大 和 多 武 峰 妙 楽 寺

大和多武峰妙楽寺

多武峰妙楽寺十三重塔:重文

天武天皇7年(678)中臣鎌足長男定恵が唐からの帰国し、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが多武峰の草創である。
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」 より:
 承安3年(1173)興福寺衆徒の焼き討ちで焼失。
 文治元年(1185)再興。
○室町期亨禄5年(1532)再建。唯一の木造十三重塔の遺構。高さ13.2m。相輪は七輪。心柱は2層止まり。
本尊文殊菩薩は撤去され、現在は銅円鏡が安置と云う。今は談山神社神廟と称する。
○「大和の古塔」 より:
基壇下成一辺28尺、高さ2尺、上成一辺19尺2寸、高さ2尺、亀腹一辺13尺9寸、高さ1尺3寸
 初重全3間9尺5寸3分、中央間3尺9寸1分、両脇間2尺8寸1分
 二重全3間8尺4寸4分、中央間3尺3寸4分、両脇間2尺5寸5分
 三重全3間8尺7寸6分、中央間3尺2寸6分、両脇間2尺4寸5分
 四重全3間7尺4寸4分、中央間3尺1寸8分、両脇間2尺3寸5分
 五重全3間7尺6寸1分、中央間3尺1寸1分、両脇間2尺2寸5分
 六重全3間7尺3寸3分、中央間3尺0寸3分、両脇間2尺1寸5分
 七重全3間7尺0寸5分、中央間2尺9寸5分、両脇間2尺0寸5分
 八重全3間6尺7寸8分、中央間2尺8寸9分、両脇間1尺9寸5分
 九重全3間6尺5寸0分、中央間2尺8寸0分、両脇間1尺8寸5分
 十重全3間6尺2寸2分、中央間2尺7寸2分、両脇間1尺7寸5分
 十一重全3間5尺9寸4分、中央間2尺6寸4分、両脇間1尺6寸5分
 十二重全3間5尺6寸7分、中央間2尺5寸7分、両脇間1尺5寸5分
 十三重全3間5尺3寸9分、中央間2尺3寸9分、両脇間1尺4寸5分、
 相輪長12尺1寸、全高53尺3寸5分

2002/03/28撮影:
○多武峰十三重塔

多武峰十三重塔01
多武峰十三重塔02
多武峰十三重塔03
多武峰十三重塔04
多武峰十三重塔05
多武峰十三重塔06
多武峰十三重塔07
多武峰十三重塔08:左図拡大図
多武峰十三重塔09
多武峰十三重塔10
多武峰十三重塔11
談山神社発行ルーフレット(1980年年代か)より
 多武峰十三重塔

2013/08/30追加:
2011年発行ルーフレットより
 多武峰十三重塔9

2015/02/27追加:
平成27年度談山神社ルーフレット より
 多武峰十三重塔雪景

 多武峰楼門
 多武峰本殿     多武峰本殿2     多武峰本殿3     多武峰本殿4

2007/08/23追加:
○「日本名勝写真図譜略説」東京:画報社、明治34年 より
  多武峰望遠1      多武峰望遠十三重塔
○「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
  多武峰十三重塔31
○「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より
  多武峰十三重塔32
○「日文研」 より
  多武峰十三重塔33
2017/01/11追加:
○絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 談山神社十三重之塔絵葉書

