紀     伊     根     来     寺

紀伊根来寺/根来寺大塔/大伝法堂

紀伊根来寺大塔:国宝

2001/12/24撮影:
 根来寺大塔1
 根来寺大塔2:左図拡大図
 根来寺大塔3
 根来寺大塔4
 根来寺大塔5
 根来寺大塔6
 根来寺大塔7
 根来寺大塔8
 根来寺大塔9
現存塔婆は文明12年(1480)〜天文16年(1547)にかけての再建塔。
高さ約40m、一辺約15m。
中世大塔の現存する唯一の遺構である。

2015/03/24追加;
「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
正長2年(1429)大塔再建立案
文明12年(1480)この頃着工か、下重丸柱墨書
明応5年(1495)心柱立つ。
永正7年(1510)亀腹竣工、永正10年相輪の鋳造完成、永正12年瓦の製造、永正13年上重瓦葺・内部造作
天文12年(1453」)下重天井施工、天文16年上重連子窓等の造作、竣工
文明12年から天文16年まで実に67年の工期であった。

2015/03/17撮影:

根来寺大塔11
根来寺大塔12
根来寺大塔13
根来寺大塔14
根来寺大塔15
根来寺大塔16:左図拡大図
根来寺大塔17
根来寺大塔18
根来寺大塔19
根来寺大塔20
根来寺大塔21
根来寺大塔22
根来寺大塔23
根来寺大塔24
根来寺大塔25
根来寺大塔26
根来寺大塔27
根来寺大塔28
根来寺大塔29
根来寺大塔30
根来寺大塔31
根来寺大塔32
根来寺大塔33
根来寺大塔34
根来寺大塔35
根来寺大塔36
根来寺大塔37
根来寺大塔38:相輪

根来寺大塔内部11:左図拡大図
根来寺大塔内部12
根来寺大塔内部13
根来寺大塔内部14
根来寺大塔内部15
根来寺大塔内部16
根来寺大塔内部17
根来寺大塔内部18
根来寺大塔内部19
根来寺大塔内部20
根来寺大塔内部21
根来寺大塔内部22
根来寺大塔内部23

2007/08/30追加:
○「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 根来寺大塔131   根来寺大塔立断面図132
2006/11/26追加:
○「日本建築史要」天沼俊一、奈良飛鳥園、1927 より
  根来寺大塔立面及断面図・・・上記の根来寺大塔立断面図132と同一のものであろう。
2017/01/13追加:
○s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月 間の発行であろう。
 根来寺大塔絵葉書

2007/03/07追加:
○「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」 より:
永久2年(1114)覚鑁、高野山に登る。
大治5年(1130)覚鑁、伝法会を再興し、伝法院の供養が行われる。その後、伝法院は拡張され、長承元年(1132)大伝法院が落慶。7荘園が施入され、大伝法院領が確立する。  → 高野山大伝法院
以上のような覚鑁の名声は旧来の高野山衆徒との確執を生む。
保延6年(1140)覚鑁、高野山を離山、この地に止宿し、大伝法院領である弘田荘・豊福寺内に神宮寺・円明寺を建立する。
康治2年(1143)覚鑁、円明寺で示寂。
大伝法院はその後150年間依然として高野山にあったが、高野山衆徒と争乱・合戦にまでに至る。
正応元年(1288)大伝法院11世頼瑜、大伝法院・蜜厳院など大伝法院方の寺籍を根来に移す。
円明寺・豊福寺・大伝法院・蜜厳院を中心に菩提谷・閼伽井谷・鼓谷・大谷・小谷・蓮華谷・三岡・前山に多くの坊舎が経営されたと推測される。
 中世には5000とも云われる根来衆徒を抱え、武装集団となる。
天正13年(1585)秀吉の紀州侵攻により、根来寺は炎上・壊滅する。大伝法院の一画と僅か80の坊舎のみが残るといわれ、焼け残った大伝法堂は解体され大阪に運ばれるも、再建されることなく腐朽したと云う。
根来衆徒は高野山その他に離散、学頭智積院玄宥は高野山から京都に移り、智山派となる。 → 京都智積院山城豊国社
もう一人の学頭妙音院専誉は高野山・醍醐を経て長谷寺に入り豊山派として法灯を継ぐ。 → 大和長谷寺
慶長5年(1600)家康により根来再興は認可されるも、復興は遅々として進まず、大伝法堂すら漸く文政7年(1824)に再興される有様であった。
◆根来寺大塔:
昭和12年の解体修理で、塔の構造部材などに文明12年(1480)、文明13年、文明16年、延徳4年(1492)、明応3年(1494)、明応9年、永正7年(1510)、永正8年などの墨書が明らかになり、さらに永正10年に相輪の鋳造、永正12年の瓦の刻印、永正13年瓦関連の墨書、内陣天井などに天文12年(1543)、天文16年の墨書が明らかにされ る。
つまり天文16年を経て、まもなく完工したものと思われる。
実に最も古い墨書から約70年かけて大塔は完成したものと推定される。
 大塔の修理履歴として以下がある。
慶長7年(1602)修理、天明7年(1787)須彌壇等修理、文政11年(1828)本尊胎蔵界大日如来に新たに4如来4菩薩像を追加、文政13年金剛界37尊・16菩薩を安置。昭和12-14年解体修理。
 下重総間49尺2寸4分5厘、中央間11尺2寸5分6厘、両脇間10尺5寸5分2厘5毛、両端間8尺4寸4分2厘。身舎径34尺2寸6分3厘。
内部には円形に身舎柱12本を立てる。
上重は12本の柱を円形に立て、円周径25尺5寸6分8厘を測り、内部に柱間6尺2寸8寸で四天柱がある。
上重屋根を支える支柱はその取り付け構造から見て、当初から存在したものであろう。
 根来寺大塔立面図    根来寺大塔平面図    根来寺大塔亀腹構造
現在の根来寺伽藍:
西に大門(5間3戸重層、弘化2年1845)、参道に愛染院、律乗院、円明寺などがあり、北の壇に本坊(光明真言殿・享和元年1801)、その東北に大塔 (国宝)・大伝法堂(文化7年1824)・大師堂(重文・明徳2年1391)、南東に錐鑽不動堂。北西に覚鑁上人墓所などを僅かに残す。

2015/02/16追加:
「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
大塔は下重方5間であり、その内部は上重の円形平面に対応する円形に柱が配列される。
一方、石山寺多宝塔以下の現存する多宝塔が下重平面方3間、下重内部は基本的に四天柱が四角に配置され、上重の円形に配置される柱は下重梁の上から立つという形式である。
以上の形式の違いから大塔と多宝塔は明らかに違う。
おそらく空海が弘仁年中(810-824)に高野山で建立を企図した「毘盧舎那法界体性塔」(高野山大塔)が大塔の初源であう。
高野山・根来以外の大塔は以下が知られる。但し以下の塔で下重内部の柱が円形に並んでいたかは厳密には不明である。
 祇園社多宝大塔:元徳3年<1331>「祇園社境内絵図」(部分図)に描かれる:祇園社多宝大塔と呼称される。
   → 山城祇園社
 鎌倉鶴岡八幡宮大塔:明治初頭の古写真「鶴岡八幡宮大塔」、「鶴岡八幡宮大塔」では大塔と判断できる。
  ※しかし、「鶴岡八幡宮平面図」で見る限り下重の柱の配列は円形ではなく、
  またこのことは発掘調査での礎石配列(「鶴岡八幡大塔遺構」)でも証明されていて、根来寺大塔とは違うものである。
   → 鎌倉鶴岡八幡宮
 河内神感寺:正方形に並ぶ礎石の内側に円形に礎石が並ぶ遺構がある。大塔の遺構であろう。
   → 河内神感寺跡
 山城浄妙寺跡:藤原氏墓所であった浄妙寺跡の発掘調査で5間と考えられる基壇が発掘される。
 この基壇が多宝塔跡とすれば、浄妙寺多宝塔は大塔形式であったかもしれない。
   → 山城浄妙寺跡
大塔形式の成立のプロセスは不明であるが、形態的な比較から、宝塔(円形平面に方形屋根を載せたもの)の塔身の周りに裳階を付けたという形成過程が推測できる。以上のように推測すれば大塔の形式は理解できるのではないか。
建物の基本構造は最も内側の四本の柱が身舎、その周囲に円形に並ぶ柱が庇、外側の四角に並ぶ柱が裳階と解釈できる。
このことは、内側の柱はすべて円柱で、外側の柱は角柱である。日本建築では建物本体は円柱、裳階は角柱というのがルールである。
◇根来寺大塔内部
下重:円形の空間の中央に四天柱が立ち、その内部に須弥壇がある・壇上には胎蔵界大日如来を中心に四仏四菩薩が八方をを向いて安置される。この形は文政11年(1828)学僧栄性が四方四仏を安置して出来上がった形である。
上重:人が上がることは想定していないが、
栄性はこの上重も改装して、上重に床を張り、四天柱を取り囲むように須弥壇を設ける。檀上には金剛界の37仏を厨子に入れて四方に配するようにする。
この結果、大塔1基で両界曼荼羅を上下に分けて祀るという独特の塔となったということである。
 根来寺大塔下重内部:円筒形の本体の内部、内部には支輪で折り上げた円形の組入天井が張られ、四天柱の内部は小組格天井となる。
  須弥壇上には胎蔵界大日如来と四仏四菩薩を祀る。
 根来寺大塔下重内部2:本体の円形部分は長押も壁・連子窓も円形に造られる。障子も円形に造られ、一本溝に嵌められる。
 根来寺大塔上重内部:文政11年(1828)学僧栄性が上重に須弥壇を造り、金剛界37尊を安置、心柱南面に大日如来、
  その四周と四隅に1体づつ、四方に7体づつ纏めて、合計37尊を安置する。
 根来寺大塔上重内部2:37尊は、5尊が一括して入る厨子の上に1尊が入る厨子を重ねている。
  2015/03/28追加:
   大塔上重安置仏:37尊の内の1尊 :「根来寺 第3版」根来寺文化研究所、2002 より
 根来寺大塔上重内部構造
 根来寺大塔心柱:心柱は下重柱上に強固な柱盤を組み、その上から心柱・四天柱を立てる。
 根来寺大塔亀腹内部:束と貫で構造を造り、その外に曲線状の材を組み、その外に板を張り、漆喰を塗る。
  つまり宝塔では身舎で構造材であったが、大塔では瓶腹はまったく独立して造られ、身舎と裳階の連結としての役割しかない。
2015/03/24追加:
「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
根来寺学僧栄性は文政11年(1828)に大塔上層に金剛界成身会37尊を追造し、胎蔵会金剛界両会の世界を大塔に現ずる工夫を加える。
天正の兵火で焼失した西塔に変わり、西塔が象徴していた金剛界世界を大塔に加えたのであろう。

紀伊根来寺現況

△印は2001/12/24撮影:無印は2015/03/17撮影:
大塔のほか、以下の堂宇を有する。
○大師堂(室町初期<本尊の造立銘から明徳2年/1391頃の建立と推定>・方3間・重文)
 △根来寺大師堂
 根来寺大師堂1     根来寺大師堂2     根来寺大師堂3     根来寺大師堂4
 根来寺大師堂5     根来寺大師堂6     根来寺大師堂7
○大伝法堂(文政10年/1827再建)

