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◇琉球・沖縄歴史再考◇ 第1部 近世編01〜21 | ||
御取合ウトゥイエー400年 |
◇琉球・沖縄歴史再考◇ 第2部 近代編22〜45 <21世紀への補助線>(与儀武秀)/<「御取合400年」連載終了にあたって>(与儀武秀)。 22・琉球処分再考(上)西里喜行 23・琉球処分再考(中)西里喜行 24・琉球処分再考(下)西里喜行 |
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<21世紀への補助線>@沖縄はいつから日本か(与儀武秀) | ||||
25・旧慣温存 田里 修 | ||||
<21世紀への補助線>A「風俗改良運動」(与儀武秀) | ||||
26・琉球処分と国際政治 山城智史 | ||||
<21世紀への補助線>Bカイロ会議(与儀武秀) | ||||
27・琉球救国運動 林 泉忠 | ||||
<21世紀への補助線>C帝国と帝国主義(与儀武秀) | ||||
28・分島案と宮古・八重山(上)大田静男 29・分島案と宮古・八重山(下)大田静男 |
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<21世紀への補助線>D群島の地政学(与儀武秀) | ||||
30・日清戦争(甲午中日戦争)又吉盛清 | ||||
<21世紀への補助線>E帰属意識と自立志向(与儀武秀) | ||||
31・沖縄の近代化と民芸運動(上)渡名喜 明 32・沖縄の近代化と民芸運動(下)渡名喜 明 33・近代沖縄と久志芙沙子(上)勝方=稲福恵子 34・近代沖縄と久志芙沙子(下)勝方=稲福恵子 |
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<21世紀への補助線>F近代化と沖縄女性(与儀武秀) | ||||
35・謝花昇と「自由民権」運動 伊佐眞一 | ||||
<21世紀への補助線>G謝花昇像の変遷(与儀武秀) | ||||
36・「人類館」の射程 沖縄の桎梏(上)宮城公子 37・「人類館」の射程 沖縄の桎梏(下)宮城公子 |
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<21世紀への補助線>H人類館事件と現在(与儀武秀) | ||||
38・近代沖縄の新聞と仲吉良光(上)納富香織 39・近代沖縄の新聞と仲吉良光(下)納富香織 |
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<21世紀への補助線>I近代沖縄の新聞と戦争(与儀武秀) | ||||
40・ソテツ地獄と移民 新垣 誠 | ||||
<21世紀への補助線>J資本主義の世界化(与儀武秀) | ||||
41・言語戦争と沖縄近代文芸(上)高良 勉 42・言語戦争と沖縄近代文芸(下)高良 勉 |
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<21世紀への補助線>K沖縄語の位相(与儀武秀) | ||||
43・沖縄戦という帰結(上)大城将保 44・沖縄戦という帰結(中)大城将保 45・沖縄戦という帰結(下)大城将保 |
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<21世紀への補助線>L沖縄戦の経験(与儀武秀) | ||||
<「御取合400年」連載終了にあたって>(与儀武秀) |
1・薩摩の琉球侵攻 上原兼善 戦闘10日間 島津軍が制圧 捕虜の尚寧、家康と会見 1609(慶長14)年3月4日の朝まだきなかを、樺山権左衛門を大将、平田増宗を副将とする3千人の島津兵が琉球へ向かって鹿児島山川の港を離れていった。こうして、尚家と島津家との関係は決定的な段階をむかえたが、この両者の対立は、およそ半世紀ばかり前にさかのぼることができる。 東アジアの変動 すなわち、16世紀の後半ごろから、島津氏は琉球渡海船に印判状を発給してその管理を強化しはじめ、琉球に対して頻繁に印判不帯船の取り締まりを要求し続けるようになっている。 その後、天下が豊臣秀吉によって統一されると、その臣従の証しとして聘問を要求され、朝鮮出兵にさいしては軍役まで課されるにいたった。そして、秀吉にとって替わった徳川家康は、豊臣政権によって破壊された対明関係の修復をめざし、尚家の仲介に強く期待するようになっていた。 こうして島津家も、そして豊臣、徳川統一政権も琉球をなんらかのかたちでその強い影響下に置こうとする動きを強めていくのであるが、それは明国の衰退にともなう16世紀半ば以降の、東アジア世界の変動と深くかかわっていた。すなわち、明国がつくりだしたこれまでの国際秩序が崩壊へ向かい、シナ海域で倭寇が跳梁するといういわゆる「倭寇的状況」に対して、日本の公権力も自国を中心にした、あたらしい国際秩序の構築をせまられていた(荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』)。島津軍の琉球出兵は、大きくみればその一環をなすものであった。 今帰仁城を攻略 さて、南下した島津軍は3月7日に奄美大島に到着し、翌8日には同島の鎮撫を皮切りに、以後徳之島、喜界島、沖永良部を次々に制圧、25日には古宇利島にいたった。高山衆市来孫兵衛の「琉球渡海日々記」によれば、27日に今帰仁城の攻略が行われたようであるが、戦闘がどの程度の規模のものであったかは分からない。「喜安日記」の、城が「回禄」(焼失)したという記録が信用に足るものとすれば、そこそこの守備軍の抵抗があったものとみてよいであろう。 島津軍の今帰仁上陸の報を得ると、尚寧は西来院菊院ほか三司官の名護良豊らを講和の使者として立てたが、樺山は交渉は那覇で行うとしてこれを拒否、自らは比謝川河口の大湾渡口に船を着けて陸路をとり、いっぽう那覇港には別の一団を向かわせて海陸両方から首里、那覇の制圧にかかった。樺山軍が現在の浦添と首里を結ぶ大平橋にさしかかったところで、守備にあたっていた越来親方ら100人ばかりがこれに攻撃をしかけ、首里への侵入をくい止めようとしたが、島津軍の鉄砲の前に撤退を余儀なくされた。 いっぽう4月1日、那覇港に押し寄せた別働隊には三司官謝名親方鄭迥らが石火矢をもって応戦したが、しかし、刀剣・矛・弓などが主力の防衛網は、火器を中心とする島津軍によってたちまち突破されてしまった。 いよいよ首里城の包囲網がせばまると、城中に籠もっていた者たち20人余りが脱出し、これを追撃してきた島津軍と識名で交戦している。諸記録はこの時はじめて島津軍に死傷者が出たことを記録している。この識名の戦いをもって琉球側の抵抗は終わり、尚寧も4月4日には城を出て降伏の意を明らかにしたのであった。 こうして10日ほどの戦闘で島津軍は琉球王国の主島を制圧したことになるが、諸記録を注意深くみると、この間に一般民衆も「入り取り」「乱取り」という略奪と殺戮、そして放火の被害に遭っているふしがみえる。島津家久は軍律でこれらのことを禁じているが、前線では守られなかったものとみられる。 みせしめの斬首 戦闘が終了してひと月後に、尚寧王と重臣たちは虜囚の身となって鹿児島に連行され、駿府(現在の静岡)の大御所家康と江戸の将軍秀忠への聘問を強制されることになる。1610(慶長15)年5月16日に鹿児島を発った一行は、まず8月8日に家康にまみえ、そして28日には在府中の諸大名がい並ぶ江戸城で秀忠の引見をうけた。 徳川幕府はこれより先に異国の使節としては朝鮮とオランダのそれに接見していたが、両国の使節が偽りの入貢であったのに対し、琉球の場合は、一国の君主の入見であり、しかも軍事的に実現したものであったから、幕府の「武威」を天下に示すうえで、その政治的効果ははかりしれないものがあった。 すでに1609(慶長14)年7月7日付をもって幕府より琉球の支配権をゆだねられていた島津家久は、この間に琉球の生産状況を把握するために耕地の丈量(検地)を行っていたが、一通りの参府行が終わると、1611(慶長16)年9月には尚寧あてに知行目録を発給するとともに、その遵守すべき基本法令15か条を定め、そして重臣ともども島津氏に違背しない旨の誓詞を差し出させている。ただ、謝名親方だけがそれを拒否したため、斬首された。島津氏の琉球支配は、こうしたみせしめを準備しながらはじまることになっていったのである。 (沖縄タイムス09.01.15) 2・薩摩の琉球侵攻と東アジア(上) 西里喜行 国際秩序揺るがす事件 挑戦にも「倭乱」伝わる 16世紀末から17世紀初頭にかけて、東アジアの伝統的な国際秩序を揺るがせる二つの大事件が起こった。秀吉の朝鮮出兵とそれに続く薩摩の琉球出兵である。秀吉の朝鮮出兵は「壬辰・丁酉の倭乱」とも言われ、薩摩の琉球出兵は「慶長の役」、「琉球侵攻(侵略)」などとも称される。同時代の日本以外の東アジアでは、いずれも「倭乱」、即ち倭寇の大乱と受けとめられていたことに留意すべきであろう。ここでは、東アジア史における薩摩島津氏の琉球侵攻=琉球出兵の位置(意義)について再考察してみたい。 尚寧の冊封と周辺 尚寧が王位を継承したのは1589年、明国(現在の中国)皇帝から冊封されて正式に琉球国王と称することができたのは1606年のことであった。王位継承(即位)から冊封まで、17年もの長い歳月を要したのは異例のことで、その背景には、琉球の対外貿易が衰退して経済的財政的困難に陥っていたこと、秀吉の朝鮮出兵にともなって薩摩島津氏の琉球への圧力が増大したこと、等々の事情があった。 尚寧は薩摩島津氏の圧力に屈して朝鮮出兵の兵糧を要求額の半分だけ供出しながらも、他方では「関白(秀吉)の家臣となることを恥とする」立場から秀吉の動向を繰り返し明国側へ通報し、1595(万暦23)年には正式に冊封を要求した(請封という)。 しかし、明国側は直ちに冊封使を琉球へ派遣しようとはしなかった。明国官僚層の内部で冊封使派遣の是非をめぐる論争が繰り返し展開されて決着がつかず、先送りされたからである。その背景には、琉球人が中国沿海地方で「海賊」行為を働き、「倭人」と間違えられるトラブルが生じていたという事情もあった。 朝鮮出兵の終結後も、徳川幕府と薩摩藩の圧力が一層強まるなかで、尚寧は安全保障を求めて明国へ請封を繰り返した。1606(万暦34)年、明国はついに冊封使(夏子陽)を琉球へ派遣した。夏子陽らはこの年の6月から11月まで琉球に滞在し、尚寧を琉球国王に冊封する式典に臨み、予定された諸任務を果たした。もっとも、この間、夏子陽らは刀剣を携えた多数の日本商人が那覇の市場で取引している姿を目撃し、琉球王府が倭寇の襲撃に備えるため1000人の兵士を北部の今帰仁へ派遣したという情報をも入手していた。 琉球の将来を案じつつ北京へ帰還した夏子陽らは、同行した琉球の謝恩使(毛鳳儀)らから、経済的困窮を救済する方策として対外貿易の拡大を要請する尚寧の請願書を受け取ったが、貿易の拡大は日本の侵略を招き国家の安全を脅かすとして、ただちに拒絶した。 「琉球出兵」の波紋 琉球は将来日本の侵略を被るだろうという夏子陽らの予測はまもなく現実となる。尚寧冊封から三年後の1609(慶長15)年、薩摩島津氏は琉球出兵を強行した。捕虜として連行された尚寧は薩摩藩主に従って江戸へ到り、将軍秀忠と対面、帰国を許されたのは二年後のことであった。この間、琉球の国政を担当した三司官の馬良弼(名護親方)は、1609年10月鄭俊を明国へ派遣して「倭乱」(琉球出兵)を急報し、翌年1月にも毛鳳儀らを進貢使として派遣した。毛鳳儀らは「倭乱」により進貢が遅れた事情を弁明するとともに、江戸で講和交渉中の尚寧は来年帰国予定であることを伝え、進貢のため北京へ赴きたいと要請した。 福建当局は「倭乱」の情報を皇帝へ上奏し、毛鳳儀らを上京させた。北京の関係当局は大きな衝撃を受けながらも、従来どおり琉球の進貢を受け入れることとした。皇帝は「倭乱」を被った尚寧を慰撫し、「倭乱」の実情を再度報告するよう要求した。その前後に、福建当局の上奏文が北京の官報に掲載されたのを契機として、琉球が「倭乱」を被ったという情報は一般の官僚層の間にも広まった。 朝鮮進貢使の伝聞 朝鮮国の燕行使(進貢使)として北京に滞在中の黄是も、1610年7月29日の日記に、官報の「倭乱」記事を書き写している(『燕行録全集』第二冊)。 同じく鄭士信も同年10月30日の日記に、「琉球国の使臣と会い、朝鮮国王の書簡と礼品リストを渡す。なお、琉球国王が倭の捕虜になった変事について質問したところ、毛鳳儀らは<去年4月、倭人が大義名分のない軍事行動を興し、国王を捕虜として連行したが、今年の9月に講和して国に帰り、無事である云々>と答えた」と記録。 さらにまた、「琉球と倭は講和し、毎年一回使節を倭へ派遣することになった。かつて戊申(万暦36年)の年に、家康は琉球に春秋の二回修貢させようとしたが、琉球国王は従わなかったので、家康は薩摩に命じて軍隊を出動し琉球を討伐させた。琉球王は、罪は自分自身にある、わが無辜の民を累することはできない、と言い、遂に薩摩軍の前に進み出たところ、薩摩はこれを捕らえて連行したものの、家康は王自ら国難に当たり、その志は民を愛するにある、天下の義主だと言い、遂に送り返したのだ云々」という巷間の噂噺を聞いたことも記録している(『燕行録全集』第9冊)。 (沖縄タイムス09.01.22) 3・薩摩の琉球侵攻と東アジア(下) 西里喜行 侵攻後も国として存続 主体性回復に努力重ね 東アジア全域に「倭乱」の情報が広まると、明国の官僚層の間では、「琉球を見捨てるべきではない、たとえ援軍派遣の余裕はないとしても、琉球王を別の海島に移して琉球の復興を図るべきである」という議論も展開させたが、北京や福建の当局は表向き沈黙を守った。 