飛鳥の塔跡・補足

補足論考:奥村久米寺(奥村廃寺)・高市大寺・紀寺跡(小山廃寺)

大和奥山久米寺(奥村廃寺)

 →大和奥村久米寺(奥村廃寺)

2022/06/04追加:
「小治田寺・大后寺の基礎的考」吉川真司(「国立歴史民俗博物館研究報告第179集」2013.11 所収)より:
論文要旨
奈良県明日香村奥山に所在する奥山廃寺(奥山久米寺)は、620〜630年代に創建された古代寺院と考えられ、古代文献に見える小治田寺に比定されている。
しかし、小治田寺の創建事情については、いまだ確固たる定説がない。そこで本稿では、古代〜中世の関連史料を読み直すことによって、おおむね次のような結論を得た。
 一、飛鳥の小治田寺は7世紀後葉には筆頭格の尼寺であり、8世紀になっても天皇家と深い関わりを有していた。平城遷都とともに平城京北郊への移転が行なわれ、新寺も小治田寺と呼ばれたことが確認される。
 二、平安時代以降の史料に見える奈良の大后寺は、その地理的位置から見て、平城小治田寺と同一実体と推定することができる。平城遷都以前から、小治田寺は大后寺という法号を有していたと見るのが自然であろう。
 三、『簡要類聚抄』に記された大和国の大后寺領荘園群は、中ツ道の陸運と大和川の水運を押さえる場所に計画的に配置されており、その背後に巨大な権力・財力の存在が窺われる。これらの荘園は小治田寺が創建されて間もない時期に施入されたと考えられ、その立地は奥山廃寺式軒瓦の分布とも照応する点がある。
 四、小治田寺は、推古天皇の死を契機として創建された小墾田宮付属寺院と推測され、その意味で、倭国最初の勅願寺・百済大寺の先蹤をなすものと評価することができる。
(はじめに)
 6世紀中葉に百済から伝えられた仏教は、7世紀倭国の政治・社会に深い影響を及ぼした。
まず蘇我氏を中心として信仰が受容され、崇峻元年(588)には倭国最初の本格的伽藍寺院である飛鳥寺の建設が始まった。大臣蘇我馬子が願主となり、推古天皇がこれを支援したため、飛鳥寺は仏教興隆・文明化のセンターとして機能し、また王権を基軸とする政治秩序を支える役割を担った。
しかし、やがて仏教護持の主導権は蘇我氏から天皇家へと移っていく。
舒明11年(639)倭国初の勅願寺である百済大寺の造営が開始され、さらに皇極4年(645)のクーデタで蘇我本宗家が滅亡すると、改新政権は仏教尊崇を宣言し、王族・豪族の寺院造営を援助することを約束した。7世紀後半における白鳳寺院の爆発的増加は、このような政策の結果であると見て大過あるまい。
【1】……………二つの小治田寺
 (1)奥山廃寺と小治田寺
奥山廃寺は奈良県高市郡明日香村奥山に所在する古代寺院遺跡である。飛鳥寺の北、奥山集落の中心部にあって、寺跡に浄土宗久米寺が建っているため、一般に奥山久米寺と呼ばれてきた。
その名称から西方約3km、橿原市久米町の久米寺との関係が注目され、久米寺の奥の院説や前身寺院説が唱えられたほか、久米皇子が創建した寺院との説も出された。
しかし、いずれも確実な証拠を欠き、今の寺名がいつまで遡るかも判然としない。
 奥山廃寺には鎌倉後期の十三重石塔が遺存するが、これは多数の古代礎石がならぶ基壇の上に建っており、石塔の土台となる凝灰岩方形切石は7世紀の石造露盤が転用されたものである。
すなわち、消え去った古代木塔を意識しながら中世石塔が建立された可能性があるのだが、1972年から始まった発掘調査によって、この基壇が確かに塔基壇であったこと、伽藍全体は石田茂作が推定したとおり四天王式伽藍配置をとっていたことが立証された。さらに注目すべきは、金堂基壇が東西23.4m、南北19.2m前後という大きさに復原されたことで、これは倭国第二の勅願寺である川原寺中金堂とほぼ同規模であるばかりか、破格の大きさをもつ百済大寺(吉備池廃寺)金堂を除けば、7世紀中葉以前の金堂のなかで最大の規模となることが判明したのである。このことは奥山廃寺の性格を考える上できわめて重要な知見と言わねばなるまい。
奥山廃寺の寺名については、小澤毅が初めて小治田寺説を提唱したが、1977年、中心伽藍北東の井戸跡から出土した墨書土師器がこの学説に確証を与えた。
大脇潔は墨書を「少治田寺」と判読し、これが小治田寺の別表記であることを考証して、同寺が土師器の年代=9世紀初頭まで存続していたと論じた。
 (2)文献から見た小治田寺
 小治田寺については、いくつかの関係史料が残されている。すでに言及されてきたものばかりであるが、私なりに再解釈を試み、新しい情報を引き出したいと思う。
 まず、最も確実な史料は次のようなものである。
  (〈 〉内は割注、以下同様)
【史料@】
 小治田寺 五十戸〈宝字七年施。美作五十戸。讃岐。淡路天皇。〉
小治田寺に対して淡路天皇(淳仁)治世の天平宝字7年(763)、美作国に寺封五十戸が置かれたことを示す記事である(「讃岐」は封戸所在国の変更を示すか)。
これだけでは封戸を施されるほど高い寺格を有したことしか判明しないが、実は宝字7年の寺封施入には一つの特色があった。
『新抄格勅符抄』から他の例を抜き出してみよう。
 豊浦寺 五十戸〈天平宝字七年施。常陸国。〉
 葛木寺 五十戸〈同年施。播万国。同(衍カ)年五十戸。〉
 橘寺  五十戸〈宝字七年施。讃岐国。〉
この三寺に共通する属性は何か。第一に飛鳥古京周辺の寺院であること、第二にすべて尼寺と考えられることである。
古代の豊浦寺・橘寺が尼寺であったのは周知の事実だが、葛木寺も8世紀史料に「葛城尼寺」と見え、尼寺と考えて問題ない。
したがって、同じく飛鳥古京北部にあった小治田寺も、尼寺であったと推定することが許されよう。
 天平宝字7年と言えば、前年6月に淳仁天皇から「国家の大事と賞罰の二柄」を奪い取った孝謙太上天皇が、その専制権力を固めつつあった時期である。
藤原仲麻呂と結んだ少僧都慈訓を解任して道鏡を登用し、造東大寺司から仲麻呂一派を排除するなど、孝謙の仏教政策が顕著になるのもこの年のことであった。
飛鳥の四尼寺への寺封施入も、おそらくは女性太上天皇孝謙の発意によるものなのであろう。
なお、『新抄格勅符抄』の記載は豊浦寺・葛木寺・小治田寺・橘寺の順になっており、前二者以外は連続しない。この順序は寺格の上下を示すのか、封戸の所在国順にすぎないのか。
なぜ孝謙が飛鳥に注目したかという点と併せて、さらに考究を要する問題である。
 右のような推論を念頭に置きつつ、二つめの関係史料を検討しよう。
【史料A】
 奉為天渟中原瀛真人天皇、設無遮大会於五寺。大官・飛鳥・川原・小墾田・豊浦・坂田。
朱鳥元年(686)12月、没後百箇日を迎えた天武天皇のため、倭京の寺院で大規模な追善法要が開催されたことを伝えている。
註(4)で触れたように、「小墾田寺」は『日本書紀』独特の用字で、小治田寺そのものを指す。
「五寺」とあることから、国史大系や日本古典文学大系は「小墾田豊浦」を一つの寺名としたが、史料@で見たように小治田寺と豊浦寺は明らかに別寺である。
『日本書紀』原本の失錯か、後世の誤写かはわからないものの、「六寺」の誤りと考えるのが最も妥当であろう。
 史料Aをこのように読めば、僧寺である大官大寺・飛鳥寺・川原寺、尼寺である小治田寺・豊浦寺・坂田寺をまとめて記していることが了解できる。
また、僧寺・尼寺の記載順序には対応関係があるようで、北から南に向かって〈大官大寺―小治田寺〉〈飛鳥寺―豊浦寺〉〈川原寺―坂田寺〉と並べられているらしい。
この前年、天武の快復を祈る誦経を行なった記事では「大官大寺、川原寺、飛鳥寺」の順に書かれ、当時の寺格序列が認識できるのだが、史料Aの記載順序はそれだけでは説明しきれない。
しかし、大官大寺を筆頭に置いていることはやはり見逃せないし、尼寺の最初に記される小治田寺についても、大官大寺と対をなすような寺格が認められていた可能性を否定できない。
 いささか史料を読み込みすぎた感はあるが、奥山廃寺の伽藍規模、680〜690年代における大改修、その際の大官大寺式軒瓦の供給といった考古学的知見に鑑みれば、小治田寺を「筆頭格の尼寺」と理解することも、あながち的外れではないように思われる。
 最後に「小治田禅院」に関わる古文書を解釈しておきたい。
【史料B】
 治部省牒 東大寺三綱
  奴小勝〈年卅四〉 豊麻呂〈年廿二〉 婢久須利女〈年廿二〉
   右、美濃国交易進上者。
 以前、被太政官今月十日符䆑、「被大納言従二位藤原朝臣仲麻呂宣䆑、『奉勅、充東大寺官奴婢之間、奴酒田・虫麻呂・婢鮑女等三人相替、随本令住小治田禅院』者。
 便以美濃国交易進上奴婢等、代充已訖」者。寺宜承知、准状施行。故牒。
   天平勝宝二年(750)五月十一日 従六位下行大録飛騨国造石勝
                   正六位上行少丞阿倍朝臣乙加志
文意は明瞭で、官奴婢(天皇が所有する奴婢)を東大寺に施入したが、そのうち酒田・虫麻呂・鮑女の三名は元に戻し、小治田禅院に居住せしめよ、代わりに美濃国が進上した奴婢三名を施入した、との内容を治部省が東大寺に伝えたものである。
別の文書では奴の大成が小治田禅院に戻されている。
夙に注目されてきたのは、酒田・虫麻呂・大成・鮑女が島宮の奴婢だったことで、石上英一は小治田禅院が「飛鳥古京の皇室関係の仏教施設」であり、それを管理する島宮から官奴婢が派遣されていたと論じた。
きわめて正当な理解と言えようが、問題はこの小治田禅院と小治田寺の関係である。
福山敏男・小澤毅は同一寺院と考え、大脇潔は別寺説をとるが、さて如何であろうか。
 私は同寺説を是とするので、まずは類似する事例を紹介しておきたい。
天平勝宝2年(750)3月、光明皇太后の指令により、造東大寺司は「岡本寺」に法華経190部を貸し出したが、これを別の史料は「岡本禅院」への貸出として記録している。明らかに「岡本寺=岡本禅院」である。この岡本
寺とは斑鳩の法起寺、すなわち『日本霊異記』にいう岡本尼寺のことであろうが、これと同じく、尼寺である小治田寺が小治田禅院と呼ばれることがあっても、特に異とするには及ばないのである。
 大脇が別寺説を唱えたのは、「一私寺にすぎない小治田寺に、公的な性格をもつ奴婢が存在しえたかどうか、一般的にはありえない」と考えたためである。
しかし先述の如く、「一私寺」であったとは断定しがたく、それはこれから再検討すべき課題である。その上で大脇は、小治田禅院・小治田寺という紛らわしい名称の二寺院が近接・並存したと想定するのだが、右のような表記の揺れを考慮に入れれば、小治田寺=小治田禅院は天皇家と密接な関係をもつ一寺院であったと考えたほうがずっと自然である。そして島宮がそうであったように、かかる関係が7世紀代に遡ることも十分想定できよう。
 以上、周知の史料に再検討を加え、小治田寺は7世紀後葉には筆頭格の尼寺で、8世紀中葉になっても天皇家と深い関わりを有していたと推定するに至った。
 (3)もう一つの小治田寺
 倭京(飛鳥古京)の小治田寺に関する文献史料は、現時点では以上がすべてであるが、実は「小治田寺」と墨書した土器は平城京北郊でも出土している。
 1954年、奈良市法蓮町の奈良高校校庭(現在の佐保小学校北隣の一画)の発掘調査で、奈良時代の掘立柱建物8棟と井戸2基が検出された。
このうちT号丸井戸と呼ばれる井戸の掘形から、口縁部に「小治田寺」と記した8世紀の須恵器甕が発見されたのである。
発掘では8世紀の瓦も出土したが、調査者は建物の規模・配置などから、この遺跡は「寺院跡というよりは住宅跡と云った感が強い」と述べつつ、断定を避けた。
 このとき発掘調査されたのは平城京左京二条五坊の北郊で、外京の北京極とされる一条南大路(現在の一条通)の北200mほどの位置にあたる。
その後、1954年調査地と一条通の間で5回におよぶ発掘が行なわれ、掘立柱建物・塀・溝・井戸・土壙などの遺構と瓦や土器など多数の遺物が見つかった。
遺構・遺物の主要年代である8世紀には、全体が一つの敷地であった可能性が指摘されているが、左京五条二坊北郊遺跡の評価は結局定まっておらず、貴族邸宅説・公的施設説などが唱えられている。
 これまで検出された遺構は、確かに寺院伽藍ではない。しかし、「小治田寺」と記した須恵器甕の破片がたまたま紛れ込むとは考えにくく、この寺と何らかの関係をもつ施設であった蓋然性は高い。
とすれば、a.小治田寺の付属施設(雑舎群)、b.小治田寺の檀越貴族の邸宅、という二つの可能性を想定することができよう。
しかも液体貯蔵用の須恵器甕を遠くまで運ぶことは通常考えがたいから、a.の場合はもちろん、b.であっても小治田寺はこの近傍に存在したと推定するのが穏当ではあるまいか。
つまり奈良時代には平城京外京の北京極近辺に「もう一つの小治田寺」があったと考えるのである。
 このような解釈が認められるとすれば、想定される事情はただ一つ、平城遷都とともに小治田寺も移転されたが、薬師寺・飛鳥寺・葛木寺などと同じく、旧寺はそのまま飛鳥古京に残り、「二つの小治田寺」が並存することになったという事情である。
十分あり得る話だろうと私は考えるが、明証に乏しいことは否定できない。この隘路を突破するには、発掘調査の進展を待つだけでなく、別の視角から「二つの小治田寺」を結び付ける必要があろう。そこで章を改め、文献史学の方法による考証を展開してみたいと思う。
【2】……………大后寺と大后寺領荘園
   ……………
   この項は省略
   ・・・・・・・・・・・・・・
・・・では、「本元興寺北」にあった大后寺とは何か。
保井芳太郎はこれを奈良県橿原市醍醐町に所在する醍醐廃寺に比定したが、・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
以上、飛鳥古京の小治田寺の法号も「大后寺」であったと推断した。
これが認められれば、小治田寺=大后寺が飛鳥から平城に移建されたこと、大后寺領奥山荘が旧寺の寺地・寺辺所領に由来することなど、これまで行なってきた推論はいよいよ確度を増してくる。
それだけではない。大后寺なる法号が平城遷都以前に遡るという想定も、新たに浮上してくるのである。
   ・・・・・・・・・・・・・・
(3)小治田寺試論
 大后寺領荘園の検討により、小治田寺の特権的性格がいよいよ明確になったと思う。
それは文献史料や考古資料から得られた〈天皇家と関わりの深い筆頭格の尼寺〉〈7世紀中葉以前で最大規模の金堂基壇をもつ寺院〉という知見とよく整合している。
 それでは、小治田寺はいかなる経緯によって創建された寺院なのであろうか。
本稿では、@小治田という地理的位置、A620〜630年代という創建時期、B大后寺という法号、の三点を斟酌し、小治田寺は推古天皇に関わる寺院、具体的には彼女の死を契機として建立された小墾田宮付属寺院ではないか、との試論を提示したいと思う。
 推古天皇は592年12月、豊浦宮において即位した。推古8年(600)に派遣した遣隋使の帰朝報告を受け、倭王朝は儀礼整備に力を注ぎ始めるが、小墾田宮はその中枢施設として建設され、同11年(603)10月に推古の移徙をみて、ついに天皇正宮となったのである

