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◆沖縄5・18シンポジウム◆
来るべき<自己決定権>のために
  −沖縄・アジア・憲法−


『情況』2008年10月号

第一部・基調講演

「反復帰論」を、いかに接木するか
   ―反復帰論、共和社会憲法案、平和憲法


屋嘉比 収




はじめに

 ご紹介をいただきました、沖縄大学の屋嘉比と申します。今、紹介がありましたように、わたしは1957年の生まれです。今日のテーマである反復帰論を考えるときに、世代論と言いましょうか、たしかに世代論で考えることはいろいろ問題はありますが、沖縄では歴史が大きく激動し社会環境の変化も速く、十年経つと大きく違うということもあって、世代論的に考えることは少なからず意味を持っているだろうと思います。
 反復帰論が提起された1970年前後は、まだわたしは中学生であり、反復帰論を直接同時期に読むということはありませんでした。しかし、反復帰論の担い手であった新川明さん、川満信一さん、岡本恵徳さんなどが中心に関わっていた『新沖縄文学』という雑誌を、70年代後半から読んでいましたので数年のズレはありますが、反復帰論に関連する論考を、ほぼ同時代で読んだ最後の世代の一人だと思います。そういう意味で言いますと、仲里効さんなどの全共闘世代の反復帰論に対する直接的な関わり方とは違うポジションであり、またわたしより下の40代は反復帰論を後から学んだ世代なので、反復帰論に対しては世代間の立ち位置の違いがあるという点を最初に申し上げたいと思います。
 今日わたしに与えられたテーマは、「反復帰の思想資源と琉球共和社会憲法草案の意義」という内容です。そのような大きなテーマを主催者の方から言われて、わたし自身にどのような話ができるのかといろいろと考えた内容が、お手元に二枚のレジュメとしてお配りしたものです。正確に言いますと一枚が報告内容で、もう一枚がその注釈になっており、それに添って話をしたいと考えていますので、どうぞご参照ください。
 表題は、「反復帰論を、いかに接木するか」という表現に替えました。これには二つの意味を込めております。一つは、反復帰論あるいは共和社会憲法の分析だけでなくて、後に続く世代としてそれをどう考えるか、を考えたい。従って、今日の報告の前半は、反復帰論や共和社会憲法草案について言及し、後半にはその後の世代として、反復帰論をいかに接木するかという点について話をしたいというのが一点です。
 二点目は、表題を最初考えるときに、「反復帰論に、いかに接木するか」というふうに当初は考えておりました。しかし、「反復帰論に」となると、反復帰論に制約されてしまうことになりかねない。そのため、「反復帰論に」ではなくて「反復帰論を」とすることで、反復帰論を閉じて議論するのではなく、開いて考えたい。そして後の世代として、それを主体的に接木したいという意味を込めて、「反復帰論を、いかに接木するか」という表題にしたというのが二点目です。
 さきほど紹介のあった『情況』5月号の川満さんと比屋根薫さんとの対談や他の論考でもふれられていますが、反復帰論に対してはいろいろな方たちの評価、あるいは批判がございます。特にここ十年来、沖縄においては「現実的対応」という言い方があるひとつの言説を形成しております。例えば反復帰論に対して、知的遊戯、夢物語、お伽噺という批判があるように「非現実的」だという捉え方があります。これはつまり「現実的」な観点から捉えた反復帰論に対する評価だと言えましょう。
 僕はその時に言われる、お伽話、夢物語と捉えられた反復帰論に対して、お伽話や夢物語という概念を少し違う観点から捉えかえしてみたいと思います。なぜそういう事を考えるかと言いますと、これについてはお手元のレジュメの注釈@をご覧下さい。ノーマ・フィールドさんはシカゴ大学で日本文学、日本文化を教えており、沖縄については知花昌一さんへの見事な聞き書きによる文章が入っています『天皇の逝く国で』(みすず書房)という本がございます。その彼女が、「危機の時代の想像力」という副題を持つ、『教養の再生のために』(影書房)という講演を行っていて、その中で非常に興味深い事を指摘されています。その中で、教養というのは勿論一つの想像的な行為であるとともに、批判的な行為であることを彼女は強調しています。特に彼女が「教養」と言ったときに、現実ではなしに「理想に対する執念」を創り出すことも教養の役割だという話をしていて、その文脈の中で、1920年代後半ドイツのワイマール末期に活動した文化批評家のクラカウアーという人物がいるのですが、彼の仕事について言及しています。
 1933年にはヒトラーがドイツで政権を取りますので、クラカウアーの批評活動は、ワイマール末期でちょうどファシズムの前夜といいましょうか、今の日本の状況と似ていなくはない、そういう時代状況の中での批評活動でした。彼はお伽噺について次のように述べたといいます。お伽話やメルヘンというのは確かに現実からみると非現実的だと言われるわけですが、しかしこれはたんなる奇跡を描いているのではなくて、「正義の奇跡的な到来」を示唆した物語である、と。なぜこのことがわからなくなったかというと、われわれ自身が体験したことがないため、正義の到来を信じることができなくなり、それを希求する力さえも失われかけているからだという。つまり、「現実」という言葉におされて嘗て持っていた理想なり、あるいは正義ということに対して、われわれ自身の希求する力が弱くなっていることに要因があると述べています。その際に重要になるのは現実に対峙しながらも、ある種のお伽話、彼はフィクションという言い方をしていますが、「真実を伝える虚構」によって、逆に「正義の奇跡的な到来」を説く言論の重要性を、ファシズムの前夜に主張したのです。
 この引用文については注@に掲載していますので、どうぞ、それを読んで頂きたいと思います。つまり、僕自身の反復帰論に対する認識というのは、そういうお伽話、いまノーマ・フィールドさんがクラカウアーの批評を解釈したように、決して非現実的な通常の夢物語という捉え方でなしに、そのような「真実を伝える虚構」による「正義の奇跡的な到来を物語る」批評として捉え返したい。そのことは、先年亡くなったアメリカの批評家エドワード・サイードの遺作となった『人文学と批評の使命』が語っている内容と重なっているようにわたしは思います。サイード自身が人文学の役割あるいは批評の使命ということを、晩年の仕事まで一貫して遂行してきたわけですが、この遺作において人文学では批評が中心であり、デモクラシーにおける自由の一形態として批評を位置付けることが、重要だと強調しています。僕の中では、ノーマ・フィールドさんの先の指摘と、このサイードの批評の使命という主張は繋がっており、今日報告する反復帰論ないし琉球共和社会憲法案を考えるときの一つの視点となっています。

