備  前  法  華  の  系  譜

備前法華の系譜

備前法華の系譜

日蓮の正系

日蓮宗の宗規
不受不施は日蓮宗の古来からの宗規である。
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
寛正2年(1461)京都の法華諸門流は共同して謗法の社寺参詣、謗法供養の二項につき、いわゆる「寛正の盟約」を結ぶ。
 (盟約の1項に「謗法の社寺への参拝禁止と謗法不受を守ること」とある。)
明応元年(1492)足利義稙が不受不施の制法を許可する折紙を下す。
元亀3年(1572)には足利義昭が、天正5年(1577)には織田信長が、天正17年(1589)には豊臣秀吉が同じ趣旨の折紙を下す。

日蓮
2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
日蓮:
 日蓮は法華経をどのように人々に提示したか。それは日蓮が法華経の中から、何よりも、実践を重く見て、それを抜き出したことであろう。
日蓮によれば、人間はまず前生で正法(法華経)を誹謗した者であり、あるいは他人の正法誹謗の罪を放置した者である。前生で犯したこの罪を強く意識する者のことを、日蓮は「法華経の行者」と呼んでいる。
罪を意識する存在−法華経の行者にとって、その自由とは固定静止したところに求められるのではない。逆に、法華経の行者であろうとすることを妨げる世間の誘惑や障害に対し、それを退けることのできる「ちから」なのだ。この「ちから」を絶えず保っており、保っていることを自他ともに確かめられる具体的な規律と心がまえ、それが不受不施ということであった。

 法華経−この膨大な法華経、日蓮は実践者−法華経の行者−というただ一つの観点から、法華経を「我もの」としていったのではないか。
「従地湧出品第15」では上行菩薩を始めとする無数の地湧菩薩が大地から出現する。
日蓮が自分と法華経を固く結びつけたのは、この地涌の菩薩たちに自分をなぞらえるというやり方であった。法華経の地涌の菩薩が出現してくる場面は日蓮とその多くの正系の弟子たちの受難をまことによく暗示している。
 日蓮が自分を上行菩薩になぞらえたのは、日蓮のよって立つ、時代の情況を鑑みると、それは至極当然であった。
そして、地涌の菩薩になぞらえられる法華経の行者、その資格を成立させる条件とはなにか、それが不受不施ということ、つまり正法(法華経)を誹謗するものに与せず、しかも謗法の罪をみても放置しないことである。
日蓮が主として示したのは対権力者との関係の際にはっきりと表れてくる。
--- 「忘れられた殉教者」終---

2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
《日蓮聖人の不受不施》
 日蓮法華宗における「不受不施」の教義は、日蓮聖人の守護国家論・立正安国論に説かれる留施、止施、不施に依っている。
不受は他宗の信徒や未信徒は謗法者であるため、これらの人々の供養、施物は受けない。不施は信徒の立場で言えば他宗謗法の僧に布施供養をしない事である。
立正安国論に
「釈迦の以前の仏教は其の(謗法)罪を斬るといえども、能仁の以後の経説は即ち其の施を止む」(止施)
  ※能仁とは釈尊のこと
「所詮、国土泰平天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり。楽(ねが)う所なり。早く一闡提の施を止め……」(止施)と、不施思想が見られる。
  ※一闡提(いっせんだい):本来解脱の因を欠き、到底成仏できないものをいう。
  ※不受不施とは、末法の世においては、折伏を第一とする祖師の行跡に従うものであるが、祖師の「立正安国論」では、折伏の手段として謗法の施を否定する
  理論的根拠は「涅槃経」にを求める。
   その根拠とした涅槃経の数句の要約(大意)は次の通りである。
  一闡提(いつせんだん・極悪人)を除いて、その他一切に施すならば皆賛嘆してよい。一闡提とは麤悪(そあく)の言を以って正法を罵り、永く改悔の心を持たぬものを云う。
それは、不受不施思想により、法華信仰を守る根本理念である。
 不受不施は大別すると、神社参拝の禁止(社参禁止)と謗法供養の禁止の二つがある。
天照・八幡をはじめ日本の神祇は久遠本仏の垂迹であるから、社参は差支えないが、その殆どが天台・真言僧に祭祀されている。
密教化した天台や真言では、正法の法味を嘗めず威力を失った諸神は「神天上」し、社殿には祭神不在である。善神は国を捨て、聖人所を辞している社参は無益である。
社殿に供物を献上することは、謗法の社僧に布施することとなり謗施である。
信仰の純粋性から社参を禁止したのである。
日像上人
 日像は三度京の都を追放され、三回赦(ゆる)された「三黜三赦」の法難のあと、後醍醐天皇が帰依し「法華宗の公許」が公認され、日蓮教団が独立する。
元亨元年(1321)12月8日、後醍醐天皇より寺地を皇居御溝傍に拝領、妙顕寺が創建され、日蓮聖人滅後、40年にして「日蓮法華宗」が誕生する。
《公武(王侯)除外の不受不施》
 元弘3年(1333)三月には、後醍醐天皇の還幸を祈り、その賞として尾張、備中に三ヶ所の地を賜う。
建武の新政になり建武元年(1334)4月、四海唱導の「綸旨」が下賜され、勅願所となり、同3年には将軍足利尊氏の祈願所となる。
日像の弟子大覚大僧正妙実は、延文3年(1358)祈雨の効験により朝廷(後光厳天皇)から日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像師に菩薩号の宣下を受け、自身は大僧正に任ぜられる。
 このように日蓮教団初期は、朝廷より寺領、祈願所、僧位を受けることは不受不施の対象に考えられてはいなかった。
朝廷や幕府の公武からの布施は謗施と理解されていない。「公武(王侯)除外の不受不施」と言われる。
 妙龍院日静は足利尊氏の外護を得て、京都六条堀川に鎌倉松葉ヶ谷の庵を移し本圀寺を建立する。
これも王侯除外の不受不施である。
《正当不受不施義》
 しかし、皇室の勅願寺、将軍の祈願所となると、どうしても権威・権力側に阿る様になり、折伏精神が薄れ、摂受主義に片向く。
このような摂受主義の風潮に憤激した僧がいる。龍華院日実(1318-78)、明珠院日成(-1415)の兄弟である。
永和4年(1378)日實・日成は小野妙覚の外護のもと京都・妙覚寺を建て独立し、「妙覚寺式目九条」(応永20年/1413)を制定し、社参を謗供厳禁、強義折伏を主張し宗門に新風を送る。
 そののち、久遠成院日親(応永14年(1407) - 長享2年(1488))は正当不受不施を主義し、「王侯除外」を更に純粋化し、諸山の寺領、祈願所は施主の信不によるものとし、王侯除外制を脱却する方向に醸成せしめる。
公武(朝廷・将軍等)の行う祈願・供養会には不出仕の免除を請う−不受不施の公許−の折紙を得る。明応元年(1492)6月、将軍足利義稙代の「本国寺広布録」にその記録が収められている。
室町中期には正当不受不施義が確立されたと考えられる。
---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終---


備前備中備後の日蓮宗
○日像菩薩、鎌倉末期・南北朝初期にかけて、関東から都(京都)への布教の先駆を果たす。
 →日像菩薩略伝
○都のさらに西の三備(備前備中備後)等への弘通は日像の弟子・四条妙顯寺2世大覚大僧正の巡錫がその端緒を開いたものである。その時代は鎌倉末期から南北朝期のことである。
 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院
大覚大僧正は牛窓の武将石原氏、金川の武将松田氏を教化し、彼らは封建権力にかけて強力に日蓮宗の布教を援助する。
特に松田氏は備前の西部を押えた武将であるだけに、その強信と相まって、備前地方に大きな影響を及ぼし、後に備前法華といわれる信仰圏内を形成する力となる。
  →備前金川妙国寺:京都妙覚寺末金川妙國寺は備前法華の最大の本山であった。
   ※多くの日蓮宗寺院が建立あるいは他宗からの転宗があるが、就中、金川妙國寺が備前法華の中心的位置を占める。
   妙國寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となり、妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに四大本寺の一つと称される。
また、備中では野山の伊達氏、岡山南部の多田氏が有力な外護者であり、多田氏の場合はその子孫能勢氏に引き継がれる。
 →備中野山妙本寺備前二日市妙勝寺摂津能勢法華
  2019/07/28追加:
  ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
  日蓮の死後、そして日親の没後百年後に日奥が現れるが、その間、謗法者折伏・国主諌暁と云う法華宗の基本を絶やさずにつないだのは日親の功績であった。
    →日親上人
     ※日親について備前備中には稀にその石塔を見かける程度であるが、備後(特に山田)には若干の足跡が残る。
  --- 「忘れられた殉教者」終---
○安土桃山期から江戸初頭には京都妙覚寺の日奥がさらに強烈な宗風を吹き込み、日奥の説く宗義は日蓮の教えとして備前法華の中に浸透していく。
 →日奥上人略伝

2018/11/27追加:
【備前法華の由来】------Start
○「岡山市史 巻2」昭和11年 の 第73章「備前法華の由来」沼田頼輔、明治41年 より
 備前法華は宗教界の套語となっているが、統計上からは、備前の日蓮宗は天台真言の二宗に次ぎて、第三位であるから、備前法華はその實を失っている。現在ではその實を失うも、無論、この套語は、この宗旨が最も隆盛を極め一国を挙げて殆どこの宗旨に帰せしめたということから起こったことには相違ないのである。
ではなぜ、この宗旨が備前において隆盛を極めたかと云えば、その主原因は備前の諸大名が歴代熱心なる信仰者であったということである。
 であるから、次に、日蓮宗が備前に伝来し、如何なる経緯を辿って、盛衰したかを記することとする。
備前に於ける日蓮宗伝播の嚆矢は日像であった。
元徳2年(1330)備中青ク吉次が化を受けて日像本尊を賜う、とある。
正慶2年(1333)備前の人に日像大曼荼羅を与ふ、とある。(いずれも「龍華年譜」)
この日像の大曼荼羅は城下蓮昌寺に今に伝わる。
  →日像菩薩略伝
  ※備前蓮昌寺蔵日像大曼荼羅:
   蓮昌寺においてはこの日像大曼荼羅が最も重要な本尊とされているという。
   この本尊の由来については、「蓮昌寺史」第二章「蓮昌寺の本尊」の章(P.47-56)で各種の縁起や記録の掲載がある。
   各種の霊験譚を除けば、次のような経緯で蓮昌寺に格護されたようである。
   大曼荼羅は日像の真筆で信徒に授与され、後に津島妙善寺に治められる。
   寛文6年妙善寺追放され大曼荼羅は岡山城に収納される。
   延宝7年(1679)妙善寺の本寺である京都妙覚寺より使僧が来て、妙覚寺に下付を申し入れ、
   寺社奉行は妙覚寺使僧に之を交付する。
   然るに之を伝聞した蓮昌寺の檀信徒は憤慨し、騒乱に気配もあり、藩も妙覚寺使僧もそれを鑑み、
   大曼荼羅に厳封の上、蓮昌寺に保管せしむ。
   正徳元年(1711)蓮昌寺什宝とすべき藩命ありて、遂に蓮昌寺宝物となる。
 今日でも備前備中では至る所の村落に大覺大僧正と題目を刻する石塔が建てられている。まさに、この大覚大僧正(妙實)こそが、特に、備前に日蓮宗を弘めた人物なのである。 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院
 建武年中、大覚大僧正備前に来たり、濱野の多田入道を勧めて、松壽寺を開山、さらに大覚大僧正自筆の題目石4基(備前益原法泉寺・備前西辛川妙蓮寺・備前曹源寺寺中大光院・備中軽部大覚寺)を残す。また信者の間には大覚大僧正自筆の曼荼羅が多く残る。なお、これらの年紀は暦応(1338-42)・康永(1342-45)のものが多い。
 次に、多田入道に次いで勢力のある信者となったのが松田氏であった。
大覚大僧正は備前伊福真言宗福輪寺(後の妙善寺)を改宗させ、次に松田氏を薦めて改宗させる。
その後松田氏は代々日蓮宗を信奉し保護し、また自ら弘教していくこととなる。
岡山城下蓮昌寺、金川城中の道林寺、金川城下妙國寺などは皆松田氏の創建に与るものである。
特に、金川妙國寺は備前に於ける日蓮宗本山の如き勢いを有し、天正11年の妙國寺本末定判記に拠ると、備作2州に於いて120余ヶ寺の末寺を有することが記されている。
ただ松田氏末期になると、兵力に訴えて、謗法者を迫害するにいたり、領内の寺院に改宗を迫るなどし、兵備を疎かにする傾向となる。
そのため、ついに、永禄11年(1568)宇喜多直家によって、金川城が落城し、13代に渡り続いた松田氏は滅亡することとなる。
  → 備前金川妙國寺
 かくして、備前は宇喜多氏の治めるところとなるが、直家自身は日蓮宗の信者ではなかったが、その同族・家臣の多くが信者であった。
直家室阿鮮夫人は熱烈な信者であることで知られ、臣下の多くも日蓮宗の信者であった。
例えば、美作福渡妙福寺は、宇喜多氏家臣沼本与太郎久家・日笠次郎兵衛頼房が京都妙覚寺日典の弟子日存に帰依し、天正元年(1573)日存を開山として建立する(「作陽誌」)。
また、直家の弟土佐守忠家も熱心な信徒であり、宇喜多河内入道は家臣であったが、宇喜多氏より宇喜多の姓を賜り、その子もまた日蓮宗を信じ、金川妙國寺住持となり、妙國寺9世日欣というはこれである。
 尤も直家自体は日蓮宗のみに固執したのではなかったが、その臣下の中には切支丹の信者も少なくなかったのである。
明石掃部、長船紀伊、中村二郎兵衛、浮田太郎右衛門などはこの宗旨に属し、けれどもその老臣には、戸川肥後守、浮田左京亮、岡越前守、花房志摩守の如き熱心な日蓮宗徒がいたのである。
次代の宇喜多秀家の時、日蓮宗徒の四家老は備前を退去する騒動が起ったのであるが、勿論家臣の権力闘争ではあったが、根底には切支丹と日蓮宗との宗派争いの側面もあったのである。
 宇喜多秀家は関ヶ原の戦で敗れ、備前は小早川秀秋の所領となる。
秀秋は僅か1年有余であったが、熱心な日蓮宗の信者で、六条本圀寺の日ワ辮lに帰依し、日モフために嵯峨常寂光寺の伽藍整備に寄進を行う。備前では蓮昌寺を修理する。若年で没するが、墓前には日蓮宗本行寺が建立される。
 秀秋が備前に封ぜられたと同事に、宇喜多氏の旧臣であった(備前を退去した)花房氏及び戸川氏も東軍に加わった功によって、何れも封を備中の南部に受けたのである。この二氏は何れも日蓮宗の信者であったので、日蓮宗はこの二氏の力を借り、備中南部に弘通せられたのである。
花房氏は領内の不帰依の寺院・人民に改宗を勧め、悉くの寺院を日蓮宗に改宗せしめた。
 ※花房氏については備中高松近辺諸寺を参照。
 ※備中高松星友寺、備中高松妙玄寺、備中和井元妙立寺、備中加茂蓮休寺、備中津寺宗蓮寺、備中山地受法寺、
  備中日畑浄安寺など参照。
戸川氏も領内の改宗に力を用いる。特に達安(池上本門寺永壽院開基)は改宗を強要し、従わざるものは土地を退去せしめたという。殊に備中妹尾は「妹尾千軒皆法華」という諺が生じた地である。
 ※戸川氏については庭瀬藩戸川家系図を参照:戸川氏は撫川(本家)、妹尾、早島、帯江、中島と分家する。
 ※撫川戸川氏は備中庭瀬近辺諸寺、妹尾戸川氏は備中妹尾、早島戸川氏は備中早島、帯江戸川氏は備中羽島村を参照。
かくして、花房・戸川両氏の日蓮宗信仰の結果、両氏の領土であった吉備郡南部や都窪郡には今も日蓮宗の信者が多い。

 以上のように、中世後期・近世初期、備前では日蓮宗が全盛であったが、それ故か、名僧知識が輩出する。
以下にそれを紹介する。
日現
天文の頃、池上本門寺及び京都本行寺の住持となる。備前より出で、碩徳の聞えが高かったが、その郷土は明らかでない。
 ※池上本門寺歴代によれば、11世、佛壽院(現海)日現 永禄4年(1561)66歳寂、妙法房・但馬房とも。
 ※京都本行寺とは不明。
日典
備前宇垣村の人である。日奥の師。 → 日典上人
日存
壽福院、日典の弟子、美作福渡妙福寺開山。
日惺
備前邑久郡福岡生まれ、日典に学ぶ。
天正9年、32歳で比企谷妙本寺住持、池上本門寺住持(12世)となる。
天正18年秀吉東征の時、家康の為戦勝を祈り、後家康が江戸に入部に及んで、日惺の為に朗惺・善國・蓮久・正覚・蓮長の五ヶ寺を江戸市中に与える。
佛乗院、慶長3(1598)年寂49歳。
日奥対馬から妙覚寺に帰った時、不受派と受派との調停を試みる。
日全
北陸に遊化し、越中高岡・越中富山・加賀金澤に何れも妙國寺を建立する。身命院。寛永元年寂。
日衍
北陸に巡錫して、越前脇本妙泰寺を開山する。慶長16年寂。
 ※但し「日蓮宗寺院大鑑」では8世とする。また妙泰寺開山は日像、開基は妙文とする。
北陸への弘教は日全と上記の日衍(にちえん)の二僧の力によるものである。
なお、この頃
文禄4年の東山大仏供養の出仕をめぐり、日蓮宗の中に受派と不受派との別を生じ、所謂備前法華も一大頓挫を生ずることとなる。
本ページなどで述べるところである。
日習
事跡の言及なし。
 ※日奧弟子、日講の師。
日紹
備前金川の出、下総飯塚檀林で学び、備前蓮昌寺住持(19世)、四条妙顯寺12世となる。
慶長4年四条妙顯寺日紹と堺妙國寺(中山法華経寺兼務)日統らと連署して不受派を上訴する。五奉行の一人である家康は日奥と日紹らとを大坂城に召し対論をせしめる。(大阪城対論)
勿論、日紹も大変な碩学であったが、不幸にも日奥を弾劾する側に立ったのである。
慶長17年日奥赦免、元和元年再び妙覚寺に入寺、不受不施を堅固する立場は一層堅固となる。まず根拠を固めんがため、備前を巡錫する。
その後、日奥は再び京都に帰るが、その頃受派も先非を悔う態度もあったので、両派を調停するものが現れる。
最初の調停は池上本門寺日惺である。
次いで、日忠である。
日忠
唯心院と号す。
備前の人である。歳19の時、父の仇を報ぜんが為、関東に下り、剣を学ぶも、日吏の戒を受けて発心し、出家する。黒田長政の尊信を受けて、筑前博多に居た時、日奥は対馬よりの帰途、日忠の寺に宿したので、日奥と面識となる。日忠は岡山蓮昌寺で日紹と面識があったので、そこで日忠は日紹を説くに、両派調停のことを以ってする。日紹は調停を受け入れ、受派諸寺を代表して、妙覚寺に至り、日奥に謁して、両派の和合を結ぶに至る。
しかし、再び死灰再燃したのである。即ち、寛永3年将軍秀忠室崇源院の喪あるに当たり、池上本門寺日樹が法施を受けなかったことから、再び池上と身延の間に争論が起ったのである。池上本門寺住持は日樹であった。
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 日忠は日奥の師日典と同様、備前の生まれで、俗性を斎藤氏と称し武勇の家に人となる。
19歳の時父の敵を討たんため関東に下向し公法を学ぶも、出家学道こそ真の孝養にあたると悟り仏門に入る。
後博多に行き、慶長8年(1603)切支丹と宗論し、之を破り、国主黒田長政から一寺を受け、問答山勝立寺とする。
 元和2年(1616)博多の唯心院日忠の調停によって、大坂対論で破断した、受・不両派の和睦が成立する。
日忠の調停の前、池上日惺上洛し調停するも不調、次いで関白秀次の母瑞龍院、和睦に手を尽くすも不調であった。
ここで、博多の日忠が上洛し、四条妙顕寺に出入し、妙顕寺日紹に連々諌暁し、遂に日紹は改悔を為す。
日紹は妙覚寺に来臨し、両者に和睦が成立する。
日奥は対馬からの帰還中、両3日博多の勝立寺に滞在したという。要するに親しかったのであろう。
さらに、大坂対論の一方の当事者である妙顯寺日紹もまた備前の人で、三者とも備前に縁があり、そのような関係から、日忠が和睦の調停をすることは有るうることであろう。
日樹
備中浅口郡黒崎の産である。
  → 日樹上人略伝  日樹上人伝
日浣
美作久米郡弓削の人である。(久米郡南町の武家の家に生まれる。)
津山顯性寺住職から玉造蓮華寺住持(5世)となる。寛文の法難で、下総野呂妙興寺住持日講らとともに流罪となり、肥後人吉に流される。(当時51歳)
今弓削村に日浣の供養塔がある。
日航
事跡の言及なし。
 ※金川妙國寺10世、慶安元年(1648)妙國寺を修理、その後金川を去って相模衣笠大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没する。
日船
事跡の言及なし。
 → 本寿院日船上人  → 正之氏サイト(拙サイトに組入) 本寿院日船聖人の350遠忌に思う。
  ※岡山蓮昌寺23世、妙覚寺日奥亡き後、妙覚寺に住すると思われる。しかし、妙覚寺を追われ、故郷美作福渡に帰り、そこで寂する。

 寛文年中、岡山に入部した池田光政は不受不施宗門を壊滅させる。
岡山藩における日蓮宗寺院397ヶ寺中、実に348ヶ寺が破却され、残寺は僅かに49ヶ寺のみとなる。
日蓮宗に於いては、破却され、還俗・退去・追放された僧侶は全て不受不施の寺院・僧侶であった。
松田氏建立の蓮昌寺、妙善寺、道林寺、妙國寺は備前の四大寺であった。中でも妙國・妙善の2寺は備作の覇権を握っていたが、廃絶を逃れることは出来なかった。それだけではなく、大小幾多の末寺・寺中も運命を共にしたので、備前法華は表向きは壊滅したこととなる。
「備前法華の由来」-------END

2018/12/23追加:
日蓮宗不受不施派
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
備前法華と京都妙覚寺
近世初頭の備前・美作・備中に於ける日蓮宗寺院の状況は「寛永年度日蓮宗末寺帳」(内閣文庫所蔵)で分かる。
 ◇「寛永年度日蓮宗末寺帳」による日蓮宗本山別の国別末寺数
本 山 四条妙顕寺 京都妙覚寺 京都本能寺 京都妙満寺 京都本禅寺 六条本圀寺 合   計
備 前 3 21 3 2 2 4 35
備 中 33 4 1 0 0 0 38
美 作 0 8 0 1 0 0 9
日像門流四条妙顕寺は備中を基盤にし、同じく日像門流京都妙覚寺は備前・美作を基盤にしていると、はっきりと二分されているのが分かる。
 さらに、妙覚寺について特徴的なのは、次の「寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布」に示されるように、妙覚寺末寺の1/5は備前にあり、美作・備中を合わせると実に1/3が備前・美作・備中にあることが分かる。備前は京都妙覚寺の有力な勢力基盤であり、備前信徒と妙覚寺の深い繋がりを物語る。
 ◇寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布
山城 大和 攝津 和泉 丹波 因幡 石見 播磨 紀伊 安房 能登 尾張 美濃 越前
8 2 4 3 1 2 2 2 5 1 1 1 1 3
越中 越後 佐渡 安芸 周防 長門 阿波 讃岐 筑前 対馬 美作 備中 備前
2 9 9 3 2 1 1 2 1 1 8 4 21  
 近世初頭つまり全国統一政権ができた頃、宗教と政治とはどのように関わるかが問われる局面が出てくる。このような京都妙覚寺19世日奥は謗法供養を厳しく禁ずる不受不施を唱える。
 不受不施とは信仰心のない者(謗法者)からの布施は受けず、また神社・他宗の寺院には参詣しないというもので、日蓮宗の古来よりの宗規である。それは、宗教の純粋性と自立性を守るための規範であり、唯一最高の教え法華経が絶対的権威(仏法)を持つ。
そのため、世俗的権威(当時であれば秀吉や家康の政治的権威)の絶対性を容認できず、当然全国統一政権ができたときには、それと対立する宿命であった。
 京都妙覚寺日奥は方広寺の千僧供養に出仕せず、その結果妙覚寺を追われ、その後慶長4年、家康と対峙し、家康によって対馬流罪とされる。
 以上のように絶対的権力を持つ君主に決して妥協せず、日蓮宗の宗規を守ろうとした日奥を支援したのが備前の信徒であった。
備前の有力信徒には楢村監物・角南恕慶・戸川逵安等がいた。彼らはもと宇喜多秀家の重臣であり在地の土豪でもあった。しかし真に日奥を支えたのは彼らのもとに広範に存在する一般信徒であった。それはそれ以降の備前の不受不施派民衆の根強い抵抗の歴史を見ればあきらかであろう。
 例えば、慶長4年(1599)岡山蓮昌寺大堂の建立に際し、巨大な大堂が1年に満たない期間で落成したのは一般信徒の熱烈な支援と勤労があったからであろう。
備前とは不受不施派京都妙覚寺の最大勢力基盤であったのである、この意味で「備前法華」とは「不受不施派法華」ともいえたのである。
---「岡山県史 第6巻 近世1」終---

2019/07/17追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
日蓮宗不受不施派
・教義と制法
 大覺に次いで、備前において日蓮宗の弘教に努めた日實が、帰京後妙顕寺から離れて妙覚寺を創建すると、備前の日蓮宗寺院も妙顕寺を離れて妙覚寺の末寺となる。
備前の日蓮宗はほぼ全て妙覚寺の門流で占められ、その有力な勢力基盤となる。そして中世後期に不受不施の教義を明確に打ち出したのはこの京都妙覚寺であった。
 應永20年(1413)6月13日付けの妙覚寺門流法式「法華宗異体同心法度之事」(万代亀鏡録)は全9ヶ条からなるが、謗法(他宗)の社寺への不拝・不参、謗法への布施と供養の停止、謗法からの布施物拒否の3ヶ条を骨子とするものである。
しかも、この不受不施の諸制戒は一家族中から一族一門の法華信仰を強く要求するもので、血縁地縁を辿り、一集落から一村皆法華という強固な法華集団が各地に形成されるようになっていった。
 近世初頭、この妙覚寺に佛性院日奥が現れる。日奥は不受不施の制法を理論的に大成し、一つの組織に纏めあげ、後に日蓮宗不受不施派の始祖とされる。
不受不施制法の基本は、謗法の神仏不拝・不受不施の行儀・他宗への折伏の三つといわれていて、この三者は密接不可分、表裏一体のものであった。しかし、この三者自体は一つの信仰形態であり、それ自体が江戸幕府の宗教政策の根幹を脅かすものではなかったかも知れない。
 日奥は「この世界において二主なし、本主はただこれ釈迦一佛なり」(守護正義論)、また「いわんや小国の王臣、誰人か教主釈尊を背いてこの土地を横領せんや、三界はみな佛國なり、咫尺(しせき・わづかな)の地も他の有にあらず」(守護正義論)と説いて、封建領主の領有権は「本主(釈迦)」に対する「仮主」としての領有権に過ぎないという理念を主張した。
 さらに「釈尊の国に住してその土毛(どもう・農産物)を喰(は)む、何の咎あらんや」(守護正義論)と説いて、彼ら(釈尊の国に住する)の生存は現実の領主には何ら負うべきものはないとも受け取れる論を展開する。謗法の国主の領内では、不受不施派の信者集団が、時として年貢を納めないことがあり、備前を始め全国の不受不施派が盛行した地域で「未進法華(みしん)」という呼称が生まれたのはこのような理由からであった。
 ※未進:年貢・公事・夫役などを納めないこと。
・不受不施派の禁制
 文禄4年(1595)豊臣秀吉、方広寺大仏を建立、千僧供養会を行う。法華宗は出仕をめぐり、不受不施と受不施とで対立、妙覚寺日奥は不受不施を堅守して、妙覚寺を出寺、丹波に隠匿、更に強くその説を主張続ける。
 慶長4年(1599)出仕派妙顕寺龍華院日紹らは日奥を「上意に背き、公儀を軽んず」と訴え、不受不施対受不施の大坂城での対論が画策される。幕府の意向に屈しない日奥は負けと判定され、袈裟衣を剥がれ念珠を奪われる処分をうけ、対馬に流罪となる。
 慶長17年(1612)日奥は赦免、再び不受不施は勢力を取り戻し、受不施身延山への信者の参詣を停止する。
 寛永7年(1630)江戸城にて不受不施派池上本門寺と受不施派身延山との対論が行われる。あらかじめ仕組まれた対論で、予定通り池上日樹らは破れ、日樹ら関係者は流罪となる。この年日奥は既に寂していたが、死後の対馬流罪となる。京都妙覚寺と池上本門寺は受派に与えられ、身延山に接取される。
 寛永9年(1632)幕府は本山に末寺書上げを命じ、本山の末寺把握を法制化する。
この法令によって翌年作成された「寛永年度日蓮宗末寺帳」によれば、妙覚寺は100ヶ寺の末寺をもつが、備前・備中・美作の末寺は33ヶ寺で、特に備前は21ヶ寺で、備前が有力地盤であったことが裏付けられる。
  ※上に掲載する「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】>備前法華と京都妙覚寺」の通り。
また、この末寺帳には100ヶ寺の内93ヶ寺が違背(不参)と記されていて、備前・備中・美作の33ヶ寺は全て違背となっている。つまり3年前妙覚寺は身延山に接取されるも不受不施の信仰は堅固されていることが分かる。
  ※上に掲載する「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】>身池対論と末寺の抵抗」の通り。
 寛永12年(1635)幕府は寺社奉行を設置し、寺社奉行―本山ー末寺の支配強化を図る。
 寛文元年(1661)幕府は日蓮宗に対し、本山に違背する末寺は本山に従うように命ずるともに、従わない僧侶は出寺するように命ずる。
 寛文4年(1664)切支丹禁圧のため、宗門改めの役所の設置が定められ、宗門改めが全国で実施される。
 寛文4年〜5年、幕府は寺社領安堵の朱印状を交付し、寺社側から手形(書物)の提出を求める。この時不受不施派では、寺領安堵は世間一般の仁恩の施(恩田供養)であるとして手形の提出を拒否する。当然謗法からの布施を受ける訳にはいかない。
一方、不受不施派の一部は、将軍からの慈悲の施(非田供養)と解釈して手形をでした寺院(一派)もあった。手形を出した(書物をした)寺院は非田不受不施派として存続を許され、手形の提出を拒否した不受不施派(恩田派)は全て寺を失うこととなる。
 寛文5年(1665)日蓮宗に対する「寺院法度」が制定され、本山の末寺支配が強化され、また在家での布教活動が一切禁止され、寺を失った不受不施派は合法的な手段での布教活動はできなくなる。
 寛文6年(1666)岡山藩主池田光政は神社撲滅、寺院淘汰、宗門改めの神職請けなどの政策を推進する。
この寺院整理で不受不施派は集中的に弾圧される。結果、不受不施派の寺院333ヶ寺が廃寺とされ、847人の不受不施派僧侶が追放される。
不受不施派333ヶ寺の廃寺の内、津高郡は120ヶ寺、御野郡は67ヶ寺、磐梨郡は37ヶ寺に及ぶ。
なお特異な「神職請け」は光政の次の綱政の時代には寺請けに改まられる。
因みに、蓮昌寺日登は、妙覚寺から不受不施派僧侶の追放を命ずる書状が届くと、岡山藩に妙善寺日精・蓮昌寺先住日相・石井寺・妙興寺の追放を願い出、岡山藩は日精・日相などを追放処分とする。
 元禄4年(1691)度重なる受派からの訴状を受け、幕府は悲田派を禁制とする。ついに不受不施派は全く禁教となる。
---「京山物語」終---

2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
 「(不受不施派)の人々は、自己の信念が固まって、ゆるぎないものに覚えてくると、この宗派を認めない幕府に向かって抗議の行動をとっているのだ。それは当然に、死や遠島を意味する。その前には連類者を探すための猛烈な拷問もあるであろう。その全てを覚悟しての抗議行動であった。単身、江戸へ出て寺社奉行に訴え出るのである。
 切支丹のようにただ隠れて、その信仰を持ち続けたという以上のものがここにはある。」
 だとすれば、これは尋常ではない。
彼らを駆り立て、彼らを支えたものは一体何なのであろうか。
彼らの強い信念・尋常ならざる事態が予測されるにも関わらず突き進む精神の強さはどこから来るのであろうか。
県民性といったものは説明にはならない。
備前に日蓮宗が入り、備前法華と云われるようになったのであるが、「日蓮宗がこの地方(岡山)の人々を精神的に鍛えあげたのだ。日蓮と云う宗祖が強烈な精神を持ち、そしてその信仰が妥協を許さぬ性質のものであったということは、この宗旨に集まる人々をそのように教化したいった。」ということではないか。

 不受不施は幕府によって禁制とされた。その結果、多くの僧侶や信者が地下に潜って活動した。しかし、発見された僧、断固として公儀に盾突いた僧の多くは刑死や牢死の非命に落ちたが、伊豆や佐渡の島々に流された僧も多かった。正確な数は分からないが、流罪に処された僧は、およそ180人と云う。
--- 「忘れられた殉教者」終---


受不施派の出現

日蓮宗に於いて異端である受不施派が派生する。
それは日蓮宗あるいは仏教全般の堕落であった。そこには人間のあるいは組織の「本性」といったものが横たわるのであろう。

   →仏性院日奥

2023/05/08追加:
概  略

◇文禄4年(1595)豊臣秀吉、方広寺に於いて大政所の千僧供養、日蓮宗にも出仕を命ずる。日蓮宗は受不施派と不受不施派に分裂、日奥は妙覚寺を出寺する。

◇慶長4年(1599)徳川家康、大阪城での両派の「大阪城対論」を命じ、不受不施を曲げない日奥を対馬配流とする。

◇慶長17年(1612)日奥は赦免、京都に帰還し、表面では両派は和睦する。不受不施派の勢力が関東諸山・諸檀林で伸長し、受派を圧倒する勢いとなる。

◇寛永7年(1630)受派身延の訴えにより幕府は江戸城に於ける「身池対論」を命じ、池上日樹ら前六聖人などが配流、既に寂していた日奥も死後配流となる。自害に及ぶ僧侶も多数出る。受派(身延)は諸大寺を接取するも、門末寺院・信徒の離反が相次ぎ、身延は宗門の全体を掌握できず。

◇寛文5年(1664)身延の画策により、幕府は寺領は国主の供養であるとし、その朱印受領の書付(手形)の提出を命ず。

◇寛文6年(1665)さらに飲水行路も将軍よりの供養であるとして、印受領の書付(手形)の提出を命ず。手形を拒否した野呂檀林日請ら後六聖人などが追放され、その他多数の犠牲者を出す。

◇寛文9年(1669)書付(手形)を拒否した寺院の寺請が禁制とされ、これで不受不施派は非合法となり、地下に潜る。
一方、寛文5年の手形提出の命に対し、不受派の小湊・碑文谷・谷中などは寺領は慈悲(悲田)として手形を提出する。これは不受派は勿論受派からも軽蔑をされる。

◇元禄4年(1691)再び身延の上訴によって、悲田派禁制が出され、大部は身延の末寺となり、受不施に転ずる。かくして悲田派も邪宗門とされ、潰えることとなる。


2019/07/15追加:
〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より
補注:不受不施派の成立
 文禄4年(1595)豊臣秀吉方広寺大仏千僧供養に法華宗の出仕を命ずる。謗法者秀吉への命に妥協するか拒否するか老僧と日奥との間で衝突が起こり、権力に屈した出仕派に対し、日奥は出仕を拒み、妙覚寺を出寺する。不受不施は日蓮宗の古来からの宗規であったのである。
 秀吉の没後、千僧供養は家康が引き継ぐ。
 慶長4年(1599)出仕を続ける京都の長老と日奥との対立は続き、日奥らを論破できない長老たちは日奥を家康に訴えでる。家康はこれを取り上げ、大阪城にて受派と不受派の対論を取り行う。対論で日奥は権力に屈することなく、家康の譲歩案をも拒否し出仕を拒否したので、袈裟をはぎ取られ対馬に配流される。
 慶長12年(1607)、日奥の処分のあと、不受不施派では妙満寺日経の活動が目立ち、浄土宗増上寺が対論を買ってでたので、日経を江戸に呼び出し、浄土宗との対論を命ずる。対論の前夜、日経は幕府の陰謀であろうか襲撃され、瀕死の状態で登城する。日経は一言も発することができず、負けを宣言され、日経及びその弟子は京都六条河原で「刵劓刑」に処せられ追放される。家康の権力に恐れ入らない者に対する対論に名を借りた弾圧であることは言うまでもない。
 寛永7年(1630)不受不施派は特に関東で勢いを増し、劣勢の身延派(受派)は幕府の訴え続け、江戸にて池上(不受不施)と身延(受不施)の対論が仕組まれる。この時の対論では、議論では勝ち目のない身延側が予想通り勝ち、池上方は「公儀違背、上意の背くもの」との判決が出て、池上方の関係者は追放され、既に歿していた日奥も対馬流罪となる。池上本門寺・京都妙覚寺は身延方に摂取される。
 しかし、身延方は本寺は手にいれたものの、末寺違背は相次ぎ、実質的に得るものはなかった。それ故、執拗に不受不施派を追い落とすための手を打つ。
 寛文5年(1665)公儀(幕府)から寺領を持つ諸宗の寺に対して、地子(地代)・寺領は公儀からの「供養」である、その供養を確かに受け取ったという手形(書物)の提出を命ずる。「流水、井戸水、行路(街道)はみな謗法者である国主の所有であるから、謗法を拒絶するなら、飲むな歩くな」という訳で、この布達は「土木供養令」と呼ばれる。野呂檀林の日講は幕府に抗弁するも、手形(書物)拒否した諸師は流罪となる。勿論この弾圧は幕府の宗教政策上のものであったが、裏では身延側が幕府の力で不受不施派を壊滅させようとした妄動があったことはいうまでもない。
 この漢文の法難によって、寺領が没収されて不受不施派は表面上は壊滅、その上宗門改めで厳しい僉議を受け、信者は発見次第捕縛され厳刑に処せられた。「切支丹宗門並びに不受不施禁制」の高札は全国津々浦々に立てられた。
 天和2年(1682)地下に潜らざるを余儀なくされた不受不施派では内部に紛擾が生じ、元禄2年(1689)に分裂する。 ※元禄2年とする根拠は不明。
簡単には言い表せないが、不受不施派が禁制となり、度重なる弾圧(法難)で僧俗が失われていく時代での、信仰の形が問題となる。
即ち、この時代信仰の形は内信<外濁内浄(げじょくないじょう)・濁法(じょくほう)>と清信<清法(しょうぼう)・法立(ほうりゅう)>とに分かれざるをえなかった。
大まかにいえば、内信も是とする立場(心法正意)と内信を全面的には容認しない立場(事相正意)とが対立し、様々な主導権争いや感情的なしこりなども絡み、不受不施派は分裂する。前者の立場を堯門派(導師派、堯了派、日指派)と称し、後者の立場を講門派(不導師派、津寺派)と称する。
 ---「大野学区六十年のあゆみ」終わり---

【直接の発端】
【豊臣秀吉千僧供養】
文禄4年(1595)豊臣秀吉京都方広寺で千僧供養を催し、各宗100人宛の僧侶の出仕を命ずる。
日蓮宗にも要請があり、これ受ける(受派)か否(不受派)かで教団内部で対立する。
受派の代表格は京都本満寺日重・日乾ら身延派であり、不受の代表格は京都妙覚寺住持佛性院日奥らである。
 参照:正之氏サイト(拙サイトに組入)M日蓮宗不受不施派
 参照:参考・東山七条妙法院<→山城豊国社多宝塔中>
 文禄4年(1595)豊臣秀吉の方広寺大仏殿が竣工、この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、「千僧供養」を「大仏経堂」で行う。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏という。
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
(千僧供養出仕案内状)
 大佛妙法院殿に於いて毎日太閤様御先祖様の御弔として一宗より百人宛彼の寺へ出仕候て勤め有られ一飯を参らすべき旨御掟候
 然らば今月二十二日より初めて執行せられ候其意をなさるべく候百人之無き寺は書付て申越さるべく候
 恐々謹言
    九月十日                                              民部卿法印
                                                           玄  以 (印)
     法 華 宗 中