根来寺大傳法堂


根来寺大伝法堂1
根来寺大伝法堂2
根来寺大伝法堂3
根来寺大伝法堂4
根来寺大伝法堂5
根来寺大伝法堂6:左図拡大図

大伝法堂内部1
大伝法堂内部2
大伝法堂内部3
大伝法堂内部4

○大門 (嘉永3年/1850再建。高さ16.88m、幅17.63m、奥行6m)
 △根来寺大門
 根来寺大門1    根来寺大門2    根来寺大門3    根来寺大門4    根来寺大門5    根来寺大門6    根来寺大門7
○塔頭愛染院:行人方院坊(杉の坊住坊)と云う。
 塔頭愛染院1     塔頭愛染院2     塔頭愛染院3:手前の田畑は おそらく塔頭跡であろう。
○近世学頭:宝暦元年(1751)徳川宗直、寺内の行人を追い、蓮華院と律乗院を根来寺学頭に任ず。この2院が現存する。
 院家蓮華院1     院家蓮華院2     院家蓮華院3     院家蓮華院4     院家蓮華院5     院家蓮華院6
 院家律乗院1     院家律乗院2     院家律乗院3:手前の田畑は おそらく塔頭跡であろう。
 推定院家跡1: 律乗院西にある。向うに写る白壁は蓮華院。
○三部権現/円明寺
覚鑁は根来に下山し、円明寺・神宮寺を建立とある。
三部権現は中社に春日・天照・八幡、左社に丹生、右社に高野各明神を祀るといい、神宮寺には大小神祇一千社を勧請という。
これだけでは神宮寺と三部権現との関連は良く分からないが、三部権現は大小神祇一千社を象徴するものなのであろうか。
 三部権現1     三部権現2
 覚鑁建立円明寺1     円明寺2     円明寺3     円明寺4     円明寺5     円明寺6
 推定院家跡地2:円明寺西方の景観である。
○元の豊福寺付近
鐘桜門、光明真言殿:御影堂(享和元年/1801建立)、本坊・寺務所、行者堂、聖天堂などがある。
なお本坊は湊御殿、名草御殿、別院・・・いずれも江戸期建築・・等で構成される。
 鐘楼門     光明真言殿1     光明真言殿2     本坊・寺務所1     本坊・寺務所2
 本坊庭園1     本坊庭園2     本坊庭園3
 聖天池     行者堂1     行者堂2     行者堂3     聖天堂1     聖天堂2     聖天堂3
  ※但し、九所明神は未見に付、写真なし。
○旧御廟所:興教大師荼毘地、奥の院(興教大師廟所)
 覚鑁上人荼毘處1     覚鑁上人荼毘處2
 推定院家跡地3:覚鑁上人
 ※元来ここは覚鑁上人荼毘處であり、その荼毘處に廟所があったものと思われる。現存するこの写真の建物が廟所であったのであろう。
  →根来往古図では「菩提院」とあり、根来寺伽藍古絵図・大では「御廟所」とある。
 いつの時代かは不明であるが、また高野山の空海廟所を意識したのかどうかは知らないが、現在奥之院に廟所は遷されたようである。
 また、若干古い旧廟所/荼毘處の写真「根来寺旧御廟所」(「根来寺  第3版」根来寺文化研究所、2002 より2015/03/28追加)の
 写真を見ると、堂宇の前に簡素な門と白壁の「囲み」があるが、現在は存在しない。
 また全体の白壁の「囲み」の内、東・北・西の三面は現在存在せず、南の一面だけが現存する。
 根来寺奥之院1     根来寺奥之院2     根来寺奥之院3
○元の蜜厳院付近
不動堂:八角円堂(嘉永3年/1850建立)
 錐鑽不動全景     錐鑽不動堂/拝殿     錐鑽不動堂     錐鑽不動堂拝殿
 錐鑽不動春日明神1     錐鑽不動春日明神2     錐鑽不動金毘羅大権現     錐鑽不動鐘楼
 錐鑽不動堂名不明の堂:この堂の後の人家・田畑は院家跡と思われる。下の写真がそれである。
 推定院家跡地4:菩提峠方面を望む。


紀伊根来寺概要

大治5年(1130)覚鑁上人は鳥羽上皇の庇護を受け荘園の寄進などもあり、高野山に伝法院(学問所)を建立する。
長承元年(1132)大伝法院、密厳院(修行所)を建立する。
長承3年(1134)覚鑁は金剛峯寺座主に就任、高野山の刷新に注力するも、教学・宗風をめぐり高野山内の衆徒と反目する。
保延6年(1140)覚鑁の住房・密厳院などが高野山内の衆徒により焼き討ちされ、これを契機に覚鑁一門は高野山を下山し、
 弘田荘内(大伝法院の荘園の一つ)にある豊福寺(ぶふくじ)に移住する。
 また、根来において学問所として円明寺を、住坊として「密厳院」を建立する。
康治2年(1143)覚鑁上人根来にて入寂する。
覚鑁上人の入寂後、大伝法院衆徒の一部は高野山に帰山するも、
正応元年(1288)高野山大伝法院学頭である頼瑜僧正が再び高野山から大伝法院の僧侶・学徒を率いて根来に移住し、寺籍を根来に移す。
   → 高野山大伝法院

中世根来寺は多くの学僧および衆徒(僧兵)を抱える「学山」および「軍事集団」であった。
寺領は72万石と云われ、坊舎450(あるいは2700とも云う)を擁し、衆徒(僧兵)は1万余りと云われる。
 ※当時の根来寺境内を描く「根来寺伽藍古絵図」には、堂塔伽藍と中性院など300〜400の院家が描かれるという。
  根来寺伽藍古絵図:某サイトより転載 、但し、低精細で内容は皆目分からない。
   ↓
  2015/03/28追加:
   根来寺伽藍古絵図・大     根来寺伽藍古絵図・中
天正13年(1585)強大な寺院勢力は天下平定の障害と捉えたのか、豊臣秀吉は紀州根来攻めを敢行し、根来寺は灰燼に帰す。
僅かに残ったのは大塔・大師堂などの堂宇であったという。
その後、暫くは荒廃したままであったが、
豊臣家滅亡の後、徳川家康は祥雲禅寺(鶴松の菩提のため秀吉が建立)を根来寺に寄進する。<祥雲寺→京都智積院山城豊国社
漸く紀州徳川家の外護を得て、大門・伝法堂・常光明真言殿・不動堂などが再興される。

昭和51年寺域周辺の発掘調査が行われ、出土品は「岩出市立民俗資料館」で保管・展示される。

◆「紀伊国名所図会 巻之6」 より:
 一条山根来寺大伝法院の項:
  ○根来山全図・・絵図の中央上部に大塔が描かれる。
  ○根来山全図(全図):2015/11/10追加
大伝法院境内:「大塔(五間四面、高十八間、空輪二十余間)本尊金剛大日如来(長3尺4寸5分、外に13尊ありしとなり。今2体そんす)、大師堂、不動堂、経蔵、阿弥陀堂、鐘楼、中門、穀屋、湯屋・・・」
密蔵院境内:「錐鑽不動堂、楼門、求聞持堂、多宝塔(三間四面)、経蔵、地蔵堂、・・・」
その外 円明寺、豊福寺、小谷、菩提谷、大谷、蓮華谷、西谷、菖蒲谷、三岡、前山に多くの堂宇がかっては存在した。
記事:「両学頭:妙音院(和州長谷寺に移す。小池坊といふ)、智積院(京師東山に移す。またその先両学頭寺六院)、月輪院(小谷)、教応院(小谷)、修学院(前山)、釈迦院(前山の東)、惣持院(大塔のうしろ)、理趣院(前山)
・・・大坂の命に従わざるに依って、天正十三年三月二十一日、堂社・仏閣・作坊等、すべて二千七百余宇、一時に灰燼となりぬ。
大伝法院一郭はこの災を免れたりしを、・・・・」
  ○根来往古図(全図) :名称の通り「往古の根来寺」伽藍圖である。
 この「根来往古図」では以下の塔婆が描かれる。
  中央上部には大伝法院大塔、向かって右端(東)には密蔵院多宝塔(図では三重塔になっている のは不審)、
 ほぼ中央の豊福寺近辺に瑜祇塔、三重塔、下端(南)の前山の中央附近には前山付近の多宝塔が 客坊の隣に描かれる。
 ※往古堂塔大概
  大伝法院境内:大塔(5間四面、高18間、空輪20間余)本尊金剛大日如来(・・ほかに13尊ありしとなり。今2体そんす。)
           大師堂、不動堂、経蔵、阿弥陀堂、鐘楼、中門、穀屋、湯屋
  蜜厳院:錐鑚不動堂、楼門、求聞持堂、多宝塔、経蔵、地蔵堂、春日社、拝殿、鐘楼、穀屋、毘沙門堂、天満天神
  円明寺:御影堂、伊太祁曾社、御蔵、鐘楼、楼門
  豊福寺:豊福寺(5間四面)、薬師堂、千手堂、鐘楼、中門、地蔵堂、開山堂、九社大明神社、拝殿、宝塔、荒神社
  小谷:千手院、文殊堂、鐘楼、毘沙門堂、不動堂、丈六堂
  菩提谷:菩提院道場、護摩堂、五智堂、五仏堂、弁才天堂、不動堂、毘沙門堂、穀屋、稲荷明神社、弁才天社、地蔵堂
  大谷:観音堂、鐘楼、六角不動堂
  蓮華谷:五宝堂、虚空蔵堂、薬師堂、観音堂、地蔵堂、大師堂
  西谷:地蔵堂、薬師堂
  菖蒲谷:観音堂、大師堂、弁才天堂
  三岡:阿弥陀堂、求聞持堂、稲荷明神
  前山:御船大明神社、弁才天社、拝殿、稲荷明神社
  一山境内・・・大門、大橋、大門池・・・・
 ※両学頭
   妙音院(和州長谷寺に移す。小池坊といふ)
   智積院(京師東山に移す。またその先両学頭寺六院)
   月輪院(小谷)、教応院(小谷)、修学院(前山)、釈迦院(前山の東)、惣持院(大塔のうしろ)、理趣院(前山)

 ○「天正13年3月31日兵火の節、大塔より竜神あらはれ火を防ぐ。不動堂より神童現じて猛火を防ぐ」の図

2015/08/25追加:
:「京都安楽寿院と紀州あらかわ」 より:
◆根来寺境内絵図:和歌山県立博物館蔵
  根来寺境内絵図
江戸期の作であるが、江戸期に再興された寺中が描かれていないことなどから、秀吉紀州攻め以前の景観と推定される。
本絵図の描く景観は上に掲載の「根来往古図」とほぼ同一である。それは絵のタッチは違うものの、描く内容はどちらかの絵図がどちらかを下敷きにしたという 程に「瓜二つ」である。

◆西国三十三所名所圖會:巻之3:
 一条山根来寺大伝法院の項:
  ○大塔の挿絵・・この項で使われている図である。

◆「根来寺伽藍古絵図
  2015/03/28追加:
   根来寺伽藍古絵図・大     根来寺伽藍古絵図・中
描かれる堂塔は以下の通りである。(「久遠の祈り」 より)
  大伝法院:金堂大傳法院、大塔、大師堂、阿弥陀堂、不動堂、馬頭観音堂、覺王院堂、真然上人堂
        座主寺、庫裡堂、鐘楼堂、訐法堂、護摩堂、中門、唐門、棟門堂
  円明寺:興教大師堂、拝殿、円明寺、文殊堂、丈六堂
        千宛■堂     護摩堂、鐘楼堂、訐法堂、御蔵     三部大権現、伊太祁曾社     神門、棟門堂、門堂
  蜜厳院:蜜厳院、院拝殿、不動堂、護摩堂、求聞持堂、[多宝塔]、火釼
       庫裡堂、閼伽井、鐘楼      春日社、拝殿、天神社、拝殿、弁才天     堂門(回廊)
  豊福寺:虚空蔵堂、薬師堂、地蔵堂、行者堂、宝塔、[西塔]     鐘楼堂、訐法堂     唐門
  菩提院:御廟所、灌頂堂、大日五仏堂、千手堂、護摩堂     御供所、鐘楼堂、訐法堂     唐門
  前山:求聞持堂、来迎堂、不動堂、[相輪塔]     弁財天、五仏堂、薬師堂     南大門
  北山:金剛獅子社
  蓮華谷川西側:求聞持堂、阿弥陀堂、千手堂、法華堂
  蓮華谷川   :訐法堂、五仏堂、薬師堂
  蓮華谷川東側:大門
  西南院:大師堂、観音堂、薬師堂、地蔵堂     中尾寒林堂     山王社
2015/03/28追加:
 ※なお、本図には現存する大塔以外に、既に退転した4期の塔が描かれる。
 一つは蜜厳院多宝塔である。
  錐鑽不動堂の東北にあり、それは北から下る尾根の背上に単独で立つようである。描写では宝塔形式である。
  錐鑚不動堂などの伽藍は蜜厳院伽藍であるので、この宝塔は蜜厳院多宝塔であろう。
 一つは豊福寺宝塔である。
  豊福寺中門を入り傾斜を上った、向かって左に立つ。描写では多宝塔形式の建物に見える。
 一つは西塔で、九社明神本殿西やや南に位置する。
  西塔という名称から、高野山大塔に対する高野山西塔がイメージされるが、描写では宝塔形式に描かれる
  (根来寺学僧栄性は文政11年(1828)に大塔上層に金剛界成身会37尊を追造し、胎蔵会金剛界両会の世界を大塔に現ずる工夫を
  加える。 天正の兵火で焼失した西塔に変わり、西塔が象徴していた金剛界世界を大塔に加えたのであろう。)
 一つは前山に相輪塔という名称で描かれる。
  前山の一つの独立峰の麓にあり、相輪塔とあるが、描写では宝塔形式である。
以上は上に掲載の「紀伊国名所図会 巻之6」>「根来往古図」と対比できる。
即ち
大伝法院大塔は現存する。
蜜厳院多宝塔は「根来往古図」では蜜厳院多宝塔(図では三重塔に描画)に
豊福寺宝塔は「同図」の豊福寺宝塔に
西塔は「同図」の瑜祇塔に(西塔が瑜祇塔形式であるとは良く分からないが)
前山相輪塔は「同図」の「前山付近の多宝塔」に対比できる。
尤も、絵図の形式と塔の名称が合致しない場合があり、本当はどのような塔であったのかは判然としない。

