大  和  東  大  寺

東大寺東塔・西塔/概説/塔跡、東塔心礎・伝西塔心礎、戒壇院多宝塔(屋内小塔)、万博古河館相輪、天地院三重塔

東大寺東塔西塔

2006/06/10追加:
東大寺七重塔考箱崎和久より要約
  (「論集 東大寺創建前後」GBS(グレイト・ブッダ・シンポジウ)ム実行委員会、東大寺、法蔵館、2004年所収)

現在、大仏殿内部に創建時の東大寺模型が展示されている。
この模型は明治42年の日英博覧会に出展されたもので、伊藤忠太・関野貞の監修、天沼俊一の設計と云う。
 ※「1/50東大寺復元模型」の項(下に掲載)を参照。
箱崎氏論文は、この天沼氏設計の東大寺七重塔について、その後の研究成果及び発掘成果を踏まえ、評価並びに再考(再設計)を行ったものである。

東大寺東西塔の沿革:
天平勝宝4年(752)塔身の工事完了、天平宝宇6年(762)歩廊工事
天平宝宇8年(764)東塔露盤を上げる、西塔の竣工もこの頃か?
承平4年(934)西塔雷火で焼失。
天徳3年(959)西塔再興に着手した記事。
天禄2年(971)東塔火災。
長保2年(1000)西塔再興中に類焼。(2重目が完工したとき、興福寺喜多院の火災で類焼する。)
 ※その後再建計画はしばしば立てられたが、実現には至らずと云う。
寛弘元年(1004)、寛弘6年(1009)東塔修理。
治承4年(1180)平重衡焼討ちにより東塔焼失。
元久元年(1204)東塔再興始まる。貞応2年(1222)相輪をあげ、嘉禄3年(1227)回廊が完成。
安貞元年(1227)第3世大勧進行勇により東塔竣工。
仁治4年(1243)大勧進円淋西塔建立を願う。
弘安頃(1295頃)西塔仮葺き。(結局、西塔の竣工はなかったとされる。)
康安2年(1362)東塔雷火で焼失。
応永5年(1398)東塔再建に着手したが、ついに未完に終る。(以降東塔も再興されず。)
明治30年頃に心礎や礎石が失われる。(東塔か?)、西塔の心礎・礎石も亡失。

東大寺両塔の平面規模は尋常ではなく、かつ七重の大塔であったと伝えられる。
現在、東大寺両塔とも失われ、かつ七重の大塔の遺構も伝えられていない。
古の東大寺塔の復元に当っての史料は非常に限られ、特に鎌倉期までの史料は僅かに以下が知られるのみと云う。
東大寺塔の史料:
1)「大仏殿碑文」(東大寺要録・巻2)
  東塔高23丈8寸、西塔高23丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2分・・・
2)「東大寺要録・巻4」
  1.東塔院 七重宝塔1基 高23丈8寸・・・天平勝宝5年・・建立。
  1.西塔院 高23丈6尺7寸 天平勝宝5年・・建立
    長保2年・・西塔三重并正法院焼亡、興福寺喜多院焼亡火移也、又承平4年・・東大寺西塔焼亡。
3)「東大寺権別当実忠29个条事」(東大寺要録・巻7)
  1.構−上東塔露盤事 高8丈3尺、第1盤径1丈2尺、・・・・
4)「朝野群載」巻16
  塔2基 並七重 東塔高33丈8尺7寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2分、・・・・
5)「碑文」(扶桑略記)
  建塔2基、並七重、東塔高33丈8寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2分、・・・・
6)「南都七大寺巡礼記」(管家本「諸寺縁起集」)東大寺部分は長禄元年(1457)頃成立か?)
  東塔1基 高23丈8尺、古伝如云、或36丈云、七重5間、・・・
  西塔1基 ・・・・承平4年・・雷火云々
    ※なお「南都七大寺巡礼記」の東大寺部分の著者は興福寺大乗院尋尊とも云われる。
7)天平宝宇6年「造東大寺司解」
  高さなどの記載ないため省略
8)正応2年「東大寺修理新造等注文案」
  高さなどの記載ないため省略(内装記事)

天沼氏は史料1)〜3)および 6)を参照し、
塔身の高さ23丈余りに露盤(相輪)の高さ8丈3尺を加え、塔高を31丈余りと復元する。
一方足立康は「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」や「薬師寺縁起」などの塔の寸法記載例から、塔身と相輪を二分する記載例は無く、総高を記載した後に細部の寸法を記載するのが自然とする。
 これを東大寺塔に当てはめると、総高23丈で相輪8丈3尺を引くと塔身は14丈余りであり、このバランス(相輪比65%)はありえないため、史料4)、5)の33丈余りが総高であろうとした。(史料の23丈云々は誤記ということになる。)
いずれにしろ、総高は31丈あるいは33丈となり、東大寺塔は約100m(弱)と云われてきた。
これらの説が定説化し、東大寺塔は高さ約100mであるというのが定説となる。

 ○塔の立面比較; 右図拡大図

右図中:左図は天沼案東大寺塔立断面図
その右図は山城教王護国寺塔
さらにその右図は元興寺小塔を10倍した立面図

 

天沼案東大寺七重塔復元過程:
もう少し天沼氏の復元過程を詳しく考察すると、
平面規模の復元で、天沼氏は絵図を参照するが、この絵図は
「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」(作成:江戸初期と推定される?)であることは間違いなく、
ここでは
東塔は3間四方で、方8間半、西塔は5間四方(但し側廻りのみ)、方8間と記載される。
 東大寺寺中寺外惣絵図并山林(部分)
しかし、天沼氏は「東西で柱間を異にし」「参考に供するを得」ないと切捨て、平面の確定を現地に求める。
明治42年天沼氏は塔跡を実測、すでに礎石は無く、礎石抜取り穴が残るのみで、復元は困難を極めたという。
東塔の方が比較的抜取り穴の残存状況が良好で、ここから初重平面は一辺54尺(天平尺55尺)と復元する。
また東塔跡南面には石段耳石及び基壇羽目石が若干残存し、これより石階内法幅を30尺とする。
塔身は23丈8寸、相輪は8丈3尺としたのは前述のとおり。
 立面については、大和当麻寺東塔を参考にして、幾何学的方法で決定した。相輪は第1輪の径1丈2尺を用いる。

 天沼案東大寺塔立面図:当麻寺東塔をベースに幾何学的方法で求めたものとなる。
 天沼案東大寺塔平面図:方3間、四天柱ありと通常の規模の五重塔あるいは三重塔の平面を引継ぐ。

おおよそ以上を根拠にした天沼復元塔には、現在の学問・知識から、次の問題点を抱えると思われる。
最も問題となるのは各重の軒の出が25尺以上となる。
例えば初重の軒の出は約27尺で、初重の地垂木は四天柱上まで引き込まれ、しかも傾斜を持つため、40尺程度の材尺となる。また隅木は最低でもそのルート2倍(約1.4倍)となるので56尺程度の材尺となる。
果たしてこうした長尺の材の入手が可能なかどうか、また仮に可能としても強度の点で現実的なものなのかどうか、冷静に考えれば、やはり現実的なものではないであろう。
また、奈良期の建築には中世以降に出現する野小屋は設けないため、特に最上階の屋根勾配は(元興寺五重小塔のように)緩勾配にする必要があるだろう。 (天沼案復元塔が中世・近世風なのは、多くはこの屋根勾配に起因するとも思われる。)

古代の塔の平面的特徴:
 現存する木造塔は総て方3間で、裳階を廻らす場合(法隆寺塔・薬師寺塔)もある。
柱間については、中央間は両脇間より広く取る場合が多い。
古代の塔の断面の特徴:
 三手先組物を備えることが一般的であり、肘木は建物内部で水平に延び対辺の組物と連結し、全体は井桁状に組まれ、その交点は四天柱が支持している。上重の側柱は通常隅木や垂木の上に渡した柱盤に立て、四天柱も隅木や地垂木の尻に立てる。・・・
 山城醍醐寺塔断面図
          典型例として、例えば、醍醐寺五重塔(平安初期建立 )の醍醐寺の断面図を示す。
 ところで上重では平面が小さくなるため、隣り合う組物が衝突する。そのため法隆寺塔・法起寺塔・薬師寺塔・当麻寺塔(この塔は2重も2間) に見られるように、最上重を2間とすることがある。
但し2間にした場合、中心には心柱があるため(心柱は独立して立つ)内部に引き込んだ組物の横材が対辺の横材と十分な組み合わせが出来ず構造上の弱点となる。
 天沼案七重塔では六重・七重を2間とするが、七重でも一辺30尺で、この一辺は興福寺塔初重一辺を上回り、現実には構造として無理であろうと思われる。現存する2間の割付で最大の一辺は当麻寺東塔ニ重の一辺14尺で、平面が小さい故に2間の構造が可能と思われる。
発掘された古代の塔:
 7世紀以前の塔は吉備池廃寺・大官大寺を除けば、概ね現存塔と同じ規模の平面であり、その姿は現存塔とはそんなに差があるとは思われず、現存塔から推測可能であろう。
 一方、奈良期の国分寺塔は七重塔が多く建立されたと思われ、また平面規模も豊後国分寺37尺、上野・相模・伊豆・美濃各国分寺は36尺、武蔵33尺、遠江32尺、山城32尺、河内34尺、丹波31尺、但馬33尺、播磨31尺、紀伊31尺、伊予34尺、若狭27尺、三河30尺、伯耆24尺、筑前30尺、薩摩18尺などであり、東寺五重塔初重平面31,3尺と同等もしくはそれ以上の平面規模を持つ塔が多く建立された。しかしいずれの塔も初重方3間の塔であった。
 東大寺塔復元に参考となるであろう超大型塔の状況、発掘調査の進展で、学問的知識は大幅に増えたと思われる。
1998年に発掘された吉備池廃寺塔跡は基壇規模約32m(106尺)、心礎抜取穴は6.7×5.4m以上であり、規模・瓦の編年・瓦の出土状況が短期間での移建を示すことから、吉備池廃寺は舒明天皇発願の百済大寺の可能性が非常に大きいとされる。 (吉備池廃寺の性格については「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」木下正史、角川選書、平成17年などに詳述がある。)
発掘調査遺構図のように、この塔は方5間の可能性が大きいと思われ、また四天柱に相当する部分には礎石があった痕跡は見当たらず、さらに「巨大心礎」上に四天柱を立てた可能性も四天柱想定位置から心礎位置は外れていて、その可能性は無いと思われる。
「日本書記」「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」の記録では、百済大寺には九重塔の存在が知られ、この塔跡は九重塔の可能性が非常に高い。
 塔の平面比較
  日本の塔では吉備池廃寺(基壇一辺約32m)東大寺西塔(基壇一辺約23.8m)大官大寺寺塔(基壇一辺約32m?)
  が群を抜く。北魏・新羅の巨大木造塔の平面はいずれも、方5間以上の平面を持つ。
  近年明らかになった大和西大寺西塔は基壇一辺約21mで、方3間の平面を持つ。
  この例が現在知られている方3間の塔の最大規模の例である。
    □参考:大和大安寺
 1987年に発掘された大官大寺の塔跡は方5間の平面を持ち、中央には径5.5mの心礎抜取穴が確認され、6ヶ所の礎石抜取穴が確認された。ところが四天柱礎石抜取穴は確認されてはいない。
 大官大寺塔跡発掘遺構図:1979発掘調査図
 岡本桃里の塔跡図:明治初頭に描いたという 。但し若干の不正確性もあると云われる。
   方5間の礎石が完存していたと思われるも、四天柱礎は描かれていない。
 明治22年橿原神宮造営用材として大官大寺礎石が持ち去られる。
 本澤清三郎の実測図: 明治37年
   礎石が一部抜かれた様子が描かれているが、四天柱礎は描かれていない。
 (大官大寺は百済大寺の後継寺院で、「続日本記」「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では九重塔があったとされる。)
以上の記録では、四天柱礎はなかったと思われるが、これは
明治以前に四天柱礎のみが総て抜かれたと考えるより、四天柱礎は最初からなかったと考える方が自然であろう。
 (さらに大官大寺は平城京に移り大安寺となる。)
2003年の大安寺西塔跡発掘調査では、西塔は方3間の平面で、中央間14尺両脇間13尺一辺40尺、基壇規模は70尺四方と確認され、現在柱間規模が確認できる塔跡では最大規模の塔とされる。
保延6年(1140)「七大寺巡礼私記」では東塔は瓦葺七重塔、西塔は礎石のみ残存という状況であった。
なお東大寺西塔跡の小規模トレンチ(1964年)では東北隅・西南隅で地覆石・延石が確認され、基壇規模は23.8m(80尺)と確認されている。これは基壇規模が確認できた塔跡では最大規模とされる。
    □参考:「亡失心礎」の「大和大官大寺」の項を参照 。

