大 和 多 武 峰 妙 楽 寺

大和多武峰妙楽寺

多武峰妙楽寺十三重塔:重文

天武天皇7年(678)中臣鎌足長男定恵が唐からの帰国し、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが多武峰の草創である。
○「塔における両界曼荼羅空間の展開」 より:
 承安3年(1173)興福寺衆徒の焼き討ちで焼失。
 文治元年(1185)再興。
○室町期亨禄5年(1532)再建。唯一の木造十三重塔の遺構。高さ13.2m。相輪は七輪。心柱は2層止まり。
本尊文殊菩薩は撤去され、現在は銅円鏡が安置と云う。今は談山神社神廟と称する。
○「大和の古塔」 より:
基壇下成一辺28尺、高さ2尺、上成一辺19尺2寸、高さ2尺、亀腹一辺13尺9寸、高さ1尺3寸
  初重全3間9尺5寸3分、中央間3尺9寸1分、両脇間2尺8寸1分
  二重全3間8尺4寸4分、中央間3尺3寸4分、両脇間2尺5寸5分
  三重全3間8尺7寸6分、中央間3尺2寸6分、両脇間2尺4寸5分
  四重全3間7尺4寸4分、中央間3尺1寸8分、両脇間2尺3寸5分
  五重全3間7尺6寸1分、中央間3尺1寸1分、両脇間2尺2寸5分
  六重全3間7尺3寸3分、中央間3尺0寸3分、両脇間2尺1寸5分
  七重全3間7尺0寸5分、中央間2尺9寸5分、両脇間2尺0寸5分
  八重全3間6尺7寸8分、中央間2尺8寸9分、両脇間1尺9寸5分
  九重全3間6尺5寸0分、中央間2尺8寸0分、両脇間1尺8寸5分
  十重全3間6尺2寸2分、中央間2尺7寸2分、両脇間1尺7寸5分
 十一重全3間5尺9寸4分、中央間2尺6寸4分、両脇間1尺6寸5分
 十二重全3間5尺6寸7分、中央間2尺5寸7分、両脇間1尺5寸5分
 十三重全3間5尺3寸9分、中央間2尺3寸9分、両脇間1尺4寸5分、
 相輪長12尺1寸、全高53尺3寸5分
2007/09/25追加:
○「談山神社十三重塔」関野貞(「建築雑誌」第231号、明治39年 所収) より
今の塔の再建年代は記録口述の伝ふるものなしが、解体時発見された棟札によって、享禄5年(1532)と知れる。
各重方3間四面中、中央間1間は板戸、初重脇間は連子窓、柱上には組者を用いず、出梁によって丸桁を支持する。軒は二重繁垂木、屋根檜皮葺、外部木材は朱塗、木口には黄土を塗る、垂木端は鍍金の包金物を装す、内部は素木のまま。
明治36年から38年に解体修理。この時、寛永18年の棟札を発見。
  十三重塔建永18年棟札全文
2020/06/28追加:
○「磐余・多武峯の道」
内部は土台の上に床板を張り、心柱は二層で止まる。四天柱の三面を板囲いとし、正面に神鏡を置くという。相輪は七輪である。
2020/11/19追加:
○「重要文化財談山神社塔婆(十三重塔)修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所編、奈良県教育委員会、1966.3 より
本著に多武峰の沿革、塔婆(十三重塔)の沿革、塔婆の構造形式および立面図・平面図などの図版の掲載がある。
(転載はしないので、本著に当たるべし。)

○多武峰十三重塔
2002/03/28撮影:

多武峰十三重塔01
多武峰十三重塔02
多武峰十三重塔03
多武峰十三重塔04
多武峰十三重塔05
多武峰十三重塔06
多武峰十三重塔07
多武峰十三重塔08:左図拡大図
多武峰十三重塔09
多武峰十三重塔10
多武峰十三重塔11
談山神社発行リーフレット(1980年年代か)より
 多武峰十三重塔

2013/08/30追加:
2011年発行リーフレットより
 多武峰十三重塔9

2015/02/27追加:
平成27年度談山神社リーフレット より
 多武峰十三重塔雪景

2020/05/07/撮影:
妙楽寺常行堂・塔婆・講堂
妙楽寺塔婆・講堂
妙楽寺常行堂・塔婆
妙楽寺十三重塔11
妙楽寺十三重塔12
妙楽寺十三重塔13:左図拡大図
妙楽寺十三重塔14
妙楽寺十三重塔15
妙楽寺十三重塔16
妙楽寺十三重塔17
妙楽寺十三重塔18
妙楽寺十三重塔19
妙楽寺十三重塔20
妙楽寺十三重塔21
妙楽寺十三重塔22
妙楽寺十三重塔23
妙楽寺十三重塔24
妙楽寺十三重塔25

◆多武峰縁起絵巻
絹本着色。現在では、十六世紀中頃以前の成立かと云われている。
○「多武峯縁起絵巻」談山神社、長岡千尋、2016 より
この絵巻では藤原鎌足の生涯(大化の改新という権力闘争など)、長男定恵による鎌足廟所・十三重塔・講堂・本殿の創建、増賀上人の事績、御破裂の霊験譚などが描かれる。
本ページでは定恵による十三重塔建立について取り上げる。


                            多武峰縁起絵巻:上図拡大図:サイズ:2.88M

当然ながら、絵巻は向かって右から左に移動する。
ここに表されていることの真偽は不明であるが、妙楽寺あるいは妙楽寺十三重塔の創建譚である。

定恵、唐に在るとき夢をみる。曰、身は忽然として談の峯に居る。そこで父鎌足が告げて云う。吾今天に昇った。汝はこの地に寺塔を建て、清浄な業を修めよ。吾はわが神霊をこの峯に天降して子孫を擁護し、仏法を世に広めようぞ と

定恵は塔婆を鎌足の墳墓の上に建てようとし、清涼山に登攀し、寶池院十三重塔を移し取り、霊木(栗木という)一株を以って塔の用材と為そうとする。

定恵は十三重塔の用材・瓦などを調達し、帰朝の途に就くが、乗船した船が狭く、屋根の一重分の用材をそこに残すこととなる。

定恵は帰朝し、右大臣不比等に大職冠聖霊御墓はどこかと尋ねると、攝津國嶋下郡阿威山なりと答える。
定恵は生前、大職冠との約束があると語る。唐で見た夢や約束を詳細に話す。

定恵は25人を引率して阿威山の墓に参り、遺骸を自ら掘り出し首にかけ、落涙していう。吾は天萬豊日天皇(孝徳天皇)の息なるも前世からの因縁により陶原(藤原)の息となる と。
また、人に土を担がせともに談峯に登攀する。

定恵は談峯に登攀し、遺骨を埋葬し、その上に塔を建てる。材木・瓦が不足し、十二重で工事は中断する。
夜半雷電霹靂大雨大風があるも、明朝は天晴、塔を見上げると材木・瓦が積み重なり十三重塔となる。十三重目の屋根は唐の国から飛来したことを知る。

経年の後、塔の南に三間四面堂を建て、妙樂寺と号す。これは定恵の建てたもので今の講堂なり。これが多武峯寺の草創なり。・

講堂東大樹の辺りに異光が時々現れる。定恵はこのところに方三丈の御殿(聖靈殿の草創なり)を造営し、鎌足の靈像を安置する。
造師は近江國高男丸なり。

◆多武峰妙楽寺本殿・略歴
2020/06/28追加:
○「多武峰談山神社本殿」三浦正幸(「日本建築学会計画系論文報告集 第355号」昭和60年9月 所収)
 多武峰妙楽寺本殿は例の少ない三間社春日造であり、その平面は一間四面の形式であり、神社本殿として珍しいものである。つまり内陣の四周に庇を巡らす、あるいは庇に類する空間を設けるというものである。
 「多武峰略記」によると、祭神である藤原鎌足は天智天皇8年(669)に没し、摂津国島下郡阿威山に葬られたが、その長子定慧和尚が唐より帰朝すると多武峰に改葬して墓上に十三重塔を創建し、経年の後には三間四面の講堂を塔南に建立して妙楽寺と号したという。また、鎌足の御影像を安置するために「方三丈御殿」も創建したという。この妙楽寺が多武峰の本体であり,方三丈御殿が聖靈院の前身である。
平安期に入り、延暦寺にて出家受戒した実性が多武峰の座主となり、天暦10年(956)には延暦寺の末寺となる。 このことは南都興福寺との関係が悪化し、遂には興福寺衆徒の襲撃を受けることとなる。
 即ち , 永保元年(1081)三月、天仁元年(1108)九月、承安三年(1173)六月、承元二年(1208)二月(これは金峰山衆徒による)、安貞元年(1227)八月、同二年四月にそれぞれ焼打ちを被り、そのうち承安三年にはほぼ全焼する。
また,正平六年(1351)十一月には失火により全焼する。
室町期には大和を中心とした越智氏や筒井氏などの抗争に巻き込まれ、永享十年(1438)八月と永正三年(1506)九月には兵火に罹 って焼失する。またその間の応仁三年(1469)二月には内粉によって焼失する。豊臣秀長が大和郡山城に入府すると、天正十六年(1588)四月に郡山城に社殿を新造して神体である鎌足の御影像を遷したが、同十八年十二月には多武峰に帰座する。
明治維新の神仏分離により、妙楽寺の号は廃され、神社とされ、現在に至る。
 本殿は、江戸期には五十年ほどに一度の造替が幕府に認められており、現在の本殿は嘉永元年(1848)に木作始、同三年に上棟したものである。平面は一間四面の主屋に三間の向拝を付けた形式 となり、外観は三間社春日造(隅木入り)となっている。一方、江戸期における最初の本殿造営は元和五年(1619)であり、それ以後、寛文八年(1668)、享保十九年(1734)、寛政八年(1796)、嘉永三年に造替されている 。
造替により不用となった旧本殿は、多武峰本願堂(元和度)、多武峰惣社本殿(寛文度)、大和百済寺本堂(享保度)、東大寺東南院持仏堂(寛政度)としそれぞれ移建され現存する。江戸期に造替されたこれらの本殿は、移建時に改造を受けたものもあるが、復元すると、平面や春日造の形式は同一であり、造替に際して旧規を踏襲していることが確認できる。
2020/09/15追加:
 大和百濟寺本堂については、大和百濟寺のページを参照、写真掲載。
享保造替時の本殿を寛政造替時に多武峰末寺であった大和百濟寺に移建(但し、一度転用の後、百済寺に移建の可能性もあり)とされる。
本殿は三間社春日造であるが、入母屋造に改造されているが、平面規模は多武峰本殿の平面規模と一致するという。


