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∞∞琉球・沖縄史を考える∞∞


沖縄タイムス・リード
 「2009年は、薩摩の琉球侵攻(1609年)から400年、琉球処分(1879年)から130年という、琉球・沖縄にとって大きな2つの歴史的節目の年にあたる。薩摩侵攻以降、自己決定権や差別、主体性やアイデンティティーなどさまざまな問題が形を変えながら取りざたされる沖縄。歴史の歩みを踏まえながら、現在と未来をどう展望するのか。近世、近代の琉球・沖縄史研究者に議論をしてもらった。」


目 次:
■1■薩摩侵攻400年/徹底抗戦しなかった謎【沖縄タイムズ2009.1.5】
■2■国家運営 日中両にらみ【沖縄タイムス2009.1.6】
■3■日中緩衝地帯の琉球【沖縄タイムス2009.1.7】
■4■「琉球処分」の意味とは【沖縄タイムス2009.1.8】
■5■決着ない帰属問題【沖縄タイムス2009.1.12】
■6■400年解きほぐす思考を【沖縄タイムス2009.1.13】

座談会出席者プロフィール:
赤嶺 守氏あかみね・まもる/1953年那覇市出身。琉球大学教授。琉中関係史。主な著書に「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」「清代中国の諸問題」(編著)など。
伊佐眞一氏いさ・しんいち/1951年那覇市出身。琉球大学法科大学院係長。日本近代史。主な著書に「伊波普猷批判序説」「謝花昇集」など。
金城正篤氏きんじょう・せいとく/1935年糸満市出身。琉球大学名誉教授。東アジア近代史。主な著書に「琉球処分論」「沖縄から中国を見る」など。
豊見山和行氏とみやま・かずゆき/1956年宮古島出身。琉球大学教授。琉球史。主な著書に「琉球王国の外交と王権」「琉球・沖縄史の世界」(編著)など。
司会:長元朝浩沖縄タイムス論説委員長


■1■ 薩摩侵攻400年/徹底抗戦しなかった謎

 司会 まず初めになぜ薩摩が17世紀の初め、琉球に侵攻したのか。日本の置かれた状況や薩摩側の狙いなど、前史的な話を聞きたい。

 豊見山和行氏 島津侵攻の理由は諸説ある。歴史的な背景として唐入り、果てはインド征服までをもくろんだ豊臣秀吉の朝鮮出兵があった。それが失敗に終わり撤退した後、徳川政権になり中国や朝鮮との新しい外交秩序を構築し直そうとした。中国貿易を立て直す中で中国との重要なパイプ役として琉球の位置が浮上したが、日本を警戒する琉球側はなかなか対応しようとしなかった。しだいに明らかになってきたが、島津は独自の思惑で領土を拡大しようと、奄美入りを経て琉球へ侵攻した。

 司会 中国から薩摩の侵攻はどのように見えたのか。

 赤嶺守氏 ある韓国の研究者は「朝鮮と琉球」という本の中で、当時の中国を中心とする冊封体制下で琉球は朝鮮とともに日本に対する共同防衛体制を敷いていかなければならなかったと論じている。ただ、朝鮮と琉球を同一視してはいけない。中国は朝鮮に関しては積極的に保護干渉していくが、琉球に関して積極的に島津侵攻の阻止はしない。陸続きのベトナムや朝鮮とは違い、中国にとって危機が直接自らにはおよばない琉球は海のかなたにある属国として見ていた。だが、対日関係では以後も琉球の動向を注視している。

●奄美では戦闘

 司会 薩摩の侵攻時、3000の薩摩軍に対し琉球側はどう戦ったのか。

 豊見山氏 奄美では徳之島で激しい戦闘があったと記録されている。しかし沖縄島では大規模な戦闘はなかった。薩摩の軍勢は首里城焼き払いも含め短期決戦の計画をしていた。なぜ琉球側は、徹底的にゲリラ戦に持ち込まなかったのか。そうなれば、負けたとしてももっと有利に事を進められるようになったのではないか。その背景には、ある程度の交渉がいくつかの段階で行われていた可能性がある。大島を割譲すると認めた段階で和議が成立したのかもしれない。徹底的な長期戦になるという見通しは最初からなかったような気がする。

●小規模な軍隊

 豊見山氏 さらに琉球の場合、軍団組織が薩摩とは比較にならなかった。琉球の軍は基本的に海賊に対しての撃退や港の防備を対象としており、軍事勢力に対し攻めていくことがなかった。呪術によって政治が行われたその当時の琉球では、激しい戦闘は想定してしなかったのだろう。