 試論は以上の通りであるが、この考え方が正しいとすれば、天皇と仏教の関係についても新たな展望が開けてくる。
序で触れたように、倭国最初の勅願寺は舒明11年(639)に創建された百済大寺で、百済宮という天皇正宮と一対をなしていたのが特徴的であった。
しかし、小治田寺が推古天皇に関わる小墾田宮付属寺院だとすれば、これを百済大寺の先蹤と位置づけることも可能であろう。
おそらく推古の死去を契機として建立されたため、小墾田宮と一体的に機能することはなかったと見られるが、それでも王宮に寺院が付属するというあり方はきわめて斬新で、「大后大々王」推古に関わる寺院という由緒は永く記憶されたことであろう。百済大寺の建立を受けつぎ、小墾田宮を用いた「大后」皇極天皇が小治田寺をどう扱ったかは判然としないものの、天武朝には大官大寺式軒瓦を用いた改修がなされ、「大官大寺―小治田寺(大后寺)」というペア認識さえ存在したらしいことは、すでに述べたとおりである。
結語
 本稿では、奥山廃寺として遺址をとどめる小治田寺、および奈良の中世寺院として知られる大后寺について、文献史料による考察を行なった。
主な論点は次の通りである。
 一、飛鳥の小治田寺は7世紀後葉には筆頭格の尼寺であり、8世紀になっても天皇家と深い関わりを有した。平城遷都とともに平城京北郊への移転が行なわれ、新寺も小治田寺と呼ばれたことが確認される。
 二、平安時代以降の史料に見える奈良の大后寺は、小治田寺と同一実体と考えられる。平城遷都以前から、小治田寺は大后寺という法号を有していたらしい。
 三、大和国の大后寺(小治田寺)領荘園群は、水陸交通の拠点に計画的に設定されたと見られ、背後に巨大な権力・財力が窺われる。これらの荘園は小治田寺が創建されて間もない時期に施入されたと考えられ、奥山廃寺式軒瓦の分布とも照応する点がある。
 四、小治田寺は、推古天皇の死を契機として創建された小墾田宮付属寺院と推測され、百済大寺の先蹤をなすものと評価することができる。
 これらのうち、論題どおり「基礎的考察」と呼び得る部分は一〜三であり、四については試論にとどまる部分が多い。

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2022/06/06追加
「同笵軒瓦からみた奥山久米寺の造営氏族」小笠原好彦(「日本考古学 第7号」1999.5.14発行 所収)より:
・要旨
 奥山久米寺は飛鳥川流域の飛鳥の中心地域に建てられた古代寺院で、この寺院に葺かれた角端点珠形式の軒瓦は、奥山久米寺式とも呼ばれてよく知られている。
この寺院は飛鳥寺、豊浦寺の創建期の軒瓦と同笵瓦が出土していることから、蘇我傍系氏族の寺院とみなされている。
しかも近年の調査で寺名を記した墨書土器が出土したことから、小治田寺と呼ばれたことが想定されるようになり、その造営氏族も小墾田臣が有力視されている。
しかし、これまでの研究では、この寺院に葺かれた軒瓦を製作した瓦窯と造営者との関連の検討が、なお不十分なように思われる。
そこで小稿では、奥山久米寺の造営にあたって軒瓦を供給した大和国天神山瓦窯、山背国と河内国の境にある平野山瓦窯、播磨国高丘瓦窯と蘇我傍系氏族との関連を重視して検討した。
 奥山久米寺の創建時に葺かれた軒瓦の一つであるIIIA型式軒瓦を製作した天神山瓦窯は、大和国宇智郡坂合部郷に設けられたとみられる瓦窯である。
ここと最も深い関連をもったとみなされるのは、蘇我傍系氏族のうち境部臣摩理勢とみてよい。
また、奥山久米寺のIIID型式を供給した平野山瓦窯は、四天王寺の瓦を生産した上宮王家の瓦窯である。
この上宮王家と最も関係が深かったのも、推古天皇の後継者として山背大兄王を強く推したことからみて境部臣摩理勢であったと推測される。
 これらの点からみると、奥山久米寺を建立したのは小墾田臣を想定するよりも、蘇我馬子の弟に想定されている境部臣摩理勢の可能性が最も高い。
このように奥山久米寺が境部臣氏によって造営されたとすると、飛鳥の中心部にあたる飛鳥川流域に広がる空間には、山田道を主要幹道として蘇我氏関連の豊浦寺、飛鳥寺、和田廃寺、奥山久米寺、山田寺が計画的に建立されたことが推測される。
また飛鳥時代の古代寺院に葺かれた軒瓦には、奥山久米寺をはじめ他の寺院の同笵軒瓦が顕著にふくまれている。このような同笵軒瓦の分有関係がもつ歴史的意義にも言及した。
・はじめに
 奥山久米寺は飛鳥の中心地域に建てられた古代寺院で、飛鳥寺の北900メートル、山田道を少し北に入ったところに建立されている。
境内には塔基壇が残されており、その上に鎌倉時代の十三重石塔が建っている。
この寺院は保井芳太郎氏の『大和上代寺院志』や石田茂作氏の『飛鳥時代寺院址の研究』などによって、飛鳥時代の寺院跡としてよく知られている。
しかし、この奥山久米寺の造営者は縁起に類するものから廐戸皇子の弟の久米皇子に関連するものとみなされているだけで、長いこと十分に検討されることなしに経過してきた。
しかし、昭和62年(1987)4〜7月に塔基壇、昭和63年8〜10月に金堂基壇が発掘され、その結果、塔、金堂の基壇規模とその外装が明らかにされ、四天王寺式の伽藍配置をなしていたことがほぼ認められることになった。
また、これまで採集されていた資料に加えて、金堂、塔などに葺かれた軒瓦も判明することとなったことは、奥山久米寺の性格を検討する条件がほぼ整うことになったといってよい。
この成果をもとにして、この寺院から出土する軒瓦の同笵瓦を検討した大脇潔氏は、奥山久米寺が豊浦寺、飛鳥寺、山田寺の問に建てられている位置と、創建期に豊浦寺との間に密接な同笵関係が認められることなどから、この寺を蘇我氏の傍系氏族が造営した逸名寺院とし、この寺院の性格を半ば明らかにした。
そして、1995年に小沢毅氏は直木孝次郎氏が『日本書紀』持統称制前紀の朱鳥元年(686)12月丁卯条の記事にみえる天武天皇が不予となった際に、無遮大会を行った寺院として小墾田豊浦寺を一寺院とする考えから二つの寺院に理解したのを受けて、小墾田寺を奥山久米寺に想定する考えを提起した。
さらに平成9年(1997)には、大脇氏によって奥山久米寺の東北隅の井戸から出土した土師器に墨書された寺名が「少治田寺」と読めることが確認され、この寺院が小墾田臣によって造営された氏寺であることが想定されている。
このように、これまでは逸名寺院であった奥山久米寺は小沢氏と大脇氏によって、この寺院の寺院名と造営氏族がともにほぼ解明されるに至ったといってよいことになるのである。
しかし、これまで述べられている見解は、奥山久米寺に葺かれた軒瓦の同笵関係のうち、寺院相互の関係は明らかにされているが、奥山久米寺に軒瓦を供給した瓦窯との関連が、なお十分には明らかにされていないので、この点を加えることによって、この寺院の造営氏族を考えてみる必要があるように思われる。
(1).伽藍と軒瓦
 奥山久米寺の塔基壇の発掘調査では、外装に使用された石材は遺存していなかったが、基壇の掘込地業と地覆石の抜取痕跡が確認され、1辺12m規模のものであったことが判明した。
 奥山久米寺跡発掘調査図
基壇には礎石が旧位置をとどめているので、高さ1.45m、掘込地業は旧地表面から1m下まで施されていることが確認された。そして、基壇外装は地覆石に花崗岩が使用され、その上に立てた羽目石などに凝灰岩が使用されていたことも判明した。礎石には柱座が造出されている。
この塔基壇の北側には、2条の石列による参道が検出され、この間には凝灰岩や花崗岩をつめた円形孔があり、底に榛原石の板石を据えた柱状のものの抜取痕跡がみられたことから、灯籠の竿もしくは幟竿支柱を据えた跡と想定されている。
金堂は久米寺の本堂の位置で確認されたもので、基壇は東西23.4m(80尺)、南北19.1mに想定されている。
この調査では南面階段の地覆石の北端が基壇外装より0.6m内側にくいこむので重成基壇の可能性も想定されている。
基壇は掘込地業を旧地表から0.9m行い、版築して築成していた。金堂の前面には瓦敷されていた。
これには7世紀前半から末、さらに8世紀初頭のものが多く、一部は奈良時代の軒瓦をふくんでおり、奥山久米寺の金堂は一度改修されていることも明らかにされている。
発掘された奥山久米寺の金堂は、山田寺の金堂の東西21.6m、南北18.2mよりも少し規模が大きく、周辺から出土した軒瓦と基壇土に瓦をふくまないことからも金堂がまず建てられたことがわかる。
塔基壇には7世紀後半の土器もふくまれており、7世紀後半に建てられている。
また、7世紀後半以降には大掛かりな改修が行われ、回廊内に参道が設けられていた。
そして、伽藍は四天王寺式もしくは山田寺式が想定されるが、石田氏が想定した講堂の位置と地形からみると、講堂と金堂の間に回廊が巡る余裕がないので、四天王寺式伽藍の可能性が最も高いとされている。
 つぎに、奥山久米寺から出土した軒瓦には、軒丸瓦12型式、22種が出土している。
ここでは奥山久米寺の軒瓦の同笵瓦を問題とするので、飛鳥時代初期の同笵軒瓦を検討した大脇氏の型式分類を用いて、この寺院から出土した軒瓦を記すことにする。
  詳細は省略・・・・・12型式22種類の軒瓦が出土する。図版あり。
(2)同笵瓦の分有関係
奥山久米寺からは前述したように12型式22種類の軒瓦が出土した。
これらの軒瓦の同笵瓦がほかの寺院でどのように出土しているかをみると、・・・・・
  詳細は省略
このように奥山久米寺から出土している同笵瓦をみると、飛鳥では飛鳥寺、豊浦寺、和田廃寺と分有関係をもつことがわかる。
このうち飛鳥寺と分有関係をもつIIA型式は飛鳥寺の創建時の軒丸瓦とされているもので、飛鳥寺から豊浦寺、奥山久米寺に供給されたものである。
IVB型式は兵庫県高丘窯から奥山久米寺と豊浦寺に供給されたものである。
さらにIVG型式は豊浦寺、和田廃寺、奥山久米寺から出土しており、奥山久米寺では22個体と比較的多い。
さらに、VD型式は豊浦寺型式の軒瓦であるが、豊浦寺に瓦を供給した京都府隼上り瓦窯からは出土していないものである。
 さて、奥山久米寺式のIIIA型式は間弁端にある瓦当笵の製作時のものと想定されている割り付け線や胎土、焼成などから大和五條市天神山瓦窯で生産されたことが明らかにされている。
この天神山窯は、五條市今井町にある宇智小学校の東方にあたる丘陵部に設けられた瓦窯である。
現状は栗畑などになっており、東側に急傾斜をなしており、このような地形から近江昌司氏によって東に焚口、西に煙出しをもつ登窯があったものと推測されている。
この瓦窯からは、ほかにIII型式と同様の角端点珠型式の蓮華文を配し、その外区に大形の連珠と格子状文をつけた鬼板も出土していることが明らかにされている。
このIIIA型式に類似した軒瓦は岡山県政所遺跡、津寺遺跡からも出土している。
しかし、これらの政所遺跡、津寺遺跡の発掘調査では古代寺院が造営された痕跡が認めがたいとされ、しかも西方3.5kmにある末ノ奥窯と深い関連をもつことが想定されている。
また、IIID型式は山背平野山6号窯から同笵瓦が出土しているので、この瓦窯から奥山久米寺と京都府久世廃寺の両寺院に供給されたものである。
さらにVIB型式は奥山久米寺と豊浦寺から同笵瓦が出土しており、さらに播磨明石市高丘窯からも同笵のものが出土しているので、この高丘瓦窯から両寺院に運ばれたことがわかる。
 奥山久米寺同笵軒瓦分有関係
(3)軒瓦供給瓦窯と造営氏族
・・・・・奥山久米寺軒瓦供給窯と造営氏族の多岐にわたる詳細な分析は割愛する・・・・
・・・・・結論だけ、記すと、以下の通りである。
 このように、これらの瓦窯の関連からすると、奥山久米寺の軒瓦と最も深い関連をもった蘇我傍系氏族は、蘇我馬子の弟とされる境部臣摩理勢ということになるのである。
すなわち奥山久米寺は、境部臣摩理勢が蘇我本宗家と強い関連をもちながら建立した氏寺であったと考えられるのである。
  (中略)
 この奥山久米寺の造営氏族に関しては、これまで諸説がだされてきた。はじめにも少しふれた石田茂作氏の『飛鳥時代寺院址の研究』では、『古今目録抄』に久米寺が廐戸皇子の命によって、弟の久米皇子のために建てられたと記されていることと、四天王寺式伽藍が想定され、飛鳥時代の軒瓦が採集されているなどことから、この記事を奥山久米寺の縁起とみなしうる考えを述べている。
・・・これに対し、大脇潔氏は奥山久米寺の創建期に使用された軒瓦に飛鳥寺、豊浦寺など蘇我氏の寺院の創建瓦と同笵瓦が多くふくまれており、その同笵瓦の関係と飛鳥寺と山田寺との中間に位置することを重視して、蘇我傍
系氏族の寺院として建立された逸名寺院とした23)。これは同笵軒瓦の関係から導き出した優れた方法論による結論と言ってよいものである。
そして寺院名に関しては、小沢毅氏が小墾田の地名が飛鳥川の左岸に限定されるものではないとし、奥山久米寺を小治田寺にあてる考えを提示した24)。さらに大脇氏はこの小沢氏の考えに賛同し、奥山久米寺の寺域東北隅の井戸から出土した土師器杯に記された墨書の文字が「少治田寺」と書かれた可能性が高いことを類似の記載例をあげて論証した。
そして、この寺が9世紀初めまで存続し、小治田寺と呼ばれたことから、蘇我傍系氏族の小墾田臣によって造営された寺院とする見解を明らかにするに至っている。
・・・以上のように、奥山久米寺の寺域隅から小治田寺の寺名を記した墨書土器が出土したことからすると、墨書土器の性格からみて、この寺院が小治田寺と呼ばれ、しかも造営氏族としては蘇我傍系氏族の条件に合う小墾田臣の可能性がきわめて高いということになるであろう。
  「少治田寺」の墨書土器
 さて、瓦窯との関連を具体的に検討すると、奥山久米寺の金堂の創建にあたって葺かれた最古型式のIIIA型式軒瓦を供給したのは大和天神山瓦窯である。
この瓦窯は五條市今井町に所在し、この地と関連をもつ蘇我傍系氏族を求めると、小墾田臣をはじめ、いずれの氏族の本拠地とも異なっており、直接的な繁がりは見いだしにくいように思われる。
しかし、天神山瓦窯が所在した地域は、古代には大和と紀伊との境界付近にあたり、大和国宇智郡坂合部郷にふくまれるか、あるいは隣接するものと推測される。
とすると奥山久米寺の造営者はこの坂合部郷と強い繁がりがあった氏族であったことが想定されることになり、蘇我傍系氏族のうちでは、その氏族名からみて境部臣が最も強い関連をもった可能性が高いことになる。
(諸資料<『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』など>から、蘇我傍系氏族が居住したと推測されている本拠地を併せて記すと、つぎのようになる。
  川辺臣  大和国十市郡川辺郷、河内国石川郡河野辺
  田中臣  大和国高市郡田中
  高向臣  河内国錦織郡高向
  小治田臣 大和国高市郡小治田
  桜井臣  河内国石川郡桜井、大和国高市郡桜井、十市郡桜井
  岸田臣  大和国山辺郡岸田
  田口臣  大和国高市郡田口、葛上郡田口
  久米臣  大和国高市郡久米郷
  箭口臣  大和国香久山周辺
  御炊臣
  境部臣  大和国高市郡坂合、大和国高市郡曽我
これらの蘇我傍系氏族の本拠地をみると境部臣、御炊臣のほかは、いずれも地名を氏族名としたとみなされることから、前述したような地名の地に想定されている。)
  (後略)
(4).小治田寺説と小墾田氏造営説
 奥山久米寺は寺域から出土した墨書土器によって小治田寺に想定され、その造営氏族を蘇我傍系氏族の小墾田臣をとする考えが大脇氏によってだされてきた。
しかし、軒瓦を製作した瓦窯の所在地の関連から、奥山久米寺の造営者として境部臣摩理勢を想定するにあたって、あらためて小治田寺との関連を検討しておくことにしたい。
  (中略)
奥山久米寺の井戸から「少治田寺」の墨書土器が出土したことは、この寺院が小治田寺と呼ばれたことも疑えない。
とすると、造営が中断していたこの寺院の造営の再開は、大脇氏が想定したように壬申の乱の功臣である蘇我傍系氏族の小墾田臣猪手、麻呂らによって行われ、その結果として伽藍整備がほぼ完成したことを想定しうるのではなかろうか。
  (中略)
奥山久米寺は、まさに檀越が境部臣から蘇我傍系氏族の小墾田臣に替ったことから、小治田寺と呼称されることになったのではなかろうか。
(5)奥山久米寺と寺域
  (前略)
奥山久米寺は古代飛鳥地域の西方、東方からの導入路にあたる山田道沿いに位置する。しかも、南北幹道の中ッ道とのほぼ交点付近に建てられている。
この山田道と飛鳥川との交点付近に営まれた豊浦宮跡には蘇我氏の豊浦寺が建立され、その西には一族の和田廃寺がある。
この寺院は、その位置と出土軒瓦からみて福山敏男氏が推測した葛木寺が所在した位置に想定されてきたが、大脇潔氏によって造営者は物部大連守屋との戦いに参加した葛城臣鳥那羅によって建立された氏寺にみなされている
。この想定は和田廃寺から飛鳥寺、豊浦寺の創建期の軒瓦と同笵瓦が多く出土していることからみて妥当なものと思われる。
このように飛鳥の山田道沿いには蘇我氏とかかわりの強い氏寺が造営されたことがわかる。そして、奥山久米寺も蘇我傍系氏族の有力氏族としてこの山田道沿いの位置に建立され、その後、さらに東に離れて蘇我臣倉山田氏の山田寺が建立されることになったものとみてよい。
そして、このような飛鳥での寺院造営の進展は飛鳥寺の造営によって開始されたものである。
  (後略)
(6)同笵瓦の分有と歴史的意義
  (省略)
・おわりに
  (省略)


