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前泊博盛 “40年にわたる政府の沖縄振興は何をもたらしたか いま問われる依存から自立への脱却”(『世界』岩波書店2012年6月号)
普久原均 “「基地撤去亡『県』論」という神話”(『世界』臨時増刊200801)
前泊博盛 “「基地依存」の実態と脱却の可能性”(『沖縄「自立」への道を求めて』高文研090725)



40年にわたる政府の沖縄振興は何をもたらしたか いま問われる依存から自立への脱却



前泊 博盛



前泊博盛(まえどまり・ひろもり 沖縄国際大学教授。1960年生まれ。駒澤大学法学部卒、明治大学大学院修了。84年琉球新報社入社。社会部、政経部、編集委員、論説委員長などを経て現職。著書に『子供たちの赤信号』『もっと知りたい!本当の沖縄』『沖縄と米軍基地』、共著に『検証・沖縄問題』『検証 地位協定』など)
 

 高失業、高借金、低賃金、低所得、低貯蓄、低進学率、低自主財源で、米軍基地依存と財政依存の「依存経済」、経済を牽引する主力エンジンは「観光」とされるものの、ここ数年、入域観光客数は減少し、観光収入も伸び悩んでいる――。今年、本土復帰40周年の節目を迎える沖縄経済の現状を概観すると、こんな厳しい現実が浮かび上がってくる。
 だが、結論を先にいうと、沖縄経済は成長と発展の可能性を限りなく内包している。沖縄経済が発展を手にするためには、基地・財政依存経済から脱却して、自主・自立の新しい民間主導経済へとパラダイムをシフトすることが不可欠である。そして、復帰40周年の節目を迎え、アジアの経済成長が著しい今こそ、沖縄経済の構造改革と変革の時といえる。復帰後の沖縄経済を振り返り、今後の発展の可能性と方向性を検証したい。

1 政府の「沖縄復帰プログラム」の原罪

 「第二次世界大戦において、甚大な人的、物的被害を受けた沖縄が昭和47年に本土復帰を遂げてから、本年5月15日で満40周年を迎える。沖縄は、復帰までの27年間、我が国の施政権外に置かれ、我が国の復興政策、産業政策などが適用されなかったこともあり、沖縄の社会資本整備は大きく立ち遅れていた。復帰時点で沖縄が抱えていた課題は、広大な米軍施設・区域の存在、本土との経済格差、社会資本整備・産業振興の遅れ、失業者の増大、本土制度への移行による地元企業の圧迫、基地依存型経済といわれる経済構造などであった」(沖縄振興特別措置法の一部を改正する法律案)
 これが復帰後、政府が沖縄振興策を展開してきた理由である。沖縄戦による多大な人的・物的損害を被りながら、戦後、27年間も米軍統治下に置かれたことで復興が遅れ、社会資本整備の水準も本土と大きな格差を生じるに至ったことを政府も認め、施政権の日本返還後は、そのキャッチアップに力を入れてきた、ということである。
 施政権が米軍にあったことで「産業政策」も適用されなかったという説明は、1960年代の日本の重厚長大型産業の振興、所得倍増計画など高度経済成長政策の枠外に置かれ、高度経済成長の恩恵を受けることができなかったことを示している。
 米軍統治下では法律や制度も本土とは異なり、「布令」制度という米軍政の最高統治者である高等弁務官が発する場当たり的な法律、制度、政策がそのまま最高法規として沖縄住民を規定するという、前近代的な法制度の下で27年間を過ごさなければならなかった。こうした沖縄の厳しい史実を、政府も認識している。
 後段、「復帰時点」での課題については、施政権の日本移管後も広大な米軍基地がそのまま残ったことを、課題の筆頭に挙げている。しかし、復帰後の取り組みをみると、沖縄県民が求めた「米軍基地の整理縮小」について、政府はあまりにも消極的で、本土の米軍基地が復帰後40年間で、4万4641fから3万1005fと1万3636f(31%)減ったのに比べ、沖縄の基地は同時期2万8660fから2万3294f(19%)減に留まっている。
 一方、復帰時点で1万9980人いた駐留軍従業員は、復帰後の5年後(1977年)には8,447人まで激減している。基地従業員の大量解雇の嵐(当時は「大量首切り」と表現)は、沖縄の失業率の急上昇にもつながっている。
 この事実はほとんど顧みられることはないが、復帰後、全国最悪を記録し続ける沖縄の「高失業率」だが、復帰前の沖縄の失業率は1961年以降復帰直前の1970年まで、0.5〜0.8%の低水準で推移していた。復帰前年の1971年でも1%であった。ちなみに同時期の本土は1.2〜1.6%と沖縄の倍の水準。ところが復帰後は、沖縄の失業率が逆に本土の倍の水準となっている。復帰直後の1972年、沖縄の失業率は前年の1%から3%と急激に悪化し、5年後の1977年には6.8%と、復帰前年の7倍の水準まで落ち込んでいる。同じ時期、本土は1.2%から2%の水準で推移している。失業率と数字の推移で検証するならば、沖縄経済の最大の課題となっている「高失業率」は、実は本土復帰によって沖縄にもたらされているのである。
 「本土制度への移行による地元企業への圧迫」という表現は、本土復帰による法律や制度変更がもたらした沖縄企業へのダメージ、「失業者の増大」という表現は復帰による雇用環境の悪化を表している。政府が沖縄振興開発特別措置法を制定する根拠として強調される「高失業率」問題だが、沖縄経済が復帰後抱え続けている「本土の倍」の高水準という高失業率の源流をたどると、沖縄が「基地依存型経済」と認識しながら、受け皿もないままに復帰とともに基地従業員を大量解雇するという、政府による「沖縄復帰プログラム」の失政、失策が浮かび上がってくる。その下流となる復帰後40年を経た現在も、本土の失業率が4.5%(2011年)に対し、沖縄は7.1%と2倍近い高水準が続いている。