 金城正篤氏 軍記物風に薩摩侵攻を記した喜安日記とはどういう性格の資料か。

 豊見山氏 大和の軍記物を引用した表現がところどころに見られる。後からストーリーを作り出したような感じもするが、状況を知らないと書けないようなリアルな記述も多い。

 赤嶺氏 当時の薩摩は九州制覇を試みるほどの勢いのある藩で実際に秀吉の朝鮮出兵では海外侵略もしている。日常的に戦闘に慣れていた。それに対し長い平和の時代が続いた琉球が太刀打ちできなかったのも無理はない。

 伊佐眞一氏 士族の一体感がほとんどなかっただろうと思う。つまり国家としての危機感と有事即応の態勢がなかったのではないか。

 豊見山氏 首里の士族、那覇の士族は、武器は持っていた。ただそれがどの程度、軍事組織化されていたかを検討する必要があるが、小規模な軍隊だったと思われる。



■2■ 国家運営 日中両にらみ

 金城氏 薩摩侵攻の原因についての有力な見解はどうなっているか。

 豊見山氏 よく言われるのは、薩摩が貿易の利益を狙ったという説。だが島津が積極的に貿易に介入するのは侵攻後ずっと後の1630年代で、藩の財政が赤字になり琉球の朝貢貿易に目を付けた。明清交代などもあり、1640年ごろまで貿易は混乱に紛れうまくいかなかった。もう一つは領土の問題。戦後、早稲田大学の紙屋敦之教授が指摘したように、島津内部の家臣団は三つのグループに分かれていて、統一権力が弱かったという論がある。内部で一体化するために、無理やり出兵につなげていくという、薩摩内部のお家の事情があった。奄美を割譲して、どれだけ藩の財政が潤ったのかは証明されていない。それが「領土割譲論」だ。
 もう一つ、物議をかもした仲原善忠氏の「島津進入」論では、長い視点で見て、日本民族と琉球民族が融合する一つのきっかけでしかないと言う。だから、侵略という表現ではなく島津「進入」として、日本に融合していくプロセスの一つだという位置づけをしている。ただこれは仲原氏らの研究者が置かれていた米軍支配の時代の反映で、沖縄と大和が一体となるのが正しいという見方の裏返し、一種の後付けのような見方だったのではないか。島津側にとっては民族融合ではなく、海外出兵というまぎれもない対外戦争だった。

●折り合い

 司会 薩摩侵攻が起点となり、侵攻以降に沖縄の本格的なヤマト化が始まったのではないか。

 伊佐氏 大きな歴史の流れとしてはそうだと思う。島津侵略から400年ということを考えたとき、沖縄が日本という国家のなかに併合されていくにあたって、四つの大きな出来事があった。島津侵略、琉球処分、米軍統治、「日本」復帰。しかし、島津支配による約270年間は、歴史的には琉球処分以降の「ヤマト世」と同じレベルで論じることはできない。島津の下での変化はまず第一に部分的であり、量的なものだった。それに比べて琉球処分による明治国家への武断的統合は、国家構成をなす皇国臣民として、その心の持ち方に至るまで全面的であり、かつ質的な変化になった。島津支配下の間に、上層階級や知識階級は和歌など日本文化をたしなむなど、日琉の文物が相互移入して、文化的な共通感覚の土譲を培っていった。強い異質感を持ちながらも琉球処分という圧倒的なヤマト化に突入するに際し、大きな準備的役割を果たしたものが島津支配の時代といってよいだろう。

 赤嶺氏 一般的にそういう印象を持っている人が多いと思うが、違うのではないか。薩摩の侵略以降、特に18世紀以降、琉球王国に顕著に見られるのは中国化だった。具体的には、風水や儒教などを積極的に取り入れ、中国福州への「勤学」といった学生派遣が盛んになり、国家儀礼も中国化する。海の世界も中国のジャンク船を導入して中国色を強める。資料を通して、そういうことが見受けられる。薩摩の侵略で、琉球は今までにない外交戦略を展開しなければならなくなった。琉球が完全に日本の一部となるような地域ではなく、中国の冊封体制の中にありながら、他方では日本の幕藩体制内の異国だったからだ。その中で琉球には強い中国の影響力があるということを薩摩側に見せけん制している。意外だが薩摩侵攻以降、私たちが考えているように日本化が進んできたのではない。