2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
不受不施派の誕生(大仏供養と妙覚寺出寺):
 天正17年(1589)日奥は方広寺大仏殿建立直前に、法華宗としては国主の行う種々の法会には出仕できないことを上申し、その許可を得る。
文禄4年(1595)9月25日秀吉は竣工なった京都方広寺のに各宗の僧を招いて盛大な開眼供養を開催する。千僧供養である。これは武力で天下を掌握した秀吉のようなものだけができる一大イベントで、一方では権力者に対して農民が完全に敗北した忌まわしい儀式なのである。
事前に、出仕できないことの許可を得ながら、それには頓着なく、出仕を命ずるとは、日奥は権力者秀吉の強い意思を感じたであろう。
同年同月同日即ち秀吉の千僧供養の初日に日奥は妙覚寺を出寺した。
その以前に、秀吉の招請を受けた日蓮宗では出仕の是非が議論され、出仕して教団を維持すべしという移建が大勢を占めるようになってくる。日奥はあくまで不出仕を唱えた。しかし、日奥の正論を以ってしても、大勢を覆すことは出来なかった。
 そうである以上、出仕に傾いた長老たちへの糾弾の意味を込めて、日奥は妙覚寺を、初日に出寺することとなる。一方出仕を唱えた長老たちは、謗法の秀吉を公然と指摘した日奥が妙覚寺にとどまっていては、妙覚寺一門ばかりか京都の日蓮宗の存続が危ぶまれるとの懸念から、日奥を追放しようと画策したのである。
 妙覚寺を出る直前、既に千僧供養の初日から帰ってきた妙覚寺の僧侶たちは、日奥を激しく責め、日奥追放を趣旨とする誓文を前田玄以に提出したきたことを告げる。
誓文の写しを突き付けられた日奥は「この書状は日奥が霊山へ行く通行手形となるだろう」と言い放つ。
不受不施派の出発点があるとすれば、この場面をおいてほかにはないが、この場面で、日奥という自覚した不受不施僧が誕生したのである。
 慶長17年(1612)6月、建仁寺禅居院に、慶長4年(1599)の大阪対論の後に対馬に流され、赦免された日奥が対馬から到着する。日奥48歳であった。
 慶長19年(1614)足掛け19年に及んだ方広寺大仏供養が終わる。既に秀吉は歿し、家康が豊臣家の政権を簒奪する準備が完成しつつある時期であった。
日奥の潜居:
 日蓮によれば、正法を誹謗した罪、謗法者を放置した罪はこれから先に犯してはならぬ罪ではなく、既に前世のおのれが犯している罪であった。法華経の行者が受けねばならぬ法難は正法を弘めることに対する迫害でもあるが、同時に、前世のおのれの謗法にたいする罰でもあった。
 妙覚寺を出る時、日奥は前田玄以を通じて第一の諌暁書「法華宗諫状」を秀吉のもとに提出している。
それには、法華経のみが唯一の正法であることの史的証明から始まり、日蓮の謗法者折伏と受難の意味を説き、他宗派の謗法宗たるゆえんに及ぶものという。
 日奥の手記「御難記」「禁中奏聞由来」などによると、妙覚寺を出て、嵯峨の栂尾・鶏冠井・小泉と居を移す。
しかし、秀吉の側からは何の咎めもなく、日奥をひたすら遠ざけてしまおうとする宗門側の蠕動がありありと見える。これはいったん宗義の根幹に背いてしまったことの怖れと焦りの表れだろう。
 小泉の庵には慶長5年(1600)5月まで約5年潜居していた。
この間、日奥は第二、第三の諫状を書き、秀吉や後陽成天皇に突きつけ、佐渡に渡り日蓮の遺跡に詣で、更に備前に足をのばし弘教する。
 また、日奥と京都諸寺との間で和解を試みる者もあったが、それは成就はせず、結局小泉から日奥を引き出したのは、京都諸寺から家康に出された訴状であった。訴状には「日奥は秀吉の薨去に乗じて帰洛をはかり、我が宗門の衰退に乗じて転覆を企てている」との行があった。
--- 「忘れられた殉教者」終---


【大坂城の対論】
慶長4年(1599)大坂城に不受派・受派が召集され、徳川家康の面前で対論が行われる。
裁定は日奥対馬流罪であった。(慶長17年日奥の流罪解かれる。)
 参照:正之氏サイト(拙サイトに組入)M不受不施派「大阪城対論」

2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
大阪対論:
 慶長4年(1599)11月、(保身に走る京都諸寺から日奥を讒訴する)訴状を受理した家康は、日奥及び同調者で嵯峨常寂光寺に隠棲していた本圀寺日禎及び原告の妙顕寺日紹・堺妙國寺日統などを大阪城に召喚する。
 諸奉行・大小名たちは登城した日奥・日禎を取り囲み、様々な妥協案を出して、1日だけでも千僧供養へ出仕させようとした。
手記「御難記」によれば「ただ1度だけ出仕すればよいのだ、それも公儀の命令だから宗旨に傷がつく道理はないではないか、傷がつかないようにお望みの文面での国主の証文が下されるよう取り計らおう。
他宗の僧との同席が嫌なら法華宗だけの別席を設けよう、食事を頂くのが嫌なら、箸を取る真似だけすれば宜しいということにするが、どうか」云々。
 日禎はこの妥協策に応じたが、日奥は遂に承諾はしない。
その上、次のように断言する。
「・・・法度を破る者に処罰がなく、法度を守る者にこれほどの難題を課するとは、つまりは私の命の果てる時がきたのでしょう。
親類や信者に類の及ぶことがあるとも、同じ世代に生まれたことが不運と思っていただくしかない。謀反・盗みなどの咎とは違い、仏法のことを咎められてのことですから、親類や信者の方々がお果てになっても幸いのことと申すべきかもしれませぬ。
何と申されても供養出仕のことは覚悟を決めたことです。これ以上お話などありませぬ。」
 この場に家康は未だ顔を出していない。しかし全てはここで決定したのだと云ってよい。
ついで日奥は家康の前に引き出されたのだが、直ちに家康は日奥の負けを宣言する。
 衆僧に取り囲まれて剥ぎ取られた日奥の袈裟ころもと珠数とは、「佛法之大魔王邪見熾盛之日奥」を敗北させ勝利の記念品として日紹が妙顕寺に持ち帰り
慶長四己亥年十一月廿日戌刻至、大阪於内府様之御前、一宗与日奥対論之時、佛法之大魔王邪見熾盛之日奥即座閉口非分相違之候間、即剥取之袈裟衣数珠也」と大書する。350年の後、昭和26年これらの品は妙顕寺から岡山県御津町祖山妙覚寺に返納される。
  2019/09/10追加:返還は日蓮宗管長山田日真(自坊は四条妙顕寺)の好意であった。(「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より)
   → 正之氏サイト(拙サイトに組入)不受不施派『大阪城対論』
   →上記ページより:大阪対論で
剥ぎ取られた日奥袈裟衣
日奥には流罪の宣告があり、翌慶長5年(1600)5月津島に移される。
同年9月には関ヶ原の合戦があり、家康は豊臣家の政権を奪取したことが天下に示される。
 しかし、日奥を対馬に流したからとて、それで事の全てが終わった訳ではなかった。思想犯を流罪にするとは、その思想に同調する者が潜在的に少なくないという事情を背景にし、その者への見せしめとして流罪にするという意味しかもたない。
 慶長17年(1612)6月、建仁寺禅居院に、13年間謫居した対馬から、赦免された日奥が到着する。日奥48歳であった。
事の発端の大仏供養は未だ続いていた。
京都の本満寺や妙顕寺は日奥に対し出仕するように圧力をかけてくる。
日蓮の不受不施の規範を破り、日奥を対馬の追放したことにうしろめたさは無かったのだろうか、あるいは一度手を染めた違背はとことんやらなければ、辻褄が合わないということなのであろうか、京都諸山は日蓮宗を名乗りながら、日蓮宗宗規を棄てたということであろう。
 両者の間で和解を周旋したのは京都所司代板倉勝重であった。板倉は不受不施を唱えることを許す折紙(公式文書)を家康から引き出すことに成功したようである。
慶長19年(1614)足掛け19年に及んだ方広寺大仏供養が終わる。
元和2年(16161)6月両者の和解がなり、日奥は再び妙覚寺に入寺する。
この和解は受不施派の「うしろめたさ・負い目」と日奥の自負が正面からぶつかって成立したのではなく、大仏供養は消滅したという皮相な部分での妥協でしかなかった。
根本的な解決でなくつまり曖昧な妥協であったがため、受不施身延の追訴を許すこととなる。
--- 「忘れられた殉教者」終---

2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
【受・不両派の和睦】
 慶長17年(1612)6月日奥は赦免され、京都に帰還する。
慶長19年(1614)この年は豊臣家滅亡の前年であるが、方向寺大仏の千僧供養は中止される。
千僧供養は中止や耶蘇教の流布などもあり、受・不両派の間に和睦の機運が生じる。
元和2年(1616)博多の唯心院日忠の調停によって、幾多の紆余曲折を乗り越え、受・不両派の和睦が成立する。
日忠の調停の前、池上日惺上洛し調停するも不調、次いで関白秀次の母瑞龍院、和睦に手を尽くすも不調であった。
ここで、博多の日忠が上洛し、四条妙顕寺に出入し、妙顕寺日紹に連々諌暁し、遂に日紹は改悔を為す。
日紹は妙覚寺に来臨し、両者に和睦が成立する。
 この日紹は慶長4年大坂対論の法敵であり、日奥を対馬配流に至らしめた特別の因縁をもつ人物である。それ故であろうか、日奥はこの日紹の態度を徳とし、大坂対論の日紹の「無覚悟」は日乾らの教唆によるものとし、今般の改悔の功とする。
かくして、両派の和睦は成ったのである。
 日忠は日奥の師日典と同様、備前の生まれで、俗性を斎藤氏と称し武勇の家に人となる。
19歳の時父の敵を討たんため関東に下向し公法を学ぶも、出家学道こそ真の孝養にあたると悟り仏門に入る。
後博多に行き、慶長8年(1603)切支丹と宗論し、之を破り、国主黒田長政から一寺を受け、問答山勝立寺とする。
日奥は対馬からの帰還中、両3日博多の勝立寺に滞在したという。要するに親しかったのであろう。
一方の妙顯寺日紹もまた備前の人で、三者とも備前に縁があり、そのような関係から、日忠が和睦の調停をすることは有り得ることであろう。

この和睦により秀忠は不受不施公許の折紙を下す。この記録は宗門に残される。(身池対論記録、万代亀鏡録下)
また京都所司代板倉勝重からの日奥宛好意ある手紙が届く。これも記録に残される。(身池対論記録、万代亀鏡録下)

 ここに宗門は日蓮聖人以来の不受不施の宗制に立ち返ったように見える。
 しかし、元和2年11月身延山法度が発令される。
この法度は諸宗法度の内最後に下されたもので、家康在世中は受・不受の対立があり出されず、家康の死後に出されたものである。
問題はその法度の一項に身延山を日蓮宗の総本山とするような条項を含むことである。それは幕府と身延山の思惑が一致し、日蓮宗を身延山に支配させ、幕府の封建的宗教統制に編入するとする意図であったのである。
 その上、和睦したとはいえ、一度反目した日奥・日乾の感情的対立は遂に融解すべくもなかったのである。
しかしながら、この時期の日奥は政治勢力の苦い介入を招いた体験から随分と自制し、戒心をしていたようである。
 ところで、封建権力の介入を招いた根本原因はなにか、それは身延系の讒訴上訴ではなかったか。おそらくはそれが不受不施派に対する致命傷ではなかったか。
江戸瑞輪寺日體の如きは一月に三度も訴え、それを10年間やめなかったというからす凄まじいものであった。
---「不受不施派殉教の歴史」 終---


【慶長法難】
慶長12年(1607)5月妙満寺27世常楽院日經、尾張熱田に布教、浄土宗を論破、浄土宗は上訴に及ぶ。
慶長13年11月上訴の結果、法華宗と浄土宗の対論が江戸城にて企図・実施される。
前日、幕府権力は日經を暴力で以って半死半生の状態に陥しめ、当日の対論では言語を発することが叶わず、法華宗の負けと判定される。
結果、日經は洛中にて弟子5人とともに「刵劓刑」に処せられる。弟子一人はその場で落命する。
 参照:常楽院日經上人:日什門流は積極的に折伏を行い、浄土宗などと衝突する。
     日経及びその門流の詳細は上記のページにある。



身池対論・寛永法難

大坂城の対論の後、不受派と受派との対立は、一度は融和が図られるも、両派の対立は再び激化し、
寛永7年(1630)江戸城で対論が行われる。受派の代表格は身延山久遠寺であり、不受の代表格は池上本門寺である。
その結果、上意違反の罪で、池上本門寺日樹は流罪、中山法華経寺日賢ら5人は追放となる。
加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に接収される。
(幕命により妙覚寺住職は身延日乾が、池上本門寺住職は身延日遠が任命され、不受派本山は身延支配となる。)
しかし、不受派本山を幕府権力で以って受派支配(身延支配)としても、本寺に背く末寺は多く、特に京都妙覚寺末寺の殆どは身延支配となった本寺から離脱することとなる。
 参照:正之氏サイト(拙サイトに組入)M不受不施派「身池対論」      →長遠院日樹   長遠院日樹上人伝


2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
身池対論と寛永法難:
 日奥が対馬から帰った慶長17年(1612)から寛永7年(1630)までの18年間、これがいわば不受不施派の形成期である。
言い換えれば、千僧供養への出仕拒否という政治の次元での反抗が問題となる次元から、不受不施という法華信仰の根本思想への対立の次元という皮相から深部へと問題が鋭くなっていく過程であった。
 日奥の主張に対し池上長遠院日樹、中山寂静院日賢、平賀了心院日弘が同調し、また飯高・中村・松崎・小西などの関東檀林はこぞって不受不施を唱えるようになる。
一方受不施派では身延の日乾・日遠・日深などが中心となって、日奥を非難し、法華信仰の篤い養壽院(家康側室)を抱き込んでいた。
 受派・不受派の論争が深刻化するなか、将軍秀忠夫人(崇源院)の葬儀があり、これに出仕して供養を受けた身延は日樹などから厳しい非難を浴びる。
 この劣勢を取り戻すべく、身延が仕組んだのは日樹等の弾劾訴訟であり、それは寛永7年の身池対論で決着される。
1)日奥の所論が誤りであることは彼が流罪になっていることで明らかである。
2)日樹の主張は国主の供養は謗法者の供養であるというが、日樹の池上の堂舎は国主の領地の上に営まれているのは矛盾である。
3)千僧供養が終り、両派は和睦した。然るに日樹は身延は謗法、池上は信と区別し、異議を唱え和睦を破ろうとしている。
以上の3点が訴訟の中心である。特に2)の点は口に出していってはならないことを口にしている。
それは、日蓮の不受不施思想の根幹を否定しかねず、日蓮宗の寺院・僧徒であれば云ってはならないことあろう、果たして、のちにこの点を突いて、身延及公儀は不受不施派を追い詰めることとなる。
 2)に関しては、日奥の「宗義制法論」があり、ここでは「所領のこと・・世間の恩賞ならばこれを辞するに及ばず、佛事の供養ならば謗法となるべし、これを受くべからず・」と明確に述べ、日樹はこれで対論に勝てるとふんでいたふしがある。
 寛永7年2月21日酒井雅樂頭邸で対論(身池対論)が開かれる。
身延側は身延日乾・日遠・日暹、藻原妙光寺日東、玉沢妙法華寺日遵、貞松蓮永寺日長の6名、池上側は池上日樹・中山日賢・平賀日弘(にちぐ)・小湊隠居/小西日領・碑文谷日進・中村日充の6名、判者として南光房天海・金地院崇傳ら6名、奉行衆6名の内に林羅山も加わっていた。
  →池上本門寺
  →中山法華経寺
  →平賀本土寺
  →碑文谷法華寺
  →小西檀林・中村檀林は関東檀林
 池上側は負けと評決される。
負けというより、評決は対論の外で決しており、対論そのものは採決に形式を加えるためのものだったというのが適切である。
評決は謗施供養について、つまり法理には一切触れずに下された。家康によって不受不施論を咎められた日奥が、放免後も相変わらず不受不施を唱えていること、日樹以下はこれに同調したことを咎めるのが採決である。
日樹の主張した「寺領は世間の恩賞であって国主の佛事供養ではない」という点については、否定も肯定もされなかったということで、ここに大きな落し穴が潜んでいたのではないだろうか。
 日樹は信州伊那へ、日賢は遠州横須賀、日弘は伊豆戸田、日領は佐渡から奥州中村、日充は奥州岩城平、日進は信州上田へそれぞれ追放となる。
 ※
 日樹:
  →日樹上人供養塔・長遠院日樹上人伝・日樹上人墓
 日進:修禅院日進
  →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。
 日充:
 ○いわき市図書館の日充上人のレファランスに次の一文がある。
 多古町中地区中村檀林八世の能化(除歴)日充は、磐城平藩主内藤忠興(このころはまだ泉におって、磐城平藩主ではなかった)
 のもとに預けられたことは、不受不施派弾圧史上有名な事実ではあるが、いわき市ではあまり知られていない。
 「忠興は窪田に寺屋敷地を与えて居住させ」(『日蓮宗宗学全書』第21巻)たとあるから、忠興は日充を多古の地に関係の深い
 妹婿土方雄重(ひじかたかつしげ)に託したのではないかとも考えられる。
 いずれにしても「窪田における日充上人の動静について」は今後の大きな研究課題であり、市民各位のご教示を得たい。」
 (『いわき市史 第2巻 近世』>「第6章 神領と分領 第4節 多古分領」>p801)
 またに次のような記載があった。
 「〜平藩内藤忠興公の時代、同派の日充上人が迫害を受けていわきに流され、窪田地区を中心になおも布教活動にしたがった〜」
 (『いわき市史 付録4』(昭和50年8月)p8の「本藩視察」)

不受不施派ではこの事件を寛永法難と呼び、日樹ら6名を「前六(ぜんろく)聖人」と尊称する。
 身池対論の頃、日奥は病床にあった。対論の4日後、日奥は死後の遺さるべき影像の図柄を指定する。「左手に御経、右手に金襴の袋、俵の上の坐すこと」と。
3月10日日奥は妙覚寺衆僧を集め読経し、本立院日要の膝に頭を横たわらせ寂する。
4月2日身池対論の評決が行こなわれ、日奥は再び対馬に流罪と断罪される。
  →不受不施派「身池対論」
下総の不受不施:
 寛永法難で打撃を蒙ったのは、主として上総下総を拠点とする関東諸山であった。関西・京都諸山では妙覚寺などを除き、権力に対して攝受的になる傾向が顕著となるも、関東諸山では不受不施論・強烈な折伏主義が隆盛であった。
身池対論の採決で日奥の妙覚寺は日乾に、日樹の池上本門寺は日遠に与えられる。
 下総香取郡多古町・栗源町は法華信仰の強い所である。その栗源町の岩部の旧家に日樹以下の「前六聖人」の署名と花押の記された畳1枚ほどの大曼荼羅がある。
これは大乗院日達が六聖人の追放地を順次訪れ、用意していた本尊に署名と花押を記してもらい、それを持ち帰り、岩部の信者に渡したものである。
この事が示すものは、追放された僧に対する新たな信仰の告白であり、僧はそれに対して確たる誓言を与えたということであろう。
不受不施の思想は信者の中に根付いているあるいは信者の中には、権力には容易には屈しない反骨精神が根付いていたということであろう。
  →大乗院日達:備前蓮昌寺僧、各地で多くの寺院建立あるいは再興をする。
 ◆日樹主筆曼荼羅本尊
  →日樹主筆曼荼羅本尊:寛永7年・・・・「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年 <p.77> より
      ○「不受不施派殉教の歴史」では、信濃飯田のとある文具店の店頭にカビネ判の曼陀羅本尊写真が掛けられていて、
   しかもこれが「日樹主筆曼荼羅本尊」であったといい、この事が相葉氏の「不受不施」との出会いの契機であったという。
    (原本の所蔵は博多妙典寺であると後述される。)
  上記の大乗院日達が巡訪し、岩部の信者に渡した本尊とは違うものとと思われるが、
  この本尊は日樹の曼荼羅本尊で、「寛永第七庚牛五月十六日信州伊那郡飯田書之」とあり、
  主筆の日樹とほかに日領・日延・日弘・日賢・日充の署名と花押がある。
   ※2019/08/19追加:大乗院日達が巡訪した六聖人連署の大曼荼羅は次項の「連署の曼荼羅」を参照
  おそらく板山八左衛門吉員(及び浄蓮院日衛)の文字があるので、彼(信徒)が巡訪して記してもらったものであろう。
   (これ以上の詳細な説明は本書にはない。)
  但し、前六聖人であれば、日樹・日領・日進・日弘・日賢・日充であるが、日進ではなく日延の署名・花押である。
  なぜ、日進ではなく日延なのかは不明、また日延とは可観院日延(小湊誕生寺18世)とも思われるも、不明。
   ※可観院日延は不受不施を堅守と云い、寛文5年寂というので、日延とは可観院日延である可能性は高いとも思われる。
   もし可観院日延ということであれば、数奇な経歴といえる。
       →可観院日延は博多香正寺中にあり。 →備中盛隆寺戸川家墓所中にもあり。
   ※2019/09/10追加:
   ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
    寛永7年(1630)伊那に流された日樹は翌年58歳をもって歿する。
   配流後の日樹の生活を知るべきものとしては、地方文献に僅かに散見するだけである。
   今日博多妙典寺に日樹の書いた曼荼羅がある。この曼荼羅の由来は全く不明である。
   この曼荼羅はもと妙典寺檀家大塚平三(明治25年没)の所蔵であったがこれを妙典寺へ寄付したものである。
   それまでの入手経路は全く不明とのこと。(当時の妙典寺住職西村観誠氏書簡)
    この曼荼羅には「寛永7庚午五月十六日信州伊那郡飯田書之五十七歳 日樹」とあり、さらに日賢、日弘、日領、日充と
   身池対論で各地に流された聖人の名が記される。(全六聖人の内日進を欠き日延の名がある。)
   2023/08/02追加:
   この「日樹主筆曼荼羅本尊」および日樹が飯田に謫居中授与した曼荼羅などについては
    →日樹上人略伝>日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永7年5月16日年紀の曼荼羅
    →日樹上人伝>8)謫居の日樹に遺る消息 に掲載があるので、参照を乞う。

 六僧の一人である小西檀林能化である守玄院日領は不受の立場から、不受と受の相違を説く一篇のメモ(「受不帰論」という)を書いた。それは信者のあいだに回覧され、師が命を懸けた不受不施とはいかなるものかは浸透していったはずである。日領は追放され遂には帰ってこなかったので、それはそのまま信者たちへの「遺言」となった。
このメモは一冊現存し、それは信者の一人が筆写したものである。その信者とは信了院浄性という島地区のいわば「指導者」の立場にあった人で、筆写したのはおよそ百数十年後の宝暦5年(1755)であった。信仰は絶えず、脈々と信者の中に伝わったということであろう。
 ちなみみ、香取郡多古町の島地区とは行商泣かせと云われ、迷路の集落であった。今でも全戸が不受不施である。寺院は正覚寺が構える。迷路が何の為だったかは「いわずもがな」であろう。
 身池対論の後、採決に抗議して自害するものが少なくなかったという。小湊誕生寺の日税や日泉は自害僧であり、その名が伝わっているものは7名を数えるという。
  2019/08/19追加:
  小湊誕生寺祖師堂にて修善院日税は自刃する。(「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」より)
--- 「忘れられた殉教者」終---
2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
連署の曼荼羅(P.81〜)
 備前蓮昌寺の大乗院日達は前六聖人の配流先を次々と回り、師に会い、変わらぬ信仰を吐露して証を立てる。
六僧は日達の信仰を認め、1枚の大曼荼羅に連署して与える。日達はそれを下総に持って帰ってくる。下総の信徒はそれを見て、六僧との信仰の繋がりは断ち切られたのではなく続いていることを確認したことであろう。
 この大曼荼羅は畳1枚は十分ある大きさで、下総香取郡栗原町岩部の石橋家にある。
 前六聖人連署の大曼荼羅
     (注)この「大曼荼羅」については下述の
      ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
       《矢田部28人衆》(P.94〜)に記載している「大曼荼羅」と同一のものである。
※本書に掲載された曼荼羅本尊は4枚に分かれているが、この4枚がどのような形で、畳1枚分くらいの大きさの「大曼荼羅本尊」となるのかは、良く理解できない。
 →大乗院日達(安芸國前寺中)
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

      なお、日樹が飯田に謫居中に授与した曼荼羅などについては
                        日樹上人伝>8)謫居の日樹に遺る消息 に記載あり。

2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
《身池対論と新義・受不施派の発生》
 慶長17年(1612)日奥は赦免され、対馬より帰還、元和2年(1616)唯心院日忠の斡旋によって受・不受派の和睦が成立し、秀忠より不受公許の折紙が下付される。宗門は不受不施の制法に復帰し、宗門の紛乱に収束したかの状態を呈する。
しかし、一度凝固した日乾・日奥二者の感情的対立はなお解けず、日奥は身延を指して、ひとたび謗法者の施を受けたことによって、身延の法水は濁ったと嗟嘆し、それへの身延の反目は宗門内の暗流として流れていた。
 池上日樹は日乾・日奥の間を調停し続けるも、なお収拾しえないことを知って、遂に日奥の主張を正当として、身延は一度の謗施収受によって汚れたりとして「身延無間」と難じたのである。
謗法の供養を受けた日乾が身延に住する故に、身延の法水はたちまち濁り、清浄の地忽ち変じて、不浄の地となれり。仍って身延の地には高祖上人は住み給わぬ。
それ故身延に参詣するものは地獄に堕る と。
 これに対して身延日暹(セン)は怒って、寛永6年(1629)日樹を幕府に上訴する。
これにより幕府は両者の対論を命ずる。
 ※寛永7年の「身池対論」であるが、詳細は重複するので、割愛する。
対論の記録は日樹の「身池対論記録」、受側の日達の「受不受決疑抄(金偏に少の字)」では全く正反対の事実を伝える。当日の対論を筆記した建部伝内の「東武実録」も存在するが、これとて、身延を自とし、池上を他とし、頻繁に「他閉口」と記している。将軍の「台覧」に入れられるもので、幕府と身延の関係を忖度したものとも思われ、必ずしも信を置くことはできない。
 何れにせよ、池上側は破れた訳であるが、その採決理由は
「池上日樹今度申立候不受不施之儀者、先年権現様邪義ト聞召、日奥於遠島流罪ニ仰付候、然る処ニ唯今其御宰ニ違背申シ、不受不施之儀申出候事、不届ト思召・・・・」というものであった。
要するに、身延日暹の上訴の趣旨もそうであったが、この判決の判断理由は受・不受の優劣ではなく、不受不施の義は権現(東照大権現)様の御意向に違背し、それは天下の御政道に反し、不届である・・・という極めて政治的なものであった。
 なお、日樹の対論記録によれば、代々の折紙(不受不施公許の)などは取りあえず預っておくということで、没収されたという。

 勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。
「今般所論の法義に就いては、種々雑説風聞の由に候、然るに我山の法理は国主の御供養に於いては、常に受であるが異端ではなく候、但し平人の施は中古に於いて世の機嫌を息か為し(※解読できず・・・※息世譏嫌となす。<世間から譏り(謗り・そしり)嫌われる>)、我ら専ら今更之を改めず、隠居(日乾・日遠)と愚意と同心で候。池上日樹并徒党の者は、誤るに国主の御供養を受けず・・・」
つまり、国主の供養は受ける点では受不施であるが、平人の施は従来の通り不受不施であるとする。
さらに、日暹は池上・比企谷両山の院坊・大衆に全てに命令し、受不施の主張を教理的に肯定し、それに違背せぬ旨の連判の起請文を提出させたのである。
 ここに来て、新たな新義・受不施が出現したというべきであろう。以前の国主から施を受ける意味は「国主の機嫌を損なわない」ための「方便」という意味合いが強かったが、遂に、今までの法華宗の法義を棄てて、新しい新義が発生したというべきであろう。
 言葉を変えていえば、将軍家の供養に限りという条件付きで受不施となった訳である。
高祖日蓮以来の謗施否定を制法とする宗義は身延(日暹)によって、覆され、新たに受不施こそ正当なる宗制とされたのである。
少なくとも、日奥の時の日重は、権力者に阿り、一時的に宗制を枉げる便法としての受不施であったが、日暹は受不施が新しい宗制としたのであり、これは重罪である。
 幕府は身池対論で不受不施は「新義」「邪義」として、これを罰する。しかしその内実は法華宗の宗制として、不受不施を罰した訳ではなく、現権様(東照大権現)の国内統治上の「不都合」つまり家康の意向から罰したということである。
現に、徳川氏は不受不施の制法実施(不受の実施)を許している。
1、慶長7年(1602)家康母堂・伝通院の葬儀では、池上日尊・関東の諸法華宗、小石川壽経寺に諷経して供養を受けざる也
1、慶長12年(1607)尾張松平忠吉(将軍秀忠舎弟)の葬儀では、池上日招等、三縁山増上寺にて諷経して供養を受けざる也
1、元和2年(1616)徳川家康の葬儀では、池上14世日詔、身延日遠、関東の諸法華宗、武蔵仙波北院に諷経して供養を受けざる也
1、寛永3年(1626)秀忠御台(家光御母)崇源院の葬儀では、池上日樹、身延日深、関東の諸寺諸山、京都諸寺代妙覚寺日饒、増上寺に諷経して供養を受けざる也
1、寛永7年(1632)秀忠四女初姫(興安院殿、京極忠高正室)の葬儀では、池上日樹、身延日暹、関東の諸寺諸山、伝通院に諷経して供養を受けざる也
そして、
元和2年(1616)秀忠は不受不施公許の折紙を下すということもあった。
上記の国主関係の葬儀の時、不受不施派とともに、身延側でも日遠・日深・日暹は施物を拒否していたのである。
これらの事例からみると、不受不施は制法として既定のものだったのである。
つまり、身池対論の時の問題は、受・不そのものの何れが制法かということではなく、受・不の対立を超えたところにあるのであろう。
---end---

2023/06/11追加:
○「不受不施派流僧の祈りと行法」宮崎英修(「印度學佛ヘ學硏究 通号 58」1981-03-31 所収)

1.不受不施義公認の誓願
2.仏性院日奥の行業について
3.日奥赦免の祈りと抑制
 の3章については、佛性院日奥上人>「不受不施派流僧の祈りと行法」にあるので省略、参照を乞う。

4.不受流人僧の祈りと期待
 しかしながら、不受派と受派の対立は溶解した訳ではなく、身延山を根拠とする日重の系譜をつぐ関西諸山と、江戸の池上本門寺を中心とする関東諸山の間に再び不受不施論が起り、幕府は寛永7年(1630)2月21日両者を江戸城に対論させたが、その裁決は家康の不受不施義を断ぜられた政治対決の先例を正面に出して法義内容に触れず、池上本門寺を中心とする関東諸山を敗論とし、これに出席した池上方同心の諸師を流罪、また同年3月10日、京都妙覚寺で66歳をもつて入寂していた日奥も、彼等の首魁であるとし、再犯の故をもつて再度対馬に配流と決する。
対論出席者と流罪地を次の通りである。
 池上本門寺日樹  信州飯田脇坂淡路守安元      →長遠院日樹
 中山法華経寺日賢 遠州横須賀井上河内守正利
 平賀本土寺日弘  豆州戸田
 上総小西談所日領 州中村相馬大膳亮義胤
 下総中村談所日充 奥州岩城平内藤帯刀忠興
 碑文谷法華寺日進 信州上田仙石越前守政俊
 この他、対論に連坐し、出席しなかつた小湊誕生寺日延は自から進んで追放されんことを願い、はじめ伊勢神戸に預けられのち九州博多の地に赴く。
    →博多香正寺/可観院日延
 池上本門寺長遠院日樹は飯田の配所にあつたが病を得て翌寛永8年5月19日、58歳をもつて寂する。
このころ不受不施義を立て公儀に違犯した諸師が、法華の正義を死守し幕府権力に拮抗して毫も屈しなかつた反骨精神は当時の士庶に高く評価され、京都においても江戸においても人々の崇敬は並々でなかつた。
 例えば京都妙覚寺は身延山の支配となり日乾が住持となつたが、百余の末寺は殆んど本山を捨て、僅か七力寺が本山につき、武蔵においても池上本門寺、中山法華経寺等身延支配となつた諸寺の末寺は本山を離脱し、信徒はこれらの末寺について本寺を忘れ、これによつて本寺は衰微し伽藍は雰落して法灯挑げがたい様態となり、身延山もまた諸国の参詣、運志激減するに至つている。
 しかるに一方なおも不受不施義を主張する小湊誕生寺・碑文谷法華寺.平賀本土寺はいよいよ繁昌し、不受不施義を立てる新寺は厳重な新寺建立停止令にもかかわらず明暦のころ(1655)には江戸府内にさえ二百余の新寺をたてその勢威旧に倍するものがあつた。
 流人となつた諸師は、当然ながら、その土地でまた深い帰敬受ける。
  長遠院日賢 領主本源寺を横須賀に建つ
                         → 遠江横須賀本源寺
  了心院日弘 村民長谷寺を戸田に建つ
                         → 伊豆戸田長谷寺
  守玄院日領 相馬藩家老池田直介仏立寺を相馬に建つ
                         → 陸奥相馬中村仏立寺
  遠寿院日充 領主庵を窪田に建つ
                         → 中村檀林岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)日充上人墓所
  修禅院日進 領主妙光寺を上田に建つ
                         → 信濃上田妙光寺
さらに、人々は再び不受不施義再興を願い、流罪赦免を請うて祈願をこらし、好機をうかがつては赦免運動をくりひろげる。
 中妙院日観(池上本門寺大坊13世)は、身池対論の裁決に服せず貫首日樹に随順して大坊を退出し、→下総野呂妙興寺に入り、ここに学室を設ける。野呂談林がこれであり、後に→安国院日講この化主となつて不受不施義を高揚する。
 次いで、中妙院日観及び三浦大明寺十七世(除歴)日淳は、寛永13年4月は日光東照宮廟が竣工して大祭が行われるのを機として不受公許と流僧の宥免を訴願し
 「今流罪一等の名を宥恕せられば、日樹也、生前の大望を死後に達するものか……今年東照大権現の大祭礼の佳節にあいあたる。定んで知る非常の大赦を蒙らんことを」と懇請している。
  →三浦大明寺(相模衣笠大明寺
 ◇寂静院日賢は遠州横須賀に井上正利の帰依を得100石の寺領を付された本源寺に住持したが、寛永15年が秀忠七回忌に当るので赦免が行われるであろうと期待し、江戸の慈淵老なる人に
 「高祖・十羅刹女.妙見へ御法楽頼存候、来年は台徳院様御年忌に候条、自然は赦免の事もあるべく候欺、御くじを三返取り候て下さるべく候」
といいやつている。
日賢はこうした中で、舜統院真辺の「破邪顕正記五巻」(寛永14年閏3月刊行)の日蓮悪罵の言に対し、同年と翌15年にかけ「諭迷復宗決一巻、同別記一巻」を製し往時の弟子であつた真遣の謬義を諭す。
日賢はかく大赦を望むも、寛永21年8月24日62歳をもつて本源寺に入寂す。
 ◇中村檀林能化遠寿院日充は岩城平の内藤帯刀忠興に預けられ、その地の窪田に寺地庵室をたまい、藩の子弟に学問を教授する。
その生活は相当自由であつたらしく玄抽老という篤信の人が平の窪田庵に参詣訪問したとき湯治に出かけ留守であつたことを詑びているが
「尚々先度は高駕なられ候所他行故閑談をとげず御残多存候以上先日は御尋ねの処折節湯治を致し候故面上能はず御残多存候。」
岩城平は岩城温泉の温治場のそばである。
寛永9年4月21日の書状に信州伊奈の日樹より不受公許、赦免の祈念をするようにとの通知のあつたことよろこび、自分も懸命の祈念を捧げること誓い、この功験によつてこの4月の末−恐らく4月28日立教開宗会の佳日をあてたものか−には中村檀林にかえり面談できるであろうと確信しているのである。
 「此元仕合せ能候間心安かるべく候、明日より一七日之御祈念相始候、池上様へも御隠密之御祈念われらに仰せ付けられ候御事、身にあまり悉存ずる事に候、当月の末へには帰談候と万々物語候べく候、すこしもきつかい有間敷候。」
日充の中村帰檀の確信は見られる如く不動のものがある。しかも寛永9年4月末の期待はおろか、年の末に日樹の計を聞くのであるが、日充は赦免を確信し、寛永16年は上様の父母の年回、即ち秀忠七回忌、母崇源院十三回忌に当るから「尤も御慈悲可有之かと頼母敷候て待入」るがこれまたむなしく、ついに慶安3年(1650)6月、57歳をもつて同地に寂した。
 流僧は日奥の赦免の先例により祈願をささげたのであるが爾来多くの流僧は配処に雄志を埋めたのである。


2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
身池対論直後の両派
◇池上本門寺・京都妙覚寺の接取
 寛永7年(1630)4月2日幕府は身池対論を裁決、池上日樹以下六僧を流罪・追放に処す。身延は勝利する。
勝利した身延は日暹の名にて、対論の終末と以後の諸山の心得を回文する。
この回文は上記 ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸 より の項<勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。>で述べる通りであるので割愛する。
加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に引き渡され、妙覚寺は日乾、池上は日遠が受領する。
身延日乾に接収された妙覚寺は日奥寂後、本壽院日船が岡山城下蓮昌寺より出て法灯を継ぐ。
日船は池上方の敗退によって来たるべき結末を予知していたのであろうが、日乾による接取を知り、一山の大衆30余名を率いて妙覚寺退出を決意し
 一 時節到来するに於ては異体同心に、一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を
   相守り像師御作の御影様を安置するの処、当門家(当門流)の本山と為すべき事、
 右の条目違背するに於ては、法華経中一切三宝、日蓮薩埵(大菩薩)並に代々列祖の御罰を罷り蒙る
 べき者なり。
   寛永7庚午(1630)六月十四日
                                    日船 在判
                                    大乗 在判
と同心、誓約連署し、→紫竹常徳寺(日奥上人中)に隠棲する。
 関東の池上においては、日遠の入山後、寺家の反逆が見られる。
池上大坊の中妙院日観は池上を去り、下総野呂妙興寺に遁れ、ここに談所を開き子弟を教育せんとする。承応明暦(1650前後)から寛文5・6年頃不受派の教育拠点となった野呂檀林である。
また十如院日相・仙国院日仙・華蔵院日由が悲憤して自刃する。残った大衆も種々日遠に反撃する。諸末寺も池上の本寺権を否認し二季の仏事に出席せず云々という具合であった。日遠は本寺末寺の統制を行い異端者を整理し、貫主権を確立する意味で、比企谷・池上両山の院坊・同宿・小僧及び末寺の住持・院坊・同宿などに起請文の提出を求める。
 これは、両山の院坊・同宿には一定の効果はあったが、末寺においてはその支配を及ぼすには至らなかったのである。
これは妙覚寺においても同様であった。
 日乾は妙覚寺入山の翌年には摂津能勢に隠棲し、円通院日亮(玉澤妙法華寺17世・中興4世)が入山(妙覚寺23世)する。日亮は専心経営に当たるも、末寺はこぞって本寺に向背する。
寛永10年(1633)幕府は日蓮宗諸山に各本末の寺院数を答申させたが、この時日亮は100ヶ寺を登録するも、当時本寺に帰属した末寺は洛内1、尾張1、紀伊5の計7ヶ寺に過ぎず、残りの末寺の大部は「于今不参」「違背」と記録している。
京都妙覚寺及び池上を入手したはずの身延には大誤算の事態であった。
 ※当時の京都妙覚寺末寺については本ページ中の「備前法華と京都妙覚寺」(2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前法華と京都妙覚寺)を参照