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「根来寺 第3版」根来寺文化研究所、2002 より

○覚鑁上人の教義
 覚鑁の生きた平安後期は浄土思想が朝野に勃興していた。
覚鑁はそれを真言密教の教理体系の中に包含し、大日如来即阿弥陀仏と断じた。
これは、如来部といえども全ての諸尊は大日如来の諸徳とする真言密教の一門普門の立場に立つ帰結であった。
その他、大日経の解釈に新しい解釈を説き(新義といわれる所以という)、また一蜜成仏を説くという。
○覚鑁上人の改革
 生国肥前國藤津庄(御室仁和寺荘)から13歳の頃仁和寺成就院寛助上人のもとに上洛する。
寛助上人のもとで密教を学び、南都興福寺・東大寺に留学し、その後高野山に入山する。
 覚鑁は高野山で伝法会の復興を目指す。
伝法会は真然・実恵が始めたものであったが、廃れて久しく、寛助上人も復興したが、長くは続かなかった。
 覚鑁は経済基盤確立のため、白河法皇に荘園下賜の要請をするも法皇は崩御、続いて鳥羽上皇に要請し荘園の下賜を得て、
大治5年(1130)までには伝法院を興し、伝法堂を建て、本尊に丈六尊勝仏頂を安置し、伝法会を始める。
伝法会は盛況を極め、伝法堂は手狭すぎるという状態となる。
この状況により、さらに鳥羽上皇の援助により、大伝法院を作り、本尊も大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊形式とする。
また自坊であり、学問を終えた僧侶の修行の場でもある蜜厳院も建立する。
 長承元年(1132)覚鑁は院宣によって、大伝法院領として石手・岡田・山東・弘田の各荘園と末寺として弘田豊福寺を、蜜厳院領として相賀荘を拝領する。
 一方、覚鑁は院宣によって、大伝法院座主に補任されたことはともかく、金剛峰寺座主に補任されたことを契機に大伝法院方と金剛峰寺方との対立が発生し始め、それは次第に深刻化する。
覚鑁は対立を避けるため、全ての職を辞し、足掛け5年に及ぶ無言行に入る。
保延5年(1139)無言行が結願し、根来の地を訪れ法会を営む。
保延6年(1140)覚鑁はついに高野山を下山し、根来の地に退去する事態となり、再び高野山の地を踏むことはなかった。
 (正応元年/1288に至るまで記録に残る高野山本寺方と大伝法院方との衝突事件は7件を下らないという。)
根来では、覚鑁、末寺豊福寺に止住する。
 康治2年(1143)根来の地に円明寺と神宮寺の落慶供養が行われる。
導師は鳥羽上皇熊野詣の先達を勤めた御室戸の僧正覚宗であり、上皇の勅使も派遣される。
勅使は覚鑁宛消息文を持参していて、そこには円明寺・神宮寺を上皇の勅願寺とすることの許可があった。
 ※パンフレット「根来寺案内」根来寺発行 では「この地(岩出荘)に神宮寺を建て、大小神祇一千社を勧請する。これが根来寺の開創である。」との一文がある。つまり神宮寺にはあらゆる神を勧請し、仏法興隆などの加護を願ったのであろうか。
 根来移住後、春秋二季の伝法会は中止することなく続けられ、この時に講ぜられたのが「十住心論」「釈摩訶衍論」「即身成仏義」「阿字義」などである。
円明寺・神宮寺落慶の年、覚鑁は示寂する。49歳であった。
 示寂後、高野山大伝法院方の多くは円明寺に至り伝法流の付法灌頂を受け、覚鑁は仁和寺寛助から伝法流を授かったので、仁和寺の中からも円明寺で付法灌頂を受けるものが多かったという。
注意を要するのは覚鑁下山後も高野山大伝法院は存続し、菩提心院・覚皇院の子院を拡張させ、山上に依然として存続していたということである。
○「真然大徳と覚鑁上人」菅原正明(「根来寺 第3版」根来寺文化研究所、2002 所収)

真然堂基壇発掘

真然堂基壇発掘

「霊瑞縁起」による大伝法院伽藍


高野山水屏風大伝法院伽藍

 真然堂基壇発掘、「霊瑞縁起」による大伝法院伽藍、真然大徳緑釉四足壷真然堂の変遷根来寺伽藍古絵図・七堂伽藍所など、
の内容についての詳細は 紀伊高野山大伝法院/真然堂塔婆 (制霊堂/多宝塔) に掲載、参照を乞う。

○大伝法院方根来寺へ移籍
 仁治3年(1242)高野山本寺方と高野山大伝法院方と武力衝突し、本寺方に焼き討ちをかけられるいう事態になる。
そこで、焼失の大伝法院の再建に従事した第11代学頭俊音房頼瑜は先代学頭忠俊と計り、大伝法院衆徒全てと高野山にある大伝法院の寺籍を根来山に移すことを決意する。
○根来寺伽藍古絵図

根来寺伽藍古絵図・大:左図拡大図
根来寺伽藍古絵図・中:左図拡大図

本図についての解説は
下に掲載>「根来寺を解く」>根来寺伽藍古絵図の項

上に掲載>「根来寺伽藍古絵図」の項
を参照

○日誉著「根来破滅因縁」寛永13年(1636)、長谷寺蔵
 日誉は兵火による根来寺の破滅の因は寺自体にあったという。
一つの因は能化職をめぐる対立は、戦国末期には、山内を二分する紛争に発展し、山内の仏事も絶えるほどであった。
もう一つの因は岩室坊に代表されるような行人衆の武力による悪行が度重なって生じたという。
この二つが因となって、院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招くという。
 (日誉は10年ほど根来山内に住み、30歳の頃であろうか兵火直前に高野山に難をのがれ、それから50年ほど後に著述する。日誉は京都智積院能化3世になる。)
○戦国時代末の根来寺勢力の動向
 根来寺学徒衆は常住方と客方(客僧)に分かれていた。常住方は根来寺で出家した学徒で数は勝っていた模様で、客方は他国から根来寺に身を寄せ学問に励む学徒である。客方には自国と根来寺の間を往復する僧もいたという。
 ところが、いつの間にか、これが山内を二分する勢力となっていたようである。
根来一山を統率する職が学頭であるが、常住方・客方とも両方学頭を立てるということで派閥バランスをとっていたようである。
 文明年中と推定されるが、15代学頭十輪院道瑜が学頭職にあるままで、能力卓越のため、能化の称号が贈られることになったが、道瑜は常住方であったため、客方でも能化をだすことになる。
 ついで、20代学頭妙音院玄誉(常住方)の能化に対し、客方は学頭ではない頼空を擁立したという。
この時は能化二人制が山内を二分し、乱闘あるいは武闘にまで至るという。
 三回目の二人能化の時代が天正の兵火の前に出現する。
天正12年(1584)第22代学頭で能化であった常住方妙音院頼玄が同じ常住方である妙音院専誉に能化職を譲ったとき、客方からも智積院玄宥を能家に推挙したから二人能化が出現した。
従って、この頃の根来山内は武装集団でもある行人衆を抱え、さらに学徒衆は二分され対立する矛盾を抱えながら豊臣秀吉と対峙しなければならない困難を抱えていたことになる。
 ※根来寺炎上の後、妙音院(小池坊という)専誉は 専誉は多くの学徒をひきいて高野山に逃れ、その後山城醍醐寺に身を寄せ、やがて泉州国分寺に隠棲する。豊臣秀長は長谷寺の興隆を図り、長谷寺に専誉を招する。専誉は長谷寺にて多くの学僧を育てる。長谷寺はこの頃興福寺より離れ、新義真言の道場となる。
 ※智積院玄宥は、高野山に逃れ、その後、高雄神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とする。
慶長3年秀吉が逝去、慶長5年(1600)徳川家康、再興の訴願を続けていた玄宥に智積院再興の許可を出し、
慶長6年東山豊国社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院が再興される。
慶長7年200石の寄進を受ける。玄宥は、坊舎のある「上の寺」と講堂のある「下の寺」を建立し、寺名を「五百佛山根来寺智積院」と号する。
慶長20年大阪夏の陣で豊臣家が滅亡、智積院は鶴松の菩提寺である祥雲寺(祥雲禅寺)の土地を与えられ、さらに規模を拡大する。
○織田信長の雑賀攻め
 天正5年(1577)信長は本願寺(顕如上人)と結びつく雑賀衆を攻略する。和泉に勢力をふるう武装した根来行人衆は顕如の要請を拒絶して、信長勢に加勢する。杉の坊などの行人方は和泉の利権を保持するにはその法が得策と 判断したのであろう。
なお、信長の軍勢には羽柴秀吉が加わっていたことは注目される。
○秀吉の紀州攻め
 天正12年の小牧・長久手の戦いの隙をついて、根来・雑賀軍は岸和田城攻撃が行われた。
天正13年(1585)秀吉はその報復の名目で紀州攻めが実施される。
和泉での勝敗は容易に決し、秀吉は和泉山脈を越えて根来寺に至る。
その時山内は殆ど無人の状態であったと伝える。
その夜、俄かに火勢が広がり、大伝法院と山門の一画を除き、山内は悉く焼失する。
まさに、根来一山の焼失は、権勢を誇った寺院勢力の消滅、中世の終末を象徴する出来事であった。
その後、焼失を免れた大伝法堂と山門も解体され搬出されるという。
大伝法堂は秀吉の部下の文蔵司によって破却され(近江総見寺用材とも云うも不明)、本尊の丈六三尊像とも、紀ノ川を下して運び去られる。
山門は羽柴秀長によって大和郡山城城門にするため運び去られる。
○近世の歩み
慶長5年(1600)徳川家康、根来寺復興を許可。
慶長15年領主浅野幸長により本尊三尊像が返却され、大塔に仮安置。
各地に避難していた学呂・行人が旧坊舎跡へ相次ぎ帰山し、元和元年(1615)には59坊ばかりになる。
さらに復興院数は寛永10年(1633)には78坊、元禄2年(1689)には80坊、宝永7年(1710)86坊を数えるという。
 ※復興院数は90に届かずという印象で、近世の政治経済体制ではこれが目一杯であろうか。
少なくも天和3年(1663)には不動堂・錐鑽不動の再建なる。
延享年中(1744-)大伝法堂(茅葺の仮堂か)再建されるも、宝暦年中(1451-)には腐朽し、三尊像は再び大塔内に遷座する。
延享5年(1677)各院坊間の紛争が絶えず、12院坊が追放される。
宝暦元年(1751)徳川宗直、行人を追放、山内の蓮華院と律乗院とを両学頭と定め、両学頭制を復活し、各30石を寄せる。
宝暦2年紀州藩内の新義寺院を根来寺末寺に組み入れ、その「定め」もでき、真言宗新義派の教団ができる。
◇江戸中期の根来山絵図
 根来山一山絵図:紙本着色      一乗山根来寺伝法院之図:延宝5年、個人蔵
学頭法恕の代(寛政、享和、文化年中)常光明真言殿建立、清信院住居吹上御殿を移建し奥座敷・表御殿・庫裡(昭和37年焼失)となし、真言殿西に護摩堂建立、その西に蓮華院から聖天堂を移建。
栄性、文化11年(1814)豊山金蓮院から入山、天保4年(1833)江戸護持院転住。
栄性代、文政10年(1827)大伝法堂再興、大塔内の整備を実施。塔内の新装、荘厳具の新設、大日如来修理しその四周に四仏四菩薩像を配する。また塔上重に37尊の彫像と十六菩薩の霊牌を安置する。
 大塔上重安置仏:37尊の内の1尊
栄性の後、京都智積院信海が入山。
信海代、大門が再興される。天保6年(1835)斧初め、弘化2年(1845)上棟式、嘉永5年(1852)落慶供養。

