備 前 法 華 の 系 譜 |
備前法華の系譜
★備前法華の系譜
◆日蓮の正系 【日蓮宗の宗規】 不受不施は日蓮宗の古来からの宗規である。 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 寛正2年(1461)京都の法華諸門流は共同して謗法の社寺参詣、謗法供養の二項につき、いわゆる「寛正の盟約」を結ぶ。 (盟約の1項に「謗法の社寺への参拝禁止と謗法不受を守ること」とある。) 明応元年(1492)足利義稙が不受不施の制法を許可する折紙を下す。 元亀3年(1572)には足利義昭が、天正5年(1577)には織田信長が、天正17年(1589)には豊臣秀吉が同じ趣旨の折紙を下す。 【日蓮】 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 日蓮: 日蓮は法華経をどのように人々に提示したか。それは日蓮が法華経の中から、何よりも、実践を重く見て、それを抜き出したことであろう。 日蓮によれば、人間はまず前生で正法(法華経)を誹謗した者であり、あるいは他人の正法誹謗の罪を放置した者である。前生で犯したこの罪を強く意識する者のことを、日蓮は「法華経の行者」と呼んでいる。 罪を意識する存在−法華経の行者にとって、その自由とは固定静止したところに求められるのではない。逆に、法華経の行者であろうとすることを妨げる世間の誘惑や障害に対し、それを退けることのできる「ちから」なのだ。この「ちから」を絶えず保っており、保っていることを自他ともに確かめられる具体的な規律と心がまえ、それが不受不施ということであった。 法華経−この膨大な法華経、日蓮は実践者−法華経の行者−というただ一つの観点から、法華経を「我もの」としていったのではないか。 「従地湧出品第15」では上行菩薩を始めとする無数の地湧菩薩が大地から出現する。 日蓮が自分と法華経を固く結びつけたのは、この地涌の菩薩たちに自分をなぞらえるというやり方であった。法華経の地涌の菩薩が出現してくる場面は日蓮とその多くの正系の弟子たちの受難をまことによく暗示している。 日蓮が自分を上行菩薩になぞらえたのは、日蓮のよって立つ、時代の情況を鑑みると、それは至極当然であった。 そして、地涌の菩薩になぞらえられる法華経の行者、その資格を成立させる条件とはなにか、それが不受不施ということ、つまり正法(法華経)を誹謗するものに与せず、しかも謗法の罪をみても放置しないことである。 日蓮が主として示したのは対権力者との関係の際にはっきりと表れてくる。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/03追加: ○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より 《日蓮聖人の不受不施》 日蓮法華宗における「不受不施」の教義は、日蓮聖人の守護国家論・立正安国論に説かれる留施、止施、不施に依っている。 不受は他宗の信徒や未信徒は謗法者であるため、これらの人々の供養、施物は受けない。不施は信徒の立場で言えば他宗謗法の僧に布施供養をしない事である。 立正安国論に 「釈迦の以前の仏教は其の(謗法)罪を斬るといえども、能仁の以後の経説は即ち其の施を止む」(止施) ※能仁とは釈尊のこと 「所詮、国土泰平天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり。楽(ねが)う所なり。早く一闡提の施を止め……」(止施)と、不施思想が見られる。 ※一闡提(いっせんだい):本来解脱の因を欠き、到底成仏できないものをいう。 ※不受不施とは、末法の世においては、折伏を第一とする祖師の行跡に従うものであるが、祖師の「立正安国論」では、折伏の手段として謗法の施を否定する 理論的根拠は「涅槃経」にを求める。 その根拠とした涅槃経の数句の要約(大意)は次の通りである。 一闡提(いつせんだん・極悪人)を除いて、その他一切に施すならば皆賛嘆してよい。一闡提とは麤悪(そあく)の言を以って正法を罵り、永く改悔の心を持たぬものを云う。 それは、不受不施思想により、法華信仰を守る根本理念である。 不受不施は大別すると、神社参拝の禁止(社参禁止)と謗法供養の禁止の二つがある。 天照・八幡をはじめ日本の神祇は久遠本仏の垂迹であるから、社参は差支えないが、その殆どが天台・真言僧に祭祀されている。 密教化した天台や真言では、正法の法味を嘗めず威力を失った諸神は「神天上」し、社殿には祭神不在である。善神は国を捨て、聖人所を辞している社参は無益である。 社殿に供物を献上することは、謗法の社僧に布施することとなり謗施である。 信仰の純粋性から社参を禁止したのである。 《日像上人》 日像は三度京の都を追放され、三回赦(ゆる)された「三黜三赦」の法難のあと、後醍醐天皇が帰依し「法華宗の公許」が公認され、日蓮教団が独立する。 元亨元年(1321)12月8日、後醍醐天皇より寺地を皇居御溝傍に拝領、妙顕寺が創建され、日蓮聖人滅後、40年にして「日蓮法華宗」が誕生する。 《公武(王侯)除外の不受不施》 元弘3年(1333)三月には、後醍醐天皇の還幸を祈り、その賞として尾張、備中に三ヶ所の地を賜う。 建武の新政になり建武元年(1334)4月、四海唱導の「綸旨」が下賜され、勅願所となり、同3年には将軍足利尊氏の祈願所となる。 日像の弟子大覚大僧正妙実は、延文3年(1358)祈雨の効験により朝廷(後光厳天皇)から日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像師に菩薩号の宣下を受け、自身は大僧正に任ぜられる。 このように日蓮教団初期は、朝廷より寺領、祈願所、僧位を受けることは不受不施の対象に考えられてはいなかった。 朝廷や幕府の公武からの布施は謗施と理解されていない。「公武(王侯)除外の不受不施」と言われる。 妙龍院日静は足利尊氏の外護を得て、京都六条堀川に鎌倉松葉ヶ谷の庵を移し本圀寺を建立する。 これも王侯除外の不受不施である。 《正当不受不施義》 しかし、皇室の勅願寺、将軍の祈願所となると、どうしても権威・権力側に阿る様になり、折伏精神が薄れ、摂受主義に片向く。 このような摂受主義の風潮に憤激した僧がいる。龍華院日実(1318-78)、明珠院日成(-1415)の兄弟である。 永和4年(1378)日實・日成は小野妙覚の外護のもと京都・妙覚寺を建て独立し、「妙覚寺式目九条」(応永20年/1413)を制定し、社参を謗供厳禁、強義折伏を主張し宗門に新風を送る。 そののち、久遠成院日親(応永14年(1407) - 長享2年(1488))は正当不受不施を主義し、「王侯除外」を更に純粋化し、諸山の寺領、祈願所は施主の信不によるものとし、王侯除外制を脱却する方向に醸成せしめる。 公武(朝廷・将軍等)の行う祈願・供養会には不出仕の免除を請う−不受不施の公許−の折紙を得る。明応元年(1492)6月、将軍足利義稙代の「本国寺広布録」にその記録が収められている。 室町中期には正当不受不施義が確立されたと考えられる。 ---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終--- 【備前備中備後の日蓮宗】 ○日像菩薩、鎌倉末期・南北朝初期にかけて、関東から都(京都)への布教の先駆を果たす。 →日像菩薩略伝 ○都のさらに西の三備(備前備中備後)等への弘通は日像の弟子・四条妙顯寺2世大覚大僧正の巡錫がその端緒を開いたものである。その時代は鎌倉末期から南北朝期のことである。 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院 大覚大僧正は牛窓の武将石原氏、金川の武将松田氏を教化し、彼らは封建権力にかけて強力に日蓮宗の布教を援助する。 特に松田氏は備前の西部を押えた武将であるだけに、その強信と相まって、備前地方に大きな影響を及ぼし、後に備前法華といわれる信仰圏内を形成する力となる。 →備前金川妙国寺:京都妙覚寺末金川妙國寺は備前法華の最大の本山であった。 ※多くの日蓮宗寺院が建立あるいは他宗からの転宗があるが、就中、金川妙國寺が備前法華の中心的位置を占める。 妙國寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となり、妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに四大本寺の一つと称される。 また、備中では野山の伊達氏、岡山南部の多田氏が有力な外護者であり、多田氏の場合はその子孫能勢氏に引き継がれる。 →備中野山妙本寺、備前二日市妙勝寺、摂津能勢法華 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 日蓮の死後、そして日親の没後百年後に日奧が現れるが、その間、謗法者折伏・国主諌暁と云う法華宗の基本を絶やさずにつないだのは日親の功績であった。 →日親上人 ※日親について備前備中には稀にその石塔を見かける程度であるが、備後(特に山田)には若干の足跡が残る。 --- 「忘れられた殉教者」終--- ○安土桃山期から江戸初頭には京都妙覚寺の日奧がさらに強烈な宗風を吹き込み、日奥の説く宗義は日蓮の教えとして備前法華の中に浸透していく。 →日奥上人略伝 2018/11/27追加: 【備前法華の由来】------Start ○「岡山市史 巻2」昭和11年 の 第73章「備前法華の由来」沼田頼輔、明治41年 より 備前法華は宗教界の套語となっているが、統計上からは、備前の日蓮宗は天台真言の二宗に次ぎて、第三位であるから、備前法華はその實を失っている。現在ではその實を失うも、無論、この套語は、この宗旨が最も隆盛を極め一国を挙げて殆どこの宗旨に帰せしめたということから起こったことには相違ないのである。 ではなぜ、この宗旨が備前において隆盛を極めたかと云えば、その主原因は備前の諸大名が歴代熱心なる信仰者であったということである。 であるから、次に、日蓮宗が備前に伝来し、如何なる経緯を辿って、盛衰したかを記することとする。 備前に於ける日蓮宗伝播の嚆矢は日像であった。 元徳2年(1330)備中青ク吉次が化を受けて日像本尊を賜う、とある。 正慶2年(1333)備前の人に日像大曼荼羅を与ふ、とある。(いずれも「龍華年譜」) この日像の大曼荼羅は城下蓮昌寺に今に伝わる。 →日像菩薩略伝 ※備前蓮昌寺蔵日像大曼荼羅: 蓮昌寺においてはこの日像大曼荼羅が最も重要な本尊とされているという。 この本尊の由来については、「蓮昌寺史」第二章「蓮昌寺の本尊」の章(P.47-56)で各種の縁起や記録の掲載がある。 各種の霊験譚を除けば、次のような経緯で蓮昌寺に格護されたようである。 大曼荼羅は日像の真筆で信徒に授与され、後に津島妙善寺に治められる。 寛文6年妙善寺追放され大曼荼羅は岡山城に収納される。 延宝7年(1679)妙善寺の本寺である京都妙覚寺より使僧が来て、妙覚寺に下付を申し入れ、 寺社奉行は妙覚寺使僧に之を交付する。 然るに之を伝聞した蓮昌寺の檀信徒は憤慨し、騒乱に気配もあり、藩も妙覚寺使僧もそれを鑑み、 大曼荼羅に厳封の上、蓮昌寺に保管せしむ。 正徳元年(1711)蓮昌寺什宝とすべき藩命ありて、遂に蓮昌寺宝物となる。 今日でも備前備中では至る所の村落に大覺大僧正と題目を刻する石塔が建てられている。まさに、この大覚大僧正(妙實)こそが、特に、備前に日蓮宗を弘めた人物なのである。 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院 建武年中、大覚大僧正備前に来たり、濱野の多田入道を勧めて、松壽寺を開山、さらに大覚大僧正自筆の題目石4基(備前益原法泉寺・備前西辛川妙蓮寺・備前曹源寺寺中大光院・備中軽部大覚寺)を残す。また信者の間には大覚大僧正自筆の曼荼羅が多く残る。なお、これらの年紀は暦応(1338-42)・康永(1342-45)のものが多い。 次に、多田入道に次いで勢力のある信者となったのが松田氏であった。 大覚大僧正は備前伊福真言宗福輪寺(後の妙善寺)を改宗させ、次に松田氏を薦めて改宗させる。 その後松田氏は代々日蓮宗を信奉し保護し、また自ら弘教していくこととなる。 岡山城下蓮昌寺、金川城中の道林寺、金川城下妙國寺などは皆松田氏の創建に与るものである。 特に、金川妙國寺は備前に於ける日蓮宗本山の如き勢いを有し、天正11年の妙國寺本末定判記に拠ると、備作2州に於いて120余ヶ寺の末寺を有することが記されている。 ただ松田氏末期になると、兵力に訴えて、謗法者を迫害するにいたり、領内の寺院に改宗を迫るなどし、兵備を疎かにする傾向となる。 そのため、ついに、永禄11年(1568)宇喜多直家によって、金川城が落城し、13代に渡り続いた松田氏は滅亡することとなる。 → 備前金川妙國寺 かくして、備前は宇喜多氏の治めるところとなるが、直家自身は日蓮宗の信者ではなかったが、その同族・家臣の多くが信者であった。 直家室阿鮮夫人は熱烈な信者であることで知られ、臣下の多くも日蓮宗の信者であった。 例えば、美作福渡妙福寺は、宇喜多氏家臣沼本与太郎久家・日笠次郎兵衛頼房が京都妙覚寺日典の弟子日存に帰依し、天正元年(1573)日存を開山として建立する(「作陽誌」)。 また、直家の弟土佐守忠家も熱心な信徒であり、宇喜多河内入道は家臣であったが、宇喜多氏より宇喜多の姓を賜り、その子もまた日蓮宗を信じ、金川妙國寺住持となり、妙國寺9世日欣というはこれである。 尤も直家自体は日蓮宗のみに固執したのではなかったが、その臣下の中には切支丹の信者も少なくなかったのである。 明石掃部、長船紀伊、中村二郎兵衛、浮田太郎右衛門などはこの宗旨に属し、けれどもその老臣には、戸川肥後守、浮田左京亮、岡越前守、花房志摩守の如き熱心な日蓮宗徒がいたのである。 次代の宇喜多秀家の時、日蓮宗徒の四家老は備前を退去する騒動が起ったのであるが、勿論家臣の権力闘争ではあったが、根底には切支丹と日蓮宗との宗派争いの側面もあったのである。 宇喜多秀家は関ヶ原の戦で敗れ、備前は小早川秀秋の所領となる。 秀秋は僅か1年有余であったが、熱心な日蓮宗の信者で、六条本圀寺の日ワ辮lに帰依し、日モフために嵯峨常寂光寺の伽藍整備に寄進を行う。備前では蓮昌寺を修理する。若年で没するが、墓前には日蓮宗本行寺が建立される。 秀秋が備前に封ぜられたと同事に、宇喜多氏の旧臣であった(備前を退去した)花房氏及び戸川氏も東軍に加わった功によって、何れも封を備中の南部に受けたのである。この二氏は何れも日蓮宗の信者であったので、日蓮宗はこの二氏の力を借り、備中南部に弘通せられたのである。 花房氏は領内の不帰依の寺院・人民に改宗を勧め、悉くの寺院を日蓮宗に改宗せしめた。 ※花房氏については備中高松近辺諸寺を参照。 ※備中高松星友寺、備中高松妙玄寺、備中和井元妙立寺、備中加茂蓮休寺、備中津寺宗蓮寺、備中山地受法寺、 備中日畑浄安寺など参照。 戸川氏も領内の改宗に力を用いる。特に達安(池上本門寺永壽院開基)は改宗を強要し、従わざるものは土地を退去せしめたという。殊に備中妹尾は「妹尾千軒皆法華」という諺が生じた地である。 ※戸川氏については庭瀬藩、戸川家系図を参照:戸川氏は撫川(本家)、妹尾、早島、帯江、中島と分家する。 ※撫川戸川氏は備中庭瀬近辺諸寺、妹尾戸川氏は備中妹尾、早島戸川氏は備中早島、帯江戸川氏は備中羽島村を参照。 かくして、花房・戸川両氏の日蓮宗信仰の結果、両氏の領土であった吉備郡南部や都窪郡には今も日蓮宗の信者が多い。 以上のように、中世後期・近世初期、備前では日蓮宗が全盛であったが、それ故か、名僧知識が輩出する。 以下にそれを紹介する。 日現: 天文の頃、池上本門寺及び京都本行寺の住持となる。備前より出で、碩徳の聞えが高かったが、その郷土は明らかでない。 ※池上本門寺歴代によれば、11世、佛壽院(現海)日現 永禄4年(1561)66歳寂、妙法房・但馬房とも。 ※京都本行寺とは不明。 日典: 備前宇垣村の人である。日奧の師。 → 日典上人 日存: 壽福院、日典の弟子、美作福渡妙福寺開山。 日惺: 備前邑久郡福岡生まれ、日典に学ぶ。 天正9年、32歳で比企谷妙本寺住持、池上本門寺住持(12世)となる。 天正18年秀吉東征の時、家康の為戦勝を祈り、後家康が江戸に入部に及んで、日惺の為に朗惺・善國・蓮久・正覚・蓮長の五ヶ寺を江戸市中に与える。 佛乗院、慶長3(1598)年寂49歳。 日奥対馬から妙覚寺に帰った時、不受派と受派との調停を試みる。 日全: 北陸に遊化し、越中高岡・越中富山・加賀金澤に何れも妙國寺を建立する。身命院。寛永元年寂。 日衍: 北陸に巡錫して、越前脇本妙泰寺を開山する。慶長16年寂。 ※但し「日蓮宗寺院大鑑」では8世とする。また妙泰寺開山は日像、開基は妙文とする。 北陸への弘教は日全と上記の日衍(にちえん)の二僧の力によるものである。 なお、この頃 文禄4年の東山大仏供養の出仕をめぐり、日蓮宗の中に受派と不受派との別を生じ、所謂備前法華も一大頓挫を生ずることとなる。 本ページなどで述べるところである。 日習: 事跡の言及なし。 日紹: 備前金川の出、下総飯塚檀林で学び、備前蓮昌寺住持(19世)、四条妙顯寺12世となる。 慶長4年四条妙顯寺日紹と堺妙國寺(中山法華経寺兼務)日統らと連署して不受派を上訴する。五奉行の一人である家康は日奧と日紹らとを大坂城に召し対論をせしめる。(大阪城対論) 勿論、日紹も大変な碩学であったが、不幸にも日奧を弾劾する側に立ったのである。 慶長17年日奥赦免、元和元年再び妙覚寺に入寺、不受不施を堅固する立場は一層堅固となる。まず根拠を固めんがため、備前を巡錫する。 