反復帰論の基調にあるもの

 さて、反復帰論を具体的なテキストとして捉えると、60年代後半から72年までになされた言論だといえます。しかし反復帰論そのものは、60年代後半から70年代初期の言論だけではなしに、それが形成される水脈、あるいはその後にこの反復帰論がどのように展開し、いかなる影響を与えたかというところまで検討する必要性があると思います。
 まずそれを考える場合に、この反復帰論を担った先ほど述べた3名の論者が戦後沖縄で初めて「批評」という領域を確立した、『琉大文学』の同人であったという点を指摘しておきたいと思います。彼らは、前の世代の詩人や作家を批判することで、沖縄における戦後批評を確立しました。そしてとくに強調しておきたいのは、彼らの批評の核に戦争体験並びに米軍占領下の体験が背景にあったということです。新川さんや川満さんにおいても、戦中や戦後占領下のことを聞いても個人的な事としてなかなか話さなかったのですが、最近少しずつ話をされるようになりました。新川さんは最近、ご自身の戦争体験、戦争が終わった直後に母親と一緒に暮らしていた石垣島での様子について、新聞に書かれています。石垣島でも戦争直後は非常な食糧不足になるわけですが、日本軍は敗戦後も倉庫にたくさん食糧を確保しており、兵士たちが食べた残飯を新川さんが直接もらいに行っていたことを書いています。新川さんはそれを、自分の戦中・戦後初期の暮らしは乞食体験だった、という表現で記述されている。たぶん新川さんのその後の『琉大文学』や反復帰論の活動の背景には、そのような戦中戦後体験が大きな基盤としてあると思います。
 一方、川満信一さんも宮古島久松に生まれ住んでいて、戦争が終わった後に疎開に出た多くの島民が島に帰ってきたため、たいへんな食糧不足で苦労される。それについては川満さん自身がインタビューなどで、戦争直後の宮古島での餓餓体験について語っています。その後、川満さんは宮古から沖縄本島に出て琉球大学に入学しますが、当時は勉強のためというよりも、本島で軍作業のアルバイトで生計を立てるために流大に入学したと述べています。そういう厳しくて貧しい情況の中でアルバイトや学生生活を過ごした『琉大文学』同人たちと、武装米兵の「銃剣とブルドーザー」によって土地の強制収用が行われた伊佐浜闘争に関わっていくわけです。伊佐浜闘争に対する川満さんの印象的な記述は、沖縄戦やアジア太平洋戦争というのは大人たちの戦争であったが、自分たちが物心ついて初めて意識した戦争というのは伊佐浜闘争だったという事を言っています。そして実際に伊佐浜闘争で農民と一緒に座り込みをしているとき、武装米兵により銃底で叩かれて力で排除される体験をします。その体験が、その後の思想の核になったという事を川満さん自身がある論文で述べています。このように新川さんであれ川満さんであれ、やはり彼らの『琉大文学』ないし反復帰論に繋がる活動の基盤には、いま申し上げましたような、そういう戦中体験、占領体験に根ざしたあるリアリティが存在した。つまり戦争、米軍占領下の生活体験に根差したリアリティ、これは先ほどのフィクションの問題と根底では繋がっていると思いますが、彼らの反復帰論にはそういうリアルな体験に基づいた「自己決定権」という主張があると思います。
 反復帰論については新川さん自身が著作の中で、島尾敏雄さんの影響とか、あるいは国場幸太郎さんの問題、あるいは本土の安保論議で沖縄が欠落していることへの悲嘆などと、いろいろな要因の影響を述べています。それもたしかに重要な要因ですけれど、やはり反復帰論の基盤には、戦中や米軍占領下における生活体験に根ざしたリアリティが核になっている点をあらためて強調しておきたいと思います。と同時に反復帰論者として括られる三人の言論は、三者三様であるという点も強調しておきたい。もう一人の岡本恵徳さんもそうですが、彼らの言論はひと括りで反復帰論というように捉えられているわけですが、各人文章を丁寧に読んでみますと、文体や立ち位置が違っていることが確認できます。三名ともやはり個に立脚して、しかしお互いに影響しあいながらゆるやかに連帯をしている。あらためて、彼ら自身がある一つの党派を作らなかったこと、僕はそこに反復帰論を考えるうえで重要な点があるのではないかと思っています。これは最近『実録・連合赤軍』という映画を観たということもあって、逆に反復帰論の特徴を考えたときに、そのようなことが浮かび上がってきました。たしかにその三名の論者は、反復帰論という形で括られますが、それぞれが個に立脚してお互い影響し合い連帯しながら議論を展開しており、決して一つの党派を創ったのではないという点を強調しておきたいと思います。
 先ほど伊佐浜闘争で川満さんが、伊佐浜の農民と一緒に闘ったという話を紹介しましたが、川満さんは伊佐浜闘争で逃げずに抵抗したわけです。もう一人の岡本恵徳さんは現場に行きながら、これは岡本さん自身が書いていますが、彼は恐怖に駆られて逃げ出したと述べています。しかし逃げたわけですが、その後の岡本さんの言論活動というこの逃げたことの意味をずっと考え続けていったわけですね。なぜ、自分は逃げたのか、それは何の意味があったのか、それをずっと問い続けた。岡本さんのその後の言論の特徴は、ある意味で川満さんは違って、逃げたことを考え続けることによって、逃げなかったこととは別の思想的幅をもたらしたのではないか。これはどちらがどうだという事では無くて、そういう思想の幅として反復帰論における川満さんと岡本さんの違いについて僕は考えたい。これは作家の崎山多美さんが、文体、語り口の問題として言っているのですが、新川さんや川満さんとは違った岡本さんの文体の意義、すなわち決して断定しない、常に問いつづける文体であることに表れているのではないかと指摘します。この点は今回、三者の論考をあらためて読み直した時に、とても印象に残った点でした。本来でしたら、この三者の異同と差異について議論をしたいのですが、報告のテーマにより時間が制約されていますので、今回は反復帰論については新川さんの言論を、81年の共和社会憲法については川満さんの発言について言及したいと思います。

