大  和  大  安  寺   東  塔  跡  ・  西  塔  跡

大和大安寺東塔跡・西塔跡

目次
 1)2005/12/11:西塔跡発掘調査現地説明会
 2)2004/11/14:西塔跡発掘調査現地説明会
 3)2003/02/22:西塔跡発掘調査現地説明会
 4)2006/12/17:東塔跡発掘調査現地説明会
 5)2002/07/28:塔 跡 現 況
 6)大安寺現況
2004/11/14:西塔跡発掘調査現地説明会の補足
          大安寺西塔跡・基壇堆積土層断面図
           
 (2004/11/14現地説明会資料より)

1)2005/12/11:西塔跡発掘調査現地説明会

 西塔跡については、ほぼ全面が発掘され、今回(2005年)で調査が終了するとの告知がある。

○「史跡大安寺旧境内 西塔跡の調査」2005/12/11より:

大安寺西塔跡全景:左図拡大図

今般の発掘調査で西塔跡はほぼ全面発掘される。
塔基壇は半壊状態ながらも、概要の解明に至る状態で遺構が残存する状態であった。
心礎は原位置で現存する。
四天柱礎・脇柱礎は礎石抜取穴・根石等が全て残る。
東西南北には基壇に至る階段遺構が検出される。
 


大安寺西塔跡遺構平面図(平面図は1/200);左図拡大図

塔初重一辺は柱痕より40尺(約12m)と推定。
塔基壇は70尺(約21m)、高さは削平で不明(約1.8mと推定)。
<極めて大型の塔で文献に残るとおり七重塔であることは確実であろう。>

塔基壇は版築で構築され、凝灰岩の切石を用いた壇上積基壇であった。
切石の大部は後世の持出で喪失しているが、若干残る切石を仔細に見ると極めて精巧に加工され、精美に組み合わされていたことが見てとれる。

※西塔心礎:今般心礎も発掘される。
  大安寺西塔心礎1         同        2         同        3

  西側脇柱礎痕          西中央間北・側柱礎根石

※西塔基壇

 
 
基壇西側階段・延石1(正面):左図拡大図
  同         2(側面)
基壇西側階段・延石3:南 部分(上面)
  同         4:南 部分(上面)
  同         5;北 部分(上面)
  同         6;北 部分(上面)
基壇西側 地覆石・延石1:北部分(正面)
基壇西側地覆石 ・延石2:北部分(上面)
基壇西側火災崩落跡
 
  西北隅延石地覆石羽目石1
  同            2: 左図拡大図
  同       地覆石1(上面)
  同       地覆石2(上面)
 ※羽目石は若干外側に傾いてはいるが、延石に地覆が載り、
 地覆に羽目石が嵌めこまれている様子が良く残る。
 (唯一残存する羽目石と思われる。)
 地覆石も精巧な加工がなされる。
基壇南側階段・延石1:正面
基壇南側階段・延石2:正面
 ※南側基壇化粧の残存はやや悪いと云う。

 
 
基壇東側階段・延石1:左図拡大図
  同         2:南部分
  同         3:北部分
  同         4:側面
基壇東側地覆石・延石:北部分
基壇東側延石など1:南部分
  同        2
基壇東側前柱穴
 
  基壇北側階段覆石延石1:左図拡大図
  同           2:西部分
基壇北側階段地覆石延石(上面):西部分
基壇北側版築
基壇北側火災崩落跡
 

※出土遺物

総量はコンテナ8000個以上に及ぶ。
大半は瓦で、ほぼ2つの型で占められている。大安寺特有の文様を持つ。
また9世紀の特徴を持つ瓦の出土が多く、塔創建時期を示唆しているものと思われる。
 軒丸瓦・軒瓦      軒     瓦     鬼瓦1−1      鬼瓦1−2      鬼瓦2−1      鬼瓦2−1

 

特筆すべきは大小100点近くの銅製品が出土したことで、これは稀有のこととされる。
 軒下風鐸・風招1      同       2      同       3
  :この遺物は2003年出土遺物で、保存加工処理中のものを展示と思われる。

相輪の風鐸
 相輪風鐸1;左図拡大図       相輪数鐸2

軒下風鐸残欠
 軒下風鐸1  軒下風鐸2
 軒下風鐸2: この遺物は2004年出土で、これも保存加工処理中のものであろう。

請花残欠
 請花残欠(3点)


