大 和 比 曽 寺 ・ 近 江 園 城 寺 三 重 塔

大和比曽寺・近江園城寺三重塔

大和比曽寺

現光寺・吉野寺とも称する。
現在は曹洞宗世尊寺と称し、本堂以下回廊で繋がれた諸堂を有する。
吉野の北西吉野川北岸の広く浅い山間にある。
寺伝では推古天皇のころ、聖徳太子が草創したと伝える。
出土瓦から、飛鳥期に堂塔が建立され、奈良期に現在礎石を残す薬師寺式伽藍(と云うより双塔式伽藍)が整えられたと推定される。、
その後、弘安2年金峰山寺春豪が再興し、更に西大寺叡尊が律院として再興したが、再び荒廃した。(「大和記」参照)
宝暦3年(1753)曹洞宗によって再興され、霊鷲山世尊寺と改号し、漸く伽藍が整う。
現状は中門の前左右に東塔跡西塔跡の基壇と礎石を良く残し、金堂および講堂礎石が境内に散在する。
 大和比曽寺境内( 世尊寺境内。中央に中門 が写るが、その手前の左右土壇が東西塔跡である。):2000/09/20撮影

比曽寺東塔は寺伝では聖徳太子が建立と云い、鎌倉期に改築と伝える。
文禄3年(1597)豊臣秀吉の命で、伏見観月橋下に移築し、さらに
慶長6年(1601)徳川家康の命で、近江園城寺(三井寺)に移築、園城寺三重塔(重文)として現存する。

○「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期: 比蘇寺
 毘蘇寺(釈日本紀)、比蘇寺(釈書)とかけり。比蘇寺又は現光寺といえり。
額は栗天八一(玉林抄)。當代たづねしに、此の額なくなりし時代を知らずとなり。
推古天皇三年四月、沈水香、淡路島に浮みよれり。その大きさ一圍(ひといだき)あり。浦人、沈水香をしらず。只、薪にまじえてくゆらかす、そのけぶり、いと遠くかおりける程に、いとあやしみて、みかどに奉つりけり(日本紀)。
聖徳太子、是れは沈水香木にて、その実は・舌のごとく、その花は丁子、そのあぶらは薫陸なり。水に沈みて久しきを沈水といひ、水に入りて久しからぬを浅香と申す、と奏し給いしかば、御門よろこびおぼしめして、觀音の像をつくらせ、吉野の比蘇寺に据え給うに、時々光明をはなち給うとなり(釈書)。それより現光寺の名あり(玉林抄)。
再興は弘安二年、金峯山より聖人來りて再興あり。西大寺の興正(こうしょう)菩薩戒法をすゝめて律院となりたり(太子伝抄)。
ようよう繁昌せしが、又破壊して當代かすかにのこれり。

○「飛鳥時代寺院址の研究」より:
 比曽寺址実測図
 比曽寺古図(推定江戸期)
往古の回顧図と思われるが、南大門、中門、東西塔、金堂、講堂、弁天、鎮守、太子堂、経蔵、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、鼓楼、食堂、東北西室、東門などがあり、外域に東院、西院、安居院、伝灯院、行幸院、百済院の6坊があったとされる。

比曽寺東塔跡

東塔心礎

○「日本の木造塔跡」:
心礎は1.2m×1.0mで中央に径22cm深さ10cmの孔を穿つ。さらに孔の周辺には一辺約60cmの方形の掘り込みがある。
四天柱礎は1個、側柱礎は11個残存する。側柱礎石は三重の造出を持ち、かなり精巧な造作である。塔一辺は4.9m。
2000/09/20撮影:
 大和比曽寺東塔跡
   同    礎石群
   同     心礎(左図拡大図)
   同     礎石1
   同     礎石2
   同     礎石3
   同     礎石4

2007/02/07追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
東塔跡土壇は高さ5尺5寸、一辺25尺。
12個の側柱礎は殆ど等間隔(5尺3寸5分)に固定され、大きさは2尺2寸×3尺くらいの小型の礎石である。上面には精巧な加工を施し、円柱座径1尺4寸5分、高さ1寸・巾8寸5分の地覆座を彫り出し、円柱座の下にひと回り大きい高さ約8分の円座を造るものである。
四天柱礎は2個を失い、2個だけを原位置に残し、表面に円柱座を彫り出す。
心礎は移動して、北辺の側柱礎の傍らにある。大きさは3×4尺くらいで、方約1尺9寸の彫り込みがあり、その中央に径約7尺3分深さ約3尺5分の碗形の孔がある。

○「飛鳥時代寺院址の研究」:
 比曽寺東塔心礎実測図
○2007/01/06追加:「日本建築史要」(付図)より:
 大和比蘇寺東塔心礎図

○2012/03/29撮影:
 比曽寺東塔跡土壇      比曽寺東塔跡礎石1     比曽寺東塔跡礎石2     比曽寺東塔跡礎石3
 比曽寺東塔跡礎石4     比曽寺東塔跡礎石5     比曽寺東塔跡礎石6     比曽寺東塔跡礎石7
 比曽寺東塔心礎1     比曽寺東塔心礎2     比曽寺東塔心礎3     比曽寺東塔心礎4
 比曽寺東塔心礎5     比曽寺東塔心礎6     比曽寺東塔心礎7
 比曽寺東塔側柱礎北列     比曽寺東塔側柱礎東列