東アジアの対応 しかし、1612年1月、尚寧が帰国報告の任務をかねた進貢使を派遣し、「倭乱のため琉球国民は困窮し、進貢品も十分調えられないことをご憐察願いたい」と弁解して、進貢品に日本産品を加えて来たことから(『歴代宝案』)、福建当局は疑惑の目を向け、「国王は放免されて帰国したとしても、陰で倭に操られている」と上奏した(『明実録』)。 これを受けて、北京の官僚層にも琉球は日本の指図で進貢したという認識が広まり、兵部(国防省)は「琉球が倭に支配されているとすれば福建は浙江と同じく倭の攻撃対象となるだろう」と予測し、「福建人は倭を誘って交易しようとしている」として琉球への不信感を福建人にまで広げた。副首相格の葉向高も「琉球はすでに倭に併合されている」と認識し、進貢を拒絶すべきだと主張した(『明実録』)。 官僚層内部の論議をふまえて礼部は次のように提案した。「琉球の実情は測りがたいので使節を追い返すべきだが、進貢名目で来航しているので、追い返せば冊封の理念を傷つけることになる。そこで、琉球は倭乱によって国力が衰えているから、国力の回復を待って10年後に進貢するように、と諭すべきである」と。1612年11月12日、皇帝は礼部の提案を承認した。 「併合」と「臣服」 10年後に進貢せよとの命令は、貿易の機会を減らされることを意味し、琉球にとって大きな打撃となったことから、尚寧は1614年9月、従来の貢期(2年1貢)に戻してほしいとの書簡を礼部へ提出し、「もし狡猾な倭を拒絶するために、忠順な琉球までも拒絶するのであれば、属国の心を天朝へ繋ぎ止めることはできません。どうか、琉球の立場を配慮されて貢期を回復して頂きたい」と要請している(『歴代宝案』)。 尚寧のこの要請は「倭」に指図されて提出したと見るよりも、「倭」との差違を強調して琉球の主体性を回復しようとする苦心の表明と受けとめるべきであろう。なお、「倭」と一体化していると見て琉球の進貢を拒もうとする明国側の対応は、琉球側に薩琉関係隠蔽の必要性を痛感させたことにも留意しておきたい。 最近、京都大学の夫馬進教授は薩摩島津氏の琉球出兵を「日本の琉球併合」と規定し、中国・朝鮮の対琉球外交を包括的に検討した上で、多くの瞠目すべき論点を提示されている(「1609年、日本の琉球併合以降における中国・朝鮮の対流球外交」『朝鮮史研究会論文集』第46集)。確かに、琉球出兵が強行された後の明国内部には、「倭乱」によって琉球は日本に併合されたという認識が広がったものの、確定的な認識となったわけではなく、むしろ琉球は「中国の冊封を受けていると言っても、また倭にも臣服している」(謝肇?『五雑組』巻四)というのが一般的な認識であったと思われる。 つまり、琉球国は日本国に「併合」されて消滅してしまったという認識ではなく、中国にも日本にも「朝貢」しているという、より実像に近い認識であったと言うべきであろう。 友好国の連帯感 琉球は朝鮮国との間では、北京における進貢使節同士の往来を通じて国交を維持していた。薩摩島津氏の琉球出兵前の1606年、朝鮮国王は琉球国あてに、「わが国(朝鮮)と貴国(琉球)は国境を隔て、属国の間では私交し難いけれども、誠意をもって交流し、進貢の年ごとに天朝(明国)の都で陪臣(進貢使)を通じて挨拶を交わしてきたので、友情は益々厚くなっている。今後とも同じ属国としての友誼を厚くし、倭賊の情報を探って天朝へ上奏し、わが国へ転報させてくれることを期待している」(『歴代宝案』)とエールを送っている。 琉球出兵後の1612年には、尚寧から朝鮮国あてに、「倭乱」の報告を兼ねた返礼の書簡を送り、「貴下(朝鮮国王)と同様に私(尚寧)も天朝の冊封を受けてまもなく外国の侵略を蒙り、人民の塗炭の苦しみを見るに忍びず、国を離れて3年間も外国に滞在し、和議が定まったので帰国することができた。倭賊はいつ攻め込んでくるかも知れないので、不測の事態に備えて防備を固めるべきです」(『歴代宝案』と友好国としての連帯感を表明している。 琉球と朝鮮の間では、その後も進貢の年ごとに国書の往復が繰り返され、1638年の時点まで続いたことを確認できるが、清代には正式の国交は途絶えてしまう。その理由はなんであったのか、夫馬教授は日朝国交の「回復」をその契機として強調されるが、さらに検討を要する問題と言うべきであろう。 いずれにせよ、「倭乱」(琉球出兵)後も琉球国は中国と日本に「臣服」「朝貢」し、東アジアの一国家として存続し続けたのであって、その背景には、日中間の国交が途絶していたという東アジアの特殊事情が存在しただけでなく、前述のような琉球側の「主体性」回復のための絶えざる努力が積み重ねられたことにも留意しておきたい。 (沖縄タイムス09.01.29) |
4・薩摩支配と琉球の内政(上) 高良倉吉 琉球、「主体」構築を模索 日中と協調 長期的戦略 ここ30年来の琉球史研究の大きなテーマの一つは、「薩摩支配」というものの実態や性格をどのように捉えるか、という点にあった。大先輩としての伊波普猷(1876−1947年)らが描いてきた「みじめな時代」「暗い時代」としての薩摩支配を、琉球の内情に照らしながら検証し直す作業であり、同時にまた、その課題を近世琉球王国像として再構築する営みであった。 歴史の真相へ この課題にとって安良城盛昭(1927−93年)の問題提起は重要な転換点であり、『新・沖縄史論』(1980年)に結実する彼の衝撃は大きかった。 安良城が提示した問題とは、史料を正確に解釈し、事実をしっかり確かめたうえで、論理矛盾のない明快な論を唱えよ、という点にあった。その真意は、先入観や思い込みで薩摩支配下の琉球を語るのではなく、多様な歴史実態に向き合う態度を堅持することを通じて、歴史の真相に近づくことの重要さを訴えることにあった。 私は、安良城の問題提起に学んだ者の一人である。 例えば、サトウキビ畑が連綿と続く風景やゴバン目型の集落、そして赤瓦屋根の住宅や室内の仏壇・位牌、あるいは先祖が眠る亀甲墓、男中心の一門(門中)意識、祖先を祭る清明祭などの行事はいつ生まれたのか。組踊が創作され、荘重な音楽と舞踊が磨き上げられ、サンシンの音曲にあわせて琉歌に抒情をのせる表現が発達したのはいつのことなのか。言うまでもなく、そのすべては薩摩支配下の琉球の所産である。 二重の立場性 ようするに、今の沖縄県民がわが伝統文化と自慢するものは、伊波普猷らが「みじめな時代」「暗い時代」として描いてきた薩摩支配下で創造されたものであり、まさしく琉球の新しい活力が生み出したものなのである。 たしかに、1609年春、琉球王国は薩摩の軍門に下った。奄美諸島を失い、高額の税を毎年支払う義務を背負い、内政に対する干渉を受けるなどの従属化が現実のものとなった。しかし、にもかかわらず、王国は消滅したわけではなく、薩摩を前衛とする徳川日本(幕藩体制)に従属しつつ、同時にまた中国の朝貢国でもあるという二重の立場性を保持しながら、そのどちらにも回収されない琉球ぶりを発揮しようとした。 単純化すると、日本や中国という東アジアの超大国のはざまに埋没するのではなく、たとえ両者に従属する存在だったとはいえ、琉球という「主体」を立ち上げ続けようとしたプロセスが近世琉球、すなわち薩摩支配の時代だったのである。 したがって、琉球史という立場に立ったとき、薩摩支配および中国の朝貢国であるという問題は重要な側面の一つにすぎず、目指すべきテーマはあくまでも近世琉球の全体像や諸相なのである。 荒廃する王国 薩摩支配という現実を迎えて、その初期の頃には王国社会の人心の荒廃や経済の沈滞が顕在化していた。断片的な史料を頼りに想定するならば、政治エリート層はデカダンに陥り、地方役人は中間搾取に走り、農民は勤労意欲を失っていた。王国の内部崩壊ともいうべきこの危機的な状況のなかから、琉球という「主体」を築くための新しい枠組みの構築が始まっており、その動きは薩摩に敗れた尚寧の後に即位した尚豊(在位1621−40年)の時代からすでに取り組まれていた。 その目標とは第一に、薩摩支配という現実を拒否しそれに抵抗するのではなく、これを受け入れ、「従属」を内包しつつも対薩摩関係を強調的なものとすることであった。そして、この関係を通じて薩摩が属する徳川日本の国家体制(幕藩制国家)とも安定した関係を築くことであった。第二に、250年以上も前から続いてきた中国との関係(冊封・朝貢関係)を保持し、朝貢(進貢)国=琉球という立場を存続させることであった。その中国カードは、薩摩・徳川日本の強い磁力を牽制する効果を持つはずであった。 そして第三に、王国の内政を直接的に担う統治組織としての首里王府体制を充実・強化して、薩摩・徳川日本に回収されず、同時にまた中国にも回収されないところの琉球という「主体」を立ち上げることであった。 琉球ビジョンともいうべきこの目標は、当然のことながら容易な道程ではなかった。薩摩・徳川日本あるいは中国の国内事情、さらには東アジアを取り巻く国際情勢に絶えず翻弄されるものであり、琉球側が抱える内実にもまた左右された。18世紀の王国の指導者であった蔡温のことばを借りるならば、「小計得」(目先の損得認識)ではなく、「大計得」(長期的な戦略認識)なしには成しえない困難な実践であったといえる。 (沖縄タイムス2009.02.05) 5・薩摩支配と琉球の内政(下) 高良倉吉 大国依存 自立遠い小国 役人の不正・搾取横行 首里王府体制を充実・強化し、琉球という「主体」を構築するためには、王国そのものの在りようを新時代に適応できる存在へと刷新することが求められた。この事業は痛みや反発、混乱そして過酷さを伴うものであり、尚豊王治下で始まった近世的枠組みの構築は17世紀を代表するリーダー、羽地朝秀(1617−75年)の登場により大きな結節点を迎える。 改革断行の指導者 羽地朝秀は1666年から7年間、首里王府の行政ポストの頂点、摂政の職にあり、激しい改革を断行した指導者であった。意識改革を訴え、古琉球以来の伝統や価値観を情け容赦なく否定した。改革に異を唱える抵抗勢力を徹底的に批判し、王国の置かれた厳しい現実を打開しようとする志が薄い者には、その者がたとえ国王であっても遠慮なく注文を付けた。 羽地改革路線の状況を伝える「羽地仕置」を読むと、「わが国には、自分を理解してくれる者は一人もいない」と彼みずから慨嘆したほどの、実にすさまじい改革であったことが判明する。 羽地を支える有力なスタッフの一人であった恩納安治は、1678年に宮古・八重山に出張し、強引な形で羽地改革路線を先島に適用している。例えば、八重山の祭祀イリキヤアマリを邪俗だとして禁止し、聖職であるエラビガネを廃止するとともに、拝むべき御獄の数さえも大幅に削減している。ようするに、行政改革や産業振興の面のみではなく、人びとの精神世界にまで介入する荒々しいものだったのである。 脆弱な統治の基盤 そのような改革を通じて生まれた状況を総括し、制度としての王国を磨き上げた立役者が有名な蔡温(1682−1761年)であり、彼が活躍した18世紀になると、琉球の文化的な活力はむしろ薩摩を上回るほどになったのではないかと思いたくなる。 ここで注目してほしい問題が二つある。その一つは、羽地朝秀から蔡温の時代にかけて確立した琉球の近世的枠組み、すなわち首里王府体制の維持経費は、琉球の経済的実態に比べてかなりのコスト高だったことである。その象徴的な問題は、王府体制の維持のために組織された役人の数の多さであり、行政本部である首里城勤務の役人を始め地方農村や離島に配置された役人、あるいはその予備軍を含めるとぼう大な数に達した。 近世の内政史料を読むと、役人の不正や中間搾取が横行しており、その改善にあくせくする王府首脳のいら立ちが随所に登場する。琉球という「主体」はコストのかかるシステムだったのであり、その付けは農民や庶民が背負うことになった。したがって、中国や日本のどちらにも埋没しない立場性の確保という実践は、きわめて脆弱な基盤の上に成り立っていたことになる。 二つは、琉球経済の「依存構造」の問題である。 薩摩支配という問題を政治や外交のレベルでのみ理解していると、本質的な実態を見失ってしまう。たしかに、琉球王国は朝貢(進貢)貿易を通じて中国経済と深く結びついていたが、それはしかし、徳川日本という市場を前提にして始めて成り立つビジネスだった。中国の福州を窓口に大量の中国産品を仕入れ、その一部を自前で消費したとしても、大半のその商品を転売しなければビジネスにはならない。そのために不可欠だったのが薩摩を介してつながっている徳川日本という市場だった。 日本経済への傾斜 あるいはまた、琉球の戦略的産業として台頭した黒糖生産もその主な販路は徳川日本であり、琉球漆器や染織品(紬・上布・芭蕉布など)、泡盛なども琉球内で消費されるだけではなく、徳川日本という市場を前提に生産されていた。つまり、琉球経済は中国と日本という二つの巨大経済に結び付けられており、それに依存することなしには存立不可能な性格を帯びていたのである。 あえて言うならば、中国よりも徳川日本に対する市場依存度を琉球は高めており、その象徴的な現実は琉球国内の決済通貨は対中国貿易のための銀ではなく、また琉球独自の通貨である鳩目銭でもない、徳川日本で通用する銅銭(寛永通宝)だったことだろう。例えば、現存する琉球国内の借金証文はそのすべてが銅銭立てで作成されていたのである。 コスト高である統治システムとその脆弱性、徳川日本の経済により傾斜した経済体質、この二つが示すところの問題は、近世の琉球王国が「自立」した存在ではなく他者への依存を内蔵する小国だったことを教えている。 琉球王国を規定する二つの超大国のバランスが崩れたとき、琉球が必死に保持してきたところの近世的枠組みもまた終焉のときを迎えることになる。 (沖縄タイムス09.02.19) 6・侵攻と日明関係 渡辺美季 琉球、日本と明 間接仲介 2国間で生き残り模索 1611年2月16日、上海から90キロほど南西にある都市・嘉興で二人の知識人が雑談をしていた。話題は薩摩の侵攻におよび、一人は「琉球は中国の朝貢国なのだから見捨てるべきではない」という意見を述べたという(李日華『味水軒日記』)。 波紋と疑惑 1609年の侵攻を受けた琉球が、福州に使者を派遣して事件の顛末を明(中国)の朝廷へ報じたのは約一年後のことである。これに対して明は「琉球に事情の再報告を求め、それによって本格的な処置を決める」という比較的穏やかな反応を見せた。しかしその一方で、福州や都・北京から遠く離れた嘉興で、ほぼ同時期に先の会話がなされていたことを考えると、侵攻のニュースに接した明の人々の心中は決して穏やかなものではなかったと推測できる。 やがて琉球は明から求められた「事情の再報告」を行うための進貢(朝貢)使を派遣した。ところがこの使節を迎えた明は、「琉球は日本に操られているに違いない」と疑い始め、ついに「琉球は10年後まで進貢してはならない」、すなわち琉明関係を10年間停止するという厳しい措置を決定してしまった。 この時、明が疑惑の主な根拠として挙げたのが、琉球の進貢品に日本産品が混ざっていたことであった。しかし琉球による日本産品の進貢は、以前からずっと行われていたことである。それがなぜこの時になって急に取り沙汰されたのだろうか。 明の不審 そもそも琉球侵攻はなぜ行われたのだろう。すでに多くの研究が明らかにしているように、侵攻の大きな目的は薩摩や幕府による全面的な琉球統治ではなく、幕府の対明外交の仲介役を琉球に担わせることにあった。徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって悪化した朝鮮・明と日本との関係を修復し、日明貿易を開始して、その利益を独占的に獲得したいと考えていたからである。 そこで薩摩藩主・島津家久は、先の進貢使が明へ派遣される直前に、琉球国王・尚寧に書簡で日明貿易の斡旋を命じた。具体的には「『三事』のいずれかを選ぶよう明に要求せよ」と指示したのである。三事とは、@どこかの島で日明の商船が貿易するA琉球で日明の商船が貿易するB日明が互いに使者を派遣して直接貿易をする、という三つの方法を指す。 さらに家久は、すぐにでも武力で明を脅そうと言う家康を「まず琉球に貿易の交渉をさせ、それが拒絶されたら出兵すればよい」となだめたことを触れ、「そのことは国王も郭国安も知っているだろう」と念を押している。郭国安とは薩摩に移住し島津氏の家臣となった明の医師のことだが、一体なぜここに彼の名前が出てくるのだろうか。 その答えは梅木哲人氏が発見した史料に示されている(『第8回琉中歴史関係国際学術会議論文集』)。それは福建の地方官が朝廷に送った書簡の写しで、そこには「『三事』について記した郭国安の私信を、琉球の進貢使が提出した」と書かれているのである。つまり琉球は「郭の手紙を届ける」という間接的な形で日本の貿易要求を明へ伝え、日明外交を仲介しようと試みたことがわかる。直接的な仲介を避けたのは、未だ日本に対して強い警戒心を抱く明に、琉球が日本の意に従っていることを悟られまいとしたのであろう。しかし明は、これが薩摩の命令によるものであると見抜いていた。それゆえに琉球への不審を募らせ、進貢品の日本産品にも過剰に反応したのである。 苦悩と活路 ではなぜ明は「不審な琉球」を完全に拒絶し、関係を断ち切らなかったのだろうか。当時の明の見解をまとめると次のようになる。 −琉球が日本へ屈服したのは明が琉球に援軍を送らなかったためだ。従って琉球に非はなく、これを拒絶しては筋が通らない。またもし明が琉球と関係を絶てば、日本が琉球を属国として、ますます増強し、脅威を増してしまうだろう。 つまり明は琉球を救援できなかった負い目と、日明のパワーバランスの観点から、琉球を拒絶できなかったのである。とはいえ琉球が進貢に乗じて日本の要求の仲介者となることも許容できなかったために、10年間の関係停止という苦肉の策を取らざるを得なかった、と言えよう。 その後、琉球は明との関係改善に専念し、日明外交の仲介は行わなかった。琉球の働きかけや情勢の変化の結果、やがて琉明関係は徐々に回復へと向かう。そしてこれと入れ違うように幕府は日明関係の構築を断念し、「鎖国」と呼ばれる独特の通交管理体制を成立させていくのである。 こうして国交を持たない日本と明が、琉球を介して間接的に繋がるという状況が出現した。それは日・明の事情もさることながら、何よりも侵攻を被った琉球が「日本か明か」という二者択一ではなく、二国の間でいかに生き残るかを最重視して主体的に行動した結果であったと考えられる。以後の琉球は、この先人たちが必死で獲得した活路の上に、日本とも明とも異なる独自の国家として、固有の文化や社会を成熟させていくのである。 (沖縄タイムス09.02.26) 7・『中山世鑑』の世界 田名真之 幕府の系図背景に編纂 島津通じ「同祖論」希求 『中山世鑑』は首里王府の最初の正史であり、1650年に羽地朝秀によって編集されたことはよく知られている。別の言い方をすると、琉球人によって記された最初の琉球国の歴史書である。島津の侵入から41年目にして琉球国は、有史以来初めて自らの歴史をまとめたのであるが、その契機とは何だったのだろうか。また編集を命じられた羽地朝秀は、どのような正史を意図していたのか、島津の侵入との関連はあるのか等々『中山世鑑』をめぐっては興味深い問題が多々存している。以下検討していこう。 編集事業の契機 まずは何故、この時期に編集されたかということである。史書の編纂は自らを省みる試みであり、因ってきた処を確認し、今後の指針となすために取り組まれるものである。『中山世鑑』の序で羽地も過去の過ちを鑑として将来の戒めと成す、としている。ここの過ちとは一般論と解しても良いが、多分に「島津侵入」を招いた時の王府の失政を指したものだろう。その点で島津侵入とかかわると言えるが、編集事業の直接の契機は別であろう。 その背景には幕府による大名家への系図の編纂があったものと考えられる。1641年幕府は諸大名、旗本に各々の家系、由緒を提出させ、43年には「寛永諸家系図伝」を完成させていた。島津家でも初代忠久(源頼朝の庶子との伝承記載)以来の系図をまとめていた。琉球の尚王家に提出の要請はなかったはずだが、島津の編集事業に触発されて、王府も尚家の系譜、すなわち中山王の系譜をまとめることになったと考えられる。 さて編纂の命を受けた羽地朝秀は、当時33才、いまだ家督を継いでおらず大嶺按司を称していた。当時の王侯貴族は、首里に数多あった禅門を通じて大和の学問を学んでいた。そうした教養を背景に羽地朝秀は正史の編集という大事業に果敢に取り組んでいった。王府の古文書を探し、古今の書を漁り、古老に問うて、『中山世鑑』を編集したのである。 為朝の渡来伝承 『中山世鑑』の記録は、第一尚氏や三山の各王、尚巴志の統一等々、後の蔡温の手になる『中山世譜』とは異なり、当時の伝承、認識を示していて興味深いが、それはさて置き、注目すべきは、琉球の神話世界に続く天孫氏の時代が、25代で1万7802年続いた、としていることと、天孫氏をついでその後の琉球国の最初の王となったのが、源為朝の子の舜天である、としていることである。 『中山世鑑』に記される神話は、島津侵入直前に琉球に滞在していた僧袋中の著した『琉球神道記』に拠っているが、その後の天孫氏のことは、羽地朝秀の創作と考えられる。そこで羽地朝秀は1万7000年余というとてつもない年月を掲げてみせたのである。その意図は何だろう。 琉球は小国ではあるが中国や日本と同様に悠久の歴史を有する国である、そうした自負を表明したかったのだろう。しかし、具体的には数100年前の舜天以降しか描けず、羽地朝秀の自負は空疎なまま終わるのであるが。もう一点、舜天が源為朝の子という記事である。為朝の先は清和天皇に繋がるとする源氏の血筋である。もともと琉球には王の始まりは舜天であるとする伝承があった。それと為朝の渡来伝承も存在した。さらに16世紀半ば、京都の禅門辺りでは、琉球に渡った為朝の子孫が代々王となった、という噂が存在していた(『玄雲文集』)。 これらの話を繋いで、羽地朝秀は「舜天は為朝の子」としたのである。これにより、琉球の最初の王は源氏の血筋を引いた者となったが、これは同じく源氏の出とする島津氏にすり寄ったものではないかとする見解もある。 異国の位置づけ しかし、羽地朝秀がそこまで意識していたとは思えない。英祖が太陽の子で、察度が天女の子ならば、舜天も特別な存在、大和の天皇の血筋の子と言いたかったのであろう。 羽地朝秀は、その後島津側との深い交流を通じて、琉球と大和の言語、文化の基層は同一との思いを強くしていくこととなる。その表明が『羽地仕置』の「日琉同祖論」として有名な「国王の久高島参詣」の話となるが、羽地朝秀の思いを余所に、島津、幕府は、琉球を幕藩体制内の異国として位置づけていくことになる。 最後に、『中山世鑑』についての疑問である。一つは「序」と「総論」は漢文で記されるが、「巻一」以降の本文は仮名交じりの和文となっていることである。二つめは「総論」では当時の王の第10代尚質まで記すのに対して、本巻では第4代尚清までで、それも父の第3代尚真を欠いていることである。そのために「序」で島津侵入を招いたとして激しい非難を浴びせた尚寧や謝名についても本巻での記述はないのである。羽地が敢えて記述しなかったと考える理由はないのであり、残念ながら『中山世鑑』は不完全なもの、欠落したものしか伝えられてないということであろう。=この連載は毎週月曜日に掲載します。 (沖縄タイムス09.03.02) 8・島津侵攻と先島 平良勝保 敗戦と割譲の共通性 強い地域個性表す人頭税 先島の視点から見ると、1609年の琉球への島津侵攻は、1500年の琉球王府による先島侵攻(アカハチ事件)や、また近いところでは、沖縄戦ともオーバーラップする。何が共通するかいうと、<敗戦と割譲>という歴史の共通性である。 島津侵攻では、琉球王府の存続と引き換えに、奄美が割譲された。奄美は琉球が武力侵攻によって王国に組み込んだ地域であり、琉球という国家を存立させるために、「割譲」したという見方もできると思う。 アカハチ事件 廃琉置県後に中国と日本が、琉球を分割し沖縄本島地域を日本に分割し、先島に王府を移し「琉球王国」を存続させようとした分島問題では、琉球の高官は、国域を「三府」(島尻・中頭・国頭)と「属島」(先島)に区分し、先島に国を立てることは亡国に等しいと主張している。武力をもって制圧した先島を「属島」と称していることから類推すれば、奄美地域も「属島」のうちに入るのであろう。 八重山のオヤケアカハチが討伐されたアカハチ事件は、琉球による先島侵攻というべき事件である。1390年に行われた宮古島の与那覇勢頭の入貢は、公的交易の開始であって、先島の自発的服属とみるべきではない(1266年の奄美朝貢も同様である)。アカハチ事件とほぼ同時代の「国王頌徳碑」には、「南西に大平山という国があり、弘治庚申(1500年)春、戦鑑百艘を遣わして攻めた」とある。 アカハチ事件は、中山王府の国家版図拡大(統一)事業の一環であり、このとき宮古島も攻められた。宮古島の場合、与那覇勢頭以来先島を代表する中山との交易権を持っており、その交易権は、孫の大里恵幹、仲宗根豊見親へと引き継がれていた。琉球王府の版図拡大事業を察知した宮古島勢は、中山の軍事力を熟知していたため、いち早く降参し、降参の証として八重山までの水先案内人をつとめた。 大平山=宮古 アカハチ事件後、八重山には大首里大屋子が置かれ、中山の版図であることが明確になったが、宮古島に大首里大屋子が置かれたのは、1522年のことである。22年という年月は、沖縄が戦後米軍統治下にあった期間が27年であったことを想起すれば、短くはない。アカハチ以前の先島は、日本側からは「花島」、中国側からは「大平山」と呼ばれていた地域であった。花島=大平山(宮古)は、八重山を王府の直轄地として割譲することによって、花島=太平山のアイデンティティーを守ったというべきである。 近世に入ってから、太平山とは宮古島のみ指すようになった。現代沖縄において、宮古が異彩を放った個性を持っているのもそのような歴史的背景と無縁でないと思われる。島津侵攻に際して、奄美が薩摩に割譲されたのも、太平山=花島による八重山割譲と同様な歴史的文脈で理解できると思われる。喜界島を含む奄美地域が、明確に琉球の版図になったのは、泊地頭の設置(1466年)以降であろう。 島津氏は侵攻後、琉球一円の検地を行っており、先島にも沖縄本島地域と同様な「代掛」税制を施行することができたはずであるが、先島の場合、古琉球的な人頭税が残ることになる。従来、先島にも人頭税は、琉球王府の先島差別政策の一つとして捉えられてきた。 しかし、先島は強い地域的個性をもっていたがゆえに、王府や島津氏は地域独自の税制(地域的個性)を変えることができなかった、と見ることも出来る。人頭税の善悪はともかく、先島のアイデンティティパワーの証として捉えるべきではないだろうか。 前近代の歴史像 島津侵攻の年、宮古島の国中与人の「武佐」は、首里王府に「御物宰領」として上国していたが、侵攻に遭遇し、尚寧王とともに薩摩に連れて行かれた。「宮古島在番記」によれば、武佐は1611年に頭になっている。 尚寧王とともに薩摩に同道した理由は明確でないが、侵攻の年に頭になっていることから、尚寧王連行と同様に属島(先島)の頭として連行された可能性が高い。古琉球期には先島の頭は、二員制であったが砂川大首里大屋子が設置され、島津侵攻後宮古島の頭は三員制となった。八重山島が頭三員制になったのは、1628年である。 古琉球期には、宮古島の役人から八重山島の役人になったケースがあり、島津侵攻以後も1628年までは八重山の役人が宮古島の役人になったケースもある。古琉球期から近世初頭までは宮古と八重山は同一圏と認識されていた。1641年、海防体制強化のため、八重山に大和在番が派遣される。大和在番はのち拠点を西表に移し、1648年まで続く。大和在番の歓待行事が八重山芸能の発達を促したともいわれる。八重山が太平山=花島アイデンティティーから独自の八重山アイデンティティーを形成していったのは、島津侵攻以降であろう。 島津侵攻400年という節目は、前近代琉球の歴史(国家)像を問うためのよい機会ではないだろうか。被害者である限り正義であり、正義である限り反省はない。沖縄(琉球)は、先島や奄美、あるいは鹿児島、内なる琉球に向かって何を語り得るのか。琉球問題は、「現在および将来の問題として存続している」(西里喜行)ことを念頭に置きつつ、400年の歴史を反芻し自問せざるを得ない。 (沖縄タイムス09.03.16) |