水煙
 水 煙 残 欠:左図拡大図

露盤残欠
 露 盤 残 欠: この遺物も2004年出土で、保存加工処理中のものであろう。


2)2004/11/14:西塔跡発掘調査現地説明会

2004/06から第4次発掘調査が行われ、2004/11/14現地説明会が行われる。
今回の発掘対象は塔基壇の東約半分およびその外周を全面発掘。
           ※今回の発掘区域:2004/11/14現地説明会資料より

発掘調査の成果

1.塔の構造
東側・北側(北東)・南側(南東)の基壇延石(東側の一部は地覆石を伴う)、東側階段部延石が見事に出土しほぼ基壇寸法が確定する。
基壇1辺は21m(天平尺で70尺・延石の端−端間)、基壇上面の一辺は68尺(延石巾1尺を除く)と推定。
階段は地覆石(外−外間)で4.2mでこれは初重中間間柱間と一致する。

塔東面発掘状況
塔北面(東)発掘状況
塔東南面発掘状況
塔南面(東)発掘状況
塔東(南)基壇
 同      2
塔東(北)基壇(左図拡大図)
 同      2
 同      3
塔北(東)基壇
 同      2
 同      3
塔南(東)基壇
 同      2

塔初重1辺は12m(側柱礎抜取穴の中心間)で以前の発掘成果の寸法を追認。
  東南隅側柱礎石抜取穴      東中央間南礎石穴      東中央間北礎石穴       東北隅脇柱礎石抜取穴

2.焼失以前の塔崩落

今回も大量に堆積瓦が出土。時期の異なる2層の堆積があり、下層の堆積は粘質の土で固められ、基壇外周に一様に平均して巡り、明らかに人為的な整地と思われる。しかもこの層には炭・焼土が一切ない。おそらく火災以外の理由で塔が崩落し、それを整地したものと推定される。
上層は攪拌されてはいるが、明瞭に塔焼失による崩落の形跡を残す。
  塔下層堆積1      塔下層堆積2       塔上層堆積1       塔上層堆積2

  基壇堆積土層断面図及び堆積土層の形成についてはここをクリックください。

3.出土遺物

 堆積瓦出土状況1  堆積瓦出土状況2

鬼   瓦

風鐸破片(左図拡大図)

露盤破片
 

軒丸瓦等1

軒丸瓦等2

軒丸瓦等3

土師器など1

4.西塔心礎

 大和大安寺西塔心礎1     大和大安寺西塔心礎2      大和大安寺西塔心礎3


3)2003/02/22:西塔跡発掘調査現地説明会
  (図版・画像は現地説明会資料及び現地での撮影画像を使用)

2002年11月から史蹟整備のための発掘調査が行われ、2002年2月現地説明会が実施される。(第2次調査)
 ■今回の調査区は西塔跡の心礎を中心に東西南北に幅3m×長さ20mの調査区が設定される。

参考:大安寺の占地  大安寺伽藍復元図

発掘調査の成果

西塔の規模がほぼ判明。
総合的に判断すれば、文献どおり七重塔が想定される。参考:東大寺七重塔復元図

1)基壇上で6箇所(四天柱礎2.脇柱礎4)の礎石抜取穴及び根石などを確認。
  両脇間の柱間は13尺(0.9m)、中央間の柱間は14尺(4.2m)で一辺40尺(12m)の規模と判明。
  軒の出は15尺(4.5m)と推定できる。
  脇柱礎石抜取穴1(南南東)    同      2(南南東)   同      3(北北西)   同      4(西北西)   同      5(東南南)
  四天柱礎抜取穴
     (なお、上記の位置であるが、記録を残していないので、上記方位説明が間違っている可能性はある。)

  ☆なお心礎は原位置より動いていないと判断される。
   西 安寺西塔心礎1      同        2      同        3

2)基壇四方に階段部分基礎及び基壇外装に繫がる延石を発掘。
  塔基壇は一辺70尺(21m)であることが判明。
  階段は幅16尺(4.8m)、階段の出幅は5尺(1,5m)と推定。
  階段復元図
   同      1(西)      同      6(西)      同      2(南)      同      3(東)
   同      4(東)      同      5(東)      同      7(北)