多武峰概要

○平安末に天台宗に転じ叡山末となり、そのため、度々南都(興福寺)から焼き討ちされる。
江戸期においても、寺領3000石、42坊を数えたと云う。
明治維新の神仏分離で、一山は寺院派と神社派に割れたが、神社として存続することに決し、談山神社と改号する。
主要仏堂は神社として存続したが、多くの坊舎は廃絶、今なお多くの院坊跡を見ることが出来る。またこの時、多くの仏像・仏具が棄却される。
 ※神仏分離の処置で主要堂塔は以下のように改竄される。(けだし、実態が寺院であり、神社の実質が無かったためと思われる。)
残存する堂塔:東大門、聖霊院(本殿・重文)、護国院(拝殿・重文)、楼門(重文)、講堂(神廟拝所・重文)、常行三昧堂(権殿・重文)、総社本殿(重文)、総社拝殿(重文)、東西宝庫(いずれも重文)、本願堂(東殿・重文)、比叡神社(重文)、観音堂、増賀堂。
○「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊 より:
 多武峰十三重塔(部分図)      多武峰全図
談山妙楽寺護国寺と号する。諸文献では塔婆は定恵和尚の草創で、妙楽寺の根本とされる。
地底に大織冠(鎌足)の遺骨を収めたとされる。本尊は文殊菩薩。什宝として粟原寺三重塔伏鉢(国宝)などを有する。
○「多武峰略記」「諸寺縁起集」:
天智天皇8年藤原鎌足逝去、最初は次子不比等により摂津阿威山に葬られる。
白鳳7年、長子定慧帰朝、この地に改葬し、廟塔としてこの十三重塔を建立し、これを護持するために妙楽寺を創建する。
「多武峯寺略記」:十三重塔のほかに、妙楽寺にはかって多宝塔・三重塔も存在する。
○2006/04/07追加:
「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」:多武峯之圖:江戸後期
2007/09/25追加:
○「談山神社十三重塔」関野貞(「建築雑誌」第231号、明治39年 所収) より
今の塔の再建年代は記録口述の伝ふるものなしが、解体時発見された棟札によって、享禄5年(1532)と知れる。
各重方3間四面中、中央間1間は板戸、初重脇間は連子窓、柱上には組者を用いず、出梁によって丸桁を支持する。軒は二重繁垂木、屋根檜皮葺、外部木材は朱塗、木口には黄土を塗る、垂木端は鍍金の包金物を装す、内部は素木のまま。
明治36年から38年に解体修理。この時、寛永18年の棟札を発見。
  十三重塔建永18年棟札全文
2007/09/25追加:
○「多武峰妙楽寺の展開」秋永政孝:
 当論文は『「桜井町史 続」桜井市役所、昭和32年』 所収論文である。
 なお、当論文は『「権現信仰」(民衆宗教史叢書:第23巻)平岡定海編、雄山閣、平成3年』にも収録される。
明治維新までは、多武峰寺・多武峰妙楽寺・談山権現・護国院などと称された。
「多武峰略記」(建久8年<1197>の成立で、鎌倉期以前の妙楽寺を知りうる唯一の資料と云われる。)では
天智天皇8年(669)藤原鎌足逝去、最初は次子不比等により摂津阿威山に葬られる。
白鳳7年、長子定慧帰朝、この地に改葬し、廟塔として十三重塔を建立し、これを護持するために妙楽寺を創建する。
その後堂塔は荒廃するも、平安初頭、賢基(後に延安)が荒廃を憂い、妙楽寺を復興し、初代検校となる。
 ※延喜式・諸陵部の記載に「多武峰墓 贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和国十市郡・・・・」とあり、
 通常、淡海公とは鎌足次子不比等を指し、このことから、多武峰には鎌足ではなく不比等が葬られたとする説も流布した(している)。
 この説は、「多武峰略記」の記載などで信じられてきたことが否定される説ではある。
 しかし、淡海とは明らかに鎌足も指すと思われる文献も散見され、延喜式で云う淡海とは鎌足を指すと解釈しても不当ではなく、
 古来からの信仰と矛盾するものではない。
延喜19年(919)実性僧都、多武峰第4代検校官符を受ける。実性は高名な延暦寺修行僧で、さらに天暦元年(947)多武峰座主となる。
以降延暦寺門人を座主に、多武峰門人を検校にする習慣が始まり、多武峰は自ずから叡山の末寺となる。(叡山末寺化については異説もある。(「今昔物語」)
応和3年(963)叡山学僧・増賀上人が多武峰に登り、当地で多くの弟子に天台教学を講莚する。以降天台教学が強固に多武峰に根を張ることとなる。
平安末期の一山の塔婆・堂宇については以下と伝えられる。(「多武峰略記」)
塔婆
 十三重塔:鎌足墓、定慧の建立、定慧が清涼山宝池院塔を移すと伝える、あるいは栗木の一株で作られたと云う。
 多宝塔:万寿元年(1025)検校道安の造立。
 三重塔:仁安(1167)立柱、松殿関白太政大臣基房の御願。
堂舎
 講堂:十三重塔南、3間四面堂、号妙楽寺、定慧白鳳11年建立。