多武峰現況

2002/03/28撮影:
 多武峰楼門
 多武峰本殿     多武峰本殿2     多武峰本殿3     多武峰本殿4

2007/08/23追加:
○「日本名勝写真図譜略説」東京:画報社、明治34年 より
  多武峰望遠1      多武峰望遠十三重塔
○「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
  多武峰十三重塔31
○「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より
  多武峰十三重塔32
○「日文研」 より
  多武峰十三重塔33
2017/01/11追加:
○絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 談山神社十三重之塔絵葉書

2020/06/28追加:
◆無印は2020/05/07撮影、△印は2020/11/19追加「桜井市史 上巻」より:

 天台宗妙楽寺は本尊を藤原鎌足、本堂を聖靈院本殿とし、天台の大寺に相応しい堂塔を構え、寺院組織は青蓮院門跡・学頭竹林坊の支配であり、多くの寺中の僧侶が読経・神勤していた。が、明治の神仏判然の令に対して、山内の対応は寺院として存続するか、神社として新政府に屈服するかで割れるも、結局は坊主であることの矜持などは元々なかったと見えて、神社として生き延びることを選択する。
かくして、坊主は還俗・神勤し、妙楽寺は廃寺・談山神社となる。
勿論、神仏判然の処置は建前では厳しく、元の坊主どもは糊口を凌ぐため、仏像・仏畫・仏器などを二束三文で処分した。しかし、妙楽寺に於いては実態が完全に寺院であったため、堂塔を取り除けば、神社としての器(建物)が無くなるため、堂塔は一部のもの(灌頂堂・鐘楼・輪藏・護摩堂)を除き、神社の社殿として存続するとこととなる。
これは幸運なことであった。
今なお、天台宗妙楽寺の伽藍は神仏分離の処置を経ても、ほぼそのまま現在に残っているのである。

 多武峰屋形橋
多武峰妙楽寺東大門:妙楽寺護国院の惣門である。谷の入り口を木柵塀で塞ぎ、そのやや北寄りに高麗門と潜戸を備えた袖塀を構える。
規模は高麗門の間口4.65m、棟高6.25mで木柵塀の両端の長さが19mになる。建立年代は不明であるが、化粧垂木に享和3年(1803)の墨書があるという。
「関西の日光多武峰案内」大正11年:屋形橋を渡れば、華厳瀑・阿含瀑で、瀑から半丁ばかりで表門の手前に石橋がある。その左傍に「女人堂従是五丁」と刻った標石がある。
とあるも、瀑・標石などは未見。
 多武峰妙楽寺東大門1     多武峰妙楽寺東大門2     多武峰妙楽寺東大門3
 東大門下乗石:尊圓法親王(伏見天皇第5皇子)筆という。西大門にも同じ下乗石がある。背後の石垣は金剛院跡であろう。
 門手前左の道脇に、「女人堂道」と彫られた石碑が建っているという。
 女人堂:現在は退転という。
  ◇東門古写真
   :東大門は昭和44年に半解体修理、平成26年に保存修理が行わる。
    「関西の日光多武峰案内」大正11年 より:談山神社東大門
    出所不明絵葉書:大和多武峰東門       多武峰東大門
 妙楽寺摩尼輪塔:重文:高さ3.15m、花崗岩製。乾元2年(1303)も年紀がある。明治維新の時、仏教の遺物として土中に埋められていたが、昭和40年代くらいであろうか、掘り起こし、旧地に建てたという。傍らに牛石がある。
 妙楽寺牛塔
東大門から西大門に至る多武峰谷には参道が通り、参道南北には妙楽寺伽藍と多くの坊舎跡の石垣・平坦地が残り、一部には坊舎の遺構も残存する。
その坊舎跡及び遺構は下に掲載する「多武峰寺々中」の表中に掲載するので、参照を乞う。
 燈籠の辻石燈籠1     燈籠の辻石燈籠2:聖靈院に至る石階の最下段に多くの石灯篭が並ぶ。
 後醍醐天皇寄進石燈籠:重文:元徳3年(1331)の年紀を刻むという。燈籠の辻にある。
 聖靈院石階1     聖靈院石階2:見下ろした石階、鳥居の二の鳥居
 妙楽寺輪藏跡:中央に土壇様の遺構が写るが、輪藏跡と思われる。(未確認)
 「奈良県磯城郡誌」:明治の神仏分離の処置で取り払われる。元は壮麗なる建造で、一切経を納め仏像を安置す。
 今は唯礎石のみ存する。されど上には牡丹園の名残りをとどむるあり。
境内は堂塔の敷地を確保するため、南の谷から北の山塊に競り上がる形で石垣を築き、平坦地を確保する。
 妙楽寺境内石垣1     妙楽寺境内石垣2     妙楽寺境内石垣3     妙楽寺境内石垣4

聖靈院
 △妙楽寺本社社殿平面図
妙楽寺聖靈院(現本殿):重文:大宝元年(701)の創建、現在の堂は嘉永3年(1850)の造替、三間社隅木入春日造、屋根檜皮葺。
 妙楽寺聖靈院本殿11     妙楽寺聖靈院本殿12     妙楽寺聖靈院本殿13     妙楽寺聖靈院本殿14
 妙楽寺聖靈院本殿15     妙楽寺聖靈院本殿16     妙楽寺聖靈院本殿17     妙楽寺聖靈院本殿18
 妙楽寺聖靈院本殿19     妙楽寺聖靈院本殿20     妙楽寺聖靈院本殿21
妙楽寺聖靈院拝殿・楼門・透廊
妙楽寺聖靈院拝殿:重文:永正17年(1520)の造営、懸造(桁行1間・梁間3間)、一重、入母屋造・妻入、前後軒唐破風付、
                左右突出部(桁行5間・梁間3間)、一重、両端入母屋造、いずれも屋根檜皮葺。
 妙楽寺聖靈院拝殿1     妙楽寺聖靈院拝殿2     妙楽寺聖靈院拝殿3     妙楽寺聖靈院拝殿4
 妙楽寺聖靈院拝殿5     妙楽寺聖靈院拝殿6     聖靈院拝殿天井1      聖靈院拝殿天井2
 聖靈院拝殿扉装飾      聖靈院拝殿前石灯篭
妙楽寺聖靈院楼門:重文:永正17年(1520)建立、三間一戸楼門、入母屋造、屋根檜皮葺。
 妙楽寺聖靈院楼門1     妙楽寺聖靈院楼門2     妙楽寺聖靈院楼門3     妙楽寺聖靈院楼門4
妙楽寺聖靈院透廊:重文:永正17年(1520)建立、桁行4間・梁間3間、一重、西面唐破風造、東面入母屋造、
             南面折曲り部は桁行5間・梁間2間、一重、両下造、いずれも屋根檜皮葺。
 妙楽寺聖靈院透廊1     妙楽寺聖靈院透廊2
妙楽寺常行三昧堂(現権殿):重文:室町期(永正年間)に再建、5間×5間、入母屋造、妻入り、屋根檜皮葺。
           天禄元年(970)、創建、摂政右大臣藤原伊尹(これただ)の発願による。実弟如覺が阿弥陀像を安置。
妙楽寺常行三昧堂平面図
 妙楽寺常行三昧堂1     妙楽寺常行三昧堂2     妙楽寺常行三昧堂3     妙楽寺常行三昧堂4
 妙楽寺常行三昧堂5     妙楽寺常行三昧堂6     妙楽寺常行三昧堂7     妙楽寺常行三昧堂8
 妙楽寺常行三昧堂9
妙楽寺講堂(現新廟拝所):重文:白鳳8年(679)定慧が父藤原鎌足供養のために創建、妙楽寺の講堂である。
       寛文8年(1668)再建。5間×?間、入母屋造、屋根檜皮葺。
       講堂本尊丈六釋迦三尊像は今安倍文殊院に現存する。
妙楽寺講堂平面図:なお本尊は現在安倍の文殊院本堂に移されている。 妙楽寺講堂1     妙楽寺講堂2     妙楽寺講堂3     妙楽寺講堂4     妙楽寺講堂5     妙楽寺講堂6
妙楽寺本願堂(現東殿・若宮):重文:元和造替えの聖靈院本殿を寛文8年(1868)に移築したものである。三間社春日造、屋根檜皮葺。
    なお、本願堂の東には灌頂堂、南には鐘楼があった(絵図)が、これらは神仏分離で退転か?。
 妙楽寺本願堂11     妙楽寺本願堂12     妙楽寺本願堂13     妙楽寺本願堂14     妙楽寺本願堂15
 妙楽寺本願堂16     妙楽寺本願堂17     妙楽寺本願堂18     妙楽寺本願堂19     妙楽寺本願堂20
妙楽寺東宝庫:重文:元和5年(1619)造営、校倉造
 妙楽寺東宝庫1     妙楽寺東宝庫2     妙薬寺東宝庫3
 (妙楽寺)観音堂:詳細不詳
 2020/11/19追加:「桜井市史上巻」:
 本尊木造如意輪観音坐像(像高約61cm)を祀った西面する多武峰観音堂が最近有志によって東殿の東側に新築される。
妙楽寺西宝庫:重文:元和5年(1619)造営、校倉造
 妙楽寺西宝庫1     妙楽寺西宝庫2     妙楽寺西宝庫3
妙楽寺鎮守山王権現:重文:一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付設、屋根桧皮葺、寛永4年(1627)建立、飛鳥の大原にあった大原宮を移築という。なお、大原とは鎌足生誕の地といわれるところで、現在も大原神社がある。大原宮とはおそらくこの地であろう。
 妙楽寺山王権現1     妙楽寺山王権現2     妙楽寺山王権現3     妙楽寺山王権現4
 妙楽寺山王権現5     妙楽寺山王権現6
妙楽寺閼伽井屋:重文:元和5年(1619)の建立、屋根杮葺。
 妙楽寺閼伽井屋1     妙楽寺閼伽井屋2     妙楽寺閼伽井屋3
妙楽寺惣社本殿:重文:創建は延長4年(926)の勧請によるものという。現在の本殿は寛文8年(1668)造替の聖靈院本殿を寛保2年(1742)に移築したものである。
 妙楽寺惣社本殿1     妙楽寺惣社本殿2     妙楽寺惣社本殿3     妙楽寺惣社本殿4
 妙楽寺惣社本殿5     妙楽寺惣社本殿6     妙楽寺惣社本殿7     妙楽寺惣社本殿8
妙楽寺惣社拝殿:重文:寛文8年(1668)の建立、聖靈院拝殿を縮小し簡略化した様式であり、正面・背面ともに唐破風をもつ。
 妙楽寺惣社拝殿1     妙楽寺惣社拝殿2     妙楽寺惣社拝殿3     妙楽寺惣社拝殿4
 妙楽寺惣社拝殿5     妙楽寺惣社拝殿6
妙楽寺護摩堂:神仏分離後の絵図では「祓殿」と記されているが、現存しない。