比曽寺西塔跡

○「日本の木造塔跡」:塔は飛鳥時代創建という。
現在塔土壇と礎石13個を残す。相次ぐ戦乱で「賊の手によって焼失せり」と今昔物語に記されていると云う。
西等心礎の大きさは1.23m×0.91mで形状は三角形をなす。中央に径23cm深さ8cmの円孔を穿つ。極薄い径約60cmの柱座がある。( この柱座は良く観察すると見え る)
四天柱礎3個および側柱礎9個が残存する。側柱礎にも約60cmの薄い柱座がある。塔一辺は4.88m。
2000/09/20撮影:
 大和比曽寺西塔跡遠望(中央が西塔土壇)         同     塔土壇
   同     心礎
   同     礎石1(中央左上が心礎)           同     礎石2(中央左が心礎)

○2007/02/07追加:「大和の古塔」
西塔跡は高さ約5尺の土壇を残す。礎石は12個が残存し、側柱礎は低い円柱座を持ち、地覆座を造るものもある。
四天柱礎は方形の一隅を欠く形式のもの、心礎は長方形で、径7寸7分×2寸7分の孔を穿つ。
平面は方16尺1寸で、殆ど東塔と同一の平面を持つ。
西塔の沿革は殆ど不明、寛永10年の西大寺記録にこの寺に塔1基が記録される、この塔とは西塔なのであろうか?。

○「飛鳥時代寺院址の研究」:
 比曽寺西塔心礎実測図

○2012/03/29撮影:
 比曽寺西塔跡土壇1     比曽寺西塔跡土壇2
 比曽寺西塔跡礎石1    比曽寺西塔跡礎石2    比曽寺西塔跡礎石3    比曽寺西塔跡礎石4    比曽寺西塔跡礎石5
 比曽寺西塔心礎1      比曽寺西塔心礎2      比曽寺西塔心礎3      比曽寺西塔心礎4      比曽寺西塔心礎5

●比曽寺東塔跡・西塔跡

○「大和の古塔」:
 比曽寺東塔西塔心礎実測図

◎東塔・西塔の脇柱礎石と四天柱礎石
相対的に何れも礎石は小振りである。就中、四天柱礎石は特に粗雑である。
東塔側柱礎石は三重の造出を持つ礎石も多く、西塔側柱礎石と比べて造りが精巧である。この差異は西塔と東塔が同時に造作さえたのではなく、おそらくは西塔は遅れて建立されたものと考えられる。

比曽寺西塔側柱・四天柱礎石写真

比曽寺東塔側柱・四天柱礎石写真

 ◇比曽寺東塔西塔跡実測図:部分図・・・・「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 10巻5号」考古学協会、昭和14年 所収) より転載
この実測図は上に掲載の「比曽寺址実測図」(「飛鳥時代寺院址の研究」田茂作、昭和19年)と同一のものと蔽われるが、それはさておき、
西塔址の残存礎石は現在の状況と同一であるが、東塔址は心礎が北辺側柱礎石近くにあり、南西四天柱礎石は欠失となっている。
また、上に掲載の「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 の東塔の説明では
「四天柱礎は2個を失い、2個だけを原位置に残し、・・・・心礎は移動して、北辺の側柱礎の傍らにある。」とある。
なお、これも上に掲載の「日本の木造塔跡」では「四天柱礎は1個、側柱礎は11個残存する。」
と云うも、これは側柱礎石1個と四天柱礎石2個が現在より、少ないということになるが、これは良く理解できない。
 「日本の木造塔跡」の記述を別にすれば、戦前までは東塔心礎は北側に動かされ、四天柱礎は2個のみ残存していたが、どうやら戦後に心礎は東塔跡の中央に戻され、また欠失していた南西四天柱礎石はどこからか形状が似ている礎石が「発見」され、原位置に設置されたものと推定される。

●その他:
中門内に柱座のある金堂礎石8個が残存し、また現本堂を一周する形で講堂跡と思われる礎石が十数個残存する。
2000/09/20撮影:
 金堂礎石       講堂礎石
2012/03/29撮影:
 比曽寺礎石:山門を入りすぐ左手にある。
 比曽寺講堂礎石1     比曽寺講堂礎石2     比曽寺講堂礎石3     比曽寺講堂礎石4
 比曽寺金堂礎石

 世尊寺山門     世尊寺山内1    世尊寺山内2
 世尊寺本堂     世尊寺本堂・庫裏     世尊寺鐘楼
 世尊寺太子堂:本尊聖徳太子、享保年中(1716-)の建立考えられる。


