山 城 お う せ ん ど う 廃 寺 心 礎

山城オウセンドウ廃寺心礎・山城おうせんどう廃寺心礎(山城深草廃寺とも云う)

おうせんどう廃寺心礎

概要:
昭和4年正月頃の土採工事で心礎が発見される。7世紀後半の瓦が大量に出土と云う。
心礎は戦後の宅地造成中に行方不明となる。(「日本の木造塔跡」)

詳細情報:
法 禅 院 に つ い て」という大部のページで「おうせんどう廃寺」の詳細な考察がある。(以下「法禅院について」)
※筆者は開業医(めかた内科医院)で、地元もしくは近くの方で、年少の頃、心礎を実見されていると思われる。
  (「現場には子供の頃から月に何回かは畑仕事で通っていた。」
      「幼い子どもの頃,この石の上に乗っかってよく遊んだ記憶がよみがえってくる。
  石はやや細くなった先端方向に傾き地中に埋もれて、周囲が畑地で・・・<心礎の周りは>畑の周りの粘土か空き地だった
  と記憶している。」)

「御堂とみられる建築跡も発見されたが,工事続行で完全に跡地は破壊されてしまった。
塔心礎は長い間その場所に置かれていたが,売られてしまっている。
塔心礎については第二次大戦後もずーと置かれていたが当時子供の頃の筆者の記憶では,長径約2mくらいで上面中央の中心柱をはめ込む穴は経約70cmで二段に掘れていた。
・・・戦後一時数人で一部の発掘調査がされていたようっだったが記録は見当たらない。
現場の状況は該当地の西に心礎があって,東の方に礎石が並んでいたようだった。」(「法禅院について」)
「心礎は家族が第二次大戦の戦後のこと、誰とも知らない買いにこられた人に売ってしまっている。
当時は畑地にとって邪魔なものとしての認識しかなかったようだ。畑地の西の辺りの部分に放置されていた。
畑地の周辺に大きいな石それに小さい石が多くあった。石が少し頭を出して殆ど埋もれたままで、それが礎石だったのかもしれない。瓦片もあったとも考えるが、当時では無用のものとして、その価値は全くわからなく眼中になかった。」

  <<この拙ページ作成に当り、標記サイトから多くの参考文献の存在及び情報のご教示を頂く。>>

 おうせんどう廃寺現状は、一部更地(荒地)を残すのみで、開発が進み、ほぼ宅地化し、地上にはここに古代寺院があったことを示す何も残らない。
「法禅院について」に礎石の写った比較的新しそうに見える写真の掲載や近くの旧家に礎石の有無を尋ねるとも思われる記事があり、あるいは礎石の一部が残存している可能性はあるとも思われる。
2006/11/12撮影:
  おうせんどう廃寺遠望1:南方のがんぜんどう廃寺址附近から撮影、写真中央やや右の崖下付近が廃寺跡と思われる。
  おうせんどう廃寺遠望2:西から撮影、写真中央やや左の崖下、やや右のマンションの奥附近が廃寺跡と思われる。

●心礎写真・記録:
以下のように、戦後の比較的早い時期に心礎が亡失したにも拘わらず、戦前・戦後に廃寺を考察した論考があり、比較的多く残されているようである。

「史迹と美術 18巻」所収「深草新発掘廃寺址の考察」川勝政太郎、昭和7年

昭和7年、著者によって現地調査がなされる、現地は俗称オウセンドウと云うところである。発掘地は北の丘陵で、粘土採集のため、取壊しつつある。ここから礎石、心礎、古瓦などを発掘、既に塔の風鐸を出土という。

深草廃寺址檫礎:左図拡大図:物差は曲尺1尺
 丘陵中腹の上に掘り出され露出していた。角石(一種の硅石)の自然石の凡そ菱型の形状で、7尺(212cm)×4尺7寸(142cm)×3尺 (91cm)の大きさで、中央に径2尺5寸(76cm)×4寸(12cm)の円穴とさらに径5寸5分(16cm)×3寸5分(11cm)の小孔を作る。これは舎利孔であり、平安前期と見てよかろう。