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2015/03/24追加:
「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より

○覚鑁上人と大伝法院
 長承元年(1132)覚鑁、高野山上に於いて廃絶していた「二季伝法会」(「修学会」「錬学会」)を再興するために、大伝法院を現在の金剛峰寺本坊付近に創建する。 今でいう根来寺はこの大伝法院に連なる寺院である。
 正覚房覚鑁は嘉保2年(1095)肥前國藤津荘に生まれ、16歳の時、御室仁和寺で出家する。
20歳になり、初めて高野山に登山する。27歳の時、仁和寺で伝法灌頂を受ける。
 →御室仁和寺仁和寺院家
   ※仁和寺は王家を出自とする僧が多く入寺した。それ故、仁和寺は古代では高野山の上位寺院であった。
   また覚鑁は基本的に仁和寺僧である。
長承元年、38歳で鳥羽上皇の帰依を得て、高野山に大伝法院を開山する。
   ※仁和寺が高野山の上位寺院であることと覚鑁の出自が仁和寺であるため、高野山大伝法院代々座主は
   第30世成助(元徳3年/13330補任)ころまで、おおむね御室仁和寺系統から任じられる。
覚鑁40歳で百余人の弟子に勧請を伝授、49歳で末寺豊福寺(現根来寺)へ移り、神宮寺・円明寺を建立、病により49歳にして円明寺にて示寂する。
 鳥羽上皇は大伝法院運営の為、供養料として紀ノ川下流域に5ヶ所の荘園と既に根来の地にあった豊福寺を下賜する。
後世、この根来にあった末寺が発達し、根来寺といわれるようになる。
つまり、通説によれば、根来寺は高野山との確執から頼瑜上人が大伝法院を移したことによって成立したというが、そうではなく、大伝法院の開山と同時に根来寺の前身は既に存在したということである。
もう少し具体的にいえば、覚鑁は高野山大伝法院の開山と同時に、密教の実践道場の場として、葛城山系の南麓の「根来」の地に末寺を建立する。この末寺に、後年、大伝法院の寺籍が移され根来寺として発展するのである。
そのことは、以下に示す鳥羽上皇院宣おいて荘園の下賜とともに明らかである。
   長承元年 院宣
  下賜御願寺荘園末寺文書事
    伝法院庄五箇所末寺一個所
    一処石手 一処山崎 一処岡田 一処山東 一処弘田
    末寺一処豊福寺
    蜜厳院庄一ケ処相賀               ※蜜厳院(八角堂)は覚鑁住坊で、この住坊に相賀庄を下賜する。
  右 件荘園末寺等、門跡相伝可令沙汰者、依 院宣
  執達如件、
     長承元年12月9日  参議顕頼奉
  奉  正覚房聖人御房                ※正覚房は覚鑁
   ※鳥羽上皇 → 山城安楽寿院 を参照

○大伝法院本尊三尊像
寺院の基礎を固めた覚鑁は高野山大伝法院本堂に大日如来像を中心に三尊を配し、自らの密教を「かたち」に現す。
これに関しては、「大伝法院并郭内堂塔本尊仏具等事」山城醍醐寺蔵 で以下のようにいう。
  合
  一本堂一宇宝形作 二階三間四面・・・ 正面中間一丈六尺、脇間一丈ご尺、廂一丈五尺、母屋柱14本長三丈六尺口二尺八寸自余准之
  一大日如来像 二丈一尺有 ・・・
  一金剛薩埵像一躯 二丈左方脇士 ・・・
  一尊勝仏頂像一躯 二丈右方脇士 ・・・
     已上三尊皆院覚作
中尊は大日如来で脇侍は金剛薩埵と尊勝仏頂両尊という。
 ここで平安末期の院政期のことを振り返ろう。
この院政の時代、大日如来を中尊とする仏堂は流行し、次の12ヶ寺の仏堂が創建される。
東寺講堂を初め、法成寺金堂、平等院本堂、円宗寺金堂法勝寺金堂、円勝寺金堂、大伝法院本堂(覚鑁)、豊福寺大円明寺(覚鑁)、高野山覚皇院(覚鑁)、高野山菩提心院、天野山金剛寺金堂、鑁阿寺御堂、光明峰寺奥院金堂である。
しかし、大伝法院の三尊のように、大日如来を中尊として金剛薩埵像と尊勝仏頂像脇侍とする例は大伝法院だけで他に例を見ない。
つまり、大伝法院本尊三尊像は覚鑁の意業即ち独創による組み合わせであるということなのである。
 さて、「大伝法院并郭内堂塔本尊仏具等事」は国宝/醍醐寺文書の一つであり、そしてその成立は大伝法院創建に近い仁平2年(1152)から建久2年(1191)であり、その信憑性は高い史料である。
一方昭和55年には根来寺本尊三躯の文化財指定に向けての調査が行われる。
その調査の結果、大日如来及び金剛薩埵の胎内に追納されていた木札銘/墨書から次のことが判明する。
 三尊像は嘉慶年中(1378-89)から造立に着手し、応永12年(1408)開眼供養されると。
さらに、平成6年に上述の造立を述べた確実な史料「大伝法院并郭内堂塔本尊仏具等事」が確認され、三尊像は重文に指定される。
 以上は何を意味するか、それは高野山大伝法院本尊と全く同じものが、根来寺においても造立されたということである。
つまり、根来寺は高野山大伝法院のいわば純正な後継なのであり、計画的に高野山大伝法院を根来に下山させたということのなのである。
 なお、本尊三尊像の造立に先立ち、応永元年(1394)根来寺本堂/大伝法堂が完成する。
さらに、後のことであるが、この根来寺本堂は秀吉の天正の紀州攻めによる焼失を免れるも、秀吉により破却され、近江総見寺用材として持ち去られるという。

○高野山大伝法院組織
長承3年(1134)大伝法院諸職が定められる。
それによれば
座主(住職)1名、上座(寺務)1名、寺主(法務)1名、都維那(作務)1名<以上は三綱で一般僧・大衆を統率>、学頭2名、供僧15名、
学衆(学呂)36名、鎌行衆(修行僧)70名、夏衆(行人)50名、久住者(住僧)6名、預3名、承仕3名、大炊3名、花摘3名
の201名であった。
大伝法院において、寺院の組織化が図られたということを示し、将来の発展とそれにともなう高野山との軋轢が示唆される内容でもあろう。

○高野山大伝法院堂塔
高野山大伝法院では次で述べる13堂宇で伽藍が構成されるという。
それを上出の「大伝法院并郭内堂塔本尊仏具等事」山城醍醐寺蔵で見てみよう。以下のように示される。
1、本堂:上掲のとおり、宝形作 二階三間四面・・・
2.宝塔:本尊胎蔵界大日如来 半丈六、塔高10丈
3.不動堂:本尊不動明王 丈六
4.御社宝殿・5.同拝殿:
6.聖霊堂・7.同拝殿:方丈1宇。「霊瑞縁起」では仁治3年(1242)の焼失以前には宝塔があったという。また大伝法院伽藍の地は2世真然の廟所という。
8.宝蔵:大安寺の経蔵を大伝法院へ移築する。
9.経蔵二宇
10.鐘楼
11.護摩堂(阿弥陀護摩壇一、不動護摩壇二)
12.温室:7間四面、大釜2口
13.覚皇院:宝形作、八角二階、本尊丈六大日如来坐像、両界曼荼羅安置

○高野山大伝法院と高野山本寺方との確執
以上のように順調に大伝法院は寺基を固めていく一方で、高野山本寺方との間で軋轢を生ずる。
長承3年(1134)大伝法院の運営に関して高野山本寺方住僧から訴えがある。
 本寺高野山は末寺大伝法院とは同席して仏事を行うことができないと。
鳥羽上皇は高野山の提訴を非とし、そのことにより、高野山衆徒は天野社に離山する。
上皇は離山した高野山衆徒を罪科に処し、覚鑁に大伝法院座主と高野山座主を兼務させ、高野山検校良禅を解任する。
当時は高野山の本寺である東寺一長者が末寺高野山検校を兼務したので、検校解任は東寺の反発を招く。
結果、混乱の責任をとり、覚鑁は大伝法院及び高野山座主職を辞し、再び、高野山は東寺の支配する形に戻る。
保延6年(1140)覚鑁は高野山を下山し根来豊福寺に至り、再び高野山に登ることは無かった。
下山した覚鑁は豊福寺内に神宮寺・円明寺を建立する。
康治2年(1143)覚鑁、49歳にて円明寺にて示寂する。
 (なお、鳥羽法皇の崩御は保延5年(1159)のことである。)
一方、高野山上の大伝法院は覚鑁示寂後も拡大を続ける。
久安5年(1149)覚皇院建立、仁平2年(1152)覚皇院を鳥羽上皇に献上、御願寺となる。
承安5年(1172)頃までに大塔が完成する。
 ※宝塔/大塔の相輪については次のようにいう。
第七代大伝法院座主覚尋の時宝塔が完成するが、その時、重源は相輪を寄進すると、その自伝である「南無阿弥陀仏作善集」に記しているという。(「南無阿弥陀仏作善集」を未確認の為、正否は不明。)

覚鑁示寂後、覚鑁の理想とは違い、大伝法院座主人事も他の権門寺院の例に漏れず、政治権力が関与することとなる。例えば12代定豪は鎌倉幕府の護持僧/鎌倉鶴岡八幡宮社僧であり、37代座主満済は足利義満の養子であったという具合である。
  →下に掲載の「大伝法院座主職と高野紛争ー理想主義の挫折」平雅行 を参照
 仁安3年(1168)修正会における大伝法院と高野山衆徒間に作法を巡って刃傷事件(「裳切騒動」)が発生し、双方に多くの追放僧を出す事件が起こる。
その後も、権門寺院の座主補任を巡り、王家・公家・武家の思惑が交錯し、大伝法院座主の補任もその争いに翻弄され続ける。
つまり、院権力がバックの御室仁和寺門跡と鎌倉幕府権力との争いであり、仁和寺はその座主が高貴の出自である故に、東寺一長者を超えて真言宗の統括的地位に就くも、やがて政治権力が院(王家)や公家から武家に移るとともに、鎌倉幕府権力をバックにした東寺一長者によって揺るがされる事態となる。

