはマルクスの誕生日を祝う共産主義者の祭典である。共産主義者でない者は参加するな。参加者は共産主義者とみなす」と声明し、メーデーや労働争議などの集会現場では、CICが参加者の写真を撮りまくった。CICはその写真を使用者に示して組合活動家の解雇を迫り生まれたばかりの労働組合は次々と組織を破壊されて、活動不能に追い込まれた。
 このような反共主義ヒステリアの弾圧は、共産主義そのものに対する恐怖というよりも、「共産主義者」またはその「同調者」というレッテルを貼られて弾圧される恐怖心を住民に植え付けていった。その究極の狙いは人民党を大衆から孤立させて非合法化することにあった。沖縄の非合法共産党はこの人民党非合法化の狙いに備える必要から生まれた。

3.人民党と非合法共産党(T)

 対日講和条約の発効に合わせて、奄美、沖縄、宮古、八重山の4群島を統括する琉球政府が発足する直前の52年1月30日、沖縄人民党と奄美社会民主党は合流して琉球人民党になった。その際、社会民主党を合法舞台として活動していた非合法の奄美共産党は沖縄にも活動の場を広げ、沖縄に渡って来ている奄美出身党員数名よりなる沖縄細胞を組織した。細胞とは当時の共産党用語で、支部のことである。
 奄美共産党沖縄細胞のメンバーは、人民党の合法活動と米軍基地工事に従事する奄美出身労働者の組織活動に力を注ぐ一方で、人民党の沖縄側幹部に非合法共産党の結成を呼びかけた。その非合法共産党のことを奄美の党員は「基本党」と呼んでいた。奄美からの呼びかけに対し、沖縄側若手幹部の幾人かは賛成したが、書記長の瀬長亀次郎は反対した。反対の主な理由は、戦前の日本で合法政党である労農党が「党中党」的存在である非合法共産党と対立して混乱し、不振に陥ったように、合法政党である人民党とは別組織の非合法共産党を結成すると、人民党の組織を壊す惧れがあると懸命されてのことであった。それが後に、瀬長書記長も非合法共産党の結成に同意したが、それは、米軍政府の人民党非合法化の意図に対して、一方で人民党を合法の大衆政党として防衛しながら、他方では人民党が非合法化された場合でも大衆闘争を組織し、推進する力量を持つ地下組織を整備しておく必要がある。と痛感されたからである。
 以上のような経過を辿って、53年7月、沖縄側人民党幹部と奄美共産党幹部は合同の会議を持ち、琉球列島全域を活動範囲とする非合法共産党を結成した。それから直ちに、東京の日本共産党に本部に勤務している沖縄・奄美出身の党員を介して、「日本共産党琉球地方委員会」としての承認を日本共産党中央委員会(以下、党中央)に要請した。それを受けて、党中央は南西諸島を対象とする対策委員会を新設して、沖縄・奄美現地の党を指導する体制作りに着手した。その直後の53年12月に奄美が日本に復帰したために、琉球地方委員会は沖縄と奄美に分かれてそれぞれの党を組織することになった。沖縄の党は名称を「日本共産党沖縄県委員会(以下、党県委)」とし、委員長は瀬長人民党書記長が兼任した。委員会は人民党の主だった幹部を中心に十数人で構成されていた。奄美出身者では人民党常任委員の林義巳と全沖縄労働組合協議会事務局長の畠義基が加わっていた。

4.人民党と非合法共産党(U)

