Toppage Critic 図書室 リンク Emigrant 風游blog
風游

THE SEVENTH EMIGRANT

テーゲー
沖縄を考える 沖縄で考える
島豚 山羊汁 八重山 波照間  サバニ 永良部百合の花 赤田のみるくウンケー 塩屋湾のうんがみ フクギ マーラン船 シーサー エイサー(高橋治『星の衣』より) 二見情話(高橋治『漁火いじゃいび』より) 城間松明大綱引 路傍のシーサー[石獅子]

2004年以前のEmigrant2005年のEmigrant2006年のEmigrant2007年のEmigrant2008年のEmigrant2009年のEmigrant2010年のEmigrant2011年のEmigrant2012年のEmigrant2013年のEmigrant2014年のEmigrant2016年のEmigrant

【2015.11.29】 加藤登紀子、辺野古ゲート前に登場!古謝美佐子も!

 不謹慎かも知れないが、「したいひゃー」と叫ぶ!
 なんと加藤登紀子が、島唄の第一人者であの「童神」の古謝美佐子ともども、辺野古新基地建設阻止闘争の辺野古・キャブシュワブ・ゲート前に登場!前日(28日)のコザ・沖縄市での「ほろ酔いコンサート」の余韻さめやらぬ中、新基地絶対阻止の仲間を激励に駆けつけてくれた。
 Emigrant【2015.05.19】にも書いたが、 24時間体制でゲート前闘争に寝泊まりしていた山城博治が、繰り返し聞いた「美しき五月のパリ」(原曲不詳:加藤登紀子が作詞した)に感激し、その曲をもとに<沖縄 今こそ立ち上がろう>を作詞した。
 病に倒れた数ヶ月の闘病生活を乗り越え、今また復帰し、ゲート前に立ち続けている(多くの仲間から、「博治!少しは休め!」という声が湧き上がっているが、彼は「闘うことがリハビリ!」とでも言うように、闘いの現場から離れようとはしないが)。
 “辺野古・シュワブゲート前で、加藤登紀子とスクラムを組んで歌う山城博治を想い描いている”という“夢”が・・・・・・・・・・・。

山城博治!!YouTube with加藤登紀子&古謝美佐子
琉球新報2015年11月29日“加藤登紀子さんが歌でエール 辺野古ゲート前で市民に”

【2015.11.11】<今こそ「県外移設」を 新基地阻止への道筋として 高橋哲哉>を読む

 予想されていたこととはいえ、日本政府は警視庁機動隊を派遣!暴力装置の大動員である。「海の安全」を標榜する海保が、まさしく「沿岸(国境)警備隊」として安倍の「私兵」化(=海イヌ)していることが満天下に明らかになって久しい。警視庁機動隊派遣も「沖縄県警からの要請」なる言辞を弄しているが、県警上層部(本部長を始め「警視正」以上)はすべて「国家公務員」=国家公安委員会が任命権者である。

 かつて太田昌秀県政の時、「日本政府との戦世いくさゆ」と比喩的に語られることもあった。しかし、もはや「比喩」の域を超えて事態は突き進んでいる。毎日のようにゲート前では、負傷者、不当逮捕者が警察権力によって生み出されている時ではあるが、標記のコラムが、琉球新報の2015年11月2-3日の二日間にわたって掲載された。
 もう野村・知念ネタと同様に、「高橋ネタ」も封印しようとしたが、「新基地阻止への道筋として」と言われてしまっては、一言、言わずにおかない(苦笑)という心境にさせられた。
 「移設論に与してはならない」ことをまたしても言わなければならないことは空しい。記者がつけた見出しであろうが<沖縄の要求に呼応/沈黙する「本土」に風穴>とか<安保解消と矛盾せず/問われる「本土」有権者>とかは、対象との距離においてその有効性・無効性が測られるという、あらゆる言説が持つ困難性を、「配慮」しているような装いを漂わせている。しかし、それならば安保賛成の80%?を「説得する」よりも、まず2000万人の人々を辺野古へ、新基地建設阻止の闘いに起ち上がらせることに最大限の智恵を絞るべきではないだろうか。

 高橋は「大城立裕氏と中里友豪氏が引き取りに好意的だったのに対し、新崎盛暉氏と仲里効氏からは一定の留保ないし疑問の提起があった」とし、両氏に「私見を述べておきたい」と続ける。もっとも、過半は新崎盛暉への言及に終始している。これは新崎が「引き取り(運動)」に、やや腰が引けていること(高橋が繰り返し引用する「『どこにも基地はいらない』という主張もお題目として力を失っている」という新崎の主張そのものがそうした無力さを醸成させている)に対してつけ込まれてしまっている、としか思えない。
 高橋も「私たち市民も現場に行ける人は現場で、行けない人は各自の場所でできることに力を尽くしたい」と、それ自体、至極まっとうな意見を開陳しているが、しかし、この人はおよそ運動とか闘いとかとには無縁に過ごしてきたのではないか、という疑念をぬぐい去ることが出来ない。

 辺野古新基地建設阻止は「沖縄問題」ではない。日本政府と我々の問題でもある。今、辺野古は一人でも1時間でも闘いの参加を呼びかけている。そして、辺野古に行けない人たちは、首都圏であれば日本政府-防衛省(さらには海上保安庁から、「取り消し」を無法にも取り消し、あまつさえ「代執行」さえ目論む国交省)への抗議行動に起ち上がるべきであろう。こうした時にも、移設論に乗せられた「引き取り運動を行うべきだ」と、すべての日本人に訴えるのであろうか、「辺野古新基地建設阻止と引き取り運動は矛盾しない」と。

 “米国はあくまで、自国の利益のために在沖・在日米軍基地を利用しているにすぎない。安保関連法案に反対するだけでなく、日米安保条約そのものを問い返していく必要がある。/それに対し、米軍は抑止力になっている、日米安保条約は必要だ、と言うなら、沖縄に米軍基地を集中させ、押しつけるのではなく、ヤマトゥに暮らす人々は自らも基地負担を担うべきだ”(目取真俊「図書新聞」20150801)。
 この程度の見識が何故持てない、高橋さん。

 そう思い巡らしていたら、月刊『琉球』11月号は巻頭に「奴らがやってきたら北へ走ろう」(照屋勝則)と題する巻頭言を次のような言葉で締めくくっているのを読んだ。
 「こころざしのある市民が一人でも多く、毎日でなくてもいい、一時間でも二時間でもいい、自分の都合のつく日、都合のいい時間に、ゲートの座り込み封鎖に参加すれば必ず辺野古新基地建設は阻止できると確信する」。
 「日本にいる我々」は、「奴らがやってきた!さあ、南へ!」を合い言葉にしたいものだ。


【2015.10.29】 沖縄独立-『亡国記』を読む

 斎藤美奈子・小出裕章推薦ということで、「禁」を破って単行本、北野優『亡国記』(現代書館20150815)購入(笑)。

 南海トラフ・浜岡原発事故・日本滅亡を背景に語り継がれる、日本脱出のロードストーリー。北海道はロシアが、本州・四国はアメリカが、九州は中国が「占領」。いち早く東京を脱出し北海道に逃げ出した安倍を始めとする政府閣僚・高官はロシアに逮捕され国際法廷で有罪に処されるという話も織り込みながら(ここに焦点を充てれば、結構面白い「国際謀略小説」が出来上がったと思うが)、その中で、以下のような「沖縄独立」が語られる。
 時あたかも、安倍・日本政府による「惨い」としか言いようのない沖縄ヘの仕打ち=辺野古新基地建設強行が開始された。

     
    九州からボートピープルとなった人々は、海流の速い対馬海峡を避けて、日本海へ入るグループと東シナ海を経て韓国や中国へ逃れるグループ、そして南西諸島沿いに沖縄を目ざす人々に分かれた。
 その沖縄が、1972年に本土復帰を果たした5月15日を期して独立宣言したニュースは、ポーランドの田舎町にもビッグニュースとして伝えられた。2期務めた前知事に代わって3年前の選挙で当選した安次嶺知事が、地震による津波の被害でも死者を出さず、日本で唯一、原発事故の直接的影響を受けずに行政機能を正常に遂行している県の首長として、「沖縄共和国」の独立を宣言したのである。これに沖縄県議会も全会一致で賛成し、安次嶺知事を初代大統領として承認した。安次嶺知事はこれを受け、6ヵ月以内に全国民の直接投票による大統領選挙を実施し、その後憲法制定義会を召集することを約束するとともに、国連への加盟を申請した。
 九州を占領した中国軍も、七県の実効支配に手いっぱいで、離島の沖縄まではその支配が及んでいなかったのだ。独立宣言を受けて慌てて尖閣諸島の支配を固めるのが精いっぱいだった。中国政府はこの動きに反発し、ただちに外交部長が、沖縄は九州の一部であり、中国政府の管轄下にあるとする談話を発表した。しかし、中国の軍事介入を阻止したいその他の国々は、アメリカ・ロシア両大国をはじめ、韓国、台湾、モンゴル、フィリピン、ベトナム等東アジアの国々や欧米諸国を中心に、百カ国以上が沖縄共和国の即時承認に踏み切った。それで、中国としてもへたに動くと国際社会から一斉砲火を浴びかねなくなり、沈黙を守る以外になかった。そうした中国を意識した安次嶺大統領は、尖閣諸島の領土問題は半永久的に棚上げにして、関係国による資源の平和利用に向けて話し合う用意があると発表することも忘れなかった。
 そうした一連の動きのなかで安次嶺大統領は、アメリカに対してすかさず、三年以内の米軍基地全面撤退を要求し、日米安全保障条約が事実上消滅した今、沖縄共和国は自主独立・非武装・非同盟を貫くと宣言し、今後は観光立国として自立すると言明した。沖縄共和国をいち早く承認してしまったアメリカ政府としては、今さらそれを取り消すこともできず、またへたをすればロシアの介入も招きかねないと判断し、早急に交渉のテーブルに着くと約束せざるを得なかった。
 周秀麗から来たメールによると、沖縄の扱いは、米中の裏取引では、中国は実効支配をしない、アメリカはこれまでどおり基地を使用するということで折り合いをつけていたということで、沖縄の独立宣言はアメリカ・中国両国にとって想定外の動きだったようだ。また、そうした米中両国の動きを察知したロシアが、東アジアにおける米中の力の均衡にくさびを打ち込むべく、密かに沖縄独立を後押ししたという噂も一部で流れているが、真偽のほどは分からないという。周秀麗は、いずれにしろ日本人も、大国の狭間で機に乗じて小国としてのアイデンティティを確立した沖縄の人々のようなしたたかさをもっていれば、国家の滅亡を招くような原発事故を起こさずにすんだかもしれないとコメントしていた。
 大輝は沖縄独立というニュースに接して、内心快哉を叫んだ。この1ヵ月半、悪夢のようなニュースばかりに接し、また自身、翠をなくし夢のなかを漂うように毎日過ごしてきただけに、久しぶりに聞く目の覚めるようないいニュースだった。と同時に、今自由を謳歌している150万の「沖縄国民」を羨ましく思うのだった。確かに周秀麗のいうように、日本人ももう少ししたたかになって、第二次大戦後、アメリカ政府のいいなりにばかりならずに、「原子力の平和利用」などという甘い言葉に惑わされ、原発を受け入れることによって再び核の脅威にさらされることを断固拒否していれば、フクシマの悲劇も、ましてや国民の4分の1が死亡し、今なお同じ数の人々が生死の境をさまよい、国家滅亡へ至るシマオカの惨劇も招かずにすんだはずだったのだ。
 
     

【2015.10.15】『越境広場』創刊0号(2015年3月)を読む

 敢然と日本政府にノンを叩きつけた。日本政府がどのような悪辣な手段を取って、沖縄を踏みつけにしようとも、翁長知事を先頭に沖縄民衆の闘いは微動だにしない。翌14日、早朝、キャンプシュワブ・ゲート前に500人が駆けつけた。今や立法院議員にも擬される多くの県議たちの姿もある。
 もはや、闘いは新基地建設阻止・普天間即時閉鎖に留まらず、嘉手納基地を含む全基地撤去!の声さえ上がる。

 普天間全ゲート封鎖の闘いを思い起こして、全島ゼネストへと、論議されんとしている。

 こうした中、いささか旧聞に属するが(どうも体調が悪く……と言い訳ばかりですが)、『けーし風』No.87(2015.07)で新城郁夫は「備忘録⑪『在る』ことへの問い」において、6月に開催された「愛楽園(ハンセン病療養所)・交流会館開館記念シンポジウム」の報告から「沖縄を生きる私たち自身が、私たち自身の負の歴史に向き合うことなしに、沖縄に関わる『構造的差別』を撤廃することはできない」と書き出し、『越境広場』創刊0号の紹介に至る。
 『越境広場』では、辺野古ゲート前でプラカードを掲げて一人でさりげなく行動している新城さんが姿も語られている。

 この『越境広場』は発行直後の4月に入手していたにもかかわらず、「見出し」を眺めただけで友人に「勢い」(苦笑)で譲ってしまった。まぁ、それほど、この雑誌を「広めたい」という想いに駆られていたとも言える。
 それはともかく、新城郁夫が共鳴した、引用した二つの論考、崎山多美(文責)の「創刊の辞」と、呉世宗の「『在』を生きる――沖縄の朝鮮人に触れる」をアップ。

 個人的には森崎和江に言及した二つの論考(佐藤泉「からゆきさんたちと安重根たち」、仲村渠政彦「〈記憶〉と〈場〉が喚起するもの)をはじめ、すべてが読み応えのあるものとなっている。そもそも「雑誌」は、熟読と粗読とが入り交じるものだが(早いものは一日で読み終わる!)、この『越境広場』は、何日、鞄の中に入れていたことか。

 年内には『創刊号』が発行されると聞く。
 50年近くも封印された「民族自決権」が、2008年のシンポジウム以降の「自己決定権」の遍在を経て、復活しつつある。
 併せて、琉球新報20150930の「知事国連行動 成果と課題4」で書かれた上村英明の「琉球と日本、対等に/国際法の視点から主張」もアップ。

 例によって、『越境広場』創刊ゼロ号(2015.3.25)の目次を。

     
   『越境広場』創刊ゼロ号・目次
◆創刊の辞 崎山多美
◆特集1〈沖縄&アジア〉交差する記憶と身体
□往復書簡 仲里効→孫歌 《ずれて》と《つなぐ》を巡って 仲里効
       孫歌→仲里効 琉球共和社会の住民として    孫歌
□論考
  丸川哲史 「済州島の歴史の旅―東アジア冷戦/平和の起点」
  佐藤 泉 「からゆきさんたちと安重根たち―森崎和江のアジア主義」
  呉世宗  「『在』を生きる―沖縄の朝鮮人に触れる」
  崔真碩  詩「サラム ひと」「ウシロカラササレルを越えて」
  冨永悠介 「映画『無言の丘』における歴史叙述 ―経験がひらく歴史と語られなかった経験」
  桜井大造 「テント芝居集団『台湾海筆子』報告」
  仲村渠政彦「<記憶>と<場>が喚起するもの―北九州と沖縄/高江と台北」
◆特集2 阿Qと琉Q
  中里友豪インタビュー 「『創造』の遍歴と『人類館』のカクメイ性」(聞き手:西蔵盛史子)
  金誾愛  「演劇集団『創造』―草創期の活動について」
  北島角子 「ウチナーグチ版・憲法九条」
  波平恒男インタビュー 「近代を問う、歴史を再審する」(聞き手:有銘佑理、與儀秀武)
□状況への発言
  目取真俊 「沖縄県知事選雑感」
  與儀秀武 「沖縄を生きる批評」
□トピック
  李志遠  「川満信一『沖縄発』韓国語版刊行にあたって」
□コラム「交差点」
  大田静男 「ハ病の旅」
  上原こずえ「生存の痕跡として戦後史を学ぶ」
  玉城江梨子「もう一つの沖縄戦」
  仲程香野 「台湾で沖縄を考えた」
  小田 剛 「我革命する、ゆえに我あり」
  親川裕子 「基地・労働・格差」
  有銘佑理 「越境広場に集う」
□文化レビュー
  映画・映像 名嘉山リサ「琉球列島米国民政府制作フィルムの現状について」
  美術・造形 町田恵美 「場所からみえること」
  舞台・芸能 真栄里泰球「組踊への多様なアプローチ」
□鏡と窓
  大嶺沙和 「極私的なメモ」
  我部 聖 「沖縄を拓く言葉」
□編集後記/奥付
[装幀 真喜志 勉]
 
     
 