その後、日奥は再び京都に帰るが、その頃受派も先非を悔う態度もあったので、両派を調停するものが現れる。 最初の調停は池上本門寺日惺である。 次いで、日忠である。 日忠: 唯心院と号す。 備前の人である。歳19の時、父の仇を報ぜんが為、関東に下り、剣を学ぶも、日吏の戒を受けて発心し、出家する。黒田長政の尊信を受けて、筑前博多に居た時、日奧は対馬よりの帰途、日忠の寺に宿したので、日奧と面識となる。日忠は岡山蓮昌寺で日紹と面識があったので、そこで日忠は日紹を説くに、両派調停のことを以ってする。日紹は調停を受け入れ、受派諸寺を代表して、妙覚寺に至り、日奧に謁して、両派の和合を結ぶに至る。 しかし、再び死灰再燃したのである。即ち、寛永3年将軍秀忠室崇源院の喪あるに当たり、池上本門寺日樹が法施を受けなかったことから、再び池上と身延の間に争論が起ったのである。池上本門寺住持は日樹であった。 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 日忠は日奥の師日典と同様、備前の生まれで、俗性を斎藤氏と称し武勇の家に人となる。 19歳の時父の敵を討たんため関東に下向し公法を学ぶも、出家学道こそ真の孝養にあたると悟り仏門に入る。 後博多に行き、慶長8年(1603)切支丹と宗論し、之を破り、国主黒田長政から一寺を受け、問答山勝立寺とする。 元和2年(1616)博多の唯心院日忠の調停によって、大坂対論で破断した、受・不両派の和睦が成立する。 日忠の調停の前、池上日惺上洛し調停するも不調、次いで関白秀次の母瑞龍院、和睦に手を尽くすも不調であった。 ここで、博多の日忠が上洛し、四条妙顕寺に出入し、妙顕寺日紹に連々諌暁し、遂に日紹は改悔を為す。 日紹は妙覚寺に来臨し、両者に和睦が成立する。 日奥は対馬からの帰還中、両3日博多の勝立寺に滞在したという。要するに親しかったのであろう。 さらに、大坂対論の一方の当事者である妙顯寺日紹もまた備前の人で、三者とも備前に縁があり、そのような関係から、日忠が和睦の調停をすることは有るうることであろう。 日樹: 備中浅口郡黒崎の産である。 → 日樹上人略伝 日浣: 美作久米郡弓削の人である。(久米郡南町の武家の家に生まれる。) 津山顯性寺住職から玉造蓮華寺住持(5世)となる。寛文の法難で、下総野呂妙興寺住持日講らとともに流罪となり、肥後人吉に流される。(当時51歳) 今弓削村に日浣の供養塔がある。 日航: 事跡の言及なし。 ※金川妙國寺10世、慶安元年(1648)妙國寺を修理、その後金川を去って相模衣笠大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没する。 日船: 事跡の言及なし。 → 本寿院日船上人 → M本寿院日船聖人の350遠忌に思う。 ※岡山蓮昌寺23世、妙覚寺日奧亡き後、妙覚寺に住すると思われる。しかし、妙覚寺を追われ、故郷美作福渡に帰り、そこで寂する。 寛文年中、岡山に入部した池田光政は不受不施宗門を壊滅させる。 岡山藩における日蓮宗寺院397ヶ寺中、実に348ヶ寺が破却され、残寺は僅かに49ヶ寺のみとなる。 日蓮宗に於いては、破却され、還俗・退去・追放された僧侶は全て不受不施の寺院・僧侶であった。 松田氏建立の蓮昌寺、妙善寺、道林寺、妙國寺は備前の四大寺であった。中でも妙國・妙善の2寺は備作の覇権を握っていたが、廃絶を逃れることは出来なかった。それだけではなく、大小幾多の末寺・寺中も運命を共にしたので、備前法華は表向きは壊滅したこととなる。 「備前法華の由来」-------END 2018/12/23追加: 【日蓮宗不受不施派】 ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前法華と京都妙覚寺 近世初頭の備前・美作・備中に於ける日蓮宗寺院の状況は「寛永年度日蓮宗末寺帳」(内閣文庫所蔵)で分かる。 ◇「寛永年度日蓮宗末寺帳」による日蓮宗本山別の国別末寺数
さらに、妙覚寺について特徴的なのは、次の「寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布」に示されるように、妙覚寺末寺の1/5は備前にあり、美作・備中を合わせると実に1/3が備前・美作・備中にあることが分かる。備前は京都妙覚寺の有力な勢力基盤であり、備前信徒と妙覚寺の深い繋がりを物語る。 ◇寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布
不受不施とは信仰心のない者(謗法者)からの布施は受けず、また神社・他宗の寺院には参詣しないというもので、日蓮宗の古来よりの宗規である。それは、宗教の純粋性と自立性を守るための規範であり、唯一最高の教え法華経が絶対的権威(仏法)を持つ。 そのため、世俗的権威(当時であれば秀吉や家康の政治的権威)の絶対性を容認できず、当然全国統一政権ができたときには、それと対立する宿命であった。 京都妙覚寺日奥は方広寺の千僧供養に出仕せず、その結果妙覚寺を追われ、その後慶長4年、家康と対峙し、家康によって対馬流罪とされる。 以上のように絶対的権力を持つ君主に決して妥協せず、日蓮宗の宗規を守ろうとした日奥を支援したのが備前の信徒であった。 備前の有力信徒には楢村監物・角南恕慶・戸川逵安等がいた。彼らはもと宇喜多秀家の重臣であり在地の土豪でもあった。しかし真に日奥を支えたのは彼らのもとに広範に存在する一般信徒であった。それはそれ以降の備前の不受不施派民衆の根強い抵抗の歴史を見ればあきらかであろう。 例えば、慶長4年(1599)岡山蓮昌寺大堂の建立に際し、巨大な大堂が1年に満たない期間で落成したのは一般信徒の熱烈な支援と勤労があったからであろう。 備前とは不受不施派京都妙覚寺の最大勢力基盤であったのである、この意味で「備前法華」とは「不受不施派法華」ともいえたのである。 ---「岡山県史 第6巻 近世1」終--- 2019/07/17追加: 〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より 日蓮宗不受不施派 ・教義と制法 大覺に次いで、備前において日蓮宗の弘教に努めた日實が、帰京後妙顕寺から離れて妙覚寺を創建すると、備前の日蓮宗寺院も妙顕寺を離れて妙覚寺の末寺となる。 備前の日蓮宗はほぼ全て妙覚寺の門流で占められ、その有力な勢力基盤となる。そして中世後期に不受不施の教義を明確に打ち出したのはこの京都妙覚寺であった。 應永20年(1413)6月13日付けの妙覚寺門流法式「法華宗異体同心法度之事」(万代亀鏡録)は全9ヶ条からなるが、謗法(他宗)の社寺への不拝・不参、謗法への布施と供養の停止、謗法からの布施物拒否の3ヶ条を骨子とするものである。 しかも、この不受不施の諸制戒は一家族中から一族一門の法華信仰を強く要求するもので、血縁地縁を辿り、一集落から一村皆法華という強固な法華集団が各地に形成されるようになっていった。 近世初頭、この妙覚寺に佛性院日奧が現れる。日奧は不受不施の制法を理論的に大成し、一つの組織に纏めあげ、後に日蓮宗不受不施派の始祖とされる。 不受不施制法の基本は、謗法の神仏不拝・不受不施の行儀・他宗への折伏の三つといわれていて、この三者は密接不可分、表裏一体のものであった。しかし、この三者自体は一つの信仰形態であり、それ自体が江戸幕府の宗教政策の根幹を脅かすものではなかったかも知れない。 日奧は「この世界において二主なし、本主はただこれ釈迦一佛なり」(守護正義論)、また「いわんや小国の王臣、誰人か教主釈尊を背いてこの土地を横領せんや、三界はみな佛國なり、咫尺(しせき・わづかな)の地も他の有にあらず」(守護正義論)と説いて、封建領主の領有権は「本主(釈迦)」に対する「仮主」としての領有権に過ぎないという理念を主張した。 さらに「釈尊の国に住してその土毛(どもう・農産物)を喰(は)む、何の咎あらんや」(守護正義論)と説いて、彼ら(釈尊の国に住する)の生存は現実の領主には何ら負うべきものはないとも受け取れる論を展開する。謗法の国主の領内では、不受不施派の信者集団が、時として年貢を納めないことがあり、備前を始め全国の不受不施派が盛行した地域で「未進法華(みしん)」という呼称が生まれたのはこのような理由からであった。 ※未進:年貢・公事・夫役などを納めないこと。 ・不受不施派の禁制 文禄4年(1595)豊臣秀吉、方広寺大仏を建立、千僧供養会を行う。法華宗は出仕をめぐり、不受不施と受不施とで対立、妙覚寺日奥は不受不施を堅守して、妙覚寺を出寺、丹波に隠匿、更に強くその説を主張続ける。 慶長4年(1599)出仕派妙顕寺龍華院日紹らは日奥を「上意に背き、公儀を軽んず」と訴え、不受不施対受不施の大坂城での対論が画策される。幕府の意向に屈しない日奧は負けと判定され、袈裟衣を剥がれ念珠を奪われる処分をうけ、対馬に流罪となる。 慶長17年(1612)日奧は赦免、再び不受不施は勢力を取り戻し、受不施身延山への信者の参詣を停止する。 寛永7年(1630)江戸城にて不受不施派池上本門寺と受不施派身延山との対論が行われる。あらかじめ仕組まれた対論で、予定通り池上日樹らは破れ、日樹ら関係者は流罪となる。この年日奥は既に寂していたが、死後の対馬流罪となる。京都妙覚寺と池上本門寺は受派に与えられ、身延山に接取される。 寛永9年(1632)幕府は本山に末寺書上げを命じ、本山の末寺把握を法制化する。 この法令によって翌年作成された「寛永年度日蓮宗末寺帳」によれば、妙覚寺は100ヶ寺の末寺をもつが、備前・備中・美作の末寺は33ヶ寺で、特に備前は21ヶ寺で、備前が有力地盤であったことが裏付けられる。 ※上に掲載する「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】>備前法華と京都妙覚寺」の通り。 また、この末寺帳には100ヶ寺の内93ヶ寺が違背(不参)と記されていて、備前・備中・美作の33ヶ寺は全て違背となっている。つまり3年前妙覚寺は身延山に接取されるも不受不施の信仰は堅固されていることが分かる。 ※上に掲載する「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】>身池対論と末寺の抵抗」の通り。 寛永12年(1635)幕府は寺社奉行を設置し、寺社奉行―本山ー末寺の支配強化を図る。 寛文元年(1661)幕府は日蓮宗に対し、本山に違背する末寺は本山に従うように命ずるともに、従わない僧侶は出寺するように命ずる。 寛文4年(1664)切支丹禁圧のため、宗門改めの役所の設置が定められ、宗門改めが全国で実施される。 寛文4年〜5年、幕府は寺社領安堵の朱印状を交付し、寺社側から手形(書物)の提出を求める。この時不受不施派では、寺領安堵は世間一般の仁恩の施(恩田供養)であるとして手形の提出を拒否する。当然謗法からの布施を受ける訳にはいかない。 一方、不受不施派の一部は、将軍からの慈悲の施(非田供養)と解釈して手形をでした寺院(一派)もあった。手形を出した(書物をした)寺院は非田不受不施派として存続を許され、手形の提出を拒否した不受不施派(恩田派)は全て寺を失うこととなる。 寛文5年(1665)日蓮宗に対する「寺院法度」が制定され、本山の末寺支配が強化され、また在家での布教活動が一切禁止され、寺を失った不受不施派は合法的な手段での布教活動はできなくなる。 寛文6年(1666)岡山藩主池田光政は神社撲滅、寺院淘汰、宗門改めの神職請けなどの政策を推進する。 この寺院整理で不受不施派は集中的に弾圧される。結果、不受不施派の寺院333ヶ寺が廃寺とされ、847人の不受不施派僧侶が追放される。 不受不施派333ヶ寺の廃寺の内、津高郡は120ヶ寺、御野郡は67ヶ寺、磐梨郡は37ヶ寺に及ぶ。 なお特異な「神職請け」は光政の次の綱政の時代には寺請けに改まられる。 因みに、蓮昌寺日登は、妙覚寺から不受不施派僧侶の追放を命ずる書状が届くと、岡山藩に妙善寺日精・蓮昌寺先住日相・石井寺・妙興寺の追放を願い出、岡山藩は日精・日相などを追放処分とする。 元禄4年(1691)度重なる受派からの訴状を受け、幕府は悲田派を禁制とする。ついに不受不施派は全く禁教となる。 ---「京山物語」終--- 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 「(不受不施派)の人々は、自己の信念が固まって、ゆるぎないものに覚えてくると、この宗派を認めない幕府に向かって抗議の行動をとっているのだ。それは当然に、死や遠島を意味する。その前には連類者を探すための猛烈な拷問もあるであろう。その全てを覚悟しての抗議行動であった。単身、江戸へ出て寺社奉行に訴え出るのである。 切支丹のようにただ隠れて、その信仰を持ち続けたという以上のものがここにはある。」 だとすれば、これは尋常ではない。 彼らを駆り立て、彼らを支えたものは一体何なのであろうか。 彼らの強い信念・尋常ならざる事態が予測されるにも関わらず突き進む精神の強さはどこから来るのであろうか。 県民性といったものは説明にはならない。 備前に日蓮宗が入り、備前法華と云われるようになったのであるが、「日蓮宗がこの地方(岡山)の人々を精神的に鍛えあげたのだ。日蓮と云う宗祖が強烈な精神を持ち、そしてその信仰が妥協を許さぬ性質のものであったということは、この宗旨に集まる人々をそのように教化したいった。」ということではないか。 不受不施は幕府によって禁制とされた。その結果、多くの僧侶や信者が地下に潜って活動した。しかし、発見された僧、断固として公儀に盾突いた僧の多くは刑死や牢死の非命に落ちたが、伊豆や佐渡の島々に流された僧も多かった。正確な数は分からないが、流罪に処された僧は、およそ180人と云う。 --- 「忘れられた殉教者」終--- ○受不施派の出現 日蓮宗に於いて異端である受不施派が派生する。 それは日蓮宗あるいは仏教全般の堕落であった。そこには人間のあるいは組織の「本性」といったものが横たわるのであろう。 2023/05/08追加: ◆概 略 ◇文禄4年(1595)豊臣秀吉、方広寺に於いて大政所の千僧供養、日蓮宗にも出仕を命ずる。日蓮宗は受不施派と不受不施派に分裂、日奥は妙覚寺を出寺する。 ◇慶長4年(1599)徳川家康、大阪城での両派の「大阪城対論」を命じ、不受不施を曲げない日奥を対馬配流とする。 ◇慶長17年(1612)日奥は赦免、京都に帰還し、表面では両派は和睦する。不受不施派の勢力が関東諸山・諸檀林で伸長し、受派を圧倒する勢いとなる。 ◇寛永7年(1630)受派身延の訴えにより幕府は江戸城に於ける「身池対論」を命じ、池上日樹ら前六聖人などが配流、既に寂していた日奥も死後配流となる。自害に及ぶ僧侶も多数出る。受派(身延)は諸大寺を接取するも、門末寺院・信徒の離反が相次ぎ、身延は宗門の全体を掌握できず。 ◇寛文5年(1664)身延の画策により、幕府は寺領は国主の供養であるとし、その朱印受領の書付(手形)の提出を命ず。 ◇寛文6年(1665)さらに飲水行路も将軍よりの供養であるとして、印受領の書付(手形)の提出を命ず。手形を拒否した野呂檀林日請ら後六聖人などが追放され、その他多数の犠牲者を出す。 ◇寛文9年(1669)書付(手形)を拒否した寺院の寺請が禁制とされ、これで不受不施派は非合法となり、地下に潜る。 一方、寛文5年の手形提出の命に対し、不受派の小湊・碑文谷・谷中などは寺領は慈悲(悲田)として手形を提出する。これは不受派は勿論受派からも軽蔑をされる。 ◇元禄4年(1691)再び身延の上訴によって、悲田派禁制が出され、大部は身延の末寺となり、受不施に転ずる。かくして悲田派も邪宗門とされ、潰えることとなる。 2019/07/15追加: 〇「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) より 補注:不受不施派の成立 文禄4年(1595)豊臣秀吉方広寺大仏千僧供養に法華宗の出仕を命ずる。謗法者秀吉への命に妥協するか拒否するか老僧と日奧との間で衝突が起こり、権力に屈した出仕派に対し、日奧は出仕を拒み、妙覚寺を出寺する。不受不施は日蓮宗の古来からの宗規であったのである。 秀吉の没後、千僧供養は家康が引き継ぐ。 慶長4年(1599)出仕を続ける京都の長老と日奧との対立は続き、日奧らを論破できない長老たちは日奧を家康に訴えでる。家康はこれを取り上げ、大阪城にて受派と不受派の対論を取り行う。対論で日奧は権力に屈することなく、家康の譲歩案をも拒否し出仕を拒否したので、袈裟をはぎ取られ対馬に配流される。 慶長12年(1607)、日奧の処分のあと、不受不施派では妙満寺日経の活動が目立ち、浄土宗増上寺が対論を買ってでたので、日経を江戸に呼び出し、浄土宗との対論を命ずる。対論の前夜、日経は幕府の陰謀であろうか襲撃され、瀕死の状態で登城する。日経は一言も発することができず、負けを宣言され、日経及びその弟子は京都六条河原で「刵劓刑」に処せられ追放される。家康の権力に恐れ入らない者に対する対論に名を借りた弾圧であることは言うまでもない。 寛永7年(1630)不受不施派は特に関東で勢いを増し、劣勢の身延派(受派)は幕府の訴え続け、江戸にて池上(不受不施)と身延(受不施)の対論が仕組まれる。この時の対論では、議論では勝ち目のない身延側が予想通り勝ち、池上方は「公儀違背、上意の背くもの」との判決が出て、池上方の関係者は追放され、既に歿していた日奥も対馬流罪となる。池上本門寺・京都妙覚寺は身延方に摂取される。 しかし、身延方は本寺は手にいれたものの、末寺違背は相次ぎ、実質的に得るものはなかった。それ故、執拗に不受不施派を追い落とすための手を打つ。 