2 「沖縄の特殊事情」とは何か

 政府が特別な沖縄振興政策を推進するのは、5つの「沖縄の特殊事情」が背景にある。つまり、@先の大戦における苛烈な戦禍、A26年余り(4半世紀)にわたり我が国の施政権の外、B本土から遠隔にあり、広大な海域に多数の離島が点在、C国土面積の0.6%の沖縄県に在日米軍専用施設・区域の約74%が集中、D脆弱な地域経済(内閣府沖縄総合事務局「沖縄振興における取組」2012年)である。
 復帰後4度目の延長となる沖縄振興特別措置法の「法律案提出の背景と経緯」には、次のように説明されている。
 「このような特殊な状況下で、復帰に伴い沖縄の振興開発を図るため、施策を推進する特別措置が必要とされ、『沖縄振興特別措置法』(以下、「沖振開発法」)が昭和46年の第68回国会において成立した。沖振開発法は、10年間の限時法であり、昭和47年5月15日から施行され、その後二度の期限延長が行われた。平成14年4月1日からは『沖縄振興特別措置法』(以下、「現沖振法」)により沖縄に対する特別措置が引き継がれている」
 その沖振開発法の特徴として「これまでの地域開発諸立法の各種手法を総合的に取り入れていること、財政措置については高率補助を行うこと、予算については沖縄開発庁(現在の内閣府)予算として一括計上すること等があげられる」としている。
 復帰後、政府は復帰特別措置を含む沖振開発法など特別な法律、制度、政策を整え、その執行機関となる国務大臣(沖縄開発庁長官)をトップとする沖縄開発庁を設置、金融政策を担う沖縄振興開発金融公庫も設置し、9割から10割(全額)補助という公共事業などでの沖縄への高率補助制度によるキャッチアップ支援策をスタートさせている。
 沖縄予算に導入された「一括計上方式」は、省庁間の縦割り行政を排除し、各省庁出向者で構成される沖縄開発庁(現在は内閣府沖縄担当部局)による沖縄振興予算の一元管理を行う制度で、同時に日本の予算制度に不慣れな沖縄県当局の各省での予算折衝・確保をサポートする制度となっている。
 「復帰以降、平成13年までの30年間は、沖振開発法に基づく3次に亘る『沖縄振興計画』が実施され、税制優遇措置や約6.7兆円の沖縄振興開発事業費が投入され、交通通信体系、水資源、生活環境などの社会資本や保健・医療・福祉・教育施設の整備などが積極的に進められてきた。その結果、特に施設整備面において本土との格差は縮小し、県民生活の向上や沖縄経済の発展に大きく寄与した。また産業振興の面においては、観光リゾート産業や情報通信関連産業の振興のために税制措置、沖縄自動車道の通行料や空港利用料の引き下げ等が実施され、これにより入域観光客が増加し、情報通信分野ではコールセンターを中心に立地が進み、着実に成果をあげた」(同上)
 これが、政府の復帰後30年間の「沖縄振興政策」に対する自己評価である。ほぼ満点という自信に満ちた沖縄振興政策の総点検報告であるが、それでは次の沖縄振興政策を続ける理由が無くなる。そこで、新たな沖縄振興政策を続ける理由として、次のような説明を行っている。
 「しかし、製造業においては工業等開発地区制度や自由貿易地域制度などを活用して企業立地を図ってきたが、本土市場との遠隔性、技術・資本蓄積の不足、景気の低迷等様々な環境の変化の影響を受け、企業の立地は十分な進展が見られない等、生産部門の脆弱性は改善されなかった。また農林水産業についても、市場遠隔性等の制約に加え、農産物の輸入増加等、取り巻く環境は極めて厳しいものとなっていた。そのため持続的発展の土台である民間主導による自立型経済の構築には、未だ展望が開けない状況であった」(同上)
 要するに政府としては自由貿易制度など特別な制度支援も行ったが、市場から遠いという地理的不利性、地元企業の技術不足、資本不足から企業の立地が不十分で、景気低迷という逆風もあり、製造業などの生産部門の脆弱性克服という沖縄振興の目標は達成できなかった。農林水産業も輸入増加で振興政策は不発に終わり、沖縄の持続的な発展のための基礎となる民間主導の自立経済は展望が開けなかったというのである。
 その結果、過去30年間に総額約7兆2000億円の沖縄振興開発事業費の投入で、道路、港湾、空港、上下水道、電気・ガスなど社会資本整備は本土並みになったが、一人当たりの県民所得は全国平均の約7割という所得格差、全国一の高失業率など、本土との経済格差が依然として残されていると総括している。
 そこで、さらに2002年に切れる沖振開発法に変わる新たな現行沖振法(10年間の限時法)を制定し、「沖縄の地域的特性を生かした民間主導による自立型経済の構築」を目指すことになったという。

3 使えない「沖縄特区」制度

 沖振開発法(沖縄振興開発特別措置法)と現行沖振法(沖縄振興特別措置法)の違いは、「開発」の文字が消えたことにある。「ハードからソフトへ」の転換である。社会資本インフラ整備は過去30年間の沖振開発法下で本土にほぼキャッチアップできたが、そのハードを活用するソフトが不足している。そこで、ソフト戦略を重点的に行おうというのが、「開発」の文字を消して作られた現行沖振法の趣旨というわけである。
 ただし、インフラ整備をすべてやめるわけではなく、引き続き高率補助制度による社会資本整備は進めるが、産業振興のための新たなソフト戦略を強化するというものである。現行沖振法(2002年〜)となってソフト戦略の目玉として盛り込まれるのが、様々な「沖縄特区制度」である。情報特区、金融特区、観光特区、自由貿易特区の4特区がその目玉となった。とりわけ金融特区は「銀行業・証券業などの金融業務の集積を図る」ために、投資減税や法人税の減免措置などを講ずる国内初の制度となった。
 ところが、鳴り物入りで導入された沖縄特区の大半が名ばかりで、活用実績がほとんどないまま10年が過ぎている。なぜであろうか。検証すると国家官僚による省令、政令、規則による特区制度の骨抜きの実体が浮かび上がってくる。
 例えば「観光特区」。沖縄県内に観光関連施設の新規設置、参入によって投資減税や法人税の減免措置が受けられる、となっているが、肝心な観光特区の減税対象観光施設の中に「ホテル」は含まれていない。政府は観光特区の投資減税効果として8年で15億7000万円あったとしているが、うち13億5000万円(86%)が、実は那覇新都心にある大型スーパー「メインプレイス」への減税措置である。沖縄県民の誰もが、そのスーパーを観光施設とは見ていない。沖縄県は観光特区の優遇税制対象施設に「ホテル」を加えるように要望したが、政府はなぜか見送っている。
 「情報(IT)特区」に関しては法人所得税35%の控除実績はゼロ。沖縄県庁内部から「投資減税と法人税減免の巧妙な入れ替えが行われ、使えない制度になっている」との指摘がある。固定資産税の減税措置は大型投資を必要とするデータセンターなどには効果的だが、なぜか利益が上がった時にしか活用できない法人税の減免措置が適用され、逆に短期間で高収益をあげ、法人税の減免措置が効果的で固定資産税の減免などとは無縁な「コールセンター」などのレンタル施設活用型情報産業には、固定資産税の減免措置が適用されているという。法人所得税35%控除の実績なしという「結果」には、「制度を使わせない巧妙な罠が仕掛けられている」(県庁職員)という。
 政府が「立地が進み着実に成果を上げた」と自賛する、その「コールセンター」については、17300人の新規雇用のうち6900人(40%)が非正規雇用である。年収150万円以下の「ワーキングプア」の多さが指摘され、「現代版女工哀史」との告発も絶えない。
 「自由貿易特区」についても「使えない減税・減免措置の不自由貿易地域」と指摘され、貿易実績は皆無に等しい。その上、貿易特区内には貿易業以外の企業が倉庫やオフィスビルを使用し、特区内に立地を希望する貿易業の立地を阻むという事態まで生じている。
 中城湾港新港地区内に設置されている特別自由貿易地域は、「海外貿易に不可欠な貿易港湾は未整備で、遠く離れた那覇新港まで貨物を運ばなければならない上に、沖縄−東京間のコンテナ海上運賃は上海−横浜間の3倍以上。政府が造成した自貿用地の分譲価格(1平方メートル当たり26700円)は石狩(12000円)、北九州(22500円)、伊万里(15350円)、相馬中核(8170円)に比べても割高。交通は不便、賃貸工場の使用料軽減期間が短く、インセンティブ不足は明らか」との酷評が絶えない。
 目玉の「金融特区」に至っても、過去優遇税制の適用は一件あったものの、対象となった企業は1年で撤退(本社に吸収)。その後は「優遇措置の対象となる企業はゼロ」(沖縄県)という状態が続いている。「金融機関にとって交通も不便な名護市になぜ金融特区を設置したのか疑問」との声が金融機関からは上がるが、「米軍普天間飛行場の移設先となる名護市への優遇措置」(沖縄県)として設置されたことをみれば、立地・誘致企業の利便性などお構いなしの特区政策が招いた、使えない制度の典型と言わざるを得ない。
 「特区」制度については、2012年に期限切れを迎える現行沖新法の改正・延長に当たって「IT特区」「金融特区」「自貿特区」の発展・拡充が行われている。具体的には対象地域の拡大(IT特区のうるま市の追加)、所得控除率の拡充(3特区で35%を40%に引き上げ)、進出企業の「専ら要件」の緩和(特区外事業所の設置基準緩和=常時使用する全従業員数の20%または5人〔IT、金融特区では3人〕のいずれか多い人数以下であって、特定の付随的業務のみ行う事業所であれば所得控除を受ける法人であっても特区外に設置が可能)などだ。
 政府も「制度開始以降、金融特区においては一社が認定を受けたが、現在は撤退し、IT特区においてはこれまで適用実績がない。この理由として企業からは事業認定を受けるための専ら要件が厳しいこと、事業認定を受けてもそのメリットが限定的であること等が指摘されていた」(同)と認めながら、何を意図したのか意味不明な「専ら要件」の部分改正、実績もなく使えない所得控除率のさらなる上乗せ、うるま市内の特別自由貿易地域の売れ行き不振を糊塗するためとも揶揄される、同地域内に立地した「IT津梁パーク」を対象とするために拡充されるIT特区の対象地域拡大など、「使える制度」に向けた抜本的な改正とはとても思えない、不可思議な内容となっている。
 政府が鳴り物入りで喧伝する「特区」制度については、東北大震災後の東北各県で「復興特区」「情報特区」「観光特区」が注目を集めているが、先行する沖縄特区の現状をみれば、東北特区の結果もうかがえるだろう。東北各県は先行する「沖縄特区」を教訓に、制度の裏にある政令、省令、規則、実施細目などで制度を骨抜きにして使えない制度にしてしまう官僚たちの罠にはまることなく、制度の内容を十分に吟味、検証、監視し、「使える制度」「実効性のある特区」の獲得に当たってほしい。