 豊見山氏 以前に歴史研究者の安良城盛昭氏は薩摩侵攻と琉球処分を「二段階的包摂」だと唱えた。日本に経済的にも政治的にも組み込まれ、日本化は一種の必然だという論だった。ところが近世の状況を見ていると、琉球の王権前提で薩摩支配がのっかっているだけで、全面的にコントロールされているわけではない。これは日本の領主権という問題にかかわっている。将軍と島津の殿様の関係は個別の外交、年貢、戦争も行う大名という連合体に幕府がのっかっているという形。その領主の権限を持っている者が琉球を征服したとき、琉球には王がいて、完全に圧服したのではなくて首里王府の政治の部分はほとんどまかせている。島津側の要求がうまくいかなければ介入することはあっても、伊波普猷の言うように、琉球が主体性をなくして操り人形のような存在だったというとらえ方は、個別の実証からも批判され、新しい見方に変わっている。むしろ島津支配を受け入れて中国とどう折り合いをつけて国家運営をするかが近世の琉球の政治家たちの大きな課題だった。

●意識変化

 司会 中国化が進んだという側面と、一方で琉球意識を感じていたこと、さらに羽地朝秀の日琉同祖論のように「御取合」ウトゥイエー(親交、外交、交易などの国家間、個人間の交際)というつながりがあった。この三つのつながりをどう理解したらいいのか。

 豊見山氏 段階的にとらえる必要がある。尚寧の後の尚豊(1630年代−40年代)は中国と大和との両方をにらみながら外交を展開し、両国と折り合いをつけなければ、国家運営ができないと考えた。その後、明清交代で朝貢貿易がうまくいかなくなった。その中で羽地が登場して薩摩との関係を重視し、役人は大和的な素養も持たないと国家運営ができないと強調した。実際に大和の素養を基にした外交が、琉球側にとって文化外交のような力を持っていた。それを推し進める中で、一種の外交戦術として「日琉同祖論」が生み出されたのではないか。羽地の時代は明清の大動乱の時で、中国だけをにらんだ外交というのは困難な時代。この明清交代が一段落ついた後に、蔡温の時代がきた。そのころは東アジアは平和で、琉球の人口も増加し中国貿易もうまくいっている。その中で歴史を編さんする意識が高まった。蔡温が考えた国家運営とは、中国と十年、二十年、朝貢ができなくても自給ができれば大和に対して年貢の対応もできる。経済的な意識まで高めたのが蔡温の段階だった。羽地の国家意識は東アジアの動乱の中でとらえられたもので、蔡温の場合は東アジアが非常に安定し平和なときの国家意識だと思う。



■3■ 日中緩衝地帯の琉球

 司会 薩摩侵攻に徹底抗戦した謝名親方と、ある程度受け入れた現実主義的な羽地朝秀の身の処し方は、ある意味で今に至る沖縄知識人のパターンでもあるのではないか。

●侵攻後の地位

 伊佐氏 羽地には琉球の統治者として日本的なものを身につけて、スムーズに国家運営を推し進めるしたたかさのあったことを忘れてはいけない。クシャミまでヤマトを真似よという、大田朝敷の方便的姿勢に通じるものがある。だから近代以降の日琉同祖論と羽地のそれとは本質的に違う。それにしても、謝名の記憶もそうだが、島津の攻防戦について抵抗の民間伝承がほとんどないというのは、薩摩支配下のありようをよく示している。

 豊見山氏 1630年代、島津の役人が那覇に来た際の日記が残されている。政治的には支配・被支配の関係にありながらも、国王へは敬意を払い、王府の三司官とお茶を飲んだり、文化的な付き合いをしたと書かれている。植民地の総督官のように、右から左へ指示を出すのとは違う。薩摩に政治的に征服されているが、琉球側の統治権は厳然と残っている。そこに島津の介入もあったが、琉球を統治するのに島津側は苦労したのではないか。

 金城氏 くりかえし議論されてきたテーマが島津侵攻後の琉球の地位。問題の一つとして豊見山さんに聞きたいのは、将軍が島津の大名に与えた領知判物(領地関係の証明書)の正当性。琉球国12万石余を「領知」させるという朱印状は、むろん琉球側のあずかり知らぬところでのいわば闇取引。かりに幕藩制国家の中での公式の安堵状であるとしても、それが琉球に適用される根拠と有効性が知りたい。