◇中山法華経寺・小湊誕生寺の帰伏
 中山は日b以来、京都本法寺・頂妙寺・堺妙國寺の三山の三ヶ年の輪番制であった。
当時は堺妙國寺日現が当番の貫首で住持することになっていたが、中山の院家は中山の関西三山からの独立のため、輪番制を破棄しようと企図していた。
寂静日賢・禪那日忠らは不受不施を主張し、関西からの支配を脱しようと日現の来山を拒んでいた状況であった。ところが、身池対論で日賢は処断(遠州横須賀へ追放)され、日忠も韜晦するに及び、中山は再び三山の支配に入らざるを得なくなる。
 小湊は身池対論によって、小湊14世で小西檀林能化守玄日領は佐渡(後に奥州中村)に追放され、16世可観日延は自ら追放の列に加わり博多に下り、加えて、修善院日税や日泉は自害し、寺家は動揺する。
身延はこれを好機とし、使僧を遣わし、不受不施の違義に及ばざるの起請文を出さしめる。つまり、小湊は身延に帰伏したのである。

◇中村・小西両談所の帰伏
 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。
中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。
 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。
 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。

◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃
 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。
身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。
 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。
日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。
  ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。
 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。
さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。

◇勝劣派諸山への対策
 身延は門末及び一致派諸山のみならず、勝劣派の諸山にも書を送り、身延の法理に同心するや否やを糾したようである。
 富士五山については(この当時は西山本門寺日悟、大石寺日就、重須本門寺日賢、久遠寺日珍、妙蓮寺日遵であった)身延より身延の法理に同心するや否や云々の高圧的物言いで申し入れがあった。富士五山側は曖昧に受け答えをなすも、重ねて、身延の法理(特に地子寺領について)の糾明がある。それでも、富士門流伝統の制法との整合性もあり、五山側は曖昧な態度であったが、さらに糾弾があり、遂には、五山側も身延の法理に賛意を示したようである。
しかし、その後身延の行動が不純であり、専横の行為であったことが一般に知られるようになり、また諸門流を身延一派に集めて、総本寺になろうとしているとの風評まで立つようになり、それを五山も察知し、加えて関東一般の情勢は身延は懼れるに足らずというような情勢も分かってきたので、富士五山は身延との関係を疎遠にし、次第に関係を持たないようになったようである。
 八品門流(日隆門流)にも身延の圧力はあったようで、おそらく八品門流は身延に同調したものと思われる。
 日什門流(妙満寺派)にも身延は通牒を送り、同心を求める。このころ同門流の常楽院日経の流れが関東に伝播し、寛永4年上総横川方墳寺が破却され、僧俗5人が処刑され、同12年には下総野田本覚寺破却に伴い恕閑日浄など僧俗9名が土気十文字ヶ原で磔刑に処される。
  →常楽院日経>日経の門流の頃を参照
日什門流は多難な時であったが、妙満寺養徳院日乗は身延の強圧に屈することなく、門流の見解に従い、身延の指図には依らぬ旨を返答する。但し、寺領供養は認める態度であった。

◇小湊の離反
 身池対論の後、身延はこれを勝利とし、寺領供養を以って公儀裁可の法理であるとし、国主除外の不受不施を以って諸山・諸門流の同意を得ようとし、小西中村の両檀林を手中に収め、これにより支配下の飯高檀林を加えて自派の檀林を三檀林となす。
本寺は池上・京都妙覚寺に加え中山・小湊の本寺を進退(しだい/しんだい:思いどうりにする)し、余勢をかって碑文谷・平賀を収めようとするもこれは頓挫する。しかし、身延は関東においても屈指の大本寺を手中に収めたのである。
 しかし、間もなく、小湊は離反する。
対論の頃、小湊は日領の後を継いだ日税が退き、可観院日延が住していた。しかし対決の時、日延はその場に出席はせず、これは病中であったとも対決の煩わしさに拘わりたくなかったからとも云う。しかし、いよいよ採決の申し渡しのとき、日延はともに罰せられるように請うたのである。
この申出のことは、日樹の書状や小湊日雲の訴状にも触れられ、確かなことである。さらに身延の追放記録や身池対論記にも追放として記録されているので、追放も確かであろう。
とこらが、小湊では追放ではなく、隠居という。
 その日延であるが、自ら進んで追放されたが、それに先立ち後住を議し、衆議をもって日遵を後住とする。
「追放」され、日延は5月初めに小湊を出、伊勢の一柳監物の知行所に赴くという。
しかしその後日延は伊勢から博多に赴き、寛永8年黒田忠之の帰依を得て、香正寺を創す。日延は自由に国内を歩いていたのである。
 この点から見ると、日延の追放は追放された他の諸師とは違い、追放とは名ばかりで、小湊の云うように隠居したのであろうか。日雲は自信をもって、その訴状で隠居としている。
 ともあれ、日延は寛永7年5月の初め小湊を出、伊勢に赴くも、後住である日遵は、下関を目指すが、寛永10年(1633)3月13日まで京都頂妙寺に住していた。
日延追放後、小湊は支柱を失い、小湊長老・妙蓮寺や宿老成就院は身延の強圧的態度で動転し、身延帰伏の誓状を出したものであろう。
 日遵は、対論の裁定では京都に住していた理由で同じく追放を免れた日奥弟子住善院(日定)とともに京都の同志を率いていたが、関東の多くの重鎮を失ったあと嘱望されて、関東に赴くこととなる。
 寛永8年日遵は信州伊那に日樹を慰問しているが、日遵書状には、日樹から早く下関し子弟の教育にかかるように指示されたことが述べられている。
日遵は寛永8年にも下関する意向を示すが、下関は寛永10年にずれ込んだのである。
しかしともかく、日遵の下関により、身延は得ていたあるいは得たと思っていた小湊を失うこととなる。
さらに、得たと思っていたものが実は得ていなかったのに各本寺の末寺である。
 関東における法華宗一般つまりは各本寺の末寺一般は国主除外の不受不施を正統とはみなしていなかったのである。
日樹をはじめとする諸師が身を捨てて守った態度にこそ真の宗制が守られていると見るから、日樹等が身延派を以って受不施派と蔑称した名称をその通り名とし、自派をして不受不施派と誇るようになったのである。中山にしても池上にしても末寺は離れ、小西・中村を退檀した不受不施の学徒はじめ不受の諸師は身延の詐謀を暴き、しかも続々と新寺を建立し、弘教に力を尽くし、不受派の勢力は目覚ましいものがあった。
 身延は自身の力では如何ともしがたく、ついに幕府の権力を借りて不受派を押えようとの策謀に頼ることになる。
    →→  長遠院日遵上人

◇両派の現況
 寛永8年2月26日身延日暹は「御朱印頂戴仕度条々」11ヶ条をもって幕府に訴訟する。
第1条は寺領・地子は国王の供養であることの決定、第2条は池上・京都妙覚寺及び徒党五ヶ寺の支配権、第3条・4条は末寺・衆徒に本寺の処罰権、第5条新地建立の許可制、第6条・7条・8条は勉学の方法と講義者の資格、第9条は寺中の老僧の資格、第10条は本寺の末寺支配、第11条は奉賀勧進の制限
である。
第1条は幕府権力を借りてでも、身延の寺領供養の義を推進する必要性があったということであろう。
第2条の五ヶ寺とは小湊・碑文谷・平賀・小西・中村を指すようである。池上・妙覚寺は既に身延に賜り、中山は三輪番制に復したから問題はない。
 要するに、これらは、身延が法華守宗の総本寺としての地位を得るための策謀であり、その手段は上意下達の貫徹であり、幕府権力に寄生してでも達しようとする不純な意志であった。
 この頃不受派が力を注いだのは教育であった。身延訴状によれば、この頃の不受派は松崎談所(顯實寺)野呂談所(妙興寺)山田談所の三談所であった。
松崎は少なくとも元和5,6年を中心として以降寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、この頃は円通院日調が化主として活躍していた時である。
野呂檀林は池上が身延支配となった時、大坊を退出した中妙院日観によって、野呂妙興寺に設けられた談所である。
山田は安養寺檀林のことであり、山武郡大和蔵王寺(廃寺)に設けられた談所で、碑文谷12世日晴が開き、14世日禪が第2祖となる。これは大和小西檀林が寛永8年に身延に接取され、不受の学徒は小西檀林を離散したが、これらの学徒を収用する為であった。
これらの談所はとみに活況を呈し、これらは碑文谷・小湊・平賀と連携し、池上・中山の末寺を傘下に収め、身延を攻撃する。
 では、この頃の両派の勢力状況はどうだったのか、寛永10年の身延同心の諸寺の連署がある訴状で両派の勢力の大勢を知ることができる。
訴状では日樹の弟子共并徒党の寺々として谷中感應寺、鎌倉妙隆寺、下総松崎顯實寺、上総野呂談所、鷲津鷲山寺、山田談所を挙げ、新地として愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊などが挙げられる。而して身延同心の寺は藻原妙光寺真間弘法寺、池上本門寺、中山法華経寺である。寛永7年の身池対論の時は藻原の日東、玉澤妙法華寺日遵、鶏冠井真経寺心了院日長でこれは皆身延直属の関係者である。なお心了院日長はこの頃貞松蓮永寺に住していた。
 真間弘法寺は禪智院日感が住持していたが、寛永6年3月61歳をもって頓死(歴譜)する。日感は飯高檀林7世で、日樹に与する。しかしその寂後に起った対論で池上が身延支配となるとともに、重縁のある真間はともに身延に接取されたのであろう。
 再度概括すれば、対論前、身延方は身延久遠寺、藻原妙光寺、玉澤妙法華寺、貞松蓮永寺、飯高談所の与党であったが、対論後に池上本門寺、中山法華経寺、真間弘法寺、小西談所、中村談所を加え、7本寺、3檀林となる。
旧池上方は、平賀本土寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺が中心で、谷中感應寺(碑文谷末)、鎌倉妙隆寺(中山末)、上総鷲山寺(日隆門流本寺)と松崎檀林、野呂檀林、山田檀林の3談所の体制となる。さらに愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊などの新地の寺院を建立し、あるいは在家に滞留して民衆を教化し、さらには池上旧末寺信徒の支持を得て、対論の打撃にも関わらず、宗勢は身延派を凌駕するものがあった。身延派は完全に不受派に圧倒される状況であった。
日暹が繰り返し繰り返し訴訟をしているのはその劣勢を自覚している裏返しであり、幕府権力を借りる以外に方策がなかったことを物語る。
---「禁制不受不施派の研究」 終 ---



【寛文法難】

【不受不施派の禁制】
受派(身延)は京都妙覚寺・池上本門寺などの本山を押えるも実質的に得るものは少なく、この情況を打開するため、
寛文5年(1665)身延の策謀によって、寺領朱印状を将軍よりの供養として受け取ることを画策、
寛文6年寺領を持たない寺院に対しても飲水行路も将軍よりの供養であるとして、朱印状広布を実施する。

【寛文法難】
朱印の受領を拒んだ野呂妙興寺日講ら6人は各地へお預けとなる。

【不受不施派の寺受を禁制】
寛文9年不受不施派の寺請を禁止。
 →下総の寛文法難前後の状況は 旧下総香取郡栗源町界隈以下 を参照。

【悲田派禁制】
寛文5年の朱印状広布の際、寺領は将軍の悲田供養と一方的に解釈して受領の手形を出した一派があり、これを悲田派という。
元禄4年(1691)悲田派を禁制とする。
 ※参照:伯耆河岡妙本寺(伯耆具足山妙本寺)
 ※なお、上記の河岡妙本寺以外に多くの悲田派の寺院がある。当時の悲田派寺院の一部として、拙ページには
 小湊誕生寺谷中感應寺(現天台宗谷中天王寺)、雑司ヶ谷法明寺相模衣笠大明寺などがある。
 碑文谷法華寺(現天台宗圓融寺)、廣島國前寺なども該当する。
2019/07/11追加:
---拙「谷中感應寺」のページから転載。---
●悲田派の禁制
 近世初頭から不受不施派と受不施派の対立は深刻であったが、幕府の権力安定化の方策と身延の日蓮宗内での覇権確立志向との利害が一致し、幕府及び受派身延勢力から、不受不施派は次第に禁教化の方向に陥れられる。
身池対論などの弾圧後も、不受不施派の勢いは衰えず、
寛文5年(1665)受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。
殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受、平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、青山自証寺日庭等は流罪となる。
 ※妙満寺日英、上行寺日應:伊東祐実の預かりとなり、現在の日南市北郷町郷之原に配流となる。
 日英は妙満寺38世、謫居の地に15年あり、その庵は妙満寺と称し、今は墓地である。
 日應は京都上行寺2祖、配流の後2年ほどで寂すると云う。その庵跡は伝えられないが、集落名「常明寺」ではないであろうか。
 上行寺はむしろ常行寺と綴り、常行寺が常明寺と転訛したのではないだろうか。(http://やまみや.com/menu1008.html
 なお、研究書としては「寛文法難 京都妙満寺38世日英上人/妙法山上行寺2祖日應上人殉教」中村啓堂(柳川妙経寺住職)がある。
  →上行寺は常楽院日経上人のページにあり。
 ※大野法蓮寺日完は不受不施派の後六上人から外される。その事情は→江戸青山自證寺日庭を参照。
 ※大野法蓮寺日完上人開眼日蓮上人像が市野倉長勝寺(武蔵市野倉長勝寺の項)に現存する。
寛文6年野呂檀林日講、玉造檀林日浣は寺領手形に関して幕府を苦諌、流罪に処せられる。この処置に対して各地で自首受刑あるいは多くの殉教者を出すこととなる。(不受不施は再び壊滅的な打撃を受ける。)
一方
小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感應寺日純(小松原鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺)などは寺領は悲田供養として手形を提出する。(所謂悲田派が成立する。)
しかしながら受派は更なる打撃を画策し、身延日脱、池上日現(日玄)は悲田派を邪義であると訴え、ついに
元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁ずる命を出す。
これにより、小湊は受不施に転じ、廃寺を免れるも、碑文谷・谷中は廃寺を命じられる。
---転載終り---

2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
【恩田派・悲田派】
 恩田不受不施とは公儀から寺領の朱印を寺院に交付する場合、その趣旨に供養と仁恩の二途を立てた、不受不施派の日述、日浣、日講らは供養は宗義として受けられないが、仁恩は頂戴すると回答する。しかし公儀は寺領の朱印はやはり供養であるから、不受不施の宗義とは別途に解釈して、その請書(書物)を出すように要求する。そこで、日述ら3人は供養である限り受けられないと書物の提出を拒否する。
 一方、小湊の日明、碑文谷の日禪らは朱印に好意を示し、「此度御朱印頂戴仕候義難有御慈悲ニ御座候地子寺領悉御供と奉存候」と請書(書物)を提出する。これに対し、日述らは日明らの行為を論難し、不受不施内に深刻な対立を生ずることとなる。
 前者が恩田派で後者が悲田派という。
 寛文5年12月、幕府は恩田派の日述、日浣、日講らを流罪に処し、悲田派も慈悲に隠れて不受不施の宗義を弘通しているとの判断が下され、元禄4年不受不施並びに悲田宗を堅く禁制するという全面禁制を交付する。
元禄4年以降、宗門改めの書物は「日蓮宗之内不受不施悲田不受不施宗門之者」と不受不施悲田の文言を入れたものとなる。

2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
法華宗寺院法度制定:
 身池対論の後、多くの僧が出寺する。日奥を失い、身延に接取された京都妙覚寺貫主日船は主たる僧30数名を連れて出寺する。
  →本寿院日船上人
池上本門寺では大坊の中妙院日観が出寺し、上総野呂に走る。この野呂に日観は新しく檀林を開設する。
後に、安国院日講が能化となり、不受不施禁制直後に大きな指導性を発揮することとなる。
池上では残った衆僧も様々に抵抗し、多くの末寺も違背する姿勢を見せる。
京都妙覚寺においても、ほぼ全ての末寺が違背するという。
 →上述の「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 よりなどを参照。
身延は勝ったにも関わらず、池上本末や妙覚寺本末を掌握できず、劣勢に立たされる。
 このような窮状を打開すべく、身延はまた訴訟攻撃を開始する。寛永8年(1631)から始まる訴訟は最後の目的である「法華宗寺院法度」が制定される寛文5年(1665)までの34年間絶えることなく執拗に続けられる。日体という僧は1ヶ月に3回、きちんと奉行所に出頭し訴状を出し、10年間その提出を欠かしたことはなかったという。
 第1回目の訴状の第1条は次のように云う。
「御朱印頂戴仕りたき条々
 一、法理の儀については、先年権現様御落着のところ、この度池上日樹ならびの徒党、かの邪義を救すけんがために上意に背き法義に違いしゆえ、重ねて対論仰せつけられ、邪義の族、すでに問答に屈せし間、御追放なされし上は、いよいよ寺領地子等国主の御布施供養と治定のこと」
 ついに寺領地子の性格についての訴えがある。日樹らの寺領地子についての主張は「寺領は世間の恩賞であって仏事供養の類ではない。」であった。
ついに身延側は「寺領は国主の供養」との理屈を持ち出したのである。
 幕府の統制については、他の仏教諸宗もほとんで抵抗することなく屈したが、この時の身延派のように権力の威を借り、阿り、統制と保護を願い出たものは他になかったのである。
 30年に渡る熾烈な戦いであった。両者は諸門流・諸寺・諸檀林の獲得に競合したのである。
 寛文3年(1663)前六聖人の最後一人、碑文谷法華寺修善院日進が配所信州上田にて寂する。
 寛文5年(1665)身延の訴訟を無視し続けた幕府であったが、遂に法華宗「諸宗寺院法度」を制定し、ついで「此度御朱印を頂いた寺領地子は御供養と心得ます。このことは浮腫不施の問題とは別であります。」という意味の受取手形を出すよう命ずる。
手形を出さなければ、朱印状は取り消され、寺領は失い、その結果寺の存在そのものが失われることとなる。
 ついに手形を提出しなかった四僧がまず流罪の宣告を受ける。
平賀本土寺日述・大野法蓮寺日完は伊予吉田へ、奥津妙覚寺日堯・雑司谷法明寺日了は讃岐丸亀へ流される。
 今、奥津妙覚寺の歴代墓碑の一画があるが、そのなかに表面が削り取られた一基の墓碑がある。これが日堯の墓碑だといわれている。だとすれば、後に墓銘が削られたのである。過去帳には除歴のことが記入されているという。
  →下総大野法蓮寺は下総の諸寺中     →雑司ヶ谷法明寺

寛文法難−後六聖人:
 池上日樹を失ってからのちの不受不施論者を指導していたのは玉造檀林日浣、野呂檀林日講、江戸自證寺日庭などであった。
 江戸青山自證寺日庭の場合は少し事情が違っていた。
自證寺は家光の側室(おふり、自證院)の菩提寺で、その娘の千代姫の帰依が篤かった。
   →江戸青山自證寺日庭
寺社奉行加賀爪も幾分遠慮したのであろうか、日庭に対しては出寺を勧告する策に出る。
追放された(出寺した)日庭は寺を持たぬ出寺僧として信徒の指導に専念する。この組織が非合法の「自證庵」につながってゆくこととなる。
 追放後22年後、貞享4年(1687)日庭は佐渡流罪となる。
  ※日庭が佐渡流罪となった経緯は情報がなく、不明。
   →民家に構えていた仏壇が発見されたためだという記録があり、
    奉行所へ呼び出されてからも不受不施の所論を述べ立てて流罪となるという。
   注目すべきは後六聖人の内、日庭だけが追放・お預けではなく、流罪となったということである。
   「預け」であれば、預けられた側も重要人物の扱いをし、それなりの配慮をするが、
   流罪であれば、一般の刑法犯の扱いとなったということである。
  ※日庭は佐渡相川で本敬寺に謫居したという。
 檀林は学問師であるから寺院ではなく寺領を受けてはいなかった、その為、日浣・日講の処分は遅れていた。
だが幕府は寺領地子だけでなく、土水・行路の国主の供養として、土水・行路の受取手形を書けと強弁して迫る事態となる。
 日講は土水・行路の受取手形の代わりに諌暁状「守正護国章」を提出する。
寛文6年(1666)5月、日講と日浣に追放の宣告が下される。
日講は日向佐土原へ、日浣は肥後人吉へ預けられる。
  →野呂檀林・玉造檀林は関東檀林
 寛文5年の「寺領地子は国主の仏事供養」との手形発行を拒否して追放されて僧は7人になるが、
大野法蓮寺日完は次の事情により「聖人」の列から外され、日述・日浣・日講・日堯・日了・日庭が寛文法難殉教の「後六聖人」と尊称される。
 法蓮寺日完は平賀本土寺の末寺であったため、日述と行動を共にしたところが多かったのであろうか。日述と同一に処せられ、追放は思いも及ばぬことだったかもしれない。何が目的であったのかは不明であるが、伊予吉田に追放されて7年後、日完は日述の居室に忍び込んで盗みを働きこれが発覚して死罪となったということである。
  → 正之氏サイト(拙サイトに組入)寛文の法難と矢田部六人衆 より 以下を抜粋
    1、生知院日述(平賀本土寺二十一世)は伊予吉田伊達宮内少輔へお預け 
    2、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)は讃岐丸亀京極百助へお預け 
    3、智照院日了(雑司が谷法明寺十五世)は讃岐丸亀京極百助へお預け 
    4、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉相良遠江守へお預け 
    5、長遠院日庭(江戸青山自證寺三世)は佐渡に流刑さる。
    6、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向砂土原島津飛騨守へお預け。
 2019/08/19追加:
 〇「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」 より
  日浣・日述・日講肖像画:備前恵教庵蔵
  ※おそらく大坂衆妙庵からもたらされた什宝の一つであろう。

2023/09/18追加:
 日述は下総正峰山妙興寺20世でもある。
中村(南中)正峰山妙興寺の歴代中
 17世日運(松崎妙顕寺学室七世・小湊誕生寺十九世)
 20世日述(野呂・松崎談林化主、中村檀林玄能、平賀十九世、祖山妙覚寺廿四世)
 21世日逗(玉造蓮華寺四世)
 39世日精(中村檀林122世)
  は、不受不施僧であったという。

悲田派の出現と寛文の惣滅:
 寛文5年から6年に起こった大波乱は不受不施派の「寛文の惣滅」とよぶ。
この法難は「後六聖人」と1人(大野法蓮寺日完)の追放だけではなく、京都妙満寺日英などの8人の流刑者があり、さらに加えて自害・処刑・追放の犠牲は約60人にのぼる。
 ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959 より
 寛文5年10月19日京都妙満寺日英并上行寺日應は日向小井に追放。
 寛文5年10月22日鷲津鷲山寺隠居・当住は出羽新城に追放。
 本源寺、梅嶺寺等破却。
 日窓は天台宗に改宗を申し付けらる。
 寛文5年12月10日平賀本土寺・大野法蓮寺・興津妙覚寺を身延へ下さる。
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 だが、これらの犠牲が「惣滅」だった訳ではない。これ以降、不受不施派の僧及び信者は公然と生きられなくなったというところにある。
勿論、このようなことに追いつめたのは幕府であり、そのように幕府に訴え続けた身延がいわば黒幕であるが、幕府にそのような策を採らせた大きな要因は寺領朱印受領の手形受領の問題をめぐって不受不施論者の中に生まれた「悲田派・悲田不受不施派」にある。
 「悲田派」とは寺領が国主の仏事供養ということで寄進されるなら、それは宗義に背くことになるが、宗義に背かずに寺領を受け取ることを探った一派である。
寛文5年7月受領手形のことが伝えられ、ただちに江戸では会合が持たれ、日講・日述が主導して、そこでは手形提出拒否が決められる。
ところが勝劣派の約30ヶ寺が早々と手形を提出したことが伝わると、これに心を惹かれたものが出てくる。
碑文谷法華寺の日禅である。
 その後、7月8月と何事もなく、日講らは野呂等に引き上げる。
この間、幕府の中にも不受不施に理解を示す者もいて、そういう情報も日講らに漏れ、難局を乗り越えられるという見込みもあったのかも知れない。
理解者とは井上河内守正利・老中酒井雅樂頭忠清・広島藩主浅野氏夫人(自昌院)・千代姫などであった。
 →広島藩主浅野氏夫人(自昌院)は安芸國前寺
 ※千代姫:寛永14年/1637 - 元禄14年/1699、法号は霊仙院、3代将軍徳川家光長女、尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自證院。
そして、この間、碑文谷日禅・小湊日明・谷中感應寺日純が工作を始める。
不受不施を堅守しながら、寺領を確保する方法を編み出したのである。寺領は仏事行為として受けるのではなく、といって世間の恩賞としてでもなく、慈悲として下される「悲田」の名目で受ければよいのではという考えである。
日禅・日純らは表向きは手形拒否の態度であったから、その頃信徒たちは師の流罪を予感し、寺へ押しかけ、師の本尊を求め、日禅・日純らはそれに忙殺されたという。
しかし、どうも別の方法で幕府と交渉していることが信者たちに知れ、彼らは不忍池の路端に落首を書いた高札を立てて批判し、あるいは形見に書いてもらった本尊を引き裂いて感應寺や法華寺の本堂に投げ返してやるという行動に出たのである。彼らはおそらく新興の江戸町人が多かったと思われる。下総香取郡の信徒たちとは違う階層であった。彼らには自分の帰依する寺院が幕府の強制に簡単に屈服したことが許せなかったのであろう。江戸期の寺院はただの葬式仏教に成り下がり堕落したのは事実であろうが、しかし、堕落してゆく寺院や僧侶を容認せずこれを批判した精神は存在したという事であろう。
  →碑文谷法華寺     →小湊誕生寺     →谷中感応寺
 結局、不受不施派は最終局面で手形提出拒否と手形提出派「悲田派」とに分裂する。
寛文5年11月安房小湊鏡忍寺、越後村田妙法寺、江戸谷中感應寺(日純)、相模依智妙純寺、碑文谷法華寺(日禅)、小湊誕生寺(日明)の6ヶ寺は朱印受領手形を提出する。
 「此度御朱印頂戴仕りし段、ありがたき御慈悲に御座候。地子寺領、悉く御供養と存じ奉り候」との文言であった。
こうして「悲田派」は公儀に公認されたが、厳しく非難される。
 安住院日念(日講弟子)の「梅花鶯囀記」には次の2首の落首が紹介される。
  「不受不施の理を曲げ物にすることも みなひもんや(屋)の細工なりけり」
  「日明がおくびょう者の書き物は、手形がたがた足もがたがた」
かくして、江戸の悲田派の寺院の評判は地に落ち、手形を拒否した自證寺などはかえって参詣が増すという。
日禅らは窮地にたち、遂に幕府に日講らを訴えた。日講・日述らは「土水・行路の全てもことごとく国主供養として受領せよ」という強制に直面したのである。
これについては上述「寛文法然−後六聖人」の項で述べたとおりである。
 悲田派日明らは不受不施派寺院を悲田派寺院として取り込むことに奔走する。一方身延は悲田派の3本寺以外の寺全てを受派寺院の末寺にするよう訴訟を起こす。つまり、不受不施派の寺院の大部分が消えていくこととなる。つまり惣滅である。
寛文9年「不受不施寺請禁止」令が公布される。不受不施思想及び切支丹信仰を持っていないことが証明されない限り、僧侶でも市民でもあり得なくなったということである。
--- 「忘れられた殉教者」終---

2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
《寛文法難》
大坂城対論で日奥を失い、身池対論の主軸であった日樹が没し、不受派の陣営がようやく荒涼たる時、第三の征矢が不受派に放たれる。
それはある意味、教団の致命傷であった。
 寛文3年(1663)幕府は「自賛毀他禁止」(自宗を讃美し他宗を謗ることの禁止)を日蓮宗に対して布達する。
「・・・・自賛毀他はもはや法衰えの因、争論の縁を為す、堅く制止すべく事と御書出しの通り、此度日蓮宗へ、同前仰せ出さるの間、向後相守るべくその趣、もし違背の輩は罪科行われべく旨に候・・・・」
 次いで、
寛文5年(1665)3月幕府は不受不施派寺院から(幕府の人民統治方法である)寺請の機能を剥奪した。
「公儀へ書物いたさざる、不受不施の日蓮宗寺請けに取るべからず・・・・」
つまり、不受不施派寺院の存在を否定する、その信徒と僧侶との関係を断ち切る、不受不施の信仰を棄てなければ人民として認めないという法令であった。
不受不施派にとっては公的な社会から抹殺されるという意味で、致命的な布達であった。

同年11月幕府は不受不施派の本寺を公儀に召しだし、強制的に寺領は御供養として有難く頂戴いたしますとの手形を書くべしと告げ、「飲水行路」もまた「国王の供養」との解釈を幕府自ら下す。
「此度御朱印頂戴仕候儀御供養と奉存候、不受不施の意得(こころえ)とは各別にて御座候」

これらの措置の裏面には受不施派(身延)の不受不施停止請願の裏工作があったことはいうまでもない。

手形提出を拒否した京都妙満寺日英は寛文6年10月に日向飫肥に、
雑司ヶ谷法明寺日了及び奥津妙覚寺日堯は讃岐丸亀へ、平賀本土寺日述及び大野法蓮寺日完は伊予吉田へ(いずれも寛文6年12月)それぞれ配流される。
また自證寺日庭は出寺し、地下に潜り、遅れて貞享4年(1687)佐渡に配流となる。
野呂檀林日講は「守正護国章」を提出するも、日向佐土原に寛文6年5月配流となる。同時に玉造檀林日浣は肥後人吉に配流される。

《悲田不受不施派の成立》
 ところが、小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禪・谷中感應寺日純の3者は「此度違背せしば、日本国中不受断絶」となりかねず「法灯相続の巧略はあるべからずや」と評議して、手形の「不受不施各別」の文言を除き「慈悲」の2文字を加えんことを訴訟して、許され、12月に「此度御朱印頂戴仕候儀、難有御慈悲に御座候、地子寺領悉く御供養と奉り存じ候」と手形して朱印を受ける。
越後村田妙法寺、安房小湊鏡忍寺、相模依智妙純寺も同一行動をとり、手形を受ける。
 即ち、彼ら6ヶ寺は慈悲の文字を加えることによって、本来の敬田供養の意義を変じて、悲田供養に解釈して、これを受けようとしたものである。
 本来の不受不施からは「新受」と指弾され、受派からは不受不施新義として攻撃され、信徒からは裏切りとされ、散々な評価であったが、教団をなんとか破滅から救おうと彼らなりの苦心があったことは確かである。
ここに悲田不受不施派が成立する。

《悲田派の禁制》
 悲田派はその後、再び身延の上訴によって、名を悲田に仮りる不受不施派の偽装として、処分される。
元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、大部は身延の末寺となり、受不施に転ずる。
谷中感應寺は天王寺、碑文谷法華寺は圓融寺と改号の上、天台宗に改宗が命ぜられ、さらに改宗せざる者は大量に伊豆諸島に流される結果となる。
こうして、悲田派は滅び去る。
「日蓮宗の内不受不施の儀はかねてより御禁制に候處、小湊誕生寺・碑文谷法華寺・谷中感應寺、悲田宗と号し、不受不施の邪義を相立て候に付、今後悲田宗堅く停止の旨仰せつけ、この宗旨相改め候、向後悲田宗の輩受不受になるとも又は他宗に成るとも心次第改め申す候以上、右の通り諸大名・諸番頭・諸物頭・諸役人そのほか支配之ある面々迄この旨相守り由、大目付御目付より告知するもの也」
 この当時の「宗門檀那請合之掟」には、不受不施も悲田宗も切支丹も三宗とも一派であるといい、これを邪宗として禁圧しようとする時代の意識が窺える。
三鳥派:
 この後、更に三鳥派なる衆団が登場して、「三鳥派不受不施御仕置の事」が定められ、犯すものは遠島の旨が載せられている。
幕府はこれを不受不施派の異流として認識するも、事実は単に山鳥派と自称する日蓮宗系の新興教団であったようで、またそれほど有力ではなかったらしい。にも拘わらず、三鳥派は幕府や世人によって「不受不施」または「切支丹」的に扱われ、処刑されたらしい。
 三鳥派は三鳥院日秀が富士大石寺離門後に唱えたもの。三超派とも三長派とも書くので、三島派は誤りであろう。
  →冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林
     :三鳥派は富士門流から派生したもので、不受不施とは無関係である。
---「不受不施派殉教の歴史」 終 ---


2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
◎日蓮宗不受布施派への弾圧
《豊臣秀吉千僧供養》
 文禄4年(1595)9月豊臣秀吉の京都東山方広寺における豊臣一門九族の菩提の千僧供養に法華宗は百名の出仕を招請される。
京都諸山は、古来より堅守してきた不受不施義の原理主義と、国主の布施は格別で受くべきとする受不施義の現実主義が協議される。
 長老の一如院日重(のち身延20世)の言により、本法寺日通、立本寺日抽、頂妙寺日暁など供養出仕に傾く。
妙顕寺日紹、本国寺日禎、本国寺求法檀林日乾は日奥の不受不施義による不出仕に讃意するが、日紹・日乾は日重の説諭に出仕を表明する。
 大勢が出仕に傾き、日奥・日禎は本山を出寺し、秀吉に「法華宗諫状」を献じ、「法華宗奏上」を宗祖の「立正安国論」「災難興起由来記」を添えて後陽成天皇に進上する。
  日奥:仏性院日奥(安国院、永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)は京都妙覚寺19世に28歳で晋山した英才であった。
《大坂城の対論》
 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉歿後も千僧供養は継続され、京都の僧俗は日奥・日禎の不受不施義を誉め、不出仕を支持する。
そこで日重・日乾等の摂受派は千僧供養の不出仕は公儀に背くものと徳川家康に訴える。
家康は大阪城内にて日乾・日紹らと日奥・日禎を出仕の当否につき対論を命ずる。
家康は一定の譲歩を示すも、日奥は所信を貫き家康の激怒を買い、慶長5年(1600)6月対島に配流される。
《慶長法難》
 慶長13年(1608)常楽院日経らと浄土宗との宗論「慶長宗論」が仕組まれ、日経らは負けと判定され、日経ら「刵劓刑」に処せられ、追放される。
弟子一人はその場で落命する。
《日奥と京都諸山との和解》
 慶長17年(1612)5月日奥は在島13年間の後、赦免され京都妙覚寺に帰山する。
元和2年(1616)5月19日、京都諸山を代表して妙顕寺日紹が日奥へ改悔し和融の義が成立する。
家康は日奥の宗制堅持を称え、不受不施公許を認める内心でいたが、同年4月17日、75歳で死去する。
家康の内意を得ていた所司代・板倉伊賀守勝重は元和9年(1622)10月13日、不受不施公許の折紙を出し、法華宗は再び不受不施の伝統的宗制が復活する。
《身池対論》
 元和5年(1619)6月長遠院日樹が37歳にして池上本門寺16世に晋山する。
この頃、中山、平賀、小湊、碑文谷、中村檀林、小西檀林の関東諸山は不受不施、強義折伏を主張し、日奥・日樹に同調していた。
一方では、身延は関東進出を企図し、身延の風下に立った受不施義の関西学派を拒む関東諸山は、国主の施の受・不受をめぐって再び対立する。
 寛永3年(1626)10月、将軍徳川秀忠の室・崇源院の追善法会が増上寺で行われ、諸宗に諷経(ふぎん)が命ぜられる。
池上日樹・中山日賢等は諷経して供養を受けず帰寺した。
この頃より再び「王侯除外」が問題となり、寺領・寺子(地子)は国主の供養の布施であるとする身延・関西諸山と、国主の仁恩による布施であるとする池上・中山等の関東諸山が対立が激化する。
 対立の激化を受け、身延久遠寺日暹(隆恕)を代表とする受不施派と池上本門寺日樹を代表する不受不施派の対論が、寛永7年(1630)2月21日江戸城内酒井雅楽頭忠世の邸で行われる。
これが「身池対論」である。
これは一致団結の強い法華教団を、対立二分させる徳川幕府の宗教政策に嵌った可能性がある。身池対論の審判役・天海僧正の智恵かも知れない。
 ともあり、4月1日に対論の採決が下るが、政治的判断により関東諸山は敗者となり、池上日樹、中山日賢、平賀日弘、小西檀林日領、碑文谷日進は各所に配流となり、加えてこの時既に遷化していた日奥は、再び対馬へ配流となる。
 これに義憤した小湊日税は自刃する。
日樹は池上歴世から除籍、幕命により心性院日遠が身延から池上に4月22日晋山し、不受不施の牙城である日奥の妙覚寺は、身延先住の日乾が入る。養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる。
 ※日遠池上入山の絵があるので転載する。
  身延日遠池上本門寺に入山:「絵で知る 日樹聖人伝記」 より
日樹の法弟・一如院日僧、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を堅守する。
《養珠院と壽福院》
 この対立を大檀越の観点でみると、養珠院は身延山日遠に帰依し、日暹の後盾であり、寿福院は不受不施義の池上日樹に帰依していたのである。
  養珠院:お万の方・満・徳川家康室・紀州頼宣、水戸頼房生母)  → 紀伊養珠寺、墓所は甲斐本遠寺
  壽福院:ちよ・前田利家室・前田利常生母          → 滝谷妙成寺池上本門寺壽福院逆修十一重層塔
つまり、徳川宗家の側室と外様大名の加賀百万石側室との対立の側面もあったのである。
《自昌院(満姫)と自證院(振局)》
 加賀前田家と徳川家とに法華信仰する同音の法号を有する二人の姫がいる。
寿福院ちよの孫娘自昌院(満姫)と祖心尼なあの孫娘・自證院(振局・徳川家光の室)である。
二人の「ジショウ院」たる満姫と振局は従姉妹(いとこ)同士であり、壽福院の不受不施の法華信仰を見て育つ。
《自昌院満姫》
 身池対論の採決に抗議し、池上本門寺などの不受不施僧が自害する。
あるいは出寺し、地下で不受不施を堅守するなどの深刻な事態となるが、この出寺した不受不施僧を江戸において匿まい支援したのが、自昌院である。
自昌院の父は加賀三代藩主・前田利常、母は二代将軍徳川秀忠の二女・天徳院(珠姫)である。自昌院の法華信仰は、祖母寿福院の不受不施義の法華信仰を相続したのである。
  自昌院:自昌院英心日妙大姉、満姫、壽福院ちよの孫娘、元和5年(1619) - 元禄13年(1700)
 自昌院は大乗院日達、安国院日講に帰依し、特に日講が日向佐土原に配流の砌は、兄弟の契をした間柄と伝わる。
さらに、自昌院は浅野本家の広島二代藩主・浅野光晟に嫁し、安芸国前寺を菩提寺として諸堂を再興する。
しかし元禄4年(1691)徳川幕府は悲田不受不施を禁止し、これを国前寺覚雲院日憲が拒否したため、翌年には菩提所と寺領を召上られ身延の支配下となる。
 →徳川・前田・浅野家関係図:壽福院・自證院(振姫)・千代姫・自昌院(満姫)・本妙院(充姫)系譜
 →江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人

《不受不施の法義》
 不受不施の法義は、守護国家論や立正安国論で説かれる他宗謗法者からの供養は「受けない」、「施さない」というこのである。
法華信仰を守るための理念である。留施・止施・不施は法華教団の発展に伴い解釈が拡大されてきた。
宗祖滅後、日像による京都妙顕寺、妙龍院日静による本国寺の勅願寺、祈願所になるのは後醍醐帝や将軍足利尊氏の公武の布施に
よるものであるが、初期教団は朝廷・幕府による布施は除外と考えていた様である。「王侯除外の不受不施」である。
 《不受と受派との抗争》
 身池対論の28年前、対島より赦免された日奥は不受不施義を貫き身延山と対立、身延謗法・身延参詣堕獄を主張し、身延の後立 だてとなる養珠院を諫言する。寿福院は身延・池上の和解に奔走するも不成功に終る。
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院)を建て千駄谷に移す。開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
   →原宿 妙円寺     →千駄谷 仙寿院
 宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。
寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。
  →下総中村檀林    →下総玉造檀林
   ※なお、不受派の檀林として、下総野呂檀林下総常葉檀林上総山田檀林が知られる。
 四条妙顕寺が大覚妙実より3世朗源、4世日霽の時代になると、折伏精神を忘れ摂受主義に陥る。この摂受主義を強く非難しが龍華院日実(13180-78)や明珠院日成(-1415)らであり、日實らは妙顕寺を出て妙覚寺を創立する。
 時代が近世の中央集権の政治体制になると、信仰の純粋性を保持する「不受義」と、教団の維持を図る「受義」の立場が現れ、相争ったのが「身池対論」である。布施を福田に譬えて解釈されることになる。恩田、敬田、悲田の三田思想である。
 1)恩田……父母・師匠など受けた恩に報いる布施、供え物すれば福を増す。
 2)敬田……仏法僧の三宝に供養、布施すると福を増す。
 3)悲田……貧苦者に対し慈悲の心を以て供養、布施すると福が生ず。
《寛文の惣滅》
 「身池対論」から30年のち、寛文元年(1661)8月27日、幕府は「本寺帰属令」を出し、寺院の帰属系統を明示すれば、その門流は公認していた。この頃は不受不施派も公許されていたのである。
 同5年には寺社領の朱印調査がなされ、遅れていた日蓮宗の対する「諸宗寺院法度」が定められる。寺社の朱印地は徳川家より寺社に供養として下賜されるから請書(手形)を出すよう命ぜられる。
 平賀本土寺日述、上総妙覚寺日堯、雑司谷法明寺日了、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らは宗義に反し御朱印を受け取ることが出来ないと手形提出を拒み流罪となる。
 小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺、小松原鏡忍寺、村田妙法寺、真間弘法寺、中山法華経寺らは、御朱印は悲田(慈悲で戴いた寺領)として受取ると請書(手形)を出して朱印を受けた。日明・日禅らは悲田不受不施派と呼ばれる。悲田派の清立である。
禁制された日述、日浣、日講らは恩田不受不施派と呼ばれ、僧も信徒も「寺請」を停止され戸籍を失い、寺を出奔し地下に潜んだ。
不受不施派への弾圧により逃げ切れない僧俗、悲観した人々は自刃、入水、断食、流浪する者数知れず、捕った信徒は処刑される状況である。
 手形提出を拒否した妙満寺日英、上行寺日応は日向に、鷲山寺日受は出羽に、野呂檀林の安国院日講は日向佐土原、玉造檀林日浣は肥後人吉に配流された。これが「寛文の惣滅」である。
---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終---