4 「低所得連鎖」を検証する

 復帰後の沖縄経済は、「3K依存経済」と呼ばれてきた。基地、公共事業、観光の「か行(K)」で始まる三産業が、主たる成長のエンジンとされてきた。
 「基地」収入は年間2000億円を超え、公共事業は政府の沖縄関連予算分で2000億円前後が投入され、「観光」収入は年間500万人を超える入域客が落とす4000億円前後の消費額が、沖縄県民の所得を支えているとされている。
 一方、復帰後の県内総生産(名目)は復帰時(72年)の4,495億円から2,007年には3兆6,620億円と8.2倍に増え、同期間の全国の伸び率(5.4倍)を大きく上回っている。人口も復帰時の97万人から138万人と1.4倍に伸び、全国(1.2倍)を超え、就業人口も36万4000人から61万7000人と1.7倍に増え、これも同期間の全国の伸び率(1.2倍)を超えている。
 増えた雇用を吸収しているのが第三次産業、中でも、サービス業といわれる観光・宿泊業、飲食業などである。復帰後の沖縄の産業構造の変化をみると、政府が沖縄振興策として工業団地の整備や税制上の優遇措置など様々な手法を講じて「製造業」の誘致を進めてきたが、結果は不発に終わっている。復帰時に27.9%だった第二次産業の生産比率は11.8%(2006年度)まで半減し、うち製造業は復帰時の10.9%から4.4%(同)、建設業も公共事業の減少から16.4%から7.5%(同)まで減少している。農業など第一次産業も復帰時の7.3%から1.9%(同)に激減している。代わって急増したのが第三次産業で、復帰時の67.3%から90.3%(同)まで急増している。
 第三次産業化が急速に進んだ沖縄で起きたのが、低賃金労働の増加である。沖縄は復帰後も全国の70%前後の最低所得水準で推移してきている。低所得の理由を、総務省の「就業基本構造調査(平成19年度)」でみると、沖縄の所得階級・産業別有業者数のグラフでみると、雇用の山(1万4000人)が「年収55万〜99万円」の飲食・宿泊業にあるのがわかる。全国の雇用の山(170万人)は「年収300万〜400万円」の「製造業」にある。
 政府が沖縄と全国の所得格差、経済格差を是正するために沖縄振興策の中で「製造業」の誘致を進めた理由がそこにある。だが、復帰後40年に及ぶ政府の沖縄振興策は、結果として失敗し、「低賃金」域にある「飲食・宿泊業」など第三次産業、サービス業に産業・就業構造を大きくシフトさせてしまっている。
 復帰40年の節目に沖縄が取り組まなければならない課題は、政府主導の沖縄振興計画の中で「低賃金」域にシフトさせられてしまった産業・就業構造を「高賃金」域にある製造業や建設業に再シフトさせていくことであろう。あるいは、時代にあった高賃金、高報酬を得ることのできる産業の誘致を図ることにある。
 もう一つ見落としてならないのは、復帰後も伸び悩む沖縄の「大学進学率」の低さである。最新の数字でも、沖縄の大学進学率は36.6%と全国平均の54.3%に比べ20ポイント近くも低く、全国最低の水準となっている。沖縄の高校3年制の数(1万5000人)からすると、毎年3000人近い高校生たちが大学に進学していない計算になる。
 正社員になれる比率が高卒8%に対し、大卒は65%という統計がある。高卒の多さは、そのまま不安定な非正規社員の増加につながっている可能性が高い。沖縄の低賃金、低所得、全国最低の県民所得の裏側に「低学歴」問題の存在も指摘せざるをえない。
 政府の沖縄振興策の中で見落とされているのが、この低進学率、低学歴の問題である。政府は今年、恩納村に世界最先端の沖縄科学技術大学院大学を開学させる。沖縄振興予算を毎年100億円余も投入して最先端の頭脳と研究をサポートする事業だが、同じ沖縄振興予算から支出する100億円を沖縄の高校生の大学進学費用に無償提供してもらう方が、低所得の家計難の中で進学をあきらめざるをえない子供たちに大きなチャンスと将来の可能性を高めることにもつながろう。高学歴の親の子は高学歴になり、高所得階層の世帯の進学率は低所得層の世帯よりも高くなる。所得の格差が、そのまま教育の格差、就職先の違いにまでつながるという日本の現状の中では、低所得から抜け出すためにも教育格差の是正は沖縄振興のひとつのテーマとなろう。沖縄県は本年度予算で政策選定の自由度が高い総額1500億円余の「一括交付金」を手にしている。一括交付金の中でもソフト関連部門に800億円余が計上されている。将来を担う若者の教育にどれだけの予算を投入できるか、注目したい。