新川明の反復帰論の特徴

 さて反復帰論については、すでに多くの方々が論じられております。新川さん自身も当時を対象化して客観視しながら書かれています。わたしの理解によると、反復帰論の代表作とされる『反国家の兇区』のなかで、新川さん自身が自分のマニュフェストだと書いている結論部分は以下の文章だと思います。
 「少なくとも私が、『反復帰』という時の『復帰』とは分断されている日本と沖縄が領土的、制度的に再統合するという外的な現象を指しているのではなく、それはいわば、沖縄人がみずから進んで<国家>の方へ身をのめり込ませてゆく、内発的な思想の営為をさす。その意味で、『反復帰』とは、すなわち個の位相で<国家>への合一化を、あくまでも拒否しつづける精神志向と言いかえて差しつかえはない。さらに言葉をかえていえば、反復帰すなわち反国家であり、反国民志向である。非国民として自己を位置づけてやまないみずからの内に向けたマニフェストである」(<反国家の兇区>)としての沖縄)。
 この文章は新川さんの文章として数多く引用されている箇所であり、反復帰論の一番のポイントだろうと思います。しかし、この結論部分だけが重要なのではなく、新川さんがその結論へと至る思考の軌跡といいましょうか。その深化展開を考えることが僕はもっとも重要なことだと思います。
 新川さんの反復帰論の文章は、テキストで言いますと70年から72年に書かれたものが中心です。これらの論考は『反国家の兇区』の中に収録されていますが、それをばらして時系列的に新川さんの論文を読んでみますと、だいたい次の三つの時期に区分されることが指摘できます。第一期は、70年代前半で具体的な復帰運動、あるいは国政参加選挙という現実政治に対する批判が中心になっています。とくに新川さんの反復帰論の初期の論考では、現実の国政参加選挙拒否闘争に関する記述が多いのが特徴です。第二期は、それを深化させて実際の現実政治の背景に何があるのか、新川さんはそれを歴史に遡ります。沖縄近現代史を貫いている、沖縄の中にある日本志向、日本に同化するという日本志向という問題を新川さんは、歴史記述に則して批判します。これは謝花昇批判や伊波普猷批判に表れています。これが70年後半から71年前半の時期です。さらに第三期の71年後半から72年なると、今度は沖縄近現代史にある日本志向の背景をより論理化した形で、先に引用した個と国家との関係としてとらえ直し、反復帰、反国家、非国民の思想へといきつくことになります。期間からするとわずか二年か三年の反復帰論に関する言論ですが、このような形で論理や思想が深化展開しています。その論理や思想の深化進展の軌跡こそが、新川さんの反復帰論を考えるときの重要な論点ではないかと僕自身は考えております。むろん、反復帰論の全体像をとらえるためには、反復帰論にいたる水脈、その後の展開や影響も含めて、反復帰論は論じられるべきだということは先に述べた通りです。
 また、新川さん自身がすでに書いていますように、母親が本土出身、父親が沖縄出身という家庭環境もあって、ウチナーグチがうまく話せないために、結婚後に奥様との会話でウチナーグチを学んだというエピソードを語っています。たとえば小熊英二さんは、新川さんの言論を「クレオール」という言い方でとらえております。たしかにその要素もありますが、僕自身は、新川さん自身が言っている「故郷喪失者」という言葉に注目しています。新川さんの半生は、琉球列島や本土の間を転々と移動し生活を送っている。嘉手納に生まれながら幼い時に八重山に行き、戦後はゴザ、そして那覇へ、新聞社に入った後は組合を作ったため鹿児島や関西へと飛ばされ、また八重山へと配置されるという経緯があります。新川さんの言葉で言うと、自分には落ち着く場所がない、川満とは違って自分は故郷が無いんだという事をおっしゃっています。しかし、新川さんにとっては、その故郷喪失者としての自覚が、他方では日本本土だけでなく、沖縄そのものをも相対化するという視点をもたらした。そのような環境がもたらした立ち位置は、新川さんの言論の大事な部分を形作っているのだと思います。この故郷喪失者という自覚は、新川さんにとって、沖縄とヤマトという二分法的なとらえ方とは、別な視点をもたらしたと言えるのではないか。
 新川さんの反復帰論のなかで一番核心にある論点というのは、僕はやはり植民地主義批判であると思います。これは論考やインタビューで新川さん自身も述べていることですが、つまり植民者を批判するだけではなく、被植民者が植民者に対してのめり込むあり方、それを批判しなければならない。新川さんの言葉で言うと、国家にすり寄り、のめり込む私(沖縄)に対する批判です。植民地主義というのは、周知のように支配する側の意向だけではできません。必ずそれに協力し補完する被植民地側の意向があるわけです。新川さんにとっては植民者を批判する事はある意味でたやすいことで、植民者への批判は当然なわけです。しかし、問題の核心は植民者に自ら被植民者がのめり込むあり方こそ、自らの内側を穿ちながら徹底して批判しなければならない。それは、新川さんにとって、沖縄近現代史のなかにある日本へ同化しようとする「内なる奴隷制」への批判なのです。
 これにはいろいろな影響関係があったのでしょうが、僕が強調しておきたいのは、『流大文学』の時期に新川さんたちが最も愛読したといわれる魯迅の影響を指摘しておきたいと思います。鹿野政直さんという日本を代表する思想史家によると、近代日本の思想家の中で「奴隷」というキーワードをもって論じた論者が三名いると指摘しています。一人は福沢諭吉、もう一人は竹内好、そして三番目が伊波普献であると言っています。先ほど触れたように、新川さんは伊波普猷を徹底的に批判していますが、鹿野さんは最近書かれた文章のなかで、伊波普猷の沖縄学を否定的に継承する論者として新川さんをあげています。継承するという事は、肯定的に継承するだけではありません。否定しながら継承するあり方もあります。そのような意味で、新川さんのことを伊波の沖縄学の否定的継承者として位置付けている。それは、伊波普献が近代沖縄を考えるうえで「奴隷」ということにこだわった、沖縄における近代化の矛盾の問題を、沖縄人の内なる奴隷制の問題として、新川さんが伊波を批判しながら否定的に継承しているという指摘としてとらえることができると思います。そのような点も含めて、新川さんの反復帰論が、今日においても圧倒的な喚起力を持っているのは、沖縄人の内なる奴隷制を徹底的に批判する、植民地主義批判にあるとわたしは考えます。これは二部で魯迅や竹内好の研究者である孫歌さんがいらっしゃいますので、ぜひその問題を含めて、沖縄の反復帰論の展開としてアジアへいかに繋いでいくかということもぜひうかがってみたいと思います。