大和高市大寺

 →高市大寺:飛鳥の塔跡中

2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
12.木之本廃寺
木之本町一帯では藤原宮より古い古瓦が出土することは、かなり以前から知られていた。
本遺跡が注目を集めるようになったのは「百濟大寺」の候補地として取り上げられたからであった。(和田萃・山崎信二・大脇潔)
1985年以降5次にわたる発掘調査が行われ、古墳期から中世の遺構は見つかるも、寺院跡をうかがわせるものは発見できなかったという。

2022/06/17追加:
「高市大寺の史的意義」相原嘉之(「奈良大学紀要第49号」2021.1 所収) より
1.百濟大寺・高市大寺・大官大寺の略年表
 推古29年(621)田村皇子、太子より熊凝精舎を大寺にすることを頼まれる(縁起・扶桑)
  →但し、この記事は「この記事は後代の仮託と考えられる。」
百済大寺
 舒明11年(639)舒明天皇、大宮と大寺造営の詔(書紀)
   百済川のほとりに九重塔を建立(書紀・扶桑)
   百済川のほとりの子部社を切り、九重塔を建立百済大寺と号す(縁起)
   社神の怨みにより、九重塔と金堂の石鵄尾を焼失(縁起)
高市大寺
 天武2年(673)天武天皇、飛鳥浄御原宮で即位(書紀)
   美濃王と紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命(書紀)
   御野王と紀臣訶多麻呂の二人を造寺司に任命する(縁起・元亨)
   百済の地から高市の地に寺を遷す(縁起)
 天武6年(677)高市大寺を改めて、大官大寺と号す(縁起)
 天武12年(683)百済大寺を高市郡夜部村に遷し、大官大寺と改名(扶桑・元亨)
 朱鳥元年(686)五大寺(大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田寺)で無遮大会(書紀・元亨)
文武朝大官大寺
 文武3年(699)文武天皇、大官大寺に九重塔を建立(扶桑)
 和銅4年(711)大官大寺並びに藤原宮焼失(扶桑)
大安寺
 霊亀2年(716)元興寺(大安寺の誤記)を平城京左京六条四坊へ移建(続紀・扶桑)
  ※書紀:日本書紀、続紀:続日本紀、縁起:大安寺伽藍縁起幷流記資財帳、扶桑:扶桑略記、元亨:元亨釈書、
  類聚:類聚三代格、実録:日本三代実録

2.高市大寺の候補地
 百済大寺が吉備池廃寺であることが明らかになり、また、大官大寺が文武朝造営であることが判明したことにより、高市大寺の所在地が残された課題となる。
まず高市大寺の候補地を最初にあげたのは田村吉永であった。
田村は史料上の解釈から、大官大寺と高市大寺を別の寺院と理解する。
高市大寺が飛鳥浄御原宮遷宮にともない、舒明・斉明天皇の旧宮跡地に建立したと考え、大官大寺東方の小字「大安寺」の位置に推定し、百済大寺を奥山廃寺に推定する(田村1960・1965)。
  ※田村吉永(1960):「百済大寺と高市大寺」『南都仏教第8号』南都仏教研究会
   田村吉永(1965):『飛鳥京藤原京考証』綜芸舎
しかし、これは舒明・斉明の飛鳥宮が石神遺跡の北方にあるという前提であったが、飛鳥宮が伝飛鳥板蓋宮跡にほぼ確定したことから、根拠がなくなる。
さらに小字「大安寺」の立地からは、王宮や寺院中心伽藍があったとは考えられない。
一方、飛鳥の中心部に近く、立派な塔基壇や礎石があることを根拠として、奥山廃寺を高市大寺にあてる見解もある(網干1980)。
  ※網干善教(1980):『古代の飛鳥』学生社
これらはいずれも発掘調査が実施される以前の推定だが、その後の発掘調査で、奥山廃寺の創建は7世紀前半まで遡ることが明らかにされ(佐川ほか2000)、
平安時代まで存続することが史料にみる歴史と一致しないこと。
現在は「小墾田寺」に比定するのが有力視されている(大脇1997・吉川2013・小澤1995)ことから難しい。
  ※佐川正敏・西川雄大(2000):「奥山廃寺の創建瓦」『古代瓦研究T』奈良国立文化財研究所   
  ※大脇潔(1997):「蘇我氏の氏寺からみたその本拠」『堅田直先生古希記念論文集』真陽社
   吉川真司(2013):「小治田寺・大后寺の基礎的考察」『国立歴史民俗博物館研究報告第179号』
   小澤毅(1995):「小墾田宮・飛鳥宮・島宮−七世紀の飛鳥地域における宮都空間の形成−」『文化財論叢U』奈良国立文化財研究所
つづいて候補にあがったのは小山廃寺である。
ここでは雷文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦が7世紀後半の特徴をもつこと、八条大路に面して薬師寺と対になることを根拠としている(猪熊1980・森1998a・1998b・近江1998)。
  ※猪熊兼勝(1980):「瓦と塼」『高松塚と藤原京』学習研究社
   森郁夫(1998a):『日本古代寺院造営の研究』法政大学出版局
   森郁夫(1998b):「百済大寺−吉備池廃寺をめぐる問題点−」『帝塚山大学考古学研究所研究報告T
   近江俊秀(1998):「吉備池廃寺は百済大寺か−百済大寺と高市大寺の所在地をめぐって−」『シンポジウム吉備池廃寺をめぐって−百済大寺はどこか−』帝塚山大学考古学研究所
しかし、伽藍が条坊に規制されていることから、その創建が天武5年以降であることがわかり、伽藍規模が大官大寺に比べて著しく小さいことから、課題が多い。
次に候補になったのは木之本廃寺である。
木之本廃寺は、山田寺式よりも僅かに古い瓦が出土することから、従来は百済大寺の有力な候補地であった。
しかし、吉備池廃寺の調査で百済大寺が確定したことをうけて、木之本廃寺が高市大寺の有力な候補地となる(木下2005)。
  ※木下正史(2005):『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』角川書店
吉備池廃寺と同笵瓦が出土することは有力であるが、寺院遺構が未確認であること、そして、ここが高市郡ではなく、十市郡に属すると考えられることが課題となる。
これに対して、高市大寺をギヲ山西方に推定する見解が現れた。
これは百済大寺が木之本廃寺と推定していたことにもよるが、ギヲ山西方で、大官大寺や大安寺と共通する瓦が出土すること、さらにこれより古い重弧文軒平瓦が出土することによる(大脇1995・1998・中井1995)。
  ※大脇潔(1995):「大安寺1−百済大寺から大官大寺へ−」『シンポジウム古代寺院の移建と再建を考える」帝塚山考古学研究所
   大脇潔(1998):「『百済大寺』の行方をめぐって」『シンポジウム吉備池廃寺をめぐって−百済大寺はどこか−』帝塚山大学考古学研究所
   中井公(1995):「大安寺2−大官大寺から大安寺へ−」『シンポジウム古代寺院の移建と再建を考える」帝塚山考古学研究所
これに加えて、文献による検討から「高市郡高市里」の位置を大官大寺の西方に比定し、ギヲ山西方とする(小澤1997・2003・2019)。
  ※小澤毅(1997):「吉備池廃寺の発掘調査」『仏教芸術235号』毎日新聞社
   小澤毅(2003):「寺名比定とその沿革」『吉備池廃寺発掘調査報告−百済大寺跡の調査−』
   小澤毅(2019):「高市大寺の所在地をめぐって」『古代寺院史の研究』思文閣出版
現在、ここが最も有力視されており、奈良文化財研究所の報告書でもこの立場をとる(奈文研2003・2017)。
  ※奈良文化財研究所(2003):『吉備池廃寺発掘調査報告−百済大寺跡の調査−』
   奈良文化財研究所(2017):『飛鳥・藤原宮発掘調査報告X−藤原京左京六条三坊の調査−』
このギヲ山西方に対して、先の「高市郡高市里」史料の検討から、高市大寺は大官大寺の隣接地ではないことを検討し、新たな候補地として田中廃寺に比定する。
「弁天の森」と呼ばれる土壇を塔、「天皇の森」と呼ばれる土壇を金堂とし、吉備池廃寺と同規模の伽藍を想定する(西本2011)。
  ※西本昌弘(2011):「高市大寺(大官大寺)の所在地と藤原京朱雀大路」『古代文化63-1』古代学協会
しかし、この土壇が寺院の基壇跡かは不明であり、特に「天皇の森」は高さが高く、古墳の可能性も指摘されている。
さらに出土瓦に、吉備池廃寺・大官大寺・大安寺に共通するものがない点は、大きな課題である。
さらに西本氏はもうひとつの可能性として和田廃寺北方も候補とみる。
その根拠は和田廃寺で「大寺」墨書土器が出土したことと、吉備池廃寺と同じ型押し忍冬唐草紋軒平瓦がわずかに出土していることである(西本2011)。
  ※西本昌弘(2011):「高市大寺(大官大寺)の所在地と藤原京朱雀大路」『古代文化63-1』古代学協会
しかし、和田廃寺は葛城寺の可能性が指摘されており、ここから出土する墨書土器を根拠にできないこと。
型押し忍冬唐草文軒平瓦もわずかしか出土しておらず、推定される水田地域に土壇の痕跡がみられないことから、ここに比定するのも難しい。
よって、高市大寺の候補地としては、既知の遺跡でみると、ギヲ山西方と木之本廃寺しか可能性は低いと考える。
以下では、この両説を中心に検討する。
 大安寺前身寺院群