5 「脱基地経済」の可能性
 最後に脱基地経済の必要性と可能性について検証したい。沖縄の基地関連収入は、「軍雇用者所得」と呼ばれる基地内で働く米軍基地従業員(2012年現在で約9000人)の給料(年間約520億円=2009年)と、3万5419人の軍用地主たちに支払われる米軍用地借地料(年間791億円、軍用地料には他に「自衛隊基地」分が年間116億円)、「米軍などへの財・サービス」と呼ばれる沖縄に駐留する米兵やその家族、米四軍(海兵隊、陸軍、海軍、空軍)の消費支出分(年間約687億円)、ほかに米軍基地内での建設工事やテナント業者などの営業収入など(年間100億円前後)がある。
 年間2000億円もの米軍関連収入をもって、沖縄経済は基地依存経済とされている。本土の経済人や研究者、官僚、閣僚の中にも「米軍基地がなければ沖縄経済は立ち行かない」と思っている人も少なくない。中には「沖縄県民は米軍基地反対、基地撤去をいうが本音は米軍基地の存続。撤去要求は方便で、基地と引き替えに振興策がほしいだけ」という声もある。しかし、沖縄の「県民総所得(3兆9548億円)」に占める基地収入の割合をみると5.3%に過ぎず、観光収入(10.9%)のほぼ半分の水準にとどまっている。
 沖縄が本土に復帰した直後の基地依存度は15%。終戦直後の沖縄は経済の70%を基地収入に依存していた。その当時であれば「基地依存経済」と呼ばれても仕方がないが、「県経済に占める基地依存度が5%程度となった今は、基地依存′o済とは、もはや呼べない」(来間泰男沖縄国際大学名誉教授)との指摘もうなずける。
 基地依存経済どころか、「沖縄は米軍基地のおかげで大損をしている」という沖縄県の試算もある。県が作成した「沖縄21世紀ビジョン」の中で、沖縄県は「(米軍)基地の面積は、県本土の10.2%(沖縄本島でみると約20%)を占めているのに経済貢献度は6.3%程度」と、米軍基地の県経済への貢献度の低さを指摘している。
 県の試算では米軍基地は土地の生産性も、平均的な土地の生産性が1平方キロメートル当たり16億円程度(2006年)に対し「9億円程度」とほぼ半分の水準で、「基地面積からは毎年1600億円も損している」と試算している。
 米軍基地内と基地外の「経済波及効果」、つまり県経済への貢献度を比較した内閣府沖縄総合事務局OBの宮田裕・琉球大学非常勤講師の試算では、米軍普天間飛行場の経済効果は年間137億2,474万円で、これを基地面積の637.6fで割ると1f当たり2,153万円。
 これに対して普天間飛行場を除く宜野湾市の純生産額は1,112億2800万円。これを基地外面積(1,332.4f)で割ると1f当たり8,347万円。つまり、米軍基地の経済効果は4分の1にとどまっている。
 同様に浦添市の米軍牧港補給基地(キャンプ・キンザー)の場合は、基地関連収入は172億8,668万円で1f当たり6,316万円。基地を除く浦添市の純生産は2,430億4,600万円で1f当たり1億4,862万円。米軍基地の2.4倍になる。米軍基地に土地を貸すことが、いかに非効率で不経済で、沖縄県民がいかに大損をしているかを示す数字である。
 沖縄県当局も、広大な米軍基地の存在が「県の経済的な生産能力を抑制」し、「土地利用にも歪みをもたら」し、「経済的に不効率な土地利用」を強いて、県経済の潜在成長力を押し下げ、沖縄の経済発展のチャンスも奪っているとビジョンの中で指摘している。日米安保を容認し、「安保の維持のために沖縄の米軍基地は不可欠」というのが自民党の主張だが、自民党が支持する仲井真弘多知事がまとめたビジョンということも注目に値する。
 嘉手納飛行場や普天間飛行場など米軍基地は、沖縄経済の主たる生産の場である沖縄本島の約2割を占拠している。県民総所得約4兆円の大半を稼ぎ出すのが沖縄本島であることを思えば、土地のシェアから見れば8000億円の経済効果がなければ、米軍基地経済は不経済ということになる。
 沖縄経済が、基地に依存した経済だった時代は、もはや遠い過去のものとなってしまった。4000メートル級滑走路を2本持つ嘉手納飛行場が、米軍基地にではなく民間航空会社に賃貸されたとしたら、あるいはすでに那覇空港で国際貨物ハブ事業を展開する全日空が嘉手納飛行場を活用し、ここ数年急成長しているLCC(ローコスト・キャリア)がアジアハブ空港として活用したとしたら、その経済効果は2000億円どころではなかろう。
 そんな沖縄経済の爆発的な経済発展の可能性を米軍基地の跡利用は秘めている。

(『世界』岩波書店2012年6月号)


「基地依存」の実態と脱却の可能性



前泊 博盛



○基地経済と沖縄振興

 復帰後だけでも15兆円超の莫大な、各省庁が計上した政府予算と36年あの期間を経てなお政府主導の沖縄振興策、とりわけその目標となった「自立的経済発展」が達成できない理由を、かつて琉球大学の大城常夫氏は「安保維持政策としての沖縄振興策の当然の帰結」と指摘していた。
 沖縄が「経済自立」を手中にすれば、さらなる経済発展に必要な場所を求め、米軍基地返還の動きを招きかねない。そうなれば在沖米軍基地に大きく依存する日米安保は根幹を揺るがしかねない。日米安保を将来にわたって安定的に維持・運営していくためには米軍基地の拠点としての沖縄の経済発展をいかに抑制し、米軍基地なしでは地域経済が成り立たないような体制をいかに保持するかが日米両政府にとって重要な課題となる、との見方である。
 実際、基地所在市町村や沖縄県を中心に、財政に占める基地依存度は高まりつつある。背景には、新たな米軍基地建設の受け入れを前提とする「米軍再編交付金」、あるいは10年間で総額2000億円の基地所在市町村に対する「島田懇談会事業」「北部振興策」などが投入され、反基地運動の抑制や反基地勢力の台頭を抑える効果を発揮している。

 沖縄経済を深く支配する「基地依存経済」については、沖縄県も2008年発行の基地統計から従来の集計手法を変更し、米軍の直接発注分などを加え、過去10年分に遡って修正している。最近の基地関係収入額は総額2155億円(県民所得比5.4%)と2000億円の大台を突破している(「米軍等への財・サービスの提供」<沖縄県基地対策課、2009年3月>より)。
 基地収入は、「軍用地料」「米軍雇用者=基地従業員所得」「米軍等への財・サービスの提供」「その他=米軍の直接発注分」などで構成されている。
 中でも軍用地料は復帰後、右肩上がりで上昇を続け、復帰時の123億円から2006年には777億円と6.3倍に増加した。軍雇用者所得は240億円から516億円と2.2倍。米軍サービスは414億円から746億円と1.8倍。とくに軍用地料の伸びが顕著となっている。
 軍用地は本土では87%が国有地だが、沖縄では国有地は34%に過ぎず、残りは県・市町村有地が33%、民有地が33%を占めている。民間所有者は36694人(自衛隊分を含む)に上り、うち年間100万円未満の地主が50%を超えている。200万円未満が20%、500万円以上は9%の約3300人。多くが60歳以上の高齢者とみられている
 基地が提供する「雇用」は復帰時には約2万人いたが、その後は減少し、7100人台まで減少した。その後、微増に転じ、2005年以降は9000人前後で推移している。高失業率に悩む沖縄にとって、米軍基地は県庁に次ぐ大規模な雇用先となっている。雇用問題は「脱基地経済」の大きな課題となっている。
 基地所在市町村(21市町村)のうち、歳入に占める基地関係収入の割合が最も高い宜野座村は歳入全体の35.5%を占めている。次いで金武町(26.5%)、恩納村(24.5%)、嘉手納町(17.1%)、北谷町(11.5%)、読谷村(13.2%)などと続く(2007年度)。財政の基地依存度の高さは、脱基地経済を図る上でも解決すべき重要なファクターとなる。
 また米軍普天間飛行場の返還に伴う代替新基地建設問題で、国は基地建設候補地となっている名護市や周辺の沖縄本島北部市町村に対し、新基地の受け入れを条件に「北部振興策」として総額1000億円を投入した。このほか「基地所在市町村」の地域発展を促す名目で、慶応大学・島田晴雄教授(当時)を座長とする通称「島田懇談会」が採択した振興事業推進費として総額1000億円が投入されてきた。
 基地所在市町村の地域産業振興による「経済自立化」を促すはずの政府の基地所在市町村振興策だったはずだが、この10年間に政府の振興策を投入された市町村の中には、600億円余を投入された名護市のように、市債残高の増加や失業率の増加、法人税の減収など、むしろ振興策による「基地依存度の上昇」を招く自治体もある。
 市町村面積に占める米軍基地面積の割合が最も大きいのは嘉手納町で、実に町面積の82.5%を米軍基地が占めている。残りのわずか17%程度の面積に1万3700人余が生活を余儀なくされている。2位の金武町も町面積の59.3%を米軍基地が占め、以下、北谷町52.9%、宜野座村50.7%、東村41.5%などが市町村面積の4割以上を米軍基地に奪われている(2008年3月末現在)。
 産業振興に必要な土地の大半を奪われている基地所在市町村は、基地のない市町村に比べ失業率が高いなどの特徴がある。2005年の国勢調査によると、嘉手納町の失業率は実に17.5%と、県平均(11.9%)を大きく上回り、全国最悪の沖縄県の中でも高失業率となっている。ほかに、うるま市(15.6%)、北中城村(14.6%)、沖縄市(13.7%)、伊江村(13.0%)、宜野湾市(12.5%)、名護市(12.5%)、読谷村(12.4%)、東村(12.3%)、金武町、那覇市(ともに12.1%)と、県平均を上回る17市町村中13が「基地所在市町村」となっている。人口当たりの民間「軍用地代」収入の高い地域や基地面積の高い基地所在市町村は概して失業率も高くなっているといえる。
 基地関係の振興策を投入されるほど失業率が高まり、財政の基地依存度が増し、地域経済の自立化が遅れるという矛盾が、基地経済によって浮き彫りになっている。