川満信一の「琉球共和社会憲法案」

 次に、川満信一さんの琉球共和社会憲法案についてです。これは反復帰論から、また沖縄住民が望んだ「復帰」ではなく日米両政府による施政権返還から約10年後の81年に、提供された案が琉球共和社会憲法案です。皆様のお手もとにその憲法案が配布されていますのでご参照ください。これは70年代に川満さんが主張された、「民衆論」「共同体論」の展開として共和社会憲法案があり、この草案のなかには近代主義批判、国家主義批判が組み込まれています。共和国憲法案でなく共和社会憲法案だという名称に、それらの意味が含意されています。新川さんの故郷喪失者という位置とは違い、川満さんの場合は、宮古島久松という共同体の根っこからの視角という論点が議論の基盤にあります。初期の代表的な論考に「ミクロ言語帯からの発想」という論文がありますが、宮古島久松というミクロ言語帯という観点から国民国家や近代主義を相対化していく議論は、川満さんの70年代後半の「民衆論」「共同体論」から続いていて、81年の共和社会憲法まで繋がっていきます。川満さんの憲法案に言及した著者を読み返していると、今日のポスト国民国家論の文脈において、沖縄の中からというよりもむしろ、日本の論者の中でその草案の内容を評価する声が高いことに気付かされます。その一端はレジュメ注Bと注Cに表れています。
 注Bは、川満さんの共和社会憲法案はポスト国民国家の思想だと、女性兵士の問題から徴兵制、従軍慰安婦の問題に関連して、それを高く評価した上野千鶴子さんの文章です。もう一つCは西川長夫さんの文章です。カリブ海のアンティール諸島にフランスの海外県であるマルティニックという場所がありますが、そこで提起された80年代以降のクレオール思想という問題に引きつけまして、日本の中の沖縄というクレオール性を論じるなかで川満さんの憲法草案にふれております。得に興味深いのは、草案内容にいくつかの疑義を呈しながらも、「無責任な発言であることは承知」しつつ自分は川満さんの憲法草案の背景にある「沖縄の独立ということを支持したい、しかしその時には人種や民族や国家の独立ではないだろう」と言及しているところです。この指摘はずっと川満さんが言っていますように、独立するにしても単なる国民国家を再現するだけでは何の解決にもならないという考えとつながっていますね。これは憲法草案「第11条共和社会人民の資格」において「憲法の基本理念に賛同し、遵守する意志のある者は人種、民族、性別、国籍いかんを問わず、その所在地において資格が認められる」とあるように、人種、民族、性別、国籍などの本質主義から遠く離れた議論として、クレオール性とつながる考え方と把握されています。