近江園城寺三重塔

文禄3年(1597)大和比曽寺東塔、豊臣秀吉が伏見観月橋下に移築。
慶長6年(1601)年徳川家康、伏見より近江園城寺(三井寺)に移築。

近江園城寺三重塔

2001/12/09撮影:
 近江園城寺三重塔1(左図拡大図)
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
一辺4.84m、高さ24,7m、南北朝期の建立と推定される。
和様を主軸にした古典的な様式を持つ。2009/01/27撮影:
 近江園城寺三重塔11
   同        12
   同        13
   同        14
   同        15
   同        16
   同        17

○園城寺中院三重塔:2015/05/09撮影
 中院三重塔11     中院三重塔12     中院三重塔13     中院三重塔14     中院三重塔15     中院三重塔16
 中院三重塔初重11     中院三重塔初重12     中院三重塔初重13     中院三重塔初重14
 中院三重塔二重11     中院三重塔二重12     中院三重塔二重13
 中院三重塔三重       中院三重塔遠望       中院三重塔相輪

2007/02/07追加:「大和の古塔」
初重擬宝珠の刻銘:「寛永4年・・・」の文字がある。
初重平面方16尺1寸4分5厘、各間は5尺2寸7分5厘の等間で、この規模は比曽寺東塔の規模と概ね合致する。全高は82尺4寸8分。
 園城寺三重塔実測図

2007/08/12追加:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 近江園城寺三重塔

2009/02/08追加:園城寺絵葉書
 園城寺三重塔古写真1       同         2
   同         3
2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:本はがきの年代は通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 三井寺三層塔


中世の園城寺堂塔:塔婆については、10基数え、その数に瞠目する。

園城寺境内古図<推定正和元年(1312)−建武2年(1336)製作>
 ※平成20年大阪市立美術館「智証大師円珍入唐求法帰朝1150年を記念・国宝三井寺展」にて実見。大部であり、大変な迫力である。
北院・中院・南院・三別所・如意寺の5幅に分けて表されている。
上図によると
中院には五重塔、三重塔、別所水観寺三重塔、北院には新羅社三重塔、別所常在寺三重塔、
南院には別所徴妙寺三重塔、別所尾蔵寺三重塔、別所近松寺三重塔、別院如意寺三重塔、別院世喜寺三重塔
の合計10基の塔婆が描かれる。

◆中 院

 近江園城寺中院:左図拡大図

2007/08/12追加:
 近江園城寺中院2:左図の 大容量画面

図上部は廻廊に囲まれた金堂 があり、廻廊南門の南すぐに中院三重塔がある。

図下部には大門(大門入って左築地塀中は唐院、右手は大湯屋、食堂)があり、楼門に至る。
楼門を入ってすぐ左(南)に中院五重塔、普賢堂、五大堂、右に講堂、尊星王堂がある。

図最下部右(大門門前右)は水観寺で、寺門、浴室、薬師堂、鎮守社、水観寺三重塔、食堂、本堂、如法堂、法華堂、鐘堂などの伽藍があった。

水観寺:
東海道名所図會「寺門惣門の下、路の北にあり。三井5別所・・。本尊薬師仏を安ず。・・・」  名所図會挿絵でははっきりはしないが、まだ相当な堂宇があったように思われる。
現在は三井寺山内(三尾神社西側付近)に一宇が再興される。本尊薬師如来。

北 院

近江園城寺北院:右図拡大図

図中央は新羅社で、鳥居、楼門・廻廊、大拝殿があり、楼門を入って左に新羅社三重塔がある。
大拝殿奥に新羅社がある。

図上部右は常在寺で、図右下方に常在寺総門があり、新羅社背後の参道を進み、右に湯屋を見て、高台の常在寺に至る。南の楼門を入り右から食堂、本堂、鐘楼、法華堂、常在寺三重塔の伽藍がある。
三重塔左奥には如法堂がある。

常在寺:五別所の一つである。
東海道名所図會「三井北院惣門のほか、新羅社の西にあり。熊野三所権現を勧請す。寺門5別所・・。本尊釈迦仏・・・。開基大僧正行尊(1067-1135)・・・」
名所図會挿絵には若干の堂宇が描かれる。
現在の国際交流センターあたりにあったという。太平洋戦争中、陸軍基地に転用のため廃寺という。
 

 

◆三別所

近江園城寺三別所:左図拡大図

図には上から五別所の内の三別所である徴妙寺・尾蔵寺・近松寺と世喜寺が描かれ、各々本堂および三重塔がある。

徴妙寺:図最上段の伽藍で、本堂、徴妙寺三重塔、薬師堂、食堂、如法堂、鐘楼、、鎮守、門、浴室などがあ る。

尾蔵寺:図中段上の伽藍で、本堂、尾蔵寺三重塔、法華堂、食堂、鎮守、鐘楼、門、浴室、若宮八幡などがあ る。

近松寺:図中段下の伽藍で、本堂、近松寺三重塔、法華堂、食堂、如法堂、鐘楼、門、浴室などがあ る。

世喜寺:図再下段の伽藍で、本堂、世喜寺三重塔、その他堂宇があった。

三井寺五別所は、微妙寺、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺であるが、
尾蔵寺と常在寺は現在廃絶する。
微妙寺と水観寺は三井寺の山内に移され、現存する。
近松寺は創建当初から現在まで同じ場所にある。

