★大和比曽寺
現光寺・吉野寺とも称する。
現在は曹洞宗世尊寺と称し、本堂以下回廊で繋がれた諸堂を有する。
吉野の北西吉野川北岸の広く浅い山間にある。
寺伝では推古天皇のころ、聖徳太子が草創したと伝える。
出土瓦から、飛鳥期に堂塔が建立され、奈良期に現在礎石を残す薬師寺式伽藍(と云うより双塔式伽藍)が整えられたと推定される。、
その後、弘安2年金峰山寺春豪が再興し、更に西大寺叡尊が律院として再興したが、再び荒廃した。(「大和記」参照)
宝暦3年(1753)曹洞宗によって再興され、霊鷲山世尊寺と改号し、漸く伽藍が整う。
現状は中門の前左右に東塔跡西塔跡の基壇と礎石を良く残し、金堂および講堂礎石が境内に散在する。
大和比曽寺境内(
世尊寺境内。中央に中門
が写るが、その手前の左右土壇が東西塔跡である。):2000/09/20撮影
比曽寺東塔は寺伝では聖徳太子が建立と云い、鎌倉期に改築と伝える。
文禄3年(1597)豊臣秀吉の命で、伏見観月橋下に移築し、さらに
慶長6年(1601)徳川家康の命で、近江園城寺(三井寺)に移築、園城寺三重塔(重文)として現存する。
○「大和名所記 : 和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期: 比蘇寺
毘蘇寺(釈日本紀)、比蘇寺(釈書)とかけり。比蘇寺又は現光寺といえり。
額は栗天八一(玉林抄)。當代たづねしに、此の額なくなりし時代を知らずとなり。
推古天皇三年四月、沈水香、淡路島に浮みよれり。その大きさ一圍(ひといだき)あり。浦人、沈水香をしらず。只、薪にまじえてくゆらかす、そのけぶり、いと遠くかおりける程に、いとあやしみて、みかどに奉つりけり(日本紀)。
聖徳太子、是れは沈水香木にて、その実は・舌のごとく、その花は丁子、そのあぶらは薫陸なり。水に沈みて久しきを沈水といひ、水に入りて久しからぬを浅香と申す、と奏し給いしかば、御門よろこびおぼしめして、觀音の像をつくらせ、吉野の比蘇寺に据え給うに、時々光明をはなち給うとなり(釈書)。それより現光寺の名あり(玉林抄)。
再興は弘安二年、金峯山より聖人來りて再興あり。西大寺の興正(こうしょう)菩薩戒法をすゝめて律院となりたり(太子伝抄)。
ようよう繁昌せしが、又破壊して當代かすかにのこれり。
○「飛鳥時代寺院址の研究」より:
比曽寺址実測図
比曽寺古図(推定江戸期)
往古の回顧図と思われるが、南大門、中門、東西塔、金堂、講堂、弁天、鎮守、太子堂、経蔵、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、鼓楼、食堂、東北西室、東門などがあり、外域に東院、西院、安居院、伝灯院、行幸院、百済院の6坊があったとされる。
★比曽寺東塔跡
東塔心礎
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○「日本の木造塔跡」:
心礎は1.2m×1.0mで中央に径22cm深さ10cmの孔を穿つ。さらに孔の周辺には一辺約60cmの方形の掘り込みがある。
四天柱礎は1個、側柱礎は11個残存する。側柱礎石は三重の造出を持ち、かなり精巧な造作である。塔一辺は4.9m。
2000/09/20撮影:
大和比曽寺東塔跡
同 礎石群
同 心礎(左図拡大図)
同 礎石1
同 礎石2
同 礎石3
同 礎石4 |
2007/02/07追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
東塔跡土壇は高さ5尺5寸、一辺25尺。
12個の側柱礎は殆ど等間隔(5尺3寸5分)に固定され、大きさは2尺2寸×3尺くらいの小型の礎石である。上面には精巧な加工を施し、円柱座径1尺4寸5分、高さ1寸・巾8寸5分の地覆座を彫り出し、円柱座の下にひと回り大きい高さ約8分の円座を造るものである。
四天柱礎は2個を失い、2個だけを原位置に残し、表面に円柱座を彫り出す。
心礎は移動して、北辺の側柱礎の傍らにある。大きさは3×4尺くらいで、方約1尺9寸の彫り込みがあり、その中央に径約7尺3分深さ約3尺5分の碗形の孔がある。
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
比曽寺東塔心礎実測図
○2007/01/06追加:「日本建築史要」(付図)より:
大和比蘇寺東塔心礎図
○2012/03/29撮影:
比曽寺東塔跡土壇 比曽寺東塔跡礎石1 比曽寺東塔跡礎石2 比曽寺東塔跡礎石3
比曽寺東塔跡礎石4 比曽寺東塔跡礎石5 比曽寺東塔跡礎石6 比曽寺東塔跡礎石7
比曽寺東塔心礎1 比曽寺東塔心礎2 比曽寺東塔心礎3 比曽寺東塔心礎4
比曽寺東塔心礎5 比曽寺東塔心礎6 比曽寺東塔心礎7
比曽寺東塔側柱礎北列 比曽寺東塔側柱礎東列
★比曽寺西塔跡
○「日本の木造塔跡」:塔は飛鳥時代創建という。
現在塔土壇と礎石13個を残す。相次ぐ戦乱で「賊の手によって焼失せり」と今昔物語に記されていると云う。
西等心礎の大きさは1.23m×0.91mで形状は三角形をなす。中央に径23cm深さ8cmの円孔を穿つ。極薄い径約60cmの柱座がある。(
この柱座は良く観察すると見え
る)
四天柱礎3個および側柱礎9個が残存する。側柱礎にも約60cmの薄い柱座がある。塔一辺は4.88m。
2000/09/20撮影:
大和比曽寺西塔跡遠望(中央が西塔土壇)
同 塔土壇
同 心礎
同 礎石1(中央左上が心礎)
同 礎石2(中央左が心礎)
○2007/02/07追加:「大和の古塔」
西塔跡は高さ約5尺の土壇を残す。礎石は12個が残存し、側柱礎は低い円柱座を持ち、地覆座を造るものもある。
四天柱礎は方形の一隅を欠く形式のもの、心礎は長方形で、径7寸7分×2寸7分の孔を穿つ。
平面は方16尺1寸で、殆ど東塔と同一の平面を持つ。
西塔の沿革は殆ど不明、寛永10年の西大寺記録にこの寺に塔1基が記録される、この塔とは西塔なのであろうか?。
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
比曽寺西塔心礎実測図
○2012/03/29撮影:
比曽寺西塔跡土壇1 比曽寺西塔跡土壇2
比曽寺西塔跡礎石1 比曽寺西塔跡礎石2 比曽寺西塔跡礎石3 比曽寺西塔跡礎石4 比曽寺西塔跡礎石5
比曽寺西塔心礎1 比曽寺西塔心礎2 比曽寺西塔心礎3 比曽寺西塔心礎4 比曽寺西塔心礎5
●比曽寺東塔跡・西塔跡
○「大和の古塔」:
比曽寺東塔西塔心礎実測図
◎東塔・西塔の脇柱礎石と四天柱礎石
相対的に何れも礎石は小振りである。就中、四天柱礎石は特に粗雑である。
東塔側柱礎石は三重の造出を持つ礎石も多く、西塔側柱礎石と比べて造りが精巧である。この差異は西塔と東塔が同時に造作さえたのではなく、おそらくは西塔は遅れて建立されたものと考えられる。
比曽寺西塔側柱・四天柱礎石写真
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比曽寺東塔側柱・四天柱礎石写真
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◇比曽寺東塔西塔跡実測図:部分図・・・・「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 10巻5号」考古学協会、昭和14年 所収)