9・琉球使節の「江戸立」(上) 真栄平房昭 「異国」強調で王国維持 約100人 沿道の目引く 島津侵攻を契機として、幕藩制支配下に組み込まれた琉球国は、江戸へ使節を派遣するようになった。その派遣は1634年から1850年までの間に合わせて18回を数えるが、目的によって「慶賀使」・「謝恩使」と呼ばれて区別された。慶賀使は幕府の新将軍の襲位を祝う使節で、「謝恩史」は琉球国王の新即位を幕府に感謝するための使節である。 外交のバランス 1634年(ェ永11年)には、尚豊王の使者として佐敷王子朝益(尚豊次男)、金武王子朝貞(尚豊の弟、のち摂政)が来日し、京都の二条城で将軍家光に拝謁した。家光の将軍就任祝いと尚豊の王位継承のお礼が目的だった。 ところで、江戸時代は「鎖国」だったと考えられがちだが、それは誤りである。実際、幕府は琉球や朝鮮と正式の外交関係を結び、中国、オランダとの貿易も19世紀まで続いたのである。 琉球は、対中国関係(冊封・朝貢関係)と対日本関係(薩摩藩支配)のバランスをとりつつ、小国を維持した。すなわち、日中の大国間の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)を外交戦略として、国政と貿易の安定化につとめたのである。 18世紀初頭、「幕藩権力の高揚」に役立つという意味で、琉球使節の来日に新たな位置づけが与えられた(紙屋敦之)『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房)。その政治的意義は、幕府にとって将軍権力を内外に誇示する効果が期待され、大名島津家は、「異国」琉球を支配していることを幕府に強く印象づけ、大名官位の昇進に利用した。さらに琉球を媒介として中国産物(唐物)を購入し、海外情報を入手することもできた。 江戸までの旅路 琉球にとっては、「共国」としての独自性をアピールすることにより、王国体制を維持できた。しかし、江戸往還の旅では貿易が許されないため経済的なメリットはあまり期待できなかった。 次に、旅の主なコースを概観しよう。初夏の頃に那覇を出港した琉球船は、まず薩摩の山川に至る。使節一行は鹿児島城下の「琉球館」で準備を整えた後、江戸へ向かう。薩摩北部の川内川河口の久見崎を船出し、長崎を経て下関に寄り、瀬戸内海航路で大坂に着いた。さらに淀川をさかのぼって京の伏見に上陸後、美濃路(第7回までは鈴鹿路)、東海道を経由して11月頃、ようやく江戸に到着。1〜2カ月ほど滞在して江戸城で将軍に謁見した。 なお、17世紀前半には江戸から遠く日光まで赴き、徳川家の霊廟「東照宮」を3度にわたり公式参拝している。幕府が「御威光」を誇示するため、琉球使節にも日光参拝を求めたのである。なお、1651年に江戸のェ永寺に東照宮社殿ができると、以後の琉球使節は日光まで行かず、1671年以降は江戸の上野東照宮に代参するようになった。 使節団の規模は年度によって増減があるが、およそ100人前後、薩摩の役人たちも加えると、全体で500人近くの大行列となった。主な構成人員は正使(王子)・副使(親方)・掌翰使・楽童子などである。異国風の衣装に身をつつみ、琉球国王からの珍しい贈り物をたずさえ、ドラ・太鼓・ラッパ等をにぎやかに演奏しながら行列していくその様子は、当時の人々の目を大いに引きつけた。 知られざる陰影 こうした琉球人行列の構成や服装などを絵入りで解説した瓦版、使節行列図、多色刷の錦絵、琉球の地誌風俗に関する書物なども刊行された。ベストセラーとなった有名な馬琴の『椿説弓張月』はその一つだ(横山學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館)。これらの出版メディアは、一般向けの「情報ガイドブック」としての役割を果たし、異国・琉球への関心をそそった。その結果、一般庶民の眼に映る「琉球」イメージには、異国観が色濃く漂うようになったのである。 幕府の外交秩序において琉球はあくまで「異国」であり、その使節渡来は「来貢」すなわち朝貢とみなされた。中山王との往復文書も将軍より下位の「老中」と同じランクであった(『通航一覧』)。また、1832(天保3)年に刊行された山崎美成の『琉球人貢紀略』でも、「皇国」(天皇の統治する国)への朝貢という意識で琉球を見ていた。 以上のような「ヤマト旅」(江戸往還旅行)を経験した琉球人たちは、年明けに江戸を出発し、薩摩を経由し、翌春にようやく琉球に帰国した。およそ1年がかりの長旅の途中、冬の寒さや疲労が重なり、病に倒れる者もいた。街道筋の寺院には「琉球人墓碑」がいくつか現存するが、こうした墓碑には、ヤマト旅の知られざる陰影が映し出されている。 (沖縄タイムス09.03.23) 10・琉球使節の「江戸立」(下) 真栄平房昭 小国なりに対等を意識 日本化で主体性失う 次に、歴史認識のあり方と深くかかわる「江戸立」の「歴史用語」の問題について考えてみたい。ここでは紙面の誓約から煩雑な史料考証は別の機会に譲り、いくつか問題点を指摘するに止めたい。 上下関係を合意 琉球使節の江戸往還を「江戸上り」と表記する例は、伊波普猷・東恩納寛惇ら先学の著作をみても意外に少ない。では、「江戸上り」の用語が普及したのはなぜか。その理由の一つには、宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』(第一書房、1982年)の影響が大きいと思われる。 しかし、本書の「まえがき」を注意深く読むと、「江戸上りまたは江戸立」と記されている。不審に思われる向きもあるもしれないので説明すると、じつは「上下関係」を含意する「上り」という言葉には、ニュアンスの違いとして看過できない重要な問題がある。そこで、通説的な「江戸上り」という語をあえて避け、本稿では「江戸立」と表記することにした。 「江戸上り」という言い方は、信ぴょう性の高い古文書・古記録などの一次史料に照らして検討すると、意外にも少数派だ。『江戸立二付仰渡留』(東京大学史料編纂所蔵)のように、「江戸立」とする例が圧倒的に多いのだ。つまり、上下・従属関係をあらわす「江戸上り」ではなく、王府の評定所文書、琉球館文書、古老集記などを見ても、対等なニュアンスの「江戸立」が当時の通例であった。そこには、琉球人の自覚的な外交意識が含まれていたのである。 「自覚的な」自立 現代でも列車で東京へ行くことを「上り」、その反対を「下り」という。この言葉には東京が「上」で、地方が「下」という中央集権の感覚、地方への優越感がつきまとう。諸大名が幕府の権威にひれ伏すイメージを与える「江戸上り」は、もともと地方から京都へ行き、天皇に拝謁することを「上洛」と呼んだことに由来する。天下取りを目指す戦国武将たちにとって天皇に謁見することは、自らの権力を天下にアピールする機会であった。 東アジア国際関係で中国・日本という大国のはざまで、琉球は独自の立場を意識せざるをえなかった。したがって、幕府との通交関係を「江戸上り」という「上下」関係でなく、むしろ対等に近い「江戸立」と称した事実を我々は看過すべきでない。そこには、琉球の「従属」と「自立」をめぐる微妙な意識が投影されている。 国際関係をあらわす「外交言語」という観点からみるならば、幕府という巨大な権力に向き合う、小国琉球なりの自立意識や自負が「江戸立」に込められていたのではないか。薩摩との関係はたしかに従属的だったにせよ、幕府との外交戦略で独自性を発揮するために、琉球側が「江戸立」という言葉を主体的に用いたとしても不思議でない。 「無自覚な」従属 「江戸上り」という歴史の語りは、かつての琉球の主体性を放棄して「従属」を受け入れることを意味する。「琉球処分」で王国が滅び、廃藩置県後は中央集権化と皇民化の波に翻弄されていく。明治期のこうした風潮をまのあたりにした伊波普猷は、「琉球史の趨勢」という講演で、次のように述べている。 「御維新(明治維新)の時に日本国内の各藩でさへ、国民的統一の事業に反対して戦った位でしたから、半ば外国視されていた琉球がかういう反抗をしたのは決して怪しむに足らないので御座います。沖縄では血を流さなかっただけそれ丈、手やはらかな、なまぬるい反対をつづけて、日清戦争の頃に至ったので御座います。(中略)何人も大勢に抗することは出来ぬ。(中略)一人日本化し、二人日本化し、遂に日清戦争がかたづく頃には、かつて明治政府を罵った人々の口から帝国万歳の声を聞くようになりました」(『古琉球』明治44年初版) 琉球処分後、旧士族層の抵抗運動がしばらく続いたが、日清戦争で日本が勝利すると、沖縄の社会意識も大きく転換し、人びとは「帝国万歳」を唱えるようになった。こうして「帝国の内部」に統合された沖縄では、かつて幕府外交を「江戸立」と自称した歴史の記憶を忘れ去り、これを「江戸上り」と称することに何の疑問も感じなくなった。換言すれば、「歴史の語り口」の従属性にいつのまにか「無自覚」になってしまったのである。 琉球使節の「江戸上り」という用語が一般に普及したのは、事典や概説書による影響も大きい。中山盛茂編『琉球史辞典』(文教図書、1969年)をはじめ、比嘉春潮の通史『新稿 沖縄の歴史』(三一書房、1970年)、『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社、1983年)にはいずれも「江戸上り」の項目がある。最近の一例では、『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ、2000年)のように便利な入門書に、読者の苦笑を誘う「江戸上がり」という誤記があるのは困ったことだ。 結論的にいえば、原典史料に立ち返って吟味すると、「江戸上り」ではなく、「江戸立」の用語がむしろ適当ではないだろうか。 (沖縄タイムス2009.03.30) 11・近世琉球の美術工芸と薩摩侵攻 平川信幸 貝摺奉行以前に高技術 独自技法で文化力示す 薩摩侵攻の3年後の1612年に「毛泰運、貝摺奉行となる」と近世琉球期の漆器製作を中心に王府の美術工芸を担ったセクションである、貝摺奉行が初めて記録に出てくる。貝摺奉行所の構成メンバーは時代によって変化するが、『琉球国由来記』が書かれた1713年ごろには、漆器製作に必要な貝摺師、檜物師以外に絵師主取1人と属宮6人の合計7人の絵師が所属していた。貝摺奉行所に絵師が所属し、さらに貝摺奉行を薩摩侵攻の3年後に、王府が任命したと記録されたということは近世琉球期の美術工芸を考える上で一つの意味をもつ。 漆器製作の起源 漆器製作の起原については、「黒漆司馬温公家訓螺鈿掛板」(京都 檀王宝林時)、「朱漆花鳥箔絵椀」(オーストリア) 国立美術史博物館 分館アトラス城蔵)「黒塗菊花鳥虫沈金丸外櫃」及び緑塗鳳凰雲沈金丸内櫃(久米島文化センター寄託)」など古琉球期を遡る作品が遺されており、1612年の貝摺奉行の任命をその起源としないと多くの先学たちが指摘している。つまり、貝摺奉行が任命されて初めて琉球で漆器が作られたのではなく、それ以前から漆器製作の高度な技術が育成されていたのである。 このことから考えられることは、この時期に、王府はこれまでの漆器製作の体制を見直す必要を感じたということである。 そこで、薩摩侵攻の3年後に王府が漆器製作の体制の見直しを必要があったかを考えてみたい。古琉球期、琉球は中国・朝鮮・日本や東南アジアを結ぶネットワークによって国家経営を行ってきた。しかし、16世紀末に東南アジアにヨーロッパの勢力が進出し、東南アジアへ出向くことが困難になる。そのため、従来の貿易活動とは異なる新たな対外政策の検討が必要となる。王府の公式記録には1570年東南アジアへの船の派遣が最後となっている。 恐らく、この時期から王府は組織的な産業の育成を始めており、薩摩侵攻後の3年後の貝摺奉行の任命という素早い対応へとつながるのではないだろうか。王府は産業を含めた国家経営を、薩摩侵攻を一つの点としながら、古琉球期的なあり方から別の方法を模索していたと考えられる。 そのため、産業にかかわる記録として1589年の螺赤頭奉行の設置、1592年の金奉行の任命、1612年の毛泰運の貝摺奉行の就任、朝鮮人陶工の招聘、久米島への養蚕技術・八文紬の技法の導入、福州より螺鈿技術の導入など産業技術にかかわる記録が薩摩侵攻前後に出てくる。さらに、王府はこうした技術的な導入と共にデザイナーである絵師の育成を行っている。デザイナーである絵師の育成はこれまで国内消費がメインであった産業を王府が海外に対して、自らの製品、特に漆器に対して、相手先である日本や中国でのブランド化をねらい、これまでの中継貿易に変わる新たな在り方を模索していたのではないかと考えられる。また、そのため、王府は日本や中国の趣向にあう製品の開発を行う必要が出てくる。 中国優位の背景 しかし、中国や日本の趣向にあうといっても、貿易ではない。なぜならば、広大な国土に幾つもの民族と国家がせめぎ合い、興亡をくり返した中国と四方海に囲まれ静かな自然環境の日本とでは当然、趣向性も美意識も違ってくる。