仁治3年(1242)覚鑁下山後、存命中に創建大伝法院が焼失する。
ことは大伝法院と高野山衆徒との小競合いに端を発し、さまざまな行き違いの中で、それがついに高野山側による「火かけ」という事態に発展するということである。
この事件は訴訟となり、その結果、高野山側が敗訴となる。
高野山本寺方の敗訴の後、建長年中(1249-)高野山大伝法院は再建の途につく。
では、高野山大伝法院はどこまで再興されたのであろうか。
 まず、「高野山水屏風」(弘安8年/1285〜建武元年/1334)で見てみよう。
  高野山水屏風 及び 紀伊高野山大伝法院/真然堂塔婆
右隻右端の上部に描かれるのが神殿(御社)と拝殿、廟所(精霊伝/多宝塔)と拝殿、中央の二層堂が本堂(伝法堂)、下辺の樹木付近に鐘楼が描かれる。
つまり、主要伽藍の内、本堂(伝法堂)、神殿(御社)と拝殿、廟所(精霊伝/多宝塔)などは再興されるも、大塔は再興されてはいない状況であったと推定される。
少し時代が下るが別の資料である14世紀以降の大伝法院伽藍の記録を見てみよう。
文明5年(1473)「高野山諸院家帳」高野山谷上多門院住持重義著では
 大伝法院:正覚院覚鑁上人建立、道北寄進、鳥羽院御願
  覚皇院:・・・近衛院御願・・・
  塔:伝法院座主覚尋僧都之時建立之、今無、岡田
  不動堂:聖須房聖人建立、今無
  同塔:俊僧正御房真然御廟
  護摩堂
 西谷道南
  菩提心院:備福門院建立後安置御骨同阿弥陀堂
  経蔵:隆海法印建立事蜜厳蔵
 東谷道南
  蜜厳院:道南、正覚房建立、同塔法花房
中院道北の大伝法院に六堂塔、西谷道南に二宇、東谷道南に一坊舎があったことが確認できるが、塔(大塔)と不動堂は今無とあり、高野山上では大塔はこの資料でも再建されなかったものと判断される。
 しかし、文明5年(1473)といえば、現在根来にある大塔が建立企図中であり、本堂及び本尊三尊像は既に建立完了であった。
つまり、大塔については、根来寺にて再興が進行中であり、敢えて、高野山上での再興は企図されなかったのであろう。
 以上からもう一つ言えることは、一般的には、正応元年(1288)頼瑜上人が山上の大伝法院・蜜厳院を根来に移すというのが定説である。
しかし、正応以降も15世紀中頃まで、大伝法院は高野山上にも厳然と存在し、根来の大伝法院と併存していたのではないかいうことである。

天文16年(1547)根来大塔竣工し、この時を以って、覚鑁の法灯は根来に移転完了となる。
それ以降、高野山上の大伝法院は次第に衰微し、退転したのかも知れない。
天正20年(1592)豊臣秀吉が廃墟となった大伝法院跡に青厳寺を建立というから、高野山上の大伝法院はこの頃には完全に廃絶していたのであろう。

 一般的に流布している正応元年に大伝法院は根来に下山したという文献の一つに元禄6年(1693)編纂の「高野春秋」がある。
ここでは、「(正応元年3月)伝法、蜜厳二院根来一乗山へ引き移る。・・・ここの覚鑁師の門葉、永く本山における跡を削す。しかる後・・(根来寺)に安住し、しばらく円明院にて大会を張行す。」という。
しかし、実際には根来へは一時的な退避はあっても、この段階では、大伝法院の伽藍を根来で再興する段階には至っていないのである。
 ただ、平安期以降、高野山は東寺の末寺に位置付けられていた訳であるが、平安末期から王家・公家などからの寄進が相次ぎ、高野山は隆盛となり、中世権門寺院として自立の道を模索していくこととなる。
 しかし、この道を阻むものがあった。その一つに御室仁和寺門跡の大伝法院支配というものがあった。
高野山としては中世権門寺院としての自立のため、東寺や門跡仁和寺からの支配の排除が必要であり、このため、大伝法院は次第に高野山にその存在意義を見いだせなくなっていたと推測ができるのである。

一方、以上に照応するように、根来側でも、新たな伽藍建立の動きがあった。
それは、建長2年(1250)豊福寺に鎮守九所明神が勧請されるということである。九所とは丹生、高野、伊太祈曾、御船三所、金折六所、金峰山蔵王権現、熊野三所、白山妙理菩薩、牛頭天王である。

○根来寺学僧頼瑜
 中世権門寺院とは世俗の経済的政治的な覇権争いに明け暮れするだけの存在とのイメージが強い。しかし中世権門寺院といえどもそれだけではない。学呂といわれる学僧は仏法を説き、修行や勉学に励んでいたのである。
大伝法院に於いても学僧は着実に育っていたのである。
 鎌倉期、真言宗教学の面でも体系化が進められるが、その中心を果たしたのが根来寺学僧頼瑜である。
頼瑜は生涯を通じて空海や覚鑁から引き継いだ教学の伝授や伝法会を行い、それを実践するため、事相や教相の体系化を進めた。
 ※密教寺院では「教相」(仏教学や論書の学習)と「事相」(作法の学習、師より伝授される。)の2つが修学の方法である。
それ故、頼瑜は大伝法院や根来寺の中興と云われる。
 頼瑜は嘉禄2年(1226)根来寺に近い山崎村に生まれる。得度受戒の後、高野山大伝法院で学び、建長元年(1249)東大寺興福寺で三論・華厳・唯識を学ぶ。
康元元年(1256)仁和寺に入り、正嘉元年(1257)高野山に戻る。
弘長元年(1261)醍醐寺三宝院憲深から学識を評価され、「十八道」「金剛界」「胎蔵界」「薄草子」という密教諸尊尊像の供養法伝授を受け、醍醐寺において修行することと聖教の被閲することを許される。
憲深は醍醐寺正嫡(報恩院流)であり、この意味で、根来寺の主流中性院流は報恩院流をひくものである。
弘安2年(1279)高野山に於いて醍醐寺地蔵院実勝から伝法灌頂を受け、みずから根来寺中性院流の派祖となる。
弘安9年第43代大伝法院学頭となる。
かくして中性院流は新義教学の中核となり、全国に法脈を広げ、根来寺が学山として名を響かせることになる。
しかし、根来寺は天正年中、秀吉の焼き討ちを受け、根来寺には頼瑜の聖教などは殆ど伝わらないが、頼瑜の教学はその実践活動によって全国に伝播し、現在に伝えられる。
 以下、その一端を示そう。
河内天野山金剛寺: →河内天野山金剛寺
金剛寺学頭禅恵は根来寺で修学し、今に金剛寺には根来寺教学が伝えられる。(「金剛寺文書」など) →河内天野山金剛寺
高野山正智院:
正智院は学呂方を代表する院家であるが、近年大部の頼瑜の聖教資料が伝わることが明らかになる。(「正智院文書」)
これらの聖教の存在は、一般的には大伝法院は高野山下山後、高野山とは疎遠であったと思われがちであるが、鎌倉期以降も天正の焼失まで大伝法院と高野山は断絶することなく、交流は続けられていたことを示すものなのである。
山城醍醐寺: →山城醍醐寺
醍醐寺には膨大な聖教が伝わるが、頼瑜は師憲深から伝授された事相や口伝を著述し、それらが頼瑜聖教として醍醐寺に伝えられる。
武蔵高幡不動尊; →高幡不動
頼瑜の弟子頼縁は頼瑜の自筆本からの写本を持って鎌倉へ下向し、密教の拠点である鎌倉佐々目に居住する。
武蔵高幡不動尊虚空蔵院儀海は頼縁が下向し流布した新義教学を学び、頼瑜の聖経を精力的に写本する。これが高幡不動に伝わる。
儀海は若年の時上京し、その後武蔵に帰り、武蔵由井横川慈眼寺で写本をする。慈眼寺は談義所であり、本山から離れた場所で人々を教化する場所であった。
さらに儀海は高野山に登り、奥州を巡り修学し、根来寺中性院に止宿し、頼瑜の自筆本の写本を行う。頼瑜の聖教は信頼され、急速に地方に伝播する。
尾張真福寺: →尾張真福寺
真福寺能信は儀海に修学を乞い、従って真福寺は能信の写本した頼瑜の聖教を30余ばかり、今に伝える。つまり能信は頼瑜の孫弟子ということになる。
そのほか、肥後人吉願成寺、近江鶏足寺(近江己高山鶏足寺か)、越前坂井滝谷寺、武蔵吉見息障院などに根来寺の関係文書が伝来する。
人吉願成寺勢辰は根来寺に来たり、院家往生院に止住して膨大な教学の伝授を受けるという。
(但し、本書では近江鶏足寺、越前坂井滝谷寺、武蔵吉見息障院の具体的な事例には踏み込まず、内容は不詳。)

○大伝法院移転の道のり
元弘3年(1332)後醍醐天皇は高野山が空海の御手印を押した「御手印縁起」を根拠にしてきた高野山の寺領を、勅裁によって認める。(「元弘勅裁」)
この元弘勅裁によって、少なからず大伝法院は経済的打撃をうけ、結果として、末寺根来寺への移転を促すこととなる。
この勅裁で示された高野山寺領の北限は吉野河(紀ノ川)であり、当時高野山と接する大伝法院の荘園は相賀荘(鳥羽上皇の覚鑁自坊への寄進)と渋田荘(覚鑁晩年、損害の弁済のため取得)であったが、いずれも紀ノ川を挟み、勅裁によって両荘の紀ノ川南側領域は高野山領として割譲されることとなる。
この事によって、直ちに大伝法院が離山することはなかったが、やはり経済的打撃は大きく、将来離山する一つの要因になったことは事実であろう。
一方、建武4年(1336)32代座主に賢俊が就任し、同年足利尊氏は御教書で大伝法院の旧領を安堵する。そして、翌年には大伝法院に和泉國信達荘を寄進する。
これはどいう事情であろうか。
賢俊は建武の動乱の中で尊氏の窮地を何度か救い、尊氏の護持僧の立ち位置であった。
建武3年尊氏は賢俊の恩に報い、賢俊を醍醐寺座主とし、続いて東寺長者及び根来寺大伝法院座主に補任する。
大伝法院の旧領安堵や信達荘の寄進は尊氏と賢俊の縁によるものなのである。
永村眞氏によれば、醍醐寺と根来寺との交流は深いものがあった、両寺は根来寺を「教学碩学」、醍醐寺を「事相相承」の本流としてお互いを尊重してきた。
醍醐寺賢俊が根来寺大伝法院座主となったのもこういった関係があったからである。賢俊の後、34代から37代満済まで、醍醐寺座主が根来寺座主を兼帯する。

根来寺伽藍古絵図
  2015/03/28追加:
   根来寺伽藍古絵図・大     根来寺伽藍古絵図・中
 根来寺大塔が竣工した頃描かれたと推定される「根来寺伽藍古絵図」は再興が完了した頃の根来寺を描く。
即ち、現在の大塔のある場所を「七堂伽藍所」と墨書し、金銅大伝法院、大塔、大師堂、阿弥陀堂、不動堂、覚皇院/堂、真然僧正堂(聖霊院)、鐘楼、中門が描かれる。
境内西部には頼瑜創建の中性院、その東に御社(三部権現)、境内東方には蜜厳院、温室も存在する。
上辺の山塊は横峯(葛城山系)で、その中央部には金剛童子社を置き、山塊は修験・葛城信仰の行場であることを示す。
なお、境内は高野山と同様に女人禁制である。
本図には100余の堂宇が描かれ、その堂宇は具体的建物が描かれる。一方各所に点在する院家は43あるが、建物は描かれず、名称のみが墨書される。
西南端には大門があり、東へ5院家を過ぎると、覚鑁が康治2年(1143)に創建した三部権現(神宮寺)に至る。
三部権現の西には頼瑜の住坊であった中性院流の教学の発祥である中性院がある、
三部権現の北には覚鑁が同年に建立した円明寺がある。
 三部権現:中社に春日・天照・八幡、左社に丹生、右社に高野各明神を祀る。
更に北に抜けると、長元元年(1132)に末寺とされた豊福寺と九社明神が祀られる区画である。この一画には行者堂もある。
行者堂の東は大谷川であり、深い谷である。
その東、北から伸びる尾根の末端を整地し、ここが「七堂伽藍所」で中枢である。
 近年フロイスの言葉を援用して、根来寺を共和国、宗教都市と呼ぶ見解もあるようである。
しかし、本絵図に描かれる根来寺境内は全面堂塔社と院家だけであり、ここには民家、生産設備、商業施設はただの一つもない。
要するに、根来寺は寺院という宗教施設しかも大規模な宗教施設なのである。民衆が集まり、それぞれの生産を行い、生活消費する都市では全くないのである。
 さて、もう一度、厳密に本図の製作年度を考察しよう。
本図は大塔が建立された天文16年(1547)から秀吉の紀州攻めの起こる天正13年(1585)の間に描かれたものと推察される。
但し、円明寺の建物に「興教大師拝殿」との墨書がある。だとすると、覚鑁の大師号宣下は元禄3年(1690)であり、従って本図の製作は元禄3年以降ということになる。
しかし、描かれた堂塔伽藍や院家が江戸期のものでは有り得ないので、結論としては、本図は大塔再建-秀吉侵攻間に描かれた原図を元禄3年以降に模写したものと推定される。