より転載
この実測図は上に掲載の「比曽寺址実測図」(「飛鳥時代寺院址の研究」田茂作、昭和19年)と同一のものと蔽われるが、それはさておき、
西塔址の残存礎石は現在の状況と同一であるが、東塔址は心礎が北辺側柱礎石近くにあり、南西四天柱礎石は欠失となっている。
また、上に掲載の「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 の東塔の説明では
「四天柱礎は2個を失い、2個だけを原位置に残し、・・・・心礎は移動して、北辺の側柱礎の傍らにある。」とある。
なお、これも上に掲載の「日本の木造塔跡」では「四天柱礎は1個、側柱礎は11個残存する。」
と云うも、これは側柱礎石1個と四天柱礎石2個が現在より、少ないということになるが、これは良く理解できない。
「日本の木造塔跡」の記述を別にすれば、戦前までは東塔心礎は北側に動かされ、四天柱礎は2個のみ残存していたが、どうやら戦後に心礎は東塔跡の中央に戻され、また欠失していた南西四天柱礎石はどこからか形状が似ている礎石が「発見」され、原位置に設置されたものと推定される。
●その他:
中門内に柱座のある金堂礎石8個が残存し、また現本堂を一周する形で講堂跡と思われる礎石が十数個残存する。
2000/09/20撮影:
金堂礎石
講堂礎石
2012/03/29撮影:
比曽寺礎石:山門を入りすぐ左手にある。
比曽寺講堂礎石1 比曽寺講堂礎石2 比曽寺講堂礎石3 比曽寺講堂礎石4
比曽寺金堂礎石
世尊寺山門 世尊寺山内1 世尊寺山内2
世尊寺本堂 世尊寺本堂・庫裏 世尊寺鐘楼
世尊寺太子堂:本尊聖徳太子、享保年中(1716-)の建立考えられる。
★近江園城寺三重塔
文禄3年(1594)大和比曽寺東塔、豊臣秀吉が伏見観月橋下に移築。
慶長6年(1601)徳川家康、伏見より近江園城寺(三井寺)に移築。 室町前期の建立と推定される。 三重とも椽に勾欄を付ける、斗栱は和様三手先を用いる。二重と三重の中央間の窓には菱格子が入る。
○園城寺中院三重塔:2015/05/09撮影
中院三重塔11 中院三重塔12 中院三重塔13 中院三重塔14 中院三重塔15 中院三重塔16
中院三重塔初重11 中院三重塔初重12 中院三重塔初重13 中院三重塔初重14
中院三重塔二重11 中院三重塔二重12 中院三重塔二重13
中院三重塔三重 中院三重塔遠望 中院三重塔相輪
2019/11/16撮影: 三井寺三重塔:園城寺中院三重塔、三井寺唐院三重塔
三井寺三重塔南面
三井寺三重塔初重 初重内部には四天柱を建て、心柱は初重には下りず、二重梁の上から建つと思われる。 ※比曽寺あるいは伏見からの移築に際し、改造されたのであろうか。
四天柱の後2本には来迎壁を設け、四天柱内に須弥壇を置き、釈迦三尊を安置する。(釈迦三尊の写真は下に転載)
三井寺三重塔46 三井寺三重塔47 三井寺三重塔48 三井寺三重塔49 三井寺三重塔50
三井寺三重塔51 三井寺三重塔52 三井寺三重塔53 三井寺三重塔54 三井寺三重塔55
三井寺三重塔56 三井寺三重塔57 三井寺三重塔58 三井寺三重塔59 三井寺三重塔60
三井寺三重塔61 三井寺三重塔62 三井寺三重塔63 三井寺三重塔64 三井寺三重塔65
三井寺三重塔66
三井寺三重塔相輪
三井寺三重塔67 三井寺三重塔68 三井寺三重塔69
2023/04/07撮影:
三井寺三重塔70 三井寺三重塔71
2023/04/29撮影:
2020/01/22追加:
○2019/11月三重塔内部が公開される。 三重塔内部は撮影禁止。
○「不死鳥の寺 三井寺」JR西日本発行ルーフレット より
唐院三重塔釈迦三尊
○「唐院伽藍及び三重塔 見学の栞」総本山三井寺 より 室町初期、初重内部の天井は折上小組格天井。
三重塔内部
三重塔本尊釈迦三尊像:元和9年(1623)康温作、この像は後陽成天皇7回忌に宮中で行われた法華八講の本尊として造立される。
2007/02/07追加:「大和の古塔」
初重擬宝珠の刻銘:「寛永4年・・・」の文字がある。
初重平面方16尺1寸4分5厘、各間は5尺2寸7分5厘の等間で、この規模は比曽寺東塔の規模と概ね合致する。全高は82尺4寸8分。
園城寺三重塔実測図
2007/08/12追加:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
近江園城寺三重塔
2009/02/08追加:園城寺絵葉書
園城寺三重塔古写真1 同 2
同 3
2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:本はがきの年代は通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
三井寺三層塔
★中世の園城寺堂塔:塔婆については、10基を数え、その数に瞠目する。
園城寺境内古図<推定正和元年(1312)−建武2年(1336)製作>
※平成20年大阪市立美術館「智証大師円珍入唐求法帰朝1150年を記念・国宝三井寺展」にて実見。大部であり、大変な迫力である。
北院・中院・南院・三別所・如意寺の5幅に分けて表されている。
上図によると
中院には五重塔、三重塔、別所水観寺三重塔、北院には新羅社三重塔、別所常在寺三重塔、
南院には別所徴妙寺三重塔、別所尾蔵寺三重塔、別所近松寺三重塔、別院如意寺三重塔、別院世喜寺三重塔
の合計10基の塔婆が描かれる。 2020/10/06追加: 「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
本図は中世の園城寺の根本繪圖とも云うべきものであり、後世何度も写本が作られる。
その写本の一つに「園城寺境内古図」(重文、狩野派、12幅、桃山期)がある。 ※本図は本書に掲載されるが、本ページには転載をしない。
ほかに、実相院旧蔵の六幅本(所在不明)、個人所有の六曲一双本などがある。さらに園城寺法明院伝来の写本「園城寺再興略記」(嘉永元年/1848)中に五幅分の挿絵があるが、これも写本の一種であろう。
◆中 院
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近江園城寺中院:左図拡大図
2007/08/12追加:
近江園城寺中院2:左図の
大容量画面
図上部は廻廊に囲まれた金堂
があり、廻廊南門の南すぐに中院三重塔がある。
図下部には大門(大門入って左築地塀中は唐院、右手は大湯屋、食堂)があり、楼門に至る。
楼門を入ってすぐ左(南)に中院五重塔、普賢堂、五大堂、右に講堂、尊星王堂がある。
図最下部右(大門門前右)は水観寺で、寺門、浴室、薬師堂、鎮守社、水観寺三重塔、食堂、本堂、如法堂、法華堂、鐘堂などの伽藍があった。
水観寺:
東海道名所図會「寺門惣門の下、路の北にあり。三井5別所・・。本尊薬師仏を安ず。・・・」
名所図會挿絵でははっきりはしないが、まだ相当な堂宇があったように思われる。
現在は三井寺山内(三尾神社西側付近)に一宇が再興される。本尊薬師如来。 |
◆北 院
近江園城寺北院:右図拡大図
