山 城 普 賢 寺 観 音 寺 塔 心 礎

山城普賢寺観音寺塔心礎

山城普賢寺古伽藍

○参照資料:山城綴喜郡誌(明治41年刊)等 より
息長山普賢寺(大御堂観音寺)と号する。
本尊は十一面観音立像(奈良期、木芯乾漆、国宝)。
旧記によれば堂塔伽藍として以下の堂宇があったと云う。
釈迦堂(桁行8間梁間5間)本尊釈迦如来 薬師如来各高6尺5寸、大御堂(9間半・6間半)大金堂 本尊丈六十一面観世音菩薩並二十八部衆四天王、小御堂(6間・5間) 普賢堂 本尊普賢菩薩5尺3寸、大講堂(8間・5間)本尊丈六薬師如来並十二神将日光月光菩薩、地蔵堂(5間・3間)、奥観音堂(5間半・3間半)、五重塔(五智如来を安置)、仁王門楼、祖師堂、南大門、東大門、西大門、
僧房 20宇(本願院、東明院、東ノ坊、四締坊、東蔵坊、蓮蔵坊、中ノ坊、長観院、心光院、長壽院、三學院、心學院、弘願院、西ノ坊、藏ノ坊、西藏坊、光明坊、雲岳坊、華嚴坊、轉法院)、近衛基通公廟
 ※旧記とは永正4年(1507)の資料と思われる。(資料名不明):「江戸時代の農民信仰(上巻・下巻)」田辺法楽会、1998 より

正長元年<1428>の「興福寺別院普賢教寺四至内之図」による伽藍は、以下のとおり。
南大門・仁王門楼・大御堂・大講堂が南北に連なり、南大門の東西に東大門・西大門、大御堂の北西に五重塔・祖師堂・近衛基通公御影堂、北に地蔵堂、北東に奥観音堂・御霊天神・地主権現、東隣に小御堂が描かれる。
僧房:南大門東に心光院・長観院、西に心學院・長壽院、東大門付近に東蔵坊・蓮蔵坊・四締坊・東明院・東ノ坊、西大門付近に西ノ坊、東西大門の中間に中ノ坊、仁王門楼西南に三學院・弘願院、大御堂左脇に本願院、大御堂西方に西藏坊、更に西方山中に霊嶽院・光明坊、仁王門楼西方に藏ノ坊、南大門南方境外に轉法院・華嚴院が配置される。
 ※2010/02/18追加:「興福寺別院普賢教寺四至内之図」は椿井政隆による偽書(椿井文書) である。

「興福寺別院普賢教寺四至内之図」:普賢寺所蔵
 ※2010/02/18追加:当絵図は椿井政隆による偽書(椿井文書) である。
2010/03/15追加:
○「近衛基通公墓と観音寺蔵絵図との関連について-『興福寺官務牒疏』の検討-」藤本孝一(「中世史料学叢論」藤本孝一、思文閣出版、 2009 所収) より
「興福寺別院普賢教寺四至内之図-1」

普賢教寺四至内之図-1:山城普賢寺蔵 :左図拡大図

 ※当絵図は景山春樹(京都国立博物館勤務中)が三重の古書店で見つけ、普賢寺に斡旋したと云う。

この絵図には正長元年戊申(1428)・・・改正之、・・・・天文2年(1533)6月再画」とある。
さらにこの図の右下には附箋が貼付されている。そこには「普賢寺殿/御火葬之地/御墓印」とあり、墓設備と思われる図がある。
 (ただし、現在、附箋は元の位置から剥がされ<剥いだ跡は残る>、
 ひと山ずれた位置に貼付されている。)