 

東海道名所図絵に見る園城寺

東海道名所圖會から:三井寺伽藍図( 全図)、三重塔(部分図)
記事;「三層塔:唐院にあり。本尊釈迦三尊仏。この塔はじめは大和国比蘇寺にあり。御当家におよんで、命ありてここに移す。」

寺門5別所のうち、常在寺は絵図の右端上、新羅社の上部に、水観寺は絵図の1ページ目の左、大門から仁王門に至る参道の北側にある。
南院鎮守三尾社は絵図では位置が分かり難いが、絵図の左端上に、新宮社は左端下(現在地と同じ位置)に描かれる。

 ◎別所尾蔵寺・近松寺:東海道名所図會に見る

◇常在寺:
東海道名所図會「三井北院惣門のほか、新羅社の西にあり。熊野三所権現を勧請す。寺門5別所・・。本尊釈迦仏・・・。開基大僧正行尊(1067-1135)・・・」
名所図會挿絵には若干の堂宇が描かれる。
現在の国際交流センターあたりにあったという。太平洋戦争中、陸軍に接取、軍用地に転用のため廃寺という。
◇微妙寺:
東海道名所図會「関山の北、尾蔵寺の西にあり。三井5別所・・。・・・むかしは96房あり。今わずかに5房存す。本尊寿一面観音。また薬師仏を安ず。・・・・」
微妙寺は南院(現在の長等公園)にあったが、現在は三井寺山内(金堂から南に下って突き当たり、観音堂への道に左折するあたり)に一宇が再建されている。堂内安置の十一面観音立像 (重文・平安初期)は旧尾蔵寺本尊と伝える。
◇尾蔵寺:
東海道名所図會「近松寺の北にあり。三井五別所・・。開基智証大師。・・・いにしえは尾蔵寺に80坊あり。今わずかに5房存す。本尊十一面観音を安ず。・・・・」
本尊は現在の微妙寺に安置。
◇近松寺:
東海道名所図會「正法寺の西の方、山腹にあり。いにしえは近松谷に126房あり。三井5別所・・。本尊千手観音。金色・・智証大師の作。額に『高観音堂』とあり。・・・傍らに阿弥陀堂あり。・・・」
近松寺は南院(日赤病院の裏山)の旧地に「高観音」と称し、現存する。

参考;世喜寺:5別所とは無関係である。
東海道名所図會「同街(清水街)の左の山手にあり。『拾芥抄』にいわく『関寺本尊弥勒。・・いにしえは伽藍巍々として三井寺の別院なり。中頃恵心僧都もここに住みたまふ。今時宗となり、本尊阿弥陀仏を安ず。』
牛塔・・・」
世喜寺跡には現在は長安寺(時宗)がある。世喜寺は日本三大仏の1つとして五丈の弥勒仏を安置したという。草創年代は不詳。天延4年(976)大地震で大仏 なども損壊。恵心僧都源信および弟子延鏡が復興に努め、寛仁2年(1018)本尊、治安2年(1022)伽藍がほぼ再興された。鎌倉期一遍上人がこの寺に留錫し時宗となる、慶長年間(1596-1615)兵火で焼亡。小堂宇 が再興され、今日まで存続する。境内に残る大きな礎石一個と牛塔にわずかに昔をしのぶことが出来る。牛塔は石造宝塔(国重文)で、恵心僧都の関寺復興の供養碑といわれ、石造宝塔としては最古最大であるとされる。 鎌倉初期、高さ3.3m、重文。
 

如意寺

園城寺別院如意寺:右図拡大図

図下段から、山門を入り、不動堂、浴室などがあり、上の段に楼門、住吉社、稲荷社、阿須賀社、さらに上段に、熊野三社、五体王子、四所明神、その上に宝珠院般若堂、鐘堂などがある。(これは西方の鹿ヶ谷を入り口とし、楼門の滝の東一帯にあったとされる。建物は西向きであったという)

図中段には、楼門をはいり、正寶院、山王社、西方院本堂などを経て、大慈院に至る。大慈院には本堂・庫裏、一切経蔵、鐘楼などがある。
大慈院上には深禅院本堂、灌頂堂、如法堂、赤尾社などがあった。(これは山科の東、藤尾を登り口とした一郭であった)

図最上段には如意寺伽藍があった。如意寺東門、不動堂、大黒堂、三島社、高良社、稲荷社、若宮社、高良社(2社目)、神業社、武内社を経て、延寿堂、如意寺三重塔、講堂、常行堂、法華堂があった。さらに上段には門、本堂、食堂、経蔵、鐘堂、新羅社、護法白山などがあった。(これは園城寺方面を入り口とする)

この絵図では天台の大寺院の典型として、往時の伽藍が良く表されて、およそ67以上の堂宇が描かれる。

三重塔:如意寺伽藍中、珍しい本瓦葺建物(他の例は西方寺本堂)であったとされる。朱塗、石積基壇を持つ。

 