図中央は新羅社で、鳥居、楼門・廻廊、大拝殿があり、楼門を入って左に新羅社三重塔がある。
大拝殿奥に新羅社がある。
図上部右は常在寺で、図右下方に常在寺総門があり、新羅社背後の参道を進み、右に湯屋を見て、高台の常在寺に至る。南の楼門を入り右から食堂、本堂、鐘楼、法華堂、常在寺三重塔の伽藍がある。
三重塔左奥には如法堂がある。
常在寺:五別所の一つである。
東海道名所図會「三井北院惣門のほか、新羅社の西にあり。熊野三所権現を勧請す。寺門5別所・・。本尊釈迦仏・・・。開基大僧正行尊(1067-1135)・・・」
名所図會挿絵には若干の堂宇が描かれる。
現在の国際交流センターあたりにあったという。今次侵略戦争中、陸軍基地に転用のため廃寺という。
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◆三別所
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近江園城寺三別所:左図拡大図
図には上から五別所の内の三別所である徴妙寺・尾蔵寺・近松寺と世喜寺が描かれ、各々本堂および三重塔がある。
徴妙寺:図最上段の伽藍で、本堂、徴妙寺三重塔、薬師堂、食堂、如法堂、鐘楼、、鎮守、門、浴室などがあ
る。
尾蔵寺:図中段上の伽藍で、本堂、尾蔵寺三重塔、法華堂、食堂、鎮守、鐘楼、門、浴室、若宮八幡などがあ
る。
近松寺:図中段下の伽藍で、本堂、近松寺三重塔、法華堂、食堂、如法堂、鐘楼、門、浴室などがあ
る。
世喜寺:図再下段の伽藍で、本堂、世喜寺三重塔、その他堂宇があった。
三井寺五別所は、微妙寺、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺であるが、
尾蔵寺と常在寺は現在廃絶する。
微妙寺と水観寺は三井寺の山内に移され、現存する。
近松寺は創建当初から現在まで同じ場所にある。 |
★東海道名所図絵に見る園城寺
東海道名所圖會から:三井寺伽藍図(
全図)、三重塔(部分図)
記事;「三層塔:唐院にあり。本尊釈迦三尊仏。この塔はじめは大和国比蘇寺にあり。御当家におよんで、命ありてここに移す。」
寺門5別所のうち、常在寺は絵図の右端上、新羅社の上部に、水観寺は絵図の1ページ目の左、大門から仁王門に至る参道の北側にある。
南院鎮守三尾社は絵図では位置が分かり難いが、絵図の左端上に、新宮社は左端下(現在地と同じ位置)に描かれる。
◎別所尾蔵寺・近松寺:東海道名所図會に見る
◇常在寺:
東海道名所図會「三井北院惣門のほか、新羅社の西にあり。熊野三所権現を勧請す。寺門5別所・・。本尊釈迦仏・・・。開基大僧正行尊(1067-1135)・・・」
名所図會挿絵には若干の堂宇が描かれる。
現在の国際交流センターあたりにあったという。太平洋戦争中、陸軍に接取、軍用地に転用のため廃寺という。
◇微妙寺:
東海道名所図會「関山の北、尾蔵寺の西にあり。三井5別所・・。・・・むかしは96房あり。今わずかに5房存す。本尊寿一面観音。また薬師仏を安ず。・・・・」
微妙寺は南院(現在の長等公園)にあったが、現在は三井寺山内(金堂から南に下って突き当たり、観音堂への道に左折するあたり)に一宇が再建されている。堂内安置の十一面観音立像
(重文・平安初期)は旧尾蔵寺本尊と伝える。
◇尾蔵寺:
東海道名所図會「近松寺の北にあり。三井五別所・・。開基智証大師。・・・いにしえは尾蔵寺に80坊あり。今わずかに5房存す。本尊十一面観音を安ず。・・・・」
本尊は現在の微妙寺に安置。
◇近松寺:
東海道名所図會「正法寺の西の方、山腹にあり。いにしえは近松谷に126房あり。三井5別所・・。本尊千手観音。金色・・智証大師の作。額に『高観音堂』とあり。・・・傍らに阿弥陀堂あり。・・・」
近松寺は南院(日赤病院の裏山)の旧地に「高観音」と称し、現存する。
参考;世喜寺:5別所とは無関係である。
東海道名所図會「同街(清水街)の左の山手にあり。『拾芥抄』にいわく『関寺本尊弥勒。・・いにしえは伽藍巍々として三井寺の別院なり。中頃恵心僧都もここに住みたまふ。今時宗となり、本尊阿弥陀仏を安ず。』
牛塔・・・」
世喜寺跡には現在は長安寺(時宗)がある。世喜寺は日本三大仏の1つとして五丈の弥勒仏を安置したという。草創年代は不詳。天延4年(976)大地震で大仏
なども損壊。恵心僧都源信および弟子延鏡が復興に努め、寛仁2年(1018)本尊、治安2年(1022)伽藍がほぼ再興された。鎌倉期一遍上人がこの寺に留錫し時宗となる、慶長年間(1596-1615)兵火で焼亡。小堂宇
が再興され、今日まで存続する。境内に残る大きな礎石一個と牛塔にわずかに昔をしのぶことが出来る。牛塔は石造宝塔(国重文)で、恵心僧都の関寺復興の供養碑といわれ、石造宝塔としては最古最大であるとされる。
鎌倉初期、高さ3.3m、重文。
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◆如意寺
園城寺別院如意寺:右図拡大図
図下段から、山門を入り、不動堂、浴室などがあり、上の段に楼門、住吉社、稲荷社、阿須賀社、さらに上段に、熊野三社、五体王子、四所明神、その上に宝珠院般若堂、鐘堂などがある。(これは西方の鹿ヶ谷を入り口とし、楼門の滝の東一帯にあったとされる。建物は西向きであったという)
図中段には、楼門をはいり、正寶院、山王社、西方院本堂などを経て、大慈院に至る。大慈院には本堂・庫裏、一切経蔵、鐘楼などがある。
大慈院上には深禅院本堂、灌頂堂、如法堂、赤龍社などがあった。(これは山科の東、藤尾を登り口とした一郭であった)
赤龍社は雨社と通称される。(小詞が山中に残り、また大正6年東天王社に遷る)
図最上段には如意寺伽藍があった。如意寺東門、不動堂、大黒堂、三島社、高良社、稲荷社、若宮社、高良社(2社目)、神業社、武内社を経て、延寿堂、如意寺三重塔、講堂、常行堂、法華堂があった。さらに上段には門、本堂、食堂、経蔵、鐘堂、新羅社、護法白山などがあった。(これは園城寺方面を入り口とする)
この絵図では天台の大寺院の典型として、往時の伽藍が良く表されて、およそ67以上の堂宇が描かれる。
三重塔:如意寺伽藍中、珍しい本瓦葺建物(他の例は西方寺本堂)であったとされる。朱塗、石積基壇を持つ。
2021/01/20追加:
如意寺大慈院部分図
如意寺大慈院部分図: 「鎌倉右大将家朝敵之怨霊を宥める為に之を建立す、平家一族之姓名を記し弥陀丈六之尊像に納める」とある。
※鎌倉右大将家とは源頼朝を指す。 ※三井寺事典3「三井寺 建築案内」福家俊彦、三井寺、2018 より転載
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如意寺:
都名所図會「・・・いにしえは如意嶽楼門滝の傍にありて諸堂巍々たり。開基智証大師・・・・乱逆の世滅亡し、久しく荒廃の地となりしを、霊鑑寺尼公御再建あつて、旧地の麓今の所に小堂をいとなみ給ふ。・・・」
都名所図會に見る如意寺:ささやかな堂宇が再興されていたのみと思われる。
如意寺は園城寺の別院で、智証大師の開基と伝えるも、明らかでない。延元元年(1336)兵火で焼亡したと云う。
江戸中期には山麓の霊鑑寺によって山中に本堂・庫裏・書院などの若干の堂宇が再興されたというが、明治維新後荒廃し、ほとんど遺構は残さないと云う。