寛文5年(1665)公儀(幕府)から寺領を持つ諸宗の寺に対して、地子(地代)・寺領は公儀からの「供養」である、その供養を確かに受け取ったという手形(書物)の提出を命ずる。「流水、井戸水、行路(街道)はみな謗法者である国主の所有であるから、謗法を拒絶するなら、飲むな歩くな」という訳で、この布達は「土木供養令」と呼ばれる。野呂檀林の日講は幕府に抗弁するも、手形(書物)拒否した諸師は流罪となる。勿論この弾圧は幕府の宗教政策上のものであったが、裏では身延側が幕府の力で不受不施派を壊滅させようとした妄動があったことはいうまでもない。 この漢文の法難によって、寺領が没収されて不受不施派は表面上は壊滅、その上宗門改めで厳しい僉議を受け、信者は発見次第捕縛され厳刑に処せられた。「切支丹宗門並びに不受不施禁制」の高札は全国津々浦々に立てられた。 天和2年(1682)地下に潜らざるを余儀なくされた不受不施派では内部に紛擾が生じ、元禄2年(1689)に分裂する。 ※元禄2年とする根拠は不明。 簡単には言い表せないが、不受不施派が禁制となり、度重なる弾圧(法難)で僧俗が失われていく時代での、信仰の形が問題となる。 即ち、この時代信仰の形は内信<外濁内浄(げじょくないじょう)・濁法(じょくほう)>と清信<清法(しょうぼう)・法立(ほうりゅう)>とに分かれざるをえなかった。 大まかにいえば、内信も是とする立場(心法正意)と内信を全面的には容認しない立場(事相正意)とが対立し、様々な主導権争いや感情的なしこりなども絡み、不受不施派は分裂する。前者の立場を堯門派(導師派、堯了派、日指派)と称し、講社の立場を講門派(不導師派、津寺派)と称する。 ---「大野学区六十年のあゆみ」終わり--- 【直接の発端】 【豊臣秀吉千僧供養】 文禄4年(1595)豊臣秀吉京都方広寺で千僧供養を催し、各宗100人宛の僧侶の出仕を命ずる。 日蓮宗にも要請があり、これ受ける(受派)か否(不受派)かで教団内部で対立する。 受派の代表格は京都本満寺日重・日乾ら身延派であり、不受の代表格は京都妙覚寺住持佛性院日奧らである。 参照:M日蓮宗不受不施派 参照:参考・東山七条妙法院<→山城豊国社多宝塔中> 文禄4年(1595)豊臣秀吉の方広寺大仏殿が竣工、この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、「千僧供養」を「大仏経堂」で行う。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏という。 2018/11/15追加: ○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より (千僧供養出仕案内状) 大佛妙法院殿に於いて毎日太閤様御先祖様の御弔として一宗より百人宛彼の寺へ出仕候て勤め有られ一飯を参らすべき旨御掟候 然らば今月二十二日より初めて執行せられ候其意をなさるべく候百人之無き寺は書付て申越さるべく候 恐々謹言 九月十日 民部卿法印 玄 以 (印) 法 華 宗 中 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 不受不施派の誕生(大仏供養と妙覚寺出寺): 天正17年(1589)日奥は方広寺大仏殿建立直前に、法華宗としては国主の行う種々の法会には出仕できないことを上申し、その許可を得る。 文禄4年(1595)9月25日秀吉は竣工なった京都方広寺のに各宗の僧を招いて盛大な開眼供養を開催する。千僧供養である。これは武力で天下を掌握した秀吉のようなものだけができる一大イベントで、一方では権力者に対して農民が完全に敗北した忌まわしい儀式なのである。 事前に、出仕できないことの許可を得ながら、それには頓着なく、出仕を命ずるとは、日奥は権力者秀吉の強い意思を感じたであろう。 同年同月同日即ち秀吉の千僧供養の初日に日奥は妙覚寺を出寺した。 その以前に、秀吉の招請を受けた日蓮宗では出仕の是非が議論され、出仕して教団を維持すべしという移建が大勢を占めるようになってくる。日奧はあくまで不出仕を唱えた。しかし、日奥の正論を以ってしても、大勢を覆すことは出来なかった。 そうである以上、出仕に傾いた長老たちへの糾弾の意味を込めて、日奥は妙覚寺を、初日に出寺することとなる。一方出仕を唱えた長老たちは、謗法の秀吉を公然と指摘した日奧が妙覚寺にとどまっていては、妙覚寺一門ばかりか京都の日蓮宗の存続が危ぶまれるとの懸念から、日奥を追放しようと画策したのである。 妙覚寺を出る直前、既に千僧供養の初日から帰ってきた妙覚寺の僧侶たちは、日奥を激しく責め、日奥追放を趣旨とする誓文を前田玄以に提出したきたことを告げる。 誓文の写しを突き付けられた日奥は「この書状は日奧が霊山へ行く通行手形となるだろう」と言い放つ。 不受不施派の出発点があるとすれば、この場面をおいてほかにはないが、この場面で、日奥という自覚した不受不施僧が誕生したのである。 慶長17年(1612)6月、建仁寺禅居院に、慶長4年(1599)の大阪対論の後に対馬に流され、赦免された日奥が対馬から到着する。日奧48歳であった。 慶長19年(1614)足掛け19年に及んだ方広寺大仏供養が終わる。既に秀吉は歿し、家康が豊臣家の政権を簒奪する準備が完成しつつある時期であった。 日奥の潜居: 日蓮によれば、正法を誹謗した罪、謗法者を放置した罪はこれから先に犯してはならぬ罪ではなく、既に前世のおのれが犯している罪であった。法華経の行者が受けねばならぬ法難は正法を弘めることに対する迫害でもあるが、同時に、前世のおのれの謗法にたいする罰でもあった。 妙覚寺を出る時、日奧は前田玄以を通じて第一の諌暁書「法華宗諫状」を秀吉のもとに提出している。 それには、法華経のみが唯一の正法であることの史的証明から始まり、日蓮の謗法者折伏と受難の意味を説き、他宗派の謗法宗たるゆえんに及ぶものという。 日奥の手記「御難記」「禁中奏聞由来」などによると、妙覚寺を出て、嵯峨の栂尾・鶏冠井・小泉と居を移す。 しかし、秀吉の側からは何の咎めもなく、日奥をひたすら遠ざけてしまおうとする宗門側の蠕動がありありと見える。これはいったん宗義の根幹に背いてしまったことの怖れと焦りの表れだろう。 小泉の庵には慶長5年(1600)5月まで約5年潜居していた。 この間、日奥は第二、第三の諫状を書き、秀吉や後陽成天皇に突きつけ、佐渡に渡り日蓮の遺跡に詣で、更に備前に足をのばし弘教する。 また、日奥と京都諸寺との間で和解を試みる者もあったが、それは成就はせず、結局小泉から日奥を引き出したのは、京都諸寺から家康に出された訴状であった。訴状には「日奥は秀吉の薨去に乗じて帰洛をはかり、我が宗門の衰退に乗じて転覆を企てている」との行があった。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 【大坂城の対論】 慶長4年(1599)大坂城に不受派・受派が召集され、徳川家康の面前で対論が行われる。 裁定は日奧対馬流罪であった。(慶長17年日奧の流罪解かれる。) 参照:M不受不施派「大阪城対論」 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 大阪対論: 慶長4年(1599)11月、(保身に走る京都諸寺から日奧を讒訴する)訴状を受理した家康は、日奥及び同調者で嵯峨常寂光寺に隠棲していた本圀寺日禎及び原告の妙顕寺日紹・堺妙國寺日統などを大阪城に召喚する。 諸奉行・大小名たちは登城した日奥・日禎を取り囲み、様々な妥協案を出して、1日だけでも千僧供養へ出仕させようとした。 手記「御難記」によれば「ただ1度だけ出仕すればよいのだ、それも公儀の命令だから宗旨に傷がつく道理はないではないか、傷がつかないようにお望みの文面での国主の証文が下されるよう取り計らおう。 他宗の僧との同席が嫌なら法華宗だけの別席を設けよう、食事を頂くのが嫌なら、箸を取る真似だけすれば宜しいということにするが、どうか」云々。 日禎はこの妥協策に応じたが、日奥は遂に承諾はしない。 その上、次のように断言する。 「・・・法度を破る者に処罰がなく、法度を守る者にこれほどの難題を課するとは、つまりは私の命の果てる時がきたのでしょう。 親類や信者に類の及ぶことがあるとも、同じ世代に生まれたことが不運と思っていただくしかない。謀反・盗みなどの咎とは違い、仏法のことを咎められてのことですから、親類や信者の方々がお果てになっても幸いのことと申すべきかもしれませぬ。 何と申されても供養出仕のことは覚悟を決めたことです。これ以上お話などありませぬ。」 この場に家康は未だ顔を出していない。しかし全てはここで決定したのだと云ってよい。 ついで日奥は家康の前に引き出されたのだが、直ちに家康は日奥の負けを宣言する。 衆僧に取り囲まれて剥ぎ取られた日奥の袈裟ころもと珠数とは、「佛法之大魔王邪見熾盛之日奥」を敗北させ勝利の記念品として日紹が妙顕寺に持ち帰り 「慶長四己亥年十一月廿日戌刻至、大阪於内府様之御前、一宗与日奥対論之時、佛法之大魔王邪見熾盛之日奥即座閉口非分相違之候間、即剥取之袈裟衣数珠也」と大書する。350年の後、昭和26年これらの品は妙顕寺から岡山県御津町祖山妙覚寺に返納される。 2019/09/10追加:返還は日蓮宗管長山田日真(自坊は四条妙顕寺)の好意であった。(「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より) →M不受不施派『大阪城対論』 →上記ページより:大阪対論で剥ぎ取られた日奧袈裟衣 日奥には流罪の宣告があり、翌慶長5年(1600)5月津島に移される。 同年9月には関ヶ原の合戦があり、家康は豊臣家の政権を奪取したことが天下に示される。 しかし、日奧を対馬に流したからとて、それで事の全てが終わった訳ではなかった。思想犯を流罪にするとは、その思想に同調する者が潜在的に少なくないという事情を背景にし、その者への見せしめとして流罪にするという意味しかもたない。 慶長17年(1612)6月、建仁寺禅居院に、13年間謫居した対馬から、赦免された日奥が到着する。日奧48歳であった。 事の発端の大仏供養は未だ続いていた。 京都の本満寺や妙顕寺は日奥に対し出仕するように圧力をかけてくる。 日蓮の不受不施の規範を破り、日奥を対馬の追放したことにうしろめたさは無かったのだろうか、あるいは一度手を染めた違背はとことんやらなければ、辻褄が合わないということなのであろうか、京都諸山は日蓮宗を名乗りながら、日蓮宗宗規を棄てたということであろう。 両者の間で和解を周旋したのは京都所司代板倉勝重であった。板倉は不受不施を唱えることを許す折紙(公式文書)を家康から引き出すことに成功したようである。 慶長19年(1614)足掛け19年に及んだ方広寺大仏供養が終わる。 元和2年(16161)6月両者の和解がなり、日奧は再び妙覚寺に入寺する。 この和解は受不施派の「うしろめたさ・負い目」と日奥の自負が正面からぶつかって成立したのではなく、大仏供養は消滅したという皮相な部分での妥協でしかなかった。 根本的な解決でなくつまり曖昧な妥協であったがため、受不施身延の追訴を許すこととなる。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 【受・不両派の和睦】 慶長17年(1612)6月日奥は赦免され、京都に帰還する。 慶長19年(1614)この年は豊臣家滅亡の前年であるが、方向寺大仏の千僧供養は中止される。 千僧供養は中止や耶蘇教の流布などもあり、受・不両派の間に和睦の機運が生じる。 元和2年(1616)博多の唯心院日忠の調停によって、幾多の紆余曲折を乗り越え、受・不両派の和睦が成立する。 日忠の調停の前、池上日惺上洛し調停するも不調、次いで関白秀次の母瑞龍院、和睦に手を尽くすも不調であった。 ここで、博多の日忠が上洛し、四条妙顕寺に出入し、妙顕寺日紹に連々諌暁し、遂に日紹は改悔を為す。 日紹は妙覚寺に来臨し、両者に和睦が成立する。 この日紹は慶長4年大坂対論の法敵であり、日奥を対馬配流に至らしめた特別の因縁をもつ人物である。それ故であろうか、日奥はこの日紹の態度を徳とし、大坂対論の日紹の「無覚悟」は日乾らの教唆によるものとし、今般の改悔の功とする。 かくして、両派の和睦は成ったのである。 日忠は日奥の師日典と同様、備前の生まれで、俗性を斎藤氏と称し武勇の家に人となる。 19歳の時父の敵を討たんため関東に下向し公法を学ぶも、出家学道こそ真の孝養にあたると悟り仏門に入る。 後博多に行き、慶長8年(1603)切支丹と宗論し、之を破り、国主黒田長政から一寺を受け、問答山勝立寺とする。 日奥は対馬からの帰還中、両3日博多の勝立寺に滞在したという。要するに親しかったのであろう。 一方の妙顯寺日紹もまた備前の人で、三者とも備前に縁があり、そのような関係から、日忠が和睦の調停をすることは有り得ることであろう。 この和睦により秀忠は不受不施公許の折紙を下す。この記録は宗門に残される。(身池対論記録、万代亀鏡録下) また京都所司代板倉勝重からの日奧宛好意ある手紙が届く。これも記録に残される。(身池対論記録、万代亀鏡録下) ここに宗門は日蓮聖人以来の不受不施の宗制に立ち返ったように見える。 しかし、元和2年11月身延山法度が発令される。 この法度は諸宗法度の内最後に下されたもので、家康在世中は受・不受の対立があり出されず、家康の死後に出されたものである。 問題はその法度の一項に身延山を日蓮宗の総本山とするような条項を含むことである。それは幕府と身延山の思惑が一致し、日蓮宗を身延山に支配させ、幕府の封建的宗教統制に編入するとする意図であったのである。 その上、和睦したとはいえ、一度反目した日奥・日乾の感情的対立は遂に融解すべくもなかったのである。 しかしながら、この時期の日奥は政治勢力の苦い介入を招いた体験から随分と自制し、戒心をしていたようである。 ところで、封建権力の介入を招いた根本原因はなにか、それは身延系の讒訴上訴ではなかったか。おそらくはそれが不受不施派に対する致命傷ではなかったか。 江戸瑞輪寺日體の如きは一月に三度も訴え、それを10年間やめなかったというからす凄まじいものであった。 ---「不受不施派殉教の歴史」 終--- 【慶長法難】 慶長12年(1607)5月妙満寺27世常楽院日經、尾張熱田に布教、浄土宗を論破、浄土宗は上訴に及ぶ。 慶長13年11月上訴の結果、法華宗と浄土宗の対論が江戸城にて企図・実施される。 前日、幕府権力は日經を暴力で以って半死半生の状態に陥しめ、当日の対論では言語を発することが叶わず、法華宗の負けと判定される。 結果、日經は洛中にて弟子5人とともに「刵劓刑」に処せられる。弟子一人はその場で落命する。 参照:常楽院日經上人:日什門流は積極的に折伏を行い、浄土宗などと衝突する。 日経及びその門流の詳細は左記のページにある。 【身池対論・寛永法難】 大坂城の対論の後、不受派と受派との対立は、一度は融和が図られるも、両派の対立は再び激化し、 寛永7年(1630)江戸城で対論が行われる。受派の代表格は身延山久遠寺であり、不受の代表格は池上本門寺である。 その結果、上意違反の罪で、池上本門寺日樹は流罪、中山法華経寺日賢ら5人は追放となる。 加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に接収される。 (幕命により妙覚寺住職は身延日乾が、池上本門寺住職は身延日遠が任命され、不受派本山は身延支配となる。) しかし、不受派本山を幕府権力で以って受派支配(身延支配)としても、本寺に背く末寺は多く、特に京都妙覚寺末寺の殆どは身延支配となった本寺から離脱することとなる。 参照:M不受不施派「身池対論」 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 身池対論と寛永法難: 日奥が対馬から帰った慶長17年(1612)から寛永7年(1630)までの18年間、これがいわば不受不施派の形成期である。 言い換えれば、千僧供養への出仕拒否という政治の次元での反抗が問題となる次元から、不受不施という法華信仰の根本思想への対立の次元という皮相から深部へと問題が鋭くなっていく過程であった。 日奥の主張に対し池上長遠院日樹、中山寂静院日賢、平賀了心院日弘が同調し、また飯高・中村・松崎・小西などの関東檀林はこぞって不受不施を唱えるようになる。 一方受不施派では身延の日乾・日遠・日深などが中心となって、日奥を非難し、法華信仰の篤い養壽院(家康側室)を抱き込んでいた。 受派・不受派の論争が深刻化するなか、将軍秀忠夫人(崇源院)の葬儀があり、これに出仕して供養を受けた身延は日樹などから厳しい非難を浴びる。 この劣勢を取り戻すべく、身延が仕組んだのは日樹等の弾劾訴訟であり、それは寛永7年の身池対論で決着される。 1)日奥の所論が誤りであることは彼が流罪になっていることで明らかである。 2)日樹の主張は国主の供養は謗法者の供養であるというが、日樹の池上の堂舎は国主の領地の上に営まれているのは矛盾である。 3)千僧供養が終り、両派は和睦した。然るに日樹は身延は謗法、池上は信と区別し、異議を唱え和睦を破ろうとしている。 以上の3点が訴訟の中心である。特に2)の点は口に出していってはならないことを口にしている。 それは、日蓮の不受不施思想の根幹を否定しかねず、日蓮宗の寺院・僧徒であれば云ってはならないことあろう、果たして、のちにこの点を突いて、身延及公儀は不受不施派を追い詰めることとなる。 