  基壇は版築で築かれるも、外装(壇上積、瓦積・・・なのか)がどのようなものであったのかは今回の発掘では確認は出来なかったと云う。

3)基壇外周の堆土の状況を確認。
  多少の疑問点あるいは十分説明が出来ない状況もあるが、おおむね大量の瓦を含む2層の焦土の堆積を確認。
  天暦3年(949)及び寛仁元年(1017)の焼失記録に対応するものではないかと想定される。
  堆積焦土・瓦

4)いくつかの金銅製品及び大量の瓦が出土
  ◇風鐸の完全品が出土

出土風鐸

1)風鐸

出土風鐸1:左図拡大図
出土風鐸 2

出土風鐸図
参考:
 但馬国分寺跡出土風鐸

3)金銅製品部分(用途不明)

出土金銅製品1

 同      2

 

2)推定水煙部分

出土水煙?1

 同      2

4)出 土 瓦

軒  平 瓦
軒丸瓦  1
 同    2
鬼     瓦

4)2006/12/17:東塔跡発掘調査現地説明会

前年(2005年)まで5ヶ年にわたり西塔の発掘調査が実施された。
本年(2006年)は東塔基壇の規模確認を目的として、東塔の発掘調査が行われる。
 なお、東塔周囲の擁壁は昭和49年に施工されたものであり、この時一部の延石の発見がある。
また、東塔基壇と西塔との基壇は約130mを隔てる。
今般は基壇南辺、西辺、北辺にトレンチを設けて実施し、その結果、基壇南北一辺は約21m(70尺)で、西塔と同一規模であると確認される。
凝灰岩製の基壇化粧切石の残存状況は余り良好ではなかったが、南北の階段付近、西南隅附近からは延石が残存し、それ以外でも延石の据付痕跡が確認される。
階段の切り出しは南及び西階段で確認ができる。南階段部分に於ける階段の出は約1.5m、幅約5mを測る。
基壇の内部の土盛部は(発掘範囲では)西塔で確認された強固な版築は見られない。
版築の見られない理由は、東塔では(西塔より地形的に若干高いため)地山を凸に切り出し、その上に土を盛った工法であるためと考えられるからである。
 ※当面、東塔の発掘は今回で終了(西塔のような全面発掘の予定はない)とのことである。

現地説明会資料より:
 東塔周辺遺構平面図:左図拡大図
 東塔発掘区位置図

北階段・西延石1
  同      2
  同      3

西階段・延石据付痕跡
西基壇南半分延石

第2発掘区:近世の瓦溜まり、池跡などが出土


南階段部西部発掘1
  同        2
南階段部西延石1
  同       2:左図拡大図
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
南階段部東部状況1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

 南階段・崩落跡・石敷き:基壇周辺は耕作でかなり削平されているが、南側には遺構が残存する。
 南部石敷き1      南部石敷き2
  最初の堆積は9世紀後半以降で、その上に参道と思われる石敷きが出土、その後13世紀頃石敷は整地されたと考えられる。
 全容は不明であるが、南が塔の正面として扱われていたのであろうと推定される。

 南部火災の崩落:最上部には焼土層が堆積し、最終的に東塔は火災によって崩落した のであろう。
  この焼土層には鎌倉期の文字瓦(大安寺寶塔、大安寺塔)が多く含まれ、塔は鎌倉期に修復されたことが推定される。

発掘遺物など:
 奈良期軒丸瓦      奈良期軒平瓦1     奈良期軒平瓦2
 鎌倉期文字軒平瓦1     鎌倉期文字軒平瓦2      鎌倉期文字軒平瓦3      鎌倉期文字軒平瓦4
  ※文字瓦拓本:現地説明会資料より

寛治4年(1090)この頃までに、七重宝塔ほか金堂などの修造がなる。(京都御所東山御文庫記録)
元久元年(1204)七重宝塔修理勧進。(春華秋月抄)
文応元年(1260)この頃までに、別当宗性、塔を修理。(法勝寺御八講問答集」
永仁4年(1296)東塔雷火で焼失。(和漢春秋暦)