七重塔再考:
以上の批判及び現在の知識から、箱崎氏は以下のように東大寺塔の復元を試みる。

上述の史料:6)「南都七大寺巡礼記」(管家本「諸寺縁起集」)東大寺部分は長禄元年(1457)頃成立か?)では
 東塔1基 高23丈8尺、古伝如云、或36丈云、七重5間、・・・との記載がある。(蓋し平面5間とする唯一の史料である。)また「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」では西塔の平面を側柱だけの描写ながら方5間とする。
東塔は平安期の焼失の後、再興されたが、西塔の再興は造作に取り掛かったが終に再興されることは無く、通常塔の基壇化粧は塔完成後に施工されると思われ、それ故 塔跡は創建時の形態を東塔跡に比べて、より良く残していると考えられる。
以上であるならば、その西塔が方5間で描写されているのは無視はできないであろう。
 しかし当然ながら、このことは方3間の塔で裳階付きであった可能性は捨てきれないし、また同じ東西塔である春日東塔は裳階付きであったが春日西塔は裳階なしの方3間であった例もあり、東大寺西塔を裳階付きの方3間の塔に復元は可能で あろう。
しかし、ここでは上記の史料に基づき、あえて方5間で復元を試みる。

 平面規模について、「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」 (部分)では、8間半四方(東塔)8間四方(西塔)とあり必ずしも明確ではないが、一辺50尺前後であることは間違いなく、天沼氏の実測値55尺四方が妥当と思われる(天沼氏実測値を尊重)。
柱間は方5間以上の塔では大官大寺のように等間隔とすると思われるため、柱間は11尺等間隔と想定する。
(但し柱間11尺というのは狭いというのも事実であろう。)
また大官大寺・百済大寺(吉備池廃寺)のように、方5間の塔では四天柱のない可能性も考慮しなければならない。
立面を考慮する上で、七重塔、九重塔のプロポーションは、韓国・慶州市の南山塔谷第ニ寺址に彫られた線刻に見られるように、いずれも大きな逓減を示すことが参考になろう。
  南山塔谷第ニ寺址石刻
また古い塔の特徴として、塔身に対する相輪の比率が大きいという可能性が強いことも顧慮する必要があるであろう。

 以上から元興寺小塔をモデルとして立面や構造を復元することにする。
元興寺小塔は東大寺創建塔との時代も近く、またこの小塔を10倍すれば実際の建築が可能になっているといわれるように、内部構造もその当時の忠実な1/10の 建築模型と考えられるからである。
元興寺小塔は平面が1.1尺の等間隔(方3間)で、10倍すれば11尺の柱間になる。
従って元興寺小塔を10倍して実寸法にし、その上でこれを方5間に引き直し、七重を重ねたものとして構想した。
柱間は5重まで方5間、6・7重を方3間と想定した。方4間の偶数間では心柱が邪魔をして構造的に無理が生じる。
内部構造は平面を総柱(案1)とすることも、四天柱の無い構造(案2)とすることも可能であろう。

箱崎案東大寺七重塔:左図拡大図

左:断面図
 案1:初重平面を方7間の総柱
 案2:初重平面の四天柱を抜いた案である。

右:立面図

この案では、
総高が224尺(22丈4尺・67m)程度、相輪は74尺(22m)程度となる。
この相輪高は単純に元興寺小塔を10倍した値であり、実際は史料1)3)4)5)より相輪高は83〜88尺である可能性が高い。
相輪高はこの寸法だとすると、相輪部分のみ1,2倍すれば、史料の相輪高に合致する。
この場合、総高は237尺(約70m)ほどとなり、
史料の23丈6〜8尺の総高とほぼ一致する。

以上のように、箱崎氏は最新の研究成果および史料を取り入れ、先学の天沼氏の復元案を詳細に検討し、
天沼氏とはちがった、初重平面5間四方、軒の出のやや浅い、逓減率の大きい、総高約70m(相輪約26m)の全く新しい復元案を提示した。
  天沼案・箱崎案の比較
   左;天沼案、中央:天沼案では軒出が大きすぎるため軒出を20尺にして再上重の屋根勾配を緩くした案、右;箱崎案
乱暴に表現すれば、天沼案では古制を踏襲した近世の五重塔の拡大版のイメージであり、その意味では見慣れたプロポーションではあるが、構造上実際の建築物として成り立つのかどうかは疑問でもあった。
箱崎案では、総高は従来説より3割程度低くなり、プロポーション的にはやや寸胴のイメージに変更されたが、大官大寺などの遺構の検討により、より現実的な建築可能な形として復元できたものと評価できる。
巨大な平面を持つ七重塔・九重塔は平面5間で、近世の五重塔の引き伸ばしではない、単純に云えば、元興寺小塔を平面5間に組み直し、七重に積み重ねる構造として、具体的にイメージ可能となったと思われる。

 東大寺七重塔復元図(2003/2/22大安寺発掘調査現地説明会資料より) ・・・天沼案。

2017/01/14追加:
○2016/12/20日「東大寺東塔イメージ図」が発表される。(翌21日報道各社が一斉に報ずる。)
イメージ図はイラスト画であり、イラストは北野陽子氏作画であり、作成主体は「東大寺東塔建築についての検討会」である。
◇各社報道の要旨は次の通りである。
イラスト画の前提として、発掘調査の知見が反映されたという。
その発掘調査の知見とは、東塔の創建時基壇は方24.2m、高さ1.77mで、初重平面は5間と判明する。
また基壇石階の位置も確定されたということである。
さらに、塔の高さについては、平安期の文献に「23丈(約70m)」と「33丈(約100m)」の記述があるが、高さ約100mを前提としてイメージ画を作成したという。
各重の意匠については、奈良期の元興寺五重小塔を参考にし、『「東大寺東塔建築についての検討会」によると、塔が縦に間延びして見えるのを防ぐため、各階にある高欄を複雑な造りにし、初重には裳階を付けて外観を工夫。主要部材は、古代の寺院や宮殿で一般的に塗られた赤色とした。』という。
 ※高さに関する諸記録は、前述の通りであるが、再度、「奈良歴史漫歩 No.060 大寺東西塔の復元」橋川紀夫 からの引用で示せば次の通りである。
 『東大寺要録』では、東西塔について次のように記す。
 塔2基、並7重、東塔高23丈8寸、西塔高23丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸(以上巻第2)
 東塔院、7重宝塔1基、高23丈8寸、塔内安四方浄土、在回廊
 西塔院、高23丈6尺7寸(以上巻第4)
 露盤1具、高8丈3尺、第1盤径1丈2尺(以上巻第7)
 しかし、『朝野群載』では、東塔高33丈8尺7寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸、
 『扶桑略記』では、東塔高33丈8寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸と記される。

さらに
西塔と東塔との初重平面柱間の相違については、次のような慧眼を示す。
 「江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」には、東西の塔跡が回廊とともに描かれる。東塔が柱間3間四方で四天柱もあり「8間半四面」と記す。西塔は柱間5間四方の側柱のみを描き、「8間四面」とする。明治の調査よりも300年前の観察であり、残存状態も明治期よりも良かっただろう。
 東塔と西塔で異なっているのが注目される。東大寺は鎌倉の復興期に新しい建築様式を大胆に採用したから、東塔にも変更の加えられた可能性が高い。結局再建されなかった西塔が、奈良時代創建期の遺構を保っていたとも考えられる。」
と。
 つまり、奈良期創建時の平面の柱間は、東西両塔とも、方5間であったのだ。しかし、東塔は鎌倉期の再建にあたり、大胆に新様式を採り入れたから、平面は5間ではなく3間で再建されたのであろうと。江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」の礎石描写はまさに以上のことを正確に写して(記録して)いるのであると。
 東大寺東塔(奈良期)イメージ画:初重・2重・3重は平面方5間、4重・5重は平面方4間、6重・7重は平面方3間、初重は裳階付、各重の高欄は 出組(と思われる)で支持する構造とする。

1/50東大寺復元模型:東大寺大仏殿展示、創建時推定復元模型など

東大寺復原模型

2006/06/17撮影:
 東大寺復元模型1:左図拡大図
 東大寺復元模型2
2015/11/21撮影:
 東大寺復原模型41
 東大寺復原模型42
 東大寺復原模型43
 鎌倉再興南大門模型
 創建大仏殿模型
 鎌倉再興大仏殿模型1
 鎌倉再興大仏殿模型2
 江戸再興大仏殿模型1
 江戸再興大仏殿模型2

 

東大寺七重塔西塔模型

2006/06/17撮影:
 西塔模型1
 西塔模型2:左図拡大図
 西塔模型3
2015/11/21撮影:
 西塔模型41
 西塔模型42

東大寺七重塔東塔模型

2006/06/17撮影:
 東塔模型1
 東塔模型2
 東塔模型3:左図拡大図
 東塔模型4
 東塔模型5
 東塔模型6
2015/11/21撮影:
 東塔模型41
 東塔模型42
 東塔模型43
 東塔模型44
 東塔模型45

東大寺東塔心礎

「日本の木造塔跡」:
南大門を入って右手に「西南役陣亡陸海軍人の碑」(明治26年建立)がある。
この碑の土台には多くの石が積み上げられている。その中に東塔心礎と推定される礎石が2つに割られて混ざる。
2つを合せると、
出枘の径は99cm・高さ29cmで、さらに出枘の上に幅15〜9cm高さ9cmの突起がある。
 ※出枘の上の楔状の突起は、その例がなく、どのような性格のものかは良く分からない。
柱座と思われる平滑な面も認められ、その径は185cmと推測される巨大な心礎の残欠である。
心礎残欠の外に数点の側柱礎と思われる礎石も混在する。
 (心礎を割り、石碑の台石として積上げ、この碑の建立は無残さを絵に描いたような情景である。)
 西南役陣亡陸海軍人の碑
 東大寺東塔心礎1       同       2        同       3        同       4        同     礎石