荒神山:本社と渓流を距てて対峙し、その頂高は眺望絶景なり。維新前までは荒神の社があった。
燈籠の傍を左に登ること2丁余にして嶺に達する。

 多武峰御破裂山1     多武峰御破裂山2     多武峰御破裂山3
御破裂山東に平成16年に建立された「謎」の藤原家題目五輪石塔がある。
 御破裂山藤原家五輪塔1:正面:本門八品/題目/上行所伝 と刻み、花立には藤原家と刻む。
 御破裂山藤原家五輪塔2:左側面:為藤原家先祖代々追善菩提之霊位 と刻む。
  右側面:藤原鎌足霊/藤原■■■霊/藤原不比等霊/藤原持平霊 の四名の姓名を刻む、藤原持平とは不明。
  背面:澄勢院日榮(花押) 平成16年10月吉日建立/施主 松原史武 松原満子(妙満)・・・ただし澄勢院の勢は不確実。
 ※藤原家とあり鎌足などの靈も祀ると思われるので、多武峰開山である藤原氏一族を祀るのであろう。
 おそらく澄勢院日榮が建立したものと思われるが、澄勢院日榮とは不明、本門八品とあるので本門流の僧侶であろう。
 墓碑にある藤原家というのは藤原氏の本流なのであろうか、御破裂山とは聖地であろうが、なぜこの聖地の一画に供養塔の建立を
 許可したのであろうか、しかもなぜ、法華宗本門流(日隆門流・八品派)と思われる供養塔なのであろうか、謎は多い。
 多武峰談山:(かたらいやま):鎌足などが陰謀を画策した場所という。

増賀堂跡:教相院西にある。江戸期の絵図には増賀堂の記載はないので、もとよりここにあったのかどうかは分からない。
「磐余・多武峯の道」では次のように云う。
増賀堂には増賀上人像と二仏像を安置する。増賀上人像は像高45cm)は江戸期の作で、はじめ念踊崛の念仏堂にあったが、桜井来迎寺に移り、その後転々としていたが、有志の人々によって明治36年堂が再興され、ここに安置される。
増賀堂安置の薬師如来坐像は江戸期の佳作であり、般若院より遷す。
増賀堂本尊阿弥陀如来坐像(像高52cm)は明治36年増賀堂再建に際し、教相院より遷す。
堂の軒下には古鐘を吊るす。これはもと念誦窟の経堂にあったもので、元亨3年(1323)鋳改の陽刻があり、応永23年(1416)願主陰刻(追銘)があるという。
但し、現在増賀堂は退転し三像の行方は不明。(増賀上人坐像は談山神社蔵という。)
○「奈良県磯城郡誌」大正4年:元念誦窟なる経堂に増賀上人像はありしが、堂は移りて桜井来迎寺の位牌堂となり(今は来迎寺位牌堂は退転)木像は転して一時商人の手にありしが、明治36年有志者が今の堂を建立して復帰したるなり。
昭和52年初版の「磐余・多武峰の道」に増賀堂の写真があるので、次に転載する。
   在りし日の増賀堂
 増賀堂跡1     増賀堂跡2     増賀堂跡3:増賀堂前にあるが、判読出来ず。
西大門跡
 多武峰妙楽寺西大門1      多武峰妙楽寺西大門2     多武峰妙楽寺西大門3
 妙楽寺西大門下乗碑:尊圓法親王(伏見天皇第5皇子)筆という。東大門にも同じ下乗石がある。
 弥勒石像:西大門跡にある、文永3年(1266)銘がある。     西大門跡石灯篭
 西大門女人禁制石柱:中世から近世、多武峰では女人の立ち入りを禁じていた、その古制を示す石柱である。

◆念誦窟
2020/06/24追加:
○「西国三十三所名所圖繪」嘉永6年(1853)刊 より:
 増賀上人墓・紫蓋寺:紫蓋寺には山門・鐘楼・常行堂等があり、背後には増賀上人廟がある。
 紫蓋寺/増賀上人墳五輪塔:紫蓋寺の山上にあり小堂の内に五輪の石塔あり とある。
 五輪石塔には「南・無・増・賀・上人」と刻み、長保2年6月9日の上人の寂日を刻む。
 下に述べるように、この五輪塔は現在地輪のみ現存する。廟堂は退転し現在はない。
 念誦窟の石垣1
 念誦窟の石垣2:紫蓋寺へ至る道の脇に巨大な石垣が2個所ある、何れも念誦窟の坊舎跡であろうか。
 念誦窟紫蓋寺跡1:中央右の石碑は「大西良慶和尚生誕地之地」の石碑である、
 和尚は多武峰に生まれ、この地には大西家の墓があるなどと記す。
 念誦窟紫蓋寺跡2     念誦窟紫蓋寺跡3:地蔵石仏は弘治4年(1558)、阿弥陀石仏は天正11年(1583)の刻銘がある。
 増賀上人入寂場:紫蓋寺跡にこの碑が建つ。
増賀上人墳:石階は150段、方形2重の石壇の上に更に2重に積み上げられた石の円塚で」ある。下段の径は4m、高さ1.1m、上段の径2.3m、高さ77cm。周囲に石組があり、4.24m四方の覆堂があったものと思われる。「多武峰略記」には五輪塔を建つとある。現在は五輪塔の地輪のみが頭上に残る。地輪に残る年紀の長保5年(1003)は上人の寂年、慶長7年(1602)は石塚・五輪塔を新たに造立した歳であろう。紫蓋寺は増賀上人の霊廟であったという。
 増賀上人墳石階1     増賀上人墳石階2     増賀上人墳石階3
 増賀上人墳1        増賀上人墳2        増賀上人墳3
 妙音和尚爪髪塔:寛政10年(1798)の年紀がある。宝勝院豪桓、地生院晋盛の建立。
 念誦窟墓碑群1     念誦窟墓碑群1
 念誦窟西宮家墓碑:向かって右に西宮家とあるので、眞法院の墓所と推定される。
 千蔵院千森家墓碑:千藏院は還俗し、千森氏となったと推定される。
 實相院ほか歴代墓碑1     實相院ほか歴代墓碑2     實相院ほか歴代墓碑3
 旧實相院の墓所と思われる。實報院とは不詳。
2020/06/28追加:
○奈良新聞:2009.04.23記事:「墓碑にみる多武峰盛衰 - 談山神社で総合調査」 より
【概要は以下の通り】
 多武峰に残る僧侶の墓碑群を桜井市教育委員会が総合調査、碑文や大きさを一基ずつ調べた。
 比叡山から妙楽寺に下った増賀上人(延喜17年/917―長保5年/1003)の塚を中心に約800基の墓碑が集中、念誦崛と呼ばれている。
 市教委は昨年10月に調査を開始。刻まれた名前や命日、略歴を調査シートに記入し、形も12種類に分類した。
最も古いのは天文年中(1532―1554年)で、17世紀代の墓が多かった。寺内で最高位の検校職の墓もあり、記録と対照することで、文献の空白を埋められるという。
 念誦崛には還座以降の墓碑が多く、それ以前の墓碑は脇によけるなどして整理されていた。
 江戸時代には一山の統括者として学頭職が置かれたが、「学頭」と刻まれた墓碑は確認されなかった。
 増賀上人の塚(一辺5.8メートル)も周辺を発掘調査、3次元計測も行ったが、築造時期を特定できる資料は見つからなかった。


多武峰概要

○平安末に天台宗に転じ叡山末となり、そのため、度々南都(興福寺)から焼き討ちされる。
江戸期においても、寺領3000石、42坊を数えたと云う。
明治維新の神仏分離で、一山は寺院派と神社派に割れたが、神社として存続することに決し、談山神社と改号する。
主要仏堂は神社として存続したが、多くの坊舎は廃絶、今なお多くの院坊跡を見ることが出来る。またこの時、多くの仏像・仏具が棄却される。
 ※神仏分離の処置で主要堂塔は以下のように改竄される。(けだし、実態が寺院であり、神社の実質が無かったためと思われる。)
残存する堂塔:東大門、聖霊院(本殿・重文)、護国院(拝殿・重文)、楼門(重文)、講堂(神廟拝所・重文)、常行三昧堂(権殿・重文)、総社本殿(重文)、総社拝殿(重文)、東西宝庫(いずれも重文)、本願堂(東殿・重文)、比叡神社(重文)、観音堂、増賀堂。
○「多武峰略記」「諸寺縁起集」:
天智天皇8年藤原鎌足逝去、最初は次子不比等により摂津阿威山に葬られる。
白鳳7年、長子定慧帰朝、この地に改葬し、廟塔としてこの十三重塔を建立し、これを護持するために妙楽寺を創建する。
「多武峯寺略記」:十三重塔のほかに、妙楽寺にはかって多宝塔・三重塔も存在する。
○談山妙楽寺護国寺と号する。諸文献では塔婆は定恵和尚の草創で、妙楽寺の根本とされる。
地底に大織冠(鎌足)の遺骨を収めたとされる。本尊は文殊菩薩。什宝として粟原寺三重塔伏鉢(国宝)などを有する。