○明暗分ける脱基地と基地依存

 復帰前後から現在に至るまで、「基地がなくなったら、沖縄は“イモと裸足”の極貧生活に逆戻りする」との危機論が一部で根強くある。「米軍基地オアシス論」である。産業らしい産業のない砂漠のような沖縄で、基地は「雇用」と「金」が湧き出る「人工オアシス」であり、沖縄は基地オアシスなしでは生きていけない、という論法であろう。
 米軍基地があるから政府は巨額の振興予算を毎年投入し、市町村は基地周辺対策や特別交付金をもらうことができる。米軍基地は県庁に匹敵する9000人の莫大な雇用を提供し、基地従業員に年間500億円を超える給与所得を保護し、4万人を超えるフェンスの内側の“住民”たちに毎年500億円もの消費支出と、米四軍による100億円を超える財・サービスを県内企業が受注し、フェンス周辺の飲食街にドルを提供しているというのが「基地オアシス論」の根拠である。
 しかし、本当にそうであろうか。前述したが、脱基地と基地依存で二つの基地所在市町村は明暗を分けた。
 脱基地で成功したのは沖縄本島中部の北谷町だ。町内の米軍基地返還を受け、その跡利用で成功し、基地の街から県内屈指の商業都市に変貌した。北谷町は1981年に町内にあったハンビー飛行場(43ヘクタール)と射撃訓練場のメイモスカラー地区(23ヘクタール)の返還を獲得した。この基地返還後の開発によりハンビーは税収が返還前の52倍に、経済波及効果は81倍、雇用は22倍に増えた。メイモスカラー地区は税収が38倍、経済波及効果は17倍、「雇用は100倍を超える」(北谷町)という。両地区で新規雇用は2004年時点で5900人、経済波及効果は2000億円を超え「予想をはるかに上回る効果」に北谷町も驚く結果となった。
 北谷町では、両地区の規模を越える「過去最大規模」のキャンプ桑江の一部返還も近い。「これで手狭になった商業拠点や不足する住宅地を拡大できる。新たな投資効果と経済波及効果が期待できる」と町は返還を歓迎している。
 一方で、基地依存を高めたのが沖縄本島北部の名護市である。普天間基地返還に伴うキャンプ・シュワフ沿岸への代替基地建設の受け入れを決めた1997年以降、基地関連収入は95年の19億円から2001年度には91億円と5倍に増えている。その後も年間30億円前後の基地関連投資が続いている。
 増えた理由は97年から始まった米軍基地所在市町村活性化事業(通称・島田懇事業)と、2000年から始まった北部振興策。いずれも総額1000億円を10年間で基地所在市町村に投入し、基地所在市町村の地域活性化を図るものである。
 政治の二つの「基地所在市町村活性化事業」事業予算の投下で、名護市財政の基地依存度は96年度以前の6、7%台から97年以降増え始め、2001年度には29.4%、04年度には24.5%まで急増した。この間、名護市だけでも600億円を超える政府の振興予算が投下された。しかし、完全失業率は95年の8.7%から05年には12.5%と悪化、企業立地で増えるはずの法人税収は4億4000万円から4億3000万円と減り、逆に市の借金となる「市債残高」は171億6000万円から04年度には235億2000万円にまで膨らんでいる。
 振興予算を投入されて逆に依存度を高め、失業率が悪化し、借金が膨らむ結果となった。名護市は「基地振興策をこなすために借金を重ねたのが原因」と説明しているが、振興予算がむしろ逆効果となり基地所在市町村を苦しめる本末転倒の事態が生じている。

○「悪貨(米軍基地)」に駆逐される「良貨(民間経済)」
 
 米軍基地の土地の生産性は、必ずしも高くない。むしろ、基地に提供するよりも民間経済に活用することで、土地の生産性が格段に上昇することが、これまで沖縄で返還された米軍基地の跡利用で明らかになっている。
 沖縄県が2007年に実施した「駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等検討調査報告書」や県基地対策課の調査によると、沖縄の本土復帰後、返還された米軍基地4地区のうち前述した北谷町桑江地区、北前地区のほかにも「牧港住宅地区=現・那覇新都心(214ヘクタール)」(那覇市)、「那覇空軍・海軍補助施設=現・小禄金城地区(109ヘクタール)」(那覇市)、「天願通信所=うるま市街(97ヘクタール)」(うるま市)などでも、雇用、税収、経済波及効果ともに「返還前」の米軍基地時代より「返還後」の民間活用がはるかに大きな効果をあげている。牧港住宅地区(那覇新都心)は返還前と返還後で雇用効果が36倍(196人→7168人)に、那覇空軍・海軍補助施設(小禄金城地区)は14倍(470人→6796人)、天願通信所(うるま市街)は実に608倍(4人→2431人)と急増している。
 返還後の開発や跡利用による直接経済効果や生産誘発効果、所得誘発額、税収でも牧港住宅地区は「返還で失われるもの」に比べ、「プラス効果」がはるかに大きく、直接経済効果で735億円(基地時代51億円)、生産誘発額で874億円(同55億円)、所得誘発額が251億円(同17億円)、税収も113億円(同6億円)と圧倒的だ。
 同様に那覇空軍・海軍補助施設でも直接経済効果で869億円(基地時代34億円)、生産誘発額で958億円(同29億円)、所得誘発効果で267億円(同9億円)、税収も94億円(同3億円)と、いずれも返還後が15倍から30倍も大きくなっている。
 本来なら民間で活用すれば15倍から30倍もの生産性、税収が得られる土地を、基地に提供・使用されていることになる。まさに「悪貨が良貨を駆逐する」かのように、生産性の低い産業が生産性の高い産業を駆逐している状況が調査の上でははっきりと証明されているのである。
 沖縄では1961年から一部米軍基地の返還が始まり、現在まで1万2000ヘクタール近い軍用地が返還されている。返還跡地は、都市開発や農地、リゾート開発などに活用され、市街地の形成や商業地として地域経済の拠点となってきた。
 いま、日米両政府は宜野湾市の米海兵隊・普天間基地をはじめ、2014年以降、沖縄本島の嘉手納基地より南の五基地(普天間基地、キャンプ瑞慶覧、キャンプ桑江南側、牧港補給基地、那覇港湾施設)の返還も想定している。五基地の総約面積は約1500ヘクタールと、すでに返還されている牧港住宅地区=那覇新都心の約7倍にも上る基地の跡利用となる。それだけに、相当な覚悟と周到な計画、準備が必要となる。
 沖縄県は、すでに大規模な五基地返還を想定し、2007年に「駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等検討調査」を実施している。同調査による県の試算では、嘉手納基地以南五基地の返還に伴う「整備」による直接経済効果と波及効果は、「県内最終需要額=直接経済効果」が1兆143億円、「生産誘発額」は1兆6991億円、「所得誘発額」は5386億円、「誘発雇用人数」は13万4793人となっている。「税収効果」は総額1295億円(市税が469億円、県税が210億円、国税が616億円)と試算している。
 また返還・整備後の「活動」による直接経済効果と波及効果は、県内最終需要額が5597億円、生産誘発額が9110億円、所得誘発額が2497億円、誘発雇用人数が7万8272人と試算されている。税収効果は総額1253億円(市税が325億円、県税が163億円、国税が764億円)、764億円)、このほか返還跡地での企業活動で、総額8707億円の販売・飲食・サービスなどの直接経済効果が試算されている。
 結論として沖縄県は、返還跡利用にあたっては周辺地域との開発・土地利用調整などの十分な配慮が必要としながらも、米軍基地返還は返還時の開発事業で多額の財政負担を伴うものの、長期的には支出を上回る経済効果と税収が期待できるとしている。

