讃 岐 白 峯 寺 三 重 塔 跡  ・ 白 峯 寺 別 所 三 重 塔 跡

讃岐白峯寺三重塔跡・白峯寺別所三重塔跡(付録:神谷大明神)

◆讃岐白峯寺三重塔跡の発掘

以下の報道発表がある。(要旨)
 香川県文化振興課では、「四国八十八箇所霊場と遍路道」の世界遺産登録に向けた取組みの一環として、第81番白峯寺の発掘調査を平成21年度から開始した。絵画史料「白峯山古図」(江戸前期)などを参照しながら、平成21年 (2009)度は「三重塔」が描かれている部分、平成22年(2010)度は、「洞林院」の建物が描かれている部分の調査を実施した。
 発掘調査の結果、21年(2009)度の調査では建物の基壇や礎石、礎石抜き取り穴などの遺構を検出し、瓦・土器を中心に中世・近世の遺物が出土した。検出した礎石や抜き取り穴から復元すると、3間×3間の礎石建物があったと推定される。
また22年(2010)度の調査では礎石や柱穴などの遺構を検出し、中世・近世の遺物が出土する。
以上の成果を踏まえ、2010/11/30現地説明会を実施する。
 ※現地説明会には参加出来ず、後日「現地説明会資料」を入手する。

絵図に見る白峯寺

綾松山と号する。本尊千手観音、真言宗御室派、四国88ヶ所81番札所。
崇徳上皇陵(白峯陵・保元の乱で当地に配流)があり、中世には廟堂として頓証寺が建立される。
近世には藩主生駒氏・松平氏の崇敬を受け、伽藍の再興及び維持が図られる。

白峯山古図:江戸初期、白峯寺蔵:2010/11/30現地説明会資料 より転載

白峯山古図1(全図):左図拡大図

上部中央の本堂横に三重塔、
 同じく上部右側に三重塔と思われる塔婆、
  下段中央右の谷に三重塔と思われる塔婆が描かれる。
   さらに左端中央に三重塔(多宝塔?)と思われる塔婆も描かれる。
   (但し、この塔婆は白峯寺とは別の寺院の塔婆であろうが、如何なる寺院かは不明。)
2012/03/13追加:
上部右側の三重塔は東「別所」の三重塔と判明、2011年の発掘調査で遺構が確認される。
他の2基の三重塔は情報が皆無、従って全く詳細は不明。

   ◎2011/06/17追加:
   「海に開かれた都市〜高松―港湾都市900年のあゆみ―」(特別展図録、香川県歴史博物館、2007年) より
    白峯山古図8(全図):上記古図と同じものでやや高精細ではあるが、しかし文字は判読できず。
    2012/03/13追加:
     上部右側の三重塔は東「別所」の三重塔と判明、2011年の発掘調査で遺構が確認される。
     他の2基の三重塔は情報が皆無、従って全く詳細は不明。
   ◎2017/01/03追加:
   他の2基の塔婆について:文字が全く判別できないので、以下は全くの推測である。
    ○下段中央右の三重塔:位置的に見てまた白峯寺の関係性を考慮すれば、神谷大明神(神谷神社)に三重塔があり、
    その塔婆であろうか。 →本ページの最後の「付録:讃岐神谷大明神(神谷神社)」の項を参照。
    勿論、現段階で、神谷大明神に塔婆や神宮寺があったことは確認できてはいないが、中世・近世の寺院の在り方から見て、
    神谷大明神に三重塔が存在したとしても全く違和感はなく、むしろ自然であるかも知れない。
    現に、今でも社の周囲をみれば、神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)や宝幢式笠塔婆が残るのである。
    ○左端中央の塔婆:多宝塔であるとすれば、多宝塔と白峯寺を隔てる水路は瀬戸内海なのであろう。
    だとすれば、この多宝塔は瀬戸内の対岸にあり、しかも方向また山上にあることから、瑜伽山の多宝塔ではないだろうか。