2007/09/25追加:
○「多武峰妙楽寺の展開」秋永政孝(「桜井町史 続」桜井市役所、昭和32年 所収)
  なお、当論文は『「権現信仰」(民衆宗教史叢書:第23巻)平岡定海編、雄山閣、平成3年』にも収録される。
明治維新までは、多武峰寺・多武峰妙楽寺・談山権現・護国院などと称された。
「多武峰略記」(建久8年<1197>の成立で、鎌倉期以前の妙楽寺を知りうる唯一の資料と云われる。)では
天智天皇8年(669)藤原鎌足逝去、最初は次子不比等により摂津阿威山に葬られる。
白鳳7年、長子定慧帰朝、この地に改葬し、廟塔として十三重塔を建立し、これを護持するために妙楽寺を創建する。
その後堂塔は荒廃するも、平安初頭、賢基(後に延安)が荒廃を憂い、妙楽寺を復興し、初代検校となる。
 ※延喜式・諸陵部の記載に「多武峰墓 贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和国十市郡・・・・」とあり、
 通常、淡海公とは鎌足次子不比等を指し、このことから、多武峰には鎌足ではなく不比等が葬られたとする説も流布した(している)。
 この説は、「多武峰略記」の記載などで信じられてきたことが否定される説ではある。
 しかし、淡海とは明らかに鎌足も指すと思われる文献も散見され、延喜式で云う淡海とは鎌足を指すと解釈しても不当ではなく、
 古来からの信仰と矛盾するものではない。
延喜19年(919)実性僧都、多武峰第4代検校官符を受ける。実性は高名な延暦寺修行僧で、さらに天暦元年(947)多武峰座主となる。
以降延暦寺門人を座主に、多武峰門人を検校にする習慣が始まり、多武峰は自ずから叡山の末寺となる。(叡山末寺化については異説もある。(「今昔物語」)
応和3年(963)叡山学僧・増賀上人が多武峰に登り、当地で多くの弟子に天台教学を講莚する。以降天台教学が強固に多武峰に根を張ることとなる。
平安末期の一山の塔婆・堂宇については以下と伝えられる。(「多武峰略記」)
塔婆
 十三重塔:鎌足墓、定慧の建立、定慧が清涼山宝池院塔を移すと伝える、あるいは栗木の一株で作られたと云う。
 多宝塔:万寿元年(1025)検校道安の造立。
 三重塔:仁安(1167)立柱、松殿関白太政大臣基房の御願。
堂舎
 講堂:十三重塔南、3間四面堂、号妙楽寺、定慧白鳳11年建立。
 金堂:講堂東、定慧建立、弥勒金仏を修す。
 如法堂:天暦8年(954)実性建立。
 法華三昧堂:康保元年(964)村上天皇法華堂建立、増賀上人移修三昧於此堂。
 常行三昧堂:天禄元年(970)摂政藤原伊尹常行堂建立、覚如禅師弥陀像安置、長保2年佐伯禄雅文建之。
 曼荼羅堂:天禄元年(970)藤原伊尹建立。
 普門堂:貞元元年(976)円融天皇建立。
 先徳堂:嘉応元年(1169)俊賀法師勧進寺中建立。
 食堂:承平5年(935)座主真昇、萱葺9間2面の食堂を建つ。
 温堂:釜1口。
 鐘楼:鐘1口、此鐘寛平年中賊来盗之、天慶5年(942)実性・真昇鋳造。
聖霊院:檜皮葺3間四面、大職冠尊像安置。
総社:檜皮葺、延長4年(926)はじめて総社を造る。
別院
 東院堂、南院堂、浄土院、浄土院経蔵、平等院、平等院経蔵、多楽院、宝積院、五大堂、灌頂堂、小栗栖堂、冬野寺
末寺等:多くの末寺があるが、著名な寺院も散見される。(著名な末寺は以下の通りである。)
 音石寺(法号善法寺):土市郡音羽山中にある。
 坂田寺(法号金剛寺):高市郡南淵、鞍作鳥の建立と云う。
 山田寺(法号華厳寺):蘇我倉山田石川麻呂の建立
 久米寺:高市郡久米
 国源寺:神武天皇陵域から明治初頭に大窪寺跡に移転した寺院と思われる。  など
多武峰は藤原氏始祖鎌足の墓所であるが、叡山末になったため、平安後期から中世にかけて、藤原氏の氏寺興福寺との間で数多くの争乱が惹き起こされる。この争乱は、基本的には興福寺と延暦寺との争いがあるたびに、叡山末多武峰は興福寺の襲撃を受け、多武峰側に多くの損害を出すという構図であった。
大損害を出した著名な争乱(戦闘)には以下がある、
天仁2年(1108)浄土院他諸坊、山郷の村々、食堂・経蔵・惣社・大温室・多宝塔・灌頂堂・五大堂・浄土堂が焼かれる。
承安3年(1173)浄土院・南院・平等院を始め講堂・金堂・常行堂・十三重塔・法華堂・聖霊院・宝蔵・鐘楼・惣社・曼荼羅堂・三重塔・先徳堂・食堂・大温堂・浄土堂・五大堂など山郷・寺中・堂塔悉く焼失する。
その他の抗争・強訴・威嚇などは枚挙にいとまがない。
 南北朝期正平6年(1351)失火により、一山悉く焼失、すぐさま翌年から再興に着手する。
永享元年(1429)大和永享の乱に巻き込まれ、「堂社坊舎払地炎上」一山ほぼ焼失。
大和永享の乱後は一山の確執(学侶と堂方)が抗争を呼び、しばしば堂塔坊舎を焼く。
 ※例えば応仁3年(1469)南院と平等院が乱闘し、火を放ったため、一山殆ど焼亡する。
永正3年(1503)大和諸土豪の抗争で、一山焼失、まもなく復興。
天正13年(1585)豊臣秀長大和入府、多武峰の弓・鎚・鉄砲・具足・甲冑・太刀など一切を没収、ここに中世的衆徒(僧兵)は下山し壊滅した。
天正16年秀長は大織冠の郡山遷座を命ずる。
天正18年郡山より帰山、32坊が復興、慶長5年には42坊。
近世には金剛院以下社僧42坊、雑役6坊、葬儀は奥院の福智院以下4坊、清蓮院・宮本坊・学頭竹林坊などで構成された。
2006/11/05追加:
○「神仏分離の動乱」より
本尊は大職冠藤原鎌足で十三重塔を中心に藤原氏の隆盛とともに繁栄を極める。それゆえ、その権勢は他の寺社勢力と同様極めて世俗的でもあった。天台の支配下にあり、専門の神職は存在せず、経営・行事・祭礼には全ては僧侶が行っていた限りでは、寺院であったが、本尊は談山権現、談山明神であり、この点では神仏が不可思議に習合していたとも思われる。
幕末に於いても子院33坊と承仕(堂舎・仏像管理・雑役)坊6坊があった。寺領は6000石。
神仏分離令によって、妙楽寺は本尊鎌足を神格化した故に、その本尊を守るために復飾・神勤するか、寺院であることを貫き下山するかの選択を迫られることになる。一山は復飾派と寺院派とで争ったが、結局は(おそらくは経済的理由で)山を離れるのは困難で、一山復飾・神勤することに決する。
かくして(神社としての実体のない妙楽寺を神社として粉飾するために)
聖霊院は本殿、護国院は拝殿、十三重塔は神廟、講堂は拝所、常行三昧堂は権殿、護摩堂は祓殿・・・などの無茶苦茶な転用がなされ現在に至る。昨日までは本尊などであった諸堂安置の仏堂・仏具・仏画などは「屑」のように扱われ、一箇所に集められ、どんどん売払れていった。講堂本尊釈迦涅槃像は25銭、仏画25幅が一括して25銭であった。 (二束三文で夥しい什宝が売却されたと云う。)
それも昨日までは僧侶であったものどもの手によってである。
明治4年上地令で寺領・社領が没収、多武峰妙楽寺は困窮を極め、一山崩壊・離散という結末になる。
2020/06/24追加:
○「反省と祈望 〜七夕の夜」淡路 爽、電子出版社ハッカドロップス、2014 より
 (※小説である。その中の一節を掲載する。著者については情報がなく、不詳。)
 「多武峰は古色を帯び、層(僧であろう)徒たちも修行のために住む伽藍であった。一時、多武峰は明治初期の神仏分離の影響で寺院の面影を残しながらももっぱら桜の名所の談山神社として存在していた。しかし本来は多武峰寺という名刹であった。中大兄皇子と藤原鎌足が改新の密談を行ったといわれるこの寺に、鎌足の子の定慧と不比等が木造十三重の塔を建立したのがはじまりとされた。日本で現存する唯一の木造十三重の塔であり、檜皮葺き屋根を縦に連ねた高さ17mにも及ぶ塔であった。多武峰は再三の火災と明治初期の神仏分離により、現在、その歴史を辿るのは不可能に近い。ただ静胤の「多武峰略記」(1197)や堀(鹿苑)大慈氏の「多武峰と実性−多武峰寺院化の一面−」等の研究によってその全貌が明らかになり始めていた。」