3.文献史料上の検討
 ※煩雑であるので、本論文を参照願う。
 ※高市大寺の所在を示す資料は比較的多くあるが、何れもある意味”曖昧”であり、決定的な決め手に欠けるものと思われる。

4.考古学的検討
 1 吉備池廃寺の移建
ここでは発掘調査の成果から、高市大寺について検討するが、まずは吉備池廃寺が移建されたことを考古学の見地から確認する(奈文研2003)。
吉備池廃寺の堂塔や伽藍は、飛鳥時代としては並外れた規模をもつことが判明した、これに匹敵する寺は大官大寺しかない。
しかし、良好に基壇が残存するものの、礎石や塔心礎はまったく遺存していない。またその廃絶の時期は出土土器から飛鳥W・Xの時期とみられる。
このことは、7世紀後半頃に、石材を抜き取り、解体されたことを示している。
また、吉備池廃寺では廃絶後、藤原京の条坊道路(三条大路・三条条間路)が施工されていることが判明しているが、それでも巨大な金堂・塔基壇は土壇として残存していた。
このことは、出土瓦からも窺うことができる。
吉備池廃寺の創建瓦は、軒瓦2セットのみで、補修瓦がみられない。また、丸平瓦も同様の状況を示す。
これは創建後、長い期間、ここで寺院が存続しつづけたのではなく、比較的短期間に寺院の命運が尽きたことを示している。
さらに、吉備池廃寺から出土する瓦は、従来寺院跡から出土する瓦量と比べると、著しく少ない。
また、細片が多いことも、吉備池廃寺の特徴である。
これは、平城宮へ資材が移された藤原宮中枢部と同様の出土量で、1〜2割程度の再利用が不可能な瓦のみが残されたと考えられる。
以上のことから、吉備池廃寺は、比較的短期間に解体され、利用できる資材(木材・石材・瓦等)は別地に移動したことが、発掘成果からも確認できる。
 2 ギヲ山西方の寺院の存在
大官大寺西方にあたるギヲ山の西方では、大官大寺式軒瓦のほかに鬼面文軒丸瓦・重孤文軒平瓦や凸面布目平瓦が採取され、「雷廃寺」とも仮称されている。
また、以前には礎石が出土したという話もあり、ギヲ山には瓦窯も推定されている。
奈良大安寺でも、大官大寺式軒瓦が10%程度出土している。
また、重孤文軒平瓦や凸面布目平瓦も少量ではあるが出土しており、ギヲ山西方から大安寺に移動したと推定されている(中井1995)。
ここに7世紀の寺院が存在していたかが問題となるが、大脇氏も課題として示しているが、百済大寺を移築したにしては、その創建瓦が確認できないこと、広い敷地を確保できないこと、大官大寺との距離が近く、大官大寺への移建理由が見つけられないことをあげている(大脇1995・1998)。
大官大寺の寺域は6町あるが、その中には巨大な伽藍が占めており、僧房や雑舎を含めて、寺院に必要な施設がみられない。
建築途中であることを考慮しても、周辺に大官大寺関連施設があっても不思議ではない。
特に、ギヲ山南西麓には大官大寺所用の瓦窯があり、筆者も重孤文軒平瓦や焼け歪みのある瓦が出土する炭混じりの土坑を発掘したことがある(明日香村1997)。
このように寺域西方にも大官大寺関連施設があったことは間違いないと考える。
ただし、現在のところ、寺院遺構が確認されておらず、水田地域に土壇痕跡もみられないことから、現段階では寺院ではなく、大官大寺の関連施設とみておく方が妥当と考える。
 3 木之本廃寺の存在
木之本廃寺では百済大寺と同じ瓦が出土していることから、高市大寺の有力な候補地であることはすでに記した。
その後、藤原京左京六条三坊の報告書が刊行され、出土瓦の詳細な報告と検討がなされた(奈文研2017)。
ここでは報告内容を踏まえて整理する。
調査地は藤原京左京六条三坊東北・東南坪にあたる。ここでは古墳時代から中世までの遺構が確認されているが、特に関連する7世紀代についてみると、7世紀中頃(U期)には東辺の香具山西麓に流れる中の川に該当する大溝があり、斉明朝の狂心渠に比定されている。
この西側に南北棟を中心としした掘立柱建物群が展開しているが、集落と考えられる。
藤原宮造営期(V−A期)になると東北坪の南西1/4に、掘立柱塀で区画された施設があり、京職の施設とも推定されている。
藤原京期になると、条坊道路を廃止して、四町利用の左京職になったと考えられている。
このように藤原京を前後する時期には、少なくとも調査区内には寺院にかかわる遺構は確認されていない。
しかし、調査区内から一定量の瓦が出土しており、その中には熨斗瓦や面斗瓦など各種の瓦や方形三尊塼仏が出土しており、周辺(北方や西方)に木之本廃寺と仮称する寺院が存在したことが推定されている。
出土瓦は吉備池廃寺の創建瓦である山田寺式をはじめ、雷文縁複弁八弁蓮華文・法隆寺式・藤原宮式・大官大寺式軒丸平瓦のほか、奈良・平安時代のものもある。
これらの中でも最も多く出土したのが吉備池廃寺創建瓦の軒丸瓦1型式と軒平瓦1形式で、笵傷も一致し(笵傷の可能性がある箇所がさらに2箇所あるが、資料数が少ないことから、明確ではない)、胎土や焼成も類似する。
このことは一つの瓦窯から同時に二箇所に供給されたか、あるいは一方から他方へと移送されたかのどちらかの状況を示している。
(ただし、笵傷の可能性があるものによると吉備池廃寺から木之本廃寺への変化が考えられる)。
また、丸平瓦も、吉備池廃寺創建瓦と共通するものが存在する。さらに小山廃寺所用平瓦等に特徴的な凸面に布目をもつものも一定量出土、大官大寺と同笵軒瓦9点、長林寺・法輪寺など斑鳩地域の瓦も3点出土している。
瓦の出土状況をみると、調査地では東北坪に集中していることがわかる。
特に、調査区北半を東西に掘削された東西大溝(SD4130)からの出土が多く、奈良時代以降の中・上層から、藤原宮期以前の瓦と以降の瓦が混在して出土している。
このことから藤原宮造営期に東北坪周辺に瓦が集められ、奈良時代以降に東西大溝(SD4130)を中心に投棄されたと考えられている。
また、瓦の破片が、吉備池廃寺出土のものより大きいのも特徴である。
このように報告書では、調査地周辺に古代寺院の存在を示唆するものの、寺院遺構が未発見であることと、当地が高市郡に属さないことから、高市大寺の可能性は低く、高市大寺の最有力候補地はギヲ山西に想定している。
しかし、瓦の出土量や種類、釘の残存する方形三尊塼仏の存在は、当地周辺が瓦の集積地ではなく、古代寺院が存在したことを強く示唆している。
そして、それが吉備池廃寺創建瓦と共通することから、吉備池廃寺と強い結びつきのある寺院であることを示しており、瓦の残存状態や笵傷の進行状況からは、吉備池廃寺の瓦が木之本廃寺に移動したことを推測させる。
さらに大官大寺同笵瓦も出土することは、木之本廃寺は大官大寺との関連も示唆していると考えられ、藤原宮期までは存続したと考えられる。
調査地が藤原宮に近いこともあり、藤原宮式を含めて出土する瓦がすべて、木之本廃寺所有の瓦とは断定でないが、示差的である。
また、吉備池廃寺の出土瓦が再利用できない細片が多いのに対して、大型の破片が木之本廃寺では多いことも、吉備池廃寺から木之本廃寺への移動を示している。
このような事象を考えると、木之本廃寺が高市大寺であった可能性は高く、報告書でも示唆していた調査地の郡域についても、先に文献史料の検討を行ったように、高市郡に属するとみて問題はないと考えるので、これまで指摘されていた多くの課題は解消できる。あとは、寺院遺構が確認されることを期待するだけである。
 4 木之本廃寺の復元
「木之本廃寺」と呼ばれる古代寺院が存在していたことは間違いない。しかし、未だ伽藍遺構は未確認であり、この点は大きな課題である。
そこで現在ある情報から、木之本廃寺についての復元を試案として提示したい。
まず瓦の出土状況が調査地の北半に集中すること、周辺の小規模な調査でも、吉備池廃寺創建瓦が出土するのは、西南・西北坪であることから、従来も調査地の北から西にかけての地域が推定されてきた。
調査地の西方には藤原宮があるので、瓦の分布からは調査地北方が候補地となる。
従来の説明では、調査地に北接する「畝尾都多本神社周辺」と記載されることも多いが、調査地の遺構状況からみて、神社地にも宮造営期や藤原京期の遺構が展開しているのは間違いなく、中心遺構が続いている。
地形的にも畝尾都多本神社地は微高地となっており、調査地から続く土地改変とみてよい。
よって木之本廃寺は畝尾都多本神社よりもさらに北方にあったと想定できる。
そこで候補としては、現在の下八釣集落及びその北方の水田となる。この周辺での発掘調査は少なく、現在のところ、古代寺院を示すものはみられない。
そこで注目するのは寺院遺構の痕跡である。
水田地域においては、寺院の基壇が土壇として残されていることがある。吉備池廃寺では金堂及び塔基壇が土壇として残されており、大官大寺でも金堂と塔基壇が遺存する。
さらに本薬師寺も金堂及び東西塔が高い土壇としてみられる。つまり、後世の水田開発によっても、堂塔の高い基壇が現地に残されている可能性がある。
ましてや高市大寺の基壇となると、吉備池廃寺並の基壇が想定される。しかし、下八釣集落の北方及び西方の水田内には、そのような土壇はなく、寺院の微証は確認できない。
では集落内ではどうか。集落内でも土壇の高まりは確認できない。寺院跡が、現在の寺院や神社として残ることはよくある。下八釣集落には興福寺(八釣山地蔵尊)と土安神社がある。
しかし、これも古代寺院の痕跡とするには物証が足らない。
唯一、興福寺境内に方形の柱座を造りだした花崗岩礎石が残っていることは、周囲に礎石を使った建物があったことを示唆している2)。
 ※この礎石が藤原宮の宮城門の可能性もあるが、東面南門からは300mの距離があり、東面中門の礎石には方形柱座の造りだしは見られなかったので、宮城門の礎石の可能性は低いと考える。
ここでもうひとつの視点として、集落内の地割に注目する。
集落内には3本の南北道路がある。
東の南北道路は、後に拡幅されて道幅が広いが、中央と西側の南北道路は2.8m程度と狭い。この中で中央の南北道路は、北から40mで鉤の手に折れ曲がりさらに20m進むと、再び僅かに鉤の手に曲がり、さらに10mで東に折れて、土安神社前の駐車場に至る。
東西の南北道路とは異なり、中央南北道路の南半は不自然屈曲を繰り返している。ここに土壇があったため、このような迂回措置をとったとも考えられる。集落内で古代寺院の土壇があっため、道路が迂回すること
は、奥山集落内の奥山廃寺の講堂や飛鳥集落内の飛鳥寺講堂などでもみられることから、すでに土壇としての高まりは残っていないが、地割として残される事例がある。このように考えてよければ、先の礎石は、その地割りの東隣接地に現在は置かれていることになる。
この想定のもと、木之本廃寺の伽藍を復元してみるが、木之本廃寺の伽藍配置については、推定する手がかりがない。
吉備池廃寺の建物が、他の寺院よりも巨大で伽藍も大きかったことはすでにみた。
その建物が解体されて高市大寺に移されたとすると、現状では同じ伽藍配置を想定するしかなく、他の配置を推定する手がかりはない。
 木之本廃寺復元私案
そこで、先の地割を金堂跡として吉備池廃寺の伽藍を重ねると、塔の西辺が現在の市道に、東辺が西の南北道と重なる。
また北面回廊想定地には西の南北道と中央の南北道を接続する東西道(幅1.4m)が重なることになる。
さらに南回廊想定地は土安神社南辺にあたるが、現況ではここに東西に延びる土塁状の高まりがある。この
高まりが後世のものの可能性もあるが、位置的には興味深い。
 ※今回の伽藍想定地において、いくつかの調査が行われている。金堂想定地では中世の南北溝が確認されているだけで、基壇の痕跡は確認されていない(91-3 次)。
また北面回廊に重なる地では、現地表から50pで地山が確認されている(188-2)。市道の西側では、南面回廊で重なる地では回廊遺構や五条大路南側溝のいずれも確認されていない(45-3 次)。西面回廊想定地では湿地となっており、遺構はみられない(83-8 次)。これらの状況から、伽藍の存在を積極的に肯定することはできないが、同時に否定もされないと考える。
 5 高市大寺と条坊の関係
 ※割愛
 6 総括−高市大寺の史的意義− 
  (前略)
しかし、大官大寺は造営開始後10年にして、建築途中で焼失、しかも都は平城京へ遷った。
大官大寺の未使用の建築資材は大安寺へと遷され、百済大寺から高市大寺に移されていた仏像が大安寺に施入されている。
結果的に、平城京遷都までは高市大寺が藤原京の国家筆頭官寺としての役割を担い続けることになった。
大官大寺は、幻の大寺であったのである。