 『越境広場』創刊ゼロ号:創刊の辞

沖縄を交差点として

 この度、予てから準備を進めてまいりました、沖縄を取り巻く状況的な課題と向き合いこれからの沖縄と世界を模索する総合雑誌「越境広場」を創刊する運びとなりました。創刊に当たり、ここに、雑誌刊行の趣旨を記しておきたいと思います。
 戦後70年が経過しましたが、世界はテロとの紛争の絶える間はなく、暴力的に進行する資本のグローバル化は、政治経済ばかりか人々の生活観や思考を支配するまでに浸透し、一部の既得権者のみが利権を貪る極端な格差社会が構造化しつつある中、国民国家間の露骨な覇権争いはいよいよ激しさを増しています。そのような現実を前に、世界の政治、芸術文化、思想を巡る状況はこれまで以上に厳しく、予測不可能で、不透明、混沌とした袋小路に嵌り込んでいくように見えます。特に、地政的に大国の狭間に位置する沖縄が、基地問題や領土問題をはじめとして、東アジアにおける国家間の緊張関係から理不尽にも危機的な状況を強いられている現在、沖縄の歴史的体験を自覚的に表現し思想化することは、この時代を生きる私たちにとって抜き差しならない重要な課題だと思われます。
 とはいえ、沖縄という場所で沖縄を表現していくにはいくつかの厚い壁や深い陥穽があります。当面危惧される問題のひとつは、沖縄の差別的歴史と現在の政治的状況への危機感のあまり一方的な被害者意識のみを声高に叫ぶ、という硬直した思考に陥ってしまうことです。そのため、権力者に対する抵抗の表現であったはずの言葉がぎゃくに他者を傷つけ、挙句に排除する、という事態を招いてしまうことがあり、また、過剰な自己防衛のための短絡な表現が横行するという事態も散見され、それらの表現がかつて権力の政治がマイノリティの人々に対して行なってきた暴力にも似た形でひと括りにされた集団や個人に向けられる、という行為を誘き寄せてしまうことです。そのような無自覚な「正義」の言葉がまかり通る実態が、現在の沖縄の言説空間の複雑さや多様性を覆い隠し、単線的で一方的な表現の狭隘さを露呈しているようにも思われるのです。
 例えば、沖縄の過去の抵抗運動のなかで連帯のためのスローガンであった「島ぐるみ」や、今回の知事選における「オール沖縄」は、頭ごなしの抑圧的権力の前に沖縄の人々がそれぞれの立場や事情を越え結集するためには、ある面、必要かつ説得力のある言葉でした。しかし、抵抗運動として力を発揮したイデオロギーの言葉がそのまま対集団や個人に向けられるとき、かけがえのない個人であるはずの他者を集団としてひと括りにし、「批判」し、排除する、という側面があることに私たちは敏感であらねばならないと思うのです。最近、声高に謳われるようになった「沖縄的アイデンティティ」という表現も、抵抗の言葉としての意義とは裏腹に似たような危険性を孕んでいるように思われます。さらに、触れることが困難な複雑な事態として、構造的に与えられた利権には無自覚なまま被害者を代弁する、という欺瞞的な「正義」の言葉がそれらしくふるまわれる場面に出会うことが多々あることです。これはとても微妙な問題ですが、沖縄内部における言説空間の複雑に屈折した実態を私たちは看過することなく注意深く見つめる必要があります。それら雑駁な表現が通りよく「正当化」され思想の言葉として語られるとき想像的表現は先細りになるほかはないと思われるからです。
 そのような思考の陥穽を避けるため、私たちに求められているのは、政治的抵抗のメッセージを踏まえつつも、一方的な「正義」の言葉だけを声高にふりかざすのではなく、困難な状況を直視し乗り越えるための新たな可能性を孕む、しなやかで、強く、広がりのある表現を根気よく丁寧に紡ぎ出すことではないかと思われます。その表現の可能性を、先人の深い歴史体験や著述や語りを学びの手引きとし、貴重なその遺産をひと握りの権威者の特権物とすることなく、より幅広い視野で「学びなおし」ながら、これからの時代を担う若い世代に受け渡すこと、そのことが、今、強く求められているのだと思うのです。
 その課題と正面から向き合うため、私たちは、思索の源泉を沖縄の歴史体験から汲み取ることを前提にし、沖縄を活動の起点としながらも、沖縄を越え世界とつながる思想を獲得するため、近隣の、台湾、韓国、中国、そして「日本」など、東アジアとの交流を広げ、つながることの重要性に思い至りました。そこで共通する問題意識を持つ仲間と集い、それぞれに異なる歴史や文化状況、または複雑に絡む加害と被害の歴史体験をもつゆえの行き違う立場があることを認め合いつつも、孤立せず、孤立させず、つながり求め合い、粘り強い思索を深めてゆくこと。めまぐるしく流動化する政治の動きに安易に妥協することなく、短気にも悲観的にもなり過ぎず、そのときどきの状況への見極めと判断を再認していくこと。そのために、国家権力が引いた領土の境界に自足せず、境界を越え、お互いに交差し、往還し、柔軟な想像力を身につけること。そして、そのための場を創り出す必要があることを痛感した次第です。
 以上の問題意識から、私たちは、思索と表現のトレーニングの場として雑誌の発刊を企画しました。そこで紡がれた表現が時代の困難を越えるエネルギーとなり、さらに次の時代へと開かれ、いくつもの新しい出会いを促す活字媒体としての役割を果たすことができますよう、遥かな願いを込め、ここに「越境広場」を刊行いたします。
(文責 崎山多美)


沖縄の朝鮮人に触れる
「在」を生きる



呉 世宗

 沖縄の朝鮮人について語ることは、むずかしい。統計的に言えば、在沖縄の朝鮮人は2012年の時点で750名強、沖縄の人口比率で言うと0.0005%ほどである。多いか少ないかと言えば、間違いなく少ない。しかしながら、彼/彼女たちについてその歴史的背景もふまえつつ語ることには、数字上の少なさだけに由来しない別の難しさがあるように思われる。とりわけ沖縄戦の際に連れてこられ、そのまま留まった朝鮮人はそうであろう。
 まず沖縄の朝鮮人を何と呼ぶかという問題がある。いわゆる日本本土であれば、大雑把に言って、1945年8月15日以降も朝鮮に帰還することなく日本に留まった朝鮮人たちを「在日」朝鮮人だと言うことができる。言うまでもなく「日」本に「在」る朝鮮人という意味でである。
 しかし沖縄は米国の統治下にあったため、日本の潜在主権が確認されていたとはいえ、施政権返還までは朝鮮人たちを「在日」朝鮮人とは言えない状況にあった。むしろ日本復帰前の沖縄では、「在日」とは「日本本土」にいる沖縄人を指すものとして用いられていた。例えば1950年9月7日付の沖縄タイムスに「在日学生に送金できる」という記事が掲載されたが、そこでの「在日」とは日本本土で学ぶ沖縄出身の学生のことであった。これは「在日資産」であれ「在日同胞」であれ、全て同様であった。つまり、米軍によって直接統治された地域であった沖縄では、「在日」とは、“日本に在る「他者」”という今でいうところの「在日(朝鮮人)」と相通ずるような意味合いを持った一方で、それが指し示す対象は異なっていたのである。そのような歴史的状況を踏まえるならば、復帰前の沖縄の朝鮮人に「在日」という言葉を用いることは語弊があることになる。
 沖縄を占領した米国軍が、日本と分離されたことを意識させるためにこの地域をあえて「Ryukyu」と名付けたことからすれば、復帰前は「在琉朝鮮人」が適切となろうか。あるいは、沖縄戦後の短い時期を除いて、日本復帰が多くの住民の要望であったことや、1960年以降の復帰運動の中心だった復帰協が「沖縄県」「沖縄県民」を使おうという方針を掲げたこと等を念頭に置くならば「在沖朝鮮人」がふさわしいであろうか。いずれにせよ「在日朝鮮人」という呼称に代えて、沖縄の朝鮮人を「在沖朝鮮人」ないし「在琉朝鮮人」と名づけるのは、おそらく間違いではない。またそのような呼び方は、沖縄戦後から復帰前の間だけでなく、復帰後も使用しようと思えばできなくもない。
 とはいえ「在琉」は時期的な限定を感じさせるし、また現在の琉球独立に関する議論に捩じれた形で接続されてしまう危うさもあろう。また「在沖」だと、日本の中の一地域を指すようなフラットさもあるが、悲劇の島、基地の島といった、どこかそれ一色で染め上げてしまうようなイメージを喚起することで、その中に朝鮮人を埋没させてしまう恐れもなくはない。そのように、この地域をめぐっての政治や運動がもたらした呼び名の問題が、沖縄の朝鮮人を名づけることのむずかしさとも結びついて、彼/彼女について語りにくくさせている要因の一つになったように思われる。
 だがそのような名づけの問題に先立って、彼/彼女を語ることを困難にし、不可視化してしまうより深刻な要因は、朝鮮人たちが身分のない状態に「在」ったことであろう。沖縄の朝鮮人たちについては、どれほどの人が連れてこられたかの公式的記録が残されなかったために、沖縄戦後も留まった人の把握が困難となった。加えて沖縄戦によって戸籍がほぼすべて焼失したことも、把握をますます難しくさせた。そういったことが沖縄の朝鮮人たちの身分の確認や証明を困難にした。というよりも彼/彼女たちには、法的地位がなかったと言ってもいい。元「慰安婦」であったことを日本で最初にカミングアウトした裵奉奇(ペポンギ)さんも、無国籍者の一人であった。また1966年6月2日付の韓国の『東亜日報』には、「望郷に涙する無国籍の「沖縄」僑胞現地座談会」という記事が掲載されている。その座談会にも、駐日韓国大使と三人の「無国籍」の「沖縄」の「韓国人」が出席している。最年長の韓昌玉(ハンチャンオク)さんは、沖縄戦の際にサイパンから沖縄へ召喚されたこと、戦後も沖縄に留まり子ももうけたが、戸籍、国籍がないために親子ともに就職が困難であること、また身分不明のため帰国も帰化もできないことなどを訴えている。こういった事実や関連した他の記事を読むと、「在琉」あるいは「在沖」朝鮮人とは、永住権をはじめとする法的地位の保障がなされず、無権利状態のまま、そのため生活の不安を常に抱えたまま、ただただ「沖縄」ないし「琉球」に在る者たちだったということがわかる。つまり「在琉」であれ「在沖」であれ、朝鮮人たちが「沖縄」ないし「琉球」に在るということは、無国籍状態、無権利状態に投げ出されていることと、ほぼ同義だったのである。そしてそのような無権利状態が彼/彼女らを制度的に不可視化した。
 制度的に不可視化されたとはいえ、彼/彼女らは常に法の外に例外的にあったのではなく、権利的な保障はされないが、法の暴力的な執行には晒されていること、場合によっては退去を強制されうる対象であった。法の外ではなく、その中にあり、法によって常に脅かされていたのである。だとすれば彼/彼女たちは自分たちのいる場所を、そこが「沖縄」と呼ばれようが「琉球」と呼ばれようが関係なしに、どこからも救いの手がさしのべられないような、つねに極度の不安を覚えさせる場として意識していたのではなかろうか。
 それに加え、いつ何時繰り返されるかもしれない恐怖とともに沖縄戦の記憶を想起させる場が、彼/彼女たちにとっての「沖縄」でもあったはずである。連行され食事も与えられず壕を掘らされたり、スパイ容疑で殺された仲間を目撃したり、「慰安婦」にさせられた等の記憶と恐怖である。名づけの困難さや不安定的な地位にあったことによって元々見えづらかったことに加え、そのような法の脅威や戦争の記憶に対する怯えが、沖縄の朝鮮人をして、異物のあることを感じさせないように、他者などいないかのように社会の底辺に自らを沈み込ませるよう作用し、結果的に沖縄の朝鮮人たちをますます潜在的な存在にしたことは想像に難くない。
 もう一方で沖縄の人びとの彼/彼女たちへの関心が低かったかと言えば、一概にそうだとは言い切れない。例えば沖縄戦の際に設置された「慰安所」の場所を丹念に調べ上げ、それに基づいて作られた「沖縄慰安所マップ」などは、沖縄の朝鮮人に対する持続的で強い関心がなければ決して成し遂げられなかった成果であろう。とはいえ、儀間進のように復帰前から在日朝鮮人に関心を寄せた人はいたものの(『沖縄の先生たち』)、やはり沖縄においては、沖縄の中の他者、内なるアジアにはそれほど目が向けられなかったようにも思われる。特に沖縄戦後の状況において、そのように感じられる。この点これから検証する必要があるだろうが、例えばそれは、ここ最近沖縄内において議論を賑わせてい「独立論」にも見受けられる。2013年に設立された「琉球民族独立総合研究学会」の会則第四条は、「本会の会員は琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族に限定する」と書かれてある。この一文を読むと、あたかも「琉球」にはアメリカ人、日本人、「琉球人」しかおらず、戦争や米軍、あるいは日本政府による被害や負担を被っているのは「琉球人」だけであるかのような印象を受ける。関連して日本本土に基地をお持ち帰りいただくという議論も、基地の移転先に日本人の他者たちがいないことを暗黙の前提としている可能性があり、その点で独立学会の会則とどこかで繋がってもいよう。
 しかし、「琉球」という名が米軍によって政治的に利用され、「琉球人Ryukyuans」もまた、例えば出入域管理を規定した米民政府布令125号でなされたように、無国籍者等を排除することで厳密化された概念なのであれば、「琉球」であれ「琉球人」であれ、いやおうなしの政治性を負わされている。つまり「琉球」「琉球人」とは悠久の歴史からのみ生成したのではなく、現代史のなかで人為的な変形を被った概念だということである。そうであるならば排除されることで影の中に追いやられ、影の中で生き、もしかしたら現在もそうであるかもしれない沖縄の朝鮮人たちこそが、逆説的に「琉球人」や「沖縄人」を支えているとも言える。であれば琉球-沖縄の歴史やそのアイデンティティを考える際、朝鮮人たちを無視したり、単なるよそ者の一人として捉えることは決してできない。もちろん「民族的ルーツ」に組み込むことは、より問題である。
 ではどのように接し合うべきか、を考えるとき、次の証言が参考になるかもしれない。

   もう我慢できない。兵隊が[慰安所に]並ぶのを見て、
   いやなんていうもんじゃないよ。私を助けて!と叫び
   たい気持ちだった。(『戦場の宮古島と「慰安所」』)

 これは宮古島にあった「慰安所」に並ぶ兵士たちを目撃した、ある女性の証言である。引用した証言は、犠牲を他者(朝鮮人)に転嫁したことの罪悪感の現れだったかもしれない。しかし「私を助けて!」というどこか奇妙な表現が、証言者だけでなく「慰安婦」の声としても聞こえてくるのは、「慰安婦」の苦しみが深いところで共有され、それが自らの心に刻まれた深い傷として、したがって消え去らない傷として刻まれたからこそであろう。
 沖縄の朝鮮人に関心を向けることは、その歴史的背景から、もしかしたら心理的な負担がかかることなのかもしれない。しかし引用した証言に読まれるように、他者の経験を自らの経験とすること、傷としてであれ他者とともに在ろうとすることは、「在」の意味を双方向から捉えかえすことではないだろうか。そしてそれは、その場にいるままで起きる越境でもあろう。沖縄の朝鮮人については、「在沖」「在琉」「在日」のいかなる名で呼ばれようとも、特異な歴史も内包している「在」に着目すべきだと思う。

 ◇お・せじょん 1974年生まれ。琉球大学法文学部准教授。著書に『リズムと抒情の詩学―金時鐘と「短歌的抒情の否定」』(生活書院、2010年)、「姜舜『なるなり』論―民衆、朝鮮部落、言語戦略としての二つの「翻訳」(『日本東洋文化論集 琉球大学法文学部紀要』20号、2014年)。

 

知事国連行動 成果と課題□4

上村 英明(うえむらひであき 1956年熊本市生まれ。早稲田大学院経済学研究科修了。現在、恵泉女学園大教授。編著書に「市民の外交―先住民族と歩んだ30年」(法政大学出版局)など)

琉球と日本、対等に
国際法の視点から主張


 9月21日にジュネーブの人権理事会で行われた翁長雄志知事の声明発表は、まさに歴史的瞬間であり、特に同席した者としては、言葉に込められた思いに感動すると同時に、その実現に向けて自らの責任を自覚し、襟を正す瞬間でもあった。ともかく、もうすでに多くの識者が的確な評価をされていることを自覚し、ここでは大きな枠で意義と課題を感想として書いてみたい。