そのため、琉球の漆器が日本や中国で高い評価で受け入れられるためには技術的な面以外に両国で受け入れられるデザイン性の高い工芸品の製作という課題があった。 戦前に活躍した美術史家の比嘉朝建の「歴代画人伝」によれば近世琉球期の初期の絵師である李基昌(崎山喜俊)が1645年に薩摩藩の命令で琉球国図を製作するために来沖した絵師、梁瀬清右衛門に絵画を学んでいる。さらに李基昌は薩摩に渡り、雪舟派と狩野派の絵画の流れをくむ内藤等甫からも学んだ。しかし、李基昌の学んだ技術を受け継いだ絵師たちに代わるようにして、中国で絵画を学んだ絵師たちが活躍するようになる。こうした背景には東アジアの伝統として中国優位の文化的背景がある。 美術工芸の育成 王府は、清朝によって三藩乱が1681年に平定され政情が安定すると、2期にわたって琥自謙(石嶺伝莫)、査秉信(上原真知)、呉師虔(山口宗季)3人の絵師を福州へ留学させている。絵師の留学先である福建は琉球の出先機関である琉球館があり、留学生が活動するうえで都合が良かった。また、福建は明代に宮廷画家を多く輩出し、写実的ではあるが装飾性の強い画風を育んだ。装飾性の強い画風は、まさに、絵師が貝摺奉行所で工芸品のデザインを担当する上ではうってつけの画風であったのである。 西洋船の東南アジアの進出、江戸幕府の成立、明朝の滅亡と清朝の成立など、1609年の薩摩侵攻を50年前後して琉球王国を巡る環境は大きく変わっていく。特に王府は直接的に国難を被った、薩摩侵攻以降、自立する方法の一つとして美術工芸の育成を行っていった。ただし、その方法が小国の琉球独自であったのは、大量な商品をつくり、輸出し、有り余る財貨を稼ぎ武装化したことではなく、多様なデザインとそれを支える技術を尽くした製品を作り、相手国におくることによって、自らの文化力を示したことにある。このことは、江戸上りで日本に渡った時や冊封使が琉球に訪れた際に、芸能を披露しその文化の高さを示したことに似ている。 (沖縄タイムス09.04.06) 12・「唐・大和の御取り合い」の実相(上) 豊見山和行 対中関係記す事々抜書 献上めぐり意見対立 近世琉球において、「唐・大和の御取り合い」という用語が多用されていた。この用語から琉球外交のあり方を検討してみよう。いち早くこの用語に着目したのは、東恩納寛惇氏であった。 首里王府の認識 「外交の事を沖縄語では(取合)と申します。この語は公私一切の交際の意味に使用されるのでありまして、国際上の取合即ち外交の意味に使用される時には昔の政治家は(唐大和の御取合)と云ひ、今少し詳しく云ふ時には(唐の御取合、大和の御奉公)と表現して居ります」(東恩納寛惇『沖縄渉外史』1951年) 東恩納氏の右の規定において、「公私一切の交際の意味」というとらえ方は的確であるが、やや厳密に言えば、「取合」(トゥイエー)は男女間の交際や親威同士の付き合いなどごく私的な交際や社交の場合に使用され、「御取合」(ウトゥイエー)は公的な国家間の交際=外交の場合に使用されるという区別があった。 では外交を意味する「御取合」の内容を首里王府は、どのように認識していたのだろうか。その問題を「事々抜書」から見てみよう。「事々抜書」は、王国末期の1870年代頃、首里王府によって編集されたもので、天孫氏から尚育王までの各王の生没や即位年を略記した「御代記の事」の項から始まり、全17項目からなる、いわば琉球の国政要覧に類する文書の抜粋である。その第2、第3項目が「唐御取合の事」、「大和御取合の事」として、それぞれ取りまとめられている。 船舶の詳細記述 「唐御取合の事」の特徴は、対中国関係の基本的かつ重要な事項が広く取り上げられている点にある。例えば、対中国外交の機軸となっていた朝貢関係については、察度王代の1372年から開始されたこと、冊封関係は武寧王代(1404年)から最後の国王・尚泰(1866年)までの冊封使名を列挙する形で記述されている。 官生(留学生)や久米村人の概略、貿易用の銀(渡唐銀)、朝貢品の種類(硫黄・銅・錫)や数量、琉球へ漂着した中国人遭難民の福州への送還船(護送船)、奄美諸島を含む琉球36島とその中国向けの島名(例えば、久高を姑達佳と表記)、冊封使節団(400〜600人余)などの記載は、朝貢・冊封関係に関連した事項と言えよう。ただし、これらの内容は現在の琉球史研究では常識的な事項に属するものばかりである。 その中にあって、進貢船(大唐船・小唐船)、接貢船、護送船など船舶の記述は、次の点で注目に値する。第1に、「渡唐船の事」などには、進貢船の規模(船身約40メートル、幅約11メートルなど)や、その積載量(一艘に付き約162トン)の記載が見られる。第2に、それら各種の船舶ごとに乗組員の構成が詳述されている。 例えば、進貢船に大唐船(頭号船とも)には、進貢正使の勢頭(主従10人=主人1人に従者9人)、同じく副使の大夫(主従11人)、以下、水主(26人)を含め計120人の乗組員であった。冊封使の案内役として、封舟の頭号船には御迎え大夫(主従10人)、船頭(主従各1人)、佐事(3人)、水主(3人)が乗り込むという具合であった。つまり、朝貢・冊封という外交関係を運用面において支えていた各種船舶と、それらに対応した主従という小グループの編成様式が網羅的に記載されているのである。 乾隆帝と嘉慶帝 以上が、およそ首里王府の認識する「唐の御取合」であった。しかし、これらは「唐の御取り合」に関する事項を列挙したものにすぎず、具体的な外交案件はさまざまに発生していた。その一例として、1796年に嘉慶帝へ譲位し、退位した太上皇帝(乾隆帝)への献上品問題と4年後に90歳を迎える同皇帝への慶祝問題を取り上げてみよう。 前者の案件は、清国側から進物は嘉慶帝へのみ献上せよと通達されていたにもかかわらず、琉球側は王府内や福州の河口通事らの意見を聴取し審議の結果、両皇帝へ個別に献上していた。そのことによって、清国から咎められることはなかった。もう一つの太上皇帝の90歳(卒寿)の祝賀問題は、やや複雑であった。同皇帝が88歳となった1798年、王府内部では同皇帝への慶賀品の献上を当然とする主張に対して、久米村からは70歳および80歳の時点でも慶祝しなかったこと、明代以来の先例にも合致しないことなどから献上行為に慎重な意見が出され、対立していた。 「大唐との御取り合いについては、御例格を厚く守ること」が重要だという論理であった。王府は、太上皇帝からの「有り難い御鴻恩」を理由として慶祝する姿勢に傾きつつあったが、結局そのことは実現しなかった。卒寿目前の89歳で太上皇帝が死去したからである。このように一見、瑣末にみえる儀礼的行為も「唐の御取り合い」(=外交)の一端を如実に表すものであった。 (沖縄タイムス09.04.13) 13・「唐・大和の御取り合い」の実相(下) 豊見山和行 一国として存立図る琉球 密接に絡んだ琉・中・日 近世の琉球国は、中国との外交関係(唐の御取り合い)を維持する一方、薩摩藩島津氏の従属下に置かれていた。ここでは「大和の御取り合い」と呼称された日本(薩摩藩)との関係を検討してみよう。『事々抜書』における「大和御取合の事」の項は、ほんの5ヶ条にすぎない。その内容は、およそ次の通りである。 年貢負担の内容 第1条は、尚寧王の治世時の慶長14(1609)年に薩州の樺山権左衛門らの軍勢によって琉球は「征伐」され、それ以後、琉球は「薩州の御下知(支配下)」に置かれた。 第2条は、翌1610年に琉球全域で初めて検地が実施され、11年には琉球国の石高が確定した(8万8000石余)。しかし、その目録高に誤りがあったこと、朱印高の不足による変動などがあり、1727年時の増額によって9万4230石余となった。 第3条は、薩摩藩への年貢米について、検地直後の雑物による納入から代銀納へと変更され、さらに1620年前後から米納となり王国末頃の本年貢は7632石余となった。 第4条は、同じく薩摩藩への賦米(夫米)の徴収額にについて、変動していた額が1660年代を境に以後はほぼ固定化され、王国末には1036石余となった。 第5条は、鹿児島県(1871年置権)への上納総額について、運賃込みの本年貢は1万1777石余(内、米3680石分は黒糖97万余斤で代納)である。 このように、島津氏の琉球攻略記事を除くと、それ以外はすべて年貢負担に関係した内容となっている。言うまでもなく、薩摩藩との関係はそれだけではなかった。主な事項をあげると、キリスト教の厳禁政策は薩摩藩を介して琉球にも及んでおり、首里王府は毎年「切支丹宗門改帳」を作成し、薩摩藩の要求に応じて提出していた。 さらに、次期国王に予定されていた中城王子は、一種の服属儀礼にあたる鹿児島へ渡海(中城王子様御上国と呼称)を義務づけられていた。そして、琉球から将軍の代替わり時には慶賀使節を、琉球国王の代替わり時には謝恩使節を派遣する。「江戸立」(江戸上り)も慣例となっていた。 「江戸立」は、琉球国にとって冊封使(冠船)の受け入れに匹敵する一大外交行事であった。これらは薩摩藩や江戸幕府との外交において重要な事項にもかかわらず、『事々抜書』にはそれらの記載が見られない、という点だけをここでは指摘しておきたい。 唐物の販路問題 さて、具体的に19世紀初頭に発生した日本市場への唐物(中国商品)の販路問題を取り上げてみよう。冊封使の乗る冠船には大量の商品が積み込まれ、それらを琉球側が買い上げる一方、冊封使らは日本産の海産物(昆布等)を購入し帰国した。 これらの交易形態を冠船貿易(評価貿易とも)という。冠船貿易で入手した唐物(漢方薬等)は、薩摩藩を介して日本市場で売却され、そのことによって王府は薩摩藩から借りた銀を返済する仕組みになっていた。ところが、1800年の冠船貿易での商品を旧来通り薩摩藩へ送付したところ、幕府による唐物の市場統制が強化されており、幕府は薩摩藩へ唐物を琉球へ差し戻すか、あるいは焼却処分にせよと厳達してきた。その時は、全品を薩摩藩が買い上げる措置をとったため、琉球は借?を返済することができた。 ところが、1808年時の冠船貿易では、より一層困難を極めた。薩摩藩は、冠船による唐物(漢方薬)の琉球への持ち込みを全面的に阻止するように、と事前に琉球側へ指示していたからである。それにもかかわらず、強引に唐物が持ち込まれたため、慣例にしたがって琉球側はそれらを購入せざるを得なかった。 両国との外交 ところが、薩摩藩はそれらの商品の鹿児島への送付を拒絶したため、買い上げた貿易品の販路が完全に閉ざされることとなった。同年8月に摂政・三司官らは、事態を打開するための嘆願書を薩摩藩へ提出していた。 その要点は、琉球は御国元(薩摩藩)と唐(中国)との「通融」(通交の意)によって、ようやく一国として存立していること。特に、国王の一世一度の大典である冊封時に、貿易品を買い上げることは「古来からの礼儀」であること。そのため、唐物の日本への販路が閉ざされては今後、中国との「通融」に支障をきたすことが予想されること。そのことは「琉国の浮沈」にかかわる重大事であり、かつ薩摩藩への御奉公を維持するためにも販路の確保は必須であること、などを陳弁する内容であった。 この嘆願書によって事態が直接的に打開できたかは不明であるが、その後の冠船貿易において薩摩藩は琉球からの唐物を引き受けていることから、一定の効果はあったものと思われる。 このように対中国・日本(薩摩藩)関係は、密接に絡みあっていたことが分かる。琉球は単なる受動的存在としてではなく、唐・大和との両立という困難な外交関係において、矛盾を抱え込みながらも両国との折り合いをつけることによって、一国としての存立を図っていたのである。そのことを表す表現として「唐・大和の御取り合い」があったと言えよう。 (沖縄タイムス09.04.20) |