2)に関しては、日奧の「宗義制法論」があり、ここでは「所領のこと・・世間の恩賞ならばこれを辞するに及ばず、佛事の供養ならば謗法となるべし、これを受くべからず・」と明確に述べ、日樹はこれで対論に勝てるとふんでいたふしがある。 寛永7年2月21日酒井雅樂頭邸で対論(身池対論)が開かれる。 身延側は身延日乾・日遠・日暹、藻原妙光寺日東、玉沢妙法華寺日遵、貞松蓮永寺日長の6名、池上側は池上日樹・中山日賢・平賀日弘(にちぐ)・小湊隠居/小西日領・碑文谷日進・中村日充の6名、判者として南光房天海・金地院崇傳ら6名、奉行衆6名の内に林羅山も加わっていた。 →池上本門寺 →中山法華経寺 →平賀本土寺 →碑文谷法華寺 →小西檀林・中村檀林は関東檀林中 池上側は負けと評決される。負けというより、評決は対論の外で決しており、対論そのものは採決に形式を加えるためのものだったというのが適切である。 評決は謗施供養について、つまり法理には一切触れずに下された。家康によって不受不施論を咎められた日奥が、放免後も相変わらず不受不施を唱えていること、日樹以下はこれに同調したことを咎めるのが採決である。 日樹の主張した「寺領は世間の恩賞であって国主の佛事供養ではない」という点については、否定も肯定もされなかったということで、ここに大きな落し穴が潜んでいたのではないだろうか。 日樹は信州伊那へ、日賢は遠州横須賀、日弘は伊豆戸田、日領は佐渡から奥州中村、日充は奥州岩城平、日進は信州上田へそれぞれ追放となる。 ※ 日樹: →日樹上人供養塔・長遠院日樹上人略伝・日樹上人墓 日進:修禅院日進 →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。 日充: ○いわき市図書館の日充上人のレファランスに次の一文がある。 多古町中地区中村檀林八世の能化(除歴)日充は、磐城平藩主内藤忠興(このころはまだ泉におって、磐城平藩主ではなかった) のもとに預けられたことは、不受不施派弾圧史上有名な事実ではあるが、いわき市ではあまり知られていない。 「忠興は窪田に寺屋敷地を与えて居住させ」(『日蓮宗宗学全書』第21巻)たとあるから、忠興は日充を多古の地に関係の深い 妹婿土方雄重(ひじかたかつしげ)に託したのではないかとも考えられる。 いずれにしても「窪田における日充上人の動静について」は今後の大きな研究課題であり、市民各位のご教示を得たい。」 (『いわき市史 第2巻 近世』>「第6章 神領と分領 第4節 多古分領」>p801) またに次のような記載があった。 「〜平藩内藤忠興公の時代、同派の日充上人が迫害を受けていわきに流され、窪田地区を中心になおも布教活動にしたがった〜」 (『いわき市史 付録4』(昭和50年8月)p8の「本藩視察」) 不受不施派ではこの事件を寛永法難と呼び、日樹ら6名を「前六(ぜんろく)聖人」と尊称する。 身池対論の頃、日奥は病床にあった。対論の4日後、日奥は死後の遺さるべき影像の図柄を指定する。「左手に御経、右手に金襴の袋、俵の上の坐すこと」と。 3月10日日奥は妙覚寺衆僧を集め読経し、本立院日要の膝に頭を横たわらせ寂する。 4月2日身池対論の評決が行こなわれ、日奥は再び対馬に流罪と断罪される。 →M不受不施派「身池対論」 下総の不受不施: 寛永法難で打撃を蒙ったのは、主として上総下総を拠点とする関東諸山であった。関西・京都諸山では妙覚寺などを除き、権力に対して攝受的になる傾向が顕著となるも、関東諸山では不受不施論・強烈な折伏主義が隆盛であった。 身池対論の採決で日奥の妙覚寺は日乾に、日樹の池上本門寺は日遠に与えられる。 下総香取郡多古町・栗源町は法華信仰の強い所である。その栗源町の岩部の旧家に日樹以下の「前六聖人」の署名と花押の記された畳1枚ほどの大曼荼羅がある。 これは大乗院日達が六聖人の追放地を順次訪れ、用意していた本尊に署名と花押を記してもらい、それを持ち帰り、岩部の信者に渡したものである。 この事が示すものは、追放された僧に対する新たな信仰の告白であり、僧はそれに対して確たる誓言を与えたということであろう。 不受不施の思想は信者の中に根付いているあるいは信者の中には、権力には容易には屈しない反骨精神が根付いていたということであろう。 →大乗院日達:備前蓮昌寺僧、各地で多くの寺院建立あるいは再興をする。 →日樹主筆曼荼羅本尊:寛永7年・・・・「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年 <p.77> より 「不受不施派殉教の歴史」では、信濃飯田のとある文具店の店頭にカビネ判の曼陀羅本尊写真が掛けられていて、これが「日樹主筆曼荼羅本尊」であったといい、 これが相葉氏の「不受不施」との出会いの契機であったという。 (原本の所蔵は博多妙典寺であると後述される。) 上記の大乗院日達が巡訪し、岩部の信者に渡した本尊とは違うものとと思われるが、 この本尊は日樹の曼荼羅本尊で、「寛永第七庚牛五月十六日信州伊那郡飯田書之」とあり、主筆の日樹とほかに日領・日延・日弘・日賢・日充の署名と花押がある。 ※2019/08/19追加:大乗院日達が巡訪した六聖人連署の大曼荼羅は次項の「連署の曼荼羅」を参照 おそらく板山八左衛門吉員の文字があるので、彼(信徒)が巡訪して記してもらったものであろう。(これ以上の詳細な説明は本書にはない。) 但し、前六聖人であれば、日樹・日領・日進・日弘・日賢・日充であるが、日進ではなく日延の署名・花押である。 なぜ、日進ではなく日延なのかは不明、また日延とは可観院日延(小湊誕生寺18世)とも思われるも、不明。 ※可観院日延は不受不施を堅守と云い、寛文5年寂というので、日延とは可観院日延である可能性は高いとも思われる。 もし可観院日延ということであれば、数奇な経歴といえる。 →可観院日延は博多香正寺中にあり。 →備中盛隆寺戸川家墓所中にもあり。 ※2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 寛永7年(1630)伊那に流された日樹は翌年58歳をもって歿する。 配流後の日樹の生活を知るべきものとしては、地方文献に僅かに散見するだけである。 今日博多妙典寺に日樹の書いた曼荼羅がある。この曼荼羅の由来は全く不明である。 この曼荼羅はもと妙典寺檀家大塚平三(明治25年没)の所蔵であったがこれを妙典寺へ寄付したものである。 それまでの入手経路は全く不明とのこと。(当時の妙典寺住職西村観誠氏書簡) この曼荼羅には「寛永7庚午五月十六日信州伊那郡飯田書之五十七歳 日樹」とあり、さらに日賢、日弘、日領、日充と 身池対論で各地に流された聖人の名が記される。(全六聖人の内日進を欠き日延の名がある。) 六僧の一人である小西檀林能化である守玄院日領は不受の立場から、不受と受の相違を説く一篇のメモ(「受不帰論」という)を書いた。それは信者のあいだに回覧され、師が命を懸けた不受不施とはいかなるものかは浸透していったはずである。日領は追放され遂には帰ってこなかったので、それはそのまま信者たちへの「遺言」となった。 このメモは一冊現存し、それは信者の一人が筆写したものである。その信者とは信了院浄性という島地区のいわば「指導者」の立場にあった人で、筆写したのはおよそ百数十年後の宝暦5年(1755)であった。信仰は絶えず、脈々と信者の中に伝わったということであろう。 ちなみみ、香取郡多古町の島地区とは行商泣かせと云われ、迷路の集落であった。今でも全戸が不受不施である。寺院は正覚寺が構える。迷路が何の為だったかは「いわずもがな」であろう。 身池対論の後、採決に抗議して自害するものが少なくなかったという。小湊誕生寺の日税や日泉は自害僧であり、その名が伝わっているものは7名を数えるという。 2019/08/19追加: 小湊誕生寺祖師堂にて修善院日税は自刃する。(「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」より) --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/08/19追加: ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より 連署の曼荼羅 備前蓮昌寺の大乗院日達は前六聖人の配流先を次々と回り、師に会い、変わらぬ信仰を吐露して証を立てる。 六僧は日達の信仰を認め、1枚の大曼荼羅に連署して与える。日達はそれを下総に持って帰ってくる。下総の信徒はそれを見て、六僧との信仰の繋がりは断ち切られたのではなく続いていることを確認したことであろう。 この大曼荼羅は畳1枚は十分ある大きさで、下総香取郡栗原町岩部の石橋家にある。 前六聖人連署の大曼荼羅 ※本書に掲載された曼荼羅本尊は4枚に分かれているが、この4枚がどのような形で、畳1枚分くらいの大きさの「大曼荼羅本尊」となるのかは、良く理解できない。 →大乗院日達(安芸國前寺中) --- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終--- 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 《身池対論と新義・受不施派の発生》 慶長17年(1612)日奧は赦免され、対馬より帰還、元和2年(1616)唯心院日忠の斡旋によって受・不受派の和睦が成立し、秀忠より不受公許の折紙が下付される。宗門は不受不施の制法に復帰し、宗門の紛乱に収束したかの状態を呈する。 しかし、一度凝固した日乾・日奧二者の感情的対立はなお解けず、日奥は身延を指して、ひとたび謗法者の施を受けたことによって、身延の法水は濁ったと嗟嘆し、それへの身延の反目は宗門内の暗流として流れていた。 池上日樹は日乾・日奧の間を調停し続けるも、なお収拾しえないことを知って、遂に日奥の主張を正当として、身延は一度の謗施収受によって汚れたりとして「身延無間」と難じたのである。 謗法の供養を受けた日乾が身延に住する故に、身延の法水はたちまち濁り、清浄の地忽ち変じて、不浄の地となれり。仍って身延の地には高祖上人は住み給わぬ。 それ故身延に参詣するものは地獄に堕る と。 これに対して身延日暹(セン)は怒って、寛永6年(1629)日樹を幕府に上訴する。 これにより幕府は両者の対論を命ずる。 ※寛永7年の「身池対論」であるが、詳細は重複するので、割愛する。 対論の記録は日樹の「身池対論記録」、受側の日達の「受不受決疑抄(金偏に少の字)」では全く正反対の事実を伝える。当日の対論を筆記した建部伝内の「東武実録」も存在するが、これとて、身延を自とし、池上を他とし、頻繁に「他閉口」と記している。将軍の「台覧」に入れられるもので、幕府と身延の関係を忖度したものとも思われ、必ずしも信を置くことはできない。 何れにせよ、池上側は破れた訳であるが、その採決理由は 「池上日樹今度申立候不受不施之儀者、先年権現様邪義ト聞召、日奧於遠島流罪ニ仰付候、然る処ニ唯今其御宰ニ違背申シ、不受不施之儀申出候事、不届ト思召・・・・」というものであった。 要するに、身延日暹の上訴の趣旨もそうであったが、この判決の判断理由は受・不受の優劣ではなく、不受不施の義は権現(東照大権現)様の御意向に違背し、それは天下の御政道に反し、不届である・・・という極めて政治的なものであった。 なお、日樹の対論記録によれば、代々の折紙(不受不施公許の)などは取りあえず預っておくということで、没収されたという。 勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。 「今般所論の法義に就いては、種々雑説風聞の由に候、然るに我山の法理は国主の御供養に於いては、常に受であるが異端ではなく候、但し平人の施は中古に於いて世の機嫌を息か為し(※解読できず・・・※息世譏嫌となす。<世間から譏り(謗り・そしり)嫌われる>)、我ら専ら今更之を改めず、隠居(日乾・日遠)と愚意と同心で候。池上日樹并徒党の者は、誤るに国主の御供養を受けず・・・」 つまり、国主の供養は受ける点では受不施であるが、平人の施は従来の通り不受不施であるとする。 さらに、日暹は池上・比企谷両山の院坊・大衆に全てに命令し、受不施の主張を教理的に肯定し、それに違背せぬ旨の連判の起請文を提出させたのである。 ここに来て、新たな新義・受不施が出現したというべきであろう。以前の国主から施を受ける意味は「国主の機嫌を損なわない」ための「方便」という意味合いが強かったが、遂に、今までの法華宗の法義を棄てて、新しい新義が発生したというべきであろう。 言葉を変えていえば、将軍家の供養に限りという条件付きで受不施となった訳である。 高祖日蓮以来の謗施否定を制法とする宗義は身延(日暹)によって、覆され、新たに受不施こそ正当なる宗制とされたのである。 少なくとも、日奥の時の日重は、権力者に阿り、一時的に宗制を枉げる便法としての受不施であったが、日暹は受不施が新しい宗制としたのであり、これは重罪である。 幕府は身池対論で不受不施は「新義」「邪義」として、これを罰する。しかしその内実は法華宗の宗制として、不受不施を罰した訳ではなく、現権様(東照大権現)の国内統治上の「不都合」つまり家康の意向から罰したということである。 現に、徳川氏は不受不施の制法実施(不受の実施)を許している。 1、慶長7年(1602)家康母堂・伝通院の葬儀では、池上日尊・関東の諸法華宗、小石川壽経寺に諷経して供養を受けざる也 1、慶長12年(1607)尾張松平忠吉(将軍秀忠舎弟)の葬儀では、池上日招等、三縁山増上寺にて諷経して供養を受けざる也 1、元和2年(1616)徳川家康の葬儀では、池上14世日詔、身延日遠、関東の諸法華宗、武蔵仙波北院に諷経して供養を受けざる也 1、寛永3年(1626)秀忠御台(家光御母)崇源院の葬儀では、池上日樹、身延日深、関東の諸寺諸山、京都諸寺代妙覚寺日饒、増上寺に諷経して供養を受けざる也 1、寛永7年(1632)秀忠四女初姫(興安院殿、京極忠高正室)の葬儀では、池上日樹、身延日暹、関東の諸寺諸山、伝通院に諷経して供養を受けざる也 そして、 元和2年(1616)秀忠は不受不施公許の折紙を下すということもあった。 上記の国主関係の葬儀の時、不受不施派とともに、身延側でも日遠・日深・日暹は施物を拒否していたのである。 これらの事例からみると、不受不施は制法として既定のものだったのである。 つまり、身池対論の時の問題は、受・不そのものの何れが制法かということではなく、受・不の対立を超えたところにあるのであろう。 ---end--- 2019/10/26追加: ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より 《身池対論直後の両派》 ◇池上本門寺・京都妙覚寺の接取 寛永7年(1630)4月2日幕府は身池対論を裁決、池上日樹以下六僧を流罪・追放に処す。身延は勝利する。 勝利した身延は日暹の名にて、対論の終末と以後の諸山の心得を回文する。 この回文は上記 ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸 より の項<勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。>で述べる通りであるので割愛する。 加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に引き渡され、妙覚寺は日乾、池上は日遠が受領する。 身延日乾に接収された妙覚寺は日奧寂後、本壽院日船が岡山城下蓮昌寺より出て法灯を継ぐ。 日船は池上方の敗退によって来たるべき結末を予知していたのであろうが、日乾による接取を知り、一山の大衆30余名を率いて妙覚寺退出を決意し 一 時節到来するに於ては異体同心に、一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を 相守り像師御作の御影様を安置するの処、当門家(当門流)の本山と為すべき事、 右の条目違背するに於ては、法華経中一切三宝、日蓮薩埵(大菩薩)並に代々列祖の御罰を罷り蒙る べき者なり。 寛永7庚午(1630)六月十四日 日船 在判 大乗 在判 と同心、誓約連署し、→紫竹常徳寺(日奥上人中)に隠棲する。 関東の池上においては、日遠の入山後、寺家の反逆が見られる。 池上大坊の中妙院日観は池上を去り、下総野呂妙興寺に遁れ、ここに談所を開き子弟を教育せんとする。承応明暦(1650前後)から寛文5・6年頃不受派の教育拠点となった野呂檀林である。 また十如院日相・仙国院日仙・華蔵院日由が悲憤して自刃する。残った大衆も種々日遠に反撃する。諸末寺も池上の本寺権を否認し二季の仏事に出席せず云々という具合であった。日遠は本寺末寺の統制を行い異端者を整理し、貫主権を確立する意味で、比企谷・池上両山の院坊・同宿・小僧及び末寺の住持・院坊・同宿などに起請文の提出を求める。 これは、両山の院坊・同宿には一定の効果はあったが、末寺においてはその支配を及ぼすには至らなかったのである。 これは妙覚寺においても同様であった。 日乾は妙覚寺入山の翌年には摂津能勢に隠棲し、円通院日亮(玉澤妙法華寺17世・中興4世)が入山(妙覚寺23世)する。日亮は専心経営に当たるも、末寺はこぞって本寺に向背する。 寛永10年(1633)幕府は日蓮宗諸山に各本末の寺院数を答申させたが、この時日亮は100ヶ寺を登録するも、当時本寺に帰属した末寺は洛内1、尾張1、紀伊5の計7ヶ寺に過ぎず、残りの末寺の大部は「于今不参」「違背」と記録している。 京都妙覚寺及び池上を入手したはずの身延には大誤算の事態であった。 ※当時の京都妙覚寺末寺については本ページ中の「備前法華と京都妙覚寺」(2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前法華と京都妙覚寺)を参照 ◇中山法華経寺・小湊誕生寺の帰伏 中山は日b以来、京都本法寺・頂妙寺・堺妙國寺の三山の三ヶ年の輪番制であった。 当時は堺妙國寺日現が当番の貫首で住持することになっていたが、中山の院家は中山の関西三山からの独立のため、輪番制を破棄しようと企図していた。 寂静日賢・禪那日忠らは不受不施を主張し、関西からの支配を脱しようと日現の来山を拒んでいた状況であった。ところが、身池対論で日賢は処断(遠州横須賀へ追放)され、日忠も韜晦するに及び、中山は再び三山の支配に入らざるを得なくなる。 小湊は身池対論によって、小湊14世で小西檀林能化守玄日領は佐渡(後に奥州中村)に追放され、16世可観日延は自ら追放の列に加わり博多に下り、加えて、修善院日税や日泉は自害し、寺家は動揺する。 身延はこれを好機とし、使僧を遣わし、不受不施の違義に及ばざるの起請文を出さしめる。つまり、小湊は身延に帰伏したのである。 ◇中村・小西両談所の帰伏 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。 中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。 ◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。 身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。 日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。 ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。 さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。 ◇勝劣派諸山への対策 身延は門末及び一致派諸山のみならず、勝劣派の諸山にも書を送り、身延の法理に同心するや否やを糾したようである。 富士五山については(この当時は西山本門寺日悟、大石寺日就、重須本門寺日賢、久遠寺日珍、妙蓮寺日遵であった)身延より身延の法理に同心するや否や云々の高圧的物言いで申し入れがあった。富士五山側は曖昧に受け答えをなすも、重ねて、身延の法理(特に地子寺領について)の糾明がある。それでも、富士門流伝統の制法との整合性もあり、五山側は曖昧な態度であったが、さらに糾弾があり、遂には、五山側も身延の法理に賛意を示したようである。 しかし、その後身延の行動が不純であり、専横の行為であったことが一般に知られるようになり、また諸門流を身延一派に集めて、総本寺になろうとしているとの風評まで立つようになり、それを五山も察知し、加えて関東一般の情勢は身延は懼れるに足らずというような情勢も分かってきたので、富士五山は身延との関係を疎遠にし、次第に関係を持たないようになったようである。 八品門流(日隆門流)にも身延の圧力はあったようで、おそらく八品門流は身延に同調したものと思われる。 日什門流(妙満寺派)にも身延は通牒を送り、同心を求める。このころ同門流の常楽院日経の流れが関東に伝播し、寛永4年上総横川方墳寺が破却され、僧俗5人が処刑され、同12年には下総野田本覚寺破却に伴い恕閑日浄など僧俗9名が土気十文字ヶ原で磔刑に処される。 →常楽院日経>日経の門流の頃を参照 日什門流は多難な時であったが、妙満寺養徳院日乗は身延の強圧に屈することなく、門流の見解に従い、身延の指図には依らぬ旨を返答する。但し、寺領供養は認める態度であった。 ◇小湊の離反 身池対論の後、身延はこれを勝利とし、寺領供養を以って公儀裁可の法理であるとし、国主除外の不受不施を以って諸山・諸門流の同意を得ようとし、小西中村の両檀林を手中に収め、これにより支配下の飯高檀林を加えて自派の檀林を三檀林となす。本寺は池上・京都妙覚寺に加え中山・小湊の本寺を進退し、余勢をかって碑文谷・平賀を収めようとするもこれは頓挫する。しかし、身延は関東においても屈指の大本寺を手中に収めたのである。 しかし、間もなく、小湊は離反する。 対論の頃、小湊は日領の後を継いだ日税が退き、可観院日延が住していた。しかし対決の時、日延はその場に出席はせず、これは病中であったとも対決の煩わしさに拘わりたくなかったからとも云う。しかし、いよいよ採決の申し渡しのとき、日延はともに罰せられるように請うたのである。 この申出のことは、日樹の書状や小湊日雲の訴状にも触れられ、確かなことである。さらに身延の追放記録や身池対論記にも追放として記録されているので、追放も確かであろう。 とこらが、小湊では追放ではなく、隠居という。 その日延であるが、自ら進んで追放されたが、それに先立ち後住を議し、衆議をもって日遵を後住とする。「追放」され、日遵は5月初めに小湊を出、伊勢の一柳監物の知行所に赴くという。しかしその後日遵は伊勢から博多に赴き、寛永8年黒田忠之の帰依を得て、香正寺を創す。日延は自由に国内を歩いていたのである。 この点から見ると、日延の追放は追放された他の諸師とは違い、追放とは名ばかりで、小湊の云うように隠居したのであろうか。日雲は自信をもって、その訴状で隠居としている。 ともあれ、日延は寛永7年5月の初め小湊を出、伊勢に赴くも、後住である日遵は、下関を目指すが、寛永10年(1633)3月13日まで京都頂妙寺に住していた。 日延追放後、小湊は支柱を失い、小湊長老・妙蓮寺や宿老成就院は身延の強圧的態度で動転し、身延帰伏の誓状を出したものであろう。 日遵は、対論の裁定では京都に住していた理由で同じく追放を免れた日奧弟子住善院(日定)とともに京都の同志を率いていたが、関東の多くの重鎮を失ったあと嘱望されて、関東に赴くこととなる。 寛永8年日遵は信州伊那に日樹を慰問しているが、日遵書状には、日樹から早く下関し子弟の教育にかかるように指示されたことが述べられている。 日遵は寛永8年にも下関する意向を示すが、下関は寛永10年にずれ込んだのである。 しかしともかく、日遵の下関により、身延は得ていたあるいは得たと思っていた小湊を失うこととなる。 さらに、得たと思っていたものが実は得ていなかったのに各本寺の末寺である。 関東における法華宗一般つまりは各本寺の末寺一般は国主除外の不受不施を正統とはみなしていなかったのである。 日樹をはじめとする諸師が身を捨てて守った態度にこそ真の宗制が守られていると見るから、日樹等が身延派を以って受不施派と蔑称した名称をその通り名とし、自派をして不受不施派と誇るようになったのである。中山にしても池上にしても末寺は離れ、小西・中村を退檀した不受不施の学徒はじめ不受の諸師は身延の詐謀を暴き、しかも続々と新寺を建立し、弘教に力を尽くし、不受派の勢力は目覚ましいものがあった。 身延は自身の力では如何ともしがたく、ついに幕府の権力を借りて不受派を押えようとの策謀に頼ることになる。 ◇両派の現況 寛永8年2月26日身延日暹は「御朱印頂戴仕度条々」11ヶ条をもって幕府に訴訟する。 第1条は寺領・地子は国王の供養であることの決定、第2条は池上・京都妙覚寺及び徒党五ヶ寺の支配権、第3条・4条は末寺・衆徒に本寺の処罰権、第5条新地建立の許可制、第6条・7条・8条は勉学の方法と講義者の資格、第9条は寺中の老僧の資格、第10条は本寺の末寺支配、第11条は奉賀勧進の制限 である。 第1条は幕府権力を借りてでも、身延の寺領供養の義を推進する必要性があったということであろう。 第2条の五ヶ寺とは小湊・碑文谷・平賀・小西・中村を指すようである。池上・妙覚寺は既に身延に賜り、中山は三輪番制に復したから問題はない。 要するに、これらは、身延が法華守宗の総本寺としての地位を得るための策謀であり、その手段は上意下達の貫徹であり、幕府権力に寄生してでも達しようとする不純な意志であった。 この頃不受派が力を注いだのは教育であった。身延訴状によれば、この頃の不受派は松崎談所(顯實寺)、野呂談所(妙興寺)、山田談所の三談所であった。 松崎は少なくとも元和5,6年を中心として以降寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、この頃は円通院日調が化主として活躍していた時である。 野呂檀林は池上が身延支配となった時、大坊を退出した中妙院日観によって、野呂妙興寺に設けられた談所である。 山田は安養寺檀林のことであり、山武郡大和蔵王寺(廃寺)に設けられた談所で、碑文谷12世日晴が開き、14世日禪が第2祖となる。これは大和小西檀林が寛永8年に身延に接取され、不受の学徒は小西檀林を離散したが、これらの学徒を収用する為であった。 これらの談所はとみに活況を呈し、これらは碑文谷・小湊・平賀と連携し、池上・中山の末寺を傘下に収め、身延を攻撃する。 では、この頃の両派の勢力状況はどうだったのか、寛永10年の身延同心の諸寺の連署がある訴状で両派の勢力の大勢を知ることができる。 訴状では日樹の弟子共并徒党の寺々として谷中感應寺、鎌倉妙隆寺、下総松崎顯實寺、上総野呂談所、鷲津鷲山寺、山田談所を挙げ、新地として愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊などが挙げられる。而して身延同心の寺は藻原妙光寺、真間弘法寺、池上本門寺、中山法華経寺である。寛永7年の身池対論の時は藻原の日東、玉澤妙法華寺日遵、鶏冠井真経寺心了院日長でこれは皆身延直属の関係者である。なお心了院日長はこの頃貞松蓮永寺に住していた。 真間弘法寺は禪智院日感が住持していたが、寛永6年3月61歳をもって頓死(歴譜)する。日感は飯高檀林7世で、日樹に与する。しかしその寂後に起った対論で池上が身延支配となるとともに、重縁のある真間はともに身延に接取されたのであろう。 再度概括すれば、対論前、身延方は身延久遠寺、藻原妙光寺、玉澤妙法華寺、貞松蓮永寺、飯高談所の与党であったが、対論後に池上本門寺、中山法華経寺、真間弘法寺、小西談所、中村談所を加え、7本寺、3檀林となる。 旧池上方は、平賀本土寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺が中心で、谷中感應寺(碑文谷末)、鎌倉妙隆寺(中山末)、上総鷲山寺(日隆門流本寺)と松崎檀林、野呂檀林、山田檀林の3談所の体制となる。さらに愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊などの新地の寺院を建立し、あるいは在家に滞留して民衆を教化し、さらには池上旧末寺信徒の支持を得て、対論の打撃にも関わらず、宗勢は身延派を凌駕するものがあった。身延派は完全に不受派に圧倒される状況であった。 日暹が繰り返し繰り返し訴訟をしているのはその劣勢を自覚している裏返しであり、幕府権力を借りる以外に方策がなかったことを物語る。 ---「禁制不受不施派の研究」 終 --- 【不受不施派の禁制】 受派(身延)は京都妙覚寺・池上本門寺などの本山を押えるも実質的に得るものは少なく、この情況を打開するため、 寛文5年(1665)身延の策謀によって、寺領朱印状を将軍よりの供養として受け取ることを画策、 寛文6年寺領を持たない寺院に対しても飲水行路も将軍よりの供養であるとして、朱印状広布を実施する。 【寛文法難】 朱印の受領を拒んだ野呂妙興寺日講ら6人は各地へお預けとなる。 【不受不施派の寺受を禁制】 寛文9年不受不施派の寺請を禁止。 【悲田派禁制】 寛文5年の朱印状広布の際、寺領は将軍の悲田供養と一方的に解釈して受領の手形を出した一派があり、これを悲田派という。 元禄4年(1691)悲田派を禁制とする。 ※参照:伯耆河岡妙本寺(伯耆具足山妙本寺) ※なお、上記の河岡妙本寺以外に多くの悲田派の寺院がある。当時の悲田派寺院の一部として、拙ページには 小湊誕生寺、谷中感應寺(現天台宗谷中天王寺)、雑司ヶ谷法明寺、相模衣笠大明寺などがある。 碑文谷法華寺(現天台宗圓融寺)、廣島國前寺なども該当する。 2019/07/11追加: ---拙「谷中感應寺」のページから転載。--- ●悲田派の禁制 近世初頭から不受不施派と受不施派の対立は深刻であったが、幕府の権力安定化の方策と身延の日蓮宗内での覇権確立志向との利害が一致し、幕府及び受派身延勢力から、不受不施派は次第に禁教化の方向に陥れられる。 身池対論などの弾圧後も、不受不施派の勢いは衰えず、 寛文5年(1665)受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。 殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受、平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、青山自証寺日庭等は流罪となる。 ※妙満寺日英、上行寺日應:伊東祐実の預かりとなり、現在の日南市北郷町郷之原に配流となる。 日英は妙満寺38世、謫居の地に15年あり、その庵は妙満寺と称し、今は墓地である。 日應は京都上行寺2祖、配流の後2年ほどで寂すると云う。その庵跡は伝えられないが、集落名「常明寺」ではないであろうか。 上行寺はむしろ常行寺と綴り、常行寺が常明寺と転訛したのではないだろうか。(http://やまみや.com/menu1008.html) なお、研究書としては「寛文法難 京都妙満寺38世日英上人/妙法山上行寺2祖日應上人殉教」中村啓堂(柳川妙経寺住職)がある。 →上行寺は常楽院日経上人のページにあり。 ※大野法蓮寺日完は不受不施派の後六上人から外される。その事情は→江戸青山自證寺日庭を参照。 ※大野法蓮寺日完上人開眼日蓮上人像が市野倉長勝寺(武蔵市野倉長勝寺の項)に現存する。 寛文6年野呂檀林日講、玉造檀林日浣は寺領手形に関して幕府を苦諌、流罪に処せられる。この処置に対して各地で自首受刑あるいは多くの殉教者を出すこととなる。(不受不施は再び壊滅的な打撃を受ける。) 一方 小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感應寺日純(小松原鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺)などは寺領は悲田供養として手形を提出する。(所謂悲田派が成立する。) しかしながら受派は更なる打撃を画策し、身延日脱、池上日現(日玄)は悲田派を邪義であると訴え、ついに 元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁ずる命を出す。 これにより、小湊は受不施に転じ、廃寺を免れるも、碑文谷・谷中は廃寺を命じられる。 ---転載終り--- 2018/11/15追加: ○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より 【恩田派・悲田派】 恩田不受不施とは公儀から寺領の朱印を寺院に交付する場合、その趣旨に供養と仁恩の二途を立てた、不受不施派の日述、日浣、日講らは供養は宗義として受けられないが、仁恩は頂戴すると回答する。しかし公儀は寺領の朱印はやはり供養であるから、不受不施の宗義とは別途に解釈して、その請書(書物)を出すように要求する。そこで、日述ら3人は供養である限り受けられないと書物の提出を拒否する。 一方、小湊の日明、碑文谷の日禪らは朱印に好意を示し、「此度御朱印頂戴仕候義難有御慈悲ニ御座候地子寺領悉御供と奉存候」と請書(書物)を提出する。これに対し、日述らは日明らの行為を論難し、不受不施内に深刻な対立を生ずることとなる。 前者が恩田派で後者が悲田派という。 寛文5年12月、幕府は恩田派の日述、日浣、日講らを流罪に処し、悲田派も慈悲に隠れて不受不施の宗義を弘通しているとの判断が下され、元禄4年不受不施並びに悲田宗を堅く禁制するという全面禁制を交付する。 元禄4年以降、宗門改めの書物は「日蓮宗之内不受不施悲田不受不施宗門之者」と不受不施悲田の文言を入れたものとなる。 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 法華宗寺院法度制定: 身池対論の後、多くの僧が出寺する。日奧を失い、身延に接取された京都妙覚寺貫主日船は主たる僧30数名を連れて出寺する。 →本寿院日船上人 池上本門寺では大坊の中妙院日観が出寺し、上総野呂に走る。この野呂に日観は新しく檀林を開設する。 後に、安国院日講が能化となり、不受不施禁制直後に大きな指導性を発揮することとなる。 池上では残った衆僧も様々に抵抗し、多くの末寺も違背する姿勢を見せる。 京都妙覚寺においても、ほぼ全ての末寺が違背するという。 →上述の「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 よりなどを参照。 身延は勝ったにも関わらず、池上本末や妙覚寺本末を掌握できず、劣勢に立たされる。 このような窮状を打開すべく、身延はまた訴訟攻撃を開始する。寛永8年(1631)から始まる訴訟は最後の目的である「法華宗寺院法度」が制定される寛文5年(1665)までの34年間絶えることなく執拗に続けられる。日体という僧は1ヶ月に3回、きちんと奉行所に出頭し訴状を出し、10年間その提出を欠かしたことはなかったという。 第1回目の訴状の第1条は次のように云う。 「御朱印頂戴仕りたき条々 一、法理の儀については、先年権現様御落着のところ、この度池上日樹ならびの徒党、かの邪義を救すけんがために上意に背き法義に違いしゆえ、重ねて対論仰せつけられ、邪義の族、すでに問答に屈せし間、御追放なされし上は、いよいよ寺領地子等国主の御布施供養と治定のこと」 ついに寺領地子の性格についての訴えがある。