2006/06/17撮影:
 ●西南役陣亡陸海軍人之碑

心礎残欠(出枘2/3残)は碑の基壇上にあり、
碑の台石の一部に転用

心礎残欠(出枘2/3残)1
心礎残欠(出枘2/3残)2
       :上図拡大図
心礎残欠(出枘2/3残)3
心礎残欠(出枘2/3残)4
心礎残欠(出枘2/3残)5

心礎残欠(出枘1/3残)は碑の基壇裏の
石積中段にある

心礎残欠(出枘1/3残)1
:基壇裏面2重目に1/3残欠が嵌められる。
心礎残欠(出枘1/3残)2
心礎残欠(出枘1/3残)3
心礎残欠(出枘1/3残)4
       :上図拡大図

上記、2つの心礎残欠(出枘部2/3残と1/3残の2個)を合せると、心礎出枘が復元される。
出枘周囲も殆ど割られているが、柱座と推定される削平面も明確に残る。
この心礎を東大寺東塔心礎とする根拠は、この心礎が巨大であることと東塔とこの石碑の位置が隣接していることに依る。

□碑基壇などに転用礎石:2006/06/17撮影
  碑参拝台転用礎石    碑基壇転用礎石1     碑基壇転用礎石2

2012/02/07追加:
「奈良市付近の石造物(石造物の石材研究V)」奥田尚、考古石材の研究会、2011 より
「西南役陣亡陸海軍人の碑」は谷川喜六が明治26年に建立する。
喜六氏は西南戦争(明治10年)戦没者と軍艦千島(明治25年瀬戸内海で商船と衝突沈没)殉職者と喜六氏亡父50回忌を東大寺大仏殿で営み、それを紀念してこの慰霊碑を建立すると云う。
 なお、この碑の南側の建物の庭には造出を持つ多くの転用石(置石・沓脱石)がある。これ等の柱座径はこの碑にある礎石の造出の径よりはるかに大きいものが多い。この庭園内にある礎石の方が東塔礎石と見る方が合理的であろう。(建物名称不明・未見)
 心礎:碑の基壇後方の積石の中と供養碑の台の部分に東塔心礎の残欠があると云われる。この2つの石材は「片麻状斑状黒雲母花崗岩HC」で、岩相は同一である。産地は加茂町大野山付近が想定される。
 慰霊碑石材分布図
2012/01/28撮影:
 東塔心礎残欠(出枘2/3)11     東塔心礎残欠(出枘2/3)12     東塔心礎残欠(出枘2/3)13
2012/02/26撮影:
 出枘1/3残欠:東塔心礎残欠(出枘1/3)21     東塔心礎残欠(出枘1/3)22     東塔心礎残欠(出枘1/3)23
           東塔心礎残欠(出枘1/3)24
 出枘2/3残欠:東塔心礎残欠(出枘2/3)21     東塔心礎残欠(出枘2/3)22
なお、直ぐ上の論考で云う「南側の建物」とは本坊のことであろうか。本坊は立入が不可で、門外からの観察は可能であるが、門外から見える範囲では礎石らしきものは見当たらない。
2015/11/21撮影:
 心礎残欠(出枘1/3)41    心礎残欠(出枘1/3)42    心礎残欠(出枘1/3)43    心礎残欠(出枘1/3)44
 心礎残欠(出枘2/3)41    心礎残欠(出枘2/3)42    心礎残欠(出枘2/3)43    心礎残欠(出枘2/3)44
 心礎残欠(出枘2/3)45    碑基壇転用礎石41

東大寺西塔心礎

東大寺西塔心礎と云われる礎石が以下3箇所にある。
1)奈良依水園伝東大寺西塔心礎(2/5残欠)
 ※残欠ではあるが、礎石の巨大さまた残存する柱座の大きさから、東大寺西塔心礎である可能性はかなり高いものと思われる。
2)大阪旧藤田男爵邸(現太閤園)東大寺伽藍石
 ※この伽藍石は依水園の2/5残欠に見合う3/5残欠との見解もあるが、3/5残欠には該当しないと思われる。
  形状および大きさから判断して、東大寺東西塔いずれかの側柱礎石の可能性が高いと思われる。
3)大阪旧藤田男爵邸(現藤田美術館)伝東大寺東塔あるいは西塔心礎あるいは東大寺塔礎石
 ※大きさから判断して、東大寺塔の心礎ではなく、東大寺側柱礎の可能性が高いと思われる。

1)奈良依水園伝東大寺西塔心礎(西塔2/5残欠と伝承)

2012/01/28追加:「X」氏情報並びにご提供画像
●「石造物の石材研究T」 より
「奈良盆地東南部の中・近世石造物(石造物の石材研究T)」考古石材の研究会、奥田尚、2009
 (※およそ以下の内容の記載があると云う。<未見>)
依水園にはいくつかの礎石が搬入される。
その1つには東大寺西塔心礎の伝承がある。この礎石は、全体の2/5しかなく、残り3/5は大阪の太閤園に運ばれている。
 (依水園・後園の池の畔に巨大な柱座をもつ礎石の残欠がある。)
また、この近くにある柱座を持ついくつかの礎石も東大寺西塔から運ばれたとの伝承がある。
●2012/01/21「X」氏撮影画像:

・依水園伝東大寺西塔心礎(2/5残欠)

依水園伝東大寺西塔心礎1
依水園伝東大寺西塔心礎2:左図拡大図
依水園伝東大寺西塔心礎3

2012/02/02追加:
●「奈良市付近の石造物(石造物の石材研究V)」奥田尚、考古石材の研究会、2011 より
 依水園石材配置図
9-伝東大寺西塔心礎、10、11、12,13-伝東大寺礎石、14-奈良期の礎石(造出あり、未見)、東池中島にも造出を持つ礎石がある。
なお、伝東大寺心礎や礎石には異論を唱える説もある。
伝東大寺西塔心礎:
 「この造出を持つ石は西塔の心礎で2/5に相当し、残り3/5は藤田男爵の庭(現太閤園や藤田美術館)に運ばれている」と説明される。
この心礎の割面は自然に生じたようで、矢穴のような痕跡が見られない。上面には造出の縁の部分が僅かに残る。
石材は推定・岩淵川付近で採取された石(片麻状細粒黒雲母花崗岩TY)である。
   
※上記の「説明」とはどのような「資料」に基ずくものなのかは全く言及がなく、分からない。
●2012/01/28撮影:

・依水園伝東大寺西塔心礎(2/5残欠)

依水園伝東大寺西塔心礎11
依水園伝東大寺西塔心礎12
依水園伝東大寺西塔心礎13
依水園伝東大寺西塔心礎14
依水園伝東大寺西塔心礎15:左図拡大図
依水園伝東大寺西塔心礎16
依水園伝東大寺西塔心礎17
依水園伝東大寺西塔心礎18

●依水園伝東大寺西塔心礎実測
礎石最大巾290cm、礎石の高さは凡そ160cm内外、残存する柱座径155cm、柱座高さ12cm
 依水園伝西塔心礎実測図
この残存する残欠の巾が3mに近く、完形であれば3mを越えると推定され、その高さも160cm内外で巨大である。
また残る柱座の径が155cmであり、おそらく完形であれば2mに近いものと推定される。
この礎石の出枘もしくは枘孔は中心部が残存しないので全く不明ではあるが、この大きさから、東大寺西塔心礎の残欠である可能性が かなり高いものと思われる。

◎なお、現太閤園にあると説明される「残りの3/5の残欠」は現存しないと思われる。
 その理由については、下の2)現太閤園伝東大寺伽藍石の項で述べる。

●依水園のその他の遺物:2012/01/28撮影:
 依水園風景・礎石:手前は伝心礎、中央に礎石があり、すぐ上やや左にも礎石が写る。上方右屋根は東大寺南大門
以下の写真の礎石は西塔礎石とも云われるが、東大寺西塔礎石とするには小さすぎ疑問であろう。
 伝西南院礎石10-1:岩質は「片麻状細粒黒雲母花崗岩TY」と報告される。     伝西南院礎石10-2:後方は伝心礎
 伝西南院礎石10実測図:大きさは凡そ径150cm高さ凡そ100cm、柱座径100cm高さ10cmを測る。
 伝西南院礎石11-1     伝西南院礎石11-2    
 伝西南院礎石11実測図:径105cm高さ10cmの柱座を持ち、柱座内に径88cmの巾2cmの浅い溝を廻らし、中央に径25cmの出枘の痕跡を残す。出枘は完全に削平され痕跡のみ残る。
 伝西南院礎石-中島
 伝西南院礎石12      伝西南院礎伝13
 伝大和郡山城蹲:大和郡山城豊臣秀長の茶室にあったものと伝える。菊と桐を重ね合わせた文様が表裏2面刻まれ、一方は菊が上にもう一方は桐が上になるように刻まれる。
 美術館入口礎石:造出があると云う。<未見・写真なし>

●依水園での聞き取り(依水園関係者・男性、2012/01/28)
1.2年程?前、NHKの番組で依水園の照会が放映された。庭師が出演。
庭師いわく、全国放送なので「嘘は云いたくない」とのことで、伝東大寺西塔心礎について依水園としても橿原考古研に調査を依頼した。
その結果は、確たることは云えないとのことであった。
2.残り3/5については太閤園にも問合せをした。
太閤園の回答は「その礎石は手水鉢に改造した」とのことであるので、太閤園にあるのではないかと思う。
3.伝西塔心礎以外の礎石は西南院(東大寺)の礎石と伝わる。
 (・・・※確証があるわけではなく、後園が西南院跡といわれるからであろう。)
4.現在東大寺において、東塔の再興が企図されている。

●依水園略歴
前園は、興福寺摩尼珠院の別業の地と云う。(「奈良坊目考」)
延宝年中(1673-)奈良晒業者清須美道清の別邸として造営される。
後園は、明治32年、奈良の富商、関藤次郎の手により造園される。
昭和14年、神戸の海運業中村家の所有に帰す。昭和44年、中村家蒐集美術品を展示する寧楽美術館を建設し、て一般公開する。

2)旧藤田男爵邸・現太閤園所在・伝東大寺礎石(西塔3/5の部分とも云われる。)

◇2011/04/25追加:
太閤園発行のチラシ(Taiko-en Garden Overview・太閤園庭園のご案内)に「大伽藍礎石・東大寺塔礎石」の紹介がある。
太閤園は藤田観光の経営で旧藤田男爵邸の一部である。
 東大寺大伽藍礎石:「Taiko-en Garden Overview」より転載
  紹介文:Daigaran Foundation Stone(大伽藍礎石)
   Laid during the Heian Period. (平安期作)
   There are no existing records Indicating whether this was for Todaiji's east or west Pagoda,
    but it is certainly one of Japan's oldest remaining Foundation Stones.
   (東大寺東塔の礎石なのか西塔のそれなのかは記録が無く不明であるが、日本最古の礎石の一つである。)
写真で見る限り、出枘式の礎石であろう。表面に円穴が彫られるも、後世の加工であろう。
大きさなど不明であるが、おそらく巨石であり、東大寺塔の礎石に相応しいものであろう。
 東大寺伽藍石所在場所:写真の(2)の場所に東大寺大伽藍礎石がある。
◇2011/06/25撮影:

礎石は花崗岩で、上面に柱座と左右の2方向に地覆座を造り出し、柱座の中央に出枘を繰出す。
礎石実測値:大きさは差渡し250cm、柱座の上面の直径は160cm、出枘の径は40cm。(何れも概数)
藤田美術館のある出枘を持つ礎石に匹敵する大きさと高度な加工が施された礎石である。大きさや造作から見て東大寺塔礎石であっても不思議ではない。
但し藤田美術館蔵の礎石とは、柱座の径や出枘の径の大きさが違い、藤田美術館蔵礎石とは別の塔の礎石のように思われる。

 伝東大寺塔礎石1
 伝東大寺塔礎石2
 伝東大寺塔礎石3:左図拡大図
 伝東大寺塔礎石4

◇2012/02/02追加:
●「奈良市付近の石造物(石造物の石材研究V)」奥田尚、考古石材の研究会、2011 より
伝東大寺西塔心礎:
「奈良依水園の造出を持つ石は西塔の心礎で2/5に相当し、残り3/5は藤田男爵の庭(現太閤園や藤田美術館)に運ばれている」と説明される。 この依水園の石材は推定・岩淵川付近で採取された石(片麻状細粒黒雲母花崗岩TY)である。
   
※上記の「説明」とはどのような「資料」に基ずくものなのかは全く言及がなく、分からない。
 太閤園の庭には、「東大寺礎石」の立札のある大きな礎石がある。自然の割目が上下に入る。
上面に方形の造出があり、円形の窪みがある。これらは後に作られたように見られる。建物側の面は窪んでおり、欠損しているようである。
石種は依水園と同じ片麻状細粒黒雲母花崗岩TYであり、岩相的には似ている。太閤園にある心礎の建物側の割れている面と依水園の心礎を合わせた訳ではないが、説明による「3/5の部分」に相当するようである。

 
※以上のように報告されるが、現地で観察すると、以下のように思われる。
  (2012/02/01撮影、2012/01/31観察)
 まず、岩質が両者とも「片麻状細粒黒雲母花崗岩TY」であるのはその通りなのであろう。(素人なので判断できないが、事実なのであろう。)
しかしこのことが、1つのものが2つに割れたことを示すのか、あるいは別々の石であっても産地が同じということを示すだけなのかは分からない。
 ※現に、上述「(石造物の石材研究V)」でも依水園にある5個の礎石のうち、心礎を含む2個が「片麻状細粒黒雲母花崗岩TY」と報告されている。
 さらに、「上面の方形造出」の「方形」とは何を指すのか良く分からないが、地覆座のことを云うのであろうか。
もし地覆座のように見える部分を云うのであれば、この「方形の造出」が「後に作られたように見える」とは主観でしかない。後世の加工と云うように見ればそのようにも見えるし、元来からその形であったのであろう云うように見れば、そのようにも見えるということでしかない。
  ※しかしながら、複雑な造出の形をしていて、後から(円孔を穿つ時に)加工された可能性はあるとは思われる。
  ※「円形の窪み」は明らかに手水鉢として加工されたものであることは明瞭である。
 さて、一番問題なのは「太閤園にある心礎の建物側の割れている面と依水園の心礎を合わせた訳ではないが、説明による 『3/5の部分』に相当するようである。」との見解である。
本当にそうであろうか。
依水園の残存礎石は45度に近い角度で、上面が少なく下面が多く残る形状で、割れている。
もし、依水園の残欠と太閤園の礎石が合うのであれば、太閤園の礎石にも45度に近い角度で、依水園とは逆に上が多く下が少なく残る形状でなければならない。
・太閤園の礎石西面は全くその形状は見られない。
 伝東大寺礎石西面1     伝東大寺礎石西面2
・礎石南面は45度に近い角度で、上下に「自然の割れ目」が入る。しかも小さい方は更に2つに割れている。
一見、依水園の礎石と合致するかとも思われるも、そういう具合にはいかない。
つまり、割れた片割れの石は、下の写真のように、今太閤園にピタリと合致する形で置かれている。
割れ目は勿論、造出も合致し、石質も合致する。
割れた片割れの石が依水園にある可能性は全くないのである。
 伝東大寺礎石南面1     伝東大寺礎石南面2     伝東大寺礎石南面3     伝東大寺礎石南面4
 伝東大寺礎石南面5     伝東大寺礎石南面6
・礎石東面は確かに斜め内側に45度に近い角度に割れ、その割れた片割れの石は存在しない。
しかしこの割れた部分の巾は約1mほどであり、依水園の2/5残欠に相当するようなものではない。さらにこの割れ面の表面は平らに削平され、到底依水園の2/5残欠の割れ面と比較できる状態 にはない。
 ※見事に平に削平されている(自然の割れ面では有り得ない)のは何を意味するのかは全く分からない。
但しこの礎石の高さは140cm内外あり、依水園の残欠の高さと大幅な矛盾がある訳ではないが偶然と云うことであろう。
 伝東大寺礎石東面1     伝東大寺礎石東面2
・礎石北面も全くその形状は見られない。
 伝東大寺礎石北面1     伝東大寺礎石北面2
●要するに、この礎石が依水園の2/5の残欠と合い、3/5の部分に相当するとは到底思われないと云わざるを得ない。

以上のように、この礎石が依水園の2/5残欠に見合う3/5の残欠であるとするには無理がある。
むしろ、そう考えるよりは、この礎石は多少後世に加工され、また周囲の剥落がみられるも、ほぼ原形を保つと見るべきであろう。
つまり、この礎石には明らかにほぼ中央に出枘が存在する。
 (後世にわざわざ出枘まで造り出す加工を施すとは到底思われない。)
出枘がほぼ中央に在ると云うことは、周囲が多少割られまた自然剥落も多少あるとしても、この礎石はほぼ原形の大きさや形状を保つのではないだろうか。
だとすれば、この礎石は依水園の2/5の残欠と合致する3/5の残欠では有り得ない。つまり西塔心礎では有り得ないのである。
むしろ、その大きさや形状から、下の「3)藤田美術館の推定東大寺塔礎石」と同様に東大寺塔礎石(側柱もしくは四天柱礎)とするのが妥当であると思われる。
 伝東大寺塔礎石上面21     伝東大寺塔礎石上面22     伝東大寺塔礎石上面23     伝東大寺塔礎石上面24
 伝東大寺塔礎石上面25
 ※上面はいわば二段の柱座があり、上の柱座の中央に出枘がある。これは殆ど類例を見ない形式である。
確かに柱座は珍しい形式ではあるが、上述のように、出枘を後世に彫り出すなどはまず考えられないから、出枘(径40cm)は当初から のものであろう。そして上の柱座(径160cm)とその両端に付く地覆座も当初から存在するものであろう。
また、柱座が二重になっているのは凡そ半分くらいで、上の柱座は上記のように柱座・地覆座であろうが、下の柱座は平面が不完全な八角形を呈する。
この下段の八角柱座が当初からあるのか、後世の加工であるのかは分からないが、「(石造物の石材研究V)」で「後に作られたように見られる。」という通り、後世(藤田男爵邸に搬入後)の加工の可能性があることは否めない。
 ※要するに、この礎石は多少の後世の加工や周囲の剥落があるとしても、その柱座の形式とその大きさからまさに東大寺塔の側柱礎に相応しいものであると思われる。

なお、旧藤田男爵邸は現太閤園だけでなく、藤田美術館、藤田邸跡公園(特に広大である)、大阪市長公舎などを含む。
もし、心礎3/5残欠が藤田男爵邸に運ばれたとすれば、それが現太閤園の場所に置かれたという確証はないのではないか。
もし、広大な敷地のどこかに置かれたとすれば、未発見であるとか空襲や戦後の混乱でその残欠は亡失したことも考えられるであろう。
 ※藤田邸跡公園には探した限りでは大規模な礎石は見当たらない。公邸は分からない。

またこの礎石付近に奈良期と推定される造出のある輝石安山岩WY(若草山付近の石)の礎石があり、心礎と同様に奈良方面から運ばれたものであろう。
 ※この造出のある礎石は下に掲載の「太閤園中型礎石」 、「太閤園中型礎石2」を指しているもの思われる。

依水園の心礎はその下部から上部が2/5であり、太閤園のものは上部が3/5である。従って理屈的には太閤園のものが先に採取され、残りの部分を依水園に運んだことになる。依水園の東庭は明治32年に造園されたことから、太閤園の庭に運ばれたのはそれ以前となる。
明治25年奈良-湊町間の鉄道開通。明治26年建立の「西南役陣亡陸海軍人の碑」の石は加茂町大野付近から大仏殿まで運ばれる。
太閤園の心礎の運搬は「石碑」の逆ルートで大野まで運び、木津川-淀川の水運を利用し、太閤園付近で陸揚げしたのであろう。太閤園の位置から見て、鉄道輸送より水運が便利であろう。

 ※しかし、旧藤田男爵邸の造営は明治42年と云われ、これが事実とすれば、明治32年以前に心礎を搬出という見解は少し無理がある。
   参照: →旧藤田男爵邸

◇2011/06/25撮影:
伝東大寺塔礎石以外に何れも造出を持つ中型礎石1個、小型礎石2個が散見される。
 太閤園中型礎石:柱座径は92cm。     太閤園小型礎石1     太閤園小型礎石2
その他多くの石造品がある。
 太閤園十三重石塔:鎌倉期
◇2012/02/01撮影:
さらに以下の礎石などがある。上述の中型礎石1個、小型礎石2個以外にさらに中型1個、小型3個(内1個は藤田邸跡公園にある)がある。
 太閤園中型礎石2:上に掲載のものと同一礎石      太閤園中型礎石3
 太閤園小型礎石3     太閤園小型礎石4      太閤園小型礎石5:十三重石塔 の前に置かれる。柱座径70cm。
 太閤園小型礎石6:藤田邸跡公園にある。柱座径83cm。
 その他の石造物として
 紹鴎の塔(石造五重塔、室町、京都建仁寺正伝院から移建)、石造阿弥陀如来坐像(室町)、石造鬼石(室町)、石造六地蔵板碑(室町)、
 石造阿弥陀三尊(室町)、石鳥居(室町)などがある。

3)旧藤田男爵邸・現藤田美術館所在・推定東大寺東塔あるいは西塔心礎あるいは塔側柱礎石

藤田美術館前庭(高野山光台院多宝塔の南に位置する)に東大寺東塔心礎と称する礎石がある。
しかしながら、この礎石についての伝承・伝来には諸説があり、さらに形状や大きさなどについて東大寺の心礎とするには疑問がある。
即ち、この礎石が東大寺の東西何れかの塔心礎であるとの確証はなく、むしろ塔心礎でなく塔脇柱礎石であるのが相応しいのかも知れない。
あるいは東大寺とは別の寺院の礎石・心礎である可能性なども考えられ、何れとも決することが難しいのが現状であろう。