白峯山古図2(部分図):本堂付近:左図拡大図

本堂脇背後に三重塔がある。屋根は瓦葺。

白峯山古図3(部分図):本坊洞林院付近:左図拡大図

元禄2年(1689)四国遍礼霊場記:2010/11/30現地説明会資料 より転載
 四国遍礼霊場記:白峯寺図、観音(本堂)横奥には「塔跡」とある。元禄期には既に退転していたのが分かる。
2011/05/17追加:
「四国徧礼霊場記」には長文の由緒の記載があるが、三重塔に関する言及は皆無である。

寛政12年(1800)四国遍礼名所圖會:2010/11/30現地説明会資料 より転載
 四国遍礼名所圖會:白峯寺・崇徳天皇陵、本堂横背後は山林であり、塔跡を示唆するものは何も見当たらない。

弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:2010/11/30現地説明会資料 より転載
 金毘羅参詣名所圖會1(白峯山大門)
 金毘羅参詣名所圖會2(本坊洞林院)
 金毘羅参詣名所圖會3(白峯本堂・崇徳天皇御廟)

嘉永6年(1853)讃岐國名勝図会:2010/11/30現地説明会資料 より転載
 讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観であろう。

白峯寺伽藍図及び伽藍変遷図:2010/11/30現地説明会資料 より修正・転載
 白峯山伽藍・変遷図:白峯寺伽藍概要図と近世の絵図による建物変遷一覧がある。

白峯寺三重塔跡発掘

平成21年度塔跡発掘調査結果:2010/11/30現地説明会資料 より転載
白峯寺塔跡発掘図:左図拡大図
 写真(1):三重塔跡・西外側基壇
 写真(2):三重塔跡・礎石抜取穴列
 写真(3):三重塔跡・南側瓦溜り

一辺約8.2mの基壇状平坦面を検出。
基壇状平坦面の縁部には約50cm程度の礫を検出。
基壇状平坦面で径約1.0から1.5mの礎石抜取穴7穴を検出。
その結果この遺構は3×3間(5.4×5.4m)の塔の遺構と判断される。内側には四天柱礎1個を確認。
基壇西側は更に1.6m幅で基壇状に形成される。(西側が正面か)
「白峯山古図」にはこの位置に三重塔が描かれる。瓦は古代〜近世のものが出土する。

2012/05/01追加:
「埋蔵文化財試掘調査報告 23(平成21年度 香川県内遺跡発掘調査)」香川県教育委員会、2010.3 より
平成21年(2009)の試掘調査報告で、調査場所は上掲の「四国遍礼名所圖會」(寛政12年・1800)で大師堂が描かれていると思われる場所である。
この背後は径約14mの経塚と呼ばれる二段築成の石組である。
 白峯山境内実測図
調査前に露出していた南西隅と考えられる礎石やほぼ中央部にある礎石などを基準に5本のトレンチを設定。
 白峯寺塔跡実測図
実測図の1Trでは南西礎石とその北方に3個の礎石抜取穴を検出する。
2Trでは南西礎石とその東方に3個の礎石抜取穴を検出する。以上のトレンチは何れも基壇の段差および石礫敷なども検出し、礎石及び礎石抜き取り穴から一辺3間(5.4m)で、柱間は約1.8mの方形の礎石建物であることが判明する。
3Trでは礎石抜き取り穴1個を検出、4Trでは二段基壇の状況を検出する。
5Trの中央付近の礎石は安山岩製で50×60cmの大きさである。なお西南隅礎石も安山岩製で40×70cmの大きさである。
また出土した瓦などの遺物は殆どが中世・近世のものと推定されるものであった。
 今回の発掘の目的は「四国遍礼名所圖會」に本堂向かって左に描かれる大師堂(現在は本堂向かって右)の位置確認と圖會の信憑性を確認することであった。
今回の発掘ではこの遺構(一辺5.4mの方3間の礎石建物)が大師堂であるかどうかは不明であるが、別の資料すなわち白峯寺に伝わる「白峯山古図」ではこの場所には三重塔が描かれ、この遺構は三重塔の可能性も考えられる。
 ※平成21年の判断では、当遺構は大師堂であろうとの見立であった。この時は三重塔である可能性に言及するも、平成22年(2010)の現地説明会では三重塔跡と の断定に至ったようである。