2009/01/27追加:
★近江園城寺現況 寺門・山門(延暦寺)の争いで、山門により、何度も焼き討ちに遭うが、そのつど再興される。
現在の伽藍は基本的に豊臣・徳川両氏により再興されたものである。 ◎三井寺境内図:三井寺(園城寺)公式HP より、2023/09/30追加
園城寺境内図
三井寺一山獨案内之地圖:
年代不詳(勿論弘文帝や長等神社などの名称から明治以降のものであるが、明治33年竣工の長等神社楼門が描かれず、このことから明治33年以前のものであろうか。訂正大津市街新地図 より
2021/01/19追加: ○三井寺事典3「三井寺 建築案内」福家俊彦、三井寺、2018 より
三井寺の最盛期である中世の堂塔伽藍は、北院(新羅明神・本地:文殊菩薩)、中院(金堂弥勒菩薩)、南院(三尾明神・本地:普賢菩薩)を本寺とし、その周辺に南院の近松寺、尾藏寺、微妙寺、中院の水観寺、北院の常在寺が五別所が展開し、京に至る山中に如意寺があった。
正暦4年(993)かってより確執のあった智証大師円珍と慈覚大師円仁の弟子との間の主導権争いが激化し、智証大師門下1000余名は比叡山を下山し、三井寺に拠点を遷す。ここに天台宗は分裂する。(山門派と寺門派の分立が発生)
山寺両門は、その後も、天台座主・主要寺院の寺務織・日吉祭の騒動・園城寺戒壇設置のことなどで度々抗争し、ついには武力衝突となり、鎌倉期・室町初期の300年ほどで十数度に及ぶ大規模焼討や合戦が繰り返される。
また、武家の覇権争いにも関与する。 治承4年(1180)以仁王・源頼政などの平家追悼に加担し、平重衡の報復攻撃で灰燼に帰す。
源家は代々園城寺と深い関係にあり、源家は園城寺を代々外護し、この時も源頼朝によって再興される。
古くは源義光(新羅三郎)、その後、後白河法皇、北条時政、源実朝などが園城寺と少なからず関係し、外護する。
鎌倉鶴岡八幡宮の別當・供僧には園城寺から多くが招聘され、勝長壽院、永福寺にも園城寺僧侶が厚遇される。
なお、源頼朝は自ら滅ぼした平家一門の怨霊を鎮め菩提を弔うため、別院如意寺に大慈院を建立し本尊丈六阿弥陀仏の胎内に平家一族の姓名を記して納めるという。 ( → 「園城寺境内古図」如意寺幅の大慈院部分図 参照)
次いで、源氏の長者足利尊氏が幕府を開くが、南朝方は北朝を奉じた園城寺を攻撃し、再び全山が焼亡する。その後再起した尊氏は頼朝の先例に倣い、園城寺も寺領を寄進し、再興する。(新羅善神堂・国宝はこの時の遺構である。)
豊臣秀吉が天下人であった文禄4年(1595)園城寺は突如闕所を命ぜられる。この闕所の理由ははっきりしないという。(諸説あり。)
この結果、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院門跡(現在の妙法院の場所、道澄は近衛家出身、聖護院門崎、園城寺長史、方広寺大佛初代住持)に避難させ、僧も保護するも、ほとんどの仏像や宝物はよその寺院へ移され、堂塔も破却、あるいは移築される。金堂は比叡山に移され、延暦寺西塔転法輪堂(釈迦堂)として現存する。
残った堂宇は新羅善神堂、三尾社本殿、護法善神堂と上光院などいくつかの子院のみであったという。
道澄は、元光浄院の住持であり秀吉の御伽衆でもある山岡景友とその弟光浄院暹実らと共に復興の請願を繰り返し行う。
慶長3年(1598)秀吉は自らの死の前日に園城寺の再興を許可する。
これにより。園城寺長吏・道澄が伽藍の復興をすすめ、寺領4300石が安堵される。
翌慶長5年(1599)には高台院が金堂を寄進、勧学院客殿は慶長5年に豊臣秀頼が施主となり、毛利輝元の寄進で建立、光浄院客殿は慶長6年に山岡景友の寄進で建立される。
現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものであり、慶長年間末期の頃には三院で49院、五別所で25坊の存在が知られる。
寛永年中(1624-45)には寺領4619石が安堵される。
「元禄五年寺社僧坊改記」では寺内には浄土宗や一向宗の寺が記されるという。
享保年中(1716-36)境内の大整理が行われる。
明治維新後、明治6年には北院の大半陸軍用地(歩兵第9連隊)として接収され、新羅善神堂と法明院を残して北院は廃絶する。
2021/01/21追加: ○三井寺事典4「三井寺 建築小史」福家俊彦、三井寺、2019 より 目次は次の通りである。
序章:「園城寺境内古図」の謎 ※「園城寺境内古図」は上に掲載、北院・中院・南院・三別所・如意寺の5幅から成る。
第1章:金堂にみる三井寺建築史 第2章:唐院と伝法灌頂 第3章:慶長期の伽藍再興 第4章:書院造と光浄院客殿の魅力
第5章:堂塔伽藍の屋根
▽印は2009/01/27撮影、◇印は2015/05/09撮影、△印は2019/11/16撮影、○印は2023/04/07撮影、 □印は2023/04/14撮影、●印は2023/04/29撮影:
2021/01/19追加:三井寺事典3「三井寺 建築案内」福家俊彦、三井寺、2018 より加筆。
園城寺北院新羅善神堂:国宝、貞和3年(1347)、三間社流造、向拝1間、桧皮葺、足利尊氏の再建と伝える。 昭和9年台風により山内多くの倒木があり、新羅社本地堂、拝殿か全壊する。
▽園城寺新羅善神堂1 ▽園城寺新羅善神堂2 ▽園城寺新羅善神堂3 ▽園城寺新羅善神堂4
◇北院新羅善神堂11 ◇北院新羅善神堂12 ◇北院新羅善神堂13 ◇北院新羅善神堂14
◇北院新羅善神堂15 ◇北院新羅善神堂16 ◇北院新羅善神堂17 ◇北院新羅善神堂18
◇北院新羅善神堂19
◇北院新羅明神境内1 ◇北院新羅明神境内2 ◇北院新羅明神堂舎1 ◇北院新羅明神堂舎2
●北院新羅善神堂20 ●北院新羅善神堂21 ●北院新羅善神堂22 ●北院新羅善神堂23
●北院新羅善神堂24 ●北院新羅善神堂25 ●北院新羅善神堂26 ●北院新羅善神堂27
●北院新羅善神堂28 ●北院新羅善神堂29 ●北院新羅善神堂30 ●北院新羅善神堂31
●北院新羅善神堂32 ●北院新羅善神堂33 ●北院新羅善神堂34 ●北院新羅善神堂35
●北院新羅明神堂舎3 ●北院新羅明神堂舎4 ●北院新羅明神堂舎5
園城寺北院法明院;三寺山内の唯一の律院という。享保八年(1723)中興される。
◇北院法明院1 ◇北院法明院2 ◇北院法明院3 ◇北院法明院4
新羅三郎義光墳墓
◇新羅三郎義光の墓
●新羅三郎義光の墓2 ●新羅三郎義光の墓3 ●新羅三郎義光の墓4
明治6年旧別所村・山上村にまたがる地域が陸軍に接収・練兵場となる。このとき園城寺北院の大部が潰され、戦後は米軍のキャンプ地として用いられる。その後大津市に移管され、皇子ケ丘公園として整備される。
園城寺中院仁王門:大門、重文、宝徳4年(1452)、三間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺、近江常楽寺仁王門を移築と云う。
(秀吉は伏見に移築、慶長6年家康が伏見より移築と伝える。三重塔と同様の経緯を経る。)
▽園城寺仁王門1 ▽園城寺仁王門2 ▽園城寺仁王門3
◇中院仁王門11 ◇中院仁王門12 ◇中院仁王門13 ◇中院仁王門14 ◇中院仁王門15