○「日本の木造塔跡」:
大きさは3.8×2.4m、柱座径130cm、出枘径33・高さ5cmという。
超大型の心礎ではあるが、残欠として残る推定東大寺東塔心礎よりはひと回り小さく、また大安寺西塔の柱座径147cmよ りも小さいので、東大寺心礎とは思われない。それ故、この礎石は別の塔の心礎であるかまたは東大寺東塔の側柱礎であるかであろう。
○2006/06/10追加:撮影時期不詳「X」氏ご提供画像
 藤田美術館心礎1     藤田美術館心礎2      藤田美術館心礎3
○2006/09/30撮影
 藤田美術館心礎21     藤田美術館心礎22     藤田美術館心礎23
「X」氏ご提供画像も合せ見ると、礎石は円形柱座に出枘を造り出すが、おそらくこの庭園に据えられた時に、円形柱座の1/5乃至1/6程度が切り取られ、竹樋の水受けとして加工されたと思われる。
当然ながら、この礎石の形式では心礎であるとは断定は出来ず、巨大な堂塔(東大寺の主要堂塔)の礎石なかんづく塔の脇柱礎である可能性(「日本の木造塔跡」) が大きいと思われる。
  藤田美術館礎石: 上記以外にも美術館庭園には幾つかの礎石と思われる石があるが、これも同形の礎石であろう。
○「幻の塔を求めて西東」:
大きさは380×240×80cmで、東大寺西塔心礎とする。
 ※西塔心礎とする根拠は不明であるが、「東塔心礎は幾つかの残欠となって石碑の台石の部材として転用されている」(「日本の木造塔跡」)という認識があり、かつ藤田美術館の礎石は東大寺から搬入されたという伝承?記録?など があり、もしこの礎石が心礎であれば、それは東大寺西塔心礎であろうと云う見解とも思われる。
蓋し、この見解(東大寺西塔心礎)も一つの有力な見方ではあろうが、むしろ東大寺塔側柱礎とするのが妥当ではないだろうか。
  参照: →旧藤田男爵邸
○2012/02/01撮影:

礎石の背面(写真手前)は後世に削平されているように見える。

藤田美術館伝東大寺礎石31
藤田美術館伝東大寺礎石32
藤田美術館伝東大寺礎石33
藤田美術館伝東大寺礎石34
藤田美術館伝東大寺礎石35
藤田美術館伝東大寺礎石36:左図拡大図

東大寺東塔跡・西塔跡

2006/03/11追加:
「平成12年度秋季特別展 大仏開眼―東大寺の考古学―」橿原考古学研究所附属博物館、平成12年より
西塔跡は一度発掘調査が行われたことがある。塔基壇は一辺23.8mで凝灰岩製壇上積基壇であった。基壇のほぼ中央の土坑から斗栱(大斗)2個と長さ1.2mの角材が出土。1つは縦に割れ、もう1つは上部がない。大斗の上一辺は43cm、高さ約27cmと云う。
 東大寺西塔西南隅      西塔跡出土の斗栱・角材
2007/02/07追加;「大和の古塔」:
東塔は芝張・美しく整形され、南面石階址に東側には松香石の羽目板が残存する。
大正初年まで東西両塔跡ともいくつかの礎石を存した。

東大寺西塔跡

2000/8/18撮影:
 西塔跡:東大寺西塔跡1     東大寺西塔跡2
2006/06/17撮影:
 西塔跡:東大寺西塔跡1     東大寺西塔跡2     東大寺西塔跡3     東大寺西塔跡4
2012/02/26撮影:
 西塔跡:東大寺西塔跡11     東大寺西塔跡12     東大寺西塔跡13     東大寺西塔跡14
2015/11/21撮影:
 西塔跡:東大寺西塔跡41     東大寺西塔跡42

東大寺東塔跡

2000/8/18撮影:
 東塔跡:東大寺東塔跡1     東大寺東塔跡2
2006/06/17撮影:
 東塔跡:東大寺東塔跡1     東大寺東塔跡2
2012/02/26撮影:
 東塔跡:東大寺東塔跡11     東大寺東塔跡12     東大寺東塔跡13

2015/11/21:東大寺東塔院跡・平成27年度発掘調査結果の現地説明会実施。

 今回の発掘調査では、鎌倉再興時の塔の基壇を発掘、確認する。
即ち、鎌倉再興時基壇は方約27m、高さは1.7m以上で、奈良期の創建時基壇上と周囲に盛土をし、ひと回り大きな基壇が造られ、その上に鎌倉再興塔が建立されたことが明確になる。つまり盛土には焼土が混ざり、混在している瓦はすべて奈良期の瓦であった。
心礎及び礎石はすべて抜き取られているが、その抜取穴から初重経綿は3間四方であること、中央間20尺(6m)両脇間18尺(5.4m)であろうと推定されることが確認される。
この柱間は東大寺南大門の柱間と一致するという。つまり鎌倉再興東塔は創建時の塔より規模を拡大した訳であるが、それは大仏様の規格で再建するという意図であり、もしそうであるならば、鎌倉再興塔は大仏殿・南大門と同じく、大仏様という新様式で統一されて再建されたということであろう。
 基壇の細部については、基壇の東面及び北面から基壇外装の下部(延石など)やその外側の石敷、階段の踏み石や痕跡を検出する。また北面の階段から参道が北方に伸びることも発見される。

 一方、鎌倉期の盛土中から、奈良期の東面階段と束石・羽目石の一部が発掘される。鎌倉再興時に埋めてしまった奈良期基壇外装があることを示唆するのであろう。
以上のことから、奈良期の基壇は約24m四方と復原でき、これは西塔基壇規模が方23.8mと発掘で確認されているから、創建時の東塔は西塔とほぼ同じ規模であったといえるであろう。
 なお、東塔を囲む東塔院を構成する回廊の基壇も発掘され、鎌倉期の回廊も明確にされる。

 今般の調査は、将来的には東塔院の再建を企図しているということで、これから10年がかりで塔の規模や構造を確認するという。
さて、その姿はどのようになるのは、まったく想像を絶することである。
○2015/11/21現地説明会ルーフレット より

 

 東大寺寺中寺外惣繪圖并山林00:(部分)
:東塔跡は平面3間で描かれ、西塔跡は平面5間で描かれる。これは奈良期創建は東西塔とも平面5間で建立されるも、東塔は鎌倉期の再興にあたり、平面3間にプランが変更されてことをしめすのであろうか。
 東大寺東塔跡発掘状況
 調査地平面図
 調査中央区平面図: 左図拡大図
東面に奈良期の束石・羽目石、北面に奈良期の羽目石の明示がある。

○2015/11/21撮影:

◆鎌倉期基壇発掘

基壇東面/奈良期遺構、延石・石敷
基壇東面/延石・石敷・階段踏石
基壇東面/階段・階段踏石1
基壇東面/階段・階段踏石2
基壇東面/地覆石・延石
基壇東面/地覆石
基壇東面/延石・石敷
基壇東面/延石
基壇東面/延石・石敷
基壇東面/発掘全容:左図拡大図
基壇北面/発掘全容
基壇北面/延石・石敷
基壇北面/階段全容
基壇北面/階段・踏石(東)
基壇北面/階段・踏石(西)1
基壇北面/階段・踏石(西)2
基壇北面/参道縁石(西)
基壇北面/参道(東)1
基壇北面/参道(東)2
北門遺構(不明確)



礎石抜取穴1
礎石抜取穴2
礎石抜取穴3
礎石抜取穴4
礎石抜取穴5
礎石抜取穴6:左図拡大図
東面回廊1:写真上部及び左端高まりが回廊跡
東面回廊2:写真中央高まりが回廊跡
東面回廊3:写真中央高まりが回廊跡

◆奈良期基壇遺構

○創建時(奈良期)基壇痕跡
鎌倉期の基壇の中に、奈良創建時の基壇外装が僅かに出土する。
今後の東塔院の発掘は奈良期の東塔の規模・平面・基壇化粧などの解明に向かうのであろうと推測する。
基壇東面/基壇外装1: 左図拡大図:いずれも束石・羽目石が写る
基壇東面/基壇外装2
基壇東面/基壇外装3

基壇北面/基壇外装1:写真中央僅かに1個の羽目石が写る
基壇北面/基壇外装2:同上

2016/04/30追加:
東大寺東塔院跡平成27年度発掘調査続報(平成28年度続報)
2016/04/22「創建時基壇確認と『七』文字入り瓦発掘」との報道発表があったようで、04/23報道各社が報道する。
報道各社(NHK、朝日、毎日)の報道を要約すれば、以下のようである。
1)東塔の創建時(奈良期)の基壇が発見される。
しかし、これは既に2015/11/21の現地説明会で説明されていることで、新たな発見ではない。
基壇の高さはおよそ1.5mで、いわゆる壇上積基壇である。
2015/11/21の段階では上に掲載したように、(下に再掲載)
 基壇東面/奈良期遺構、延石・石敷    基壇東面/基壇外装1    基壇東面/基壇外装2    基壇東面/基壇外装3
奈良期の基壇外装が僅かに発掘されている状態であった。
鎌倉期の再建にあたっては、創建時の基壇を損なうことなく、一回り大きな基壇に拡幅され再興されたと思われる。
即ち、創建時の基壇は一辺24mで、鎌倉の再建時に一辺27mへ拡幅されたということも既に発表済である。
 創建時東塔基壇1     創建時東塔基壇2:東面の基壇で、上記の写真の部分がさらに発掘されている。
2)東塔周辺の発掘調査から、「七」の文字がある軒丸瓦20点以上が出土する。
軒丸瓦は直径約15cmで蓮華文の中央に「七」とあり、いずれも同じ鋳型で作られ、再建時の13世紀初頭の製作とみられる。
ところで、東塔の平安末期-鎌倉期の概要は次の通りである。
 治承4年(1180)平重衡焼討ちにより東塔焼失。
 元久元年(1204)東塔再興始まる。貞応2年(1222)相輪をあげ、嘉禄3年(1227)回廊が完成。
  この間、東大寺大勧進職は初代重源から2世栄西、3世行勇と受け継がれる。
 安貞元年(1227)第3世大勧進行勇により東塔竣工。
以上の概要を踏まえ、「七」の文字瓦の出土については、次のような評価である。
建永元年(1206)京にあって法勝寺の再建に全力を注いでいた栄西は第2世東大寺大勧進職に就くが、栄西は法勝寺九重塔の再建にも関わり、法勝寺跡からは2010年に「九」の文字瓦が出土しているという。
発掘調査団長の鈴木嘉吉・元奈良文化財研究所長(建築史)は「重源は梵字入りの瓦を作らせており、数字瓦は栄西の個性だろう。東塔再建に栄西が深く関わっていたことも示す興味深い発見だ」という。
 「七」文字入り軒丸瓦1     「七」文字入り軒丸瓦2
現場は既に埋め戻され、成果は4月29日〜5月13日、東大寺ミュージアムで開く速報展で紹介し、瓦約30点も展示するという。
(文化財を私物化しているような特権を感じ、納得できない処置ではある。)