2011/05/17追加:
白峯寺塔跡写真
2011/05/22「X」氏撮影画像
 白峯寺塔跡現況:写真中央の高まりが塔跡土壇、写真中央付近・土壇の辺に沿って2個の礎石様の石が見える。
 白峯寺推定礎石1:礎石と思われるも、確証はない。(上記写真の2個の礎石様の石のうちの1個か)
 白峯寺推定礎石2:礎石と思われるも、確証はない。( 同上 )
礎石と推定される石は「平成21年度塔跡発掘調査結果」で云う四天柱礎石1個とはその個数が違う。
またそれぞれの石のある位置が四天柱礎があるであろう位置にあるとは思えない。
以上の点から、写真の推定礎石の性格は良く分からない。
 ※上掲「2010/11/30現地説明会資料」・「白峯寺塔跡発掘図」は今ひとつはっきりしないが、基壇・建物ラインとして3重の正方形の
 ラインが引かれている。(西には長方形が付属し、これは西側の巾1.6mの付属基壇で西側が正面であったと推定される。)
 一番内側の正方形ラインが四天柱を結ぶラインで、このラインの西南隅に描かれるのがただ一つ残る四天柱礎石であろう。
 さらに推測すれば、上記の写真(礎石1及び礎石2)は「白峯寺塔跡発掘図」の一番外側の基壇のラインの南辺付近に礎石様な物が
 描かれるが、これ等の写真であるのかも知れない。
2011/07/07追加:
白峯寺塔跡現況2
 下図(白峯寺塔跡現況2:左図拡大図)は2011/05/22「X」氏が撮影した白峯寺塔跡写真である。
ここには礎石1・礎石2・礎石3の3個の礎石と崩壊した塔土壇及び奥に何らかの堂宇が写る。
写っている堂宇はその規模からみて、本堂ではなく阿弥陀堂と推定される。
であるならば、この写真は東から西方向を撮影したものと推定される。

左図には3個の礎石が写るが、その礎石についての香川県文化振興課の見解は以下の通りである。

◇礎石1は礎石と思われるも動いている。(礎石2に比べて上面のレベルが高くかつ礎石想定位置にない)
 (この礎石は上に掲載の白峯寺推定礎石1である。)
◇礎石2は上面が平であり、四天柱礎の推定位置にあり、四天柱礎と考えられる。
 (この礎石は上に掲載の白峯寺推定礎石2である。)
◇礎石3は若干上面が傾斜するも、南東隅の柱礎と推定される。(礎石想定位置にある。)
 ※しかし、県の見解は南東隅の柱礎とのことであるが、「この写真は東から西方向を撮影したもの」との推定に立てば、南西隅の柱礎の誤りであろう。
◇その他にも礎石と推定できる石があるが、いずれも動いているものと思われ、断定は困難である。

白峯寺塔跡発掘図2(上掲の白峯寺塔跡発掘図を180度回転させたもので、天地が上の写真と一致するように作成)
ここに図示される礎石は図中に記入した通り(礎石3=南西隅柱礎、礎石2=四天柱礎、礎石1=礎石1か)であろうと思われる。

2016/10/08撮影:
塔跡は埋め戻され、何事もなかったかのように眠る。
ここには、ここが三重塔跡であったことの表示は一切なく、立ち入りを制限する意図であろうか、ロープで塔跡一帯を囲っている。
塔跡にとっては、これが一番幸せなことかも知れない。
僅かに、四天柱礎(礎石2)と動かされている推定礎石(礎石1)が顔を見せているだけである。側柱礎(礎石3)は良く分からない。
 白峯寺三重塔跡11     白峯寺三重塔跡12:いずれも背後の堂宇は本堂
 白峯寺三重塔跡13     白峯寺三重塔跡14:いずれも本堂側から撮影、 写真14の向かって左に四天柱礎、右に推定礎石1が写る。
 白峯寺三重塔四天柱礎     白峯寺三重塔推定礎石
 2016/11/20撮影:白峯山三重塔跡15