◇中院仁王門16 ◇中院仁王門17
△中院仁王門18
□中院仁王門19 □中院仁王門20 □中院仁王門21 □中院仁王門22
●中院仁王門23 ●中院仁王門24 ●中院仁王門25 ●中院仁王門26
●中院仁王門27 ●中院仁王門28 ●中院仁王門29 園城寺中院釈迦堂(食堂):重文、天正年中建立の御所清涼殿を下蝿され移築する、桁行7間梁間4間、入母屋造、桧皮葺
▽近江園城寺食堂1 ▽ 同 2
◇中院釈迦堂11 ◇中院釈迦堂12 ◇中院釈迦堂13 ◇中院釈迦堂14
○中院釈迦堂15
中院弁天社:天和2年(1683)建立 □中院辨財天社
園城寺中院金堂:国宝、慶長4年(1599)北の政所(豊臣氏・高台院)の再興、桁行7間梁間7間、入母屋造、桧皮葺
2001/12/09撮影: 近江園城寺金堂1 近江園城寺金堂2 金堂斗栱 1 金堂斗栱 2
▽近江園城寺金堂11 ▽近江園城寺金堂12 ▽近江園城寺金堂13 ▽近江園城寺金堂14 ▽近江園城寺金堂15
◇中院金堂21 ◇中院金堂22 ◇中院金堂23 ◇中院金堂24 ◇中院金堂25
◇中院金堂26 ◇中院金堂27 ◇中院金堂28 ◇中院金堂29 ◇中院金堂30
◇中院金堂31 ◇中院金堂32 ◇中院金堂33
△中院金堂34
○中院金堂35 ○中院金堂35
□中院金堂36
2023/04/29撮影: ●中院金堂37 ●中院金堂38:下図拡大図
●中院金堂39 ●中院金堂40 ●中院金堂41 ●中院金堂4 ●中院金堂43
○園城寺中院教待堂:
教待和尚像を安置。教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた老僧で、大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠すという。
その石窟上に一宇を建て廟としたのが教待堂である。江戸中期の建立、3間×2間、寄棟造本瓦葺き。
▽園城寺教待堂
◇中院教待堂1 ◇中院教待堂2
●中院教待堂3
園城寺中院鐘楼:重文、慶長7年(1602)、1間×2間、切妻造、桧皮葺
▽近江園城寺鐘楼
◇中院鐘楼1 ◇中院鐘楼2 ◇中院鐘楼3
□中院鐘楼4 □中院鐘楼5
●中院鐘楼6 ●中院鐘楼7 ●中院鐘楼8 ●中院鐘楼9 ●中院鐘楼10
園城寺中院閼伽井屋:重文、慶長5年(1600)建立、3間×2間、向唐破風造、桧皮葺
▽園城寺閼伽井屋1 ▽ 同 2
◇中院閼伽井屋1 ◇中院閼伽井屋2 ◇中院閼伽井屋3 ◇中院閼伽井屋4
◇中院閼伽井屋5 ◇中院閼伽井屋6
●中院閼伽井屋7 ●中院閼伽井屋8 ●中院閼伽井屋9
園城寺寺中圓満院:
「東海道名所圖繪」では「寺門境内にあり。聖護院宮・圓満院宮・実相院宮、この三御門跡をもって三井の長吏(座主)とす。」とあり、園城寺寺中であり、三井寺長吏の一員であったとする。
圓満院は寛和3年(987)村上天皇皇子悟円法親王により創建されると云う。
宸殿は重文。入母屋造、杮葺。当初は元和5年(1619)徳川秀忠五女・和子(東福門院)が後水尾天皇に入内した時の造営、正保4年(1647)明正天皇により円満院に下賜移築される。但し、障壁画は複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に売却・収蔵されている。
2009年6月、平安後期創建の門跡寺院「円満院」の国の重文「宸殿」や大津絵美術館、庫裡など9棟、名勝・史跡指定の庭園などを含む敷地約4235坪が大津地裁で競売にかけられ、滋賀県甲賀市の宗教法人が約10億6700万円で落札、後日成立する。
※甲賀市の宗教法人とは水口大岡寺と云う。
圓満院(門跡三浦道明)は墓地経営・仏像販売などの失敗で多額の負債を抱え、1997年に狩野派の絵師が描いた宸殿の障壁画を売却。
従って、現在の宸殿の障壁画は複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されている。
圓満院ではさまざまな不祥事が発生し、絶縁したのかあるいは絶縁されたのかは不明であるが、現在は三井寺から離脱し単立である。
旧蔵の重文は以下があり、戦後売却されたという。
絹本著色浄土曼荼羅図
<九州国立博物館>、絹本著色虚空蔵菩薩像<奈良国立博物館>、金地著色風俗図4面(宸殿五之間襖貼付)<京都国立博物館>、金地著色住吉社頭図6面(宸殿一之間床間及び違棚壁貼付)<京都国立博物館>、紙本著色七難七福図3巻
円山応挙 筆(附:応挙筆画稿2巻、祐常筆注文画稿1巻)<相国寺承天閣美術館>、絹本著色孔雀牡丹図、円山応挙
筆<相国寺承天閣美術館>、紙本著色園城寺境内古図12幅<京都国立博物館>、後深草天皇宸翰消息断簡2通<京都国立博物館>、後光厳院宸翰消息(何条事候哉云々)<相国寺承天閣美術館>
▽三井寺円満院門跡
◇圓満院勅使門 ◇圓満院庫裡/御常御殿/玄関/宸殿 ◇圓満院玄関
◇圓満院宸殿1 ◇圓満院宸殿2 ◇圓満院西側(裏側)堂宇
●圓院勅使門前満 ●圓満院護摩堂 ●圓満院寝殿3 ●圓満院寝殿4
●圓満院寝殿玄関2 ●圓満院庫裡
○園城寺寺中光浄院;
光浄院客殿(国宝)を有する。現在の客殿は豊臣秀吉による闕所後、慶長6年(1601)山岡道阿弥景友の再建。 その外観は勧学院客殿に良く似る。桁行7間・梁間6間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、屋根柿葺。中門が付き、中門の北に唐破風付の車寄・蔀戸を吊る。内部は南側の上座の間・次の間・車寄、北側の六畳・八畳・十二畳・四畳の二列に分けられる。
秀吉の死の目前に園城寺の闕所は解かれ、秀吉の死後、北政所によって再建が進められる。子院である勧学院、光浄院、日光院には、要人を迎える為の客殿が建てられる。それらはそれぞれ用途が異なり、勧学院客殿は僧侶を、光浄院客殿は武士を、そして日光院客殿は皇族をもてなす為の施設であったという。
このうち日光院は既に廃され、その客殿は現在江戸音羽護国寺に
昭和3年移築され、現存する。 2023/09/28追加: ●護国寺月光殿
明治20年(1887)頃、先ず日光院客殿襖絵(これは原コレクションとして現存する)が原六郎の手に渡り、 ついで明治25年客殿が東京品川御殿山の原氏の邸内に移築され「慶長館」と称される。
その後、護国寺檀家代表の懇請により、本客殿は護国寺に寄進される。昭和3年移築竣工、月光殿と改称される。
構造は桁行7間、梁間6間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風附設、 書院造の典型的な特徴である建物の南面に突き出した中門廊は桁行1間、梁間1間、切妻造、総桟瓦葺である。
なお、本客殿は園城寺光浄院客殿(国宝)と平面はほぼ同一と云っていいほど酷似する。外観も類似する。 日光院については、上掲の「三井寺一山獨案内之地圖」ではこの谷筋上部に覚勝院、上光院(現在は南院に移転)とあり、さらに谷を上がった位置に「日光院」とあるので、日光院はこの谷筋のかなり上部に位置したものと思われる。
◇光浄院入口石垣
◇光浄院客殿1 ◇光浄院客殿2 ◇光浄院客殿3 ◇光浄院客殿4 ◇光浄院客殿5
◇光浄院寺門 ◇光浄院玄関庫裡
●光浄院入口 ●光浄院客殿6 ●光浄院客殿7 ●光浄院客殿門 ●光浄院通用門?