大和紀寺跡(小山廃寺)

 →大和紀寺跡(小山廃寺)
  及び
 →「亡失心礎」の「大和紀寺」の項を参照

 →2022/05/20撮影:○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
   →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

2022/06/23追加:
「大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族」小笠原好彦(「日本考古学 11巻第18号」日本考古学協会、2004 所収) より
0.論文要旨
 紀寺(小山廃寺)は大和の飛鳥に建てられた7世紀後半の古代寺院で、小字キテラにあることから紀氏が造営した寺院とされている。
「続日本紀」には紀寺の奴婢を解放する記事があり、これによると天智朝に飛鳥に建てられていたことがわかる。
 この寺院に葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は「紀寺式軒丸瓦」とも呼ばれ、畿内では山背の古代寺院に顕著に葺かれ、さらに地方寺院にも多く採用されている。
しかし、近年の研究ではこの瓦当文様が地方寺院まで分布すること、また紀寺に藤原宮から軒丸瓦の瓦当笵が移されていることなどから、紀氏の寺院ではなく、官寺の高市大寺とする考えがだされている。
一方、紀寺は1973年(昭和48)以降、数回にわたって調査され、藤原京の条坊に伽藍中軸線をあわせて建立されていることが判明した。
このことは藤原京の条坊施工が開始した天武5年(676)以前には遡れない可能性が高く、紀氏が建てた寺院とはみなしにくくなった。
  岸俊男説藤原京と紀寺の位置:図1・岸俊男説藤原京と紀寺の位置奈文研編『藤原宮』(1900)をもとに一部改変
 紀寺式の雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦のうち、最古式のものは山背◎大宅廃寺に葺かれ、紀寺と大宅廃寺は少なからず関連をもつ寺院であったとみなされる。
この大宅廃寺の軒平瓦の一つである偏行忍冬唐草文の瓦当笵は、後に藤原宮の瓦窯に移動しており、この寺院を藤原氏の寺院とみなす考えがだされている。
また平城京に建てられた興福寺の同笵軒瓦が出土する飛鳥の久米寺も藤原宮に軒瓦を供給しており、二つの藤原氏の寺院が藤原宮の屋瓦生産に深く関与している。
大宅廃寺と関連をもつ紀寺(小山廃寺)に藤原宮の瓦窯から瓦当笵が移されたのは、この寺院も藤原氏ときわめて関連が深いものであったと推測する。
そして、この性格を考えるには、紀寺(小山廃寺)が岸俊男説の藤原京左京八条二坊、本薬師寺が右京八条三坊にほぼ対称の位置に建立された背景を検討する必要がある。
また、創建瓦として葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は、持統天皇の乳部の氏寺に葺かれた瓦当文様を祖形にして創出されたものと思われる。
1.紀寺の伽藍と軒瓦
 紀寺は保井芳太郎氏の『大和上代寺院志』では、この寺は「l城寺紀」に紀氏を檀越とし、紀寺と称することを記し、十分な根拠はないとしながらも『続日本紀』天平宝字8年7月丁末条に、紀寺の奴益人ら76人を解放して良人
としたことを記すことから、平城京に紀寺があったことを述べる。
そして、「その前身と称するものの遺址がこの飛鳥村大字小山にあるのである。字名を紀寺といひ奈良奠都以前はこ々にあったと傳へてゐる」と、飛鳥の紀寺を紹介した。
また明治初年まで残っていた塔の礎石を岡本桃里が写したという造りだしをもつ礎石の図を掲載する。
さらに、塔跡の西北にある畑地が周囲の水田より1尺ほど高く、礎石があったと伝えているので、そこに金堂、さらに北の水田に土地所有者が数個の礎石があるとの助言から、講堂があったことも想定した(保井1932)。
 ※ → 「亡失心礎」の「大和紀寺」の項を参照
また、福山敏男氏は『奈良朝寺院の研究』で、『続日本紀』天平宝字8年(763)7月丁未条の記事をとりあげ、紀寺に天智9年(670)に奴婢がおり、その前後にこの寺で工人が作事にかかわっていたことが知られ、その寺が紀氏を檀越とすることも推測できるとし、「飛鳥村小山小字木寺」がそれであろうとした(福山1948)。
 角田文衛は紀寺跡から出土した軒瓦を分類している(角田1955)。
  <中略>
 一方、飛鳥にある紀寺跡の考古学的な調査は、1973年(昭和48)にこの地域一帯を県立飛鳥緑地運動公園とする計画がもちあがったことに関連して実施され(泉森1978)、その後も運動公園の整備と住宅開発などによって調査が加えられている。
その結果、金堂、講堂、中門、回廊、掘立柱遺構、南門、築地大垣などの遺構が検出され、南から南門、中門、金堂と講堂が中軸線上に配置され、中門から南北にのびる回廊が講堂にとりつくことが明らかになった。
さらに築地大垣の西南隅、東門跡の調査も行われている(泉森1999)。
 以上のような調査によると、金堂基壇は地山を削り出して作られており、地覆石とその抜取り痕跡によって東西18.5m、南北16mであることが明らかになった。
講堂は金堂の北16mに建てられ、基壇はかなり削られていたが、掘込み地業が確認され、東西32m、南北19.9mほどのものであったことが判明した。これは桁行8間、梁行4間の講堂に推測されている。
中門も東西12m、南北8.2mの基壇が検出され、桁行3間、梁行2間のものであることが判明した。
回廊は一部に碇石が残っており、中門から講堂にとりついていた。桁行、梁行はともに3.6mの単廊で、内側に素掘りの雨落溝がめぐっている。
この回廊は東西76m、南北82mに復原されている。
なお、この回廊内の西南部では、東西4m、南北1.6mの大形掘込みが検出され、そこから柱間2.05mを測る東西2本の掘立柱の柱根が見つかった。これは幢竿支柱の遺構に想定されている(泉森1978)。
南門は礎石の据つけや抜取り穴が検出され、桁行3間、梁行2間、各柱間が3.6mであることが判明した。
この門には、築地の心柱と推定される一本柱の柵(大垣)が取りついており、伽藍中軸線から東118mで南北に連なる柱列4間分、また、これと接続する南面大垣16間分が検出されている。
この築地心から4m隔てて、幅0.8ないし1.0mの雨落溝が南面大垣では両側に、東面大垣では西側にのみ検出されている。
この雨落溝の南側には、八条大路の北側溝とみられる大溝が見つかっているが、南側溝は検出されていない。また、東西大垣の東には、二坊大路の西側溝とみられる大溝が検出されている(図1・2)。
さらに、1992(平成4)年の調査では、講堂から東へ約60m隔てた位置で、柱列5間分が検出され、東門と大垣柱列の東側で大垣の雨落を兼ねた東二坊大路の西側溝が見つかった。
  紀寺(小山廃寺)の伽藍;(1:2500):図2・紀寺(小山廃寺)の伽藍奈文研『日中古代都城図録』(2002)から
 以上のように紀寺は塔に関する知見はまだないが、伽藍は南から南門、中門、金堂、講堂を配し、寺域はほぼ2町四方を占め、南面大垣の外側の大溝は八条大路の北側の側溝を兼ねていることが明らかになった。
藤原京との関係も、当初は条坊と伽藍中軸線とがずれているとされていたが、藤原京の条坊が北で0度26分偏していることが知られ、それとの関連を踏まえると、紀寺の伽藍中軸線が東二坊坊間路の路心と一致することが明らかになったことは、紀寺の造営年代とこの寺院が造営された性格を考える上で、きわめて重要な知見である(泉森1999)。
なお、南面大垣の外側の大溝は八条大路の北側溝を兼ねており、大路の北側溝の推定位置からみると7.5m南に寄っていることも判明している。
 <軒瓦については省略>

2.紀寺の性格と諸説
 1986年(昭和61)、森郁夫氏は山背の古代寺院を検討した際に、山背の氏寺に葺かれた紀寺式軒丸瓦に言及し、この瓦当文様が山背では、宇治、紀伊、愛宕の3郡に顕著に分布することを重視した。
そして、これらの紀寺式軒丸瓦は、いずれも大和の紀寺のものよりも後出のものであり、その一つの大宅地廃寺のものは、変形忍冬唐草文の軒平瓦と組み合うので、藤原宮が造営された690年代にあたるものとした。
また、標識名をもって全国的に分布する白鳳期の軒瓦は、山田寺式、川原寺式、法隆寺式、薬師寺式の4種があり、これらはいずれも官寺、あるいは官に準ずる寺であるのに対し、大和の一氏族の氏寺に葺かれた紀寺式軒瓦が広く地方寺院にも分布することを問題にした。
そして、この軒瓦が紀氏の氏寺とすると、紀氏の本貫地である紀伊国の寺院にこの様式の軒瓦がまったく分布していないこと、氏寺に葺かれた軒瓦はその近隣にはみられるが、遠隔地への広がりは認め難いことから、この寺は紀寺と呼ばれているが、紀氏の氏寺とはみなし難く、官によって営まれた寺、もしくはそれに準ずるものとみなした(森1986)ことは、きわめて重要な見解であった。
 このように、紀寺が紀氏の氏寺とみなし難いとする考えがだされるようになったのに関連して、猪熊兼勝氏は藤原京の大官大寺が持統朝後半から文武朝に造営され、その前身寺院の遺構が認められないことと、紀寺が藤原京で薬師寺と対称の位置に配置されていることなどから、これまで明らかになっていない官寺である高市大寺に想定し(猪熊1980)、森郁夫氏も同笵・同形式軒瓦の関連から高市廃寺とする考えを述べている(森1994)。
 この紀寺を高市大寺に想定する考えは、さらに近江俊秀氏も同様の見解を明らかにした(近江1998)。
近江氏の見解の詳細は後述するが、紀寺を小山廃寺と呼称し、ここから出土する軒丸瓦の瓦当笵6233Bb型式が紀寺から藤原宮の高台・峰寺瓦窯に移動したこと、紀寺の屋瓦製作技法に粘土板桶巻き作りのほかに、大和盆地の藤原宮の造瓦組織に採用された粘土紐桶巻き技法によるものがふくまれることなどを主要な理由として、この寺が氏寺でなく官寺とみなしうるとし、高市大寺に想定する考えを述べている。
 一方、岡本東三氏は、紀寺が『続日本紀』天平宝字8年(764)に記された紀寺の奴益人らの記事に、庚午年籍(670)に紀寺の奴婢が記されていることから、紀寺の造営がそれまで遡りうるものと想定し、この紀寺式軒丸瓦の外区文様の構成から川原寺式に続く7世紀第3四半期に成立したものとした。
そして、紀寺の造営者は、御史大夫として近江朝の政権を支えた紀臣大人が中央官人化の基盤を確立した時期に造営したものと推測する見解を述べ、これまでの考えを補った(岡本1996)。
 しかし、紀寺の造営氏族を紀氏とみなす見解は、紀寺の寺域が藤原京の条坊と一致することが明らかになり、藤原京の条坊施工の開始年代を遡りえない可能性が高いことからすると、この廃寺を紀寺とする根拠はキテラの小字名のみということになる。
 なお、雷文縁複弁蓮華文をつける紀寺式軒丸瓦の瓦当文様が広いひろがりをもって分布し、藤原京の条坊に対応して造営されていることを根拠に高市大寺を想定する新説は、花谷浩氏によって否定されている(花谷2000)。
 花谷氏は藤原京条坊の施行年代は小沢毅氏(小沢1997)や橋本義則氏(橋本2000)らが説くように、天武5年(676)以前には遡りえないことから、天武2年(673)の創建とされる高市大寺と整合しないとした。
また近年に調査され、葺かれた軒瓦の様式から百済大寺とみなしうるとする吉備池廃寺の金堂、塔などの規模に対し、紀寺の伽藍が著しく小規模であること、さらに紀寺では吉備池廃寺の同笵軒瓦がまったく出土しないことなどから、そのようにみなしえないとした(花谷2003)。
 以上のような紀寺に対する見解とは別に、私も2000年(平成12)に紀寺を紀氏の氏寺とはみなし難いことを前提に、他に紀氏が造営した氏寺を求める作業を試み、大和の香芝市にある◎大和尼寺廃寺の造営氏族を検討し、尼寺廃寺に坂田寺の軒丸瓦と同笵軒瓦が葺かれた背景、さらに同形式の軒丸瓦が紀伊の紀ノ川流域に造営された初期寺院の創建瓦に顕著に採用されていることなどから、尼寺廃寺を紀氏の氏寺とみなす考えを提起した(小笠原2002)。
 このように、これまで紀寺に対しては、紀氏による氏寺をそのまま想定する旧説、紀氏の氏寺とすることに疑問をもつことから小山廃寺と呼称することを提起し、その一つとして官寺の高市大寺に想定する説がだされていることになる。
以下では、岸俊男説の藤原京の右京八条三坊に本薬師寺、左京八条二坊に紀寺(小山廃寺)が建てられた寺域の位置をめぐる問題、紀寺に葺かれた軒瓦の同笵および同形式軒瓦の関連を重視することによって、この寺院の性格を検討してみることにしたい。