横軸への発信
 意義は、沖縄・琉球の持つ問題が、国際社会に向け、横軸で発信されたことである。沖縄対日本、沖縄対米国というこれまでの関係は2国間あるいは2者間の関係であったが、国連という場を使うことで、沖縄・琉球の問題が多国間で扱われることになった。
 沖縄がこれまで働きかけてきた日本政府や米国政府の視点からみれば、これまでの動きは縦軸の関係であった。あえて単純化すれば、日本政府にとって一地方の住民の陳情や申し立て、米国政府にとっては、同盟国日本の一部住民の頭越しの要求に過ぎず、それ故に、中央政府の専管事項に対するわがままを言うなとばかりに日米政府間合意を持ち出し、米国政府は日本の国内問題にすぎないと困った顔を見せた。彼らのいう「不快感」である。
 しかし、今回、翁長知事は、国際法上の基本的人権である人民の自己決定権を主張して、沖縄・琉球の問題を加盟国政府代表、国際機関、国際NGOに「お願い」ではなく、より対等な関係性の中で「判断」を仰いだのである。これまでの動きは大きく転換した。
 では、それは例えば辺野古の問題に役に立つのか。劇的にとはいえないが、可能性がなくはない。自己決定権を主張し、国際社会に働きかけたことで、沖縄・琉球の運動は、まず国内の裁判闘争にしろ、米国への訴えにしろ、国際法を正面から援用することができる。
 自己決定権は、近代以降の歴史的な文脈の評価から生じる権利なので、基地の土地接収が行われた70年前ばかりでなく、140年さかのぼった琉球併合以来の問題にも光を当てることができる。例えば、辺野古の基地は、「ウィーン条約法条約」、「ハーグ陸戦法規」そして「国際人権規約」などの国際法違反の積み重ねの上に構築されると主張できる。また、日本政府ばかりでなく、米国政府に対しても、国際法違反の当事者としての責任を追及することもできる。加えて、辺野古での住民運動をより正当に評価できる点も重要かも知れない。よくその住民運動は日本の識者などから「人民の抵抗権」、「住民の意思」として、高く評価される。
 しかし、残念ながら、「人民の抵抗権」が意義を持つのは、「民主主義」や「法治主義」が成立していない社会が前提であり、もし成立しているとみなされれば、抵抗はただの「わがまま」となる。1996年に大田昌秀知事の代理署名拒否が最高裁で敗訴した根本的な理由はここにあることを忘れてはならない。その点、国際法は、現在の沖縄において、沖縄・琉球人民にとっての「民主主義」や「法治主義」が成立していないことを証明する根拠となりうる。もしそうであれば、住民の島ぐるみの運動や翁長県政の動きは、沖縄の肌感覚で感じられるように「わがまま」ではなく「人民の抵抗権」の正当な行使とみなされる。

軋轢は生まない
 もちろん、課題もある。「民主主義」社会の中で、民主主義が成立していない社会が「植民地」である。植民地は帝国主義と連動して想起されることが多いが、米国や英国、フランスでは「民主主義社会」の中で「植民地体制」を堅持してきた。また、1980年代以降、本来自己決定権を行使する権利があるにもかかわらず、これを不当にはく奪されてきた集団が「先住民族」という国際法の主体である。そして、「植民地」や「先住民族」、さらには「自己決定権」という考え方を沖縄・琉球の中で拡大し、実体に合わせて深化させることが不可欠な課題だろう。それによって、奪われた権利が見えて来るようになれば、国連の諸機関、諸制度をさらに利用する必要性と可能性が生じてくる。声明の発表はその始まりにすぎない。
 もうひとつ、確認しておきたい。自己決定権の主張は、日本人と琉球人の間に溝と軋轢を生むのではないかという懸念の声を聞く。自己決定権の主張は、何よりも沖縄・琉球に日本政府が持ち込んだ対立を回避する役割を果たしている。同時に、その考え方が共有できれば、それは琉球と日本の関係をむしろ対等な立場で再構築する道を作ることになる。懸念には及ばない。
 私事だが、明確な志と実務能力を兼ね備えたすてきな政治家である翁長雄志知事とこれを支える県庁のスタッフ、熱意と果敢な行動力を兼ね備えた島ぐるみ会議の皆さんにこの場を借りて感謝したい。大和(日本)人である私も、歴史に残る素晴らしいチームに参加できたことは、自らのアイデンティティーを超えて、私自身の大きな誇りとなっている。
(市民外交センター代表)
(琉球新報20150930)



【2015.10.01】 仲里効「『沖縄よ』という問い」を読む

 2015年9月21日、翁長知事はジュネーブの国連人権理事会の演壇に立ち、「基地問題は人権問題である」を基調に日米両政府の政策を真っ向から批判、日本政府は格下の国連大使を使い、「言い訳」にしか国際社会では通用しない反論をさせたという。沖縄協議会の設置といい、国連演説といい、「沖縄の自立解放」への道程がくっきりと示された。
 翁長知事の登場によって「県外移設論」は、従来の様々なこだわりや曖昧さが徐々に明瞭になってきたとも言える。8月30日、朝日新聞社説は、翁長知事の「あなたは安保に賛成なのか、だったらなぜ基地を引き受けないのか」との発言に「「みんな黙ってしまう」と書くまでに至った。「平等論」(基地負担の平等)が、日本国家を前提にして組み立てられている以上、翁長知事の立論の「正しさ」がくっきりと明示される。つまり「平等」を確立しない限り、問題は「(不)平等」にあるのではなく「基地」にあることが理解し得ないであろうとしたレーニンの「民族自決権」をめぐる発言が百年後の今も、これほどぴったりと当てはまるとは! 蛇足ながら「私は安保支持派です」という翁長知事の繰り返される発言は、皮肉を通り越した、卓抜した戦略的発言に聞こえる。

 今、辺野古ケート前、そして海上では、沖縄民衆の不屈の闘い(「沖縄の歴史は社会運動の歴史であった」という沖縄タイムスの長元朝浩さんの名言を再び思い返している)が連日、一切の権力の弾圧にひるまず続けられている。翁長知事はこうした反権力直接行動によって支えられていることは紛れもない事実である。そして、その闘いに、日本人は言うに及ばす、アジアの、世界の民衆が駆けつけている!

 それなら、琉球新報20150908の<「県外移設」という問い5・日本の矛盾を提起>での仲里効の意見を玩味しよう。

     
  琉球新報20150908
<「県外移設」という問い5>

県内識者に聞く 思想と運動の観点から

日本の矛盾を提起

 沖縄に基地を押し付けたくないという立場から大阪で基地を引き取る運動が始まり、哲学者の高橋哲哉東大大学院教授が「沖縄の米軍基地 『県外移設』を考える」(集英社新書)という形でその論理を「本土」の人々に問い掛けた。この連載で、大阪の運動の当事者からそのような運動に至った経緯を書いていただき、2人の識者に見解を示していただいた。一方で沖縄県内の反応は単純ではない。沖縄の思想の問題として、そして運動の観点からどう受け止めるべきか。県内の識者に聞いた。

注目と期待

 昨年、共同通信のインタビューで「日米安保条約が必要なのであれば、基地を本土でも分け持ってほしいと沖縄は希望している。しかし、もしどこかの県がそれを引き受けたら、その知事は次の選挙で落選するでしょう。だから引き受けない。その状況を誰も疑わず、最終的に誰も責任を負わない。そういう差別にがんじがらめになっているのが、今の沖縄なんです」との趣旨を述べた作家の大城立裕さん。(本紙2014年8月18日付)その後も雑誌などに同趣旨の主張を書き続けている。
 高橋氏の著書について「具体的でいいですね」と評価し、同時に「いきなり結論を求めなくてもいい」と語った。「基地はいらないということと日米安保は必要という矛盾をごまかして逃げているのが本土じゃないか。しかし、本土の人にそう言ってしまうと議論が果てしなく続いて、お付き合いが壊れるのを恐れるんでしょうね」と、議論することの難しさに触れた。 
 詩人の中里友豪さんは「引き取り運動が行政を動かせるまでになれば面白いと思う。ヤマトを変えることが一番大切だ」と動向に注目する。「基地が厄介なのは、単なる施設が動くんじゃない。人間が一緒に動く。20歳前後の若い連中だ。それをヤマトの人々は恐れている。それを理解して受け入れると言うのは相当勇気があることだと思う」と話し、期待を込めた。

新基地阻止に集中

 運動の立場から新崎盛暉沖縄大名誉教授(沖縄近現代史)は慎重な見方を示す。沖縄県議会で全会一致の「県外移設」決議をするまでの複雑な経緯も振り返りながら「要するに今、政治闘争をやっている。闘いの手段として使えるものは使うし、現実に使ってきた」と強調。「今は辺野古新基地建設阻止の闘いをどう進めていくかだ。辺野古を阻止できたら安保は変わる。建設されてしまえば逆の意味で変わる。そこに政治のダイナミズムがある」と述べた。
 大阪の引き取る運動について「壁にぶつかる中で非常に真面目に考えたものと受け止めているが、無関心な人々を目覚めさせて辺野古反対につながるのか疑問がある。日米安保を必要としている人たちが考えるようになればいいが、世論を変えられるかどうかが問題だ」「差別している、基地を持って行け、と言うことで共闘ができるとは思えない。スローガンが正しくても政治的力にならないといけない」と厳しい目を向ける。
 そして「『どこにも基地はいらない』という主張もお題目となって力を失っている。その中で『県外移設』を含む『オール沖縄』という連合体ができてきた」と現状を分析した上で「戦略目標を見失うべきではない」と強調する。「辺野古新基地阻止に集中すべきだと思う。辺野古を阻止すれば沖縄は変わるし、日本も変わる。逆にごり押しでやられてしまうと暗闇の世界になる。辺野古が将来を左右する」

沖縄の歴史体験

 映像批評家の仲里効さんは「日本の8割が日米安保条約を必要と思っているのなら、米軍基地の74%が沖縄にあるという圧倒的不平等をやめて応分に負担せよ、という論理自体の正しさは分かる。それをオブラートに包んできた日本の戦後社会の無意識の構造的差別を前景化していくという役割は評価する」としつつ、「基地を持ち帰れとか引き受けるというロジックが、運動や思想として語られることに違和感がある」と語る。
 その理由として「戦後沖縄における反基地運動のエッセンスには沖縄戦の体験とアメリカによる占領の体験がある。暴力にさらされてきた歴史体験だ」と強調した。沖縄が「基地を引き取れ」となかなか言えないのは、沖縄の優しさや弱さではなく歴史体験があるからという見方だ。「戦後70年間、解決できていない」との指摘についても「具体的な運動の蓄積で沖縄は内在的に変わってきた」と反論した。

「沖縄よ」と問う

 仲里さんはそして、「高橋さんは『日本人よ』という呼び掛けへの応答をした。沖縄にいるわれわれは、『沖縄よ』という言い方から実践の思想を立ち起こしていくのが基本だと思う」と強調し、こう指摘する。「『沖縄よ』と問う時、軍隊、基地という暴力装置を引き取らせるということは出てこないと思う」「沖縄戦の死者の声を聞き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」
 一方、次のようにも指摘する。「県外移設論自体、矛盾の提起だ。アメリカの傘の下の日本、日本の近代の在り方、戦争責任、戦後責任の在り方が、沖縄という結節点で問われている。
   ×     ×
 「日本人よ」と「沖縄よ」という二つの問い。その結び目に「県外移設」という問いがあるのではないか。この問いに応答するには立場性の表明が迫られ、「連帯」とは何かという議論からも逃れられない。
 辺野古新基地建設阻止の一致点で団結して「オール沖縄」の運動が展開されている。しかし、そこに加わる人々の思想信条はさまざまだ。辺野古も国政も事態は緊迫しているが、同時に息の長い運動の持続、世界的な広がりも求められている。その中で、「県外移設」という問いは新たな対話、議論の基礎になるのではないか。それは、仲里効さんが言うように日本の戦後、近代の矛盾を問うことにもなる。豊かな議論が、思想と運動に厚みと広がりをもたらすことを期待したい。
(米倉外昭)
(おわり)
 
     

【2015.08.27】「沖縄を語る――次代への伝言⑲ 山城博治さんインタビュー」を読む

 安倍・日本政府の「9月10日から1カ月」の「休戦」提案である。「戦争をする国づくり」に邁進するためには、なんとしても「支持率低下」を食い止めなければならない。あの茶番劇まるだしの「新国立競技場問題」を使ってもダメ、鹿児島県・薩摩川内市(原発に関してはそもそも「地元」など限定しようがない!)が同意した川内原発再稼働も火種となりそうだ。
 辺野古新基地は、「ユクシ(嘘)の抑止力」や子供でもだまされない「負担軽減」などがありとあらゆる場面で暴露されている。沖縄県各地域では「島ぐるみ会議」が続々と結成され、「辺野古基金」は4億円を超えた。キャンプ・シュワブにおける海と陸における粘り強い沖縄民衆の闘いとともに、「埋立申請取り消し」に踏み込まんとしている翁長県政。どうする安倍!今国会には、万単位での世代を超えた抗議の声が広がり、学生有志が8月27日にはハンストに突入(彼らのほとんどは辺野古現地闘争に参加した「辺野古リレー」「辺野古ゼミ」に集う大学生である)。
 「廃案・退陣」の四文字がリアルさを増している。
 いささか旧聞に属するが、「沖縄タイムス」2015年05月11日に掲載された(聞き手=北部報道部・阿部岳)記事である。山城博治の人となりを知るための格好の素材として、ぜひ、一読を! そして山城さんの早期復帰を心より願う!

 なお、これまた旧聞に属するが(なにしろ、PCばぶっ壊れるわ、体調は崩すわで、泣き言ばかりの日々でした)、「休戦」を受けての「沖縄平和市民連絡会事務局」からの「手を緩めてはならない!」を掲載します。

みなさまへ
沖縄平和市民連絡会事務局


◆辺野古ゲート前便り(8/4(火))手を緩めてはならない!◆

 報道されていますように、菅官房長官は今日(8/4)午前の記者会見で、「米軍普天間飛行場の辺野古移設計画について、今月10日から9月9日までの1ヶ月、移設計画にかかる一切の工事を停止し、県と移設問題について集中的に協議する」と発表した(琉球新報8/4(火)号外)。そして、県が求めている臨時制限区域への立ち入り調査を認める方針も述べた。同時に「普天間の危険性除去と辺野古移設に関する政府の考え方や沖縄県の負担軽減を目に見える形で実現したいという取り組みをあらためて丁寧に説明したい」とも述べた、とのこと。
 一方、翁長知事は10:45過ぎ県庁で会見し、「話し合いで解決の糸口探れるのであれば、その努力は惜しまない。(協議を通し)政府には『辺野古が唯一だ』とこだわらないようになってほしい。その意味では重要な期間になる。対話の道が開けて、工事がストップしたということは(移設問題解決に向けた)前進だ」と述べた(琉球新報8/4(火)号外)。
 このように、安倍政権と翁長県政は「辺野古問題」で一ヶ月間政治休戦することになりました。
 このことで明らかになったことは、この間、安倍政権が、事ある毎に「この夏から本体工事を開始する」と強弁してきたことができなくなったこと、そのことは安倍政権が全国的な「戦争法案廃案」などの闘いの高揚で追い込まれてきていることの証左です。一方では同時に、安倍政権は「辺野古」を諦めてないということも表明しています。全ての政治休戦と同様にこの休戦期間に体勢を立て直して休戦明けに襲いかかって来ることも想定しなければなりません。今手を緩める方が負けます。「戦争法案廃案」の闘いとも連動し、安倍政権の足腰を叩きのめしましょう!
 ご承知の通り、安倍政権は「辺野古問題」を当初(昨年の夏の段階)では即決戦で沖縄県民の闘いを押さえ込まんとしました。大浦湾と辺野古の海に臨時制限区域を一方的に設置して海を県民から強奪し、「侵入者」を刑特法で弾圧すると言いふらしました。そして、そこを海保の19隻の巡視船で囲い込み、その内側では13隻の警戒船と35隻のゴムボートでかき回し、沖縄戦の米艦船を想起させる態勢で県民の海での抗議行動を押さえ込まんとしました。この間の県内2紙の報道でも明らかなとおり、県民のカヌーや抗議船を転覆させるなどという前代未聞の蛮行(テロ)をふるい、県民に死の恐怖心を与えて、抗議行動を抹殺せんとしました。同時に、ゲート前でも山形鉄板に象徴されるようにケガの恐怖を与えて、海上と同様に抗議行動を崩壊させようとしました。しかし、県民は驚異的な粘り腰と山城博治代表の硬軟両用の戦術展開で屈服せずに逆に弾圧をはね返し、闘いを拡大させてきました。このように、県民は安倍政権の即決戦の思惑を打ち破り、持久戦に引き込み、今回の政治休戦に追い込んでいます。県民は沖縄本島でいえば、一村を除く全ての市町村で辺野古支援の「村民会議」「島ぐるみ会議」を結成してきました。このことは沖縄戦後史では初めての画期的な出来事です。私たちはこの休戦中にこの「島ぐるみの陣形」の内実をより豊で強固なものし、辺野古現場の阻止闘争の強化と展開で勝利の展望を切り開いていかねばなりません。