園城寺護法善神堂/本地堂/財林坊:
護法善神堂は享保12年(1727)建立とある。本尊は護法善神として鬼子母神(護法善神立像、重文、平安後期)を祀る。毎年五月中旬千団子祭が開催され、鬼子母神の千人の子供達の供養のために千の団子を供え、放生池には諸衆の願いをこめた霊亀を放す放生会が行われる。
古い絵図では放生池と唐門との間に拝殿があるが、今は退転(退転時期不明)し、無し。
◇護法善神堂放生池 △護法善神堂放生池2 ◇護法善神堂1 ◇護法善神堂2;唐門:寛政11年(1797)建立
◇護法善神堂3 ◇護法善神堂4 ◇護法善神堂5 ※放生池東に表門が存在するも、未見。
△護法善神堂表門1 △護法善神堂表門2
●護法善神堂表門1 ●護法善神堂表門2 ●護法善神堂石橋・表門
●護法善神堂放生池石橋1 ●護法善神堂放生池石橋2 ●護法善神堂放生池
●護法善神堂6 ●護法善神堂7 ●護法善神堂8 ●護法善神堂9 ●護法善神堂10
以下は資料がなく、推測である。
財林坊は護法社の別当であろう。(社僧と記した資料がある。)また護法社本地堂とは鬼子母神の本地仏とは自己矛盾であるので、鬼子母神そのものを祀るのかこれは良く分からない。
◇護法社財林坊寺門・門番;享保12年(1727)建立
◇護法社財林坊庫裡客殿 ◇護法社財林坊
◇護法社本地堂:慶安4年(1651)建立
●護法社財林坊2 ●護法社財林坊山門 ●護法社財林坊門番
●護法社財林坊本地堂2 ●護法社財林坊本地堂3 ●護法社財林坊庫裡
園城寺中院熊野権現:平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請、現社殿は天保8年(1837)再建。三間社流造。
◇中院熊野権現
●中院熊野権現2 ●中院熊野権現3
園城寺中院霊鐘堂:昭和5年古鐘楼の古材を用い大改造する。
◇中院霊鐘堂1 ◇中院霊鐘堂2
●中院霊鐘堂3 ●中院霊鐘堂梵鐘:弁慶の引き摺り鐘(重文)
園城寺経蔵;
八角輪蔵:重文、室町前期〜中期、構造は方1間の一重宝形造であるが、外観は裳階を付設するため、3間×3間の二重に見える。屋根桧皮葺、禅宗様を用いる、もとは周防国清寺経蔵、慶長7年(1602)毛利輝元が移築する。
→周防国清寺は周防瑠璃光寺>◆山口洞春寺(国清寺→常栄寺→洞春寺)を参照。
▽園城寺一切経蔵 ▽園城寺八角輪蔵1 ▽ 同 2
◇中院経蔵1 ◇中院経蔵2 ◇中院経蔵3 ◇中院経蔵4 ◇中院経蔵5
◇中院経蔵内部01 ◇中院経蔵内部02 ◇中院経蔵内部03 ◇中院経蔵内部04
◇中院経蔵内部05 ◇中院経蔵内部06 ◇中院経蔵内部07 ◇中院経蔵内部08
◇中院経蔵内部09 ◇中院経蔵内部10 ◇中院経蔵内部11
△中院一切経蔵12 △中院一切経蔵13 △中院一切経蔵14 △中院一切経蔵15
△中院一切経蔵16 △中院一切経蔵17 △中院一切経蔵18 △中院一切経蔵19
△中院一切経蔵20 △中院一切経蔵21
○中院経蔵内部22 ○中院経蔵内部23 ○中院経蔵内部24 ○中院経蔵内部25
●中院一切経蔵26 ●中院一切経蔵27 ●中院一切経蔵28 ●中院一切経蔵29
●中院一切経蔵30 ●中院一切経蔵31 ●中院一切経蔵32 ●中院一切経蔵33
●中院一切経蔵34 ●中院一切経蔵35 ●中院一切経蔵36 ●中院一切経蔵37
●中院一切経蔵38 ●中院一切経蔵39 ●中院一切経蔵40 ●中院一切経蔵41
2023/02/22追加: ○三井寺事典3「三井寺 建築案内」福家俊彦、三井寺、2018 より 経蔵は三井寺で唯一の禅宗様建築である。 輪蔵の一切経は漆塗りの經筥に納められ、高麗製の当初よりあった經筥392合と日本で補充したものに分かれる。 日本製のものは、蓋裏の墨書より、弘治3年(1557)の戦乱で当初のものが失われ、永禄2年(1559)に新調したものであることが分かる。
輪藏軸受けと軸受装置:園城寺一切経蔵の軸受けである。
○三井寺事典4「三井寺 建築小史」福家俊彦、三井寺、2019 より 毛利輝元、一切経蔵を寄進
三井寺と毛利家は特別な関係にあり、慶長の再興に際して、毛利家は一切経蔵と勧学院客殿を寄進するなど格別の支援を行う。
永禄3年(1560)13代将軍足利義輝の要請で、園城寺長者・聖護院門跡の道増が毛利・尼子の爭いを調停すべく安芸に出向く。
それ以降、道増は度々京と安芸を往復し、尼子氏や九州の大友氏との調停に奔走している。
(以下、数々の逸話----特別な関係----があるが、それは省略)
かくして、園城寺に対する毛利家の破格の待遇は元就・輝元と園城寺との数々の信頼関係・交友関係の上に成り立っていたのである。
※文禄4年(1595)突然の秀吉の闕所の処分があり、寺領を失い伽藍は破却され、園城寺は存続の危機を迎える。
様々な働きかけが豊臣政権にあり、秀吉の死の前日、慶長3年闕所が解かれ、再興が許可される。
漸く、北政所、徳川家康、毛利輝夫などの援助で伽藍が再興される。
その後は明治維新まで、大きな伽藍の損耗はなく、現在の園城寺の景観が形成されることとなる。
経蔵と三重塔間の谷筋西(上り)に覚勝院、善法院(坊舎は退転か)があるも、未見。
なお、上掲の「三井寺一山獨案内之地圖」ではこの谷筋上部に覚勝院、上光院とあり、さらに谷を上がった位置に「日光院」とある。
中院の塔頭 寺中覚勝院:元は善見院と称する。旧号は実相坊、照光坊と称し、慶長年中に再興される。慶長3年(1598)20石余の寺領を有す。
△中院覚勝院1 △中院覚勝院2 △中院覚勝院3 △中院おせん地蔵:詳細不詳、覚勝院門前にある。
●中院覚勝院4 ●中院覚勝院5 ●中院覚勝院6
△中院坊舎跡11:覚勝院南側にある。
△中院坊舎跡12:以下の坊舎跡は覚勝院西側にある。
△中院坊舎跡13 △中院坊舎跡14 △中院坊舎跡15 △中院坊舎跡16 △中院坊舎跡17
△中院坊舎跡18 △中院坊舎跡19 △中院坊舎跡20 △中院坊舎跡21 △中院坊舎跡22
△中院坊舎跡23 △中院坊舎跡24
●中院坊舎跡25 ●中院坊舎跡26 ●中院坊舎跡27 ●中院坊舎跡28
寺中善法院
更にこれらの坊舎の先には善法院がある。(未見) ○三井寺事典3「三井寺 建築案内」福家俊彦、三井寺、2018 より
創建は天養年中(1144-45)。慶長3年(1598)76石余の寺領。近世には円満院宮院家として六碩室の一つであり、その時は法光院と号する。
近世初頭に造られた庭園(811坪)は昭和9年國の史跡名勝に指定される。しかし昭和16年集中豪雨による山津波で土砂に埋没する。
幸いにして重森三玲による実測図が残り、近年発掘調査が行われ、その復元が企図されている。
(なお、建物は昭和30年代まで残っていたが、今は庭園跡や石階を残すのみ) ※「大津歴まち百科」では善法院跡の写真5枚が掲載される。
●至る善法院道1 ●至る善法院道2 ●至る善法院道3 ●中院善法院跡石垣
●中院善法院跡石垣石階 ●中院善法院跡石階
●中院善法院堂舎跡11 ●中院善法院堂舎跡12 ●中院善法院堂舎跡13 ●中院善法院堂舎跡14
●中院善法院堂舎跡15 ●中院善法院堂舎跡16 ●中院善法院堂舎跡17 ●中院善法院堂舎跡18
●中院善法院堂舎跡19 ●中院善法院堂舎跡20 ●中院善法院堂舎跡21 ●中院善法院堂舎跡22
●中院善法院堂舎跡23
●中院善法院庭園跡11 ●中院善法院庭園跡12 ●中院善法院庭園跡13 ●中院善法院庭園跡14
●中院善法院庭園跡15 ●中院善法院庭園跡16 ●中院善法院庭園跡17 ●中院善法院庭園跡18
●中院善法院庭園跡19 ●中院善法院庭園跡20 ●中院善法院庭園跡21 ●中院善法院庭園跡22