3.同笵・同形式軒瓦
 紀寺から出土する軒丸瓦は、雷文縁複弁蓮華文の紀寺
式と藤原宮式のものとがある。
  同笵・同形式瓦の関連図:図8・同笵・同形式の関連図筆者製作
  <中略>
この見解
 (※近江俊秀氏は、瓦製造に技術革新が見られ、紀寺(小山廃寺)から出土する瓦はその技術革新の結果であろう。従って文献史料に記されながら未だに所在が明らかでない寺院は高市大寺だけなので、猪熊氏と同様に紀寺をこの高市大寺に想定する考えを述べている(近江1998)。)
は造瓦技術からすると少なからず説得力をもつものであるが、前述したように花谷氏によって、近年に調査された吉備池廃寺がその造営時期、大規模な伽藍をなすことから百済大寺に想定しうるようになり、また大官大寺の伽藍もきわめて大規模な伽藍をなしていることから否定されている(花谷2003)ように、紀寺の伽藍を高市大寺とみなすことは、その規模からみて困難な想定というほかないであろう。

4.紀寺と大宅廃寺(→大宅廃寺
 紀寺の性格と造営氏族をさぐるには、この寺院の創建軒瓦である雷文縁軒丸瓦が特に山背の氏寺に顕著に葺かれたことに注目する必要がある。
この軒丸瓦は、山背では大宅廃寺、醍醐廃寺、法琳寺、板橋廃寺、北白川廃寺法観寺廃寺など宇治郡、紀伊郡、愛宕郡の寺院に葺かれている。
  ※醍醐廃寺(伏見区醍醐西大路町・御霊ヶ下町)、板橋廃寺(伏見区指物町・下板橋町・御駕籠町)
これらの3郡の氏寺に雷文縁軒瓦が集中して葺かれたのは、森郁夫氏によって紀寺が官によって営まれ、しかも、この地域には近江や北陸への古道があったことを重視し、これらの氏寺の造営に官寺の紀寺が介入したことを想定する考えがだされている(森1986)。
しかし、紀寺を官寺とみなし、さらに高市大寺に想定する考えは前述したように、吉備池廃寺で検出された金堂、塔などによる伽藍が大規模で、舒明朝に造営された百済大寺の可能性がきわめて高くなったことからすると、それとは著しく小規模な紀寺を高市大寺とみなすことは難しい。
 だが、紀寺を官寺もしくはそれに相当するような性格をもって造営された寺院を想定することは、なお可能性をもつ考え方かと思われるので、文献史料に記されていない藤原京域に造営された官寺、あるいは相当する寺院を想定して検討することが必要であろう。
 さて、紀寺と同形式の雷文縁軒丸瓦が葺かれた氏寺では、山背に造営された氏寺のうち、特に大宅廃寺との関連が注目される。
この大宅廃寺は1958年(昭和33)に調査され、東西棟の中央基壇、その北で北方基壇、その南に2つの建物あったものと推定されている。
中央建物は乱石積基壇で桁行7間、梁行4間、北方建物は基壇外装は知りえないが、桁行9間、梁行4の建物とされている。この北側建物の南5mに、桁行方向が同一で梁行1間の細殿風の建物がある。
また、中央建物の南38m、54mの位置で、建物基壇の一部が検出され、南から南門、中門、金堂、講堂が一列に配されたものと推測された(坪井1958)(図4・5)。
  大宅廃寺の調査:図4・大宅廃寺の調査坪井1958から
  大宅廃寺の建物遺構:図5・大宅廃寺の建物遺構坪井1958から
そして、その後も補足調査が行われ、伽藍の検討が重ねられている。
また、最新調査の2004年7月の調査では、中央建物の南で、最下壇に地覆石を置き、その上に平瓦を積み、この瓦積基壇の外側にも幅1mの低い瓦積基壇が検出されている。
そして、この東8mでも以前に基壇建物が検出されていることから、西側の瓦積基壇を金堂、調査地の東端で塔の水煙の青銅製品が出土していることも考慮すると、東側の建物を塔跡に想定しうる可能性が高くなったという。
また、中央建物の講堂の南西に金堂、東南に塔を配した伽藍の可能性が高くなったとみなされている(註1)。
このように最新の調査からすると、大宅廃寺が講堂の南に金堂と塔を配した可能性が高くなり、紀寺の伽藍との類似性はなくなりそうである。
 <中略>
 この ように大宅廃寺で葺かれた偏行忍冬唐草文1類、2類の軒平瓦が藤原宮へ供給されたものと同笵で、しかも藤原宮の瓦窯でも同形式のものが生産されたことが明らかになったことは、大宅廃寺の性格および造営氏族を考えるうえできわめて重要な知見である。
これまで大宅廃寺の性格に関する見解には、大宅寺説と山階寺説とがある。
二つのうち、大宅寺説は『今昔物語集』巻22に、
 其ノ弥益ガ家ヲバ寺二成シテ、今ノ勧修寺此也。向ノ東ノ山辺ニ其ノ妻、堂ヲ起テタリ。其ノ名ヲバ大宅寺ト云フ。
 此ノ弥益ガ家ノ当ヲバ、哀レニ睦ジク思食ケルニヤ有ケム、醍醐ノ天皇ノ陵、其ノ家ノ当ニ近シ
と記す。
一方、山階寺説は梅原末治氏が1920年(大正9)に大宅廃寺から雷文縁複弁軒丸瓦、藤原宮式軒平瓦、二重弧文軒平瓦が出土した際に、この廃寺が山科の故地にあることから山階寺に想定した(梅原1920)。
この山階寺は、『扶桑略記』斉明天皇3年(656)条に、中臣鎌足が病に伏せたとき、維摩詰経を読経せしめたところ直ちに癒えたことを記し、
さらに3年(657)丁巳条に、
内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設齋會。是則維摩會始也。
とあり、山階陶家に精舎を建てることによって維摩会を行ったことを記している。
 さらに4年(658)条には、山科陶原家で元興寺の福亮法師を講匠として招いて維摩会を行い、その後、天下の高才、碩学が12年にわたって講じたとする。
1938年(昭和13)、田中重久氏は岩屋明神の南に土壇があり、法琳林寺、醍醐寺、法観寺、北白川廃寺、深草寺、紀寺などと同系譜の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦、上御霊廃寺、藤原宮、本薬師寺と同じ鋸歯文、珠文のある軒平瓦が出土し、鎌足の長子の定恵が創立した法琳寺と近接することから、大宅廃寺を藤原氏の山階寺の旧跡に想定した(田中1938)。
また、『諸寺縁起集』護国寺本には、宮都が大津宮に遷都したとき、鏡女王が伽藍を造営することを求めたので山階寺を作り、宮都が飛鳥に遷ったことから大和高市郡に移し、廐坂寺と呼ばれたと記す(藤田1972・薮中1997)。
大宅廃寺をどのように理解するかの課題は、1958年(昭和33)に実施された発掘調査報告では、大宅廃寺を山階寺とみなす説は、軒瓦の文様が藤原宮、本薬師寺式に類似することから造営時期が少し新しく、興福寺の軒瓦と形式的に関連をもたないことから、そのように理解するのは難しいとした。
また大宅廃寺は平安時代まで存続しており、山階寺が大宅寺となって存続したとするのも想定しにくいとした(坪井1958)。
 しかし、このような見解に対し、近年の山崎信二氏の研究では、大宅廃寺の軒平瓦1類、2類が藤原宮の造瓦と深い関連をもっており、梅原氏が「山階ノ故地」にあることから大宅廃寺を山階寺に想定したことを考慮し、山階にある藤原氏の氏寺として再考することが可能であるとした。
そして、
「藤原宮造営をやや遡る頃に造営されたこの大宅廃寺は、山階における藤原本家の氏寺であったが、藤原宮造営に伴って創建された高市郡厩坂の厩坂寺が、藤原宮の時代には藤原氏の最も主要な氏寺となった」、
ときわめて重要な理解に進展させている(山崎1995)。
 大宅廃寺で検出された伽藍の建物遺構を、ただちに山階寺とみなしうるかは大宅廃寺の創建年代、伽藍の建物配置などからみて、なお検討を要する点が少なくない。
しかも、大宅廃寺と紀寺に葺かれた軒瓦を重視すると、紀寺の方が大宅廃寺に先行して造営されており、大宅廃寺は後に紀寺と同一形式の雷文縁軒丸瓦の瓦当笵を新たに製作して葺いたことになる。
また、『諸寺縁縁起集』護国寺本に記すように、山階寺は宮都が大津にあったとき、鏡女王が伽藍を造営することを求めたことから造営されたとすると、大宅廃寺は紀寺の造営が藤原京条坊の施工開始年代を遡らないことからみて、天武5年(676)より古く遡りえないことになる。
したがって、大宅廃寺で見つかった寺院遺構は、『扶桑略記』に記す山階寺をそのままあてることはできないとになる。
しかし、それにもかかわらず山階寺の理解には検討すべき点が少なくないように思われる。
その一つは、『扶桑略記』には鎌子(鎌足)が山階陶原家に初めて「精舎」を建て、維摩会を行ったと記すことである。
また『家伝』にも鎌足が没した際に、「葬於山階精舎」と記す。
この精舎は、その記載からすると、厩戸皇子が熊凝精舎(熊凝道場)を建てたように、邸宅の一部を仏殿としたもの、あるいは草堂とも記すような本格的な瓦葺きした堂塔を配したものとは異なるものであった可能性が少なくない。
いま、このように創建期の山階寺の性格を理解すると、多量の屋瓦が出土した大宅廃寺で検出された伽藍の遺構を、そのまま山階寺の精舎に想定することは難しいことになり、山崎氏が述べるように藤原氏の氏寺とする想定を超えれないことになる。
しかし、山階寺が『扶桑略記』などに精舎と記すことからすると、先行する時期の遺構は見つかっていないが、後に山階寺を大規模に改修して瓦葺きに、もしくは再興したことを想定し、大宅廃寺で見つかった遺構を山階寺を引き継ぐものとみなすることは、なお可能性が残る想定ではないかと思われる。