日樹らの寺領地子についての主張は「寺領は世間の恩賞であって仏事供養の類ではない。」であった。 ついに身延側は「寺領は国主の供養」との理屈を持ち出したのである。 幕府の統制については、他の仏教諸宗もほとんで抵抗することなく屈したが、この時の身延派のように権力の威を借り、阿り、統制と保護を願い出たものは他になかったのである。 30年に渡る熾烈な戦いであった。両者は諸門流・諸寺・諸檀林の獲得に競合したのである。 寛文3年(1663)前六聖人の最後一人、碑文谷法華寺修善院日進が配所信州上田にて寂する。 寛文5年(1665)身延の訴訟を無視し続けた幕府であったが、遂に法華宗「諸宗寺院法度」を制定し、ついで「此度御朱印を頂いた寺領地子は御供養と心得ます。このことは浮腫不施の問題とは別であります。」という意味の受取手形を出すよう命ずる。 手形を出さなければ、朱印状は取り消され、寺領は失い、その結果寺の存在そのものが失われることとなる。 ついに手形を提出しなかった四僧がまず流罪の宣告を受ける。 平賀本土寺日述・大野法蓮寺日完は伊予吉田へ、奥津妙覚寺日堯・雑司谷法明寺日了は讃岐丸亀へ流される。 今、奥津妙覚寺の歴代墓碑の一画があるが、そのなかに表面が削り取られた一基の墓碑がある。これが日堯の墓碑だといわれている。だとすれば、後に墓銘が削られたのである。過去帳には除歴のことが記入されているという。 →下総大野法蓮寺は下総の諸寺中 →雑司ヶ谷法明寺 寛文法難−後六聖人: 池上日樹を失ってからのちの不受不施論者を指導していたのは玉造檀林日浣、野呂檀林日講、江戸自證寺日庭などであった。 江戸青山自證寺日庭の場合は少し事情が違っていた。 自證寺は家光の側室(おふり、自證院)の菩提寺で、その娘の千代姫の帰依が篤かった。 →江戸青山自證寺日庭 寺社奉行加賀爪も幾分遠慮したのであろうか、日庭に対しては出寺を勧告する策に出る。 追放された(出寺した)日庭は寺を持たぬ出寺僧として信徒の指導に専念する。この組織が非合法の「自證庵」につながってゆくこととなる。 追放後22年後、貞享4年(1687)日庭は佐渡流罪となる。 ※日庭が佐渡流罪となった経緯は情報がなく、不明。 →民家に構えていた仏壇が発見されたためだという記録があり、 奉行所へ呼び出されてからも不受不施の所論を述べ立てて流罪となるという。 注目すべきは後六聖人の内、日庭だけが追放・お預けではなく、流罪となったということである。 「預け」であれば、預けられた側も重要人物の扱いをし、それなりの配慮をするが、 流罪であれば、一般の刑法犯の扱いとなったということである。 ※日庭は佐渡相川で本敬寺に謫居したという。 檀林は学問師であるから寺院ではなく寺領を受けてはいなかった、その為、日浣・日講の処分は遅れていた。 だが幕府は寺領地子だけでなく、土水・行路の国主の供養として、土水・行路の受取手形を書けと強弁して迫る事態となる。 日講は土水・行路の受取手形の代わりに諌暁状「守正護国章」を提出する。 寛文6年(1666)5月、日講と日浣に追放の宣告が下される。 日講は日向佐土原へ、日浣は肥後人吉へ預けられる。 →野呂檀林・玉造檀林は関東檀林中 寛文5年の「寺領地子は国主の仏事供養」との手形発行を拒否して追放されて僧は7人になるが、 大野法蓮寺日完は次の事情により「聖人」の列から外され、日述・日浣・日講・日堯・日了・日庭が寛文法難殉教の「後六聖人」と尊称される。 法蓮寺日完は平賀本土寺の末寺であったため、日述と行動を共にしたところが多かったのであろうか。日述と同一に処せられ、追放は思いも及ばぬことだったかもしれない。何が目的であったのかは不明であるが、伊予吉田に追放されて7年後、日完は日述の居室に忍び込んで盗みを働きこれが発覚して死罪となったということである。 →M寛文の法難と矢田部六人衆 より 以下を抜粋 1、生知院日述(平賀本土寺二十一世)は伊予吉田伊達宮内少輔へお預け 2、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)は讃岐丸亀京極百助へお預け 3、智照院日了(雑司が谷法明寺十五世)は讃岐丸亀京極百助へお預け 4、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉相良遠江守へお預け 5、長遠院日庭(江戸青山自證寺三世)は佐渡に流刑さる。 6、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向砂土原島津飛騨守へお預け。 2019/08/19追加: 〇「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」 より 日浣・日述・日講肖像画:備前恵教庵蔵 ※おそらく大坂衆妙庵からもたらされた什宝の一つであろう。 悲田派の出現と寛文の惣滅: 寛文5年から6年に起こった大波乱は不受不施派の「寛文の惣滅」とよぶ。 この法難は「後六聖人」と1人(大野法蓮寺日完)の追放だけではなく、京都妙満寺日英などの8人の流刑者があり、さらに加えて自害・処刑・追放の犠牲は約60人にのぼる。 ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959 より 寛文5年10月19日京都妙満寺日英并上行寺日應は日向小井に追放。 寛文5年10月22日鷲津鷲山寺隠居・当住は出羽新城に追放。 本源寺、梅嶺寺等破却。 日窓は天台宗に改宗を申し付けらる。 寛文5年12月10日平賀本土寺・大野法蓮寺・興津妙覚寺を身延へ下さる。 ---------- だが、これらの犠牲が「惣滅」だった訳ではない。これ以降、不受不施派の僧及び信者は公然と生きられなくなったというところにある。 勿論、このようなことに追いつめたのは幕府であり、そのように幕府に訴え続けた身延がいわば黒幕であるが、幕府にそのような策を採らせた大きな要因は寺領朱印受領の手形受領の問題をめぐって不受不施論者の中に生まれた「悲田派・悲田不受不施派」にある。 「悲田派」とは寺領が国主の仏事供養ということで寄進されるなら、それは宗義に背くことになるが、宗義に背かずに寺領を受け取ることを探った一派である。 寛文5年7月受領手形のことが伝えられ、ただちに江戸では会合が持たれ、日講・日述が主導して、そこでは手形提出拒否が決められる。 ところが勝劣派の約30ヶ寺が早々と手形を提出したことが伝わると、これに心を惹かれたものが出てくる。 碑文谷法華寺の日禅である。 その後、7月8月と何事もなく、日講らは野呂等に引き上げる。 この間、幕府の中にも不受不施に理解を示す者もいて、そういう情報も日講らに漏れ、難局を乗り越えられるという見込みもあったのかも知れない。 理解者とは井上河内守正利・老中酒井雅樂頭忠清・広島藩主浅野氏夫人(自昌院)・千代姫などであった。 →広島藩主浅野氏夫人(自昌院)は安芸國前寺中 ※千代姫:寛永14年/1637 - 元禄14年/1699、法号は霊仙院、3代将軍徳川家光長女、尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自證院。 そして、この間、碑文谷日禅・小湊日明・谷中感應寺日純が工作を始める。 不受不施を堅守しながら、寺領を確保する方法を編み出したのである。寺領は仏事行為として受けるのではなく、といって世間の恩賞としてでもなく、慈悲として下される「悲田」の名目で受ければよいのではという考えである。 日禅・日純らは表向きは手形拒否の態度であったから、その頃信徒たちは師の流罪を予感し、寺へ押しかけ、師の本尊を求め、日禅・日純らはそれに忙殺されたという。 しかし、どうも別の方法で幕府と交渉していることが信者たちに知れ、彼らは不忍池の路端に落首を書いた高札を立てて批判し、あるいは形見に書いてもらった本尊を引き裂いて感應寺や法華寺の本堂に投げ返してやるという行動に出たのである。彼らはおそらく新興の江戸町人が多かったと思われる。下総香取郡の信徒たちとは違う階層であった。彼らには自分の帰依する寺院が幕府の強制に簡単に屈服したことが許せなかったのであろう。江戸期の寺院はただの葬式仏教に成り下がり堕落したのは事実であろうが、しかし、堕落してゆく寺院や僧侶を容認せずこれを批判した精神は存在したという事であろう。 →碑文谷法華寺 →小湊誕生寺 →谷中感応寺 結局、不受不施派は最終局面で手形提出拒否と手形提出派「悲田派」とに分裂する。 寛文5年11月安房小湊鏡忍寺、越後村田妙法寺、江戸谷中感應寺(日純)、相模依智妙純寺、碑文谷法華寺(日禅)、小湊誕生寺(日明)の6ヶ寺は朱印受領手形を提出する。 「此度御朱印頂戴仕りし段、ありがたき御慈悲に御座候。地子寺領、悉く御供養と存じ奉り候」との文言であった。 こうして「悲田派」は公儀に公認されたが、厳しく非難される。 安住院日念(日講弟子)の「梅花鶯囀記」には次の2首の落首が紹介される。 「不受不施の理を曲げ物にすることも みなひもんや(屋)の細工なりけり」 「日明がおくびょう者の書き物は、手形がたがた足もがたがた」 かくして、江戸の悲田派の寺院の評判は地に落ち、手形を拒否した自證寺などはかえって参詣が増すという。 日禅らは窮地にたち、遂に幕府に日講らを訴えた。日講・日述らは「土水・行路の全てもことごとく国主供養として受領せよ」という強制に直面したのである。 これについては上述「寛文法然−後六聖人」の項で述べたとおりである。 悲田派日明らは不受不施派寺院を悲田派寺院として取り込むことに奔走する。一方身延は悲田派の3本寺以外の寺全てを受派寺院の末寺にするよう訴訟を起こす。つまり、不受不施派の寺院の大部分が消えていくこととなる。つまり惣滅である。 寛文9年「不受不施寺請禁止」令が公布される。不受不施思想及び切支丹信仰を持っていないことが証明されない限り、僧侶でも市民でもあり得なくなったということである。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 《寛文法難》 大坂城対論で日奧を失い、身池対論の主軸であった日樹が没し、不受派の陣営がようやく荒涼たる時、第三の征矢が不受派に放たれる。 それはある意味、教団の致命傷であった。 寛文3年(1663)幕府は「自賛毀他禁止」(自宗を讃美し他宗を謗ることの禁止)を日蓮宗に対して布達する。 「・・・・自賛毀他はもはや法衰えの因、争論の縁を為す、堅く制止すべく事と御書出しの通り、此度日蓮宗へ、同前仰せ出さるの間、向後相守るべくその趣、もし違背の輩は罪科行われべく旨に候・・・・」 次いで、 寛文5年(1665)3月幕府は不受不施派寺院から(幕府の人民統治方法である)寺請の機能を剥奪した。 「公儀へ書物いたさざる、不受不施の日蓮宗寺請けに取るべからず・・・・」 つまり、不受不施派寺院の存在を否定する、その信徒と僧侶との関係を断ち切る、不受不施の信仰を棄てなければ人民として認めないという法令であった。 不受不施派にとっては公的な社会から抹殺されるという意味で、致命的な布達であった。 同年11月幕府は不受不施派の本寺を公儀に召しだし、強制的に寺領は御供養として有難く頂戴いたしますとの手形を書くべしと告げ、「飲水行路」もまた「国王の供養」との解釈を幕府自ら下す。 「此度御朱印頂戴仕候儀御供養と奉存候、不受不施の意得(こころえ)とは各別にて御座候」 これらの措置の裏面には受不施派(身延)の不受不施停止請願の裏工作があったことはいうまでもない。 手形提出を拒否した京都妙満寺日英は寛文6年10月に日向飫肥に、 雑司ヶ谷法明寺日了及び奥津妙覚寺日堯は讃岐丸亀へ、平賀本土寺日述及び大野法蓮寺日完は伊予吉田へ(いずれも寛文6年12月)それぞれ配流される。 また自證寺日庭は出寺し、地下に潜り、遅れて貞享4年(1687)佐渡に配流となる。 野呂檀林日講は「守正護国章」を提出するも、日向佐土原に寛文6年5月配流となる。同時に玉造檀林日浣は肥後人吉に配流される。 《悲田不受不施派の成立》 ところが、小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禪・谷中感應寺日純の3者は「此度違背せしば、日本国中不受断絶」となりかねず「法灯相続の巧略はあるべからずや」と評議して、手形の「不受不施各別」の文言を除き「慈悲」の2文字を加えんことを訴訟して、許され、12月に「此度御朱印頂戴仕候儀、難有御慈悲に御座候、地子寺領悉く御供養と奉り存じ候」と手形して朱印を受ける。 越後村田妙法寺、安房小湊鏡忍寺、相模依智妙純寺も同一行動をとり、手形を受ける。 即ち、彼ら6ヶ寺は慈悲の文字を加えることによって、本来の敬田供養の意義を変じて、悲田供養に解釈して、これを受けようとしたものである。 本来の不受不施からは「新受」と指弾され、受派からは不受不施新義として攻撃され、信徒からは裏切りとされ、散々な評価であったが、教団をなんとか破滅から救おうと彼らなりの苦心があったことは確かである。 ここに悲田不受不施派が成立する。 《悲田派の禁制》 悲田派はその後、再び身延の上訴によって、名を悲田に仮りる不受不施派の偽装として、処分される。 元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、大部は身延の末寺となり、受不施に転ずる。 谷中感應寺は天王寺、碑文谷法華寺は圓融寺と改号の上、天台宗に改宗が命ぜられ、さらに改宗せざる者は大量に伊豆諸島に流される結果となる。 こうして、悲田派は滅び去る。 「日蓮宗の内不受不施の儀はかねてより御禁制に候處、小湊誕生寺・碑文谷法華寺・谷中感應寺、悲田宗と号し、不受不施の邪義を相立て候に付、今後悲田宗堅く停止の旨仰せつけ、この宗旨相改め候、向後悲田宗の輩受不受になるとも又は他宗に成るとも心次第改め申す候以上、右の通り諸大名・諸番頭・諸物頭・諸役人そのほか支配之ある面々迄この旨相守り由、大目付御目付より告知するもの也」 この当時の「宗門檀那請合之掟」には、不受不施も悲田宗も切支丹も三宗とも一派であるといい、これを邪宗として禁圧しようとする時代の意識が窺える。 三鳥派: この後、更に三鳥派なる衆団が登場して、「三鳥派不受不施御仕置の事」が定められ、犯すものは遠島の旨が載せられている。 幕府はこれを不受不施派の異流として認識するも、事実は単に山鳥派と自称する日蓮宗系の新興教団であったようで、またそれほど有力ではなかったらしい。にも拘わらず、三鳥派は幕府や世人によって「不受不施」または「切支丹」的に扱われ、処刑されたらしい。 三鳥派は三鳥院日秀が富士大石寺離門後に唱えたもの。三超派とも三長派とも書くので、三島派は誤りであろう。 →冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 :三鳥派は富士門流から派生したもので、不受不施とは無関係である。 ---「不受不施派殉教の歴史」 終 --- 2019/09/03追加: ○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) ◎日蓮宗不受布施派への弾圧 《豊臣秀吉千僧供養》 文禄4年(1595)9月豊臣秀吉の京都東山方広寺における豊臣一門九族の菩提の千僧供養に法華宗は百名の出仕を招請される。 京都諸山は、古来より堅守してきた不受不施義の原理主義と、国主の布施は格別で受くべきとする受不施義の現実主義が協議される。 長老の一如院日重(のち身延20世)の言により、本法寺日通、立本寺日抽、頂妙寺日暁など供養出仕に傾く。 妙顕寺日紹、本国寺日禎、本国寺求法檀林日乾は日奥の不受不施義による不出仕に讃意するが、日紹・日乾は日重の説諭に出仕を表明する。 大勢が出仕に傾き、日奥・日禎は本山を出寺し、秀吉に「法華宗諫状」を献じ、「法華宗奏上」を宗祖の「立正安国論」「災難興起由来記」を添えて後陽成天皇に進上する。 日奥:仏性院日奥(安国院、永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)は京都妙覚寺19世に28歳で晋山した英才であった。 《大坂城の対論》 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉歿後も千僧供養は継続され、京都の僧俗は日奥・日禎の不受不施義を誉め、不出仕を支持する。 そこで日重・日乾等の摂受派は千僧供養の不出仕は公儀に背くものと徳川家康に訴える。 家康は大阪城内にて日乾・日紹らと日奥・日禎を出仕の当否につき対論を命ずる。 家康は一定の譲歩を示すも、日奥は所信を貫き家康の激怒を買い、慶長5年(1600)6月対島に配流される。 《慶長法難》 慶長13年(1608)常楽院日経らと浄土宗との宗論「慶長宗論」が仕組まれ、日経らは負けと判定され、日経ら「刵劓刑」に処せられ、追放される。 弟子一人はその場で落命する。 《日奧と京都諸山との和解》 慶長17年(1612)5月日奧は在島13年間の後、赦免され京都妙覚寺に帰山する。 元和2年(1616)5月19日、京都諸山を代表して妙顕寺日紹が日奥へ改悔し和融の義が成立する。 家康は日奥の宗制堅持を称え、不受不施公許を認める内心でいたが、同年4月17日、75歳で死去する。 家康の内意を得ていた所司代・板倉伊賀守勝重は元和9年(1622)10月13日、不受不施公許の折紙を出し、法華宗は再び不受不施の伝統的宗制が復活する。 《身池対論》 元和5年(1619)6月長遠院日樹が37歳にして池上本門寺16世に晋山する。 この頃、中山、平賀、小湊、碑文谷、中村檀林、小西檀林の関東諸山は不受不施、強義折伏を主張し、日奥・日樹に同調していた。 