2016/10/08:東大寺東塔院跡・平成28年度発掘調査結果の現地説明会実施。

●2016/10/04東大寺東塔発掘調査報道発表資料
東塔跡の発掘調査で奈良期創建当時の基壇が出土する。出土遺構は基壇北面で階段の踏み石の一部を確認。踏石の3段分の表面は黒く焼け焦げた状態であった。また階段の後ろ側を構成する石材が斜めに倒れた状態で出土する。そして脇の石材も焦げた跡が見つかった。
これは平重衡の南都焼き討ちで、東塔が焼け落ちたときの痕跡であるのは間違いないだろうと判断される。

●東大寺東塔院跡平成28年度発掘調査:現地説明会資料(ルーフレット「東大寺東塔院」) より
 今回の調査では3か所の調査区を設定。A区は昨年度と同じで、東塔中心から塔基壇及び周辺を含む北東部である。
B区は塔基壇南面に設定し、C区は塔基壇から南に伸ばした区域で、東塔院の南門及び参道の確認を目的とするものである。
◇調査区平面図
 

 鎌倉期の再興塔基壇は、奈良期の基壇の周囲と上に盛土をして一回り大きくしたものであったことは昨年度の調査で判明しているが、今年度の調査では鎌倉期の礎石を置く個所には、基壇造成の工程で環状に石が配され、その中は他の部分より盛り土が強固であることが確認される。
塔基壇の石敷は南面・西面は大半が失われていたが、幸いにも西南隅の石敷が残存することが確かめられる。
鎌倉再興基壇に覆われている奈良期の基壇についても知見が深まることとなる。
昨年度は東面階段の側面に該当する基壇外装(凝灰岩製)を検出した訳であるが、今年度は南面階段の東側面でも、やはり基壇外装が発掘される。
さらに基壇北面では奈良期の階段踏石の一部を検出する。
以下は2016/10/08「X」氏撮影画像である。(s_minagaは未見)
○発掘現場遠望
 東塔院跡発掘現場1:A区東面と北面      東塔院跡発掘現場2:A区北面と東面      東塔院跡発掘現場3:同左
○A区東面基壇

以下いずれも、基本的に鎌倉期の遺構が良好に遺存する。
 A区東面基壇1:向かって右は北面基壇
 A区東面基壇2
 A区東面基壇3

以下東面基壇の石階南側の遺構である。
 A区東面石階附近奈良期基壇1:写真左端上方が奈良期基壇外装、
 その外に鎌倉期の延石、石敷、階段の遺構が築かれる。
 A区東面石階附近奈良期基壇2:写真左端上方が奈良期基壇外装
 A区東面石階附近奈良期基壇3:奈良期基壇外装:左図拡大図
 この写真は上掲の「調査区平面図」中の写真1に相当するものである。
 奈良期の延石・地覆石・羽目石が出土する。

以下基壇東面の石階北側の遺構である。
 A区東面鎌倉期遺構1:地覆石、延石、石敷など
 A区東面鎌倉期遺構2:東面基壇北隅附近

○A区北面基壇:北面では鎌倉期遺構の内側から奈良期の遺構が発掘されている。
以下の写真で奈良期の遺構が連続して発掘されている状況が分かる。
 A区北面基壇1     A区北面基壇2     A区北面基壇3     A区北面基壇4
 ※なお、上記の「A区北面基壇1」の写真のほぼ中央に花崗岩と思われる白く輝く大きな石の破片が写るが、これは礎石の破片と推定される(「X」氏情報)という。現地で調査員に質問したところ、そのような回答を得るという。
詳細な写真については、この項の最下段「推定礎石破片」として掲載をする。

北面基壇東北隅では、奈良期の石敷・奈良期の基壇外装が発掘される。
 A区北面北東隅奈良期基壇1
 A区北面北東隅奈良期基壇2
 A区北面北東隅奈良期基壇3
 A区北面北東隅奈良期基壇4:以上何れも、石敷・延石・地覆石が写る。
上記の西隣からは、奈良期の基壇外装が発掘される。
延石・地覆石・羽目石が良好に遺存する。
 A区北面基壇外装1
 A区北面基壇外装2
 A区北面基壇外装3:左図拡大図

北面石階の東側である。奈良期石階に被せて鎌倉期石階が存在する。
 A区北面石階右遺構:鎌倉期石階の前方は鎌倉期参道遺構である。
奈良期の北面石階東側の基壇外装が写る。斜めの石材は倒壊した束石であろう。
 A区北面石階右奈良期基壇外装1
 A区北面石階右奈良期基壇外装2:束石は平氏の南都焼討の際に倒潰したのであろう。
鎌倉期石階の内部から奈良期石階の一部が出土する。
 A区北面鎌倉期石階延石と鎌倉期参道縁石
 A区北面鎌倉期石階と奈良期石階1
 A区北面鎌倉期石階と奈良期石階2
 A区北面鎌倉期石階と奈良期石階3
 A区北面奈良期石階1:左図拡大図
 A区北面奈良期石階2:石階は南都焼討の際の損傷跡を残すという。
 この写真は上掲の「調査区平面図」中の写真2に相当するものである。
北面石階の西側遺構である。
 A区北面石階全容
 A区北面石階左遺構1
 A区北面石階左遺構2:鎌倉期の延石・石敷・石階跡などが遺存する。

○B区南面基壇
 B区南面基壇:南面石階と基壇西側を発掘する。

南面石階東側からは鎌倉期遺構の内部から奈良期の羽目石が出土する。
 B区南面石階東側遺構1
 B区南面石階東側遺構2
 B区南面石階東側遺構3:左図拡大図
 :この写真は上掲の「調査区平面図」中の写真5に相当する。
南面石階西側からは奈良期の遺構の一部(延石?)が出土する。
 B区南面石階西側遺構1
 B区南面石階西側遺構2
 B区南面石階西側遺構3
 B区南面石階西側遺構4
 B区南面石階西側遺構5
 B区南面石階西側遺構6

南面基壇南西隅遺構:鎌倉期遺構の内側に奈良期の基壇外装の一部が出土する。
 B区南面南西隅遺構1     B区南面南西隅遺構2     B区南面南西隅遺構3

○A区基壇上遺構
心礎を中心に礎石据付痕などが分かる。
 東塔基壇上遺構1     東塔基壇上遺構2
心礎跡:以下に上掲の「調査区平面図」中の写真3に相当する写真は無いが、別方向から写した写真を掲載する。
 東塔心礎跡1     東塔心礎跡2     東塔心礎跡3     東塔心礎跡4     東塔心礎跡5
鎌倉期礎石据付環状石列
 東塔鎌倉期礎石環状石列1:この写真は上掲の「調査区平面図」中の写真4に相当する 。
 鎌倉期の基壇盛土中に環状の石列を確認。これは鎌倉期の礎石据付の為であろうか。
 東塔鎌倉期礎石環状石列2
鎌倉期礎石据付穴
 東塔鎌倉期礎石跡

○推定礎石破片
B区北面基壇北東隅やや東側から礎石の破片と思われる石の破片が出土する。
「X」氏が現地説明会で調査員に確認したところ、礎石と推定しているとの説明であったという。
 推定礎石破片は花崗岩と推定される。勿論完形ではなく、割られた剝片であり、しかも薄い破片である。
上記の「東塔心礎」の項で述べたように、東塔からは明治26年頃礎石が搬出された可能性が高く(あるいは大正初年ころは東西塔ともいくつかの礎石が残っていたともいう)、その搬出の時に割られた破片が塔跡に残存したのであろうか。
 礎石の破片は写真で見る限り、異様に新しく、白く輝き、これは割られたのが明治の後半であり、割られてすぐに土中に埋もれたからのであろうか。

推定礎石破片の出土位置:写真で見るように、すぐ近くの土壇上には巨大な礎石抜取穴があり、この破片がこれらの礎石の破片であることを強く示唆する。
 推定礎石破片の出土位置1
 推定礎石破片の出土位置2
 推定礎石破片の出土位置3
推定礎石破片:
 推定礎石破片1
 推定礎石破片2
 推定礎石破片3:左図拡大図
 推定礎石破片4
 推定礎石破片5

○出土遺物
 東塔跡出土鬼瓦:(鎌倉末)
 東塔跡出土瓦:軒丸瓦、軒平瓦(朱色の顔料が付着/奈良期-平安期)、軒平瓦(奈良期)

2017/10/07:東大寺東塔院跡・平成29年度発掘調査結果の現地説明会実施。(2017/10/16追加)
     ※但し、本人(s_mnaga)は説明会には不参加、現地説明会資料をそのまま転載する。
◎「平成29年度解題史跡整備事業に係る発掘調査」史跡東大寺旧境内発掘調査団、2017 より
調査位置図:
 調査位置図:今回は南門跡及びその回廊と付帯設備の発掘であった。
南門付近平面図
 南門付近平面図
写真資料
 南門付近写真1:南門・南面回廊北雨落溝:鎌倉期     南門付近写真2:南門・南面回廊礎石抜取穴:鎌倉期
 南門付近写真3:南門に至る南参道:鎌倉期         南門付近写真4:南面回廊南雨落溝:鎌倉期
 南面回廊北雨落溝内の遺物
5区の発掘調査で、南門は3間(中央間15尺、両脇間14尺、12.99m)×2間(12尺等間、7.2m)の礎石建物であることが判明する。
礎石は遺存せず、全て抜き取られていた。
南面回廊は梁間2間であり、複廊と推定される。桁行20尺(6m)と想定される。なお、南門及び回廊の基壇外装は遺存せず。
南門・回廊の両側には雨落溝があり、瓦・炭化した木材・白土の付着した壁土・建物の部材が出土する。
南門南には中央の柱間に合わせた幅の参道が取付き、参道の東西両端は幅約80cmの石敷があり、参道全体の幅は4.5mであった。
今回、合わせて6区(東門)及び7区(西門)の発掘も実施する。
6区では鎌倉期の東門基壇が良好に遺存することを確認する。
7区では鎌倉期西門の基壇・石敷・瓦溜りなどを確認する。


東大寺戒壇院多宝塔(屋内小塔)

東大寺戒壇院多宝塔
:下図拡大図

左図戒壇院多宝塔写真:「東大寺」保育社カラーブックス208、昭和45年より転載

天平勝宝6年(754)鑑真が日本最初の戒壇を開く。
そのとき中国から招来した釈迦・多宝のニ仏を祀るという。
往時の戒壇院は金堂・講堂・軒廊・廻廊・僧坊・などがあったと云う。(東大寺要録)
治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の3度火災に罹り、伽藍は焼失す。

現戒壇院伽藍は享保17年(1732)の再建による。
再興のとき、鑑真のニ仏を祀る故事から、(享保17年)多宝塔も造立されたと伝える。
 ※唐から伝来した釈迦・多宝仏は銅造で、現在は収蔵庫に安置、戒壇院多宝塔安置仏は木造の模造と云う。
堂内多宝塔は堂内安置といえども、唐様を基調とする本格的木造建築である。
 ※堂内檀上には、著名な天平仏である四天王(塑像)を安置する。そのため堂内は撮影禁止であり多宝塔写真を撮影することはほぼ不可能。なお元の四天王は銅製であったが失われ、現在の像は東大寺中門堂から移安と伝える。