○「基地依存」脱却へのまなざしを

 脱基地経済は、かつて懸念された「イモ・裸足の時代」への逆行ではなく、返還効果による地域振興と民間活力の発揮を促すチャンスとして大きく可能性を内包している。
 基地の大規模返還は、団塊世代や富裕層をターゲットとする移住ビジネスのチャンスを提供し、返還後の跡利用に必要な基地の環境浄化は国費による環境ビジネスの大型需要の創出、大都市建設による建設需要、都市間縦断の新交通システムの構築、また普天間基地の地下に広がる無数の鍾乳洞は新たな観光資源としても注目され、牧港補給基地は隣接する那覇港湾施設との連携による新たな産業団地としての成長が期待されている。
 返還対象にはなっていないが、4000メートル級滑走路2本を有する米軍嘉手納飛行場は、成田国際空港や関空(関西新空港)を超える空港能力を持ち、米軍向けに建設された高価な戦闘機の掩体施設や巨大な格納庫は「東京・晴海の国際見本市会場を超える巨大な展示施設にも転用可能な施設」として、海外企業からも注目されている。
 すでに減価償却を終えた滑走路など空港施設を民間転用できれば、ジャンボ機の着陸料でアジア一高額(80万円〜90万円の成田、関空よりはるかに格安な着陸料(試算では5万円〜10万円)で施設を提供でき、アジア一コストの安いハブ空港としての活用も夢ではない。
 脱基地と脱基地経済の構築に必要なのは、脱基地に向けた県民の本気度と活用の知恵、脱基地に踏み出す勇気、そして脱基地への挑戦を推進できるリーダーの存在であろう。
 これまでの沖縄は、米軍基地から派生する現在の基地収入に眼を奪われ、基地がなければ得られるであろう「逸失利益」に関するシュミレーションや研究、挑戦がおろそかにされてきた。しかし、最近では県も大規模な基地返還を想定し、跡利用や返還に伴う経済効果の調査・研究に着手している。
(『沖縄「自立」への道を求めて』高文研2009年7月25日)



「基地撤去亡“県” 論」という神話



普久原 均



 在日米軍再編をめぐる日米両政府の交渉が本格化し始めた2004年11月5日の朝、自民党本部。日米安保・基地再編合同調査会(額賀福志郎座長=当時)が開かれ、国防族議員が顔をそろえた。その中には再編の当事者でもある沖縄県選出・出身国会議員もいた。そのうちの一人、仲村正治衆院議員が会合で声を張り上げた。
 「『沖縄は基地から利益を受けている』という人もいるが、基地収入は県民総生産の4〜5%にすぎない。/『(基地の)恩恵』うんぬんは、まことに残念だ」。
 沖縄県民は基地で潤っている──自民党内に根強くあるこうした見方に対するいらだちが、発言にはにじんでいた。
 わずかばかりの知識を基に、「沖縄には基地が必要」とばかり、浅はかな経済論議を振り回す傾向は、自民党ばかりでなく知識人にもみられる。だが自民党議員である仲村氏ですら否定するほど、今の沖縄経済に占める基地の比重は小さい。「基地を撤去すれば沖縄経済は破綻する」という見方は、今日では「神話」にすぎない。
 基地が返還され、跡地の活用が進みさえすれば、その経済効果ははかりしれないほど大きい。沖縄に住む県民ならだれでも実感している話だ。基地の返還と跡地の活用こそが経済を拡大させるという事実、言い換えれば「基地撤去亡“県”論」の神話性をデータで実証してみよう。

基地内外で対照的な経済効果

 県都那覇市の北に隣接する浦添市。国道58号を車で北上すると、海に近い左側は延々と基地の金網が続く。右側にはぎっしりと民間の建物が並び、対照的な表情を見せる。
 この基地はキャンプ・キンザー(牧港補給地区)だ。基地関連収入にして、個別の基地ごとの統計は存在しないが、各種の統計から洗い出してみると、キンザー関連は199億8881万円となる。キンザーの面積は273.7ヘクタールだから、1ヘクタール当たりは7303万円だ。
 一方、浦添市全域の面積は1906ヘクタール当たりで、市内純生産は2729億5500万円。これから基地収入と基地面積を差し引いた1ヘクタール当たりの生産高は1億5497万円(03年度時点)だ。基地の外で富を生み出す能力は、基地内の2.12倍に達することになる。基地の内と外では風景ばかりでなく、経済効果の面でも対照的だといえる。
 この基地収入には軍用地料、基地従業員の給与、市町村へのさまざまな交付金、軍人・軍属の消費支出などすべてを含んでいる(05年度時点)。軍人・軍属の消費は県全体の統計しかないため、県内基地全体に占めるキンザーの割合が最も高い「基地従業員数」からはじき出した。基地収入は、推計しうる中で最も高い数字を採用しており、それでなお、生産性にこれだけの開きがある。
 同様に普天間飛行場を計算してみよう。基地関連収入は計124億8797万円で、1ヘクタール当たり2599万円。一方、普天間基地以外の生産高は990億2303万円で、1ヘクタール当たり6698万円。経済効果は普天間基地の外が基地内の2.58倍だ。
 基地収入のうち軍人・軍属の消費支出は、全基地に占める普天間の割合が最も高い「地主数」を使って換算した。キンザーと同様に、基地収入は極大値を想定してなお、基地外の生産性が2.5倍以上も高い。基地としての使用が、土地の活用方法としていかに効率が悪いかが分かる。
 県内総生産に占める基地関連収入(軍関係受取)の割合は2004年で4.6%。確かに無視できない数字だが、本土復帰した1972年には17.0%だったら、比重は4分の1近くに低下したことになる。基地への依存度は復帰前と比較にならないほど低くなっているのが実情だ。
 実際に返還された基地の跡地がどれほどの経済効果を招くかみてみよう。以下の数字は、沖縄県が2007年6月にまとめた「駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果調査」に基づく。

那覇新都心
 オープンしたばかりの県立博物館・美術館や県内最大級の小売店などが並ぶ那覇新都心地区。ここは「牧港住宅地区」という基地の跡地だ。1975年から87年にかけ細切れ返還され、土地区画整理事業を経て98年に利用が始まった。
 跡地利用に20年余を要したが、いざ利用が始まると発展はめざましく、またたく間に県内商業の中心地となった。ここの返還前と後の経済効果を拾い出してみる。
 返還当時の基地関連収入(直接経済効果)は年間51億5000万円。基地従業員の給与も軍人らの消費支出も、市町村への交付金、基地の整備費、などもすべて含めた数字だ。これから波及した二次的な効果を表す生産誘発額は年54億8000万円だった。
 一方、基地が返還され、区画整理事業が始まった年から今までの整備費、商業・サービス業の売上高の合計を、工事開始から今までの年数で割った年平均直接経済効果は735億4000万円。返還前の14.3倍だ。
 跡地利用が軌道に乗った2002年の1年間の生産誘発額は874億2000万円。これも返還前と比べると16.0倍に上った。基地返還は雇用効果も大きい。牧港住宅地区の基地従業員数は返還時で52人。最盛期でも196人だった。
 一方、現在の雇用者数は、網羅した統計はないが、県の調査から卸・小売店、飲食店、サービス業、製造業の4業種のみの従業者数をはじき出すと2843人。基地だった時の最盛期と比べても14.5倍に達する。直接経済効果、間接経済効果、雇用効果のいずれを取っても基地だったころの10数倍にも上る。土地は基地としてでなく、民間が利用した方がはるかに経済効果が上がると論じるゆえんだ。