深草廃寺址礎石:物差は曲尺2尺
 礎石は以前にも2,3個発掘という。今度は15、6個発掘され、そのうち4個は約2間を隔てて東西に位置していたと目撃者は言っている。憶測するとこれは塔の一辺の配列であったかも知れない。
礎石はいずれも花崗岩の自然石で、上面に1尺8寸乃至2尺、高さ1寸5分乃至2寸の造出しがあり、造出しは上方にヤヤすぼまる。

2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
心礎は長径218cm、短径158cm、高さ67cm、径76cm深さ13.5cmの円穴とその中央に径13.3cm深さ10cmの舎利孔を穿っていた。
発掘後半年の昭和4年7月、木村調査の追憶談によれば、この頃には心礎の四隅四天柱礎も存し、その塔跡は寺地の西部にあり、東部にも堂址の礎石が並んでいたと云う。(南面法隆寺式伽藍配置)
川勝政太郎は「深草新発掘廃寺址の考察」(前出)で嘉祥寺址か報恩寺址に擬したが、これは遺瓦実験の不備による失考で、心礎を平安期のものとしたのも誤りである。

「京都の古建築」、京都市観光局、昭和13年

深草寺塔址凹二段式心礎:左図拡大図

「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年

行基開基の所謂49院の第26:法禅寺(天平3年9月建)山城国紀伊郡深草郷檜尾

深草廃寺心礎:左図拡大図

塔婆心礎実測図:深草大仙堂廃寺心礎

「南やましろ 上古中古編」、京都府立桃山高等学校(桃高郷土史研究部)、昭和25年

オウセンドウ礎石実測
 オウセンドウの畑地にある礎石である。附近にも尚ニつ同じ礎石らしいものが土中からわずかに面を表している。
(この附近から古瓦、貝化石、高祖小僧等が発掘されたことがある。)

オウセンドウ廃寺略図
 「現在オウセンドウ跡には礎石が認められ、・・・門が今の道路の上にあったと考えてもよかろう。」

京から醍醐宇治に至る交通路
 深草を中心とした凡その古代寺院・遺跡の概要です。
 ※オウセンドウ廃寺は一説に深草寺跡?との注釈あり。
  4.ジョウガン寺跡は通説ではガンゼンドウ廃寺とされる場所です。

「佛教考古学論攷 4 佛塔編」石田茂作、思文閣出版、昭和52年所収 「塔の中心礎石の研究」昭和26年、「大和文華」4

山城深草廃寺心礎:左図拡大図
 「京都の古建築」京都市観光課著に写真ありという記載があり
この写真は「京都の古建築」掲載の写真と同一のものと思われる。

「幻の塔を求めて西東」
亡失心礎の項に大きさの記載がある。
▲心礎は二重円孔式、218×158×67cmで、径76×13,5cm(ママ)と径13.5×10cmの円穴を彫る。▲
   ・・・実測値かどうかは不明、恐らく実測はしていないと思われるも、その場合の典拠は不明。
  (※円孔の深さ13.5cmが間違いであるのかどうかは不明。確かに小孔の径と同じ数値ではある。
    以下のように、各数値に微妙なバラツキがあり、今となっては、概数では概ね正確であろうと云う外はない。
   「深草新発掘廃寺址の考察」では以下の数値を採る。
    中央に径2尺5寸(76cm)×4寸(12cm)の円穴とさらに径5寸5分(16cm)×3寸5分(11cm)の小孔を作る。
   塔婆心礎実測図:「深草大仙堂廃寺心礎」では円穴深さ0.49(15cm)、小孔径0.45(13.5cm)と記載。
   「南やましろ 上古中古編」の実測値では、小孔の径は14cmと記載。
   「山城国紀伊寺」では円穴の深さ14cm、小孔の径14cmと記載・・・但し根拠・典拠は不明)