如意寺:
都名所図會「・・・いにしえは如意嶽楼門滝の傍にありて諸堂巍々たり。開基智証大師・・・・乱逆の世滅亡し、久しく荒廃の地となりしを、霊鑑寺尼公御再建あつて、旧地の麓今の所に小堂をいとなみ給ふ。・・・」
都名所図會に見る如意寺:ささやかな堂宇が再興されていたのみと思われる。
如意寺は園城寺の別院で、智証大師の開基と伝えるも、明らかでない。延元元年(1336)兵火で焼亡したと云う。
江戸中期には山麓の霊鑑寺によって山中に本堂・庫裏・書院などの若干の堂宇が再興されたというが、明治維新後荒廃し、ほとんど遺構は残さないと云う。

2009/01/27追加:
近江園城寺現況

寺門・山門(延暦寺)の争いで、山門により、何度も焼き討ちに遭うが、そのつど再興される。
現在の伽藍は基本的に豊臣・徳川両氏により再興されたものである。
 園城寺境内図
 三井寺一山獨案内之地圖: 年代不詳(勿論弘文帝や長等神社などの名称から明治以降のものであるが、明治33年竣工の長等神社楼門が描かれず、このことから明治33年以前のものであろうか。訂正大津市街新地図 より

▽印は2009/01/27撮影、無印は2015/05/09撮影:

○園城寺北院新羅善神堂:国宝、貞和3年(1347)、三間社流造、向拝1間、桧皮葺、足利尊氏の再建と伝える。
 ▽園城寺新羅善神堂1    ▽  同        2    ▽  同        3    ▽  同        4
昭和9年台風により山内多くの倒木があり、新羅社本地堂、拝殿か全壊する。
 北院新羅善神堂11     北院新羅善神堂12     北院新羅善神堂13     北院新羅善神堂14     北院新羅善神堂15
 北院新羅善神堂16     北院新羅善神堂17     北院新羅善神堂18     北院新羅善神堂19
 北院新羅明神境内1      北院新羅明神境内2     北院新羅明神堂舎1     北院新羅明神堂舎2
○園城寺北院法明院;三寺山内の唯一の律院という。享保八年(1723)中興される。
 北院法明院1     北院法明院2     北院法明院3     北院法明院4
 新羅三郎義光の墓
明治6年旧別所村・山上村にまたがる地域が陸軍に接取・練兵場となる。このとき園城寺北院の大部が潰され、戦後は米軍のキャンプ地として用いられる。その後大津市に移管され、皇子ケ丘公園として整備される。