●領知判物問題

 豊見山氏 領知判物は、日本の将軍と大名との主従関係の承認書。ところがこれには琉球国は島津の領域の「この外」と書かれている。だから幕府にとって琉球は異国になる。島津が領分(テリトリー)としていても、幕府から見ると異国を領分としている、という複雑な位置づけになっている。たとえば、琉球国王が次の世継ぎの中城王子に代替わりする際に、琉球側が島津に「この人間を次の王にしてよろしいでしょうか」と申請すると、島津側は将軍に「琉球からこういう要請が出ている。どうしましょうか」と持って行く。それを受けた将軍は「琉球のことは島津に任せてあるから、好きなようにやれ」と言う。それを受けて島津は「将軍のOKが出た」と解釈し、琉球に許可を出していた。

 金城氏 領知判物の問題は琉球処分ともつながってくる。つまり琉球が版籍(土地、人民)を奉還する根拠は、実は琉球の王様が天皇からもらったわけではない。

 豊見山氏 幕府のとらえ方は琉球は島津に従属した附庸国であるというもの。ペリーが来たときも「琉球は外国なのか、違うのか」を説明をしようとしたが、幕府の外交官の中にもいろいろな意見があった。

●版籍奉還論拠

 金城氏 幕府の中でも、領有権を主張する人のほか、琉球は異国で消し捨ててもいいという人もおり、いいかげん。安良域さんの「版籍奉還なき廃藩置県」案の指摘だが、つまり日本本土では天皇からもらった版籍を奉還することで廃藩置県を行ったという明確な根拠があるが、沖縄では「版籍奉還」の論拠はないのではないか。

 豊見山氏 日本側の論理で当時の琉球をとらえようとしても一部分しか説明できないところがある。たとえば琉球が特殊なのは軍役がないこと。石高を設定されても、軍事的な奉仕の義務がないので、新井白石も「これは特殊だ」と指摘している。江戸時代の幕藩制国家と近代の国民国家は全然別のもの。琉球、薩摩の前近代にふさわしい国家形態の特徴からとらえる必要がある。当時は単に同一民族だから琉球を併合する、という論理は全然出てこない。

 赤嶺氏 近世では中国側の冊封体制と日本の幕藩体制があり、その緩衝地帯としてゾーンのような形で琉球が存在している。近世は、日本的な琉球も中国的な琉球も両方ある。近代と近世の大きな違いはそのゾーンを認めず、国家領域がどこまでなのかをラインで区切るということ。近代国家が領域国家と言われるのはその特徴を反映している。その領域の中で住んでいる人々が国民になる。薩摩が支配した琉球は、あいまいなゾーンの中に存在しており、はっきりと線で引かれていない。

 豊見山氏 中国が作った朝貢とか冊封体制という関係は、その当時の君主同士のおつきあいの仕組み。君主の上下関係があり、それに貢納物を贈れば、それに対するお返しがある。前近代の秩序として国が安定していれば良く、そこにいちいち必要以上に介入することはない。中国的な性格が強くなる地域、弱く出る地域もさまざまにある。

 金城氏 琉球が日本と中国に「両属」することが容認されたのが近代以前の東アジアにおける国際秩序だ。

●日本の領有権

 司会 近世琉球の270年間を一言で言い表す言葉としてどのような表現が適切なのか。

 豊見山氏 僕は「従属的二重朝貢」という言い方をしている。琉球は二重朝貢国であり、両方に貢ぎ物を出して、対外的な政治的関係を調和させながら運営していた国家だった。国家類型から考えても世界史的に二重朝貢、三重朝貢を行っていた国は存在し、おかしなものではない。近世から近代を、必然的に日本になっていく過程ととらえず、琉球が独自に作った社会なり国家なりのあり方が、いかに近代において転換していくかを考えることが重要だ。たとえば伊波普猷は、琉球が島津に征服されてがんじがらめになったということを言うが、近年はいかに琉球が主体的にいろいろなものを生み出したかをもっと積極的にとらえるべきだと変わってきている。

 赤嶺氏 明治政府にとって北方領土や琉球諸島などを自らの領土に確定することが大きな政治課題となっていた。近代の国民国家として日本の領土を確定することは、これまでの近世の世界観に終止府を打つということ。「琉球処分」は琉球と日本という二項関係のように見えるが、当時の日本政府には琉球の背後に大きな中国が見えており、いかにその関係を切るかという意識があったと思う。琉球のこれまでの両属制を排し、日本の領有権をいかに確立すべきかが近代という時代になる。