2020/10/30追加:
○「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収) より
   ※「多武峰の神佛分離」は大正15年調査終了。
イ)沿革
 天智天皇8年藤原鎌足の薨ずるや、これを攝津嶋下郡阿威山に葬るも、天武天皇6年鎌足の子定慧和尚が唐から帰朝し、更にこれを大和十市郡倉梯山に改葬し、その上に十三重塔を営み、後数年にしてその南に三間四面の堂を建てゝ妙楽寺と号する。これが多武峰の草創であると伝えられる。この堂は後の講堂であり、現在の社務所である。
また、定慧は塔の東に方三丈の御殿を造り、これに鎌足の像を安置する。これが中世の所謂聖霊殿(御殿・本殿)である。
 かくして色々な堂舎が漸次経営せられ、初めは法相宗であったが、増賀上人再興以来天台宗となり、藤原氏の繁栄と共に、一山も益々隆盛となり、広大な所領と多数の衆徒を擁して、南都の諸寺・近隣の武家と争い、屡々兵火に罹る。しかし、その都度復興を果たし、旧観を保つ。
天正13年多武峰は豊臣秀吉の命にて秀長がその城下郡山に遷座せしむ。一山は多武峰の本寺に残るものと郡山の新寺に遷るものとに分裂し、寺領6000石は新寺に3000石を与え、残り3000石は没収されたようである。
16年大織冠郡山に遷座、本寺の堂塔伽藍は一宇も残さず破壊され、衆徒は離散する。
18年多くの社寺の祈祷の験もなく、伏臥していた秀長の病状は思わしくなく、しかしそれは大織冠の神慮の致すところであるとの噂も流布し、大織冠の怒りを鎮めるため多武峰は帰座することとなる。それ故、郡山新寺の3000石は本寺に宛がうこととなる。しかし、新寺はなおも郡山に留まる輩もあったようである。
慶長5年(1600)家康により講堂の再建を見、この講堂の再建により多武峰はほぼ旧観に復する。
以降近世はおよそ50年毎の本社造替があり、多武峰はほぼ伽藍の維持が図られ、そのまま明治維新を迎える。
(ロ)伽藍・末寺
 近世の多武峰伽藍図については慶長5年(1600)、正保2年(1645)、享保7年(1722)、その他の繪圖が残る。
正保多武峰繪圖:多武峰蔵、6尺3分×5尺8寸
 正保多武峰繪圖:妙楽寺伽藍および山内子院の全容が描かれる。
享保多武峰繪圖:教相院(佐伯氏)蔵、5尺4寸×9尺
 享保多武峰繪圖
 享保多武峰繪圖・文字入れ:近世前期の多武峰妙楽寺伽藍の全容が分かる。
 多武峰妙楽寺伽藍は次のようであった。
桜井の町端から多武峰を目指すと境内へ掛ろうとするところが八井内である。(不動延命の瀧、破不動尊、地蔵磨涯仏などがある。)
 ここから谷川に橋(大橋・屋形橋)が架かり、この橋を渡ると境内である。
橋の先、小径を進むと石橋があり、その左端に「女人堂従是五丁」と刻む標石がある。この女人堂は今はない。
石橋を渡ると表門(東門・東大門)である。ここに下乗石が建つ。
下乗石から約3丁、道の左に石造八角柱(摩尼輪塔)があり、これは一の鳥居から伽藍迄1丁ごとに建てた石標の終点である。この石塔は神仏分離の時、土中に埋められるも、明治25年掘り出し、旧地に建てたものである。
摩尼輪塔から少し登って左に入ると小さい平坦地がある。ここに峯堂とその背後に地蔵堂があった。
 元に戻ってさらに進と、燈籠の辻に出る。この辻を左に登ると荒神社と白山社とその2社の拝殿があった。
燈籠の辻に戻るとそこには南面する鳥居(二の鳥居)がある。この鳥居は一の鳥居と同じであるが、本殿(聖霊殿)の鳥居であり、十三重塔や講堂即ち妙楽寺とは何の関係もないことに留意すべきである。
 参道道の入口には楼門(3間×2間1尺、今は廃絶)の楼門があった。(今はなし)
楼門を潜ると、左に東面して御供所がある。(今の宮司宅である。)享保図にはこの御供所の所に西の護摩堂があり、さらに奥に食堂がある。また別図にはその食堂の所に西の護摩堂があり、現在の祓殿はこの別図の西護摩堂である。
 参道を挟んで、その東に護摩堂があった。この東西の護摩堂は早く廃したらしく、維新当時には西護摩堂跡へ御供所が出来、東の護摩堂跡には輪蔵があり、この輪蔵の東には享保図では灌頂堂があったが、この灌頂堂は維新前には本願堂の東へ移っていた。
 参道・石階を北に登ると、石階中途左手に御本地講堂がある。講堂は現在社務所として保存され、須弥壇勾欄などは撤去され、分離前には釋迦三尊像が安置されていたということである。
 この講堂の南に建て続いて舞台があり、その西には食堂へ通ずる中門がある。また講堂東には常仕部屋があったが、中門・舞台とともに現存しない。常仕部屋の東には享保図には鐘楼堂があった。また鐘楼堂の東・参拝道の石階を距てて辨財天社があった。
 石階を登り詰めると、享保図には奥正面に遷殿があり、その右に宮仕所と大般若所があった。そして遷殿のまえには拝所とその前方左寄りに樂屋があったが、これらは維新前には失われていた。
 石階を登り詰めたすぐ右には御殿(聖霊殿)がある。大織冠の神像を祀り、嘉永中の造営である。その前は護国院(世にいう千畳敷・今の拝所)が建つ。御殿東には宮仕所、その南は透廊で護国院に通じる。御殿西には経所があり、その南は透廊が連なり、左右相対し御殿と護国院との間の石畳を挟んでいる。
また護国院と西透廊との間に楼門があり、御殿前の広場に出ることができる。
そして護国院の南一段低き場所に刀蔵が2棟ある。(※今は退転)
 刀蔵の東平坦地に本願堂(定慧堂)があり、現在では摂社東殿と称し、不比等と眞人(定慧)を祀る。慶長圖には大日堂とある。
定慧堂の東には中寺があり、観音堂であったらしく、分離当時は灌頂堂であった。観音堂の本尊如意輪観音は本願堂に安置されてあったらしい。
そのまた東に若王子社と杉山神とその両社の拝殿があったが、これらの諸社は比叡神社・稲荷社・杉山社などの小社となり、常行堂の西方にある。そしてその北には三天神(中菅原神・左市杵島姫神・右宇賀魂神)と拝殿がある。
また御殿東燈籠の東にあたって、東宝庫があり、その南には春日社、東には禰宜部屋がある。
慶長圖にはここに護摩堂と多宝塔があったことになっている。
  ※近世初頭には妙楽寺に多宝塔があったようであるが、これ以上の情報はなく、詳細は不明である。
 御殿西透廊の西には西宝蔵がある。享保図・慶長圖・正保圖にはここに法華堂があったことになっている。
西宝蔵から西に一段下がったところに十三重塔(鎌足廟所)があり、文殊菩薩像を安置していた。この塔の前には拝殿があった。
 この塔の西は常行三昧堂堂である。本尊は阿弥陀如来であったが今は撤去されるも、須弥壇は今なを存し、現今では権殿という。なお、須弥壇の勾欄銘には「多武峰常行三昧堂元和五巳未稔八月吉日」とある。
 三昧堂の後には龍王社があった。龍王社は即ち竈神社で龍神像を安置し、その傍らに湧出する摩尼法井と称する清泉の守護神である。この霊泉は分離以前までは毎朝神前の閼伽に供えたということである。(※今の閼伽井か)
さらに常行堂の西には弥勒堂と護法善神社と八幡社があった。
 常行三昧堂の前を南に石階を降ると右側に東面する惣社の拝殿と本殿がある。現今の本殿は嘉永に聖霊院の正殿を遷したものであるという。そして惣社は古くは談山権現と称したという。
 この惣社の前即ち東に西面して護摩堂がある。この護摩堂は参拝道の両側にあった東西の護摩堂が配された後に建てられたものであろう、今は祓殿と称するも、なお須弥壇を存し、天井等黒く煤けている。
さらに一段下ると右側に享保圖では御供所があるけれども、分離以前に御供所は参拝道入口の左側に遷っていたようである。
 伽藍および末寺については次の文書がある。
○「本末并分限御改書」天明3年(1783)船橋文治蔵<※船橋氏は元般若院と思われる。>
  和州十市郡多武峰護国院天台宗妙楽寺
御朱印  高3000石
 内 1000石(年中行事料・堂社修復料)
    200石(清蓮院御門跡御寺務領)
    300石(学頭坊領)
   1200石(42坊領寺僧領)
    200石(惣物料)
社頭
 本社大織冠大明神并拝殿等
 総社鎮座一百余神
 山王社
 護法善神宮
 若王子宮
 小社(七カ所)
 宝蔵(二カ所)
 本社御供所
塔堂
 十三重塔
 講堂
 常行堂
 灌頂堂
 本願堂
 輪蔵
 護摩堂
 鐘楼堂
山林境内
 (略)
東西門前三ヶ村家数70軒余
多武峰別院<※寺名のみ列挙し、必要に応じ明細を書出し>
 天台宗 藤原寺
 天台宗 多樂院(退転)
多武峰末寺
 念誦窟 天台宗 紫蓋寺
  増賀上人靈堂
  釈迦堂
  坊中 6ヶ寺、往古13坊
 宝幢院 天台宗 絹蓋寺(退転)
 音石山 天台宗 興法寺
 霊園山 天台宗 聖林寺
  以上多武峰境内に之有
 和州広瀬郡百濟村 百濟寺 →大和百濟寺
 和州高市郡今井村 常福寺
              以上
       多武峰 執行代
   天明3年(1783)4月