【2015.08.03】 川満信一・書評、三上智惠『戦場ぬ止み――辺野古・高江からの祈り』を読む



「戦場ぬ止み――辺野古・高江からの祈り」
大月書店・1400円+税 三上智惠著
 みかみ・ちえ ジャーナリスト、映画監督。
元琉球朝日放送(QAB)アナウンサー。監督作品「標的の村」が、キネマ旬報文化映画部門で1位になるなど17の賞を獲得。2014年にQAB退職後、第1作となる「戦場ぬ止み」をことし5月に公開。
   琉球新報2015年07月26日の川満信一の書評を読む。現在、日本の各地でも上映されているドキュメンタリー「戦場ぬ止み――辺野古・高江からの祈り」監督でもある三上智惠自身の撮影日記。


激動の現場 当事者視点で描く
 2014年から15年にかけて、「マガジン9」に連載した「三上智惠の沖縄(辺野古・高江)撮影日記」を柱にまとめられたのが本書。激動の現場に密着して、そこで繰り広げられる人間ドラマを、偏見なく感受した著者の姿勢にまずは感服する。
 外から持ち込まれる難題への対応をめぐって、村人たちは四分五裂に対立する。それは昔からくり返されてきた。対立する内部の人々の価値観の違いや、人生体験に寄り添わないと、現場の事態を正しく判断することはできない。その点、著者の目は辺野古基地に同意する人たちにもしっかりと据えられており、その上で問題の解決策を一体となって考えるという姿勢をとっている。
 ジャーナリストの「公平に」という突き放しでもなく、アカデミズムのフィールドワークという対象化でもなく、自分に課された問題として、寄り添うという方法が、本書のボルテージを高め、また文章の巧みさが胸を熱くする。特に沖縄戦から50年代の土地闘争、70年代の反戦闘争を体験してきた世代には、辺野古や高江の闘争現場は、身体の痛みとして受け止められる。そのために3人の「文さん」をはじめ、山城博治他の心境が直に伝わってくる。
 「この抵抗は、水道の蛇口から飛び散る水を、手のひらで押さえて止めているようなもの、誰かが元栓を閉めない限り、ことは終わらない。手のひらの限界はいつかくる」という危機感は、18年も、現場に通い詰めた著者ならではの実感である。その誰かは誰か。
 政権に方向転換させる手は1人1人の手であろう。著者は民俗学を専攻し、沖国大の非常勤講師も兼ねているという。従来の民俗学の傾向は、一般的に珍しい習俗を考古学の遺物のように研究するという印象だが、先に好評を受けたドキュメント映像「標的の村」、今度の「戦場ぬ止み」(映像)と本書は、これからの民俗学の方法に新たな地平を開くのでは…という期待も抱かせる。山城博治が病床から寄せた推奨文「生身の沖縄」に肉薄した無二のルポ」も必読の文である。(川満信一・詩人)
 

 アジア女性資料センターの『女たちの21世紀』№82(2015年6月21日発行)に阿部小涼が「すべての境界線が私のホームなのです」という一文を載せている。そこで、「おにぎり事件」を導入にしてジェンダー論を展開しているが、彼女はヴァージニア・ウルフの“アウトサイダーは続けて言うでしょう、「なぜかと言えば、実際のところ、女性として私には祖国がないのです。女性として、私は祖国が欲しくはないのです。女性としては、全世界が祖国なのです」”を引用し、「これからますます多くの女たちが辺野古、高江を目指すだろう。境界線をホームとし、境界線を越えようとする身体になるために」と結ぶ。


【2015.07.27】 山城博治「沖縄・再び戦場の島にさせないために――沖縄基地問題の現状とこれからの闘い」(2014)を、やっとアップ。

【2015.07.25】 『季刊・未来』、『月刊・琉球』を読む。

 『季刊・未来』と『月刊・琉球』を立て続けに読んだ。
 やはり「復帰運動」が未決のままであるだけでなく、「反復帰の思想資源」が「ないがしろ」にされている、と思わされた。忘却されてはならないのは、「沖縄戦」だけではない、と感じ入った次第である。

 それにしても、三上智恵(植民者)や阿部小涼(日本人の知識人女性)が、「上から目線で琉球人にお説教をたれる」と非難(糾弾?)される言説を見るのは、心底辛い。もちろん、彼女らの言説が批判されざるを得ない難点を孕んでいたとしても、である。新報「投書欄」には、百田騒動糾弾の冒頭には「最近の大和人の沖縄民族を蔑視する発言に怒り心頭に発している」ともある。
【2015.01.03】阿部小涼「草の根で新たな政治へ 県民、生存選ぶ未来選択」を読む

 件の『月刊琉球』№26での青山(旧姓・比嘉)克博の「無意識の植民地主義と内面化された植民地主義」なる一文に、「琉球人対日本人という歴史的に継続する二項対立の構造を乗り越えようとする『日琉同祖論』の志向と幻想報道は今日でも後を絶たない。……翁長知事の『本土で覚悟を決めて米軍を受け入れ、立派な日米同盟をつくってほしい』という発言を、『日琉同祖論』を基調とする『しんぶん赤旗』は一切報道せず、その見出しは『新基地は造らせない』と歪曲し、我田引水的な報道を行っている。一方、同日の中日新聞朝刊には、「本土で米軍受け入れを」との見出しで正確に翁長知事の発言を報道した」とある。この短文の中に多くの論点が隠されているが、一つだけ指摘すれば、かつての『赤いプロレタリア討論会』で「左翼同化主義」ですべてをなで切ったと同様の、浅薄な「同祖論・同化主義」批判を垣間見る。すでに川田洋は「返還粉砕・復帰奪還」論争の70年前後において、一方で沖縄-日本構造を問い返し、他方アジア(東アジア)レベルで沖縄を捉え返すことを、鋭く解き明かしていた。
川田洋「国境・国家・第三次琉球処分」(『情況』1971年4月号)川田洋「新左翼運動と沖縄闘争」(『情況』(1970年6月号)

 これらは「復帰運動」の総括が未決のまま放置されていることとも通底しているが、青山の非難も、その「我田引水」的「同祖論」はともかく、首肯しうる。とはいえ、若い世代にだけでなく、「反復帰の思想資源」が充分に継承されていないことに危機感を覚えている。
 私ごときが僭越ではあるが、昨年6月に刊行された『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』こそ、読まれるべき文献の一つとして推薦したい。1981年から30余年の時を隔てて、仲里効という希有な編者を得て結実した<群島・アジア・越境の思想>である。

川満信一・仲里効 編
『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』
(未来社20140620)

 【目 次】
 第1部 原点から、架橋と越境
  川満信一 琉球共和社会憲法C私(試)案
  川満信一 琉球共和社会憲法私案の経緯――共和国と共和社会はどう違うのか
  平 恒次・川満信一 対談:近代国家終えんへの道標
  孫  歌 リアリズムのユートピア――川満信一「琉球共和社会憲法C私(試)案」を読む
  仲里 効 ノモスの消失点、到来する共同体――「死者的視点」から「異場の思想」まで

 第2部 アリーナで、交差と交響
  丸川哲史 「孤島苦」と「流動苦」――「琉球共和社会憲法私案」の根拠と可能性
  大田静男 疲れた口笛
  大田昌秀 琉球共和社会憲法私(試)案について思う
  山城博治 沖縄・再び戦場の島にさせないために――沖縄基地問題の現状とこれからの闘い

 第3部 未来へ、潜像と顕像
  上村忠男 川満信一さんへ――「琉球共和社会憲法C私(試)案」をめぐって
  中村隆之 琉球共和社会研究会
  今福龍太 群島響和社会〈平行〉憲法 断章
  高良 勉 数多くの憲法私案を

 編者あとがき[川満信一・仲里効]


 蛇足ながら、「辺野古は不可能」ではなく「困難」と言った翁長知事の慰霊の日発言をあげつらう澤地久枝さんの発言を聞いて思わずヤジを飛ばしてしまったことを付け加えておく。かつての太田県政敗北の「行政主導」の轍を踏むことなく、あくまでも民衆の闘い(街頭で決着をつける)こそカナメである。
 翁長現象は「沖縄の自己決定権」の波及から「沖縄のアイデンティティ」をたぐり寄せ、ささやかではあれ「民族ブルジョアジー」の登場すら勝ち得ている。青山の牽強付会の説を持ち出せば、「日米同盟の大切さを説く翁長は日琉同祖論に絡め取られている」としかならない。

『月刊・琉球』500円[年間定期購読5,000円送料込]
 発行元:琉球館(株式会社Ryukyu企画)〒901-2226宜野湾市嘉数4-1-17-16tel098-943-6945

 併せて、この間、物議を醸成している高橋哲哉の『沖縄の米軍基地』(集英社新書2015)について言及しようと思ったが、「批判のための作業」は、「徒労」の蓄積にしかはならないので忌避することにした。もはや残り時間を気にし始めた風游子としては。もっとも「高橋なんぞ相手にする必要がない。彼自身が『基地誘致運動』のビラまきでもしてからだよ、まともな討論が成立するのは。所詮、大学教授という『物書き』だ」という友人からの非難に及び腰になった所為もある。



【2015.06.09】宮平あい<「フェンス」の撤去は可能か―知念ウシと石川真生に見る「沖縄」のまなざし―>を読む

 昨日、宮平あい講演会に参加。主催はルネサンス研究会。場所は、今話題の(笑)「専修大学」である。
 『情況』2014年11-12月合併号に掲載された<「フェンス」の撤去は可能か―知念ウシと石川真生に見る「沖縄」のまなざし―>(宮平あいの卒論全文)を読んだ時、「驚嘆した」。<知念ウシ>と<石川真生>そして<フェンス>である。さらに、これが「卒論」であると知って、さらに驚いたことも事実である。
 <序>で、宮平は次のような書き出しで、問題提起をしている。

 “「沖縄」について語る時、いつもぶつかるものがある。「日本」「沖縄」「アメリカ」「安保体制」「復帰」「基地問題」「内地」「外地」「本土」「ヤマト」「ウチナー」「ヤマトンチュ」「ウチナーンチュ」。様々な言葉で表される沖縄と沖縄を語るための「立場」。そこには近づけるようで近づけない、歩みを遮るものがある。筆者はこれを沖縄の周りに巡らされた「フェンス」にたとえる。相手が全く見えない白塗りの「壁」ではなく、張り巡らされた網目の向こうに中途半端に見え隠れする「他者」。そこには、一体どのような主体がいるのか。/本土に来て初めて見えた「沖縄」は、それまでまるで見えなかった「フェンス」にぐるりと囲まれていた。その「フェンス」の正体には、いくつもの解があったが、「フェンス」を取り除くための解はわからないままだった。……”

 そして、<4.結論>として、

 “「沖縄」に注がれるまなざしは、政治的な問題であり、「国家」をめぐる問題であり、権力関係の問題であり、歴史の問題であり、倫理的な問題であった。/しかし、こうした一定の線上にとらえられる「沖縄」は、「沖縄」の問題があまりに複雑で多層的・多面的であることによって、どうしてもどこかで「沖縄」をとらえそこなっているように感じられたのである。

 ……「フェンス」が維持し、また再生産する「痛み」は、「フェンス」の存在が深く食い込む結果を招くが、その撤去を願う原動力ともなるだろう。それは「フェンス」を見つめ「フェンス」の向こうを見つめることによって可能になることである。/いつの日か、「フェンス」の残骸を軽々と越えてその向こうにいる「自己」と「他者」に触れる時がくることを、願ってやまない。”

 と、書き記す。

 大学生となり、沖縄を離れ、沖縄を外から見、そして、自らを見直す。ここまでは、<知念ウシ>と同様の軌跡を辿る。それ故、ヒントとして<知念ウシ>が彼女の中に大きく浮上したのであろうことは想像に難くない。「沖縄人としての素朴な感覚」を「わかりやすさ」として押し出し、「沖縄人としての共感を引き出す」と書く宮平は、その意味では<知念ウシ>に少なからずのウチナーンチュと同様、絡め取られてしまった。敢えて言えば「劣情を刺激された」。
 しかし、<知念ウシ>に違和感を抱いてしまった彼女は、行き詰まりを感じてしまったという。そして彼女は、そこに“「ミイラ取りがミイラになる直前」まで接近するまなざし”をもった<石川真生>を見つける。
 こうして、“「痛み」の所有格”の危うさを突き、“「痛み」の他者化自体が一つの暴力である”に至る。私はこれこそ<知念ウシ>とは真逆の「沖縄人としての素朴な感覚」であり「わかりやすさ」として、彼女の語りを聞いた。この論点は、「民族自決権」ではなく「自己決定権」の称揚の問題にも重なり、琉球ナショナリズムではなくウチナーンチュ・アイデンティティにも通底する。“知念の主張は「属性」をはっきりと意識させることで対等な対話を望むもの”と言いながら、続けて“しかし、「属性」への執着で見えなくなるものがあるのではないか”と踏みとどまる。
 浅薄なものでしかないだけでなく、ステロタイプ化された「属性」を振り回すことは「俗情との結託」にも似たものであり、そもそも「属性」をどう捉えるのか(これは当日の参加者からの発言にもあったが)を突きつめる必要があろう。私たちは「関係(性)」の中に叩き込まれており、「属性」も「役割」も、そして「アイデンティティ」もそうである。例えば「〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である」(R・D・レイン『自己と他者』=中村雄二郎『術語集』より重引)ということからも明らかなように「関係性」(我々にとっては廣松哲学として馴染み深い)、さらに敷衍すれば「共同主観性」として、「階級問題」に至る。まぁ、ここは風游子独特の我田引水の極みであるが。
(あわてて付け加えるが、彼女の指導教官である中山智香子さんが講演会に参加していた。中山さんの『経済ジェノサイド』に深く傾倒した私としては、是非とも「ルネ研」で「中山智香子講演会を準備して欲しい」と主催者に申し入れてしまった(苦笑))
 ともあれ、「新しき人」の誕生は慶賀に値する!(「風游も老いた」と笑うなかれ!)