5.新造寺院と藤原氏
 紀寺(小山廃寺)から出土した軒丸瓦のうち、金堂が創建された後に葺かれた軒丸瓦6233Bbは、藤原宮6233Baを彫り直したものである。
この瓦当笵は、当初には紀寺から藤原宮に移されたものとされたが、その後の検討では、大和の藤原宮所用瓦を生産する瓦窯から紀寺に移動して製作されたことが明らかになった(山崎1995)。
このような大和に設けられた藤原宮の瓦窯と既存の氏寺と深い繋がりをもつ寺院はごくわずかしか知られていない。
そのきわめて数少ない例の一つが前述した山背の大宅廃寺である。
 大宅廃寺の軒平瓦I類に分類されている偏行忍冬唐草文の瓦当笵は、その後に大和に移され、高台瓦窯もしくは付近の瓦窯によって藤原宮の6646Cが製作され、また皿類の瓦当笵は近江産の6646A・Bを生み出し、藤原宮に供給されたことが明らかになっている(山崎1995)。
このように藤原宮の軒瓦の製作と深い繋がりをもつ大宅廃寺が、金堂の創建にあたって紀寺の雷文縁軒丸瓦を他の寺院に先んじて葺いたことは、きわめて重要視されることである。
この大宅廃寺は、藤原宮の屋瓦生産と深いかかわりをもったことからみて、山崎氏が山背で藤原氏が造営した寺院にみなしたものである。
 山階寺は、『興福寺流記』に引用する「寳字記」に、山階寺は飛鳥の高市廐坂に移したことから厩坂寺となったと記す。
そして、この厩坂寺の想定地は、これまでいくつかの候補地がある。
 これに対し福山敏男氏は、『日本書紀』応神紀15年8月丁卯条に、百済王が良馬2匹を献じたので、軽の坂の上の厩で養い、その馬を養ったところを厩坂と呼んだ記事に注目し、厩坂は軽の地域にあったとした(福山1934)。
この軽の地域の理解に対して、山崎氏は厩坂の地が軽の地にあり、軽の地は軽寺跡や見瀬丸山古墳、さらに丈六南遺跡を越え、久米寺の西方の軽古の地まで及んでいたとする。
このうち久米寺から出土する軒丸瓦6271A型式が藤原宮、興福寺でも出土することから、古く坪井清足氏が興福寺食堂の調査の際に、この型式が厩坂寺で用いられたことを想定したように(奈文研1959)、久米寺を厩坂寺とみなしうるとしている。
この久米寺からは、軒平瓦6561Aの同笵瓦が藤原宮に供給されている。
興福寺と関連をもつ久米寺から、藤原宮の造営に屋瓦が供給されたのは、藤原不比等が藤原宮の造営と深い関連をもったとみなされることからみて、久米寺も藤原氏と深い関連をもっ氏寺であったことは疑いない。
 さて、紀寺(小山廃寺)は、藤原京の条坊施工後に左京八条二坊に建立された寺院で、この紀寺へは藤原宮の瓦窯から軒丸瓦6233Bbの瓦当笵が移動している。
また藤原氏とかかわりをもつ山背の大宅廃寺が他の寺院に先んじて紀寺の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦を葺いたことからみて、関連をもつ寺院であったことが想定される。
さらに、大宅廃寺と久米寺は、いずれも藤原氏とつながりをもち、また藤原宮の屋瓦生産とも深いかかわりをもったことが知られることは、紀寺もまた大宅廃寺、久米寺と同様に藤原氏と深い関連をもつ寺院とみなして相違ないものと思われる。
 紀寺の創建年代は、岡本東三氏によると雷文縁複弁蓮華文の瓦当文様が、I+II文様帯という内区と外区文様帯から構成され、しかも紀寺の1類は1+5+9の蓮子を配し、川原寺式と同様に周環をもつ蓮子を配している。
これらのことから、岡本氏は川原寺に続く時期のものとし、外区内縁に珠文、外区外縁に鋸歯文を配した本薬師寺よりも明らかに様式的に先行する(岡本1996)ものとした。
このうち、造営年が明らかな本薬師寺は、『日本書紀』天武9年(680)11月癸未(12日)条に、
皇后体不予。則為皇后誓願之、初興薬師寺。仍度一百僧。由是、得安平。
と記しており、天武天皇が皇后の鵜野皇女が不予となったことから造営を誓願したとする寺院で、その造営年代はこれを上限とすることができる。
 一方、雷文縁複弁蓮華文の成立年代は、前述したように岡本氏が第3四半期までに成立したとみなしたが、『続日本紀』に記す紀寺の奴婢の記事をそのまま根拠とすることは、紀寺とする前提が問題となることからすると、7世紀第3四半期に成立したか、第4四半期まで下がるかは判断しにくいことになる。
 紀寺(小山廃寺)の発掘調査では、伽藍が藤原京の条坊に合わせて造営されていることが明らかになり、南面大垣の外側溝が八条大路の北側溝を兼ねていた。
また本薬師寺の発掘調査でも、条坊に合わせて伽藍が造営されていることが判明した。
しかも藤原京の造営は、天武5年(676)を遡りえないものとみなされることは、小字名のキテラをもとにこの寺院を紀氏によって造営された氏寺とみなすことは考え難いことになる。
そして、前述したように藤原宮と深い関連をもつ大宅廃寺で同笵軒瓦ではないが、紀寺の雷文縁軒丸瓦と同形式軒瓦が他の寺院に先んじて葺かれ、紀寺も藤原宮の造瓦組織と深い関連を有したことを併せると、この寺院も藤原氏一族によって造営された寺院とみなして疑いないものと思われる。
 では、どのような経緯のもとに、この寺院は藤原氏一族によって岸俊男説の藤原京の左京八条二坊の地に造営されることになったのか。
岸説による藤原京の八条には、左京二坊に紀寺(小山廃寺)、右京三坊に本薬師寺が造営されている。二つの寺院はそれぞれ左京、右京と相対する位置にほぼ対称に造営されている(註2)。
いま、藤原氏一族によって、天武5年(676)以降に紀寺(小山廃寺)が造営されたとすると、左京に藤原氏一族が新たに寺院の造営を行った背景、あるいはその契機をどのように考えるかが問題になる。
藤原京に対称に造営された2つの寺院のうち、本薬師寺は前述したように『日本書紀』天武9年(680)11月癸未条(12日)に、皇后の鵜野皇女の不予に際し天武天皇が寺院造営を誓願し、しかも100人の僧を得度したことによって大病が平癒し、寺院造営を行うことになったものである。
本薬師寺を造営する要因が皇后の不予に際し、天武天皇によって誓願されたことは、この寺院が勅願された要因もしくは契機として、なお留意すべき点があるように思われる。
じつは、前述した『日本書紀』天武9年11月条の記事には、さらに同月丁酉(26日)条に、天皇病之、因以度一百僧。俄而愈之。とあり、皇后が不予になったわずか14日後に、天武天皇もまた不予となり、しかも再び僧100人を得度させ、それによって病が癒えたことが記されている。
皇后が不予となったのと同じように100人を得度させ、これによって病が平癒した記録を残すことは、天皇の病もまた皇后と同様に大病だったのではないか。
しかも、皇后の不予に際しては、天武によって寺院造営が誓願されたことが記されている。しかし、天武天皇の不予に際しては、記録に残すような大病ながら寺院造営の誓願がなかったのはなぜか。
これは、皇后の大病に際し、天武によって寺院造営の誓願がなされた直後の状況からすると、天武の大病に対しても、寺院造営の誓願があったとみなすべきであろう。
また考慮されることは、皇后の不予の直後だけに、皇后が天武天皇に対して寺院造営を誓願しうる状況になかったものと思われる。そこで、皇后の意を汲んで、皇后に替わって寺院造営を誓願することが藤原氏にようてな
されたのではないか。
その結果として、天武9年(680)11月には、本薬師寺といま一つの新造寺院という二つの寺院が、ほぼ同時に誓願されることになり、条坊施工中の藤原京で対置する位置に寺院を造営することになったものと推測されるのである。
しかも、天武によって皇后に対して勅願された本薬師寺が、西の右京八条三坊に、いま一つ誓願された寺院が天武の大病の平癒に対するものだけに、遅れて誓願したものながら、方位的に優位になる東の左京八条二坊に建立することになったものと思われる。
 このような経緯のもとに発願されたと推測する二つの寺院のうち、本薬師寺の造営経過の記事は、勅願後は暫くないが、『日本書紀』持統2年(689)1月丁卯に本薬師寺で無遮大会が設けられた。
しかし、その2年前の朱鳥元年(686)9月9日に天武が没し、12月19日、天武の没から百ヶ日に飛鳥の5寺で無遮大会が設けられたが、その中に薬師寺はふくまれていない。
天武、持統との深いかかわりをもつ本薬師寺で、百ヶ日の法会が行われなかったのは本薬師寺の造営に着手しながらも、金堂が完成するまで進展していなかったことによるものと推測される。
いま、本薬師寺に関連する発掘調査をみると、1976年(昭和51)には寺域の西を限る藤原京西三坊大路と南を限る八条大路の交差点が検出され、この調査では、条坊地割りの施工に先立って本薬師寺が建てられたとみなされたが(奈文研1976)、1993年(平成5)春の調査で中門が検出され、この中門の下層で藤原京の西三坊坊間大路が検出され、条坊を埋め立てて本薬師寺を建てていたことが判明した(奈文研1976)。
さらに1995年(平成7)春には、中門の北で中門と金堂間の南北参道と東西の塔をつなぐ東西参道が検出され、西三坊坊間大路の東に掘立柱南北塀、西で掘立柱建物が見つかった。
そして、これらの建物は参道より古いことから、本薬師寺の造営は条坊道路を設定後、ある程度の時間が経過後に建てられたことも確実なものとなった(小沢1999)。
 このように天武によって本薬師寺造営の誓願が行われたにもかかわらず、この寺院の造営開始が少し遅れた要因は、その一つとして、飛鳥でそれ以前に発願された勅願寺である川原寺の造営がなお継続し、また天武2年(673)12月に造寺司を任命した高市大寺の造営もなお進行中であったことが想定される。
さらに、皇后によって祖父の蘇我倉山田石川麻呂が造営しながら、中断していた山田寺の造営も進められていたことなどから、直ちに本薬師寺の造営に着手し難い状況があったものと推測される。
そして、これは官寺の川原寺と本薬師寺の屋瓦生産を担った大和の宇智郡北部に設けられた荒坂瓦窯と牧代瓦窯での屋瓦生産の操業経過からみても、ほぼそのように推測することができるように思われる(小笠原2002)。
 この荒坂瓦窯は五條市の北部、荒坂川流域に設けられた川原寺所用の屋瓦を生産した瓦窯である。ここでは古く8基の瓦窯が見つかっており、そのうち遺存状態のよい1号窯からみると、有段式の窖窯が設けられている(岸1959)。この荒坂瓦窯には川原寺用の瓦窯が大規模に置かれ、ここで屋瓦が量産されたことがわかる。
その後、荒坂瓦窯の造瓦組織は川原寺の造営が終了したことから、続いて本薬師寺の屋瓦生産を行うため、3.5キロ南に離れた吉野川流域の牧代で操業したことが知られる。
 牧代瓦窯はこれまで一部のみが調査されただけで瓦窯群の構成は十分に明らかになっていないが、本薬師寺、藤原宮の軒瓦など多種類の軒瓦が出土する。
しかも川原寺から出土する凸面布目平瓦も見つかっていることからみて、川原寺の屋瓦生産を行う荒坂瓦窯の官営工房に所属した造瓦組織をそのまま引き継ぎ、造瓦工を再編することによって本薬師寺の屋瓦を生産したものとみなしてよい(関川1979)。
この本薬師寺の屋瓦を生産した牧代瓦窯の造瓦組織は、本薬師寺の屋瓦生産が終了後、さらに組織を再編成することによって藤原宮の屋瓦生産にも関与することになったことは山崎信二氏によって詳細に明かにされている(山崎1995)。
 さて、一方の藤原氏が誓願した新造寺院は、誓願後に早急に体制を組むことによって造営が開始したものと推測される。
この造営が当初から藤原不比等の主導によって進められたかどうかは明らかでない。
しかし、その後、藤原宮所用瓦を生産する瓦窯から軒丸瓦6233Bbの瓦当笵が新造寺院の瓦窯に移されていることは、不比等がこの寺院の造営に関与したことは疑いないであろう。
新造寺院と本薬師寺の二つの寺院造営では、その造営を開始する数年の時間差があり、これが雷文縁複弁蓮華文と外区内縁に珠文、外区外縁に鋸歯文の文様帯をふくむ本薬師寺式の瓦当文様の違いとなった可能性が高い。
雷文縁複弁蓮華文の瓦当文様が導入された背景とその過程の詳細は後述するように、皇后の鵜野皇女の乳部に関連する氏寺の軒丸瓦が導入されたものと推測され、基本的には川原寺様式の瓦当文様が広く流布した段階であったと理解される。
 以上述べたように、二つの新造寺院の一つに紀寺(小山廃寺)を想定し、その造営氏族として藤原氏を想定したことは、藤原不比等が正史へ登場するのが、
『日本書紀』持統3年(689)2月己酉条に、
 以浄廣肆竹田王・直廣肆土師宿禰根麻呂・大宅朝臣麻呂・藤原朝臣史・務大肆當麻真人櫻井・與穂積朝臣山守・
 中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・大三輪朝臣安麻呂為判事。
とあり、判事に任じられる記事が初めてで、それ以前の不比等の動向がまったく知りえない点で問題が少なからず残るであろう。
 しかし、持統3年2月には不比等は直廣肆(従5位下)で、31歳であったことからすると、それ以前から少なからず政治的活動があったものと推測する。
不比等が蘇我連子の女娼子と結婚し、祖父伝来の大原第に戻り、武智麻呂が生まれたのは天武9年(680)で、23歳の時である。
この年、本薬師寺が11月に発願され、ついで新造寺院の紀寺(小山廃寺)が藤原氏によって誓願されたものと推測されるが、この時期の不比等の活動は文献史料に残っていない。
しかし、不比等と天武天皇の関係をみると、天武天皇は不比等の姉の氷上娘および五百重娘を夫人とし、前者は但馬皇女、後者は新田部皇女を生んでいる。
したがって不比等にとって天武天皇は義兄にあたっている。
また不比等は天武の叔父の孝徳天皇、母の斉明天皇、兄の天智天皇の3代に内臣として仕え、国政を補弼した功臣の鎌足の嫡子であり、後継者であった。
しかし、天武朝の時期に中臣氏を代表し、重用されたのは中臣連大嶋であった。大嶋は不比等の再従父兄弟で、近江朝の右大臣中臣連金の甥にあたる。父は金の弟、許米である。
天武10(681)年3月、川嶋皇子、草壁皇子らとともに帝紀および上古諸事を記すことを命じられていることは、この大嶋が中臣氏一族の氏上であった可能性が高いことは考慮すべきであろう(高島1997)。
しかし、この時期の藤原不比等と関連することでなお重視すべきものに、天平勝宝8年(756)6月、東大寺に施入された聖武天皇の遺品の中に、黒作懸佩刀一口がふくまれている。
これは「東大寺献物帳」に記された付記によると、
黒作懸佩刀一口(省略)右日並皇子常所佩持、賜太政大臣、大行天皇即位之時、便獻大行天皇、崩時亦賜太臣、太臣薨日、更獻後大上天皇
とある。
これは薗田香融氏が述べるように日並皇子は草壁皇子、大行天皇は文武と考えられ、皇太子の草壁皇子が常用した佩刀を藤原不比等に賜与し、その後、不比等がこれを草壁皇子の子の文武天皇に献上し、文武が没する際に不比等に賜与し、さらに不比等が没する際に皇太子の聖武天皇に献上したものである(薗田1992)。
草壁皇子は天武と皇后(持統)の間に生まれた皇子で、天武10年(671)に皇太子になった(註3)が、持統3年(689)4月に夭逝した。この草壁皇子が常用した佩刀を不比等に賜与したことは、不比等と深い親交があり(註4)、信頼していただけでなく、不比等がすでに少なからず国政にも参与し、後を託しうる者とみなされていたことを物語る。
 一方、この草壁皇子の夭逝と深い関連をもって建立された寺院としてよく知られるものに、大和の桜井市にある粟原寺がある。
この寺の塔鑪盤銘には、
  (前略)
 此粟原仲臣朝臣大嶋惶惶誓願
 奉為大倭国浄美原宮治天下天皇時
 日並御宇東宮敬造伽欖(中略)
 仰願藉此功徳
 皇太子神霊速証无上菩提果
とあり、夭逝した草壁皇子に対し、中臣大嶋が伽藍の造営を誓願したことを記している(岡崎1971)。
これまで草壁皇子のために、中臣大嶋が寺院造営を誓願した要因や経緯は特に検討されていないようであるが、これは前述したように黒作懸佩刀を草壁皇子から藤原不比等が賜ったことからすれば、藤原不比等こそ草壁皇子のために伽藍造営を誓願するのが、最もふさわしい人であったと思われる。
しかし、不比等による草壁皇子に対する寺院造営の発願は知られていない。そして、不比等と同族の中臣大嶋が皇子のために寺院造営を発願したことが知られることになる。
これは不比等がすでに天武9年(670)に天武天皇のために、藤原京に寺院の建立を誓願し、その造営を進めていたことから、重ねて草壁皇子を弔うために寺院を誓願することが叶わなかったのではないか。
そのため、藤原氏の傍系氏族である神祇伯の中臣大嶋が替わって誓願することになったものと推測される。
神祇伯の中臣大嶋は、持統天皇の即位の際に天ッ神の寿詞を読み上げており、不比等に替わる者として寺院を発願するのに相応しい者とみなされたのであろう。