反復帰論の現在

 さて、これまで70年代の反復帰論から80年代初期の共和社会憲法の問題に触れたわけですが、では、次の世代であるわたしたちは反復帰論の思想資源をどのようにとらえ展開するのか。去年の復帰35年のときに、沖縄では今後の大きな政治的課題になるであろう道州制の問題が議論として起こりましたが、その研究会の座長である琉球大学の仲地博さんが復帰35年たって独立論や反復帰論は、自治論、自立論として市民権を獲得しつつあるのではないかという指摘をされております。実際にそのような動きは小さいながらもいくつかあり、反復帰論の思想が直接的というよりも間接的にいろいろなところに飛び火をして影響を与えているのではないかと思われます。
 例えば、政策科学分野の研究者たちが主催している沖縄自治研究会において、沖縄の自治・自立を議論するなかで、反復帰論も含めて議論がなされています。これは社会科学の領域からの議論で注目されますが、以下の三つ論点において検討が行われています。一つは地方自治法の範囲。二つは憲法の枠内の範囲。三つは憲法枠組みを超える範囲。その論点で考えると、川満さんの琉球共和社会憲法案は、憲法を越える範囲での思考実験ということになりますが、この自治研究会の議論は、憲法の枠内での地方自治法の問題、憲法95条に基づく沖縄自治州基本法試案の提起を行っています。私も基本法の前文で少しかかわりましたが、そのような動きが現実の政治課題である道州制の問題に関連して、政策科学の分野から議論されていることは、反復帰論の現在を考える上でも注目されてよいのではないかと思います。
 それに関連して、自治州基本案に対しては2部のパネリストである松島泰勝さんが財政・財源の問題で自治州基本法試案に対する批判を出されています。注Dをご参照ください。これは憲法の枠内で考えると、沖縄がいかに新たな政治形態をつくるとしても、やはり国からの財政移転という形になり、基地を担保にして財政移転をするという構想と変わらず、結局、従属の悪循環ではないか、という重要な批判を提起されています。そのような批判を含めて、政策科学の領域においても道州制に関連して議論が継続的に行われば、反復帰論の現在を考えるうえでも、刺激的な問題提起に繁がると思います。
 また、時間の都合で詳しく言及できませんが、1997年の米軍基地に関する特別措置法改正に衝撃を受けた若い世代から、国家の枠組みを越えて国連小委員会の場で沖縄人を先住民族と再定義することで、沖縄の「自己決定権」を主張する実践的な動きも出ています。そのような動向は、沖縄の「自己決定権」を主張した反復帰論の現在の動きを示唆する、若い世代による一つの新たな意思表示といえるように思います。さらに、批評・思想の人文字の領域においても、レジュメに書きましたように現在の視点から反復帰論を肯定的かつ批判的に展開した複数の著作が刊行されており、これも時間がありませんのでそれをご参照ください。

「復帰」後の沖縄社会の変容と反復帰論

 ここで、反復帰論の現在を考えるうえで、一つ疑議を呈しておきたいと思います。それは、70年代や80年代初期の反復帰論が提起された社会的状況と、今日の沖縄の状況とのあいだには大きな変容があることは周知の事実だといえます。たとえば、「復帰」30数年間の沖縄人の生活体験や意識の変化という事に対してどう考えるか。さきほど反復帰論というのは戦中体験や占領体験に恨ざしており、それが彼らの議論にリアリティを持たせる基盤だったという話をしました。しかし、復帰30数年たって、その中で新しい世代が生まれ、沖縄社会が開発により都市化が進展し、「復帰」前の生活体験や住民意識においても大きな変容が起きています。他方で、基地問題に象徴されるように日米両政府による沖縄に対する構造的差別はまったく変わらない現状がございます。その中で、沖縄社会や住民意識に変化を踏まえて、反復帰論をどう接木するか。
 たとえば、新崎盛暉さんが1990年代初期に、沖縄社会の「脱南入北」という問題を提起しました。沖縄はかつて日本の中の南と言われその貧しさがゆえに寛容のある社会だといわれてきたが、それが為替相場による貨幣所得でみるとフランスやイタリアを抜いて先進諸国の上位となり、南から脱出して北に入った沖縄の住民意識や沖縄社会に大きな変化が出てきている、それをどう再構築していくかという問題を提起しています。反復帰論の現在を考えるとき、やはりこの問題をどう考えるのかは、大きな論点になるだろうとわたしは思います。象徴的な話でいうと、復帰後沖縄社会の経済発展や開発に基づく8割の「復帰」評価と、他方では若い世代を含めて日本への差異意識がいまなお8割もあるウチナンーチュ意識をどのようにとらえるか。沖縄におけるウチナンーチュとヤマトンチューという差異意識の存在については、新川さんがずっと指摘している点です。沖縄は県でいうと1/47ですが、しかし意識では1/47ではなく1対46として考えている人々が多い。その背景には、沖縄には日本と異なった歴史体験があり、自然文化に恨ざした日本への差異意識がいまなお強くあるからである。
 しかし、復帰後の経済発展や開発による社会の変化と、それにともなう住民意識の変容によって日本への一体化は一段と進行している。そのような現状をみたとき、戦中、占領期のリアリティに基づいた反復帰論とは違うあり方が、反復帰論の現在を考えるときに求められているのではないか。いま問われているのは、現在沖縄の生活体験に根差したリアリティを、いかに再構築するかにあるのではなかろうか。反復帰論を接木するためにその問題は重要な課題だとわたしは思っている。そのような問題について、このあと、新川さんや川満さんにぜひうかがってみたいと思います。