 沖縄の党建設が始まったのを受けて、党中央は「琉球対策を強化せよ」という無署名論文を非合法機関紙『平和と独立のために』54年4月1日号に掲載した。これは党中央が全党向けに出した戦後初めての沖縄に関する政治方針で、武装闘争による民族解放民主革命を目標とする51年綱領の沖縄版である。この政治方針のほかに、党中央はまた、革命を達成する力である民族解放民主統一戦線を、沖縄では反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の運動として具体化し、発展させることを「当面する闘いの方向」として示した。さらに党中央は「奄美を前進拠点として、アメリカ帝国主義の完全軍事占領下にある沖縄を解放するのが党中央の方針である。それに呼応できるように、沖縄でもそろそろ武装闘争の準備を始めなければならない」という軍事方針を指令した。
 54年5月、党県委は党中央の方針を討議する会議を開き、「当面する闘いの方向」はアメリカの軍事占領支配に反対して祖国復帰を要求し、軍用地の接収に反対して土地を守る全住民の統一要求に沿うものとして受け容れた。しかし、武装闘争の準備指令については、瀬長委員長が「そんなことを沖縄で出来るわけがない」と最初に反対意見を述べ、委員全員がそれに同調した。そこで党県委は党中央の武装闘争準備指令は黙殺して、沖縄の現状に即した政治方針と活動方法で党建設を進めることにした。

5.CICと非合法共産党(T)

 沖縄の非合法共産党(以下、沖縄の党)についてある程度察知していたと思われるCICは、8月27日、先に域外退去命令を拒否して潜伏していた畠義基を逮捕、訊問し、畠の自供から沖縄の党の存在を確認した。その3日後の8月30日、米軍政府は「日本共産党の対琉球政策要綱」なる文書を発表し、翌31日には民主党議員が立法院に「共産主義政党の禁止に関する決議案」を上程した。この「日共の対琉要綱」は先に触れた54年4月1日付『平和と独立のために』紙掲載の「琉球対策を強化せよ」を下敷きにライカムG2が反共宣伝用に捏造した55項目からなる英文解説書(G-2■s interpretation of the communist document)の日本語訳である。それは「メーデーはマルクスの誕生日を祝う共産主義者の祭典」と言うのに優るとも劣らないほどレベルの低い捏造文書である。その捏造文書を地元の新聞はまことしやかに2日間にまたがって全文掲載した。それを、54年9月7日付、米琉球軍司令官から東京の極東軍軍司令官へ送られた機密公文書は「人民党は共産主義路線を擁護する政党である、と信じ込ませるのに十分効果があり、立法院で共産主義とその政党を調査する法案を通過させる結果になった」と称えた。また、10月27日付、那覇の米領事部からワシントンの国務省に送られた機密公文書は「新聞の反響は全く好ましいもので、大方の民衆に共産主義に反対の気分を起こさせた」と評価した。
 このように米軍政府と親米与党の民主党が緊密に連携し、地元の新聞を反共の世論作りに利用して人民党の非合法化を図ったにもかかわらず、立法院では「共産主義政党調査特別委員会」の設置に止まり、人民党の非合法化はできなかった。立法院が調査する気になれば、「日共対琉要綱」が捏造文書であることもばれてしまう。そこで、米軍政府は社大党に圧力をかけて分裂させ、同党所属の立法院正副議長を辞任に追い込んで、民主党に正副議長の座を空け渡させた。人民党に対しては米軍政府がじかに弾圧に乗り出し、瀬長立法院議員をはじめ30名前後の幹部、活動家を逮捕して、軍事裁判にかけ、投獄した。
 米軍政府の暴挙に対し、沖縄の党政治局は、54年10月末、「全人民大衆の力を結集して敵の狂暴な弾圧に総反撃せよ」と方針を発し、その中で宜野湾村伊佐浜の土地闘争が反撃に移る突破口になることを見通して、全党を挙げてその支援に取り組み、土地を守る闘争に全住民の力を結集する活動を展開した。この党の方針を広く知らせて、大衆の中での組織活動を活発にするために、54年12月、手書き謄写タブロイド版週刊(後、旬刊)の非合法機関紙『民族の自由と独立のために』を創刊、特に、土地闘争の実情を詳しく伝えた。明けて55年1月、一旦は軍用地接収を承諾させられていた伊佐浜の農民が女性を先頭に再び反対闘争に立ちあがった。そして3月、米軍は武装部隊を出勤させて伊江島・伊佐浜の武力土地接収を強行、これに反対する伊江島・伊佐浜農民の抵抗運動に対する支援の輪は沖縄中に広がっていった。それと共に、米軍政府の反共ヒステリアの弾圧で鎮圧されていた種々の大衆運動と革新の政治運動も息を吹き返し始めた。