目次

1.運動家「知念ウシ」
1-1.「痛み」を足がかりに
1-1-1.「基地は本土へ」
1-1-2.「私もいやなんですよ」
1-1-3.「野蛮人たる自己を直視せよ」
1-1-4.主婦「知念ウシ」
1-2.基地の「痛み」は誰のものか
1-3.「内なる日本人」―植民地主義精神からの脱却
1-3-1.「沖縄」をめぐる視線
1-3-2.「沖縄」内部の分断
1-4.「属性」が作る語りの形
1-4-1.出身地論争
1-4-2.反転する希望
2.写真家「石川真生」
2-1.写真による 交接
2-1-1.「燃える島、沖縄」
2-1-2.「撮影」という対話
2-2.金武の女たち
2-3.「見る」ための文字
3.「沖縄」という問い
3-1.「語る」と「見る」が開く回路
3-1-1.「語る」ということ
3-1-2.「見る」ということ
3-2.引き裂かれる主体
3-3.「フェンス」を貫く「痛み」
4.結論
参考文献一覧


【2015.05.19】 山城博治が作詞した<沖縄 今こそ立ち上がろう>

     
沖縄 今こそ立ち上がろう
1


沖縄の未来(みち)は 沖縄が拓く
戦さ世(ゆ)を拒み 平和に生きるため
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう

2 辺野古の海を 守り抜くために
圧政迫るが 立ち止まりはしない
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう

3 高江の森を 守り抜くために
力を合わせて スクラム固めよう
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう

4 島々の暮らしを 守り抜くために
思いを巡らせて 心を通わせよう
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう

5 輝く明日は 今こそが拓く
閉ざされた歴史を 解き放つために
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう

「座りこめ」「今こそ立ち上がろう」@沖縄県民大会

 原曲「Ah! Le joli mois de mai à Paris ! ああ!パリの美しき五月!」については<朝倉ノニーの<歌物語>>biogを紹介します。まぁ、風游子としては、「加藤登紀子の唄」として、特に最後のリフレインは仏語で口ずさんでいました、いえ、フランス語などなんにもわかりません。
美しき五月のパリ 加藤登紀子 オリジナル歌唱

 辺野古・シュワブゲート前で、加藤登紀子とスクラムを組んで歌う山城博治を想い描いている。
 山城博治インタビュー「沖縄の魂、自決の心は決して途切れることはない!」(『情況』2010年4月号【シリーズ】時代の転換を沖縄に聴く-苛政に育つ琉球弧の自己決定権 その2)

【2015.05.18】翁長雄志知事挨拶全文「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」
 トップページに5月17日県民大会での翁長雄志県知事の挨拶結語をアップした。タイムス、新報両紙に掲載された全文はいずれ読めなくなると思って、風游サイトにアップ。大会に参加した友人たちは、登壇者一人一人の意見に深く頷きつつ聞き入っていたが、最後の翁長知事の発言に対しては、異口同音に安倍や菅とは比較にならない「政治家」としての人格識見について高い評価を与えていた。

5.17「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」
翁長雄志知事あいさつ


 はいさい。ぐすーよーちゅううがなびら(皆さんこんにちは)。うちなー県知事ぬ、うながぬたけしやいびーん(沖縄県知事の翁長雄志です)、ゆたさるぐとぅうにげーさびら(よろしくおねがいします)。
 新辺野古基地を造らせないということで、ご結集いただいた皆さん、こちらの方は見えないと思うが、外野席もいっぱいだ。3万人を超え、4万、5万と多くの県民が集まっていると思っている。
 うんぐとぅあちさるなーか、うさきーなー、あちまてぃくぃみそーち、いっぺー、にふぇーでーびる(この暑さの中、これだけ多く集まっていただき、ありがとうございます)。まじゅんさーに、ちばらなやーさい(一緒に頑張っていきましょうね)。

 私は多くの県民の負託を受けた知事として、県の有するあらゆる手法を用いて、辺野古に新基地は造らせない、この公約実現に向けて全力で取り組んでいくことをいま皆さま方にあらためて決意をする。
 先月、私は安倍総理、菅官房長官と会談させていただいた。会談内容を国民の皆さまが注目することになり、ほとんどの中央メディアの世論調査で、平均して10%ほどの国民が反対との意思表示を多くやっていただいた。
 本土と沖縄の理解が深まったことに大変意を強くしている。さらに辺野古基金においても本土からの支援が多く寄せられていると聞いており、心強い限りであり、ともどもにこの沖縄から日本を変えていきたい、こう決意をしているところだ。

 しかし私が沖縄県の民意を伝えたにもかかわらず、日米首脳会談の共同会見で、安倍総理が普天間飛行場の危険性を辺野古建設によって一日も早く除去すると発言をされた。私は強い憤りを感じている。安倍総理は、日本を取り戻すと言っておられるが、私からすると、この日本を取り戻す中に、沖縄が入っているのかと強く申し上げたい。戦後レジームからの脱却とよく言っておられるが、沖縄に関しては戦後レジームの死守をしている。私はこう思っている。
 沖縄の基地問題なくして、日本を取り戻すことはできない。日本の安全保障は日本国民全体で負担する気構えがなければ、沖縄1県にほとんど負担をさせておいて、日本の国を守ると言っても、仮想敵国から日本の覚悟のほどが見透かされ、抑止力からいってもどうだろうかなと思っている。
 特に沖縄から見ると、日本が独立をし、沖縄が切り離されたサンフランシスコ講和条約の祝賀式典で万歳三唱をする姿を見ると、また同じ歴史が繰り返されることはないだろうかと、あるいはまた、ミサイル数発で沖縄が沈むことはないだろうかと、将来の子や孫が、また捨て石として犠牲にならないか、沖縄に責任を持つべき責任世代として、しっかりと見極めていかなければならない。

 そして、これは強調しておかなければならない。政府は普天間基地の危険性の除去がこの問題の原点だと言っているが、沖縄から言わせると、さらなる原点は普天間基地が戦後、米軍に強制接収されたことだ。何回も確認する。沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない。
 普天間飛行場もそれ以外の基地も戦後、県民が収容所に収容されている間に接収をされ、また、居住場所をはじめ、銃剣とブルドーザーで強制接収をされ、基地建設がなされた。自ら土地を奪っておきながら、普天間飛行場が老朽化したから、世界一危険だから、辺野古が唯一の解決策だ。沖縄が負担しろ、嫌なら沖縄が代替案を出せ、こういうふうに言っているが、こんなことが、許されるだろうか。私はこのことを日本の政治の堕落だと言っている。自国民に自由と人権、民主主義という価値観を保障できない国が、世界の国々とその価値観を共有できるのだろうか。日米安保体制、日米同盟というものはもっと品格のある、世界に冠たる、誇れるものであってほしいと思っている。
 一方、2プラス2の発表には、世界一危険だと指摘されている、普天間飛行場の5年以内停止が明示されていない。普天間飛行場の5年以内の運用停止について、前知事は県民に対し、一国の総理および官房長官を含め、しっかりと言っている、それが最高の担保であると説明をしていた。5年以内運用停止は前知事が埋め立て承認に至った大きな柱だ。しかし、米国側からは日米首脳会談でも言及することはなかった。5年以内運用停止は辺野古埋め立て承認を得るための話のごちそう、話くわっちー、空手形だったのではないかと私は危ぐしている。

 今日までの70年間の歴史、いつも困難の壁がある時には必ず話のごちそう、話くわっちーを沖縄県民にも国民にも聞かせて、そしてそれを乗り越えたら知らんぷりと、それが70年の沖縄の基地問題の実態だ。
 私は安倍総理にうかがった。ラムズフェルド元国防長官が13年前、普天間基地は世界一危険な基地だと発言し、菅官房長官もそのことを再三再四言う中で、辺野古が唯一の解決策だと言っている。辺野古基地ができない場合、本当に世界一危険な普天間基地は固定されるのでしょうか。こう総理に聞いたら返事がなかった。
 しかし私は自由と人権と民主主義の価値観を共有する国々との連帯を目指す日米同盟がそんなことはできないと思っている。新辺野古基地の建設を阻止することが普天間基地を唯一、解決する政策だ。中谷防衛大臣は、中国の脅威を説明し、数字を挙げ、新辺野古基地が唯一の解決策だと話をしていた。また、いかに現在が危機的な状況であるか、自衛隊の増強が必要で、沖縄がいかに安全保障にとって重要か、とくとくと説明をしていた。
 しかし、考えてみると、とんでもないことだ。冷戦構造時代、あの時も大変だった。今も危機があると言っているが、あの積極的平和主義の中で、私たちは今、積極的平和主義の名の下に中東まで視野に入れながらこれから日米同盟が動くことを考えると、沖縄はいつまでこの世界の情勢に自らを投げ捨てなければいけないのか。私はこれについてしっかりと対処していきたいと思っている。

 そして、安倍総理が二つ、私に前に進んでいることを話していた。一つは嘉手納以南の着実な進展。それからもう一つはオスプレイは全国に配備してありますよ。もう少しずつ良くなっていますよと話があった。こういう話を聞くと、本土の方々は「なかなかやるじゃないか」と、「少し前に進んだんだな」と思っていると思う。しかし私は総理に申し上げた。総理がおっしゃるように普天間基地が新辺野古基地に移り、そして嘉手納以南が返ってきた場合、一体全体、何%基地が減るのか。これは73・8%が73・1%に、たったの0・7%しか減らない。
 何でかというと、全部県内移設だからだ。外に持って行く話ではまったくない。これが本土の方々には分かっていない。「嘉手納以南をみんな返すぞ」ということで分かっていない。
 それからオスプレイはあの森本元防衛相がこう述べていた。5年前、著書の中で平成24年に12機、平成25年に12機(が配備される)。著書の中で「沖縄にオスプレイが配置されるだろう」と。見事に的中している。そしてその中に何が書いてあったかというと、新辺野古基地はオスプレイを100機以上持ってくるために設計はされている。これから全てオスプレイは向こうに置かれるんだということがあの森本さんの著書の中に書いてある。
 ですから今、本土で飛んでいるオスプレイも一定程度が過ぎたら、みんな沖縄に戻ってくる。これが私は日本の政治の堕落だということを申し上げている。
 どうか、日本の国が独立は神話だと言われないように安倍総理、頑張ってください。
 うちなーんちゅ、うしぇーてー、ないびらんどー(沖縄人をないがしろにしてはいけませんよ)。


【2015.04.23】 新城郁夫『沖縄の傷という回路』(岩波書店20141022)を読む

 新城さんの、通底奏音としての「岡本恵徳」を聞いた。第2章は「岡本恵徳の思想を読む」のサブタイトルを付して「反復帰反国家の契機」を読み解いている。新川明でも川満信一でもなく・・・・

 かつて、風游子は、Emigrant<【2007.8.31】岡本恵徳『「沖縄」に生きる思想』(未来社2007.8.5)を読む>で、岡本の「さいきん、ことばでもって《思想》を語るとき、たとえばバイオリンのトレモロではなく、ベースの、曲の底にこもる響きに気を留めなければならぬことを、親しい友によって気づかされることがあった。バイオリンの、人を陶酔に誘いかけるトレモロではなく、メロディーの底に息をひそめて、みえかくれにそのあとを追いつづけるベースのその響きを、できうれば、おのれのものにしたい、とわたしはそうねがっているのである」を引用しつつ、“この批評集はゆったりとした力強さを、惑いそしてたじろぎつつ突き進んで行くことの確かさなど、多くのことを学ばせて貰った。しかし、どうやらかつて、若すぎた私はトレモロに惹かれるしかなかったようだ”と書き込んだ。
 そして若くして亡くなった屋嘉比収さんの岡本恵徳(「水平軸の発想」など)への言及を踏まえて“未然の時制の仮想のなかで想起される”(この何とも言えない「悪文」、否「流麗」とも言える文体が新城さんの真骨頂か?)とする新城さんの「感覚」に痛く共鳴させられた。そうか、風游は「新城郁夫ファン」か。

 彼は「傷」(もちろんタイトルにもなっている)と「遍在」を挙げていたが、私は「繋がる」という表現の多用さに新城さんの「或る想い」を垣間見た気がした。

 それにしても熱すぎる。生き急いでいるとしか思えないオーラを感じる。東琢磨『ヒロシマ独立論』を参照しつつ、他方、萱野稔人の空論(妄想?)を切って捨てる。鮮やか。いや、彼の俎上には、上村忠男も冨山一郎も、そして平恒次の論究も横たわる。

 思わず「序」のみ採録しました。


新城郁夫『沖縄の傷という回路』

序―― 生のほうへ

1 普天間米軍基地ゲート封鎖という出来事

 平和という言葉が、こうも狂おしい求めとなって口をついて出てくることが、幸せなことであろうはずがない。反戦という言葉が、こうも切なくかけがえのない響きとなって聞こえてくることが、幸せなことであろうはずがない。しかし、幸せというのがなんであったかを忘れそうになっている者のもとにこそ、平和という言葉も反戦という言葉も、切迫した願いの結晶となって届く。平和とは、平和を未だ知りえぬ私たちが、それを求めないではいられない狂おしさのなかで一瞬のうち垣間見る夢となり、この夢は、遍在する非暴力抵抗の無数の力が競り上げあうなかで、あまりに唐突に実現される。そんなようなことを、けっしてはっきりとではなく、とても漠とした思いとしてかかえたまま、2012年9月末、刻一刻と台風が近づいてくる強風雨のなか、誰とも知れぬ人たちとともに普天間アメリカ軍基地大山ゲート前に座り込んでいた。この座り込みから、すべてが始まる。
 凄まじい暴風雨を引き連れている台風による気圧低下のせいだろうか。オスプレイ配備強行にひた走る日米の動きに怒り心頭に発す状態であるのになぜか筋肉や節々がほぐれ、座り込む人たちのなかで緊迫した安らぎを感じていた。不安と弛緩がないまぜになったような感覚と、座り込むという共同性のなかで感受しているのがどこか官能的でさえある親密な情動であることに気づいて、われながら、奇妙さを通り越していかにも場違いな感覚と思わないではいられなかった。
 しかし、場違いと言えば、日本の法が及ばぬ提供区域である普天間基地内主要三ゲート前を完全に占拠し、事実として2日間にわたって基地を封鎖して機能不全に追い込んだ出来事以上に、場違いなこともないだろう。だが、場違いの真骨頂と言うべきこの行為においてこそ、場違いと思われてきた様々な事象が、場違いな空間のただなかで確かな場を占めて、そこに現れるのである。
 まず、この場違いな行為を通して、在日米軍基地というものの、言語を絶する場違いなあり方が露呈させられる。つまり、あの広大な「基地」は、日本政府が日米地位協定によりアメリカに差し出している「提供区域」であり、私たちが座り込んでいるこのゲート前が、日本の警察権力はもとより実質的には米軍もその配下にある自衛隊も、私たちに手出しできない法の空隙であることが開示されるのである。普天間基地のあの広大な飛行場が、日本の航空法適用外であり同時にアメリカ国内法規定に照らせば安全基準を全く満たしていない違法性の濃い施設である点は常に確認されていい。私たちが封鎖している普天間基地は、つまりはどこまでも無法なのであり、この事実を開示する力こそ、沖縄の非暴力不服従の徹底的抵抗が持続的に積み重ね洗練させてきた荒ぶる秩序を創りだす力である。そして、この非暴力の不服従抵抗には、場違いな場を顕現させる根源的な力がある。無法な施設を包囲することに法的になんの問題があるのか、もし問題があるとしたらどの国のどの法に抵触するのか、そしてその法は日本国憲法の下位規定として妥当性をもつのかどうか。そうした問いが一気に共起する。こうして、シンプルにして限りなく連鎖していく正義の問いが、ただ座り込むという完全な非暴力の力によって切り開かれるのである。この非暴力の抵抗には、新たな法の空間を準備し、生の秩序を更新させていく、そういう「神的暴力」(ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』)がある。そのことを、私たちは、私たち自身に知らしめていたと思う。
 そして私たち以上にこの力の発動を目の当たりにして、何かに気づき怯えていた人たちがいた。それは、ただ座り込むだけの者たちの肋骨にひびを入れるまでの怪我を負わせて「ごぼう抜き」し、法的根拠もないまま警察バスに国会議員や弁護士を含む市民を拘禁した沖縄県警と日本政府であり、そしてその県警に出動要請して市民を威嚇し続けたアメリカ軍である。これらの暴力組織の驚くべき脆弱さは、これらの統制のとれない不法な動きのなかに隠しようもなく顕れている。
 沖縄における場違いでイレギュラーな抵抗は、座り込むというただそれだけのふるまいにおいて、軍というシステムに深い亀裂を生じさせる力を私たちが保持しそして行使し得ることを、これ以上ないほどの明晰さをもって知らしめている。日米軍事同盟体制が真に恐れているのは、座り込むという所作において始まる私たちの平和への求めの連帯とその具体化である。この求めが、場違いであるなら、いま場違いであることは、生の必要条件である。
 あえて言えば、沖縄という場所で平和や反戦を求めることが、根源的な場違いでなくてなんだろうか。私たちは、断固として場違いなことを求めているのである。では、場違いな私たちは、断固として場違いな何を求めているのか。それはおそろしく単純なことである。それは場である。私たちが平和に生きていく場である。生きていく場を奪い、私たちが生きていく場を人を殺戮するための前線とする卑劣な力を排除し、私たちと私たち以外の誰もが、反戦の理念の実質化において生きていく権利への権利が占める場である。
 この求めは、断固として場違いであるがゆえに、基地のあるべき場所を指し示したり、基地の応分負担を求めるたぐいの主張とはまったく異なる。すくなくとも、私は、そう思う。基地が占めるべき場を語り配分を討議するための場が必要とあらば、基地封鎖のためにゲート前に座り込むことはない。そんな交渉の場ならば、日米政府が喜び勇んで公式非公式を問わず無数にお膳立てしてくれる。実際、沖縄をめぐる今の政治的駆け引きは、米軍再編という前提を追認する、基地の配分調整の場となりおおせている。日米首脳から「2+2」(アメリカ側国務長官と国防長官、日本側外務大臣と防衛大臣による日米安全保障協議委員会)そして沖縄県知事や宜野湾市長にいたるまで、オスプレイや基地そのものに反対することなど絶えてなく、そのような同盟などあるはずのない「日米同盟」なる虚像を言挙げしては国防の必要を執拗に確認し、基地の応分負担主張のみが沖縄からの訴えであるかのごとき粉飾に明け暮れるばかりである。その無残に耐ええぬがために、今回始まった基地ゲート前座り込みは、そのような場の配分にこそ留保なき拒否をつきつけていると、私には、そう思えるのである。今沖縄で生起している拒否は、単にオスプレイ配備のみに留まるのではない。基地そのもの、ひいては日米安保そのものへの拒否が始まっているのである。このとき、国防からこそ私たち自身の生の権利を守るための、絶対的な拒否が求められることになるはずである。
 この拒否には、危機の分散と配置を草の根から主張させる、軍事覇権と政治的駆け引きの結託を見抜く知性の力があり、共生を無条件のもとに求める優しさがある。人を思いやる勇気がある。ここにないのは、応分の負担と危機の配分を主張するような、どこにでも転がっている狡猾さである。普天間基地ゲート前への座り込みという直接行動は、いわゆる「復帰」後において初めてのことと言われている。むろん、そのことの持つ意味は非常に大きいし、沖縄を生きる人々の怒りと?りとは、いまや切迫した抗いとなり、その行動は、徹底さと遍在性を増してきているとはっきりと感じる。
 しかし、私には、それが突拍子もない出来事のようには思えない。もっと言えば、動きは徹底さを増しつつも、マグマは爆発寸前といったスケベったらしい煽りや激情を感じない。ことは、実に淡々と、しかも秩序と倫理とに基礎づけられた信頼に基づいて展開していると感じられる。そして、ここにこそ、一連の動きのなかに、この10数年のあいだ沖縄県北部の辺野古そして高江で持続されてきた反基地運動への無限の共振と共感が作用していることが、実に明瞭に顕れていると思えるのである。この動きが新しくかつ古いのは、沖縄のなかで、沖縄のなかに埋め込まれてきた出自や地域や階層そしてジェンダーによる分断を超えて、沖縄の運動の歴史的現在を学びなおそうとする姿勢が感じ取られるがゆえである。このとき、普天間基地ゲート封鎖は、辺野古と高江の現在を学び、そして伊江島の米軍土地収奪抵抗運動(1955年―)やCTS闘争(巨大石油備蓄基地建設反対の「金武湾を守る会」運動、1973―)を学ぶという教育的実践を包み込んでいるはずである。そして言うまでもなく、この教育的実践には、2004年8月13日の沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件に関わる傷の記憶の現在化があり、この記憶に関わる1959年の石川市宮森小学校米軍機墜落炎上事件の遠く深い呼び戻しがある。沖縄のなかで沖縄への学びなおしが始まるとき、運動という現場性の遍在化において、あらゆる場が抵抗の場となる。そのことは、場違いな行為が、私たちが生きていく場を、無数の伝播の力において生成していく営みに重なり繋がる。生の共同性が、ともかくも黙認のうちにまずは座り込むというふるまいにおいて模索され、場を占める。そして、米軍基地のただなかに、幾つもの未聞の「黙認地」が形成され、この「黙認地」に集う私たちは、米軍やその配下にある日本政府をはじめとするいかなる機関の黙認をも待つことも求めることもなく、ただひたすらに基地を見つめることになる。
 米軍基地のゲート前でまっすぐに基地に向き合い、そこに座り込むなどということは、私のような臆病者は、考えることさえできないことだった。というより、そのようなことができるとは大山ゲート前バス停にたどりついたときでさえ夢にも思ってもみなかった。しかし、普天間基地大山ゲート前舗道に陣する県警隊の間をなんとなく通り過ぎて着いたときには、私はもう座っていた。気取ったことを言いたいのではない。本当に、ただなんとなく座っただけなのである。ただ、座ったときに、この場違いな抵抗は、場を占めて別の場と場を繋げはじめ、急ごしらえの居場所がすでに生成されはじめていたのだ。この場の生成が、いかに重要な意味を持つか。そのことを、二重三重に私たちを取り囲む多くの沖縄県警隊の本当に虚ろな眼と、フェンス越しに一例に居並ぶ子供のように若い米兵たちの眠とが、あまりに明瞭に告げていた。彼/彼女たちは、場違いな何かが生起して自分たちをすっぽりと包囲し、何かが大きく変わりはじめたことを、おそらくは誰よりも明晰に感じ取っていたに違いない。そのことを証だてるように、彼/彼女たちの眼は、暗がりのなかでずっと怯えていた。座り込んだ者たちが、何を見定めはじめたかを、彼/彼女たちは、その心身の奧で受けとめ学びはじめたはずである。あのとき、何かがもう始まっていたのである。この始まりは、もはや排除によって押しつぶすことはできない抵抗の生の様式化へじかに繋がっている。