14・薩摩侵攻と琉球芸能 大城 學 大和文化 積極的に受容 旅で造詣深めた朝薫 1609年の春、琉球王国は薩摩の支配下に置かれた際に、時の国王尚寧が薩摩に連行された。その翌10年に尚寧は駿府城で猿楽(能)を鑑賞している。曲目は「加茂八島」「老松」ほか3曲で、その後に京都の陸奥守の屋敷で歌舞伎「静」を観ている。薩摩侵攻による琉球側と大和芸能の出合いは、このような衝撃的な幕開けであった。 士族に諸芸奨励 薩摩侵攻後、文化の面では士族たちは、以前にも増して大和文化に直接・間接に触れる機会が増し、大和文化に積極的に親しみ、果敢に取り入れた。その要因として、首里王府の摂政であった羽地朝秀(向象賢)の施策があり、布達された文書集『羽地仕置』にみることができる。「仕置」で強調されたことの一つに「士族層に対する諸芸の奨励」があり、王府の士族たちが教養として12項目の諸芸を学ぶことを明記している。なかでも「謡」を習得したがことが、結果として士族の芸能に能や狂言、歌舞伎などが大きな比重を占めることになった。 尚敬王の冊封を受けるに際して、王府は1718年に玉城朝薫を踊奉行に任命した。朝薫は生涯において、7回大和旅をしている。朝薫はその都度大和芸能を鑑賞し、琉球国内では中国戯曲を鑑賞するなどして造詣を深めた。そして、琉球古来の芸能(球戯)や故事を基礎に、大和芸能や中国戯曲にヒントを得て創作したのが組踊である。 朝薫は大和芸能に造詣が深かった。例えば、1706年1月に薩摩で島津吉貴に仕舞「軒端の梅」(能三番目物の「東北」の古名)を舞ってみせている。1701年12月に朝薫は上意により童名を「文彌」と改名している。文彌とは、当時、古浄瑠璃の太夫であった初世岡本文彌の名の文彌かもしれない。あるいは岡本文彌が創始してはやらせた、泣き節を特色とする文彌節の文彌かもしれない。 「徒然草」引用も 1710年に島津吉貴に従って、朝薫は初めて江戸上りをしている。朝薫は吉貴の命を受けて通事となり、どこでも「日本之言葉」を使ってもよいとの許可を得ている。その江戸上りの際に、朝薫は能「竹生島」「頼政」ほか五番、狂言は「鷺」「今参」ほか二番を鑑賞。1712年には薩摩で「囃子」「能」「狂言」を鑑賞している。 朝薫は、大和芸能の鑑賞だけに終わったのではない。組踊を創作する際に大和文学にも目をとおしている。「執心鐘入」における中城若松と女(娘)との門答で、女のせりふに「をとこ生れても恋しらぬものや/玉のさかづきの底も見らぬ」がある。その「玉のさかづきの底も見らぬ」という文句は『徒然草』にあり、外見がきわめて美しく立派なのに、もっとも肝心な部分が欠けていることの意味。「執心鐘入」の結末、座主の唱える「東方に降三世明王…」ではじまる経文は、能「道成寺」の経文をそのまま引用している。 1710年代の家譜資料を整理すると、首里王府の士族たちが江戸で鑑賞した芸能は、「能」「狂言」「あやつり」「蹴鞠」「曲馬」「伊勢神楽」「越後獅子」など。大阪では「竹田からくり」「あやつり」「基盤人形」「狂言」などを鑑賞。薩摩では「囃子」「能」「狂言」「雑戯」を、駿河では「猿楽」、伏見では「浄瑠璃」などをそれぞれ鑑賞している。 資料収集の継続 士族たちは大和芸能を鑑賞するだけでなく、その技芸も習得していた。彼らは国王の前で能を演じてご覧に入れている(細工能という)。奥平親雲上朝喜(朝薫の三男)は、1738年正月27日に南風の御殿で「芦刈」「羽衣」ほか4曲を舞って上覧している。 士族たちは大和芸能をどこで鑑賞したのか。1710年代の江戸においては、藩邸内の舞台で上演される能や歌舞伎、浄瑠璃を鑑賞していたようである。広島県福山市鞆の浦に、江戸上りをした琉球の使節団の宿舎があり、宿舎の近くに寺がある。寺の境内に能舞台があって、琉球の使節団は、鞆の浦滞在中にその能舞台で上演された能や狂言を鑑賞した可能性がある。 家譜資料には、薩摩や江戸などにおける芸能鑑賞を含めた行動については詳細に記されておらず、琉球側からの具体的な資料をあげることは困難だが、当時の薩摩や江戸などにおける芸能の公演状況や上演演目等々から琉球の使節団がどのような大和芸能に接したのか(芸能鑑賞をしたのか)、受容したのかを考察するための資料収集は継続しなければならない。 (沖縄タイムス09.04.27) 15・薩摩侵攻後の言語状況 西岡 敏 漢字仮名交じりに転換 読み方に独自の表現も 道ひとつ隔てれば言葉が変わると言われるほど、琉球語は多様である。各地域で独自の変化を遂げ、互いに通じ合わないこともしばしばである。その多様な琉球語が話されている範囲は、薩摩侵攻以前の琉球国の最大版図と一致する。 語圏内の差異 薩摩侵攻の前、琉球国は入貢しない「大島」地域を度々「征伐」し、奄美諸島の支配を固める。その後、琉球国は薩摩に「征伐」され、奄美諸島を薩摩に割譲する。しかし、奄美沖縄で話されることばは、政治的な分断を経てもなお、共通の特徴を有している。沖縄語と奄美語は北琉球方言群を形成して互いに近い関係にある。宮古語と八重山語は南琉球方言群を形成し、同じ琉球語圏内には属するが、奄美沖縄の北琉球方言群と一線を画す。 奄美沖縄(北琉球)の言葉には、喉頭化音という独特の音声がある。沖縄語の「ッワー」(豚)や「ッユン」(言う)など、いったん喉を緊張させて発音されるもので、奄美でも多くの地域で見られる。また、奄美沖縄では「カ」「ケ」「コ」の発音が「ハ」「ヒ」「フ」になる地域も数多くある。沖縄北部方言では風を「ハジ」、煙を「ヒブシ」、米を「フミ」などと言い、奄美の喜界島方言でも「ハディ」(風)、「ヒブシ」(煙)、「フミ」(米)などと言って、共通した音変化を見せる。薩摩侵攻によって行政的には分断させられたが、奄美沖縄の言語的な共通基盤は保持されてきた。 表記字の変化 薩摩侵攻が言葉の面に何も圧力を加えなかったわけではない。目に付きやすいのは表記文字の変化であろう。沖縄語の表記は、古琉球期、かな中心でほとんど漢字なしで表記されていた。ところが、薩摩侵攻後、漢文訓読と和文が浸透すると、漢字仮名交じり表記に切りかえられる。 古琉球期の沖縄語資料として「おもろさうし」(16〜17世紀)があるが、本文はほとんどひらがなで表記され、漢字はわずか51種類しか使用されていない。それに対して、近世琉球期に発達する琉歌や組踊では、漢字仮名交じりが主流で、多くの種類の漢字が用いられている。たとえば、18世紀末に編纂された「琉歌百控乾柔節流」では、約600種類の漢字が使われ、ひらがなとカタカナルビを交えて、沖縄語の歌謡である琉歌を表記している。 薩摩侵攻を契機とした仮名表記の後退と当て漢字の増大。その結果、表記が煩雑化して元の沖縄語の音声が直接復元しにくくなり、語の本来的意味が漢字によって狭く限定させられてゆく。「国語は民族の呼吸」とする伊波普猷は「島津氏の琉球入以来南島人の呼吸は苦しくなった」と言っている(『琉球戯曲集』)。息苦しくなったかもしれない沖縄語だが、新たな息吹を感じさせるような特徴もある。 それは沖縄独自の訓読みと音読みである。「記録にも消息にも自国語を用ゐることが出来なく」(伊波普猷)なった状況下、自国語の文芸である琉歌や組踊などでは沖縄独自の当て漢字が発達する。その萌芽はすでにオモロの時代からあった。「おもろさうし」の漢字表記はきわめて限定的なものであるが、その中に独自の読みをもった漢字表記がある。たとえば、「城」と書いて「ぐすく」(181番)と読ませる、「人」と書いて「ごろ」(1396番)、「天」と書いて「てに」(231番)等である。 多様な地域性 近世以降、その傾向はさらに強まる。「琉歌百控乾柔節流」では、沖縄語の「ちゅらさ」に対して、「清」と「美」の両方の当て字が確認される。「二三月の夜雨 時々よ違ぬ 苗代田の稲や 色の清さ」(44番)、「?の若?や 笠張ての美さ 竹の若竹や まく結美さ」(94番)。前者は「ちゅらさ」に「清さ」、後者は「美さ」と当てている(『南島歌謡大成沖縄篇下』)。 「二三月」には、原典に「ウリツミ」というカタカナルビが振られている。「二三月」は「うりずん」の漢字表記の一候補ということになる。「五月雨」「土産」のような複数の漢字列に一つの訓読みを与える熟字訓が、沖縄語にあってもよい。いわば沖縄独自の熟字訓である。事実、「親雲上」は「ぺーちん(ペーくみ)」と読まれ、「北風」は「にし」、「南風」は「はえ(ふぇー)」などと読まれて定着し、通用している。 沖縄語と漢字の関係付けを迫られた表現者は、沖縄独自の読みを伴った漢字仮名交じり表記を編み出した。現在でも「礎」を「いしじ」、「美ら海」を「ちゅらうみ」などと沖縄語で訓読みさせている例がある。音読みについても「三線」を「サンシン」などという沖縄独自のものが設定できる。独自の訓読み・音読みは、沖縄地域に限らず、他の琉球語圏である奄美・宮古・八重山でも可能で、「美ら」(奄美)、「美ぎ」(宮古)、「美いしゃ」(八重山)とそれぞれの地域語で読ませることがある。 琉球列島の多様なことばが、漢字という表意文字によって、どのようにつなげられるのか。さまざまな漢字音訓から見えてくるものは、外部の文化にさらされつつも、自分たち固有の文化を刻み付けようとしてきた島人の純姿であるにちがいない。 (沖縄タイムス09.05.04) 16・薩摩侵攻と奄美諸島 弓削政己 琉球と異なる統治形態 歴史像の再構築必要 今年が薩摩侵攻400年ということで、奄美諸島でも薩摩藩支配の評価と今後の行く末をどう考えるかという動きが出始めている。ただ、これまでの奄美諸島の歴史をどう把握するか、その端緒が議論されだしたという段階である。 直接・間接支配 奄美諸島の歴史認識の出発点は、1891(明治24)年12月に「緒言」が書かれた『奄美史談』(黎明館所蔵)である。その記述は薩摩による奄美の直轄支配という視点が中心であり、それが後の歴史認識や意識に大きな影響を及ぼしてきた。 たしかに薩摩は奄美に代官を配置し直轄支配とした。だが同時に、琉球へは藩の在番奉行のもと、一定の自立性を認めながら間接支配とし、かつ奄美と分断していた。薩摩は両者の違いを前提にしながら、関連させて統治の仕組みを考えていたのである。 薩摩による奄美の直轄支配を考える上では、黒糖が中心的問題となる。当初、奄美から薩摩への上納は米であった。ところが1691(元禄4)年、琉球からの「黍作植付」「砂糖製法」技術の導入後、貢租は米上納分を黒糖で換算し、黒糖中心の上納となった。(「和家文書」)。 従来、奄美では、黒糖が税として直接上納されていたと考えられていた。だが、奄美においても上納の基礎計算は米の生産量を基準とする石高制であり、黒糖はあくまで特産品とみなされ、薩摩に買い上げられて石高で換算された。 幕末、薩摩藩にとって黒糖は財政改革の第1の主眼として重視されたが、新たな史料(『近世社会経済叢書』第4巻、 『鹿児島県史料 斉彬公史料』第4巻)で詳しい数値が一層把握されてきた。 他方、徳之島全体では1853(嘉永6)年の生産糖から上納後、手元に残る分量はわずか27万181斤、生産糖の8・5%にすぎなかった(『道之島代官記集成』)。 島役人の二面性 これまでも薩摩による黒糖収奪は指摘されてきた。しかしこのような収奪のシステムは、媒介として奄美諸島出自の島役人・土身分の郷土格(侍に準ずる身分)がいなければ不可能だ、という理解の視点は弱かった。 徳之島を例に取ると、武力装置として藩の足軽が常駐していたのは、1670(寛文10)年の附役(役人)設置以前からで、60年近く滞在したと伝えられている(『道之島代官記集成』)。それが1750(寛延3)年には薩摩から詰役人は、代官1名、附役2名、横目2名になる。この体制のみでは過酷な収奪は不可能である。 また、宝暦年間には、徳之島から奄美大島に逃げた百姓を奄美大島の島役人が抱えていたことや、1849(嘉永2)年、徳之島人口の1・5%の郷土格と家族が大きな屋敷や田畑を持ち生活していた事例も知られている(「窪田家文書」など)。 過重な税負担に対する抵抗運動として知られる犬田布一揆等、抵抗・一揆に加担する島の下層役人もいて、島役人の二面性、内部構造の把握も重要だ。また、島民は藩内黒糖生産の技術指導の役割を担っていた。馬や水車などの動力確保など、生産を高める島民の主体性のあり方、琉球との関係の同胞意識からの解釈とともに利害対立の視角からの理解も必要である。 冊封体制の維持 中国からの冊封使来琉時には、奄美諸島から琉球へ見次物(貢物)があり、たとえ奄美が飢饉時でも搬送がなされた。伊波普猷はこれを「奄美は苦しい中でも琉球のために貢献してくれた」と同胞論的に理解した。しかし、これは奄美と琉球との親和的な関係から生じたものではなく、琉球が薩摩へ搬送を依頼し、それを受け薩摩が奄美に指示することで成立したもので、島民の藩への貢納の一形態である。 また薩摩は幕末、琉球の重要産物であったウコンの価格下落の原因が奄美からの抜荷(密輪)にあるとして、1835(天保6)年、種子島を含め奄美諸島のウコンの苗を取り払った。その結果として今日、奄美諸島ではウコン栽培の記憶さえ残っていないほどである。 唐物抜荷(密輪)の形罰では、奄美諸島は琉球からの流刊地の一つだったが、流刊にする島とその期間は、琉球館(薩摩にあった琉球役人の出先機関)で薩摩の意向を伺いながら、琉球の役人が決定していた。 1830年の抜荷死罪規定は、前年の喜界島での大がかりな抜荷が契機となった。これまで奄美諸島のみと思われていた同規定は、種子島とともに、琉球へも布達されていた。だが、琉球への布達は薩摩役人の在番奉行あてであり、琉球への直接の命令ではない。(「尚家文書」)。 従来、奄美諸島と沖縄とは自然的、歴史的な関係から情緒的に「兄弟島」として一括して理解される傾向があった。だが、史実が明らかにするように両者の社会や統治形態には異なる側面もあり、その理解は奄美にとっても沖縄にとっても共通性と独自性を明らかにする上で有益だろう。 奄美諸島の島民の服装を薩摩と同じにさせなかった事や、郷土格への一字名字使用などの理由も、薩摩の直轄支配による差別政策の結果だという意見もある。それはまた、近代史での奄美諸島の人々の歴史の体験の反映もある。しかし、冊封体制を維持するため、薩摩による直轄支配を隠蔽するという側面があったのではないだろうか。そのことを含めて歴史像の再構築を試みる必要が求められている。 (沖縄タイムス09.05.11) |