 奈良三彩破片


5)2002/07/28:塔 跡 現 況

現在の大安寺は元の南大門・中門付近に近年の小伽藍を残す。
現伽藍地の南方、八幡宮の社叢及び参道のすぐ南に全く廃絶した東西両塔の土壇を残す。
○西塔跡地表には心礎を残す。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.5×2.2mで、径約1.5mの柱座の造り出しを持つ。
出枘式であったと推定されるが、出枘の痕跡はない。心礎を割ろうとした楔孔が直径上にある。
 (この楔はいつの時代のものかは不明であるが、それ故に全くの憶測ではあるが、付近の大和郡山城<石垣には多数の礎石・石仏などが転用されている>への転用を試みた痕跡 であるのかも知れない。)
○訪問時の東塔跡は夏場でブッシュがひどく、通常の装備では足を踏み入れることは不可能な状態である。
 (東塔跡には土壇のみがあり、礎石は全て持ち去られていると云う。)
東塔は七重塔であったと伝える。
 (2006/12/17:西塔基壇と東塔基壇は同一規模で、この点からも西塔も七重塔と推定される。)
○大安寺は飛鳥の百済大寺、高市大寺、大官大寺を前身とし、和銅3年(710)平城京に移って大安寺と称する。
天平神護2年(766)東塔に落雷。
天暦3年(949)西塔が雷火で焼失。
寛仁元年(1017)主要堂宇焼失、塔1基及び釈迦如来像1体のみ焼失を免れる。
その後再建が続けられたが、長久2年(1041)に焼失。
寛治4年(1090)には七重宝塔1基(東塔)、金堂など主要伽藍を再興。
しかしこの東塔も慶長元年の地震で倒壊したと云う。
2002/7/28撮影:
 大和大安寺西塔跡1       同         2       同         3       同         4
   同    東塔跡1       同         2
2003/02/22東塔跡現状:
  東  塔 跡 1           同       2        同       3

2012/03/15撮影:
東塔跡は現在復元整備中、壇上積基壇・石階・心礎/四天柱礎/脇柱礎/地覆石などの模型礎石の設置が終了し、現在の工程は基壇上に芝生を張るものである。(芝張は3日の工程予定)
その後周辺整備をして完工であろうと推定される。(程なく東塔復元整備工事は竣工と思われる。)
東塔跡
 大和大安寺東塔跡11:大正10年年紀     大和大安寺東塔跡12     大和大安寺東塔跡13     大和大安寺東塔跡14
 大和大安寺東塔跡15               大和大安寺東塔跡16     大和大安寺東塔跡17     大和大安寺東塔跡18
 2013/02/09撮影:基壇復原工事は竣工
  大和大安寺東塔跡21   大和大安寺東塔跡22   大和大安寺東塔跡23   大和大安寺東塔跡24   大和大安寺東塔跡25
西塔跡
 大和大安寺西塔跡11;石碑     大和大安寺西塔跡12
 大和大安寺西塔跡13:心礎     大和大安寺西塔跡14:心礎     大和大安寺西塔跡15:心礎
 2013/02/09撮影:
  大和大安寺西塔心礎16

2017/01/19追加:
○「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016 より
大安寺の礎石の行方
塔跡には西塔に心礎が1個と東塔に破壊された脇柱礎1個が残る。
そして西塔心礎には心礎を割ろうとした「矢穴」が9カ所残る。このように「矢穴」を穿って石を割る方法は一応鎌倉期からであろうといわれ、古代にはどのようにして石を割ったか分かってはいない。
四角の「矢穴」はお城の石垣などによく見られ、西塔の「矢穴」も四角であるので、安土桃山期か江戸初期に開けられたものと思われる。そして発掘調査ではこの心礎の周囲から16世紀末から17世紀初期の遺物が出土する。心礎の「矢穴」はこの時期のものと思われ、大和郡山城の築城の時、割って石材にしようとした可能性が高いと思われる。
因みに、江戸期の奈良奉行所与力の手控え「庁中漫録」には「天正年中、国主・家臣ら寺物を侵掠、或は檀石を取る」と記すという。
大安寺の礎石はこの時(天正期)に搬出されたとみられるものが多く、塔跡の他の礎石も、そのほとんどは郡山城に持っていかれた可能性が高いと思われる。
 → 大和郡山城跡