○園城寺中院仁王門:重文、宝徳4年(1452)、三間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺、近江常楽寺仁王門を移築と云う。
  (秀吉は伏見に移築、慶長6年家康が伏見より移築と伝える。三重塔と同様の経緯を経る。)
 ▽園城寺仁王門1    ▽園城寺仁王門2    ▽園城寺仁王門3
 中院仁王門11     中院仁王門12     中院仁王門13     中院仁王門14     中院仁王門15
 中院仁王門16     中院仁王門17
○園城寺中院釈迦堂(食堂):重文、天正年中建立の御所清涼殿を下蝿され移築する、桁行7間梁間4間、入母屋造、桧皮葺
 ▽近江園城寺食堂1    ▽  同       2
 中院釈迦堂11     中院釈迦堂12     中院釈迦堂13     中院釈迦堂14
 中院弁天社;写真なし
○園城寺中院金堂:国宝、慶長4年(1599)北の政所(豊臣氏)の再興、桁行7間梁間7間、入母屋造、桧皮葺
 2001/12/09撮影:近江園城寺金堂1     近江園城寺金堂2     金堂斗栱 1     金堂斗栱 2
 ▽近江園城寺金堂11   ▽近江園城寺金堂12   ▽近江園城寺金堂13   ▽近江園城寺金堂14   ▽近江園城寺金堂15
 中院金堂21     中院金堂22     中院金堂23     中院金堂24     中院金堂25     中院金堂26
 中院金堂27     中院金堂28     中院金堂29     中院金堂30     中院金堂31     中院金堂32
 中院金堂33
○園城寺中院教待堂:
教待和尚像を安置。教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた老僧で、 大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠すという。 その石窟上に一宇を建て廟としたのが教待堂である。
 ▽園城寺教待堂
 中院教待堂1     中院教待堂2
○園城寺中院鐘楼:重文、慶長7年(1602)、1間×2間、切妻造、桧皮葺
 ▽近江園城寺鐘楼
 中院鐘楼1     中院鐘楼2     中院鐘楼3
○園城寺中院閼伽井屋:重文、慶長5年(1600)建立、3間×2間、向唐破風造、桧皮葺
 ▽園城寺閼伽井屋1    ▽  同       2
 中院閼伽井屋1     中院閼伽井屋2     中院閼伽井屋3     中院閼伽井屋4     中院閼伽井屋5
 中院閼伽井屋6
○園城寺寺中圓満院:
「東海道名所圖繪」では「寺門境内にあり。聖護院宮・圓満院宮・実相院宮、この三御門跡をもって三井の長吏(座主)とす。」とあり、園城寺寺中であり、三井寺長吏の一員であったとする。
圓満院は寛和3年(987)村上天皇皇子悟円法親王により創建されると云う。
宸殿は重文。入母屋造、杮葺。当初は元和5年(1619)徳川秀忠五女・和子(東福門院)が後水尾天皇に入内した時の造営、正保4年(1647)明正天皇により円満院に下賜移築される。但し、障壁画は複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に売却・収蔵されている。
2009年6月、平安後期創建の門跡寺院「円満院」の国の重文「宸殿」や大津絵美術館、庫裡など9棟、名勝・史跡指定の庭園などを含む敷地約4235坪が大津地裁で競売にかけられ、滋賀県甲賀市の宗教法人が約10億6700万円で落札、後日成立する。
 ※甲賀市の宗教法人とは水口大岡寺と云う。
圓満院(門跡三浦道明)は墓地経営・仏像販売などの失敗で多額の負債を抱え、1997年に狩野派の絵師が描いた宸殿の障壁画を売却。
従って、現在の宸殿の障壁画は複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されている。
圓満院ではさまざまな不祥事が発生し、絶縁したのかあるいは絶縁されたのかは不明であるが、現在は三井寺から離脱し単立である。
旧蔵の重文は以下があり、戦後売却されたという。
絹本著色浄土曼荼羅図 <九州国立博物館>、絹本著色虚空蔵菩薩像<奈良国立博物館>、金地著色風俗図4面(宸殿五之間襖貼付)<京都国立博物館>、金地著色住吉社頭図6面(宸殿一之間床間及び違棚壁貼付)<京都国立博物館>、紙本著色七難七福図3巻 円山応挙 筆(附:応挙筆画稿2巻、祐常筆注文画稿1巻)<相国寺承天閣美術館>、絹本著色孔雀牡丹図、円山応挙 筆<相国寺承天閣美術館>、紙本著色園城寺境内古図12幅<京都国立博物館>、後深草天皇宸翰消息断簡2通<京都国立博物館>、後光厳院宸翰消息(何条事候哉云々)<相国寺承天閣美術館>
 ▽三井寺円満院門跡
 圓満院勅使門     圓満院庫裡/御常御殿/玄関/宸殿     圓満院玄関
 圓満院宸殿1     圓満院宸殿2     圓満院西側(裏側)堂宇
○園城寺寺中光浄院;
光浄院客殿(国宝)を有する。現在の客殿は豊臣秀吉による闕所後慶長6年(1601)の再建。
その外観は勧学院客殿に良く似る。
桁行7間・梁間6間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、屋根柿葺。中門が付き、中門の北に唐破風付の車寄・蔀戸を吊る。内部は南側の上座の間・次の間・車寄、北側の六畳・八畳・十二畳・四畳の二列に分けられる。
秀吉の死の目前に園城寺の闕所は解かれ、秀吉の死後、北政所によって再建が進められる。子院である勧学院、光浄院、日光院には、要人を迎える為の客殿が建てられる。それらはそれぞれ用途が異なり、勧学院客殿は僧侶を、光浄院客殿は武士を、そして日光院客殿は皇族をもてなす為の施設であったという。このうち日光院は既に廃され、その客殿は現在江戸音羽護国寺に 昭和3年移築され、現存する。
なお、上掲の「三井寺一山獨案内之地圖」ではこの谷筋上部に覚勝院、上光院とあり、さらに谷を上がった位置に「日光院」とあるので、日光院はこの谷筋のかなり上部に位置したものと思われる。
 光浄院入口石垣     光浄院客殿1     光浄院客殿2     光浄院客殿3     光浄院客殿4     光浄院客殿5
 光浄院寺門     光浄院玄関庫裡
○園城寺護法善神堂/本地堂/財林坊:
護法善神堂は享保12年(1727)建立とある。本尊は護法善神として鬼子母神(護法善神立像、重文、平安後期)を祀る。毎年五月中旬千団子祭が開催され、鬼子母神の千人の子供達の供養のために千の団子を供え、放生池には諸衆の願いをこめた霊亀を放す放生会が行われる。
古い絵図では放生池と唐門との間に拝殿があるが、今は退転(退転時期不明)してなし。
 護法善神堂放生池     護法善神堂1     護法善神堂2;唐門:寛政11年(1797)建立
 護法善神堂3     護法善神堂4     護法善神堂5
 ※放生池東に表門が存在するも、未見。
以下は資料がなく、推測である。
財林坊は護法社の別当であろう。(社僧と記した資料がある。)また護法社本地堂とは鬼子母神の本地仏とは自己矛盾であるので、鬼子母神そのものを祀るのかこれは良く分からない。
 護法社財林坊寺門・門番;享保12年(1727)建立      護法社財林坊庫裡客殿     護法社財林坊
 護法社本地堂:慶安4年(1651)建立
○園城寺中院熊野権現:平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請、現社殿は天保8年(1837)再建。
 中院熊野権現
○園城寺中院霊鐘堂
 中院霊鐘堂1     中院霊鐘堂2
○園城寺経蔵;
八角輪蔵:重文、室町前期〜中期、構造は方1間の一重宝形造であるが、外観は裳階を付設するため、3間×3間の二重に見える。屋根桧皮葺、禅宗様を用いる、もとは周防国清寺経蔵、慶長7年(1602)毛利輝元が移築する。
 ▽園城寺一切経蔵    ▽園城寺八角輪蔵1    ▽  同       2
 中院経蔵1     中院経蔵2     中院経蔵3     中院経蔵4     中院経蔵5
 中院経蔵内部01     中院経蔵内部02     中院経蔵内部03     中院経蔵内部04     中院経蔵内部05
 中院経蔵内部06     中院経蔵内部07     中院経蔵内部08     中院経蔵内部09     中院経蔵内部10
 中院経蔵内部11