■4■ 「琉球処分」の意味とは

 司会 琉球処分自体の評価や見方もこれまでにいろいろ変化している。

 金城氏 琉球処分は明治維新後、その初期の段階から琉球の領土問題の一環として関心を持たれていた。この琉球処分のシナリオを誰がいつ作ったのかということについては必ずしも明確にされていない。

●時期区分

 金城氏 琉球藩の設置は1872(明治5)年。明治8年ごろから松田道之によって12年段階までに、処分の方針が伝達されていく。この「処分」の具体的な輪郭=要綱を策定したのは、内務卿大久保利通の片腕として活躍した法律顧問ポアソナード(フランス人)が大きな役割を担っていたのではないかと思う。緻密な近代国家の統合の論理を見事に貫徹させ、それを腕利きの官僚である松田が見事に実行していく。台湾出兵から事後処理までを含め、琉球処分の緻密なシナリオが策定されるプロセス=内幕は未詳だが、それが解明されれば、なぜこの時期に「処分」が急がれたのか、政府の意図がより明確にされると思う。いまひとつ指摘しておきたいのは、琉球処分の終期をいつまでとするかということ。琉球処分の時期区分についてはいくつかの見解がある。私は琉球処分が日本の大陸侵略の一環であるという側面を見失ってはいけないと考えている。外交の具として琉球が利用される段階は、分島問題の時点(1880年)までに集約されていると思う。時期区分は何をポイントに据えるかによって違ってくる。近年は琉球の問題を、日中の外交交渉の客体としてとらえて処分される琉球側の立場に論究していない議論もあるが、琉球処分の問題を考えるには「処分」される側の視点から突き出すことが大事だ。

●歴史認識

 赤嶺氏 僕は歴史用語として使われる「琉球処分」という言葉に違和感がある。処分したのは日本政府だが、当時の琉球がなぜ処分されなければいけないのか。この用語は自分たちのアイデンティティーを考える上であくまでカッコ付きで用いなければいけない。日本政府は統合を拒否した琉球を一方的に「処分」したが、当時の琉球からすると受け入れられない論理だ。

 伊佐氏 確かに「琉球処分」という言葉にはマイナスのニュアンスがある。処分官・松田道之が編集した本のタイトルが「琉球処分」という言葉の初出だったと思うが、島津の琉球侵略も、戦前は島津の「琉球征伐」と言われていた。しかし、そうした不快な用語であるにはちがいないが、他方で「琉球処分」という名称をわれわれが用いる際には、別の自覚的な意味づけがある。「琉球処分」というのは19世紀後半の歴史事象を指すのだが、鹿野政直さんも言うように、その後の沖縄社会で、「第二の琉球処分」とか「第三の琉球処分」などという言い方がされる。沖縄がみずから「した」のではなくて、外部から取引材料として強制的にモノ化「された」と感じるときに、明治の近代国家の中へ武力で併合された大事件が、われわれにそのときどきの歴史認識に一致して、「第二の」「第三の」という形容をつけることになる。だから琉球処分は決して過去の出来事ではなく、現状認識として重ね合わせるシンボリック性を持っている。

●復国運動

 赤嶺氏 金城先生の先ほどの時期区分の指摘の背景には、研究者によって中国との関係が切れたのは、恐らく日清戦争によるものだという意識があるのだと思う。1879年に廃藩置県で沖縄県が誕生したが、旧士族の間にボイコットや非協力運動が起こった際に王府は、清からの救援を待てという通達を出した。琉球を国家として復国させ、存続させる大きなパワーを持った存在が中国だと考えられていた。琉球処分以降は、琉球から中国に渡り救国を求める脱清人という士族がいる。脱清人はこれまで非常に否定的な見方をされていて、一部の不満士族だととらえられていたが、実はそうではなく王府の要職を占める士族らが中心だった。当時の脱清人の国家構想を見ていると、実は豊見山さんが話した日本と中国の両属という話は全面的に押し出してこない。特に分島・改約の時期になると三司官の毛鳳来などが嘆願などで、琉球を中国の属国として存続させてほしいと要求する。そして東京にいる尚泰を連れ戻し、琉球社会にいる日本人を駆逐してくれという復国運動を執拗に展開するようになる。実際に琉球の復国に関わる中国の武力介入と等しく理解されたのが日清戦争だったのではないかと思う。