2018/12/23追加:
【日蓮宗不受不施派】
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
身池対論と末寺の抵抗:
慶長17年(1612)日奥赦免、日奥対馬より帰還、不受不施派は勢力を盛り返し、受不施派の批判を繰り返し、信徒の身延山参詣を止める。
孤立した受派身延(日乾・日重・日暹ら)は池上日樹らの対論を再三願い出る。
その結果、寛永7年(1630)江戸城でいわゆる身池対論が行われる。しかし事前の受派による政治工作で勝敗は決まっていたのである。当然不受側は敗北し、日樹らは配流あるいは追放となる。
なお、この時の罪名は「上意違背」であって「不受不施禁制」ではなかった。つまり、寛文期まで不受不施派寺院は存続したのである。
 幕府は身池対論の結末を京都妙覚寺と池上本門寺を身延に与える処置で決着を図る。
しかし、この結果に末寺や信徒はどのように対応したのか。
 寛永10年の「寛永年度日蓮宗末寺帳」では、妙覚寺末寺100ヶ寺の内、93ヶ寺が本寺に「違背」「于今不参(いまにまいらず)」と記されていて、末寺の本寺離反をはっきりと示している。妙覚寺末寺の多い備前・美作・備中の末寺全てが「違背」であり(33ヶ寺)、しかもこれらは直末であり、さらにその下の孫末も全て本寺から離反している。以上のような状況であった。
 一方、諸宗に対する幕府の宗教政策はといえば、寛永期から幕府は諸宗の本寺に末寺の書上げを命じ、寺社奉行-本寺-末寺の支配の枠組みを作る政策を採り、寛文期までにはその意図はほぼ完成する。しかし最後まで残ったのが日蓮宗であった。
寛文元年(1661)最後まで支配体制ができなかった日蓮宗に対し、本寺違背の末寺に本寺に従うよう、さらに従わざる末寺の僧侶は寺を出るべしと命ずる。
この指令は岡山藩にも翌年に届き、この時岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺「城下蓮昌寺、金川妙國寺、中山道林寺、津島妙善寺、邑久郡福岡實教寺、野々口實成寺、紙工大乗寺、赤坂郡矢原石井寺、和気郡片上法鏡寺、二日市妙勝寺、邑久郡福岡本興寺、北方神宮寺、東河原大林寺、下中野南光寺」は本寺に従うよう命じられる。(池田家文書「留帳」)
  ※岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺の概要
   城下蓮昌寺:城下蓮昌寺
   金川妙國寺:金川妙國寺備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 中の原番167〜177にあり
   中山道林寺:中山道林寺
   津島妙善寺:津島妙善寺、同上 中の原番58にあり
   邑久郡福岡實教寺:
   野々口實成寺:同上 中の原番136〜141にあり(實城寺)
   紙工大乗寺:
   赤坂郡矢原石井寺:
   和気郡片上法鏡寺:
   二日市妙勝寺:二日市妙勝寺
   邑久郡福岡本興寺:
   北方神宮寺:同上 中の原番62〜65にあり
   東河原大林寺:
   下中野南光寺:同上 中の原番29から30にあり
 こうした状況に、金川妙國寺はいち早く、いち早く反撃の手を打つ。
寛文元年(1661)閏8月の「本末諸寺異体同心掟状之事」<備前金川妙國寺→「妙国寺本末寺諸寺誓状」中>である。
これは妙國寺とその末寺100ヶ寺が連判し、どのような事態が発生しようとも不受不施を堅守する「誓い」を表明したものである。
 寛文2年の岡山藩の違背寺院に対する本寺帰順せよとの命が下されるも、「寛文年中亡所仕古寺書上帳」によれば、違背14ヶ寺の内僅かに野々口實成寺だけが立ち退き無住となったのみである。金川妙國寺は住職のみ「寛文年中より以前に無住」と記され、やむなく出寺したものと思われるも、寺中10ヶ寺は寛文6年まで不受不施寺院として存続する。
その他12ヶ寺も妙國寺々中と同じく、不受不施を堅持し、本寺違背のままであった。
 しかし、寛文6年(1666)岡山藩主池田光政の弾圧で、表から不受不施寺院は全て姿を消すこととなる。(廃寺とされる。)

【岡山藩の不受不施弾圧】
寛文4年(1664)から寛文5年にかけて、幕府は諸大名と寺社に朱印状を公布する。
この時受不施派(身延山)の策謀によって、寺領安堵の朱印状は将軍からの供養(敬田供養)であるとして手形を出すこととなる。
不受不施派では、寺領安堵の世間通用の仁恩の施(恩田供養)であって、信仰上の問題とは別のものであると主張するも、幕府はこれを許さず。従って、不受不施派寺院は手形提出を拒否することになる。(注:非田不受不施派)
手形提出を拒否した不受不施派寺院は全て本寺を失うこととなり、僧侶は出寺する。この時、不受不施派の主要指導者は次のように幕府から処分される。
 即ち、平賀本土寺日述は伊予吉田へ、上総興津妙覚寺日堯及び雑司が谷法明寺日了は讃岐丸亀へ、下総玉造談林日浣は肥後人吉へ、下総野呂妙興寺日講は日向佐土原へそれぞれ「お預け」の身となる。また、江戸青山自證寺日は佐渡へ流刑となる。
 あわせて、寛文4年切支丹宗旨人別改が制度化され、全ての人々はいずれかの寺院の檀徒となることが義務付けられる。勿論、寺を持たない不受不施派僧侶の寺請は出来ない訳である。
  注:悲田不受不施派
   しかし、不受不施派の内、朱印状の特権を喪失することを怖れた一派は将軍からの寺領安堵は慈悲の施(悲田供養)と解釈して
  手形を提出したものがあった。これらは悲田不受不施派あるいは悲田宗と呼ばれ、正系からは「新受」と非難され、
  受派からは不受不施と攻撃される。元禄4年(1691)悲田宗は異端として禁止され、以降消滅する。
寛文5年、諸宗寺院法度が出され、本寺の末寺支配が強化され、さらに在家での布教活動が禁止され、不受不施派の合法的手段での布教活動は一切できなくなる。
 備前岡山藩では、寛文6年6月頃より池田光政が廃仏向儒策を展開し、領民は心学(儒教)を強要される。光政は宗門改の寺請に代り神道請を実施したのである。
かくして、廃仏向儒策の遂行により、寛文7年現在で、幕府に報告された「実績」では領内寺院数1,044ヶ寺の内563ヶ寺が廃寺となり、その内不受不施宗門故に廃寺とされて寺院は313ヶ寺と報告される。
 光政にとって、諸宗寺院法度の制定と不受不施派への手形提出の強制の幕府政策は佛教弾圧の好機であった。
寛文6年8月、光政はまず、寺院法度に違反している寺院を取り潰す。咎は寺社奉行・郡奉行の許可なく無住の寺へ坊主を入れ、また弟子をとったということであった。瀬戸妙長寺住持教光坊、宗堂妙泉寺、大苅田妙泉寺、神田村知円ら4名を追放し、瀬戸村庄屋と頭百姓を籠舎する。妙長寺は廃寺、両妙泉寺及び神田村の寺は釘付けに処する。
次いで、光政は不受不施派寺院の手形拒否を捉え、事前に幕府の寺社奉行に不受不施僧についての取り扱いについて内意を窺い、手形拒否僧侶の追放はしてよいとの内諾を得て、不受不施弾圧を開始する。
寛文6年12月に津島妙善寺日精、城下蓮昌寺先住日相、赤坂郡矢原石井寺、福岡妙興寺ら4名が追放処分を申し渡される。
翌寛文7年春までに追放された不受不施僧は585人の多きにのぼる。


【不受不施派の分裂】
不受不施派禁制の後、不受不施派は非合法となり、地下に潜行する。
やがて、不受不施派内部で内信者の評価・取り扱いをめぐって論争・分裂が発生する。
儀辨院日堯・智照院日了を指導者とする導師派(堯了派・日指派)と安國院日講を派祖とする不導師派(講門派・津寺派)である。
 ※参照:本ページ中:不受不施派の分裂と動向 

【不受不施派の再興】
明治9年釈日正によって不受不施派公許が実現し、不受不施派が再興される。
明治13年本華院日心によって不受不施講門派が公許・再興される。
 ※参照:本ページ中:不受不施派の再興



日蓮上人の正系

日蓮大菩薩

日像菩薩:日像菩薩略伝

大覚大僧正:大覚大僧正略伝並びに開基寺院

久遠成院日親上人:日親上人

佛性院日奥上人:日奥上人略伝

長遠院日樹上人:日樹上人伝



備前に於ける寛文6年の惣滅

2018/09/30追加:
○「神仏分離」圭室文雄、教育社、昭和52年 より
・岡山藩における寺院整理
寛文6年(1666)岡山藩は寺院整理(日蓮宗では不受不施派の根絶)政策を断行する。この年池田光政は領内の半数を超える寺院を一挙に破却する。
その実態を延宝3年(1675)「備前備中御領寺院帳」(岡山大学池田家文庫所蔵)で纏めると次の通りである。
寺院数 割合% 破却寺 残寺 破却率%  
真言宗 401 38.7 183 218 45.6  
日蓮宗 397 38.4 348 49 87.8
天台宗 148 14.3 48 100 22.4
禅 宗 54 5.2 13 41 24.1
一向宗 20 1.9 4 16 30.0  
浄土宗 15 1.5 2 13 13.3  
合計 1035 100.0 598 437 57.8  

まず、岡山藩の宗教状況はと云えば、それは真言及び天台の密教と日蓮宗の王国であったと読み取れる。そして、その中の日蓮宗はかっては松田氏の支配地であった西備前(御野郡・津高郡・赤坂郡・磐梨郡など)では他を圧倒する力を持っていたのである。それを端的に示すのが、次に掲げる「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」であるが、言い換えれば、日蓮宗は西備前に偏在していたともいえる。
 次いで、寺院破却及び僧侶処分の傾向であるが、これは日蓮宗が狙い撃ちにされたと云える。
岡山藩における日蓮宗寺院397ヶ寺中、実に348ヶ寺が破却され、その破却率は87.8%を示す。
残寺は僅かに49ヶ寺のみなのである。
備前の日蓮宗はほぼ全てが不受不施であり、不受不施は「お上に盾突く危険な宗教」であったのであろう。そのような宗教は破却する対象であったのである。
池田光政はまさに日蓮宗不受不施派壊滅を目指した政策を封建領主の強権でもって遂行したのである。
 ※そもそも松田氏は代々日蓮宗の熱心な信者で、松田氏自身が封建領主の強権でもって領内を法華化していった経緯を経る。その結果が、「備前法華」といわれる状況を作りり出し、しかも、この地に根付いた日蓮宗は不受不施の系統であったのである。
 松田氏は封建領主の強権で西備前に法華の王国を作るも、松田氏から数代後の支配者池田光政は同じ封建領主の強権でもって、日蓮宗不受不施派を惣滅させようとしたのである。

 ところで、寛文6年の処置について、岡山藩は詳細な追跡調査を行っている。即ち宝永4年(1707)領内各郡の肝煎に命じて、廃寺とした寺院が約40年後どのようになっているか徹底して調査をする。その調査報告書が「寛文6年亡所仕古寺書上帳」である。

  2018/12/23追加:
  ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
    備前に於ける日蓮宗寺院の廃寺について

  寺     院     名 末寺数 孫末寺数 合計
  京都妙覚寺系 金川妙國寺 74 18 92
城下蓮昌寺 33 9 42
津島妙善寺 24 22 46  
中山道林寺 19 4 23  
三門石井寺 7 0 7  
その他の妙覚寺末寺 14 33 47 257
  小湊誕生寺系 5 16 21  
  六条本圀寺系 0 5 5  
  四条妙顕寺系 0 5 5  
  京都本能寺系 0 4 4  
その他・不明 5 0 5 40
            297
    宝永4年(1707)の「寛文年中亡所古寺書上帳」より集計という。
    上記の合計297ヶ寺は寛文年中の廃寺数313ヶ寺あるいは348ヶ寺とは合わないが、この理由については言及がない。
    なお、本表と同じ表を「報恩大師建立備前48ヶ寺」中の「 3.吉乗山石井寺【廃寺】」の「寛文6年石井寺の廃寺」の項に
    掲載しているので、参照のこと。(但し、「蓮昌寺」からの転載)

 備前における日蓮宗の勢力は、寛永10年(1633)京都妙覚寺が幕府に提出した妙覚寺日亮の「上京妙覚寺諸末寺覚」(国立公文書館)で、その一端が知れる。
 「備前国は蓮昌寺、妙善寺、妙国寺、道林寺、實成寺、大乗寺、南光寺、妙勝寺、大林寺、神宮寺、大久寺、實教寺、本興寺、法鏡寺、石井寺、武部の1ヶ寺、すさいに1ヶ寺、ますはらに1ヶ寺、国の原に1ヶ寺、野田に1ヶ寺、さいきに1ヶ寺・・・・備中国は巨福寺、本光寺、城国院、庭瀬に1ヶ寺、寺号失念申し候」と合計25ヶ寺が書上げられる。
 ※城下蓮昌寺、津島妙善寺、金川妙国寺、中山道林寺、野々口實成寺(實城寺)、紙工大乗寺、
 ※御野郡下中野南光寺、二日市妙勝寺、東河原大林寺、北方神宮寺、大久寺、實教寺、福岡本興寺、片上法鏡寺、矢原石井寺
 ※武部の1ヶ寺:建部の龍淵寺であろう。(「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」)
 ※すさいに1ヶ寺:おそらく蓮現寺であろうが、確証はない。
 ※ますはらに1ヶ寺:和気益原大樹山法泉寺であろう。
 ※国の原に1ヶ寺:國ヶ原眞浄寺と思われる。京都妙覚寺18世日典が「國ヶ原眞乗寺弟子中納言日利」に曼荼羅を授ける。
 寛文元年には19世日奥が眞乗寺・中山道林寺・野々口實成寺などに妙覚寺修理の奉加を呼びかける。また同年、眞浄寺々中本正坊は
 「本末諸寺異体同心掟状」に連署をしており、寛文6年には本正坊住職は立退き(出寺)する。
 ※さいきに1ヶ寺:佐伯大王山本久寺と思われるも、確証はない。
補足:美作に妙覚寺末寺8ヶ寺あり。その内に「福渡 妙福寺」「同 壱ヶ寺」とあるという。「同 壱ヶ寺」とは川口村妙泉寺と思われる。
しかし両寺とも「違背」(不受不施の意)と記される。

2018/09/30追加:
備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧

 次に掲載する「寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」は備前(岡山藩領であった備中の一部を含む)における日蓮宗のしかも最盛期と思われる寺院のほぼ全容を示したものと思われる。(「岡山県通史 下巻」永山卯三郎、昭和5年 所収)
もっと正確にいえば、受不施に転向した寺院は、廃寺を免れたので、本「廃寺一覧」は備前における不受不施派の全容と云える。
 ※上述の圭室文雄の「神仏分離」の破却の実態の表でいえば、日蓮宗の破却寺院数348ヶ寺にほぼ相当する寺院を網羅したものといえるであろう。
 破却を免れた日蓮宗寺院49ヶ寺が受不施に転じた寺院であろう。

2019/10/26追加:
備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧は次のページに移行しました。

備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧

不受不施派弾圧による備前尾上村の動向

○「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」東昇、服部英雄研究室(九州大学)、1997 より
尾上村は津高郡に属し、享保6年(1721)の「備陽記」によれば、石高は1680石余で津高郡2位、家数134軒・人口793人で郡内で第1位の大邑である。

1 寺と祠がつぶされる ―池田光政の廃寺と寄宮―

1.寛文6年の危機 廃寺と寄宮
 寛文6年(1666)4月26日光政江戸を出立、5月10日岡山到着、同月18日の日記に次のように記す。
  国中在々わけもなき小社共、五千石地ニ壱ヶ所ニあつめ、吉田殿へ申ふうじこめ、
  其外大社又ハ所々之おふすな(産土)ハのこし置可申候哉と、三人代官頭申候、一段可然と申付候、
      小社之書付大かた
      壱萬千百余つふし候事
 これが寄宮政策の始りである。光政は領国の大社・氏宮(601社)を除く「わけもなき小社」(淫祠)11100余(10527社)を整理し、5000石(代官所)単位で72社の寄宮を新しく建立した。これらの小社は、氏神などと違い、村人の個々の願いうぃ聞いてくれる、もっとも身近な神であった。その神をいきなり壊せと藩は命令したのである。
 また同年、幕府より不受不施派禁制の法令が出され、備前法華の法華とは即ち不受不施派と同義であった岡山藩では不受不施派を中心とした僧侶の追放・還俗・寺院の破却を実施した。領内1044ヶ寺の内、563ヶ寺が破却、日蓮宗(当時の備前では不受不施派と同義)に限れば、397ヶ寺の内348ヶ寺が棄却される。これが「廃寺」である。
 尾上村は「備前法華」の中にあり、殆どが日蓮宗の檀家であった。小社の破壊に続いて廃寺、村人たちは2重のショックを受け、それを大変な危機と感じたであろう。
前年の寛文5年より「切支丹宗宗門御改帳」の作成が始まっている。備前藩においては翌年の廃寺を視野に入れた「宗門改帳」の作成でもあったと考えられる。
2.村民の廃寺の対策
次の表は尾上村の宗旨変遷を軒数別に寛文5年から現在まで表したものである。

尾上村の宗旨変遷(軒数)
寺院名 寛文5年 寛文12年 延宝8年 貞享2年 元禄2年 元禄10年 元禄12年 元禄13年 寛延年中 宝暦12年 平成7年
尾上妙光寺 33
一宮教壽院 14
城下蓮昌寺 8 1 1 1 1 1
辛川市場元妙寺 6
白石圓住坊 2
大安寺大然寺 3 3 2 2 5 5 12
備中花尻本立坊 2
備中花尻蓮正坊 1
備中東花尻妙傳寺 67 65 78 87 90 92 112 96 102
日蓮宗合計 66 0 68 65 82 91 93 95 117 101 114
禅宗備中庭瀬松林寺 1 1 2 2 2 2 2 2 5
禅宗備中庭瀬應徳寺 1 1 1 1 2 2 0
天台宗一宮徳壽寺 13 18 23 22 23 41 42 60
真言宗備中宮内栢之坊 3
神道 97 23 4 4 4 4 4 3 3
総合計 83 97 92 69 107 121 122 125 165 150 179
出典 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 則武文書 聞取り

 日蓮宗津島妙善寺末松田山明光寺(尾上妙光寺)、辛川市場元妙寺、白石圓住坊は寛文6年廃寺となる。
但し、一宮教壽院とは不明。備中花尻本立坊・備中花尻蓮正坊も不明、しかし花尻は資料中には備中とするが、そもそも花尻は備前であり、備中ではない。しかし、何れにせよ本立坊・蓮正坊とは不明である。
 寛文12年には廃寺の影響で、村人全員が神職請(尾上八幡宮中山庄兵衛)となる。
それから8年後の延宝8年(1680)には寛文5年とほぼ同数の檀家が日蓮宗に復帰する。しかし、その旦那寺は備中の東花尻妙傳寺となる。
 ※東花尻妙傳寺は庭瀬不変院末、備中に所在し、当時は幕府領後庭瀬藩領であり、弾圧を察知し、備前尾上から備中へ退避したともいわれ、現在でも檀家の殆どは尾上であるという。 →東花尻妙傳寺は備中東花尻中にあり。
 尾上村の不受不施派の村民は寛文6年廃寺され神職請を強制されるも、神職請が延宝2年に緩和されると、すぐに隣接する他領の妙傳寺の旦那になったのである。これは岡山藩の支配の及ばないところで信仰を続けようとする村人の抵抗であったと云える。
それは文化8年(1811)妙傳寺の旦那であった尾上村111軒・一宮村21軒・辛川市場村4軒合計135軒の離旦争論からも推測できる。3村の旦那たちは妙傳寺が本山との出入により「旦家法用指支」(これは「檀家法要差支え」という意味か)になったので津高郡内の寺へ預旦那を願い出た。そして妙傳寺の出入が落着する文化14年までの6年間、離旦し続けたのである。そこには自分たちの信仰のために寺を随時変えていく村人たちの姿があった。廃寺されると他領に寺を変え、法要などができないとなると、また寺を変えて信仰を続けた。
 その信仰を支えたのは何か。それは現在尾上村に存在する宗旨別の「講中」であろう。日蓮宗には集落を中心とした講が中石・畑・向山・久保谷・北浦講中の5つが存在する。その講中は次の3つの堂に分かれ活動している。
 1)久保谷の堂(久保谷辻堂)
   久保谷講中:日朝・大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈が祀られ、すべて別々のお祭りを行う。
 2)畑の堂(畑日蓮堂)
   畑・中石・向山講中:大覺・題目石(日蓮)・笠塔婆・地神・常夜燈を祀り、全て一緒にお祭りを行う。
 3)北浦の堂(北浦日蓮堂)
   北浦講中:大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈を祀り、大覺と題目は一緒に、地神は別のお祭り。
    →久保谷辻堂、畑日蓮堂、北浦日蓮堂は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。
 これらの堂には題目石(日蓮)、大覺大僧正・地神はセットで祀られ、それらの年紀は江戸後期のものであり、近世から講は続いているものと思われる。また備中東花尻には天正19年(1591)銘の題目石が存在し、そこには「花尻村東西真俗一給仕」とあることから、講中は近世初頭から存在していることが伺える。現在も尾上の講中の人々が堂に集まり「日朝様」「大覺様」などと年に7〜1回のお祭りをしている。
  →上記の東花尻の題目石は「備中東花尻おそっさま(御祖師様)題目碑」<備中東花尻中中のあり>を参照。
 以上から近世にも同様に日蓮宗の信者は普段は堂を中心とした講中で祭を行い、葬式や法要を寺に依頼するという形で、廃寺政策を行う岡山藩や法事差支えの寺から自立して、自分たちの信仰を守り続けたといえる。
 ※もちろん、これらの信仰は受不施に転向した日蓮宗信者の信仰で、不受不施を堅固した信者ではない。その意味で、より緩やかな抵抗であったと云える。しかし、緩やかな抵抗といえども、強靭な抵抗であり、そのしたたかさには瞠目するものがある。不受不施を堅固した信者は内信などとして別の苛酷な道を歩むこととなる。
3.祠の復活
次に寄宮された祠はその後どうなったのか。まず寄宮はどうなったのか。
寛文6年祠は72社に寄宮された。しかし、人為的な寄宮は村人とのつながりがなく、次第に荒廃していく。
藩は寄宮の修繕費用の捻出などの方策を打ち出すも、所詮氏子のいない寄宮の荒廃を止めることは出来ず、ついに正徳3年(1713)諸郡の寄宮66社を上道郡大多羅村に遷宮する法令が出される。諸寄宮の修繕費用を大多羅寄宮1ヶ所に集中するというもので、これは事実上の寄宮の終焉であった。
この大多羅寄宮は、元からあった句々迺馳(くぐのち)神社の境内を拡張するもので、現在は17間×9間という大きな基壇のみが残る。岡山藩は大多羅寄宮に毎年社殿の修理費と神供料を支給したが、廃藩置県後大多羅宮は荒廃し取り壊され、明治8年布勢神社へ合祀される。昭和2年近世創建の神社が初めて史跡指定される。
 この寄宮の顛末は、村人の信仰なしには、寄宮は存続できなかったということであろう。
 では、寄宮と比べて寛文6年に廃止されたはずの祠は本当に消滅したのであろうか。
貞享年中(1684-88)には「小社末社を建つるものあるを以って神社帳を製す」とあり、尾上村のその神社帳は現存しないが、かなりの小社が現存したことが推測される。
元禄4年(1691)小社は再び禁制となる。
元禄11年(1698)詳細に調査がなされ、驚くべきことが判明する。津高郡の121村に1649社もの膨大な小社・祠が存在していたのである。(則武家文書)
尾上村では
 氏宮八幡宮、番神2社、大藏1社、神馬ノ神2社、さいの神2社、地主神4社、荒神2社、いぬ神1社、祝神3社の合計18社が存在していたのである。
これを聞取りによる現在と比較すると番神1(久保谷)、地主神4(久保谷・畑・北浦・南浦)、大藏1、さいの神1と7社確認できる。
尾上では元禄期に確認できる地主神4社が、現在でも存在し、先の日蓮宗講中などを中心にずっと祭を続けているのである。
 祠は小さい神であるが、先にみた寄宮と違い藩の政策などでは消滅しない強い日常的な信仰が存在したと云えよう。
  ※番神1(久保谷)は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。

次項以降はトピックスをピックアップする。
2.移動する身分 -ある時は神職深井出雲、ある時は百姓伝兵衛
尾上村中石は殆どの家が天台宗一宮徳寿寺の檀家である。天台宗も日蓮宗と同じく部落中心の講が4つある。
向山・上中石・下中石・和田である。
 →天台宗徳寿寺は
3.検地にいった藤次郎 -尾上村の村役人たち-
手習所とは岡山藩が寛文8年に平均5,6ヶ村に1ヶ所づつ設けた教育機関である。目的は先にみた寛文の寺院淘汰の結果、僧侶を師匠とする寺子屋で百姓が手習・算用を学ぶ機会が減少し、その代替策として造られたものであった。
しかし手習所は経営難に陥り、延宝2年(1674)14ヶ所に統合されたが、翌年には廃止された。これも寄宮政策と一緒で百姓の間の根付くことはなかった。
(以下略)
---「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」end---


不受不施派の分裂と動向

2019/08/05追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
法中 ― 施主 ― 内信
 僧の内、あくまで不受不施を貫らぬいた僧は出寺して流浪の僧となるが、これを「清派の僧」・「法中」という。
信徒の側では、敢然と寺請を拒否し、無宿・帳外れとなって法中に従う者を「法立・清派・清法」という。
さらに、信徒の内、内面では信仰を棄てず、他宗派寺院の檀那として宗門改帳に判を押している者を「内信」という。「仮判の者」ともいう。
 法立を「清者・清派」とよぶことの対比で、内信は「濁派・濁法」である。
しかし、法中―内信の関係で、表面上のこととはいえ、「濁派・濁法」である内信から、「清派」である法中へ供養することは不受不施の根底が崩れることとなる。そこで出てくるのが「施主を立てる」いう考え方である。そして、まさにその「施主」の役割を果たしたのが「法立」である。
 当然、法中の活動や生活を支えるのは多くの「内信」であり、内信者なくしては法中の活動や生活は成り立たず、この意味で内信者こそが不受不施を200年を超えて支え続けたというべきであろう。
 ともかく、内信は法立を施主として法中の生活を支え、法中は法立を介して内信の内面の信仰を確認するということが行われたのである。
法立については、清派の僧が肉食帯妻をしないため、僧は法立の中から育てる外はなく、僧の供給を担っていたことも重要であろう。さらに、一人の法立は数人ないし数十人の内信を掌握し、内信を指導する立場でもあったし、時としては、内信は公民として生活しているため布教は出来ず、布教活動もおこなっていた。人目を避け、夜中にこっそりと行われる集会・看経講が内信集団の要であり、法立はこれを指導したのである。
--- 「忘れられた殉教者」終---


導師派(堯了派、日指派、堯門派)と不導師派(講門派、津寺派)とに分裂
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、「岡山県緊急古文書調査報告書・不受不施派資料目録(2)」解説 より
 天和2年(1682)備前岡山の法立が濁法の看経に導師を務めていたことが発覚・問題となる。
つまりは、「法中(不受不施僧)」に代って「法立(不受不施信者)」が「内信者」のために看経の導師を勤めてよいかという問題である。
この問題に対し、備中津寺庵の覺照院日隆と日向佐土原に配流中の日講は導師を務めてはならないと主張(「不導師派」「津寺派」)し、
一方
讃岐に配流中の日堯・日了と備中日指庵の覺隆院日通は日講批判も含めて、導師を務めても良いとした。
勿論この論争は看経の導師の資格の問題だけではなく、複雑な主導権や感情までもが入り乱れ、備前・備中だけではなく、全国に波及し 、抜き差しならぬ対立を生む。
この対立は明治維新後も尾を引き、津寺派(講門派)は不受不施講門派となり、日指派(堯門派)は不受不施派となる。
 ※津寺庵及び日指庵の位置は明解にし難いが、津寺庵は備中都宇郡津寺村、日指庵は備中日差山付近に存在したものと推定される。
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
 天和2年岡山城下で法立宗順が内信の看經の導師をしたことから、春雄院日雅、讃岐流僧日堯が、内信・清者を列名にして授与した本尊が謗法となるか否かの問題となり、これをめぐって日指庵の覚隆院日通と津寺庵の覚照院日隆を中心とする二者の異義となって争う。
日堯・日了・関東の長遠寺日庭は日指庵の日通を支援し、日向流僧日講・京に潜伏の岡山蓮昌寺出寺の日相・佐渡阿仏房出寺の最勝院日養は津寺庵の日隆を支持する。(「日蓮宗教学全書 21巻」)
 ※春雄院日雅:備前吉崎(宗堂村)妙泉寺出寺僧、寛文6年出寺。日雅が久世看經講に与えた本尊が天和2年に問題となる。
 なを、上に掲載の「備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧」の原番2年の231〜234.1を参照。
 ※日堯は御津郡出身で、上総妙覚寺住僧、日述・日講らと盛んに不受不施の本義を唱える。寛文5年讃岐丸亀に流罪となる。
 ※日了は江戸雑司ヶ谷法明寺15世で、熱心に不受不施を説く、寛文5年讃岐丸亀に配流となる。
 ※日相は岡山蓮昌寺の住僧であるが、寛文の禁圧で出寺し、京都方面に潜伏する。日講・日養とともに津寺を支持した。
 ※論争は当事者が世を忍ぶ者ばかりで、書状によるしか方法は無かったであろう。僧俗を往復した書状は20余通が残り、
 「日蓮宗教学全書 21巻」昭和36年に納められている。

2019/08/05追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
講門派・堯了派の分裂
 延宝4年(1676)前六聖人の一人・肥後人吉の日浣が寂する。
 天和2年(1682)同じく前六聖人の一人・伊予吉田の日述が寂する。
天和2年9月法立の江田宗順は岡山栄町の内信万助宅で仏事を執行し、10月同じ栄町の内信丁字屋九郎太夫宅で内信者の読経が行われた時、導師を務める。これ自体、普通のことで問題があるわけではないが、日指村の日通と津寺村の日隆との論争で、これが問題視され、紛糾の契機となる。
 この時、不受不施派では、佐土原の日講、丸亀の日堯と日了、まだ地下潜伏中の日庭の4人が法燈としての地位にあり、指導者であった。
さらに同じ時期、備中では日指村唯紫庵の覚隆院日通と津寺村覚照院日隆との論争があり、これがますます先鋭化していた時、江田宗順の事件が発生する。
 論争の焦点は「清と濁との混乱」についてである。要するに、清者(法中と法立)と濁流(内信)との接触において、清者の不受不施が守られる限界はどこに引かれるべきかということにあった。
アバウトにいえば、津寺派(日隆)は厳格に、日指派(日通)はやや緩やかにということであった。
 宗順の行為は特に問題となるような行為ではなかったが、宗順は法中の許に呼ばれ、濁法導師を勤めたという噂の真否を問われる。
宗順はそれを認め、さらに美作久世の看経講の出来事として、法立の浅島助七が導師を勤めているのを見たと陳述する。久世では春雄院日雅の妙泉庵の影響下の内信組織が活動していたようである。ここでは、日雅の本尊が看経講に授与されていた。
 浅島助七の言い分が聴聞される。助七は濁法看経の導師を勤めてはいないと陳述し、日雅の本尊に香華燈明を供えるばかりであるとも陳述する。
天和3年(1683)宗順と助七は岡山下ノ町で対決させられ、助七は結果的に看経の導師を勤めたことを認めたようである。
 成文である「妙覚寺法式」では同与罪・つまり他人の謗法を放置することも謗法とされている。となると、宗順は同与罪にも問われる事態となる。
さらに、時期や経緯は分からないが、浅島助七には日指方(日通)が付き、江田宗順には津寺方(日隆)が付いていた。日指方は助七が謗法とされるのを防ぐためか、日雅の本尊が清濁混同の謗法というなら、丸亀の日堯が天和元年に因幡の内信組織に授与した本尊も謗法なのかと、日堯の本尊を持ち出してきた。
日堯の本尊には、日雅の本尊と同じく法立と内信の双方に授与する旨の文言が書かれていた。
両者の対立は抜き差しならぬところまで、激化したのである。
宗順の事件発生から2年目、貞享元年(1684)日堯・江田宗順・日雅が相次いで逝去する。
元禄元年(1688)丸亀の前六聖人・日了も寂する。
以上のように、関係者が相次いで死去するも、対立は収まらず、元禄2年両者の分裂を確定した「除講記」とその反論「堯了状能破条目」および「愍諭盲破記」が書かれる。
 勿論、調停を試みた人物はいた。備前の法頭職で城下蓮昌寺出寺僧で、当時京都にいた日相や後に大阪衆妙庵を指導する世雄院日純などである。しかしその調停は行き詰まっていた。
 一方佐土原の日講は当時不受不施派最高の学識者として尊奉されていたので、日講に調停を依頼しようとする動きも強かった。
貞享2年5月備前の逢沢清九郎が日講のもとを訪れて調停を依頼するとともに、春雄院日雅と日堯の本尊を渡し、かつ堯了の書簡を提示した。
 *堯了の書簡:日堯・日了の連名で備前の立賢(恐らく法立)に宛てた書簡で、清者と濁者を連記した本尊を拝しても差し支えないことなどを記す。
日講は日雅と日堯の本尊は確かに謗法に値するも、これを禁じた条目は未制である故に、罪を責めないということで処置をしようと企図する。そうすれば浅島助七も江田宗順も謗法とはならず、日雅と日堯の本尊を拝した日指方の法中・法立に同与罪を当てはめる必要はなくなる。
そして、日講は問題の本尊二幅は永久に自分の手元に置こうと考えた。
 日指方では、条目未制定であるから謗法罪に問わないという日講の案に承服し、日相の立ち合いで日通と日隆が京都にて和解する手順でことは運ぶ。
とこらが、予定された京都の会合に日隆と日相は出席しなかったらしいという。これ以降、両者の和解は不可能となる。
 貞享元年(1684)日堯、4年後の元禄元年(1688)日了も寂するが、日指方は日講に匹敵し得る指導者として江戸の日庭を仰いでいた。日庭自身も日指方を支持する旨を伝えていたのである。
 日指方は内信―濁法を高く評価することの法理を確立して事態に対処する姿勢を固めたのである。
日了は死の数ヶ月前、日通へ文を書き、日講の手元にある二幅の本尊を取り戻すよう当地の信者二名を日講のもとへ遣わすことを知らせる。
 その二名の使者は、以前に日講のもとに本尊を持参した備前の逢沢清九郎と讃岐の長兵衛であった。
両名は元禄2年(1689)3月18日に佐土原に到着。日講は使者を待たせ、「日堯状の能破を著述」(「堯了状能破条目」)する。
3月24日二幅の本尊が二人の使者に返却される。この時、日講は立ち会わず、安住院日念(田口平六)が手渡すという。
 不受不施派はこうして二派に分裂する。日指派−堯了派・堯門派・導師派と津寺派−講門派・不導師派である。
  *安住院日念(田口平六)は日講に佐土原まで随身し、日講の従者及び秘書役であった。
  *論争の文書として日新の「石上物語」がある。これは津寺側に立って書かれた論争の総括文書である。

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
不受派内部の分裂
 天和2年(1682)9月備前岡山の法立宗順が岡山栄町の内信万助の仏前を拝し、同10月には内信丁字屋九郎太夫方で濁法の看経に勤めたことが問題となったところ、実は美作久世で法立浅島助七がすでに濁法の導師をしていたのに倣ったに過ぎないことが分かる。
助七に事情を聴取すると、春雄院日雅が助七に授与した本尊を看経経の時架けて礼拝しただけで、導師は勤めなかったと弁疏する。
その曼荼羅には講中の内信六人の法名が列記されていた。この書き方は内信と清信の混乱を招くという批判が春雄院日雅の書き方に向けられる。
そこで春雄院側は、これに抗弁し、その拠り所は讃岐丸亀の流僧日堯が因幡の信徒に授与した「授与法華行者内信妙法之清信士女者也」にあるとし、内信も清信も「一結」で等しく不受の行者であって別のものではないとし、これがもし謗法なら日堯も謗法の同罪だと主張する。ここに問題は紛糾する。
日講も調停斡旋を試みるも、感情問題も絡み、遂に和解は施立せず、分裂となる。
即ち助七の属する日指方と宗順の属する津寺方と分裂する。日指方は導師派・堯門派と称し、世雄院日相を首領とする津寺方は不導師派・講門派と称する。
 両派の異同については
1)導師派は表面受不受に属しても内信に不受を信ずるものは宗門改めを受けても清僧を導師として改悔する故に等しく浄と見るのに対し、不導師派は法財ともに施主を立てるが、外濁の点に重きを置き、内信者は濁者とし同行同座を禁じその財施は受けない。
2)導師派は国主諌暁を不可欠の行とするのに、講門派は時節が到来しないときの諌暁は虚仮の行で意義がない。
3)導師派は内信者も清浄とみる故に之に曼荼羅を授与し、また仏像を開眼して、僧はこれを礼拝する。不導師派は捨本尊・捨開眼と称して僧侶は内信者を異端と見、その所持する曼荼羅や仏像を礼拝しない。
4)導師派は僧も内信者と同座し回向の導師となるが、不導師派は僧と内信者の同座を禁じ導師をしない。内信者だけで回向するときは人々各自に言上する。
以上を両派間の四異という。
 ところで、明治以降、不受不施が公許となって、今は内信であることの必要はなくなっている。つまり四異は両派の対立の軸ではなくなっている。
然るに、不受不施派(日指派)と講門派(津寺派)は別派のままである。おそらくは根深い「水火の異目」があるのだろう。
それはそれとして、現今では、不受不施派の唱える清僧の肉食帯妻の禁戒だけが、対立点ではなかろうか。

清濁論争
 元禄2年(1689)日指派(堯了派)と津寺派(講門派)とに分裂、元禄4年(1694)約80人の僧が流罪、自殺者も数知れずという元禄法難が降りかかってくる。
両者の決定的な相違は何か。それは内信の評価であろう。日指派は内信が内面の信心において清者とつながっていると評価するが、津寺派は外面の謗法において他宗の謗法者とつながっていることを強調する。

禁制の評価
 日講においては、自身が寛文6年に諌暁を行った、そして、佐土原に追放となる。つまり、禁制によっていわば時間は停止しているのではないか。それ故というのか、この派に連なる者の諌暁は無用のものとなる。
 日指派においては、禁制であっても、いわば時間は動いている、禁制下であっても励まし合い、時には謗法を指摘しあい、一人の僧がその準備に何年も費やした諌暁に出かけていくのを世話し、その成行きをひそかに見守っていたのである。
--- 「忘れられた殉教者」終---