石造瑜祇塔:本堂と三重塔間に珍しく石造の瑜祇塔がある。
2016/10/08撮影:
 白峯寺石造瑜祇塔1     白峯寺石造瑜祇塔2     白峯寺石造瑜祇塔3


白峯寺「別所」三重塔跡

2012/03/13追加:
「X」氏より、『昨年、白峯寺「別所」跡の発掘調査があり、三重塔跡などが確認され、現地説明会が実施された』との主旨の連絡を受ける。

次の「香川県報道発表資料」(要旨)がある。
2011年には、前年度の主要伽藍の発掘調査に引き続き、主要伽藍の東およそ5町の位置にある別所の発掘調査を実施した。
ここ別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。
発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
現地説明会は2011/10/23に開催。
 ※三重塔跡では、碁盤の目状に並ぶ九つの礎石を確認か。
 ※「白峯山古図」<上掲白峯山古図8(全図)>では東方向に三重塔が描かれ、ここが白峯寺東「別所」と判明する。
  (図版が小さく全く文字は判読できない。)
  この絵図に描かれる東「別所」三重塔遺構が発見されたということであり、絵図の信憑性が新に脚光を浴びる形となる。

2012/05/01追加:
2011/10/23平成23年度白峯寺発掘調査現地説明会資料 より

白峯山古図別所部分図: 左図拡大図
白峯山古図別所部分拡大図、今般別所の三重塔及び仏堂跡遺構が出土する。

○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。
礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。
高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。
建物規模は2×3間と推定される。
 白峯寺別所仏堂跡俯瞰
 白峯寺別所仏堂跡基壇:基壇は板石で整えられる。

2016/10/08現地訪問/撮影
●寺僧への問い合わせ
発掘調査の行われた「別所」の位置の手掛かりは上記の「白峯山古図」以外にはないので、別所の跡はどこなのかを寺僧1及び寺僧2に尋ねる。
以下のような返答があった。
 ○寺僧1への問い合わせには次のような返答であった。
問:数年前発掘調査によって、三重塔跡と仏堂跡が発見された別所跡を拝見したいが、場所はどこか。
返答:別所跡が何処なのかははっきりとは分からない。それは寺院関係者は誰も立ち会っていないからである。
問:古絵図には本堂向かって右の位置の中門の外、大門の中に別所(三重塔と仏堂)が描かれているが、これが別所ではないのか。
返答:その場所が別所で、ここ(護摩堂)から徒歩20分くらいの山中である。
問:別所を古絵図から判断すれば、20分とは少し離れすぎではないか、せいぜい数百mの距離と思われるが、20分もかかるであろうか。
返答:山中のことでもありまた道も荒れ、猪が荒らしてるからの話で、実際は(本堂から東方向へ)数百mほどの地点かも知れない。
 ○寺僧2への問い合わせには次のような返答であった。
問:問:数年前発掘調査によって、三重塔跡と仏堂跡が発見された別所跡へはどのように行けばよいのか。本堂に向かって右手方向に進めばよいのか。
返答:別所本堂/三重塔跡は白峯本堂に向かって右方向にある。
但し、跡は埋め戻しかつ猪が荒らし、行っても、見つけられないだろう。
問:見つけることができるかできないかは、行ってみなければ、分からない。本堂に向かって右方向にいけばよいのか。
返答:白峯本堂の向かって右からは行ってもらっては困る。現在は通行止めにしている。
 ※通行可能かどうかを、実際にこの後に確認すれば、本堂に向かって右にしばらく進むと、フェンスが張られ、
 物理的に行くことができないようになっているようである。
問:ではどのように行けばよいのか。
返答:旧の遍路道を行けばよい。
七棟門の前を旧の遍路道が通るので、その旧道を行けばよろしい。しかし、山中は荒れ、おそらく分からないだろう。
●現地観察の結果
結論は「別所本堂/三重塔跡」は全く見出すことができず。
白峯山伽藍・変遷図」(上掲)に示されるように、参道3を進み、参道2と参道3の交差を過ぎ、更に東に進む。
次に参道1との交差があるはずであるが、それは明確には分からない。
それとは別に、参道の左右には坊跡の平坦地が図では明確に描かれているが、現地の地形からは明確には判別できない。数回それらしい平坦地に分け入ってみるも、平坦地の確証はとれない。
さらに先に進めば、下乗石が現れ、さらにその先には50基を超えると思われる墓石・石仏群がある。
 ※この群は石仏のほか五輪塔・宝篋印塔・無縫塔・在家の墓碑などからなり、一山の僧侶の墓、在家の墓、石仏などから構成されるものと思われる。しかし、この一画は猪除けの柵で囲われ、立ち入りができないので、詳細は不明であるが、仮に墓石・石仏群としておこう。
下乗石には鎌倉末期の年紀があるといい、少なくとも、この当時から、ここまでが白峯山の境内であるので、おそらく、「別所」もここに至るまでの境内地にあったのであろうとの判断をし、これより先には 「別所」は無いものとの思い込みをする。
〇参考:
白峯寺笠塔婆(下乗)
 白峯寺笠塔婆:中央の円形部は「摩尼輪」であり、この下に「下乗」という文字が刻まれる。
この笠塔婆には塔身の左側に「元応三季二月十八日」、右側に「願主金剛仏子宗明敬白」と刻され、元応3年(1321)「宗明」という人物によって建立されたことが分かる。
 「下乗」添碑:笠塔婆の隣に建つ。天保7年(1836)高松藩によって建立され、笠塔婆に小屋を建て保存したことが記される。
白峯寺「墓碑・石仏」群
 「墓碑・石仏」群:かなりの大量の墓石・石仏類がある。
●現地観察後の見直し
 現地訪問・観察は以上の結果であるが、現地から帰着して、現地の様子と諸資料とを検討すると、次のようなことが分かってきた。
平成23年10月23日の「白峯寺発掘調査現地説明会」資料中に
白峯寺境内地測量図」 (下図拡大図)がある。
 この図には薄ピンクで「参道1」が、黄色で「参道2」が、薄緑で「参道3」が示される。参道3は今も現役の遍路道(白峯-根香寺間)である。
この図では本堂及び大師堂の東南つまり江戸初期の洞林院と江戸中期の洞林院の中ほどに道路(AとBと表示)が描かれる。
この道路(AB)は近代(おそらく戦後)に作られた本堂などへの車での進入路であり、新道であろう。前述の寺僧2のいう「通行止め」にしてある「行ってもらっては困る」道であり、これはBの地点でフェンスがあり、なるほど通常は通行はできない道である。