6.CICと非合法共産党(U)

 このような情勢の転換を目の前にして、CICは沖縄の党組織の洗い出しに躍起になった。55年の夏には、党の地下組織、特に非合法機関紙に関係があると疑いをかけた者をCICが拉致して拷問し、あるいは、日本の大学に在学する帰省学生を拉致して共産党との関係を訊問する事件が相次いだ。CICの取り調べ方は、先ず、拉致して来た者をコンセット兵舎の一室に連れ込んで、日系二世を含む六、七人のCICが取り囲み、衣服を脱がせて身体検査をしたり、前方と左右から写真を撮ったり、最初から人権を無視した扱いである。それから、共産主義団体に参加または関係したことがあるか、共産主義者の友人がいるか、などの設問を含んだ「第三国人身上明細書(身元調査書)」の質問事項に回答の記入を要求する。適当に受け答えをすると裸にして「ウソ発見器」にかける。家族に勤め人がいるとクビにすると脅かす。帰省学生の場合は、日本へ渡航するパスポートの発給を差し止める。最初から取り調べに応じないで黙秘する者に対しては、昼間は裸にして、罵声を浴びせて拷問し、夜は衣服を着せて、写真撮影用のライトを顔の前に置き、光と熱と騒音で攻め立てながら、水も食事も与えず、一睡もさせずに拷問する。それが三日二晩、まるまる二昼夜に及んだ例もある。
 CICによるこのような人権蹂躙が表沙汰になるのを防ぐ狙いがあってのことであろう、8月16日、米琉球軍司令部(ライカム)は「日本共産党委員会が54年当初から存在している」と発表して、翌日の地元新聞に報道させた。沖縄の党はこの挑発的な発表に対して沈黙を守った。すると4日後の20日、ライカムは追い討ちをかけるように、「日本共産党沖縄県委員会の細胞組織に関する追加情報」を発表して、地元新聞に報道させた。それでも沖縄の党は沈黙していた。それに痺れを切らせたように、さらに4日後の24日、ライカムは琉球政府に命じてライカムの発表を裏付ける証言があることを発表させ、新聞に報道させた。それでも沖縄の党は沈黙を守った。党だけの突出した抗議行動をして挑発に乗ると、党に対する弾圧を招く危険性が大きかったからである。沖縄の党はあくまでも人民大衆の力を結集してアメリカの軍事占領支配に総反撃する方針を堅持した。そういう沖縄の党の活動は56年の「島ぐるみの土地闘争」で結実し、土地闘争分裂後の57年には瀬長革新那覇市政を守り抜いて、「民連ブーム」という革新勢力の高揚を招来した。そして、米軍政府が人民党を非合法化することは最早不可能な情勢になった。
 この時点で、沖縄の非合法共産党は結成に当って自らに課した基本的任務をよく果たし終えたと言える。ここに至る沖縄の党の活動は、沖縄の実情に即した独自の道を人民大衆と共に歩む中から生み出された。それは、1947年の結成以来、沖縄人民党が培ってきた大衆性と独自性を受け継ぎ、発展させたものと言えよう。

◆参考文献◆
◇春名幹男『秘密のファイルCIAの対日工作 上下』(共同通信社2000年)上巻の随所に日本駐留CICについての記述がある。
◇新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社1976年)第三章 暗黒時代の闘い─1952年4月〜56年6月─
◇加藤哲朗「新たに発見された〈沖縄・奄美非合法共産党文書〉について(上)(下)」(法政大学出版局『大原社会問題研究所雑誌』2001年4月、5月)
◇里原昭『琉球弧奄美の戦後精神史』(五月書房 1994年)第五章 2奄美共産党の政治方針、4奄美共産党沖縄細胞のオルグ活動
◇ 「沖縄を知る事典」(日外アソシェーツ 2000年)第4章「反共弾圧」の頃、第8章「瀬長亀次郎」の項


[沖縄を深く知る事典(日外アソシエーツ20030225)第1章●日本・アメリカとの相剋から見える沖縄〈3.「アメリカ統治」時代に関する項目〉]


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