「山城国紀伊寺」江谷寛、平成5年
オウセンドウ(翁前堂・・・近くの廃寺龕前堂の「龕」を「翁」と読み誤ったとも云う)廃寺:昭和4年の土採工事で発見。7世紀後半の瓦が大量に出土。
心礎が残存し、径76×14cmの円穴に径14×10cmの円孔を持つ。行基49院の1院に比定される。
 ※円穴の深さ14cm・小孔の径14cmとは、上記の「幻の塔を求めて西東」 の法量と同様、不審な面があるかも知れないが、しかし、この数値の根拠もしくは典拠は不明。

法禅院につい て」(LINK)
 上記サイトの筆者が幼少の頃、実見した様子が記載される。
今は地上からほぼ消滅し、消滅から時間も経ち、記憶している人々も少なくなっているのが現状である。
以上の意味で、大変貴重な記録と思わる。(以下、標記サイトより抜粋・転載)

「現場には子供の頃から月に何回かは畑仕事で通っていた。」
「・・伽藍配置は『法起寺式配置』でなくて『法隆寺式配置』で」あろう。「道路から見ると西側,即ち左側に心礎が置かれていた。」
「昭和30年代頃に4,5名の人達が東側で発掘測量されていた。そこはまだ一段高く多分そこから礎石5個が発掘されたものと考える。伽藍配置からするならばその箇所は金堂に当たる所だと思うのだが。」
「現場は横に細長い場所である。だから周囲の回廊があったとは考えられない。周辺は高い竹薮に覆われていたが,昔は森林だったかもしれない。だから北側・東側・西側は山林で絶壁に近いようで,南側だけが塀で門が有った寺院だったと考える。
後方に一段高い箇所があり其処に講堂があったと思われる。その隣に食堂があったのかも知れないが,僧侶達が住居していた場所は必ずあるはずだから,東側に存在していたか,門近くにあったと考える。
心礎のあった場所と講堂の一部の場所より東側は他の人の持ち主の土地だから詳細は判らない。」
「西側の南端から北に向かい緩やかな山道で山に登れた。山の登った箇所にかなり大きい深い穴が在った。」「昔の井戸だった可能性も考えられる。」
「今から考えるとその隣の箇所は山を少し削り取って山中にしては珍しい平坦な土地が8-10m×5-7mは有った」ようだ。
「当時は瓦などの発掘物を気にしていなかったから,見た記憶がない。建物が建っていた可能性は有る。」
「伽藍のあった畑地は大きい石が沢山埋まった場所だった記憶がある。
山からの土は採掘された粘土は伏見人形の材料に,使われたと記録されており,そして壁土などの建築物用材としても利用されていったようだった。」

山城おうせんどう廃寺の名称について

この附近・深草の地は奈良期から平安期にかけて多くの寺院が建立され、多くの遺跡を見る。
それ故、遺跡とその名称について、複数の見解・呼称があるようでる。
 (以下のようにかなり混乱する。)
この遺跡は、心礎に関する以下のような論考では「深草廃寺心礎」として紹介されていることが多い。
 (※「日本の木造塔跡」「幻の塔を求めて西東」「塔の中心礎石の研究」「京都の古建築」(一部「史迹と美術」も)など)

しかし、「深草廃寺」とは、文献で知られる深草寺(法長寺)跡という意味での名称なのか、それとも寺院名が不詳のため、所在地の地名 (深草)を冠せた「廃寺」という意味での深草廃寺(深草にある廃寺)を意味するのかは必ずしも明確でなく、また現在では深草寺跡は現在の深草中学附近と比定されることが多いようで、必ずしも「深草廃寺」という名称が適切とは思われない。
それ故、混乱を避ける意味で、
この廃寺跡は俗称オウセンドウにあり、オウセンドウ廃寺とするのが適切とも思われる。(文献上の「深草寺」とは証明できていない。)
 ※この廃寺は恐らく一般的には地名を冠せた「おうせんどう廃寺」と言われていたが、戦前京都市観光局が「深草廃寺」なる立札を立てて説明したことがあったようで、そのため「深草廃寺」という混乱する廃寺名が流布するようになったとも思われる。