○戦国期の根来寺/根来寺の焼亡
紀伊國では守護は畠山氏が起用されたが、畠山氏はしばしば内紛を起こし、根来寺は紀伊粉河寺とともに内紛に巻き込まれたことがあったようである。
根来寺も他の大寺院と同様、行人方を中心に武力を蓄え、行使に及ぶこともあったようである。
また尊氏による和泉信達荘寄進により、根来寺は和泉国の政情にも関与し、武力もしばしば用いたようである。
天正13年(1585)、遂に、秀吉の泉州紀州攻めが行われる。
これは戦国の動乱を終わらせるためのある意味必然の征伐であったのかも知れない。
雑賀衆は鷺ノ森を中心とした真宗本願寺派の紀州門徒であったが、
しかし、ほぼ天下を制定した天下人と一地方勢力との力の差は歴然としていて、あっけなく勝敗は決する。
秀吉が岸和田に着陣したときには、既に根来寺・雑賀衆は大敗といい、根来寺へ陣を進めたときには、既に根来寺僧は逃散した後であった。
翌日、300余あった院家はどこからとのなく出火し、全て焼失する。
本堂・大塔・大師堂などだけが無事であったのは僥倖というべきなのであろう。

○近世の根来寺
慶長5年(1600)徳川家康、根来寺再興を許可。
同年紀州に浅野幸長入部、幸長が秀吉が京都に持ち帰った本尊三尊像を慶長15年に根来寺へ返却、当面大塔内に安置。
慶長17年(1612)長谷寺に、慶長18年智積院に寺院法度が出される。根来寺院家妙音院専誉や同じく智積院玄宥の両能下が長谷寺と智積院で新義真言宗の法灯を掲げていたからである。
寛永元年(1624)頃、新義真言宗触頭に江戸円福寺、真福寺、弥勒寺、知足院が選定される。貞享4年(1687)知足院は根性院に交替する。
元和5年(1619)徳川頼宣紀州入部、根来寺には南龍院建立虚空蔵堂が建立される。(今は退転)
この虚空蔵菩薩は覚鑁が拝領した豊福寺の本尊であり、まず復興の一歩を踏み出したと評価すべきものであろう。
 では、この頃、どのくらいの堂宇・院家は復興していたのであろうか。
「根来寺一山絵図」では天正の兵火で焼失を免れた大塔と大師堂のほか、虚空蔵堂、三部権現、円明寺祖師堂、同拝殿、鐘楼、伊太祈曾社、地蔵堂、一切経堂、九社明神、大肆堂、千手堂、開山廟所、不動護摩堂、同拝殿、毘沙門堂、接待所、虚空蔵堂、地蔵堂、愛宕社、女人堂が描かれ、それらの堂宇がふkっこうしていたと思われる。そして院家は60ほどを数えるので、60ほどの院家が復興していたのであろう。
少し時代が下り、延宝年中の「一条山根来寺伝法院図」では院家は82院家に増加する。
即ち、和泉街道沿には蜜徳院、西本坊、正蔵院、この東の蓮華谷には福長坊、西蔵院、泉識坊、福寿院、杉之坊、阿弥陀院、西光院、福蔵院、蓮上院、成福院、持幡院、延命寺などである。
 根来山一山絵図・翻刻

○本堂(大伝法堂)の再建
大塔、大師堂は別にして、上述のように、その他の堂宇および院家は江戸初期に一定の復興を見るも、肝心の本堂はさまざまな障害があり、容易に復興が叶わなかった。
 しかし再興に向かって、まず先鞭をつけたのは徳川綱吉の護持僧・知足院住職である隆光であった。
隆光は大僧正及び僧録に昇進し、新義真言宗に頂点に立つ人物である。
隆光は寺社奉行に根来寺本堂・大門の再興などを願い出、勧化の許可を得る。これでやっと本堂再興は具体的に動きだす。
さらに寺外にあって学僧の育成に当たっていた小池坊(長谷寺)及び智積院は、根来寺が名実ともに本山として復興できるように、根来寺に学僧の育成ができる権限付与を、紀州藩に願い出る。
宝暦元年(1751)徳川宗直は寺内の行人を追い、蓮華院と律乗院を根来寺学頭に任じ、学頭制を復活する。
また本堂再興の権化は本格化し、ついに文政10年(1827)大伝法堂が再建される。実に天正13年以来、240余年ぶりのことであった。
木札によれば、大檀那は紀州重倫とその母清信院、善男善女の勧進を得る。願主は勧進僧栄性と前任の学頭法住と法恕であった。
また、大門は嘉永6年(1852)落慶供養の運びとなる。

 →紀伊岡崎満願寺 を参照

以上、「根来寺を解く」 より
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2015/03/28追加:
2015/02/23シンポジウム「根来寺史をめぐる新たな視角」 より
その1■「大伝法院座主職と高野紛争ー理想主義の挫折」平雅行 <講演予定稿>より

 長承3年(1134)覚鑁は、伝法院・密厳院の寺院構成を定め、太政官符でその承認を得る。
要点は次の3点である。
1)伝法院座主は覚鑁門跡が師資相承すること、
2)「住山不退・弘法利生の者」が座主となる資格を有すること、
3)伝法院座主が伝法院・密厳院の200 余僧の補任権を掌握すること
ここには覚鑁の理想主義が表明されている。
即ち、まず第一は座主の住山不退である。
寺院・蘭若とは元来修行の場であり、それ故人里とは離れた場所有るべきものである。
しかし、平安後期の院政の時代では、寺院は都に造られ、僧侶はそこに住居する。比叡山が然りであり、十二年籠山制は崩壊している。
覚鑁は、理想主義の観点から、そうした風潮を批判し、座主の住山不退を定めた。
第二は座主主導の集権的な寺院構成である。
つまり、座主の主導権を打ち立てようとしているのである。

 しかし高野山本寺方との紛争は、覚鑁の理想主義を打ち砕くことになる。
つまり、伝法院座主の住山不退の原則が緩和され、さらに住山はおろか、拝堂登山すら行わない座主の時代を迎えることとなる。
仁安3年(1168)の裳切騒動が一段落した承安3年(1173)、隆海権大僧都は「権威を募り師跡を守らんがため」、伝法院を仁和寺御室守覚に寄進し、朝廷がそれを認めた。
この承安の太政官符によれば、伝法院座主職は「長承の官符に任せて隆海の門跡が譜代に相伝し、山上の寺務、山下の庄務を譲補せん」とある。
ここで留意すべきは、第一に、この寄進の際に隆海が伝法院の座主でなかったこと、そして第二に、座主の条件として住山不退の規定が削除されたことである。
この隆海(1120〜77)は関白藤原師通の孫であり、左京大夫家隆の子で、覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子である。
保延4年(1138)19歳で4代伝法院座主となり、28年にわたってその地位を維持する。
そして、永万2年(1166)に5代実禅、嘉応元年(1169)に6代禅信、承安2年(1172)に7代覚尋に対して、それぞれ隆海が座主職を譲っている。
隆海は座主を退いた後も、本主的門主として伝法院の実権を握り続けていたのである。それゆえに承安3年の仁和寺寄進を隆海が主導したのである。
座主を退いた人物がなお伝法院の実権を掌握しているという、不自然な事態が出現した原因は住山不退の規定にあった。
隆海は座主を譲ったころから京都で活動を行っていて、住山不退の原則に配慮して、京都で活動するために隆海はあえて伝法院座主を辞したものと思われる。
例えば、覚鑁における鳥羽法皇のような強い後ろ盾があれば、座主の住山不退が可能であったであろう。
しかし高野山本寺方との抗争を戦い抜いて伝法院を興隆させてゆくには、有力権門の支えが不可欠なのである。
そして、権門と縁を結ぶには京都での活動が必要となる。
こうして、隆海は伝法院を支える新たな保護者として仁和寺を選び、座主が日常的に諸権門と交流・交渉することができるように、住山不退の規定を削除した。
しかしその選択は、皮肉にも、結果的には伝法院を中央政界の抗争に巻き込み、伝法院座主職の寺外流出をもたらすことになる。

 建永元年(1206)8代座主定尋の譲りによって、道厳が17歳の若さで10代大伝法院座主となる。
この道厳は後鳥羽院の側近であった長厳僧正の実子であった。
 ところが承久の乱で、父の長厳は流罪となり、長厳の房領と、長厳が有していた熊野三山・新熊野社検校職は没官され、これらは鎌倉の鶴岡八幡宮5代別当定豪に与えられる。
さらに定豪は長厳の子の道厳に接近し、その身柄を保護する見返りに、伝法院座主職の譲状を与えるよう求める。
そして定豪は道厳の譲状を楯に、仁和寺御室道助に伝法院座主に補任するよう迫ったのである。
御室道助はすでに新たな座主として隆海門流の覚瑜を11代として補任していたが、この定豪の要求を拒否することができなかった。
 定豪(1152〜1238)はもともと仁和寺系の僧侶であったが、京都では不遇だった。
そのため文治5年(1189)師の兼豪が亡くなったのを機に鎌倉に下向している。
そして承久の乱の前年には鶴岡八幡宮7代別当となって東国仏教界の頂点に君臨し、承久の乱では幕府祈祷の中心となって活躍する。
それに対し、仁和寺御室道助は後鳥羽院の子として当然幕府調伏祈祷を重ねてきた。道助に代われる人物がいなかったため、何とかその地位を保っていたものの、道助の政治基盤は崩壊していたのである。
幕府の威光を背景に補任を迫る定豪に抗することができず、御室道助は定豪を12代伝法院座主に任じた。
つまり、承久の乱をきっかけにして、覚鑁・隆海門流でない人物が座主となったのである。
 このことは伝法院寺僧の反発により紆余曲折があったものの(13代座主は覚瑜、14代座主は寂尊)、嘉禎3年(1237)に定豪は15代伝法院座主に還補され、間もなくそれを弟子の16代定親に譲った。
 仁治3年(1242)高野衆徒が伝法院を焼き討ちすると、寛元元年(1243)朝廷は伝法院再建の功により、伝法院座主職を定親門跡で相承することを認める宣下を発した。
ところで定豪も定親も、鎌倉で祈祷活動に従事した僧侶であって、伝法院については住山はおろか、拝堂登山した形跡すらない。
つまり寛元の宣下によって、伝法院座主職は、覚鑁・隆海門流から離脱して、拝堂登山すら行わない鎌倉在住の幕府僧によって相承されることになったのである。
 しかし宣下から4年後、鶴岡八幡宮7代別当定親は宝治合戦(三浦氏の乱)に連座して鎌倉を追放される。
そして、寛元の宣下も取り消されたが、その経緯から、寛元の宣下が出された事情を伺うことができる。
実は定親は、宝治合戦前の段階で、鶴岡八幡宮別当、伝法院座主、東寺長者、東大寺別当という4つのポストを保持していた。
このうち、宝治合戦を機に鶴岡八幡宮別当、伝法院座主職を剥奪されたが、東寺長者と東大寺別当についてはポストを維持している。
つまり後者は定親の個人的力量によって補任されたものであったため、鎌倉で失脚した後もポストを維持できたが、鶴岡八幡宮別当と伝法院座主は幕府の力によって補任されたものであったため、鎌倉追放とともに剥奪されたのである。
このことは、寛元の門跡相承の宣下を得るに当たって、幕府の力が大きかったことを意味している。
鶴岡八幡宮別当定親が伝法院座主を兼帯して、幕府の全面的な支援をうけて伝法院の再建事業を遂行する……、寛元の宣下はそれを条件に定親門跡の座主相承を朝廷が認めたものであった。
定親の失脚によって伝法院座主の補任権は再び仁和寺御室に戻り、定親の後任には隆海門流の教禅が任じられた。しかしそれは、伝法院の再建事業から鎌倉幕府が距離をおくことをも意味したのである。
 ※なお定豪、定親については
 「鶴岡八幡宮寺」貫達人の第4章「鎌倉時代の別当」の項で論述がある。