○経蔵と三重塔間の谷筋西(上り)に覚勝院、善法院(坊舎は退転か)があるも、未見。
なお、上掲の「三井寺一山獨案内之地圖」ではこの谷筋上部に覚勝院、上光院とあり、さらに谷を上がった位置に「日光院」とある。

◎園城寺中院唐院:智証大師(円珍)の廟所及び灌頂の道場である。
 中院唐院門前      中院唐院四脚門1     中院唐院四脚門2
○唐院大師堂:重文、慶長3年(1598)、桁行3間梁間2間、宝形造、桧皮葺、智証大師像安置
 ▽園城寺唐院大師堂
 中院唐院大師堂
○唐院伽藍:門内正面は潅頂堂(重文、桃山期、5間×5間、入母屋造、桧皮葺)
 ▽園城寺唐院伽藍
 中院唐院灌頂堂
○長日護摩堂は方3間宝形造、江戸初期後水尾天皇の祈願によって建立と云う。
 中院唐院長日護摩堂

◎園城寺中院総門より西に伸びる参道筋の諸坊
 園城寺寺中配置図
 上に掲載の「
三井寺一山獨案内之地圖では宝寿院西に千乗院、■栄院、玉泉院、山王院が、普賢堂西に金乗院が描かれる。
中院総門
 中院総門1     中院総門2
寺中行者堂
 ▽三井寺行者堂1     ▽三井寺行者堂2
 中院行者堂山門     中院行者堂境内     中院行者堂     行者堂境内弁天堂
寺中妙厳院
 ▽三井寺妙巌院
 寺中妙厳院1     寺中妙厳院2
寺中勧持院
 ▽勧持院
 寺中勧持院:寺門のみ残り坊舎は既に退転と推定される。
寺中龍泉院
 ▽龍泉院
 寺中龍泉院1     寺中龍泉院2     寺中龍泉院3     寺中龍泉院4
寺中本寿院
 ▽本寿院
 寺中本寿院1     寺中本寿院2
寺中万徳院
 ▽萬徳院
 寺中万徳院1     寺中万徳院2     寺中万徳院3     寺中万徳院4
寺中勧学院:
客殿(国宝)は慶長6年(1600)の再建である。正面七間 側面七間 一重 入母屋造、妻入 正面軒唐破風付 総柿葺
光浄院客殿と外観は良く似るが、内部は三列八室から成り、光浄院客殿より規模が大きい。一之間と広い二之間の障壁画は 狩野光信の筆による。
 ▽三井寺勧学院
 寺中勧学院山門     寺中勧学院客殿1     寺中勧学院客殿2     寺中勧学院客殿3
 寺中勧学院玄関     寺中勧学院庫裡
寺中宝寿院:寺門には「三井古流煎茶道本部」の門札を掲げる。
 寺中宝寿院1     寺中宝寿院2
寺中円宗院:建物は新しく、寺門以外は古くからの坊舎の面影はない。寺門には「西坊」との門札が掲げられるも意味は不明。
 寺中円宗院1     寺中円宗院2     寺中円宗院3
寺中法泉院
 ▽三井寺法泉院
 寺中法泉院1     寺中法泉院2     寺中法泉院3
寺中上光院;境内図には「園城寺佛教尊像修復院」との案内がある。
 寺中上光院1     寺中上光院2
寺中普賢堂:三尾明神の本地堂という。「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾明神社の項では「南院琴尾谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神なり。・・・本地堂には普賢菩薩を安ず。」という。普賢堂は三尾明神の社僧もしくは別當と思われる。
 ▽三井寺普賢堂
 寺中普賢堂1     寺中普賢堂2     寺中普賢堂3     寺中普賢堂4     寺中普賢堂5     寺中普賢堂6
 寺中普賢堂7
「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾影向石の項では「社頭にあり。」とある。
 影向石は「社頭(三尾明神社頭)にあり」というから、明治維新前までは、影向石の奥、普賢堂の奥付近に三尾社はあったものと思われる。
三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師入寺に際し、三尾三神(白尾・赤尾・黒尾)がこの影向石の場で会合し、大師を迎え、護法を誓うという。この奥の谷を琴尾谷という。
 三尾明神影向石1     三尾明神影向石2
普賢堂の奥には未だ多くの坊舎跡と思われる遺構が残存する。
 中院坊舎跡1     中院坊舎跡2     中院坊舎跡3     中院坊舎跡4     中院坊舎跡5     中院坊舎跡6