 ●京都市遺跡地図(部分)
上記遺跡地図によると、北西から、極楽寺跡(現宝塔寺附近)、安楽行院跡(現深草十二帝陵附近)、深草寺跡(深草中学校校庭附近)、貞観寺跡、嘉祥寺跡が接し、その南東におうせんどう廃寺、がんぜんどう廃寺、やや離れて東に大日寺跡、法淋寺跡が散見される。
 ※深草郷:北は稲荷、東は深草山、南は大亀谷、西が竹田に接する。「日本書紀」欽明天皇即位前記に「山城国紀伊郡深草里」とあり、皇極天皇2年に「深草屯倉」の存在が記されているという。

 ●「山城国紀伊寺」江谷寛、平成5年
・深草中学校庭遺跡(京都市遺跡地図の深草寺跡に相当):広隆寺「寺外末寺并別院」に「法長寺又号深草寺、山城国木郡在之・・」とあり、この深草寺が比定されている。なお「行基年譜」に「法禅院・・・在・・紀伊郡深草郷」とあり、「日本霊異記」中巻第12に行基に纏わる説話があり、この説話では行基は深長寺(深草寺であろう)に居たという。
・深草廃寺(京都市遺跡地図の貞観寺跡に相当):嘉祥寺西院を独立させて成立した貞観寺跡に比定される。
 ※この場合の深草廃寺とは深草にある廃寺という意味なのだろうと思われる。
・瓦町廃寺(京都市遺跡地図の嘉祥寺跡に相当):嘉祥寺跡とされる。現在の善福寺及び附近一帯には礎石が残り、古瓦が出土するという。
・オウセンドウ廃寺:7世紀後半の瓦が大量に出土した。枚方九頭神廃寺・山科大宅廃寺と同系の瓦と云う。また平安中期の瓦も出する。
・ガンゼンドウ廃寺:オウセンドウ廃寺の南側龕前堂ヶ原の標高75mの山上にある。この廃寺の性格は不明。

 ●「史迹と美術 18巻」所収「深草新発掘廃寺址の考察」川勝政太郎、昭和7年
 川勝氏は奈良期の瓦の出土があることは認め(古の伽藍もあったとする)、その上でおうせんどう廃寺は基本的に平安期の廃寺であろうとする。氏は以上の認識に 立ち、文献上嘉祥寺は仁明天皇陵南方もしくは陵域内とも考えられ、また嘉祥寺自体の跡も未確定の故に、この遺跡は嘉祥寺跡の可能性が高いとする。
あるいは名は知られていないが、伴大納言善男建立の報恩寺の可能性もあるとする。
 ※伴善男はこの深草郷に報恩寺を建立、しかし応天門の焼失によって、善男は失脚、報恩寺は5年で廃寺となったとされる。
この寺院棄却時の記録によれば、柏原廃陵内に棄却寺院があったとされ、そうであるならば、位置的にこの廃寺址が該当する可能性も高いであろうとする。
  ※「オウセンドウとは・・・・深草村史(明治12年刊)にもオウセンドウの地名は見えない。従って、これはいつの間にか「龕」を「翁」と読み誤り、翁前堂と呼び慣はされて、その結果オウセンドウに当嵌めるため、「黄泉堂」「追善堂」等の文字が生まれてきたのであろう。」 とする。

 ●「京都の古建築」、京都市観光局、昭和13年
 ここではこの廃寺を「深草寺跡」としている。(根拠は不明)