一方では、身延は関東進出を企図し、身延の風下に立った受不施義の関西学派を拒む関東諸山は、国主の施の受・不受をめぐって再び対立する。 寛永3年(1626)10月、将軍徳川秀忠の室・崇源院の追善法会が増上寺で行われ、諸宗に諷経(ふぎん)が命ぜられる。 池上日樹・中山日賢等は諷経して供養を受けず帰寺した。 この頃より再び「王侯除外」が問題となり、寺領・寺子(地子)は国主の供養の布施であるとする身延・関西諸山と、国主の仁恩による布施であるとする池上・中山等の関東諸山が対立が激化する。 対立の激化を受け、身延久遠寺日暹(隆恕)を代表とする受不施派と池上本門寺日樹を代表する不受不施派の対論が、寛永7年(1630)2月21日江戸城内酒井雅楽頭忠世の邸で行われる。 これが「身池対論」である。 これは一致団結の強い法華教団を、対立二分させる徳川幕府の宗教政策に嵌った可能性がある。身池対論の審判役・天海僧正の智恵かも知れない。 ともあり、4月1日に対論の採決が下るが、政治的判断により関東諸山は敗者となり、池上日樹、中山日賢、平賀日弘、小西檀林日領、碑文谷日進は各所に配流となり、加えてこの時既に遷化していた日奥は、再び対馬へ配流となる。 これに義憤した小湊日税は自刃する。 日樹は池上歴世から除籍、幕命により心性院日遠が身延から池上に4月22日晋山し、不受不施の牙城である日奥の妙覚寺は、身延先住の日乾が入る。養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる。 ※日遠池上入山の絵があるので転載する。 身延日遠池上本門寺に入山:「絵で知る 日樹聖人伝記」 より 日樹の法弟・一如院日僧、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を堅守する。 《養珠院と壽福院》 この対立を大檀越の観点でみると、養珠院は身延山日遠に帰依し、日暹の後盾であり、寿福院は不受不施義の池上日樹に帰依していたのである。 養珠院:お万の方・満・徳川家康室・紀州頼宣、水戸頼房生母) → 紀伊養珠寺、墓所は甲斐本遠寺 壽福院:ちよ・前田利家室・前田利常生母 → 滝谷妙成寺、池上本門寺壽福院逆修十一重層塔 つまり、徳川宗家の側室と外様大名の加賀百万石側室との対立の側面もあったのである。 《自昌院(満姫)と自證院(振局)》 加賀前田家と徳川家とに法華信仰する同音の法号を有する二人の姫がいる。 寿福院ちよの孫娘自昌院(満姫)と祖心尼なあの孫娘・自證院(振局・徳川家光の室)である。 二人の「ジショウ院」たる満姫と振局は従姉妹(いとこ)同士であり、壽福院の不受不施の法華信仰を見て育つ。 《自昌院満姫》 身池対論の採決に抗議し、池上本門寺などの不受不施僧が自害する。 あるいは出寺し、地下で不受不施を堅守するなどの深刻な事態となるが、この出寺した不受不施僧を江戸において匿まい支援したのが、自昌院である。 自昌院の父は加賀三代藩主・前田利常、母は二代将軍徳川秀忠の二女・天徳院(珠姫)である。自昌院の法華信仰は、祖母寿福院の不受不施義の法華信仰を相続したのである。 自昌院:自昌院英心日妙大姉、満姫、壽福院ちよの孫娘、元和5年(1619) - 元禄13年(1700) 自昌院は大乗院日達、安国院日講に帰依し、特に日講が日向佐土原に配流の砌は、兄弟の契をした間柄と伝わる。 さらに、自昌院は浅野本家の広島二代藩主・浅野光晟に嫁し、安芸国前寺を菩提寺として諸堂を再興する。 しかし元禄4年(1691)徳川幕府は悲田不受不施を禁止し、これを国前寺覚雲院日憲が拒否したため、翌年には菩提所と寺領を召上られ身延の支配下となる。 《不受不施の法義》 不受不施の法義は、守護国家論や立正安国論で説かれる他宗謗法者からの供養は「受けない」、「施さない」というこのである。 法華信仰を守るための理念である。留施・止施・不施は法華教団の発展に伴い解釈が拡大されてきた。 宗祖滅後、日像による京都妙顕寺、妙龍院日静による本国寺の勅願寺、祈願所になるのは後醍醐帝や将軍足利尊氏の公武の布施に よるものであるが、初期教団は朝廷・幕府による布施は除外と考えていた様である。「王侯除外の不受不施」である。 《不受と受派との抗争》 身池対論の28年前、対島より赦免された日奥は不受不施義を貫き身延山と対立、身延謗法・身延参詣堕獄を主張し、身延の後立 だてとなる養珠院を諫言する。寿福院は身延・池上の和解に奔走するも不成功に終る。 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。 すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院)を建て千駄谷に移す。開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。 →原宿 妙円寺 →千駄谷 仙寿院 宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。 寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。 →下総中村檀林 →下総玉造檀林 ※なお、不受派の檀林として、下総野呂檀林、下総常葉檀林、上総山田檀林が知られる。 四条妙顕寺が大覚妙実より3世朗源、4世日霽の時代になると、折伏精神を忘れ摂受主義に陥る。この摂受主義を強く非難しが龍華院日実(13180-78)や明珠院日成(-1415)らであり、日實らは妙顕寺を出て妙覚寺を創立する。 時代が近世の中央集権の政治体制になると、信仰の純粋性を保持する「不受義」と、教団の維持を図る「受義」の立場が現れ、相争ったのが「身池対論」である。布施を福田に譬えて解釈されることになる。恩田、敬田、悲田の三田思想である。 1)恩田……父母・師匠など受けた恩に報いる布施、供え物すれば福を増す。 2)敬田……仏法僧の三宝に供養、布施すると福を増す。 3)悲田……貧苦者に対し慈悲の心を以て供養、布施すると福が生ず。 《寛文の惣滅》 「身池対論」から30年のち、寛文元年(1661)8月27日、幕府は「本寺帰属令」を出し、寺院の帰属系統を明示すれば、その門流は公認していた。この頃は不受不施派も公許されていたのである。 同5年には寺社領の朱印調査がなされ、遅れていた日蓮宗の対する「諸宗寺院法度」が定められる。寺社の朱印地は徳川家より寺社に供養として下賜されるから請書(手形)を出すよう命ぜられる。 平賀本土寺日述、上総妙覚寺日堯、雑司谷法明寺日了、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らは宗義に反し御朱印を受け取ることが出来ないと手形提出を拒み流罪となる。 小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺、小松原鏡忍寺、村田妙法寺、真間弘法寺、中山法華経寺らは、御朱印は悲田(慈悲で戴いた寺領)として受取ると請書(手形)を出して朱印を受けた。日明・日禅らは悲田不受不施派と呼ばれる。悲田派の清立である。 禁制された日述、日浣、日講らは恩田不受不施派と呼ばれ、僧も信徒も「寺請」を停止され戸籍を失い、寺を出奔し地下に潜んだ。 不受不施派への弾圧により逃げ切れない僧俗、悲観した人々は自刃、入水、断食、流浪する者数知れず、捕った信徒は処刑される状況である。 手形提出を拒否した妙満寺日英、上行寺日応は日向に、鷲山寺日受は出羽に、野呂檀林の安国院日講は日向佐土原、玉造檀林日浣は肥後人吉に配流された。これが「寛文の惣滅」である。 ---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終--- 2018/12/23追加: 【日蓮宗不受不施派】 ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 身池対論と末寺の抵抗: 慶長17年(1612)日奥赦免、日奥対馬より帰還、不受不施派は勢力を盛り返し、受不施派の批判を繰り返し、信徒の身延山参詣を止める。 孤立した受派身延(日乾・日重・日暹ら)は池上日樹らの対論を再三願い出る。 その結果、寛永7年(1630)江戸城でいわゆる身池対論が行われる。しかし事前の受派による政治工作で勝敗は決まっていたのである。当然不受側は敗北し、日樹らは配流あるいは追放となる。 なお、この時の罪名は「上意違背」であって「不受不施禁制」ではなかった。つまり、寛文期まで不受不施派寺院は存続したのである。 幕府は身池対論の結末を京都妙覚寺と池上本門寺を身延に与える処置で決着を図る。 しかし、この結果に末寺や信徒はどのように対応したのか。 寛永10年の「寛永年度日蓮宗末寺帳」では、妙覚寺末寺100ヶ寺の内、93ヶ寺が本寺に「違背」「于今不参(いまにまいらず)」と記されていて、末寺の本寺離反をはっきりと示している。妙覚寺末寺の多い備前・美作・備中の末寺全てが「違背」であり(33ヶ寺)、しかもこれらは直末であり、さらにその下の孫末も全て本寺から離反している。以上のような状況であった。 一方、諸宗に対する幕府の宗教政策はといえば、寛永期から幕府は諸宗の本寺に末寺の書上げを命じ、寺社奉行-本寺-末寺の支配の枠組みを作る政策を採り、寛文期までにはその意図はほぼ完成する。しかし最後まで残ったのが日蓮宗であった。 寛文元年(1661)最後まで支配体制ができなかった日蓮宗に対し、本寺違背の末寺に本寺に従うよう、さらに従わざる末寺の僧侶は寺を出るべしと命ずる。 この指令は岡山藩にも翌年に届き、この時岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺「城下蓮昌寺、金川妙國寺、中山道林寺、津島妙善寺、邑久郡福岡實教寺、野々口實成寺、紙工大乗寺、赤坂郡矢原石井寺、和気郡片上法鏡寺、二日市妙勝寺、邑久郡福岡本興寺、北方神宮寺、東河原大林寺、下中野南光寺」は本寺に従うよう命じられる。(池田家文書「留帳」) ※岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺の概要 城下蓮昌寺:城下蓮昌寺 金川妙國寺:金川妙國寺、備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 中の原番167〜177にあり 中山道林寺:中山道林寺 津島妙善寺:津島妙善寺、同上 中の原番58にあり 邑久郡福岡實教寺: 野々口實成寺:同上 中の原番136〜141にあり(實城寺) 紙工大乗寺: 赤坂郡矢原石井寺: 和気郡片上法鏡寺: 二日市妙勝寺:二日市妙勝寺 邑久郡福岡本興寺: 北方神宮寺:同上 中の原番62〜65にあり 東河原大林寺: 下中野南光寺:同上 中の原番29から30にあり こうした状況に、金川妙國寺はいち早く、いち早く反撃の手を打つ。 寛文元年(1661)閏8月の「本末諸寺異体同心掟状之事」<備前金川妙國寺→「妙国寺本末寺諸寺誓状」中>である。 これは妙國寺とその末寺100ヶ寺が連判し、どのような事態が発生しようとも不受不施を堅守する「誓い」を表明したものである。 寛文2年の岡山藩の違背寺院に対する本寺帰順せよとの命が下されるも、「寛文年中亡所仕古寺書上帳」によれば、違背14ヶ寺の内僅かに野々口實成寺だけが立ち退き無住となったのみである。金川妙國寺は住職のみ「寛文年中より以前に無住」と記され、やむなく出寺したものと思われるも、寺中10ヶ寺は寛文6年まで不受不施寺院として存続する。 その他12ヶ寺も妙國寺々中と同じく、不受不施を堅持し、本寺違背のままであった。 しかし、寛文6年(1666)岡山藩主池田光政の弾圧で、表から不受不施寺院は全て姿を消すこととなる。(廃寺とされる。) 【岡山藩の不受不施弾圧】 寛文4年(1664)から寛文5年にかけて、幕府は諸大名と寺社に朱印状を公布する。 この時受不施派(身延山)の策謀によって、寺領安堵の朱印状は将軍からの供養(敬田供養)であるとして手形を出すこととなる。 不受不施派では、寺領安堵の世間通用の仁恩の施(恩田供養)であって、信仰上の問題とは別のものであると主張するも、幕府はこれを許さず。従って、不受不施派寺院は手形提出を拒否することになる。(注:非田不受不施派) 手形提出を拒否した不受不施派寺院は全て本寺を失うこととなり、僧侶は出寺する。この時、不受不施派の主要指導者は次のように幕府から処分される。 即ち、平賀本土寺日述は伊予吉田へ、上総興津妙覚寺日堯及び雑司が谷法明寺日了は讃岐丸亀へ、下総玉造談林日浣は肥後人吉へ、下総野呂妙興寺日講は日向佐土原へそれぞれ「お預け」の身となる。また、江戸青山自證寺日は佐渡へ流刑となる。 あわせて、寛文4年切支丹宗旨人別改が制度化され、全ての人々はいずれかの寺院の檀徒となることが義務付けられる。勿論、寺を持たない不受不施派僧侶の寺請は出来ない訳である。 注:悲田不受不施派 しかし、不受不施派の内、朱印状の特権を喪失することを怖れた一派は将軍からの寺領安堵は慈悲の施(悲田供養)と解釈して 手形を提出したものがあった。これらは悲田不受不施派あるいは悲田宗と呼ばれ、正系からは「新受」と非難され、 受派からは不受不施と攻撃される。元禄4年(1691)悲田宗は異端として禁止され、以降消滅する。 寛文5年、諸宗寺院法度が出され、本寺の末寺支配が強化され、さらに在家での布教活動が禁止され、不受不施派の合法的手段での布教活動は一切できなくなる。 備前岡山藩では、寛文6年6月頃より池田光政が廃仏向儒策を展開し、領民は心学(儒教)を強要される。光政は宗門改の寺請に代り神道請を実施したのである。 かくして、廃仏向儒策の遂行により、寛文7年現在で、幕府に報告された「実績」では領内寺院数1,044ヶ寺の内563ヶ寺が廃寺となり、その内不受不施宗門故に廃寺とされて寺院は313ヶ寺と報告される。 光政にとって、諸宗寺院法度の制定と不受不施派への手形提出の強制の幕府政策は佛教弾圧の好機であった。 寛文6年8月、光政はまず、寺院法度に違反している寺院を取り潰す。咎は寺社奉行・郡奉行の許可なく無住の寺へ坊主を入れ、また弟子をとったということであった。瀬戸妙長寺住持教光坊、宗堂妙泉寺、大苅田妙泉寺、神田村知円ら4名を追放し、瀬戸村庄屋と頭百姓を籠舎する。妙長寺は廃寺、両妙泉寺及び神田村の寺は釘付けに処する。 次いで、光政は不受不施派寺院の手形拒否を捉え、事前に幕府の寺社奉行に不受不施僧についての取り扱いについて内意を窺い、手形拒否僧侶の追放はしてよいとの内諾を得て、不受不施弾圧を開始する。 寛文6年12月に津島妙善寺日精、城下蓮昌寺先住日相、赤坂郡矢原石井寺、福岡妙興寺ら4名が追放処分を申し渡される。 翌寛文7年春までに追放された不受不施僧は585人の多きにのぼる。 【不受不施派の分裂】 不受不施派禁制の後、不受不施派は非合法となり、地下に潜行する。 やがて、不受不施派内部で内信者の評価・取り扱いをめぐって論争・分裂が発生する。 儀辨院日堯・智照院日了を指導者とする導師派(堯了派・日指派)と安國院日講を派祖とする不導師派(講門派・津寺派)である。 ※参照:本ページ中:不受不施派の分裂と動向 【不受不施派の再興】 明治9年釈日正によって不受不施派公許が実現し、不受不施派が再興される。 明治13年本華院日心によって不受不施講門派が公許・再興される。 ※参照:本ページ中:不受不施派の再興 ○日蓮上人の正系 日蓮大菩薩 日像菩薩:日像菩薩略伝 大覚大僧正:大覚大僧正略伝並びに開基寺院 久遠成院日親上人:日親上人 佛性院日奧上人:日奥上人略伝 長遠院日樹上人:日樹上人略伝 ★備前に於ける寛文6年の惣滅 2018/09/30追加: ○「神仏分離」圭室文雄、教育社、昭和52年 より ・岡山藩における寺院整理 寛文6年(1666)岡山藩は寺院整理(日蓮宗では不受不施派の根絶)政策を断行する。この年池田光政は領内の半数を超える寺院を一挙に破却する。 その実態を延宝3年(1675)「備前備中御領寺院帳」(岡山大学池田家文庫所蔵)で纏めると次の通りである。
まず、岡山藩の宗教状況はと云えば、それは真言及び天台の密教と日蓮宗の王国であったと読み取れる。そして、その中の日蓮宗はかっては松田氏の支配地であった西備前(御野郡・津高郡・赤坂郡・磐梨郡など)では他を圧倒する力を持っていたのである。それを端的に示すのが、次に掲げる「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」であるが、言い換えれば、日蓮宗は西備前に偏在していたともいえる。