2023/01/13追加:
◆流出礎石
京都北村美術館/四君子苑には流出した礎石が蒐集されている。
○「四君子苑の庭と石」 より
 解説文:大安寺は南都七大寺の一つで、熊凝寺が起源という。
  四君子苑・大和大安寺礎石
    →京都北村美術館・四君子苑

2006/12/27追加:
木片勧進(一畳敷)
「木片勧進」によれば「大和大安寺五重塔土壇」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立した>の部材(東口沓脱石)として転用されると云う。
「廃大安寺五重塔土壇。・・・始め熊凝精舎・・百済寺ト云・・移高市・・大官大寺・・此地に移る・・天平元年大安寺と改む。
其旧跡今村の内に一つの茅舎となるのミ。塔跡は村東今瓦やの土取場に成る也。近比此両人(生田福太郎、田中猶次郎)其地を探得て堀出されしもの也。」
 ※当時(明治初頭)五重塔土壇は「瓦やの土取場」となっていた模様で、相当破壊されたと思われる。(特に東塔)
勧進された「部材」は塔礎石もしくは基壇の羽目石などと推定されるも、「松浦武四郎記念館」資料では「取替え」とあり、何等かの事情で、「大安寺五重塔」を転用した「東口沓脱石 」は現存しないものと思われる。
※「草の舎」は解体・移転を繰り返し、このような屋外の石が移転出来ず、現地に残され亡失の可能性は高いと思われる。
※「廃大安寺五重塔土壇」と云うも、塔土壇から搬出した礎石もしくは基壇化粧石材と思われる。
 そしてこの礎石もしくは石材が沓脱石に転用されたと思われる。
木片勧進東面図:この絵を見ると、切石というより、削平もしくは周囲が割られた自然石のように見える。
 大安寺の基壇化粧石材は精美な切石が使われるため、この沓脱石は大安寺塔の礎石である可能性が高いと思われる。
 また、はっきりと「其地(塔阯)を探得て堀出されしもの也。」と記するので、これも塔の礎石などの遺物であることを示す。
※しかしながら「草の舎」は解体・移転を繰り返し、そのため屋外の大石が移転出来ず、元地に残されたことは有り得ると推測される。
 であるならば、今沓脱石があるとすれば、後に補充された可能性が高いが、何れにせよ、手持ち資料では情報が皆無であり、
 また実見していない為、この大安寺<塔礎石>が現存か亡失かは良く分からない。
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 現在この礎石は失われている。
大正2年(1913)の写真で見る限り、当時既に普通のそれもおそらくコンクリート製の石に替えられていたようである。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
 「一畳敷」沓脱石1       「一畳敷」沓脱石2
写真で見るように、大和大安寺「五重塔土壇(礎石)」は失われ、沓脱石は一般的な汎用品が置かれる。

 → 「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第91番)のページを参照 。


6)大安寺現況

2020/10/27追加:
○南都大安寺の系譜
南都大安寺の系譜は次のようである。
 熊凝精舎(聖徳太子) → 百済大寺(舒明天皇/吉備池廃寺) → 高市大寺(天武天皇) → 大官大寺(天武天皇→文武天皇/大官大寺跡) → 平城京大安寺
 ※大和吉備池廃寺(百済大寺跡)・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺を参照
以上のように南都大安寺の前身は超一級の輝かしいものであった。しかし、所謂南都七大寺のうち、ほかの大寺に比して、大安寺だけが見る影もなく衰退したのである。
2020/10/27追加:
○「大和古寺大観 第三巻 元興寺極楽坊・元興寺・大安寺・般若寺・十論院」岩波書店、1977 より
 大安寺伽藍復元図
現在の地図に赤字で創建時の大安寺を復元したものである。
 一方、奈良期に造営された平城宮大安寺は寛仁元年(1017)の火災で、伽藍の殆ど全てを失う。
火災の翌年より、再建に着手し、ほぼ100年をかけて、大安寺は旧観のように再建される。
しかし、平安末期から大安寺は徐々に衰微し、建物・仏像は破損する。
室町期には興福寺大乗院の支配下にはいる。
至徳2年(1385)堂舎の全てを焼失、その後度々の台風・兵火・地震などで堂舎を失う。
天正の頃には真言律宗に属し、寺僧は西大寺に退き、江戸期には真言律宗海龍王寺が兼帯する。
慶長の大地震で天正に再興された仮金堂が倒壊、大安寺は廃絶する。
その後、阿誰という盲人が残された観音像を祀った観音堂を作り、大安寺の印としたと伝える。
かっては国家鎮護の筆頭の寺院であった大安寺は南都の大寺では唯一消滅したのである。
明治以降、小規模な堂宇が建立され、現在の大安寺となる。
 大安寺伽藍跡図:何時の時代か不明の圖であるが、おそらく江戸期のもので、鎮守八幡宮を除き、ほぼ廃跡と化した大安寺の様子が分かる。