 ●「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年
 ここでは呼称が若干混乱しているようで、写真は「深草廃寺心礎」とし、実測図は「大仙堂廃寺心礎」とする。
この廃寺については、行基開基の所謂49院の第26:法禅寺(天平3年9月建・山城国紀伊郡深草郷檜尾 )ではなかろうかとする。
この見解は既に明山初蔵氏によって提言されていると云う。
 ※他の行基建立49院のうちの山城関係の比定については、この項最終項(※※)の参照を乞う。

 ●「新撰京都名所圖會 5巻」竹村俊則、昭和38年
 龕前堂ヶ原:龕前堂の龕を翁と読み誤り、翁前堂とよび、さらに黄泉堂・追善堂などといわれた。
  (この説は「史迹と美術 18巻」所収「深草新発掘廃寺址の考察」での川勝政太郎氏説を援用と思われる。)
街道の北側の土砂採集場を俗に「大仙堂土取場」と称し、この附近を龕前堂ヶ原とも伝えている。
昭和4年春、ここから奈良前期の塔の礎石や平安時代の瓦などをいちじるしく出土したことがあった。
京都市観光局はここに「深草寺跡」の説明立札をたてたが、ここが深草寺跡かどうかは不明。

 ●「法禅院につい て」(LINK)
 当サイトは行基開基49院の内の「紀伊郡深草郷」に建立された「法禅院」(檜尾寺)の可能性が非常に高いと推論をする。
    →法禅院は行基開基49院>bQ2法禅寺を参照
  (当サイト管理人と面識のある木村捷三郎氏もこの説には確信を持っていたという。)

 ※私は門外漢であり、オウセンドウ廃寺が文献上明らかにその存在が知られる法禅院なのか、深草寺なのか、報恩寺なのか(あるいは嘉祥寺の一部なのか)それとも「文徳実録」嘉祥3年(851)に見える深草山稜の近隣七箇寺(紀伊寺・寶皇寺・未定寺・拝志寺・深草寺・真松尾寺・檜尾寺・嘉祥寺)のいずれかの寺院なのか、それとも文献上にその名を見ない全く の未知の寺院なのかは、判断はできません。
しかし、オウセンドウとは「龕前堂の龕を翁と読み誤り」云々という「説」より、
『「おうせんどう」の名前は江戸期以来の通称で「黄泉堂」「追善堂}「大仙堂」「法禅堂」など書かれているが確かなことはわかっていない。
法禅院がいつの間に檜尾寺に変わり,寺中に「法禅堂」があって,,さらに「おうせん堂」と言われるようになったのか確かなことは全く判らない。』
とし『「オウセン」とは「法禅(院)」の転化である』ことを示唆する当サイトの説は新鮮で魅力的に映る。
 (但し、上記の「深草新発掘廃寺址の考察」川勝政太郎によれば、近世には龕前堂ヶ原といわれていたことは確かなようであるが、オウセンドウの通称は近代初頭 (明治12年)にも見えないようで、この見解を信ずれば、「オウセン」とは「法禅(院)」の転化という説は単なる語呂が合っただけということも云えなくはないであろう。)

  ※※行基建立49院の山城関係の比定(「史迹と美術 118巻」所収「行基建立の四十九院」)
吉田院(第36):北白川廃寺か?、泉橋寺(第40):現存する。
誓願尼寺(第42):木津町御霊神社の東(奈良期の瓦を出土する廃寺があるという。)
大井院(第28):葛野郡大井村、大井川の畔か?
山崎院(第29):水無川に架けられた山崎橋の畔という以上には分からないが、相応寺心礎といわれる心礎が山崎院心礎の可能性はあるだろう。