●疑獄事件

 司会 琉球処分の過程で明治政府、日本側へのいろいろな抵抗運動が出てくる。一連の併合に対する抵抗や思想と行動をどう評価するか。

 伊佐氏 日清戦争で決着がつくまでは沖縄のなかでの親日派は、学校教育にある教師や生徒たち、それに役人や寄留商人たちで、その他ほとんどは親中国派だった。資料などを読むと、当初、日清戦争の帰趨はどうなるか分からず、沖縄の知識層のあいだには相当な疑心暗鬼が蔓延していた。やがて日本勝利の知らせが届いたとき、太田朝敷などは踊り狂って喜んだという。琉球処分のあと十数年たっても、沖縄内部では沖縄の帰属がどちらに転ぶか分からない不安定なものと、誰もが思っていた。

 赤嶺氏 当時の琉球社会では、日清戦争でもし中国が勝っていれば、当然、宗主権を主張して琉球王国が復活するという期待を持っている。当時の「琉球新報」では親中派の人々が攻撃されるが、親中派は一大勢力であり、多くの士族がなお、中国のバックアップを期待していた。しかしそのような士族が中国からの助けを断念したのが、日清戦争で中国が日本に負けたという事実によってだった。たとえば日清戦争以降、義務教育の普及率が一気に高まった。それは何を意味しているのか。日清戦争における中国という宗主国の敗退は、琉球の将来を方向付ける決定的な戦争だったということである。

 豊見山氏 琉球処分を琉球側の立場からとらえると知識人たちは琉球処分の後、大和の新聞なども読んでおり、新しく明治国家に変わって外交秩序も変化したことを理解している。ところが琉球側は相変わらず、日本と中国との関係を維持したいという要求だった。近世の外交秩序が変わった時、琉球には新しい国家構想、外交構想がなぜ生まれなかったのか。

 金城氏 牧志・恩河事件(薩摩寄りと見なされた琉球王府の通訳・牧志朝忠と物奉行・恩河親方、および三司官・小禄親方が、薩摩藩主・島津斉彬の死後に王府内の反斉彬勢力によって投獄された事件)などの影響があるのではないか。国家構想や斉彬の開明政策の是非を問う政策論争がなく私憤だけで薩摩寄りの役人をつぶすだけ。処分賛成派は日本派になる訳だから、また疑獄事件に巻き込まれるのではないかという恐怖、トラウマに襲われたのではないか。



■5■ 決着ない帰属問題

 赤嶺氏 先ほど私は日清戦争で琉球・沖縄の帰属に決着がついたというようなことを言ったが、元の宗主国である中国社会ではいまだに決着が付いていない。日清戦争後の1898年に、琉球の漂流民が中国側の資料を見ていると、琉球が日本だという認識であれば、日本に送還されるはずだが、「琉球人が漂着してきたので、これまでのような琉球国に返すような手続きをとらなければいけない」と書いてある。日清戦争は中国においては、琉球に関して帰属問題の決着にはなっていない。

●外交戦略反映

 赤嶺氏 そして、帰属問題が浮上するのは戦争中の1943年のカイロ会議で、日本の戦後処理を巡る問題でイギリスのチャーチルとアメリカのルーズベルト、中国の蒋介石が話し合いをした際、戦前に侵略された台湾、朝鮮などは当然返したり、元通りにしないといけないということになる。その時の内容は文書に記録されているが、沖縄のことは出てこない。しかし文書の中に出てこないから話されていないかというとそうではなく、実は蒋介石が話をしている。そして琉球も将来は独立すべきだと言っている。
 日清戦争以降は急激な日本への同化が進んでいく。近代以降は多様性を認める近世と違い、画一的な日本に組み込まれていった。沖縄の歴史は屈折している。沖縄自身が今、沖縄県だという県民意識を持っているが、近代から長い歴史的なスパンを持って屈折した歴史的コースを歩みながら、今日に至ったことを忘れてはいけない。台湾政府はつい最近まで日本の沖縄に対する領有主権を認めていなかった。その中には琉球は独立するべきだという、蒋介石らが話した外交戦略がそのまま反映されている。

 司会 以前に上海で反日デモがあった祭、その街中に「琉球を返せ」というような中国のビラが落ちていた。歴史経過を見ると、単なる荒唐無稽な話と切って捨てることはできない。400年の歴史を振り返って見ると沖縄がきわめて危うい過程を歩いてきた気がする。