2024/03/25追加:
「岡山県史 近世U」 より
 導師派(堯了派、日指派、堯門派)と不導師派(講門派、津寺派)との対立は「内信者をどう評価するか」の問題ともいえる。
備前はいわば「絶対専制君主」である池田光政が支配する地域であり、その権力でもって寛文年中には一気に不受派寺院は惣滅させられ、不受僧は全て追放となる。
それ故、この地域では初期の段階から一気に信者と寺院との関係は断たれ、いやが上にも、内信者を基盤にせざるを得ず、内信者を重視する雰囲気が出来上がっていたのではないかと思われる。
導師派は内信者を重視し、表面上は受派に属するも内面は順縁とするが、不導師派は内信について外見上は他宗の檀徒であり、逆椽とする。
言い換えれば、備前のように寺院・僧侶が壊滅的な弾圧を受けた地域と内信寺の存在が暗黙的に容認されていた例えば下総のような地域も存在し、それが内信者に対する評価は分かれたと考えられるのではないか。
「房総禁制宗門史」加川治良 より
 下総では悲田派停止の弾圧で、余儀なく受派に転向した諸寺の名か中に内信を立てる寺が成立することとなる。
一方の「備前法華」では藩主池田光政により、寛文6年不受派寺院313ヶ寺、僧侶585人を取り潰し追放し一気に不受不施派を消滅させている。その結果、下総のような内信寺が成立し得ないほど逼迫しており、寺を残すより一気に「内信庵」の成立に進むこととなる。
下総では、備前藩のような単一の権力がない。下総は江戸城の外堀のような形で旗本の知行地として再分化され、一村が相給であることも多く、その上、地頭・代官によって行政が執られる形であり、池田光政のように廃仏や寺社統制を一気に進められない。このような権力構造であったから、「内信寺」が成立し得たのである。





不受不施禁制後の動向
 (平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
堯了派は備前を中心に強固な内信組織を作る。
18世紀中葉には12の庵ができ、この内7の庵は金川と周辺の村に置かれる。
しかし天保法難(下に掲載)では壊滅状態となるも、ただ一人難を逃れた照光院日恵によって再建され、その弟子釈日正によって不受不施再興運動が起される。
釈日生は文政12年(1829)宇甘上村九谷に生まれ、日恵の弟子となり、内信組織を統一し、指導者となる。
文久3年(1863)弟子日献・日徳に幕府と朝廷に出訴させ、明治元年には新政府に自ら出訴する。
この出訴は神仏分離や廃仏毀釈などで実現せず。
しかし、ついに明治9年不受不施派の公許を勝ち取ることとなる。この堯了から派生する流れは日蓮宗不受不施派となる。
講門派は寛文法難で日向佐土原に預となった安國院日講を派祖とする。
天保法難までは大坂高津の衆妙庵を本拠として組織を維持していたが、天保法難(下に掲載)で組織は壊滅し、僧侶は一人もいなくなる。
明治になり、同派の僧侶として恵蓮院日心を擁立し、再興運動を展開する。明治12年恵蓮院は遷化し、その弟子本蓮院日心が再興運動を引き継ぎ、遂に、明治15年日蓮宗不受不施講門派として公許・再興される。現在は不受不施日蓮講門宗と称する。
本山鹿瀬本覺寺は鹿瀬妙宣庵の地である。

地下に潜った不受不施派
○「岡山県史 第7巻 近世2」1986 より
 寛文4年(1664)キリシタン宗旨人別改が全国的に施行され、不受不施派信徒もどこかの寺の檀徒になるように義務付けられる。
しかし、不受不施派寺院は公認されていないため、信徒は次の三通りの選択を迫られることとなる。
 1)不受不施信仰を棄て、まったくの受不施か他宗に転宗する。
 2)表向きは受不施か他宗の寺請けをし、密かに不受不施の信仰を続ける。
 3)あくまで寺請けをせず、無籍者となり信仰を堅持する。
であるが、多くの信徒は2)を選択する。
 彼らは内密に信仰を維持する者であるから内信者と呼ばれた。また外見上は他宗や受派の檀徒となっているので、外濁内浄(げじょくないじょう)・濁法(じょくほう)とも呼ばれた。
寺院にも同じ立場があり、これを内信寺・外護寺(げごじ)と呼んだ。
3)の立場を採る者は内外ともに純粋に信仰を守るものと(内外倶浄)であるから、僧俗とも清法(しょうぼう)・法立(ほうりゅう)と呼ばれ、特に僧侶は清僧と呼ばれた。彼らは寺請けを拒否し除籍をした無籍者であったから、全く社会生活を営むことができず、彼らが信仰生活を営めるかどうかは、経済的援助を行い得る内信者をいかに組織化するかに懸っていた。
 しかし、一方では内信者は表向きは受派もしくは他宗の檀徒であるため、内信者からの不施は不受不施宗規に違反する。ここに不受不施信仰維持の方法をめぐり、内信者の評価をめぐって、大きな問題が発生したのである。
 天和2年(1682)法立の宗順が、岡山栄町の内信者万助宅の仏前を拝し、同町丁子屋九郎太夫宅で始経導師をしたことがことの発端と云われる。つまり他宗檀徒である内信者の仏前を、内外倶浄である法立が拝し、始経導師をするのは清濁混同なのではないかという疑義である。
 確かに、当初は、他宗の布施は受けず施さずの不受不施宗規から、不導師が正しいのでないかという論調であり、宗順の懺悔に対し、美作久世の法立湯島助七が異義を唱える。
この対立は僧侶にも波及し、当時備中日指庵(日差山)にいた覚隆院日通(導師派)と備中津寺庵(津寺村)の覚照院日隆(不導師派)が対立する。
さらに、法立と内信者を同一に列記していた春雄院日雅と儀辨院日堯の本尊が清濁混同の誤りを侵しておるのではないかという問題にも発展する。
 これらは、当時西国筋で指導的立場にあった日相(蓮昌寺出寺僧・当時は京都に在住)、日向佐土原流僧日講、讃岐丸亀流僧日堯・日了を巻き込み、論争となる。
 ※日相・日講は津寺庵日隆(不導師派)の立場に立ち、日堯・日了は日指庵日通(導師派)を支援する。
こうした中で、最も過酷な弾圧を受けた備前では、はやくから寺との関係が断たれ、内信者を基盤とせざるを得ない状況であったから、内信者を重視する風潮があったようである。
日通は、内信者は権力に強制されて他宗の檀徒になっているのであって、心は純一に不受不施信仰を守っているので順椽である。だから法立は始経導師をしてよいという。
 一方、不導師派の日隆らは、内信者は外見上他宗の檀徒であり、逆椽である。だから導師をしてはならないとする。日講に至っては、内信者は「公庭を懼れて仮判するほどの者」であり、臆病者として批判をした。
 次いで、施主の位置付けについても、当初は導師派と不導師派とにおいて、意味合いが違っていた。
 寺請けせず無籍となり社会生活を営むことができなくなった清者や清僧は生命を維持し布教活動を行うためには、内信者の布施に頼るしかない。だが、内信者は表向き他宗の檀徒となっているから、直接布施を受けることはできない。そこで、一種の「便法」として清者が内信者と僧侶の間に立ち「施主」として内信者の布施を僧侶に取り次ぐ方法が採られるようになる。当初はまだ寺請け前の幼児や村役人に頼んで除帳してもらった隠居などが施主に立った。つまりは、まだ内信者は組織化はされていなかったと云える。
 ところが、寛文期より徹底した弾圧をうけた備前の導師派ではいち早く内信者の組織化が行われる。つまり、内信者とは、その条件として心の内で信仰するだけではなく、外相の仮判を懺悔し「施主」を立てて清僧を頼み清浄三宝を供養することがその条件であるとする。清僧-施主-内信者の組織が確立されたのである。
施主は内信者の上に立ち、同時に清僧の下に位置し、内信者と清僧との間を取り持ち、僧侶と同様な仏事作善も可能とし、さらに布教活動も可能とするものであった。内信者も教団の一員として組織化されたのである。
そして、この組織化は、備前に於いて不受不施派が内信者を飛躍的に獲得し、半ば公然と信仰活動を行い得る状況を宝暦期(1751-63)頃に作り上げる礎となったのである。早くから弾圧により寺院を失い、拠るべきものは内信者の布施しかなかった備前の法華にとっていわば必然であったのであろう。
以降、度重なる法難(弾圧)によって、一時僧侶がその地にいなくなっても、明治維新までその組織を維持し続けることができたのは、組織の要である施主の存在が大きいと云える。
 一方、内信寺(外護寺)に基盤を置き、当初内信者を軽視していた不導師派は、次第に内信寺の維持が困難になる安永期(1772-80)の段階になると、内信者の組織化に取り組み、建前は別として、組織実態としては導師派・不導師派の区別はつかなくなる。不導師派としても内信寺に頼る時代ではなくなり、内信者を積極評価し、施主の元に組織化を図ることとなる。

 内信者は地域ごとに題目講・看経講・女人講・若者講などの講を組織した。その講の幾つかを施主が組織指導する。その範囲は数か村の講を受け持つこともある。さらに施主はその上の庵に所属し、僧侶の指導を受ける。庵は幾人から施主を指導するから村々を越えた広域の信仰の拠点となる。庵は本尊・聖教類が存在し、清僧が存在し、施主が存在して庵として機能した。但し、法難などの環境変化によって、庵は各地を移動することもあり得た。
 では、庵はどのようにして成立したのか。
比較的弾圧の緩やかな地域(下総や備中など)では受不施寺院内の内信僧が弟子に寺を譲り、自らは不受不施派の清僧として寺院内や近隣に庵を結び(内信寺・外護寺)その地域の拠点とする方法である。不導師派に多く、全国的には一般的であった。ただ、弾圧によって内信寺が取り潰されると、壊滅状態となる可能性があった。
 備前では最初から寺院は壊滅し、内信寺や内信僧は存続を許されず、寺院を頼る術はなく、秘密の拠点(庵)を持つこととなる。
現在、導師派の13の庵が判明している。

備前の庵(導師派)
所在 基となった寺院 事由 開基 寂年
大樹庵 和気郡益原村 同村大樹山法泉寺(金川妙國寺末)
 ※寛文6年廃寺一覧連番308参照
◇正行院日遊、勇行院日長、本覚院日進、源浄院日學などの諌暁僧を生む。後下総に影響を及ぼす。
また、江戸自證庵につながる庵である。
宝暦3年(1753)備前大樹庵久遠院日然と大教庵應智院日縁とが江戸で諌暁を行う。
 →備前益原法泉寺
還俗 日尊上人
▽源浄院日學
不明
本妙庵 赤坂郡矢原村 津高郡河内村生前山本明寺
 ※寛文6年廃寺一覧連番131参照
還俗 智照院日位
▽本妙院日珠
元禄10年(1697)
大教庵 赤坂郡矢原村
 又は大園村
生前山本明寺 大教坊
 ※寛文6年廃寺一覧連番135参照
宝暦3年(1753)備前大樹庵久遠院日然と大教庵應智院日縁とが江戸で諌暁を行う。
還俗 是運院日秀 享保11年(1726)
真善庵 津高郡下田村字寺蔵谷     真善院日従 元文4年(1739)
妙泉庵 赤坂郡佐伯村 磐梨郡宗堂村妙泉寺(金川妙國寺末)
 ※寛文6年廃寺一覧連番231参照
還俗 春雄院日雅 貞享元年(1684)
松壽庵 上道郡平井村 延宝年中(1673-80)日雅の開基と伝える。
第2世は寂照院日玄(日雅の弟子)
 →備前平井松壽庵跡及び備前平井奥聖寺
  (備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)を参照。
  春雄院日雅 同上
生前庵 津高郡金川村山条 津高郡河内村生前山本明寺
 ※寛文6年廃寺一覧連番131参照
◇開基日玄は春雄院日雅の弟子、「内信得意抄」の編者である。
◇弘化2年(1845)照光院日恵、生前庵を再興する。
日恵は天保法難を免れた唯一の法中であった。再興生前庵の隣に潜居していた青年が大阪衆妙庵で捕吏の手からのがれた後の宣妙院日正であった。
還俗 寂照院日玄 貞享元年(1684)
浄源庵 津高郡西原村 同郡西原村浄源寺
(金川妙國寺)
持城院日義 正徳元年(1711)
泉秀庵 津高郡草生村     是俊院日友 宝永2年(1705)
常在庵 津高郡天満村
▽元は宇甘東村に在
    通善院日圓 元禄13年(1700)
唯紫庵 御野郡津島村 備後福山 樹栄山光政寺
唯紫庵歴代は津島妙善寺中にあり。
出寺 覚隆院日通 元禄11年(1698)72歳
正行庵 讃岐高瀬 →
 都宇郡山田村
讃岐三野郡高瀬村正行寺 出寺 清浄院日周 元禄15年(1702)42歳
自證庵 江戸青山 →
 和気郡益原村
江戸本現山自證寺
▽江戸旗本某の邸内、港区南麻布若松寺境内か
◇天保法難で壊滅するまで青山の某旗本屋敷にあったとも、あるいは備前に移ったともいわれる。
出寺 長遠院日庭 元禄5年(1692)
  ▽印:「不受不施派殉教の歴史」相葉伸
◇印;「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄
2019/128/17追加:
上記の13の庵以外にも次の庵の存在の可能性がある。
知足庵 備前辛川市場下の日蓮堂(元妙寺跡)の現地説明板に知足庵への言及がある。
 「元妙寺(金川妙國寺末)は寛文6年池田光政の弾圧により廃寺となり廃滅するが、文化2年(1805)附近から宝塔が発掘され、慶長14年(1609)村の先祖の者が建立した旨の由緒が読み取れ、村中の内信者が共同で敷地を買い取り、不受不施派庵室・知足庵へ寄進したことが古文書で確認できた。」
  →辛川市場下の日蓮堂<備前津高郡辛川市場村・西辛川村・一宮村中>
備前今岡祖師堂横の石塔(墓碑)の刻銘:
 【6】:四角柱・墓碑、正面:南無妙法蓮華経、左側面:開祖常腎院日淳三祖■■■日■/二祖善性院日■四祖■■、右側面:五祖・六祖などの法号を刻むと思われるが判読できない:背面:■寛政十戊午年(1798)十月十三日/知足庵■■義誠院日■ とあり、背面に知足庵の刻銘がある。
 ※辛川市場下の祖師堂の項でいう知足庵と今岡祖師堂横の墓碑の刻銘の知足庵は同一の庵とも思われ、知足庵は備前辛川あるいは今岡に存在したものと思われる。
  →今岡祖師堂<備前津高郡今岡村・山崎村中>
これらの導師派の庵については、寛文の惣滅によって廃寺となった山号寺号坊号を引き継ぐ場合、廃寺の僧が出寺・仮の還俗をして開基となる場合が多く、寛文以降非合法化で成立した庵であり、受派寺院とは敵対関係にある場合が多いことが分かる。
そしてこうした庵は内信者宅の秘密の部屋に設けられられた。内信地区ではこのような「隠れ部屋」は方々に存在していたが、家の改築等で取り潰され現存するものは僅かとなった。(これは昭和末期の話であるので、現在では、殆ど残らないのではないか。)
2019/02/10追加:
○「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より
和気郡益原に於ける隠れ家:(二階の白線の部分の部屋に潜んでいた。):下図拡大図
  
    右下は「福田人衆の墓」の写真である。

  ※不導師派(津寺派)には次の庵が判明している。(「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、第4章不受不施派の構成)
  光長寺 河内野崎  
妙宣庵 備前鹿瀬 美作国川口  妙泉庵(これは初め先例派であったが後に清派に帰入したもの)<妙泉庵>
松光庵 備前斗有
  一鶴庵 備中引舟 ※引舟は古新田にあり、木屋(古新田を開発した吉田家の屋号)一族の屋敷があったと云い、今にその址を残す。木屋屋敷跡東北にある。
※備中古新田引舟に「一鶴庵」と号する一宇が現存する。この一宇が後裔であろうと思われるが不明。
  東知足庵 備中 ※東知足庵というから、古新田引舟にあったと思われる。
知足庵 備中引舟 ※上の一鶴庵と同じく古新田引舟にあったという。
  妙泉庵 美作川口 ▽妙泉庵 久米郡福渡村川口 日船より日心まで、天保法難にて廃絶。 とある。
※上記の導師派の庵に佐伯妙泉庵が見えるが、同名異庵であろう。
佐伯妙泉庵は宗堂村妙泉寺の流れを汲み、福渡妙泉庵は福渡妙福寺日船の流れを汲む。
因みに、本壽院日船は晩年福渡に隠棲すると云う。
 日船:本寿院日船上人本寿院日船聖人の350遠忌に思う。
※大安寺の「日蓮宗不受不施史料」:始め先例派であったが後に清派に帰入したものである という。
秀明庵 大坂
  無名の庵 和泉新在家 梶木日種「不受不施資料」p.85
  ※下総香取郡多古・中村・玉造の一郭には次の庵があったことが、昭和30年に判明する。
   導師派か不導師派かは不明であるが、おそらく不導師派であろう。これらは天保法難で壊滅する。
    (「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、第4章不受不施派の構成)p.154
     ◎参考→総常盤村>南玉造>隠れ庵跡 *は対応する庵
玉作庵* 玉造 下総玉造に前野墓地(「多古町史」上巻1047〜)がある。
この墓地から寛政6年(1794)秋の「多古法難」による五人の法難者の墓が発見されている。
「霊鷲院日享寛政六年十一月二十五日 是好院日理大徳同年同月二十六日 得円院法重日身同年同月十四日 信行院常法日種同年十二月七日 一相院法達同年十一月十七日」いずれも牢死とされているが、拷問、または断食死によるものといわれる。
 右のうち日享・日理は玉造の庵主で、日身・日種・一相院はそれぞれ与右衛門・与左衛門・伝兵衛を俗名とした玉造村農家の出身者である。
  玉作東庵 玉造
島後口庵
  島南庵 中村 島南庵ならば、島にあるべきであるが中村にあったらしい。
  西澤庵  
  木戸庵  
  新田庵 金原* ※金原は現匝瑳市、旧八日市場市、南玉造の接し、その南方である。
※玉造墓地東南約一キロの山林中(現在は開墾か)で、六万部塚、円明谷(えんめいざく)も近く、金原新田熊切家が守っていた。不受派法難者の過去帳が現存し、山中には不受僧の墓石が埋め残されているという。(「多古町史」)
 
  ◎下総坂村の坂ガケラントウ墓地には庵主などの名を刻む板碑がある。 →下総常盤村>川島・方田・坂中にあり。

 さて、地域の信仰・組織の拠点である庵は僧侶集団である法中組織に統括される。
法中の中で法難によって流罪にされた僧侶は流聖と云われる。
元禄以降、流聖の謫地はほぼ伊豆七島に固定され、これらの島には相次ぐ法難によって常に流聖が存在するようになる。
それに伴い享保以降年2、3回も内緒便が仕立てられ、救援ルートが作られる。
この頃より流聖は「お島様」と呼ばれ、内信不受不施教団の最高権威者として、教団を統括するようになる。
 この内信の教団組織を全国規模でまとめ上げたのが本妙院日珠である。
日珠は寛政5年(1793)不受不施の赦免を訴え(天下諌暁)、三宅島流罪となる。
日珠が全国に発したお島状は数百通、信徒は備前・備中・美作・因幡・讃岐・上総・大阪・江戸・山形・三宅島に渡る。
 しかし、このような強固な内信組織も、文化・文政期(1804-29)には農村の階層分解によって、内信の在り方について、強信者(村の有力者・富農層)と平信者(一般農民層)との間に分裂が生じてくる。

2019/02/10追加:
不受不施派の分派
○「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」岡山県教育委員会、昭和51年 より
非合法下での不受不施宗義の作法と内信の組織論について、幾多の分派が発生した。
日題派
 最も古い分派である。 → 白川門流日題派
導師(日指)派・不導師(津寺)派
  → 上述のとおりである。導師派が主流となる。
  → 不受不施・久米右衛門派
   天保8年(1837)不導師派は天保法難で壊滅的打撃を受ける。中心拠点であった大坂高津衆妙庵は根こそぎ検挙され消滅する。
   不導師派とは別に衆妙庵の什物を、同庵の小僧粂右衛門が備前にまで持ち帰り、彼を中心に密かに内信を続ける。
   所謂、粂右衛門派である。
先例派
 導師・不導師の論争の際、先例に従って不導師の立場を採るが、津寺=日講には与せず、人脈としては日指方に接近した。
福渡の栴樹、智圓、川口村了正院、寺地の智善院ら金川より奥の備前・美作を基盤としたので、奥方不導師派とも呼ばれる。
文政年中、鹿瀬の妙泉庵主台山院日照のとき、不導師派と合併する。
不誓紙派・教止派
 他宗の僧侶に習字を習うものが、誓紙をかくのが謗法になるのか否かをめぐって起こった論争により成立。
不誓紙を主張した智雄院日栄は出世を混同する議論として長遠院日起に退けられ、彼の派も宝暦の頃導師派と合併する。
不見派
 享保の頃下総でおこった分派で、他宗の勧進相撲、奉加芝居を見る可否について論争が行われる。
林村実成院が下総の法頭明静院日寶に不見を主張したことに始まり、主流からは出世混同の受不施の議論として退けられる。
---「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」終---
2023/10/13追加:
寛政の法難の頃には次の2僧が知られる。
 蓮性院日解:林の法林寺歴代。寛政法難により寛政6年(1794)十一月牢死。
 心見院日迅:林村法林寺隠居
  ※「日蓮宗不受不施派読史年表」p.169に「寛政6年11月12日 心見院日迅牢死する。下総林村法林寺隠居 不見派」とある。

2019/02/21追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
明治の分派
明治になって、次のような分派が発生する。
日献派
 幕末の再興運動で活躍した純妙院日献(下の掲載の○日正の再興運動/江戸末期 の項を参照)が京都東町奉行所の取調べ以降消極的になり、元治元年(1864)退転脱落する。日献の出身地である妙泉庵の信徒の一部が日献とともに分派する。
日献の没後も僧侶のいない信仰を続け、昭和40年代まで佐伯町や吉井町で僅かに孤立し、信徒も存在していたという。
日諦派
 平井松壽庵にいた浅沼日諦が、再興後の斬新な教団の指導・運営に反発し、内信時代の伝統的法式を主張して、釈日正と対立、平井の信徒を引き連れ分派する。その後現在も内信的な傾向をもった信仰を続けている。
 なお、日諦とは逆に、急進的改革を主張した岸井弁全も日諦と同事に破門されたが、信徒への影響はほぼなかったという。
日龍派
不受不施派関東地方担当の林日龍が、主流派の方針を無視したため破門され分派する。信徒たちは後に全員復帰する。
2023/10/15追加:
明治30年頃から、禁制打破の功労者である法主日正と補佐役日龍の間に、宗制についての見解の相違が目立つようになる。
日正は、古来不受不施信徒は同宗の者以外とは交わらず、また伊勢神宮などのお祓いを請ける事を嫌ったりするが、このようなことを改め、もっと他との交流を自由にすべきであると唱えた。
これに対して日龍は、古法護持こそ不受不施派の面目であるとして互いに譲らず、対立を深めていったのである。
そして、遂には日龍が身を退くという事態となり、この波紋は喜多教会の信者間にも及ぶ。
 一日も早く日正・日龍の両師が和解して「衆生教化」の本道に立還るべきだとする和融組と、自ら退身して結果的には不受不施派から離れた日龍を支持する信徒を教会に出入りさせる事は謗法であるとする組との間で内紛が起こる。
そして同34年十月十九日に和融組の大原5戸、東台5戸、中佐野7戸、林2戸の19戸は喜多教会を離れて島正覚寺の直轄檀家となる。
以来七年間信仰の争いに妥協はなかったが、大正3年に至って両者に和解が成立し、和解条件にそって東台に建てられてある喜多教会は、歴史的使命を果たしたとして取り壊されることになったが、建物の一部は現在地の字神の上949番地へ移築されて立派に存続している。
  →上大原・東台・中佐野・東佐野・染井>中佐野>中佐野喜多教会の設立の項を参照

【備前に於ける内信信仰の高揚】
 宝暦期(1751-63)備前において、内信信仰が高揚する。
宝暦3年(1753)岡山城下の近くの平井村高森に不受不施派祖日奥の石塔が建立され、その開眼供養が盛大に催される。不受不施僧6人が導師を勤め、内信者が群集し、投げ餅まで行われ祝われたという。
これを知った城下日蓮宗寺院10ヶ寺は寺社奉行に訴え、寺自身が内信者を摘発することを申し出る。その結果、23、000人に及ぶ検挙者を出し、3、000点に上る本尊・位牌類を摘発することとなる。
これはまさに、内信者の爆発的増加に受派寺院が脅威をいだいたことに他ならない。
しかし、内信者たちは検挙の後、すぐに内信へ復帰した。弾圧期間中にも再犯人として検挙される事件が津高郡下畑村、矢原村大園、御野郡北長瀬村などで次々と発生する。これらはいくら弾圧しても内信を一掃することはできないことを示している。
 宝暦5年(1755)城下西大寺町の日蓮宗信徒が徒党して氏宮である今村宮修復入用銀を拒否する擧にでる。驚いた神社側は国中の神社の総力を挙げて訴状を提出する。
これに対し受派日蓮宗寺院は答弁書を提出し、神社と受派日蓮宗との論争となる。
神社側は神社崇敬はわが国の定法であり、氏子の氏神拒否など前代未聞と非難する。
これに対し、受派日蓮宗側は、日蓮宗は唯一法華経のみを信仰し、それは当然の帰結として、他宗への参拝は否定され、信徒の信仰形態として神祇不拝・謗法不参(他宗寺院への参拝拒否)・不受不施の実践が導きだされる。なにも神社に限って不拝・不参というわけではない。特に日奥は「神天上の法門」を拠り所に、神祇不拝だけではなく、全ての謗法の地、例えば受不施派の本山身延山への参詣をも制止した。
「神天上の法門」とは末法の世では法華守護神以外の諸天善神は全てこの國を去り、寂光土に帰参してしまい、その留守中の神社仏閣は魔縁の住家となっている。だからそういうところへの参拝はかえって謗法となるということである。城下受派の寺院は「神天上の法門」を拠り所に神祇不拝を主張した。そして他宗への「不施」の根拠には明応元年(1492)の足利義稙の奉書を挙げた。この義稙の奉書は不受不施公許の最古の史料とされるものである。
つまりは受派寺院の主張は不受不施派の論理でなされたのである。
 受派の寺院も苦しい立場であったのあろうか。
宝暦3年からの内信撲滅も功を奏せず、寛文の寺院の撲滅で寺院は減少し信徒の掌握が十分にできず、かといって新寺建立も許可されず、大勢の内信者を繋ぎとめるには内信者側の論理に立って神社と論争せざるを得なかったのではないだろうか。
 しかし、神社側は藩を越えて、神祇管領吉田家に訴え、吉田家から幕府に訴える手段に出る。
驚いたのは藩であり、寺社奉行を通じ、受派の城下10ヶ寺に登城を命じ、「神祇不拝」を説かぬこと及び寄進物で異論しないことを命じた。10ヶ寺は藩の権力に屈することとなる。
 このことは即刻信徒に知れ、その日より連日他人数が寺に押しかけ悪口雑言を吐き、いたたまれなくなった住職は出奔した。その住職は藩主の斡旋で帰寺し住職となるも、信徒は住職を見限ったのである。
こうした中、備中の50ヶ寺余、備後の38ヶ寺は徒党して本山へ城下10ヶ寺を宗門違反として京都妙満寺をはじめとする本山へ10度20度に及び訴えを起こす。ついに本山は城下10ヶ寺を脱衣追放とする。
 この事件は、内信者が寺院を突き上げ、中ば合法的な形で神祇不拝を楯に不受不施要求を起したものということができるだろう。

【内信者の生活】
 信仰生活は檀那寺用の仏壇と内信用の隠し仏壇を持ち、それを使い分けた。また信仰を揺るぎないものにするため、各所で清僧の説法を聞いた。その場所は秘密の場所であり、また偽装されている場合もあった。
そんな場所の一つに「矢田の観音様」があった。ここには題目石があり、観音も祀られていたが、それは偽装であった。
 ※矢田穴観音:和気郡和気町矢田
  <以下 略>
---「岡山県史 第10巻 近代1」終---

不受不施信仰の変容
2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
【不受不施内信信仰と現世利益】
 江戸中期以降、流行神=現世利益の希求が登場する。
以上のような風潮からか、不受不施内信信仰においても、流行神的な参詣地が各地に発生する。
◇和気郡益原の大覚大僧正石碑
 不受不施僧修玄院日要が買い求め、益原村村民の要請で同村に安置という。
  →備前大樹山法泉寺

◇赤坂郡矢原の日朝様
 伝承によれば、寛政5年(1793)三宅島に流罪となった本妙院日珠が赤坂郡矢原村に建立したという。
日朝は身延山11世で、日朝石碑は眼病に霊験あらたかという。
  →「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」の原番 222-枝番 2 の「日朝さま」を参照。
 ※矢原の日朝石碑の情報は皆無で位置を特定できず。(岡山市北区矢原、旭川左岸で金川の東である。)
 ※矢原は旧御津町、矢原本妙庵の地である。(「不受不施殉教の歴史」)
 ※ → 我が家のご本尊について>本妙院日珠

◇津高郡久保の恵教院様
 恵教院日慈は津高郡久保村(津高郡紙工村の枝村)の隠れ家に居住していた不受不施僧である。日慈は痔病を病んでいて安永8年(1779)20歳の若さで病死する。伝承では、生前自分が死んだあと、下半身の病で病むものを直してやろうと言い残して他界するという。
以来、婦人病・痔病・夜尿症などで悩む人が多数参拝した。
この霊験は名声高く、各教会に恵教院の供養塔が建立されたという。因みに久保の供養塔は嘉永4年(1851)の年紀である。
 ※久保の恵教院供養塔については情報が皆無で位置を特定できず。(岡山市北区久保)

備中高梁の日忍様
 信受院日忍は貞享2年(1685)捕縛され、元禄12年(1699)備中松山で牢死した不受不施僧である。
日忍は10年間水牢に入れられ、そのため下半身が腐って牢死したと伝えられる。
そのためであろうか、日忍の供養塔は下半身の病気、特に婦人病に霊験あらたかと云われ多くの参拝者を得た。供養塔は初め轟(がらがら)橋のたもとに建立されたが、四度移転し、現在は高梁市原田南にある。
 ※Googleなどでは原田南に「信受院日蓮堂」という堂があり、これが日忍の堂であり、供養塔があるものと推定される。但し日蓮堂とは日忍堂の誤りであろう。
 日忍供養塔の建立時期は不明であるが、現在地にある石碑は天明元年(1781)、常夜燈が天保3年(1832)であるから、この頃から流行したものであろう。
 2019/09/19追加:
 ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 日忍:
 信受院と号し、元禄13年(1700)松山藩の水牢で下半身が腐って牢死したという。
 高梁巨福寺に墓碑があり嘉永7年(1854)の建立との刻ある。死後150年後の建立である。発願主は三山屋、田井屋、備前屋など5名の名が連なる。
  ところで、下総栗源町岩部の矢田部28人衆の後裔の内の1軒と云われる佐伯金雄氏の家に所蔵される宝永三丙戌(1706)の日忍の曼荼羅があるということであるが、
 もし日忍が元禄13年(1700)に寂したとすると、宝永3年(1706)の曼荼羅にある日忍と松山の日忍は別人と言わざるを得ない。
 日忍供養碑は元松山藩の水牢跡(松山原田町)に建てられるも、昭和初年伯備線付設で高梁の繁華街南町に移転する。
 日忍は水牢により下半身が腐って逝ったということから下の病に霊験ありとされ、信仰される。
 日忍については「月刊岡山」に詳報されている。

◇和気郡矢田の観音様
表向きは観音を祀っているが、内実は題目碑を祀る内信信仰の場所であった。
  ※すぐ上の項「内信者の生活」矢田の穴観音の項を参照。

◇和気郡父井の妙浄様
寛文10年(1670)池田光政の不受不施弾圧に抗して妙浄(真妙院妙浄日能尼 )という尼僧が断食入定する。
いつしか、この妙浄の墓に参詣すれば、眼病・婦人病・足痛に験があるといわれるようになり、参詣者が増えたという。
 ※位置特定できず。和気郡父井村は妙見山西麓という。
 ※ →下述の「備前に於ける捨身の抗議」の比丘尼妙静(妙浄)

【強信者と平信者との対立】
 江戸中期以降、内信信仰は熱狂的になり、檀那寺に対して信仰拒否の行動に出るようになり、さらには不受不施信仰の公然化の要求となる。檀那寺は脅威を感じ訴え出る。そこに法難が発生する。
江戸後期(文化・文政の頃)になると、法難発生の原因となるような信仰行動をめぐって、内信者間に対立が生じるようになる。
それは現実社会を肯定し、穏便に内信を続けていくことを願う強信者(村役人・豪農層)とそれを打破し、信仰の公然化要求する一般平信者層との対立であった。
 例えば、
 文化10年(1813)益原村で内信事件が起こる。
当時、益原村家数は15軒、内6軒を除いて、全て不受不施内信であった。檀那寺である浦伊部妙圀寺が内信信仰を疑って、益原村全員に対して起請文の提出と檀那寺の説法聴聞とお教頂戴を要求するも、村民は全員一致でこれを拒否する。これに対し妙圀寺は今後宗門改めも葬儀もしないと公言する。実際に死者が出て、葬儀ができず、郡方役人が出張する騒ぎとなる。このような村民の行動に対し、強信者の一人である塩田村名主はあくまでも穏便に内信を貫くのが本来の信仰態度であると批判をした。
 次いで、
 文化11年益原村大覚大僧正石碑(上述の備前大樹山法泉寺石碑)に対する拝・不拝の問題が発生する。
この石碑は文政2年(1819)の益原法難の時、接収せられて檀那寺の所有となり、内信者にとっては拝してならないものとなっていた。しかしその由緒から、参拝者も増え、内信者からはこの石碑を開眼供養して参拝を正式にできるようにしてほしいとの要望が出され、不受不施僧の本珠院日近らは内信者の要望をいれ、開眼供養し正式に参拝ができるようにした。しかし、建前からいえば、いくら開眼供養しても、所有は檀那寺のものであり、謗法の石碑である。となると、今後は石碑を村に返すように村民は動くと考えられる。
 ここで、強信者である塩田村名主はまたまた法難を発生させかねないので、ひたすら穏便に信仰することを主張した。
【本珠院日近の諌暁】
文政11年(1828)日奥200遠忌にあたり、各庵主が寄り合って、諌暁を行うことを決め、本珠院日近が出訴することになる。
 日近は江戸出訴の前に京都朝廷に出訴することを思い立ち、文政12年関白鷹司・九条両家に出訴する。京都出訴の理由は、幕府への出訴では禁獄か遠島に決まっており、宗派再興にはまず結びつかない。諌暁の第一の目的は宗義再興であるので、その手段の一つとして、朝廷にも出訴し、再興の糸口を掴んだ上で、江戸に出訴すればよいというものであった。
 日近は諌暁書には「不受不施」の四文字はいれず、日奥門流で出願する。それは、本来宗義再興が目的であった諌暁が、江戸中期頃より不受不施派の法脈を維持するための流僧(お島様)の輩出を目的に行われるようになっていたのを、ここに再び宗派再興への訴願運動へと変化したことを意味する。また、これは平信者層が希求する信仰の公然化の当然の結果でもあった。
 ところで、京都での出訴は首尾よい結果となり、洛中での布教が許された。日近は京都に3反3畝の土地を買い求め草庵を構え、表札には「法華正宗日奥嫡流」と書き、折伏布教を開始した。
 このような日近に対し、強信者から強い非難が起る。この非難の根底には不受不施派が社会の表面に出ることによって、幕府や受派寺院からの圧力が強まり、新たな法難を招くのではないかと懸念があったものと思われる。当時のお島様寿量院日巡(八丈島流僧)も強信者の路線上にあり、日近のやり方を非難している。
 ※寿量院日巡は津島妙善寺中にあり。
ここに平信者路線と強信者路線ははっきりと対立したのである。
 このような状況下、日近は江戸に出て幕府へ諌暁をする。結果は宗義再興は取り上げられず、日近はあえなく牢死する。
しかし、この事件は朝廷への諌暁をも行い、再興に向けて具体的行動をとるようになったことを示すもので、日近の弟子・沢法真は日近の没後も現実社会の変革の実現を説くものであった。
 弘化2年(1845)津高郡富谷・山条・母谷に内信信仰が発覚する。
この時、村人は檀那寺の日應寺に詫び状を入れる。内信信仰は邪法であるので改心するとの文言であるが、勿論これは表向きの話である。邪法であるのは、不受不施を禁止している幕府が倒壊すれば、その禁制は解かれるので、内信者たちは幕府倒壊を心待ちにしていると説くからである。まさに、一般平信者は邪法を信じていた、つまり幕府倒壊を心待ちにしていたのである。


【寛文・元禄以後の主たる法難】

2018/12/23追加:
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
不受不施信徒の戦い
寛文7年当時の領民の信仰状況は次のように記録(池田家文庫「國廻り上るめやす」)される。
 領民は領主の強要する儒法を行っているように見せかけているが、実際は佛祭を行っていた。
廃寺の半数以上は不受不施派寺院であった実態から、以上は不受不施派信徒の実体であったと思われる。
出寺した不受不施派僧侶はこのような信徒の核となり、密かに在家を借り仏壇を構えて布教した。次第に彼らのもとに信徒は集まり、朝暮参詣するものもでて、寺院のようになったという。

備前矢田部法難:矢田部六人衆

  → 正之氏サイト(拙サイトに組入)寛文の法難と矢田部六人衆

2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
 佐伯本村にあった大王山本久寺の(妙覚院)日閑(日了か)が捕らえられると、これに帰依する河本、花房など六名は身命を投げ捨てて之に随い、岡山に出て法に殉ずる。
 ※佐伯本久寺は「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」の原番258〜262.6を参照。
日閑以下が刑せられたのは寛文8年(1668)6月18日(19日か)で、他の1名は江戸に護送されたという。また同月28日彼らの妻子28人が国外に追放される。
六人衆の墓(追悼碑)は矢田部障子岩という所にある。(「赤磐郡誌」)
「池田家史類纂」では六人衆とその妻子は次のように記録される。
 磐梨郡矢田部村之民五兵衛並に同人子甚兵衛、了圓 、同村喜右衛門、同郡加部村七太夫、五郎右衛門、首ヲ被刎、
 矢田部村三十郎、長子長助、源六、同村七右衛門、同子安右衛門、右五兵衛子市右衛門、五兵衛甥久右衛門、
 同村録右衛門子五郎兵衛、清蔵、同喜八郎追放、
 同村三郎左衛門、同子甚左衛門、仁三郎、八兵衛、助太夫、同村六右衛門、同子吉兵衛、被赦旨老中、郡奉行梶川与次兵衛へ被申渡
 意趣ハ右之者共不受不施宗門堅申合吉利支丹之判形仕間敷(まじく)由申ニ付、
 頭分ノ者三郎左衛門、市右衛門、安右衛門ヲ去年春ヨリ籠舎被仰付置不届之事申ニ付大横目永野作右衛門、代官頭西村源五郎ニ
 穿鑿被仰付具ニ吟味委細達御聞如斯、右之品於江戸御老中ヘ被仰達趣
六人衆各人の断罪理由は「被仰出覚」にあるが、次のようである。
   五 兵 衛
 ・・・了圓ヲ裏屋ニ入置・・・(御禁制の)為不受不施一族家子迄一命一等ニ申合・・・依重罪令成敗者也
   了   圓
 ・・・五兵衛裏屋ニ忍居矢田部村之者トモ数人一味令同心・・・(御禁制の)為不受不施一族家子迄一命一等ニ申合・・・依重罪令成敗者也
   喜右衛門、仁兵衛
 ・・・矢田部村之者トモ数人一味令了圓ヲ在家に入置了圓ヲ在家ニ入置如寺朝暮参詣・・・
 (御禁制の)為不受不施一族家子迄一命一等ニ申合・・・五郎右衛門白状ニ候依重罪令成敗者也
   加部村七太夫、同五郎右衛門
 ・・・矢田部村之者共ト一味令同心了圓方ヘ如寺致参詣・・・重罪令成敗者也
   七右衛門、市右衛門、安右衛門、長助、五郎兵衛、清蔵、久右衛門、喜八郎、源六郎、三十郎
 ・・・矢田部村之者共数人一味令同心了圓ヲ在家ニ入置如寺朝暮参詣
 ・・・(御禁制の)為不受不施一族家子迄一命一等ニ申合徒党之仕形依之國中令追放也
   甚右衛門、八兵衛、仁三郎、助太夫
 三郎左衛門世倅トモ・・・
 今度僉議之時分孝心ヲ以早速一味之内ヲ離親之罪ヲ嘆候常々孝心之由三郎左衛門雖為徒党之中子共之孝行ヲ感免遣ス者也
   吉 兵 衛
 今度僉議之時分孝心ヲ以早速一味之内ヲ離之罪ヲ嘆・・・吉兵衛カ孝行ヲ感免遣ス者也