「平和憲法」を考える沖縄からの視点

 与えられた時間が少なくなっていますが、憲法の問題にぜひ言及しておきたいと思います。1960年代後半から平和憲法への批判を提起していたのが、反復帰論の論者、そこに集まり連帯する人々でした。当時の復帰運動では平和憲法下への復帰がスローガンになっていましたが、新川さんは「憲法幻想への破砕」という論文の中で、憲法というのは救済幻想なのだということを言っています。憲法については川満さんも同様な批判を行っています。また、新崎さんも九条の戦争放棄の条項自体の成立の背景には沖縄の切り捨てがあり、沖縄に米軍基地を置くことで日本本土に九条が成立したという指摘を、65年の段階で提起しています。その後、新川さんも九条と一条の象徴的天皇制との関係について言及しています。象徴天皇制は昭和天皇の戦争責任が問われたさい、日米が合作して、結果的には昭和天皇の戦争責任を免罪し象徴天皇制として存続する代わりに、日本は武力放棄の平和憲法を受け入れることになった。そのような経過については、最近では古関彰一さんの実証的研究で、日本国憲法の成立の背景においてとくに戦争放棄の九条の設立と、沖縄の切捨てによる米軍基地化、そして象徹天皇制の成立という条項が三位一体であったことが実証的に明らかにされています。
 それを踏まえたうえで、沖縄で生活するわたしたちは平和憲法をどう考えるのか。平和憲法が改悪されるともっとも被害を受けるのは沖縄であることは火を見るより明らかです。したがって、わたしたちは徹底的に平和憲法を支えなければいけない。しかしもう一方ではこの平和憲法の成立過程では沖縄の切り捨てによる米軍基地化があったし、象徴天皇制の成立の問題がある。すなわち、右手で平和憲法を支えながら、左手で平和憲法を批判しないといけない。沖縄で憲法を考えるうえで、そのような問題があることを共有しておきたいと思います。その問題に対して、『情況』5月号で川音勉さんが日本の民衆として九条を選びなおす、そして選びなおしてそれを東アジアの民衆との連帯につなげたい、という趣旨の論文を書かれています。ではそのときに、沖縄のなかで九条をどう考えるのかという問題がある。同じ『情況』5月号で與儀秀武さんが沖縄の中の日本国憲法によらない理念をいかに沖縄からたちあげるか、という非常に興味深い議論を展開されております。注のEで引用してありますので、ぜひご覧下さい。
 そういう流れをふまえて、仲里効さんは、平垣次さんの議論をふまえながら、沖縄が反復帰論の思想資源を生かし、共和社会憲法を生かすためには、「独立」そのものを新たに「発明=創造(Invention)」しなおす必要性について指摘しています。独立と言うとき、先ほどから言っていますが、国民国家、国家主権を基本においた独立となっても、反国家主義や非国民の思想を主張する反復帰論の主張から見て、理論的にもなんら解決にもならないわけです。仲里さんは、国民国家の形態とは異なった、新たな政治形態を「発明=創造(Invention)」することの必要性を強調しています。そのことは、前述の川満さんや西川さんらの議論と通底していることが確認できると思います。

沖縄パトリオティズムの可能性

 では、僕自身は、反復帰論からなにを学んだか、いかに接木をするかと言った時に、思想史を専攻していることもあって、川満さんや新川さんも最近言及されている「パトリオティズム」という問題について考えたいと思っています。最近、パトリオティズムとナショナリズムとの違いについては、ローマ時代からずっと存在するパトリオティズムの思想と、近代ヨーロッパで起こったナショナリズムの思想との違いが指摘され、ナショナリズムを相対化し批判するパトリオティズムの思想を、再評価する思想史的研究が提出されています(M・ヴィローリ)『パトリオティズムとナショナリズム』)。そのような視点をふまえながら日本のナショナリズムへの批判、相対化の意味で沖縄のパトリオティズムの思想の可能性について考えてみたいと思っています。
 これを具体的事例で言いますと、去年から問題になっている沖縄戦の記憶の問題に関係します。沖縄戦における「集団自決」や「住民殺害」というのは日本本土の公的なナショナル・ヒストリーからはほとんど排除されてしまう。しかし、これは沖縄にとって、沖縄戦の土地の記憶は決して忘却できない、譲れない一線としてあります。そして、日本の公的記憶ではなく、沖縄の戦争の記憶に根差すことが重要であるとわたしは考えます。むろん一方では、沖縄人自身も日本帝国臣民の兵士としてアジアへ侵略した事実があります。これは注Gをご覧下さい。読谷村のチビチリガマにおいても軍隊の駐屯が影響を及ぼしているし、その構造的強制があったわけですが、その中で中国に従軍した在郷軍人や従軍看護婦の言動が、チビチリガマで「集団自決」が起きた要因になったことが明らかになっています。このチビチリガマの事例が示唆するように、沖縄は決して被害だけではなく、アジアに対する加害が重層的に輻輳的に折り重なって繋がっていることがわかります。そのような問題も含めて沖縄戦の記憶からアジアの戦争の記憶を考えることに繋げていきたいと思います。
 終わりにあらためて確認しますが、「反復帰論の思想的資源」として、わたしは植民地主義批判と国家主義批判という問題を考え続けたいと思います。冒頭で、私は「現実」から見たお伽話という話をしました。では逆にお伽話から現実を見ると、どういうことが言えるのか。たとえば戦後60年のときに、『琉球新報』が「沖縄戦新聞」という非常に画期的な新聞を出しました。これはどういうことかというと、戦争時の情報は大本営が統制していますので一般ではむろん事実を知ることができなかった。しかし、60年たった現在の研究状況をふまえた視点から、当時の戦争の状況をとらえて新たに記事にしたのが、この「沖縄戦新聞」になります。逆に言うと60年前でいえば、今日の『琉球新報』の「沖縄戦新聞」はお伽話にあたることになります。しかしわれわれは60年後に生きていて当時の状況や情報がどうだったかを知っていますので、逆にお伽話の位置から現実をとらえ返しているということになるわけですね。つまり何が言いたいかといいますと、反復帰論はたしかにいまは「現実的な視点」からいえば、夢物語かお伽話として捉えられるかもしれません。しかし、長いスパンで反復帰論を考える視点からすると、むしろその「お伽話」を積極的に引き受けて語り続けることが重要であり、それが時間を経ていつか「現実」になるような「理想への執念」を最後に強調して、私の基調報告とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。


<レジュメ>

0 はじめに→「現実」からとらえた「反復帰論」の評価
 ・お伽噺としての「反復帰論」? →「現実」からみて夢物語、非現実的という認識
 ・お伽噺の〈再定義〉と〈批評〉の役割
 →現実を批判、組み替える構想力としての〈お伽話〉(ノーマ・フィールド)【注@】
 →批評の使命=人文主義の役割(エドワード・サイード)【注A】

(1)反復帰論(60年代後半〜72年)それに至る水脈と後の展開影響まで検討する必要性
  ・反復帰論の担い手→戦後沖縄で初めて〈批評〉を確立した『琉大文学』同人が中心
(2)彼らの批評の核には戦争体験、米軍占領体験がある→残飯・乞食体験 伊佐浜闘争
  →「反復帰論」は戦争体験、米軍占領体験に根ざした自己決定権の主張→リアリティ
(3)三者三様→個に立脚し相互に影響し合いながらゆるやかな連帯→決して党派作らず
  →岡本は逃げたことを問い続け、逃げなかった思想とは別の思想の幅をもたらした
  →断定せず問い続ける文体や語り口の問題としての岡本の存在意識(崎山多美)