 金堂:講堂東、定慧建立、弥勒金仏を修す。
 如法堂:天暦8年(954)実性建立。
 法華三昧堂:康保元年(964)村上天皇法華堂建立、増賀上人移修三昧於此堂。
 常行三昧堂:天禄元年(970)摂政藤原伊尹常行堂建立、覚如禅師弥陀像安置、長保2年佐伯禄雅文建之。
 曼荼羅堂:天禄元年(970)藤原伊尹建立。
 普門堂:貞元元年(976)円融天皇建立。
 先徳堂:嘉応元年(1169)俊賀法師勧進寺中建立。
 食堂:承平5年(935)座主真昇、萱葺9間2面の食堂を建つ。
 温堂:釜1口。
 鐘楼:鐘1口、此鐘寛平年中賊来盗之、天慶5年(942)実性・真昇鋳造。
聖霊院:檜皮葺3間四面、大職冠尊像安置。
総社:檜皮葺、延長4年(926)はじめて総社を造る。
別院
 東院堂、南院堂、浄土院、浄土院経蔵、平等院、平等院経蔵、多楽院、宝積院、五大堂、灌頂堂、小栗栖堂、冬野寺
末寺等:多くの末寺があるが、著名な寺院も散見される。(著名な末寺は以下の通りである。)
 音石寺(法号善法寺):土市郡音羽山中にある。
 坂田寺(法号金剛寺):高市郡南淵、鞍作鳥の建立と云う。
 山田寺(法号華厳寺):蘇我倉山田石川麻呂の建立
 久米寺:高市郡久米
 国源寺:神武天皇陵域から明治初頭に大窪寺跡に移転した寺院と思われる。  など
多武峰は藤原氏始祖鎌足の墓所であるが、叡山末になったため、平安後期から中世にかけて、藤原氏の氏寺興福寺との間で数多くの争乱が惹き起こされる。この争乱は、基本的には興福寺と延暦寺との争いがあるたびに、叡山末多武峰は興福寺の襲撃を受け、多武峰側に多くの損害を出すという構図であった。
大損害を出した著名な争乱(戦闘)には以下がある、
天仁2年(1108)浄土院他諸坊、山郷の村々、食堂・経蔵・惣社・大温室・多宝塔・灌頂堂・五大堂・浄土堂が焼かれる。
承安3年(1173)浄土院・南院・平等院を始め講堂・金堂・常行堂・十三重塔・法華堂・聖霊院・宝蔵・鐘楼・惣社・曼荼羅堂・三重塔・先徳堂・食堂・大温堂・浄土堂・五大堂など山郷・寺中・堂塔悉く焼失する。
その他の抗争・強訴・威嚇などは枚挙にいとまがない。
 南北朝期正平6年(1351)失火により、一山悉く焼失、すぐさま翌年から再興に着手する。
永享元年(1429)大和永享の乱に巻き込まれ、「堂社坊舎払地炎上」一山ほぼ焼失。
大和永享の乱後は一山の確執(学侶と堂方)が抗争を呼び、しばしば堂塔坊舎を焼く。
 ※例えば応仁3年(1469)南院と平等院が乱闘し、火を放ったため、一山殆ど焼亡する。
永正3年(1503)大和諸土豪の抗争で、一山焼失、まもなく復興。
天正13年(1585)豊臣秀長大和入府、多武峰の弓・鎚・鉄砲・具足・甲冑・太刀など一切を没収、ここに中世的衆徒(僧兵)は下山し壊滅した。
天正16年秀長は大織冠の郡山遷座を命ずる。
天正18年郡山より帰山、32坊が復興、慶長5年には42坊。
近世には金剛院以下社僧42坊、雑役6坊、葬儀は奥院の福智院以下4坊、清蓮院・宮本坊・学頭竹林坊などで構成された。
2006/11/05追加:
○「神仏分離の動乱」より
本尊は大職冠藤原鎌足で十三重塔を中心に藤原氏の隆盛とともに繁栄を極める。それゆれその権勢は他の寺社勢力と同様極めて世俗的でもあった。天台の支配下にあり、専門の神職は存在せず、経営・行事・祭礼には全ては僧侶が行っていた限りでは、寺院であったが、本尊は談山権現、談山明神であり、この点では神仏が不可思議に習合していたとも思われる。
幕末に於いても子院33坊と承仕(堂舎・仏像管理・雑役)坊6坊があった。寺領は6000石。
神仏分離令によって、妙楽寺は本尊鎌足を神格化した故に、その本尊を守るために復飾・神勤するか、寺院であることを貫き下山するかの選択を迫られることになる。一山は復飾派と寺院派とで争ったが、結局は(おそらくは経済的理由で)山を離れるのは困難で、一山復飾・神勤することに決する。
かくして(神社としての実体のない妙楽寺を神社として粉飾するために)
聖霊院は本殿、護国院は拝殿、十三重塔は神廟、講堂は拝所、常行三昧堂は権殿、護摩堂は祓殿・・・などの無茶苦茶な転用がなされ現在に至る。昨日までは本尊などであった諸堂安置の仏堂・仏具・仏画などは「屑」のように扱われ、一箇所に集められ、どんどん売払れていった。講堂本尊釈迦涅槃像は25銭、仏画25幅が一括して25銭であった。 (二束三文で夥しい什宝が売却されたと云う。)
それも昨日までは僧侶であったものどもの手によってである。
明治4年上地令で寺領・社領が没収、多武峰妙楽寺は困窮を極め、一山崩壊・離散という結末になる。


参考:文献上あるいは遺構の残る木造十三重塔
以下の寺院に存在したことが知られる。
 ※山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺


2006年以前作成:2017/01/11更新:ホームページ日本の塔婆