2015/03/28追加:
2015/02/23シンポジウム「根来寺史をめぐる新たな視角」 より
その2■「本尊像からみる大伝法院から根来寺への密教相承」中川委紀子 <講演予定稿>より

 根来寺は・・・広大な寺域をもち全国に法流をもつ宗派の祖山寺院であるが、その史的解明は遅滞してきた。
それは天正13年(1585)の秀吉紀州攻めにおいて伽藍の中核部をのぞくほとんどの院家を焼失し、多くの集積文書を失ったことが主因であったろう。
 しかし、近年は等閑視されることが多かった寺院文書、なかでも聖教史料の調査が積極的に進み、根来寺に関する内容も多々見
出された。そのことで根来寺は寺院活動を内側から見る新しい視覚を得て、実像が解かれることになった(拙著2014)。
殊に、根来寺僧が直接に交流をむすんだ京都醍醐寺・大阪金剛寺・東京高幡不動尊・名古屋真福寺・高野山正智院などの聖教史料は、失われていた大伝法院・根来寺の歴史を大きく補うことになった。
就中「大伝法院􂳛内堂塔本尊仏具等事」(以降「次第目録」)は、覚鑁が自身の密教を現した高野山大伝法院の本尊・堂塔・仏具をはじめ法会や伽藍の布置の具体的な事績を知り得る内容であった(坂本1988、冨島2005、拙稿1997)。
また、本史料の確認や関係する高野山文書は、大伝法院の消長や大伝法院伽藍と根来寺伽藍の関わりを解明する手がかりにもなった(「史跡根来寺境内保存管理計画書」)。
 本報告ではこれらの新出史料に基づき美術史、すなわち寺院社会において三宝護持をつかさどり、聖・俗の梯となった仏宝(本尊)に重心を置く立場から根来寺史をめぐる新たな視角を求めることにつとめたい。
寺院社会における三宝護持は、単なるスローガンではなく寺家運営の柱として仏宝を象徴にいただき僧宝の修学や勤めによって法宝を相承したことは、すでに東大寺の例によって立証されている(永村1989)。
 さて、現在の根来寺本尊像は伽藍中心部にそびえる真言大塔(国宝)と並立する本堂(大伝法堂)に祀る大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像である。
三尊像は丈六三躯を並置し、尊格の組み合わせは他に例を見ない。この三尊像と同時に建立された本堂は天正兵火で焼失をのがれたが秀吉によって京都へ運び去られた。それ以前の本堂を描いた根来寺伽藍古絵図には「七堂伽藍所金堂大伝法院」と墨書する。
本報告ではこの墨書の意味や特徴的な本尊尊格の組み合わせの由来を求め、本尊像が《仏宝》として寺院社会で担ってきた役割、根来寺における密教伝承とのかかわりを考えたい。

 作業をはじめる前提として根来寺の創建事情にふれておきたい。
『根来要書』26 長承元年十二月九日/院宣/下賜御願寺庄園末寺文書事に「伝法院庄五箇所末寺一箇所」とあるように、根来寺の創建は長承元年12月、大伝法院の石手・山崎・岡田・山東・弘田の五庄園、末寺一処豊福寺が開基鳥羽上皇から下賜されたことにはじまる(高木2006)。
豊福寺は弘田荘内にあった葛城信仰の拠点寺院で、ここに覚鑁は大伝法院を本寺とする末寺を置いた(『諸山縁起』・「要書」29・拙稿2012)。
康治2年、覚鑁は豊福寺境内に円明寺や神宮寺を建立し法会を営んだ。この末寺活動はその後も継承され、元久年間頃から豊福寺は地域の名称をとって根来寺と呼称されるにいたる(「要書」102,103)。
末寺を運営する院家の建立も持続的におこなわれた(「束草集」ほか)。
一方、高野山上の本寺・大伝法院は覚鑁の示寂後も大伝法院第7世覚尋が大塔を建立するなど伽藍を充実し、密厳院に加えて、同第4世隆海建立覚皇院に丈六大日如来坐像安置し、鳥羽上皇御影を奉った。
また美福門院の外護をえた菩提心院でも供養が営まれるなど院家が拡張し、本寺と末寺は歩みを続ける(「要書」111〜124・「高野山院家帳」)。
しかし仁治3年,覚鑁創建の大伝法院は金剛峯寺との確執によって焼失する。
大方の根来寺史では「覚鑁が創建した高野山大伝法院が裳切り騒動等本寺金剛峯寺との確執の末に、中興僧正頼瑜が根来寺へ移転した」(薗田1994)と述べられてきた。
しかし、頼瑜が活躍した建長5年には後嵯峨上皇の命で高野山上において大伝法院は再建にかかる(「次第目録」、高野山水屏風/京都国立博物館蔵、冨島2006)。
これを証するように、根来寺境内発掘調査(昭和51〜平成19年まで累計2.97ha)の報告では、頼瑜が活躍した時期に大伝法院が根来寺へ移転したことを示す伽藍遺構は確認できない。
一方、平成24年から根来寺大塔防災事業がおこなわれたが、その際の埋蔵文化財確認調査で現在の大塔・本堂周辺は本尊像造像がおこなわれた嘉慶年間以前に遡る土地利用や天正兵火の焼土層、また天正年間以降の諸堂宇の建立は確認できなかった。
このことは大塔・本堂がある根来寺中核区域は嘉慶年間頃に葛城山系の支尾根末端部を一括して開削し、本尊像・大塔を建立、その後も一貫して仏教的な聖域を保つ一区画であることを示している。
 これらによって大伝法院伽藍が根来寺への「移転」された時期や宗教的な意味の再考が必要となった。
通説の誤謬は、これまで大伝法院伽藍に関わる史料や根来寺の寺院活動を具体的に示す史料(聖教)の確認が僅少であったことにもよるが、覚鑁にむけられる関心が金剛峯寺との確執に集中し、覚鑁が創成した事績や活動が等閑視されたことにも理由の一つであろう。
大伝法院と根来寺―その創建と運営を確認するとともに、何が、どのように「移転」したのか具体的な意味が問われる。
 
 山岸常人氏は拙著書評(山岸2014)をいただいた中に、「国家機能の一員として宗教界(寺社)の役割は、実際には政治的役割にとどまるものではない。むしろ寺院の役割が中世社会全体の文化的側面に及んでいることに注目するならば、寺院とは幅広い文化の集積とその普及の役割を担った機構、つまり人間社会の知的活動の中核であったと読み替えることができる」と述べておられる。
まさに寺院はインドから大陸を経て連綿してうけつがれた幅広い仏教文化の集積地であるとともに、個々の寺院がまた新たな創成を加えた発進源でもあった。
 こうした視点に拠りながら、新しくみいだされた史料・文化財調査、また与えられたいくつかの疑問を糸口に以下の3つの視点を設け、覚鑁が創成した密教寺院・大伝法院の文化(T・U)が根来寺に継承(V)の筋道とその役割を本尊像からみたい。
T覚鑁創建の大伝法院と末寺根来寺―その事績と活動(『中右記』・「大伝法院郭内並本尊等目録」・「根来要書」等)
U大伝法院と根来寺の展開(「大伝法院座主補任次第」、高野山水屏風、大阪金剛寺・醍醐寺・正智院聖教、「束草集」等)
V本尊像から見る高野山大伝法院から根来寺への密教相承(本尊調査報告『根来寺の歴史と美術』ほか)

2015/03/28追加:
2015/02/23シンポジウム「根来寺史をめぐる新たな視角」 より
その3■「中世根来寺の教学とその聖教」永村眞 <講演予定稿>より

 鎌倉時代後期に、高野山より根来山に拠点を移した覚鑁門徒の中核を占めたのは学頭の頼瑜であった。
頼瑜は高野山大伝法院において修行の後、南都東大寺・興福寺において三論・華厳・法相各宗を修学する。
さらに真言宗を修め、仁和寺経瑜より広沢流事相、醍醐寺報恩院憲深より小野流(三宝院流)事相の伝授をうけ、醍醐寺中性院に止住して憲淳から伝授された「秘密口訣」を記した「薄草子口決」・「野金野胎護摩鈔」等の事相聖教を撰述している。
文永3年(1266)高野山大伝法院の学頭となった頼瑜は、同院における「伝法会談義」の勤修を契機に「日経疏愚草」・「即身義愚草」等の教相聖教を撰述し、河内金剛寺にはその書写本が数多く伝来している。
すなわち頼瑜は醍醐寺憲深からの事相伝授と、大伝法院における教相修学のための伝法会を契機として聖教を撰述し、事相を踏まえた教相の体系化を図った。
 頼瑜は高野山大伝法院と醍醐寺中性院を往復して事相・教相の伝授・論義を勤修するとともに、弘長二年(1262)、弘安五年(1282)に「根来寺鎮守講」で論義を催している。
 弘安九年(1286)の高野山大伝法院における大湯屋騒動の翌十年、大伝法院・密厳院の「寺基」が根来山に移されたとされるが、それ以前に頼瑜は神宮寺で「根来寺鎮守講」を催しており、同山を覚鑁の法燈相承に相応の場と認識していたことは確かであろう。
 頼瑜が根来山に大伝法院等を移し「根来寺」号を掲げて以降、山内には円明寺・神宮寺と覚鑁の「荼毘遺跡」たる菩提院という「聖霊形見」の「三所」の他に、不動院等が散在し、さらに頼瑜が止住した根来寺中性院や「五坊」(五智坊)等が相次いで創建された。
鎌倉後期から南北朝時代にかけて、根来寺内には光明真言院、清浄金剛院、蓮華院、弥勒院、花王院、西蓮花院、東南院、仏寂院、宝積院、宝光院、無量光院、普賢院等の諸院家が点在した。
これら諸院家において覚鑁以来の法燈が継承され、頼瑜により体系化された事相を踏まえる教相重視の独自の修学形態が、根来寺における密教相承の特質となり、その延長上の後の新義真言宗が生まれることになる。
 このように高野山において密教興隆を掲げ創建された大伝法院・密厳院は、勤修された伝法会以下の諸法会と共に根来寺に移され、また覚鑁の法燈は頼瑜を経て同寺に継承され、鎌倉後期から室町前期に至る過程で、新たな密教道場としての根来寺が整備された。
 そこで本報告では、鎌倉・南北朝時代を中心として、根来寺における法会勤修や伝授を契機として生まれた聖教類に注目し、如何にして根来寺に固有の仏法が形成され、如何なる法流が相承されたかについて検討を試みることにしたい。
 ※以上 <講演予定稿>より

頼瑜の事績を一言でいえば、以下であろうか。
醍醐寺報恩院憲深からの事相伝授され、「口決」の整序による教相的裏付けと、それらを踏まえた事相・教相の体系化を実現し、これが新義教学として結実する。