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

2007/01/02追加:「Y」氏ご提供
○新修「日本文化史体系奈良文化」誠文堂新光社、昭和18年 より
 大安寺図:北側に 弥勒・薬師院があり、そこに五重塔が描かれる。
2012/03/15撮影:
○ 大安寺境内案内板を撮影
 大安寺伽藍古図:年紀あるいは由来など不明。
  北側の弥勒・薬師院に五重塔、東西に五重塔(五重とは不審である)が描かれる。東塔の北に八幡社が描かれる。
     ↓
     ↓ ※上記「大安寺伽藍古図」について、年紀・由緒など不明記すも、奈良市「長井氏」より、次の情報提供を受ける。
     ↓
 2020/10/27追加:奈良市「長井氏」情報ご提供
 上記「大安寺古図」については「大安寺の美術」(奈良大安寺発行)に記載がある。
 ○「大安寺の美術」奈良大安寺、平成26年(2014) より
  10大安寺伽藍図:紙本着色、江戸〜明治、次に掲載の「9大安寺伽藍図」を絵画的・俯瞰的に描いたもの。
 以上により、境内案内板にある「大安寺伽藍古図」は本図を転載したものと判明する。
  要するに、境内案内板にある「大安寺伽藍古図」は寺蔵の「10大安寺伽藍図」を転載したものである。
 そして、この原図は江戸〜明治に作成されたもので、古の大安寺伽藍を復元的に描いたものと解説される。
  9大安寺伽藍図:紙本着色、江戸〜明治
  ※なお、「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016 のp.62にも「10大安寺伽藍図」は掲載され、
  (江戸〜明治時代)と注記されている。但し掲載された図版は小さいものである。

2013/03/11追加:
○明治三十二年 「名所旧蹟古墳墓一件」 より
 大安寺伽藍再興絵図
元境内 8町四方 全て耕地となり境界不詳
金堂 講堂 東金堂 西金堂 東室 西室 北室 鐘楼 鼓堂 食堂 浴室 竈殿 中門 廻廊 聖徳太子堂 仁王門 東大門 西大門 北大門
 以上の旧跡は明治維新までは全て芝地なりしを、払下し現今の如く畑地に開墾し民有地に編入される。
推古天皇御堂旧跡 石清水 護国寺 宝庫 東塔 東塔院 西塔
 以上旧跡は雑木繁茂して森林となる。
護摩堂 文殊堂 千手堂の三宇は明治維新までは現存しありも無本寺無縁なるにより村民に払下げ取壊てり。
 現今小学校及び村役場の敷地となる。字ゴマドウ云。
鎮守石清水八幡宮は末社及び諸建物等往昔の侭現存す・・・・
縁由・・・省略・・・
弥勒堂の一搆は年限不詳今村の宅舎となる 善法寺の一搆は全て耕田となりて字善法寺と号す。
本寺は明治16年現況の如く、仮本堂及び庫裏の二棟を建築セリ。・・・・
 大安寺現況旧跡図
※何れの絵図にも弥勒(薬師)院に五重塔が描かれるも、弥勒堂薬師堂五重塔の沿革の資料がなく、全く不詳。

2012/03/15撮影:
大安寺は熊凝精舎、百済大寺、高市大寺、大官大寺と変遷し、和銅3年(710)平城遷都により、現在の地(平城宮左京)に地に遷寺し大安寺と称する。
  → 参考:大和額安寺(熊凝精舎)
  →  参考:大和吉備池廃寺・大官大寺