6.雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦の導入

 紀寺の造営にあたって創出された雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦は、それまで飛鳥の寺院に葺かれてきた瓦当文様とは系譜の異なる文様である。
この瓦当文様は、どのような背景、あるいは系譜のもとに創出されたのか。これも、これまでの紀寺の研究では明らかになっていない難しい課題である。
 これまでの研究で知られるように、雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦は、大和・河内・山背・近江・越前・若狭・伯・耆・伊勢・三河・上総などの寺院から出土する。
これらの各地の寺院に葺かれた紀寺式軒瓦は、すでに岡本東三氏によって瓦当文様の詳細な比較検討が行われている(岡本1996)。
 ここでは、近畿での分布を概観したうえで、この形式の成立を考えてみることにしたい。
 大和では、飛鳥の紀寺のほかは、この形式の軒瓦を葺いた寺院は少なく、豊浦寺、飛鳥寺、川原寺から紀寺の同笵瓦が出土している(花谷2003)。
 河内では、九頭神廃寺・蹉跎廃寺・衣縫廃寺拝志廃寺・若江廃寺から出土する。
これらのうち◎九頭神廃寺からは、紀寺と同様の雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦のほかに、小さな中房と短い複弁八葉を配し、外区に重弁状の先端が尖る蓮弁をめぐらしたものがある(竹原1997)。
 和泉では和泉寺・土師廃寺・信太寺・秦廃寺から出土する。
 山背では法琳寺・醍醐廃寺・深草廃寺・がんせん堂廃寺・大宅廃寺・北白川廃寺・法観寺から出土し、雷文縁軒丸瓦が最も集中して葺かれた地域として注目される。
 また近江では、崇福寺宮井廃寺・千僧供廃寺、園城寺から出土する。
崇福寺は天智7年(668)に天智天皇によって勅願された寺院で、川原寺と同笵瓦が創建時に葺かれている。
雷文縁軒丸瓦は、それに続く時期のもので、北白川廃寺のものと同笵で、この北白川廃寺から搬入されたものとみなされている(網1994)。
宮井廃寺は金堂・塔・西方建物・北方建物が検出され、金堂の西南に塔を配した伽藍をもつ寺院である。
雷文縁軒丸瓦が4種出土しており、複弁八弁のもの2種、単弁十二弁のもの、細弁十六弁で、平坦な中房をなすものなどがある。
千僧供廃寺のものは、雷文縁の破片で詳細は不明である。
 以上のような雷文縁軒丸瓦の分布のうち、山背国では鴨川の東、宇治川の北に位置する宇治郡、紀伊郡に営まれた寺院は、大和から近江に至る交通路沿いにあり、さらに愛宕郡に営まれた法観寺、北白川廃寺の2寺は、敦賀へ抜ける古道沿いに営まれている。そして、このような紀寺式軒丸瓦をもつ寺院の分布をもとに、7世紀第4四半期にあたる持統期に、この地域での造寺活動に官の介入があったとする考えが提起されている(森1986)。
これらの山背の寺院のうちでは、大宅廃寺のほかに北白川廃寺のものがよく知られる。
この北白川廃寺は塔と東方基壇建物が検出されており、これらの堂塔の造営に葺かれた瓦類と生産過程が高橋照彦氏(高橋1992)や網伸也氏(網1994)らによって検討されている。
山背の雷文縁軒丸瓦は中房に蓮子を2重にめぐらすもので、これには中心の蓮子をもつ1+4+8の醍醐御霊廃寺・法琳寺のもの、中心の蓮子を欠き、3+8の大宅廃寺・北白川廃寺のものとがある。
これらと組合う軒平瓦は、大宅廃寺では重弧文と変形忍冬唐草文6646形式の2種がある。
北白川廃寺でも、2種の変形忍冬唐草文6646系のものが組合う。
いずれも変形忍冬唐草文軒平瓦は7世紀の第4四半期のもので、その時期に広まったものとみてよい。
 以上述べた近畿の雷文縁軒丸瓦のうち、様式的にみて紀寺に葺かれた軒丸瓦に先行する可能性をもつものには、近江の園城寺と河内の九頭神廃寺から出土したものがある。
大津市園城寺のものは、大きな中房と複弁を配し、外区に単線による蓮弁をめぐらす。
また、枚方市九頭神廃寺のものは、中房に1+4+8の蓮子をつけ、複弁八葉蓮華文を配し、外区に先端がわずかに尖る重弁状の蓮弁24個をめぐらすもの(KZM21)と、それに先行する小さな中房に1+6の蓮子をつけ、外区に先端が剣先状をなす重弁状の蓮弁16を配したもの(KZM22a・b)である(竹原1997)。
これらのうち、雷文の表現がらみると、九頭神廃寺の方が単線で表現した園城寺のものよりも紀寺のものに近い。
しかも、亀田修一氏によると九頭神廃寺のKZM22a・bのものは、朝鮮半島の慶州末方里寺跡に小さな中房に1+4の蓮子をつけ、短い複弁八葉を配し、外区に同様の長さの複弁を16めぐらしたものとよく類似するという(亀田1998)。
この末方里寺跡のものは8世紀のものとされ、九頭神廃寺の方が古いことになるが、新羅か高句麗で、これより古いものが存在する可能性が想定されている。
九頭神廃寺では、ほかに中房に1+6+12の蓮子をつけ、素弁六葉蓮華文を配し、外縁に珠文をめぐらした朝鮮半島の慶州付近出土のものと共通する瓦当文様のものもあり、いずれも朝鮮半島から7世紀後半に導入された可能性がきわめて高いものである。
このように、九頭神廃寺の雷文縁軒丸瓦KZM21は、外区の雷文の先端になお剣先状の表現をわずかとどめているのに対し、紀寺(小山廃寺)の雷文縁複弁蓮華文は先端を四角状に表現し、蓮華文も立体的に盛り上がりをもって製作されている(図7)。
 大宅廃寺出土の軒瓦:図6大宅廃寺出土の軒瓦網1999をもとに一部改変
 雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦の成立:図7雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦の成立筆者製作
 以上のように、九頭神廃寺と紀寺(小山廃寺)の雷文縁軒丸瓦を対比することによって、紀寺の軒丸瓦は北河内の九頭神廃寺の雷文縁軒丸瓦KZM21を導入し、しかも雷文の先端を四角形に表現して製作したものであることがわかる。
これは、どのような背景によるものか。
 九頭神廃寺からは、創建瓦の高句麗系軒丸瓦のほかに、新羅の瓦当文様の系譜をもつものも出土する。
また瓦積基壇が検出されていることからみて渡来系氏族の氏寺とみてよい。
河内を本拠地とした渡来系氏族の氏寺は少なくないが、紀寺(小山廃寺)が天武天皇あるいは鵜野皇后と関連をもって建立されたことを踏まえると、『日本書紀』欽明天皇23年7月己巳条に
(前略)今河内国更荒郡鸕鷀野邑新羅人之先也。
 (※更荒郡鸕鷀野邑:サララノコオリウノノサト)
と、更荒郡に鸕鷀野邑があったこと。
また、『日本霊異記』中巻第41に更荒郡馬甘里があったことが注目される。
さらに、『日本書紀』天武12年(683)10月己未条に
 三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・采女造・阿直史・高市縣主・
 磯城縣主・鏡作造、并十四氏、賜姓日連。
とあり、娑羅羅馬飼造、菟野馬飼造が改姓した記事がある。娑羅羅馬飼造は、『新撰姓氏録』に河内諸蕃として佐良々連を載せており、
出自百済国人久米都彦也
と記す。また、菟野馬飼造は前述した『日本書紀』欽明23年7月条のほか、『新撰姓氏録』の未定雑姓に宇努連として、新羅皇子金庭興之後也と記す。
 このように、鵜野讃良皇女は菟野、讃良の地と関連をもったことが想定され、ここを本拠とする氏族によって養育されたか、ことに所領または封戸をもったことが想定される(直木1998)。
これは皇女の母の遠智媛が蘇我氏で、渡来人と深いかかわりをもったことからすると、更荒郡を本拠地とした渡来系氏族の菟野馬飼連、娑羅羅馬飼連と強いかかわりをもった可能性が少なくない。
 古代の更荒(讃良)郡は、大阪府四條畷市、大東市西半、寝屋川市西半にわたる地域で、近年この地域では四條畷市中野遺跡の5世紀の井戸から馬頭骨、南野米崎遺跡の大溝で馬の歯、6世紀の清滝古墳群の周溝内の土壙から馬の歯、更良岡山古墳群の古墳周溝外の土壙から馬の歯、寝屋川市讃良条里遺跡の古墳時代の井戸から馬の歯、高宮八丁遺跡の古墳時代の河川から6世紀の馬の歯が出土した例などがあり、この地域に馬飼氏が居住したことは疑いないものとみられる(寝屋川市教委1998)。
しかし、交野郡にふくまれる九頭神廃寺を娑羅羅馬飼連、もしくは菟野馬飼連の氏寺とみなしうるかは、なお検討すべき余地がある。
そこで想起されるのは、『日本書紀』継体元年正月丙寅条に、臣、連らが三国に継体を迎えに出向いた際に、継体はなお疑いをもったが、河内馬飼首荒籠と面識があり、継体を迎える真意が伝わったことが記されている。
そして、継体が河内の交野郡樟葉宮に居したと記すのは、河内馬飼の本拠地が後の交野郡にあったことと関連する可能性が少なくない。
また、九頭神廃寺は軒瓦からみて淀川流域を本拠地とした初期の氏寺とみてよいこと、また瓦積基壇の建物が検出されていることからすると、この地域で最も優位にあった渡来系氏族の河内馬飼造の寺院にみなしうる可能性がきわめて高い。
さらに重視されることとして、『日本書紀』朱鳥元年(686)9月甲子条には、天武天皇が没した際に、大海宿禰が乳部のことを誄したのを筆頭に、諸王、宮内、大舎人、兵衛、内命婦、膳職が誄し、ついで太政官以下、法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、民官および諸国の国司、さらに大隅、阿多の隼人、大和と河内の馬飼部造が誄した。この誄では天武天皇の乳部の大海宿禰に始まり、終わりに渡来系氏族のうち倭馬飼造、河内馬飼造が鵜野皇后の乳部であったことから誄したものと理解される。
 このような天武の葬送における誄の記事を踏まえると、河内に本拠地をもつ馬飼氏のうち、最も優位にあった河内馬飼造の氏寺とみなされる九頭神廃寺の最新の雷文縁軒丸瓦が新造寺院(紀寺・小山廃寺)の造営に際して、鵜野皇后によって導入されたものとみて相違ないものと思われる。
そして、この新造寺院(紀寺・小山廃寺)に対する鵜野皇后(持統天皇)による関与が、雷文縁軒丸瓦の瓦当文様が一氏寺に葺かれた瓦当文様を超えて地方寺院にも葺かれることになった主要な要因であったみなされるのである。これは、官寺とはいえないまでも、まさに準ずるような性格をもって造営された寺院だったのである。

おわりに
 飛鳥にある紀寺(小山廃寺)は、その小字名から長いこと紀氏の氏寺とみなされてきた。しかも、この氏寺に葺かれた雷文縁軒丸瓦は広く各地の寺院に葺かれ、紀寺式軒丸瓦と呼称されてきた。
しかし、近年では紀氏の瓦当文様が広範に分布することに疑問がだされ、さらにこの廃寺の調査によって、藤原京の条坊の施工後に造営されたことが判明したことから、そのようにはみなしえないことになった。
 このような経緯から、ここでは藤原京の条坊に建てられた本薬師寺の位置との関連を特に重視し、また『日本書紀』天武9年11月丁酉条の記事に注目し、天武天皇の不予に対し、藤原氏によって誓願された新造寺院を推測した。
雷文縁軒丸瓦は山背では大宅廃寺に古式のものが葺かれた。この大宅廃寺はすでに山階寺、あるいは藤原氏の氏寺とみなす見解が山崎氏によってだされてきた。
その研究成果との関連からすると、大宅廃寺は鎌足が建てた精舎の山階寺を、新造寺院(紀寺・小山廃寺)の造営が一定の進展をみた段階で、本格的な寺院に修復、もしくは藤原氏の氏寺として造営した寺院の可能性が高いものと推測する。
また、新造寺院(紀寺・小山廃寺)が藤原不比等と持統天皇によって造営が進められたことが、この雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦が山背の宇治郡、紀伊郡、葛野郡の氏寺はもとより、さらに多くの地方寺院にも採用された要因とみなされるのである。

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奈良国立文化財研究所1976「本薬師寺西南隅の調査」『飛鳥・藤原宮発掘調査概報』6。
奈良国立文化財研究所1988「紀寺跡寺域東南部の調査」『飛鳥・藤原宮跡調査概報』18。
奈良文化財研究所2003「吉備池廃寺発掘調査報告―百済大寺の調査―」『奈良文化財研究所創立50周年記念学報』第68冊。
寝屋川市教育委委員会1998『歴史シンポジウム資料わが国最古の牧―北河内の馬飼集団を考える―』。
橋本義則2000「『藤原京』造営考―『藤原京』造営史料とその京号に関する再検討―」『研究論集』XI奈良国立文化財研究所学報第60冊。
花谷浩1995「寺の瓦作りと宮の瓦作り」『考古学研究』第40号第2号。
花谷浩2000「京内it四寺について」『研究論集』XI奈良国立文化財研究所学報第60冊。
藤田経世1972『校刊美術史料寺院篇上巻』中央美術出版。
福山敏男1948『奈良朝寺院の研究』高桐書店。
福山敏男1934「葛木寺及び廐坂寺の位置について―所謂大野丘
北塔址及び石川精舎址に関する疑問」『大和志』1巻3号。改題
「葛木寺と廐坂寺の位置―いわゆる大蜉丘北塔跡と石川精舎跡―」『日本建築史研究』所収墨水書房1968年。
森郁夫1986「古代山背の寺院造営」『学叢』第8号京都国立博物館。
森郁夫1991「紀氏の寺」『求真能道』巽三郎先生古希記念論集。
森郁夫1994「古代における同笵・同系軒瓦」『古代』第97号。
保井芳太郎1932『大和上代寺院志』。
薮中五百樹1997「興福寺の前身・山階寺と厩坂寺」(『仏教芸術』234号毎日新聞社。
山崎信二1995「藤原宮の時期の各地の造瓦」『文化財論叢』II奈良国立文化財研究所創立40周年記念論文集同朋社挿図出典一覧

 

 


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