 頼瑜の教学活動は以下のように述べられる。
頼瑜は事相・教相学業仕り、・・真言一派の経論、小乗有部・・諸論、法相大乗之経論、三論・・、天台・・、華厳一派之経論等ニ至迄、不残修学・・・事相と申す・・小野・広沢十二流修学仕る・・・(「諸宗階級」)
 醍醐寺においては醍醐寺文書から以下が知られる。
正安4年(1302)醍醐地蔵院流実勝から「宗大事并大法秘法」を相承し、編智院宮聖雲へ「付法」
嘉元元年(1304)地蔵院親玄から聖雲に地蔵院流の「大事」「秘法」が伝授される。
地蔵院実勝と親玄は頼瑜の師であり、頼瑜・親玄を通じて地蔵院流が聖雲へ相承される。
また、正安4年(1302)頼瑜から東大寺東南院聖忠へ伝法許可灌頂印信
 中性院法印頼瑜灌頂資記では
弘安4年(1281)高野山中性院に於いて理性院流宝心方の印可伝授
弘安6年(1283)高野山中性院に於いて、理性院仙覚に「三宝院流」「仁和寺成就院流」「理性院流宝方」を伝授
正応2年(1289)六条若宮神宮寺に於いて「安詳寺流并金剛王院流」を伝授
正応6年(1293)根来寺中性院に於いて報恩院憲淳に「三宝院印可」の重受、諸流(理性院流、理性院宝心方、廻心上人相承方、金剛王院流、安詳寺流、成就院流)を伝授
嘉元元年(1303)根来寺蓮蔵院に於いて東大寺東南院聖忠へ「三宝院流」「諸流大事」を伝授

 「醍醐寺新要録」では次のような法脈があげられる。
地蔵院:実勝方血脈事:・・・実勝−頼瑜−聖雲
報恩院:有識事:頼瑜<甲斐、貞弘、寺務之時補了、弘長元六廿三、高野法師>
   :血脈事:実深−頼瑜<甲斐法師>−
理性院:血脈事:定兼(廻心上人)−頼瑜
座主并法流血脈篇:・・・実勝−頼瑜−聖雲

 以上のように、頼瑜が伝授した諸流は、三宝院流(報恩院流、地蔵院流)を中核として、理性院両流(宝方、廻心上人相承方)に
小野流(金剛王院流、安詳寺流、勧修寺流)、広沢流(成就院流、伝法院流)が加わり、これらが中性院流事相の実体をなす。

 ※なお 「根来寺の法会と説教」及び「頼瑜撰述の聖教とその相承」の項は内容高度に付、割愛

2015/03/28追加:
2015/02/23シンポジウム「根来寺史をめぐる新たな視角」 より
その4■「発掘調査から見た根来寺の興亡―大塔周辺の発掘調査を中心に―」村田弘

 1.根来寺遺跡では、昭和50年代前半から山内の随所で発掘調査がなされてきており、これらの調査によって数多くの院家跡が確認されるとともに膨大な遺物が出土している。
これらの調査結果からは、根来寺の繁栄の様が窺えるとともに、随所で確認されている天正の兵火に伴うおびただしい量の焼土の存在からは秀吉による焼き討ちの凄まじさも看取することができる。
 2.しかし、開発の手が及ぶことのなかった大塔・大師堂・大伝法堂といった主要堂塔が建てられている伽藍域についてはこれまで発掘調査の手が入ることはなかった。今般、主要堂塔を火災から守るための新たな防火施設が設けられることとなり、これに伴う確認調査が実施されることとなり、はじめて伽藍中心域において発掘調査をする機会を得た。
調査は配管予定地に2.0×1.2mのグリッド(以下、Gと略す)を34箇所設定しておこなった。
 3.調査した34箇所のうち遺構が確認されたのは、4G及び17Gである。
このうち4Gでは、南面する高さ70cmほどの石垣を検出した。石の積みは2ないし4段で、整地土との関係から中世に遡るものである可能性が高い。その場合、西側に現存する応永年間には建てられていたとされる前身の大伝法堂に関係する石垣であった可能性も考えられる。
17Gにおいては、鋳造に関係すると思われる土坑及び遺構面の一部が焼けて赤く変色していることを確認した。
 4.伽藍域は整地されているが、整地のあり方は北側の堂舎が建てられている北側は版築状に丁寧な造作が認められるのに対し、南側では一気に盛り土した様子が判明した。
なお、この整地の時期は出土遺物から16世紀中頃の造作と判断された。
 5.山内の発掘調査では、ほとんどの調査地で羽柴秀吉による天正の兵火(1585年)の痕跡を示す焼土が確認されているが、今回の調査ではまったく確認することができなかった。
全山がほぼ灰燼に帰すような火災の中で、この伽藍域のみ類焼を免れたことを示すものであるが、三つの堂塔が偶然に類焼を免れたとは考えがたく、おそらく意図的なものがあったと想像される。
 6.調査結果から見ても伽藍地域は先行して院家が建てられていた形跡も無く、兵火後においてもそのことは認められなかった。
いわばこの地は、紛れも無く根来寺における「聖域」でありつづけた場所であったと言える。
また、伽藍域の南端近くで確認された鋳造関係の遺構は16世紀の中頃と考えられるが、この時期は大塔の完成を間ぢかに控えた時期であり、大塔に係る鋳造品を現地で製造していた可能性も考えられる。
さらにその後、伽藍整備の最終仕上げとして大規模な整地をおこなっていることを考慮すれば、大塔の完成が中世根来寺の一大画期であったことは想像に難くない。
今回の発掘調査でこのことをあらためて確認できたことの意義は大きいと言えよう。

2015/03/28追加:
2015/02/23シンポジウム「根来寺史をめぐる新たな視角」 より
その5■「中世権力・根来寺の実像‐「惣国」「一揆」「都市」再考‐」廣田浩治

中世の根来寺は寺社勢力(宗教権門)にして紀伊北部から和泉・河内南部における地域権力であった。
しかし中世の根来寺の権力論ほど虚構・虚像に満ちている存在もないだろう。

 根来寺は寺院・僧侶の形をした大名領主・戦国大名と評価されてきた。
この評価は武家権力に対抗した側面ばかりを重視し、武家権力とは異質な寺社勢力の組織原理を見落としている。
 根来寺の僧兵を鉄砲隊の軍事集団・傭兵集団とする説も広まっている。
これは鉄砲伝来以前の根来寺の歴史を無視し、根来寺が傭兵稼ぎを常としたアウトロー集団であるかのような誤解を広めた説である。
 雑賀衆と根来寺を「根来・雑賀(の鉄砲隊)」と一括りにする歴史叙述も非常に多い。
ともに天下統一を目指す豊臣秀吉に敗れたことから「雑賀・根来」を同一視・混同する誤りは後を絶たないが、根来寺と雑賀衆が常に同盟者かどうかの論証はなされていない。
 鉄砲隊論や傭兵論と関わって、根来寺を行人衆の権力と考える見解も根強い。
行人衆の政治軍事面の役割は大きいものの、この見解は根来寺僧を聖職者にあるまじき存在とするイエズス会の史料や、行人衆が豊臣秀吉に敵対したため根来寺が秀吉に敗れたとする「根来寺破滅」論にも立脚している。
 以上のいずれの説も、戦国期の根来寺のある特性だけを取り上げ、いわば偏った見方であろうと思われる。

 民衆史や地域史の観点からは、根来寺を紀伊北部や和泉南部の民衆による人民政権、または在地の土豪・地侍が支持した土豪政権とする説も有力である。
根来寺を支えた地域民衆に着目した議論ではあるが、根来寺が「権力」であることが看過されている。
 最近では人民政権論を引き継いで根来寺を「惣国一揆」とする説も出されている。
しかし一山という権力組織を持つ根来寺が果たして「惣国」を形成できるのか論証されていない。
 また多くの院家と広い境内のある根来寺を「都市」と理解し、根来寺を都市権力とする見方もある。
しかし根来寺が如何なる都市であるのかも論証されていない。また根来寺「都市」論は根来寺が泉州南部一揆などの在地民衆に支えられる面を無視し、根来寺権力の求心性や境内(都市)の経済力を過大に評価する見方であり、実証されているとは言えない。
 このように根来寺権力の歴史像は虚像に虚像を重ねて今日に至っている。
その虚像・虚構の根底には、根来寺を天下統一を目指す豊臣秀吉の敵役・脇役・負け役としてしか評価しない偏った歴史観がある。
これはイエズス会史料や戦国期の史料しか使用いないことと一体の問題である。このため豊臣秀吉との対決以前の根来寺権力の長い歴史を評価できていない。専制的で強大な豊臣秀吉に敵対した根来寺(および雑賀衆)は、自動的に民衆の味方であるという思い込みも強い。
根来寺「都市」論も都市イメージを売り出そうとする戦略意図が強すぎ、根来寺の都市的性格の実証に乏しく、根来寺の学侶(衆徒)や支配下の村落や在地社会を軽視する結果になっている。
つまり根来寺権力論の問題点として、関係史料の一部しか使わない、戦国期しか論じない、根来寺境内(都市)だけしか考えていない、鉄砲伝来や統一政権との対決より以前の室町・戦国期全体の根来寺研究の諸成果が総合されていない。

 報告者(廣田)は室町・戦国期の泉州南部における根来寺の権力の全過程と構造について、史料にもとづく事態究明に努めてきた。
すなわち根来寺を
1)守護・戦国武家権力と拮抗できる実力を備えた「地域権力」
2)幕府秩序における守護との同等の「公権力」
3)泉州南部の地域社会からも認知された「地域公権」と評価し、
4)「根来領」ともいうべき支配領域を形成したと論じた。
また根来寺の権力構造を、寺僧の個別的な領主権・地主得分権・代官職を前提に、(A)一山(衆徒・行人)集会(B)行人衆(「惣分」)の集会(C)有力行人衆の「衆」的結合が重層した「寡頭制ながらも非集権的な権力構造」とし、根来寺支配圏の支配構造を在地での代官衆・行人衆の在地(荘園・郷)における「衆」的連合や、配下の土豪・村落の連合に依存した「在地依存型支配」とした。
根来寺の権力論を牽引したのは史料に恵まれた和泉南部での研究であった。
これに対して根来寺の紀伊北部支配の実態はほとんど何もわかっていない。
 本報告ではこれまでの虚像や虚構を排して、中世後期根来寺の権力・勢力としての実像を、根来寺の「本国」ともいうべき紀伊北部において実証的に論じたい。
またその論証を通じて、近年の根来寺研究のキーワードになっている「惣国」「一揆」「都市」が妥当なものであるかを問う。
 まず紀伊北部の根来寺権力が中世前期の寺院権門(高野山が対抗相手)から、幕府・守護体制下で認知された公権力・地域権力へと転換する過程を論じる。
この過程は、荘園制下の根来寺領(大伝法院領荘園)とは異質な根来寺の支配圏が形成される過程でもある。
 次に紀伊北部の根来寺の支配圏の実態を考察する。
その支配圏ならびに勢力圏は(T)根来寺・寺僧が公方領主権をもつ「寺領」(U)寺僧(特に行人)が地主得分を持つ所領(V)寺僧(特に行人)が代官職を持つ所領(W)従属同盟勢力も含む政治的軍事的版図(根来領)(X)根来寺の勢力が及ぶ影響圏、の同心円的構成をとるであろう。
根来寺支配圏の中心地域は、寺・寺僧の領主支配・地主得分支配により成り立つ。
以上の権力構造をもつ根来寺の恒常的なあり方は土豪・村落の「一揆」を基盤とした「惣国」ではあり得ない。
根来寺権力が寺僧の「一揆」を形成するのは戦闘状態などの非常時・臨時的であると考えられる。
また根来寺配下の在地社会(村落連合)の「一揆」と、寺僧・行人の集会=「一揆」とは原理的には異なる。
領主支配・地主・代官支配を本質とする根来寺・寺僧の支配と、紀伊北部の村落・民衆・在地の一揆とどのような関係にあるのかを考える。
あわせて守護・国人・寺院・土豪などの紀伊国内諸勢力と根来寺の関係も考え、「雑賀・根来」と一括される雑賀衆との関係も再考してみたい。
これにより根来寺をふくむ紀伊一国(および泉州南部)が「惣国一揆」であるとの説も幻想であることが明らかになろう。
根来寺境内についても寺僧の住む院家の空間構造を考え、根来寺境内が都市であるのか否か、また都市であるすれば如何なる意味での都市なのかも問題提起してみたい。
これにより曖昧な定義の「境内都市」論を清算し、根来寺が総体としては都市権力とは言えないことも論じたい。
最後に以上の特質をもつ根来寺権力の定義について従来の虚像に代わる新たな概念を提起できればと考える。
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2006年以前作成:2017/01/13更新:ホームページ日本の塔婆