以上がこの図の要点であるが、図に記された年紀には疑念がある。
というのは、当図は南から北に向かって平行移動する視点で描かれているが、正長元年(室町期)当時このような絵図描写法が行われてのであろうか。このような技法が行われるのは江戸中期以降の技法であろう。室町期には1点を中心として四方を描くのみである。
要するに、この図の年紀の時代の技法では有り得ないと思われる絵図なのである。
一方、この図のもとになったと思われる絵図がある。
「山城国普賢寺郷惣図」(陽明文庫蔵)である。
 山城国普賢寺郷惣図(陽明文庫蔵)       参考:綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(京都府立総合資料館蔵)
この陽明文庫版の絵図は明治14年の近衛基通の墓所を選定・確定させる作業の一環として、同年に写されたものである。
年紀は「文明14壬寅年(1482)・・始図之」「文正6己巳年(1509)・・加増補再画之」「天明8戊申年(1788)・・春日社新造屋古図模写之」とある。一見古絵図のように見える が、中世の作成と云うのは本当か。
疑念が幾つかある。
この図の中央左に「字中ノ山」があり、ここに「近衛基通公/火葬旧跡」・・・とある。
推測するに、「山城国普賢寺郷惣図」を参考にして、「普賢教寺四至内之図-1」が描かれたのではないか、また「山城国普賢寺郷惣図」の「字中ノ山」の書込みを見て、「普賢教寺四至内之図-1」に附箋が貼付されたのでないか。
もしそうだとすれば、「普賢教寺四至内之図-1」の作成時期は天明8年を溯れないのではないか。
さらに「山城国普賢寺郷惣図」の年紀の書き方にも疑念がある。
と云うのは、太田晶二郎氏の研究によれば、年紀の形式で
 「年号-数字-年(歳)-干支」の形式は古く(上代・中世)
 「年号-数字-干支-年(歳)」の形式は新しい(近世)という結論を得ている。
この絵図の年紀は「文明14壬寅年」「「文正6己巳年」であり、これは少なくとも近世の形式であり、中世の成立を疑わせるものであろう。
さらにもう一つの疑念がある。
それは表題の「山城国・・・図」の左部分に方形朱印があり、印文は「興福官務」である。これからは「興福寺官務牒疏」が連想される。
 そもそも「官務牒疏」とは何か。
「官務牒疏」は3つの写本があるが、興福寺本が一番古い。興福寺本は長持の中に保存されるが、幕末頃に献納されたもので、興福寺に伝来したものではないとされる。また装丁・書風などから江戸中期以前には溯れないとも云われる。
年紀の形式からも「官務牒疏」は嘉吉元年次辛酉(1441)と奥書にあるが、本文中には近世の形式である「年号-数字-干支-年」が多く見られ、到底中世の成立ということは出来ない。
記載内容にも疑念がある。
例えば、「官務牒疏」の普賢寺の記述は以下の通りである。
「普賢寺 在同州綴喜郡筒城郷朱智長岡荘  僧坊18口、・・、公衆10口、・・・
  (普賢寺補略録曰)天平16甲申年勅願、良弁僧正再造開基、号息長山、・・・、亦々永享9丁巳年・・悉炎上、同10年戊午再建、・・・・
まず、「略録」からの引用にもかかわらず、年紀の記載形式はバラバラである。
さらに、筒城郷とは腑に落ちない。というのは、平安期の「和名抄」では綴喜郡内に綴喜郷は既に成立しているにもかかわらず、それより古い「日本書紀」の「筒城郷」を用いている。「馬脚があられている」というべきであろう。
また、「官務牒疏」と「山城国普賢寺郷惣図」に共通する「交衆」「朱智荘」「息長」などは、他の史料には全く見出せない。
 ※この特定の「文言」こそ椿井文書特有の「文言」であり、椿井独自の世界であることを示す。
以上などが「官務牒疏」の史料的価値に大きな疑問がある所以である。
おそらくは「官務牒疏」は椿井文書の一つであろう。
「普賢教寺四至内之図-1」も椿井文書の一つであろう。しかも応龍子椿井広雄の作ではなかろうか。
さらに「山城国普賢寺郷惣図」も椿井文書の一つであろう。
これらは、いずれも中世の古文書を装い、何れも後世に複写されたとし、さらに近世の年紀の表記方法が混在し、椿井文書特有の表現・文言をちりばめるなど、そして中世を装った古文書間でお互いの「史実」を補完し、同期を取るなど、椿井文書の典型を示す。
 (「官務牒疏」の普賢寺の記述分量は異様に多い。このこと自体「怪しすぎる」とも思われる。)
繰り返しになるが、「普賢教寺四至内之図-1」はおそらく「山城国普賢寺郷惣図」を参考にして描かれたのであろう。
であるならば、「四至内之図 1」は天文2年の作では有り得ず、天明8年以降の作ということになるであろう。