2020/11/07追加:<上項の続>
・神社の捏造と衆徒の還俗
 多武峰はまず仏寺として創建される。その後も仏寺として祭祀される。明治維新まで神職は存在しなかったのである。
ところが、明治維新の神仏分離の令で、多武峰妙楽寺は神社とされ、衆徒は還俗を命ぜられ、仏体・仏具及び仏教関係の諸堂は除去を命ぜられる。
この神仏分離の令に対し、多少の難色が示されたことは想像に難くはない。当時の三神主であった慈門院・教相院・妙覚院は命令の遵奉を主張するが、福寿院・眞法院・智光院などは妙楽寺を念誦窟に建てることを主張する。一時は念誦窟に分立する派が優勢であったが、若い連中は漸次還俗派に傾き、かつ当時の銀方であった西口の山下源之亟の反対に遭い、念誦窟に分立する案は頓挫する。但し、三神主・若い連中に思想的背景があった訳ではない。それは多武峰において国学は一向に行われず、むしろ漢学が隆盛であったという。
明治2年2月、かくして、衆徒は復飾還俗し、社僧は神勤し、三綱は神主となり、他は社家と称し、承仕は神部となる。
・建造物の処分
 明治7年旧眞法院西宮秀國が奈良県庁に提出した由来記にもそれの記載がある。
聖霊殿は本社、護国院は拝殿となる。
十三重塔婆は神廟、講堂は神廟拝所、常行堂は假殿、護摩堂は祓殿となり、以上に付随する堂宇は残存する。
旧号本願堂は開山定慧和尚を安置するも、仮に談海公を勧請する。
旧号灌頂堂は諸堂に安置の仏菩薩像をこの堂に仮に入れる。(灌頂堂は取壊を屡々命ぜられ、いつとはなく破壊されたという。)
鐘楼は明治7年頃までは確実に存したが、その毀たれたのは明治15年ころと云われている。
輪蔵は磯城郡中村の曹洞宗の某寺へ明治178年頃移転せられたという。
なお、社僧承仕の子院坊舎はそのまま社家神部へ与えられるも、早くも2、3院は荒廃に帰したということである。
・仏体仏具の処分
 伽藍の仏体はこれを取り出し灌頂堂に集め置き、子院の分は各子院に処分させた。灌頂堂の仏体は、しきりに堺県から処分を命じてくるので、安倍の文殊院にやってしまう。文殊院では千躰一仏を造ろうとしたが、成就せず、四天王・勝軍地蔵等数点は西洋人に売却という。
講堂釋迦涅槃像は慈門院陶原氏に下賜されたが、これを売りにだしたところ25銭の値段であったので、末寺聖林寺に寄付する。
なお、各所のあった石地蔵はこれを取り除く。
 子院でも盛んに仏体を処分する。
圓城院永井氏宅の観音像は「永井氏からフェノロサに渡り、フェノロサかた東京帝室博物館に移る。フェノロサへの売却の時、フェノロサが幾何と聞くので、5圓のつもりで5本の指を出したが、フェノロサは50圓と解釈し、50圓で売った」(永井氏談)とのことである。これは明治223年のことである。
教相院佐伯氏方の地蔵曼荼羅は奈良の大隅へ僅か10圓で売ったという。華上院六条氏は「大隅氏はこれで随分儲けた」と言っていたという。
また佐伯氏の談では「当時仏畫は25本で一括し25銭でどんどん売り出した。」という状況という。場所は常住院の客殿で主に宇陀の古物商が買い、それは明治78年の頃という。
仏具類もまた処分される。輪蔵の一切経は京都小川柳枝軒に売却したという。この経の箱は般若院舟橋邸に残るという。
これは一例である。
一方什宝の全部が散逸したのではなく、今神社の所有となり、多くの仏畫・経典類が残る。それは本著85-90ページに記載される。(談山神社什器目録帳の抜粋)
以上のほか、国宝の絹本着色大威徳明王像・栗原寺露盤がある。
なお、慈門院陶原氏方には元のままに持仏堂・佛殿・仏体・仏具が残るという。

2020/11/07追加:
○「桜井町史 続」桜井町史編纂委員会、1957
本著の近世の「多武峰一山の組織と寺領」の記載は、
おおむね、前述の「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収)を踏襲する。
そして、後続の「桜井市史 上巻」桜井市史編纂委員会、1979 に引き継がれる。
 維新前に於ける子院の名称とその配置図:舟橋氏所蔵

2020/11/07追加:
○「桜井市史 上巻」桜井市史編纂委員会、1979 より
◆近世の多武峰
 ※この項の記述は、前述の「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収)
及び同じく前述の「桜井町史 続」桜井町史編纂委員会、1957 を下敷きにしているもの。
1)郡山遷座と一山の組織・寺領
戦国期、大和の統一は筒井順慶の手で次第に進められ、天正10年(1582)には豊臣秀吉の命に服することとなる。
中世には僧兵等が猛威を振るった多武峰一山も秀吉によって大弾圧を受ける。
天正13年(1585)一山の弓・鉄砲などは残らず没収(大和における刀狩の始り)、衆徒は退散、一山に残るのは老衆・行人の一部のみで、昔日の面影は全く地に落ちる。
同年、大和郡山城主豊臣秀長は多武峰の郡山遷座を企図し、遂行する。
天正14年(1586)郡山に地割、翌15年社殿造営、更に翌16年郡山城の鎮守として郡山城西北隅に遷座する。ところが、秀長は攪乱し、しばしば危篤状態となる。
天正18年(1590)郡山城中に奇怪な出来事が多発し、秀吉の後をついだ秀次が、大織冠の祟りを懼れ、多武峰への帰山を許すこととなる。
しかし、郡山遷座の時、郡山に新寺を得た坊主、在所に引き籠った坊主がいたわけで、さらにまた帰山ということになれば、利害関係の調整が難しく、一部の新寺は郡山に居残ることとなる。その後10年ほど、郡山新寺と帰山した旧寺の争いは続くこととなる。
慶長5年(1600)徳川家康の裁定で、郡山の宗徒が帰山し、混乱は収拾する。
伽藍と末寺
慶長5年に再興された多武峰の全容は正保2年(1645)の繪圖によって全貌を知ることができる。<正保多武峰繪圖:上に掲載>
 享保7年多武峰繪圖
 維新前の多武峰子院配置図:舟橋兵治氏所蔵繪圖による
近世において、再生した一山の信仰の中心は十三重塔(定慧創建の藤原鎌足墓所)、御本地講堂(妙楽寺)、聖霊殿(大織冠の神像を安置、談山権現・談山明神)の三所であるが、それは一つの信仰に帰一する。鎌足(大織冠)の神威(御破裂山の鳴動、神像の破裂)への信仰である。
別院・末寺について次のような状況であった。
飛鳥大原の藤原寺は鎌足の生誕地として境内続きの別院である。多楽院も別院であるがすでに退転。
 ※東源寺:藤原寺、明治維新で廃寺、現在は耕作地となり、現地には鎮守であった大原社(祭神は八幡神)のみ残る。
念誦窟の紫蓋寺、音羽の興法寺、下村の聖林寺、既に退転していた絹蓋寺は多武峰境内にある末寺である。
多武峰領百濟村の百濟寺、高市郡今井村の常福寺も多武峰の末寺であった。
子院
天正18年(1590)郡山から帰山した時は32坊、慶長5年(1600)家康が再興した時は、学侶10坊を新しく取り立て、42坊となる。
明治維新の時は33坊に減じている。
 →42坊(子院)の概要・職制については下に掲載の「多武峰妙楽寺々中一覧」を参照。
多武峰全図(享保7年写):舟橋兵治所蔵繪圖による。
維新前の
多武峰寺領
慶長8年徳川幕府によって、これまでの寺領3000石が安堵される。家康朱印状には広瀬郡3000石と合わせ「両門前寺中近辺山林竹木」を寄進される。
なお広瀬郡3000とは百濟村1734余、広瀬村766余、藤森村442余である。また門前町は無高・無税であるが、代りに一山の公用・雑用に出仕した。
寛文5年(1665)の3000石の配分
 和州多武峰広瀬郡藤森広瀬百濟赤部四ヶ村高三千石配当目録
  高200石     青蓮院門跡寺務領
  高300石     学頭領
  高1500石    寺僧領
  高155石     御供祭礼領
  高140石     年中行事領
  高245石     諸役人給分小細入用
  高460石     修理料                 都合3000石


多武峰諸絵図

○「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊 より:
 多武峰東門・本社・西門:サイズ容量4.8M:2020806/24画像入替。
       (参考: 多武峰十三重塔(部分図)      多武峰全図・・・(何れも入替前画像))

2020/06/24追加:
○「西国三十三所名所圖繪」嘉永6年(1853)刊 より:
 談山東惣門:サイズ容量2.0M     多武峰本社・その二:サイズ容量4.0M     (談山)西門
 増賀上人墓・紫蓋寺

2006/04/07追加:
◆速水春暁斎・画「多武峰之圖」
○「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」 より
 2020/06/24追加:画像を入替(3.9M)、本図は「速水春暁斎」画である。
 速水春暁斎は文政6年(1823)に死去であるから、明治の神仏分離以前の「多武峰圖」である。
 但し、図書に掲載の絵図の状態が悪いので、次に示す「国立国会図書館」版の参照を願う。
  多武峯之圖:江戸後期

2020/06/24追加:
 2020/10/11追加・更新。2020/11/07追加・更新。
◆速水春暁斎・画「多武峰之圖」
○オークション出品多武峰之圖
 多武峰之圖2:某オークションに出品され、既に落札済みとなっていた商品(写真)である。
○「国立国会図書館」版多武峰之圖
 多武峰之圖3:容量3.4M、上図と同じ「速水春暁斎」画である。
本図により、江戸末期の多武峰の寺中(子院)の全容が分かるので、次の表を作成する。
 ※下に掲載の「多武峰妙楽寺々中一覧」に示した寺中(子院)名称は、特に注釈のないものは、本図「多武峰之圖」から抽出したものである。

多武峰妙楽寺々中一覧・・・・・○印の写真は2020/05/07撮影。
多武峰寺中 備  考
◇近世の職制(I、J)
寺務(青蓮院門跡兼帯・非常住) ― 学頭(住坊は竹林坊・非常住) ― 執行代(屋敷は常住院、2名が月番で勤務) ― 検校(政所) ― 三綱 ― 平僧(社僧)
 ※検校は中世では座主に次ぎ、事実上一山の支配者であったが、慶長の再興以降・近世では執行代の下に属し、専ら法事には導師、神事には神主となる。
 ※三綱:検校の下にあり、法事・神事を担当する。子院中の一掾E二掾E三揩ェ補される。
◇神仏分離後の零落(I;「多武峰の神佛分離」 より)
  ※「多武峰の神佛分離」は大正15年調査終了。
明治2年2月復飾還俗とともに社僧は神主・社家に補せられ、承仕は神部に任ぜられ、社領の配当を受け、余裕のある生活をしていた。
明治4年7月神社禄制を見、社領の没収(上地)が命ぜられる。
詳細な経緯は資料がなく、不明であるが、上地の後、忽ち、社家・神部は困窮に陥る。明治5年の多武峰社中連名の「嘆願書」に示される通りである。
この間仏体・仏具その他の財産の売却で困窮を凌いだことも連想される。42坊の社僧9坊の承仕は分離直後に2、3は退転し、明治15年頃にはその大半は無くなり、郡山・桜井に出て行ったということである。退去の人々が旧坊舎を売却して去ったことは言を俟たない。
かくして、現在山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
そして慈尊院(山田)、福寿院(福井)、定心院(橋本)の3家は廃絶という。なお、一揩フ住院・常住院は現在学校の敷地となる。
 かくして一山は仏寺の影を歿するも、唯一増賀堂が再興される出来事が佛教的臭いのするものであった。
増賀堂本尊は増賀上人像は明治14、5年頃山を出て、行方が不明であったが、桜井の古物商の許にあることが判明し、明治36、7年頃これを取り返し、増賀堂を再建し、増賀上人像を安置する。
東門を入り右手側(北側)の坊舎
(下乗)
  金剛院
I:舟橋氏所蔵「多武峰繪圖」には記載あり、寛政以前に退転か
 