不受不施派の僧侶は江戸送りとし、住職を幕府の寺社奉行に引き渡し、寺社奉行両人が取調べ、処断する。
 寛文9年(1669)9月14日、不受不施僧処分、書物ヲ致サザル不受不施坊主左ノ如シ
                                          津高郡今保村 宗善寺
                                          津高郡紙工村 西岡寺
                                          津高郡紙工村 大徳寺
                                          津高郡草生村 常光院
                                          津高郡草生村 玉圓坊
 右五人8月3日備前を発し廿九日江戸ニ至ル、9月10日寺社奉行小笠原山城守ノ邸ヘ参向、
 山城守、加々爪甲斐守同座ニテ証文に判形可致旨達セラレシカバ判形致間敷旨申立ニヨリ法ノ如ク衣ヲ剥ギ追放セラル
なお、
 ※追放された寺院については「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」の原番67〜70(宗善寺)、159・160(紙工)、188・189(草生)を参照。

2018/12/23追加:
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984
本著に矢田部六人衆の記述があるが、割愛。

2019/08/08追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
矢田部六人衆(佐伯六人衆):
 寛文8年6月19日矢田部六人衆(佐伯六人衆)が備前平井の柳原刑場で斬首の刑に処せられる。
  →柳原刑場は備前上道郡網浜村・湊村・平井村中にあり
矢田部六人衆(佐伯六人衆)は以下の佐伯出寺僧日閑及びその親族・信徒の次の六人である。
 → 正之氏サイト(拙サイトに組入)寛文の法難と矢田部六人衆 より 矢田部六人衆 を抜粋
  1、妙覚院日閑     佐伯本久寺出寺僧。  寛文八年六月十九日寂。  二十八歳。
  2、河本仁兵衛     蓮通院日達      寛文八年六月十九日寂。日閑兄 三十一歳とも。
  3、河本五兵衛     蓮光院日長      寛文八年六月十九日寂。日閑父 六十五歳。
  4、河本喜右衛門  通円院日教      寛文八年六月十九日寂。       三十九歳。
  5、松田五郎衛門  清覚院日有      寛文八年六月十九日寂。       二十七歳。
  6、花房七太夫     法雲院日祐      寛文八年六月十九日寂。       三十一歳。
そして、その他親類縁者男女子供に至るまで28人が国外追放の処分を受ける。
 追放された28名の行方は知れないという。
ただ一つ、それが真実に近いかも知れぬと思われる話を多古の島正覚寺の宗演氏から伺ったので、記すこととする。
 下総香取郡栗源町の岩部には池上日樹ら前六聖人連署の本尊があると前述<【身池対論・寛永法難】>2019/07/28○「忘れられた殉教者」中にあり。>したが、この岩部の別の家にちょっと変わった位牌がある。
その位牌の裏面には「五代目より始まる。それより先不詳」と書いてある。
五代目より始まり、前4代が不詳とは、意味深長な文言ではなかろうか。
 (※不詳ではなく、何等かの事情があり、前4代は明らかにできないが、忘れてはならない出来事があったことを示唆するのではないか。)
 この家の姓は「佐伯(さはく)」であり、何時の頃からか岩部には「佐伯」姓が多くなってきたという。
そして、この家が28人衆のうちの後裔だという話は以前から云われているそうである。
また備前の佐伯は「さえき」であるが、岩部の「佐伯」はすべて「さはく」と呼ばれるという。
 備前の法華信徒にとって、下総はさほど遠い地ではない、備前は両総地区へ多くの僧侶を送り続けてきたのだ。例えば、備中であるが日樹や備前の日領・日進である。下総岩部と備前の両端に「さはく」と「さえき」を置いて考えるのも、あながち無謀ではないだろう。
 矢田部六人衆の処刑は不受不施派信徒に対して公然と行われた最初の生命刑である。この死は次の河本仁兵衛の遺言とともに密かに語り継がれてきたという。
 次は河本仁兵衛の遺言である。
 「其後者、不得貴意候、御物遠に奉在候(おものどおにぞんじたてまつりそうろう)。
 先々、ははさま御果被成候由、承申候へ共、其時分病中にて居申候故、御くやみに不参、扨々残念に奉存候。

 左様に御座候へば、今度一門中なわかかり、二十人籠者仕居申候。五三日中に御法度に被仰付候様に御座候。
 もはや是迄にて御座候。あとにて御ゑかうたのみ申上候。もはや明暮御だいもくにて、ミなミない(居)申候。
   南無妙法蓮華経    河本仁兵衛
                 蓮通院日道(花押)
       五月 日
     蓮宗様
     杉山平右衛門様
--- 「忘れられた殉教者」終---

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
《矢田部28人衆》(P.94〜)
 矢田部28人衆の名前は次の通りである。
河本輿右衛門妻、河本七右衛門、河本市郎右衛門、同妻、同下女、河本安右衛門、同妻、同娘お春、河本源六、同妹お春、河本仁兵衛母、岡崎善兵衛、河本喜右衛門姉、同養女お松、河本仁兵衛妻、同子市三郎(2歳)、花房七太夫妻、同娘お萬、同子勝次郎(1歳)、河本四郎右衛門
なお、岡崎善兵衛は祖山妙覚寺38世及び40世釈日学(宣正院日学)の祖先である。
 ※以上20名の名前があるが、後の2名は良く分からない。
 ※前出の 「岡山市史 宗教教育編」にある「池田家史類纂」では
 矢田部村三十郎、長子長助、源六、同村七右衛門、同子安右衛門、右五兵衛子市右衛門、五兵衛甥久右衛門、同村録右衛門子五郎兵衛、清蔵、同喜八郎追放、
 とあるので、この10名は追放され
 同村三郎左衛門、同子甚左衛門、仁三郎、八兵衛、助太夫、同村六右衛門、同子吉兵衛、被赦旨老中、とあるので、赦免されたのであろう。

28人衆は國追放となるが、最後には下総香取郡栗源町に移住したと伝えられる。その内5軒は廃絶し、今は無縁墓が残るという。
そして現在、栗源町岩部にはその後裔らしき家名が16軒ある。
それは、前出の 「忘れられた殉教者」の「矢田部六人衆」の項にある通りである。
16軒の内、
佐伯源勝氏の家には前六聖人の一人日弘(平賀了心院日弘)の曼荼羅を所蔵。
佐伯金雄氏の家には宝永三丙戌(1706)の日忍(※)の曼荼羅、及び前述の「箱位牌」を所蔵。
  ※日忍:備中松山(高梁)の人で、不受不施の故に水牢に入れられるという。
    但し、備中松山の日忍とは別人である可能性が高い。
       →備中高梁日忍様
  ※「箱位牌」の詳細の記載あり。
さらに、岩部地区の石橋基房氏の家には前六聖人の日賢・日弘・日進の三人連名の曼荼羅(これは3人の連署ではなく、1枚の紙に3つの独立した曼荼羅をかいたもの)と日領及び日充の曼荼羅が所蔵される。
     →前六聖人連署の大曼荼羅
       (注)この「大曼荼羅」については上術の
        ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
         連署の曼荼羅(P.81〜)に掲載している「大曼荼羅」と同一のものである。
またこの石橋家には大黒日奥(木造・日奥を大黒に偽装したもの)像が秘蔵されている。
     →石橋家所蔵大黒日奥
(大黒日奥については祖山妙覚寺と丹波小泉好堅寺の本像の3体のみを数える。)
加えて、日樹所持という珠数、日領の諌暁書、日浣の葬送文、亀鏡などを所蔵する。
これらは、この地区の人々と不受不施派は深い繋がりがあったものと推測されるのである。
---「不受不施派殉教の歴史」終---

福田五人衆
2018/12/23追加:
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
寛文9年(1669)3月美作福田村山麓の塚(後に比丘尼塚・横穴式石室を持つ円墳)で、一人の僧侶と4人の比丘尼が断食入定する。
佐伯本久寺出寺僧堅住院日勢と妙意(34歳)・妙定(21歳)・妙現(22歳)・妙勢(42歳)の4人の比丘尼である。彼らは「福田五人衆」と呼ばれる。
日勢は建部村に生まれ、8歳の時本久寺で出家した不受不施僧で寛文6年手形提出を拒否し出寺する。
 その後放浪生活を送っていたが、弾圧はますます激しく、「如説修行の行者、五尺に足らざる身を一つ置く処なし」と云った切迫した状態となる。日勢は、同郷の妙意・妙定・妙現(ともに大田の田淵家出身といわれる。)と佐伯村出身の妙勢らとともに断食を決意する。4名の比丘尼は前年より断食を決意、日閑に臨終を頼んでいたのである。彼ら5名は福田村の人家裏に塚があるのを見つけ、ここで2月朔日より断食に入る。日勢は題目を唱えつつ、塚の石壁に題目を刻む。3月五人とも人知れず果てるという。
 福田五人衆の他に、全国的に為政者に対する抗議の捨身をした人は多いという。
 (備前における事例は次項「備前に於ける捨身の抗議」を参照)

2019/07/28追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
福田五人衆の断食入定:
 佐伯本久寺を追われた日勢は津山の街に潜んでいたらしい。しかし津山藩の迫害も厳しく、津山市街に潜んでいた日秀という僧は自害、もう一人の日休は加茂川の兼田川原で処刑されたという記録と言い伝えが残る。
 日勢ら福田五人衆の詳細については、正之氏サイト(拙サイトに組入)「寛文の法難・福田五人衆の遺跡」 を参照願いたい。
福田五人衆の要約を上記のページから転載すれば
 (貞享三年(1686)覚隆院日通筆の過去帳(妙覚寺所蔵)に依る)
 旧暦三月十三日          堅住院日勢      四十三歳  水入り也
 旧暦三月十八日          玄通院日円妙意  三十四歳  不食四十八日
 旧暦三月二十一日       深入院日見妙定  二十一歳  不食五十一日
 旧暦三月二十四日       龍光院日珠妙現  二十二歳  不食五十四日
 旧暦三月二十六日       偉コ院日信妙勢  四十二歳  不食五十六日
である。
 断食入定の決意と四人の女性信徒とともに石室に籠ることとなった経緯は日勢の「捨身之行者捨書」という遺書が残され、それが詳しい。
ただし、この遺書は日勢自筆のものではなく、末尾に「寛文第九酉暦未の刻に写し終わる。・・御所望に依って之を写すものなり。将来後見の人々、日悟と一返の回向頼み奉り候なり。筆者 知円」としてある。今残っているのは安永8年(1779)の写本である。
 なお、「捨書」中の五人衆のほか、妙浄・妙閑の二人、また日閑・日長・日達・日教・日祐・日有の六人の「一味同心」の名がでてくるので、これを記する。
  ※日閑以下六人は矢田部六人衆である。
--- 「忘れられた殉教者」終---

備前に於ける捨身の抗議
2018/12/23追加:
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
為政者に対する捨て身の抗議は全国的に多く発生する。
備前においては次のような捨身の抗議が知られる。
了運院妙閑日恵、磐梨郡暮田村了本寺元祖日正、可順院日正らは自害、
善興院日圓(北長瀬村)、比丘尼妙静(父々井村、妙浄、真妙院妙浄日能尼)、法蓮院日教(日經)(大向井村)らが断食入定、特に日圓は生きながら桶に入って土中に埋まり唱題して果てるという。
 →比丘尼妙静(父々井村、妙浄、真妙院妙浄日能尼)については、上述「和気郡父井の妙浄様」を参照。
 →日圓上人は次項を参照

2019/05/29追加:
善興院日圓上人
○日圓上人墓碑(岡山宣妙寺にあり)銘 より
日圓聖人は日船聖人ノ高弟ニシテ、青江妙長寺の住職タリ
寛文六年十二月飲水行路ニ国主(以下は未確認) とある。
 ※青江妙長寺は蓮昌寺末、正住山と号する。寛文6年廃寺となる。
   →備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧のbWを参照。
   →備前青江天野八幡宮南鳥居題目/青江村日蓮宗妙泉寺八幡大菩薩像
 ※岡山宣妙寺は備前大供村・内田村・岡村・東古松村・西古松村
○「岡山文庫51 岡山の宗教」長光徳和、日本文教出版、昭和48年
 日圓上人の棺桶
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
 日圓上人の棺蓋:津島妙善寺蔵
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より<p.155>
岡山県北長瀬、佐藤春壽氏の水田の側の塚は古くから不受不施先師の墓として香華が供えられていたが、10年ほど前に発掘され、遺骨は津島妙善寺へ改葬される。昭和31年9月1日奈良本辰也(立命館大学教授)、藤井駿(岡山太学教授)、水野恭一郎(岡山大学助教授)とともに佐藤氏宅へ釈日學上人に案内され拝見したが、ここには大小2個の棺桶が出て大は3尺ばかり、小はそれより少し小さい。2尺4,5寸の所、周囲に3個の小穴があけられ、経机と思しきものが共に埋められていた。上蓋には「深入禅定見十方佛」という文字が微かに読まれ、小さい方の棺には婦人の櫛と木椀等があった。木椀は大棺の方にもあった。
おそらくはこの当時の断食入定の先師で、婦人がそのお供をしたのではないか。その入定者が何人であるかは記録も口碑も全く伝わっていない。
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年 より<p.103-104>
善興院日圓は日船弟子、蓮昌寺末の住持であった。岡山市大野辻(辻村・後北長瀬村)で自ら棺を作り、その中に入り、十数日飲まず食わずの後果てる。先年田圃の中から、その時の棺がバラバラになって掘り出された中に上部と横の部に三個の孔のある板があった。呼吸のための孔であろう。
 なお「深入禅定見十方佛」の八字二行の墨書もあった。それに椀1個。
さらに、近くで一個分の幾分小さい棺がバラバラの板切れとなって出土する。中に櫛と椀が入っていたことから、篤信の婦人が行を共にしたものと思われる。
 この2個の棺の板は津島妙善寺に保管、墓は岡山市西古松宣妙寺にある。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
津山市林田 浄信院日久墓:
日久は日浣のあとを継いで本行寺の住職になったおり、寛文法難にあい津山兼田川原の刑場で斬首された。
 ※上記によれば、美作でも犠牲が出る。林田に日久の墓がある。(写真掲載)
 ※日浣とは玉造檀林5世、津山顕性寺歴代である。上記には本行寺とあるが顕性寺であろう。
 ※美作津山顯性寺とは不詳であるが、おそらく寛文の法難で廃寺となったものと思われる。

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 ◇美作津山本行寺: →津山西寺町本行寺<美作の諸寺中>
延寿山と号す。京都妙覚寺末。受不施派に接取され、破却される。
 ◇本寿院日船上人
日船(岡山蓮昌寺23世、津島妙善寺9世)は美作久米南郡川口村妙泉庵を拠点として弘教中逐われ、福渡村山根の江田氏の土蔵に潜行中に寂す。
炭火にて荼毘に付すという。
 ※明暦四戊戌(1658)寂。 →本寿院日船上人
 ◇如法院連休
神目にて断食
 ※詳細不明、神目は現在は久米郡久米南町神目中か
 ◇法立院日秀
寛文9年(1669)7月7日津山二階町にて自害
 ※詳細不明、二階町は津山城下
 ◇浄信院日久
兼田川原で刑死、刑死の年月は不詳、供養碑は津山市古林田字山根の丘上にある。その西南15間ほどの所に上人塚がある。日久の首級を密葬したと俚称する。
  →日久はすぐ上に掲載あり。
 ◇貞享2年(1685)4月29日美作久米南郡弓削村寶泉寺檀家で大庄屋河原善右衛門ら10人の磔刑
 ※詳細不詳、河原善右衛門について不受不施との関係の確認が取れない、弓削村寶泉寺は不詳。

乗仙坊五輪塔:
 和気郡藤野北村(和気郡和気町藤野348)實成寺の東にある。
寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧に悲憤した同地の法榮山福昌寺住職乗仙坊(正善坊)は自ら薪を積み衆人環視の中で火定した跡という。
本性院日學:
 年代には言及がないが、和気に潜行していた本性院日學は俄かに捕吏の踏み込まれ、慌てた信者が日學を小屋の炭俵の中に隠す。
捕吏は積み上げた炭俵にかたっぱしから槍を刺す。その一刺がひそんでいた日學の脇腹を抉るも、ついに聲一つ立てずに難を逃れる。
しかし、傷は化膿し、痛みも激しく、加えて探索も厳しくなったので、日學は看護の信者の眼をかすめて附近の上、中、下の三つの池の内の中bの池に等身して自殺する。そのため、日學をかくまった吉房家は断絶を免れ、今日に至る。
---「不受不施派殉教の歴史」終---

初期内信法難
2018/12/23追加:
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
 ◇赤坂郡河原毛村庄屋断罪法難
 延宝3年(1675)赤坂郡河原毛村庄屋惣兵衛及びその弟市郎右衛門は年貢未進と不受不施僧覚乗院の隠蔽により、断罪となる。
覚乗院は寛文9年(1669)宗旨替えを渋り、同郡西中村に村預けとなるも、その翌日行方をくらます。そのため西中村庄屋は入牢20日の後、役を召し上げられる。
その後覚乗院は河原毛村の惣兵衛らに匿われる。惣兵衛及びその弟市郎右衛門は天井に仏壇を隠し、覚乗院の死後(寛文13年寂)墓を建てるほどの信者であった。
彼らは役人の眼をごまかすため、岡山藩が神道請の強制を停止したのちも、表面は神道請で通していた。これはあくまで信仰を秘密裡に守り通そうとする姿勢であろう。
 年貢未進についても再生産を不可能にするほどの過酷な年貢徴収に対して拒否の姿勢を貫こうとするものであった。
理不尽な不受不施弾圧に対してあくまで拒もうとする姿勢と通ずるものであった。
 ◇磐梨郡大井村不受不施法難
 延宝6年(1678)大井村では同村の法蓮の葬儀を不受不施僧蓮住坊が取り行ったことが露顕する。
蓮住坊および法蓮の倅5人が牢舎、庄屋八右衛門が追込となる。
この時、取調べについては、年寄中から、「捜索が厳重に実施されると、多数の検挙者で出て収拾がつかなくなるので適当に捜索せよ」との命が出る。
この命の意味するところは、広範囲にかつ圧倒的多数の不受不施内信者が存在していたということのある種の「恐れ」が存在したということであろう。
 ◇備中加陽郡宇山村内信法難
 貞享元年(1684)備中松山藩領である加陽郡宇山村で、庄屋八郎右衛門の倅伝右衛門が寺請を拒否したことから、不受不施内信が発覚する。
彼に信仰を勧めた岡山藩の覚意と足守領の浄蓮の捜索をめぐり、三藩の連携捜索が展開する。
覚意は上道郡中尾村で捕縛され入牢となる。浄蓮は最後まで行方が分からなかったという。
この事件は不受不施僧の行動が他領にまで及び広範囲にわたっていることを示し、各地で内信者の組織作りが行われていたと推測される。
 ◇悲田不受不施派岡山城下妙林寺法難
 天和3年(1683)城下妙林寺の同宿僧9名が城下の町屋に居住していることが発覚、妙林寺住職及び同宿僧9名が追放、同宿の宿主8名が牢舎、その五人組・目代・年寄らは町預け・追込等の処分を受ける。
既に、幕府は寛文5年(1665)僧侶の在家での布教を禁じており、岡山藩も延宝3年(1675)同様の禁止をする。
 ではなぜ、そのようなことが可能であったのか。当時妙林寺は悲田不受不施派に属し、同派は公儀違背の不受不施ではないとの触れ込みが可能であり、そのことが同宿僧の在家混在を容易にした可能性が考えられる。また村役人も含めた広範囲な不受不施内信者による寺請の偽装である。この場合、町の宗門改帳には僧名を俗名に偽って記載をしている。
 以上の根底には、「同宿僧らは先住の3代以前より出入する坊主」であり、「妙林寺が手狭になったため町屋に住まわせる」よになったとの妙林寺の弁明から、同宿僧は不受不施禁制以前からの僧侶で、不受不施禁制によって妙林寺は悲田派に転向したため、同宿僧は寺を出て、町屋で不受不施僧としての活動を行っていたということであろう。
 ◇悲田不受不施派備前福岡妙興寺法難
 貞享元年(1684)福岡妙興寺の同宿僧7名とその下人7名が無籍で磐梨・和気郡の村々に居住していたことが露呈、妙興寺住職は隠居を命じられる。
僧侶の在家での布教が禁じられていたのは上と同じである。
 ではなぜ、そのようなことが可能であったのか。妙興寺も当時は悲田不受不施派に属し、正統不受不施派にとって晦に利用しやすい事情があったのであろう。また村役人も含めた広範囲な不受不施内信者による寺請の偽装が行われたということである。
 妙興寺の場合の寺請の偽造の手口は、居村の村役人は妙興寺で寺請済といい、一方妙興寺では居村で寺請済であるとして、双方が宗門改めの手続きを偽り、結局、同宿僧は無籍のまま在村していたことになる。
 要するに、妙林寺も妙興寺も依って立つ基盤は不受不施派信徒であったということであろう。当時は彼らなしには寺院の存続が危うかったということであろう。
 元禄4年(1691)結局、幕府権力との妥協の上に成り立つ悲田派は禁制となる。

庭瀬三僧法難
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 貞享元年(1684)(貞享2年とも云う)備中庭瀬に於いて速成院日悦などが捕縛され、江戸に送られ、獄死する。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
斎藤新八郎三宅島流罪
 貞享4年(1687)2月幕臣斎藤新八郎、三宅島に流罪となる。「不受不施といえる邪宗に傾き、その宗旨を改むべからずと坑現するをもて、三宅島に遠島せらる。よて父兄弟も遠島に処せらる。」(「徳川実記」)という。
新八郎の不受不施信仰が露顕したのは、将軍家綱吉から幕臣に下賜される鏡餅を辞退した事件である。
 新八郎は、父とともに幕府お抱えの能役者から幕臣に取り立てられた者という。
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

2019/08/05追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
貞享法難
 貞享4年(1687)潜伏していた自證寺日庭は佐渡に流される。
その佐渡の日庭のもとに、備前の法立藤田孫六と江戸の法立江田源七が訪れる。源七は他の日庭弟子に頼まれ、孫六は自分の師を見舞うためであった。
 ところが、この行為が咎められる。源七に飛脚を依頼した圓應院日管(円周)・本守院日出(恵三)の二僧も捕らえられ、4人ともども江戸に入牢させられる。
この事件は不受不施の流僧に会いに行くことが処罰に値するようになったことと寺社奉行の転宗の勧告を受け入れれば保釈するという態度がまだ保たれていることを示す事件であった。その後は不受不施の僧や法立であると知れれば、入牢・流罪の処罰がただちに決定されるようになる。
転宗勧告を拒否した4人は薩摩に流罪となるも、ひとり江田源七だけは入牢中に病死した。この入牢中の逝去が非常に多いのも不受不施派信徒の受難の特色である。
想像を絶するあるいは筆舌に表しがたい拷問が行われ、その上、牢舎の衛生状態は人間の耐えられるものではなかったことが考えられる。
例えば、明治3年唯紫庵の有力信者だった坂本真楽(和平)は「もはや息も続き申さず、口は閉じ、既に臨終の心を決し」たほどの拷問に耐え、鶴島に流されたという。
 この時、藤田孫六の母は存命であった。日庭のこの母への消息が残る。お島様から消息「島御状」の最も早い例である。
--- 「忘れられた殉教者」終---

2019/08/05追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
悲田禁止(元禄法難)
 悲田不受不施派は裏切り者と罵られ散々の有様であったが、ただ裏切り者というだけでは済まされないものがある。
寺領:地子の受領は「悲田供養」という苦しい切り抜けであったが、これも不受不施の立場を守ろうとしたことに他ならない。
そして不受不施にたいして寺院と信徒の寺請け禁止という行政処置に抗して、なおも寺院による布教を可能にする方策であったことも事実であろう。
 しかし、いつまでも「悲田派」という外被が内信の不受不施僧を守ることは出来なかった。
元禄4年(1691)4月28日遂に断は下される。
寺社奉行の申し渡しは次の通りである。
 「小湊誕生寺・碑文谷法華寺・谷中感應寺右三ヶ寺こと、先年証文仕り候ところに、いまに不受不施の邪義を相立て悲田宗と号し、これをひろめ候段、不届きに候。
向後、悲田不受不施を改め候いて受不施にまかりなり候か、又は他宗にまかりなり候とも、その段は所存に任せべく候、
 自今以後、悲田固く停止に仰せつけられ候間、急度相改め申すべく候
幕府が初めて、不受不施を「邪義」と断じたのである。諸大名にも同様の禁令が伝達される。
悲田禁止は、特に江戸と関東に強い衝撃を与え、下総の多くの庵はこの時から始まるという。
出寺・追放された僧は元禄年中だけで約70人という。
六月には江戸の不受不施僧徒が寺社奉行に連行される。流刑地は全て伊豆七島であった。その僧侶の総数はいまだ確定し難く、最少は68人、多いのは81人まで数えている。
流僧のなかには長遠院日起・清心院日達のように抗議の諌暁を敢行したものも少なくない。
--- 「忘れられた殉教者」終---
2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
 悲田派禁制により素早く身を地下に隠した僧もあったが、多くの僧が入牢させられる。
益善院日聡は伊豆新島に流罪であったが、牢死する。
恵光院日感は江戸で自訴(国主諌暁)する。諌暁僧は確実に流罪であるが、その前に何か月かの揚り屋入りがある。日感は揚り屋で断食して果てる。
---
上総多古町染井 日増屋敷跡
日増は元禄法難のおり60日間の断食をし入定した。
 ※日増屋敷跡の写真掲載
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

享保法難(行川法難)
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 上総行川村では爆発的な内信の高揚があり、彼らは寺役の拒否、旦那寺の題目講に参加せず、談義に出席を拒み、鎮守の神社にも参拝をしなかった。行川妙宣寺・本寂寺は信仰的にも財政的にも追い詰められる。
〇「日蓮教団史概説」:
 享保3年(1718)上総行川妙宣寺・本寂寺は地頭への訴えの挙に出、地頭筧半四郎は信者14人を捕縛、14人は江戸に送られ、拷問により、日近上人の居所が知られ、日近は縁者の地主茂右衛門とともに不受不施の正義を諫曉、入牢する。
(法難は江戸、大坂に飛火し、信徒と組織防衛のため)恕宣院日融・了運院日曜等も自訴する。その他多くの僧ら(悦心、友善、体運、玄友、日要、蓮久、楚全ら)が自訴する。
結果、牢死10人、流罪5人、投獄2人、追放5人の犠牲を出す。
2019/08/05追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
行川法難(日源と日近)
 「享保三年行川記」柴崎六之丞・筆 という法難記録がある。
また、もう一つの記録「御法難記」覚教院日億 もある。
 宝永2年(1705)遠成院日源が上総夷隅郡国吉村・行川村に来て、密かに不受不施の布教を始める。ここは以前から不受不施の根拠地であった。
日源は行川村九左衛門の息子を説いて法立の列に加え、同じく九左衛門と名乗らせる。この組織は10人ほどの内信を復活させる。
その後、ひそやかに信仰は続けられたようである。
 日源の没後10年、享保元年(1716)その弟子の清順院日近が夷隅郡正立寺村にやってくる。日近は行川村の内信の指導にあたる。日源の法弟である体運日因も行川村に来訪していた。享保2年には内信者200余人が日近のもとに集まる。
 ところが、200余人の力を過信したのか、行川本迹寺・行川妙泉寺・大野光福寺という受派の信徒としての務めを疎かにするようになる。檀那寺での講に参加を拒み、参詣すら拒むようになる。ついには突出した14名が檀那寺へ離檀状をたたきつける事態に至る。
 領主の旗本筧半四郎の検挙が始まった。
内信14名(九左衛門など)が捕縛される。日近は江戸小石川関口の庵を引き払い、赤坂に移る。ここで、日近は諌暁状を書きあげる。
体運日因と悦心日然は日近の指示で大阪へ逃れる。
 享保2年6月10日、日近は諌暁状を携え、寺社奉行安藤右京介役宅へ出頭する。
地主の茂右衛門・家守次郎右衛門・組名主・年寄などが同道する。
奉行の取調べが終わった時、突然、家守次郎右衛門が「一切」を自らぶちまける。日近の庵は江戸小石川関口であること、悦心と体運は上方へ逃れ、悦心の庵は下谷山崎にあり、恕宣院日融も一味でありその庵は八丁堀にあり、彼らの弟子は何人いるなど・・である。
 法難は拡大する。
日近は入牢し、僅か20日余で牢死する。地主茂右衛門は自分の同罪を主張して入牢、恕宣院日融と了運院日曜は組織防衛のため自訴。
大阪に逃れた体運日因と悦心日然、それに善行院日清(友善)と弟子の玄友日要、法立の大智院日浄の五人は江戸にもどる。
 ここで寺主茂右衛門は遂に転向を宣誓、大坂の立円院日信の在家まで白状する。
体運日因と悦心日然が自訴、この前に了運院日曜が牢死。
 ところで、日源・日近は自證庵日庭につながる法脈である。
善行院日清・玄友日要・覚教院日億も続けて自訴する決意を固めたが、そうなれば自證庵の法脈は絶えてしまう。ここで法立の大智院日浄が「我が身は老いた、ここで私が宗義のために我が身を捧よう。覚教院は若く大願を果たすべき」といい、自らが自訴する。
 この行川法難は法中と法立9人が処罰され、牢死4人(日近・日曜・日融・日浄)、伊豆大島流罪2人(体運日因・悦心日然)、三宅島流罪2人(善行院日清・玄友日要)、大坂で捕縛された立円院日信は隠岐に流罪となる。行川村の14人の内信者は7名が途中で落命、残る7目は天台宗を強制され、やっとのことで釈放される。
 こうして、行川村の不受不施内信組織は壊滅する。
2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
 立圓院日信は大樹庵9世、行川法難の時大坂にいたが、自訴する。
  ※唯紫庵3世<享保16年(1731)化/妙善寺12世>
享保4年4月隠岐島に流される。享保16年(1731)日信寂。
日信の身柄を預かったのは庄屋板屋横地六郎兵衛であるが、彼を始め日信に帰依した者が少なからずあったようで、日信の墓は彼らによって「祖神様」として祀られてきたという。この「祖神様」は近年日信の墓と判明する。なお、この墓碑のあるところより少し高い所に「唯紫庵」を結んだという空地がある。
なお、 日信墓は隠岐島西郷町平にある。
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---
  2019/08/19追加:
  ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
   寛文年中、上総行川妙泉寺は不受不施の中心の寺であった。
  ここは旗本・筧半四郎の知行地で、寛文法難の時妙泉寺日要が江戸に呼び出されたが、日要に替って了眼院日舜という僧が出頭する。
  この日舜はよほど弁舌がさわやかであったようで、奉行の尋問に巧みに答え、「一生不受不施御免」という結果になって札森村(行川の近隣)に帰ってくるという。
  寛文年中は、後年の弾圧から比べると、まだ緩やかな時代であったということなのであろう。
  夷隅町札森に了眼院日舜墓碑が現存する。
   --- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

諌暁と流罪
 日奥の対馬流罪から享保3年(1716)の行川法難まで約100人ほどの不受不施僧が孤島に送られる。
日奥とは門流が別である常楽院日経門流(内証題目講)や什門流妙満寺日英などを加えれば総数は100を超える。
 長光徳和「殉教者名簿」によれば、法難の拡大を抑えるために行う自訴を除き、周到な準備と計画のもとになされた諌暁は12人を数える。
行川法難の善行院日清と玄友日要、寛政5年(1793)に諌暁した本妙院日珠のように、何れも流刑地三宅島から、再度の諌暁を行った例もある。これに自訴を加えれば諌暁の数はおびただしい数にのぼる。
 日珠は備前本妙庵を主宰していた。日珠は諌暁決行前、20日間の断食をして備える。牢内は劣悪で日珠に従っていた蓮成院日徳は体力衰え、日珠の読経をききながら牢内で息を引き取る。
 宝暦3年(1753)備前大樹庵久遠院日然大教庵應智院日縁とが江戸で諌暁を行う。
 文化12年(1815)本覚院日進諌暁を行う。この諌暁状の写しが祖山妙覚寺にある。日進の師は勇行院日長であるが、日長は前年の文化11年「正法報国論」を建白して牢死する。吟味中の扱いがひどく、流罪まで命を保てなかったのだ。

流刑地からの内信指導
 流僧は命を繋ぐだけでなく、本土の内信を指導し、法脈を正しく繋がなければならなかった。流僧の生活を支えたのは本土の内信組織からの物資や回向料であり、それらと書簡の往復は内証便−輸送交信の秘密ルートに委ねられた。
 本妙院日珠は三宅島伊ヶ谷村に着船した。当時三宅島には不受不施の流僧は一人もいなかったが、迎えてくれたのは、宝暦3年諌暁して御蔵島に流された應智院日縁の周到な配慮であった。事前に日珠の三宅島配流をしっていた日縁は御蔵島から、信頼のおける船頭の市右衛門と船主の弥平とを三宅島に派遣し、日珠の世話をさせたのである。彼らはおそらく内証便の担い手であったのであろうか。
 日珠の内信指導は、200余人の不受不施流僧の中で、特筆すべき働きを残す。
それは、日珠の指導は自分の主催する本妙庵だけでなく、不受不施教団の統一という観点から行われたからである。日珠の指導によって形成され始めた統一教団の骨格は天保法難で損なわれるも、教団統一を志向する考えは宣妙院日正に引き継がれ、明治9年の不受不施派公許につながってゆく。

日珠の条目
 日珠は教団の統一にはその基礎となる明確な条規が必要と考え、三種の条規を作成する。
寛政12年(1800)の「清者式目」、享和元年(1801)の「法中式目」、文化4年(1807)の「御条目」である。
--- 「忘れられた殉教者」終---


宝暦法難
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 宝暦3年(1753)岡山の信徒は平井山に日奥の大石塔を建立して公然と開眼供養をする。之に対し受派の寺院からの訴えにより備前・美作で2万人の信徒が捕えられ、清僧9人が犠牲となる。
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 宝暦3年(1753)津山城下の内信僧慈善院日是(津山出身)が捕縛、入牢となり、宝暦7年3月9日牢死する。
下紺屋町内信大庭九右衛門妻子供25人・戸川町三輪屋伊助父子2名は美作追放・家財闕所、その他関係者は手鎖、禁足、町内預け、職務遠慮、謹慎、組合預け、年寄預けとなる。

天明法難:天明(1781-1789)
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 不詳

寛政多古法難寛政法難(多古法難)
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 寛政6年(1794)中村檀林英存の訴えがあり、法中14人・法立4人が捕縛され、20名が拷問死、残る1名(本性院日誓)が三宅島に配流される。
この法難で下総の内信はほぼ壊滅状態となる。
 ※本性(正)院日誓は飯塚庵主、文政12年(1829)寂。

2019/08/13追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より p.203

 三宅島の伊豆に9基の墓碑がある。伊豆岬に燈台があり、岬に下りる小径があり、曽里川を横切る處に共同墓地があり、少し離れて不受不施流僧の墓がある。
その基には、本正院日誓の名とその花押が刻まれる。その左右には元禄の法難で三宅島に流された下総の16人の僧の名が読める。
 日誓は寛政多古の法難でただ一人この三宅島に流される。左右の石塔は、既に元禄法難で流された僧は全て死没していたが、日誓がその師を弔って建てた供養塔なのである。 9基の墓の中には常楽院日経門流の正徳院日尚の墓もある。
なお附近には日珠の小屋の石積が残るともいう。
 さて、多古法難である。
寛政6年(1794)9月、日英という僧が内通したことに始まる。ただちに江戸からの捕吏が多古周辺を襲い、香取郡一帯が大捜索される。
この地方の法中14人が根こそぎ捕縛され、本正院日誓以外の法中は捕縛後1ヶ月あまりの内に牢死する。どんなに激しい拷問が加えられたか、想像も及ばない。これには、前年この地方の法燈と思われる本事院日感が逝去している。逝去前、諌暁状の用意をしておくように法中に指示し、全法中が諌暁状を用意していたという。捕縛され諌暁状を突き付けたことが拷問の酷さに拍車をかけたのかもしれない。
 法中だけでなく、7名の法立も牢死する。
さらに諸村の名主・組頭・平百姓51がこれに連座し、過料・追放・役儀取り上げなどの処分を受けるという結末であった。
 ではこの地方の不受不施は壊滅したのか、確かに法中は全て失われる、しかし、内信組織は生き残っていたものと推測される。
村方に51人の犠牲を出すも、法中14人を支えるには少なすぎる。少なくとも、数百人の内信がいたと考えなければ辻褄があわない。51名の犠牲をだすも、多くの内信は生き残っていたと推測される。
 もう一つは村方に対する判決書に、奇妙な文言が全ての判決書に入っている。(一例を除く)
それは「不受不施派相持ち候義はこれ無く候えども」という文言で、それを前提に例えば「〇〇は不埒に付、過料(追放・・)仰せつけられ候」とある。
つまり、村方の不受不施信仰は処分理由ではなく、捕縛された法中に不受不施とは知らず地面を貸し、人別帳に入れなかったこと、あるいは、すでに逝去している不受不施僧の墓碑を放置していたなどの単純な手落ちや怠慢が処分理由となっているのである。
 どういうことか。手入れを受けた玉造・島・東台・飯塚・沢・中佐野・林・染井及びその周辺の村々では不受不施内信が圧倒的に多かったのである。内信全てを捕縛しようとすれば、一村全戸を対象にしなければならなかった村もあったのだ。領主とすればそんなことは出来る訳もなかった。そんなことをすれば、領主は責任を問われ、悪くすれば、領地没収もあり得たであろう。法中と法立は処分する、信徒は主だった者だけを処分する。それで、信徒と僧を分断し、信徒は脅しておくしかないという方針がどこかで決定されたのであろうとしか考えようがない。
 近世の寺檀制度により、寺は栄え、僧は安住し、檀家との間には形式的な繋がりがあるだけという仏教の頽廃は、役人に及び、内信摘発の必要性を感じさせなかったというべきであろう。
 さて、澤村に日浣・日講・日念の三基の碑がある。日講の碑・巨大な碑は叩き割られ土中の埋められていたの堀り集め、バラバラにならないように針金で結わえてる。日講の碑をたたき割ったのは押し寄せた捕り手の所業という。
--- 「忘れられた殉教者」終---
2023/08/30追加:
○玉造>「本妙院殿」碑 より
蓮性院日解:林の法林寺歴代。寛政法難により寛政6年(1794)十一月牢死。
 ※蓮性院日解は林の法林寺歴代にその名がない、不受不施僧であった故と推定される。
○玉造前野墓地 より
 多古を中心に、寛政6年(1794)の秋、不受派の大弾圧が行われる。
この場所に次の五人の法難者の墓が発見されている。
霊鷲院日享寛政六年十一月二十五日 是好院日理大徳同年同月二十六日 得円院法重日身同年同月十四日 信行院常法日種同年十二月七日 一相院法達同年十一月十七日」いずれも牢死とされているが、拷問、または断食死によるものといわれる。
 右のうち日享・日理は玉造の庵主で、日身・日種・一相院はそれぞれ与右衛門・与左衛門・伝兵衛を俗名とした玉造村農家の出身者である。
2023/10/13追加:
○「多古町史 下巻」、「日蓮宗不受不施派読史年表」 より
 ※下総林法林寺歴代である蓮性院日解は寛政6年(1794)寛政多古法難により十一月牢死する。
  →蓮性院日解は玉造>「本妙院殿」碑 を参照
 ※蓮性院日解は林の法林寺歴代にその名がないのは、上記の解説の通りである、不受不施僧であった故と推定される。
  19世から21世は欠、22世は日山で寂年欠、23世欠である。
 ※「日蓮宗不受不施派読史年表」長光徳和・妻鹿淳子、開明書院、昭和53年 p.169に日解の記事記載。
    「林庵居住、不見派」 とある。 →不見派は不受不施派の分派中にあり。
 ※同上「日蓮宗不受不施派読史年表」p.169に「寛政6年11月12日 心見院日迅牢死する。下総林村法林寺隠居 不見派」とある。