2006/06/17撮影:東大寺戒壇院

2010/12/21撮影:東大寺戒壇院2

2016/11/01追加:
○東大寺戒壇院多宝塔写真:フォト蔵 より転載(Creative Commons)

 ◆東大寺戒壇院多宝塔2


東大寺相輪(古河パビリオン相輪)
2006/06/17撮影:

1970年日本万国博覧会の古河館パビリオンとして、東大寺七重塔が設置された。
日本万博終了後、相輪が東大寺に寄進され、東大寺に移設された。(東塔跡北、大仏殿東南よりの位置)
 ※七重塔そのものは永久建築でないため、取り壊される。

 古河館七重塔相輪1    古河館七重塔相輪2     古河館七重塔相輪3
2012/02/26撮影:
 古河館七重塔相輪11     古河館七重塔相輪12     古河館七重塔相輪13     古河館七重塔相輪14
 古河館七重塔相輪15

   EXPO'70「古河館」七重塔(外観)復元は「古川館」のページを参照


東大寺諸伽藍

2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 東大寺寺中寺外惣絵図11:東大寺蔵
   真言院・八幡宮が焼失した寛永19年(1642)以降、大仏殿が再興された宝永2年(1705)以前の制作と考えられる。
なお、当絵では龍蔵院・新福院・自性院・法輪院・安養坊・宝信院・観音院・持宝院・宝厳院・大喜院・深井坊・金蔵院・上生院・見乗院・蜜乗院・善性院・勝曼院・真言院・中性院・宝珠院・来迎院・連声院・四聖坊・清涼院・仏性院・金剛院・文殊院・福寿院・阿弥陀院・普賢院・最勝院・正源院・証菩提院・新禅院・尊光院・伽葉院・禅花坊・尊勝院・正法院・惣持院・西之院・成福院・西蔵院・西南院・唐禅院・東南院・一音院・地蔵院・知足院・禅那院・千手院・柴摩金院・新造屋・上之坊・普門院など50余の塔頭が表される。

2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より

奈良町繪圖は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される図は興福寺及び東大寺を中心とした部分図である。
向かって左上端は眉間寺(多宝塔あり)、左中央付近は興福寺堂塔・北に一乗院門跡・南に大乗院門跡・周囲には子院群が囲み、一乗院門跡東に勧学院(多宝塔あり)があり、左下に元興寺(五重塔あり、極楽院・小塔院)がある。さらに元興寺東方・中央下に頭塔寺がある。
図中央上部は東大寺伽藍及び周囲には子院が配置、東大寺南大門の南東に四恩院がある。

 奈良町繪圖・部分図:左図拡大図

 

2015/12/25追加:
○「加太越奈良道見取絵図」
 「加太越奈良道見取絵図」東大寺附近図:部分図
中央やや左に大仏殿、下段中央やや右に南大門、南大門の東に四恩院があり、さらに東・下段右端に春日社が描かれる。

2013/03/11追加:
○明治6年「大和國時院明細帳」 より:
 以下の塔中の書上げがある。
元高二千二百拾石 本山八宗兼学 東大寺
 塔中
  紫摩金院、上生院、深井坊、龍松院、見性院、正観院、華蔵院、尊光院、惣持院、地蔵院、妙厳院、北林院、清涼院、蓮乗院、金珠院、
  大喜院、宝厳院、光明基院、新禅院、持宝院、龍蔵院、上ノ坊、文殊院、法住院、中性院、自性院、佛生院、観音院、真言律宗真言院

2006/10/7追加:壬申検査記録写真:明治5年撮影
 大和東大寺大仏殿:屋根はかなり垂下し、東大寺の荒廃もかなりのものであったと推測される。

2008/08/23追加:
「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 東大寺大仏殿311

■東大寺伽藍現況

東大寺南大門(国宝)
2002/03/09撮影:
 東大寺南大門1      東大寺南大門2:大仏様斗栱の典型として収録
2006/06/17撮影:
 東大寺南大門11      東大寺南大門12      東大寺南大門13      東大寺南大門14
 東大寺南大門15      東大寺南大門16
2015/11/21撮影:
 東大寺南大門41

2015/11/21撮影:
 東大寺中門・大仏殿     東大寺回廊

東大寺大仏殿(国宝)
2006/06/17撮影:
 東大寺大仏殿1      東大寺大仏殿2      東大寺大仏殿3      東大寺大仏殿4      東大寺大仏殿5  
 東大寺大仏殿6      東大寺大仏殿7:二月堂から大仏殿を望む
2012/02/26撮影:
 東大寺大仏殿11     東大寺大仏殿12     東大寺大仏殿13:般若寺西付近からの遠望      東大寺大仏殿14:同左
 東大寺大仏殿15     東大寺大仏殿16     東大寺大仏殿17
2015/11/21撮影:
 東大寺大仏殿41    東大寺大仏殿42    東大寺大仏殿43    東大寺大仏殿44    東大寺大仏殿45
 東大寺大仏殿46    東大寺大仏殿47    東大寺大仏殿48    東大寺大仏殿49

2017/03/25撮影:
 東大寺講堂跡1     東大寺講堂跡2     東大寺講堂跡3     東大寺講堂跡4     東大寺講堂跡5

東大寺転害門(国宝)
2012/02/26撮影:
 東大寺転害門11     東大寺転害門12     東大寺転害門13     東大寺転害門14     東大寺転害門15
 東大寺転害門16     東大寺転害門17     東大寺転害門18
2017/02/19撮影:
三間一戸八脚門、切妻造、屋根本瓦葺。東大寺に残る唯一の天平建築といわれる。(但し中世の修理を受ける。)
この門は東大寺鎮守八幡宮の祭礼の時の遷座の場所として重要視されてきたという。
 東大寺転害門21     東大寺転害門22     東大寺転害門23     東大寺転害門24
 東大寺転害門25     東大寺転害門26     東大寺転害門27

東大寺鐘楼(国宝)
2006/06/17撮影:
 東大寺鐘楼1      東大寺鐘楼2      東大寺鐘楼3      東大寺鐘楼4

東大寺二月堂(国宝)
2015/11/21撮影:
 東大寺大仏殿・二月堂      東大寺二月堂

2010/12/21撮影:
 東大寺二月堂閼伽井屋     東大寺指図堂     東大寺勧進所1     東大寺勧進所2

東大寺法華堂(三月堂・国宝)
2006/06/17撮影:
 東大寺法華堂1      東大寺法華堂2      東大寺法華堂3      東大寺法華堂4      東大寺法華堂5
 東大寺法華堂6      東大寺法華堂7      東大寺法華堂8

東大寺四月堂
2006/06/17撮影:
 東大寺四月堂

○東大寺寺中
東南院(現本坊)
2015/11/21撮影:
 東大寺東南院41     東大寺東南院42     東大寺東南院43

2010/12/21撮影:
 東大寺龍松院1     東大寺龍松院2
 東大寺持宝院1     東大寺持宝院2
 東大寺龍蔵院1     東大寺龍蔵院2
 東大寺宝厳院
 東大寺大湯屋:手前は蓮華院及び来迎院(?)跡
 東大寺宝珠院
 東大寺中性院1     東大寺中性院2
 東大寺八幡神主:八幡神主屋敷跡、今は溜池となる。
今天地院に至る道は宝珠院前から左(右に行けば二月堂に至る)に分岐する谷川沿の道を登るが、東大寺寺中寺外惣絵図(東大寺丸山西遺跡部分図)では、宝(?)勝院(宝厳院南)裏から南北の房舎の間と通り、天地院に至る道であった。
この道の北側には西から安養坊、法輪坊、自性院、新福院、八幡神主、上院五劫阿弥陀堂が山門を南に開き、南側には地藏堂、普賢院、阿弥陀院、福寿院、文殊院が山門を北に開き、整然と並んで配置されていた。
現在この天地院に至る旧道は廃道となり、房舎は全て廃絶する。北側坊舎跡は近年まで田として利用されたと云う。しかし今は全て耕作は放棄されたと思われるも、この区画に一歩も立入ることは出来ないので良く分からない。八幡屋敷は溜池と化す。
南側坊舎は一部は田として残る(現在は放棄か)も大部は民家が建つ。


大和天地院:(東大寺前身寺院の一つとされる。)

2006/03/11追加:
「平成12年度秋季特別展 大仏開眼―東大寺の考古学―」橿原考古学研究所附属博物館、平成12年より:
天地院:
和銅元年に行基が伽藍を造営したと伝える。シカゴ美術館には「天地院縁起絵」があり多くの坊舎が描かれる。
大仏殿裏の東西の道を東に進み、山頂し近くに天地院跡と伝える平坦地があり、小規模な発掘調査が実施された。
平坦地南端で3間四方の塔跡が発掘された。推定基壇高さ1.8m、一辺約12m、基底部で18mを測る。
基壇化粧は未確認、瓦の出土がなく、檜皮葺きの塔と思われる。奈良期に創建、鎌倉期に再建もしくは修理と推定される。
 東大寺天地院位置図:図の左上・トレンチ9004・9116が塔跡と思われる。
2010/12/29追加:
「史跡東大寺総合防災施設工事に伴う事前発掘調査の概要」奈良県立橿原考古学研究所(「南都佛教 69」1994 所収) より
東大寺丸山(想定天地院跡平場、120m×120mの大きさ)の北側東谷筋に貯水槽(25m×42m)及び南に導水管を設置する為に事前発掘調査を実施する。
 天地院・上院地区発掘調査位置図     天地院地区平成2年度発掘区平面図
貯水槽からの管路東側に土壇様高まりがあり、そのため平成2年度調査で9003、9004トレンチを設置、調査の結果、高まりは礎石建物であり、3間×3間と判明する。平成3年度には追加調査を実施し、2間分の柱掘り方もしくは礎石抜取穴を検出。塔跡と推定される。
 天地院地区推定塔遺構図
遺構図では心礎及び四天柱礎の痕跡が明らかに認められる。また脇柱礎も3間分認められる。ほぼ塔跡と断定が可能であろう。
基壇は山土を互層積して形成し、高さは現状で約1.3mを測る。上面が削平されているので、当初はおそらく1.8mほどであったと推定される。基壇化粧は確認されず、基壇側面は土積の緩斜面であった。基壇規模は上面で約12m(40尺)下面で約18m(60尺)と推定される。
建物は柱間2.4m(8尺)の当間で、3間×3間の塔跡と推定される。遺物は古代では土器片及び和同開珎2枚、中世では土器片が出土。
これ等の出土遺物および遺構の出土状況から、塔は奈良期の建てられ、中世に礎石や根石を据え直し、再建もしくは修復されたものと推定される。
  東大寺寺中寺外惣絵図12:天地院部分図:東大寺蔵 :下に掲載「古図にみる日本の建築」より
「惣絵図」で今般の塔跡を想定すると、「想定天地院跡平場」が八講堂とすれば、塔跡に想定される建物が描かれていないことになる。
一方、「想定天地院跡平場」が北室とすると、建物は千手堂ということになる。
 天地院縁起絵:シカゴ美術館蔵、鎌倉期に成立、龍華院に伝来する。
下に掲載の「東大寺の古層-東大寺丸山西遺跡考-」吉川真司(「南都佛教 78」2000 所収) では以下のように述べる。
 天地院縁起絵トレース
中央上部の社殿は弁財天社であろう。当社は遅くとも室町期には信仰を集め、近世の絵図にも例外なく天地院弁財天社は描かれる。
社殿には瑞垣が廻り、南には経所、石段下には拝殿が建つ。北方には多宝塔と宝形堂宇がある。
中央の入母屋造瓦葺の堂は八講堂=千手堂であろう。これは丸山山頂に建っているように描かれる。
であるならば、下左に描かれる檜皮葺堂宇は丸山西斜面平坦地(下に掲載の平坦地1)に立つ房舎の可能性が非常に高い。