○南院観音堂:元禄2年(1689)建立、西国33所観音第十四番礼所
 ▽園城寺観音堂

 南院観音堂1     南院観音堂2
 南院観月舞台

○南院鐘楼:文化11年(1814)上棟<棟札>
 南院鐘楼1     南院鐘楼2
○南院三尾明神:
「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾明神社の項:
「南院琴尾谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神なり。例祭三月中の卯の日。神輿三基。本地堂には普賢菩薩を安ず。祭神赤尾・黒尾・白尾の神なり。 赤尾を本神とす。 この鎮座は太古にして知る人なし。 白尾は大宝年中に現じ、黒尾は神護景雲三年三月十四日、湖水より現ず。 その古跡を大波止という。 社伝にいわく、 赤尾天照太神、黒尾新羅太神、白尾白山権現。
 >三尾影向石:社頭にあり。」
明治維新の神仏分離の処置によって、出雲や伊勢に系列する社はすべて分離させられ、 新羅明神、鬼子母神といった異国に起源する神々だけは分離を免れる。早尾社、三尾社、 新宮社(新日吉社、分離によって長等神社などと改号する)などは分離させられる。
三尾明神は、園城寺の鎮守社の一つであり、明治維新前までは琴尾谷にあった(普賢堂の奥)が、明治維新の神仏分離の処置によって明治10年現在地に移築され る。
本殿(三間社流造・重文)は、応永33年(1426)の建築で、正面に前室が無く、装飾が少ない簡素な本殿である。園城寺三院のうち、 南院の鎮守社である。もともとは智証大師が琴緒谷に復興し、応永33年足利将軍は再興し、慶長年中には豊臣氏が修復する。
 南院鎮守三尾明神1     南院鎮守三尾明神2
○新宮社:貞観2年(860)智証大師が園城寺の鎮守として日吉山王権現を祀る。天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に遷る。
楼門は明治38年(1905)建立、本殿は正面五間の構造という。
 南院新宮社
○南院十八明神
通称「ねずみの宮」という。良く分からない話であるが、要するに叡山と寺門との確執・抗争を物語るものなのであろうか。
 南院十八明神

○別所徴妙寺:近世末までは尾蔵寺の西(現在長等公園)にあったが、今はただ南院 の一画に一宇が移建されているのみの状態である。
 ▽三井寺現微妙寺

 別所徴妙寺
○別所水観寺:近世末までは仁王門の東にある大門の外・向かって右側にあったが、現在は 総門内向かって左に本堂が移築される。
本堂は明暦元年(1655)の建築と云う。昭和63年からの解体修理で、から現在地へ移される。
 ▽三井寺現水観寺

 別所水観寺     別所水観寺裏側
○別所近松寺:高観音と称する。南院諸寺の大部が退転するも、創建当時の場所に今もある。
 ▽三井寺南院別所近松寺

 別所近松寺     別所近松寺本堂1     別所近松寺本堂2     別所近松寺善光寺     別所近松寺弁天社
○別所尾蔵寺:近松寺の北にあったが今は退転する。
尾蔵寺の唯一残る堂宇は子院の堂宇であるが、毘沙門堂がある。
 ○毘沙門堂:重文、元和2年(1616)、正面1間、側面2間、宝形造、桧皮葺 元和2年、三井五別所南院尾蔵寺南勝坊に建立、 明治42年三尾社の下に移築、昭和31年の修理に際し現在地に 再度移転。
 ▽園城寺毘沙門堂1    ▽  同       2    ▽  同       3
 別所尾蔵寺南勝坊毘沙門堂1    南勝坊毘沙門堂2    南勝坊毘沙門堂3    南勝坊毘沙門堂4    南勝坊毘沙門堂5


○南別所南院両願寺
「堅田源兵衛首」として有名、堅田源右衛門の木像を安置、現在は無住である。
 ▽三井寺南院別所両願寺
 堅田源兵衛首両願寺
なお、堅田光徳寺、等正寺、ここ両願寺に堅田源右衛門の首があるという。

■参考:倒壊した(長等)金刀比羅宮
近松寺に登る急階段の登り口に(長等)金刀比羅宮の倒壊した社殿がある。この金刀比羅宮の社歴は全く不明で、明治維新前から存続し、国家神道の序列に組み入れられた社なのか。それとも明治維新後に創建され、国家神道の序列外であったかは不明である。
もし、国家神道の序列に組み入れられた社であったとすれば、この社が荒れ果て倒壊までするとは驚きの光景である。三井寺とは無関係ではあるが、敢えて写真を掲載する次第である。
 金刀比羅宮鳥居と近松寺石碑     荒廃した金刀比羅宮境内     倒壊寸前の社務所     金刀比羅宮瑞垣
 倒壊した金刀比羅宮1      倒壊した金刀比羅宮1
 2013年の金刀比羅宮社殿;2013年03月21日「金比羅宮・近松寺」というページに倒壊前の社殿の写真がある。(引用)


2006年以前作成:2017/01/11更新:ホームページ日本の塔婆