2 教 え

 しかし、この抵抗における生の様式化の「始まり」は、初めてではない。回帰である。沖縄に生きる者たちそして沖縄を生きる者たちは、遍在性において、この「始まり」を繰り返し生きてきたし、今も生きているし、これからも生きていく。そのことをはっきりと気づかせてくれるのが、次のような屋嘉比収の言葉である。まずは、屋嘉比の言葉と、屋嘉比の言葉のなかに呼び返される人々の声に耳を澄まそう。


 作家の崎山多美氏は、沖縄の復帰30年を問うエッセイのなかで、30年前の5月15日の雨の日の私的記憶として、「復帰ハンターイ」のシュプレヒコールをあげて行進するデモのなかに、制服姿で1人参加した思い出を書いている。その記述に対して、岡本恵徳氏は、30年前の沖縄の「デモ行進」が、1人の女子高校生の心をとらえるだけの輝きをもちえていたことが印象的だと述べて、次のように指摘している。
 つまり、1人で制服のまま中に飛び込む少女の、何ものかから解き放たれたいとする衝動を受け止めることの出来る“デモ”だったということです。私にもそういう解放感を求めてデモに参加した記憶があるので、余計にそういうところが印象に残るのかも知れません。デモという「政治的」行為が「個」の内面と分かち難く結びつくことの出来た時期があったということ、その「私的記憶」をどう語りえるか、そこが問題の一つなのだろうということです。
 30年前の沖縄のデモは、たしかにその形態や身振りや合言葉において、軍隊の行進の形から手が切れていたとは言えない。しかし、そのときのデモは、1人の女子高校生が制服のまま飛び込むことをうながすような解放感があり、「政治的」行為と「個」の内面とが分かち難く結び付いていたことも事実である。その意味で、岡本氏が言うように、その私的記憶を次の世代の若者たちにどのように語るかが今後の重要な問題だと言えよう。そして世代間を越えて、「政治的」行為と「個」の内面とが分かち難く結び付いた新しい反戦運動のかたちを、いかに創造できるかが今の私たちに問われている。(屋嘉比収「殺されたくないし、殺したくない」『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』世織書房、2009年、183―184頁。初出は、『現代思想』31巻7号、青土社、2003年)

 1972年5月15日の復帰反対デモへの参加を語る崎山多美の「私的記憶」を媒介として、屋嘉比が岡本恵徳の思想を「継承」しようとするさい、デモに参加する者の「身振りや合言葉」が思考され、そして、解放を求める「衝動」という働きにおける政治的なるものの生成が重視されている点は、示唆的である。そのとき「復帰ハンターイ」というシュプレヒコールは、その意味するところに焦点が絞られているというより、声そして身振りが開示する政治的なるものの現れのほうにこそ焦点化されている。言い換えるならば、デモに参加する人間の身体への働きへと、問いが差し向け直されているということになるだろう。しかも、このときデモに参加するという行為を「解放感」への求めとして語る岡本恵徳の「私的記憶」が、屋嘉比のなかで個と政治を繋ぐ結び目として再定義されている点は、看過されてはならない。というのも、解放感という自己の心身への働きかけ、あるいは身体からの自己への働きかけのなかからこそ、「政治的」行為が生成されていく「始まり」が、屋嘉比収と岡本恵徳の言葉の呼応のなかに発見されるがゆえである。つまり、「復帰」反対のデモに参加した記憶を語る崎山多美の言葉みずからの記憶を重ねつつ、そこに「「政治的」行為と「個」の内面とが分から難く結び付」くことの出来た瞬間を再起させようとする岡本の言葉に新しい反戦運動の未来を見出そうとする屋嘉比は、属性を問われない形で、なにものかから解放されたいという求めから始まる。私的記憶の政治的行為への転位を見ようとしているのである。
 このとき、「復帰ハンターイ」というシュプレヒコールに含意される政治的主張の厳密な意味はさほど重要ではなくなる。いわんや、これが沖縄闘争でありうるかどうかはさて置いていい。むしろここで大切なのは、政局論的に見れば完敗となった「復帰反対」からこそ始まる、集団のなか1人の闘いを闘いつつある無数の「少女」たちの、その「ハンターイ」という声が切り開く濫喩的な政治的なるものの現れが、注意深く聞き取られようとしているということである。1人の私的な記憶のなかに呼び戻されるデモへの参加を想起することが、歴史批判の現在化を可能とし、その現在を生きようとする身体の働きそのものが、政治的な濳勢力となって再発見される運動性が、言葉のリレーのなかに躍動している。
 この再発見を考えようとするとき、岡本恵徳のエッセイのなかの次のような一節が、私たちにさらなる想起を促していく。ここで岡本は、1950年代、「銃剣とブルドーザー」による基地用地強制接収という状況下で阿波根昌鴻たち伊江島土地闘争に関わる人たちの「乞食行進」に接した「私的記憶」との批評的対話を始めている。この対話において注目すべきは、私的記憶を政治的行為へとつなげる営みが、阿波根昌鴻という具体的な他者の不測の教えにさらされる契機として感受され、「私的」なるものの不断の書きかえを生起させていることである。


 今では伊江島土地闘争のシンボルとして伝説的にさえなっているいわゆる「乞食行進」だが、当時はそれについてもネーミングの仕方に釈然としないものを感じていたという記憶が残っている。阿波根氏の考えることは理解できないわけではなかったが、正しい主張をしているのに何故「乞食」なのか、もっと堂々と胸を張るべきではないか、などとそのネーミングが卑屈なものに思えたものであった。むろん、だからと言って支援しないと言うことではなかったが…。
 これは、強制接収に遭った「現場」の闘争の抱える矛盾や苦悩を理解できない者の能天気な感想と言うよりないが、今考えると、「乞食」というネーミングの仕方に込められた“思い”のあり方、発想の仕方を掘り下げることで、半世紀以上もの長い時間平和運動に生きて来た阿波根氏の思想の拠り所、あるいは伊江島土地闘争を支えてきたものの性格を捉えることが出来るし、そうすることが大切なのではないかという気もしてくる。
 阿波根氏の訃報に接した日、あらためてその著書『米軍と農民』(岩波新書)を読み返したが、その時初めて、氏が極めて実践的な戦略家であり、有能な実務家であったこと(これは運動のリーダーとして必須な資質に違いない)に気がついて、意外な感にとらわれたことであった。例えば米軍との交渉に行くとき、あるいは琉球政府や議会に陳情するとき、前もって細かい戦術を練り上げ文書にして皆が確認した上で行動に移すということがある。また、氏が「記録」することの重要性を強く認識していたことは残された膨大な資料の存在が証し立てている訳だが、そういう価値の認識の仕方やその実践が、氏の優れた実務家としての資質と才能を示しているのに違いない。(岡本恵徳「阿波根昌鴻氏を悼む」『沖縄タイムス』2002年5月29日)