美浜・ハンビー
 沖縄本島中部・北谷町の通称・美浜とハンビー。シネマ・コンプレックス(複合型映画館)や大型商業施設を核に、個性的な小売店や飲食料品店が軒を連ね、週末は多くの若者や家族連れでにぎわう。
 ここも「メイモスカラー射撃訓練場」「ハンビー飛行場」と呼ばれた米軍基地で、77年から89年にかけ順次返還された。ハンビーは90年、美浜は95年に供用開始となり、跡地利用は那覇新都心より数年先に始まった。
 米国風の街並みや大型無料駐車場の整備、電線地中化といった施策が功を奏し、跡地開発の成功モデルとなった地域だ。
 ここが基地だったころの基地関連収入はわずか3.3億円。
 これに対し、今の1年当たり直接経済効果(2002年実績値)は573億円。173.6倍だ。間接効果をみると、基地のころの生産誘発額は2.9億円。現在の1年当たり生産誘発額(同)は623.7億円。実に215.1倍にも達する。
 雇用は、基地だったころの確かな統計はないが、ハンビー飛行場に限ると約100人の雇用だったことが分かっている。返還後は、2001年の事業所・企業統計調査によると、同じ地域で2112人。21.1倍だ。メイモスカラーは雇用の少ない射撃場だったから、美浜も含めると倍率はさらに高まるだろう。
 財政投資の状況をみると、経済効果はさらに顕著になる。
 ここに投じられた公共投資の総額は、71.6億円。これに対し、商業、サービス業の売上高累計(使用収益開始後15年間=2002年まで)は4669億円で、65.2倍に上ぼる。二次的な生産誘発額も含めると実に150.5倍だ。

小禄金城
 那覇空港からモノレールに乗り、二つ目の駅・小禄。大型商業施設が目の前にあるこの一帯は小禄金城地区だ。ここも「那覇空軍・海軍補助施設」と呼ばれる米軍基地だった。しゃれた小売店が並ぶ繁華街から少し離れると、那覇新都心と並ぶ県内屈指の高級住宅街になっており、米軍基地だったころの面影はない。
 この地区の経済効果も顕著だ。基地のころの基地関連収入の総額は年間34.2億円程度。二次的な誘発額年29.0億円と推計されている。これに対し、返還後の直接経済効果は1年当たり868.5億円(02年実績値)で、基地のころの257.4倍。生産誘発額(同)は33.0倍だ。
 雇用効果も同様に高い。返還の時の基地従業員はわずか3人。最盛期は470人だった。これに対し、現在は3694人が働く(卸・小売業、飲食店、サービス業の3種類のみの従事者数合計=02年商業統計、01年事業所統計)。最盛期と比べても約7.9倍だ。行政投資の累計額は360.1億円。これに対し、商業・サービス業の売上高累計(使用収益開始後15年間=2000年まで)は7278.2億円で17.5倍。二次的な生産誘発額(同)も含めると42.6倍に及ぶ。

他の返還跡地
 以上みてきたように、都市部にある主要な基地跡地の経済・雇用効果は10数倍から210数倍にも達する。だがこれでも控えめな数字だ。今後、時がたてばたつほど、数字は増していくので、倍率はさらに高くなる。元知事で前参院議員の大田昌秀氏は他の返還跡地の雇用効果も算出(2006年3月時点)しており、それをみると数字はさらに高い。
 うるま市のみどり町。ここは「天願通信所」と呼ばれた基地の跡地で、1983年に返還された。今は商業施設のほか市役所や学校が集積する市の中心地で、ご多分に漏れず活況を呈する。ここは通信施設だっただけに、基地従業員はわずか4人だった。これに対し、現在の域内雇用者数は2936人(01年時点)で、雇用効果は実に734倍に達する。
 同じく83年に一部返還された沖縄市の「泡瀬通信施設」跡地も、飲食店などの並ぶ大通りと住宅街に変貌した。に返還前の28人だったが、今の域内雇用者数(98年時点)は7209人。257.5倍にはね上がった。
 92年までに細切れ返還された「ボローポイント射爆撃場」(読谷村)は同じく44人から1298人(同)へと増え、増加率は29.5倍。76年までに返還された「キャンプ・マーシー」(宜野湾市)は77人から2647人(同)となり、34.4倍に及ぶ。
 現在の沖縄県の最大の課題は全国一高い失業率の改善だ。
 軒並み数十倍から数百倍にも達する雇用効果を考えると、基地の撤去と跡地利用は雇用の面でも最大の効果のある政策だと言ってよい。

ゼロ・サム・ゲームは正しいか

 基地返還の経済効果を考える際、「跡地での新たな商業集積が既存商店街の顧客を奪っている」という指摘がよくなされる。沖縄県全体でみると、跡地の発展はそっくりそのまま、既存市街地の「地盤沈下」の埋め合わせにすぎない、という理屈だ。誰かが得をすると、同じ分だけ別の誰かが損をするという、いわゆる「ゼロ・サム・ゲーム」との指摘だが、これは正しいのであろうか。
 県内では「北谷町の美浜・ハンビーの繁栄は隣接する沖縄市の中心商店街の沈滞を招いた」という指摘を頻繁に聞く。実際、沖縄市の中心商店街はここ10年ほど大きく様変わりし、店を閉じた建物が並ぶ「シャッター通り」へと変貌している。ただ、これを実際のデータで検証してみると、「ゼロ・サム(差し引きゼロ)」だとは必ずしも言えない。
 ハンビー飛行場跡地に商業施設が建設され出した1988年から2002年までの14年間で、沖縄市の小売・卸売業の年間販売額は1590億円から1411億円へと約180億円減少している。
 これに対し、北谷町の小売・卸売業の年間販売額は162億円から501億円へと約340億円増加した。北谷町の増加分は沖縄市の落ち込みを大きく上回る。つまり、北谷町は沖縄市の顧客を奪っただけではない。
 実際に美浜を歩いてみると、県内客だけでなく観光客も数多く訪れていることが分かる。観光客向けの雑誌に紹介されていることも、その見方を裏付ける。それまで沖縄になかった複合型映画館が成功した点をみると、従来と異なる新たな消費行動をもたらしたことは確実だ。北谷の跡地は、新規需要を掘り起こした「プラス・サム」だったといえる。 
 北谷町のもう一つの隣接地である宜野湾市は、同じ期間に849億円から1221億円へと372億円増加している。美浜やハンビーと必ずしも競合しておらず、「地盤沈下」していないことが分かる。
 一方、那覇新都心では2000年から05年までの間に214億円の商業販売額を生み出した。この間、那覇市中心部の国際通りでは799億円減少している。数字の上では中心部の落ち込みの方が激しい。新都心への人口流入も大きく、周辺地域から人を引き寄せたと考えられている。
 いずれにせよ、今後の返還跡地をすべて過去の返還地と同じ形態にすれば、需要がいずれ頭打ちになることは避けられない。観光客も誘引できる個性的な街並みにして外部からの新規需要を掘り起こすとともに、製造業や医療関係、研究機関など、さまざまな形態での土地利用と組み合わせ、沖縄県全体の総合力を引き上げる工夫は必要であろう。