備中惣爪法難
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 備中惣爪・板倉は備前国境の宿場町でかつ天領であり藩の介入のし難い地区であり、取締りの厳しい備前の法中はここを拠点に半ば公然と布教活動を行っていた。
 亨和2年(1802)脅威を感じた庭瀬倍城寺(倍城寺とは不明、信城寺か)と下伊福妙林寺の訴えがあり、倉敷代官手代が出張し、庵6ヶ所を包囲し、僧13人法立3人が捕縛される。彼らは江戸に送られ、牢死者11名、流罪2名、転向者4名を出す。
 →津島妙善寺中の寿量院日巡の項を参照。

2019/08/13追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
惣爪法難と日巡の八丈流刑
 享和2年(1802)備中惣爪法難が起る。
惣爪村は倉敷代官所(幕府)支配で、その倉敷代官柘植又左衛門のところに密告があった。密告の内容は「惣爪村に切支丹がいる」というもので、不受不施派の勢力拡大に脅威を感じた受派の日蓮宗寺院から密告がなされたようである。
 なぜ「惣爪村に切支丹がいる」というような手の込んだ密告かと云えば、惣爪村では不受不施派の六庵が営まれており、不受不施信仰はまるで許されているかのような半ば公然たるものだったといい、「不受不施派がいる」との密告は「そんなはずはない。現にお前どもの寺では村民の全てが寺請けしているでないか、それともあの寺請証文は虚偽なのか」となり、不都合なのである。
 4月24日早朝、六庵を一斉に襲い、僧13人、法立3人を捕縛する。江戸に送られ、吟味中に了高院日誠(22歳という)と法立助次郎が落命、ついで4名の僧が改派を誓約する。
改派した4人は人足寄せ場へ収用される。つまり不受不施僧の立場を放棄した者は無宿放浪者の扱いしか受けられなかったということである。
 そして、その後、8人が吟味中牢死、残る寿量院日巡と恵朝院日達の2名が遠島となる。その他惣爪村々民12名が過料などの罰を受ける。
 享和3年正月、日達は流罪を待たず牢死、日巡一人が春の流人船で江戸を離れる。出帆の時、本妙院日珠が後継と考える了智院日祇が大胆にも船中まで暇乞いにいったという。
 三宅島で日巡を迎えたのは本妙院日珠であった。日珠によって日巡は半年間、面倒を見てもらう。(八丈島流人は全て三宅島で半年間過ごし、それから八丈島へ移される。)日巡は八丈島中ノ郷樫立に割り当てられる。今は八丈島で墓の知れているのは日巡以下六僧であるが、これは2個所に分かれ、供に樫立にある。
 八丈島に着いた日巡は草庵を入手する。それは島役人の小屋敷を金子25両で、しかも江戸払いという証文を発行し、入手する。つまり、流人とはいえ、歴代の不受不施僧は真面目な生活態度であり、しかも確実に物資が送られてきて、これには深い尊敬と信用が培われていたということであろう。
 文化12年(1815)本覚院日進が阿部備中守に出訴し、八丈流罪となる。日進は中ノ郷の日巡の草庵に同居することとなる。
 文化14年(1817)三宅島の日珠が寂する。過去帳その他が遺言によって八丈島の日巡に届けられ、日巡はそれを備前に送付したと思われる。
 おそらく同年に本覚院日進寂、31歳であった。
 文政12年(1829)3月、本珠院日近(備前佐伯妙泉庵)は顯妙院日宗とともに上洛し、関白鷹司家と摂政九条家に出訴する。日近は「法華宗日奥嫡流備前備中遊歴の沙門」として諌暁状を提出、その結果、「日奥嫡流」として洛内での布教を許されることとなる。これは若干の明るい兆しで、一つの時代が終焉を迎えつつある一つの兆候であったのかも知れない。日近のことは日巡にもたらされ「京都の首尾、至極御様子よろしく御座候由、委細承知致し候、云々」との備前の全ての僧・信者に宛てた書簡が残る。
 さて、日巡は八丈島で二人の青年に目をつけ、僧として育成し、備前に派遣する。立圓院日要と本行院日諫である。しかし、この二人は天保の大法難にて落命する。
日要は中ノ郷樫立村佐藤彦之助の次男であり、長男は彦太郎で、当時父の名代として村役見習いであった。次男(彦太郎の弟)は喜太郎といい、文政4年(1821)の生まれと思われる。おそらく天保6年(1835)に八丈を出、江戸の信者の世話を受けてから備前に向かったものと思われる。日諫は良く分からないが、日要と一緒に海を渡ったものと思われる。
--- 「忘れられた殉教者」終---


文化11年(1814)
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
文化11年、備前藩、岡山門田で無量院日至を捕縛、獄に投ずる。

文政2年(1819)備前益原法難
2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
 益原村木和田和介宅に不受不施僧日學が潜伏していることを察知した郡奉行は配下の役人に逮捕を命ずる。役人は数人の手下を引き連れ、木和田宅を取り囲み、日學を捕らえ、八幡宮神官である万代家の所に引き立てていく。
この緊急事態に村民たちは鍬や棒を持ち、役人たちを取り囲み、日學を取り返そうとする。多勢に無勢そして気迫に村民が役人を上回り、村民は役人に襲い掛かり、役人の刀を奪い、万代家の石垣に突っ込み、へし折ってしまう。
 この騒動で日學は救出され、逃走。
しかし、今度は郡奉行自らが数十人の手下を連れ、村の戸主80数人を召し取り、岡山へ連行。
そのため、日學は村民の救出と内信組織の全滅を防ぐため出訴する。
この法難は自らの信仰のため命を張る農民の姿が浮き彫りとなると同事に既成の身分制度が崩壊しつつあることを示したものであろう。

文政4年(1821)
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
文政4年、備前藩、赤坂郡明了院日相、通達院日義ほか4名の内信者を検挙、投獄。

天保2年(1831)備中山田村の法難
参考文献:
○「わたくしたちの福田」笠石隆秀、1983/01 > 2.むかし村で起きた出来事 > 不受不施信者弾圧される(山田五人集事件) より
 天保元年多数の内信者が捕縛され倉敷代官所に連行される。不受不施信仰を断つことを誓約したものは叱責の上、放免される。
しかし庄屋岡治五郎・組頭岡良助・笠石岩吉・岡幸十郎・岡次郎八の5名は棄教せず江戸送りとなる。
 当時、山田村では不受不施派信仰の活動が噂されるも、当時の山田村は天領であったので、公然と備前・備中の藩役人が信者の偵察捜索することは困難であった。倉敷代官所では虚無僧姿などに変装して不受不施派を3年にわたり内偵し検挙に至るという。
 (文政7年(1824)山田村は板倉藩から領地替して幕府直轄領(倉敷代官所支配)となる。)
組頭岡良助は江戸護送途中の天保二年七月二十八日逝去、庄屋治五郎は天保二年八月八日江戸の牢中で逝去、岩吉ほか3人は棄教を誓約し赦免されて山田村への帰国を許されるという。しかしこの棄教は表面だけであったという。
 なお、山田浄泉寺は不受不施を黙認し、発覚後も村民から帰依証文を取らなかったため30日の逼塞を申し渡される。
  →備中山田のお塚

天保法難
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 天保8年(1837)大塩の乱の時、大坂講中から多くの参加者を出したことから、乱後の弾圧を招くと云う。
法難は全国に渡り、西は安芸・備後、備前備中美作、四国は讃岐、京都・大坂・河内・和泉の畿内、北は加賀・佐渡、関東は江戸・上総・下総及び尾張の信者を悉く捕縛、過酷な吟味を行う。
この弾圧は内信不受不施を壊滅させる大法難であった。
2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
 天保法難は天保9年(1838)7月より始まった幕府による全国的規模の不受不施弾圧事件である。
現在全貌は明らかでないが、その捜査は「武相両総の四州、尾張、加賀、京都、大坂、両備、作州及四国等」に渡り「今日猶天保9年の法難と云へば古老等は三伏戦慄を感ず」(大正10年「日蓮主義法難集-毒鼓殉教号別本」)といわれるほどである。
史料的に明らかにされているものだけでも、牢死31人、逃亡中病死1名、流罪1名にのぼる。「惣滅の法難」といわれるほどの大弾圧であった。この法難により強固な内信組織も壊滅となる。
 白川日題派は天保の法難で、僧侶・組織が全て失われ、法立を中心に現在も内信を続けている。
   → 白川日題派
 久米右衛門派も天保の法難で、僧侶・組織が全て失われ、同信のもので、今も内信を続けている。
   → 久米右衛門派
ところで、この法難は今までの法難とはパターンが違う弾圧であった。
第1は、今までの法難は支配領主が差配するものであったが、天保法難では幕府役人が直接各地に出張し差配したのが特徴である。
第2は、今までは内信者の信仰の高揚に脅威を感じた檀那寺の出訴や摘発から発生したが、天保法難では幕府による全国規模の計画的弾圧であったのがその特徴でもあった。
文化・文政期より増加した村方騒動、天保期に頻度が高まった百姓一揆や打ち毀しに幕府は危機感をいだき、宗教異端と結びつくことを嫌って、この天保の法難を幕府が主導したものと思われる。

2019/08/13追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
天保大法難(内信−施主の根絶)
 天保8年(1837)大塩平八郎の乱が起る。その前年は大飢饉であった。
ことの直接の発端は蓮華院日継(備前佐伯妙泉庵主施王院日妙の弟子という)の自白である。日継は大坂で布教していて30人ほどの信者を得る。
講中で不受不施公許の出訴をすべきということになり、日継は江戸に出て出訴するも、寺号山号がないとの理由で却下され、帰阪する。それなら、衆妙庵の名を使えば良いとのことになる。
 日継は東高津村に引き移り、衆妙庵のものと親しくなる。衆妙庵が京都石塔寺末の光長寺隠居所であることを聞き出す。つまり衆妙庵は内信の庵であったのだ。
 日継は再び江戸に出て、今度は「石塔寺末光長寺隠居所衆妙庵」の肩書で出訴したから、取り上げになり、吟味がはじまった所で日継は牢死する。
奉行の尋問にあった日継は内信組織の実情を申し立ててしまい、その為衆妙庵をはじめとする内信組織が一斉に検挙される法難が発生する。
以上は安政5年(1858)信得院日潤が著わした「衆妙庵法難記」に出てくる。これは津寺派(講門派)寄りの文書であり、この文書の論点には多少のバイアスがかかっているとみるべきであろう。
 衆妙庵は津寺派の拠点であり、下総の不受不施も衆妙庵の系統である。日継がいくら他派の者とはいえ、初めのうちは日継が衆妙庵のことを知らなかったというのは不可解である。また日継が施王院日妙の弟子というのも疑問があり、日指派では諌暁の伝統が続いており、いかに奉行の尋問が巧みとしても、やすやすと内信組織の全貌を白状するというのもおかしいのである。
 結局、日継の素性は不明とするしかないが、法難が全国の内信組織に及んでいった経過は明らかにされていない。
結果は美作・備前・備中・讃岐・京都・大阪・河内・和泉・加賀・佐渡・江戸・上総・下総・尾張の広い範囲で内信が捕縛される。検挙は天保11年(1840)まで続く。
 牢死した法中は恵秀院日寛・台山院日照・智玄院日東・恵察院日長・蓮華院日継・日恕であり、八丈出身の日要・日諫も牢死したよである。施王院日継は三宅島に遠島となる。
この時、台山院日照の弟子で後の宣妙院日正も衆妙庵にいたが、駆け付けた信者の機転で危地を脱している。法立と信者で牢死したものは27人まで分かっているが、それ以外にも犠牲者はいるようである。27人の中には女性の法立妙喜がいる。
 津寺派(講門派)の全ての法中は牢死し法脈が絶える、大坂や下総の内信組織は壊滅する。日指派でも比叡山にいた照光院日恵・三宅流僧の日妙・八丈流僧の日巡によって細々と法脈を繋ぐことになる。
 当時、八丈出身の日要・日諫および備前の法立台山院日照は一橋領である備中東吉川村・西吉川村に潜伏していた。日要は美作津山城下、備前の法立常兵衛と日諫は伯耆三朝で捕縛される。日要・日諫は牢死といわれるがこれは良く分からない。
 八丈島中ノ郷樫立の丘にある5基の不受不施僧の墓碑の内日要の墓碑だけ小型である。大型4基は間違いなく本土から送ってくる石材で建てられたものであるが、日要の碑が本土の材であるかどうかは不明である。日要碑には「日蓮正宗日要大得位/天保11年8月29日」と刻み、入牢したから3年後の逝去となるわけで、牢死は疑問ともいえる。いずれにせよ、日要の墓は生まれた八丈の丘の上に建てられている。
 ※恵秀院日寛・台山院日照・智玄院日東は大坂高津衆妙庵で捕縛されるという。
  上記はページ:正義の叫び15/大阪高津の衆妙庵を参照
--- 「忘れられた殉教者」終---

2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
 天保9年(1838)大坂奉行所から役人が岡山に出張、西中島の西屋に滞在、岡山附近を探索、上道郡平井村の富田直兵衛夫婦を内信者として捕縛する。これを知った金川の法立・御藤吉五郎が藩庁に自訴、「余は不受不施の法立なり、・・・村内悉く不受不施を信ず、これ余が勧誘する所にて、官それ余を罰して、彼らを赦せ・・・」と直兵衛夫婦の為弁護したので、遂に権力側は夫婦を放免、吉五郎を投獄する。
天保10年4月30日法立・御藤吉五郎は柳原刑場で断罪に処せられる。

2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
◇備中上房郡吉川村天保法難
 天保9年(1838)10月23日、大坂町町奉行所役人が手下12人を連れて、備中上房郡吉川村に出張し、東吉川村政兵衛・繁八及び西吉川村弥平の3名の捕縛に来る。容疑は3名の不受不施信仰の嫌疑である。
同村庄屋沼本広右衛門は、当時同地は一橋家の領地であるので支配の領主に伺いを立てて欲しいと説き、役人には引取を願う。
翌日、帰村した3名は知行所である江原役所に連行される。
26日3名は備中板倉宿に出頭させられ、さらにその後、備前岡山に連行され入牢となる。
政兵衛・繁八の取調べより吉川村鍋之丞・善左衛門父子が不受不施信者であることが判明する。
また吉川村の聞き込みより、備前金川村産の常兵衛と僧侶本行院日諫・喜太郎(後剃髪し僧日要となる)らが、美作辺に逃亡したことが分かり、役人らは美作と讃岐方面の2手に分かれ捜索に向かう。
 日諫・常兵衛・万五郎らは美作興津から山越えして伯耆三朝まで逃げのびていたが、捕縛される。
喜太郎も津山の儒家岡崎裕四郎(津山藩家老佐久間長門の家臣)宅にかくまわれていたが捕らえられ、日諫らとともに岡山へ連行される。
記録では岡山に連行されたのは「常兵衛・喜太郎・本行(日諫)・地頭惣治・外に一人」(「大坂与力同心衆入込召捕之始末覚」)とあるが、外に一人とは万五郎であろうが、地頭惣治とは後の記録にもなく不明である。
 11月16日には鍋之丞も縄付きで岡山に連行される。以上で吉川村の検挙は終了する。
処分については大坂町奉行所が下す。
僧日諫・日要(喜太郎)は大坂に連行され、で牢死する。
常兵衛は日諫らとともに大坂に連行されたと思われるも記録がなく、不明。
政兵衛・繁八・鍋之丞は「村預け」、弥平は「関係なし」で放免、11月25日に彼らは帰村する。
万五郎は「構いなし」で11日帰村する。
津山藩家老佐久間長門は家臣の監督不行届で、1日の差控え、家臣岡崎裕四郎は「永々暇」を申し渡される。
---「岡山県史 第8巻 近世3」終---
2019/02/09追加:
○「難波一族」
◇備中上房郡吉川村天保法難
 「難波一族」というブログがあり、吉川法難についての記事があるので、要約・転載する。
なお、天保の吉川村法難で、捕縛された繁八は難波氏で、難波繁八の後裔がブログ「難波一族」を管理しているものと思われる。
また、参照文献として、上記の「岡山県史 第8巻 近世3」が挙げられているので、法難の概要は「岡山県史 第8巻 近世3」と同様のものとなっているが、新しい事実も多く語られる。
 ※備中吉川村には備前金川妙國寺8世日城上人が巡錫するという。おそらく、早くから日蓮宗が弘通していた土地柄と推定される。
 ◇ブログ吉川法難 より
 天保の法難は幕府による直接的な弾圧で、天保9年7月には関東一帯、8月からは近畿一帯に手が及ぶ。
日要は弱冠16歳の雛僧であったが、大坂でこの法難に遭遇する。
日要は他の僧から後事を託され、大坂を離れ、備前に潜伏する。
この情報を得た大阪奉行所の役人・林善次郎と部下11名はこの日要を捕縛するために備前へ出張する。
同時に日要と共に日諫という重要人物の僧も一緒に潜伏しているという情報も得ていたという。
さらに捜査の結果、日諫・日要の両僧は更に西の備中吉川村に潜伏しているという情報を得て、役人は真金板倉宿に本陣を置き、そこから吉川村に出張する手筈を整える。
 一方、吉川村では天保6年頃から備前国津高郡金川出身の常兵衛という者が不受不施僧と一緒に吉川村を度々訪れたという。
天保9年3月下旬には常兵衛が喜太郎という若者を連れて来て、吉川村へ3日程宿泊する。この喜太郎こそ日要であった。
また6月下旬にも常兵衛と喜太郎が吉川村へ2日間、7月下旬にも2人で5日間程宿泊したとの事であった。
この時には繁八宅や政兵衛宅に宿泊したと考えられるのである。
なお、この7月下旬に来た際に常兵衛は喜太郎を吉川村で暫く世話をして欲しいと鍋之丞に依頼をするも、断られ、暫く吉川村に来る事はなかった様である。
そして、この後に大阪にて法難に遭ったと思われる。
 それから暫く後の10月19日の夕方に再び常兵衛が僧2人と共にやって来る。
この僧2人は喜太郎(日要)と「本行」という20歳程の僧であった。この本行と言うのは重要人物であった日諫であった。
3人は政兵衛宅に一泊し、10月20日朝に萬五郎が人足となって作州・奥津まで道案内をして送り出していた。
 これらの事が役人の耳に入り、捜査の手が吉川村へと及んだものと考えらる。
 ◇ブログ吉川法難 〜繁八板倉へ〜 より
 天保9年10月23日午前10時頃に繁八、政兵衛、彌平宅に大阪奉行所の役人・林善次郎が部下11名を引き連れて庄屋・年寄の案内で押し寄せてくる。
言い分としては不受不施派の僧・日諫、日要を引き渡せとの事であったが、日諫、日要は既に美作に逃れていた為、家には不在であった。
不在であるならば、大阪奉行所の役人は不受不施僧を家に泊め、援助をしたという咎で今度はそれぞれの家の家長である繁八、政兵衛、彌平を連行しようとする。
 当時の吉川村は一橋家の所領であった為、庄屋の沼本廣右衛門は領主にお伺いをたててからでないと勝手な事は出来ないと拒否する。
なお、その日は当事者の3人は共に外出しており、家には不在だったという。
(祖母から伝え聞いたところでは、吉川村へ捜査の手が及んでいると分かった廣右衛門は捜査が入る前に繁八らに連絡して近々捜査が入るので不在にしておく様に手配していたとの事である。)
 それから出頭要請があり、廣右衛門と繁八等3人は翌日の24日に支配地である江原へ出発し、25日に江原役所に出頭する。
ここで事情聴取があり、そのまま繁八、政兵衛、彌平は仮牢へ入牢となる。
またこの25日に大阪奉行所の手先より繁八等3人の呼び出しの差紙が来た為、今度は真金板倉宿へ連行される。
 廣右衛門は3人と共に26日に江原を出発し、その日の内に板倉に到着、一夜明けた27日早朝に真金板倉宿に滞在中の役人へ3人の身柄を預ける。
ここで繁八等は大阪奉行所の役人から直接取り調べを受け、その結果、夕刻には真金宮内に入牢となる。
繁八、政兵衛は執拗な聴取に堪りかねてついに日諫、日要の足跡を白状させられる事態となる。これには拷問等もあったかも知れない。
 26日別途、聴取を受けていた鍋之丞も繁八、政兵衛と同様の自白をしたという事で役人達は美作方面に向かう。また、同じく讃岐でも取り立てがあるという事で数人は讃岐方面へ出立する。
ここで繁八等は事情が判明するまでは板倉駅に引き留めとなり、宮内に住む同心の石井八十八宅へと預けられるという。
 ◇ブログ吉川法難 〜繁八帰村〜 より
 美作方面に向かった役人達は暫くして繁八等の自白通り、逃れていた日諫、日要を発見する。
日諫、常兵衛、萬五郎の3人は伯耆三朝にて、日要は津山にてそれぞれ捕らえられる。
 捕らえられた4人は11月10日に板倉まで連行され、ここで萬五郎は翌日に「構いなし」とされ吉川村へ帰村する。
日諫、日要、常兵衛の3人は11月25日に大阪へと連行される。
繁八等も同様に大阪まで連行される予定であったが、庄屋・廣右衛門や村人の嘆願により、「村預り」とされ25日に一同揃って吉川村へ帰村する。
繁八、政兵衛、善之丞は『村預り』、彌平は『関係なしで放免』の裁定が下される。
 大坂に連行された日諫、日要は後に江戸へと連行され、江戸の獄中で死去したと伝わる。
ただ常兵衛の顛末は記録が無く、大阪へ連行された後は不明である。
 ◇ブログ吉川法難 〜その後〜 より
・難波家屋敷
 現在の難波家(繁八)の屋敷は文政8年(1825)改築されるが、難波家へは昔から日蓮宗の僧が宿泊していたという。
屋敷は平屋建てであるが、中二階に隠し部屋があり、ここに旅の僧がしばしば宿泊していたと伝わる。
吉川法難の際も日要上人等を中二階に宿泊させていたのだと推測される。
・難波繁八がこと
 天保9年(1838)吉川法難の際に(難波)繁八は42歳の働き盛りであった。
繁八が連行され、取り調べを受けている1ヵ月間の家族の不安は想像を絶するものがあったと推測される。
家族はこの間に役人へ幾度も嘆願し、また庄屋や村民へ必死で協力を訴えたものと思われる。
 その結果、「村預り」という形で帰村する事が出来き、家族は再会を果たす事が叶うこととなる。
「村預り」の身で、尚且つ役人の経費を吉川村に肩代わりして貰ったという事で、暫くは肩身の狭い思いであったであろう。
 繁八は酒豪だったという、しかし、帰村した後は世間体もあり、また自分を戒める意味でも、禁酒生活を送ったそうである。
 ◇ブログ日諫聖人・日要聖人 より
・日諫聖人:
 本行、幼名・周平。本行院日諫。20歳。(18歳とも)
八丈島出身。大阪日念の弟子。
備前金川を拠点とし、日要と共に大阪、備前、備中と密かに潜伏する。
その後、吉川村を訪れては居住するという。
天保9年の吉川法難の難を逃れる為、伯耆三朝に潜伏中に大阪奉行所役人により捕らえられる。
大阪、江戸へと護送されて天保9年(1838)12月7日に江戸獄中にて死去。
・日要聖人:
 幼名・喜太郎、立円院日要大徳。17歳。(19歳とも)
八丈島樫立村字向里の佐藤彦之助の四男。
12歳の時に八丈島に流罪になった日遍の弟子となり、日要と称する。
15歳の時に父・彦之助に伴われ、本行日諫と共に備中へ。吉川村に居住したと伝わる。
天保9年に作州津山藩家老・佐久間長門の家来である岡崎裕四郎宅にて大阪奉行所役人・平山源三郎等によって捕らわれ、岡山から大阪へ、さらに江戸へ護送されて天保9年江戸獄中にて死去。または天保11年8月29日逝去とも伝える。
吉川村にはこの2人の冥福を祈り慰霊碑が建つ。
 ◇ブログ難波繁八 より
 難波繁八:寛政9年(1797)〜安政4年(1857)
難波石左衛門の嫡男。安政4年10月11日死去。一如本光院浄観信士。
---「難波一族」終---

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
下総法難
 天保年間の下総香取郡島村の農民らに関する資料「天保11年子年宗門一件御裁許并に荒増始末の記」がある。
  ↓「天保11年子年宗門一件御裁許并に荒増始末の記」は下掲↓「多古町史 上巻」中にあり。
これは上総・下総でも強烈な抵抗と潜行があったことの一つの例証である。幕府による凄惨な処刑が繰り返される中で、法脈はなお縷々として尽きることは無かったのである。島村は今でも全戸が不受不施派である。
 天保9年(1838)8月香取郡島村の百姓籐右衛門、三郎左衛門ら7人が捕縛され、うち5人は江戸で吟味される。
三郎左衛門は9月に牢死、籐右衛門は出牢するも11月に病死、忠兵衛は翌年7月に帰村を許されるもその翌年3月に病死するなど苛酷は取調べに遭う。
三郎左衛門の遺族の吟味で倅善藏の供述があるが、その中に摂津東高津村法頭恵秀院日寛の名前がでてくるが、上総・下総の不受不施信仰は摂津高津衆妙庵の恵秀院日寛の影響であることが知られる。つまり彼ら農民は天保9年7月大々的に手入れを受けた衆妙庵の関係者として吟味糾明を受けたのである。
2023/09/24追加:
○「多古町史 上巻」昭和60年 より
◆下総多古町域に於ける不受不施派の法難  上巻335〜
 下総多古町域に於ける不受不施派の法難
  不受不施派概説、寛文の法難(多古町域)及び天保法難・始末書(多古町域)の記録である。
   上述の「下総法難」中の「天保11年子年宗門一件御裁許并に荒増始末の記」の記載もある。
2023/09/24追加:
○「多古町史 下巻」昭和60年 より
◆下総中佐野に於ける不受不施派に対する弾圧  下巻641〜
 不受不施派に対する弾圧【中佐野)】
  寛政法難(下総中佐野)及び天保法難(下総中佐野)の記録である。


2019/11/28追加:
○「ふるさと平井」平成6年 より
法立後藤吉五郎
 天保9年(1838)、天保の法難の時、全国で不受不施派の探索・捕縛が行われるが、大阪から出張中の役人と藩役人が西中島の宿屋である西屋に宿泊中の平井村富田直兵衛夫妻が不受不施信者であることを聞き込み、獄に投じる事件が起る。
これを聞いた津高郡金川の法立・後藤吉五郎が藩に直訴する。
 私が不受不施の法立である。藩は夫婦だけを罪人にしているが、信者はこの二人だけではなく、村内全てである。直兵衛を勧誘したのは私である。直兵衛は放免し、私を罰するべきである と。
藩は直兵衛夫婦を赦し、吉五郎を投獄し、翌10年(墓碑には天保9年とあるという)柳原刑場で断罪となる。
 →柳原刑場は備前上道郡網浜村・湊村・平井村中にあり

坂本和平(真楽)入牢・流刑
2013/07/04追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
明治3年8月3日、幕末・維新の激動期、不受不施再興を念じその実行運動に携わったという理由で、捕縛、10月に鹿久居島(※鹿久居島諸島である切支丹流刑地の鶴島)に流刑となる。
不受不施への禁制は明治維新も続いているということを示す事件ではあるが、しかし、不受不施の禁圧はこの事件が殆ど最後で、漸次緩和の曙光が見え、1年の刑期を経て、翌4年10月に赦免となる。
明治3年の「刑法局申渡」は次のように云う。
 御野郡対馬津島村之内西坂
   増治 本名 坂本和平
 其方儀御制禁之邪宗門取行候ニ付・・・、不受不施宗門信仰致シ剰ヘ邪僧ヲ和気郡益原村ヘ誘引シ同所ニ於テモ密ニ法談ニ及候条
 甚以心得違不埒之至ニ候於鹿久居島徒刑申付候也
   但曼陀羅其外不受不施宗取用ヒ候書類不残払上可申事

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
流罪地:伊豆諸島の概要
伊豆諸島には多くの不受不施派僧・法立などが流される。
伊豆諸島は江戸から見て、大島、新島、高津島、三宅島、御蔵島、八丈島の順に南に並ぶ。

●大島
◇海中寺:
 海中寺に不受不施流罪僧8名の墓碑が現存。
向かって左端は日什門流東漸院日逞の墓で「ドウテイ坊」と呼ばれている。これは女犯僧と区別しての尊称であろう。
   →東漸院日逞:常楽院日経
 ※大島には多くの僧俗が流され(「不受不施殉教の歴史」では22名の僧俗の名がある、日什門流日逞の名前はない)僧の名前を特定できない。
 ※東漸院日逞:日経の高弟正善院日壽の弟子、もしくは日城の弟子という。万治3年(1660)伊豆大島流罪となる。元禄5年( 1692)寂。
◇共同墓地内:
不染院日然墓碑 日然は享保3年行川法難で流罪となる。
智遣院日義墓碑 日義は元禄法難で流罪となる。
が現存。

●新島
元禄法難で流罪になった最勝院日養墓碑 現存。

●神津島
元禄法難流罪の7基の不受不施僧の墓が残る。
さらに三宅島より島替えされた隆賢院日照の墓碑(五輪塔)が残る、
日照は富士門流の僧であり、天明3年(1783)三宅島から諌暁書を提出した罪によって神津島に島替えとなる。元禄法難不受不施7僧とともに眠る。

●御蔵島
宝暦3年(1753)久遠院日然とその弟子應智院日縁は江戸寺社奉行に出訴諌暁する。日縁は御蔵島に流罪となる。日然は流罪前に獄死する。日縁墓碑は御蔵島に現存。

●三宅島
◇正統院日尚:常楽院日経の門流(日什門流)
 日尚は京都の人で、江戸に新妙法寺を建立していたが、精進院日英との宗論に敗れ、万治元年(1660)流罪となる。寛文以前の流罪であり、三宅島不受不施流僧の最初の流僧であった。島の言い伝えでは、観音下橋に庵の跡があり、日尚はここに住していたという。
   →正統院日尚:常楽院日経
◇伊豆村曽里川不受不施派墓碑:
 島内一周道路から伊豆岬に下りていくと途中で曽里川を横切る。ここに9基の墓がある。
一番大型の墓が日尚の墓碑である。
一つだけ別になっているのは、本正院日誓の墓碑で、左右に16僧の名がある。
 日誓は寛政6年(1794)下総の多古法難で流罪となる。元禄以来、下総から流されてきた僧は全て寂していた。日誓は彼らの供養のために1基の塔を建立したのである。
外の墓碑は浄源院日進が正統院日尚やその他の僧のために建てたものである。浄源院日進は日経門流であり、元文4年(1739)流罪とある。なお、伊豆村から海岸に出る危険な間道に日進が建立した交通安全祈願碑が現存する。
◇西谷檀林日遵の墓:
 身延46世(後に除歴)妙乗院日唱は日遵が不受不施僧であると寺社奉行に提訴、対論となり、その結果日遵は三宅島へ流罪とされ、日唱は入牢後牢死する。
  ※文意は原著のママであるが、事実の確認が採れないし、提訴した日唱が入牢し牢死したという意味が不明。
  ※原著には「西谷檀林日遵の墓」の写真掲載があるが、墓碑の判読がほぼ不能。
  ※身延46世(後に除歴)妙乗院日唱とは不詳、日遵の院号なども不明で良く分からない。
  ※2023/09/02追加:この件については、
   身延山>身延46世妙乗院日唱復暦事件 の項で詳細を掲載する。
◇三宅島伊ヶ谷の墓地:
 5基の不受不施僧の墓がある。
経行院日要(上総行川法難で流罪)、本妙院日珠、善行院日清(行川法難・日要の師・大樹庵8世)、明静院日饒、心是院日遼である。
◇三宅島常勝庵
現在は受派の善養寺のものである。
 ※善養寺は善陽寺とも書く、長喜山と号する。応永2年(1395)百姓善七の発願により、日養和尚が来島し建立した。常勝庵の存否は確認ができない。また番神堂がある。

八丈島
◇八丈島中之郷樫立の墓碑:
 2個所合わせて7基の不受不施流僧の墓がある。
高台に出て左側に5基がならぶ。左から慈恩院日憶(可全)・慈念院日助(可真)・寿量院日巡・本覚院日進・立圓院日要の5基である。かなり大型で日要を除く4人は備前の出身である。大型の石は八丈では採れず、備前から運ばれたものであろう。
日巡は享和3年(1803)備中惣爪の法難で流罪となる。
三宅島日珠は本覚院日進と勇行院日長に国主諌暁の心得を書簡で示すが、その後、日長は江戸で諌暁して牢死、日進は八丈流罪となる。文化12年(1815)11月の着船である。
日要は八丈出身で、日巡の弟子である。樫立の5基の墓碑のうち、一番右にあるのが日要の墓碑である。これは小型であるが、正面に「日蓮正宗日要大徳位 天保11年8月29日」と刻銘がある。誰が建立したのか、「流人帳」には日要の名は載っていない。やはり日要と日諫は天保法難に遭い、江戸で牢死したとみるのが正しいようである。刻銘の「天保11年8月29日」は日要の命日ではなく、おそらく墓碑を建立した日であろう。少年弟子日要の死を日巡は知った。日要の成長に胸を膨らませてした日巡の最後の希望が断たれた形である。いかに強信の日巡でも衝撃なしには済まなかったであろう。そのような日巡が日要の墓碑建立を考えたのではないだろうか。
◇日顕と日成
 中之郷樫立には共同墓地があり、佐藤善太郎氏の墓地に常壽院日顕と乗如院日成の墓がある。
元禄の悲田法難で八丈送りになった26人の内の2人である。清存と可善も八丈送りにあるが、彼ら4人は江戸で同じ長屋に住んでいたという。日顕と日成の両僧は50年以上も在島する。
不染院日雄墓碑:ジョウベン様:
 八丈島末吉というところに土地の人がジョウベン様と崇めていた僧の庵があった。ジョウベン様は了楩という流僧であった。
了楩は法号を不染院日雄といい、下総中村檀林の僧であったが、不受不施僧として八丈流罪となる。
(日雄は中村檀林の学僧で不受不施は正義であると唱え流罪となる。)
「流人明細帳」では宝暦元年(1751)に流罪とあるが「不受不施派法難資料集」では寛延元年(1748)に流され、宝暦3年(1753)に逝去となっている。さらに「三宅島流人帳」には「寛延4年4月18日八丈島へ流罪」とあるといい、これは三宅から八丈へ渡った日であり、寛延元年から4年(宝暦元年)まで三宅にいたと解すべきかも知れない。
 加川治良氏によれば、了楩は中村檀林ではなく飯高檀林の学頭であったといい、当時は受派(身延派)の檀林であった飯高の中で了楩一人は不受不施の正義たることを主張し、自ら「日奥門流」を称していたという。ということであれば、彼は不受不施僧というより受不施派の中の反乱者とした方が的確であろう。
   不染院日雄については、中村檀林>不染院日雄の諫暁 にも記述あり。
◇八丈流罪諸師連署曼荼羅
 八丈流罪諸師連署曼荼羅(祖山妙覚寺蔵)
 ※連署の諸師は全て元禄4年(1691)流罪である。元禄法難で流罪になった直後に署名されたものと推定される。
 連署した僧以外にも元禄4年流罪の僧も存命であったと思われるも、それらの僧の連署がない理由は分からない。
 〇「不受不施派殉教の歴史」相葉伸 より
  立雪院日浄:元禄4(1691)流罪、日庭の資、備前野々口の人、享保3年(1718)寂、75歳
  正智院日健:元禄4(1691)流罪、日庭の資、武州の人、宝永3年(1706)寂、61歳
  是真院日守:元禄4(1691)流罪、住善寺出寺僧、元禄6年(1693)寂、74歳
  領宗院日宗:元禄4(1691)流罪、元禄6年(1693)寂、72歳
  圓住院日覚:元禄4(1691)流罪、下谷徳大寺首、備前の人、宝永元年(1704)寂、73歳
  立賢院 立賢 日遊:元禄4(1691)流罪、堯了の資(堯了の俗甥)、備前の人、享保4年(1719)寂、71歳
  良應院 智源 日剛:元禄4(1691)流罪、日庭の資、江戸の人、延享元年(1744)寂、74歳
  乗如院 了源 日成:元禄4(1691)流罪、江戸の人、延享4年(1747)寂、72歳
  常壽院 了俊 日顕:元禄4(1691)流罪、江戸の人、寛保元年(1741)寂、68歳
  本智院 可善 日嶺:元禄4(1691)流罪、日庭の資、江戸の人、寛保2年(1742)寂、73歳
  智善院 冠碩 日貞:元禄4(1691)流罪、安芸の人、享保12年(1727)寂、84歳
  顕理院 清存 日用:元禄4(1691)流罪、武州の人、正徳3年(1713)寂、52歳
  宗受院 宗受 日真:元禄4(1691)流罪、中之郷中之浦に入水、享保3年(1718)寂、71歳
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
元禄4年(1691)悲田派禁制によって捕縛され、伊豆七島に流された僧俗は74人に及ぶ。
その後、幕末頃までに流された僧俗は106人に達する。
(「不受不施派法難史料集」岡山県地方史資料叢書7、長光徳和、1969 
 「法華の殉教者たち」宮崎英修
 「不受不施の法難並に流僧生活について」影山尭雄<「日蓮宗不受不施派の研究」所収>などの著作がある。)
今、上記などの著作によって、記録伝承に明らかなる殉教流刑者を挙げておく。
 ※本書では次の人数の不受不施関係の僧俗の名前が記載される。
  伊豆大島:22名
  神津島 :7名
  三宅島 :35名
 三宅島では本妙院日珠がとくに有名である。
日珠の父は岡山藩池田氏の侍医の井上立庵で400石どりであった。立庵は後牢人して隆安と変名し、勤皇の志士と交わり、反幕府に傾いていった。
(親藩である水戸藩が幕府の禁制を犯して不受僧日耀を招請していたことも思い起こさせる。)
日珠の住居跡といわれている所は伊ヶ谷村原の広瀬初五郎氏宅の敷地の左方に隣接する狭小の土地であるが、住宅は焼失し敷地は崖崩れのため変貌しているという。
日珠は文政元年(1818)在島26年56歳で生涯を終える。墓は常勝庵の墓所にある。
常勝庵は日什門流日経の流れを汲む正統院日尚や行信日進の如き内証題目講の関係があるとみられる庵である。ここの墓所には前述の日珠のほか日腰(要)・日清・日暁・日遼の墓も並んで建つ。
なお伊ヶ谷には日珠が恩師・祖父母・父母の為に建てた報恩塔も残る。高さ2尺6寸2分・幅9寸というものであるが、文化14年(1817)の年紀と日珠の自筆花押がある。
伊ヶ谷村のほか伊豆村には5基の供養塔がある。
一には経行院日腰(要)建立の日蓮450年遠忌供養(享保16年年紀)
二には行信日進建立の正統院日尚の供養塔
三には同じく行信日進建立の両親の供養塔
四には日進自身の逆修塔
五には本正院日誓建立の先師十六人併記の供養塔である。
 伊豆村には不受不施僧の墓が8基ある。岬への小径を下っていくと1本の小川に出会う。曽里川であるが、この付近にある。内証題目講の日尚の墓を加えると9基になる。
2023/09/14追加:
大泉院日須:日須も三宅島流僧の一人である。
○「不受不施殉教の歴史」では
三宅島不受配流僧
 大泉院日須(日順) 元禄9年11月8日(元禄11年11月10日)寂、元禄法難(元禄4年7月5日配流)下総北中村妙福寺出寺僧、多古の生、谷の人。
とある。 →下総北中村妙福寺は下総中村>北中中の北中妙福寺跡として掲載。
  新島 :6名
  御蔵島:1名
 應智院日縁であるが、28歳まで備前津高郡下田の大教庵にいたが、宝暦3年(1753)久遠院日然とともに江戸に出訴諌暁、ただちに捕縛され入牢。
翌宝暦4年日然は39歳で牢死、同年日縁は秋船で三宅島に送られたが、当時の慣習に従ってその途中、三宅島で下船、次の春便で御蔵島に移送される。その時日縁は30歳であった。日縁が御蔵島にて寂したのは寛政8年(1796)71歳の高齢であった。
日縁に限らず、不受不施僧の多くは70歳前後の高齢を保つ。おそらくは肉食を廃する菜食主義が健康法に適っていたのかもしれない。
そして、多くの僧侶は内地から信者たちによって多くの物資があつまり、生活は決して悲惨なものではなかったようである。
なにより、内地の内信を指導する使命感、そしてあらゆる拷問や苛酷な獄中を切り抜けた強靭な肉体と信仰のためには如何なる辛苦も跳ね除ける精神を持っていた故であろうというしかない。
 八丈島:36名(本行院日諫と立圓院日要は墓碑のみあり、流僧ではないため除く)
三宅島流僧の中道院日善は三宅島在島48年にして70歳で示寂する。これは最も在島の長いものである。配流の時は僅か22歳の青年であったことになる。
  以上 合計(延べ)107人の僧俗が伊豆諸島に流罪となり、その名前が判明している。