●「日琉同祖論」

 金城氏 中国の歴史研究者の中には「沖縄の帰属は国際法上は未確定」という立場を表明している人もいる。2007年5月10日に沖縄タイムス紙文化面に掲載された北京大学の徐勇教授へのインタビューがその例だ。そのような沖縄認識にわれわれ沖縄の研究者はちゃんとした答えを準備しておく必要がある。

 赤嶺氏 「北京周報」にもそのような論説が載ることがあるが、中国だけではなく、アメリカのシンクタンクなどでもいわれている。可能性としてはいつか中国が琉球の帰属問題に対して、蒋介石がカイロ会議で言ったこととは異なる中国への帰属を主張することも否定できない、というようなことを指摘している。
 私たちが日本人、沖縄県民だという意識が定着する中で、周囲の東アジアから見ると意外とまだ琉球という意識で見ている社会もある。台湾での留学中に韓国の人々に言われたのは、中国に朝貢使節が来た際、最初に中国の皇帝に謁見するのが朝鮮で、次に琉球、ベトナム、タイと続く。朝鮮もベトナムも戦後独立したのに、なぜ琉球は独立しないのかと言われた。伊波普猷らの「日琉同祖論」を持ち出して説明しても、日本が朝鮮を植民地化した際に「日鮮同祖論」というまったく同じ論調があった、完全に惑わされていると言われたことがある。

 豊見山氏 伊波普猷は「琉球人が日本民族に入って個性を持ち復活する」というが、日本との「同化」を大前提としている。そういう発想が国際的な視点から見ると非常に分かりづらい沖縄人の行動様式に見える。琉球国の消滅という政治的な大変動があり、沖縄の政治的な位置を帰属問題という議論から問題にすると同時に、もう一つ、沖縄の人間が明治以来、上からの同化だけではなく、下からの同化という形で日本人になろうという動きもあった。それをどう位置づけるか。

●すり寄る心性

 伊佐氏 先ほども言ったが、島津侵攻と違って、琉球処分は全面的で質的にも大きな展開だった。しかし必ずしも押しつけられた皇民化、日本化という側面だけではなく、それとは逆に、沖縄の方から「日本人になりたい」「同じようになりたい」というように日本と同一化したがるような心性があったのも事実だ。日本的なものと中国的なものの文化的な侵透も両方あったと思うが、その際、一番肝心なのは人と人とのコミュニケーションの場合、言葉が決定的に大きかった。伊波普猷が一番の研究分野としたのが言語だったことは、偶然とはいえ象徴的だ。沖縄と日本は、言語的には限りなく同型、同祖に近いという考えや、民族的な神の観念などが、限りなくヤマトに近いということにたどり着いた。これは彼の個人的な思いは別にしても、彼の研究成果から導き出された信念になっていく。それと同時に、近代的な学問で証明していくことが、沖縄では大きな社会的な意味を持ったわけだ。

 豊見山氏 言語が共通しているからひとつの国家という考え方がある一方で、ドイツとオーストリアのように同じ言語でも全然別のあり方もある。民族的にもゲルマン民族という共通性を持ちながら違う国家形態を持っている。沖縄の戦前の知識人たちが言語の共通性や民族の近接性性ということで選択肢を決めるという考え方を、同じように今のわれわれもやっていないか。大和との関係を固定化せずに、世界史的に見ればもっといろいろなあり方があったはずだ。それが薩摩侵攻400年、琉球処分130年という歴史的な大きな節目を考える大きな意味ではないか。
 歴史研究者は常に行っていることだが、過去のあり方を丹念に見ることで400年間をとらえ返し、現在のいろいろな可能性をとらえ返すきっかけになる。固定した大和との関係を解きほぐすような作業が必要だと思う。



■6■ 400年解きほぐす思考を
 司会 400年を振り返って最後のまとめを一人ずつ。

●底流を丁寧に

 豊見山氏 私のような歴史研究をしている立場からすると、今後の方策として「これが処方箋です」とはなかなか言い切れない。むしろ歴史はさまざまな形で存在し、その可能性をくみ取り提起できるかが歴史研究者としては重要。これまでの袋小路に入った見方をどう突破するかは、とても回りくどく見えるが、逆に歴史をとらえ返すことが近道になるかもしれない。その中で大事にしたいのは、王朝などの支配層やエリート文化の研究のほかに、もっと庶民や民衆のありかたがこれまでどうだったかを掘り起こす必要があるということ。佐々木笑受郎らが明治の旧慣期に農村で聞き取りをした際に、農民からは「世替わりで重い労役(夫役)が無くなったのが良かった」という言葉が返ってきた。つまり一種の「解放」や「文明化」という側面も確かに見られる。社会の複雑な状況をとらえないと、政治的な大変動と同時に底流や底辺の出来事を丁寧に見ていく必要があると思う。