なお、明治14年近衛家は近衛基通の墓所を選定・確定させるが、その根拠となった唯一の史料がこの「山城国普賢寺郷惣図」であったと推測される。それは、陽明文庫(近衛家が設立)に残された資料が物語るところである。

2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
「山城国普賢寺郷惣図」も椿井政隆による偽書である。
「文明14年壬寅年始画之云々、永正6年己巳年11月日加増補再枚画図之」とあり、写本によっては「天明8戊申9月16日 以春日社新造屋古図模写之」との加筆もある。これは椿井政隆の常套手段である。
 また村名を小判型の円で囲っているが、これは江戸幕府が指定した國繪圖の様式なので、中世のものでは有り得ない。この技法は「興福寺別院普賢教寺四至内之図」とは、同じ作者なのに、大きく違う。この点はこれら2点の繪圖が同一作者であることを紛らわすためであろう。

2009/01/10追加:
2009/01/06撮影:山城普賢寺所蔵本を撮影する。
「興福寺別院普賢教寺四至内之図-2」(普賢寺大御堂所蔵)
以下に示すように、この図は明治33年の写本であり、その原本は上に掲載したもう一つの普賢寺蔵「四至内之図-1」であろうと思われる。

「興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之図」とある。
正長元年(1428)改正図、天文2年(1533)再画図。
明治3年写、明治33年再写。

普賢寺四至内之図1:全図
普賢寺四至内之図2:中心伽藍部分図
普賢寺四至内之図3:中心伽藍部分図:左図拡大図
普賢寺四至内之図4:表紙
普賢寺四至内之図5:右肩部分図
普賢寺四至内之図6:左上部部分図

五重塔は八角(六角)塔のように描かれるも、詳細は不詳。
但し、この絵図も椿井文書の一つであることは明らかであり、その表現に拘泥する必要は全くない。

普賢寺大御堂略寺歴

天平16年勅願、良弁僧正開基。(「興福寺官務牒疎」による)・・・・「官務牒疏」は椿井文書(偽書)である。
白鳳2年、義淵僧正開基・天武天皇勅願の筒城寺(親山寺)が前身で、
 天平16年に聖武天皇の勅願により、良弁が伽藍を拡大増築して、普賢教寺と称した。(寺伝による)
延暦13(794)年炎上、仁寿3年(853)藤原義房再興。
治歴4年(1068)炎上、嘉保2年(1095)藤原師実再興。
大治元年(1126)藤原忠実が五重大塔・地蔵堂を再建。
治承4年(1180)平重衡の軍により焼失。藤原基通が再興。
弘安6年(1283)炎上、正応3年(1290)大乗院尋覚が再興。
正平15年(1360)兵火により大御堂・小御堂・楼門・坊舎5宇が兵火により焼失。永徳3年(1383)畠山家国が再興。
永享9年(1437)炎上(二天門、本願院、祖師堂、五重塔、基通公廟、地蔵堂等)。永享11年大御堂、小御堂等再建。
永禄8年復た炎上、遂に大御堂のみ再興という。
現在は本堂(昭和28年再建)・庫裏・鐘楼と地祇神社を有するのみ。