跡地利用が遅れる理由

 以上みてきたように、基地返還の経済効果は大きいが、当事者の地主には返還を望まない人も多い。跡地利用までに時間がかかるというのが大きな理由の一つだ。賃借料を失った後も地主には固定資産税が課されるため、利用できないままの状態が長く続くのは経済的に苦しい、という事情がある。
 できるだけ早い跡地利用が望まれるが、返還から土地の利用が本格化するまで、那覇新都心も美浜も10数年かかった。理由を探ると、沖縄特有の事情がみえてくる。
 沖縄戦は「一木一草まで焼かれた」と形容されているように、見る影もないほど土地の形を変えた。戦後も長く立ち入りできず、地主は自分の土地を確認できなかった。戦前の公的資料も沖縄戦でほとんどが焼かれ、所有地を確定できる資料が残らなかったという事情もある。戦後収用された土地も基地の金網に囲い込まれて地主が知らない間に米軍が形状を変えた例が多く、所有地の画定は難しくなった。
 本土にある軍用地は大半が旧日本軍の施設で、87.7%が国有地だ。だが沖縄では、米軍が白地に絵を描くように条件の良い土地を強制的に使用したため、民有地の割合が高い。普天間を含む沖縄本島中部の基地だと、個人の所有地が75.4%を占める。地主の数が多いため、合意をまとめるのにも時間がかかるのだ。
 さらに、土地を利用しやすい一括返還でなく、数回に分けて細切れ返還される例が多いのも事情を複雑にする。最初に返還された土地の地主は、最後の返還まで場合によっては10年程度も手をこまねいて待つことになる。
 こうした現状から、軍用地返還特措法(沖縄県における駐留軍用地の返還に伴う特別措置に間する法律)は返還後、原状回復に要した期間プラス三年間は賃借料相当額を補償するよう規定した。だが先に述べたように跡地利用が本格化し、地主が収益を得られるまで10数年かかる例がほとんどで、補償期間が三年では「焼け石に水」なのだ。しかも、過去には返還の数カ月前に返還を通告する例も多かった。突然の返還では準備が間に合わない。これでは地主が返還に困惑するのも当然だ。
 だが、先にみてきたように、跡地利用が進んだ場合の経済効果はばく大だ。基地内立ち入りによる返還前の現場確認や十分な準備期間を置くこと、開発計画を早めに提示して地主の合意形成を促すことなど、開発期間をできるだけ短くする努力が行政側に求められる。
 跡地利用を進める際、課題となる点はほかにある。例えば有害廃棄物の問題だ。
 1996年3月、恩納村の米軍恩納通信所跡地でPCBや水銀、ヒ素などの有害物質が大量に見つかった。返還は前年の秋だ。発見当時、筆者は現場を見たが、掘った穴に大量のドラム缶が入れられ、上から土をかぶせていた。米軍側に隠蔽の意図があったのは確実に思えた。有害物質を含む汚泥はその後、航空自衛隊の恩納分屯地に移された。政府は一時、現地処理の方針を示したが地元が猛反発したため、現在では県外の処理場に移す方向だが、移送はまだされてない。返還から10年余を経てもなお最終解決に至っていない現状は、米軍による汚染が後々まで尾を引くことを物語る。
 2002年1月、今度は北谷町のメイモスカラー射撃場跡地の深さ2メートルの地中からドラム缶に入ったタール状の汚染物質が見つかった。81年の返還から20年余を経ていた。日本政府が汚染を処理したが、跡地利用の日程は変更を余儀なくされた。返還後の跡地利用をスムーズに進めるためには返還前に土地の現状を把握しておくことが欠かせない。環境汚染のおそれがある場合はなおのことだ。
 しかし日米地位協定が壁となり、地主も、返還前に基地内に立ち入ることはほとんど不可能だ。沖縄側の要求を受け、政府は地位協定の「運用改善」をし、行政の立ち入り調査については米側が「考慮を払う」ことになったが、それは建前だけの話。考慮どころか、実際には門前払いを繰り返しており、返還後に何が飛び出すか分からないのが実情だ。隠蔽まで加わると、返還前はおろか、返還後も長く気付かないまま汚染を抱えることになる。
 たとえて言えば、建物を又借りした店子(米軍)が、貸し主(日本政府)にも本来の持ち主(沖縄の地主)にも黙って畳の裏に有害物質を隠して立ち去るようなものだ。しかも汚染の処理は仲介の借り主(日本政府)が行い、汚染した当の店子(米軍)は素知らぬ顔を通す。米軍基地がらみではこんな理不尽な行為がまかり通っている。問題は現在進行形だ。
 今後返還される普天間飛行場も、機体洗浄などのため化学物質を日常的に使っており、地下の汚染は相当なものと推測されているが、現実にはだれも把握できていない。

財政面の対策・基地従業員の雇用確保

 もう一つの課題は、跡地利用に必要な財政負担が大きいことだ。県の調査によると、那覇新都心では小禄金城地区も県で10年〜15年を要した。
 ハンビー・美浜の場合は行政の投資額を抑えたこともあって北谷町で5〜10年程度で回収できたが、これは例外だろう。普天間の場合は、県が投資額を回収するまでに30年以上、宜野湾市は20〜25年かかると想定されている。この間の自治体の財政負担は大きい。
 ただ、国税の割合が大きいため、国の回収は比較的早い。国・県・市の投資額合計でみると、那覇新都心で約10年、小禄金城でも5〜10年の税収で回収できた。いずれも5年程度早まった計算だ。莫大な投資を要する普天間の場合も、税収全体でみると20〜25年で回収できると予測されている。この事実は、自治体の負担軽減を考える上で示唆に富む。財政負担を地方自治体にしわ寄せしない仕組みは可能ではないか。国・県・市町村の投資額の割合を変えればよい。跡地利用に限り、従来のような区画整理事業にこだわらず、新たな仕組みをつくることも考えられる。
 地方分権改革では国税と地方税の割合を変更することも検討されており、税収配分を変えるだけでも跡地利用に関する地方自治体の負担は軽減できるだろう。
 返還に伴う経済上の不利益を軽くするには、基地従業員の雇用確保も必要だ。今回の米軍再編で返還の対象となった沖縄本島中南部の基地の基地従業員数を合計すると、1300人余(キャンプ瑞慶覧は返還面積が未確定で、約4分の1との推測もあることから、同基地の従業員数の4分の1の削減で計算)。一度にこれだけの失業が生じる事態は避けなければならない。
 再編によってこれらの基地従業員数が職を失う一方、基地跡地の基盤整備には人手が必要となる。このため、跡地の基盤整備のために公的な機構を設立し、ここにこれらの基地従業員を優先雇用する方法も考えられる。
 さらに、供用開始後、この跡地に立地する企業を対象に雇用のインセンティブ(誘因)を与える方法もある。具体的には、元基地従業員を雇用した場合に給与の一部を助成することにする。突飛なようにみえるが、実は厚生労働省が現在沖縄県で実施している若年者雇用助成制度は同様の助成を既に行っている。これを基地跡地に適用すればよい。いずれも制度や仕組みの改善があれば実現可能なものばかりだ。
 沖縄国際大学の富川盛武教授は沖縄本島中南部の基地返還に伴う県経済の損失を713億円、1,3000人の雇用に影響すると試算した。海兵隊員のグアム移転に伴う消費支出の減や軍用地料の減などだけではなく、二次的な波及効果も含めた数字だ。返還から跡地の利用が本格化するまでは間があり、確かに返還直後は損失が発生するだろう。だが、繰り返しになるが、跡地利用が本格化すれば経済効果が損失をはるかに上回るのは確実だ。沖縄本島中南部はほぼ東京23区に匹敵する面積で、110万人が住む。市街地は連担しており、ほぼ1つの都市圏と考えてよい。ここに立地条件の良い1000ヘクタールもの土地が白地で返ってくる。先進国では異例の事態だ。これを経済拡大に使わない手はない。
 先に挙げたような対策で跡地利用の空白期間をできる限り短くしたり、雇用喪失を抑えたりすると同時に、域外所得を拡大する工夫があれば、長い目でみると基地返還は損失どころか大きな効果が期待できる。人権の面だけでなく、経済の面からみても基地撤去は必要な政策と言える。

(『世界』2008年10月号)

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