●中院善法院庭園跡23 ●中院善法院庭園跡24 ●中院善法院庭園跡25 ●中院善法院庭園跡26
●中院善法院庭園跡27
●善法院南側石垣
●善法院横西方への道1 ●善法院横西方への道2
●善法院横西方の寺中跡1 ●善法院横西方の寺中跡2
◎園城寺中院唐院:智証大師(円珍)の廟所及び灌頂の道場である。
◇中院唐院門前 ◇中院唐院四脚門1 ◇中院唐院四脚門2
△唐院参道1 △唐院参道2
●中院唐院門前2 唐院四脚門:重文、寛永元年(1624)建立、切妻造。
△唐院四脚門1 △唐院四脚門2 △唐院四脚門3
●中院唐院四脚門3 ●中院唐院四脚門4
唐院大師堂:重文、慶長3年(1598)、桁行3間梁間2間、宝形造、桧皮葺、智証大師像(国宝)安置
▽園城寺唐院大師堂
◇中院唐院大師堂
△唐院大師堂1 △唐院大師堂2 △唐院大師堂3 △唐院大師堂4
唐院唐門:重文、慶長年中建立 △唐院大師堂唐門
唐院伽藍:門内正面は潅頂堂(重文、桃山期、5間×5間、入母屋造、桧皮葺)
▽園城寺唐院伽藍
◇中院唐院灌頂堂
△唐院灌頂堂1 △唐院灌頂堂2 △唐院灌頂堂3 △唐院灌頂堂4 △唐院灌頂堂5
△唐院灌頂堂6 △唐院灌頂堂7 △唐院灌頂堂8
○唐院灌頂堂9
●唐院灌頂堂9 ●唐院灌頂堂10
長日護摩堂は方3間宝形造、江戸初期後水尾天皇の祈願によって建立と云う。
◇中院唐院長日護摩堂
△唐院長日護摩堂1 △唐院長日護摩堂2 △唐院長日護摩堂3:護摩堂本像など
○唐院長日護摩堂4
●唐院長日護摩堂5
唐院山王社:宝暦12年(1762)一間社流造。檜皮葺。 △唐院山王権現
その他 △唐院堂舎 △唐院土蔵
●中院唐院入口 ●中院唐院山門
◎南院塔頭:園城寺総門より西に伸びる参道筋の南院諸坊
園城寺寺中配置図
上に掲載の「三井寺一山獨案内之地圖」では宝寿院西に千乗院、■栄院、玉泉院、山王院が、普賢堂西に金乗院が描かれる。
園城寺総門
◇中院総門1 ◇中院総門2
●三井寺総門3:門番付設
寺中行者堂:役行者を祀る。元は観音堂に属する不動堂であったが、明治11年に天神山に移され、さらに明治33年に現在地に移築され、その際行者堂に改める。
▽三井寺行者堂1 ▽三井寺行者堂2
◇中院行者堂山門 ◇中院行者堂境内 ◇中院行者堂 ◇行者堂境内弁天堂
●南院行者堂山門2 ●南院行者堂2 ●行者堂境内弁天堂2
寺中妙厳院
▽三井寺妙巌院
◇寺中妙厳院1 ◇寺中妙厳院2
●寺中妙厳院3:妙厳院は改装し、「和空三井寺」と称する宿坊となる。一日一組限定の一棟貸である。 寺中勧持院
▽勧持院
◇寺中勧持院:寺門のみ残り坊舎は既に退転と推定される。
●寺中勧持院2
寺中龍泉院
▽龍泉院
◇寺中龍泉院1 ◇寺中龍泉院2 ◇寺中龍泉院3 ◇寺中龍泉院4
●寺中龍泉院5 ●寺中龍泉院6 ●寺中龍泉院7 ●寺中龍泉院8 ●寺中龍泉院9
寺中本寿院
▽本寿院
◇寺中本寿院1 ◇寺中本寿院2
●寺中本寿院3:現在は「ながら茶房」(喫茶店)に転身したようである。
寺中万徳院:現在は園城寺を離脱、単立となる。下総船橋の地で萬徳院釋迦寺として出発し、この地は釋迦寺関西本院という。寛正6年(1465)比叡山西塔衆徒に焼討された本願寺8世蓮如は叔父が住職であった萬徳寺に逃れたという歴史がある。
▽萬徳院
◇寺中万徳院1 ◇寺中万徳院2 ◇寺中万徳院3 ◇寺中万徳院4
●寺中満徳院5 ●寺中満徳院6 ●寺中満徳院7 ●寺中満徳院8 ●寺中満徳院9
寺中勧学院:
客殿(国宝)は慶長6年(1600)の再建である。正面七間 側面七間 一重 入母屋造、妻入 正面軒唐破風付 総柿葺
現在の建物は文禄4年(1595)秀吉の闕所による破却後、慶長5年毛利輝元によって再建される。
光浄院客殿と外観は良く似るが、内部は三列八室から成り、光浄院客殿より規模が大きい。一之間と広い二之間の障壁画は 狩野光信の筆による。
▽三井寺勧学院
◇寺中勧学院山門 ◇寺中勧学院客殿1 ◇寺中勧学院客殿2 ◇寺中勧学院客殿3
◇寺中勧学院玄関 ◇寺中勧学院庫裡
●寺中勧学院2 ●寺中勧学院3 ●寺中勧学院4 ●寺中勧学院5 ●寺中勧学院6
寺中宝寿院:寺門には「三井古流煎茶道本部」の門札を掲げる。
◇寺中宝寿院1 ◇寺中宝寿院2
●寺中宝寿院3 ●寺中宝寿院4 寺中円宗院:建物は新しく、寺門以外は古くからの坊舎の面影はない。寺門には「西坊」との門札が掲げられるも意味は不明。
◇寺中円宗院1 ◇寺中円宗院2 ◇寺中円宗院3
●寺中円宗院4 寺中法泉院:聖護院門跡院室。かつて花王院と称し琴緒谷にあった。その時、水が枯れ、そこで泣不動尊(今は清浄華院にある)として知られる證空阿闍梨の不動明王に祈ったところ、一夜にして霊水が湧き出たことから法泉院へと改号するという。 ▽三井寺法泉院
◇寺中法泉院1 ◇寺中法泉院2 ◇寺中法泉院3
●寺中法泉院4 ●寺中法泉院5
三井寺霊園 ●三井寺霊園:かつての坊舎跡であろう、現在は霊園管理事務所が建つ。
寺中上光院;境内図には「園城寺佛教尊像修復院」との案内がある。
◇寺中上光院1 ◇寺中上光院2
●寺中上光院3 ●寺中上光院4 ●寺中上光院5 ●寺中上光院6 ●寺中上光院7
・「LANDSCAPE GARDENING IN JAPAN<日本の庭園風景(造園術)>」JOSIAH CONDER<コンダー(コンドル)/(コンドル、ジョサイア、1852-1920)>、1893年(明治26年) より
●寺中上光院庭園:三井寺、上光院の庭/(三井寺常光院の庭園)
寺中普賢堂:三尾明神の本地堂という。「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾明神社の項では「南院琴尾谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神なり。・・・本地堂には普賢菩薩を安ず。」という。普賢堂は三尾明神の社僧もしくは別當と思われる。
普賢堂は、かつて上の三尾社があった場所である。現在墓地となりつつある普賢堂東下の平坦地が三尾社の跡であろう。三井寺の地主神である三尾明神の本地仏・普賢菩薩を祀る坊舎である。明治期に三尾明神は山の下の現在地に移される。
また普賢堂庭園があるという。客殿の南側にあり、長等山を借景とした池泉観賞式の庭園である。正面に饅頭形の築山、右手奥に枯滝の石組を造り、その手前に三日月形の池があります。池中に浮石、各所に多数の立石やツツジの植込みなどを配するという。しかしながら、普賢堂自体が荒れ果て、庭園も良く分らないのが現状である。
▽三井寺普賢堂
◇寺中普賢堂1 ◇寺中普賢堂2 ◇寺中普賢堂3 ◇寺中普賢堂4 ◇寺中普賢堂5
◇寺中普賢堂6 ◇寺中普賢堂7
●寺中普賢堂8:入口
●寺中普賢堂9:客殿 ●寺中普賢堂10:客殿 ●寺中普賢堂11:客殿
●寺中普賢堂12:
本堂であろう、三尾明神の本地仏・普賢菩薩を祀る。 ●寺中普賢堂13
「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾影向石の項では「社頭にあり。」とある。
影向石は「社頭(三尾明神社頭)にあり」というから、明治維新前までは、影向石の奥、普賢堂の奥付近に三尾社はあったものと思われる。
三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師入寺に際し、三尾三神(白尾・赤尾・黒尾)がこの影向石の場で会合し、大師を迎え、護法を誓うという。この奥の谷を琴尾谷という。
◇三尾明神影向石1 ◇三尾明神影向石2
●三尾明神影向石3
