備  前  八  塔  寺

備前八塔寺三重塔跡・十三重塔跡

備前八塔寺概要:八塔寺の属する国名については、中世の諸史料では 美作国とあるが、近世には備前国に属する。

2012/12/30追加:
◆「吉永町史 資料編」吉永町史刊行委員会/編、1984 より
多くの史料があるが、寺院史を良く表すものは以下であろう。
◇八塔寺寺地見取絵図
 八塔寺宝寿院明王院寺地見取絵図:文政12年(1829)、竹内敏朗氏蔵
◇宝暦13年(1763)「書上」
 一、八塔寺往古ハ聖武皇帝ノ為勅願所、・・・頼朝公御祈願、文治年中(1185-)ニ御建立、・・・・本塔(本堂)大破并十三重之塔、漸一重相残、畢竟堂塔共形計ニ相成居申候所、・・・・
 一、曹源寺様(池田綱政)御代ニ至て大破候ニ付、奉願上、宝永3年(1706)ニ只今ノ堂塔共ニ、御建被為遊候、・・・、
     宝暦13年(1763) 和気郡八塔寺常照院、同 明王院、同 宝寿院
◇天明6年(1785)明王院・宝寿院「口上」
 一、塔之本尊は千手観音菩薩にて御座候、・・・・
◇安政3年(1856)「八塔寺由緒覚書」
 一、・・・・・永正14年(1517)頃、赤松(赤松上総介政村)より三石(三石城主浦上掃部助村宗)攻之砌、・・・八当寺之山門ニ火を掛、・・・・其節伽藍不残焼失いたし、・・・同山(八塔寺)ハ往古・・・学侶八院、行人六十四坊有之候、・・・漸々三ケ寺と相成程衰微いたし、・・・・
 一、往古十三重之塔ハ、永正之火災ニも残り候哉、潰残り下一重計、寛永之末頃迄御座候由、老人共より・・若年之砌承り候由、・・・
 一、寛永三寅年(1626)宰相様御代、・・・御修復被為遊候、
 一、寺領御高36石4斗5升4合  内12石定(ママ)生院、10石明王院、10石真言院・・・・残テ4石4斗5升4合修理料
 一、寛政2年(1790)・・・常照院納屋より出火、堂塔寺院不残・・・焼失候、

八塔寺は、寺伝では、神亀5年(728)聖武天皇の勅願で、弓削道鏡が創建すると伝える。
2012/12/30追加:
◆「岡山のふるさと村」岡山文庫、巌津政右衛門、日本文教出版、1980 より
 八塔寺ふるさと村遺跡図:「古塔やしき」は大門の西方やや南にある。
2012/12/30追加修正:
◆「吉永町史 通史編2」吉永町史刊行委員会/編、2006 より
中世、平家滅亡の後、八塔寺は頼朝に八塔寺を祈願所として寄進することを申し出、頼朝はそれを了とし鎌倉幕府祈願所となる。
文治年中(1185-90)源頼朝の命により梶原景時(美作・播磨守護)が堂塔を造立する。
その後最盛期には坊舎72坊を数えると伝える。
 ※学侶坊8院、行人方64坊で構成され、学侶坊は、明王院・宝寿院・三宝院・弘法院・常照院・寂院・徳院・善院、行人方は浄徳房・法潤房・賢房・大善房・万代房・妙賢房・了得房・東南房などの名称が伝えられる。
しかし南北朝以降、たびたび兵火に焼かれ衰微する。
永正14年(1517)八塔寺合戦(小塩城主赤松政村と三石城主浦上村宗との戦)が行われ、八塔寺伽藍は「堂舎仏閣すべからす回禄せしむ」という状況になる。
天正年中、豊臣秀吉は知行500石を安堵、文禄4年(1596)には、宇喜多家より寺領50石の寄進を受ける。
 しかし、八塔寺は容易に再興ができず、漸く寛永3年(1626)池田忠雄の代、普請が行われ、同6年常照院(愛染院)、明王院、宝寿院(真言院)に知行が与えられる。(36石4斗5升4合の先例となる。)
その後、初代岡山藩主池田光政、梵鐘を寄進、宝永3年(1706)2代藩主池田綱政、八塔寺本堂と三重塔を再建する。
この池田綱政の再興伽藍は寛政2年(1790)の大火で焼失。その後本堂は再建されるも、三重塔の再興はならず、塔跡のみ残る。

