山   城   泉   橋   寺

泉橋寺心礎(亡失)

★心礎は売却という。
 
2005/08/28追加:
○「京都府史蹟勝地調査会報告」第1冊(大正8年)より:
 山城橋泉寺心礎:左図拡大図
  同 心礎実測図
  同 心礎位置見取図:かって心礎の存在した場所である。
○「佛教考古学論攷」
山城泉橋寺心礎2

2006/11/23追加
○「行基建立の四十九院」田中重久、昭和14年(「史迹と美術 118巻」所収)より
 山城泉橋寺心礎実測図:1/3ほどは欠損していたようである。

心礎は売却と云う。
売却先は「秘匿」され、現状では所在不明という意味で亡失とするしかない。
勿論、心礎が現存するのかどうか、あるいはどのように転用されたかなども不明。

○「幻の塔を求めて西東」:
心礎は130×130cmで、径125×36cmと28×9.6cmの円穴を彫る。

山城泉橋寺心礎1(泉橋寺様ご提供):転載許諾済
なおこの図版は京都府編(大正8年)「京都府史蹟勝地調査会報告」第1冊の図版である。(前掲図と同一)
また「同報告」には「塔礎は寺の北方約1丁の畑中にあり」と記載され、伽藍及び塔礎の略図と塔礎の概要の記載がある。
上記によると、心礎は花崗岩製・表面中央に径4尺1寸余、高1寸2分の円形造り出しがあり、中央に舎利孔として径9寸3分、深3寸2分の凹所を有す。またこの塔礎の現存するところは現地で塔址と伝承するところであり、また寛永2年の寺蔵する図には、この区画は別区画をなし、五重塔畑と記載され、今なお寺の所有地であるという。

2005/12/30追加:
附近のお年寄りからの聞き取り:
心礎のかって存在した場所:現在も泉橋寺所有地という。
心礎のあった場所はちょうとした広場であり、心礎のあった場所の南側の建物などは無く、日当たりの良い日には近所の人の談笑場所であった。心礎はものを置いてはいけないと云われていて、大切にされていた。
心礎は檀家総代とお寺さまの相談で売却されたという。売却先は知らない。お寺さまあるいは檀家総代は知っているのでしょうが、檀家総代も遠隔地の人のようで、住所などは分からない。
 泉橋寺塔跡伝承地1;正面住居のベランダ左下あたりに心礎があった。
この住居は売却後の建替で、土地は泉橋寺の所有地である。手前の平屋は当時は無かった。(近隣の人の談)
 泉橋寺塔跡伝承地2:上記写真手前(南)の駐車場には「泉橋寺管理用地」との立札がある。
 泉橋寺塔跡伝承地3:この住居は建て直されたものの様であるが、写真中央ビニールシートのある場所に心礎はあった。また左の建物は当時は無かった。( 近隣の人の談)
なお、心礎のあった場所は、「京都府史蹟勝地調査会報告」では「塔礎は寺の北方約1丁の畑中にあり」としているが、1丁ではなくて「北方約半丁」位の距離であり、また現在は畑などなく、住宅密集地になる。

竹村俊則著「新撰京都名所圖會」6巻<昭和40年刊>の「泉橋寺」の項では「五重塔址は寺より東北約100米の畑中にある。・・・なお付近から奈良時代の瓦を出土する。」との記載がある。
平成10年度・山城町の文化財VOL.45「泉橋寺境内」の記載:かって近くには塔の心柱をのせた礎石があり・・と表現されている。

2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
門を出て庫裏や観音堂の北に回ると、民家の前庭に柱座を造り出した、しかも舎利孔を持つ心礎があり、この辺を塔跡と云い、「寺に写して蔵する寛永2年の図には此の部分に当る所に五重塔畑と記し」ている由であるから、この心礎の位置は原所在をあまり動いていないであろう。