17 日琉同祖論の背景(上) 安里 進 国家統合と異なる羽地論 琉球人の存在意義を保持 日琉同祖論は、琉球人が日本人になるために必要な思想的装置である。今から130年前(明治12年)に琉球王国が日本に併合されるまで、近世の琉球人と日本人は、お互いに「異国人」と認識してきた。このような琉球人が、なぜ現在では日本国家の一員(沖縄県民)となり、そして自らを日本人(日本人としての沖縄人)と思うようになったのか。その根拠になったのが日琉同祖論である。日琉同祖論が生まれた歴史的背景と、琉球・沖縄史研究に与えてきた影響について考えてみたい。 邦人意識の形成 日琉同祖論があるなら、九州や四国にも「日九同祖論」や「日四同祖論」があるのだろうか。むろんそういう議論は聞いたことがない。九州や四国の人たちは、自分が日本人であることを証明することなど考えたことすらないだろう。ところが私たち沖縄人は、日琉同祖論をもちださないと日本人であることを説明できない。 なぜなのか。明治政府による一方的な「琉球処分」で琉球王国が日本に武力併合されるまでは、自らを日本人と思う琉球人はほとんどいなかったし、日本側も琉球人を外国人とみてきたからだ。それから60年の時間をかけて、日本政府による同化教育と沖縄側からの同化志向で日本人意識がつくられてきた。上からの日本人化教育と下からの日本人化志向を支えてきたのが日琉同祖論だった。 最初に日琉同祖論を主張したのは羽地朝秀(向象賢)だといわれているが、そうではない。日琉同祖論は、琉球人と日本人は先祖が同じという単なる学説ではない。同祖を根拠にして琉球人を日本民族の一分肢とみなし、琉球が日本国家に組み込まれている現実を受け入れようとする思想である。しかし、羽地の主張はこれとは異なるものであった。 支配層の意識 羽地は、薩摩藩による支配という現実に直面して、古琉球国家を薩摩支配に適応した近世国家体制へ転換させる政策を断行した人物だ。彼は『中山世鑑』(1650年)で、琉球の最初の住民が天孫氏(し)で、その後、12世紀に琉球に渡来した源為朝の子が舜天王となって琉球王統の祖になったと論じている。さらに『羽地仕置』(1666〜73年)のなかで、琉球の最初の住民も日本から渡来してきたことについてつぎのようにのべている。 「窃に惟ふは、此の国の人の生まれ初めは日本より渡りたる儀、疑ひ御座なく侯。然らば末世の今に天地・山川・五形・五倫・鳥獣・草木の名に至る迄、皆通達せり。然りといヘども言葉の余た相違するは遠国の上、久しく通触絶へたる故なり」 この文章は、羽地の日琉同祖論として流布されてきた。しかし、この文につづいて、「五穀も人と同時に日本より渡りたる物なれば、右祭礼(久高島の麦穂祭)は何方にて仕られ侯ても同じ事とぞんじ侯事」とある。つまり、人といっしょに琉球の穀類も日本から渡来したものだから、国王がどこで麦穂祭をしても同じことだ(旧慣どおり久高島で麦穂祭をする必要はない)というのが羽地の主張である。 すでに高良倉吉氏が指摘しているように、羽地は、国王の久高島参詣という古琉球的な王府祭祀を廃止するために日琉同祖を持ちだしているのであって、日琉同祖論を主張しているわけではない(高良倉吉「『羽地仕置』に関する若干の断章」『琉球大学法文学部紀要 日本東洋文化論集』第6号、2000年」。 むしろ、本紙の新年企画「琉球・沖縄史を考える」や、この連載企画「御取合400年」で論じられてきたように、羽地をはじめ琉球王国の支配層は、薩摩藩の支配を受けながらも琉球人というアイデンティティーを保持し、琉球国家の存続を追求してきた。 別次元の問題 琉球王統の祖を日本に結びつける発想は、薩摩藩の琉球侵攻以前から存在していた。田名真之氏によると、16世紀半ばの京都では、琉球に渡った為朝の子孫が代々琉球王になったという噂があったという(本連載企画「御取合400年」7)。1603年に来琉した袋中の『琉球神道記』には、「中ゴロ鎮西ノ八郎為伴此国二来リ逆賊ヲ威シテ今鬼神」(今帰仁)ヨリ飛礫(つぶて)ヲナス」、「為友此国ヲ治ラルル時」などと為朝の渡来と琉球統治伝説にふれている。 日琉同祖の発想も、日琉間の言語や風習そして顔かたちの類似性、また、古琉球から琉球語を平仮名で表記してきたことなどから容易に思いつくことだ。さらに、琉球人が海外交易をとおしてアジア諸民族と交流するようになると、琉球人自身がアジアの中でも日本人に近いことを実感したにちがいない。 古くから日琉同祖を認識する下地があったにもかかわらず、薩摩支配下の琉球王国においては、日琉同租が日本人分肢論や国家統合論には発展しなかった。日琉同祖と琉球人としてのアイデンティティーや国家とは次元の異なる問題だったのである。こうした日琉同祖の発想を日琉同祖論に転換させ、同祖→日本民族の分肢→民族統一へと展開させていったのが、伊波普猷をはじめとする近代の研究者であった。 (沖縄タイムス09.05.18) 18・日琉同祖論の背景(下) 安里 進 統合と分化揺れる歴史 日本と異なる先史文化 日本の琉球支配に直面した2人は、共に日琉は同祖と考えながらも正反対の現実的対応をとった。首里王府の羽地朝秀は、薩摩藩支配下でも琉球人としてのアイデンティティーを保持し、琉球国家の存続を志向した。一方、沖縄学の父といわれる伊波普猷は、琉球人を日本民族の一分肢とみなして、明治政府の琉球併合を民族統一と評価し、日本国家の枠内で「日本人としての沖縄人」というアイデンティティーの再構築をめざした。 国家的一体感 伊波が沖縄学を志した20世紀初頭は、琉球王国が日本に武力併合されてから20年余りが過ぎていた。併合に抵抗した琉球士族は、清国に王国復興の支援を要請していた。しかし、その清国も日清戦争で日本に敗れ、もはや琉球人には日本国家の中で生きるしか選択肢がない時代だった。 伊波はいう。「思ふに小民族が大民族に併合される場合に前者が後者と祖先を同じうし、神を一にするといふことを意識することが出来たら、其苦痛は確かに半減するに相違ない」(「琉球の五偉人」1916年」)。一方では、「琉球処分の結果所謂琉球王国は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に這つて復活した」(「浦添考」1905年)とものべている。伊波の言葉には、琉球人の苦痛と矛盾が集約されている。この苦痛を和らげ、「日本国家・日本人の一員としての沖縄人」というアイデンティティーの再構築には、日琉同祖論という思想的装置が必要であり、そのためにも日琉同祖を学術的に「実証」しなければならなかった。 こうして沖縄学研究は、日琉同祖論というパラダイムのなかで展開していった。言語学では、日本語と琉球語の同系関係の証明と分離時期の解明が重要な課題だった。また、「琉球語」という用語をさけて、日本の方言であることを強調する「琉球方言」とよぶ傾向をつよめてきた。民俗学でも、琉球の民俗のなかに「古代日本の姿」を追い求めてきた。歴史研究では、薩摩藩の琉球「侵略」を「進入」と評価したり、また、「江戸立」を「江戸上り」といい換え、中国風の装束による行列を強制されたなど、あたかも琉球王国時代から日本との民族的、国家的一体感があったかのように説明しようとしてきた。 沖縄の考古学 豊見山和行氏は、このような琉球・沖縄史理解を「『日本民族の一分枝』として認識する日本史の呪縛」と批判している「豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』2003年)が、沖縄の考古学では日琉同祖論をまだ引きずっている。 戦後急速に発展した沖縄の考古学では、沖縄にも縄文・弥生文化が存在したことを実証したいという願望が根強かった。ところが沖縄の先史文化は、縄文文化と共通性はあるが独自性も強く、本土と同質の縄文文化と規定するには問題がある。沖縄の先史人骨も、縄文人的だが、縄文人そのものとはいい難いと指摘されている。また、戦後60年も弥生文化の存在を証明すべく水田跡の発見にやっきになってきたが、未だにその証拠を発見できないでいる。 縄文文化そのものとはいい難く、弥生文化も存在しないとなると沖縄の先史時代の名称はどうなるのか。「沖縄貝塚時代」という独自の時代名称と、日本の時代区分にこだわった「縄文時代」「弥生〜平安併行時代」という名称が使われている。考古学的事実と日琉同祖論との矛盾に揺れているのである。 「王権」の形成 ところで、ここ10数年の発掘調査で、日琉同祖論にかかわる新たな事実がでてきた。グスク時代前半(11世紀後半〜13世紀)に、琉球列島では「人と文化の日本化」が進行していた。グスク文化は、中世日本文化の強い影響を受けて成立したが、この時期には人の形質も大きく変化して中世日本人と変わらなくなる(安里進・土肥直美『沖縄人はどこからきたか』1999年)。また、浦添ようどれ(英祖王陵)の調査で、琉球王権は、日本だけでなく南中国や朝鮮との人的交流をとおして形成されてきたことがわかってきた(安里進『琉球の王権とグスク』2006年)。 グスク時代の日本化を琉球・沖縄の歴史展開図にはめてみると、沖縄が日本化した時期が過去3回あったことがわかる。貝塚時代前期、グスク時代、近現代だ。琉球・沖縄の歴史は、東アジア世界とかかわりあいながら、日本化と沖縄化(琉球化)、統合と分化をへながら複雑に揺れ動いてきた。 このような歴史の流れからみた現代沖縄の位置は、日琉同祖→琉球王国→日琉再統一という単線的で運命論的な歴史の帰結とは思えない。歴史の大きなうねりのなかで揺れ動いてきた、そして今後も揺れていく歴史の1コマに、私たちは立っているのだと思う。 (沖縄タイムス09.05.25) 19・薩摩藩の琉球在番奉行(上) 真栄平房昭 屈辱接待耐えた琉球人 語り継がれた歴史の裏 17世紀前半、薩摩藩は琉球支配の拠点として、仮屋(かいや)と呼ばれる在番奉行所を設置した。在番奉行と配下の役人衆およそ20名が在勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。奉行の任務は、王府との政治折衝や年貢の収納、進貢貿易の監督、さらに宗門改めの督励など。これらの行政のほかに日常的な交際、いわゆる「御取合」も重要な活動であった。 現地妻には遊女 薩摩の役人たちは単身で赴任し、那覇の遊女(ジュリ)を現地妻としていた。伊波普猷は、『沖縄女性史』の中で、こう述べている。 「在番奉行は妻子をつれて来ないで、一人で赴任して来たのであるから、沖縄滞在の3年間は、辻の尾類(ジュリ)を仮屋(官舎)に引っ張って来て、慰んだのである。この尾類のことをアグシタリーといった。昔は王家から在番奉行が招待される場合には、このアグシタリーまでついて行ったということであるが、こういうことをされては国の体面にも関係するというので、いつの頃からか、アグシタリーが首里城内に出入りするのは禁ぜられてしまった。(中略)このアグシタリーはなかなか威張った者で、士族の女子と同様な装束をしていたが、たいがい辻遊郭の美形から採用されたということである。もし、彼女と在番奉行との間に子供が出来たら、この子供は士族に取立てられたとのことである。現に那覇の名家の中には4、5ヵ所位、在番奉行の落胤があるのである」(『沖縄女性史』平凡社ライブラリー、107〜109頁)。 伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという通説は、近年の研究では否定され、むしろ琉球側の主体性を評価する傾向にある。基本的に賛成だが、琉球支配の従属性がすべて消滅し、独立国になったわけではない。時代とともに変化する従属関係の実態を今後、さらに明らかにしていく必要があろう。ここで「女性史と政治史」をリンクした視点から言えば、「在番奉行の落胤」という理由で「遊女の子」を士族身分に取り立てるのは、支配者(薩摩)と被支配者(琉球)の構図をまさに象徴している。また在番権力を後ろ盾とする遊女が、「士族の女子と同様」という格式破りをしても、王府はなかなか口を出しにくい一面があったようだ。つまり、薩摩役人の「女性関係」が優先されたわけで、琉球国の身分制秩序(衣服制度もその一つ)が無視された状況がうかがえるのである。 弁当付きで遊興 次に、19世紀の在番奉行の活動状況について具体的に見てみよう。在番奉行「市来次十郎」の接遇役として「仮屋守」を勤めた那覇役人高里親雲上は、咸豊9(1859)年12月から同治元(1862)年7月までの日記を残している。この日記を見ると、在番たちが那覇近郊の視察がてら、しばしば「物見遊山」にでかけたことがわかる。たとえば、5月初旬の爬龍船競漕(ハーリー)見物などは、毎年恒例であった。 『首里那覇港図屏風』には、ハーリー舟のほかに薩摩役人の和船や伝間(小舟)も描かれている。同乗の女性は、おそらく馴染みの遊女であろう。咸豊10年閏3月22日の日記を見ると、「御奉行様御慰」のため小禄間切の「番所」にでかけ、「弁当持参」の高里親雲上らがお供した。いわば日帰りの慰安旅行である。6月26日には垣花にでかけ、薩摩の船頭たちの「相撲」を見物し、29日には壺屋村で焼き物の「かま出し」を見た。さらに8月14日、「漂着朝鮮人」の確認のため泊村へ出向き、その後、浦添の城間村で食事をした。同22日には、首里の「金城村射場」で、「鉄砲」の射撃練習を見るようにと、奉行から指示があった。また9月20日には奉行役々衆が「御馬御乗廻」として豊見城、小禄大嶺辺りへ馬で遠乗りした際、大湾筑登之の原屋(ハルヤー)の休憩時に、御物城と仮屋守らが「弁当持参」で出迎えた。さらに咸豊11年正月7日、在番奉行の市来らが識名辺りに「小鳥」の狩猟にでかけた際、仮屋守の高里親雲上らが「弁当持参」で案内し、帰りは真玉橋の役人の家で「御酒迎」をした。 記録には残らず このように薩摩の在番奉行たちは視察と遊興目的でしばしば外出したが、行き先は那覇近郊の小禄・豊見城のほか、ときには浦添・西原方面まで足をのばすこともあった。同行した仮屋守らは、食事や酒を用意するなど「接待役」をつとめた。一例として、那覇湾の一角に崖上から落下する清冽な泉に、落水(ウティンダ)があった。その泉流の上源から「そうめん」を流し、中途ですくって食べるのが、在番奉行衆の「夏の遊興」の一番の楽しみであったという(『東恩納寛惇全集5』)367頁)。 さらに、奉行衆を招いた「宴会」もしばしば開かれた。島袋全発『那覇変遷記』(昭和5年初版)には、戦前、那覇の婦人たちが語り伝えた、次のようなエピソードがある。 「奉行ウンチケー(招宴)の日の男たち(琉球側)は、みじめなものであった。彼等(薩摩人)が何とかいえば、主人側はパッと裾を開けて、オチンコを見せたりした。すると奉行たちは哄々と高く笑って、悦に入るのであった」(『那覇変遷記』)復刻版・沖縄タイムス選書、91頁) 薩摩役人を接待する宴会の場であるが、この屈辱的で哀しいエピソードは琉球支配の一面について、知られざる歴史を物語る。在番奉行たちの気まぐれな戯れ言にも、じっと耐え忍ばねばならない琉球側の接待役は、おそらく言葉にできない屈辱感を味わったにちがいない。しかし、その屈折した感情を「公務日記」の文面から読むことはできない。なぜなら、この種の体験が公式記録に残る可能性はきわめて薄いからだ。つまり、文字でなく、記憶の世界で語り継がれた歴史の裏面ともいえる。その意味で、「口伝えの歴史」としてのオーラル・ヒストリーは、文献史料とはまた別に独自の価値と可能性をもつ。 (沖縄タイムス09.06.01) 20・薩摩藩の琉球在番奉行(下) 真栄平房昭 海の防衛に漂着船確認 那覇遊覧や小鳥狩りも 在番奉行らは琉球着任後、首里城に登り、琉球国王との対面儀式に臨んだ。そのときの様子が仮屋守の日記からわかる。 国王との対面儀式 10月初旬、国王への進上品として「御太刀・馬代・干鯛・昆布・御樽」などが用意され、朝9時に那覇の「仮屋」(奉行所)を出発した薩摩武士の行列は、首里城をめざした。途中、王世子の中城御殿に立ち寄り衣装を着替えた。さらに歓会門に着くと、奉行はここで駕籠を降り、奉神門で草履を脱いだ。これより先の王城の聖域では、薩摩の在番奉行といえども、「土足」は断じて許されなかったのである。 国王は「御対面所」で、まず奉行と対面した。続いて家来らも一人づつ出座し、王に一礼して退室。こうした儀式が一通り終わると、「三献」の礼がある。一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で一杯ずつ繰り返し、九杯の酒をすすめる。それから在番奉行衆は茶・煙草で一服した後、別室で御馳走にあずかった。 密売取り締まりも 次に、在番奉行たちの「外出状況」について見ていこう。近くは識名・末吉への物見遊山、さらに普天間・糸満・島尻、遠くは北谷・読谷・国頭方面まで出かけていた事実が、『年中各月日記』などから明らかである。1849(道光29)年3月の具体例を示すと、「御奉行様が内々に、識名御殿(尚家の別荘識名園)を拝見する」という連絡が、首里城の書院奉行らに届いた。7月には「島津登殿ならびに在番奉行、役人衆が末吉の社檀(首里の末吉宮)を見物する」との連絡があった。ほかに、崎山の「御茶屋御殿」(尚家の別荘)や高官の私邸などに在番奉行衆を招く場合もあった。王府は薩摩役人らを接待するため、彼らの外出情報を事前に関係部局に通達し、対応準備にあたらせた。 さらに、薩摩役人たちは農村地域に足をのばすこともあった。1855(咸豊5)年、産物方役人の野本一郎右衛門は、藩の御用商人である小川市兵衛、染川周右衛門とともに恩納、国頭間切まで出かけた。鬱金(ウコン)の生産・収穫状況をチェックし、その密売を取り締まるためである。漢方薬の原料となるウコンは黒砂糖とともに日本市場に出荷された商品作物であり、薩摩藩の重要な財源の一つでもあった。そのため、薩摩役人らは北部地域まで出張し、ウコン密売に眼を光らせたのである。ちなみに、NHK大河ドラマ「篤姫」で幼なじみの「尚五郎」(家老の小松帯刀)も、藩の「琉球産物方掛」などを兼任していた。 薩摩の役人は沖縄各地を視察したが、「漂着問題」への対応が特に注目される。琉球沿岸に見知らぬ船が漂着すると、在番奉行の家来たちも必要に応じて現地確認を行った。これは幕藩制国家が全国に公布した「異国船・海防対策」に連動した公務であり、そのような偵察活動が琉球国内においても実施されたのである。たとえば、肥後天草の漁船が漂着したケースでは、横目岩下清之丞・附役松下正之進・足軽らが北谷方面で漂着民の確認や事情聴取にあたり、その身柄をいったん浦添の城間村に移送している。 少し風変わりな出張としては、在番奉行の市来次十郎が西原番所まで「水牛御見検分」にでかけた。帰る頃には日が暮れてしまい、予定のコースを変更して「首里道」から那覇にもどった(『御仮屋守日記』咸豊11年3月26日条)。在番奉行たちは仕事の余暇に、競馬・綱引き・ハーリー見物などを楽しみ、また各地へ鳥狩り(ハンティング)に出かけた。1856(咸豊6)年、王府の帳当座の記録によると、「明日(2月16日)未明、御奉行様が小鳥狩りで浦添の城間村へお出かけになるので、村では御宿を用意し、掃除等もきちんとしておくように。また、村の出口に頭役を1人待機させ、御宿まで案内し、御奉行様のお世話をしなさい」と、命じている(帳当座『年中各月日記』咸豊6年2月15日)。こうした小鳥狩りは、北谷間切など各地で行われていた。薩摩役人の大きな楽しみであったが、宿泊先の手配や酒食の接待に追われた琉球役人は、多分に神経をすり減らしたにちがいない。 在番奉行の動向を要約すると、@首里城における国王への挨拶A首里・那覇近郊の遊覧B農村地域への出張、視察があった。また、尚家の別荘や役人私邸での接待のほか、末吉宮・普天間宮などを訪ねたり、野遊びで小鳥狩りを楽しんだ。こうした例から明らかなように、在番奉行たちの行動パターンには「公務」と「遊興」という両面があったと言える。 遊女らの商業活動 女性の視点から歴史をみると、意外な鏡像が映し出される。ここでは遊女について取り上げたい。薩摩の役人が遊女(ジュリ)などを現地妻とした背景には、もちろん権力支配が存在する。しかし、遊女であれ誰の子であれ、「我が子」を慈しむ人情に変わりはない。『薩摩風土記』によると、南島女性との間に産まれた子どもを薩摩に連れ帰り、これを「島子」と呼ぶ風習があった。詳しい事情については不明だが、父は薩摩人、母は琉球・奄美人の血をひく「島子」は、どのような人生を歩むことになったのだろうか。 また、薩摩の商人や船頭たちは、馴染みの遊女に那覇の市場で茶・煙草・小間物などを売らせた。遊女たちにとって、これは一種の副業ビジネスであった。遊女は「帳簿にいちいち記載せず、すべて胸算用だが、間違いはない」(『薩摩風土記』という。問題は「性の領域」にとどまらず、港町に生きる遊女たちのたくましい商業活動の一面もうかがえる。 (沖縄タイムス09.06.08) 21・薩摩侵攻と琉球の経済 宮城弘岩 貿易占拠 農民を奴隷化 適策なく財政再建失敗 最初にやらなければならないことは薩摩侵略400年の意味付け、性格付けである。それがいかに今日の沖縄の実態に影響を与えているか、また植民地化してきたことが今日まで引きずっている影はなにか、見ていかねばならない。本稿では、財政の破綻寸前の薩摩が、財政を建て直すために琉球をいかに占拠して換金したかについて考えたい。 赤字500万両抱え 江戸時代を通じて薩摩藩の財政収支は赤字で、ひどい時には39年分の藩予算に匹敵する累積500万両という巨額の借財を抱えていた。400年を通じて年貢収入という農本制経済は必ず行き詰まるのは歴史の示す通りである。農業経済が成立するには市場の発展があって初めて投資や金利の回収が可能である。江戸時代末期の各藩の財政が因窮するのはそのためである。農民搾取に立脚する武士支配の矛盾はまず薩摩にも露呈していた。 特に薩摩藩は、江戸における藩主島津重豪の政治的分不相応の出費が重なり、藩内の「郷土」と呼ばれる帯刀した農民の存在が財政を圧迫した。他藩の5倍にあたる人口の約2・6割の士卒(郷土)を誰が賄うか。薩摩藩は農業不向きの土壌で財政は成りたち難い。そのために琉球から奄美を割譲し植民地にするが農民を奴隷化し、さらには貿易を独占して琉球経済を破壊に導くのである。 単に自藩の財政救済ではなくニセ銭造りまでして(「東恩納寛惇全集四」176頁などの資料による)明治革命(重豪は戦争といっている)に向けた蓄財を図る。1830年から10年間で赤字財政は解決するが、いずれのやり方も尋常ではない。資本主義ならどの時代でも通用しないやり方である。500万両の借財解消には相手方に無利子の250年払いを強要した証文切り替えを行う。事実上の踏み倒しであった。 農本主義へ転換 特に琉球経済を決定的に破壊に導いた要因として、今でも通底するのは、何百年間もかけて構築してきた海外貿易よりも琉球を農本主義の経済構造へ強制的に転換したことである。当時11万の人口の60%は首里、那覇に住み那覇港を拠点に貿易で暮らしを立ててきた。しかし、1800年代には農本経済下で何千人という餓死者を出す。 幕府は中国との公式の取引を狙い琉球政策を意図したが、それをうまく薩摩に利用された。目的は達成するどころか逆に政敵、商敵をつくるだけに終わるのである。鎖国を解禁した中国の長江デルタ地域は人口が増大し中国の富が集中していた。日本の国内的には、江戸の市場経済が活発で人口は増大していた。適切な政策を持てば富の蓄積によって奄美の黒糖地獄を回避し、琉球の多くの餓死者も出さずに、もっと別の経済を構築できたはずである。 琉球を取り巻く経済は好転していた。明朝はモンゴルや周辺地域の緊張関係から銀を求めていた。世界でも銀の流通が拡大し1609年にはその交換比率が、金1に対し中国銀7・5、日本銀12・2、スペイン銀13・1であった。つまり銀を中国に輸出すれば70%の利ざやが稼げだ。薩摩は二つの金山を抱えており、その金で西洋の銀を買い中国に輸出すればどれほどの利益を得たか分からない。それはもともとオランダがやっていた貿易である。 世界は依然として中国の絹織物、陶磁器、茶などに目を向けており基軸である銀なしにそれらの品々は入手できなかった。しかし後に薩摩が証明するように地域物産の価格差を利用した貿易は十分可能であった(外国琉球であれば密輸にならない)。銀の代わりに、ナマコや鮑などの俵物とか、昆布やスルメ、かつお節などの諸色と呼ばれる物産の価格差を利用するのである。 例えば北海道の昆布を琉球から直接輸出して、日本と約6倍の価格差がある中国の薬種や染料を輸入し、全国販売権を持つ富山の越中薬売組と交換すれば大きな利益が得られた。このやり方が実現可能であることは、明治元年以前の50年間の琉球から中国への輸出品の85%を、昆布が占めていたことでもわかる。 通貨政策を放棄 また幕末に藩主島津成彬は事あるごとに幕府への伺いを仰ぐがその都度の幕府の返答は「島津への一任」であった。幕府の指示に基づく密書を琉球に発するが薩摩の実力で自由な貿易政策をとればひそかにフランスの軍艦、兵器や医薬品など軍事用の資材など輸入せずとも琉球を越えて西欧の技術導入は可能であった。そのためには琉球を海上都市化して自由港として富ませ、そこから薩摩の必要な収入は十分確保できた。薩摩自身も西洋の先技術を採り入れ日本の産業革命の先鞭を切ることができた。 安政4年以降、成彬の密書には「必要な時には福建、那覇、本部港、名瀬港、山川港という所に港を開き」、フランスの開港要求の時には老中阿部正弘との間に「琉球を切り離し日本の防衛地にする」結論をだしている。幕府の許可を得た「琉球国救助」を名目とした琉球通宝や天保銭を密造するが、通貨政策を放棄したまま。1861年それまで銅銭1文=鉄銭1文=鳩目銭50枚の交換比率が突然乱高下する。明治元年までの8年間に計8回もその比率が変動した末、最終的には銅銭1=鉄銭32=鳩目銭1600になり経済は瓦解し、農民に身売りが広がる。通貨政策の無策である。経済的に見ると薩摩の琉球支配はやはり失敗であった。この辺は東恩納寛惇全集でも『球陽』正巻の資料でもたっぷり見いだすことができる。 (沖縄タイムス09.06.22) |
=第1部終わり。 上原兼善うえはら・けんぜん1944年那覇市生まれ。九州大学大学院文学研究科博士課程退学。96年から岡山大学教授。主な著書に「幕藩制形成期の琉球支配」(吉川弘文館、第30回伊波普猷賞受賞)など。 西里喜行にしざと・きこう1940年竹富町生まれ。沖縄大学教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学博士(文学)。著書に「清末中琉日関係史の研究」(京都大学学術出版会)など。 高良倉吉たから・くらよし1947年伊是名村生まれ。琉球大学教授。愛知教育大学卒。文学博士(九州大学)。琉球史専攻。主な著書に「琉球王国史の課題」「琉球王国の構造」など。 渡辺美希わたなべ・みき1975年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)。現在、同大文学部次世代人文学開発センター研究員。主な論文に「琉球人か倭人か」(『史学雑誌』)など。 田名真之だな・まさゆき1950年那覇市生まれ。沖縄国際大学教授(琉球史)。神戸大学卒。那覇市歴史資料室長、県立芸術大学教授などを経て、2006年10月から現職。 平良勝保たいら・かつやす1954年生まれ。宮古島市出身。那覇市在住。宮古郷土史研究会会員。沖縄大学大学院修了。主な論文に「宮古から見たアカハチ事件」「近世与那国の支配と貢納」など。 真栄平房昭まえひら・ふさあき1956年那覇市生まれ。神戸女学院大学教授。共著に「新しい琉球史像」(榕樹書林)、「近世地域史フォーラム1 列島史の南と北」(編著、吉川弘文館)など。 平川信幸ひらかわ・のぶゆき1976年沖縄市生まれ。県立博物館学芸員。2003年に別府大学大学院文化財学科を卒業後、04年から現職。 豊見山和行とみやま・かずゆき1956年宮古島出身。琉球大学教授。琉球史。主な著書に「琉球王国の外交と王権」「琉球・沖縄史の世界」(編著)など。 大城 學おおしろ・まなぶ1953年生。八重山郡鳩間島出身。(財)国立劇場おきなわ運営財団調査養成課長。主な著書に『沖縄芸能史概論』『沖縄の祭祀と民俗芸能の研究』。文学博士。 西岡 敏にしおか・さとし1968年、奈良市出身。沖縄国際大学准教授。専門は琉球語学、琉球文学。主な論文に「琉歌の音数律が語形に与える制約」など。 弓削 政己ゆげ・まさみ1948年、大島郡知名町出身。奄美郷土研究会員。共著に『瀬戸内町誌』など。論文に「奄美島嶼の大あむについて─継承・人数・管轄地域について─」(『奄美郷土研究会報』第40号) 安里 進あさと・すすむ1947年那覇市生まれ。県立芸術大学教授。琉球史。琉球大学卒。著書に「考古学から見た琉球史」(上・下巻)など 真栄平房昭まえひら・ふさあき1956年那覇市生まれ。神戸女学院大学教授。共著に「新しい琉球史像」(榕樹書林)、「近世地域史フォーラム1 列島史の南と北」(編著、吉川弘文館)など。 宮城弘岩みやぎ・ひろいわ南風原町出身。沖縄物産企業連合取締役会長。国立台湾大学(修士)卒。在米会計監査法人、県物産公社代表取締役専務、県商工労働部長などを歴任。 |