山  城  南  春  日  町  廃  寺

山城南春日町廃寺

参考文献:「南春日町遺跡発掘調査概要 昭和55年度」京都市埋蔵文化財研究所、昭和56年

当廃寺は発掘により塔跡および破壊された塔心礎が出土するも、発掘終了後埋め戻され、今は光華女子学園(真宗大谷派)グランド下に眠る。

山城南春日町廃寺塔跡

昭和56年の発掘調査で、主たる遺構として塔基壇・塔心礎(但し上面は破砕)・礎石抜取り穴などが発見される。
その他については、掘立式の建物跡などが検出されたが、寺院遺構として明確な遺構は発見できなかったと云う。

塔の創建については、出土土器から奈良前期以前と考えられる。
塔基壇上面は削平され、基壇は完存しない。礎石は上面を破砕された心礎と12箇所の脇柱礎石据付跡が出土する。
 南春日町廃寺塔基壇復原図
基壇は上成・下成の二重基壇であったが、基壇化粧も含めこの二重基壇は創建当時のものではなく、創建後の後の改修の姿であると判断される。(これは遺構の層位的関係と遺構相互の切り合いから判断される。)
なお二重基壇への改修は平安期と推定され、やがて10世紀頃には出土土器から廃絶したものと推定される。
上成基壇は一辺約7m・高さは削平を受け不明であるが18cm以上、下成基壇は一辺9.2m・高さ25cmを測る。下成基壇の南側中央には幅1.4mの石階を残す。
 南春日町廃寺調査区全景:南より撮影       同    調査区南半1:北西より撮影
   同    調査区南半2:北東より撮影      同      塔跡全景:東より撮影

山城南春日町廃寺心礎

南春日町廃寺心礎:左図拡大図
 心礎は1.6×1.4mの大きさで、上面は破砕、現位置を保つ。
心礎材質は砂岩。
 心礎廻りには礎石を破壊するための径約3m・深さ40cmの掘り込み穴があり、穴の壁は焼け、礎石破片が大量にあり、炭も出土し、この状況から、穴で火を焚いて礎石を破壊しようとしたものと推測される。
また心礎廻りの掘り込み穴には礎石砕片と推定される多くの石があったが、これは四天柱礎石痕はないが、心礎の破壊作業で、四天柱礎礎石・据付痕も破壊された可能性もあると思われる。
 近世以降、水田開墾が行われ、傾斜丘陵を削り取り段を造り水田にする。この時心礎は邪魔であり、心礎廻りを大きく掘り、石を割ったものと思われる。
 

○基壇化粧は上・下成基壇とも径10〜30cm前後の川原石の平面を外にした乱石積である。

 南春日町廃寺塔南側:南東より撮影      同   塔南側化粧:南東より撮影      同   塔東側化粧:北東より撮影

山城南春日町廃寺塔跡実測図

南春日町廃寺塔跡実測図1:左図拡大図:上が北
 塔一辺は4,5m、柱間は等間隔で1.5mを測る。
南春日町廃寺塔跡実測図2

○12箇所の脇柱礎石据付跡が検出されるが、
脇柱痕は四隅が大きく径1.2〜1.4m、深さ50cm以上、その他は径0.9〜1.0mである。
 南春日町廃寺礎石据付痕1:東より
   同           痕2:西より
   同           痕3:北西より
   同           痕4;北東より

○2019/02/23撮影:京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
 昭和56年調査で南東向きの緩やかな斜面で塔の基壇が発見される。
基壇は方形で上下2段、何れも乱石積の外装が施される。上段の基壇の上部はかなり削平されるも、一辺は7m、中央に地下式心礎を据え、これを3間四方の礎石据付穴が囲っていて、塔の初重一辺は4.5mと推定される。
心礎は上面を破壊されるも、原位置を保つ。
下段の基壇は一辺9.2m、何辺の中央に幅1.4mの石階が設けられる。
また、塔基壇の北1.8mには東西方向のやウ20cmの段差が設けられ、北面に石を2段に積む。
なお、この塔の周囲には、他に伽藍建物に関連するような遺構は発見できず、塔が単独に建立された特異な寺院であった。
 南春日町廃寺塔基壇1:東から撮影、昭和56年     南春日町廃寺塔基壇2
 南春日町廃寺塼仏片      鉄製風鐸・風招片     鉄製九輪片

山城南春日町廃寺概要

この地(大原野南春日町)は従来より瓦・土器などの出土を見、「南春日町遺跡」として認識されていたが、
昭和55年、光華女子学園によってグランドが造成されることとなる。
工事が開始され工事用の事務所の設置のとき、水田壁面の削平があり、大量の瓦の出土を見る。その結果、本格的造成の前に、試掘調査が行われる。その試掘調査では遺構の存在が確認され、正式発掘調査の実施ということに至る。
昭和56年の発掘調査結果、2棟の建物跡を検出した。

以上の結果、この建物遺構は残存状態が良く、グランド下で保存されることが決定され、調査終了後遺構は砂で覆われ、埋め戻される。

当遺跡に関する文献:
古代・中世に記された文献は残存しないが、近世には若干触れるものがある。
「山城名跡志」(僧白慧、元禄15年<1702>):
「大原堂 旧地、春日一鳥居寅卯(東北東)方ニ町許ニ在、傳伝此所大架也。諸堂所地柱石アリ。塔跡在シ塔尾ト云、鎮守神木古松アリ。一説ニ曰、号大原寺云々・・・」
 ※春日社一鳥居は「大原野小学校の北西約300mの所、神社参道脇に残っており、方位・距離から見て『大原堂』が本遺跡を指していると推測される」と云う。なお、当遺跡北西2kmのところには大原野春日明神(大原野神社)が 鎮座する。
 ※フィールド・ミュージアム京都「京都のいしぶみデータベース」では、「この鳥居(大原野神社一鳥居)は後水尾院が寄進したものであったが,昭和45年に自動車が衝突し破損,境内へ移設・復元された。この石標はかつての一の鳥居の足であるが,今では旧地を示す石碑となっている。」と云う。これによれば、当時(発掘調査報告書の刊行年・昭和55年)もすでに、鳥居の足(石碑)のみの状態であったと思われる。(未見)
 ※大原野神社一鳥居:昭和初頭の絵葉書
 ※大原堂とは詳細不明。
あるいは「山城名跡志」には「善教寺 今云處ハ春日社東柳川村、総堂是也。旧地ハ春日一鳥居北東地是也。堂塔、跡存セリ。・・・・」とも云う。
以上によれば、当遺跡は大原堂(不詳)もしくは善教寺(不詳)の旧地であり、江戸期(元禄期)には少なくとも、堂塔の礎石が残り、塔跡と伝承される跡があったものと推定される。

当廃寺の位置

南春日廃寺航空写真:図中央が光華女子学園グランド、中央やや右より最下段が大原野小学校、この間を大原野道が通るが、グランドの西南西の大原野道に「春日一鳥居」があったと思われる。
  南春日町廃寺航空写真

京都市遺跡地図:
 解説:南春日町廃寺 奈良〜平安 寺院跡 90 大原野南春日町
昭和56年の発掘調査で塔跡・掘立柱建物1棟・溝・土壙などが検出され,寺院跡であることが判明した。
塔に使用されていた瓦は小型で特異である。
  京都市遺跡地図:大原野・部分図:当地図の「1034」が南春日廃寺である。上半分がほぼ光華女子学園グランドである。


2008/11/09作成:2019/05/22更新:ホームページ日本の塔婆