しかしこの「新道」に惑わされてはならない。
つまり、Aの地点で「新道」から分岐する「参道1」の痕跡があるはずで、「参道1」は洞林院(江戸初期)の下を通り、20と21番の平坦地(屋敷跡)附近で「参道2」で交差するはずである。
 さらにこの交差は現在の遍路道(CとDとの間)と薄ピンクの「参道1」とに分岐するようである。現在は当然「現在の遍路道(CD)」が使われているが、平行して「参道1」の痕跡があるはずと思われる。
そして、「現在の遍路道(CD)」と「参道1」が再び交わる所即ちD地点が笠塔婆(下乗)のある場所であるであろうことは現地を踏査して初めて分かったことである。
 Dの笠塔婆のある地点から、さらに進めば、「墓碑・石仏」群のある地点に至る。
何の注記もないこの図を見ただけでは「意味不明」の表現であるが、この図の「意味不明」の表現も、現地を踏査して初めて「墓碑・石仏」群であると分かったことなのである。

もう一つ、同じく平成23年10月23日の「白峯寺発掘調査現地説明会」資料中に
解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)がある。
 ここでは、「別所」の地点が「平成23年度調査地点/仏堂跡確認/3間×3間の塔跡確認」と明示されている。
何のことはない、わざわざ寺僧に確認するまでもなく、「別所」が仏堂及び塔跡と説明されているのであった。


そして「別所」の位置は前項で解明した「参道1」を進み、「下乗」(笠塔婆)を過ぎ、中門(墓碑・石仏群の前面)を出て、大門に至る「参詣道」の左手にあったのである。「別所」は中門/墓碑・石仏群のすぐ先にあったのである。
 現地では、「下乗」(笠塔婆)までが境内地であるから、「別所」は「下乗」の地点内にあったのであろうという判断で、墓碑・石仏群を少し通り過ぎてから、引き返す判断をしたが、これは判断ミスであった。「別所」とはまさに「別所」であり、境内とは離れた場所であったのである。
この付近は漫然と見ただけであるが、確かに、墓碑・石仏群を過ぎた附近は平坦地であり、「別所」がある雰囲気ではあることは間違いないと思われる。
 以上の推測で、三重塔のあった「別所」とは「墓碑・石仏」群のすぐ先であることはほぼ間違いないと思われるが、現地での確認・再認識は、後日の機会を俟つしかない。