 ここに見出されるべきは、時間差を経て唐突に現れる教えの場の創出というプロセスである。教えた者にも教えられた者にも、そのさなかにはそれとして気づかれることのなかった「教え」が、岡本恵徳と阿波根昌鴻という2人の間で2人に知られることなく生じている。岡本が感受しているであろう阿波根の「教え」は、阿波根の教育的意図に基づくというのともおそらくは違う。むしろ、「私的記憶」への省察を経て現出することになった阿波根の実践の持つ力を、阿波根その人が気づかなかったかもしれない教え導く力として出現させているのは、受けるともなく教えを受け取った岡本の「自己」を反省的に組み換える力と言えるかもしれない。岡本の読みのなかでこそ、阿波根たちの運動のなかの教えと導きが顕在化し現在化されているのである。こうして、阿波根昌鴻といういわば出来事は、繰り返し幾度も、私たちのなかに現れる。
 たとえば、「乞食」という言葉についていえば、それが「卑屈」と捉えられるかもしれぬことについて、おそらくは誰よりも明晰に、そして痛覚をもって意識的であったのは、阿波根昌鴻その人であった。岡本も挙げている『米軍と農民』のなかで阿波根は、「乞食行進」を始めるにあたって仲間たちと話し合ってみんなで書いた「連絡書簡」のなかから、まるで自らの心身に刻印された「傷」を指し示すように、次のような言葉を引用している。「乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり全住民の恥だ。しかし自分らの恥より、われわれの家を焼き、土地を取り上げ、生活補償をなさず、失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死なれず乞食にまでおとし入れた国や非人間的行為こそ大きい恥だという結論に至りました」(同書、127頁)。ここに読み取られるべきは、阿波根たちが、「乞食」という自己規定の言葉を選びとることで、「乞食」を生み出す国家や社会のあり方とそのあり方を黙認する人々に、傷という回路を開いていることである。「乞食」という言葉は、それに触れる者にある傷をあたえないではおかない言葉である。
 このとき、「乞食行進」は、その行為遂行性において、不可視化されようとする存在の可視化の賭けとなる。この「身振りや合言葉」(屋嘉比)に湛えられているのも、傷を回路とした教え以外ではない。「乞食」とみずからを呼ぶ者たちのデモに接する者たちは、みずからもまた、米軍というシステムが産出する〈傷=乞食〉であることを、みずから自身の力で気づくことになる。知るまい、見るまいと思ったときには、すでに「乞食」という呼びかけは届いているのであり、その呼びかけが心身に刻印する傷は、深く感受されてしまっている。その時もう何かが始まっているのである。おそらくは、阿波根たちの「乞食」という言葉に支えられた行動を、50年の時間を経て、それを「卑屈」と捉えた自らの「私的記憶」のなかで問い直している岡本は、阿波根の遂行的矛盾の可能性に満ちた「発想の仕方」にとらえられていると、そう言えるように思えるのである。ここにあるのも、抵抗の生の様式化の始まりの共振と再起であることは疑いようがないが、さらに重要なのは、こうした抵抗の実践の核心的な場所に、「記録」という抵抗が再発見されていることである。
 伊江島土地闘争が、沖縄本島の政治経済の中心部であり琉球政府「首都」である那覇の人々そしてアメリカ軍と日本政府に対して「乞食行進」を通してみずからの生を開示するさい、基地が、「乞食」を生産する制度にほかならないという事実が暴かれる。そして、土地闘争が、取引ではなく生存権への留保なき求めであることをこそ、「乞食」という言葉の投企が可視化する。そのことを、岡本は、私的記憶への批判的関係を通して、確かに受けとっていると言えるだろう。「陳情」のなかで、「行進」のなかで、そして座り込みと記録という営みのなかで、土地闘争に関わる人々は、みずからの行為が切り開く共同性によって、即座に、あらゆる場所に政治的な場が生成されていく。そして、そのことを、時間差を孕みながらも、教えとして、導きとして、それに接する者がみずから受け取り、みずからを変えていくのである。
 そうした身体の政治としての「記録」の可能性を証だてるのが、阿波根たち伊江島の真謝地区の人々が話し合い練り上げた「陳情規定」である。その11項目のなかに、「1、耳より上に手をあげないこと(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったといって写真をとる)」という規定がある。この闘争の非暴力性をあますことなく伝える大切な規定だが、この規定はそれ自体が非暴力であるばかりでなく、同時に、相対峙する米軍が必然的に非暴力化してしまうほかないようにするぎりぎりの対抗的な導きでもある。しかも、この規定は、偽の証拠写真を米軍に撮られないための抵抗の方法であって、そのことが明らかにするのは、阿波根たちの非暴力直接行動が、みずからが記録する行為遂行的存在であることを相手側に記録させる側面をも持っていたということである。どこまでも非暴力徹底不服従を貫く人々が米軍と対峙してみずからを記録するとき、伊江島の土地闘争は、途方もない暴力装置としてのアメリカ軍の刻心を露呈させてしまう。たとえば、阿波根たちが撮った無数の写真からなる『人間の住んでいる島――沖縄・伊江島の土地闘争の記録』(1982年)は、どこまでも美しく崇高であるが、どの写真にも記録する衝動以外の意図が感じられない。そのことは、写真を撮ることが即ち闘争であり、その闘争は、自分たちが島で生きていることを記録することによってこそ現出する権利への渇望そのものであることをこそ開示している。たとえば、そこに写されている爆死した2人の住民の輪郭も定かでない遺体と米軍に撃たれた2人の射殺された体と、傷ついた半身を起こしてこちらを見ている2人の少年の傷ついた身体とまなざしは、まっすぐに、それを見る私たちを見ている。損傷はげしくゆがんだ体を歪めつつ地に伏す2人は、その姿を記録に留めることによって、永遠にその生存する権利を求めつづけている。そして、私たちは、この写真に永遠にさらされているのである。
 阿波根昌鴻たちの反戦平和の求めには、いかなる代替案も交換条件もない。求められているのは、生そのものである。その生への限りない求めにおいて、個の内面と政治的行為の間に隔たりなどありようのない場所で、記録の組織化を促す「私的記憶」が、不測の教えとなって未来に贈られている。
 阿波根昌鴻たち真謝地区の人々が、1954年沖縄北部の伊江島で、米軍の土地強制接収に対する抵抗運動のなか協働で創りだした「陳情規定」に、次のような規定がある。「一、必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと」「一、会談のときは必ず座ること」「一、集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと」「一、人道、道徳、宗教の精神と態度で折衝し、布告・布令など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること」「一、軍を恐れてはならない」。そして、それらの規定すべての上位規定のように、劈頭に「一、反米的にならないこと」と書いているのである。反基地運動の「始まり」におかれた「反米的にならないこと」という掟がいかに難しく、かつ重要であることか。反米的な暴力組織を必要としているのは、つねに米軍でありその配下にある日本政府である。闘う自らの命を守るためにも、対峙する米兵たちの一人一人の人間としての尊厳を認めることは、厚意のレベルでは全くなく抜きさしならぬ闘いの条件なのである。そして、この闘いの方法と成り立ちを相手に対して「秘密」として保持することで、自分たちの命を守り通すということが絶対的な条件となって実現される。
 この「陳情規定」の成り立ちについて、阿波根昌鴻は次のように書いている。「陳情規定はだれがつくったかということでありますが、だれがつくったかよくわかりません。それに真謝の人間はあまり程度の差はありません。農業をすると、ほとんど智恵や能力は変らなくなります」(『米軍と農民』53頁)。
 巨大な軍事組織と国家暴力への抵抗が、まずもって「みだりにしゃべらない」というふるまいのうちに始められていることに、私たちは注意深くあっていい。そして、この方針について「だれがつくったかわかりません」と明言することの遂行的矛盾の政治的可能性もまた、いま私たちが学ぶべき大切なふるまいと思える。「真謝の人間はあまり程度の差はありません。農業をすると、ほとんど智恵や能力は変らなくなります」という言葉に湛られているのは、謙遜というより秘密の始まりであり、匿名性のなかで、占領下の超越的法則たる米軍布告布令への不服従が方針化されていたことを、今私たちは、迫りくる未来の記憶として、私たちの間で「みだりにしゃべることなく」保護する必要がある。
 私たちがいま感受していくべきは、秘密の言葉と所作を無数に生み出し、これを暗号のように縒り合わせ、伏流し分岐する共謀を生み出していく営みの蠢動である。2014年この夏の今、すでに辺野古への新基地建設をにらんだ政治的暴力が猛威を振るい、これに抵抗する私たちに、無法な法がその効力を発揮している。しかし、この決定的な時において、ある流れのさなかに逆行する流れを生成させていく「反操行」(ミシェル・フーコー)が始まるだろう。というより、それは既に始まっている。2012年、先述した普天間米軍基地ゲート前封鎖の座り込みが始まった時、私たちは、「真謝の人間はあまり程度の差はありません。農業をすると、ほとんど智恵や能力は変らなくなります」(阿波根晶鴻)という状態に限りなく近似し、「みだりにしゃべる」ことなく、私たちの秘密の時間と場所を共に創りだしていたと思える。そして、私たちもまた「だれがつくったかわかりません」と、ウソ偽りなく語ったのである。こうした秘密へむけた協働作業が、辺野古・高江の反基地運動を展開していくなかで全国的に始まるのは、必然である。
 成立してしまった特定秘密保護法は、「秘密」の要に沖縄を据えて国家が自らを神秘化しようとするまさにその過程において、機能不全に陥るだろう。この法は、沖縄に躓き、沖縄に浸食される。その過程で、私たちはみな、日本という傀儡国家に隠すべき大した秘密などはじめからないことを知悉していくだろう。そして、安倍晋三極右政権もまた、歴代内閣がそうであったように沖縄に躓き、倒れていく。なぜなら、国家が秘密としようとするその域内でこそ、沖縄に生きる私たちは自らの秘密を生成してこれを保護し、非国民たる無数の共犯者たちに「ほのめかし」て、これを無限に転送の回路にすべり込ませていくからである。むろん、そうした作業をだれがいつ始めたのか、ついに私たちは知ることはない。だから、「だれがつくったかわかりません」とつぶやくだけでいいのである。
 特定秘密保護法の無法ぶりは、既に多くの人々によって指摘されており、ここで繰り返さないが、この法が沖縄に関わるとき、その「効力」を発揮するだろうことを、残念ながら疑うことができない。沖縄で生きる人間がさらされている政治的暴力が、この法がターゲットとする「外交、防衛、テロ活動、スパイ活動」の恣意的適用に直接に関連してくる以上、基地に囲まれた沖縄は、まるごと「秘密」となる。となれば、これから起きうる事態を、沖縄に生きる私たちの生そのものが国家機密として封印され抹消される、そうしたファシズムの本格的始動ととらえる必要があると感じられる。つまるところ、沖縄で暮らして基地に反対し軍事主義に抵抗する者は、潜在的な犯罪者となり、石破茂自民党国会議員の言を借りれば、潜在的テロリストということになるだろう。
 むろん、いかなる国家にとっても、全国民を含む領土に生きる者すべてが常に潜在的な国家反逆者であり、時をとらえてこれらを無差別に処すことは国家の常道である。この点、今回の特定秘密保護法と解釈改憲による集団的自衛権行使容認の閣議決定は、原発危機という決定的亀裂に陥って、自らがテロ組織であることを日本国家がようやく表明するに至った事態として見るべきだろう。今も昔も、テロは、「国家理性」の核心である。そして、沖縄に生きる者は、生ける「秘密」となり、国家主義的欲望の触媒として活用され、破棄され、バーゲニングされていくだろう。ここに、危機の創出にむけた、国家テロの新たな展開がある。
 こうした絶望的な状況の進行のなかで、沖縄に生きる私たちは、沖縄を生きていくというその営みを、はたして、このファシズム体制への抗いへと変えていくことは可能なのだろうか。絶望だけが残された道だろうか。おそらくはそうではない。私には、抵抗だけが残された道と思えるし、そこにわずかな希望があると感じられる。
 その抵抗の可能性を、私は、漠然と次のように想像している。つまり、国家によって捕縛されえぬ私たち自身の秘密の領域を国家機密のただなかに埋め込み、これを特定秘密保護法の域内で拡散しながら国家の法を無効化し、私たちの秘密を決して漏らすことなく「ほのめかし」ていく作業を重ねていくという作業のことである。その作業の要点を言うとすれば、外交、防衛に関する秘密を国家が「保護」しようとするその同じ作用点で、私たち自身が、「外交、防衛」に関わる私たち自身の秘密を創りだし、これを私たちの隠された共同性のなかに隠匿し、拡散させ、掻き消していく作業である。この私たちの秘密保護のなかから、国家を引き裂く私たち自身の幾多の秘密が、国家を超えた多様な横断のなかでシェア-され匿われることになるだろう。この秘密の生成と拡散に、国家の法は、決して追いつくことができない。なぜなら、それらは、私たち自身にさえ気づかれることなく、私たちの間に匿われるからである。
 まずは座り込むこと。集まること。話して互いが秘密を創りだし、人にこっそり伝えること。秘密について聞かれたら嘘偽りなく「知らない」と言うこと。飲み食いすること。好きになること。嫌いになったら距離を置いて互いに見えないふりをして互いを少し気遣うこと。寝ること。休むこと。書くこと。読むこと。座って疲れたらぶらぶら歩いて群れを離れること。あたりを眺めること。敵に挨拶を送ること。ゲートの向こうに生きている見えない人たちの元気を願うこと。正しくないことを退け、人を属性で排除しないこと。自分を排除しないこと。傷つきやすく、どこまでも脆い私たちのこの身体に能うかぎり配慮すること。
 むろん、こうした身体の働きを、政治的暴力の発動下で実現していくことは、あらゆる意味で難しい。だが、そうであるにもかかわらず、すべてがこの沖縄においてなされてきたことであり、今の今なされている営みである。個の内面と政治的行為を繋ぐのは、私たちが生きていく場を、場違いなままに生成させていく私たちのこの身体である。この身体の「身振りと合言葉」が、私たちを、私たち自身の組み換えにむけて導いていく。その導きを自らの心身に導きいれることができるのは、この私たちだけである。伊江島の土地闘争のなかで射殺されていった人たちの傷ついた遺体から送られ贈られている生きられた記憶と生きたかったという記憶の呼びかけが、そして、銃撃された傷を抱えながらこちらを見据えている二人の少年の無言の呼びかけが、傷という回路を介して私たちに届いている。この呼びかけから、あらゆることが始まる。というより、それは始まっている。傷つきやすくどこまでも脆い私たちのこの身体が、傷という回路を生みだし、他者そして自己との関係を更新していく。そして、あらゆることが、ここから始まるのである。
 この始まりの思想=実践的可能性を、これから、本書に収められた論考において考えていくが、各論考が書かれたその時々の状況の痕跡をあえて留めるために、初出形の記述に極力手を入れないこととした。現時点からみて情報として古いところもあるが、具体的な状況のなかで、状況に抗う営みとして書かれた文脈を、本書においては重視したいと思う。この点、本書を読まれる読者の方々に予めお断り申しあげたい。


 以下、例によって、目次を!

『沖縄の傷という回路』  【初出】
 序 生のほうへ
  1 普天間米軍基地ゲート封鎖という出来事
  2 教え
  3 秘密の生成と転送

Ⅰ「集団自決」という傷をめぐって
 第1章 沖縄の傷という回路【『世界』824/201112】
  1 原発と沖縄と――危機の産出と危機の隠蔽
  2 八重山教科書問題から痛みの記憶を拾い集める
  3 国から自律した生の繋がりと傷という回路へ
 第2章 反復帰反国家の契機――岡本恵徳の思想を読む【『戦後日本スタディーズ2 60・70年代』200905】
  1 反復帰反国家の回帰――「日米共同声明」と国政参加拒否
  2 「異質性」という争点
  3 岡本恵徳の「水平軸の発想」――「集団自決」と復帰運動との葛藤から
  4 ふたたびの国政参加拒否のために
 第3章 聴く思想史――屋嘉比収を読み直す【『沖縄文化研究』201203】
  1 「当事者性の獲得」という試練
  2 「他者の声」と「仲間内の語り」
  3 聴く思想史へ――沖縄研究批判としての沖縄学へ
 第4章 故郷で客死すること――『名前よ立って歩け 中屋幸吉遺稿集』論【『International Journal of Okinawan Studies』3-2/201305】
  1 「名前」の前で
  2 非-主体化する呼びかけ
  3 「世界の内部にオキナワがあるとして・・・・」という声
  4 故郷で客死すること――「殺スノモ 死ヌノモ ムツカシイ」

Ⅱ 回帰する傷たち
 第5章 「死にゆく母」のまなざし【『LP』11/201006】
  1 死にゆく母が見ていたもの
  2 「炎える母」へ
  3 死にゆく母を身ごもる
 第6章 音の輪郭――高橋悠治の音楽とイトー・ターリの身体パフォーマンスを繋ぐ場所【『残傷の音――「アジア・政治・アート」の未来へ』200906】
  1 アメガフッテイル
  2 ドウシヨウモナク イタシカタナク ヌレテユク
  3 身ぶりの音
  4 不意なる遭遇にむけて
 第7章 山城知佳子の映像を読む――汀の眼、触れる手、顔の中の顔【『阪田清子・山城知佳子展記録集』200909/『MAM PROJECT 018:山城知佳子』201212】
  1 「水の女」、というのではなく
  2 一つの渦、一本の管、一枚の水の鏡
  3 脱自エクスタシスの倫理エシックス
  4 聞こえてくる声、切れ繋がる身体の群棲へ

Ⅲ 他者の傷を迎える
 第8章 「不安定の弧」の対位法――沖縄にアラブ民衆蜂起を引き寄せる【『現代思想』臨時増刊号201104】
  1 「合意」の彼方へ
  2 「商談」のテーブルに着かないこと
  3 蜂起を輸入し転送する
 第9章 琉球共和社会憲法試案という企てと脱国家――沖縄と広島と難民【『年報カルチュラルスタディーズ』1/201307】
  1 憲法を試作することと国家概念の再政治化
  2 沖縄を否定的媒介として/国民と国家とナショナリズムを養護する倒錯
  3 難民/――東琢磨『ヒロシマ独立論』からクィア・ネイションを介してふたたび沖縄へ

あとがき


【2015.03.31】フォーラム「道標(しるべ)求めて―沖縄の自己決定権を問う」を読む

 とうとう、沖縄は日本政府との「対峙・対決」の局面に突入した。否、日本政府は何が何でも沖縄を押し潰さんとしている。辺野古新基地建設(百年使用の最新鋭の巨大基地基地の新設だ!)が「普天間移設」を口実に米帝の意を呈した日本政府・安倍の暴挙以外の何ものでもない。もはや、「負担軽減」など誰一人信じてはいない。
 日本は「戦争のできる国」から「戦争をする国」に一歩も二歩も踏みだそうとしている。辺野古新基地建設阻止は、日本の民衆の「反戦平和」の試金石でもある。誤解を恐れずに言えば、「憲法を守れ!」ではない、この辺野古の闘いに勝利しなければ日本の民衆にとって「憲法」は守れないのだ。

 琉球新報の連載コラム「道標(しるべ)求めて」を受けて、琉球新報社と沖国大学産業総合研究所によって、同フォーラムが2月15日に開催された。1995年のあの痛ましい少女性暴力事件から、「復帰」後、最大の沖縄民衆の闘いが始まったが、もはや「復帰」が、紛れもなく日本による「併合」でしかないことが、この20年の間に顕在化していったと言えよう。例えば同コラム2月4日号では「琉米条約160年 主権を問う」/「第7部 青写真 連邦・国家連合」で、「琉球が本来は独立国であるという認識から出発すべきだった」という1974年の平恒次(宮古島市出身で米イリノイ大教授)の「日本国改造試論」に言及している。さらに風游子も度々取りあげている琉大教員の島袋純の「沖縄独立-連邦制国家日本」へのタイムテーブルを「沖縄の自治拡大案」として紹介。

  ◎島袋純「沖縄の自治確立、1、短期・2、中期・3、長期展望について」
  ◎風游<島袋純「沖縄の自治確立」を読む03.7.29>

 さて、同フォーラムの報告が琉球新報2015年2月19日に5面をぶち抜いて報告。姜尚中の基調講演 「脱冷戦で基地縮小へ」から、第1部「歴史の教訓、そして未来へ」では、上村英明「条約と琉球併合」と島袋純「沖縄の自己決定権」の二人による冒頭提起から五人の識者によるパネルディスカッション。第2部は「自己決定権と沖縄経済」をめぐって、富川盛武の冒頭提起「潜在成長力高い沖縄」を受け、二人の企業人(あのかりゆしグループの平良朝敬氏CEO琉球も登壇)を四人によるパネルディスカッションで、県経済の現状・自立への提言・アジア戦略を語った。
 その中で、姜尚中は東アジア共同体を目指して、「東北アジア諸国連合(ANEAN)結成」を語っていた。

道標(しるべ)求めて フォーラム:自己決定権回復し繁栄を(琉球新報20150219)
 ●基調講演 脱冷戦で基地縮小へ  姜 尚中氏(政治学)
 ●第1部 歴史の教訓、そして未来へ
  ○冒頭提起① 条約と琉球併合  上村英明氏(国際人権法)
  ○冒頭提起② 沖縄の自己決定権  島袋 純氏(行政学)
 ●第2部 自己決定権と沖縄経済
  ○冒頭提起 潜在成長力高い沖縄  富川盛武氏(経済学)