 大安寺本堂     大安寺不動堂(護摩堂):新護摩堂が建築中     大安寺嘶堂     大安寺小子房
 大安寺護摩堂1     大安寺護摩堂2:現在新築中で、おそらく 新しい護摩堂であろう。
 大安寺礎石:柱座を造出、おそらく大安寺創建時の時の礎石と推定されるが、確証は得ていない。
 鎮守八幡は大同2年(807)大安寺行教(石清水八幡宮も勧請)が宇佐八幡を勧請したものと伝える。
 大安寺鎮守八幡社正門     大安寺鎮守八幡社中門:室町期の遺構(近世初頭に改造)と云う。
 2013/02/09撮影:
  大安寺鎮守八幡社中門2

大安寺「足場の塔」
「東アジア文化都市2016奈良市 古都祝奈良(ことほぐなら) -  時空を超えたアートの祭典」 にて、大安寺では「足場の塔」が展示される。
 本年(2016年)は、日本では奈良市が選定され、奈良の旧南都七大寺などの会場で展示がなされる。
南都大安寺では、東塔跡の南西附近で開催され、「足場の塔」が展示される。作家は川俣正氏(パリ在住の造形作家という)。
高さ約25m、一辺12mで、吉野杉の間伐材の丸太約1500本と、約600枚の板材を使用という。塔を彷彿とさせる作品となる。
2016/10/08「X」氏撮影画像
 西塔跡と「足場の塔」     「足場の塔」1     「足場の塔」2     「足場の塔」3     「足場の塔」4
 大安寺西塔跡17     大安寺西塔跡18
 大安寺東塔跡26:向かって左端中央に微かに写るのは西塔跡である。      大安寺東塔跡27
2016/10/15撮影:
 「足場の塔」5     「足場の塔」6     「足場の塔」7
 大安寺西塔跡19     大安寺西塔跡20
東塔跡:
基壇の規模は約21m(70尺)四方、高さは約1.8m(6尺)と推定される。
復原基壇は上部の0.7mを復元したもので、下部は埋まった状態を表現している。
※復原基壇が意外に低く感じるのは、高さが1.8mの4割程度しか復原されていないからと知れる。
東塔初重は3間四方で、心柱・四天柱・その外側に側柱の礎石抜取穴を確認する。
側柱の1個は遺存していた。
本来、塔基壇の上面は壇上積基壇の一番上の葛石に合わせてフラットであるはずであるが、復原基壇では上面を膨らませている。
これは、遺存する礎石を保護するためである。
※結局、東塔の復原基壇は見た目高さは極端に低いし、基壇上面は膨らんでいるしとい何やら「怪しい」復原基壇になっているといわざるをえないであろう。
 大安寺東塔跡28     大安寺東塔跡29     大安寺東塔跡30
現地説明板を撮影
 南階段延石出土状況     ◎東塔側柱礎石
南門:
興福寺一乗院寺門を復元したものという。
大安寺寺僧談:この門は元来法華寺の寺門であったものを一乗院に移建、明治維新後裁判所の門であったが解体して大安寺が貰い受ける。
平成12年、復原南大門基壇上に、旧一乗院寺門を復元し、大安寺南門とする。
 大安寺南門1     大安寺南門2     大安寺南門3     大安寺南門4     大安寺南門5
 大安寺本堂2     大安寺嘶堂・小子房     大安寺護摩堂3
発掘調査:
大安寺南門の南と大安寺西塔院北との間で発掘調査が行われる。
2016/10/28奈良市教育委員会より報道発表が次のようになされる。
 「大安寺の旧境内である南門南側から、奈良時代の平城京の東西道路「六条大路」南側溝とみられる溝が見つかる。
南側では塔院(塔のあった区画)を画した築地塀の雨落ち溝らしい東西溝も確認。六条大路が境内を横断していた可能性が高くなり、古代の大寺の様相を知る上で貴重な手がかりとなりそうだ。
 2本の東西溝はいずれも幅1・5m〜2mで、約3mあけて並んでいた。北側の溝からは奈良から室町時代にかけての瓦が出土し、位置関係からも室町時代まで存続していた六条大路南側溝と推測。南側の溝からは奈良から平安時代の瓦が見つかり、築地塀の雨落ち溝とみられるという。」
 大安寺境内六条大路跡1     大安寺境内六条大路跡2:いずれも南門附近から南を撮影


2006年以前作成:2023/01/13更新:ホームページ日本の塔婆