T 「反復帰論」(新川明)の特徴/1970〜72年
(1)反復帰論の論点→結論部分だけでなく「思考の深化の軌跡」にこそ注目すべき
   @復帰運動、国政参加選挙の現実政治に対する批判(70年前半)
   A沖縄近現代史を貫く〈日本志向〉に対する批判→伊波普猷、謝花昇批判(70後〜71前)
   B〈日本志向〉を「個」と「国家」との関係に捉え直し「反国家」の主張(71後〜72年)
   ・現実政治批判→背景の近現代史を貫く同化思想批判→「個」と「国家」との関係批判
(2)「故郷喪失者」としての自覚→沖縄対日本という二分法とは別の視点をもたらす
(3)植民地主義批判→〈国家へすり寄り、のめりこむ私〉に対する批判
   →内なる奴隷性批判/魯迅の影響 伊波の否定的継承(鹿野) アジアへつながる視点

U 「琉球共和社会憲法C私(試)案」(川満信一)/1981年
(1)70年前後の「民衆論」「共同体論」の展開としての「琉球共和社会憲法C私(試)案」
(2)近代主義批判、国家主義批判  宮古島久松という「共同体」への根
   →「ミクロ言語帯」の視点から国民国家を相対化する視点→「共和社会」への着目
   →80年代以降の国家相対化の世界的思潮/「故郷喪失者」「根拠地(地域に根ざす)」
(3) 「琉球共和社会憲法C私(試)案」への評価
   →ポスト国民国家の思想(上野千鶴子)【注B】
   →「独立」願望を秘めた「クレオール性」(西川長夫)【注C】

V 「反復帰論」の現在
(1)復帰35年間で独立論が自治、自立論の一つとして市民権を獲得しつつある(仲地博)
   沖縄自治研究会(島袋純)の提起→地方自治法の範囲、憲法の枠内、憲法を超えた範囲
   『憲法95条に基づく沖縄自治州基本法試案』→「従属の悪循環」(松島泰勝)【注D】
   沖縄先住民族会議→特措法改正の衝撃→国家枠組を越えて国連小委員会の場で問題提起
   @批評・思想として「反復帰論」の展開
   仲里効『オキナワ、イメージの縁』→映像、文化政治の分析による復帰思想の再審
   新城郁夫『到来する沖縄』→新城貞夫の短歌分析によるセクシュアリティの発見
   伊佐眞一『伊波普猷批判序説』→戦時下の伊波の言論を発掘し戦争責任論の提起
(2)「復帰」後の沖縄社会における生活体験、意識の変容
  →戦後60年経ても変わらない日米両政府による沖縄への構造的差別の存在
  →90年代初期の沖縄社会の「脱南入北」(新崎盛暉)による住民意識の変容
  →8割の復帰評価と8割の日本への差異意識の中で、反復帰論をいかに再構築するか?

W 「平和憲法」に対する沖縄の視点
(1)平和憲法下への復帰という言説に対する批判→〈憲法幻想〉の破砕・救済幻想(新川)
   9条設立の背景に沖縄の米軍基地化(新崎) →9条と1条との関係(新川)
(2)三位一体→9条設立、沖縄の切捨による米軍基地化、戦争責任/象徴天皇制(古関彰一)
(3)平和憲法への両義的認識→右手で支え、左手で批判→憲法の解体と再構築
   →日本民衆が「9条を選びなおし」東アジア民衆と連帯(川音勉)
   →日本国憲法に拠らない〈理念〉をいかに沖縄から立ち上げるか(與儀秀武)【注E】
   →「独立」そのものを新たに発明しなおす(仲里効)

X 沖縄・パトリオティズムの思想と継承
(1)ナショナリズムと異なる沖縄・パトリオティズム思想の継承→18世紀後半に西欧で創出された国民の文化・民族の統一性同質性を主張するナショナリズムに対して、ローマ時代からある共和的パトリオティズムは公共の自由に対する愛であり、国境を越える連帯へと結びつく(マウリツィオ・ヴィローリ『パトリオティズムとナショナリズム』)
   →日本ナショナリズムへの批判と相対化→沖縄パトリオティズムの思想への注視【注F】
(2)沖縄戦に対する国民(公的)記憶と沖縄・土地の記憶との差異→「集団自決」「住民虐殺」
  →沖縄戦での「集団自決」における加害と被害の重層性への着目【注G】
(3)沖縄・土地の記憶を手放さず、いかにアジアへ開いてつなげるか、が課題
  →「反復帰論」の思想的資源=植民地主義批判、国家主義批判の読み直し