近世初頭、八塔寺は常照院(愛染院)、明王院、宝寿院(真言院)の3院が再興される。
八塔寺は代々真言宗であったが、寛永6年(1629)当時無住であった常照院に天台宗の僧侶が入寺し、寛永10年(1633)八塔寺を真言宗より天台宗に改宗し紛糾する。
天保元年(1830)真言宗を維持していた明王院と宝寿院の2院は高顕寺と寺号を改め、現在に至る。(岡山藩寺社奉行石黒後藤兵衛の調停)
 (現在の高顕寺本堂が明王院で現高顕寺本坊が宝寿院である。)
2011/07/31撮影:
 備前八塔寺全景:写真右が八塔寺常照院、左は高顕寺本堂(明王院)、写真に写らないが右に高顕寺本坊(宝寿院)がある。
 八塔寺常照院全景      八塔寺常照院本堂     八塔寺常照院庫裏本堂    八塔寺常照院鐘楼:梵鐘は池田光政寄進の鐘か。
 高顕寺本堂(明王院)     高顕寺本堂山門      高顕寺本堂(明王院)      高顕寺(明王院)石垣    高顕寺(本坊)宝寿院
2012/12/30追加:
 八塔寺俯瞰:「吉永町史 通史編1」吉永町史刊行委員会/編、1990 より転載
  写真中央左端から一段ずつ上に、宝寿院、明王院、常照院の堂舎が写る。
2014/03/16追加:
◆「十三重塔の宝珠など」巌津白花(「岡山春秋」第6巻第6号、昭和31年 所収)
八塔寺常照院の縁起によれば、神亀5年(725)聖武天皇の勅願で弓削道鏡の創建という。和気氏の本場に道鏡が建立したというが、この頃はこの地方が美作に属していたのかも知れない。
その後衰微するも、鎌倉初期源頼朝の発願で、梶原景時が奉行となり十三重塔と七堂伽藍を再興し、坊舎72坊を擁したという。

備前八塔寺三重塔跡

三重塔は池田綱政により宝永3年(1706)建立され、寛政2年(1790)焼失、その後再興はなされず塔跡のみ残る。
現在八塔寺常照院の西裏手(高顕寺本堂裏でもある)に旧吉永町史跡として塔跡・礎石が残る。
塔跡に残る礎石は四天柱の礎石であり、元の位置であると云う。
四天柱礎石間隔は、4尺4寸(1.33m)で、等間の平面を持つとすれば1辺13尺2寸(4.0m)の三重塔と推定される。(あるいは礎石間隔は1.6mで、等間の平面を持つとすれば1辺約4.8mという計測数値もある。)
礎石は花崗岩製で、方1尺5寸5分、中央に方3寸深さ2寸の枘孔を穿つ。
さらに、四天柱礎石で区画される方形区画に多くの加工された花崗岩製の石が積み重なるように置かれる。この石は小型で、粗く四角に整形され中央に円孔を穿つものであり、その大きさ・形状から束石であろう。 しかし束石が中央に集められている理由は分からない。
 以上が概要であるが、しかしながら、この遺構を直ちに塔の遺構とするには若干の疑問がある。
即ち、脇柱が建つと思われる位置には四周とも全く礎石が見当たらないことで、明確に脇柱礎が全て除去されたと云う確証がない限り、塔遺構と断定する訳にはいかないであろう。
また、現時点では、どのような寺伝・伝承・古文書などに基づきこの遺構を塔跡とするのかの情報がなく、この点も塔遺構と断定するには躊躇せざるを得ない理由である。
 備前八塔寺三重塔跡1    同         2・・・X氏ご提供画像
2011/07/31撮影:
 備前八塔寺塔跡11      備前八塔寺塔跡12      備前八塔寺塔跡13      備前八塔寺塔跡14
 備前八塔寺四天柱礎1      備前八塔寺四天柱礎2    備前八塔寺四天柱礎3    備前八塔寺四天柱礎4
 備前八塔寺束石1         備前八塔寺束石2       備前八塔寺束石3       備前八塔寺束石4
2014/03/16追加:
◆「十三重塔の宝珠など」巌津白花(「岡山春秋」第6巻第6号、昭和31年 所収)
「山水奇観拾遺編」(未完、淵上旭江画:岡山市宮浦出身、国立図書館蔵)の画稿の中に「備前八塔寺」があり、これには三重塔の書き込みがある。(未見)
塔跡には四天柱礎と思われる礎石が4個ほぼ原位置で残る。礎石は花崗岩製で、方1尺5寸ばかりで、中央に方3寸深さ1寸5分の枘穴を彫る。しかし、側柱礎は全く残存しない。それは塔跡を整理する時動かしたものなのであろうか。
 八塔寺三重塔跡参考図
四天柱礎と思われる礎石(芯々)間隔は5尺2寸5分(1.6m)で、これを仮に復元すると初層の一辺は13尺2寸()四方の平面となろう。
 ※上図の中央間が5尺2寸5分であるのは実寸であるが、脇間の4尺4寸は仮のものである。