普賢堂の奥には未だ多くの坊舎跡と思われる遺構が残存する。
◇南院坊舎跡1 ◇中院坊舎跡2 ◇中南院坊舎跡3 ◇南院坊舎跡4 ◇南院坊舎跡5
◇南院坊舎跡
●南院坊舎跡8 ●南院坊舎跡9 ●南院坊舎跡10
南院墳墓
南院坊舎の普賢堂・上光院から西には廃坊跡が続き、さらにその西には墓所がある。大型の墳墓石が立ち並ぶ。
その墳墓は近年のものではなく、おそらく明治から昭和にかけてのものであろう。因みに幾つかの墓銘を下に挙げる。
服部春樹:江戸末期から明治初期に大津市に住んでいた歌人という人物か。 釋尼誓順:法号につき、不詳
釋尼誓念:法号につき、不詳 為徳院釋大寶:法号につき、不詳 釋普誓:法号につき、不詳 服部勤:不詳
勲7等丸山有恒法■:「記念集 弟一輯」明治13年にその名がある。これは第9連隊(明治7年大阪で創設。翌8年、大津に移駐。初陣は西南戦争。)の戦死者の名簿である。この中に丸山有恒の名がある。明治10年の西南の役で斃れ、おそらく将校であったと思われる。
谷澤龍蔵:嘉永5年6月10日(1852年7月26日)〜大正7年(1918年)4月1日)、衆議院議員(立憲革新党→山下倶楽部→帝国党→大同倶楽部)、弁護士。滋賀や大津に縁があるという。
渡邊行之:不詳
●南院坊舎跡西側墓所1 ●南院坊舎跡西側墓所2 ●南院坊舎跡西側墓所3
三井寺宗務本庁
●三井寺宗務本庁
南院観音堂:元禄2年(1689)建立、西国33所観音第十四番礼所 △南院観音堂境内
▽園城寺観音堂
◇南院観音堂1 ◇南院観音堂2 △南院観音堂3
◇南院観月舞台 △南院観月舞台2 南院鐘楼:文化11年(1814)上棟<棟札>
◇南院鐘楼1 ◇南院鐘楼2
△南院観音堂鐘楼11 △南院観音堂鐘楼12 △南院観音堂鐘楼13 △南院観音堂鐘楼14
△南院観音堂鐘楼15
南院三尾明神:
「東海道名所図会」巻の一>長等山園城寺>三尾明神社の項:
「南院琴尾谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神なり。例祭三月中の卯の日。神輿三基。本地堂には普賢菩薩を安ず。祭神赤尾・黒尾・白尾の神なり。
赤尾を本神とす。 この鎮座は太古にして知る人なし。 白尾は大宝年中に現じ、黒尾は神護景雲三年三月十四日、湖水より現ず。 その古跡を大波止という。
社伝にいわく、 赤尾天照太神、黒尾新羅太神、白尾白山権現。
>三尾影向石:社頭にあり。」 三尾明神はかつての南院の中心堂宇・鎮守社であった。
明治維新の神仏分離の処置によって、出雲や伊勢に系列する社はすべて分離させられ、 新羅明神、鬼子母神といった異国に起源する神々だけは分離を免れる。早尾社、三尾社、
新宮社(新日吉社、分離によって長等神社などと改号する)などは分離させられる。
明治維新前までは琴尾谷にあった(普賢堂の手前)が、明治維新の神仏分離の処置によって明治10年現在地に移築される。
旧社地は現在は三井寺霊園琴谷苑となっている。
本殿(三間社流造・重文)は、応永33年(1426)の建築で、正面に前室が無く、装飾が少ない簡素な本殿である。園城寺三院のうち、
南院の鎮守社である。もともとは智証大師が琴緒谷に復興し、応永33年足利将軍は再興し、慶長年中には豊臣氏が修復する。 ◇南院鎮守三尾明神1 ◇南院鎮守三尾明神2
●三尾明神神門 ●三尾明神拝殿 ●三尾明神本殿1 ●三尾明神本殿2
●三尾明神神輿庫 ●三尾明神神職邸 ●三尾明神裏門?1 ●三尾明神裏門?2
新宮社:貞観2年(860)智証大師が園城寺の鎮守として日吉山王権現を祀る。天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に遷る。
楼門は明治38年(1905)建立、本殿は正面五間の構造という。
◇南院新宮社
南院十八明神
通称「ねずみの宮」という。良く分からない話であるが、要するに叡山と寺門との確執・抗争を物語るものなのであろうか。
◇南院十八明神
別所徴妙寺:近世末までは尾蔵寺の西(現在長等公園)にあったが、今はただ南院の一画に一宇が建つのみの状態である。
▽三井寺現微妙寺 ◇別所徴妙寺 △南院現微妙寺
●南院現微妙寺2 別所水観寺:近世末までは仁王門の東にある大門の外・向かって右側にあったが、現在は
総門内向かって左に本堂が移築される。
本堂は明暦元年(1655)の建築と云う。昭和63年からの解体修理で、から現在地へ移される。
▽三井寺現水観寺
◇別所水観寺 ◇別所水観寺裏側
●水観寺側面
別所近松寺:高観音と称する。南院諸寺の大部が退転するも、創建当時の場所に今もある。
▽三井寺南院別所近松寺
◇別所近松寺 ◇別所近松寺本堂1 ◇別所近松寺本堂2 ◇別所近松寺善光寺
◇別所近松寺弁天社
別所尾蔵寺:近松寺の北にあったが今は退転する。
尾蔵寺の唯一残る堂宇は子院の堂宇であるが、毘沙門堂がある。
○毘沙門堂:重文、元和2年(1616)、正面1間、側面2間、宝形造、桧皮葺 元和2年、三井五別所南院尾蔵寺南勝坊に建立、
明治42年三尾社の下に移築、昭和31年の修理に際し現在地に再度移転。
▽園城寺毘沙門堂1 ▽ 同 2 ▽ 同 3
◇別所尾蔵寺南勝坊毘沙門堂1 ◇南勝坊毘沙門堂2 ◇南勝坊毘沙門堂3 ◇南勝坊毘沙門堂4
◇南勝坊毘沙門堂5
△南勝坊毘沙門堂11 △南勝坊毘沙門堂12 △南勝坊毘沙門堂13 △南勝坊毘沙門堂14
△南勝坊毘沙門堂15 △南勝坊毘沙門堂16
南別所南院両願寺
「堅田源兵衛首」として有名、堅田源右衛門の木像を安置、現在は無住である。
▽三井寺南院別所両願寺
◇堅田源兵衛首両願寺
なお、堅田光徳寺、等正寺、ここ両願寺に堅田源右衛門の首があるという。 △南院別所両願寺3 △南院別所両願寺4
※昭和55年の大津地裁の公示書が貼付されている。
それによれば、債権者は園城寺、債務者は円満院であり、木造平屋建の本堂・庫裡の債務者の占有を解き、これを裁判所が保管中であるという。随分と古い話であるが、現在もこの効力があるのであろうか。
昭和22年圓満院は寺門派から単立しているが、その時の遺恨のようなものが存在したのであろうか、それとは別に近年圓満院の驚天動地の所業が伝えられるが、これは昭和55年の「公示」とは別のことである。
■参考:倒壊した(長等)金刀比羅宮
近松寺に登る急階段の登り口に(長等)金刀比羅宮の倒壊した社殿がある。この金刀比羅宮の社歴は全く不明で、明治維新前から存続し、国家神道の序列に組み入れられた社なのか。それとも明治維新後に創建され、国家神道の序列外であったかは不明である。
もし、国家神道の序列に組み入れられた社であったとすれば、この社が荒れ果て倒壊までするとは驚きの光景である。三井寺とは無関係ではあるが、敢えて写真を掲載する次第である。
2015/05/09撮影:
金刀比羅宮鳥居と近松寺石碑 荒廃した金刀比羅宮境内 倒壊寸前の社務所 金刀比羅宮瑞垣
倒壊した金刀比羅宮1 倒壊した金刀比羅宮1
2013年の金刀比羅宮社殿;2013年03月21日「金比羅宮・近松寺」というページに倒壊前の社殿の写真がある。(引用)
2019/11/16撮影:
依然として由緒や廃滅した事情などは分からないが、国家神道の「成れの果て」ということであれば、当然の報いということで、喜ばしいことであろう。
廃滅した金刀比羅宮1 廃滅した金刀比羅宮2 廃滅した金刀比羅宮3 廃滅した金刀比羅宮4
廃滅した金刀比羅宮5
2006年以前作成:2023/09/30更新:ホームページ、日本の塔婆
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