Y むすびに変えて→お伽噺から「現実」を見るとどうなるか?
 60年後の「沖縄戦新聞」(琉球新報)→当時、「お伽噺」だった→「反復帰論」のスパン


【注@】N・フィールド『教養の再生のために−危機の時代の想像力』影書房,51〜53頁
 (教養には)創造の行為とともに批判的認識の作業も必要です。…私たち一人一人が有意義な生涯を送ること社会を目指すことが教養本来の意味で…その前提としてまずは戦争、それから貧困をなくさなければならない。それを全うできるとは誰も思わないでしょう。しかし、理念に対する執念を作り出すことがそもそも教養の役割でもあるはずです。クラカウアーは、…御伽噺やメルヘンとは奇跡を描いているのではなく正義の奇跡的到来を物語っているのだ、と言っています。正義の到来を信じることができなくなってしまった私たち、またそのかけらすら体験したことがない私たちはそれを希求する力さえ失いかけているのではないでしょうか。そこへフィクション−真実を伝えうる虚構−は正義の到来した世の中がどんなものかを実感させてくれるのです。…正義という抽象的な、しかも空虚になりつつある概念をフィクションは心身で感知させてくれる。活性化された願望から世界に働きかける想像力と行動が生まれてくるはずです。
【注A】エドワード・サイード『人文学と批評の使命』岩波書店、2006年、58頁
 まずは、人文学のまさに中心に批評をおくということ、つまりデモクラシーにおける自由の一形態として批判を位置づけることだ。批判は、冷戦後の世界を構成する歴史的現実や、その初期の植民地形成、そしていまや残る最後の超大国のおそるべき全世界的な広がりを、否認するのではなく、それに目を見開いた知を蓄積し、問いかけるという実践を、途切れることなく続けるものである。
【注B】上野千鶴子『生き延びるための思想』岩波書店、2006年、36〜37頁
 沖縄の反復帰論の潮流は、おどろくべきポスト国民国家の思想を生んだ。…そのなかの「琉球共和社会憲法C私(試)案」はその「第十一条 共和社会人民の資格」を次のように規定する。「琉球共和社会の人民は……この憲法の基本理念に賛同し、遵守する意志のある者は人種、民族、性別、国籍いかんを問わず、その所在地において資格を認められる。」
 これはたんなる夢想だろうか?仮にこのような統治共同体の主張が、国家主権とならんで認められるならば、個人は帰属を移転することで、兵役を避けることもできる。(中略)私の生命と財産は、国家に属さない。私と国家との双務契約は包括的な契約ではなく、限定的、部分的契約に過ぎないという考え方は、徴兵拒否の権利にもつながるし、「慰安婦」訴訟における個人賠償権の論理にもつながる。
【注C】西川長夫『〈新〉植民地主義論』平凡社、2006年、136〜140頁
 混淆性の主張は、開かれた文化と開かれた政治形態に呼応する。エドゥアール・グリッサンの言葉を借りれば、それは支配と征服につながる単一ルーツ型のアイデンティティではなく、共生と解放につながる関係性の複合的アイデンティティを意味することになるだろう。「独立」の願望を秘めた「クレオール性」の主張は、しかしながら「独立」の概念を変える。それはもはや、ルーツ型のアイデンティティをもつ中央集権的なもう一つの国民国家の形成ではありえないからである。沖縄にクレオール主義に呼応するものが存在するのか……ここではただ一つ川満信一氏による「琉球共和社会憲法C私(試)案」を引用して、……無責任な発言であることを承知の上であえて言うのだが、私は沖縄の独立を支持したいと思う。だがその独立はもはや人種や民族や国家の独立ではありえない。
【注D】松島泰勝「ネシアをめぐる自治の系譜」『情況』2008年5月号、100頁
 沖縄自治州試案でも財源移転を一括して行い、その使用方法に関して自治州の自由裁量権を求めていることは、これまでの「現実的自治論」と同じである。違いは、中国・台湾・日本の間の海域に散在する琉球の島々により日本の領域や排他的経済水域が守られるなど、安全保障上の「国民益」が担保とされ、財政移転の必要性を訴えていることであろう。琉球の島嶼性、地政学的要因を梃子にして財源移転を求めているが、これは基地との交換で補助金を提供している国の手法と類似している。カネを提供する国に管理される、これまでのような「従属の悪循環」に陥る恐れがある。
【注E】與儀秀武「沖縄と日本国憲法」『情況』2008年5月号、127〜128頁
 九条の理念に依拠しながらも、同時に一条の天皇条項の理念との両立が困難であるような歴史的な不可能性。沖縄の自己決定権についての議論が、日本という国家的な枠組みの中に調和的に位置付けられず、その範疇を踏み外してしまうという不可避性。その矛盾は、しばしば指摘されるように、日本国憲法が沖縄を例外的・外部的なものとして排除することで成立している…(中略)日本国憲法に拠らない〈理念〉を、どのように沖縄から立ち上げるべきかという問題は、切実な問いかけとしてあらためて浮上するだろう。そのとき重要なことは、既存の国民国家の枠組みを前提として沖縄が置かれた現状を日本国憲法の枠組みの中に位置付けようとするのではなく、逆にその外部性、異質性を徹底することで新たな理念を模索することではないだろうか。
【注F】屋嘉比収「沖縄、土地の記憶・パトリオティズムの思想」『沖縄を読む』情況出版
 この「パトリオティズム」は「ナショナリズム」と重なり合うが決して同じではない、人間の「まともな感情」の一つだと思える。自分が生まれ育った土地や人びとに対する愛着としての、その「まともな感情」である。…それは、「国民国家」を批判しそれを相対化する一つのクニ(地域)の思想として、考えることができるのではなかろうか。それはナショナリズムに回収されない、ナショナリズムそのものを相対化する固有の具体的な土地や人びとに根ざしたクニの思想である。そこにパトリオティズムの思想の重要な意義がある。
【資料G】屋嘉比収「ガマが想起する沖縄戦の記憶」『現代思想』2000年6月号
 チビチリガマにおける「強制的集団自殺」は、日本軍の東アジア地域での蛮行とは決して無縁ではない。日本軍の東アジア地域での蛮行は、チビチリガマにおける「強制的集団自殺」へとつながっているのだ。チビチリガマのなかで、中国での日本軍の残虐行為の証言が、「日本国民」としての沖縄住民を「強制的集団自殺」へ誘導する直接な強制力として働いた。そこで、「日本国民」の東アジアへの「加害」が「日本国民」である沖縄県民の「被害」へとつながったのである。沖縄の戦後世代として、沖縄戦の記憶を東アジアの歴史や現在のなかで継承しようとするとき、その「加害」が「被害」へとつながっていることを決して「忘却」してはならない。

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