上記の合計297ヶ寺は寛文年中の廃寺数313ヶ寺あるいは348ヶ寺とは合わないが、この理由については言及がない。 なお、本表と同じ表を「報恩大師建立備前48ヶ寺」中の「 3.吉乗山石井寺【廃寺】」の「寛文6年石井寺の廃寺」の項に 掲載しているので、参照のこと。(但し、「蓮昌寺」からの転載) 備前における日蓮宗の勢力は、寛永10年(1633)京都妙覚寺が幕府に提出した妙覚寺日亮の「上京妙覚寺諸末寺覚」(国立公文書館)で、その一端が知れる。 「備前国は蓮昌寺、妙善寺、妙国寺、道林寺、實成寺、大乗寺、南光寺、妙勝寺、大林寺、神宮寺、大久寺、實教寺、本興寺、法鏡寺、石井寺、武部の1ヶ寺、すさいに1ヶ寺、ますはらに1ヶ寺、国の原に1ヶ寺、野田に1ヶ寺、さいきに1ヶ寺・・・・備中国は巨福寺、本光寺、城国院、庭瀬に1ヶ寺、寺号失念申し候」と合計25ヶ寺が書上げられる。 ※城下蓮昌寺、津島妙善寺、金川妙国寺、中山道林寺、野々口實成寺(實城寺)、紙工大乗寺、 ※御野郡下中野南光寺、二日市妙勝寺、東河原大林寺、北方神宮寺、大久寺、實教寺、福岡本興寺、片上法鏡寺、矢原石井寺 ※武部の1ヶ寺:建部の龍淵寺であろう。(「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」) ※すさいに1ヶ寺:おそらく蓮現寺であろうが、確証はない。 ※ますはらに1ヶ寺:和気益原大樹山法泉寺であろう。 ※国の原に1ヶ寺:國ヶ原眞浄寺と思われる。京都妙覚寺18世日典が「國ヶ原眞乗寺弟子中納言日利」に曼荼羅を授ける。 寛文元年には19世日奧が眞乗寺・中山道林寺・野々口實成寺などに妙覚寺修理の奉加を呼びかける。また同年、眞浄寺々中本正坊は 「本末諸寺異体同心掟状」に連署をしており、寛文6年には本正坊住職は立退き(出寺)する。 ※さいきに1ヶ寺:佐伯大王山本久寺と思われるも、確証はない。 補足:美作に妙覚寺末寺8ヶ寺あり。その内に「福渡 妙福寺」「同 壱ヶ寺」とあるという。「同 壱ヶ寺」とは川口村妙泉寺と思われる。 しかし両寺とも「違背」(不受不施の意)と記される。 2018/09/30追加: 次に掲載する「寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」は備前(岡山藩領であった備中の一部を含む)における日蓮宗のしかも最盛期と思われる寺院のほぼ全容を示したものと思われる。(「岡山県通史 下巻」永山卯三郎、昭和5年 所収) 2019/10/26追加: ●不受不施派弾圧による備前尾上村の動向
日蓮宗津島妙善寺末松田山明光寺(尾上妙光寺)、辛川市場元妙寺、白石圓住坊は寛文6年廃寺となる。 但し、一宮教壽院とは不明。備中花尻本立坊・備中花尻蓮正坊も不明、しかし花尻は資料中には備中とするが、そもそも花尻は備前であり、備中ではない。しかし、何れにせよ本立坊・蓮正坊とは不明である。 寛文12年には廃寺の影響で、村人全員が神職請(尾上八幡宮中山庄兵衛)となる。 それから8年後の延宝8年(1680)には寛文5年とほぼ同数の檀家が日蓮宗に復帰する。しかし、その旦那寺は備中の東花尻妙傳寺となる。 ※東花尻妙傳寺は庭瀬不変院末、備中に所在し、当時は幕府領後庭瀬藩領であり、弾圧を察知し、備前尾上から備中へ退避したともいわれ、現在でも檀家の殆どは尾上であるという。 →東花尻妙傳寺は備中東花尻中にあり。 尾上村の不受不施派の村民は寛文6年廃寺され神職請を強制されるも、神職請が延宝2年に緩和されると、すぐに隣接する他領の妙傳寺の旦那になったのである。これは岡山藩の支配の及ばないところで信仰を続けようとする村人の抵抗であったと云える。 それは文化8年(1811)妙傳寺の旦那であった尾上村111軒・一宮村21軒・辛川市場村4軒合計135軒の離旦争論からも推測できる。3村の旦那たちは妙傳寺が本山との出入により「旦家法用指支」(これは「檀家法要差支え」という意味か)になったので津高郡内の寺へ預旦那を願い出た。そして妙傳寺の出入が落着する文化14年までの6年間、離旦し続けたのである。そこには自分たちの信仰のために寺を随時変えていく村人たちの姿があった。廃寺されると他領に寺を変え、法要などができないとなると、また寺を変えて信仰を続けた。 その信仰を支えたのは何か。それは現在尾上村に存在する宗旨別の「講中」であろう。日蓮宗には集落を中心とした講が中石・畑・向山・久保谷・北浦講中の5つが存在する。その講中は次の3つの堂に分かれ活動している。 1)久保谷の堂(久保谷辻堂) 久保谷講中:日朝・大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈が祀られ、すべて別々のお祭りを行う。 2)畑の堂(畑日蓮堂) 畑・中石・向山講中:大覺・題目石(日蓮)・笠塔婆・地神・常夜燈を祀り、全て一緒にお祭りを行う。 3)北浦の堂(北浦日蓮堂) 北浦講中:大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈を祀り、大覺と題目は一緒に、地神は別のお祭り。 →久保谷辻堂、畑日蓮堂、北浦日蓮堂は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。 これらの堂には題目石(日蓮)、大覺大僧正・地神はセットで祀られ、それらの年紀は江戸後期のものであり、近世から講は続いているものと思われる。また備中東花尻には天正19年(1591)銘の題目石が存在し、そこには「花尻村東西真俗一給仕」とあることから、講中は近世初頭から存在していることが伺える。現在も尾上の講中の人々が堂に集まり「日朝様」「大覺様」などと年に7〜1回のお祭りをしている。 →上記の東花尻の題目石は「備中東花尻おそっさま(御祖師様)題目碑」<備中東花尻中中のあり>を参照。 以上から近世にも同様に日蓮宗の信者は普段は堂を中心とした講中で祭を行い、葬式や法要を寺に依頼するという形で、廃寺政策を行う岡山藩や法事差支えの寺から自立して、自分たちの信仰を守り続けたといえる。 ※もちろん、これらの信仰は受不施に転向した日蓮宗信者の信仰で、不受不施を堅固した信者ではない。その意味で、より緩やかな抵抗であったと云える。しかし、緩やかな抵抗といえども、強靭な抵抗であり、そのしたたかさには瞠目するものがある。不受不施を堅固した信者は内信などとして別の苛酷な道を歩むこととなる。 3.祠の復活 次に寄宮された祠はその後どうなったのか。まず寄宮はどうなったのか。 寛文6年祠は72社に寄宮された。しかし、人為的な寄宮は村人とのつながりがなく、次第に荒廃していく。 藩は寄宮の修繕費用の捻出などの方策を打ち出すも、所詮氏子のいない寄宮の荒廃を止めることは出来ず、ついに正徳3年(1713)諸郡の寄宮66社を上道郡大多羅村に遷宮する法令が出される。諸寄宮の修繕費用を大多羅寄宮1ヶ所に集中するというもので、これは事実上の寄宮の終焉であった。 この大多羅寄宮は、元からあった句々迺馳(くぐのち)神社の境内を拡張するもので、現在は17間×9間という大きな基壇のみが残る。岡山藩は大多羅寄宮に毎年社殿の修理費と神供料を支給したが、廃藩置県後大多羅宮は荒廃し取り壊され、明治8年布勢神社へ合祀される。昭和2年近世創建の神社が初めて史跡指定される。 この寄宮の顛末は、村人の信仰なしには、寄宮は存続できなかったということであろう。 では、寄宮と比べて寛文6年に廃止されたはずの祠は本当に消滅したのであろうか。 貞享年中(1684-88)には「小社末社を建つるものあるを以って神社帳を製す」とあり、尾上村のその神社帳は現存しないが、かなりの小社が現存したことが推測される。 元禄4年(1691)小社は再び禁制となる。 元禄11年(1698)詳細に調査がなされ、驚くべきことが判明する。津高郡の121村に1649社もの膨大な小社・祠が存在していたのである。(則武家文書) 尾上村では 氏宮八幡宮、番神2社、大藏1社、神馬ノ神2社、さいの神2社、地主神4社、荒神2社、いぬ神1社、祝神3社の合計18社が存在していたのである。 これを聞取りによる現在と比較すると番神1(久保谷)、地主神4(久保谷・畑・北浦・南浦)、大藏1、さいの神1と7社確認できる。 尾上では元禄期に確認できる地主神4社が、現在でも存在し、先の日蓮宗講中などを中心にずっと祭を続けているのである。 祠は小さい神であるが、先にみた寄宮と違い藩の政策などでは消滅しない強い日常的な信仰が存在したと云えよう。 ※番神1(久保谷)は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。 次項以降はトピックスをピックアップする。 2.移動する身分 -ある時は神職深井出雲、ある時は百姓伝兵衛 尾上村中石は殆どの家が天台宗一宮徳寿寺の檀家である。天台宗も日蓮宗と同じく部落中心の講が4つある。 向山・上中石・下中石・和田である。 →天台宗徳寿寺は 3.検地にいった藤次郎 -尾上村の村役人たち- 手習所とは岡山藩が寛文8年に平均5,6ヶ村に1ヶ所づつ設けた教育機関である。目的は先にみた寛文の寺院淘汰の結果、僧侶を師匠とする寺子屋で百姓が手習・算用を学ぶ機会が減少し、その代替策として造られたものであった。 しかし手習所は経営難に陥り、延宝2年(1674)14ヶ所に統合されたが、翌年には廃止された。これも寄宮政策と一緒で百姓の間の根付くことはなかった。 (以下略) ---「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」end--- ★不受不施派の分裂と動向
そしてこうした庵は内信者宅の秘密の部屋に設けられられた。内信地区ではこのような「隠れ部屋」は方々に存在していたが、家の改築等で取り潰され現存するものは僅かとなった。(これは昭和末期の話であるので、現在では、殆ど残らないのではないか。) 2019/02/10追加: ○「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より ●和気郡益原に於ける隠れ家:(二階の白線の部分の部屋に潜んでいた。):下図拡大図 ![]() 右下は「福田人衆の墓」の写真である。
さて、地域の信仰・組織の拠点である庵は僧侶集団である法中組織に統括される。 法中の中で法難によって流罪にされた僧侶は流聖と云われる。 元禄以降、流聖の謫地はほぼ伊豆七島に固定され、これらの島には相次ぐ法難によって常に流聖が存在するようになる。 それに伴い享保以降年2、3回も内緒便が仕立てられ、救援ルートが作られる。 この頃より流聖は「お島様」と呼ばれ、内信不受不施教団の最高権威者として、教団を統括するようになる。 この内信の教団組織を全国規模でまとめ上げたのが本妙院日珠である。 日珠は寛政5年(1793)不受不施の赦免を訴え(天下諌暁)、三宅島流罪となる。 日珠が全国に発したお島状は数百通、信徒は備前・備中・美作・因幡・讃岐・上総・大阪・江戸・山形・三宅島に渡る。 しかし、このような強固な内信組織も、文化・文政期(1804-29)には農村の階層分解によって、内信の在り方について、強信者(村の有力者・富農層)と平信者(一般農民層)との間に分裂が生じてくる。 2019/02/10追加: ◇不受不施派の分派 ○「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」岡山県教育委員会、昭和51年 より 非合法下での不受不施宗義の作法と内信の組織論について、幾多の分派が発生した。 ◇日題派: 最も古い分派である。 → 白川門流日題派 ◇導師(日指)派・不導師(津寺)派: → 上述のとおりである。導師派が主流となる。 → 不受不施・久米右衛門派 天保8年(1837)不導師派は天保法難で壊滅的打撃を受ける。中心拠点であった大坂高津衆妙庵は根こそぎ検挙され消滅する。 不導師派とは別に衆妙庵の什物を、同庵の小僧粂右衛門が備前にまで持ち帰り、彼を中心に密かに内信を続ける。 所謂、粂右衛門派である。 ◇先例派: 導師・不導師の論争の際、先例に従って不導師の立場を採るが、津寺=日講には与せず、人脈としては日指方に接近した。 福渡の栴樹、智圓、川口村了正院、寺地の智善院ら金川より奥の備前・美作を基盤としたので、奥方不導師派とも呼ばれる。 文政年中、鹿瀬の妙泉庵主台山院日照のとき、不導師派と合併する。 ◇不誓紙派・教止派: 他宗の僧侶に習字を習うものが、誓紙をかくのが謗法になるのか否かをめぐって起こった論争により成立。 不誓紙を主張した智雄院日栄は出世を混同する議論として長遠院日起に退けられ、彼の派も宝暦の頃導師派と合併する。 ◇不見派: 享保の頃下総でおこった分派で、他宗の勧進相撲、奉加芝居を見る可否について論争が行われる。 林村実成院が下総の法頭明静院日寶に不見を主張したことに始まり、主流からは出世混同の受不施の議論として退けられる。 ---「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」終--- 2019/02/21追加: ○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より ◆明治の分派 明治になって、次のような分派が発生する。 ◇日献派 幕末の再興運動で活躍した純妙院日献(下の掲載の○日正の再興運動/江戸末期 の項を参照)が京都東町奉行所の取調べ以降消極的になり、元治元年(1864)退転脱落する。日献の出身地である妙泉庵の信徒の一部が日献とともに分派する。 日献の没後も僧侶のいない信仰を続け、昭和40年代まで佐伯町や吉井町で僅かに孤立し、信徒も存在していたという。 ◇日諦派 平井松壽庵にいた浅沼日諦が、再興後の斬新な教団の指導・運営に反発し、内信時代の伝統的法式を主張して、釈日正と対立、平井の信徒を引き連れ分派する。その後現在も内信的な傾向をもった信仰を続けている。 なお、日諦とは逆に、急進的改革を主張した岸井弁全も日諦と同事に破門されたが、信徒への影響はほぼなかったという。 ◇日龍派 不受不施派関東地方担当の林日龍が、主流派の方針を無視したため破門され分派する。信徒たちは後に全員復帰する。 【備前に於ける内信信仰の高揚】 宝暦期(1751-63)備前において、内信信仰が高揚する。 宝暦3年(1753)岡山城下の近くの平井村高森に不受不施派祖日奧の石塔が建立され、その開眼供養が盛大に催される。不受不施僧6人が導師を勤め、内信者が群集し、投げ餅まで行われ祝われたという。 これを知った城下日蓮宗寺院10ヶ寺は寺社奉行に訴え、寺自身が内信者を摘発することを申し出る。その結果、23、000人に及ぶ検挙者を出し、3、000点に上る本尊・位牌類を摘発することとなる。 これはまさに、内信者の爆発的増加に受派寺院が脅威をいだいたことに他ならない。 しかし、内信者たちは検挙の後、すぐに内信へ復帰した。弾圧期間中にも再犯人として検挙される事件が津高郡下畑村、矢原村大園、御野郡北長瀬村などで次々と発生する。これらはいくら弾圧しても内信を一掃することはできないことを示している。 宝暦5年(1755)城下西大寺町の日蓮宗信徒が徒党して氏宮である今村宮修復入用銀を拒否する擧にでる。驚いた神社側は国中の神社の総力を挙げて訴状を提出する。 これに対し受派日蓮宗寺院は答弁書を提出し、神社と受派日蓮宗との論争となる。 神社側は神社崇敬はわが国の定法であり、氏子の氏神拒否など前代未聞と非難する。 これに対し、受派日蓮宗側は、日蓮宗は唯一法華経のみを信仰し、それは当然の帰結として、他宗への参拝は否定され、信徒の信仰形態として神祇不拝・謗法不参(他宗寺院への参拝拒否)・不受不施の実践が導きだされる。なにも神社に限って不拝・不参というわけではない。特に日奧は「神天上の法門」を拠り所に、神祇不拝だけではなく、全ての謗法の地、例えば受不施派の本山身延山への参詣をも制止した。 「神天上の法門」とは末法の世では法華守護神以外の諸天善神は全てこの國を去り、寂光土に帰参してしまい、その留守中の神社仏閣は魔縁の住家となっている。だからそういうところへの参拝はかえって謗法となるということである。城下受派の寺院は「神天上の法門」を拠り所に神祇不拝を主張した。そして他宗への「不施」の根拠には明応元年(1492)の足利義稙の奉書を挙げた。この義稙の奉書は不受不施公許の最古の史料とされるものである。 つまりは受派寺院の主張は不受不施派の論理でなされたのである。 受派の寺院も苦しい立場であったのあろうか。 宝暦3年からの内信撲滅も功を奏せず、寛文の寺院の撲滅で寺院は減少し信徒の掌握が十分にできず、かといって新寺建立も許可されず、大勢の内信者を繋ぎとめるには内信者側の論理に立って神社と論争せざるを得なかったのではないだろうか。 しかし、神社側は藩を越えて、神祇管領吉田家に訴え、吉田家から幕府に訴える手段に出る。 驚いたのは藩であり、寺社奉行を通じ、受派の城下10ヶ寺に登城を命じ、「神祇不拝」を説かぬこと及び寄進物で異論しないことを命じた。10ヶ寺は藩の権力に屈することとなる。 このことは即刻信徒に知れ、その日より連日他人数が寺に押しかけ悪口雑言を吐き、いたたまれなくなった住職は出奔した。その住職は藩主の斡旋で帰寺し住職となるも、信徒は住職を見限ったのである。 こうした中、備中の50ヶ寺余、備後の38ヶ寺は徒党して本山へ城下10ヶ寺を宗門違反として京都妙満寺をはじめとする本山へ10度20度に及び訴えを起こす。ついに本山は城下10ヶ寺を脱衣追放とする。 この事件は、内信者が寺院を突き上げ、中ば合法的な形で神祇不拝を楯に不受不施要求を起したものということができるだろう。 【内信者の生活】 信仰生活は檀那寺用の仏壇と内信用の隠し仏壇を持ち、それを使い分けた。また信仰を揺るぎないものにするため、各所で清僧の説法を聞いた。その場所は秘密の場所であり、また偽装されている場合もあった。 そんな場所の一つに「矢田の観音様」があった。ここには題目石があり、観音も祀られていたが、それは偽装であった。 ※矢田穴観音:和気郡和気町矢田 <以下 略> ---「岡山県史 第10巻 近代1」終--- ◇不受不施信仰の変容 ★寛文・元禄以後の主たる法難 2018/12/23追加: ◇備前矢田部法難:矢田部六人衆 2019/09/19追加: ◇福田五人衆 ◇備前に於ける捨身の抗議 ◇庭瀬三僧法難 2019/08/05追加: 2019/08/05追加: ◇享保法難(行川法難) ◇坂本和平(真楽)入牢・流刑 2019/08/19追加: 2019/09/19追加: 2019/08/13追加: 2018/09/30作成:2023/05/08更新:ホームページ、日本の塔婆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||