  慈門院(陶原) A:陶原氏、II
I:明治初年慈門院・教相院・妙覚寺が三神主であり、神仏分離の遵守を主張する。
B:2019年文化庁「登録有形文化財」への登録
慈門院客殿及び庫裡:陶原氏住居
慈門院客殿及び庫裡(陶原氏住宅)は江戸中期の建設と伝わる。明治2年の神仏分離の破壊で住職は還俗社家となる。切妻造桟瓦葺、西の庫裏を落ち棟とし四周に下屋を廻す。書院の障壁画(四室にわたって描かれている襖絵板絵)は、昭和49年に重要文化財に指定され、 奈良国立博物館に寄託されている。
I:慈門院陶原氏方には元のままに持仏堂・佛殿・仏体・仏具が残るという。
I:講堂釋迦涅槃像は慈門院陶原氏に下賜されたが、これを売りにだしたところ25銭の値段であったので、末寺聖林寺に寄付する。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
J:障壁画37面(重文、紙本着色)は宝暦元年(1751)当院で製作される。
J:江戸前期の庭園が残る。
 慈門院書院
慈門院山門1    ○慈門院山門2
 
  善龍院(藤岡) II
  (浴室)    
東門からの参道南側の坊舎  
  智光院(大西) A:興福寺・清水寺の大西良慶の父の出身寺院、II
I:福壽院・眞法院・智光院等が維新当時分離に反対し、念誦窟に別立することを主張する。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
  (魔尼輪塔)    
  十如院 I:舟橋氏所蔵「多武峰繪圖」には記載あり、寛政以前に退転か  
  慈心院(幸田) II  
  安養院<東役所> 安養院持仏堂本尊弥陀坐像は桜井市粟殿極楽寺に遷座し現存する。(「廃寺のみ仏たちは、今 奈良県東部編」)
I:J:東役所であり、行政事務の行われたところで、地方の配分はない。
 
常住院<一掾 A
C:桜井市内指定文化財(市指定)
旧妙楽寺子院 常住院の表門(多武峰)、談山神社、多武峰478-1
 ※旧多武峰小学校長屋門という記事もあるので、常住院は小学校に転用されたものと思われる。
E:ここは執行代屋敷とよばれ、常住院跡という。現在、公営多武峰ユースホステルが開設されている。
○:(株)瀧川寺社建築>工事実績>その他の木造建築物>旧多武峰小学校長屋門
 桜井市所有。桁行五間、梁間二間、入母屋造り本瓦葺。2011年修繕工事。
もと妙楽寺の子院、常往院の長屋門。明治以降に多武峰小学校の表門とされていた。鬼瓦に明和4年(1967)の銘がある。
J:一揩フ住院で、一般の子院のように師弟相承ではないから、地方(寺領)の配分はない。
(執行代屋敷と呼ばれる)とのこと。執行代は学頭に代って一山の統括にあたる。定員2人で42の子院から選挙によって選ばれる。一山の政治・経済・外交の実際に当たる。執行代は月番交代で執務する。
(常住院は一揩ナ、執行代屋敷であり、執行代が詰めていたのであろう。)
I:大正末期にも存続。
常住院表門
玉泉院(山本) II
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
  妙宗院(田村) II
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
 
  心城院(八尾) II
I:寛政2年の「人別御改帳写」には記載がない(無住か)
 
  賢聖院(高辻) II  
  観行院(高橋) II  
  般若院(船橋) II
E:増賀堂安置の薬師如来坐像は江戸期の佳作であり、般若院より遷す。但し、現在増賀堂は退転し坐像の行方は不明。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
 
  圓成院(永井) II
I:圓城院永井氏宅の観音像は「永井氏からフェノロサに渡り、フェノロサかた東京帝室博物館に移る。フェノロサへの売却の時、フェノロサが幾何と聞くので、5圓のつもりで5本の指を出したが、フェノロサは50圓と解釈し、50圓で売った」(永井氏談)とのことである。これは明治22、3年のことである。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
 
(荒神社)
妙楽寺堂塔下から西門にかけての南側坊舎    
十字坊(吉尾) A、II
D:旧南院に建っている多武峰観光ホテルの名物料理が「義経鍋」で、その由来を書いたものが食卓に添えられていた。(この伝承について)、後で調べたら『吾妻鏡』に載っている事がわかった。もっとも南院の十字坊たちが、義経鍋のように五種類の肉(牛豚鶏猪鴨)でもてなしたとはもちろん書いていない。
 「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月廿二日辛丑
吉野山深雲 豫州凌。多武峰 潜向。是爲 祈 請大織冠御影 云々。
到着之所者、南院内藤室、其坊主 十字坊ト号。之悪僧也。翫豫州、賞、云々。
 ※南院内藤室が十字坊と号したことが分かる。
妙覚院(葛城) A、II
I:明治初年慈門院・教相院・妙覚寺が三神主であり、神仏分離の遵守を主張する。
但し、明治3年神主葛城俊明は逝去し、後任に三蔵院西真澄が補せられる。
  学頭・竹林院
G:職制上、天台宗青蓮院門跡が叡山末多武峰妙楽寺を統括する建前であったが、実際は一山の学侶の上に立つ学頭が一山を支配した。そして学頭の下に三綱がいた。
○「奈良県磯城郡誌」:御旅所(毎年4月16日の私祭で神輿の至る處)は学頭竹林坊の遺跡(学頭屋敷)なり。
J:家康の命で天海の高弟賢盛の開基、代々叡山から兼住、後には東叡山からの輪番であった。
学頭は寺務の下にあるが、事実上は一山の統括者である。19代慈空は久能山別當から転ずる。明治維新まで学頭職は26代続く。但し、学頭は常住ではない。
学頭竹林坊跡1    ○学頭竹林坊跡2
 
  藤室院 下に掲載の「その他の院」の項を参照、また上記の十字坊を参照。  
  普門院(藤沢) II  
  中役所(古役所)    
  香積院(槙) II  
  三藏院(西) II
I:明治初年慈門院・教相院・妙覚寺が三神主であったが、明治3年神主葛城俊明は逝去し、後任に三蔵院西真澄が補せられる。
 
覺輪院(吉田) II
I:寛政2年の「人別御改帳写」には記載がない(無住か)
同上のさらに南側にある坊舎
  華上院(六条) II
多武峯執事華上院宣賀、「百濟寺縁起」天保12年を著す。大和百濟寺は妙楽寺末寺であった。
I:教相院佐伯氏方の地蔵曼荼羅は奈良の大隅へ僅か10圓で売ったという。華上院六条氏は「大隅氏はこれで随分儲けた」と言っていたという。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
 
  十乗院(藤林) II  
  妙光院<西役所> I:J:西役所であり、行政事務の行われたところで、地方の配分はない。  
  千藏院(千森) II
念誦窟に墓碑あり。
 
  正行院(榊原) II  
  地生院(京極) II
E:宝勝院豪桓、地生院晋盛は寛政10年(1798)妙音和尚爪髪塔を建立。※宝勝院は該当せず不詳。
 
  萬像院(高津) II
J:本尊木造如意輪観音坐像(像高約61cm)を祀った西面する多武峰観音堂が最近有志によって東殿の東側に新築される。
 
  寺務・青蓮院宮
G:職制上、天台宗青蓮院門跡が叡山末多武峰妙楽寺を統括する建前であった。
I:妙楽寺本坊。寺務は一山を統括する最高機関で青蓮院門跡の兼帯であった。
慶長5年家康の周旋で尊純法親王が兼帯したのが始まりである。遷宮の導師、正遷宮の勅使執奏、官位昇進・補任、吉書・新暦のことが職掌である。但し、一山仕置・諸法度・掟・条目・寺院移転・社役織仕・寺領配当などは日光門跡支配であった。
 
文殊院(梅島) II
  専命院    
妙楽寺堂塔下から西門にかけての北側坊舎
法苑院(竜田) II
法苑院跡
慈尊院(上田) II
戒光院(堀) II
定心院(橋本) II
宝珠院 I:舟橋氏所蔵「多武峰繪圖」には記載あり、寛政以前に退転か
蓮光院
福壽院(福井) II
I:寛政2年の「人別御改帳写」には記載がない(無住か)
I:福壽院・眞法院・智光院等が維新当時分離に反対し、念誦窟に別立することを主張する。
眞法院(西宮) A、II
B:2019年文化庁「登録有形文化財」への登録
真法院:西宮氏住居
真法院客殿及び庫裏:嘉永3年(1850) 築
真法院表門:嘉永2年(1849)築/昭和60年頃改修
真法院塀重門:嘉永3年(1850)築/昭和60年頃改修
明治2年の神仏分離の破壊で住職は還俗社家となる。主屋の内拝所はもと仏間で、本尊厨子は小屋裏に据えており、密かに拝んだと伝わる。
表門は棟門で、木柄太く、一軒疎垂木の深い軒は力感ある外観を持つ。塀重門は土塀に開く腕木門で、檜皮葺きの軒付けを残す、軽快な印象の門。
I:福壽院・眞法院・智光院等が維新当時分離に反対し、念誦窟に別立することを主張する。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
J:表門、庭門、式台、著院、庭園などを残す。
眞法院遺構1    ○眞法院遺構2    ○眞法院遺構3
實相院(新庄) II
念誦窟
  教相院(佐伯) A、II
E:増賀堂本尊阿弥陀如来坐像(像高52cm)は明治36年増賀堂再建に際し、教相院より遷す。但し、現在増賀堂は退転し坐像の行方は不明。
I:明治初年慈門院・教相院・妙覚寺が三神主であり、神仏分離の遵守を主張する。
I:教相院佐伯氏方の地蔵曼荼羅は奈良の大隅へ僅か10圓で売ったという。華上院六条氏は「大隅氏はこれで随分儲けた」と言っていたという。
I:大正末期頃、山上に居住する社僧の家は圓城院(永井)、眞法院(西宮)、慈門院(陶原)、妙宗院(田村)、般若院(舟橋)、教相院(佐伯)、華上院(六条)、玉泉院(山本)、智光院(大西、但し大阪に住し、別荘を坊舎跡に新築、南都興福寺管主大西良慶はこの家の出である。)の9家にすぎない。
教相院跡1    ○教相院跡2    ○教相院跡3    ○教相院跡4
 