2006/06/10追加:
「東大寺三昧堂(四月堂)千手観音立像について」井上正(「学叢 第7号」京都国立博物館、昭和60年所収)  より
『(東大寺)要録』に引く『天地院縁起』によれば、天地院(法蓮寺と号す)は行基菩薩が、添上郡の諸山根(山麓の意か)を求め、御笠山安部氏社之北高山半中(山腹の意か。正確な意味不明)において和銅元年(708)2月 11日に造り始め、翌2年3月15日に供養を行った山峯の一伽藍である。・・・
 行基は天智天皇7年(668)の生まれというから、当時41歳、慶雲元年(704)生家を改め家原寺となしたのを皮切りに、近くに蜂田寺(慶雲3年)を造るなど、ようやく民間伝道者としての使命に目覚め、各地に道場を造り始めたころであった。平城遷都は、天地院が供養されて約1年後の、和銅3年(710)3月10日のことである。したがって、王城の真東に当る山として、特別な意味をもち始める直前のことであった。これから 7年後には、行基の伝道はその実をあげ、その集団は大勢力となり、有名な行基弾圧の詔勅(養老元年4月23日)を見るに至る。その天地院の供養に際しての請僧は 10名、導師経淵法師以下大安寺・薬師寺・元興寺・法隆寺などの官寺の僧が奉仕しているが、薬師寺僧が大半を占めているのは、『続紀』や『元亨釈書』に記すように、行基が薬師寺と関係が深かったことを裏書きするものであろう。・・・
 天地院の本尊の尊名について『要録』は明らかにしていないが、天喜元年(1053)9月20日に火災に見舞われ、南面の5間桧皮葺堂等と仏像は焼亡した。北の 3間桧皮葺堂もその時焼亡したが、この方の仏像は取り出したことを記している。この記載からすると、5間堂が中心堂宇らしく、天地院創立当初の本尊はこの時失われた可能性が強い。
2010/12/29追加:
「東大寺要録」嘉承元年(1106)成立、長承3年(1134)増補、その後も加筆あり より
「天地院 号法蓮寺
縁起文云 是文殊化身行基菩薩建立也 (中略) 大和国造八箇寺 (中略) 添上郡求諸山根於御笠山安部氏社之北高山半中 始造和銅元年二月十日戊寅 山峯一伽藍即天地院 名法蓮寺 同二年三月十五日辛卯供養 (大安寺、薬師寺、元興寺、法隆寺の諸僧による)
天喜元年(1053)・・南面有五間堂檜皮葺堂等并仏像焼亡 并有北三間檜皮葺堂同以焼亡 (八講が講ぜられる 中略)
或日記云 和銅元年 行基菩薩造天地院礼堂 此本堂不知建立之人 康平五年(1062)・・天地院金剛手菩薩 始造安本堂了 (攻略) 」

2006/06/30追加:
「奈良市史」:天地院より
「寺中寺外惣絵図」(江戸初頭に描写、永禄元年<1561>の炎上後の様子が分かる)によると
 ※東大寺寺中寺外惣絵図12:天地院部分図:東大寺蔵 :下に掲載「古図にみる日本の建築」より
西の入口に西大門、鳥居があり、南室・八講堂・北室があって中に千手堂がある。さらに登ると拝殿・弁財天社があり、東に塔と八角文殊堂がある。その東に長い東室があった。もっと東に入ると拝殿・金剛童子社・末社があり閼伽井があった。
この閼伽井跡と阿伽井山阿弥陀三尊石仏は現存する。(未見)
・石灯篭の拓本がある(堀池道貫氏蔵・灯篭現物は残存しないと云う)。
「奉施入 藤原氏□代逆修 天地院千手堂石灯ろ(火偏に呂) 正中3季・・・」(陰刻)
・河内道明寺天満宮社務所庭に所在する六角石灯篭
「奉法入 天地院 御宝殿 康元2年・・・・」の陰刻があり、石灯篭の由来不明のため、断定はできないが、東大寺天地院の可能性はあると思われる。
※「奈良六大寺大観 巻9東大寺」岩波書店 に「寺中寺外惣絵図」が収録されているが、残念ながら編集の都合と思われるが、周辺部は切れていて、天地院の部分は「西大門」跡しか確認できない。
 2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
  東大寺寺中寺外惣絵図12:天地院部分図:東大寺蔵
   真言院・八幡宮が焼失した寛永19年(1642)以降、大仏殿が再興された宝永2年(1705)以前の制作と考えられる。
   なお、明治28年東大寺手向山八幡宮境内社の松童神社に11社が合祀される。
   その11社の中に「天地院神社 (大山咋神) 雑司字天地院山」の合祀の記録がある。
   この天地院神社とはかって天地院内に鎮座した何がしの社である可能性は高いと思われる。

2010/12/29追加:
「東大寺の古層-東大寺丸山西遺跡考-」吉川真司(「南都佛教 78」2000 所収) より
東大寺丸山の山頂は大きな平坦地であり、ここは天地院跡と想定される。
東大寺丸山西遺跡はこの丸山西山麓に立地する。この遺跡は幾つかの平坦地と瓦散布地とで構成される。
 東大寺丸山西遺跡概要図
 東大寺寺中寺外惣絵図:東大寺丸山西遺跡部分図 :「奈良六大寺大観 巻9東大寺」岩波書店 より
平坦地1は南北約90m東西約50mの巨大なものである。かっては3段の耕地であり、その形跡は残る。今は放棄され潅木が茂る。地表には基壇も礎石も遺物も残らない。但し西側傾斜地には大量の奈良期の瓦の堆積を見る。
この地は「東大寺寺中寺外惣絵図」では「紫摩金院、今ハ田」として認識される。「惣絵図」では1間の建築として表されるが、これは既に礎石が喪失していたからであろうか。
 ※なお「東大寺境内絵図」(江戸前期、鎮守八幡社蔵)ではこの区画を「紫摩金院家」とし、堂宇跡は「如意輪堂」と注記すと云う。
しかし、紫摩金院は11世紀までの資料には全く見えず、断片的に記録に出てくるも、その記録は13世紀には退転していたことを示すのみの記録である。
2010/12/21撮影:
 丸山西遺跡平坦地1その1     丸山西遺跡平坦地1その2     丸山西遺跡平坦地1その3
平坦地2は今平坦地1に至る道路で二分されているが、本来は南北約30m東西40mの方形区画であろう。
また平坦地2の北と東に今は水道施設であるが平坦地がある。これも寺院の平坦地であった可能性は高いであろう。
さらに平坦地1の西北付近には3個以上の小規模な平坦地が散見される。畑の跡であろうが坊舎跡の可能性がある。
平坦地3は一辺約30mの方形をなす。
2010/12/21撮影:
 丸山西遺跡平坦地3その1:手前の平坦地は丸山西遺跡平坦地4の北側部分
 丸山西遺跡平坦地3その2
平坦地4は南北約20m東西40mの長方形をなす。
2010/12/21撮影:
 丸山西遺跡平坦地4:平坦地4の南側部分か、八幡神主屋敷の東に位置し、「惣絵図」で は「上院五劫阿弥陀堂」と表記する。
何れの平坦地も遺構は残さないが、古代・中世の瓦が広く散布する。
以上多くの堂宇から構成される古代・中世寺院が想定され、平坦地1〜4を中心とした遺構を「東大寺丸山西遺跡」と総称したい。

天地院縁起絵:シカゴ美術館蔵、鎌倉期に成立、龍華院に伝来する。

天地院縁起絵トレース:左図拡大図
中央上部の社殿は弁財天社であろう。当社は遅くとも室町期には信仰を集め、近世の絵図にも例外なく天地院弁財天社は描かれる。
社殿には瑞垣が廻り、南には経所、石段下には拝殿が建つ。北方には多宝塔と宝形堂宇がある。
中央の入母屋造瓦葺の堂は八講堂=千手堂であろう。これは丸山山頂に建っているように描かれる。
であるならば、下左に描かれる檜皮葺堂宇は丸山西斜面平坦地(下に掲載の平坦地1)に立つ房舎の可能性が非常に高い。

勿論これは「天地院縁起絵」が鎌倉期の成立であるので、鎌倉期の平坦地1の房舎の姿であろうが、中世にはこのような建物が存在していたと想像できるであろう。

 

丸山西遺跡の文献史料による考察:
東大寺成立前史には諸説がある。
福山敏男説:金鐘寺と福寿寺は同一実体であり、天平14年金鐘寺=福寿寺は金光明寺へ発展・改称され、あらに天平19年東大寺へ発展・改称される。
堀池春雄説:金鐘寺と福寿寺は別個の寺院であり、それぞれ別の金堂を構え、天平14年に金光明寺へ発展する。
その他の諸氏の説も多く有る。
筆者古川は以下と説く。
金鐘寺の起源は神亀5年聖武天皇によって創建された山房である。
福寿寺は天平10年皇后宮職によって造営が開始され、主要堂宇は阿弥陀堂であった可能性が高い。
天平14年金鐘寺と福寿寺が統合され金光明寺となる。
金鐘寺と福寿寺の具体的場所は判然としない。位置の明らかな羂索堂・千手堂は金鐘寺金堂とは考えられない。
つまり、金鐘寺や福寿寺はその規模などから、そのいずれかがこの丸山西遺跡にあった蓋然性は高いと考えられる、と。

天地院跡現状:
2006/06/17撮影:
 推定天地院塔跡付近1  推定天地院塔跡附近2
但し、全くの山中であり、また上で掲載した「東大寺天地院位置図」だけが頼りのため、確認は困難である。
 大量の瓦の集積   瓦の集積の崩れ
※推定天地院塔跡南には、通常の民家で使用する瓦の縦横2倍以上の大型の瓦が集積(廃棄)されている。
場所柄東大寺のどこかの堂宇の廃棄瓦とも思われるも不明。悪いことに南側では「集積が崩れ」環境破壊一歩手前の状態となる。
2010/12/21撮影:
 天地院塔跡土壇1     天地院塔跡土壇2     天地院塔跡土壇3
 丸山山頂平坦地:天地院主要堂宇(八講堂=千手堂などか)跡想定地 、
         上掲「東大寺丸山西遺跡概要図」の「5丸山平坦地・想定天地院跡」を撮影


2006年以前作成:2017/10/16更新:ホームページ日本の塔婆