不受不施派の再興

2019/08/13追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
内面の信仰
 嘉永元年(1848)備前和気郡塩田村事件が発生する。(「密意共伝書」という記録が残る。)
7月塩田村の光吉という百姓が急死、近くの暮田村に兄の忠吉という実兄がいた。檀那寺である周匝の蓮現寺僧のもと葬儀が執行され、最後の棺改めの時、光吉の体に了恵院日義の書き与えた本尊が付けてあることを僧が発見する。つまり光吉は不受不施内信であったのだ。このあたりも内信の強いところであった。光吉の兄忠吉は僧からその本尊を僧を突き飛ばすような勢いで奪い返す。僧は立腹し、葬儀を中断し、引き上げる。
 塩田村と暮田村の名主は結託し、本尊そのものは不問に付し、蓮現寺の僧に乱暴を働いた行為を問題視することにもってゆくことにする。両村の名主は蓮現寺に詫び状を入れた上で、蓮現寺を慰撫する交渉に出た。本尊は光吉が内信時代に所持していたもので、先年改悛し、本尊は忠吉に預けていた。光吉の急死を知った忠吉は本尊の処置に困り、棺に投げ入れたものですと、蓮現寺を慰撫する。
 事件は決着する。両名主が内信であったかどうかは分からない。しかし、何れにしろ、両村では内信は守られていたことだけは、はっきりしている。
日恵と日正
 天保大法難以来、不受不施派に残った法中は二人であった。一人は照光院日恵であり、一人は三宅島施王院日妙であった。
日恵は文化年中に三宅島日珠から僧として認められ、修学のため比叡山にいたから、天保法難を免れた唯一の法中であった。
日恵は比叡山を下り、数年潜居があり、弘化2年(1845)津高郡山条村に庵を作り、生前庵を再興する。その再興・生前庵の隣家に一人の青年がいた。少年のころ、大坂衆妙庵で捕吏の手からのがれ、各地の内信に匿われて、この山条の親戚宅に落ち着いていたのである。この青年は津寺派台山院日照の弟子として大坂に往き、そこで天保法難の遭遇する。であるから、日指派の日恵とは別派であったのである。
 しかし、不受不施派が壊滅状態にあるとき、別派など問題ではないと考えたのであろうか、日恵は再興の1歩としてこの青年を清僧として法門の列に加える決断をしたものと思われる。青年は日恵によって不受不施清僧の途に入り、大坂遊学の後智誠日正と名乗る。後の宣妙院日正(釈日正)である。
 このことは三宅島日妙に報告され、日妙は日恵を地方法燈に任命し、日正に宣妙院の院号を与えたようである。
 安政3年(1856)備前の法中の会合では日恵が隠居、日正と止心院日順に指導責任を任せることとなる。
一方下総方面の事情はよく分からないが、内信はバラバラの状態で継承されていたものと思われる。
上総でも内信は逼塞状態であったが、万延元年(1860)備前の日正との連絡が復活する。
 日正は備前を中心とする内信組織の再建に取り組むが、その際天保の大法難の反省に立って、組織の機密保持のため、組織の全体が縦割になるように変えることにする。これは、たとえ1個の内信グループが摘発されても、被害はそこにとどまるのである。
攪乱−阿耨院日行
 万延元年(1860)大きな事件が発生する。それは分派抗争−権力闘争−のように見え、そのように処理されるも、幕末の尊王攘夷の思想と運動が不受不施派を襲おうとしたものであった。
 阿耨(あのく)院日行<阿耨とは聞き慣れない単語であるが、「無上」を意味するサンスクリット語の漢訳という>が備前金川にやってくる。
曰く「自分は三宅島施王院日妙の直弟子で、朝廷に対して諌暁を行う事を命ぜられ備前にきた。」
さらに彼は近衛熙孝という公卿で、三宅島に流されて日妙を知り、教学を学んで直弟子となるという経歴であった。
 幕府によって流罪とされ、近衛家の公卿ということであれば、備前法華の祖と崇められる大覺大僧正が近衛家の出であるという事と重なり、この地備前では、日行は大覺大僧正の再来という雰囲気が醸し出されたのは自然の成り行きであったのかも知れない。
 備前一帯では急速に日行派が伸び、日正は大坂に遊学していたこともあり、日正派は孤立を深めていくこととなる。日行の直接の主張の記録はないが、日正の反駁書からみて、日行の主張は尊皇的なものだったようで、尊皇派に不受不施派が組み込まれる方向に向いてきた。
 日正から見れば、日行の素行には、日妙の直弟子と云いながら本尊も諌暁書ももっていない、僧と云いながら剃髪していないなどの怪しいところがあった。
万延元年11月日妙からの消息が到着したが、阿耨院については何も触れられていなかったが、翌年の文久元年(1861)4月に再び日妙の消息(島御状)が届き、ここには日行に京都諌暁を命じたことは全くないと書かれてあった。これにより、事態は全く逆転する。
 そこで、日行は京都に諌暁に行くと称して出かけ、事実出訴はしたようであるが、これは失敗し、入牢となったようである。長光氏の「釈日正聖人伝」では、日行は流刑地三宅島から脱走し、その時に殺人2件のため、明治2年頃処刑されたとしてある。
 何れにしても、阿耨院日行の素性には不明なことが多すぎ、思想・人物像などは良く分からない。
かくして、一時は備前の不受不施派を掌握する勢いであった日行は追放される。
日正は、内信はけっして軽視されるべきではなく、内信の基盤の上に法立・法中は存在するという禁制不受不施派の原則を守ったということであろう。こうして日行の追放によって、宣妙院日正の指導権が揺るぎないものとして確立する。
日献と日徳
 文久2年(1862)和宮が将軍家茂に降嫁、大赦の噂が広まる。大坂にいた日正は備前に帰り、精力的な諌暁を企図する。
諌暁の要点は不受不施派公許と施王院日妙の赦免である。
 京都では関白近衛忠熙に対して純妙院日献が、江戸では老中板倉勝静に対して十妙院日徳が出願することとなる。
日献は前大納言烏丸光政に出訴、諌暁趣旨に好意的ではあったが、取り上げられず、失敗に終わる。
次いで、議奏柳原光愛に糸口がつき、柳原から京都所司代、さらに東町奉行所に回され、元治元年(1864)正月本格的な取り調べを受ける。
ある意味、真摯な取り調べではあったが、出訴の条項については、冷淡で、不首尾に終わる。
日献は「善悪正邪を判断してくれるところはなく、これ以上の出訴・諌暁は無益」との報告をなす。日正と日献は対立し、日献は不受不施派を離脱する。
日献は不受不施派の歴史では堕落者の中に数えられるが、我々部外者には日献を堕落者とよぶ権利はないのである。
 江戸を担当した十妙院日徳も失敗する。が、以前と違って直ちに入牢ということにはならなかったということは時代が転換点に来たことを示すのであろう。
 元治元年4月、日徳の供であった勇猛院日義は備前に帰り、藩主池田茂政に直訴を敢行する。
日義は入牢し、拷問の果てに落命する。日義は平井の住民によって葬られ、藩吏によって埋葬された遺体は密かに発掘され、正式な不受不施葬が行われたという。
「若松の夢」
 明治維新−幕府は崩壊したが、不受不施派公許にもたらした直接の影響は殆どなかった。復古神道の跋扈やそれに付随する廃仏毀釈でなす術がなく自失したのは寺院仏教と化していた不受不施派以外の他宗派だけであった。特に法華系の教団では寺請制度廃止のショックは大きく、不受不施派が肥大化するのではないかとの懼れを抱いていたが、それは杞憂であった。それは、不受不施派の内信と潜伏切支丹の他には信仰の自由の大切さを切実に思っていた日本人はいくらもいなかったということだったからである。そのようにさせたのは外ならぬ仏教寺院であったのだ。
 明治3年坂本真楽(和平)は流罪となる。備前の受派日蓮宗寺院が不受派の信徒を訴えたことが原因であった。
要するに、真楽は不埒にも不受不是の邪義を棄てず、いよいよ信仰を強固にして、様々な禁制である行為をおこなっているのが、その流罪の判決理由であった。
真楽は津島の人で、唯紫庵(妙善寺)再興に尽力した強信者であった。
 真楽は鹿久居島の属島である鶴島に流される。真楽は「臨終の心を決し」たような拷問に耐え、流される。
鶴島には、既に170人の浦上切支丹宗徒が流されていて、改宗を強要されていた。真楽はこの中に投入されたが、浦上切支丹信徒とは交流をしなかったようである。
真楽は約1年後の明治4年10月に釈放され、浦上切支丹は明治6年4月に帰国する。この2ヶ月前に切支禁制の高札は撤去される布告がなされ、切支丹は信教の自由を手にいれたのである。不受不施派は禁制のままであったが、真楽は法中でも法立でもないが流刑に処せられ、中央政府ではなく岡山藩で処断され、そして釈放されたということが大きな変化であった。
 三宅島の施王院日妙が釈放されたのも大きな変化であった。
明治2年6月天保法難から30年目に日妙は本土の土をふみ、出迎えた日正と東京で会い、備前には帰らず、上総夷隅郡正立寺村(行川法難縁の地である)に移る。この村の名主である麻生亨は土佐山内家の分家(土佐新田藩)の家臣であり、上総の山内家所領の支配をまかされていた豪農であった。
彼が身元引受人であった、麻生家は内信といえば内信であるが、麻生家の不受不施信仰は財力と名声に支えられた半ば公然のものであったという。さらに、後には不受不施正立寺教会の設立のため走り回るという。
 日正と日妙が正立寺村に滞在中吉凶2つの出来事が発生する。
凶の出来事は、麻生家2階の不受不施妙昌庵の活動を停止する受派寺院(本迹寺など)の動きがあり、日妙は受派寺院僧の対論に敗れるという。
 <日妙の邪法承服事件という>
麻生亨の懸命の工作で、訴訟は取り下げられたが、それは日妙は正立寺村を去るという条件であった。
そのため日妙は備前に帰るが、日妙にはいろいろ定規に合わない行動が目立つようになり、遂に日正は日妙の追放を宣告する。
 吉事とは日正が「厳しい霜の寒中に若松の芽が伸びる」という喜ばしい夢を見るという。古来、宿願を抱く者は松の夢にて吉凶を占いという。厳寒に新芽をみるのは吉夢であった。日正は「若松」の字画を分解して「四十八公」とし、自分が48歳になる明治9年に不受不施派が公許にあると考えた。
まさに正夢だったという。
 その夢を見た麻生家2階の妙昌庵は、今この部分だけがそのまま妙松寺の2階に移築されているという。
(参考)
備前十二庵巡礼曼荼羅
 備前十二庵巡礼曼荼羅:千葉県夷隅町麻生家蔵
 ※天明3年(1783)年紀、法号から庵を結びつけることができず、具体的な庵の名称は不明である。
--- 「忘れられた殉教者」終---
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日妙の邪法承服事件
 上総夷隅郡正立寺村付近の不受派の教勢拡大に驚いた受派の行川本迹寺、島村妙隆寺等が結束して、領主山内摂津守に日妙・日正の追放を讒訴する。
これにより日妙は明治3年3月7日山内領刑法局に召しだされ、役人とのやり取りの後、邪法の議論によって敗北の形となる。
 「邪法相持ち候咎に依って三宅島へ流罪に相成り居り、昨年大赦御施行につき御赦免仰せつけられ候。其の後相慎むべくの処密かに袈裟を着用説法等相勤め、邪法相企て候段不届きの至り恐れ入り奉り、一言の申し分御座なく候」
と、上記の口書を読み渡し
 「邪法の申し分ござるまい」
 「邪法と仰せられては迷惑仕り候、邪法にては御座なく候」
 「邪法なり、邪法の申し分ござるまい」
 「邪法にては御座なく候」
 「此方では法の邪正は存ぜず、世間朝命に相背き候者を邪法というなり」
 「左様仰せられ候へば、何と申し候もござなく世間に恐れ入り候」
 「それ邪法の申し訳は一言もござるまい」
 「はい」
こうした役人との問答で日妙は邪法を承認したことになってしまう。(「釈日正上人伝」)
以上が「日妙の邪法承服事件」である。
この訴えは様々な周旋の動きがあり、日妙の正立寺村からの退去を条件に、正立寺村周辺の受派寺院の訴えは取り下げられる。
 日妙は、かくして、これらの不手際により不受派に大打撃を与えたかどにより、法頭職も33年の在島の功も一朝に失い、明治3年10月不受派を追放され、明治4年5月「捨て犬の如く」逝ったという。(「釈日正上人伝」)

2019/02/19追加:
○「岡山県史 第9巻 近世4」1989 より
不受不施派の再興運動
◇天保法難以降の信徒
 天保9年(1838)の幕府主導の天保法難で、強固に作られていた内信組織は壊滅する。
僧侶は導師派(堯了派・日指派)の照光院日恵だた一人を残し全て捕らえられ、不導師派(講門派・津寺派)には一人も僧侶のいない状態になる。
日恵は天保法難のとき、内信組織から外れて他寺院へ遊学中(※修行のため比叡山に遊学)であったので難を逃れるという。
 ※日恵は祖山妙覚寺中の第34世照光院日恵を参照。
 天保法難で僧侶が一人もいなくなった状況で、不受不施派はどのように信仰を保ち、組織の再建をしようとしたのか。天保法難より7年後、弘化2年に起こった内信事件がその手掛かりとなる。
 弘化2年(1845)檀那寺の日應寺は河内村(旧は宇垣村)の冨谷・山条・母谷・原の檀徒が内信信仰に復帰していると村役人に訴える。
取調べの結果、富谷29人、山条40人、母谷14人、原1人計84人の内信復帰者が判明する。(板野家文書)
取調べに際し、内信者は次のようにいう。
 天保13年(1844)秋、津高郡草生村の清八という者が河内村にやってくる。清八は以前屋根職をしていたもので、顔馴染みであったので、祈祷や信心などの話をしている内に、内信信仰に復帰するという。富谷には勘三郎、山条には万吉、母谷では治四郎などの熱心な信者がいて、内信信仰の中心となる。
清八は「内信心」いたし、「徐帳」に相成り、「法華宗寺院参詣家別修行体」で、顔馴染みの家々を尋ね廻って布教していたと述べる。清八は謗法の檀那寺の檀徒となるのを嫌い、宗旨人別帳を徐帳した無籍者、つまり不受不施派で云う清者または法立の立場である。
つまりは、天保法難以降の無僧侶の状況下では、やむを得ず、清八は内信者に対して僧侶が行うべき看経導師や説法を行っているのである。逆にいえば、清八のような俗体の修行者のような姿の方が僧侶より怪しまれず、組織再建には好都合であったと思われる。
勿論、この地域は、寛文以前は富谷本明寺や母谷現照寺のあった地であり、寛文以降も村役人をはじめとする村民のほとんどが内信者である地域であるので、容易に信仰は圧殺はされないであろうが、他地域との連絡を取り組織の再建を行うには清八のような清者の存在が不可欠であったと思われる。
 ※宇垣村(後には河内村)の寛文以前の状況は「備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧」中の原番:127〜135-4 を参照。
◇日正の内信組織整理
 弘化2年(1845)天保法難でただ一人難を逃れた僧侶である日恵は、備前に帰り、僧侶の育成に努力する。
  ※日恵は祖山妙覚寺中の第34世照光院日恵を参照。
 再興運動を本格的に推進したのは釋日正(幼名亀次郎)である。
文化12年(1815)亀次郎は津高郡宇甘上村赤木梅次郎の次男として出生、赤木家は導師派(講門派)の内信であった関係から、同派の拠点である大坂東高津村衆妙庵に預けられるも、天保法難の後備前に帰り、弘化2年(1845)頃不導師派(堯了派)の僧日恵の感化を受け、同派に転向する。日恵の期待に沿い、各地で修行に励み、嘉永6年(1863)正式に日恵の弟子となり、日正の号を受ける。
 万延元年(1860)三宅島からお島様施應院日妙の弟子と名乗る阿耨院日行が備前にやってくる。実は日行とは三宅島から脱走した山師で、内信組織の乗っ取りを画策する山師であった。一時多くの内信者が日行側につき、日正は危機に陥るが、日行は内信者の集めたお金を持って遁走したことで、日行についた内信者も改心し、日正のもとに帰参し、この件は落着する。
この後、日正は宇都常存・宇都常有・宇都玄旨・菊池亮実・坂本真楽等の村役人層(強信者)を中核とする内信組織を作り上げ、その指導権を確立する。
◇日正の再興運動(江戸末期)
 文久2年(1862)和宮が将軍家茂に降嫁、大赦令が出され、それに期待し、日正とその弟子純妙院日献・十妙院日徳・宇都常存・宇都常有・宇都玄旨・菊池亮実らの有力信者は出訴の検討を始める。
翌文久3年不受不施派の再興と三宅島日妙の赦免を幕府と朝廷に出訴することを決定、幕府には日徳を、朝廷には日献を派遣し、日正は備前にて指揮をとることに決す。
 同年4月20日両僧は出訴のため、益原村大樹庵を出立、5月7日・8日の両日、日献は関白近衛忠煕へ、13日、日徳は将軍の供で京都に滞在中の老中板倉勝静へ出訴する。近衛方では無宿者の願いは取次不可と門前払い、板倉方では役違いと拒絶され、失敗に終わる。この後元治元年(1864)までの間、朝廷筋では伝奏、関白、前大納言、議奏へ、幕府方では老中板倉氏、老中水野氏、政事総裁、京都守護職、島津藩家老などに再三再四出訴を繰り返すも、取り上げられず、全て失敗に終わる。
 しかし、両僧出訴に対する幕府の対応は各段に違っていた。
従来であれば、出訴すれば必ず入牢になり、拷問され、落命(牢死)するか、遠島となるのが通例であったが、出訴しても牢舎されず返されることとなる。老中板倉に至っては出訴先や出訴方法を丁寧に示唆してくれたということで、時代の変化をうかがわせるものであった。
 以上のような時代の変化を感じた日正は坂本真楽ら有力支持者と相談の上、次は岡山藩主池田茂政への直訴を計画し、日徳の供をした清者の清意日義(津島村武田旧治)を出訴させることに決定する。
元治元年(1864)6月清意は岡山矢坂で藩主へ直訴し、同日入牢となる。
岡山藩では幕府の対応とは打って変わり、各地で内信者の摘発が行われる。坂本真楽は7月7日捕縛され入牢となる。この間、清意は激しい取調べと拷問に遭い、同年10月19日牢死する。
 その後も朝廷と幕府に断続的に出訴を繰り返すも、当時の政治的混乱はこのような訴訟を取り上げる余裕はなく、徒労に終わる。日正は慶応2年(1866)3月より、1年余読書三昧の閑居生活に入る。日正が再び活動し始めるのは慶応3年(1867)のことである。
同年9月日正は上京(京都)する。現今の政治状況(幕府か薩長か)を見極めようとしたものである。
 幕末の再興運動の特長は次のように云える。
1.王政復古までは朝廷と幕府双方に働きかけをした。
2.日正の支持基盤は、菊池亮実(矢田村名主)、宇都常義・常存・宇都玄旨らの宇都氏一族(奥塩村名主主原氏のこと)、小山義作(可真村名主)、小高恵四郎(矢田村大庄屋)、二宮万造(宇甘上村名主)、坂本真楽(津島西坂名主)らの村の役人層であった。あくまで日正は強信者(村役人層)の路線に立ち、平信者とは一線を画したのである。

2019/02/19追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
釈日正の再興運動(明治以降)
 慶応4年(1868)王政復古がなり、明治新政府が発足するも、切支丹や不受不施禁制は旧来のままであった。諸外国の批判から、明治6年切支丹禁制の高札は除き、翌明治7年には「転宗は自由」と布告をする。
 しかし、岡山では依然として不受不施派弾圧が続けられていた。
例えば、明治3年の坂本和平の鶴島流罪であるとか、妙林寺・日應寺・妙國寺(ママ、※浦伊部)などの受不施寺院の讒訴による弾圧が続発する。
 さて、日正は明治維新後の再興運動を自ら、出訴・交渉・布教と精力的に行う。
明治3年2月臨時政府の置かれていた二条城へ出訴する。役人は願書を披見して、土井事務所に出頭するように申し渡す。
3月13日土井事務所へ願書を提出する。・・・日正は各地に赴き不受僧として半ば公然と対外的な活動を開始する。それまで法縁のなかった下総や九州に多くの信徒を獲得したのはこの時期である。
  2023/04/20追加:
  ※明治6年日正は麻布本村町に自證庵(現若松寺)を再興する。若松寺に日正聖人石塔がある。<麻布自證寺中>
 明治7年7月29日各府県に対し「教部省達書第34号」を発する。その内容は転宗(つまりは檀那寺からの離脱)は人民の望に任せるべし・・という趣旨であった。これを受け、翌年、日正は内信者の復宗届文案を作成する。信徒はこの文案に沿って次のような届を続々と提出することとなる。
「私共儀、日蓮上人の孫弟大覚大僧正この地に宗門御弘通以来、不受謗施の祖制代々堅固に相持ち候ところ、中古寛文年中幕府のために圧制致され候とも、爾来1日も内信に退転なく今日まで相持居候ところ・・・此度不受派釈日正師当村に立ち寄られ、師資の契約を致し、今より万端同師へ依頼仕り候の故、この段御届申し上げ奉り候」とか「貴寺の儀、この方共、不帰依につき離檀せしめ候」
 以上のような離檀届が県内各地から県庁に宛てて一斉に提出されはじめたのである。つまり、いないはずの不受不施派信徒が続々と名乗りを上げた訳である。
 明治8年、狼狽した岡山権令石部誠中は教部省の指示を仰ぐ。教部省の指示は「不受不施派の允許(※許可)はこれ無く、転宗などは相ならず」というものであった。石部はこの指示の通り、「復宗届」を却下し、そののち、不受不施派信徒を全員検挙する方針を示すも、「何万人も入れる牢舎があるのか」と一笑に付され、この検挙の計画は中止となる。
 こうした中、日正は再興の出願を開始する。まず郷里へ帰り、自らの戸籍編入をし、直ちに東京の信者宅に送籍手続をとる。政府への出願の便利を狙ったものであった。
◇再興公許
 明治8年6月、東京に移った日正は教部省に対し「派名再興出願」を行う。この年4回の出願が行われる。
教部省はこの再興願いについて日蓮宗各派について取り扱いを諮問する。勝劣派管長加藤日馨と一致派管長新井日薩は連名で「禁絶の指揮」を答申し、弾圧の継続を主張する。
 また、この時期に受不施寺院からの妨害は当然の如く行われる。岡山県下の法華寺院は岡山正福寺に集まり対策を協議する。その内の菅應寺住職は上京し、勝劣派管長の添書を得て、教部省へ讒訴をする。
 同年11月不受不施派信徒たちは一斉に岡山県令に対して再興許可の嘆願書を提出し始める。また坂本和平と小山義作は教部省への嘆願を試みる。
 時に、岡山県令高崎五六は、政府に対し「不受不施派は公許すべし」と上申する。
明治9年4月10日遂に「教部省第3号布達」でもって、「日蓮宗中不受不施派の儀、今より派名再興布教差許候」との決定がなされる。まさに歴史的な決定であった。
◇教団の再建
 不受不施派が公許されるや、日正は岡山に帰り、直ちに再建に着手する。
宗派の本拠地を津高郡金川に定め、旧来の本山-末寺-信徒という形態は廃し、本拠地とした旧難波抱節邸は「龍華教院」という学林にし、寺院代わりに各地に教会所を作り、そこの僧侶は牧師と称した。
 明治9年の岡山県内の教会所は次の通りである。
  第1教会所:津高郡金川村(大教庵):「備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧」の原番167から177-1を参照。
  第2教会所:赤坂郡矢原村(本妙庵):「  同  上   」の原番135、原番220から222-3を参照。
  第3教会所:津高郡西原村(浄源庵):「  同  上   」の原番149を参照。
  第4教会所:津高郡天満村(常在庵):「  同  上   」の紙工村天満、原番157から158を参照。
  第5教会所:津高郡横井上村:     「  同  上   」の原番92から94を参照。
  第6教会所:御野郡津島村(唯紫庵):「  同  上   」の原番58から58-2を参照。
  第7教会所:御野郡巌井村:明治8年下伊福村が巌井村に改称、下伊福村は「  同  上   」の原番31から31-1を参照。
  第8教会所:上道郡平井村(松壽庵):「  同  上   」の原番395から396を参照。
  第9教会所:磐梨郡可眞村:      「  同  上   」の原番263-7、原番264から267、原番270から272を参照。
  第10教会所:和気郡益原村(大樹庵):「  同  上   」の原番308から310を参照。
  第11教会所:赤坂郡福田村:      「  同  上   」の原番229を参照。
  第12教会所:赤坂郡佐伯村(妙泉庵):「  同  上   」の原番231、原番234-1を参照。
明治19年には16教会所となる。
 ところで、信徒の中に、霊場としての本山寺院建立の要求が強まり、明治15年金川に妙覚寺が再建される。
これは、身池対論のあと、寛永7年京都妙覚寺が幕府に接収された際に、妙覚寺最後の不受僧本壽院日船と満山(妙覚寺)の大衆30余名が「時節到来するに於ては異体同心に、一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を相守り像師御作の御影様を安置するの処、当門家(当門流)の本山と為すべき事」という誓詞に連判して京都妙覚寺を退去した、所謂「日船の盟約」を実現したものであり、江戸初期以来の悲願の達成であった。
こうして、備前法華の外護者であった松田氏の居城の麓、寛文年中池田光政により廃寺とされた妙國寺跡に隣接する地に、龍華山妙覚寺が再建されたのである。以降、当初の寺院に拘らない方針は修正され、明治30年代には岡山妙善寺、益原法泉寺も寺号を公称することとなる。
 さて、少し視点が変わるが、教学の発展に寄与という観点から、祖山妙覚寺の出版として、次の2つの出版事業がある。
一つは「御義口伝」で、もう一つは「萬代亀鏡録」の出版である。
「御義口伝」:日蓮の弟子たちが宗祖日蓮の言行を編纂したもので、日蓮精神の集約されたものという。
「萬代亀鏡録」:日奥の著作集である。

2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
日蓮宗不受不施派の再興:
 江戸幕府が崩壊し、王政が復古、政教一致の新政府が樹立される。宗教政策として神仏判然令が出され、神祇官が復活し、神仏分離の処置で僧侶の還俗を奨励し、全国の寺社領が没収され、仏教の対する迫害は日を追って激化する。
 明治3年7月和気郡日笠村長泉寺を始め、岡山妙林寺・日應寺・佐伯本久寺・伊部妙圀寺等が不受不施の摘発を始める。
これらの受不施寺院が訴えたのか、8月3日津島村坂本真楽が大庄屋に捕らえられ入牢、次いで益原村万代源次郎・杉本義三郎・杉本弥七等もまた捕らえられ、供に岡山の極の投ぜられる。その間の拷問は惨酷を極める。
これを聞いた益原村の信徒は一村皆不受不施であることを自訴し三人を助ける。
坂本真楽は10月18日和気郡鶴島に配流され、翌年9月1日赦免される。
 明治5年3月教部省設置し宗教の国家統制に乗り出す。
 明治6年4月釈日正は京都・宇治郷・尾張熱田等で布教し、新たに帰入するものがあった。
同年6月釈日正東京に入り、自証庵を再興、東京・千葉の信徒が増加、東海道石部宿、肥後熊本等にも法種を植え付け、教線の伸長を計ったので、ますます受不施派tの軋轢が増大する。
 明治7年正月僧侶の戸籍編入が認められ、更に7月29日教部省令第34号により信仰の自由が認められ、転宗の場合は所轄官庁に届け出さえすれば可と定められる。
 明治8年釈日正は評議一決して、不受不施派再興出願の準備を整え、4月入籍手続の為九谷の生家に帰り、不受不施派僧の肩書を付けて入籍する。折り返し、東京麻布木村町の自證庵に送籍手続をとる。
6月東京に帰着し、教部大輔宍戸璣に再興願書を提出する。
日正出願の噂が県下に広まると、岡山菅能寺日種日正はこれを妨害せんと種々策動する。菅能寺日種日正は、日蓮宗勝劣派管長加藤日馨の添書を得て「再興許可の保留願い」を教部省に提出する。
 (菅能寺日種日正の文書あり。)
当時、岡山県には不受不施派を認める考えはなく、県は頑なであった。
それに対し、日正は県下の信徒に「復宗届」を県に提出するよう命じる。
 (復宗届の例示あり。)
教部省では日正の願書について、日蓮宗各派管長に再興についての可否の諮問をするも、一致派・勝劣派管長とも悪口・雑言でもって答申したので、願書は却下される。
同年9月日正は再願するも、一致・勝劣派とも再興に反対し、妨害を加える。
 (妨害の例示文書あり。)
一方岡山県下でも日應寺・妙林寺・(浦伊部)妙國寺等の僧侶は躍起となって妨害を加える。
岡山県参事石部誠中は不受不施派内信者2000人を捕縛し投獄する計画を立てるも、時の権中属に荒唐無稽と一蹴され、計画は頓挫する。
11月日正は三度願書を提出する。教部省は初めて日正を召喚して11ヶ条の尋問の回答を求める。
岡山県では不受不施派を迫害した石部参事が去り、高崎五六が就任、種々調査の上、「再興を許しても可」との上申書を教部省に提出する。
 (上申書に別添した信徒の願書の文書あり。)
さらに、中央での世論も不受不施派に有利な言論状況が示され、許可に向けての後押しとなる。
明治9年4月、遂に、日蓮宗不受不施派に対して再興許可が下される。
6月日正は備前金川の旧難波抱節邸の入り、法中会議を開き、この場所を龍華教院と公称し、布教上の拠点とすることを決定する。
そして内信時代の庵や看経講を改め、教会所を設置する。当初の12教会所は上に示す通りである。
また、
 東京麻布自証庵を東京第一号教会所
 千葉県立正寺村の庵を千葉県第一号教会所
とする。
 (釈日正明治8年6月22日再興願い文書、同じく明治8年9月9日再興願い文書あり。)

2019/08/13追加:
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より
公許と再興
 明治5年9月仏教側からの請願で大教院が設立、しかし相変わらず神道の臭気が漂い、明治8年2月大教院が廃止される。
これを機に、日正は再度の不受不施派公許の出願に踏み出す。出願のために上京するにあたり、日正は備前の信者に一つの指令を発する。それは各信者が県令宛に「復宗届」をだすべしというものであった。内信者は表面上は不受不施以外の寺に登録されていたが、信教の自由の布告を楯に本来の不受不施派に転宗するというものであった。
既に、日正は郷里の九谷村で不受不施僧の肩書をつけてこっそりと入籍し、直ちに東京麻布の自證庵に転籍を済ませていた。
200年に及ぶ長い禁制を破った不受不施信徒が、岡山で、千葉で、そして東京で一斉に姿を現すこととなる。
 それに対して、妨害が発生する。相変わらず檀家減少を懼れる受派寺院の讒訴と秩序維持に凝り固まった地方官憲の干渉である。
これらの妨害は岡山県下における最後の法難となる。
黒神日寂・三宅日壽・日笠日圓らの僧が日蓮宗僧侶と名乗ったままの入籍届を提出する。岡山県令石部誠中はこれを機会に弾圧手段に出ようとする。
日寂・日壽・日圓・日耀の4名が1ヶ月の入牢を命ぜられる。石部は全信徒の投獄を企図するも、部下の忠告で、実行できずという。
 岡山県令は石部より高崎五六に交代する。
 明治8年6月第1回の出願が行われ、これは教部省に却下される。しかし、教部大輔宍戸環は日蓮宗勝劣派及び一致派管長に出願内容の可否について諮問をする。両派管長連署の答申がでるが、ただ悪意と中傷のみの中身であった。勝劣派管長は加藤日馨であり一致派管長は新井日薩である。
ただ、両管長は不受不施が正統の宗義ではないと否定したが、これに対しては勝劣派からも一致派からも「不受は元々一宗の通理である・・」との批判不満が噴出する。
 明治9年4月不受不施派(日指派)公許の決定をする。
 明治15年3月不受不施講門派(津寺派)が公許される。
--- 「忘れられた殉教者」終---

【不受不施講門派の再興運動】
2019/02/19追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
◇不導師派(津寺派、講門派、日講門流)の再興
 天保8年(1837)不導師派は天保法難で壊滅的打撃を受ける。中心拠点であった大坂高津衆妙庵は根こそぎ検挙され消滅する。
しかし、備前・美作の信徒は明治になり組織の再建に努める。
彼らは、導師派の釈日正とは一線を画し、単独の教団を持つことを願う。
明治15年釈日心が中心となり、不受不施派管長釈日正の奥書を得て、不受不施派から別派独立する形で、不受不施講門派として公許される。

2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
不受不施講門派の明治再興
 天保9年(1838)不導師派(津寺派)においても大坂高津村衆妙庵が手入れを受け、弾圧は全国に及び、組織はほとんど全滅に近い打撃を受ける。
嘉永6年(1853)津高郡金川村河津宇吉の次男として生まれた九造は學を好み、備中川上郡平川の長遠寺に入門するも、明治5年不受不施講門派に帰入し恵蓮院日心と称する。
 ※備中平川長遠寺:大覚大僧正開基と伝える、備中高梁川以西の諸寺
続いて、明治6年津高郡白石村武南長十郎の次男孫吉が恵蓮院日心の弟子となり恵學日傳と称する。
さらに、この頃日奥の宗風遺誠を守っていた一派の先例派に佐藤清憲がいて、明治9年恵蓮院日心を知り、その弟子となり實成院日充と称する。
 明治7年信教の自由(転宗の自由)が認められる。これまで宗門改めのため、やむなく他派の檀那寺に属していた不受不施派信徒は次々と離檀していった。しかし、まだ不受不施派は公許されてはいなく、受派寺院側は不受不施信徒の葬儀拒否などで時代の流れに棹さすような動きを見せる。
 (日應寺住職の岡山県令宛の離檀に対する伺い文書あり。)
明治9年10月21日日心・日充・日傳の三僧は津高郡宇甘東村八幡山で、講門派を再興し布教に専念することを盟約する。
津高郡鹿瀬村の薮中の妙宣庵を根拠地とし、公許を受けるべく、請願の運動を続ける。
しかし、中心の日心は病をえて、明治12年1月逝去する。享年27歳。
跡を継ぐ日充は病弱であったため、日傳が変わって受け継ぎ本華院日心と改名して再興のことに当たる。
 明治15年3月10日、日蓮宗不受不施講門派として再興許可が公布、鹿瀬妙宣庵を鷲峰教院と改め、宗務所とする。
  (「法華宗不受不施講門派別派独立之請願」の文書あり。)
当時の状況については、岡山県知事千坂高雅が内務省社寺局に宛てた文書で、窺い知ることができる。
 僧侶員数は4人、信徒数凡そ4120人、教務所・宗務院と称するものは普通俗家を借用、・・・鹿瀬村教務院は従来普通俗家の本家納屋二棟仮用、別に造作をなさず、溜門を建設しわずかに教務院の体裁をなせり、・・・宇都郡妹尾村教務所は普通俗家を借用せり、・・御野郡大安寺村教務支院は村立旧富山小学校の内一棟を購入、之に充つ・・などとある。
明治39年鹿瀬宗務院は久遠山本覚寺と寺号を公称する。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
外護者:坂本真楽・小山義作・大覺大僧正木像事件
 幕末・明治初頭の再興期にも多くの外護者(協力者)が現れる。
坂本真楽(和平)は内信者の中で特に積極的に活動した人である。
捕縛・入牢・拷問・遠島などにも耐え、津島に唯紫庵を再興し、内信の組織化に取り組み、不受不施派公許に大いに資する。
 もう一人小山義作を忘れてはならない。小山家は備前赤磐郡可眞上で酒造業を営み、屈指の財産家であった。古くからの法華信者であったが、池田光政の不受不施弾圧のため、寺院が潰され、他派の檀家になることを余儀なくされる。そのような訳で、不受不施から受派に転じた上伊福妙林寺の檀家になる。名望家であるので、妙林寺檀家の色々な役を務めて代々続く。明治になると坂本和平らと一緒に再興運動に奔走する。
 再興後、大覺大僧正木像事件が発生する。
池田光政の弾圧の時、妙善寺にあった大覺大僧正木像が取り上げられ、妙林寺に預けられる。この時妙林寺から妙善寺の信徒に「預証」が渡される。
 不受不施が公許になった時、当然坂本和平らの津島の信徒は木像を取り戻そうとしたが、妙林寺はこれを拒否する。備前法華の祖・大覺大僧正の木像を持っていることは寺のステータスであり、またこれまで徹底的に不受不施派を陥れる行動をして来たこれまでの態度との整合が取れず、信用を失うこととなり、返却できないのである。
 津島の信徒は地方裁判所に訴え、勝訴するも、妙林寺は東京の大審院に上訴する。
足かけ4年の裁判であったが、争点の一つは木像の「預証」であるが、妙林寺は「預証」の印鑑は正式のものではないと反論する。
ここで、小山義作の存在がものをいうことになる。小山家は代々妙林寺の役員をしていたので、妙林寺の発行した書類が沢山保管されている。それと「預証」の印鑑が同一と証明されて、勝訴する。
 大覺大僧正の木像は津島の信徒の手に取り戻され、明治30年に再興された妙善寺に納められる。

島原妙高寺:明静院日浣墓碑
 前身を「日蓮宗不受不施派妙覚寺島原教会所」という島原妙高寺という不受不施派の寺がある。
なぜ、備前や下総などから遠く隔てた長崎県島原に不受不施派の寺があるのか。島原には不受不施の内信はいなかったのである。
 「龍華山妙高寺縁起沿革」では次のようにいう。
明治6年米田斧吉・梅本与志など島原の信徒7名が身延から本尊を授与してもらうため、身延山参詣の旅に出る。
近江石部で森川弥七という人物に会うと、今の身延山は汚れていると教えられる。
東京に行き、島原出身の森永義俊(恐らく自證庵に所属と思われる)に会い、話を聞く。森永からは日正が不受不施再興運動に奔走している話を詳しく聞く。
 身延に参詣して見ると、森川・森永の言に違わず「實に全く濁り果てたる事実」を見る。しかし、表面はつくろって本尊を貰い、下山の途中、身延川に捨ててしまう。
 それから島原に帰って不受不施内信の組織を作り始める。明治10年森永が来て、島原教会所が設立されたのである。
 肥後人吉は後六聖人の一人明静院日浣の流刑地であり、延宝4年(1678)に寂した後、藩主相良氏により建立されるという。
ところが明治10年の西南戦争で砲弾にあたり大破する。それを日正が破片を集めて元とおりに修復、今は妙高寺に移されているという。
 ※日浣の墓碑について妙高寺に移されているとのことであるが、人吉にも墓碑は残るようである。本書にも島原妙高寺墓碑と人吉の墓碑の2基の写真掲載がある。2基あると思われるが、もし妙高寺に移されたとすれば、人吉の墓碑は復原されたものであろうか。この間の事情はよく分からない。
また、Web情報によれば、相良忠房の菩提寺であった了清院跡に忠房や相良家重臣などの墓とともに日浣の墓碑が残されているようである。了清院は幕末に火災焼失、そのまま廃寺となる。現在は相良家菩提寺の願成寺が管理し、草苅などは地元民が行っているようである。ただ、相当な薮の中であるとのことである。
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---


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