●500年来の友好

 金城氏 島津侵攻後の琉球の両属状態はある意味でごまかしの政治という一面もある。冊封使が来たら島津支配を隠すなど、国家的な隠蔽政策を続けている。為政者の立ち居振る舞いは、長いものに巻かれろという形で、現実変革の主体的な活躍の場が狭められている。処分により約500年にわたる中琉の平和的な友好往来の歴史が人為的に断絶させられたことは大きい。沖縄の民衆はその後、兵士として日本軍の一員になり、日本のアジア的侵略の一員として中国を攻める。処分以降はそれまでの友好の歴史とは逆の歴史を歩んだ。500年来の友好がなぜ子孫たちに伝わらずに断絶したか。今あらためて『歴代宝案』のように中琉の交流史を知る記録を掘り起こそうとする動きもある。歴史はいろいろ見直されていくと思う。そういう地道な営みを通して平和的な友好往来の歴史を現代に転生させる努力を重ねていく必要がある。

●新しい型の人間

 伊佐氏 過去数百年の沖縄の歴史を見ていると、主体的な自己決定ができず、いつも外部から「される」対象であったという実感は否めない。そのなかにあって、琉球処分以降はヤマト化によって、自分たちの方から一種の媚びを売るように身をすり寄せていく側面があったことも事実だろう。私たちにとってヤマトというのは、もはや切っても切れない存在であることは言うまでもない。そうであればなおのこと、少し離れた視点から他者として見る必要性を、過去の歴史は我々に教えているのではないか。たとえば、沖縄学の研究史を振り返るとき、起源論や源流史がつねに中心的な課題としてあって、たえずヤマトと「同じ」かどうか、「同祖」かどうかに目がいく。そこを解きほぐして、もっと多様な回路をしつらえるような思考が切実に求められているのではないか。そうでないと運命史観のような呪縛から逃れようとしながらも、結局はそこへ行き着いてしまうことにもなる。さきほど斬首された個性的人物・謝名親方の話が出たが、いつももどかしく思うのは、温厚さや優しさだけが取りえの沖縄人では、どうしようもないということだ。沖縄に新しい型の人間がもっともっと普通に出ないかぎり明るい展望は開けないのではないか。いつの世も主体は人間であって、そこからしか変革は始まりはしないのだから。

●「認同」の変化

 赤嶺氏 先ほど伊波普猷の言語の話が出たが、伊波は琉球の方言が大和の言葉と同じ祖型を持つような言葉だと位置づけた。だが最近の研究者では「琉球方言」ではなく「琉球語」という言い方をする人も出てきている。「琉球語」は祖語は日本語であることは間違いないが、語彙や語法でどうしても日本語では解決できないものを持っている、と言う。伊波の「日琉同祖論」の牙城的な方言研究の領域でも変化が起こっている。日本本土とは異なる歴史・文化が沖縄らしいユニークな特徴で、それが日本の文化的位相を多様化していることをしっかり認識すべきだと思う。
 私が留学した台湾大学で、台湾史の研究者で曹永和先生に言われたのは、「通史を書きなさい」ということと「過去の歴史というのは未来を照射する」ということ。台湾、中国ではアイデンティティーを「認同」と書く。今私たちが持っているアイデンティティーが過去からそのまま来たのではなく、各時代でアイデンティティーは変わっていくということを教える言葉が「認同」。将来の沖縄が変わっていく時のために「通史をやりなさい」と言われた。
 今の社会は自分や親の世代が経験した差別を経験していない若い世代が多い。大学などでアンケートをとっても文化などで沖縄県民であることに誇りを持つという回答が圧倒的に多い。これは以前なら考えられない話だ。日本社会への同化が進む中で、沖縄がいかに沖縄らしい県民意識を持ちながら歩んでいけるかが大きな課題だと思う。そのためには過去の歴史をしっかり読み解くことが必要。アイデンティティーの変化を見据えながら歴史を考え将来を照射するべきだと思う。



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