2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
おうせんどう廃寺
昭和4年考古学者木村捷三郎が調査したという。
昭和6年粘土採掘現場で地質学者が古瓦を発見し、それを地質学者は川勝政太郎に見せ、川勝は現地を調査し、古代寺院であることを確認する。
 おうせんどう廃寺の伽藍:土砂採掘がはじまる前の地図をみると、南西向きの斜面の裾に立地していたと思われる。
木村捷三郎の証言によれば、西から順に塔・金堂・講堂?が並び、金堂の北北西に食堂?があったこととなる。
 本図のベースの地図は大正11年の都市計画図である。これを昭和11年に修正した地図ではで示した建物と崖が記入されているので、昭和6年の発見時に粘土採掘がおこなわれていたのはAの部分と分かる。伽藍はBの部分にあり、堂塔は図に示すように推定される。しかし、今となっては推測の域を出ない。
 さて、この廃寺については行基49院の内の法禪院に当たるとする説が有力である。
「行基年譜」(安元元年/1175)天平3年(731)条に「法禪院 檜尾 九月二日起 在山城国紀伊郡深草郷」とあるのがそれである。
行基は新たに一寺を建立するよい、既存の寺院に一院を設けることが多かった。白鳳期創建のおうせんどう廃寺に行基は一院「法禪寺」を付設したものと思われる。
 →法禅院は行基開基49院>bQ2法禅寺を参照

■おうせんどう廃寺出土瓦
○2019/02/23撮影:
京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」 より
 二重圏線文軒丸瓦     雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦・蓮華文叩き平瓦     重圏線文軒丸瓦
 連珠文軒平瓦        重郭文軒平瓦

おうせんどう廃寺附近地図と東海道本線遺跡

地図により「おうせんどう廃寺」の位置を示す。
と同時に、全くの偶然であるが、この附近には近代の廃線跡(東海道本線山科廻り)の痕跡が比較的良く残る。
  ※参考文献:「地図のたのしみ」堀淳一、河出書房新社、1972

東海道線は明治5年京都大津間の測量開始、同11年着工、同12年京都−大谷間仮開業、同13年京都−大津間開通。
経路は
京都駅より南下−稲荷駅−深草で東北方向に旋廻し(おうせんどう廃寺・がんぜんどう廃寺の中間附近で旋廻)−山科駅−
大谷駅−馬場駅(現膳所駅)折り返し−石場駅−(紺屋ヶ関駅・後日開業)−旧大津駅(現浜大津駅)であった。
  明治42年測量地図:1/20000、京都南部 :「地図のたのしみ」より
   ・東海道本線は北西から南東に仁明天皇陵附近まで南下し、ここから東方向にカーブし、
   おうせんどう廃寺とがんぜんどう廃寺の間を通過し、さらに北東方向にカーブし山科駅に至る。
   ・地図上やや左は宝塔寺多宝塔、そのやや南東に真宗院ニ層塔の「記号」が ある。   

大正4年東海道本線の付替工事に着工、同10年京都−馬場間の現在のルート線が開業。
  
なお
この新線の開業とともに、国鉄奈良線は桃山附近から北東に旋廻し、旧東海道線の瓦町附近に至る線路が新設され、
国鉄奈良線は京都−稲荷−(新線)−桃山のルートに変更され、同時に旧東海道線部分は単線化された。
 ※国鉄奈良線の桃山−京都間は、この変更までは、現在の近鉄京都線の概ね伏見−京都間であった。
 (国鉄奈良線の旧ルートは貨物線として残るも、昭和2年この貨物線を旧奈良電(現近鉄京都線)に譲渡)
  昭和26年測量地図:1/10000、醍醐 「地図のたのしみ」より
   ・おうせんどう廃寺の背後の土取りが見て取れる。
   ・深草十二帝陵附近から深草谷口町に至る築堤跡が明瞭に分かる。
    また現大岩街道となっている谷口町から山科に至る道床跡も明瞭に表される。
   ・地図上左は真宗院ニ層堂(塔)の「記号」がある。

  平成17年現在の地図
   名神高速道が走り、廃寺跡も開発は進み、また廃線跡も開発のため、不明瞭になりつつある様子がよく分かる。


2006年以前作成:2020/05/24更新:ホームページ日本の塔婆