2016/11/20日現地訪問/撮影
上項の「推定」を確認すべく、別所三重塔跡を探ねて、本坊洞林院から笠塔婆・下乗添碑に向かってスタートする。
参照する資料は「白峯寺境内地測量図」である。
途中坊舎跡や参道の合流、廃道の分岐等を確認しながら進むも、坊舎跡平坦地は高木及びブッシュに覆われ「白峯寺境内地測量図」が無ければ分からない。既に使われない道は原野に帰り、 「白峯寺境内地測量図」の追認は相当困難である。
 本坊洞林院     一乗坊跡下段     一乗坊跡上段     宝積院跡     池の宮跡か     円福寺跡
 坊舎27跡か     坊舎21跡か      坊舎20跡       坊舎22跡
 坊舎22跡東の旧遍路道:現在の遍路道は坊舎22跡西を通るが、以前は坊舎22跡 の東を通っていたようである。この旧道は既に荒れ、通行は不能と思われる。
 笠塔婆・下乗添碑
白峯山一山墓所:猪除けフェンスに囲われるも、仔細に確認すれば、ほぼ全ての墓石が僧侶のものであり、白峯山住職及び住僧の墓所であろうと思われる。
 白峯山僧侶墓地1     白峯山僧侶墓地2     白峯山僧侶墓地3
さて、白峯山一山墓所に到達したので、目的の別所三重塔跡の探索する。
別所三重塔跡は白峯山墓所を過ぎた北側にあるものと推定されるも、平坦地は幾多もあれども、発掘調査したような痕跡のある平坦地は確認ができず。したがって、今般も別所三重塔跡を つきとめることができない結果となる。
(つまり、別所三重塔跡の探索には失敗する。)
例えば、遍路道からやや入った所に簡単な石積と石仏があり、付近には数か所の平坦地があるも、発掘調査したような形跡は、ここでも見出すことが できないという状況であった。
 石仏及び平坦地
 へんろ道六角石柱1     へんろ道六角石柱2 :白峯から8丁、根香寺へは42丁の地点に、近代のものであるが、この六角石柱が建つ。この石柱の外には民家があり、おそらくは白峯山外と思われるので、別所三重塔跡の探索は終了とする。

2016/12/18日現地訪問/撮影:
白峯寺別所三重塔跡の3度目の探訪を行う。
事前に、坂出市教育委員会を通じて、香川県政策部文化振興課より「白峯寺測量図」(仮称)を入手する。
今回は本図と前回使用の「白峯寺境内地測量図」を基に探索を行う。
測量図が示す別所の位置は前回の「石仏及び平坦地」附近であることが判明し、今回は問題なく、別所跡に到達でき、所期の目的を達成する。
「白峯寺測量図」(仮称)
 白峯寺測量図:入手「白峯寺測量図」(仮称)で、稚児ヶ滝から毘沙門天窟までの範囲の測量図である。
 白峯寺測量図部分:上記「白峯寺測量図」(仮称)の別所地区を切り出したものである。
稚児ヶ滝:通常はちょろちょろの水量で30〜50m程度の落差であるが、多雨の時、突如として瀑布となり落差100mを落ちるという。
白峯寺崇徳天皇陵を過ぎた断崖を落下する。次の写真はちょろちょろの水量の時のものである。
なお、遍路道のとある地点から分け入り、少し道なき道を行けば簡単に落下点に到着できることがアップされている。
 稚児ヶ滝1     稚児ヶ滝2     稚児ヶ滝3
遍路道を辿り、「別所」跡に向かう。坊舎跡の石垣などが散見されるのは、前回と同様。坊舎跡の名称は「白峯寺境内地測量図」による。
 一乗坊上段2     円福寺跡石積1     円福寺跡石積2     円福寺跡石積3     円福寺跡石積4     池の宮跡2
以下は「白峯寺測量図部分」を基にする。
別所跡への分岐:
笠塔婆/下乗碑を経て、白峯山墓地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)がある。
 ⊥字分岐: 写真左に分岐すれば、別所跡へ至る。    ⊥字分岐より石仏を見る     石仏及び石積2     石仏及び石積3
推定別所跡平坦地:

推定別所跡は発掘調査後おそらく遺構は埋め戻され、その上、発掘後5年を経過し、落ち葉などが堆積し、仏堂や塔跡などを明確に示すものは何も無い状態と思われる。その上、発掘調査図なども入手出来ず、どの平坦地が塔跡なのかは明確にできないのが現状である。
 石仏背後の平坦地:背後には平坦地があり、別所跡はその右奥になる。
 推定別所跡1
 推定別所跡2
 推定別所跡3
 推定別所跡4
 推定別所跡5
 推定別所跡石列1
 推定別所跡石列2
 推定別所跡石列3
 推定別所跡石列4:左図拡大図

奥之院毘沙門窟:
別所に分岐せず、遍路道をさらに進めば、毘沙門窟への分岐があり、これを進めば、毘沙門窟に至る。ここは稚児ヶ滝と同じく、切り立った岩壁 を切り開いた場所である。
 毘沙門天分岐石灯篭     毘沙門天対石灯篭     毘沙門天参道
 毘沙門天拝殿1     毘沙門天拝殿2     毘沙門窟      毘沙門天石像


本坊洞林院跡発掘:2010/11/30現地説明会資料 より

上の掲載の白峯山伽藍・変遷図中、(15)番の地を発掘。
江戸初期の洞林院の遺構などを検出。
なお洞林院は「白峯山伽藍・変遷図」中、(15)番の地から、元禄期には(18)番の地へ、そして幕末には現在の地(2)へ変遷する。
参道も「白峯山伽藍・変遷図」中の参道1から、参道2へ、そして参道3へと変遷する。

白峯寺略歴

白峯寺縁起では以下のように説く。
 弘仁6年(815)空海(弘法大師)が登山し白峯山を開く。
 貞観2年(860)円珍(智証大師)白峯大権現の神託を受け、10躯(内4躯は千手観音)の仏像を造立、49院を草創する。
  4躯の千手観音は白峯寺、根香寺、吉水寺、白牛寺に安置と云う。
  2016/10/18追加:
  吉水寺:讃岐遍路道の根香寺道の途中に足尾大明神がある。
  かってはこの付近に根香寺末寺の吉水寺があり、足尾大明神はその鎮守であったという。
  白牛寺:情報なし。
長寛2年(1164)崇徳上皇、讃岐の配所で没し、白峯に埋葬する。墓所には法華三昧堂(御影堂・頓証寺)が建立される。

元禄8年(1695)「末寺荒地書上」では白峯衆徒21ヶ寺で、内18ヶ寺は退転し、寺地は山畠となると云う。

明治2年明治天皇の命にて、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀する。
明治6年白峯山住職恵日、復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住となる。
明治8年白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。

文永4年(1267)銘頓証寺殿拝殿左側石燈籠(県文)
同時期の石造五重塔(客殿安置・県文)
弘安元年(1278)銘石造十三重塔(東塔、重文)
元亨4年(1324)銘石造十三重塔(西塔、重文) を有する。

白峯寺現況:

2016/10/08撮影:○印は2016/11/20撮影
 白峯大権現扁額     崇徳天皇御陵     白峯寺七棟門     白峯寺御成門     白峯寺客殿     白峯寺護摩堂
 頓証寺勅額門     頓証寺拝殿     頓証寺本殿:この本殿背後に崇徳天皇陵がある。
 白峯寺鐘楼     ○白峯山鐘楼見下し     白峯寺廻向堂     白峯寺薬師堂     ○白峯山薬師堂2
 白峯寺行者堂1     白峯寺行者堂2     白峯寺阿弥陀堂
 白峯寺本堂     ○白峯山本堂前     白峯寺大師堂
 白峯寺本坊洞林院:向かって左玄関の奥が客殿である。
十三重石塔:源頼朝が崇徳天皇の菩提の為に建立したと伝える。両塔との重文。
東塔は総高5.95m、花崗岩製、基壇は壇上積基壇、弘安元年(1278)の年紀が刻銘される。
西塔は総高5.62m、凝灰岩製、基壇は板石の組み合わせであり、七重目迄は内部が空洞である。元亨4年(1323)の年紀を刻む。
 ○白峯山十三重石塔    ○十三重石塔東塔1    ○十三重石塔東塔2    ○十三重石塔西塔1    ○十三重石塔西塔2