備前八塔寺十三重塔跡

2012/12/30追加修正:
◆「吉永町史 通史編2」吉永町史刊行委員会/編、2006 より
八塔寺十三重塔は源頼朝の寄進とも伝え、近世初頭まで存続するという。
しかし、腐朽し修理もままならなかったのであろうか、いつしか下一重の姿となり、それも寛永の頃には全く退転すると伝える。
 ※十三重塔は頼朝が寄進したとも云うが、史料的な裏づけを欠く。
享保10年(1725)頃、古塔屋敷と云う空地があったから十三重塔はそこに建っていたと推測される。
 八塔寺古塔屋敷:正面の高台の上で、今も古塔屋敷と呼ばれる。
※十三重塔頂上にあった青銅製の塔頭が高顕寺に残ると云う。「塔頭」とは「宝珠」である。但し、この宝珠は十三重塔のものではなく、二重以上が失われ、初重屋根を宝形造にしたときにその頂部に据えたものであろう。
また十三重塔礎石も残ると云う。(個数や真偽の程は不明)
 十三重塔宝珠:塔堂の宝珠
 十三重塔礎石:山門跡付近に移されていると云う。未見。
2014/03/16追加:
◆「十三重塔の宝珠など」巌津白花(「岡山春秋」第6巻第6号、昭和31年 所収)
常照院を南に下った低地は今何枚かの水田となるが、その一つに塔屋敷という地名が残る。ここに十三重塔があったと伝える。
この塔が木造であったのか石造であったのかは記録がなく不明であるが、木造と考えられる遺物として、十三重塔の宝珠(青銅製)と思われるものが宝壽院の宝物として保存されている。これは近くの九輪峠と呼ぶ畑の中で掘り出される。
高さは約1尺、最大径は9寸首の部分は径5寸長さ4寸を測る。重量は約3貫匁、鎌倉期を偲ばせる形である。

※「備前国絵図」に八塔寺が描かれる。
「備前国絵図」は多くの時代のものが存在するが、慶長もしくはそれ以前と推定される「備前国絵図」では八塔寺には七重塔が描かれる。
この七重塔とは良く分からないが、八塔寺には十三重塔がありあるいは今は上重を失うも十三重塔があったとの伝承があり、五重以上の多重塔の意味で七重塔を描いたのであろうか。
 備前国絵図:絵図の文字が読み取れないので詳細は不明であるが、七重塔の位置は八塔寺の南方にあるように見え、
 本当に八塔寺の塔婆を描いたものなのであろうか、判然とはしない。
  参考:
  木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
   山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺・備前八塔寺


2011/07/30作成:2014/03/16更新:ホームページ日本の塔婆