山城普賢寺心礎・塔跡・現状

同志社大学の裏手南に位置する。塔址は地祇神社の裏の丘の頂上にある。頂上はかなりの平坦地で、 周囲には布目瓦が散乱する。
塔心礎は平坦地ブッシュの中にある。
創建の時代(奈良期)の通例では、平地伽藍が採用され、塔・金堂・講堂などが規則性を持って配置されるが、なぜ丘の頂上に塔婆が建立されていたのかは良く分からない。
創建伽藍は現在の観音堂附近を中心とし、別途伽藍北西の丘上にも、五重塔等の諸堂宇が建立されたと思われる。
創建時のものなのか後世のものなのかは不明ながら、地祇神社裏の山中は諸堂宇が存在したと推定される平坦地が存在する。
2001/09/20撮影:
 普賢寺塔心礎1(「X」氏提供画像)
2001/10/28撮影:
 普賢寺塔心礎2     普賢寺塔心礎2(心礎はブッシュの中にある)     普賢寺塔心礎3
 塔婆平坦地(写真中央のブッシュ中が心礎のある場所である。
 普賢寺現状(左丘上に心礎がある。)
2009/01/06撮影:
 山城普賢寺心礎1     山城普賢寺心礎2     山城普賢寺心礎3     山城普賢寺心礎4     山城普賢寺心礎5
 山城普賢寺塔跡:写真中央の最高所が塔跡
 山城普賢寺塔跡瓦散布1     山城普賢寺塔跡瓦散布2
 山城普賢寺本堂:堂内に国宝十一面観音立像を安置す。
○「日本の木造塔跡」:
心礎の大きさは1.5×1.5m、径51cm・深さ4cmの円孔を穿つ。表面を全面削平。
 (削平と云うのは疑問、むしろ後世に割られたものと思われる。)
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎の大きさは150×143×50cm、49×33cmの円柱孔。(33cmは3cmの誤植であろう)白鳳後期。
普賢寺空撮:中央が普賢寺、本堂・庫裏・参道の若干の並木などが見える。本堂の左手すぐの丘上が五重塔跡。

2022/11/18撮影:
普賢寺心礎のある丘には鎮守社から登るのであるが、少々道は荒れている。
 山城普賢寺心礎11     山城普賢寺心礎12     山城普賢寺心礎13     山城普賢寺心礎14
 心礎附近の布目瓦散布
 山城観音寺本堂1     山城観音寺本堂2     山城観音寺本堂3
 山城観音寺客殿      山城観音寺鐘楼
 山城観音寺鎮守社:鎮守であるが、明治初期は地主神社と呼ばれていたという。現在では式内社である地祇神社と云うも、勿論、でっち上げである。
 観音寺三重石塔1     観音寺三重石塔2:三重石塔が 本堂前右にある。
昭和50年代には石塔の体を成さない残欠であったが、その後、現在の三重石塔は川勝政太郎によって復元されたものという。
どこまでが古い部材なのかは明確ではないが、基礎と相輪は明らかに後補であろうが、各層の屋根と軸部は古いもののように見える。何れにしろ、平安期の姿を残すものと評価されているようである。

2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
「興福寺官務牒疏」:以下の記事がある。
「天平16甲申年勅願、良弁僧正再造開基。号息長山。大御堂本尊、丈六観世音。小御堂本尊、普賢菩薩。弘仁天皇宝亀9戌午五重大塔造立。」 「親山寺 号観心山親山寺、在普賢寺境内。本尊釈迦仏、義淵僧正開基。天武天皇勅願筒城寺云。白鳳2年草創也。」
心礎:今も本堂西南の丘上に小型の凹1段式の心礎がある。
 山城普賢寺心礎:この当時(少なくとも戦前には)心礎は半分土中に埋まり、縦に置かれていた ようである。
  ※つまりは、心礎は明らかに動かされていると云うことを示す。
2010/02/18追加:
「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による偽書(椿井文書) である。
普賢寺の山号を息長山としたのは椿井政隆と云う。(「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘)
 この山号については、以前から「違和感」があった。
南山城に継体天皇の筒城宮があったと云う記紀の記事があるにせよ、唐突に「息長山」と云う山号に出会っても、戸惑うばかりであろう。
しかし、実はこの山号は南山城で活躍し、普賢寺を中心とした歴史の創作に熱心であった椿井政隆の付与であるとすれば、この唐突さは容易に肯定け、「違和感」は解消される。

2009/01/10追加:
「古代寺院普賢寺の建物・基壇跡について ―2006 年度測量調査中間報告―」若林邦彦(同志社大学歴史資料館館報第10号) より
 普賢寺基壇実測図2006
「普賢寺塔心礎周辺の地形測量調査報告 − 2007 年度−」岩塚祐治・浜中邦弘(同志社大学歴史資料館館報第11号) より
 普賢寺基壇実測図2007
 ※何れも、発掘調査を伴わない調査のため、基壇規模・基壇化粧などは現段階では不明。


2006年以前作成:2023/01/30更新:ホームページ日本の塔婆