2023/01/13追加:
京都北村美術館・四君子苑庭園に白峯山頓証寺石造宝塔が蒐集されている。
  →京都北村美術館・四君子苑
○「四君子苑の庭と石」 より
 解説文:崇徳天皇廟所・白峯山頓証寺にあったもの。平安末期の作、岩質は礫の多い軟質の豊島石。塔心軸部の四方に開かれた扉形の奥壁に舟形光背の佛の坐像が薄く刻まれる。
 四君子苑・讃岐白峯山頓証寺石造宝塔

※崇徳上皇の京での縁の地に東山安井金比羅権現がある。
 →東山安井金比羅権現


付録:讃岐神谷大明神(神谷神社)・・・・・本殿は国宝建造物

 白峯山西麓の谷に神谷大明神があり、その本殿は鎌倉初期の建築(在銘)で、三間社流造では在銘最古であるという。
よって、参考として、掲載する。
 社頭に掲げる「社伝史実其他」によるという「社伝」では、
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)弘法大師の叔父の阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。」
 要するに、なんだかよく分からない話であるが、本殿については国宝建造物である。
○「国宝」芸術新潮編集部、1993 では
 「三間社流造、棟木に建保7年(1219)の墨書銘があり、三間社流造では在銘最古である。本殿は回廊を備えた朱塗りの拝殿の奥に建つ。
神谷は白峯山の西麓の小さな谷にある。神社の裏には大きな磐座が存在し、この谷は古代から聖地であったのであろう。
あるいは白峯山自体がこの神社の神体であったのかも知れない。弘仁6年(815)、神社が再興されたというほぼ同時期に、白峯山には空海によって白峯寺が創建されているから、神社と寺とは最初から関係があったのであろう。
 時の経過とともに白峯寺は大きな霊場となり、神社は白峯山の入口を守るものと立ち位置が矮小化されたのも、や止むを得ないだろう。白峯山にはかっては登山口が4つあり、その一つが神谷神社の裏に設けられていたのである。今は山麓に移されているが、ごく最近まで山中の登山路の途中に摩尼輪塔をそなえた古い下乗石が建っていたという。」
 ※建保7年の墨書銘全文:「正一位神谷大明神御宝殿、建保七年歳次己卯二月十日丁未日始之、惣官散位刑部宿祢正長」
さらに時は経過し、明治維新の後、国家神道の社格・郷社に列するという 。本当は明治国家の祭祀の系列に組み入れられ屈辱のはずであるが、これを誇示するということは名誉である考えているということなのであろう。
昭和2年大晦日の夜に、燈明の火が拝殿に引火。拝殿は焼亡するも、住民が焼け落ちる拝殿を本殿の反対側に引き倒たことにより、本殿は類焼を逃れるという。現在の拝殿はその後の再建である。
 神谷大明神本殿11    神谷大明神本殿12    神谷大明神本殿13    神谷大明神本殿14    神谷大明神本殿15
 神谷大明神本殿16    神谷大明神本殿17    神谷大明神本殿18    神谷大明神本殿19    神谷大明神本殿20
 神谷大明神本殿21    神谷大明神本殿22    神谷大明神本殿23    神谷大明神本殿24    神谷大明神本殿25
 神谷大明神拝殿・回廊     神谷大明神石塔
 神谷大明神宝幢式笠塔婆
  ※宝幢式笠塔婆:「日本の美術10 塔」昭和47年 では
   「笠塔婆の竿石を六面橖または八面橖につくり、それに応じた笠石・台石を添えたものである。」という。


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