  葆光院(藤川) II  
       
  吉祥院 上記の「妙楽寺堂塔下から西門にかけての北側坊舎」から離れて描かれるが、これは描画上の変形で、他の繪圖では戒光院附近に描かれるので南院に属するのであろう
       
承仕(I、J) J:子院の他9院あったといわれ、これも時代によって増減があり、寛政2年(1790)の人別改では
岩室、竹室、杉室、梅室、小五大院の5院があった。
       
その他の院(I、J) J:寺領内の徴税・警察に携わる。中尾坊、西京院、藤室などがあった。
何れも、在家で、雑務処理のため寺に抱えられる。
上記の子院中に「藤室院」があるが、これは在家の藤室が出家し子院に昇格したのか知れない。
 
       
       
子院名称の次の()内は明治の神仏分離後の還俗名:例えば葆光院(藤川)の藤川が還俗名。青蓮院・宮本坊・学頭竹林坊と社僧42坊(左記3院坊は含有されない?)、雑役6坊で構成され、さらに奥の院紫蓋寺には福智院以下4坊の葬式寺があったと知れる。なお、宮本坊とは不詳。

A:サイト:「神殿大観」>「多武峰」 より
B:2019年文化庁報道発表「文化審議会の答申(登録有形文化財(建造物)の登録)について」 より
C:桜井市内指定文化財(市指定) より
D:サイト:多武峰談山神社(妙楽寺) より
E:「磐余・多武峯の道」金本朝一・綜文館・昭和52年 より
F:「多武峰妙楽寺の展開」秋永政孝(「桜井町史 続」桜井市役所、昭和32年 所収) より
G:「神仏分離の動乱」 より
H:南院あるいは東院という院号が散見される。
例えば、
「桜井市史, 史料編 上巻 総地区」では
 多武峯南院遍照院水田売券 天正13年乙酉3月22日 (差出人)売主 南院遍照院永賀 口入 サクライ左衛門四郎
「吾妻鏡」文治元年(1185)十一月廿二日辛丑(上述) では
 到着之所者、南院内藤室、其坊主 十字坊ト号。
という。
この用法から、南院とは妙楽寺伽藍の南側に位置する坊舎を総じて南院とよんだのではないか。曰、南院遍照院、南院内藤室(院)。
以上の推測が正しいとすれば、東院とは、東門から妙楽寺伽藍に至る谷筋の坊舎を東院とよんだのではないかと推測する。
I:「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収) より
 慶長以前の子院は不明、天正18年郡山から帰山した時は32坊、慶長5年家康が再興時学侶10坊を取立42坊となる。
 明治維新寺には33坊に減少していた。
 II:明治10年「子院配当禄高取調書」に記載の33坊、
 収入は30石・実収入は20数石が平均であり、住僧は清僧であり、弟子は1名か無しが多く、若党1人を抱えるのが一般的であれば、
 子院の生活は裕福であったと云えるであろう。
J:「桜井市史 上巻」1979 より

多武峰寺中(子院・坊舎)復元図
多武峰寺中復元図(仮)
多武峰寺中復元図 多武峰寺中復元図(仮):左図拡大図
 (容量1.8G)

本図は
 多武峰附近2500国土基本図:縮尺 2500、測量年 1971(昭46):(容量2.5G)
上図の昭和46年測量の「2500国土基本図」に上述の多武峰之圖3、「桜井町史 続」の維新前に於ける子院の名称とその配置図
「桜井市史 上巻」の維新前の多武峰子院配置図などを参考に、多武峰寺中を推定し、図上に復元したものである。
現地での地割調査、情報収集などが不十分で、また車道開通による地形破壊などもあり、確たる位置の特定が出来ない寺中が散見され、それ故に(仮)図とする。

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2020/06/24追加:
◆速水春暁斎原画、四方春翠再画「多武峰之圖」:奈良県立図書館蔵
 四方春翠再画「多武峰之圖」:故速水春暁斎原画、四方春翠再画、龍玉堂彫刻による銅版の談山神社境内図である。
春翠は黙山の号があり、明治29年(1896年)に63歳で死去。二ノ鳥居前の橋の標柱に「別各官幣談山神社」とあるので、明治7年12月22日以降の出版であることが分かる。

2020/06/24追加:
◆狩野探龍真寫「多武峰之圖」:談山神社蔵
 狩野探龍真寫「多武峰之圖」;法眼狩野探龍真寫とある。狩野探龍の明確な履歴は不詳である。
但し、本図の原画は「速水春暁斎」であり、書写の時期は明治の神仏分離後の景観であることははっきりしている。


2020/10/11追加:
多武峰妙楽寺仏像の行方
○「廃寺のみ仏たちは、今 奈良県東部編」小倉つき子、京阪奈新書、2020 より
 明治維新の「神仏分離」で、多武峰一山の僧侶は全て還俗、妙楽寺は廃寺となり、尿楽寺堂塔は改竄され、談山神社がでっち上げられる。仏像などもゴミ同様に処分されるも、しかし幾つかのものは近隣の寺院に遷座し、現存する。
現在、現在現存が判明している妙楽寺仏像は次のようである。
○妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊像:
 安倍文殊院に遷座し、現在は文殊院本堂向かって右の釈迦堂に安置される。
但し、講堂本尊は阿弥陀三尊であったが、文殊院では釋迦三尊として祀られる、なぜ釋迦三尊とされたのかは不詳である。
中尊の胎内には寛文8・9年(1668・69)の修理銘文があり、胎内より阿弥陀経が発見されたという。
 妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊1     妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊2     妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊3
なお本著では『中尊の向背中央先端に「十三重塔」が彫られ、明らかに妙楽寺十三重塔を表す』とするが、これはどう見ても単なる「宝塔」で「十三重塔」とは見えない。ちょっと、筆の滑りすぎであろう。
○妙楽寺地蔵菩薩三尊像:
 安倍文殊院本堂奥に安置、妙楽寺から遷座という。(どの堂宇に安置から遷座からという記載がないので、不明なのであろう。)
三尊像は江戸期の作とされるが、ただ中尊の地蔵菩薩と両脇侍の趣は全く違う。(おそらく、中尊と脇侍は元来別のものであったのか。)
 妙楽寺地蔵菩薩三尊像:写真は中尊で両脇侍は写っていない。
明治16年(奈良県が堺県に編入の年)堺県知事の妙楽寺から安倍文殊院への移設許可状があるので、この年に仏像は遷座したものと思われる。
○多武峰安養院阿弥陀如来坐像:
 桜井市粟殿極楽寺蔵、像高約60cm。
極楽寺は浄土宗、平成25年庫裡を造替、お内仏(仏壇に祀る仏の意か)である阿弥陀如来坐像を修理する。その時、背板に「天台慈覚大師御作・大和国多武峰安養院」と、両足部裏にも「大和国多武峰安養院持仏堂本尊弥陀慈覚大師作云々」の墨書が発見され、本像が多武峰安養院の仏像であったとが判明する。
但し、本像が明治維新の廃仏毀釈で流出したのか、それ以前の多武峰の焼失時に流出したのかは、不明という。
 多武峰安養院阿弥陀如来坐像1     多武峰安養院阿弥陀如来坐像2
○多武峰地蔵菩薩立像:
 桜井市山田善行寺蔵、木造・像高約40cm、台座を含む高さは65cm。
善行寺は浄土真宗。
本像を載せる台座は幅61cm、高さ18cmの檜製礼盤である。但し、礼盤は元々僧侶が仏像にお経を上げる時に座る台のことである。
この礼盤の天板裏面に「多武峰妙楽寺阿中坊常在」「大永五年(1525)六月吉日」の墨書がある。地蔵菩薩が同時代のおのかどうかは不明であるが、2ツ同時に移ってきたというから、本像も妙楽寺の遺物と云える。
 ※但し、寺中阿中坊とは現在確認ができなく、不明である。
 明治維新の廃仏稀釈の時、妙楽寺から仏像・仏具を預かって欲しいとの依頼があり、この山田の地にある3ヶ寺で寺宝を分けたという。
善行寺には上記の仏像と礼盤、西念寺に八光掛軸、山田寺に大師像を預けたというも、善行寺以外は行方知れずであるという。
 多武峰地蔵菩薩立像     多武峰礼盤     多武峰礼盤墨書
○妙楽寺塔頭本尊阿弥陀如来坐像:
 融通念仏宗の大寺である桜井来迎寺蔵
住職の談では「木彫阿弥陀如来坐像の蓮台に妙楽寺塔頭の本尊であると記した銘文を読んだことがある。」とのことである。
庭には粟原寺や妙楽寺の礎石が置かれるともいう。
その他粟原寺伝来の仏像や大御輪寺の擬宝珠1つが階段の手摺を飾っているという。


国宝「大和国粟原寺三重塔伏鉢」

多武峰に国宝「大和国粟原寺三重塔伏鉢」を有する。
和銅8年(715)に完成した粟原寺塔の建立事情を伝えるものである。
 →大和粟原寺跡中の写真を掲載。

◆参考:文献上あるいは遺構の残る木造十三重塔
以下の寺院に存在したことが知られる。
 ※山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺


2006年以前作成:2020/11/19更新:ホームページ日本の塔婆