  • 王竜山と号する。橋寺と俗称される。
    現在は浄土宗で、寺運衰微し、木津川泉大橋堤防下の狭い境内地に観音堂・本堂庫裏・表門及び門前横に「山城大仏」と称する地蔵石仏等を有する小寺院となる。
     拾遺都名所圖會(巻4)に見る泉橋寺
    上記の江戸後期の図と比べるに、観音堂の位置・外観と地蔵石仏は現状のとおりのようですが、庫裏は再建されたようです。また表門も下記のとおり移建されたようで、光明皇后塔(五輪塔)も観音堂すぐ北東に移設されているようです。
  • 縁起:天平12年(740)行基の開基。行基の建立した5畿内49院の一院と伝える。(三代実録)
    行基建立の49院のうち天平12年泉橋院とある。(行基年譜)
    泉橋は行基によって架橋され、当橋の管理あるいは供養と深く関係があるようです。
    翌年聖武天皇が行幸、行基と「終日清談」とある。(行基菩薩伝)
    創建当時の伽藍配置図によれば、金堂・三重塔・講堂等の伽藍があったようです。
     創建当時の泉橋寺伽藍図     左図中心部・・(泉橋寺様ご提供)
      ※2020/09/13追加:
      創建当時の泉橋寺伽藍図の出所は不明であるが、下に掲載の「仏法最初高麗大寺圖」(椿井文書)中の泉橋寺伽藍に酷似する。
      おそらく、椿井文書からの書き写しか別の椿井文書からの転用であろう。
    その後治承4年(1180)平重衡の南都焼討ちで焼失。後再建。
    元弘元年(1331)後醍醐天皇が南都潜幸に当り当寺で朝食を採る。(太平記)
    元弘の乱によって再び炎上したと伝える。
     大正時代の泉橋・・(泉橋寺様ご提供)
  • 地蔵石仏
    山城大仏と俗称される。丈六(4.8M)の石造。表門に向かって左手にあり。
    現在は露仏。周りには堂の礎石が廻り、かっては礎石から見て本格的建築と推定される堂の中に安置。
    永仁3年(1395)から石が切り出され、その13年後の徳治3年(1307)地蔵堂が上棟供養された。
    願主は般若寺真円上人。文明3年(1471)大内政弘軍の木津・上狛攻めで地蔵堂も炎上。
    地蔵石仏の全身はこの炎上で焼け爛れた。顔・両手は元禄3年(1690)の後補。
     地蔵石仏(山城大仏):2001/02/22撮影
    2005/12/30追加:
     地蔵石仏(山城大仏)2     地蔵石仏(山城大仏)3     地蔵石仏(山城大仏)4
     泉橋寺地蔵堂礎石
  • 五輪塔(重要文化財)
    鎌倉時代の作。光明皇后の遺髪塔との伝承がある。
    花崗岩製・2.4M。移転に際し多くの遺骨が発掘され、平重衡の南都焼討ちの供養塔と推定されている。
     五輪塔(重文・鎌倉):001/04/02撮影
  • 表門:「泉橋寺縁起」を要約。
    元は大和春日大社若宮拝殿の建築で、元禄2年(1689)大和興福寺塔中知足坊はこの古材で門を建立。
    明治7年(1874)廃絶した知足坊から移建。札や古文書によると、檀家の寄付で門を貰い受けたこと
    及び知足坊の僧数人とともに運ばれたことが知られている。
    推定大正期撮影の表門・・(泉橋寺様ご提供)
    2005/12/30追加:
     泉橋寺表門:現在の表門
     2013/02/08追加:
     「京都府の歴史散歩 下」2011では表門は元禄2年(1689)の建立で、興福寺知足院より移建、本堂は元禄3年の建立と云う。

謝辞:泉橋寺様には訪問時並びに後日郵送にて貴重な資料をご提供頂きました。

2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
仏法最初高麗大寺圖:もちろん椿井政隆の偽書である。
 仏法最初高麗大寺圖:山城郷土資料館寄託浅田家文書
高麗寺と泉橋寺伽藍が描かれる。ともに塔が描かれるが、椿井は両寺とも塔跡もしくは心礎の存在を知っていて、あるいは両寺とも塔があったという伝承を踏まえて、塔を描いたのであろうか。
特に高麗寺は壮大な伽藍が描かれる。それは極めて椿井的な特徴を良く表すものである。
なお、圖の左上が椿井村であるが、椿井氏の移住前の想定であるので、薗辺村と呼称される。


2006年以前作成:2020/09/13更新:ホームページ日本の塔婆