【2015.03.03】大野光明の『沖縄闘争の時代1960/70』(人文書院2014年9月20日)を読む。

 小熊英二が1962年生まれだと知って、「そうか、全共闘運動も、こんな風に歴史になるのか」との感懐を禁じ得なかった。『〈日本人〉の境界』(新曜社1998年7月)である。「復帰/反復帰」がこのように「歴史」として語られるようになるとは思わなかった。それ故、突っ込みどころ満載の同書であったが、「それはさておき・・・・」と読み進めてしまった。
 ところが著者の大野光明は1979年生まれである。そして「沖縄闘争の時代」である。

 多くの未筆の領域があるにせよ、「竹中労/島唄」から「沖青同」に至るまで照射した著者の問題意識とその「業績」を、取り急ぎ称賛したい。そして、以降50年にわたる「沖縄闘争」の現在にもコミットしている筆者の「歴史社会学」を超える考察を期待したい。
 「終章」での“ここまで論じてみて改めてつきつけられるのは、沖縄闘争の時代と現在との目眩をともなうような断絶である”の言や良し。「復帰・奪還/返還粉砕」が混濁したまま、「オール沖縄」と「自治・自立・自決」をめぐる<政治>が、現在、喫緊の課題として浮上している。そして、辺野古である。
 「復帰運動に対する総括を込めて座り込む」(比屋根照夫)と語られ、「復帰(運動)」が総括抜きに「全否定」され、沖縄の民衆史-社会運動との脈絡から外れたところで、「独立」が(そう、居酒屋の内外で!)論じられている今こそ、アジア・環太平洋規模での「実践」が問われている。琉球新報20150205の連載企画「道標求めて94」では、琉球民族独立総合研究学会共同代表の友知政樹は“独立を掲げる政党の発足を目指す”とも語っている、という。
 取り急ぎ、例によって目次をアップする。


沖縄闘争の時代1960/70
   -分断を乗り越える思想と実践-

  大野 光明
     (人文書院2014年9月20日)

目次

序章
 1 沖縄問題
 2 本書の目的
 3 これまでの研究と本書の課題
  3-1沖縄戦後史研究
  3-2冷戦史研究
  3-3社会運動史研究と社会運動論
 4 本書の方法
 5 本書の構成

第1章 沖縄闘争の時代
 1 戦後という暴力-地政学的分断と冷戦体制
 2 1950年代―革新ナショナリズムの共鳴
  2-1 沖縄の土地闘争
  2-2 革新ナショナリズムの共鳴
 3 冷戦体制と沖縄問題との相克
  3-1 60年安保闘争と冷戦的分断
  3-2 沖縄返還要求国民大行進がつないだ人々・経験・運動
  3-3 冷戦体制と復帰運動のせめぎ合い
 4 沖縄闘争の時代
  4-1 沖縄統治政策の転換
  4-2 復帰運動からの量的・質的な変化
  4-3 アリーナとしての沖縄闘争

第2章 ベトナム戦争下の沖縄闘争
  -ベ平連の嘉手納基地ゲート前抗議行動と渡航制限撤廃闘争
 1 なぜ、どのように沖縄問題に取り組むのか、という問い
 2 ベトナム戦争の時代
  2-1 ベトナム・日本・沖縄
  2-2 「わが内なるベトナム」認識の形成
  2-3 ベトナム反戦運動から沖縄問題へ
 3 米軍嘉手納基地ゲート前抗議行動と渡航制限撤廃闘争
  3-1 本土からの参加者の逮捕事件
  3-2 救援活動と身柄の釈放
  3-3 渡航制限撤廃闘争
 4 共鳴する怒りと立場性をめぐる議論の噴出
  4-1 連帯への評価、共鳴する怒り
  4-2 本土/沖縄の二分法の構造へ
  4-3 立場性をめぐる議論の噴出
 5 沖縄問題という構造を越えて
第3章 大阪のなかの沖縄問題の発見
  ―大阪沖縄連帯の会を事例に
 1 足下の「沖縄」
 2 大阪と沖縄
  2-1 流民たちの都市
  2-2 泉州地域と繊維産業
 3 大阪沖縄連帯の会(デイゴの会)
  3-1 「沖縄を忘れることの出来ないあなたに」
  3-2 結成総会
  3-3 活動の概要
 4 「大阪のなかの沖縄問題」の発見
  4-1 転換点としての七夕フェスティバル
  4-2 「大阪のなかの沖縄問題」への取り組み
  4-3 拡張する沖縄闘争
 5 沖縄返還運動から地域社会の変革へ
第4章 復帰運動の破綻と文化的実践による沖縄闘争の持続
  -竹中労、ルポルタージュ、島唄
 1 沖縄闘争のなかの文化へ
 2 下層社会と芸能ルポ・ライター
 3 ルポルタージュが照射するもの
  3-1 竹中の足跡
  3-2 復帰批判のルポルタージュ
 4 島唄論―復帰の「失敗」の創出
  4-1 プロテストソングとしての島唄
  4-2 復帰の「失敗」をつくる/生きる
 5 文化と政治
第5章 横断する軍事的暴力、越境する運動
  ―沖縄におけるべき平連運動と反戦兵士たち
 1 基地の「撤去」ではなく、軍隊の「解体」
 2 グローバルな反戦・反軍運動と沖縄
  2-1 米兵の抵抗運動
  2-2 グローバルな反戦・反軍運動の沖縄への介入
 3 沖縄のなかのベ平連運動
  3-1 沖縄でベトナム戦争に反対するということ
  3-2 行き場のない人々とスタイルとしてのベ平連
  3-3 沖縄ヤングベ平連の「インターナショナリズム」
 4 軍事態勢への怒りの共鳴
  4-1 連携のはじまり-ベ平連のネットワーク
  4-2 深まる共闘と理解-横断する暴力と怒りの共鳴
 5 越境とコンフリクト-境界線の再生産
 6 ヴァイブレーションと政治
第6章 沖縄闘争と国家の相克
  -沖縄青年同盟というコンフリクト
 1 震源地
 2 沖縄青年委員会の誕生-復帰運動の内部矛盾からの再出発
 3 沖青委の分裂-対立点の生成
  3-1 中核派との対立
  3-2 沖縄闘争の違いの顕在化
  3-3 富村順一公判闘争をめぐる対立-政治のとらえかえし
 4 沖縄青年同盟-沖縄国会への異議申し立て
 5 「在日沖縄人」という亀裂-沖縄闘争と国家
  5-1 批判の声
  5-2 植民地解放闘争としての沖縄闘争へ
終章
 1 沖縄闘争の力学
 2 復帰のとらえかえし、あるいは政治の創造
 3 沖縄闘争の時代の先へ

あとがき
参考文献
関連年表



【2015.01.03】 阿部小涼「草の根で新たな政治へ 県民、生存選ぶ未来選択」を読む

 沖縄講座ブログ<<作成日時:2014/11/20 20:57>>に「沖縄知事選勝利の意義2」と題して、11月20日付沖縄タイムス文化欄に掲載された阿部小涼(琉球大学教員)さんの「草の根で新たな政治へ 県民、生存選ぶ未来選択」について紹介がアップされていた。
 いささか旧聞に属するが、衆院選の「島ぐるみ候補」の全選挙区完勝(自民全滅-比例で復活)を受け、日本政府の苛政が飽和状態にまで煮詰まりを見せつつある現在、この「秀逸な評論」について再度言及する必要に駆られた。とりわけ阿部さんが“この選挙をメルクマールとして、新しい政治を見いだすならば、それには批判と反省が伴わなければ意味がない”と強調する以上なおのこと、と思われた。
 それにしても、「面会謝絶」で逃げ回る一国の首相の醜態を見るに付け、暗澹たる想いを禁じ得ない。

 さて、沖縄講座ブログでの称賛はそれとして首肯した上で、こう言っては礼を失するかも知れないが、余りにも阿部さん自身が旧来の保革構造に囚われすぎているのではないかと思われた。少なくとも半世紀も前から(個人的には半世紀も費やしても何事もなし得なかったような徒労に見える歳月に慨嘆を禁じ得ないが)、「55年体制」(沖縄での「68年体制」)への批判は存在していた。例えば、転進した「沖縄保守」への“社会的なものとしての市民性を、沖縄の保守はどのように涵養してきたか。社会運動への参加や取り組みの不在は課題とされただろうか”と言う火の粉は「沖縄革新」にも降りかかる。“いら立つ”ような「イデオロギー」を革新は錬磨してきたのか。余りにも沖縄革新に対して「過大な評価」である。それこそ、ここ数年、澎湃と湧き上がった「復帰運動」の再解釈が、「反復帰論」の総括とどのように切り結んできたのか。
 私は復帰運動が「新たな神話」となり、反復帰論(残念ながら「運動」として浮上することに成功しては来なかった)も包み込んで語られること(日本-沖縄関係の反転!)に、人民党であれ社大党であれ、そしてとりもなおさず沖縄民衆の圧倒的多数の共有された「復帰運動」の「歴史の理想化」を、「捏造に近い」と指摘してきた。しかし、「民族自決権」ならざる「自己決定権」の発揚は、「保守対革新」から、確実に「自立対隷属」へと転換してきた歴史を見ないわけにはいかない。
 仲井真のような「植民地官僚」以外の何ものでもない人物を「沖縄の恥」と指弾する勢力が「保守」から生み出されたことは必然であった。「改憲-壊憲」が、多くの論者によって「日本が投げ棄てた憲法を沖縄が引き受ける」ことを語る。あたかも「構成的権力」の胎動のように。

 だが、それ以上に阿部さんの論考に違和感を覚えたのは“政治哲学的には訂正を求めたい”と語り、“アイデンティティ”の“誤用”を鋭く批判する点である。もちろん「オール沖縄」も「島ぐるみ」も再審されてしかるべきではある。私は、琉球・沖縄の「社会的コンフリクト」(それは政治にも、経済にも敷衍している)の解剖こそ必須の命題だと思い続けてきた。世界史的に、民族自決の勝利=独立の獲得から、新しい国家と社会の建設が如何に苦渋と困難に充ち満ちているか、そして宗主国(=日本)への批判糾弾・分離解体だけでは、事の半分にも至らないことかを、私達は知っている。ましてや「琉球独立」が「琉球王国」を参照して語られてしまうと言う「反動」を見るにつけ、その思いを深くする。

 もちろん、「島ぐるみ会議」や「ひやみかち うまんちゅの会」の行く手には、日本政府による恫喝と懐柔を駆使しての更なる沖縄への「差別抑圧・支配分断」が待ち受けている。しかし、多くのウチナーチュはきっぱりと「自発的隷従」(仲里効)を退けた。そして比例復活を遂げた「自民党議員」の動向を注視すべきであろう。

 “言葉は不変のものではなく、歴史性を背負いダイナミックに変容するもの”であるという阿部さんの提起はそのまま、「イデオロギーではなくアイデンティティ」という“言葉”を生み出した沖縄の未来に、私も含め多くの人々が多大な期待を寄せたのであろう。そこでは“政治哲学”も“社会学”も、「解釈」としても存在し得ない。かつて「社会学の手法で読み解いた」と豪語した『無意識の植民地主義』の「浅薄なルサンチマン」を思い出すまでもなく、学問なるものが「反知性主義」に絡め取られているかの如き様相を呈している現在、数少ない「行動する知性」としての阿部小涼さんの「活躍」に敬意を払いつつ、それ故の「批評」である。乞うご容赦!

 「血みどろの闘いに突入するかも知れない沖縄」(佐原一哉)に、思いを馳せて……




県知事選 結果を読む ㊦
草の根で新たな政治へ 県民、生存選ぶ未来選択



阿部 小涼


 家族でともし続けたキャンドルの揺らぎ、座り込む隣の人と組んだ肩の震え、太陽と波に挟まれ上がっていく心拍数、野戦訓練の怒号と風にかき消される鳥の声。あまりに早い当確報道のずっと後から、そのような記憶の断片がせり上がってきた。紛れもなく今回の選挙結果は、軍事基地を拒否し座り込みを続ける人々たちと、それに共振する人びとの想像力によってもたらされた。これからますます多くの人びとが海にこぎ出し、森に座り続けるだろう。学生たちは正義を貫く故郷の大人たちを信頼して旅立つ。そして再びこの島に戻って明日の子供たちを温かく送り出すことだろう。これはまさに、希望というべきもの。この希望のために、私たちが今度の選挙で何を成し得たか、大急ぎで4つの点を確認したいと思う。
 何よりもまず、グラスツール(草の根)が新しい政治を創出しようとした試行錯誤がある。辺野古・高江・普天間の直接行動があって初めて、今回の結果は意味を成したのであり、政党と利害団体のトップダウンで政治方針が決まるのではない。無党派の支持、投票率の徴増傾向は、たとえわずかな兆候でも、民主主義の発露を示している。
 高江のヘリパッド建設反対の呼びかけに候補者が応えた(公約に正文化されなかったことこそ惜しまれるが)ことは社会運動の先駆性を示した。代表政治が直接投票を裏切って十数年もの遠回りを課たした名護の市民投票と高江の区民総会決議に、ようやく私たちの選挙政治が追いついた、そのように説明することも可能だろう。
 2つめは、反基地・反原発・反カジノを揚げた候補者を当選させた今日にふさわしいボジティヴな結果である。いずれもメインストリームなら回避し得るリスクで、だからこそマイノリティーの土地に押し付けられてきた。被害と引き換えの補償は豊かさではないし、補償金はそもそも、土地と人が背負う傷に見合ったことなかったのだ。沖縄は生存を選ぶ別の未来を選択した。
 3つめに、基地問題を知事選挙の争点として明確化したことは極めて重要だった。軍事力に依存しない平和主義という普遍性の高い価値を沖縄が代表選挙によって選択したことは、日米がいくら黙殺しても、世界が評価する。アジアと世界に発信する平和主義の価値は計り知れない。
 4つめとして、今回の知事選挙で、沖縄における保守と革新の存在意義やその線引きが問われた。戦後レジームが冷戦とともに構築した沖縄の保革対抗構造が、日本内地の政党への系列化と、それを通じた利益誘導を目指したとして、それはいかに超克されようとしているのか。この選挙をメルクマールとして、新しい政治を見いだすならば、それには批判と反省が伴わなければ意味がない。
 この点で「イデオロギーよりもアイデンティティ―」という語法の深刻なほどの誤りについては、政治哲学的には訂正を求めたいところだが、社会学者として、今日の沖縄の人々がこの誤用を意図的に棚上げにしながら受けとめようとした、そのあり方を批判的評価につなげたい。言葉は不変のものではなく、歴史性を背負いダイナミックに変容するものからだ。
 「原理原則に固執して経済の現実を見ない左翼の連中も、うちなーんちゅの魂に訴えて共闘すべきだ」。保守と呼ばれる側からの共闘は、このような呼びかけだった。その底流には連敗を喫した革新側に候補者が育っていないとの判断があっただろう。だが、社会的なものとしての市民性を、沖縄の保守はどのように涵養してきたか。社会運動への参加や取り組みの不在は課題とされただろうか。
 これに対して「イデオロギーとは左翼思想のみを指すのではないぞよ」と、革新と呼ばれる側はさぞいら立ったことだろう。それでも「保革の対立を超えて自己決定権の行使が重要」と翻訳してこのコピーを容認したと思う。だがアイデンティティ―に基づく政治もまたイデオロギーの政治であり冷戦的思考の残滓だ。沖縄の革新はこれを乗り越えようとする批評を欠いている。
 このような保革共闘を擬制に終わらせないため、①国連に向けた先住民の自己決定権という主張に対して自民党県議がなした恐るべき人権主義的発言を徹底的に批判検証すること②民主主義を支える根幹たる公務の正義の責成を追求すること③セクシュアリティをめぐる自己決定と尊重に対するホモフォビア(同性愛嫌悪)、ミソジニー(女性嫌悪)の存在を認めこれを克服すること。この三つを直近の契機として挙げておきたい。
 私たちが垣間見たのが、長い時間をかけて抽出した変容する政治であるならば、これを貧しい日本政治への対抗のみに切り縮め、再び保守と革新という古い革袋に戻すのはなんともったいないことか。ネオリベ的資本主義の暴力や代案を要求する日米権力政治から脱する新しい政治を、空文に終わらせてはならない。
 さっそくどう喝が始まっている。県民の選択した知事に「反対派」と見出しを掲げ普天間の固定化だと煽る内地のマスメディアが、滑稽なくらいに、米国とこれに追従する日本の太鼓で騒いでいるようだが、沖縄の民意と関係なく、米国の都合で基地は動く。しかし、沖縄に暮らす私たちがそれに従う道理はない。私たちの政治を創出するときである。
(タイムス20141120)



【このページのトップにもどる】

トップページにもどる